「十三夜」の巻、解説

元禄六年九月十三日、深川芭蕉庵にて

初表

 十三夜あかつき闇のはじめかな   濁子

   小袖の糊のこはき薄霧     曾良

 焼飯に瓜の粕漬口あけて      芭蕉

   荏胡麻のからに四十雀つく   史邦

 雨気から笠の干反リのしめり合   杉風

   埃かき流す風呂の水遣り    岱水

 

初裏

 きり麦をはや朝かげにうち立て   凉葉

   きり麦をはや朝かげにうち立て 凉葉

 松杉をはさみ揃ゆる寺の門     曾良

   ひとり娘の冬のこしらへ    濁子

 梟の身をもかくさぬ恋をして    岱水

   なみだくらべん橡落る也    芭蕉

 うす月夜麻の衣の影ぼうし     史邦

   客まつ暮に薪割秋       杉風

 末広を釘にかけたる祢宜の家    濁子

   塵うちはらふ片器の食つみ   凉葉

 先ヅ汁と筆をはじむる初花に    芭蕉

   鶯啼て旅になすそら      史邦

 

 

二表

 寝覚めにも指を動かすひとよ切   岱水

   中能ちなむ兄が膝元      芭蕉

 具足着に雇はるる程場の有て    凉葉

   顔には似せぬ饅頭の好キ    史邦

 さかりなる隠居の牡丹見て帰ル   杉風

   襷はづして出るをほな子    岱水

 笠借らむ歌の返事に蓑もなし    史邦

   足はむくみて河原行けり    曾良

 よごれたる衣に輪袈裟打しほれ   芭蕉

   伯母の泣るる酌人の貌     濁子

 けふの月実植の梨の穂がけして   曾良

   枝もぐ菊の括りちひさき    凉葉

 

二裏

 露霜に土こそげたる沓のうち    濁子

   くぐり細目に明る肴屋     曾良

 初産はおもひの外に安かりて    岱水

   借りし屏風を返す夕暮     杉風

 華に又はなをかざりし弓空穂    凉葉

   はや鎌倉の道の若草      史邦

 

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

 

 七月に病気の悪化から、

 

 あさがほや昼は錠おろす門の垣  芭蕉

 

の句とともに閉門した芭蕉庵は、八月十六日にその閉門を解き、

 

 いざよひはとりわけ闇のはじめ哉 芭蕉

 

を発句とした七吟歌仙興行を行う。

 それから一か月、悲しい出来事もあった。八月二十七日、鎌倉から戻った嵐蘭が急死した。二十九日には其角の父東順が亡くなる。その悲しみのまだ癒えぬ九月十三日、ふたたび月見の会が行われ、一か月前と多少メンバーは入れ替わったが七吟歌仙興行が行われた。発句は十六夜の時脇を詠んだ濁子が務める。

 「あかつき闇」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「夜明け前、月がなく辺りが暗いこと。陰暦で、1日から14日ごろまで、月が上弦のころの現象。あかときやみ。

  「うば玉の―の暗き夜に何を明けぬと鳥の鳴くらん」〈続後撰・雑中〉」

 

とある。

 十三夜はあかつき闇の終わりだと思うのだが、八月十六日の、

 

 いざよひはとり分闇のはじめ哉  芭蕉

 

の句に答えようとして釣られてしまったか。

 十六夜は日が沈んで月が登るまでにわずかに闇が生じる。このあと月の出は遅くなり、闇の時間は長くなる。だが、十三夜だと暁闇は最後になり、闇の時刻は日没後に移る。

 

季語は「十三夜」で秋、夜分、天象。

 

 

   十三夜あかつき闇のはじめかな

 小袖の糊のこはき薄霧      曾良

 (十三夜あかつき闇のはじめかな小袖の糊のこはき薄霧)

 

 朝起きた時だと小袖は糊が利いていてパリッとしている。着ているうちになれてくる。

 十三夜の白んだ空に月が沈むころには朝霧がかかり、月が白んでゆくが、薄霧に霞んだ感じが糊にさらされたように見えるか。

 

季語は「薄霧」で秋、聳物。「小袖」は衣裳。

 

第三

 

   小袖の糊のこはき薄霧

 焼飯に瓜の粕漬口あけて     芭蕉

 (焼飯に瓜の粕漬口あけて小袖の糊のこはき薄霧)

 

 焼飯は今日のようなチャーハンではなく、焼きおにぎりかきりたんぽのようなものだとされている。元禄九年に桃隣が芭蕉の足跡を追って陸奥を旅した時に尿前の関に頼み込んで一泊させてもらい、そのときに、

 

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

 

の句を詠んでいる。

 瓜の粕漬は瓜を酒粕で漬けたもので奈良漬とも言われる。

 瓜は夏のものだが、酒粕で漬けこむ期間を加味して秋扱いにしたか。

 口あけては封を切るということか。

 

季語は「瓜の粕漬」で秋。

 

四句目

 

   焼飯に瓜の粕漬口あけて

 荏胡麻のからに四十雀つく    史邦

 (焼飯に瓜の粕漬口あけて荏胡麻のからに四十雀つく)

 

 荏胡麻は主に油を取るために栽培された。韓国では荏胡麻の葉のキムチもあるが、日本で葉を食べてたかどうかはよくわからない。

 荏胡麻の殻は油を搾った後の搾りかすであろう。それを四十雀がついばむ。

 前句の口あけてを四十雀の口をあけてと掛けて荏胡麻の殻に展開する。

 

季語は四十雀で秋、鳥類。

 

五句目

 

   荏胡麻のからに四十雀つく

 雨気から笠の干反リのしめり合  杉風

 (雨気から笠の干反リのしめり合荏胡麻のからに四十雀つく)

 

 植物でできた物は乾くと反りやすい。一度濡れた後乾くとそれがひどくなる。

 「雨気から」「荏胡麻のから」「四十雀」と「から」つながりになる。

 

無季。「雨気」は降物。

 

六句目

 

   雨気から笠の干反リのしめり合

 埃かき流す風呂の水遣り     岱水

 (雨気から笠の干反リのしめり合埃かき流す風呂の水遣り)

 

 「埃」はこの場合は「ごみ」と読むようだ。前句の湿りを風呂のせいにする。

 

無季。

 

初裏

七句目

 

   埃かき流す風呂の水遣り

 きり麦をはや朝かげにうち立て  凉葉

 (きり麦をはや朝かげにうち立て埃かき流す風呂の水遣り)

 

 蕎麦は蕎麦切り、それだと麦は麦切りになりそうだが「きり麦」になる。麦を水を加えてこねて、それを細く切ったもの。うどんより細く、素麺のように油を使ったりはしない。今は「ひやむぎ」として知られているが、かつては暖かい「熱麦(あつむぎ)」もあったという。温麺(うーめん)という名前で残っている地方もある。

 「朝かげ」は「影」に「光」の意味がある所から、朝の光を言う。朝日を浴びながら切り麦を打ち、風呂の水でゴミを流す。

 

季語は「きり麦」で夏。

 

八句目

 

   きり麦をはや朝かげにうち立て

 幸手を行ば栗橋の関       芭蕉

 (きり麦をはや朝かげにうち立て幸手を行ば栗橋の関)

 

 幸手は春日部の先にある日光街道の宿場で、埼玉は昔は麦の産地だったから、うどんやきり麦が名物だったのだろう。切り麦を食べて朝日の中、「うち立て」を「すぐに旅立って」の意味に取り成す。

 幸手の先に栗橋があり、ここで利根川を渡ると茨城県古河市になる。この渡しの所に栗橋の関があった。

 

無季。旅体。

 

九句目

 

   幸手を行ば栗橋の関

 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

 (松杉をはさみ揃ゆる寺の門幸手を行ば栗橋の関)

 

 日光街道は日光に近づくと杉並木になるが、幸手の辺りは松並木だった。このあたりのお寺はその両方を備えているかのように、きちんと剪定された松と杉がある。

 

無季。釈教。「松杉」は植物、木類。

 

十句目

 

   松杉をはさみ揃ゆる寺の門

 ひとり娘の冬のこしらへ     濁子

 (松杉をはさみ揃ゆる寺の門ひとり娘の冬のこしらへ)

 

 「はさみ揃ゆる」を裁縫の裁ち鋏としたか。寺の一人娘の冬場の内職とする。

 

季語は「冬」で冬。「一人娘」は人倫。

 

十一句目

 

   ひとり娘の冬のこしらへ

 梟の身をもかくさぬ恋をして   岱水

 (梟の身をもかくさぬ恋をしてひとり娘の冬のこしらへ)

 

 後に支考が著す『梟日記』という紀行文があるが、梟は蓑笠で膨らんで見える旅人の姿の喩えでもある。

 

 「されば痩藤に月をかかげ、破笠に雲をつつむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なり。

 

 月華の梟と申道心者」(支考「梟日記之序」より)

 

 其角は自らの旅姿を梟ではなく木兎(みみずく)に喩え、

 

   けうがる我が旅すがた

 木兎の独わらひや秋の暮     其角

 

という句を詠んでいる。

 本物の梟も高い枝にとまり、あまり物陰に隠れたりしない。梟のような旅人が隠れもせず堂々と娘の世話にと言って通ってくる。

 

季語は「梟」で冬、鳥類。恋。

 

十二句目

 

   梟の身をもかくさぬ恋をして

 なみだくらべん橡落る也     芭蕉

 (梟の身をもかくさぬ恋をしてなみだくらべん橡落る也)

 

 比喩ではなく本物の梟も恋をして泣いているのだろうか。泪ではなく橡の実が落ちてくる。

 

季語は「橡落る」で秋、植物、木類。恋。

 

十三句目

 

   なみだくらべん橡落る也

 うす月夜麻の衣の影ぼうし    史邦

 (うす月夜麻の衣の影ぼうしなみだくらべん橡落る也)

 

 秋の朧月は薄月という。「麻の衣」は僧衣であるとともに喪服をも意味する。「影法師」に掛けて僧形で喪に服する姿から、死別の泪の落ちるのと橡の実の落ちるのとを重ね合わせ、薄月も涙で霞む。

 

季語は「薄月」で秋、夜分、天象。哀傷。「麻の衣」は衣裳。

 

十四句目

 

   うす月夜麻の衣の影ぼうし

 客まつ暮に薪割秋        杉風

 (うす月夜麻の衣の影ぼうし客まつ暮に薪割秋)

 

 前句の麻衣の影法師を喪服ではなく普通の隠遁僧として、客をもてなすために薪割りをしている。

 

季語は「秋」で秋。「客」は人倫。

 

十五句目

 

   客まつ暮に薪割秋

 末広を釘にかけたる祢宜の家   濁子

 (末広を釘にかけたる祢宜の家客まつ暮に薪割秋)

 

 「末広」は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注に「中啓(ちゅうけい)」とある。中啓はウィキペディアに、

 

 「中啓は親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、銀杏の葉のように扇の上端がひろがる。「啓」とは「啓く」(ひらく : 開く)という意味で、折り畳んでいながら上端が「中ば(半ば)啓く」という状態から中啓と名付けられた。」

 

とあり、

 

 「神社でも神職が、神事で中啓を使用する。帖紙に中啓を添えて懐中したり、神葬祭の遷霊儀式で打ち鳴らしたりする。また、白竹、鈍色、黒色、朱色などのタイプがあり、ぼんぼり、ぼんぼり扇とも呼ぶ[1]。また出雲大社では神職が笏の代用とする風習もある。」

 

という。

 前句の薪を割る人を祢宜とする。

 

無季。神祇。「祢宜の家」は居所。

 

十六句目

 

   末広を釘にかけたる祢宜の家

 塵うちはらふ片器の食つみ    凉葉

 (末広を釘にかけたる祢宜の家塵うちはらふ片器の食つみ)

 

 「食(くい)つみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 正月に年賀客に儀礼的に出す取りざかなで、蓬莱台や三方(さんぼう)に米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、勝栗(かちぐり)、昆布、野老(ところ)、干柿などをそえたもの。お手かけ。《季・新年》

  ※俳諧・炭俵(1694)上「喰つみや木曾のにほひの檜物〈岱水〉」

 

とある。

 「片器(へぎ)」は片木で、薄く削った木で作ったお盆をいう。

 扇を釘に掛けるような祢宜ということでの位付けであろう。

 

季語は「食つみ」で春。

 

十七句目

 

   塵うちはらふ片器の食つみ

 先ヅ汁と筆をはじむる初花に   芭蕉

 (先ヅ汁と筆をはじむる初花に塵うちはらふ片器の食つみ)

 

 正月で花の定座なので「初花」という言葉を用いるが、ここでは単に正月のことであろう。「花の春」と同様に見ればいいのではないかと思う。

 正月の朝はまずお雑煮だが、それと前句を文人と見て、お雑煮と筆初めで始まるとする。

 

季語は「初花」で春。

 

十八句目

 

   先ヅ汁と筆をはじむる初花に

 鶯啼て旅になすそら       史邦

 (先ヅ汁と筆をはじむる初花に鶯啼て旅になすそら)

 

 旅で迎える正月とする。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。旅体。

二表

十九句目

 

   鶯啼て旅になすそら

 寝覚めにも指を動かすひとよ切  岱水

 (寝覚めにも指を動かすひとよ切鶯啼て旅になすそら)

 

 「ひとよ切」は一節切と書き、ウィキペディアに、

 

 「日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。」

 

とあり、

 

 「前野良沢や一休宗純、雪舟、北条幻庵なども一節切の奏者として知られている。織田信長に仕えた大森宗勲も名手である。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。」

 

 鶯というと鶯笛を連想するが、鶯笛だと思ったのがじつはひとよ切だったという落ちか。

 一回だけの売春を「一夜切」というが、こちらは「いちやぎり」と読む。ひょっとしたら一夜切りに指を動かすでその連想を誘っていたのかもしれない。鶯を鳴かすも女をよがらせるという意味があり、鶯の谷渡りなんて言葉もある。

 

無季。

 

二十句目

 

   寝覚めにも指を動かすひとよ切

 中能ちなむ兄が膝元       芭蕉

 (寝覚めにも指を動かすひとよ切中能ちなむ兄が膝元)

 

 「中能」は「なかよく」と読む。

 「ちなむ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「ある縁に基づいて物事を行う。縁を結ぶ。親しく交わる。

  出典雪の尾花 俳諧

  「年ごろちなみ置ける旧友・門人の情け」

  [訳] 長年、親しく交わっていた旧友や門人の思いやり。」

 

とある。芭蕉さんのことだから、単なる旧来からの親しみではなく、前句の「指を動かす」に想像を膨らませ、そっち系に持って行ったのではないかと思う。一節切ではなく尺八だったら、今でもその意味がある。

 

無季。恋。「兄」は人倫。

 

二十一句目

 

   中能ちなむ兄が膝元

 具足着に雇はるる程場の有て   凉葉

 (具足着に雇はるる程場の有て中能ちなむ兄が膝元)

 

 「具足着(ぐそくぎ)」は具足親のことか。具足親はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 武家で、男子が元服して甲冑の着ぞめをするとき、その具足を着せる役をつとめる人。特にその武勇にあやかるようにと、武功ある人を選んだ。

  ※俳諧・類船集(1676)以「烏帽子おや、具足おや、とりおやと云も家の子歟」

 

とある。

 兄のお膝元にいると、具足を着せる役割を世話してくれる。

 

無季。

 

二十二句目

 

   具足着に雇はるる程場の有て

 顔には似せぬ饅頭の好キ     史邦

 (具足着に雇はるる程場の有て顔には似せぬ饅頭の好キ)

 

 具足着に雇われるのは「武勇にあやかるようにと、武功ある人」だが、さぞかし大酒飲みの豪傑かと思ったら、意外に下戸のスイーツ男子だった。

 

無季。

 

二十三句目

 

   顔には似せぬ饅頭の好キ

 さかりなる隠居の牡丹見て帰ル  杉風

 (さかりなる隠居の牡丹見て帰ル顔には似せぬ饅頭の好キ)

 

 桜の花見だと酒盛りというイメージがあるが、牡丹で酒盛りはあまり聞かない。今を盛りと咲き誇る御隠居さんの育てた牡丹を見に行っても、酒盛りはなく、饅頭を食べて帰る。

 

季語は「牡丹」で夏、植物、草類。「隠居」は人倫。

 

二十四句目

 

   さかりなる隠居の牡丹見て帰ル

 襷はづして出るをほな子     岱水

 (さかりなる隠居の牡丹見て帰ル襷はづして出るをほな子)

 

 「おほな」は嫗(おみな)のことで、「おほな子」は今で言う「おばあちゃん子」のことか。さては、目当ては牡丹ではなく御隠居さん夫婦と一緒に暮らすこのおばあちゃん子だったか。

 

無季。「襷」は衣裳。「おほな子」は人倫。

 

二十五句目

 

   襷はづして出るをほな子

 笠借らむ歌の返事に蓑もなし   史邦

 (笠借らむ歌の返事に蓑もなし襷はづして出るをほな子)

 

 これは太田道灌の山吹の里伝説で、「蓑」を「笠」に変えただけでほとんどそのまんまだ。

 

 元歌は、

 

   小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、

   蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取ら

   せて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、

   山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける

   返りに言ひつかはしける

 七重八重花は咲けども山吹の

     みのひとつだになきぞ悲しき

              兼明親王(後拾遺集)

 

で、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「詞書(ことばがき)によると、雨の降る日に蓑を借りに来た人に作者が山吹の枝を差し出した。その意味を理解できなかった相手が、真意を尋ねたので詠んだ歌。山吹に実がならないことをふまえ、「みの」に「蓑」をかける。室町時代中期の武将太田道灌(おおたどうかん)が、農家で蓑を借りようとして少女に山吹の枝を差し出され、その意味がわからず、後に不明を恥じて歌道に励んだという逸話で有名。結句を「あやしき」とする伝本もある。その場合は、「おかしなことです」の意となる。」

 

とある。前句の「をほな子」をこの少女のこととする。

 

無季。「笠」は衣裳。

 

二十六句目

 

   笠借らむ歌の返事に蓑もなし

 足はむくみて河原行けり     曾良

 (笠借らむ歌の返事に蓑もなし足はむくみて河原行けり)

 

 兼明親王のオリジナルの方として、京都の小倉山のあたりとする。この辺りは嵯峨野とも呼ばれ、桂川が流れている。

 笠は借りられず、仕方なくむくんだ足でびしょ濡れになりながら河原を行く。

 

無季。「河原」は水辺。

 

二十七句目

 

   足はむくみて河原行けり

 よごれたる衣に輪袈裟打しほれ  芭蕉

 (よごれたる衣に輪袈裟打しほれ足はむくみて河原行けり)

 

 「輪袈裟」はウィキペディアに、

 

 「僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟(りんげさ)や畳袈裟(たたみげさ)と呼ばれることもある。」

 

とある。白衣の上に輪袈裟を羽織ると、お遍路さんの装束になる。

 長旅に汚れた衣によれよれの輪袈裟。さびを感じる。

 

無季。釈教。「衣」「輪袈裟」は衣裳。

 

二十八句目

 

   よごれたる衣に輪袈裟打しほれ

 伯母の泣るる酌人の貌      濁子

 (よごれたる衣に輪袈裟打しほれ伯母の泣るる酌人の貌)

 

 「酌人(しゃくにん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 酌をする人。酌とり。多く、酒席で客の相手をする女性。酌婦。

  ※咄本・私可多咄(1671)三「酌人(シャクニン)のめもとに塩がこぼるれば手もとの酒はしづくなりけり」

 

とある。

 この場合の「伯母(おば)」は親族ではなくおばさんののことであろう。みすぼらしい姿に苦労したんだねと涙をこぼし酌をしてくれる。

 

無季。「伯母」は人倫。

 

二十九句目

 

   伯母の泣るる酌人の貌

 けふの月実植の梨の穂がけして  曾良

 (けふの月実植の梨の穂がけして伯母の泣るる酌人の貌)

 

 実植(みうゑ)は実生(みしょう)のことで、古くは「みばえ」「さねおひ」とも呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 株分け、さし木などによらないで、種子(たね)から直接草木が生えること。また、その草木。みしょう。

  ※俳諧・新撰犬筑波集(1532頃)春「ほうしがへりとひとやみるらん、この梅はさねおひにてはなきものを」

  〘名〙 =みばえ(実生)①〔和玉篇(15C後)〕

  ※随筆・戴恩記(1644頃)上「実生(ミヲヘ)を、御手づから〈略〉うへさせ給ひければ」

  〘名〙 つぎ木、さし木などの栄養繁殖によらないで、種子から発芽した植物。みうえ。みばえ。

  ※談義本・根無草(1763‐69)前「此人先菊之丞が実生(ミセウ)にはあらがねの、土の中より掘り出したる分根なるが」

  〘名〙

  ① 植えたりつぎ木したりしないで草木が自然に芽を出すこと。種子から芽が出て生長すること。また、その草木。みしょう。

  ※俳諧・鹿島紀行(1687)「神前、この松の実ばへせし代や神の秋〈芭蕉〉」

  ② 転じて、物事の起こるきざし。萌芽。発端。また、物事の自然に発生することにいう。

  ※浄瑠璃・双蝶蝶曲輪日記(1749)四「われも余っ程臍より下に、分別のみばえが出来たやら堅い事いふな」

  ③ 親から生まれたもの。子。

  ※浄瑠璃・仏御前扇車(1722)四「機転も利く音に聞く、鎮西八郎為朝が、落し胤のみばへの若者」

 

とある。

 「穂がけ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 稲の初穂を田の神・氏神などに供える行事。《季 秋》

  2 刈った稲を、稲架(はさ)にかけること。」

 

とある。この場合は梨農家で、稲穂の代わりに獲れた梨を供えたのだろう。桃栗三年梨八年というように、種から立派に育った梨に、伯母は酒を注ぎながら涙する。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「梨」「穂がけ」も秋。

 

三十句目

 

   けふの月実植の梨の穂がけして

 枝もぐ菊の括りちひさき     凉葉

 (けふの月実植の梨の穂がけして枝もぐ菊の括りちひさき)

 

 菊は江戸時代には観賞用に発達したが、元は菊酒や漢方薬などに用いられていた。この場合の菊は収穫されるもので、凡河内躬恒の「心あてに折らばや折らむ」の歌も、菊は折って用いるものだったからではなかったか。

 枝からもいだ菊も小さな束にして穂掛けに神に供えられた。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。

二裏

三十一句目

 

   枝もぐ菊の括りちひさき

 露霜に土こそげたる沓のうち   濁子

 (露霜に土こそげたる沓のうち枝もぐ菊の括りちひさき)

 

 沓は王朝時代の連想を誘い、それこそ、

 

 心あてに折らばや折らむ初霜の

     おきまどはせる白菊の花

              凡河内躬恒(古今集)

 

であろう。初霜の白菊を折ったら沓に泥がつくから、それをこそげ落とす。

 

季語は「露霜」で秋、降物。

 

三十二句目

 

   露霜に土こそげたる沓のうち

 くぐり細目に明る肴屋      曾良

 (露霜に土こそげたる沓のうちくぐり細目に明る肴屋)

 

 肴はウィキペディアによると、

 

 「語源は「酒菜」から。元々、副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字を当てていた。すなわち、酒のための「な(おかず)」という意味である。したがって、「さかな」という音からは魚介類が想像されるかもしれないが、酒席で食される食品であれば、すなわち、肴となる。室町時代頃までは、こうした魚肉に限らない用法が一般的だった。

 なお、魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった。」

 

とのことで、酒の「さかな」の方が先で、後に魚のことを「さかな」と呼ぶようになったのだという。

 くぐり戸は門や大きな扉のある所に勝手口として補助的に設けられた小さな戸で、これは肴屋の扉ではなく、肴を届ける立派な屋敷の情景であろう。靴の泥を落としてから恐る恐る中へ入る。

 

無季。「肴屋」は人倫。

 

三十三句目

 

   くぐり細目に明る肴屋

 初産はおもひの外に安かりて   岱水

 (初産はおもひの外に安かりてくぐり細目に明る肴屋)

 

 初産は大変だとよく言うが、思いのほかに楽で、すぐにお祝いの宴が始まる。とはいえ肴屋は気を使ってそっと中に入る。

 

無季。

 

三十四句目

 

   初産はおもひの外に安かりて

 借りし屏風を返す夕暮      杉風

 (初産はおもひの外に安かりて借りし屏風を返す夕暮)

 

 出産する場所を仕切るために借りた屏風をその日の内に返す。

 

無季。

 

三十五句目

 

   借りし屏風を返す夕暮

 華に又はなをかざりし弓空穂   凉葉

 (華に又はなをかざりし弓空穂借りし屏風を返す夕暮)

 

 「空穂・靫(うつぼ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 矢の容器。雨湿炎乾に備えて矢全体を納める細長い筒で、下方表面に矢を出入させる窓を設け、間塞(まふたぎ)と呼ぶふたをつける。竹製、漆塗りを普通とするが、上に毛皮や鳥毛、布帛(ふはく)の類をはったものもあり、また、近世は大名行列の威儀を示すのに用いられ、張抜(はりぬき)で黒漆塗りの装飾的なものとなった。江戸時代には紙の張抜(はりぬき)の黒漆塗りに金紋を据え、飾調度(かざりちょうど)とした。うつお。」

 

とある。

 大名クラスに見せかけた成金商人の花見だったのではないか。どこかから借りてきた立派な屏風に、きらびやかな弓や空穂までこれでもかと並べ、「華に又はなをかざりし」は「屋上屋を重ねる」ようなものだ。

 

季語は「華」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   華に又はなをかざりし弓空穂

 はや鎌倉の道の若草       史邦

(華に又はなをかざりし弓空穂はや鎌倉の道の若草)

 

 昔の鎌倉の繁栄であろう。鎌倉時代の武士は刀より弓矢が中心だった。

 

季語は「若草」で春、植物、草類。