「いと涼しき」の巻、解説

延宝三卯五月、東武にて

初表

 いと凉しき大徳也けり法の水    宗因

   軒を宗と因む蓮池       磫畫

 反橋のけしきに扇ひらき来て    幽山

   石壇よりも夕日こぼるる    桃青

 領境松に残して一時雨       信章

   雲路をわけし跡の山公事    木也

 或は曰月は海から出るとも     吟市

   よみくせいかに渡る鳫がね   少才

 

初裏

 四季もはや漸々早田刈ほして    似春

   あの間此間に秋風ぞ吹く    主筆

 夕暮は袖引次第局がた       磫畫

   座頭もまよふ恋路なるらし   宗因

 そびへたりおもひ積て加茂の山   桃青

   室のとまりの其遊びもの    幽山

 草枕おきつ汐風立わかれ      木也

   一生はただ萍におなじ     信章

 わびぬればとなん云しもきのふ今日 少才

   それ初秋の金のなし口     吟市

 十年を爰に勤て袖の露       宗因

   おほん賀あふぐ山のはの月   似春

 春は花栬の比は西の丸       幽山

   参台過て既に在江戸      磫畫

 

二表

 時を得たり法印法橋其外も     信章

   新筆なれどあたひいくばく   桃青

 歌のこと世上に眼高ふして     似春

   明石の浦は蟹もしる覧     宗因

 蛸にも其入道の名は有ぞかし    磫畫

   八日八日は見えし堂守     木也

 今のかも例をたがへぬ仏生会    吟市

   夏花やつつじ咲匂ふらん    似春

 あの山の風をもがなと窓明て    少才

   月の前なる雲無心なり     幽山

 露時雨ふる借銭の其上に      宗因

   見し太夫さま色替ぬ松     吟市

 空起請煙となるも理や       幽山

   夜討むなしき野辺の夕暮    宗因

 

二裏

 あてのみの酒気を風や盗むらん   似春

   雨一とをり願ふ川ごし     又吟

 名号の本尊をかけよ鳥の声     木也

   それ西方に別路の雲      信章

 口舌事手をさらさらとおしもんで  吟市

   しら紙ひたす涙也けり     桃青

 高面をのぞく障子の穴床し     少才

   ゆびのさきなる中川の宿    宗因

 蒔絵さへ寺町物と成にけり     幽山

   数寄は茶湯に化野の露     似春

 石灯篭月常住の影見えて      桃青

   雪隠につづく築山の色     磫畫

 ますき垣南山幷に花の枝      宗因

   うり家淋し春の黄昏      吟市

 

三表

 欠落の跡は霞の立替り       似春

   雪崩れする其岩のはな     幽山

 松明の煙につづく白湯かた     信章

   果しあふよに出あへや出あへ  宗因

 声高のみなもと聞ば衆道也     磫畫

   よりて芝居の垣間見をせん   吟市

 おもほえず古巾着の銭をさぐり   又吟

   めくら腰ぬけ夢の世中     似春

 慮外者さはらばなどと肱を張    幽山

   上様風の吹旅の空       少才

 御荷物に唐船一艘つくられたり   宗因

   蜘てふ虫も糸のわけ口     似春

 鬢を撫て来べき宵也月の下     磫畫

   伽羅の油に露ぞこぼるる    木也

 

三裏

 恋草の色は外郎気付にて      似春

   はながみ袋形見なりけり    少才

 さる間三年はここにさし枕     桃青

   親の細工をあらためずして   宗因

 何物か人のかたちと成やらん    吟市

   しばし楽屋の内ぞ床しき    幽山

 来て見れば有し昔にかはら町    木也

   小石をひろひ塔となしけり   信章

 なひ物ぞ真の舎利は求ても     磫畫

   誰かしつつる天竺の秋     似春

 牢人を尋出たる空の月       宗因

   霧にこもりし城の遠近     幽山

 花おる事附り堀の魚取事      信章

   すり餌によする梅のうぐひす  吟市

 

名残表

 やよ見たか祇園あたりのはるの空  少才

   うしろ帯して塗笠編笠     似春

 屋敷者跡にたつたは年こばい    吟市

   順の舞には小々性が先     又吟

 常紋の袴のそばをかいどりて    似春

   雨にも風にもかよはふよなふ  宗因

 夢うつつ女姿のちみどろに     幽山

   胸にたくのを別火とやいふ   木也

 ししくふた酬ひを恋にしられたり  信章

   たが参宮の伊勢ものがたり   吟市

 見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊   宗因

   遠く遊ばぬ盆の夕暮      似春

 住つけば残る暑さも苦にならず   磫畫

   月はこととふうら店の奥    幽山

 

名残裏

 秋の風棒にかけたる干菜売     桃青

   賤がこころも明樽にあり    宗因

 綱手をもくり返しぬる網のうけ   幽山

   あこぎが浦や牛のかけ声    吟市

 みづらいふわつぱも清き渚にて   信章

   馴てもつかへたてまつる院   磫畫

  そも是は大師以来の法の華    似春

   土の筆にも道や云らん     少才

      参考;『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 いと凉しき大徳也けり法の水    宗因

 

 当時本所にあった大徳院での興行で、「大徳」に法の水を添えている。

 大徳院は「お寺めぐりの友」というサイトによると、

 

 「大徳院は、高野山真言宗のお寺です。徳川家康によって、文禄3年1594に和歌山県の高野山に開かれました。高野山を開いた弘法大師の「大」と徳川家の「徳」をとって「大徳院」と称しました。それ以来、徳川家の勢力を背景に、全国に末寺ができましたが、大徳院は諸国末寺の総触頭として、寛永年間1626-1639神田紺屋町に屋敷を拝領し、寛文9年1666本所猿江に移転の後、貞享元年1684 2月、2000坪の土地をこの地両国に拝領し、移転しました。」

 

とのことで、延宝三年は寛文と貞享の間なので本所猿江にあった。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、『源氏物語』若紫の「いとたふとき大徳なりけり」を踏まえたものだと言う。

 マラリアを患った源氏の君が、北山のなんとか寺という所に霊力のある修行僧がいると聞いて尋ねてゆくと、峯の奥ではまだ山桜が咲いていて、岩窟のなかにみすぼらしい格好をした人がいて、今は俗世を捨ててしまったので、修法などのやり方も捨ててしまい忘れてしまったなどと言うが、

 

 「いとたふときだいとこなりけり。さるべきものつくりて、すかせたてまつり、かぢなどまゐる程(ほど)日たかくさしあがりぬ。」

 (そこはやはりありがたい高僧でした。しかるべき薬を作っては飲ませ、加持などを終えた頃には、既に日は高く登ってました。)

 

となる。

 興行場所の大徳院に掛けて、これはこれは涼しい高僧に招かれまして、と挨拶になる。

 「法(のり)の水」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「法の水」の解説」に、

 

 「① 仏法が衆生の煩悩を洗い浄めるのを水にたとえていう語。法水。

  ※公任集(1044頃)「尋ねくる契しあれば行末も流れて法の水はたえせじ」

  ② 仏像などに注ぐ水。聖水。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

 

とある。①の意味になる。

 

 法の水にすます心のきよければ

     穢るる袖と誰か見るべき

               連生法師(続後撰集)

 六十路まで命をぞおもふ法の水

     この世にすまは汲みやはつると

               衣笠家良(続古今集)

 

など、和歌にも用いられている。

 

季語は「涼しき」で夏。釈教。

 

 

   いと凉しき大徳也けり法の水

 軒を宗と因む蓮池        磫畫

 (いと凉しき大徳也けり法の水軒を宗と因む蓮池)

 

 磫畫は大徳院住職で、会場を提供し、この興行のホスト役を務める。

 宗因の名前を読み込んで、法の水に蓮池を付ける。『校本芭蕉全集 第三巻』には、

 

 法の水深きさとりをたねとして

     むねの蓮の花ぞひらくる

 

という「玉葉集」の歌を引いている。

 

季語は「蓮池」で夏、植物(草類)、水辺。「軒」は居所。

 

第三

 

   軒を宗と因む蓮池

 反橋のけしきに扇ひらき来て   幽山

 (反橋のけしきに扇ひらき来て軒を宗と因む蓮池)

 

 幽山はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 

「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)

生年:生年不詳

江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」

 

とある。

 反橋は太鼓橋のことで、橋の下にある蓮池の景色を扇子の絵に見立てたもの。

 

 池水のすさきにわたす反橋も

     傾ぶくまでにふりにけるかな

              衣笠家良(新撰和歌六帖)

 

の用例がある。

 前句の蓮池は水辺の体で、反橋は水辺の用になる。発句の「法の水」が打越にあるが、これは似せ物の水ということで水辺にカウントしない。水辺だとしたら用にになり、用体用となるので良くない。

 

季語は「扇」で夏。「反橋」は水辺。

 

四句目

 

   反橋のけしきに扇ひらき来て

 石壇よりも夕日こぼるる     桃青

 (反橋のけしきに扇ひらき来て石壇よりも夕日こぼるる)

 

 ここで早くも芭蕉さんの登場となる。

 石檀は石で作った祭壇で石段ではない。扇の間から夕日を透かしてみるように、反橋の下の半円の空間にある石壇から夕日が見える。

 「も」は強調の力もで、「石壇より夕日こぼるるも」の倒置か。

 「扇」に「こぼるる」は、

 

 手にならす扇の風にあやなくも

     露ぞこぼるる常夏の花

              俊恵法師(林葉集)

 

の歌がある。

 

無季。「夕日」は天象。

 

五句目

 

   石壇よりも夕日こぼるる

 領境松に残して一時雨      信章

 (領境松に残して一時雨石壇よりも夕日こぼるる)

 

 芭蕉(桃青)と素堂(信章)との付き合いはこの頃から既に始まっていた。翌年の春には「此梅に」の両吟興行を行う。

 「領境」は藩と藩の境界で、境界石が置かれていた。前句の石壇を境界石のこととしたか。

 前句の「夕日こぼるる」を時雨の後の晴れ間とし、四手にびしっと付ける。

 「時雨」に「夕日」は、

 

 時雨つるとやまの雲は晴れにけり

     夕日に染むる峰のもみぢ葉

              藤原良経(風雅集)

 

の歌がある。

 

季語は「一時雨」で冬、降物。「松」は植物(木類)で草類の蓮と二句隔てている。

 

六句目

 

   領境松に残して一時雨

 雲路をわけし跡の山公事     木也

 (領境松に残して一時雨雲路をわけし跡の山公事)

 

 木也は不明。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、

 

 雲は皆はらひ果てたる秋風を

     松に残して月を見るかな

              藤原良経(新古今集)

 

を引いている。

 ただ、残っているのは月ではなく境界争いの公事(裁判)だと換骨奪胎している。

 「時雨」に「雲路」は、

 

 時雨する雲路の星の数々に

     隠れあらはれこひぬまぞなき

              九条基家(続古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「雲路」は聳物。「山」は山類。

 

七句目

 

   雲路をわけし跡の山公事

 或は曰月は海から出るとも    吟市

 (或は曰月は海から出るとも雲路をわけし跡の山公事)

 

 吟市はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-1682 江戸時代前期の僧,俳人。

近江(おうみ)(滋賀県)の人。真言宗高野山蓮華院,のち江戸安住院の住持となる。北村季吟(きぎん)の門人。延宝3年西山宗因を江戸にむかえてもよおされた大徳院の百韻に桃青(松尾芭蕉)らと参加。作品は「貝殻集」「諸国独吟集」などにみえる。天和(てんな)2年死去。法名は尊海。」

 

とある。

 七句目で月の定座となる。ただし定座は連歌の式目にはないし、宗祇の時代には特に定座というものはない。

 四句目の「夕日」から二句しか隔てたないが、俳諧では可隔三句物も可嫌打越物に引き下げられていたと思われる。

 前句の「雲路をわけし跡の山公事」を何かの書の一文として、或本によると月が雲路をわけて出てきたのではなく、海から出てきたと注釈する。

 

   土左よりまかりのほりける舟のうちにて見侍りけるに、

   山のはならて月の浪のなかよりいつるやうにみえけれは、

   むかし安倍のなかまろかもろこしにて、

   ふりさけみれはといへることを思ひやりて

 宮こにて山のはに見し月なれど

     海よりいてて海にこそいれ

              紀貫之(後撰集)

 

による注釈か。

 後の『俳諧次韻』の、

 

   鷺の足雉脛長く継添て

 這_句以荘-子可見矣       其角

 

のような付け方だ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「海」は水辺、「反橋」から三句隔てる。

 

八句目

 

   或は曰月は海から出るとも

 よみくせいかに渡る鳫がね    少才

 (或は曰月は海から出るともよみくせいかに渡る鳫がね)

 

 少才は不明。

 「よみくせ(読み癖)」は習慣的な読み方。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に漢文のレ点のことを雁点というとある。前句を漢文の注釈とした。

 「海」に「鳫がね」は、

 

 天津空一つに見ゆる越の海の

     浪をわけてもかへる雁がね

              源頼政(千載集)

の歌がある。

 

季語は「渡る鳫がね」で秋、鳥類。

初裏

九句目

 

   よみくせいかに渡る鳫がね

 四季もはや漸々早田刈ほして   似春

 (四季もはや漸々早田刈ほしてよみくせいかに渡る鳫がね)

 

 似春はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 

 「没年:元禄年間?(1688~1704)

生年:生年不詳

江戸前期の俳人。通称は平左衛門。俳号は初め似春,晩年に自準と改める。別号,泗水軒。京都大宮に住したようだが,のち江戸本町に移る。晩年は下総行徳で神職に就く。俳諧は初め北村季吟に学び,のち西山宗因に私淑する。『続山井』(1667)以下季吟・宗因系の選集に多くの入集をみている。江戸に移住後は,松尾芭蕉とも交わり,江戸の新風派として活躍した。延宝7(1679)年冬,上方に行脚,諸家と連句を唱和して『室咲百韻』(『拾穂軒都懐紙』とも)を編み,帰府後には『芝肴』を編んでいる。晩年は隠遁,清貧を志向し,「世をとへばやすく茂れる榎かな」などの句を残している。

(加藤定彦)」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、『徒然草』第十九段を引用している。注にあるよりやや長めに引用しておく。   

 

 「七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田(わさだ)刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破やり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。」

 

 「四季」は「史記」と掛けているという。

 「鳫がね」に「早田(わさだ)」は、

 

 雁鳴きて夕霧たちぬ山もとの

     早稲田を寒み秋や来ぬらむ

              藤原信実(続拾遺集)

 

の歌がある。

 

季語は「早田刈」で秋。

 

十句目

 

   四季もはや漸々早田刈ほして

 あの間此間に秋風ぞ吹く     主筆

 (四季もはや漸々早田刈ほしてあの間此間に秋風ぞ吹く)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「前句『四季』を四季の襖絵として、それにあしらう。」とある。

 確かに『四季耕作図』という定番の画題もある。

 早稲田に秋風は、

 

 刈穂にて日さへ経にけり秋風に

     早稲田雁金はやも鳴かなむ

              紀貫之(貫之集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋風」で秋。「あの間此間」は居所。

 

十一句目

 

   あの間此間に秋風ぞ吹く

 夕暮は袖引次第局がた      磫畫

 (夕暮は袖引次第局がたあの間此間に秋風ぞ吹く)

 

 「局(つぼね)」はこの場合は大奥ではなく局女郎(つぼねじょろう)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「遊里で下級の女郎。上方、江戸の地域、または時代によりその品格は異なり、古くは必ずしも最下等の遊女ではなく、江戸新吉原でも、中程度の品格の者から種々含まれていたが、後期には、局(つぼね)と称する狭い長屋風の部屋に一人ずついて、時間で客をとる遊女を多くさしていう。つぼね。つぼねじょうろう。

 ※評判記・色道大鏡(1678)一「端女(はしおんな)。端女郎とも、局女郎(ツボネチョラウ)とも、あそびとりともいふ。けちぎり女の事なり」

 

とある。袖を引っ張って部屋に誘い込もうとするが、なかなか世知辛い世の中でどの部屋も秋風が吹いていて、遊女の哀愁が漂う。

 秋風に夕暮れの袖は、

 

 知られじな同じ袖には通ふとも

     たが夕暮と頼む秋風

              藤原家隆(新古今集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。「局方」は人倫。「袖」は衣裳。

 

十二句目

 

   夕暮は袖引次第局がた

 座頭もまよふ恋路なるらし    宗因

 (夕暮は袖引次第局がた座頭もまよふ恋路なるらし)

 

 座頭というと琵琶か三味線を弾いて浄瑠璃姫の恋物語などを唄う者だが、その座頭も恋の道に迷うのだから、ましてや凡夫が局女郎に迷うのももっともなことだ。

 状況を限定しない一般論で付けることで次の展開を図る。

 夕暮れに迷う恋は、

 

 恋ひ死なむわが世の果てに似たるかな

     かひなく迷ふ夕暮の雲

              藤原良経(秋篠月清集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。「座頭」は人倫。

 

十三句目

 

   座頭もまよふ恋路なるらし

 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

 (そびへたりおもひ積て加茂の山座頭もまよふ恋路なるらし)

 

 これは座頭積塔からの発想で、恋路に迷うまさに恋は盲目の座頭が加茂の川原に高い積塔を積み上げる。芭蕉らしい奇抜な発想だ。宗因も予想外の展開にびっくりしたのではないか。

 座頭積塔は「都名所図解」というサイトによると、

 

 「座頭積塔(ざとうのしゃくたふ) といふは、人王五十八代光孝天皇の姫宮雨夜内親王、御眼盲給ひてより、洛中の女の盲者を召して御伽をせさせ給ひ、賤しきには官を賜ひ、御前に伺候するゆゑ、御前と風儀しけり。それより男子の盲人も官を賜ひて座頭と称し、検校・勾当の官に任ずる事、この内親王よりの遺風なり。毎歳二月十六日はこの姫宮の御祥忌なれば、座頭集会をなして尊影を拝し、東の河原に出でて石を積みて報恩す。これを積塔といふ。」

 

とある。

 

 いはね踏み重なる山の奥までも

     苦しきものは恋路なりけり

              藤原清輔(清輔集)

 

の歌もある。

 

無季。恋。「加茂」は名所、神祇。

 

十四句目

 

   そびへたりおもひ積て加茂の山

 室のとまりの其遊びもの     幽山

 (そびへたりおもひ積て加茂の山室のとまりの其遊びもの)

 

 さて、式目では恋は五句まで続けることができるので、さらに畳み掛けてゆく。

 「室のとまり」は室津のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「兵庫県揖保(いぼ)郡御津町の地名。播磨灘に面する。漁港があり、奈良時代は播磨五泊の一つに数えられる要港。中世には倭寇の根拠地となり、江戸時代は瀬戸内海航路の寄港地であった。遊女の発祥地としても知られた。瀬戸内海国立公園の一部。室。室の津。室の泊り。室津の泊り。」

 

とある。

 

 漕ぎ出づる室の泊りのあけぼのは

     雲に離るる高砂の松

              九条基家(夫木抄)

 

の歌にも詠まれている。

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもあるが、謡曲『加茂』には、

 

 「抑これは播州室の明神に仕へ申す神職の者なり。

 さても都の賀茂と当社室の明神とは御一体にて御座候へども。いまだ参詣申さず候ふ程に。此度思ひ立ち都の賀茂へと急ぎ候。」

 

とある。

 室津の遊女を求めて集まる遊び人たちは、積もる思いを室の明神と一体の加茂の明神に託す。

 

無季。恋。「室のとまり」は名所、神祇。

 

十五句目

 

   室のとまりの其遊びもの

 草枕おきつ汐風立わかれ     木也

 (草枕おきつ汐風立わかれ室のとまりの其遊びもの)

 

 さて、恋もここまでの五句目。「立わかれ」というと、

 

 たち別れいなばの山の峰に生ふる

     まつとし聞かば今帰り来む

              在原行平(古今集)

 

の歌も思い浮かぶ。

 

無季。恋。旅体。「汐風」は水辺。

 

十六句目

 

   草枕おきつ汐風立わかれ

 一生はただ萍におなじ      信章

 (草枕おきつ汐風立わかれ一生はただ萍におなじ)

 

 恋を去り無常に転じる。

 

 葦鴨の羽風になびく浮草の

     定めなき世を誰か頼まむ

             大中臣能宣(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「萍」で夏、植物、水辺。述懐。

 

十七句目

 

   一生はただ萍におなじ

 わびぬればとなん云しもきのふ今日 少才

 (わびぬればとなん云しもきのふ今日一生はただ萍におなじ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「古今集」の歌を引用している。

 

 わびぬれば身を萍の根を絶えて

     さそふ水あらばいなんとぞ思ふ

             小野小町

 

 本歌というわけでもなく、浮草の縁で「わびぬれば」と詠んだ小野小町のことを思い起こし、謡曲「卒塔婆小町」のように、若い頃は美貌を誇った小野小町も年老いてゆくのは避けられないとする。

 

無季。述懐。

 

十八句目

 

   わびぬればとなん云しもきのふ今日

 それ初秋の金のなし口      吟市

 (わびぬればとなん云しもきのふ今日それ初秋の金のなし口)

 

 「わぶ」は「下げる」という意味で、頭を下げたり気分を下げたり身分を下げたりすると同様、生活水準を下げることをも言う。つまり貧乏するということ。

 「きのふ今日」は「昨日今日に始まったことではない」という意味だろう。

 江戸時代は大晦日とともに、お盆も借金を取り立てて回収する季節だった。今年も又お盆が来て、また借金取りが来る。昨日今日に始まったことではない。

 

 わびはつる時とや今をしらすらん

     物のかなしき秋の夕ぐれ

              弁内侍(宝治百首)

 

の歌もある。

 

季語は「初秋」で秋。

 

十九句目

 

   それ初秋の金のなし口

 十年を爰に勤て袖の露      宗因

 (十年を爰に勤て袖の露それ初秋の金のなし口)

 

 丁稚奉公で十年勤め上げても、残ったものは袖の露。あとは借金取りの追い立てられるだけ。

 こういうふうに庶民の人情に理解を示すのが宗因流といえよう。

 初秋に袖の露は、

 

 初秋の空に霧たつ唐衣

     袖の露けきあさぼらけかな

              (古今和歌六帖)

 

の歌がある。

 

季語は「露」で秋、降物。「袖」は衣裳。

 

二十句目

 

   十年を爰に勤て袖の露

 おほん賀あふぐ山のはの月    似春

 (十年を爰に勤て袖の露おほん賀あふぐ山のはの月)

 

 秋も三句目なのでここらで月の欲しい所だ。ただ、次の二十一句目は花の定座になる。

 袖の露を主人の恩の有難さに涙が出ることとした。

 月を出してはいるものの、『源氏物語』の若菜下に、

 

 「 院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことども こちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。 二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、 御遊び絶えず。」

 

とあるような、春の満月の頃の御賀をイメージし、花呼び出しにしたのではないかと思う。

 昔は誕生日の祝いというのはなく、正月になると一つ年を取るので、五十の御賀、還暦の御賀、喜寿の御賀、米寿の御賀など、春に行われることが多かったのだろう。

 露に山の端の月は、

 

 ふかきよの露ふきむすふ木枯らしに

    空さえのぼる山のはの月

              藤原為忠(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「山のは」は山類。

 

二十一句目

 

   おほん賀あふぐ山のはの月

 春は花栬の比は西の丸      幽山

 (春は花栬の比は西の丸おほん賀あふぐ山のはの月)

 

 前句の御賀を紅葉賀のこととしたか。春の御賀は花の宴、秋の御賀は栬(もみじ)の賀ということで、お城の西の丸で賑やかに宴が催される。

 西の丸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「江戸城の一郭。本丸の西南方にある。文祿元年(一五九二)創建。将軍隠居所・世子居所として使用。明治維新後、皇居となった。

 ※浮世草子・好色一代女(1686)四「日影も西(ニシ)の丸にかたふくに驚き」

 

とある。

 「春は花」とあるものの、「春は花」は過去のことで、意味的には秋の紅葉の句となる。

 山の端の月の花は、

 

 尋ねきて花に暮らせる木の間より

     まつとしもなき山の端の月

              飛鳥井雅経(新古今集)

 

の歌に詠まれている。

 

季語は「栬」で秋、植物(木類)。「花」も植物(木類)。

 

二十二句目

 

   春は花栬の比は西の丸

 参台過て既に在江戸       磫畫

 (春は花栬の比は西の丸参台過て既に在江戸)

 

 春は花の皇居に参内し、秋には江戸で西の丸にいる。

 「春は花」の句は春ではないので、秋四句続いた後の無季の句となる。

 

無季。

二表

二十三句目

 

   参台過て既に在江戸

 時を得たり法印法橋其外も    信章

 (時を得たり法印法橋其外も参台過て既に在江戸)

 

 「法印」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「僧綱(そうごう)の最上位。法印大和尚位とも。法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の上。864年定められ,空海,最澄,真雅の3人に授けられたのが最初。創設当初は官位では従2位に相当。中世以降仏師,社僧,医師,連歌師などにも与えられる称号となった。」

 

とあり、「法橋(ほっきょう)」は、

 

 「日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の最下位である律師に与えられる。法橋上人位とも。官位でははじめ正4位に相当。法印と同様,中世・近世では僧以外にも与えられた。」

 

とある。

 法印の位に付いた連歌師というと中世では心敬がいる。季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。尾形光琳も後に法橋になる。

 法印法橋といった僧位を得て江戸に移住すれば、それこそ出世コースの頂点と言えよう。宗因は大阪天満宮の連歌宗匠にはなったが、特に法位はなかったようだ。

 

無季。釈教。「法印法橋」は人倫。

 

二十四句目

 

   時を得たり法印法橋其外も

 新筆なれどあたひいくばく    桃青

 (時を得たり法印法橋其外も新筆なれどあたひいくばく)

 

 法印法橋ともなれば揮毫するだけで高い値がつく。突飛な方の芭蕉ではなくリアルな方の芭蕉が見えている。

 

無季。

 

二十五句目

 

   新筆なれどあたひいくばく

 歌のこと世上に眼高ふして    似春

 (歌のこと世上に眼高ふして新筆なれどあたひいくばく)

 

 新筆で高い値を付けている者を歌人とした。「世上に眼高ふして」は世間で高く評価されているという意味。

 

無季。

 

二十六句目

 

   歌のこと世上に眼高ふして

 明石の浦は蟹もしる覧      宗因

 (歌のこと世上に眼高ふして明石の浦は蟹もしる覧)

 

 世間で有名な和歌といえば、

 

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に

     島隠れ行く舟をしぞ思ふ

            伝柿本人麻呂

 

 この歌なら人はおろか明石の浦の蟹すらも知っているに違いない。蟹は目が飛び出しているので「眼高ふして」いる。

 

無季。「蟹」は水辺。「明石の浦」は名所、水辺。

 

二十七句目

 

   明石の浦は蟹もしる覧

 蛸にも其入道の名は有ぞかし   磫畫

 (蛸にも其入道の名は有ぞかし明石の浦は蟹もしる覧)

 

 明石はここでは『源氏物語』の明石入道で、このことは蟹ですら知っているにちがいない。蛸ですら蛸入道と呼ばれているくらいだから。

 

無季。「蛸」は水辺。釈教。

 

二十八句目

 

   蛸にも其入道の名は有ぞかし

 八日八日は見えし堂守      木也

 (蛸にも其入道の名は有ぞかし八日八日は見えし堂守)

 

 ここでは蛸入道は蛸薬師のことになる。京都の永福寺、目黒の成就院などで蛸薬師は本尊とされている。八日が縁日になる。蛸だけに。

 

無季。釈教。

 

二十九句目

 

   八日八日は見えし堂守

 今のかも例をたがへぬ仏生会   吟市

 (今のかも例をたがへぬ仏生会八日八日は見えし堂守)

 

 八日を四月八日の仏生会とする。灌仏会とも花祭ともいう。

 

季語は「仏生会」で夏、釈教。

 

三十句目

 

   今のかも例をたがへぬ仏生会

 夏花やつつじ咲匂ふらん     似春

 (今のかも例をたがへぬ仏生会夏花やつつじ咲匂ふらん)

 

 ツツジは春の季語だが春から初夏に掛けて咲くため、ここでは「夏花(かばな)」を添えて夏の句にしている。「つつじ夏花や」の倒置。花祭に花を添える。

 

季語は「夏花」で夏。「つつじ」は植物、木類。

 

三十一句目

 

   夏花やつつじ咲匂ふらん

 あの山の風をもがなと窓明て   少才

 (あの山の風をもがなと窓明て夏花やつつじ咲匂ふらん)

 

 あの山は、

 

 佐保姫のくれなゐ染めの岩躑躅

     春の風にぞふかすべらなる

              藤原清輔(久安百首)

 山風に咲ける躑躅は佐保姫に

     たかぬきかけし許し色かも

              郁芳門院安芸(久安百首)

 

の歌があるように、佐保姫のいる佐保山であろう。

 ツツジが匂うので、佐保山の風が吹いてくるかと窓を開ける。

 

 

無季。「山」は山類。「窓」は居所。

 

三十二句目

 

   あの山の風をもがなと窓明て

 月の前なる雲無心なり      幽山

 (あの山の風をもがなと窓明て月の前なる雲無心なり)

 

 風が欲しいというのを、月の前に雲があるからだとした。

 この場合の「無心」は心無いという否定的な意味。

 月の前に雲があるので、風が吹いて吹き飛ばしてくれないかなという句。

 

 雲きゆるひらの高ねの山風に

     月影きよししかのから崎

              藤原為経(宝治百首)

 

の歌もある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「雲」は聳物。

 

三十三句目

 

   月の前なる雲無心なり

 露時雨ふる借銭の其上に     宗因

 (露時雨ふる借銭の其上に月の前なる雲無心なり)

 

 前句の「無心」を金の無心とした。「経る借銭のその上に」「無心なり」とつながる。

 それに「ふる」を導き出すように「霧時雨」を序詞のように用いて、風雅な言葉を使いながら借金の話に落とす。

 庶民の言葉がまだ風雅に取り入れられていなかった比の特有の手法で、雅語を基調としながらいかに世俗の話題を取り込むかという工夫でもあった。

 「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗とが平行して描かれる。

 時雨の月は、

 

 時雨れつるまやの軒端の程なきに

     やがてさしいる月のかげかな

              藤原定家(千載集)

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり

     心あるべき初時雨かな

              西行法師(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「霧時雨」で秋、降物。

 

三十四句目

 

   露時雨ふる借銭の其上に

 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 (露時雨ふる借銭の其上に見し太夫さま色替ぬ松)

 

 「さま」は合略仮名で記されている。

 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。

 ここも「霧時雨」に「色替ぬ松」の雅を基調に、「借銭の其上に見し太夫さま」という俗とが平行して描かれる。

 太夫様が出たところで恋に転じる。

 時雨は紅葉を染めるが、松の色は変わらない。

 

 時雨には色もかはらぬ松が枝に

     緑をそへて春雨そふる

               二条資季(宝治百首)

 

の歌の通りに。

 

季語は「色替ぬ松」で秋、植物、木類。恋。「太夫」は人倫。

 

三十五句目

 

   見し太夫さま色替ぬ松

 空起請煙となるも理や      幽山

 (空起請煙となるも理や見し太夫さま色替ぬ松)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木(はちのき)』の「松はもとより煙にて、薪となるも理や。」の一節が引用されている。「いざ鎌倉」の由来とされる佐野源左衛門常世の物語で、北条時頼をもてなすのに鉢植えの梅や桜や松を惜しげもなく火にくべて暖を取らせる。

 ここでも「色替ぬ松」の「煙となるも理や」という雅の文脈、「見し太夫さま」「空起請煙となるも理や」の俗とが平行して描かれる。

 「空起請(そらぎしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「空起請」の解説」に、

 

 「〘名〙 うその誓い文。いつわって書いた起請文。空誓紙。空誓文。

  ※清原宣賢式目抄(1534)五一条「日本の起請には天神を入申さぬはそら起請也」

 

とある。

 この場合は遊郭に遊女に忠誠を誓わせる誓文のことであろう。そうはいってもほかの客も取らなくてはやっていけない遊女は、形だけの誓文と書いては配っている。

 

無季。恋。「煙」は聳物。

 

三十六句目

 

   空起請煙となるも理や

 夜討むなしき野辺の夕暮     宗因

 (空起請煙となるも理や夜討むなしき野辺の夕暮)

 

 「新古今集」の哀傷歌に、

 

 あはれ君いかなる野辺の煙にて

     むなしき空の雲となりけむ

              弁乳母(新古今集)

 

の歌がある。

 前句の「空起請」を主君への偽りの誓いとし、誓いを立てておきながら裏切って夜討ちにされ、野辺の煙(火葬の煙)となった。

 

無季。無常。

二裏

三十七句目

 

   夜討むなしき野辺の夕暮

 あてのみの酒気を風や盗むらん  似春

 (あてのみの酒気を風や盗むらん夜討むなしき野辺の夕暮)

 

 「当て飲み(あてのみ)」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 

 「他人の懐を当てにして酒を飲むこと。

 「舌を吐きつつ口に手を、―は現 (げ) に盗 (ぬすびと) 上戸」〈読・八犬伝・三〉」

 

とある。

 前句の夜討を単なる比喩として、せっかく人の金で只で酒を飲めたのに、その酔いも風に当たってすっかり醒めちまった。こいつあ風めの夜討ちにあったようなものだ、となる。

 野辺の夕暮れに風というと、

 

 枯れ渡る尾花が末の秋風に

     日影も弱き野辺の夕暮れ

              よみ人しらず(玉葉集)

 

の歌がある。

 

無季。

 

三十八句目

 

   あてのみの酒気を風や盗むらん

 雨一とをり願ふ川ごし      又吟

 (あてのみの酒気を風や盗むらん雨一とをり願ふ川ごし)

 

 又吟さんは初登場だが詳細は不明。

 当て飲みの酒の酔いも風が吹いたら醒めてしまいそうだ。ここらで雨でも降って川留めになれば、帰らずにそのまま飲み続けられる。

 

無季。「雨」は降物。「川ごし」は水辺。

 

三十九句目

 

   雨一とをり願ふ川ごし

 名号の本尊をかけよ鳥の声    木也

 (名号の本尊をかけよ鳥の声雨一とをり願ふ川ごし)

 

 鳥の声はホトトギスの声で、「テッペンカケタカ」とも言うが「本尊掛けたか」とも言う。

 ホトトギスは和歌では夜の雨とともに詠まれることが多い。

 

   ほととぎすをよめる

 心をぞつくし果てつるほととぎす

     ほのめく宵のむら雨さめの空

               藤原長方(千載集)

 いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす

     待たじと思へばむら雨の空

               藤原家隆(新古今集)

のようにホトトギスを待っていたら雨が降ってきてしまったというものもある。

 この場合も前句を「雨一とをり、願ふ川ごし」と切り離し、「名号の本尊をかけよ鳥の声」と雨が一降りするなかを「願ふ川ごし」と結ぶ。

 

季語は「本尊をかけよ鳥」で夏、鳥類。釈教。

 

四十句目

 

   名号の本尊をかけよ鳥の声

 それ西方に別路の雲       信章

 (名号の本尊をかけよ鳥の声それ西方に別路の雲)

 

 「別路の雲」は紫雲のことか。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもそうある。

 紫雲はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。」

 

 西方浄土へといざなわれる。

 別れ路の雲は、

 

 別れ路をへたつる雲のためにこそ

     扇の風をやらまほしけれ

              大中臣能宣(拾遺集)

 

などの歌に詠まれている。

 

無季。釈教。「雲」は聳物。

 

四十一句目

 

   それ西方に別路の雲

 口舌事手をさらさらとおしもんで 吟市

 (口舌事手をさらさらとおしもんでそれ西方に別路の雲)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『船弁慶』の、

 

 「その時義経少しも騒がず打物抜き持ち現の人に、向ふが如く、言葉を交はし戦ひ給へば、弁慶おし隔て打物業にて叶ふまじと、数珠さらさらと押しもんで、東方降三世南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉明王、中央大聖不動明王の索にかけて、祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば、弁慶舟子に力を合はせ」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.74893-74909). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 「口舌事(くぜつごと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「男女関係についての言い争い。痴話げんか。くぜげんか。

 ※俳諧・江戸八百韻(1678)赤何「恋の大峯分そむるなり〈泰徳〉 口舌事うき身に添へる鬼二人〈言水〉」

 

とある。前句の「別路の雲」をきぬぎぬのこととして恋に転じる。

 

無季。恋。

 

四十二句目

 

   口舌事手をさらさらとおしもんで

 しら紙ひたす涙也けり      桃青

 (口舌事手をさらさらとおしもんでしら紙ひたす涙也けり)

 

 さあ久しぶりに芭蕉さんの登場。

 夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を組み込む。これは「揉み紙」という和紙の製法による。

 「浅倉紙業株式会社 (ショールーム 紙あさくら)のブログ」のサイトに、

 

 「お客様のご依頼で、揉み和紙を製作しました。

 市場によく出回っている楮和紙の場合は、あらかじめ霧吹きなどでほんの少し水分を与えてから揉むと、キメ細やかなシワが出来ます(もんだ後は乾燥して下さいね)。和紙によっては、水分をほんのりではなく、しっかりと含ませて揉む「水揉み」を行う事もあります。」

 

とある。当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」

 

とある。

 宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべし。

 

無季。恋。

 

四十三句目

 

   しら紙ひたす涙也けり

 高面をのぞく障子の穴床し    少才

 (高面をのぞく障子の穴床ししら紙ひたす涙也けり)

 

 「高面(たかめん)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「高免 高率の田租」とある。ただ、ここで租税の話に転じてしまうと、次の句でまた『源氏物語』の恋の場面に戻って輪廻になってしまうので、ここは「たかつら」のことではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「高く盛りあがっている頬(ほお)。また、頬の盛り上がったところ。また転じて、頬。

 ※大日経承暦二年点(1078)五「面(タカツラ)円満せむ、端厳して相ひ称へらむ」

 ※有明の別(12C後)二「御めもはなもくちもたかつらも、いとおほきにこだいにて」

 

とある。威厳のある顔をいう。女房達がその顔を一目見ようと障子に穴をあけ、「あなゆかし」となる。「ゆかし」は惹きつけられるということで、恋の句が続いていると見た方がいい。

 

無季。恋。「障子」は居所。

 

四十四句目

 

   高面をのぞく障子の穴床し

 ゆびのさきなる中川の宿     宗因

 (高面をのぞく障子の穴床しゆびのさきなる中川の宿)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「源氏物語の空蝉の巻に、中川の宿で源氏が空蝉・軒端荻を覗見することあり。」とある。

 京極の中川は今では失われた川で、京極川ともいう。源氏の君は方違えのためにここにある紀伊の守の家に行く。そこで、

 

 「君は、とけてもねられたまはず、いたづらぶしとおぼさるるに御めさめて、この北のさうじのあなたに人のけはひするを、こなたや、かくいふひとのかくれたるかたならん、あはれやと御こころとどめて、やをらおきてたちぎき給(たま)へば、ありつる子のこゑにて」

 (源氏の君はくつろいではいても眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあの女房がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、やおら起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして)

 

となる。障子に穴はあけてないが、本説を取る時に、貞門の頃はそのまんまの場合が多かったが、談林の時代には少し変えるようになったのだろう。さらに設定の変更なんかも段々大きく許容するようになっていったとき、「俤付け」に自然に移行していった。

 

無季。恋。

 

四十五句目

 

   ゆびのさきなる中川の宿

 蒔絵さへ寺町物と成にけり    幽山

 (蒔絵さへ寺町物と成にけりゆびのさきなる中川の宿)

 

 京の寺町は、寺町京極商店街のサイトによると、

 

 「現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。

 豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路の在ったあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付きました。

 浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。

 門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。

 さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。」

 

 延宝の頃から少しづつ仏具や骨董を扱う店が立ち並び始めていたか、蒔絵がここ寺町で売られていることもあったのだろう。寺町から中川はほんの指の先。

 

無季。

 

四十六句目

 

   蒔絵さへ寺町物と成にけり

 数寄は茶湯に化野の露      似春

 (蒔絵さへ寺町物と成にけり数寄は茶湯に化野の露)

 

 「化野(あだしの)」は江戸時代には鳥野辺とともに火葬の地だった。

 京都には茶の湯にふさわしい名水がたくさんあるが、化野の露は何とも悪趣味で、まあ生死を超越したということなのか。

 化野の露は時代は下るが、

 

 消えはつる草の陰まで悲しきは

     むすびもとめぬ化野の露

              冷泉為相(続後拾遺集)

 

の歌に詠まれている。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

四十七句目

 

   数寄は茶湯に化野の露

 石灯篭月常住の影見えて     桃青

 (石灯篭月常住の影見えて数寄は茶湯に化野の露)

 

 儚い露に常住の月を対比させる。向え付け。露に月は付け合い。

 

 もろともに草葉の露のおきゐずは

     ひとりや見まし秋の夜の月

              顕仲卿女(金葉集)

 

を始めとして、月に露を詠んだ例は数多くある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。

 

四十八句目

 

   石灯篭月常住の影見えて

 雪隠につづく築山の色      磫畫

 (石灯篭月常住の影見えて雪隠につづく築山の色)

 

 前句を広いお寺の庭か何かとした。常住不滅の真如の月という高い理想を掲げたあとは「雪隠」でシモネタに落とす。これはこれで正解とすべきか。

 

季語は「築山の色」で秋。

 

四十九句目

 

   雪隠につづく築山の色

 ますき垣南山幷に花の枝     宗因

 (ますき垣南山幷に花の枝雪隠につづく築山の色)

 

 コトバンクの「垣(かき)」の「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「建物や敷地などの周囲を囲むように作られた工作物や植栽で,材料,形式によって多くの種類がある。塀もほぼ同じ意味で使われ,築地(ついじ)は築地塀あるいは築垣(ついがき)とも呼ばれた。一般に,板塀や土塀のように表面が連続して平滑な面をなすものを塀,間隙の多いものを垣と呼ぶ傾向がある。」

 

とある。ただ、生垣などは向こう側が見えないから、向こう側が見えるような隙間の多い垣を「間隙(ますき)垣」というのだろう。

 南山は漢詩によく詠まれる廬山のことで、特に陶淵明の「飲酒二十首」の其五の、「采菊東籬下 悠然見南山(菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る)」のフレーズは有名だ。

 前句の築山を雪隠の間隙垣から見た景色とし、それを廬山に喩え、さらに花を添える。

 まあ、陶淵明まで持ち出して、見事に前句のシモネタを救ったということか。前句は一応大徳院主だし。

 

季語は「花の枝」で春、植物、木類。「南山」は山類、名所。

 

五十句目

 

   ますき垣南山幷に花の枝

 うり家淋し春の黄昏       吟市

 (ますき垣南山幷に花の枝うり家淋し春の黄昏)

 

 白楽天の「三月三十日題慈恩寺」の詩句に、

 

 惆悵春歸留不得 紫藤花下漸黄昏

 惆悵(ちうちゃう)す春の歸るは留め得ざるを、

 紫藤の花の下漸く黄昏

 

と、春の終わりの黄昏を詠んだものがある。ただそれでは俳諧にならないので、うり家という卑俗な題材を出して落としている。

 

季語は「春の黄昏」で春。「うり家」は居所。

三表

五十一句目

 

   うり家淋し春の黄昏

 欠落の跡は霞の立替り      似春

 (欠落の跡は霞の立替りうり家淋し春の黄昏)

 

 「欠落(かけおち)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「近代法における失踪,律令制における逃亡に比当される近世法の用語。町方,村方に欠落人が生じると,町村の役人はこれを管轄官庁に届け出る。官庁は,親類町村役人へ,たずね出しを命じ,180日を経て発見しえない場合には,永尋 (ながたずね) の命を下した。永尋は,捜索人の懈怠を責めるものであるが,裏面において,今日の失踪宣告とほぼ同様の効果を生ぜしめるもので,これによって,欠落人の財産は相続人に移転された。なお,以上の制度は明治初期においても,「逃亡尋」と名を変えて,日限その他,そのままに行われていた。ちなみに,江戸期の奉公人証文にも,「欠落」の文字がしばしばみえるが,これは奉公人が契約期間満了前に失踪することである。そして,この場合には,請け人が弁償義務を負うのが通例であった。」

 

とある。ウィキペディアには、

 

 「欠落(かけおち・闕落)とは、戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。江戸時代には走り(はしり)などとも称された[1]。武士の場合には出奔(しゅっぽん)・立退(たちのき)などと呼んで区別したが、内容的には全く同一である。」

 

とある。

 「かけおち」というと、今日では一般に男女の駆け落ちの意味でしか使われない。欠落の原因の中には確かにこういうものもあっただろう。いつごろから男女の示し合わせた失踪を意味するようになったか、興味深い所だ。

 延宝の頃にはまだそういう意味はなかったのだろう。「欠落」は恋の言葉ではないし、次の句で恋に転じられることもない。

 前句の「うり家」の原因を住人の失踪とし、春の黄昏に霞を添える。夕暮れの霞は、

 

 ひさかたの天の香具山この夕べ

     霞たなびく春立つらしも

              よみ人しらず(新勅撰集)

 

など、多くの歌に詠まれている。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

五十二句目

 

   欠落の跡は霞の立替り

 雪崩れする其岩のはな      幽山

 (欠落の跡は霞の立替り雪崩れする其岩のはな)

 

 春になると雪が融けて雪崩が発生する。岩鼻だから雪庇の崩落か。

 前句の「欠落」を雪庇の欠け落ちることとする。

 霞に雪解けは、

 

 いつのまに霞立つらん春日野の

     雪だにとけぬ冬とみしまに

              よみ人しらず(後撰集)

 吉野山峯の白雪いつきえて

     けさは霞の立ちかはるらん

              源重之(拾遺集)

 

などの歌がある。

 

季語は「雪崩れ」で春。「岩のはな」は山類。

 

五十三句目

 

   雪崩れする其岩のはな

 松明の煙につづく白湯かた    信章

 (松明の煙につづく白湯かた雪崩れする其岩のはな)

 

 松明の熱で温泉の上の岩鼻に積ってきて雪が崩れて落ちてきた。

 「湯かた」は本来は湯帷子(ゆかたびら)だが略してそう呼ばれる。「浴衣」とも書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「近世以前,蒸風呂での入浴の際着用した麻の湯帷子(ゆかたびら)の略。江戸時代以後現在のように裸体で入浴するようになって,浴後に着る木綿の単(ひとえ)を浴衣というようになり,暑中の外出にも用いられるようになった。白地または藍(あい)地の鳴海(なるみ)絞や中形(ちゅうがた)などが多く用いられる。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「行者の服装」とある。元禄七年春の「傘に」の巻の七句目に、

 

   誉られてまた出す吸もの

 湯入り衆の入り草臥て峰の堂   曾良

 

という句があり、修験道と温泉は密接に結びついてたようだ。

 『奥の細道』の旅では芭蕉は羽黒山の別当代会覚阿闍梨から「ゆかた二ツ」を贈られている。

 この翌年の桃青・信章の両吟「此梅に」の巻の三十二句目に、

 

   たまさかにこととふ物はげたの音

 なを山ふかく入し水風呂     信章

 

の句がある。これは静かな山の中の温泉の句だ。蒸し風呂に対し水風呂と言う。

 

無季。「白湯かた」は衣裳。「煙」は聳物で打越に「霞」があるから、これは主筆の見落としか。応安新式に「霞 霧 雲 煙(如此聳物)」とある。

 

五十四句目

 

   松明の煙につづく白湯かた

 果しあふよに出あへや出あへ   宗因

 (松明の煙につづく白湯かた果しあふよに出あへや出あへ)

 

 この句が難しいのは、結局この松明に続く白浴衣の人たちが何者なのかが特定できないからだ。当時の人には多分すぐにわかったのだろう。

 白浴衣が行者だとしても、何でそれが果し合いになるのかわからない。

 かなり後のことだが享和元年(一八〇一)に足達八郎が杖立温泉で決闘をして六人を斬るという事件が起こるが、宗因の句にも何か当時の人なら知っている元ネタがあったのかもしれない。

 

無季。

 

五十五句目

 

   果しあふよに出あへや出あへ

 声高のみなもと聞ば衆道也    磫畫

 (声高のみなもと聞ば衆道也果しあふよに出あへや出あへ)

 

 果し合いは衆道のいさかいだった。衆道ネタというと芭蕉も得意だが、宗因の句にもあるし、当時は俳諧には付き物のネタだったのだろう。磫畫も大徳院のお坊さんだから、この道には詳しいのかも。

 元禄七年の「鶯に朝日さす也竹閣子 浪化」の句を発句とする歌仙の十二句目に、

 

   小屋敷並ぶ城の裏町

 謂分のちょっちょっと起る衆道事 去来

 

の句がある。

 

無季。恋。

 

五十六句目

 

   声高のみなもと聞ば衆道也

 よりて芝居の垣間見をせん    吟市

 (声高のみなもと聞ば衆道也よりて芝居の垣間見をせん)

 

 衆道と芝居との間には深い係わりがあった。女性による歌舞伎が売春に係わるなど風紀上の問題で寛永六年(一六二九)に禁じられ、今日のように男ばかりで歌舞伎が上演されるようになったが、そこにもやはり男娼による売春が行われていたりした。江戸中期になると陰間茶屋が芝居小屋に併設されるようになる。

 衆道の呼び込みの声に誘われて、芝居をちょっと覗いて行くということもあったのだろう。

 

無季。恋。

 

五十七句目

 

   よりて芝居の垣間見をせん

 おもほえず古巾着の銭をさぐり 又吟

 (おもほえず古巾着の銭をさぐりよりて芝居の垣間見をせん)

 

 又吟さんの二回目の登場。

 芝居を見るためにふところの巾着に銭があったかどうか探る。日常の何気ないことをそのまま詠んだ感じだ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『伊勢物語』第一段を引用している。

 

 「その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえずふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。」

 

の「かいまみてけり。 思ほえず」が歌てにはのように上句と下句を繋いでいる。

 後の「軽み」の時代なら、この出典は必要なくなっていたかもしれないが、当時としては証歌や出典が必要だったのだろう。

 又吟も目立たないが、ちゃんとそういう技術を身につけた連衆だったと思われる。

 

無季。

 

五十八句目

 

   おもほえず古巾着の銭をさぐり

 めくら腰ぬけ夢の世中     似春

 (おもほえず古巾着の銭をさぐりめくら腰ぬけ夢の世中)

 

 「腰ぬけ」は本来は腰が悪くて立てない人のことで、転じて臆病者のことになった。

 目の不自由な人、腰に障害のある人、見ていて思わずお金を恵んであげたくなる。障害が有ろうともなかろうとも、ともに夢のように儚い人生、せいぜい助け合って楽しく生きていこうではないか。

 「おもほえず」と「夢」は『伊勢物語』の別の場面で第六十九段に、

 

 君や来し我やゆきけむおもほえず

     夢かうつつか寝てかさめてか

 

の歌があり、この歌は『古今集』にも、

 

   業平朝臣の伊勢のくににまかりたりける時、

   斉宮なりける人にいとみそかにあひて又の

   あしたに人やるすへなくて思ひをりけるあひたに、

   女のもとよりおこせたりける

 きみやこし我や行きけむおもほえず

     夢かうつつかねてかさめてか

             よみ人しらず(古今集)

 

とある。

 

無季。「めくら腰ぬけ」は人倫。

 

五十九句目

 

   めくら腰ぬけ夢の世中

 慮外者さはらばなどと肱を張  幽山

 (慮外者さはらばなどと肱を張めくら腰ぬけ夢の世中)

 

 「慮外者(りょがいもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「不埒な者。慮外な人。無礼者。特に、武士に対して無礼なことをした者をいうことが多い。

 ※俳諧・鷹筑波(1638)二「君が代に春たったりや慮外(リョクヮイ)者〈宗次〉」

 

とある。

 巾着袋を探るものもいれば、寄るな触るなとばかりに肱を張って威嚇する者もいる。こういう心ない輩を慮外者という。いったいどっちがめくらで腰抜けなのか。

 

無季。「慮外者」は人倫。

 

六十句目

 

   慮外者さはらばなどと肱を張

 上様風の吹旅の空       少才

 (慮外者さはらばなどと肱を張上様風の吹旅の空)

 

 前句を「慮外者!さはらば」で台詞とし、上様風を吹かしている偉そうな旅人とする。

 

無季。旅体。

 

六十一句目

 

   上様風の吹旅の空

 御荷物に唐船一艘つくられたり 宗因

 (御荷物に唐船一艘つくられたり上様風の吹旅の空)

 

 これは平清盛のことだろう。清盛は宋との貿易を推進し、自らも宋船を所有していたという。

 船は風の力で動くものだが、「上様風」となれば「驕る平家」の言葉も思い起こされる。

 風に唐土は、

 

 唐土もなほ棲みうくばかへりこむ

     忘れなはてそ八重の潮風

             藤原家隆(壬二集)

 

の歌がある。

 

無季。「唐船」は水辺。

 

六十二句目

 

   御荷物に唐船一艘つくられたり

 蜘てふ虫も糸のわけ口     似春

 (御荷物に唐船一艘つくられたり蜘てふ虫も糸のわけ口)

 

 前句を長崎に生糸を運ぶ中国船とした。

 蜘蛛は糸を吐くが生糸は作らない。そんな関係ないものにもその利益は及ぶ。貿易は当事者だけではなく、国全体を潤す。

 ところで蜘蛛の糸は最近ではその鉄鋼の四倍といわれる強度が注目され、蚕に蜘蛛の遺伝子を組み込んで蚕に蜘蛛の糸をはかせるなんてことも行われている。スパイダーシルクというらしい。

 さらに蜘蛛の糸よりももっと強い糸があるという。それは蓑虫の糸で、丈夫さでは蜘蛛の糸の約2.2倍、強度で約1.8倍だという。

 素堂は「蓑虫説」の中で、「みの虫みの虫。声のおぼつかなくて。かつ無能なるをあはれぶ。」と言ったが、実は意外な才能があった。

 

無季。「蜘」は虫類。

 

六十三句目

 

   蜘てふ虫も糸のわけ口

 鬢を撫て来べき宵也月の下   磫畫

 (鬢を撫て来べき宵也月の下蜘てふ虫も糸のわけ口)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にあるとおり「古今集」の、

 

   思ふてふ言の葉のみや秋をへてのつぎ

   衣通姫の、独りいて、帝を恋い申し上げて

 わが背子が来べき宵なりささがにの

     蜘蛛のふるまひかねてしるしも

 

が本歌と見ていい。恋に転じる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「垣間見」から六句隔てている。

 

六十四句目

 

   鬢を撫て来べき宵也月の下

 伽羅の油に露ぞこぼるる    木也

 (鬢を撫て来べき宵也月の下伽羅の油に露ぞこぼるる)

 

 「伽羅の油」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた。

 ※俳諧・玉海集(1656)一「薫れるは伽羅の油かはなの露〈良俊〉」

 ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「いにしへは女の伽羅(キャラ)の油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成しを」

 

とある。粘りが強く髪をカチッと固めるのに用いる。今日ではポマード系か。古代の恋歌から遊女に転じる。

 月に露はよく用いられる付け合い。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

三裏

六十五句目

 

   伽羅の油に露ぞこぼるる

 恋草の色は外郎気付にて    似春

 (恋草の色は外郎気付にて伽羅の油に露ぞこぼるる)

 

 「恋草」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 恋心のつのることを草の茂るのにたとえた語。

 ※万葉(8C後)四・六九四「恋草(こひぐさ)を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」

 ② 恋愛。恋愛ざた。また、恋人。〔日葡辞書(1603‐04)〕

 ※浮世草子・傾城色三味線(1701)湊「都の恋草に御身のかくし所もなく」

 

とある。

 「外郎」はウィキペディアに、

 

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。

 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

 

とある。気付け薬にも用いられた。

 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。

 恋草の露は、

 

 よとともにつれなき人を恋くさの

     露こばれます秋のゆふかぜ

             藤原顕家(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「草の色」で秋、植物、草類。恋。

 

六十六句目

 

   恋草の色は外郎気付にて

 はながみ袋形見なりけり    少才

 (恋草の色は外郎気付にてはながみ袋形見なりけり)

 

 「はながみ袋(鼻紙袋)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「鼻紙入れ」に同じとあり、「鼻紙入れ」のところには、

 

 「鼻紙や薬・金銭などを入れて携帯する、布・革製の入れ物。紙入れ。鼻紙袋。」

 

とある。外郎を入れていた鼻紙袋が形見として残される。

 恋の形見は、

 

 おほそらはこひしき人のかたみかは

     物思ふことになかめらるらむ

             さかゐのひとさね(古今集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。

 

六十七句目

 

   はながみ袋形見なりけり

 さる間三年はここにさし枕   桃青

 (さる間三年はここにさし枕はながみ袋形見なりけり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲「松風」の一節を引用している。

 

 「行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。」

 

 ただ、形見は御立烏帽子狩衣ではなく鼻紙袋で、「ここにさし枕」と枕に挿してあると「差し枕」に掛けている。

 「差し枕」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  板で箱形に作った枕。箱枕。

  ②  男女が共寝をすること。 「たまさかの君の御出を嬉しがり先いねころび-かな/古今夷曲集」

 

とある。

 

無季。恋。

 

六十八句目

 

   さる間三年はここにさし枕

 親の細工をあらためずして    宗因

 (さる間三年はここにさし枕親の細工をあらためずして)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』「学而篇」の「三年父之道ヲ改ムル無シ。孝ト謂ツ可シ。」の言葉を引用している。本説になる。

 前句の「さし枕」を箱枕とし、その細工の技術を三年改めなかった、孝行なことだとする。

 

無季。

 

六十九句目

 

   親の細工をあらためずして

 何物か人のかたちと成やらん   吟市

 (何物か人のかたちと成やらん親の細工をあらためずして)

 

 これは「不細工」のことか。

 親の顔貌を受け継いで、一体誰が形人(かたちびと)、つまり顔立ちの美しい人になるだろうか、と。

 

無季。「人」は人倫。

 

七十句目

 

   何物か人のかたちと成やらん

 しばし楽屋の内ぞ床しき     幽山

 (何物か人のかたちと成やらんしばし楽屋の内ぞ床しき)

 

 前句の「人のかたち」を人形のこととする。この頃はまだ文楽はなかったが、その前身となる人形劇はあった。

 ウィキペディアによると、竹本義太夫は最初は清水五郎兵衛を名乗って浄瑠璃を語り行っていたが、

 

 「延宝5年12月に京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立した。加賀掾の興業主であった竹屋庄兵衛が組織した操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、延宝8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。」

 

とある。

 

無季。

 

七十一句目

 

   しばし楽屋の内ぞ床しき

 来て見れば有し昔にかはら町   木也

 (来て見れば有し昔にかはら町しばし楽屋の内ぞ床しき)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『鸚鵡小町』の一節を引用している。

 

 「雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしきを引きかへて、内ぞゆかしきと詠む時は、小町が詠みたる返歌なり。」

 

 これは大納言行家が

 

 雲の上はありし昔に変はらねど

     見し玉簾の内やゆかしき

 

と詠んだのに対し、老いた小町が、

 

 雲の上はありし昔に変はらねど

     見し玉簾の内ぞゆかしき

 

と返した、これを鸚鵡返しというという話だが、鎌倉中期の『十訓抄』には女房の詠んだ歌に成範民部卿(藤原成範)が返すという話になっている。こちらの方が元ネタか。

 この歌を本歌にして、「床しき」に「有し昔にかはらねと」と付けるところを掛詞にして「かはら町」とする所に一工夫ある。

 「河原町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「京都中央部、鴨川の西を南北に走る通り。古くは鴨川の河原。近世は芝居小屋や茶屋などが並んだ。」

 

とある。

 

無季。

 

七十二句目

 

   来て見れば有し昔にかはら町

 小石をひろひ塔となしけり    信章

 (来て見れば有し昔にかはら町小石をひろひ塔となしけり)

 

 古くは鴨川の河原だから、石を積んで塔をたてたりして死者を弔った。

 ただこの句、十三句目の、

 

   座頭もまよふ恋路なるらし

 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

 

とかぶっている感じもする。

 河原に石は、

 

 君が代の数にし取らばうちのぼる

     佐保の河原の石もたらじな

              源兼昌(夫木抄)

 

の歌がある。

 

無季。

 

七十三句目

 

   小石をひろひ塔となしけり

 なひ物ぞ真の舎利は求ても    磫畫

 (なひ物ぞ真の舎利は求ても小石をひろひ塔となしけり)

 

 「石塔」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 塔婆の一種。石でつくった塔婆。本来は仏舎利を安置するためのものであるが、後に多く墓としてつくられるようになった。

 ※参天台五台山記(1072‐73)一「次礼二石塔一。九重高三丈許。毎レ重彫二造五百羅漢一。並有二二塔一」

 ② 石でつくった墓標。墓石。墓碑。石碑。

 ※評判記・色道大鏡(1678)一三「此三棟に、中将姫の誕生所これあり。猶中将姫の石塔(セキタウ)もあり」

 

とある。石塔は本来は仏舎利だった。仏舎利は本来はお釈迦様の遺骨・遺体のことで、本物のそれは探しても見つかるものではないが、石塔ならどこにでもある。

 

無季。釈教。

 

七十四句目

 

   なひ物ぞ真の舎利は求ても

 誰かしつつる天竺の秋      似春

 (なひ物ぞ真の舎利は求ても誰かしつつる天竺の秋)

 

 「しつつる」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「知りつる」とある。

 真の舎利はないことから、天竺の秋に思いを馳せる。

 米のことを舎利とも言うが、この言い方がこの時代にあったなら、米のシャリは求めても、その舎利が取れる天竺の秋は知らない、ということになる。

 

季語は「秋」で秋。「誰」は人倫。

 

七十五句目

 

   誰かしつつる天竺の秋

 牢人を尋出たる空の月      宗因

 (牢人を尋出たる空の月誰かしつつる天竺の秋)

 

 住所不定の牢人を天竺牢人というと、『近世俳句俳文集』(日本古典文学大系92、岩波書店)の注にある。『犬子集』(松江重頼編、寛永十年(一六三三)刊)に、

 

   天竺よりや秋は来にけん

 牢人と目にはさやかに見苦や   慶友

 

の句がある。

 月だけが尋ねてくる天竺牢人のことを誰が知っているか、と付く。慶友の句はただ外見の見苦しさを言うだけだが、宗因の句は天竺牢人の孤独な心境にまで踏み込む。

 「空の月」は、

 

 長き夜の闇にまよへる我を置きて

     雲隠れぬる空の月かな

              小大君(金葉集)

 

の歌があり、心のうわの空と掛けて用いられる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「牢人」は人倫。

 

七十六句目

 

   牢人を尋出たる空の月

 霧にこもりし城の遠近      幽山

 (牢人を尋出たる空の月霧にこもりし城の遠近)

 

 城には集められた牢人たちもともに篭城している。月の光りのもとに彼らは集められ、今では霧の中の城に隠れている。

 大阪城の冬の陣、夏の陣の時も大坂牢人五人衆がいた。後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登。

 月に霧は、

 

 わが心なほ晴れやらぬ秋霧に

     ほのかに見ゆる有明の月

              権僧正公胤(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「霧」で秋、聳物。

 

七十七句目

 

   霧にこもりし城の遠近

 花おる事附り堀の魚取事     信章

 (花おる事附り堀の魚取事霧にこもりし城の遠近)

 

 城の周辺には「花おる事を禁ず。附り、魚取事もまた禁ず」といった高札があったりする。あるあるネタか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「堀」は水辺。

 

七十八句目

 

   花おる事附り堀の魚取事

 すり餌によする梅のうぐひす   吟市

 (花おる事附り堀の魚取事すり餌によする梅のうぐひす)

 

 すり餌は鳥を飼う時の餌で、穀物の粉と魚の粉を混ぜたもの。ここでは庭に鶯を呼び寄せるのに用いられる。せっかく鶯を呼ぶのだから、花を折ったり魚を取ったりするな、と付く。

 

 情なく折る人つらしわが宿の

     あるじ忘れぬ梅の立ち枝を

              よみ人しらず(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。「うぐひす」も春で鳥類。

名残表

七十九句目

 

   すり餌によする梅のうぐひす

 やよ見たか祇園あたりのはるの空 少才

 (やよ見たか祇園あたりのはるの空すり餌によする梅のうぐひす)

 

 祇園は京都の八坂神社のあるあたり。八坂神社は牛頭天王を祭り、それが祇園精舎の守護神であるところから、祇園神社とも呼ばれていた。東山が近く、鶯も飛来したか。

 春の空の鶯は、

 

 浅緑春立つ空に鶯の

     初音を待たぬ人はあらじな

              紀貫之(続後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「はる」で春。

 

八十句目

 

   やよ見たか祇園あたりのはるの空

 うしろ帯して塗笠編笠      似春

 (やよ見たか祇園あたりのはるの空うしろ帯して塗笠編笠)

 

 「うしろ帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① =うしろむすび(後結)①⇔抱え帯。

 ※日葡辞書(1603‐04)「Vxirovobiuo(ウシロヲビヲ) スル」

 ② 娘。また、特に、帯を背後で結んで、素人の娘のような姿をしている遊女。

 ※洒落本・虚実柳巷方言(1794)上「後帯のうつくしもの、弐人のそばによりそへば」

 [語誌](1)着用時に前に作った結び目は後ろにまわしたようだが、帯の幅が狭く結び目が小さい場合には動作に支障はなく、また寛文(一六六一‐七三)の頃までは帯の結び目を作らず、折り込むようにもしたので、その位置はさして問題にならなかった。

 (2)遊女は前帯であったが、時代が降ると素人風に後ろに結び、彼女等もまた遊里の用語で「後ろ帯」と呼ばれるようになった。」

 

とある。

 また、「世界大百科事典内の後帯の言及」には、

 

 「帯の結び目を前にした締め方。江戸時代には鉄漿(かね),留袖(とめそで)とともに,前帯は主婦であることの象徴であった。もともと帯は紐状の帯紐で,前に結ぶのが自然の締め方であった。しかし室町時代のころから公家や武家の女たちが袴をはかないようになり,それにつれて着物の袖や身丈(みたけ)が長くなるにしたがって,帯の幅も広くなり,いまのような帯付姿が流行するようになった。当初の帯の締め方は結び目が一定せず,前,後ろ,横さまざまであったが,元禄(1688‐1704)ころから着物の袖や帯の締め方により未・既婚の区別が生ずるようになった。」

 

とある。

 寛文の頃はまだ前帯、後帯はさしたる問題ではなく、元禄になると前帯は既婚、後ろ帯は未婚と区別されるようになった。江戸後期になると遊女が後ろ帯にするようになり、近代ではみんな後ろ帯になった。

 延宝の頃はというと、寛文と元禄の間ということで、よくわからない。

 塗り笠は黒い漆を塗った笠で女性がかぶる。編み笠は普通の笠。

 この頃はまだ遊里ではなく普通の門前町として繁栄していた。「うしろ帯して塗笠編笠」というのは遊女ではなく一般女性で賑わっているイメージだったのだろう。

 

無季。「うしろ帯」「塗笠編笠」は衣裳。

 

八十一句目

 

   うしろ帯して塗笠編笠

 屋敷者跡にたつたは年こばい   吟市

 (屋敷者跡にたつたは年こばいうしろ帯して塗笠編笠)

 

 「屋敷者(やしきもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」ぶ、

 

 「大名、旗本などの武家屋敷に住んでいる人。武家屋敷に奉公している人。また、その経験のある人。屋形者。屋敷。

 ※俳諧・談林俳諧(1673‐81)「うしろ帯して塗笠編笠〈似春〉 屋敷者跡にたったは年こばい〈吟市〉」

 

とある。

 「年勾配(としこばい)」も同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「 年齢にふさわしいこと。年かっこう。

 ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「さすがに武士の心ばせなき者ならず、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが」

 

とある。

 武家屋敷で奉公する女中さんが入れ替わったことで、年相応の人物が入ってきた。それが「うしろ帯して塗笠編笠」となる。前帯をするのはやはり若いと言うイメージがあったのだろう。

 

無季。「屋敷者」は人倫。

 

八十二句目

 

   屋敷者跡にたつたは年こばい

 順の舞には小々性が先      又吟

 (屋敷者跡にたつたは年こばい順の舞には小々性が先)

 

 又吟さんの三句目。

 「順の舞(じゅんのまい、ずんのまい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「席にいる者が順に舞をまうこと。また、その舞。

 「我を覚えぬ程の酔のまぎれに―の芸づくし」〈浮・桜陰比事・一〉」

 

とある。今でも宴会の時などには順番に芸を求められることがある。

 「小々性(こごしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「まだ元服していない年若い小姓。

 ※信長記(1622)一五上「小々姓(コゴシャウ)には森らんまる」

 

とある。

 宴席で芸をやる時は、若い者からというのが普通だ。会社の宴会でもまず新入社員から始まって、課長、部長と上がっていって、最後に社長がトリを勤めることが多い。

 新入りとはいえある程度の年の人なら、やはり若手の方が先になる。

 

無季。「小々性」は人倫。

 

八十三句目

 

   順の舞には小々性が先

 常紋の袴のそばをかいどりて   似春

 (常紋の袴のそばをかいどりて順の舞には小々性が先)

 

 常紋は定紋で家紋のこと。「かいどる(掻い取る)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「着物の褄つまや裾を手でつまんで持ち上げる。 」とある。前句の小々姓の舞い姿を付ける。

 

無季。「袴」は衣裳。「塗笠編笠」から二句隔たる。

 

八十四句目

 

   常紋の袴のそばをかいどりて

 雨にも風にもかよはふよなふ   宗因

 (常紋の袴のそばをかいどりて雨にも風にもかよはふよなふ)

 

 前句を雨で水溜りができたところをすそを濡らさないように歩く姿とする。夜這いの句にする。「かよはふよなふ」は通ってくるものもいれば、それを迎えて手助けするものもいるということ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注も指摘している通り、謡曲『卒塔婆小町』に、

 

 「小町がもとへ通はうのう。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43352-43355). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の言葉があり、その後の方に深草の少将の百夜通いの、、

 

 「浄衣の袴かいとつて、立烏帽子を風折り狩衣の袖をうちかづいて、人目忍ぶの通 ひ路の、月にも行く闇にも行く。雨の夜も風の夜も、木の葉の時雨雪深し。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43385-43392). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の言葉へと続く。浄衣の袴が常紋の袴になる。

 

無季。恋。「雨」は降物。

 

八十五句目

 

   雨にも風にもかよはふよなふ

 夢うつつ女姿のちみどろに    幽山

 (夢うつつ女姿のちみどろに雨にも風にもかよはふよなふ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「産婦鳥(ウブメ)。若い産婦の死霊が血にまみれて出て来る其の姿。前句をウブメが子のもとに通おうという語としてつけた。ウブメは雨や風の夜にあらわれる。」

 

とある。

 多分大体これでいいのだと思う。ただ、ウブメは産死した産婦の霊で、赤ん坊を人に抱かせたり、赤ん坊をさらったりするが、子供の元に通うというのはよくわからない。子供と共に死んでいるはずだから。

 これは産死した妻のお墓をせっせと尋ねる夫の句で、熱心にお参りしていると夢にウブメとなった妻が現れるということではないかと思う。

 そうして死んだ子供を抱いてやると成仏するとか、そんな良い話なのではないかと思う。

 ウブメというと翌年春の桃青信章両吟「此梅に」の巻の七十二句目に、

 

   君ここにもみの二布の下紅葉

 契りし秋は産妻なりけり     桃青

 

の句がある。これも亡き妻に会えたという句になっている。「ちみどろ」ではなく「二布の下紅葉」と綺麗に仕上がっている。

 夢うつつに通うというと、

 

   あにのふくにて一条にまかりて

 春の夜の夢のなかにも思ひきや

     君なきやどをゆきてみんとは

              藤原忠平

   返し

 やど見ればねてもさめてもこひしくて

     夢うつつともわかれざりけり

              よみ人しらず(後撰集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。「女姿」は産婦鳥なので非人倫。

 

八十六句目

 

   夢うつつ女姿のちみどろに

 胸にたくのを別火とやいふ    木也

 (夢うつつ女姿のちみどろに胸にたくのを別火とやいふ)

 

 「別火(べっか)」はウィキペディアに、

 

 「別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。

 穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。

 この目的のために、日常の住居とは別に小屋が設けられることもあり、忌みの者(月経、出産時の女性)がこもる小屋を「忌み小屋」「他屋」、物忌み中のものがこもる小屋を「精進小屋」などと呼んだ。」

 

とある。

 前句の血みどろの女の幽霊に対し、胸にまだ残る恋の炎が別火となって、その穢れを防いでくれる。

 

無季。恋。

 

八十七句目

 

   胸にたくのを別火とやいふ

 ししくふた酬ひを恋にしられたり 信章

 (ししくふた酬ひを恋にしられたり胸にたくのを別火とやいふ)

 

 「ししくふ」は鹿を食うことをいう。昔は鹿のことを「しし」と言った。鹿神を「ししがみ」と言い、鹿除けを「ししおどし」という。

 ただ、仏教思想の浸透した時代には、殺生をすると報いがあると考えられていた。中世の連歌には、

 

   罪の報いもさもあらばあれ

 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

 

の句もある。

 鹿の祟りのせいか恋も思うように行かず、めらめらと嫉妬の炎を燃やす。これは穢れを防ぐ別火か。前句の「とやいふ」という疑問の言葉を生かしている。

 

無季。恋。「しし」は獣類。

 

八十八句目

 

   ししくふた酬ひを恋にしられたり

 たが参宮の伊勢ものがたり    吟市

 (ししくふた酬ひを恋にしられたりたが参宮の伊勢ものがたり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和訓栞』の「ししくふむくひといふ諺も神宮にもはら猪鹿を忌よりいへるなるべし」の言葉を引用している。

 伊勢神宮の諺に恋物語の『伊勢物語』を掛けている。もちろん実際の『伊勢物語』に鹿を食った報いの話はない。鹿の声を聞く話ならある。

 

無季。神祇。「伊勢」は名所。

 

八十九句目

 

   たが参宮の伊勢ものがたり

 見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊  宗因

 (見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊たが参宮の伊勢ものがたり)

 

 前句を単に誰かの伊勢参宮の土産話のこととして、その話を聞いているうちに松坂のかけ踊りを見たくなる。

 「かけ踊」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「盆の踊りなどで踊り組が互いに踊りを掛けあい競いあう形態。室町末期から近世初期に流行した風流(ふりゆう)踊に特徴的に見られ,当時の記録類には扮装や歌にくふうを凝らし,趣向を競った様子が記される。また風流踊を疫病送りなどに用いる所では,他村との境まで踊りを掛けて順次送り出す形態もあり,伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊やお蔭踊はその変型といえる。現在岐阜県郡上(ぐじよう)地方に加喜(かき)踊が残る。【山路 興造】」

 

とある。ここでいう「かけ踊」は幕末のええじゃないかの「伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊」の原型になるような踊りであろう。なるほど見てみたい。

 

無季。「松坂」は名所。

 

九十句目

 

   見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊

 遠く遊ばぬ盆の夕暮       似春

 (見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊遠く遊ばぬ盆の夕暮)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』里仁篇の「父母在ス時ハ遠ク遊バズ。」を引用する。

 わざわざ松坂までいかなくても、盆の夕暮れにはその土地の盆踊りがある。それでもやはり遠くの踊りも見てみたい。

 

季語は「盆」で秋。

 

九十一句目

 

   遠く遊ばぬ盆の夕暮

 住つけば残る暑さも苦にならず  磫畫

 (住つけば残る暑さも苦にならず遠く遊ばぬ盆の夕暮)

 

 お盆に残暑とこれは軽く流した遣り句だろう。

 

季語は「残る暑さ」で秋。

 

九十二句目

 

   住つけば残る暑さも苦にならず

 月はこととふうら店の奥     幽山

 (住つけば残る暑さも苦にならず月はこととふうら店の奥)

 

 京の裏通りはいかにも暑そうだ。表と違い人通りも少なく、月だけが尋ねてくる。そろそろ名残の裏ということで、穏やかに流してゆく。

 月のこととふは、

 

 露深き野辺の尾花のかり枕

     かたしく袖に月ぞこととふ

              丹波長典(玉葉集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で夜分、天象。

名残裏

九十三句目

 

   月はこととふうら店の奥

 秋の風棒にかけたる干菜売    桃青

 (秋の風棒にかけたる干菜売月はこととふうら店の奥)

 

 久しぶりに芭蕉さんの登場。

 裏通りを天秤棒に干し菜を下げた干し菜売りが通る。うらぶれた風情のある句だ。

 月にこととふ秋の風は、

 

 津の国の生田の森に人は来で

     月にこととふ夜半の秋風

              宗尊親王(新後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋の風」で秋。「干菜売」は人倫。

 

九十四句目

 

   秋の風棒にかけたる干菜売

 賤がこころも明樽にあり     宗因

 (秋の風棒にかけたる干菜売賤がこころも明樽にあり)

 

 「明樽(あきだる)」は酒を作った後の空き樽。醤油、味噌、漬物などに再利用した。「飽き足る」に掛かる。満足するという意味。今でも否定形の「飽き足らぬ」という言葉にその名残がある。

 明樽で干し菜を漬ければ冬への備えも万全。野菜は干すことで旨みも増すし、貧しい庶民もこれで満足。宗因らしい人情句だ。

 秋風に賤(しづ)は、

 

 それながら昔にもあらぬ秋風に

     いとどながめを賤のをだまき

              式子内親王(新古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「賤」は人倫。

 

九十五句目

 

   賤がこころも明樽にあり

 綱手をもくり返しぬる網のうけ  幽山

 (綱手をもくり返しぬる網のうけ賤がこころも明樽にあり)

 

 「網のうけ」は網の浮子船(うけぶね)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「漁具の一種。たらいのような桶で、定置網のへりにつけて浮子(うけ)とする。うけぶね。

 ※散木奇歌集(1128頃)雑「ひく島の網のうけ舟浪間よりかうてふさすとゆふしててかく」

 

とある。明樽は漁具として利用することもあったか。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 

 しづやしづ賤のをだまき繰返し

     昔を今になすよしもがな

 

という『義経記』の静御前の歌を引いている。この歌の元歌は『伊勢物語』の、

 

 いにしへの賤のをだまき繰返し

     昔を今になすよしもがな

 

で、最初の五文字だけが違う。

 この歌を本歌とし、海士が浮子船の引き綱を繰返し引くように、賤の心も、昔のことを忘れてよりを戻し、幸せになる事を願う。

 

無季。「綱手」「網のうけ」は水辺。

 

九十六句目

 

   綱手をもくり返しぬる網のうけ

 あこぎが浦や牛のかけ声     吟市

 (綱手をもくり返しぬる網のうけあこぎが浦や牛のかけ声)

 

 「あこぎが浦」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「三重県津市,伊勢湾にのぞむ海岸。岩田川河口から相川河口までの単調な直線状の砂浜海岸で,春は潮干狩り,夏は海水浴に利用され,冬はノリ漁場となる。かつては伊勢神宮の供物の漁場で,殺生禁断の海であった。昔貧しい漁夫平治 (次) が病母のためこの海で魚をとったため罰せられ,簀巻きにされて海に沈められたという物語は,謡曲,浄瑠璃に歌われて有名。近くに平治 (次) の霊をまつる阿漕塚がある。観海流泳法の発祥地といわれる。南半分を御殿場浜とも呼ぶ。一帯は伊勢の海県立自然公園に属する。」

 

とある。

 『源平盛衰記』にある、

 

 逢ふことも阿漕が浦に引く網も

     度重なれば顕はれやせん

 

の古歌は、『古今和歌六帖』の、

 

 逢ふことをあこぎの島に引く網の

     たび重ならば人も知りなん

 

を元歌としている。

 その阿漕が浦も江戸時代には伊勢街道の宿場として栄え、牛の掛け声が繰返し聞こえてきたのだろうか。

 

無季。「あこぎが浦」は水辺、名所。「牛」は獣類。

 

九十七句目

 

   あこぎが浦や牛のかけ声

 みづらいふわつぱも清き渚にて  信章

 (みづらいふわつぱも清き渚にてあこぎが浦や牛のかけ声)

 

 「みづら(角髪)」は奈良時代までの古代の貴族の髪型で、牛飼童(うしかいのわらわ)は歳を取っても垂髪でまま髪を結わなかった。でも何となく古代というと角髪(みづら)の童(わっぱ)がいそうなイメージだったのだろう。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『阿漕』の「伊勢の海。清き渚のたまだまも。」の一節を引用している。

 

無季。「清き渚」は水辺。水辺が三句続くが用・体・体なので問題はない。「わつぱ」は人倫。

 

九十八句目

 

   みづらいふわつぱも清き渚にて

 馴てもつかへたてまつる院    磫畫

 (みづらいふわつぱも清き渚にて馴てもつかへたてまつる院)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「惟喬親王の御住居を渚の院という(伊勢物語)」

 

とある。交野の院に仕える牧童とした。

 

 「今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌詠みけり。馬頭なりける人の詠める。 

 

 世の中にたえて桜のなかりせば

     春の心はのどけからまし」

 

の歌はよく知られている。

 

無季。

 

九十九句目

 

   馴てもつかへたてまつる院

 そも是は大師以来の法の華    似春

 (そも是は大師以来の法の華馴てもつかへたてまつる院)

 

 この興行の会場となった大徳院は弘法大師を開祖とする高野山真言宗のお寺で、前句の「院」を大徳院のこととし、そこには弘法大師以来の法の花が咲いているとする。「法の花」は似せ物の花だが正花になる。

 花は一座三句物で、「にせ物の花此外に一」と『応安新式』にあり、この巻はそれを律儀に守っている。

 「法の華」は発句の「法の水」に呼応して大団円になる。

 

無季。釈教。

 

挙句

 

   そも是は大師以来の法の華

 土の筆にも道や云らん      少才

 (そも是は大師以来の法の華土の筆にも道や云らん)

 

 「弘法筆を選ばず」というとおり、この俳諧は本来の筆ならぬ土の筆、つまり土筆(つくし)で書いたような粗末なものにすぎないが、道の一端でも云うことができただろうか、と謙虚でありながらもこの俳諧が大和敷島の言の葉の道であることを宣伝して終る。

 「法の華」「土の筆」は比喩だが「桜」と「土筆」ということで春のイメージが重なる。

 

無季。釈教。

 

 さて、宗因と芭蕉、後の世から見ると夢の競演だが、芭蕉の句は七句と素堂(信章)の九句よりも少ない。特に後半はわずかに二句で寂しい感じだ。談林のスピード感に戸惑う所もあったのか。

 それでも、

 

   反橋のけしきに扇ひらき来て

 石壇よりも夕日こぼるる     桃青

   座頭もまよふ恋路なるらし

 そびへたりおもひ積て加茂の山  同

   時を得たり法印法橋其外も

 新筆なれどあたひいくばく    同

   口舌事手をさらさらとおしもんで

 しら紙ひたす涙也けり      同

   数寄は茶湯に化野の露

 石灯篭月常住の影見えて     同

   はながみ袋形見なりけり

 さる間三年はここにさし枕    同

   月はこととふうら店の奥

 秋の風棒にかけたる干菜売    同

 

 といった句はどれも芭蕉らしい句だし、後の蕉門への片鱗も感じられる。