『舞都遲登理』を読む

─桃隣の奥の細道─

 芭蕉の三回忌となる元禄九年(一六九六年、丙子)の十月十二日に先立って、この年の春三月十七日に桃隣は北へと旅立つ。

 芭蕉の足跡をたどる旅だが、コースは『奥の細道』とは多少異なる。

 芭蕉に遠慮してかあえて紀行文にはせず、行程と名所古跡を記し、自らの発句などを交えて書いている。それだけに曾良の『旅日記』と並ぶ、当時のみちのくを知るのには貴重な資料といえよう。


前書き:芭蕉の旅

 「元禄二巳三月十七日、芭蕉翁行脚千里の羇旅に趣く。」(舞都遲登理)

 

 芭蕉の『奥の細道』への旅立ちは本文に「弥生も末の七日」とあり、三月二十七日が正しい。曾良の『旅日記』にはなぜか三月二十日とあるが、これは書き間違いであろう。

 

 「門葉の曾良は長途の天、杖となり、松嶋・蚶泻を經て、水無月半ば湯殿に詣、北國にかかれば、九十里の荒磯・高砂子のくるしさ、親しらず子しらず・黒部四十八ヶ瀬、越中に入ありそ海、越前に汐越の松、月をたれたると讀れしは西上人、是を吟じて炎暑の勞をわすれ、敦賀より伊賀に渡り足も休めず、遷宮なりとて、蛤のふたみに別れ行秋ぞ と云捨、伊勢に残暑を凌ぎ、又湖水に立歸り、名月の夜は三井寺の門をたたき、時雨るる日は智月がみかの原をすすめ、兎角すれど爰にも尻を居へず、未の十月下旬東武に趣き、都出て神も旅寐の日數哉 と吟行して、深川の草扉を閉、ひそかに門を覗ては、初雪やかけかかりたつ橋の上 など獨ごちて、閑に送るもたのし。」(舞都遲登理)

 

 「蚶泻」は「きさかた」と読む。順番としては象潟より湯殿の方が先になる。

 「敦賀より伊賀に渡り」も順序が違う。芭蕉が伊賀に戻るのは伊勢の後になる。

  また名月の夜は元禄三年、四年とも木曽塚義仲寺で月見の会をしている。

 「時雨るる日は智月がみかの原をすすめ」は不明。「みかの原」は、

 

 みかの原わきて流るる泉河

     いつ見きとてか恋しかるらむ

                藤原兼輔(新古今集)

 

の歌で知られていて、京都府木津川市加茂町の辺りの盆地になる。智月は山城国の出身だからこの土地に縁がないわけではない。

 「都出て」の句は元禄四年十月下旬、江戸へ向かう途中沼津で詠んだ句。

 

   長月の末都を立ちて、初冬の晦日ちかきほど、

   沼津に至る。旅館のあるじ所望によりて、

   風流捨てがたくて筆を走らす

 都出でて神も旅寝の日数哉    芭蕉(俳諧雨の日数)

 

 神無月だから、神も今頃出雲から帰る旅をしていることだろう、という句。

 「初雪や」の句は、元禄六年冬の句。

 

   深川大橋、半かかりける頃

 初雪や懸けかかりたる橋の上   芭蕉(其便)

 

 深川の隅田川にかかる新大橋は元禄六年十二月七日に完成したが、その少し前に初雪が降ったのであろう。同じ頃の句に、

 

 雪の松折れ口見ればなほ寒し   杉風(炭俵)

 雪や散る笠の下なる頭巾まで   同(継ばし)

 

の句があり、橋が完成した時には、

 

   新両国の橋かかれば

 皆出でて橋を戴く霜路哉     芭蕉(泊船集書入)

 

の句を詠んでいる。

 

 「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、麦の穂を力につかむ別哉 行々て尾州荷兮が宅に汗を入、世を旅に代かく小田の行戻り と年来の竟界を云捨、唯一生を旅より旅にして栖定まらず、しかもむすび捨たる草菴は鄙にあり、都にあり、終に身は三津の江の芦花に隠れて、五十年の夢枯野に覺ぬ。」(舞都遲登理)

 

 「戌五月八日」は元禄七年五月八日だが、実際に出発したのは五月十一日とされている。

 

 麦の穂を力につかむ別哉     芭蕉

 

の句は真蹟懐紙にも残されている。浪化編『有磯海』(元禄七年刊)には、

 

   元禄七、仲夏のころ、江戸を出で

   侍りしに、人々送りけるに申し侍

   りし

 麦の穂を便りにつかむ別れかな  芭蕉

 

となっている。

 『炭俵』には、

 

   翁の旅行を川さきまで送りて

 刈こみし麥の匂ひや宿の内    利牛

 

の句があり、送っていった本人の証言だとしたら、川崎で別れたことになる。一方で品川説は路通の『芭蕉翁行状記』にもあるからどちらとも言えない。人によって品川まで送った人と川崎まで行った人がいたとしてもおかしくない。曾良は箱根まで送り、

 

   箱根まで送りて

 ふつと出て関より帰る五月雨   曾良

 

の句を詠んでいる。

 すでに病状の悪化していた芭蕉は馬に乗る力もなく、駕籠での旅になったようだ。

 五月二十二日に名古屋の荷兮宅に泊まる。二十四日には十吟歌仙興行が行われ、その時の発句が、

 

   戌の夏、荷兮亭

 世を旅に代掻く小田の行き戻り  芭蕉

 

だった。

 二十五日に名古屋を発つ。『続猿蓑』には、

 

   元禄七年の夏、はせを翁の別を見送りて

 麥ぬかに餅屋の見世の別かな   荷兮

 

の句がある。

 そして十月十二日、大阪で芭蕉はこの世を去る。桃隣は芭蕉の最後に詠んだ発句、

 

   病中吟

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  芭蕉

 

の句を人生五十年の夢と解釈し、死をもってその夢から覚めたとする。

 

 「其頃は其角おりあひて枯尾花に體を隠し、百ヶ日は美濃如行一集を綴る。」(舞都遲登理)

 

 芭蕉の死に際して、其角は『枯尾花』を編纂し、「芭蕉翁終焉記」を記した。美濃の如行は『後の旅』を編纂し、芭蕉の百ヶ日追善を行った。

 

 「一周忌は嵐雪、夢人の裾をつかめば納豆哉 とあぢきなき一句を吐。」(舞都遲登理)

 

 嵐雪の『玄峰集』に

 

   元禄乙亥十月十二日一周忌

 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

 

とある。「夢人」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙

  ① 夢に見た人。夢の中で会う人。

  ※謡曲・海人(1430頃)「今は帰らん徒波の、夜こそ契れ夢びとの、開けて悔やしき浦島が、親子の契り朝潮の」

  ② 夢のように、はかなく思われる人。恋しく思っている人。

  ※仮名草子・古活字版竹斎(1621‐23頃)上「かやうに、文をしたためて、ゆめ人さまへ参」

 

とある。

 夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)。

 

 「旣今年三回忌、亡師の好む所にまかせ、元禄九子三月十七日、武江を霞に立て、關の白河は文月上旬に越ぬ。

 凡七百里の行脚、是を手向草、所々の吟行、懷舊の百韻、此等は師恩を忘れず、風雅を慕のみなり。

 紀行の分は奥の細道といへる物に憚り、唯名所・古跡の順路をしるし侍る。

 尤見おとしたる隈々おほし。

 後の人猶あらたむべし」(舞都遲登理)

 

 三回忌となる元禄九年(一六九六年、丙子)の十月十二日に先立って、この年の春三月十七日に桃隣は旅立つ。芭蕉に遠慮してかあえて紀行文にはせず、行程と名所古跡を記し、自らの発句などを交えて書いている。それだけに曾良の『旅日記』と並ぶ、当時のみちのくを知るのには貴重な資料といえよう。

 旅程は芭蕉の旅とはかなり異なる。まず最初に鹿島詣でをして筑波山を経て日光に向かう。この入り方は宗祇の『白河紀行』に近い。もっとも、『白河紀行』には「つくば山の見まほしかりし望をもとげ、黑かみ山の木の下露にも契りを結び」とだけしか書かれてないが。

 

   首途

 何國まで華に呼出す昼狐     桃隣

 

 『陸奥衛』の巻二「むつちどり」には、

 

 「遙に旅立と聞て、武陵の宗匠残りなく餞別の句を贈り侍られければ、

  道祖神も感通ありけむ。道路難なく家に帰り、再会の席に及び、此道

  の本意を悦の餘り、をのをの堅固なる像を一列に書て、一集を彩ものなり。

    子の彌生 日」

 

と前書きし、調和、立志以下二十人、一人一ページ座像入りで一句ずつ掲載している。ただ、ここには故人である芭蕉も含まれているため、全部がこの時の餞別の句ではない。

 そのなかに、

 

   餞別

 饅頭て

 人を尋よ

  やまさ

   くら  其角

 

の句がある。

 桃隣の首途の句は、この其角の餞別句への返事と見てもいいと思う。饅頭を持って行って人を尋ねてこい。それにたいして「どこまで行かせる気だよ」と返すやり取りは面白い。

 そうだとしたら「昼狐」は其角のことになる。蕉門の大先輩を「昼狐」呼ばわりしたとなれば、普通なら失礼な話だが、考えられるのは最初から話題作りのために桃隣と其角が示し合わせてそういう噂を流したということだ。

 この句は元禄九年刊の李由・許六編『韻塞』にも収録されていが、おそらく饅頭の句の最初に作られた時の意図は別に、集を盛り上げるために転用した可能性はある。

 許六は『俳諧問答』「同門評判」に、

 

 「此人にハいろいろおかしき咄多し。ミちのくの旅せんといひしハ春の比也。其春晋子が句に、

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら

と云句せしに、此坊ミちのくの餞別と意得て、松島の方へ趣たるもおかし。戻りて後の今日ハ、餞別にてなきとしりたるや、かれにききたし。」

 

とあるが、真面目な許六さんのことだからこの二人の戦略に見事に引っかかってしまったのではないか。

 

桃隣の旅

1、鹿嶋

 「江戸より行徳まで川船、木颪へ着。爰より夜舟にて板久へ上り、一里行て十丁の舟渡、鹿嶋の華表、海邊に建、神前まで二十四丁。

  華表  杉の丸木。

  樓門  内外龍神六体。

  本社  北向王城の鬼門を守給ふ第一也。春日 志賀一躰。

    〇奉納 額にて掃くや三笠の花の塵

      ひたちの帯の事 戀を祈て掛帯也。

  奥院  参詣の輩、音聲高ク上ル事不叶、正しき神秘也。

  御坐石 要石是也。子を祈ル者ハ此石の根を掘て、這出る虫の數によりて、吉凶など知ル。

    〇長閑成御代の姿やかなめ石

  御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。

    見日の神・告の宮・御寶蔵。

  高天原 神軍の跡。敵味方城有。

    〇鬼の血といふ其土が躑躅哉

  御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。

   香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」(舞都遲登理)

 

 鹿島までの道筋はほぼ『鹿島詣』と同じ。江戸より小名木川、新川を通って行徳に出てそこから木下街道を行く。ただ、芭蕉と曾良と宗波は木下の手前の大森から左に折れて、布佐から船に乗ったが、桃隣はそのまま真っすぐ木下河岸から夜も明けぬうちに船に乗り、板久(潮来)で船を降り、そこから延方まで陸路を行き、鰐川を船で渡り鹿島神宮に着いた。ここに一の鳥居(水上鳥居)がある。

 「華表 杉の丸木」というのは二の鳥居であろう。震災後平成二十六年に再建された鳥居は杉の丸太で作られている。震災で崩れたのは石の鳥居だった。

 「樓門 内外龍神六体」は寛永十一年(一六三四年)建立で修復を経ながら今も残っている。龍神は鹿島神宮境内にも参道にも龍神社があって祀られていたが、今では参道の一社になっている。

 「本社  北向王城の鬼門を守給ふ第一也」とあるように、拝殿・本殿は北を向いている。今日では蝦夷から守るためとされている。

 「春日 志賀一躰」とあるのは鹿島神宮と奈良の春日大社と福岡の志賀島大明神が一体だということ。志賀島(しかのしま)、鹿島、確かに似ている。

 

 額にて掃くや三笠の花の塵    桃隣

 

 句の意味はよくわからないが、額の上に乗せた笠と春日の三笠山とを掛けて、その上に散った桜の花びらが乗って、それを祓うことで掃き清めるということか。

 「ひたち帯」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「昔、正月14日、常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。帯占。鹿島の帯。」

 

とある。

 「御坐石 要石是也」の要石は今日でもあるが、この占いのことは知らなかった。掘っていいんだ。

 

 長閑成御代の姿やかなめ石    桃隣

 

 要石は地下のナマズを抑えていて地震を防いでいてくれる。一見何の変哲もない石だが、何事もないのが長閑で平和の御代ということ。

 「御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。」とあるように、奥院のさらに奥に御手洗池がある。末なし川は、鹿島神宮の東方にって水の流れが地中にもぐってしまい末がわからないという謎の川だという。

 「高天原 神軍の跡」は鹿島神宮の東側の丘でそこに鬼塚がある。元は古墳だというが、武甕槌神の神が成敗した鬼の塚だという伝承がある。

 

 鬼の血といふ其土が躑躅哉    桃隣

 

 この塚に躑躅の花が咲いていたのだろう。躑躅という字づらが何となく髑髏を連想させてしまうが、よく見ると蜀しか共通するところはない。

 「御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。」というのは、鹿島神宮には「物忌(モノイミ)」という神に奉仕する女性がいて、これが伊勢の斎宮・加茂ハ斎院に相当する。

 「香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」の浮洲は息栖神社(いきすじんじゃ)のことであろう。三つ合わせて東国三社と呼ばれている。名物の松は不明。松飾りに使う鹿島松が栽培されているということか。

2、筑波山

 「鹿嶋ヨリ舟ニテ玉造ヘ出、小川ヘ通ル。此間ニ霞山・霞の浦アリ。是ヨリ筑波へ順よし。

  筑波麓  十一面観音。門外ニ不動ノ濡佛。

  みなの川 此所峯ヨリ流れ落る。

  禪定   兩山男躰・女躰、此外小社廿八社。」(舞都遲登理)

 

 玉造は北浦ではなく霞ケ浦の東岸で今は行方市になる。船は一度鰐川を下ってから霞ケ浦の入ったのだろう。霞山はよくわからない。養神台公園のあたりか。常陸國風土記が書かれた時代には香澄の郷と呼ばれていたと行方市のホームページにある。

 小川は今は小美玉市の一部になった旧小川町であろう。霞ケ浦の北で国道355線が通っている。このまま行くと石岡へ出る。

 筑波麓の十一面観音は石岡市のホームページに、

 

 「田島の金剛院の本尊である十一面観音坐像は,江戸時代の記録「府中雑記」によると,もとは近くの田島台にあった三面寺の本尊であると伝えている。

 運慶・快慶に代表される,いわゆる慶派仏師の典型的な作例であり,制作年代は13世紀中頃と考えられる。平成18年に県の有形文化財(彫刻)に指定された。」

 

とある。

 みなの川は男女川と書く。石岡とは反対側の今のケーブルカー乗り場の下の方にあった川で、今は田んぼになって失われているようだ。

 

 筑波嶺の峰より落つるみなの川

     恋ぞつもりて淵となりける

             陽成院(後撰集)

 

の歌で知られている。

 「禪定」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

  ①〘仏〙 〔禅と定。「定」を 梵 samādhi の訳語「三昧(さんまい)」とする説と,梵 dhyāna の訳語とする説がある〕 精神をある対象に集中させ,宗教的な精神状態に入ること。また,その精神状態。

  ②富士山・白山・立山などの霊山に登り,行者が修行すること。 「立山-申さばやと存じ候/謡曲・善知鳥」

  ③〔霊山の山頂で修行したことから〕 山の頂上。絶頂。 「この山の西の方より黒雲のにはかに-へ切れて/義経記 4」

 

とある。この場合は②の意味で、男体山女体山、それに二十八の神社で入山修行ができるという意味。

 

 「麓ヨリ二里登ル、かたのごとく難所、岩潜・岩の立橋・千尋の谷・春夏の中嶺ニ茶屋五軒、魚肉酒禁断。馬耳峯の間十丁余有、頂上ニ登て四方を見るに眺望不斜。

 右の外、霊山の気瑞おほし。

    〇土浦の花や手にとる筑波山

    〇筑波根や辷て轉て藤の華」(舞都遲登理)

 

 岩潜は母の胎内くぐりだろうか。岩の立橋は弁慶七戻りだろうか。千尋の谷は特にどこというわけではないのかもしれない。石岡側から登ったからおそらく今のおたつ石コースに近いのではないかと思う。

 山頂付近に茶屋が五件あるが霊場なので魚肉酒はない。

 男体山・女体山の二つの嶺は馬の耳に例えられていた。眺望不斜の「不斜」は「ななめならず」で要するに半端ねーっということ。

 句の方は、

 

 土浦の花や手にとる筑波山    桃隣

 

 麓の土浦の桜まで手に取るように見える。それだけ眺望不斜ということ。

 

 筑波根や辷て轉て藤の華     桃隣

 

 「辷て轉て」は「すべってこけて」と読む。藤は臥すに通じる。岩が多く、這って進まなければならないところも多かったということだろう。

3、桜川

 「峯より山越の細道アリ。うしろへ下りて、椎尾山・西光寺・本尊・薬師・桓武帝勅願所。所は自然の山を請て、瀧は木の間より落ル。

    〇赤松の小末や乗垂花の滝」(舞都遲登理)

 

 下山は反対側の薬王院コースになる。太郎山(坊主山)から尾根を下り、標高ニ五六メートルの椎尾山に出る。その山腹に椎尾山薬王院がある。延暦元年(七八二年)最仙上人の開基で桓武天皇の勅願によるものだった。「西光寺」はよくわからないが、そう呼ばれてた時期もあったのか。薬王院の本尊は薬師如来で鎌倉時代に作られた金銅仏の座像だという。近くに不動滝という小さな滝がある。

 

 赤松の小末や乗垂花の滝     桃隣

 

 「乗垂」は「のたる」と読むが、意味はよく分からない。「乗りたる」ということか。赤松の小梢に垂れる藤の花を瀧に見立てたのかもしれない。

 

 「一里行て櫻川、明神アリ。しだの浮嶋此邊也。此川下龜熊橋渡り行ば、小栗兼高館、則小栗村とて旅人泊ル。

    〇汲鮎の網に花なし櫻川」(舞都遲登理)

 

 椎尾山から一里くらいの所の明神というと歌姫明神のことだろうか。かつて歌垣が行われた場所だというが、今は小さな社があるだけだ。「しだの浮嶋」は稲敷市の浮島のことで、ここからはかなり離れていて、霞ケ浦の方に戻ってしまう。

 亀熊橋はそこから北へ行った真壁支所のあるあたりで、今は亀熊大橋がある。桜川を渡る。

 小栗兼高館は小栗城のことであろう。亀熊橋から北西に行き、水戸線新治駅を過ぎた先に小栗という地名がある。小栗城跡はは小貝川の脇にある。

 発句は亀熊橋のあたりだろう。

 

 汲鮎の網に花なし櫻川      桃隣

 

 汲鮎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 川上へのぼる鮎を網の中に追い入れ、小さい柄杓(ひしゃく)または叉手(さで)などですくい上げること。また、その鮎。《季・春》 〔俳諧・増山の井(1663)〕」

 

とある。

 鮎を取る網に花は掛かっていない。網の目からすり抜けるという意味で、逆説的に桜川に花筏ができていることを言っているのだろう。

4、日光

 「是ヨリ宇都宮へ出て日光山。

 御山へ登れば案内連ル。神橋。山菅橋と云。

   御祭禮四月十七日東照宮、九月十七日光宮。

 石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。

  御本社   御廟上ノ山ニ有。御本地堂(後ニ)赤銅ノ双林塔・三佛堂・常行堂・頼朝堂・本宮権現

    〇東照宮奉納 花鳥の輝く山や東向」(舞都遲登理)

 

 今の筑西市にある小栗の里から宇都宮はそう遠くない。真岡から鬼怒川を渡れば宇都宮だ。そこからは日光街道の杉並木になる。ここまで、鹿島から日光へほぼ最短距離で直線的に抜けてきたことになる。

 日光ではガイドが付いたようだ。

 神橋は山菅橋とも山菅の蛇橋とも呼ばれる。ウィキペディアには、

 

 「奈良時代末、勝道上人の日光開山に際して、深砂大王が2匹の大蛇をして橋となし、その上に菅が生じたとされる。橋の異称はこの伝承による。また、この伝承からこの頃に創建されたと考えられているが、詳しくはわかっていない。

 室町時代の旅行記『回国雑記』や『東路の津登』に記載があり、当時には認知されていた橋であり、構造は刎橋であったと考えられている。

 東照宮造営と同時に架け替えられ、それ以前の刎橋の構造から、現在の石造橋脚を有する構造となった(当時は素木造)。これ以後一般の通行は禁じられ、架け替えの際に下流側に設けられていた仮橋を一般の橋「日光橋」とした。」

 

とある。

 宗長の『東路の津登』は『梵灯庵道の記』の所でも引用したが、

 

 「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。山菅の橋と昔よりいひわたりたるとなん。」

 

とある、この四十丈(約百二十メートル)の橋というのがそれだろう。今の神橋が二十八メートルだから宗長の記述に誇張があるのか、それとも別のもう少し広い場所に架かっていたのかもしれない。「左右の谷より大なる河流出たり」とあり、これが大谷川と稲荷川との合流地点だとすると、今の車道の神橋よりも下手にあったのかもしれない。

 「刎橋(はねばし)」というのは、ウィキペディアに、

 

 「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」

 

とある。山梨県大月市の猿橋は約三十メートル(十丈)、かつて大井川にあったという井川刎橋は四十から五十五間と言われていて、一間は六尺、一丈は十尺だから五十五間だとしても三百三十尺、三十三丈ということになる。四十丈はやはり誇張だろう。

 日光東照宮の「御祭禮」は今日では五月十七日に春季例大祭、十月十七日に秋季祭が行われている。明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで行われている。

 次に「石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。」だが、石ノ花表(とりい)は今の石鳥居(一の鳥居)、二王門は表門、御馬屋は三猿で有名な神厩舎、御水屋は御水舎、輪蔵は御水舎の近くにある。ここまでは表門から陽明門へ行くクランク状の通路の左側にある。右側には下御蔵(下神庫)・中御蔵(中神庫)・上御蔵(上神庫)がある。

 この先に赤銅華表(唐銅鳥居)があり、正面に陽明門が見える。石段を上ると右に鐘楼、左に鼓楼がある。鐘楼とは別に、その手前に撞鐘がある。朝鮮(チョソン)第十六代国王仁祖(インジョ)より、寛永二十年(一六四三年)、竹千代(後の四代将軍家綱)誕生の際に朝鮮通信使が香炉、燭台、花瓶(三具足)とともに持参したという。重かっただろうな。

 「火灯(同斷)」はおそらく同じ寛永二十年(一六四三年)にオランダから贈られた廻転灯篭のことだろう。

 そして東照宮と言えば陽明門。「陽明門(外矢大臣)」は陽明門の外側を向いて弓矢を持った左右の大臣の随身像があるということだとわかるが、そのあとの「内(水天風天)」は何だろうか。内側に向いて狛犬があるが、それのことだろうか。水天も風天も仏教の十二天だが、そのような像があったのか、よくわからない。あるいは狛犬の青が水天で緑が風天を表しているのだろうか。

 廻樓は、拝殿を取り囲むように陽明門の左右から建っていて、東回廊の坂下門の上に眠り猫がある。神樂所(神楽殿)は陽明門を入って右側、神輿舎は左側にある。護摩堂は祈祷殿のことか、神仏分離でいまは祈祷殿なのだろう。唐門は拝殿の入り口にある。

 「御本社 御廟上ノ山ニ有」は奥宮のことか。

 「御本地堂(後ニ)」は東照宮を垂迹とした場合、輪王寺が本地となる。東照宮の後ろというよりはむしろ西側にあるといった方がいいか。

 赤銅ノ双林塔は青銅製の相輪塔のことであろう。総本堂は三佛堂と呼ばれている。ここだと東照宮を出て一度参道に戻ることになる。常行堂はそこから北西へ行ったところにある。

 頼朝堂は不明。二荒山神社は古くは頼朝公の寄進によって栄えたという。常行道は摩多羅(マタラ)神が祀られていて、これが頼朝のことだともいう。

 本宮権現は明治の神仏分離によって今の本宮神社になった。神橋を渡ったところの右側にある。頼朝堂も明治の神仏分離でわからなくなったのかもしれない。

 最後に桃隣は一句奉納する。

 

 花鳥の輝く山や東向       桃隣

 

 最大限の賛辞といっていいだろう。

 

 「瀧尾権現・中宮・三本杉・鐡塔・普賢・子種石(井伊少将造営)、御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所。此所に百貼綴ギセル棒 手水アリ。」(舞都遲登理)

 

 瀧尾権現も明治の神仏分離で今は瀧尾神社になっている。修験の地だった。東照宮の裏側の白糸の滝の所にある。

 瀧尾神社は田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り、女体中宮とも呼ばれている。神仏習合時代は普賢菩薩と習合していたか。

 三本杉もそのの境内にある。桃隣の訪れた三年後の元禄十二年にはその一本が倒れてしまう。子種石もここにある。鉄塔は不明。

 御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所など、かつてはかなり大きな神社でありお寺だったと思われる。百貼綴ギセル棒も不明。

 宗長の『東路の津登』にも瀧尾権現は描かれている。

 

 「あくる日、堂権現拝見して滝尾といふ別所あり。滝のもとに不動堂あり。右に滝のかみに楼門あり。回廊右にみなぎり落たる河あり。松吹風、岸うつ波、何れともわきがたし。寺より二十余町の程大石をたためり。なべて寺の道石をしきてなめらかなり。是より谷々を見おろせば、院々僧坊五百坊にも余りぬらんかし。」

 

 ただ、神橋の所で四十丈というのがあったから、宗長は若干話を盛る癖があったのかもしれない。

 

 「カンマンノ淵・慈雲寺淵・岩上ニ石不動立。」(舞都遲登理)

 

 憾満ガ淵(含満ガ淵)は芭蕉も訪れている。曾良の『旅日記』に「一 同二日 天気快晴。辰の中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・大田原ヘ趣。」とある。

 憾満ガ淵は大谷川の反対側にある。慈雲寺はその入り口にある。慈雲寺淵というのが別にあるのではないのだろう。かつては対岸に二メートルの不動明王の石像があったという。

 

 「日光坊中墓所、骨堂、盤石を切抜、髪骨ヲ納。」(舞都遲登理)

 

 日光坊中墓所、まだ調べがついていない。わからない。

 

 「中禪寺、日光ヨリ三里登ル。馬返迄二里、上一里ハ難所、嶺ニ權現堂・立木觀音・牛石・神子石・不動坂・清瀧・湖水・黑髪山則此所也。三四月にも雪降。

    〇花はさけ湖水に魚は住ずとも

    〇鶯は雨にして鳴みぞれ哉

    〇雪なだれ黑髪山の腰は何」(舞都遲登理)

 

 中禅寺湖まで三里。馬返しは今の第一いろは坂の途中にある大谷川と般若瀧・方等瀧から来る川との分岐点の先にある、女人堂のあたりだという。ここまでは馬で来れたのだろう。月山でいう合清水のような場所だったのだろう。ここまでが二里。ここから先は山道になり一里といっても険しい急な坂で難所だった。

 立木観音は中禅寺湖の東岸にある中禅寺の御本尊十一面千手観世音菩薩で、勝道上人が桂の立木に彫ったという。「嶺ニ權現堂」は不明。

 牛石は中禅寺湖の北岸にある二荒山神社中宮祠にあり、女人禁制の禁を犯した巫女(神子)は巫女石(神子石)に牛は牛石になったといわれている。馬はだめでも牛は登れたのか。

 不動坂は馬返しの先にかつて中の茶屋があり、ここから先を不動坂という。

 清瀧は憾満ガ淵の先で大谷川を渡ったところにあり、清瀧神社と清瀧寺がある。湖水は中禅寺湖のことか。黒髪山は今の男体山のこと。この辺りは三月、四月でも雪が降るという。

 さて発句の方だが、

 

 花はさけ湖水に魚は住ずとも   桃隣

 

 中禅寺湖は火山でできた湖で、華厳の滝が魚の遡上を阻んだため、魚のいない湖と言われていた。明治以降さまざまな魚が放流されている。「花はさけ」というからまだここでは桜は咲いてなかったのだろう。それともまさか魚はいなくても「花は鮭」という駄洒落?

 

 鶯は雨にして鳴みぞれ哉     桃隣

 

 三四月に雪が降ると言っていたが、この日はみぞれだったのだろう。雨なら鶯が鳴いただろうに残念ということか。

 

 雪なだれ黑髪山の腰は何     桃隣

 

 謎かけみたいな句だが、男体山という別名から、腰の何かを想像させようというものか。

 

 「寂光寺、日光ヨリ一里。本尊辨財天、外ニ権現堂、左の方に瀧有。

    〇千年の瀧水苔の色青し」(舞都遲登理)

 

 寂光寺は清瀧まで戻った後、田母沢川を登っていったところにある。弘仁十一年(八二〇年)弘法大師の開基。明治の廃仏毀釈で今は若子神社になっている。若光の滝がある。

 

 千年の瀧水苔の色青し      桃隣

 

 これは特に言うことはないだろう。

 

 「此所から半里戻り、又奥山へ分入。日光四十八瀧十八瀧の中第一の瀧あり。遙に山を登て、岩上を見渡せば、十丈余碧潭に落。幅ハ二丈に過たり。窟に攀入て、瀧のうらを見る。仍うらみの瀧とはいへり。水の音左右に樹神して、氣色猶凄し。

    〇雲水や霞まぬ瀧のうらおもて」(舞都遲登理)

 

 裏見の滝は芭蕉も訪れ、

 

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初 芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 ウィキペディアには落差十九メートル、幅二メートルとある。十丈だと三十メートル、幅二丈は六メートルだから、やはりさばを読んでいる。十間(十八メートル)、二間(三・六メートル)ならまだわかる。幅は水量によって変化する。まあ、正確に測ったわけでないからこんなもんなのだろう。

 なお、芭蕉は『奥の細道』に「百尺、千岩の碧潭に落たり。」と記している。百尺=十丈だし、「碧潭に落」の文言が一致しているから、ぱく…ではなく引用した?『奥の細道』素龍本は元禄七年に完成しているから、読んだ可能性はあるし、読んだからこうして足跡を巡っているのだろう。

 ここで日光についての記述は終わるわけだが、ついに華厳の滝は出てこなかった。宗長の『東路の津登』にも出てこない。勝道上人が発見したと言われているから、その存在が知られてなかったわけではないのだろう。ただ、周囲の山が険しいために幻の滝になっていたのかもしれない。そうなると『梵灯庵道の記』に出てきた滝も華厳の滝の可能性は低い。

 さて、発句。

 

 雲水や霞まぬ瀧のうらおもて   桃隣

 

 雲水はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①飛び行く雲と流れる水。行雲流水。水雲。

  ②〔空行く雲や流れる水の行方が定まらないように諸国を巡るところから〕 行脚(あんぎゃ)僧。雲衲(うんのう)。水雲。 〔特に、禅宗の僧についていう〕

  (雲や水のように)ゆくえが定まらないこと。うんすい。 「上り下るや-の身は定めなき習ひかな/謡曲・船弁慶」

 

とある。芭蕉の『鹿島詣』では宗波のことを「ひとりは水雲の僧」と紹介している。水雲もweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に「雲水(うんすい)に同じ。」とある。

 こうやって行方もない旅をしている身には、滝の裏も表も霞むことはない、澄み切った心になることができる、とやや自賛気味の句だ。

5、黒羽

 「日光ヨリ今市ヘ出、太田原へかかりて、那須の黒羽に出る。

 此所に芭蕉門人有て尋入。

      卯月朔日雨

    〇物臭き合羽やけふの更衣

      はてしなき野にかかりて

    〇草に臥枕に痛し木瓜の棘

      道より便をうかがひて

    〇黒羽の尋る方や青簾

 行々て、館近、浄坊寺桃雪子に宿ス。

      翌日興行

    〇幾とせの槻あやかれ蝸牛」(舞都遲登理)

 

 日光から今市を経由して大渡(おおわたり)へ行き、ここで鬼怒川を渡り、船生(ふにゅう・)玉生(たまにゅう)・矢板・大田原を経て黒羽に行くのが本来の道だったのだろう。芭蕉と曾良は今市を通らず、仏五右衛門の案内で大谷川の北側へと渡り、瀬尾、川室を経て大渡に出る近道を通っている。あるいは旧大谷川を船で下ったのかもしれない。

 さて、黒羽では芭蕉の門人に会う。誰かはわからない。浄坊寺桃雪子は浄法寺図書高勝(鹿子畑高勝)で、『奥の細道』の旅の時には秋鴉の号で「秣おふ」の巻で三十五句目の花の句だけ呼んでいる。

 浄法寺は『奥の細道』に「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る」とあるから桃隣もそれを読んで「浄坊寺桃雪子」と書き誤ったのだろう。

 この興行では弟の翠桃が中心になり、脇も詠んでいる。山梨のサイトでは元禄五年に亡くなったとあるが、大田原市のホームページでは鹿子畑翠桃(寛文2年から享保13年・1662から1728)とある。存命だったなら「芭蕉門人有て尋入」は翠桃のことで、兄の桃雪を紹介してもらったのだろう。

 桃隣、桃雪、翠桃、みんな芭蕉庵桃青の「桃」の字を受け継いでいる。(黒羽にはもう一人桃里がいる。)

 さて、発句の方を見てみよう。

 

   卯月朔日雨

 物臭き合羽やけふの更衣     桃隣

 

 衣替えで新しい服を着るものの、あいにくの雨で合羽は元のまんま。

 

   はてしなき野にかかりて

 草に臥枕に痛し木瓜の棘     桃隣

 

 これは那須野を歩いた印象だろう。ここで野宿したりすると木瓜の棘が痛いだろうな。

 

   道より便をうかがひて

 黒羽の尋る方や青簾       桃隣

 

 青簾(あおすだれ)は新しい簾。新しい畳が青いのと同じ。衣替えで簾まで新しくする立派な家柄の人なのだろうな。

 

   翌日興行

 幾とせの槻あやかれ蝸牛     桃隣

 

 浄法寺図書高勝亭での興行。庭に大きな欅の木があったのだろう。そんな立派な庭にやってきた自分はカタツムリのようなものだとへりくだって言う。

 

 「與市宗高氏神、八幡宮ハ館ヨリ程近し。宗高祈誓して扇的を射たると聞ば、誠感應彌增て尊かりき。

    〇叩首や扇を開き目を閉」(舞都遲登理)

 

 那須の与一はウィキペディアに「改名 宗隆(初名)→資隆、別名宗高」とある。

 あの有名な屋島合戦の場面は、『平家物語』に、

 

 「与一、目をふさいで南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜんの大明神、願わくはあの扇の真ん中射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二たび面を向かうべからず。今一度本国へ向かえんと思し召さば、この矢外させ給うなと心のうちに祈念して、目を見開ひたれば、風もすこし吹き弱り、扇も射よげにぞなったりける。」

 

とある。

 発句の方もそのまんまだ。

 

 叩首や扇を開き目を閉      桃隣

 

 「叩首」は「ぬかづく」と読む。「額突く」と書く方が一般的で、額を地面に擦り付けてお祈りすることをいう。

 浄法寺図書高勝亭は今の芭蕉公園にあり、そこから那須与一ゆかりの金丸八幡宮は一里あるかないかで、そう遠くない。余瀬の翠桃亭からだとその半分以下の距離になる。明治六年に那須神社に改称され、今では道の駅があり那須与一伝承館が建っている。余談だが那須与一伝承館へ行くと、しきりにロボット人形劇を見るように勧めてくる。相当金かけたのだろうな。

 

 「玉藻の社・稲荷宮、此所那須の篠原、犬追ものの跡有、館より一里計行。

    〇法樂 木の下やくらがり照す山椿

      黒羽八景の中

    〇鵜匠ともつかふて見せよ前田川

    〇夏の月胸に物なし飯縄山

    〇笠松や先白雨の迯所

    〇籠らばや八塩の里に夏三月

      行者堂に詣

    〇手に足に玉巻葛や九折

      留別

    〇山蜂の跡覺束な白牡丹」(舞都遲登理)

 

 玉藻の社・稲荷宮は今は玉藻稲荷神社になっている。このあたりはかつては篠原だったか。今は田んぼの中だが。

 犬追ものの跡はそれよりも近い。ここも今は田んぼの中にある。ともに芭蕉と曾良が訪れて、『奥の細道』に、「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」と記されている。

 それでは発句だが、「法楽」は神仏を楽しませるために芸能などをささげることで、ここでは神となった玉藻前に捧げるということか。

 

 木の下やくらがり照す山椿    桃隣

 

 「山椿」は山に自生する椿。玉藻前の塚のあたりに鬱蒼と木が茂っていて、そこに山椿が咲いていたのだろう。

 黒羽八景は瀟湘八景になぞらえて作られたものだろう。

 

 鵜匠ともつかふて見せよ前田川  桃隣

 

 これは平沙落雁であろう。前田川は今の松葉川か。

 

 夏の月胸に物なし飯縄山     桃隣

 

 これは洞庭秋月であろう。飯縄山神社は黒羽城から見て松葉川の対岸にある。

 

 笠松や先白雨の迯所       桃隣

 

 これは瀟湘夜雨であろう。笠松は笠のような形に横に枝を広げた松のこと。黒羽のどこにあったのかは不明。

 

 籠らばや八塩の里に夏三月    桃隣

 

 八塩は松葉川と那珂川の合流する辺りの東岸の山が迫る辺り。今はゴルフ場がある。山市晴嵐か。あるいは瑞巌寺の鐘の音が聞こえるということで煙寺晩鐘か。

 

   行者堂に詣

 手に足に玉巻葛や九折      桃隣

 

 行者堂は修験光明寺にあった。翠桃亭のすぐそばで、『奥の細道』にも「修験光明寺と云ふ有り。そこにまねかれて行者堂を拝す。」とある。

 発句の方は蔦の絡まった仏像でもあったのか。つづら折りの山道のように霊山に連れて行ってくれると詠む。

 

   留別

 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

 

 巻四「武津致東利」には、芭蕉の「秣負ふ」の巻の次に、

 

  「けふは那須の篠原まで、送り出んと約諾し

   て、竹筒など認けるに、未明より卯花くだ

   し外も覗かれず、をのづからの滞留、をの

   をのめでくつがへり餞別をなしぬ。

 剛力に成て行ばや湯殿山     桃賀

   布子袷の跡は帷子      桃隣

 芝屋根も南東を引請て      翅輪

   いやといふまで朝茶汲出す  助叟

 今の間に霧の晴たる峯一ッ    桃水

   星の備へを崩す有明     桃雫

 

を表六句とする歌仙が収められている。これは黒羽を発つときの餞別で、

 

   留別

 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

 

はその返事だったのだろう。留別は餞別の反対で旅立つ方が贈る物。自らを山蜂に例え白牡丹のもとを飛び立ってゆく。

 

 第三を詠んだ翅輪は芭蕉が訪れた時の、

 

 秣負ふ人を枝折の夏野哉     芭蕉

 

を発句とする興行にも参加している。「此所に芭蕉門人有て尋入」が翅輪だった可能性もある。

 翠桃も蕉門ではあるが、嵐雪を介してのつながりだったという。後の参加者はみんな桃がつくことから翠桃・桃雪のつながりであろう。桃隣としては桃つながりで嬉しいかもしれないが。

 ところでこの巻四「武津致東利」に収録された「秣負ふ」の巻だが、曾良の『俳諧書留』とくらべるとあちこち直されている。最後の五句は全く別物になっていて二寸の句が消滅していて翅輪の句が一句増えている。この辺はいつか詳しく見てみたい。

6、那須

 「那須温泉 黒羽ヨリ六里余、湯壷五ッ、四町ノ間ニアリ。權現八幡一社ニ籠ル。麓に聖觀音。

  八幡寶物 宗高扇・流鏑・蟇目・乞矢・九岐ノ鹿角・(温泉アリト人ニ告タル鹿也。)守護ヨリ奉納ノ笙、他に縁起アリ。

  殺生石  此山割レ殘りたるを見るに、凡七尺四方、高サ四尺余、色赤黒し。鳥獣虫行懸り度々死ス。知死期ニ至りては、行達人も損ず。然る上、十間四方ニ圍て、諸人不入。邊の草木不育、毒氣いまだつよし。

    〇哀さや石を枕に夏の虫

    〇汗と湯の香をふり分る明衣哉」(舞都遲登理)

 

 那須温泉は那須温泉(ゆぜん)神社周辺の温泉で、曾良の『旅日記』には、

 

 「宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。」

 

とある。「不出」とあるのを除けば五つになる。

 権現八幡一社は温泉神社が誉田別命を祀っているところから温泉神社は権現八幡とも呼ばれていたのではないかと思う。

 麓の聖観音は不明。聖観音は多面多臂などの超人間的な姿ではない一面二臂の観音像で、今では那須三十三所観音霊が行われていて、聖観音を本尊とするお寺がたくさんあるが、芭蕉や桃隣の時代がどうだったかはわからない。

 八幡宝物は曾良の『旅日記』にも、

 

 「神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。」

 

とある。

 「宗高扇」が「与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本」、「蟇目」が「蟇目ノカブラ壱本」、「乞矢」が「征矢十本」、「他に縁起」が「正一位ノ宣旨・縁起」とある程度は一致する。たくさんあった中の記憶に残ったものであろう。今は公開されてないようだ。

 殺生石は今も公開されている。注連縄をつけて岩がありすぐ近くには寄れないが散策路がある。

 

 哀さや石を枕に夏の虫      桃隣

 

 実際に虫が死んでいるのを見たのではなく、伝説でそう作ったのだろう。芭蕉はここで、

 

   殺生石

 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

 

の句を詠んでいる。曾良の『旅日記』の方にある句で、これは見たものをそのまま詠んだと思われる。当時はまだ地面が熱を持っていて、ガスも濃く、箱根大涌谷のような感じだったのか。

7、白河

 「此所山を越白河に出、宗祇戻しへ掛り、加嶋・櫻ヶ岡・なつかし山・二形山・何も順道也。是より關山へ登ル。峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・成就山・滿願寺・坊の書院よりの見渡し白河第一の景勝也。

    〇奥の花や四月に咲を關の山

 此所往昔の關所と也。本道二十丁下りて、城下へ出、關を越る。

    〇氣散じや手形もいらず郭公」(舞都遲登理)

 

 このルートだと奥州街道に戻ったのではなく、那須温泉神社から最短コースで今の新白河の方に出る道があったのではないかと思われる。奥州街道を行ったなら境の明神(関明神)の記述があってもよさそうだ。白河に入ると一気に今の白河市旭町にある宗祇戻しにまで飛んでいる。

 そこから桃隣は東へ向かう。加嶋は阿武隈川渡ったところにある鹿嶋神社、櫻ヶ岡は不明、なつかし山は阿武隈川を下って行ったところに左右に小高い山があり、南側は新地山羽黒神社がある。これが「わすれず山」で、北川が「なつかし山」になる。二つ合わせて二方の山と言うので「二形山」は二方の山のことだろう。ここまでは阿武隈川に沿って道なりに行けばよかったのだろう。

 このあたりのことは曾良の『旅日記』にも見られる。

 

 「〇忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。

  〇二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古歌有由。

    みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり

  〇うたたねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。

    かしま成うたたねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)

  〇宗祇もどし橋、白河ノ町より右(石山より入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いづれも三日付事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々。女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。

   月日の下に独りこそすめ

 付句

 かきおくる文のをくには名をとめて

と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。」

 

 芭蕉と曾良は奥州街道境の明神(関明神)の先から右へ折れて、今の白河神社のある白河関跡を訪ね、そこから関山に向かっている。忘れず山の方を通ったかどうかはわからない。聞いた話を記す場合もある。

 これに対し桃隣は先に忘れず山の方へ行き、そこから南へ折れて関山の南側に出たのではないかと思う。

 山頂からの眺めは良い。成就山・滿願寺は成就山滿願寺で成就山という山があるのではない。昔は峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・坊の書院などもあって栄えていたのだろう。今の外にある石の観音像がいつのものかはよくわからない。

 

 奥の花や四月に咲を關の山    桃隣

 

 みちのくの桜は遅く旧暦卯月にまだ咲いていたようだ。筆者もニ〇一三年四月二十八日に白河へ行ったが、桜が所々まだ残っていた。

 桃隣はここが白河の関だと思ったのだろう。関山を越えるとそのまま白河の城下に戻った。

 

 氣散じや手形もいらず郭公    桃隣

 

 「気散じ」は気楽ということ。現役の関ではないので手形はいらない。

8、須賀川

 「阿武隈川は白河町の末、流れは奥の海へ落る。板橋百間余、半ニ馬除アリ。橋世に替りて見所有。影沼、白河と須ヶ川の間、道端也。須ヶ川ヨリ二十七丁白河の方也。」(舞都遲登理)

 

 阿武隈川は北へ流れて仙台と相馬の間の岩沼市のあたりで太平洋にそそぐ。

 「板橋百間余」というのは仙台道の阿武隈川を渡るところに長さ百八十メートルの長い橋がかけられていたということか。今の田町大橋のあたりだろう。

 影沼は鏡沼のことだという。『奥の細道』に「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とある。今の鏡石の先左側で、今は田んぼになっている。ここらか須賀川まで二十七丁(三キロ)もうすぐだ。

 

 「須ヶ川此所一里脇、石川の瀧アリ。幅百間余、高さ三丈に近し。無双ノ川瀧、遙に川下ヨリ見れば、丹州あまのはしだてにひとし。

    〇比も夏瀧に飛込こころ哉」(舞都遲登理)

 

 石川の滝は乙字ケ滝のことで、桃隣は須賀川の等躬の所の所に顔を出して桃隣、助叟、等躬の三人で三つ物を三つ詠んだあと、ここに向かったのだろう。等躬の所には、このあと東北を一巡りした後再び立ち寄っている。

 この滝は『奥の細道』には描かれてない。曾良の『旅日記』には、

 

 「廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝見ニ行(此間、ささ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。」

 

とある。芭蕉と曾良も石川の滝は(乙字ケ滝)見ていると思われる。ところが、同じ曾良の『俳諧書留』には、

 

   須か川の駅より東二里ばかりに、

   石河の滝といふあるよし。行きて

   見ん事をおもひ催し侍れば、此比

   の雨にみかさ増りて、川を越す事

   かなはずといいて止ければ

 さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉

 

という句が記されている。

 芭蕉と曾良は四月二十一日に白河関跡のある旗宿を出て関山を越え、白河を過ぎて矢吹に泊まる。翌二十二日に影沼を通り須賀川に入る。この日に「廿二日 須か川、乍単斎宿、俳有。」とあり、「風流のはじめや奥の田植うた 芭蕉」を発句とする興行がなされる。

 二日後の四月二十四日、「一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。」とあり、「隠家やめにたたぬ花を軒の栗 芭蕉」を発句とする興行をしている。

 石河の滝の句は『俳諧書留』ではこの後に記され、そのあとに、

 

   この日や田植の日也と、めなれぬことぶ

   きなど有て、まうけせられけるに

 旅衣早苗に包食乞ん       ソラ

 

の句が記されている。二十四日に「主ノ田植」とあり、石河の滝を断念したのが「この日」だとすれば、「かくれ家や」の興行の後行く予定で雷雨で中止したのではなかったかと思われる。可伸庵は今の須賀川市本町にあり、滝までは「壱里半計」だから日の長い夏だったら興行が四時くらいに終われば行って帰ってこれただろう。雷もあるし、田植の祝いなどが重なり会の時間が押してしまったこともあるかもしれない。

 ともあれ芭蕉も二十九日にようやく石川の滝を見ることができた。

 石川の滝(乙字が滝)はウィキペディアには「落差六メートル、幅百メートル。」とある。桃隣は「幅百間余、高さ三丈(幅百八十メートル、高さ九メートル)」とほぼ五割増し、曾良は「川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有」と細かいが、高さは大体今の知識と一致するものの幅は桃隣よりも長い。乙の字の形に曲がっているから、曲線として測れば合っているのかもしれない。

 ここで桃隣の一句。

 

 比も夏瀧に飛込こころ哉     桃隣

 

 まあ夏だし、涼しそうだし、飛び込んでみたくなるのもわかる。

 ここから桃隣は意外な方向に向かう。

 

 なお、芭蕉の『奥の細道』の旅には曾良が同行したが、当時は一人旅は避けるのが普通なので桃隣にも同行者がいたと思われる。

 先の黒羽での餞別歌仙の四句目に助叟の名がある。このに助叟は『陸奥衛』巻二「むつちどり」に仙台杉山氏興行の四十四(よよし)でも第三を詠んでいるし、伊達郡桑折田村氏の所での歌仙興行でも第三を詠んでいる。

 また、巻四「無津千鳥」でも、

 

   一とせ芭蕉、須ヶ川に宿して驛の

   勞れを養ひ、田植歌の風流をのこ

   す。予其跡を慕ひ、關越ルより例

   の相樂氏をたづね侍り。

 踏込て清水に耻つ旅衣      桃隣

   章哥とはれてあぐむ早乙女  等躬

 鑓持のはねたる尻や笑ふらん   助叟

 

   白河の關を越る

 卯花に黑みやうつす影法師    助叟

   けふは扇の入天氣にて    桃隣

 業平を思ふか鄙の都鳥      等躬

 

   對兩雅

 折に來て手足よこすな蔣草    等躬

   道筋聞ケば鳧の飛方     助叟

 夏の月亭の四隅の戸を明て    桃隣

 

の句が記されている。

 奥の田植歌を聞こうとついつい清水を濁してしまった旅人に、田植歌の歌詞を聞かれて戸惑う早乙女は「何このおっさん」って感じか。それとは場面を変え大名行列に転じて、鑓持ちが鑓を勇ましく振り立てる時に尻が丸出しになるのを笑う早乙女とする。

 白河の関では芭蕉の「早苗にも我色黒き日数哉」の句を踏まえ、白い卯の花にも自分の黒くなった姿が影法師のように映ると発句する。

9、小名浜

 「爰より石川の郡へ入て、一郡誹士アリ。少時滞留、岩城へ山越ニ通ル。此道筋難所と云、萬不自由、馬不借、宿不借、立寄べき辻堂もなし。一夜は洞に寐て、明れば小名濱へたどりつく。岩城平領也。所は東海を請て、出崎々の氣色、沖は獵船、磯は鹽を焼、陸は人家滿て、繁花の市、牛馬に道をせばむ。

    〇初鰹さぞな所は小名の濱」(舞都遲登理)

 

 滝の名前も「石川の滝」だったし、これより東は水郡線の磐城石川駅のある方やあぶくま高原道路の石川母畑インターのある辺りを含めて、広く石川郡だったのだろう。

 石川郡の一郡誹士(俳士)を訪ねるのも一つの目的だったのだろう。『陸奥衛』四巻「無津千鳥」に、「於奥州石川丹内氏興行」の半歌仙が収録されている。等秀、等盛、等般と等のつく名見えるが、等躬の流れだろうか。

 

発句

 

 あたらしき宿の匂いや富貴艸   桃隣

 

 富貴艸(ふっきそう)は曲亭馬琴編『俳諧歳時記 栞草』の夏の所に、

 

 「[周茂叔愛蓮説]牡丹ハ花ノ富貴ナル者也。[書言故事]多く富貴の家、彫欄丹檻の中にあり。故に花ノ富貴なる者といふ。」

 

とある。フッキソウというツゲ科の植物もあるが、ここでは牡丹のことと思われる。丹内氏の丹もあることで、会場となった丹内氏の屋敷を立派なのを誉めて発句と思われる。

 

   あたらしき宿の匂いや富貴艸

 初卯花を見たる生垣       等秀

 

 脇を詠んでいることから、この家の主ではないかと思われる。初卯花は、

 

 なく声をえやは忍ばぬほととぎす

     初卯の花の影にかくれて

              柿本人麿(新古今集)

 

の歌に詠まれている。この歌を埋み句にするなら、宿の生垣の初卯の花の向こうからホトトギスの声がしのびもせずに聞こえてきます、という意味になる。ホトトギスはもちろん来客である桃隣のこととなる。

第三

 

   初卯花を見たる生垣

 べらべらと岨道牛に打乗て    等盛

 

 「べらべら」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「③のんびりしているさま。のんきにぶらぶらしているさま。 「半兵衛は蔵に-何してゐやる/浄瑠璃・宵庚申 下」

 

の意味が記されている。

 牛に乗るというと老子が連想される。山の中の道を牛に乗ってのんびりと行く老子のような人物は初卯の花の咲く生垣に心を止める。

 等盛は巻一「陸奥衛」に、

 

 雲連て原にひろがる霞哉     等盛

 暮六ッにじつと落着柳哉     同

 

の句が見られる。

四句目

 

   べらべらと岨道牛に打乗て

 近付ふゆる温泉の言伝      等般

 

 「温泉」はこの場合「でゆ」と読むのか。前句の「べらべら」をべらべら喋るの意味に取り成したのだろう。

 温泉からの伝言は近づくにつれていろいろ尾ひれがついて長くなる。

 等般は巻一「陸奥衛」に、

 

 難波津や明の星咲としの花    等般

 

 巻二「むつちとり」に、

 

 川風や撫子一ッ動き初      同

 

などの句が見られる。

五句目

 

   近付ふゆる温泉の言伝

 油じむ枕奪合夜半の月      助叟

 

 温泉ではやはり昔から枕投げだったか。油じむは汚れたという意味。奪合は「はひあふ」と読む。

 助叟は桃隣の旅に同行の伴。

六句目

 

   油じむ枕奪合夜半の月

 鶉目がけた鼠落けり       桃隣

 

 一巡して桃隣に戻る。

 「田鼠化して鶉と為る」という言葉が『礼記』にあるという。枕を奪い合っていると天井から鼠が落ちてきて、さては鶉になって飛ぼうとしたか。

初裏

七句目

 

   鶉目がけた鼠落けり

 思ふまま軒の瓢に実の入て    等秀

 

 前句を貧家として『源氏物語』の夕顔の俤で付けたか。「月」「鶉」と秋の句なので夏の夕顔ではなく秋の瓢の実とする。

八句目

 

   思ふまま軒の瓢に実の入て

 箔の兀たる佛さびしき      等盛

 

 「兀」は「はげ」と読む。

 夕顔、瓢の貧相な雰囲気で、忘れ去られたようなお寺に場面を転じる。当初は黄金色に輝いていた仏像も、今ではすっかり箔が剥げてしまっている。

九句目

 

   箔の兀たる佛さびしき

 誰殿も行脚の内は乞食也     等般

 

 まあたとえば西行法師は藤原秀郷の八世孫で鳥羽院の北面武士でもあった佐藤義清だが、行脚に出れば乞食坊主と呼ばれることにもなる。

 芭蕉は農人の子だしその親族と言われる桃隣もそれほどの身分ではなかったが、芭蕉に同行した曾良は武士で神道家だった。芭蕉行脚の時の身分の高い人との取次も曾良あってのことだったのだろう。桃隣も黒羽に行ったときには、芭蕉との待遇の差を感じたかもしれない。

 箔の剥げた仏像は寂しげだが半端に金箔が残ってたりすると、余計寂しい。完全に剥げ落ちたら、そこにはまた違った美があるものだ。

十句目

 

   誰殿も行脚の内は乞食也

 旬じやといへば時鳥啼      助叟

 

 望帝杜宇の故事による付けか。

 望帝と称した杜宇は農耕を指揮したが、やがて長江の反乱を抑える力のある開明に位を譲り隠棲した。死ぬとその魂は杜鵑となり農耕を始める季節を知らせるようになる。

 「旬じゃ」はここではその農耕を始める時だという意味になる。

十一句目

 

   旬じやといへば時鳥啼

 投やりに俎流す磯清水      桃隣

 

 「旬じゃ」をごく普通に魚の旬とする。投げやりで魚をとらえようとしたら俎板が流れて行ってしまった。

十二句目

 

   投やりに俎流す磯清水

 二度めの婚とや婚とやとせず   等秀

 

 再婚だとぞんざいな扱いを受けているのだろう。やる気なさげに(なげやりに)俎板を洗う。

十三句目

 

   二度めの婚とや婚とやとせず

 醫師ながら少占方も心得て    等盛

 

 「少占方」は「ややうらかた」と読む。

 江戸時代前期から中期までは離婚率も高く、再婚も珍しくなかったようだ。

 醫師も今日のような国家資格などないから、誰でも開業でき、後は腕次第というか実績を積み重ねるしかないといったところだろう。漢籍に通じているから、易経とか読んでいてもおかしくはないし、占い師も資格があるわけではないから、医者と易者と両方兼ねていてもおかしくない。

 前句の「婚とや婚とやとせず」多分占いの結果なのだろうけど、よくわからない。「二度目の婚とや坤とやとせず」か。

十四句目

 

   醫師ながら少占方も心得て

 通事居ぬ間に絹地さし出ス    等般

 

 「通事」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 通訳。特に、江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官。唐通事・オランダ通詞があった。通弁。

  2 民事訴訟で、言葉の通じない陳述人のために通訳を行う者。刑事訴訟では通訳人という。

  3 間に立って取り次ぐこと。また、その人。

  「お手が鳴らば猫までに―させよ」〈浮・男色大鑑・八〉」

 

とある。漢文に精通している医者なら、唐通事のいない間にこっそりと絹織物の取引をするということもあったか。

十五句目

 

   通事居ぬ間に絹地さし出ス

 月雪の箱ねを越て一休      助叟

 

 この場合の通事は単なる取次のこととして、無視してかまわないということか。

 箱根越えも雪が降れば難儀するが、月に照らされた雪の箱根の美しさはまたひとしおであろう。絵師であればぜひとも絵に描いてほしいし、俳諧師であれば一句揮毫を願いたいものだ。マネージャーを兼ねた御伴の者がいない間に、絹地を差し出して一筆願う。

十六句目

 

   月雪の箱ねを越て一休

 やつと提たる鴻の羽箒      桃隣

 

 「羽箒(はぼうき)」は茶道具で、埃や煤を掃うために用いる羽で、鴻の羽が用いられることもある。

 一休みで茶をたてようというところか。

十七句目

 

   やつと提たる鴻の羽箒

 人斗ル升や有覧花の席      桃秀

 

 花の下での宴会といえば升酒だが、それに興味を示さない人は茶人だろう。

挙句

 

   人斗ル升や有覧花の席

 色も分ン也飯蛸の飯       等盛

 

 升酒を配る花の席の主催者を見れば、気前のいい太っ腹な人柄も分かるし、飯蛸の釜めしが出てくれば趣味の良さも分かる。蛸は八本足で末広がり、縁起良くこの一巻は締めくくられる。

 

 石川を南東に行けば小名浜に出る。ここから先は街道筋から外れるので馬もなければ宿屋もなく、「辻堂」もない。辻堂は「一泊り」の巻の三十二句目に、

 

   谷越しに新酒のめと呼る也

 はや辻堂のかろき棟上げ     路通

 

とあり、旅人のために立てられた休息所で、江戸時代初期に福山藩の初代藩主水野勝成が作らせた四本の柱と屋根からなる簡単な東屋風の建物は、四つ堂とも憩亭とも言われている。その後福山藩だけでなく他でも作られたのだろう。

 とにかく泊まる所がないので仕方なく桃隣と助叟は洞穴で一夜を過ごした。

 とはいえ小名浜は人口も多く活気あふれる街だったようだ。

 

 初鰹さぞな所は小名の濱     桃隣

 

 鹿島神宮以来ずっと内陸部の旅だっただけに、ここで食う初鰹はまたひとしおだったに違いない。

 

 「此所少行て、緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也。古人の歌を引合て思へば、海邊といひ、けしきさある事にて感を催す。

    〇橋に来て踏みふまずみ蝸牛

    〇茂れ茂れ名も玉川の玉柳」(舞都遲登理)

 

 「緒絶(おだえ)橋」は『奥の細道』に、松島を見た後

 

 「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝ききつたへて、人跡稀に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往ゆきかふ道、そこともわかず、終に路たがえて、石の巻という湊に出いづ。」

 

とある。

 

 みちのくの緒絶の橋やこれならん

     ふみみふまずみ心まどはす

             左京大夫道雅(後拾遺集)

 

の歌に詠まれた歌枕だが、どうして小名浜に、というところだ。桃隣の句の「踏みふまずみ」もこの歌から取っている。

 「野田玉川」も『奥の細道』に壺の碑のあと、末の松山へ向かう途中、

 

 「それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山(まつしょうざん)といふ。」

 

とある。これも、

 

 ゆふされは汐風越て陸奥の

     野田の玉河千鳥なくなり

             能因法師(新古今集)

 

の歌に詠まれた歌枕だ。それがどうして小名浜に。

 答えが「歌枕いわき版 - 鄙の香り」というブログにあった。コピペは避けたいが、それによると桃隣も「岩城平領」と書いていたが、その磐城平の殿様、内藤家二代忠興三代義概は風流が好きで奥州の歌枕を自分の領内に置き換えて作ってみたらしい。まあ、何とか銀座は日本中にあるし、何とか八景も至る所にあるように、この小名浜にも野田の玉川や緒絶の橋があってもいいじゃないか、ということなのだろう。

 なお、内藤家三代義概は別名内藤左京大夫義泰ともいい、風虎という俳号もある。この風虎の次男が内藤政栄(露沾)で、芭蕉が『笈の小文』の旅に出る時のスポンサーとして本文に紹介されている。

 そういうわけで、ここにあるのは小名浜の野田玉川、小名浜の緒絶橋だったわけだ。他にも「勿来の関」も作ったため、オリジナルの方がよくわからず(ウィキペディアによれば宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽という説がある)こちらの方が有名になり、今でも観光地になっている。

 この件には宗因も絡んでいるらしい。

 そういうわけで桃隣も確信犯でそれぞれ一句詠む。このあと宮城に行ったとき、オリジナルの方も訪ねている。

 

 橋に来て踏みふまずみ蝸牛    桃隣

 

 左京大夫道雅の歌を踏まえながらも、踏むか踏まないか迷ってたのがカタツムリがいたからだと落ちにする。

 

 茂れ茂れ名も玉川の玉柳     桃隣

 

 春の柳の繊細な糸ではなく、あえて茂れ茂れと言う。

 ちなみに、小名浜の緒絶橋、野田玉川は藤原川を遡っていったところ、常磐線の泉と湯本の中間あたりで、玉川という地名は今も残っている。

10、郡山

 「小名濱ヨリ二里來て湯本アリ。山は權現堂、麓は町家、温泉數五十三、家々の内に有。勝手能諸事自由にて、近國より旅人不絶、此所半里來て白水と云所アリ。海道ヨリ十六丁、左へ入、阿彌陀堂、則平泉光堂の寫し也。秀衡妹徳尼御前建立、奥院、弘法大師、尤女人禁制。

 岩城山・千手觀音・彌生山・麝香石・此邊也。此外舊跡ありといへども、少時の滞留見殘し侍る。」(舞都遲登理)

 

 藤原川に沿って登ってゆくと湯本に出る。山は観音山で権現堂は神仏分離で今は温泉神社になっているのだろう。麓に町があって温泉宿が五十三軒とかなり賑わっていた。

 現代ではここに「さはこの湯公衆浴場」があるが、飯坂温泉を訪れた西行法師が、

 

 あかずして別れし人のすむ里は

     左波子(さばこ)の見ゆる山の彼方か

                 西行法師

 

と呼んだことから「さばこの湯」という歌枕になったのを、例の磐城平の殿様が領内に持ってきたため、ここも「さばこの湯」と呼ばれていた。

 飯坂温泉は芭蕉も『奥の細道』の旅で訪れているのだが、名前が飯塚に変えられて、旅の苦しさを語る一場面として用いられてしまった。

 さらに北へ行くと白水という所がある。白水阿弥陀堂がある。永暦元年(一一六〇年)奥州三代の三代藤原秀衡の妹徳姫(徳尼)によって開かれた。ウィキペディアに、

 

 「阿弥陀堂は方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺。堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。」

 

とある。奥院とあるのは真言宗智山派の願成寺のことか。

 岩城山も磐城平の殿さまがあの弘前の岩木山に見立てたもので、今は石森山になっている。白水阿弥陀堂の北東にある。榧の大木を切って千手観音を彫り、開山したと伝えられている。彌生山・麝香石もあったようだが、桃隣も多分麓から眺めただけで見て確認はしてない。

 

 「城下を立て三坂村へ八里、行々て奥道日和田ヘ出ル。此所四丁行て道端、右の方に淺香山。南都若艸山の俤有。名有山とは見えたり。巓に少キ榎三本有。往來貴賤登ルと見えて徑アリ。梺ヨリ四十三間、梺ノ廻リ貳百六十八間。

    〇五月女に土器投ん淺香山」(舞都遲登理)

 

 石森山の南側には磐城平城があり城下町になっている。これが磐城平の殿様、内藤家の居城だ。三坂村はそれより北西の山の中へ入った方で今は三和町という地名になっている。三坂城跡がある。そこを越えてゆくとやがて仙台道の日和田宿に出る。今の郡山市で東北本線に日和田駅がある。大体今の国道49号線の前身となる道ではなかったかと思う。

 その少し先右側に安積山公園がある。今は公園だが、昔は奈良の若草山のような風情だったのだろう。

 

 五月女に土器投ん淺香山     桃隣

 

 「土器」は「かわらけ」と読む。ウィキペディアには、

 

 「かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ)は、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器(かわらけ)の酒杯や皿を投げる遊びである。」

 

とある。

 小高い浅香山に登れば、「かわらけ投げ」をしてみたくなる。

 浅香山の麓はかつて浅香沼という巨大な沼があったというが、芭蕉や桃隣が来た頃には田んぼになってしまっていた。そのためかわらけ投げは外の五月女に向かって投げることになる。

 

 「此山ヨリ未申ノ方、山際に帷子と云村に、采女塚、山ノ井も此邊、賤の根に葎おほひて底も見えわかず。

    〇山の井を覗けば答ふ藪蚊哉」

 淺香の沼は田畠となり、かつみ草・花蔣、いづれともしれず、只あやめなりといひ、眞菰成といひ、説々おほし。菖蒲池と云は此所にあり。」(舞都遲登理)

 

 浅香山公園から南西の方角、磐越西線や東北自動車道を越えた向こう側の片平町に山の井公園と采女神社がある。ウィキペディアには、

 

 「我が身を犠牲にして地方民の困窮を救った采女伝説の主人公、春姫の霊を慰めるため、1956年(昭和31年)4月に片平村教育委員会、婦人会、傷痍軍人会、青年団が発起として、采女神社建設委員会が組織された。村内外有志400名余より寄付金約30万円を集め、1957年(昭和32年)5月1日この神社が完成した。建立場所である山ノ井農村公園には、春姫が亡き恋人を追って身を投げたと伝わる「山ノ井清水」や、「采女塚」がある。祭神は王宮伊豆神社より分祀された。」

 

とある。

 

 安積香山影さへ見ゆる山の井の

     浅き心を吾が思はなくに

             よみ人知らず(万葉集巻十四)

 

という歌で知られていて、さらに俳諧師の間では季吟編の『山之井』のタイトルでも知られていた。芭蕉の宗房時代の句は同じ季吟編の『増山の井』に入集している。

 この頃の山の井は葎茂る中に埋もれて水もあるかないかわからない状態だった。そこで一句。

 

 山の井を覗けば答ふ藪蚊哉    桃隣

 

 山の井は藪蚊の棲家だった。

 浅香山の周りにはかつて浅香沼という大きな沼があったが、今は五月女が田植えをしていると、前にも書いたが、すっかり田畠となり、かつみ草・花蔣(はなかつみ)のことはわからなかった。

 『奥の細道』にも、

 

 「等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有あり。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、『いづれの草を花かつみとは云ぞ』と、人々に尋侍ども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端はにかかりぬ。」

 

とある。

 ただ、桃隣は菖蒲池があるとは言っても「沼多し」とは言ってない。曾良の『旅日記』には、

 

 「町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いずれの谷にも田有。 いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、ふしん也。」

 

とある。これが一番正確なところだろう。なお、山の井が本物かどうか疑っている。

 花かつみは、

 

 みちのくのあさかのぬまの花かつみ

     かつ見る人にこひやわたらむ

               よみ人知らず(古今集)

 

の歌で知られているが、古来謎の花とされていて、ウィキペディアによれば、能因は真菰と言い、前田利益はカキツバタだと言ったという。

 明治九年(一八七七年)の明治天皇の巡幸の際、ヒメシャガが花かつみとして叡覧に供された。まあ、天皇陛下が偽物を見たとするわけにもいかないので、今日ではヒメシャガということにしておくのがいいだろう。

11、二本松

 「二本松城下にさしかかり、龜が井、町より半里、阿武隈の川端に、彼黑塚有。邊は田畑也。此あたりをさして安達原と云。

    〇塚ばかり今も籠るか麥畠」(舞都遲登理)

 

 亀が井は今の二本松駅の近くの亀谷であろう。仙台道はここで昔の街道によくある枡形になっていて阿武隈川とは反対の方向に亀谷坂を登ることになる。ここからしばらく仙台道は阿武隈川から離れてしまうので、ここで右に入りというか、おそらく街道が左に折れるところを直進し、阿武隈川の方へ降りてゆく。今だと橋を渡った所に黒塚がある。

 この黒塚については、『奥の細道』は

 

 「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福嶋に宿る。」

 

とだけある。岩屋は塚の近くの観世寺にある。鬼婆がここに籠ったという伝承がある。二本松市観光連盟のホームページには、

 

 「昔、京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母がいて、姫を手塩にかけて育てていました。その姫が重い病気にかかったので易者にきいてみると「妊婦の生き肝をのませれば治る」ということでした。そこで岩手は生き肝を求めて旅に出て、安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。

 木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に、生駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきました。その夜ふけ、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。 この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝を取りましたが、恋衣は苦しい息の下から「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとりました。ふとみると、恋衣はお守り袋を携えていました。それは見覚えのあるお守り袋でした。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのです。気付いた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化しました。

 以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたりました。」

 

とある。妊婦の生き胆は今の中国だったら法輪功から簡単に手に入りそうなものだが。

 

 塚ばかり今も籠るか麥畠     桃隣

 

 塚は当時麦畑に埋もれていたようだ。

12、しのぶもぢ摺

 「福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈川の渡しを越、山のさしかかり、谷間に文字摺の石有。石の寸尺は風土記に委見えたり。いつの比か岨より轉落て、今は文字の方下に成、石の裏を見る。扇にて尺をとるに、長さ一丈五寸、幅七尺余、檜の丸太をもて圍ひ、脇よりの目印に杉二本植、傍の小山に道祖神安置ス。右の山口村へ戻り、海道へ出る。行戻二十丁有。

    〇文字摺の石の幅知ル扇哉」(舞都遲登理)

 『奥の細道』には、

 

 「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋たづねて忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来たりて教ける、『昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍るをにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり』と云。さもあるべき事にや。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺」

 

とある。これではいかにもぞんざいに扱われてきたような印象を受ける。

 曾良の『旅日記』には、

 

 「一 二日 福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。」

 

 「柵フリテ有」は桃隣の「檜の丸太をもて圍ひ」と一致するが、杉二本は杉桧六、七本に増えていて、道祖神は観音堂になっている。まあ、一応史跡として保存されていたようだ。

 五十辺村はウィキペディアに、

 

 「特に五十辺と呼ばれる範囲は、国道4号(奥州街道)、国道115号(中村街道)、阿武隈川、松川に囲まれたエリアを指す。」

 

とある。仙台道を行く場合、今の競馬場の所を過ぎ、国道115号を越え、松川を渡らないあたりが五十辺村になる。今なら国道115号の文字摺橋で阿武隈川を越える所だが、昔はこのあたりに渡し船があったのだろう。川の反対側には岡部という地名が残っている。

 文字摺石は今は普門院(文知摺観音)の中にあり、寺院の庭園の中にある。福島民友新聞のホームページには、

 

 「文知摺石は縦横約5メートル、高さ約2・5メートルの火成岩。地中に埋まっていたが、1885(明治18)年、信夫郡長柴山景綱(県令三島通庸の義兄)が周辺住民千人余りを集め発掘した。このため今は、三方が石垣になったくぼ地の底にある。「日記」に記された柵は、10年ほど前に取り払われた。文知摺観音(普門院)の横山俊邦住職は「正岡子規が訪れた時『あの柵は何だ』と不評だったらしい。代わりにモミジを植えた」と話す。」

 

とある。古い柵がそのまま残っていたわけではないが、ただネット上には鉄格子の扉のついた石と鉄の柵に囲まれている写真が多数ある。

 それで気になる大きさだが、桃隣の扇を使った計測によると「長さ一丈五寸(約3.2メートル弱)、幅七尺余(2.1メートル強)」。小さめなのは半分埋まってたせいだろう。発掘されて角度も変わったから比較はしにくいが、当時の状態としては正確だったと思う。

 

 文字摺の石の幅知ル扇哉     桃隣

 

 なお、この文知摺観音の付近に福島市山口という地名が残っている。

13、佐藤庄司旧跡

 「一里行、左の方徑より佐葉野と云所、二里分入、瑠璃光山醫王寺。寶物品々有。中に義経の笈・辨慶手跡・大盤若アリ。佐藤庄司舊跡、丸山城跡アリ。南殿櫻・夜の星(是名水の井也)。庄司墓所・一門石塔・次信・忠信の石塔有。

    〇星の井の名も頼母しや杜若

    〇丸山の橋も武き若葉哉」(舞都遲登理)

 

 五十辺に戻り、仙台道を一里行くと多分今の瀬上町本町のある辺りから左に入っていったのだろう。このあたりに瀬上(せのうえ)宿があった。曾良の『旅日記』には、「瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。」とある。佐場野古屋という地名はあるが、多分佐場野(佐葉野)はもっと広い地域を表していて、瑠璃光山醫王寺のあたりも含まれていたのだろう。

 瑠璃光山醫王寺に伝わる宝物は曾良の『旅日記』だと、「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。」で、判官義経の笈と弁慶の手跡(書のこと)は一致している。笈は今だとあの『鬼滅の刃』の竈門炭治郎が背負ってるああいうものを想像すればいいかもしれない。あれも一種の笈だと思う。「大般若」は大般若経のこと。

 境内には今も佐藤基冶・乙和の墓碑、佐藤継信と忠信の墓碑がある。医王寺のホームページによると、

 

 「佐藤継信と忠信の墓碑に関しては、中世に広く見られた板碑と呼ばれる供養塔で、石塔の角が無いのはかつて熱病の際に飲むと治るという言い伝えがあり削られたためで、2人のような勇猛な武士にあやかりたいとする信仰がありました。」

 

とのこと。

 丸山城は今は大鳥城と呼ばれ、舘ノ山公園になっている。医王寺からは川を渡った向こう側にある。東水の手、西水の手という井戸の跡があるが、夜の星なのかどうかは不明。

 『奥の細道』だと、

 

 「月の輪のわたしを越て、瀬せの上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有あり。飯塚の里、鯖野と聞ききて、尋々行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞きこえつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入いりて茶を乞へば、爰に義経の太刀たち・弁慶が笈をとゞめて什物とす。

 笈も太刀も五月さつきにかざれ帋幟」

 

 これだと丸山城のすぐそばに医王寺があるかのように錯覚する。また、笈は弁慶のものになっているし、義経の太刀が付け加わっている。

 さて、丸山城にて二句。

 

 星の井の名も頼母しや杜若    桃隣

 丸山の橋も武き若葉哉      同

 

 特に説明することもないだろう。

 

 「此所ヨリ飯坂へ出、奥海道桑折へ出る。是ヨリ藤田村へかかり、町を出離て、左の方へ二丁入、義経腰掛松有。枝葉八方に垂、枝の半は地につき、木末は空に延て、十間四方にそびえ、苺の重り千歳の粧ひ、暫木陰に時をうつしぬ。

    〇辛崎と曾根とはいかに松の蟬」(舞都遲登理)

 

 丸山城は今は福島市飯坂町になっていて、それだけ飯坂温泉は近い。芭蕉と曾良はここで一泊しているが、桃隣はスルーする。いわき湯本の方は詳しく書いているが、本家の飯坂の方はあまり見るものがなかったのだろうか。

 桑折と藤田は東北本線では一駅だ。ちなみにその次が貝田になる。義経の腰掛松は藤田と貝田の中間にある。今は三代目の小さな松があるという。この松については『奥の細道』にも『旅日記』にも記載がない。雨が降っていたのと芭蕉の持病の再発のせいで、寄り道をしたくなかったか。

 

 辛崎と曾根とはいかに松の蟬   桃隣

 

 辛崎の松は大津の琵琶湖岸にあり、

 

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

 

の句でも知られている。

 曽根の松は兵庫の曽根天満宮にある。いずれも遠くにあるので、この義経腰掛松で鳴いている蝉にとっては何のことやら。

14、伊達の大木戸

 「經塚山此所なり。又海道へ出るに、國見山高クささえ、伊達の大木戸構きびしく見ゆ。是ヨリ才川村入口に鐙摺の岩アリ。一騎立の細道也。歩行て右の方に寺有、小高キ所、堂一宇、次信・忠信兩妻軍立の姿にて相双びたり。外に本尊なし。

    〇軍めく二人の嫁や花あやめ」(舞都遲登理)

 

 この義経腰掛松のあたりが経塚山だったのか、近くに厚樫山のきれいな三角形が見える。かつては国見山とも呼ばれていた。かつて頼朝軍と奥州藤原氏の軍とが戦った阿津賀志山の戦いがあったところだ。

 仙台道に戻って少し行くと国見峠になり、この辺りに伊達の大木戸があった。伊達の大木戸というからには扉が閉まるような立派な門が建っていたかと思ったが、どうもそうではなくこの峠自体がそう呼ばれていたようだ。

 曾良の『旅日記』には、

 

 「桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸 (国見峠ト云山有)ノ場所有。コスゴウ(越河)トかいたトノ間ニ 福嶋領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。」

 

とある。「越河と書いた戸の間に」と読みそうになったが、「越河と貝田との間に」が正しい。伊達の大木戸は桑折と貝田の間にあり、実際の福嶋領と仙台領の境は貝田と越河の間にあるという意味。

 『舞都遲登理』の「構きびしく」も何らかの構造物があるように思ってしまうが、「きびしく」は道の険しさのことを言う場合もある。

 越河を過ぎると斎川(才川)になる。鐙摺(あぶみずり)の岩は曾良の『旅日記』では「アブミコワシト云岩有」となっている。そこから少し入ったところに堂があったようだ。曾良の『旅日記』には「次信・忠信ガ妻ノ御影堂有」となっている。今は甲冑堂という名の堂が建っていて、桃隣の句碑があるという。

 

 軍めく二人の嫁や花あやめ    桃隣

 

 二人の妻のことは、『奥の細道』では医王寺の所に記されている。

 

 「又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。」

 

 この二人の妻は二人の息子を失った義母を慰めるために、甲冑を着て、息子が帰って来たかのように演技したという。別に甲冑を着て戦ったわけではないようだ。

15、武隈の松

 「是ヨリ白石城下、此所と刈田との間、西の方にわすれずの山アリ。所にては不忘山といふ。金が瀬ヨリ岩沼へかかり、橋の際左へ二丁入て、竹駒明神アリ。社ヨリ乾の方へ一丁行テ、武隈の松アリ。松は二本にして枝打垂、名木とは見えたり。西行の詠に、松は二度跡もなしとあれば、幾度か植繼たるなるべし。

    〇武隈の松誰殿の下凉」(舞都遲登理)

 

 白石(しろいし)は白石城のある城下町で、そこを出ると今の蔵王町のあたりは今も刈田郡になっている。西に蔵王連峰の南端の御前山(不忘山)が見える。

 

 みちのくにあふくま川のあなたにや

     人忘れずの山はさかしき

              喜撰法師(古今和歌六帖)

 

の歌がある。

 白石川に沿って下ると東北本線北白川と大河原の間辺りに金ケ瀬という地名がある。岩沼はさらに先で白石川と阿武隈川が合流するさらに先の方に今も岩沼市がある。阿武隈川はここで南東へ大きく曲がり太平洋にそそぐ。

 この岩沼市に日本三大稲荷の一つといわれる竹駒神社がある。(もっとも、日本三大稲荷は伏見稲荷大社以外は特に決まったのもがなく、豊川稲荷、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社辺りから二つ選ばれるのが普通だが、竹駒神社が含まれる場合もある。)

 かつては武隈明神だったが、「武隈」と「竹駒」は音が似ているので、竹駒明神とも呼ばれていたのだろう。ウィキペディアには、

 

 「社伝では、承和9年(842年)6月に小野篁が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。後冷泉天皇の治世(1045年 - 1068年)に陸奥国を歴遊中の能因が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、当社に隣接した寶窟山に庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となり山号の由来となった。戦国時代には衰微していた当社に伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。文化4年(1807年)には正一位の神階を受けた。」

 

とある。稲荷神社というと今でも「正一位稲荷大明神」の幟が立ってるように、かつては稲荷神社は明神を名乗っていたが、明治の神仏分離で神社の名前から「明神」「権現」が外されることとなった。

 この武隈明神から乾(北西)の方へ一丁(約110メートル)行ったところに武隈の松がある。今の地図で見ると武隈神社の位置が変わったのか、ほぼ真北に二木の松史跡公園がある。

 初代の松は貞観地震の時の大津波に流され、『奥の細道』に、

 

 「先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此のたび跡もなしとは詠みたり。」

 

という松は四代目だという。その後五代目の松が植えられ、芭蕉が見たのも桃隣が見たのもこの松になる。今ある松は七代目だという。

 その能因法師の歌は、

 

 武隈の松はこのたび跡もなし

     千歳経てやわれ来つらむ

            能因法師(後拾遺和歌集)

 

 さて桃隣の句だが、

 

 武隈の松誰殿の下凉       桃隣

 

 今ある松が昔和歌に詠まれた松ではないと知っているから、「誰殿の下凉」ととぼけている。

 曾良の『旅日記』には、

 

 「岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。」

 

とあるが、別に誰殿が古市源七殿というわけでもないだろう。

16、道祖神の社

 「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。

  西行 朽もせぬをの名ばかりをとどめ置て

     かれののすすきかたみにぞ見る

    〇言の葉や茂りを分ケて塚二ッ」(舞都遲登理)

 

 岩沼を出て東北本線なら一駅、館腰の辺りから北西に行き、今の東北新幹線の線路を越えたあたりに佐倍乃神社(笠島道祖神社)がある。ウィキペディアによると、

 「享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。」

 

とあるから、芭蕉や桃隣の時代は道祖神社だった。

 芭蕉が「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」とした社に桃隣は無事にたどり着いた。

 曾良の『旅日記』には、

 

 「笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不見 。」

 

とある。下調べはしていたが、通り過ぎてしまったようだ。仙台道の岩沼宿の次は増田宿で、その間のどこかから左の方に一里というのはわかっていた。今は住宅地になっている名取が丘、愛島(めでしま)を通る愛島丘陵(めでしまきゅうりょう)の山道だったか。

 古代道路は白河から来る東山道が仙台道に近いルートを取っていたが、名取駅から西へ出羽路が分岐していたらしく、おそらく道祖神の社は出羽路の脇にあったのだろう。仙台高専名取キャンパスのある突き出した野田山丘陵を通っていたのではないかと思う。

 「舞都遲登理」には「近郷の者、旅人参詣不絶」とあるから、天気がよければ結構通う人も多くにぎわうところだったのだろう。今では塚はなく墓石が立っているようだ。

 

 言の葉や茂りを分ケて塚二ッ   桃隣

 

 道はやはり草の生い茂る山道だったのだろう。

 

 言の葉のさかふる御代に夏草の

     深くもいかで道をたづねむ

              頓阿法師(草庵集)

 

の歌が思い浮かぶ。

17、仙台

 「是ヨリ増田の町中へ出る。行先は名取川、橋を越れば仙臺、大町南村千調亭に宿。

    〇落つくや明日の五月にけふの雨

      雨天といひ所はいまだ寒し

    〇奥州の火燵を褒よ五月雨  千調

      端午

    〇菖蒲葺代や陸奥の情ぶり」(舞都遲登理)

 

 増田宿は東北本線の名取駅のすぐ南辺りにある。次に中田宿があり、その先で名取川を越える。長町宿があり、その次が仙台だ。

 大町南村がどの辺なのかはよくわからない。仙台市青葉区大町は仙台の中心部で青葉城にも近いが、その南側ということなのだろうか。

 千調は巻二「むつちとり」の「仙臺杉山氏興行、山川の富を祝す」の世吉(四十四句)興行に参加し、四句目の、

 

   並べたる木具に羅打かけて

 五段の舞は皆眠るなり      千調

 

をはじめとして三句を付けている。能の舞は正式には五段で演奏されるが、三段四段に省略されることも多く、五段で演奏されると長すぎて眠ってしまう客が多かったようだ。

 また、夏の部には、

 

 朝湿り紫陽草轉て水の隈     千調

 唐芝や四人目よりは簟(たかむしろ) 同

 若竹や喰気はなれて風の音    同

 

の発句もある。

 

 落つくや明日の五月にけふの雨  桃隣

 

 仙台到着は四月の晦日だったか。まだ五月ではないが雨が降っている。

 

   雨天といひ所はいまだ寒し

 奥州の火燵を褒よ五月雨     千調

 

 これは千調の返事であろう。雨が降って五月雨の季節なのに、ここ仙台の地はいまだに寒い。まだ火燵を仕舞わないで残しておいたことを誉めてくれ、と返す。

 

   端午

 菖蒲葺代や陸奥の情ぶり     桃隣

 

 「菖蒲葺(あやめぶき)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「端午の節句の前夜、邪気払いのため軒にショウブをさすこと。」

 

とある。ここにみちのくの人の心を感じられる、ということであろう。

 

 「青葉山ハ仙臺城山、本丸・二ノ丸ノ間をさして云。此者、清輔抄には當國といへり。勅撰名所集には若狭、宗祇抄には近江とあり。

 山榴岡・釋迦堂・天神宮・木の下藥師堂。宮城野、玉田横野 何も城下ヨリ一里に近し。

 

     みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ

     木の下露は雨にまされり

     とりつなげ玉田横のゝはなれ駒

     つゝじが岡にあせみ花さく

     さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ

     花のいろいろ虫のこゑごゑ

    ○もとあらの若葉や花の一位」(舞都遲登理)

 

 仙台青葉城のあるところは青葉山だが、「あおばやま」という地名は古来和歌に詠まれて歌枕になっている。これがどこなのかは諸説あってよくわからない。

 

 常葉なる青葉の山も秋来れば

     色こそ変へねさびしかりけり

            大僧正覚忠(千載集)

 立ち寄れば涼しかりけり水鳥の

     青羽の山の松の夕風

            式部大輔光範(新古今集)

 

などだが、藤原清輔の『和歌初学抄』には陸奥とあり、『勅撰名所和歌抄』には若狭とある。「甘藷岳山荘」というホームページの「歌枕の青葉山」には、

 

 「天和2(1682)年版の八代集抄には式部大輔光範の歌に「宗祇国分に近江云々。若狭陸奥等に同名あり。然共(しかれども)大嘗会悠紀の国なれば此集の青羽山可為近江(おうみとなすべし)」と頭注があった。近江生まれの八代集抄作者北村季吟にも、歌枕としてはともかく、若狭の青葉山が知られていたことが読み取れる。また、近江生まれの教養人をして青羽山が近江にある根拠が500年近く前の宮中の儀式の和歌の詞書しかなかったようにも読める。」

 

とある。『宗祇抄』はこの宗祇国分ではないかと思われる。季吟の『八代集抄』なら、桃隣も読んでいたのではないかと思われる。

 若狭の青葉山は若狭富士とも呼ばれ、若狭高浜の辺りにある。近江の青葉山はよくわからない。

 山榴岡(つつじがおか)は今の榴ヶ岡で、仙台駅の東側に榴岡公園がある。ウィキペディアによれば、

 

 みちのくのつつじが岡のくまつづら

     辛しと妹をけふぞ知りぬる

            藤原仲平(古今和歌六帖)

 みちのくの千賀の浦にて見ましかば

     いかにつつじのをかしからまし

            右大将道綱の母

 東路やつつじが岡に来て見れば

     赤裳の裾に色ぞかよへる

            二条大后宮肥後(夫木和歌集)

 名にし負ふつつじが岡の下わらび

     共に折り知る春の暮れか

            道興准后

 

などの歌に詠まれている。

 今の榴岡公園のすぐ南にある孝勝寺に釈迦堂がある。元からここにあったわけではないが、山榴岡に伊達綱村によって元禄八年に建立された。桃隣が来たのはその翌年の元禄九年だった。

 天神宮は榴岡天満宮のことであろう。

 木の下藥師堂は仙台市若林区木下にある陸奥国分寺の薬師堂のことで、榴岡の南東にある。

 宮城野はウィキペディアに、

 

 「江戸時代に入って、仙台城とその城下町の建設や田畑の開墾が行われる中で、城下町の東側、陸奥国分寺の北側の区域は、藩主の狩場として野原のまま残された。そのため「生巣原(いけすはら)」とも呼ばれた。野守がここに置かれ、人々がこの野原にみだりに入ることは禁じられた。仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』によれば、この頃の宮城野原は、ハギやオミナエシ、ワレモコウ、フジバカマ、キキョウなどの草花が茂り、ヒバリやウズラが生息する野原だった。仙台藩第4代藩主伊達綱村は、宮城野の萩が絶えることがないよう、これを他の5箇所に植えさせた。また、宮城野原の東側には鈴虫壇と称されるところがあり、仙台城の奥方や姫君がここにスズムシの音を聞きに来たという。仙台藩では、藩主の伊達家が徳川将軍家にスズムシを献上する習わしがあった。」

 

とある。

 玉田横野は仙台駅の北側、地下鉄南北線の北仙台駅の近くにある光明寺、鹿島香取神社から榴岡の北側にかけての広い範囲だと言われている。

 

 とりつなげ玉田横野のはなれ駒

     つつじの岡にあせみ咲くなり

            源俊頼(散木奇歌集)

 

の歌に詠まれている。

 なお、このあたりの歌枕は、『奥の細道』には、

 

 「宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。」

 

とある。この頃はまだ釈迦堂はなかった。

 曾良の『旅日記』には、

 

 「一 六日 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。

  一 七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。」

 

とある。

 亀岡八幡宮は広瀬川を渡った仙台青葉城にあり、大手門から入る。

 翌日、今の北仙台駅の東に東照宮駅があり、そこに東照大権現を祀る仙台東照宮がある。そこから南へ行くと玉田・横野があり、榴岡天満宮に出る。さらに南東に行くと木の下薬師堂に着く。国分尼寺とあるのは曾良の勘違いだろう。国分尼寺跡は国分寺の東の白萩町にある今の国分尼寺にある。木の下薬師堂は国分寺跡にある。

 

 みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ

     木の下露は雨にまされり

 とりつなげ玉田横のゝはなれ駒

     つゝじが岡にあせみ花さく

 さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ

     花のいろいろ虫のこゑごゑ

 もとあらの若葉や花の一位    桃隣

 

 珍しく和歌が三首記されている。仙台の歌枕が詠み込まれている。

 そのあとの発句の「もとあら」は「本荒の萩」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「根元がまばらに生えている萩。一説に、下葉が散ってまばらに見える萩とも、枯れ残った古枝に咲く萩ともいう。《季・秋》

  ※古今(905‐914)恋四・六九四「宮木野のもとあらのこはぎ露を重み風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」

  ※拾遺愚草(1216‐33頃)下「宮きのはもとあらのはきのしげければたまぬきとめぬ秋風ぞふく」

 

とある。季節が夏なので「もとあらの萩の若葉」だが、萩を省略している。宮城野のもとあらの萩の若葉は花にも劣らぬもので、官位で言えば一位に相当する。

 

 「芭蕉が辻 大町札の辻也。

    神社仏閣等所々多テ略ス

 南村に廿日滞留、いまだ松嶋をかゝえて、たよりなき病苦、明日もしらず、然どもあるじ心づくしによりて蘇生、旅立時の嬉しさ、いつか忘んと袖をしぼりぬ。

    ○陵霄の木をはなれてはどこ這ん

    ○一息は親に増たる清水哉

       賀行旅

    ○くつきりと朝若竹や枝配り 千調」(舞都遲登理)

 

 「芭蕉が辻」は今は「芭蕉の辻」と言うが、仙台市青葉区大町、地下鉄東西線青葉通一番町駅の近くにある。

 ウィキペディアには、

 

 「仙台城の城下町は、大手門からの大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道(国分町の街路)を基準に町割がなされた。この十字路が芭蕉の辻であり、この沿道の大町、国分町の両町は城下の中心地、いわゆる目抜き通りだった。」

 

とある。

 この中心地にも神社や仏閣がいくつもあったのだろう。ここでは省略されている。

 南村は大町南村千調亭のことだろう。病気のため結局二十日間滞在することになったか。着いたのが四月晦日だったから五月十九日までいたということか。

 「あるじ心づくしによりて蘇生」と千調さんも大変だったようだ。

 

 陵霄の木をはなれてはどこ這ん  桃隣

 

 「陵霄(りょうそう)」は「霄(そら)を陵(しの)ぐ」で高く飛ぶことをいう。病気も全快してさながら木の上から空に向かって飛び立ってゆくようなものだから、もう病で這うことはないだろう。

 

 一息は親に増たる清水哉     桃隣

 

 実の親にも勝るような手厚い看護を受けて、清水で一息ついたような心地です。

 これに対し千調は餞別として、

 

   賀行旅

 くつきりと朝若竹や枝配り    千調

 

の句を返す。今朝見る若竹の枝ぶりは大変しっかりしたものです。

18、十苻の菅菰

 「仙臺より今市村へかかり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十苻の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。兩所ながら垣結廻し、菅は彼百姓が守となん。

    〇刈比に刈れぬ菅や一掃」(舞都遲登理)

 

 仙台から北東へ、今の東北本線の線路に沿って行くと、七北田川の手前に仙台市宮城野区岩切今市という地名がある。この地域が直線的な道路に沿って存在しているところから、ここが旧街道だったのだろう。七北田川を渡ると東光寺がある。七北田川には冠川という別名もあり、ここにかつて冠川土橋があったのだろう。近くに八坂神社があるが、ここにはかつて式内社の志波彦神社があった。

 古代道路を捜し歩いていると、何回かこの東光寺という名の寺の前を通ったりする。ウィキペディアには、

 

 「関東では白山権現(白山社)とセットであった例がみられる(多くの小祠の白山社は神社合祀の際に廃されており、また改称したところも多い。東光寺も廃寺となっている例がある)。また、関東ではハンセン病などでの行路行き倒れ人や遊女、罪人、動物などの供養を行ってきた来歴を持つ寺が多い。」

 

とあるところから、やはり街道の寺という意味合いがあったのかもしれない。

 東光寺から脇の三丁は三百メートルくらいなのですぐだ。東北本線岩切駅の北西側の地域が岩切新田だったのだろう。今はすっかり街になっている。

 「十苻の菅」は『奥の細道』の壺の碑のところに、

 

 「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々十苻の管菰を調て国守に献ずと云り。」

 

とある。ここで「おくの細道の山際」とあるのは、仙台道から先の多賀城を経て塩釜の方へ行く塩釜街道のことを当時「奥の細道」と呼んでいたからだという。「山際」は高森山の麓ということだろう。岩切城跡がある。おそらく古代の道は東光寺の前で東に折れて直線的に多賀城・塩釜を結んでいたのだろう。

 国分寺・国分尼寺のある仙台と国府のある多賀城を結び、さらに塩釜で海路に出る古代の主要道路だったから、そんなに細い道だったとは思えないが、幅十二メートルの駅路に比べれば細かったのだろう。

 十苻の菅菰はこの街道沿いではなく、北に三丁入った所だったと思われる。それを図画に書いてもらったのだろう。今は住宅地になっているが、高森山と羽黒前遺跡のある小さな丘に挟まれた地域がそれだったのではなかったか。

 十苻の菅菰は『夫木抄』に、

 

 みちのくの十符の菅薦七符には

     君を寝させて三符に我が寝む

             よみ人知らず、

 陸奥の野田の菅ごもかた敷きて

     仮寐さびしき十苻の浦風

              道因法師

 

の歌がある。貞享三年正月の「日の春を」の巻九十九句目には、

 

   をなごにまじる松の白鷺

 寝筵の七府に契る花匂へ     不卜

 

の句もある。また、元禄七年春の「五人ぶち」の巻十七句目にも、

 

   近い仏へ朝のともし火

 咲花に十府の菅菰あみならべ   野坡

 

の句がある。

 その十苻の菅はこのあたりの百姓が田んぼの脇で育てていて、「垣結廻し」守っていた。大きな菅田で育てているのではなかったようだ。

 

 刈比に刈れぬ菅や一掃      桃隣

 

 菅は十分成長した夏の土用の頃に刈るという。今ある菅もみんな刈り取られてしまい、残るのは箒になった一束だけ、ということか。

19、壺の碑

 「此所より又本の道へ戻り、土橋より一丁行、右の方に小橋三つ有。中を緒絶ノ橋と云。所の者は轟の橋と荅ゆ。是より市川村入口、橋を渡り右の方小山へ三丁行て、

 壺の碑 多賀城鎮守府將軍古舘也。

    神龜ヨリ元禄マデ千歳ニ近。

      右大將頼朝

   みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ

   かきつくしてよつぼのいしぶみ

 

      西

 

       去京一千五百里

       去蝦夷國界一百廿里

       去常陸國界四百十二里

       去下野國界二百七十四里

       去靺鞨國界三千里

 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守府將軍從

 四位上勳四等大野朝臣東人之處里也天平寶字

 六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁

 部省卿兼按察使鎭守府將軍藤原惠美朝臣朝獦

 修造也

     天平寶字六年十二月一日

 

            高 六尺三寸

       碑之圖  横 三尺一寸

            厚 一尺  」(舞都遲登理)

 

 桃隣のここに記した文字には三か所誤りがある。「鎭守府將軍」の「府」の文字は碑の方にはない。これが二か所。「東人之處里也」は「東人之處置也」であること、計三か所。なお、『奥の細道』本文にも同じ間違いがある。この当時はまだ判読が難しく、碑文の文字が確定してなかったのだろう。

 さて、東光寺の前の冠川土橋に戻り、そこから東へと向かう。「緒絶(おだえ)ノ橋」は宮城県大崎市にあったとされているが、ここにも同名の橋があったのだろう。前にもどこかで聞いたような、だが。『奥の細道』には、松島から石の巻に行くところで「十二日、平和泉と心ざし、あはねの松・緒だえの橋など聞伝て」とある。

 場所も土橋より一丁ではなく半里くらい行った砂押川の橋ではなかったか。ここが市川との境になる。

 「右の方小山へ三丁」とあるから、奥の細道は国府のあった多賀城跡より北の小高い丘を通っていたのだろう。仙台市内で一番古いと言われる多賀神社や、国府に付随する陸奥総社宮がある。南の方へ三百三十メートルほど行って、当時壺の碑ではないかと言われていた多賀城碑を見ることになる。

 なお、江戸時代の仙台道は広瀬橋で広瀬川を渡るが、ここと東光寺前の土橋を直線で結ぶと、ちょうど国分寺の西を通り、榴ヶ岡の脇や宮城野を通ることになる。土橋から先も、川で向きを変えながら一直線に塩釜に向かうため、国府多賀城の北側を通ったのであろう。

 多賀城碑はかつて国府のあった多賀城の南側にある。

 壺の碑(いしぶみ)は『袖中抄』に

 

 「陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但、田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、石文と云と云り。」

 

とある。のちに、

 

 みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる

     つぼのいしぶみそとの浜風

              西行法師

 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ

     書きつくしてよ壺の石文

              源頼朝

 

など歌に詠まれた。

 ただ、この多賀城碑は坂上田村麻呂の書いた壺の碑ではない。坂上田村麻呂は天平宝字二年(七五八年)の生まれとされているが、多賀城碑は神亀元年(七二四)年に多賀城が造られた多賀城が天平宝字六年(七六二)年に改修したときのもので、坂上田村麻呂が四歳の時のものだ。

20、塩釜

 「此所より八幡村へ一里余、細道を分入、八幡村百姓の裏に奥の井有。三間四方の岩、廻りは池也。處の者は沖の石と云。是ヨリ末の松山、むかふに海原見ゆ。千引の石此邊といへども、所の者曾て不知。一里行て松の浦嶋、是ヨリ鹽竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道續なり。緒絶橋は六社の御前有。鹽竈六社御神一社に籠、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。

    〇法樂 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂」(舞都遲登理)

 

 芭蕉も壺の碑を見た後末の松山に向かったが、桃隣も同じように壺の碑の南西にある末の松山に向かう。街道から外れるため、「細道を分入」だったようだ。

 ふたたび砂押川を渡ると、ここも小高い丘になっていて、今の宝国寺の辺りが末の松山だと言われている。

 「奥の井」は興井(おきのい)のことであろう。グーグルマップだと今でも「沖の石」と表示される。池の中に岩があるのは今も変わらない。グーグルストリートビューだと、この沖の石のところから北を見れば、坂道の上に大きな松があり、ここが末の松山になる。

 かつて貞観地震の大津波の時に、この末の松山の頂上が波をかぶらなかったことで、

 

 君をおきてあだし心をわがもたば

     末の松山波もこえなむ

            よみ人知らず(古今集)

 

の歌が生まれたという。それ以降ありえないことの例えとなった。

 もっとも、恋の約束はえてしてそのありえないことが起きてしまうので、

 

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ

     末の松山波越さじとは

            清原元輔(後拾遺集)

 

になってしまったが、二〇一一年の東日本大震災の大津波が末の松山を越えなかったことで、伝説が本当だったことが証明された。宝国寺には大勢の人が避難してきたという。

 今は住宅地だが、昔はここから海が見えたのだろう。

 八幡村の由来になっている多賀城八幡神社の方は津波が来て、最も被害の大きかった地域の一つだったが、八百本の鎮守の森の木に守られて、本殿だけがかろうじて残ったという。

 桃隣の見つけられなかった「千引の石」は志引石とも呼ばれ多賀城跡から見ると砂押川の手前の東田中というところにある。通り過ぎてしまったようだ。

 志引石は多賀城観光協会サイトに、

 

 「田中村の『書出』に、縦横6尺と4尺の二つの石があって『千引石』と記している。昔、岩切村の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷(たすき)と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛けると、石は飛び上がって東田中のデンジョウ山の山裾に落ち二つに割れた――現在あるのはその一つで、他は土中にあると―― 。この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。当家ではこの田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。」

 

とある。岩切村は東光寺のあった方で今の岩切分台か。かなり距離がある。古代道路を建設したときの話であろう。土橋と陸奥総社宮を直線で結べば岩切分台を通る。

 

 君が代は千びきの石をくだきつつ

     よろづ世ごとにとれどつきせじ

            源顕仲(堀河院百首聞書)

 

の歌にも詠まれ、歌枕になっている。

 末の松山を出て一旦壺の碑の方へ引き返したのだろう。壺の碑のやや東に浮島という地名がある。その東、東北本線塩釜駅の手前に野田玉川の碑がある。紅葉の橋は「おもはくの橋」のことで、野田玉川の碑のからはやや下ったところにある。そのあと塩釜神社を経てその先の海に出れば松の浦嶋(松島)が見える。ここまで一里とそう遠くない。

 『奥の細道』には、

 

 「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。」

 

とある。かなりおおざっぱなので、曾良の『旅日記』を見ると、

 

 「一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」

 

とあり、先に塩釜まで行って昼食をとってから末の松山の辺りを見て回っている。沖の石は末の松山とセットなので省略されている。桃隣の見つけられなかった興井にも寄っている。

 浮嶋は壺の碑(多賀城碑)のそばで小さな塚のような山に小さな社がある。

 

 塩釜の前に浮きたる浮島の

     憂いて思ひのある世なりけり

             山口女王(古今集)

 

 この歌を聞くと塩釜の海の上に浮かぶ島のようだが実際は内陸にある。

 野田玉川は今では両岸が固められたり地下にもぐったりしている町中の川だが、かつてはきれいな小川だったのだろう。

 

 ゆふされば汐風こして陸奥の

     野田の玉川千鳥なくなり

             能因法師(新古今集)

 

などの歌で知られていた。

 紅葉の橋(おもはくの橋)は、

 

 踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて

     人も通はぬおもわくの橋

              西行(山家集)

 

の歌があり、ここから「紅葉の橋」とも呼ばれていたのだろう。本当にこの場所だったのだろうか。

 古代の道はおそらく陸奥総社宮の方から真っすぐ塩釜神社の方へ向かっていたのだろう。

 ただ、平安末や中世になると、多賀城碑や浮嶋の方を廻るようになっていたとは考えられる。ただ、今の「おもわくの橋」はそれよりかなり南にある。

 さて、塩釜神社だが、「鹽竈六社御神一社」と桃隣が記しているように、塩釜神社は長いこと祭神が定まらなかった。ウィキペディアには、

 

 「歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。」

 

とある。曾良は『旅日記』のなかで「塩竈明神」と記し、『奥の細道』も「塩がまの明神」としている。おそらく吉田兼連によって今の祭神である鹽土老翁神(しおつちのをぢ)に定まったのだろう。

 「緒絶橋」はここにもあったようで、鹽竈六社御神一社の前だという。緒絶橋はこれで三度目で小名浜でも「緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也」と書いている。

 「神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有」というこの灯篭は『奥の細道』にも記されている。この灯篭は今もある。林塔は輪塔のことで五輪塔ともいう。

 「右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。」というのはウィキペディアに「元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し」とあるそのことで、桃隣の来た元禄九年五月の段階では石搗つまり地固めが半ば終わった状態だった。

 

 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂   桃隣

 

 宮城県のホームページの薬莱神社三輪流神楽のところを見ると、

 

 「法印系の神楽で大崎氏以来社人たちで舞っていたが、現在は氏子の有志の手で行われ、宮司大宮家が管理している。天和3年(1683)4代藩主綱村が、伊達氏の氏神亀岡八幡神社造営の時、藩命によって召し出され神楽を伝授し、亀岡八幡付属神楽を派生し、監竈神社にも奉納を命じられた。薬莱神社蔵、天保2年書改めの『神楽秘抄』によれば、所伝は26番とあるが、現在は12番を伝えている。」

 

とある。

 三輪流の法印系の神楽だとしたら、禰宜さんも参加する。日没まで神楽をやっているので、禰宜さんを呼びに行っても夜まで待たなくてはならない、多分そういう意味だろう。

 夏神樂はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「夏祭りまたは夏越(なご)しの祓(はらえ)のときに行う神楽。《季 夏》「若禰宜(ねぎ)のすがすがしさよ―/蕪村」

 

とある。

 

 「麓は町家、町の中に鹽竈四ツ有。三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分、一ツは四尺・高六寸五分・厚貳寸五分。往昔六ツ有けるを盗出し、海中へ落したると也。此所隣ニ牛神とて、牛に似たる石有。明神の鹽を運し牛化して、かくは成ぬと云。今は鹽不焼   芭蕉翁

    〇月涼し千賀の出汐は分の物」(舞都遲登理)

 

 これは御釜神社の「四口(よんく)の神竈(しんかま)」で、東北本線本塩釜駅と鹽竈神社の中間あたりの本町通り沿いにある。ウィキペディアには昭和に書かれた『塩竈町方留書』に記された寸法が載っている。

 

 1、御臺の竈 - 深さ1寸6分(48.5mm)、廻り1丈4尺6寸(4,423.8mm)、差渡4尺(1,212mm)、厚1寸3分(39.4mm)。

 2、西の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm) 。

 3、北の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺6寸(4,726.8mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。

 4、東の方 御宮脇 - 深さ5分(15.1mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。

 

 三つ(西、北、東)は差渡四尺七寸五分、深さ六寸(東だけ五分)、厚二寸で、桃隣の「三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分」とそれほどは違わない。差し渡し(直径)は五分の差で、深さと高さは底の厚さの分差が出るから、深さ六寸プラス厚さ二寸で高さ八寸になるからピタリ賞。東の方については見た目同じようだから省略したか。

 御臺の竈は差渡四尺、深さ一寸六分、厚一寸三分で、桃隣の「四尺・高六寸五分・厚貳寸五分」は直径はあっているが、高さが合わない。底が五寸くらいあるならわかる。

 ウィキペディアにはさらに、

 

 「『別当法蓮寺記』では、往古は7口の竈が存在したと伝える。それによれば、「赤眉」という者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠くに持ち去ることができなかった。そのため3口は、当地の野田、松島湾の海中、加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたという。」

 

とあるが、桃隣の説だと「六ツ有けるを盗出し、海中へ落したる」とあって若干の違いがある。「『奥羽観蹟聞老志』では6口あったとする説がある」というので、この辺は諸説あったのだろう。

 この塩釜の水の色は異変があると変化するという言い伝えがあり、東日本大震災の直前にも色が変わり、津波は神社の前まで来て止まったという。

 牛石に関しても、ウィキペディアに、

 

 「境内には牛石藤鞭社の脇の池中に「牛石」と称される霊石がある。『別当法蓮寺記』および『鹽社由来追考』によれば、鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた際、塩を運ばせた牛が石と化したという。」

 

とある。

 「今は鹽不焼」と、当時は既に藻塩を焼くのには用いられてなかった。その下の離れたところに「芭蕉翁」という文字があるが、何を意味するのかは不明。

 

 月涼し千賀の出汐は分の物    桃隣

 

 塩釜の辺りの海を千賀の浦という。謡曲『高砂』の、

 

 高砂やこの浦船に帆をあげて

 この浦船に帆をあげて

 月諸共に出で汐の(宝生流のページより)

 

を踏まえたものであろう。「分の物」は「分(ぶ)のあるもの」つまり、儲けものということか。

21、松島

 「鹽竈宿、門前より小舟にて松嶋へ渡る。内海三里、左右色々の嶋、姿をあらそふ。風景物として殘らず。左を見右を見るにいとまなし。舟子に酒をくれてしづかに棹をささせ、一ツ一ツ問ば、あらゆる嶋の名也。さしかかりは籬が嶋、高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所、經が嶋は見佛上人讀誦の閑居、ふくら嶋は田畑有て辨慶守本尊不動有。五大堂ハ五智の如来、松嶋町より橋二ツ越て渡ル。

 雄嶋、是も橋有。船よりも陸よりもわたる。」(舞都遲登理)

 

 「月涼し」の句は船出の時の句だったのだろう。五月に入り二十日も病気で寝込んだ後だから、二十日過ぎの月で明け方に出発し、有明の月が見えたのだろう。

 左右に様々な島があって、あちこちきょろきょろしているうちに次から次へと通り過ぎて行き、とてもではないが覚えきれない。

 舟子に酒をやってというのは飲ませるのではなく付け届けということだろう。サービス料ということか。気を良くした舟子は聞けばいろいろと説明してくれる。

 籬(まがき)が島は今は堤防で囲われた港の中にあり、橋が架かっていて、曲木神社がある。

 

 わが背子をみやこにやりて塩釜の

     まがきの島の松ぞ恋しき

            よみ人知らず(古今集)

 

など、歌に詠まれている。

 「高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所」というのは扇谷の金翅堂のことであろう。元禄八年(一六九五年)に瑞巌寺第101世鵬雲東博禅師が造営したというから、桃隣が行ったときはできたばかりだった。当初は慈光院や海無量寺の大伽藍があったらしいが、今は金翅堂だけがひっそりと残っている。

 経が島は瑞巌寺の近く、福浦島の隣にある小さな島で、「ふくら嶋」とあるのが福浦島であろう。今は公園になっていて田畑はない。多分多目的広場の所に畑があったのだろう。福浦橋という赤い長い橋が架かっている。「辨慶守本尊不動」も今はなく弁天堂がある。瑞巌寺の126世・盤龍和尚がここに移したというから近代に入ってからであろう。

 五大堂は瑞巌寺の方にある。伊達政宗が慶長九年(一六〇四年)に創建したもので、松島町の海岸のすぐそばに小さな三つの嶋があり、それぞれ短い橋でつながっていて、五大堂は一番奥の島にある。五大明王を祀ったものだが、五大明王はそれぞれ如来に対応しているので「五智の如来」も間違いではない。不動明王─大日如来、降三世明王─阿閦如来、軍荼利明王─宝生如来、大威徳明王─阿弥陀如来、金剛夜叉明王─不空成就如来がそれぞれ対応する。

 雄島は五大堂、経島、福浦島の西側の海岸近くにあり、今も橋が架かっている。仙石線の松島海岸駅に近い。見仏上人が法華経六万巻を読誦したという見仏堂は雄島にあった。

 

 「長老坂手前に、西行戻。をしまの内に、坐禪堂・石灯籠 南村宗仙寄進。

  骨堂ニ地蔵、奥院是也。見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。此石鎌倉より下ル、高一丈一尺・横三尺五寸・厚一尺。松嶋海而殺生禁斷。」(舞都遲登理)

 

 「長老坂」は利府から松島に入る今日の県道144号線の辺りの坂道で、その途中に西行戻しの松公園がある。

 西行戻しというのは、おそらく西行に松島を詠んだ歌がなかったことで、後から生まれた伝承であろう。

 聖護院門跡准后道興の長享元年 (一四八七年) 成立の『廻国雑記』に、既に「西行がへり」と呼ばれる場所があったことが記されている。

 今日に知られている伝承は、西行が「あこぎ」の意味を知らなくて恥じて帰ったというものと、もう一つは西行戻しの松のところの松島町教育委員会の説明板にある説で、

 

 「歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきをはらむは誰(た)が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。」

 

とのことだ。

 西行が詠んだと言っている、

 

 月にそふ桂男のかよひ来て

     すすきをはらむは誰が子なるらん

 

の歌は月には巨大な桂の木があって、それを刈る桂男がいるという伝承に掛けて、月の日に通ってくる男が薄の中でひっそりと暮らす女をはらませた、そいつは誰なんだという歌で、おそらく民間に伝わる春歌のようなものだろう。まあ、はらませたのは自分ではないという言い訳の歌だろう。

 それに対する童子の歌は、

 

 雨もふり霞もかかり霧も降りて

     はらむすすきは誰れが子なるらん

 

だが、雨や霞や霧で月のない夜もあったというのに誰の子をはらんだんだ、おまえだろ、というもので、そんなに機知に富んだ返しとも思えない。それにここは「だれが子なるらん」ではなく「たがこなるらん」と雅語で応じてほしい。

 それに「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としているといるという謎々も別にちょ~難問というわけではない。本物の西行法師なら瞬殺だろう。

 雄島の座禅堂は『奥の細道』に、

 

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出いでたる嶋也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石など有。」

 

とある。曾良の『旅日記』には、

 

 「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」

 

とある。「一山ノ碑」は「見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。」のことだろう。島の南の方にあり、今は奥州御島頼賢碑と呼ばれ、六角形の鞘堂で囲って保存されている。

 宮城県のホームページには、

 

 「この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。

 また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の問には双竜の陽刻を配している。

 碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。」

 

とある。頼賢は見仏上人の再来といわれた僧らしい。

 さて、その碑の寸法だが、松島町のホームページに「高さ3.5m、が下部1.1m、中央部1.05m、厚さは約20cm。」とある。

 桃隣の「舞都遲登理」の「高一丈一尺」は約3.4メートル、横三尺五寸は約1メートル、厚一尺は約30センチ。まあ、大体あっている。扇での採寸にしては正確といったところか。

 「松嶋海而殺生禁斷」というのはここが伊勢の阿漕が浦と一緒だということで、西行戻しの「阿漕が浦」の方の話はそこから生まれたのもかもしれない。

 あと、さっきの謎々だが、冬に芽が出て夏に収穫するのだから答えは麦作農家。

 

 「瑞巌圓福禪寺、妙心寺末寺 紫衣、改て瑞岩寺、仙臺城主菩提所。

 右ニ陽德院、左に天麟院、何も紫衣。

 瑞岩寺仲ニ松嶋根深の松とて、古キ松一本有。庭ニ雙梅。額、虎關の筆、方丈の記也。

 松嶋眺望 五十七嶋、四十八濱、二十二浦、三十一崎、外ニ金花山・富ノ山。」(舞都遲登理)

 

 瑞巌寺はウィキペディアに「山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。」とある。「右ニ陽德院、左に天麟院」今もその位置にある。陽徳院は慶安三年(一六五〇年)に開創され、現在は非公開。天麟院は万治元年(一六五八年)の創建といわれている。

 紫衣はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「紫色の袈裟(けさ)および法衣の総称。古くは勅許によって着用した。紫甲。しい。」

 

とある。

 根深の松は不明。

 雙梅は臥龍梅のことか。瑞巌寺のホームページに、

 

 「政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰り、慶長14年(1609)3月26日、瑞巌寺の上棟祝いにお手植えしたと伝わる紅白の梅です。」

 

とある。

 「額、虎關の筆」も不明。虎關は虎関師錬(こかんしれん)のことだろう。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧だが、瑞巌寺との関連はよくわからない。

 松嶋眺望 五十七嶋とあるが今では二百六十余の島があるとされている。金華山は松島湾の外側にあり、石巻の先の突き出たところにある。富山は瑞巌寺の辺りから北東の方角にある山で富山観音堂がある。

 

   「松嶋辨    芭蕉翁

 抑松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を耻ず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。

島々の數を盡して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に疊みて、左にわかれ、右につらなる。屓るあり、抱くあり、兒孫愛するがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、窟曲をのづからためたるがごとし。其氣色、窅然として美人の顔を粧ふ。千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を盡ん。予は口を閉て、窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。

    〇松嶋や鶴に身をかれ郭公  曾良

    〇松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣

    〇松嶋や嶋をならべて夏の海 助叟

    〇橘や籬が嶋は這入口    桃隣

    〇橋二ッ滿汐凉し五大堂   仝

    〇月一ッ影は八百八嶋哉   仙化」(舞都遲登理)

 

 この松島弁は素龍本の『奥の細道』にくらべると「抑(そもそも)」のあとの「ことふりにたれど」が欠落しているが、芭蕉自筆本にも同様の欠落がある。桃隣は初期の稿本を読んでいたのだろう。それ以外は「筆をふるひ、詞を盡ん。」まではほぼ一致する。「抱るあり」が「抱くあり」になっているが、これは桃隣の書き間違いだろう。

 そのあとの部分の「予は口を閉て」は『奥の細道』の曾良の句の後に「予は口を閉て眠らんとしていねられず」から取ったもので、「窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。」は「二階を作りて」が欠落しているが、曾良の句の直前にある。「雄島が磯」の辺りを大幅にカットして、うまいこと切りつないで短縮バージョンになっている。ひょっとしたら『奥の細道』に先立つ「松島弁」が存在していたのかもしれない。

 さて、発句だが、

 

 松嶋や鶴に身をかれ郭公     曾良

 

 この句は有名すぎるから別にいいだろう。

 

 松嶋や五月に來ても秋の暮    桃隣

 

 これは曾良の句の影響を受けて、あえて松島にふさわしい季節外れの景物を持ってきたのだが、秋の暮‥‥うーん。

 

 松嶋や嶋をならべて夏の海    助叟

 

 これはそのまんまだが、

 

 島々や千々にくだけて夏の海   芭蕉

 

の句に比べると今一歩。

 

 橘や籬が嶋は這入口       桃隣

 

 確かに仙台側から来ると最初に見るのは籬が嶋だ。

 

 橋二ッ滿汐凉し五大堂      桃隣

 

 今は橋を三つ渡るが、昔は二つだったか。五大堂には橋を渡ってゆくというネタに滿汐凉しを放り込んだといえばそれまでの句。

 

 月一ッ影は八百八嶋哉      仙化

 

 仙化は貞享の頃からの芭蕉の江戸の門人で、『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。

 

 たくさんの島があってもそれを照らす月は一つだけ。この句だけ秋の句で、この旅に同行していたわけでもないから、別の時に作った句だろう。

22、石巻

 「松嶋より平和泉へ心ざし、遙分入まゝ海道より半里斗右へ入て、とみの山登て見れば、富山大仰寺、高泉和尚額アリ。此所より松島・雄島其外島々浦々目に下に見おろし、手も届く程のけしき、詞に絶たり。松島を岡より見渡したるよりも猶增りて、國主も度々登山のほし行人必尋て見るべし。

    〇麥喰て嶋々見つゝ富の山」(舞都遲登理)

 

 前に「外ニ金花山・富ノ山」とあった、その富山に行く。大仰寺は観音堂の近くにある。高泉和尚の額があったという。松島の島々が一望できる。

 

 麥喰て嶋々見つゝ富の山     桃隣

 

 「貧乏人は麦を食え」といった政治家が、確か高度成長の頃にいたが、麦を食っていても松島の絶景を眺めたならリッチな気分になれる。

 

 「行々て石の巻、仙臺領也。諸國の廻船を請て大湊、人家富たり。石の巻といへる事、川の州に立石有、行水巴に成て是を巻く。昔より今に替らず、されば石の巻とはいひめる。所ハ邊土ながら詩歌・連誹の達人籠れり。

    〇茂る藤やいかさま深き石の巻」(舞都遲登理)

 

 JRの石巻駅の東側の旧北上川河畔に住吉公園があり、そこの川の中に巻石という岩があり、それがここでいう立石であろう。

 北上川は江戸時代初期に大規模な河川改修が行われた。登米のあたりで北上川はこの旧北上川と北東へ曲がる追波川とに分かれ、湿地が広がっていたが、登米城主伊達相模宗直が新田開発のために北上川を柳津から豊里の方に迂回させルルートを新たに切り開いた。

 そのあと伊達政宗の家臣川村孫兵衛が豊里から和渕で江合川に合流させ、鹿又へと迂回させるルートを切り開いた。これによって、登米の辺りで北上川は三つのルートで流れることになった。

 この時は旧北上川が北上川だったが、明治になると北上川から鹿又へと流れる一番最初のルートを断って、水をすべて北東へ曲がる追波川に逃がし、こっちの方を北上川としたため、石巻市街を流れるのは旧北上川になった。そういうわけで、桃隣の時代は巻石のある方が北上川だった。おそらく当時の方が水量が多く、岩を巻く波の姿が見られたのだろう。今は東日本大震災による地盤沈下で干潮時にしか姿を現さないという。

 石巻は「詩歌・連誹の達人籠れり」とあるが、具体的に誰が滞在したのかはよくわからない。

 

 茂る藤やいかさま深き石の巻   桃隣

 

 藤の蔓の石を巻くに掛けた句であろう。巻石のあたりの北上川は深く渦を巻き、あたかも茂る藤のようだ。

 

 「牧山の道、船渡し、此あたりを袖の渡。こふちのみまき・まのゝかやはらは、牧山のうらに有。石の巻より一里行て、牧山、法華不退の道場、奥ハ千手観音。湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ。

 金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」(舞都遲登理)

 

 牧山は旧北上川を渡った向こう側にある山で、巻石のある住吉公園に袖の渡りの碑があるという。曾良の『旅日記』には、牧山を廻った後、「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」と記している。住吉公園は住吉神社があるから住吉公園なので、この位置に間違いないようだ。「住吉ノ社」は今は大島神社になっている。おそらく明治になってかつて式内社の大島神社に比定され、名前が変わったのであろう。

 袖の渡りは、

 

   実方の君の、みちのくにへ下るに

 とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川

     そでのわたりはあらじとぞ思ふ

               清少納言(新後拾遺集)

 

など、歌に詠まれている。

 「こふちのみまき」は曾良の『旅日記』には「尾駮ノ牧山」とあり「おふちのまきやま」ともいう。牧山に比定されていたのだろう。『奥の細道』にも、「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて」とある。

 曾良の『旅日記』には、「日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。」とある。日向山は旧北上川河口の今の日向山公園であろう。眺めが良く、万石海(奥ノ海)、牡鹿半島の山々(遠嶋)、牧山を見渡し、真野萱原も少し見えたという。遠嶋は牡鹿半島全体が流刑地だったことからそう呼ばれていたらしい。

 「すさまじきもの~「歌枕」ゆかりの地★探訪~」というサイトによると、仙台藩四代藩主伊達綱村も磐城平の内藤家二代忠興三代義概と同様、みちのくの有名な歌枕を自分の領内に置き換えて作っていたようで、おそらくほかの藩でも競うようにこういうことをやっていたのではないか。どうりで緒絶の橋がたくさんあるわけだ。その意味では尾駮ノ牧山も真野萱原も本当にここなのかは怪しい。

 牧山には零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)があるが、ここは古代の式内社零羊崎神社があった所で、その本地として魔鬼山寺があった。その後神社の方は廃れ、魔鬼山寺も後に牧山寺、長禅寺と名前を変え、桃隣が来た頃は「法華不退の道場、奥ハ千手観音」だったのだろう。明治の廃仏毀釈で零羊崎神社に戻ったようだ。

 それにしても「魔鬼山寺」とは何か漫画やラノベに登場しそうな名前で、牧山もこの表記に戻した方が人気が出るのではないか。

 「湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ」とある。日向山は芭蕉と曾良も登った日向山公園で、愛宕山は旧北上川を少し登った所にある曽波神社のある愛宕山であろう。

 「金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」とあるのは金華山で牡鹿半島の裏側になる。距離があるので天候の悪い日は避けた方がいいという忠告を受けたのだろう。

 芭蕉が金華山に行かずにそのまま平泉へ向かったのは、曾良がこの季節は無理しない方がいいと判断したからかもしれない。その芭蕉の見残しを桃隣が訪ねることになる。

23、金華山

 「陸地以の外難所、鮎川と云獵浦より舟路三里、黒崎と云へ、渡しに乘て島着ス。麓ヨリ四十六丁、陸ヨリ三里離て海中ニアリ。丸キ嶋山也。是なん陸奥山。五丁登テ大林寺、護摩堂・辨財天・神明、嶺に權現堂幷愛宕、五丁下りて御手洗、旱魃にも水不絶、嶺より二丁下りて廿鉾の水晶アリ。此水晶高サ貳拾尋、根の深サ不知、自六角にして一角の幅七尺余有、但末七尋ハ震動ニ折レテ、谷ニ落埋半見へたり。万劫經タル石故、空ハ松杉の寄生、枝はを連ね、石は莓覆て光不明也。誠靈山の印、稀有の一物、三國第一の珍寳、末代の記念。

 

     こがね花さくとよめるは此山にて、

     千歳の莓八重に厚く、木立春秋を

     しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、

     四時の風全凩のごとし。白雲空に

     消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立

     迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。

     東に金砂潠漂泊、黙然として是を

     おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、

     金生水の故ありやと、猶尊く、御手

     洗を咶れば、五ツの味をなす。冷

     水輕して、色は青天に等し。比は

     さつきの末つかた夏を忘れて、

     しばらく木のねを枕になしぬ。

    〇御手洗や夏をこぼるゝ金華山

    〇黄精の花やきんこの寄所

    〇水晶や凉しき海を遠目鑑」(舞都遲登理)

 

 石巻より十三里の船路を避けて牡鹿半島の先端にある鮎川港まで陸路で行ったようだが、かなりの難路だったようだ。山の迫るリアス海岸で、今の宮城県道2号石巻鮎川線もコバルトラインもうねうねと山の中を行く。

 鮎川から船路三里、牡鹿半島先端の黒崎を廻り、金華山に到着する。今の金華山港のあたりか。

 金華山は陸奥山(みちのくやま)とも言われていた。

 

 すめろぎの御代さかえんとあずまなる

     みちのく山にこがね花さく

            大伴家持(万葉集巻十八 四〇九七)

 

と歌にも詠まれている。

 今は金華山黄金山神社があるが、ウィキペディアによれば、かつては、

 

 「近代以前は弁財天(弁天)を祀る金華山大金寺(だいきんじ)という女人禁制の修験の真言宗寺院であり、広島県の厳島神社等とともに日本の「五弁天」の一にも数えられるとともに、霊場として山形県の出羽三山、青森県の恐山に並ぶ「東奥三霊場」に数えられた。」

 

という。大林寺は大金寺の間違いであろう。かつてここに大伽藍が存在していたようだ。明治の廃仏毀釈でここも跡形もない。

 御手洗は今のこの金華山黄金山神社の御水取場でいいのか、よくわからない。

 山頂もかつては竜蔵権現だったが、今は大海祇(おおうみつみ)神社になっている。

 水晶は今は天柱石と呼ばれ、山頂の東側にあるという。高さ二十メートルだから一尋が五尺(約百五十センチ)として、十三尋ちょっとというところか。「七尋ハ震動ニ折レテ」とあるから、それを加えれば二十尋になる。

 ただ、今の写真で見る限り、一般的なクリスタルのあの透き通った六角の柱とはかなりイメージが違う。普通の岩のように見える。まあ、当時も苔むして「光不明」とある。

 さて、句の方も長い前書きがついている。俳文として読んでもよさそうだ。

 

   こがね花さくとよめるは此山にて、

   千歳の莓八重に厚く、木立春秋を

   しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、

   四時の風全凩のごとし。白雲空に

   消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立

   迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。

   東に金砂潠漂泊、黙然として是を

   おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、

   金生水の故ありやと、猶尊く、御手

   洗を咶れば、五ツの味をなす。冷

   水輕して、色は青天に等し。比は

   さつきの末つかた夏を忘れて、

   しばらく木のねを枕になしぬ。

 御手洗や夏をこぼるゝ金華山

 黄精の花やきんこの寄所

 水晶や凉しき海を遠目鑑

 

 頭は大伴家持の歌で、「春秋を知らず」は、

 

 春秋は知らぬときはの山河は

     なほ吹く風を音にこそ聞け

             清少納言(清少納言集)

 

の歌や、水無瀬三吟七十六句目の、

 

   山がつになど春秋のしらるらん

 うゑぬ草葉のしげき柴の戸    肖柏

 

といった用例がある。あたかも仙郷のように生き物の生死を知らぬことをいう。

 鶯もホトトギスに子を取られることもなく、一年中凩のような強い風が吹いている。

 このあたりは神仙郷をイメージするための言葉の綾で、一年いてここの春秋や一年中吹く凩を経験しているわけではない。

 「白雲空に消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立迷ふ。」は夏の湿気の多い季節では実際にそうだったのかもしれない。「南の磯に海鹿日を待て眠る」とあるが、当時ならニホンアシカの姿を見たとしても不思議はないだろう。江戸時代には日本の沿岸に数多く生息していた。

 ウィキペディアによるとニホンアシカは「一九七五年に竹島で二頭の目撃例があったのを最後に」絶滅したとされているが、はっきりとニホンアシカだと確認されてない目撃例は、その後も三回ほど(最後のはニ〇一六年)あったという。

 「金砂潠漂泊」は「金砂潠(キンコ)漂泊(タゞヨフ)」とルビがふってある。砂は沙、潠は噀と同じで、「沙噀」はナマコと読む。「潠(噀)」は口から噴き出すもの、唾液などを言うが、ナマコは刺激を受けると腸管を肛門や口から放出するため沙噀というのであろう。

 ナマコの中でも「金海鼠・光参(きんこ)」と呼ばれるものがあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「① キンコ科に属するナマコ類の一種。全長二〇センチメートルに達する。体は長楕円形で、前端に樹枝状の一〇本の触手がある。灰褐色に褐色の斑紋がある個体が多いが、体色の変異は大きい。腹面は湾曲するが背面はやや平たい。常磐地方から北海道、千島などの沿岸に分布。昔から宮城県金華山産が賞味された。煮て干したものを中国料理につかう。ふじこ。《季・冬》

  ※俳諧・桜川(1674)冬二「料理てばひかりやはらぐ金海鼠哉〈季堅〉」

 

とある。キンコは水を吸うことで浮力を付け、海を漂うという。

 七宝はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏典中に列挙される7種の宝。7種は必ずしも一定しないが,代表的なものとしては,金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう) 。金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう)」

 

とあるが、キンコはその一つの金の子で、そのキンコの獲れる金華山は五行説で「金は水を生ず」とあるように、水を生む島なのではないかと思うと尊いことで、その金華山から湧き出る御手洗の水も五つの味、つまり五味(酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味 )をすべて兼ね備えていると言うのだが、実際どういう味だろうか。

 五月の暑くじめじめした季節だが、ここではそれを忘れて「しばらく木のねを枕になしぬ。」

 そして発句になる。

 

 御手洗や夏をこぼるゝ金華山   桃隣

 

 「夏をこぼるる」は現代語だと「夏にこぼれる」だろう。金華山の金が水を生じ、零れ落ちている。それで「夏を」は放り込み。

 

 黄精の花やきんこの寄所     桃隣

 

 「黄精(おうせい)」はナルコユリから取れる漢方薬で、ナルコユリの花が白いところから、これは波しぶきを黄精の花に見立てたのかもしれない。キンコがそれに寄って来る。

 

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

 

 実際には天柱石は普通の岩のように濁っているし、当時はさらにそれに苔が生えていたが、それだけに、磨けば透き通るのではないかと想像したのだろう。磨かれた水晶は海を見る遠眼鏡になる。とはいっても多分遠眼鏡は話に聞くだけで、普通の眼鏡のようなものを想像してたか。それすら当時は滅多に見ることはなかっただろう。

24、平泉

 「是より右の道筋へ出、石の巻へ戻り、和沼・新田へかかり、清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。龜井が松、田の中に有。北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ、一方は陸三方は衣川也。弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。

 白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。中尊寺ヨリ案内なくては不叶。

    〇金堂や泥にも朽ず蓮の花

    〇田植等がむかし語や衣川

    〇軍せん力も見えず飛ほたる

    〇虹咲てぬけたか凉し龍の牙」(舞都遲登理)

 

 金華山から来た道を通り石巻へ戻り、北にある平泉へと向かう。

 「和沼・新田」はこれだけだとよくわからないが、芭蕉と曾良も同じ道を通ったと思われるので、曾良の『旅日記』を見てみよう。

 

 「一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵へ、今一人、気仙へ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。

  一 十二日 曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、 安久津(松嶋ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。」

 

 この行程は『奥の細道』には「心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。」とある。

 北上川に沿って北上したなら、長沼は今の東北本線新田駅にの方にある長沼ではない。鹿ノ股(今の鹿又)で旧北上川を渡り、かつて存在していた陸前豊里のあたりから現北上川が大きく東に曲がる飯野に通じていた飯野川を渡った時、おそらく今の北上川の流れている柳津から飯野までの部分が長い沼になっていたのだろう。これが和沼だったか。

 矢内津がおそらく今の柳津で、ここで再び旧北上川を渡る。そして北上川に沿って北上し登米市登米(とよま)町に出るが、ここが戸伊摩(といま)だったと思われる。芭蕉と曾良はここで一泊した。

 その三里先にある「上沼新田町(長根町トモ)」が桃隣の言う「新田」であろう。今の中田町上沼の上沼古館跡のあたりに長根という地名が残っている。

 曾良の『旅日記』にある「安久津」は涌津(わくつ)のことと思われる。加沢はそのさきにある金沢(かざわ)であろう。その先に東北本線の清水原という駅があり、近くに清水公園があるが、桃隣のいう清水はこのあたりか。今の地名は花泉町になる。

 「清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關」とあるこの大門は、曾良の『旅日記』に記述がない。清水と一関の間にある城郭惣構というと有壁館跡のことか。有壁氏が天正十八年(一五九〇年)まで居城としていたところで、桃隣の時代から百年前のものだからまだかなりその姿を残していて、高館の大門と勘違いしたのかもしれない。あるいは当時は高館の大門に見立てられていたが、曾良は偽物だと見破って書き留めなかったのかもしれない。

 曾良は平泉を一巡りした日の日記をこう書いている。

 

 「一 十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金雞山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。」

 

 高館は出てくるが大門についての記述はなく、『奥の細道』には「大門の跡は一里こなたに有」とある。途中の山ノ目から一里半だから、大門の跡は山ノ目の半里先ということになる。この場合の山ノ目は今の東北本線山ノ目駅の方ではなく今の国道四号線に近いルートだったとするなら、今の国立岩手病院の辺りの山目の先の峠のことを言っていたのかもしれない。伊達の大木戸と同じで、大門といっても峠のことというのはありそうなことだ。

 「少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」と、桃隣の文章の方にはここに高館の大門はない。

 高館は中尊寺の手前の北上川の近くのある。今は高館義経堂が立っている。天和三年の建立だが、現在ここにある義経像は宝暦年間の作で、芭蕉や桃隣の頃にはまだなかった。「堂一宇」はあったがここでいう「義経像」は別もので、初代の義経像があったのかもしれない。

 高館は小高い丘で、以前2018年6月27日の俳話で『嵯峨日記』を読んだ時に、『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集に収録された、

 

   賦高館戦場    無名氏

 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓

 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中

  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 

 高館は天に聳え星は兜ににて

 衣川は海に通じ月は弓のごとし

 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり

 弁慶は武威を揮い白波の中

   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

 

という詩について触れた。小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになって、かなり盛られている。

 芭蕉は本物の高館を見ているから、「其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」と言っている。

 「弁慶桜」も、さすがに当時の物は残ってないだろう。伝弁慶墓なら参道の入り口付近にある。中尊寺の入り口付近にあったのだろう。

 「龜井が松、田の中に有」は今の伝亀井六郎重清松跡のことであろう。参道入り口・平泉文化史館傍にあるという。平泉文化史館が建つまでは、この辺りは田んぼだったのだろう。

 「北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。」はこのあたりの名所で、北上川は中尊寺の東に、衣川は北にある。衣の關は衣が関とも衣川関とも呼ばれるもので、正確な位置はわかっていないが中尊寺の西の衣川区川端に衣河関跡擬定地がある。関山は中尊寺の山号でもあり、中尊寺のある辺りの山が関山なのだろう。金雞山は中尊寺の南西にある。中尊寺に続く道は右に高館、左に金雞山が門のように並んでいる。

 「和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ」とある和泉城跡は中尊寺の北西の衣川を渡った所にある。「一方は陸三方は衣川也」とあるように、衣川はここで蛇行していて、北は陸だが東南西は川になっている。

 衣河関跡擬定地の東三百メートルくらいの位置なので、桃隣のいう衣の關はここではなかったのか。和泉城跡から五百メートル北東というと、長者ケ原廃寺跡の方になる。かつては金売吉次の屋敷跡とされていた。

 さていよいよ中尊寺の境内に入る。

 「弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。」

 東叡山末寺とあるのは、ウィキペディアに「寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となった。」とあるように、当時は東叡山寛永寺の末寺だった。今日では慈覚大師による嘉祥三年(八五〇年)に開基と伝えられている、という扱いになっている。桃隣の言う貞観四年だと八六三年になる。いずれにせよはっきりとはしない。

 「金堂・光堂」は二つの呼び方がある同じもので、今日では金色堂と呼ばれている。そのきらびやかさには桃隣も圧倒されたようだ。本尊は正確には阿弥陀如来だがまあその辺の細かい区別は一般人にはわかりにくいところだ。『奥の細道』の方も「三尊の仏を安置す」と大雑把だ。

 金堂・光堂は今の旧覆堂の位置にあったが、一九六三年(昭和三十八年)に金色堂は解体修理され、今の場所に移され、新たな鉄筋コンクリートの鞘堂で覆われることになった。

 金色堂とともに経蔵も古くからの中尊寺の名残をとどめるもので、本尊の文殊五尊像(木造騎獅文殊菩薩及脇侍像)は今は讃衡蔵に展示されている。曾良の『旅日記』には「経堂ハ別当留守ニテ不開」とあり、残念ながら芭蕉と曾良は見ることができなかったようだ。

 一切經二通紺帋金泥は紺の紙に金泥で文字や絵の描かれた一切経で、中尊寺経とも呼ばれている。何千とあったものの近世初頭にその大部分が流出して、今日残っているのは十五巻だという。桃隣が見たのはそのうちの二通だったか。

 水晶ノ生玉は棺の中に収められていた水晶の念珠のことか。秀衡太刀も棺にあったものであろう。

 龍ノ牙齒は不明。

 義經切腹九寸五分も不明だが、元文三年(一七三八年)にここを訪れた田中千梅も『松島紀行』に記しているから、そのような宝物が存在していたのだろう。

 「白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。」の白山神社は中尊寺の奥にある。昔は白山権現だったのだろう。姥杉もここにある。峯薬師堂は境内にある。八幡堂も月見坂の入り口付近にある。

 さて、発句だが、

 

 金堂や泥にも朽ず蓮の花     桃隣

 

 これは芭蕉の『奥の細道』自筆本にある五月雨の句の初案、

 

 五月雨や年々降りて五百たび   芭蕉

 

の影響があっただろう。光堂は鞘堂に守られ、長年の五月雨のもたらす泥にも朽ちることなく、今も蓮の花のような輝きを保っている。

 

 田植等がむかし語や衣川     桃隣

 

 衣川のあたりは遅い田植が行われていたが、衣川の戦いのことは彼らにあっては遠い昔の物語にすぎない。

 

 軍せん力も見えず飛ほたる    桃隣

 

 これも『奥の細道』自筆本の、

 

 蛍火の昼は消えつゝ柱かな    芭蕉

 

の影響であろう。蛍火はさながらここで戦死した兵(つわもの)どもの魂のようだが、今となってはもう軍する力もない。恨みは残るものの、その一方で平和な時代を喜ぶものでもある。

 

 虹咲てぬけたか凉し龍の牙    桃隣

 

 虹は古代中国では龍の姿とされていた。中尊寺の秘宝「龍の牙歯」は今はよくわからないが、虹をもたらす龍が落としていったものか、雨上がりの爽やかな涼しさが感じられる。

25、達谷が窟

 「是ヨリ達谷が窟、岩洞ノ深サ十間余アリ。此洞に二階堂、八間ニ五間と見えたり。多門天安置ス。不斷鎻テ人不入。大同二年田村丸建立と緣起に有。所は高山幽谷にして、人倫絕たる邊土、いが成鬼が住捨て、旅人尋入て道に迷ふ。此所より山の目と云へ出、又一ノ關通金成村へ出る。此村一里脇に、つくも橋あり。

             梶原平次景高

    陸奥の勢は味方につくも橋

        わたしてかけんやすひらが首」(舞都遲登理)

 

 中尊寺の南西の山の中に達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂がある。ウィキペディアには、

 

 「延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた悪路王を討伐した記念として建てた。」

 「東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。」

 

とある。

 当初の毘沙門堂は延徳二年(一四九〇年)に焼失し、すぐに再建されたものの天正年間の兵火で再び焼失し、桃隣が見たのは慶長二十年(一六一五年)伊達政宗により再建された建物であろう。残念ながらこの建物も昭和二十一年に焼失し、今あるのは昭和三十六年に再建されたものだという。岩の下に赤い柱の高床の大きな堂が建っている。階段の下に古そうな狛犬があるが、さすがに桃隣の時代にはまだなかっただろう。

 山の目は一関市の山目で国道四号線が通っていて、国立岩手病院がある。

 この後一関から南へ向かい、有壁よりさらに南へ下ると金成に出る。ここから西へ行くと津久毛橋城跡がある。この城は南北朝の頃の城で、奥州合戦の頃はこの辺りは湿地で江浦藻(つくも)が一面に茂ってたという。頼朝の二十万の軍を渡すために梶原平次景高がそれを刈り取り、敷き詰めて橋にしたというが、どういう橋なのか想像がつかない。

 古代の駅路である東山道は多賀城の辺りに分岐点があって、そこから塩釜の方へ行くのがいわゆる「奥の細道」で、七北田川渡ったところから高森山の麓の利府の菅笠へ行く道がその跡だったのかもしれない。真北よりもやや西よりに直線を引けば、黒川、色麻といった地名のある所を通る。高森山の稜線ルートは木下良氏がすでに指摘している。

 鳴瀬川のところで北東に進路を変えれば低地を避けて栗原に至る。このとき伊治城址の方へではなく、やや西寄りの直線ルートを引けば、山王囲遺跡のあたりから津久毛橋城跡のやや西を経て、厳美渓から達谷窟に至るルートができる。ここからやや東寄りにルートを変えれば衣川関跡に着く。

 頼朝の軍勢も、おそらくこうした古代道路に近い道を通ったのだろう。昔の道は水害や崖崩れなどで多少左右に曲がりくねった道になったとしても、おおむねこのルートなら津久毛橋城跡の近くを通る。

 昔は河川が流れを変えることが多く、津久毛橋近辺も従来の道が通行できなくなっていた可能性がある。そのために新たに橋を架ける必要があったのだろう。

 曾良は『旅日記』に、「タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。」と記しているように、達谷窟には行かなかった。翌日、

 

 「岩崎ヨリ金成(此間ニ二ノハザマ有)へ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。」

 

と記している。岩崎はつくも橋より西の栗駒岩ケ崎だから、芭蕉と曾良は一関から南西へ向かい、古代の道に近い別のルートを通っていたようだ。

26、古川

 「行ケば澤邊村十五丁南、川向にあねはの松アリ。則此邊栗原と云。宮野・筑舘・高清水、段々宿を來て、荒野と云宿西北ニアタリ朽木橋アリ。栗駒山則伊澤郡ノ内也。此邊よりは見ゆる也。峯高、水無月の雪猶白し。

    〇朴木の葉や幸のした凉

 古川と云宿に來て、秋山壽庵に所緣アリ。尋入て一宿。

    〇暑き日や神農慕ふ道の艸」(舞都遲登理)

 

 つくも橋から金成に戻って少し行くと迫川があり、その辺りが沢辺になる。川の向こうに『伊勢物語』第十四段に登場する栗原のあねはの松があるという。あの「くたかけ」の歌を詠んだ田舎娘がいたところだ。

 「梅若菜」の巻の二十三句目に、

 

   わかれせはしき鶏の下

 大胆におもひくづれぬ恋をして  半残

 

の句があったが、陸奥の国をさまよい歩く都から来た男に恋心を持つ女がいて、最初は恋に死ぬくらいなら蚕になるという歌を送る。それを哀れに思って男はそこに「いきて寝にけり」となるのだが、夜更けに帰ろうとするとその女は、

 

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの

    まだきに鳴きてせなをやりつる

 

と詠む。

 「きつにはめなで」は古い時代には「狐に食めなで」つまり「狐に食はさずに」というふうに解釈されていた。今で言う「恨みはらさでおくべきか」のような言い回しで、「夜が明けたなら狐に食わさでおくべきか」といったところか。

 「くだかけ」は「朽た家鶏」。「この糞ニワトリめ」といったところで、現代語訳すれば、

 

 夜があけたら狐に食わすぞ糞ニワトリ

     まだなのに鳴いて彼氏帰らせ

 

といったところか。

 それに対し男は、

 

 栗原のあねはの松の人ならば

     都のつとにいざといはましを

 

と返す。栗原のあねはの松のように待っていてくれる人ならば、都の土産に連れて行こうと思ったのに、さすがに糞ニワトリは引くわ、といったところか。

 今の四号線に沿って進むとやがて栗原市の市街地になり、築館宮野中央という地名がある。その先で再び迫川を渡るが、手前が宮野、向こう側が筑舘だったのだろう。今ではくっついてしまっている。高清水はそれよりまた南になる。

 栗駒山は北西にあり、標高1,627メートルで、江戸時代の寒冷期には夏でも雪をかぶっていたのだろう。

 荒野、朽木橋はよくわからない。荒川という川があるが、そのあたりか。

 芭蕉と曾良は真坂を通っているが、こちらの方は古代の道に近いのだろう。

 

 朴木の葉や幸のした凉      桃隣

 

 朴木(ほうのき)の葉は朴葉味噌を乗せるあれで大きく、涼むにはちょうど良い。

 江合川を越えると古川になる。ここで桃隣は一泊する。秋山壽庵がどういう人なのかはよくわからない。

 

 暑き日や神農慕ふ道の艸     桃隣

 

 神農が出てくるところをみると多分医者なのだろう。

 

 「緒絶橋、此古川の町中ニアリ。此橋の名爰かしこにありて、以上四ツは覺えたり。何も故有事にや。此所を出て夜烏と云村へかゝる。小野塚アリ。仙臺名寄を見れば、中納言廷房卿・西行法師、兩説には、當國此所と有。髑髏の説は當國八十嶋と有。此嶋有所不知。

    〇晝顔の夢や夕日を塚の上」

 是より岩手へかゝる。磐提山、則城下の名也。いはでの關此所なり。

    〇爲家の山梔白し磐提山」(舞都遲登理)

 

 古川の市街地の古川佐沼線が小さな川を渡る所に緒絶橋がある。これで四回目だ。いわき小名浜に、多賀城に、塩釜に、そして古川に、いったいどれが本物なのか。今では一応この古川の緒絶橋が有力というか有名になっているようだが。古代道路が通っているところという意味では多賀城が最有力だが。

 古川からは北西へと向かう。そこには今も大崎市古川新田夜烏という地名がある。今でも小野小町の墓と言われているものがある。ただ、小野小町の墓と呼ばれているものは日本全国に十六か所はあるらしい。どれが本物なのか。もちろん全部偽物かもしれない。緒絶橋と言い、まあ要するにわからないということだ。

 『奥の細道』では松島から石巻へ行く途中で、

 

 「あねはの松・緒だえの橋など聞伝きて、人跡稀に、雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻という湊に出。」

 

とあるが、確かに芭蕉と曾良は一関を出た後、古代道路の道筋に近い岩出山へ直線的に進むコースを取ってしまった。そのせいであねはの松と緒絶橋は通らなかった。でも、そこにないということは、両方とも本物かどうかは怪しい。

 ひょっとしたら曾良は古代の文献から古代東山道の道筋に大体の見当をつけていたのかもしれない。『旅日記』には、岩手山の「東ノ方、大川也。玉造川ト云。」と記しているが、文献から古代東山道が黒川、色麻の次に玉造駅があることを知っていたのではないかと思う。白河の関の場所も突き止めているし、かなり古代の地理を研究していたのではないかと思う。玉造川は今の江合川になり、岩出山の辺りは古代の玉造郡になる。

 

 晝顔の夢や夕日を塚の上     桃隣

 

 小野小町と昼顔との縁はよくわからない。ただ塚に昼顔が咲いていたことから、昼顔の夢の夕べに萎れるはかなさを追悼の言葉としただけかもしれない。

 江合川に沿って遡ってゆくと、陸羽東線の岩出山駅がある。このあたりの丘陵地帯が磐提山で、磐提山という峯があるわけではないようだ。

 

 爲家の山梔白し磐提山      桃隣

 

 藤原為家の詠んだ歌、

 

   洞院摂政家百首歌に、紅葉

 くちなしのひとしほ染のうす紅葉

     いはでの山はさぞしぐるらむ

                藤原為家(続古今集)

 

を思い起こしての句だろう。季節はまだ夏なので、クチナシはまだ白い花を付けているが、やがて山を黄色く染めることだろう。

27、尿前の関

 「此所より下宮と云村へ出る。さきは鍛冶屋澤、此間ニ小黒崎・水のをしまアリ。是ヨリ鳴子の温泉、前ニ大川綱渡し、彼十つなの渡し是成やと、農夫にとへどもしらず。川向ニ尿前と云村アリ。則しとまへの關とて、きびしく守ル。越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。尿前より關屋迄十二里、山谷嶮難の徑にて、馬足不立、人家纔にアリ。米穀常に不自由。別而飢渇の折節宿不借、可食物なし。二度可通所ニあらず。漸及暮關屋ニ着て、檢斷を尋、歎きよりて一宿明ス。

       山路唫

    〇おそろしき谷を㥯すか葛の花

    〇燒飯に青山椒を力かな」(舞都遲登理)

 

 下宮は陸羽東線の池月のあたりで、鍛冶屋澤は川渡温泉駅の少し先の小さな川を渡る所に鍛冶谷沢のバス停がある。池月と川渡温泉の間に小黒ヶ崎があり、

 

 おぐろ崎みつの小島の人ならば

     宮このつとにいざと言はましを

             よみ人知らず(古今集)

 

の歌がある。「みつの小島(水のをしま)」もこの近くの江合川にある。

 川渡温泉の先に鳴子温泉がある。鳴子のこけしで有名なところだ。とはいえ鳴子のこけしは文化・文政の頃からというから、この時代にはまだなかった。「舞都遲登理」には「ナキ」とルビがふってあって、当時は「なきこ」だったか。

 川に綱を渡して渡れるようにしてあったので、歌枕の「十つなの渡し」かと地元の人に聞いたが知らなかったという。今では十綱の渡しは飯坂温泉ということになっている。芭蕉と曾良は宿泊したが桃隣は素通りしたところだ。ただ、芭蕉も曾良も桃隣も十綱の渡しについて何も記してないところからすると、特に変わったものはなく、普通に川を渡っただけでななかったかと思う。『奥の細道』にも記されているように、当時の飯坂温泉は寂れていて、名前まで飯塚にされてしまっていたくらいだった。

 おそらく『奥の細道』が多くの人に読まれるようになってから、この温泉街を変えようという機運が生まれ、対岸に綱を張った渡し船を作って、ここが十綱の渡しだというキャンペーンをやったのではないか。

 鳴子の先で江合川に大谷川が合流する。この辺りに尿前(しとまえ)の関があったようだ。今では史跡として整備され、建物はないが新たに門が作られ、芭蕉の銅像も立っている。近くに日本こけし館もある。

 尿前の関は大崎市のホームページに、

 

 「戦国時代には出羽の最上と境を接する 尿前しとまえの岩手の森に、岩手の関がありました。これが 尿前の関の前身です。

 出羽の国飽海郡の遊佐勘解由宣春(鳴子、遊佐氏の先祖)が大永年間(1521年から27年)に栗原郡三迫から、名生定の湯山氏の加勢としてここに小屋館を構え、後関守となりました。

 伊達藩になってから 尿前境目と呼ばれ、寛文10年(1670年)尿前番所を設置、岩出山伊達家から横目役人が派遣され、厳重な取り締まりが行なわれました。」

 

とある。

 曾良の『旅日記』には「関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意可有之也。」とあるだけが、『奥の細道』には「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。」とある。「断六ケ敷也」は「ことわりむずかしきなり」と読む。厳しい取り調べがあったかどうかは知らないが、結構長い時間足止めされたのか、岩出山に宿泊して大した距離も進めぬまま、やむをえず堺田で宿を取り、次の日は大雨で足止めされた。そこからあの、

 

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

 

の句が生まれた。

 桃隣も「則しとまへの關とて、きびしく守ル。」とは書いている。一応はあらかじめ出手形を用意するように曾良からアドバイスを受けていたのだろう。ただ、古川から歩いてきて既に日も傾いている。

 「越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。」の笹森は山を越え山形県最上町の側に入り、堺田と赤倉温泉の間にある。ここを抜けると最上盆地になり、そこを横切った所に陸羽東線の鵜杉駅があるが、ここが桃隣の言う「うすき」だろう。鵜杉の先に瀬見温泉があり、その辺りに亀割山があるから、「かめわり坂」のその辺りだろう。そこを過ぎれば新庄だが、尿前から十二里、馬もなく途中に宿も飯屋もないため、関所の人に頼み込んで泊めてもらったようだ。

 芭蕉と曾良は新庄ではなく、堺田を出た後赤倉温泉の辺りから分岐する山刀伐峠を越える道を行き、尾花沢に抜けている。結局桃隣も尾花沢の大石田に向かうことになるのだが、ルートは不明。山刀伐峠のことに触れてないところをみると、笹森・鵜杉から舟形経由で北の新庄に行かずに南の大石田に出たか。

 

   山路唫

 おそろしき谷を㥯すか葛の花   桃隣

 

 尿前の関を過ぎると鳴子峡で急に深い谷あいの道になる。さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、こんな恐ろしい谷を隠していたか、となる。葛花は万葉集では秋の七草だが、俳諧では葛は秋でも葛の花は夏の季語になっている。

 

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

 

 焼き飯は今日のようなチャーハンのことではなく焼きおにぎりかきりたんぽのような携帯食で、おそらく具も何もなく青山椒を利かせることで食べやすくしていたのだろう。

28、最上川

 「是より尾花澤にかゝり、息を繼んとするに、心當たる方留守也。一のしに大石田へ出て、加賀屋が亭に休足。爰より坂田への乘合を求下ル。爰より彼最上川、間及たるよりも、川幅廣く水早し。左右の山續に瀧數多アリ。中にも白糸の瀧けしきすぐれたり。此川筋坂田迄二十一里、川の中、船關四ケ所アリ。尤大石田宿よりの手形、右の所々にて入ル。此聞繕乘べし。なぎ澤・清水・古口・清川、此四所なり。

    〇短夜を二十里寐たり最上川

    〇しら糸の瀧やこゝろにところてん

 坂田への入口、袖の浦・素我河原。

    〇薫るとは爰等の風か袖の浦

    〇うかれ出る色や坂田の紅衫花」(舞都遲登理)

 

 山刀伐峠の記述がないので、「笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有」という新庄への脇道を途中まで行って、舟形あたりから南へ行き、尾花沢に行ったと思われる。『奥の細道』のような「究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携え」ということにはならなかったと思われる。

 遠回りだが一気に大石田まで行き、加賀屋で休息する。加賀屋についてはよくわからない。宿泊するでもなく、軽く仮眠をとるだけで船に乗り込み酒田に向かった。

 最上川は川幅が広くて流れが速く、左右にたくさんの滝があったという。

 一方芭蕉と曾良は尾花沢清風宅に滞在し、そこから立石寺へ行ってから大石田で、

 

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

 

を発句とする興行を行う。それから最上川を下る船に乗ったから、この時は大石田の河岸から最上川を眺めただけだったのだろう。船に乗ってその流れの速さを実感し、後に、

 

 五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉

 

に改作したと思われる。

 白糸の瀧は陸羽西線の高屋と清川の間を下ってゆくと右岸にある。何段にもなって落ち、高さは一二四メートルになる。他にも大滝、轡滝などがあり、周辺の渓谷も併せて最上四十八滝と言われている。

 船関がなぎ澤・清水・古口・清川と四ケ所あり、大石田で手形を準備するように注意している。名木沢は芦沢のあたりにあり、清水は最上郡大蔵村にあり、古口は最上峡の入口で奥羽西線に駅があり、清川は出口で同様に駅がある。

 

 短夜を二十里寐たり最上川    桃隣

 

 尿前からずっと歩き続けたから、大石田のからの船でもうとうとしてたのだろう。急流で熟睡とまでは行かなかったと思う。白糸の瀧は一応見ているし。

 

 しら糸の瀧やこゝろにところてん 桃隣

 

 ところてんは「心太」と書く。心に心太。

 船で出羽三山とかは吹っ飛ばして一気に酒田に行き、象潟を目指す。

 袖の浦は最上川河口の左岸(南側)になる。素我河原は不明だが、河口左岸の河原のことか。

 

 薫るとは爰等の風か袖の浦    桃隣

 

 袖の香に掛けた句で、「薫るとは爰等の風か」と問いかけて、「袖」の浦だからと落ちにする。

 

 うかれ出る色や坂田の紅衫花   桃隣

 

 「紅衫花」には「ツシカはな」とルビがふってある。「辻が花」のことか。ウィキペディアには、

 

 「辻が花は、縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消した。現存遺品数が300点足らずにとどまることもあって「幻の染物」と称されることがある。この染物は、縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繍、摺箔などの加飾をほどこしたものであり、地はこの時代に特有な練貫地(生糸を経糸、練糸(精錬した絹糸)を緯糸に用いて織った地)が多く、製品の種別としては小袖および胴服が大部分を占めている。

 しかし、江戸時代中期に糊で防染する友禅の技法が確立、普及していくと、図柄の自由度や手間数の多寡という両面で劣る辻ヶ花は、急速に廃れ消滅した。その技法が急速に失われてしまったこと、また、その名の由来に定説がないこと(詳細後述)なども辻ヶ花が「幻の染物」と称される所以である。」

 

とある。

 ベニバナは芭蕉も尾花沢で「まゆはきを」の句を詠んでいるように、主に内陸部で栽培されていたが、最上川を使って酒田に運び、酒田から廻船で出荷されていた。その紅花を利用した辻が花がかつて酒田の名産だったのかもしれないが、これはあくまで推測。

29、象潟

 「さかたより象泻は行道、かたのごとく難所、半分は山路、岩角を踏、牛馬不通、半分は磯傳ひ、荒砂のこぶり道、行々て鹽越則きさかたなり。」(舞都遲登理)

 

 「かたのごとく」は「形の如く」で「形式どおりに。慣例に従って。」という意味だが、ここでは「例によって」「大方の予想通り」って感じか。

 吹浦から先の海岸線は山が迫っていて、山を越える時は岩場で牛や馬は通れず、海に出れば荒砂が風に舞い、吹きつけてきたのだろう。

 曾良の『旅日記』にはもう少し詳しく記されている。

 

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

 

 吹浦の先に羽越本線の女鹿駅があるから、その辺りから難所だったのだろう。大師崎、三崎は今は三崎公園になっている。羽後三崎灯台もある。その先に小砂川の集落があり開けた土地があり、羽越本線の小砂川駅もある。

 奈曽川の手前に今でも象潟町関という地名がある。有耶無耶(うやむや)の関は「むやむやの関」とも言う。「うやむや」だと有るか無いかという意味で、有るとも無いとも言えるとなるとうやむやになる。

 ただ有耶無耶の関は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説もあり、結局よくわからない。

 塩越(鹽越)は今の羽越本線の象潟駅がある辺りで象潟の中心部になる。皇后山干満珠寺(蚶満寺)もここにある。

 

 「蚶泻眺望 小島の數七十八。東鳥海山。西荒海。町の末板橋の下、晝夜潮の指引有て、滿干毎に泻の姿異也。皇宮山干滿珠寺、額月舟筆、鐘樓山・西行櫻・閻魔堂・骨堂 袖掛堂是也・阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂・冠石・神明腰掛石・兩玉山光岩寺・山光山淨専寺・青塚・若宮・塔ヶ崎・物見山・船着八幡・熊野堂・二堂・三石・堤留・鯨濱・稻賀崎・鼾崎・大石・伊佐野神山・火打山・烏石・上日山・森問・高嶋ノ辨才天・下白山・海人森・大鹿渡・唐渡山・十二森・漕當・男泻・女泻・腰長・合歡木・大師崎・八騎濱・女鹿渡・雎鳩巌・八ツ嶋・能因島。

 松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。

    〇きさかたや唐をうしろに夏構

    〇能因に踏れし石か莓の花

      芭蕉に供せられ曾良も、此地に

      至りて

    〇波こさぬ契りやかけしみさごの巢」(舞都遲登理)

 

 「蚶泻」も「きさかた」と読む。「舞都遲登理」の序文にもこの文字で書かれていた。かつては入り江の中にたくさんの小島があったが、文化元年(一八〇四年)の象潟地震で隆起して今は田んぼになっている。松島が当時は「五十七嶋」だったが、象潟はそれより多い七十八島と言われていた。東に鳥海山を望み、西には日本海の荒海がある。

 象潟の当時の町と蚶満寺との間で象潟は日本海とつながっていて、そこに板橋が架けられていた。そこから海水が流れ込むことで象潟は干潮時と満潮時で姿を変えていた。今は象潟川になっている。

 曾良の『旅日記』に「象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。」とあるのも同じ橋であろう。

 「皇宮山干滿珠寺」は曾良の『旅日記』には「皇宮山蚶弥寺」になっているが、これは曾良の書き間違いだろう。今は皇宮山蚶満寺(かんまんじ)だが、ウィキペディアによると、創建時には「皇后山干満珠寺」と号したという。月舟筆の額があったようだが、曹洞宗の僧で金沢大乗寺にいた月舟宗胡の方か。

 蚶満寺は室町時代に連歌師の梵灯が訪れたときは、

 

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。」(「梵灯庵道の記」)

 

と荒れ果ててはいても、大きな寺で、垂迹の神社もあった。

 鐘樓山は蚶満寺の鐘楼堂のことか。

 西行桜は『奥の細道』に、

 

 「先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、『花の上こぐ』とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。」

 

とある。能因島は今も地名が残っていて蚶満寺の南側にある。西行桜は蚶満寺にあったと言われている。

 骨堂は蚶満寺の納骨堂か。

 袖掛堂は袖掛地蔵堂のことであろう。

 阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂なども蚶満寺にあったのだろう。

 冠石は象潟海水浴場の方に地名が残っている。

 神明腰掛石は親鸞腰掛石のことか。

 兩玉山光岩寺は塩越の南の方にある。

 山光山淨専寺は塩越の北の方にある。

 青塚は日本海側で、青塚山砲台場がある。

 若宮は淨専寺の隣にある若宮八幡宮のことであろう。

 塔ヶ崎は不明。唐ヶ崎ならある。

 物見山は象潟川の河口南側にある。

 船着八幡は象潟川の北側にある。対岸にある熊野神社が熊野堂であろう。

 烏石は高泉寺の近くにある烏島のことか。

 土地が隆起してすっかり地形が変わってしまったため、かつての名所が今のどこなのかわかりにくく、とりあえず分かったものを列挙したが、また判明したものがあったら付け加えていくことにしよう。

 桃隣が「松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。」というときの倭国十二景はおそらく大淀三千風の本町十二景のことではないかと思う。三千風の主張する十二景は次の通りで、世に知られた地であった。

 田子の浦、松島、箱崎、橋立、若浦、鳰海、厳島、蚶潟、朝熊、松江、明石、金沢の十二で、コトバンクの「事典・日本の観光資源の解説」も、

 

 「[観光資源] 明石 | 朝熊 | 天橋立 | 厳島 | 金沢 | 蚶(象)潟 | 田子浦 | 筥崎 | 琵琶湖 | 松江 | 松島 | 和歌の浦」

 

と一致するので、元ネタは三千風の「本朝十二景」であろう。三千風は談林時代、西鶴の大矢数と張り合って、三千句興行をやった所からこの名前がある。伊勢の生まれだが寛文九年(一六六九年)に松島に行き、そのまま仙台に住み着いた。天和三年(一六八三年)から七年かけて日本全国を行脚し、「本朝十二景」もそこから生まれたものであろう。朝熊は伊勢の朝熊、金沢は金沢八景、鳰海は琵琶湖のこと。

 

 きさかたや唐をうしろに夏構   桃隣

 

 夏構は「なつがまえ」で夏姿というような意味か。「唐をうしろに」は中国のどの絶景も及ぶまいということだろう。

 

 能因に踏れし石か莓の花     桃隣

 

 象潟には能因島があるように、能因法師が滞在したところで、

 

 世の中はかくても経けり象潟の

     海士の苫屋をわが宿にして

              能因法師(後拾遺集)

 

の歌を残している。象潟に来るとその辺の石も昔能因が踏んだ石ではないかと思えてくる。石には苔が生えていて、苔の花が夏の季語になる。

 

   芭蕉に供せられ曾良も、此地に

   至りて

 波こさぬ契りやかけしみさごの巢 曾良

 

 この句は『奥の細道』には、

 

   岩上に雎鳩の巣をみる

 波こえぬ契ありてやみさごの巣  曾良

 

の形で載っている。

 自筆本『奥の細道』でも既にこの形になっている。曾良の『俳諧書留』には見られない句なので、帰ってきてから作った句の初案だったのだろう。

 ミサゴを表す「雎鳩」の文字は『詩経』の「關雎」から来たもので、

 

 關關雎鳩 在河之州

 窈窕淑女 君子好逑

 仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいるように、

 奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。

 

に始まる。仲睦まじいミサゴの巣を見て、

 

 君をおきてあだし心をわが持たば

     末の松山浪も越えなむ

            よみ人知らず(古今集)

 

のような契りがあったのだろう、という句だ。ミサゴは英語でオスプレイといい、ホバリングの状態から急降下して獲物を取る。

30、うやむやの関

 「此所より右の道筋を坂田へ戻る。尤此時所により津輕・南部・越後筋へ順よし。一里出てうやむやの關アリ。東鑑に、大關笹谷峠の事也。奥州にアリト云々。きさかたのうやむや覺束なし。

    〇うやむやの關やむやむや鬼人艸」(舞都遲登理)

 

 象潟から北上すれば津軽に行け、東へ行けば南部(岩手)へ行けるが、ここで桃隣も酒田へ引き返す。芭蕉さんは津軽から蝦夷へ行きたかったようだが、これから寒くなるから早く戻らなくてはいけないと曾良に諭されてしぶしぶ酒田へ引き返し、越後へと向かった。

 桃隣もまた無理はせずに出羽三山へと向かう。

 うやむやの関は来る時にも通ったはずだが、帰り道にもってきたのは、桃隣も山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説を知っていて、疑ってたからだろう。

 うやむやの關やむやむや鬼人艸  桃隣

 

 「むやむや」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)

  ① =むらむら(群群)②

  ※漢書列伝景徐抄(1477‐1515)陳勝項籍第一「そこそこでむやむやと、人が多になったほどにぞ」

  ② 怒りや嫉妬(しっと)の気持でもだえるさまを表わす語。

  ※評判記・色道大鏡(1678)五「末席には目をひそめ後指をさすやうにもおもはれるればむやむやとわくより外のことなし」

 

とある。①は今の「わらわら」に近い。②は「もやもや」に近い。

 まあ正確な位置のはっきりしない「うやむや」にもやもやしたものが残るのは確かだ。

 「鬼人艸」はよくわからないが、鬼草(テングサ)のことか。心太の原料で夏の季語になる。形状からしてもやもやしている。

31、羽黒山

 「坂田より羽黒山はかゝる。麓に手向町、旅人舎リ所也。此所に芭蕉門人圖子呂丸迚誹士アリ。四年以前洛の土に成ぬ。其所緣はと尋入ル。亡跡は見事に相續して、賑敷渡世す。登山の日和窺がてら滞留。彼の門弟今は便もなくよりそふべきたつきもなかりし處に、かくと聞より詰かけての誹談みだれたる糸筋のもと末もわかず。いざゝらば圖子が懐舊を述んと、坐をしめて見るに、庭のたゝずまひ、むかしになん替らずと云。松は五葉、ことごとしき捨石は莓に埋れ、こゝろなき非情の有樣、淵瀬のさかひをしらざりき。

    〇樹も石も有のまゝなり夏坐鋪  桃隣

       音をいれ際のたかき鶯   露茄

     朝力鉄の錠を引かねて     則堂

       峯よりすつと兀辷ル砂   呂州

     十六夜の光納る六つの鐘    助曳

       案山子を齅で通る獸    普提

 右一巻となして靈全に備ふ。彼呂丸ハ一度風雅の眼を開き、四十にたらずして、行事本意なかるべし。師の信を感じて、門人此道を捨ず、己同士勵とぞ。」(舞都遲登理)

 

 酒田から羽黒山の麓の手向町に行く。芭蕉と曾良が来た時には手向荒町に近藤左吉(俳号露丸・呂丸)がいた。そのときは、

 

 有難や雪をかほらす風の音    芭蕉

   住程人のむすぶ夏草     露丸

 

で始まる興行も行われた。近藤左吉は『奥の細道』では図司佐吉になっている。桃隣は図子呂丸と呼んでいる。

 残念ながら呂丸は元禄九年夏より四年以前(三年以上前)、元禄六年二月に京都で亡くなっている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「江戸前期の俳人。姓は図司,また近藤,通称は左吉。啁栢堂(とうはくどう)と号す。出羽手向(とうげ)村で染物業を営んでいたが,“おくのほそ道”の旅で来遊した芭蕉に入門,この時《聞書七日草》(呂丸聞書)を残した。1692年江戸に芭蕉を訪ね《三日月日記》を与えられた。伊勢参宮ののち,京の支考を訪ねたが,翌年の2月2日京で客死。《陸奥鵆(むつちどり)》によると40歳に達しなかったらしい。〈苔の実や軒の玉だれ石の塔〉(《三山雅集》)。」

 

とある。図司とも近藤ともいうというのは、古来の姓(藤原、平などの)でも武家の苗字でもなく、庶民の間で用いられた俗姓であろう。後を継いだのは桃隣の発句に脇を付けている露茄であろう。

 桃隣が来たというので、今は疎遠になっていたかつての呂丸の門弟たちもあつまってきたものの、かつて習ったことをすっかり忘れてしまってたようだ。そこを露茄が呂丸の思い出や教わったことなど話そうと庭を見ると、昔と変わってないとは言うものの、石は苔に埋もれて荒れ果てていた。変わってないというのは放置されてるということだった。放置(淵)と維持(瀬)の区別もつかないのか。

発句

 

 樹も石も有のまゝなり夏坐鋪   桃隣

 

 これは、ちょっと皮肉めいた発句ではある。これに

 

   樹も石も有のまゝなり夏坐鋪

 音をいれ際のたかき鶯      露茄

 

と返す。鶯の季節も終わってしまい、鶯は高く飛び立ち、すっかり夏の荒れ果てた景色になってしまいました。鶯は亡き父の象徴であろう。

 露茄の方からすれば、亡き父の庭に勝手に手を入れるよりも、あくまでもそのままにしておきたいという気持ちだったのだろう。その気持ちもわかる。

第三

 

   音をいれ際のたかき鶯

 朝力鉄の錠を引かねて      則堂

 

 「朝力」はよくわからないが、朝で力が入らず門の鉄の錠を開くことができないということか。

四句目

 

   朝力鉄の錠を引かねて

 峯よりすつと兀辷ル砂      呂州

 

 「兀辷ル」の読み方がわからない。「兀」は忽然と聳える様だが、「兀々(こつこつ)」は真面目にという意味。「辷」は滑ることをいう。意味としては峯の高いところから砂が滑り落ちてくるということだろう。

 峯の高いところにある岩屋で修行している人がいて、その人が錠を開けようとして崖の下に砂を落とすということか。

五句目

 

   峯よりすつと兀辷ル砂

 十六夜の光納る六つの鐘     助曳

 

 明六つは卯の刻で日の出の頃。十六夜の月も西に傾き、沈もうとしている。助曳は桃隣の旅にずっと付き従っている。月の定座だがあえて「月」の字を入れず「十六夜」で月としている。

六句目

 

   十六夜の光納る六つの鐘

 案山子を齅で通る獸       普提

 

 「齅」は嗅に同じ。「獣」は「けだもの」。明け方に夜活動するシカやイノシシも帰ってゆく。

 「右一巻となして」とあるから続きもあったのだろう。歌仙か半歌仙かはわからないが一巻を呂丸の霊前にお供えする。

 

 「羽黒ヨリ庄内鶴ヶ岡へは三里也。城下近ク行水、梵字川と云。水上は湯殿山。

    〇夏百日身は潔白よ梵字川」(舞都遲登理)

 

 鶴岡市は羽黒山手向町の西にある。梵字川は今は上流の方だけを示す名称で、湯殿山を水源として大鳥川と合流し、赤川になる。鶴岡の城下を流れる川は今は赤川になっている。

 

 夏百日身は潔白よ梵字川     桃隣

 

 「夏百日」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「げ」は「夏」の呉音。「夏」は、ほぼ百日間であるところから) 夏の期間。また、その間、夏籠(げこも)りすること。《季・夏》

  ※浮世草子・好色万金丹(1694)一「夏(ゲ)百日の間酒と煙草を断ちけるも始末のうち也」

 

とあり、夏安居とも夏行ともいう。夏は虫が多いため、それを踏んで殺生をしないために籠って修行する。

 夏安居の季節にこうやって旅をしているが、罪は清められています。梵字川で清めたから、というところか。

 

 「六月十五日ハ羽黒山祭禮、三所權現神與御出、鉾幡・傘鉾計ニテ、境内纔一丁計廻リ、其儘本社へ入せ給ふ。繕はぬ古例、謂レ有事とや。近郷擧テ詣ス。

    〇五十間練ルを羽黒のまつり哉

    〇吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ」(舞都遲登理)

 

 出羽三山神社のホームページには、

 

 「昔は陰暦の四月八日から七月十四日までの九十六日間、羽黒三所権現の宝前に花を供えて、始夜(深夜)と後夜(未明)に鐘を撞いて現世・後世の安穏と菩提を祈るところから、「花供の峰」ともいう。この期間中は諸国の末派山伏が信徒や弟子山伏等を率いて入峰することから「夏の峰」と呼び、煩悩多き現世から悟りの彼岸に駆ける修行としていた。この夏の峰中の盛儀が、六月十五日(陽暦の七月十五日)、羽黒山頂で行われる花祭りなのである。」

 

 現在は明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで七月十四・十五日の二日間行われる。

 桃隣の時代は神輿、鉾幡、傘鉾が百十メートルほどの境内を一周するだけのシンプルなものだったようだ。近郷から人が集まって賑わっていた。

 

 五十間練ルを羽黒のまつり哉   桃隣

 

 一丁は六十間だが、五七五に収めるためか五十間とさらに短くなっている。まあ、正確に測ったわけでないから大体の数字だが。

 

 吹螺に木末の蟬も鳴止ぬ     桃隣

 

 しきりに法螺貝を吹いてはいても、蝉は泣き止まない。

 

 「手向町より神宮まで四十丁、石の階、半途に祓川、此所にて垢離をとる。森々たる杉の間より瀧落、水の烟はくりから不動の腰を廻る。修檢横行の珠數の音、邪欲煩悩の夢を覺ず。

 遙に見れば五重の塔、是は鶴ヶ岡城主建立たり。別當は若王寺、高山の岨を請ておびたゞしき一構、風景いふに及ず。同隱居南谷に菴室、風呂の用水は瀧を請てたゝえ、厠は高野に同じ。

    〇水無月は隱れて居たし南谷」(舞都遲登理)

 

 手向町から羽黒山の神宮(当時は修験の場で若王寺宝前院とそれに付随した神社があった。)までは四百四十メートルくらいで、石段があり途中に祓川(今の京田川)がある。「垢離(こり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう) 神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこった。水ごり。

  ※山家集(12C後)下「あらたなる熊野詣でのしるしをば氷のこりに得べき成けり」

 

とある。

 滝は今の須賀の滝で昔は不動滝と言った。今は滝の前に岩戸分神社と祓川神社の社があり、その間に小さな不動像があるが、昔は不動がメインで、立派な不動像が建っていたのだろう。辺りには修験者がたくさんいて、その数珠の音が響き渡っていた。

 その先へ登ってゆけば五重の塔がある。ウィキペディアには、

 

 「平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。

 塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。」

 

とある。桃隣は「鶴ヶ岡城主建立」と書いているが、最上義光が修理したことで銘か何かがあって勘違いしたか。

 「別當は若王寺」とあるのはこのあたりの神社や修験の場を統括する別当のいる寺が若王寺という意味。若王寺宝前院のことをいう。

 芭蕉と曾良は本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門から状添を渡し、別当代会覚阿闍利に謁し、南谷の別当代の隠居所、別院紫苑寺に宿泊したが、これも曾良の人脈の力であろう。桃隣はただただ若王寺の大伽藍に驚き、南谷の隠居所も滝から水を引いた風呂と、高野山のトイレと同様の川の水に流す水洗式のトイレを見て、

 

 水無月は隱れて居たし南谷    桃隣

 

と、泊まりたかったなとこぼすのだった。

32、月山・湯殿山

 「湯殿山へ登るに、麓は晴天、山は雨、漸月山ニ詣て、雪の嶺牛が首と云岨に一宿。

 早天湯殿院へ詣ス。諸國の参詣、峯溪に滿々て、懸念佛は方四里風に運び、時ならぬ雪吹に人の面見えわかず。黄成息を吐事二万四千二百息。」(舞都遲登理)

 

 芭蕉や曾良は南谷から月山に登り、山頂付近の角兵衛小屋に泊まり、翌日湯殿へ行って戻って南谷へ戻った。桃隣もまた月山に登ったが、この日は雨で何も見えなかっがのだろう。

 麓は晴れていても山には雲がかかり雨が降ることはよくある。待った割にはいい天気とは言えないが、滞在期限が来てしまったか。

 月山の山頂付近は「雪の嶺」で、そこから湯殿山方面に少し降りると牛首小屋がある。曾良の『旅日記』にも、

 

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。」

 

とある。ここで一泊した。

 翌日、朝早く湯殿山に向かう。大勢の参拝客が訪れていたが、水無月だというのに季節外れの吹雪で人の顔も分からないほどだったという。今では考えられないことだが江戸時代の寒冷期にはこういうこともあったのだろう。

 「懸念佛」は「掛念仏(かけねんぶつ)」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 =かけねんぶつ(掛念仏)

  ※俳諧・口真似草(1656)一〇「つつしんできくや言葉の申次、談義のあとに又かけ念仏(ネフツ)〈信徳〉」

  〘名〙 念仏講などの講中で、鉦(かね)や木魚をたたき、高声で掛け声して念仏を唱えること。かけねぶつ。

  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)三「大鉦うち鳴して掛念仏(カケネンブツ)申すを法花のかたより是を嫌ひ」

 

とある。

 「黄成息を吐事二万四千二百息。」というのは、よくわからないが白い息をはあはあしてたということか。

 

 「抑御山は靈現あらたにして、神秘の第一也。嶮莫の峯天をつらぬき、雪の花は常盤の枝をささえ、二丈の氷硲峒にしたたり、銀竹は瀧の俤をなす。樹は地に伏て、共に穿つ。草は土中に薶瘞ス。其氣色全臘月のごとし。兩權現の外、靈地の奇瑞、人々の踊躍の歡喜をなし、一度詣ては年々思をかくるが故に、戀の山とは申也。堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。いよいよ敬て、つゝしむべきは此御山成けらし。

    〇大汗の跡猶寒し月の山

    〇山彥や湯殿を拝む人の聲

      曾良登山の比

    〇錢踏て世を忘れけり奥の院」(舞都遲登理)

 

 「嶮莫」の莫には山偏がついているが、フォントが見つからなかった。「硲峒」の「硲」は谷間のこと。「銀竹」はつららのこと。

 月山の山頂には雪の花が咲き、二丈(約六メートル)の氷が谷の洞窟にあり、つららは瀧のようだという。

 「薶瘞(はいえい)」は埋もれること。木は地に伏すように生え、草は土に埋もれ、その景色は十二月(臘月)のようだという。

 「戀の山」とは言っても性的な意味はない。このような恋の用法は、元禄二年九月の「はやう咲(さけ)」の巻の十三句目。

 

   書物のうちの虫はらひ捨

 飽果し旅も此頃恋しくて     左柳

 

にも見られる。

 「堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。」は湯殿山のことだろう。『奥の細道』にも、

 

 「惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」

 

とあり、

 

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな   芭蕉

 

の句が詠まれている。

 

 大汗の跡猶寒し月の山      桃隣

 

 月山に登るには大汗をかくが、動くのをやめると途端に寒くなる。

 

 山彥や湯殿を拝む人の聲     桃隣

 

 湯殿山には大勢の人が参拝に来ていて、その声が湯殿山に木魂している。

 

 錢踏て世を忘れけり奥の院    曾良

 

 これは『奥の細道』の旅の時の句で、曾良の『俳諧書留』には、

 

 錢踏て世を忘れけりゆどの道   曾良

 

になっている。『奥の細道』では、

 

 湯殿山銭ふむ道の泪なみだかな  曾良

 

に改められている。

33、山形

 「登り下り凡十五里也。御山への登り口、都て七口、尊き光を得て、幾かの人民身命を繋ぎ、國豊なり。しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。此所より廿丁東、チトセ山をのづから松一色にして、山の姿圓なり。麓に大日堂・大佛堂、後の麓ニ晩鐘寺、境内に實方中將の墓所有。佛前の位牌を見れば、

 當山開基右中將四位下光孝善等

 あこやの松、此寺の上、ちとせ山の岨に有けるを、いつの比か枯うせて跡のみ也。はつかし川は、ひら清水村の中より流出る。ちとせ山の麓也。

    〇秋ちかく松茸ゆかし千載山

      最上市

    〇野も家も最上成けり紅の花」(舞都遲登理)

 

 「登り下り凡十五里」は手向町より湯殿山まで十五里ということか。登り口は都(すべ)て七口あるという。

 今の登山コースでも、湯殿山口、羽黒山口、肘折口、岩根沢口、本道寺口、志津口、装束場口の七口になっている。

 「しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。」とあるように、桃隣は志津口へ下り、山形城下へ出た。

 志津口は牛首から南へ下るコースで、寒河江川に出る。今はダムがあって月山湖になっている。寒河江川に沿って下れば天童に出る。そこを南へ行けば山県の城下に出る。

 千歳山は山形城の南東になる。円錐形のきれいな形の山で、全山が松に覆われているという。南側の麓に平泉寺大日堂がある。大仏堂もかつては存在していたらしく、山形市のホームページによれば、

 

 「実は、かつて千歳山に大仏がありました。寛文12年(1672年)、山形城主であった奥平昌章公は、千歳山の南側に大仏殿六角堂を建立し、木造の巨大な釈迦如来を納めました。その大仏は約9メートルもあったといわれています。残念ながらその後、火災で消失してしまいました。

 現在の山形市でもその片りんを見ることができます。江戸時代末期に大仏の再建が試みられましたが、頭部のみの制作にとどまりました。作られた頭部は現在、平清水にある平泉寺の大日堂に納められています。」

 

とのこと。

 晩鐘寺は今の萬松寺(ばんしょうじ)のことであろう。千歳山の北側の麓にある。阿古耶姫と実方中将、十六夜姫の墓が並んでるという。

 あこやの松は『平家物語』にも出てくるし、謡曲『阿古屋松』にもなっている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「謡曲。脇能物。廃曲。世阿彌作。陸奥の阿古屋の松に案内された藤原実方の夢の中に塩釜の明神が現われ、松の徳をたたえる。」

 

とある。

 

 みちのくの阿古屋の松に木隠れて

     出づべき月の出でもやらぬか

              よみ人知らず(夫木集)

 

の歌にも詠まれている。

 はつかし川は平泉寺の方を流れる小さな川で、今でも平清水という地名が残っている。これも十六夜姫の伝承に属するもので、

 

 いかにせん写る姿はつくも髪

     わが面影ははずかしの川

 

という十六夜姫(中将姫)の歌が伝わっている。

 そこで桃隣も一句。

 

 秋ちかく松茸ゆかし千載山    桃隣

 

 松がびっしりと生えている千歳山を見て、やっぱり松茸食べたいなと思うのが俳諧だ。

 

   最上市

 野も家も最上成けり紅の花    桃隣

 

 芭蕉は尾花沢で紅花を詠んだが、最上市も紅花の産地。最上(もがみ)の名に最上(さいじょう)を掛けて詠む。曾良の『俳諧書留』には、

 

   立石の道にて

 まゆはきを俤にして紅ノ花    翁

 

とある。尾花沢から立石寺に行く間に詠んだ句であろう。

34、立石寺

 「寶珠山・阿所川院・立石寺 所ノ者は山寺と云 城下ヨリ三里、慈覺大師開基。山ノ頂上ヨリ曲峒の立石、碧落に登テ、雲頭ヲ蹈ム。嶮難百折ノ靈地、仍、立石寺と名付給ふ。

 對面石・文殊堂・藥師堂 毘沙門天傳教大師・金剛鰐口、是は主護義光朝臣寄進也。清和天皇御廟・三王權現 三月廿五日祭禮近郷氏神・常行念佛堂 此本尊彌陀・御手洗 則阿所川・御枕石・眞似大師御手掛石・無手佛。半途ニ十王・奥院 三十番神十羅刹女・獨鈷水・骨堂・寶蔵・胎内潜・十王堂・印ノ松・慈覺堂・經堂・五大堂・白山堂・地蔵堂・不動堂・十八坊・天狗岩・タチヤ川。

    〇閑さや岩にしみ入蟬の聲  芭蕉

    〇山寺や人這かゝる蔦かつら 仙花

    〇山寺や蔦も榎木も皆古風  風仙

    〇山寺や岩に屓ケたる雲の峰 桃隣」(舞都遲登理)

 

 立石寺は宝珠山阿所川院立石寺という。立石寺は古代日本語の音ではリプシャクジだったのだろう。それがリッシャクジになって今に残っているが、京の方では「ふ(ぷ)」の音が音便化してリウシャクジになったと思われる。山寺という名でもよく知られている。

 碧落は青空のことで、天に向かって聳える切り立った岩にこのお寺は作られている。

 対面石は山寺観光協会のサイトによると、

 

 「慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。」

 

という。仙山線山寺駅から山寺へ向かってゆくと、立谷川を渡る宝珠橋の向こう側にこの対面石がある。

 「文殊堂」は今はないのか、よくわからない。

 薬師如来は立石寺の御本尊なので、「藥師堂」は根本中堂のことか。木造薬師如来坐像は十二世紀の平安時代のものとされている。

 「毘沙門天傳教大師」は木造毘沙門天立像のことであろう。九世紀、立石寺開基の頃のものとされている。これも根本中堂にある。金剛鰐口も根本中堂にある。鰐口はお祈りするときにカーンとならすあの円盤状の鐘で、最上光直が兄の義光の長寿息災を祈って寄進したという。

「清和天皇御廟」は今はないのか御宝塔だけがある。立石寺の開基は清和天皇の勅願によるものとされている。

 「三王權現」は山王権現のことで、根本中堂の脇にある日枝神社のことであろう。旧暦の三月二十五日に祭礼が行われる近隣の人々の氏神様だった。

 「常行念佛堂」は山門の前にある念仏堂のこと。御本尊はにっこり笑顔の「ころり往生阿弥陀如来」。

 「御手洗 則阿所川」は阿所川という川があって、そこが御手洗だということか、これもよくわからない。

 山門を入って少し行くと姥堂があって、山寺観光協会のサイトによると、

 

 「ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。」

 

とあるが、ここが御手洗かもしれない。

 「御枕石」は御休石のことか。慈覚大師が腰を下ろして休んだと言われている。奥院へ登ってゆく道の途中にある。

 「眞似大師御手掛石」はそれよりやや手前にある御手掛石のことか。

 「無手佛」はよくわからないが、宝物館にある右肩以下が失われた阿弥陀如来立像か。

 「十王」は仁王門にある。ここをくぐれば「奥院」になる。もっとも今の仁王門は嘉永元年(一八四八年)に再建されたもので、桃隣の頃のものではない。

 ここまでの凝灰岩の岩肌には、板碑型の供養碑・岩塔婆が数多く刻まれている。姥堂で服を着替えるのは、ここから先があの世だという意味があり、その上にあるこの巨大な岩すべてが死者の霊の弔う墓石ともいえる。

 芭蕉の、

 

 閑さや岩にしみ入蝉の声     芭蕉

 

の句もまた、この岩にはかなく死んでいった無数の蝉のような命がしみ込んでいるのを感じたのであろう。宿に荷物を置いて夕暮れ時に訪れ、芭蕉が聞いた蝉は、おそらく悲しげなヒグラシの声だったと思われる。

 「三十番神十羅刹女」は奥院如法堂に安置されている。

 「獨鈷水」は慈覚大師が独鈷で突くと水が湧き出したといわれる湧き水で、奥院如法堂の前にあったという。

 「骨堂」は死者の遺骨の一部を立石寺奥院に納める習慣があり、そのための納骨堂であろう。

 「寶蔵」も昔は奥院にあったのだろう。今は根本中堂の方に立派な宝物殿が建っている。

 「胎内潜」は仁王門からそれほど行かないところにある胎内堂で、岩の迫る道を這って進む胎内潜りができる。

 「十王堂」はよくわからない。仁王門の所にあったという説もある。

 「印ノ松」もよくわからない。松の木だったら既に枯れてしまったか。

 「慈覺堂」もよくわからない。今の開山堂の所にあったか。開山堂は嘉永四年(一八五一年)に再建された。

 「經堂」は開山堂の横の岩の上に建つ小さな納経堂のことか。

 「五大堂」は五大明王を祀る堂で、開山堂の先にある。

 「白山堂」は五大堂のそばにある白山神社のことであろう。

 「地蔵堂」はよくわからない。

 「不動堂」もよくわからない。

 「十八坊」もよくわからない。

 「天狗岩」は五大堂の先にあるという。

 「タチヤ川」は下を流れる立谷川で間違いないだろう。

 

 閑さや岩にしみ入蟬の聲     芭蕉

 

これはもういいだろう。

 

 山寺や人這かゝる蔦かつら    仙花

 

 山寺の急な石段に人は這うように登り、岩には蔦がからまっている。仙花は仙化のこと。

 

 山寺や蔦も榎木も皆古風     風仙

 

 蔦や榎に限らず、ここではすべてが古風に見えるということだろう。

 

 山寺や岩に屓ケたる雲の峰    桃隣

 

 「屓ケたる」は「負けたる」で、山寺の切り立つ岩は雲の峰にも勝る。

35、桑折

 「山形より山路を經て、ゆの原へ出ル。わたる瀬村と關村の間に、飛不動、堂守は茶を煎て往來に施ス。いつの比か飛騨匠、一夜の内に堂建立せんと暫して、良材を集初けるに、半に鷄の聲聞ゆ。夜は明たりと大願むなしく成ぬ。角の柱は崖に連て岩と成ル。今見るに八寸の角を雙べて、幾重竪に立たるがごとし。彼岩の頂は幽に見えて、前は早川也。組立たる岩の高サ八十丈余、横二百丈余、往來の貴賤暫足を留、膽を動ス。是より段々出て桑折に着ク。田村何某の方に休足。」(舞都遲登理)

 

 山寺を出ると羽州街道を通って桑折(こおり)へ出る帰り道になる。桑折というと飯坂温泉から伊達の大木戸へ行く間だった。

 山寺を出ればまずは山形城下の山形宿、奥羽本線蔵王駅の辺りにあった松原宿、そのすぐ南の黒沢宿、そしてかみのやま温泉のある上山宿から南の山の中に向かい、楢下、そして金山峠を越えれば干蒲、白石川に沿って下れば七ヶ宿町湯原(ゆのはら)に出る。

 関はそこからかなり先になる。渡瀬宿はその次の宿だが、残念ながら渡瀬宿は七ヶ宿ダムができたことによって七ヶ宿湖の底に沈んでしまった。ただ、材木岩はダムのすぐ下に残っている。幅は約100m、高さは約65mで、桃隣の見立てだと幅二百丈余は六百メートル、高さ八十丈余は二百四十メートルだから、かなり差がある。材木岩はダムの上の方まで続いていたのかもしれない。

 材木のように見えるのは柱状節理と呼ばれる玄武岩や安山岩が柱状になったものだからだ。

 飛不動は材木岩の対岸にあり、飛不動跡地の説明書きには、

 

 「ご由来記によると天正十九年(一五九一年)仙台藩伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂消失の際本尊不動明王は後方虎岩三十丈余りの高き岩窟に飛んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛不動明王と尊崇され大勢の参詣者を得た。

 現在飛不動尊堂は旧七宿街道江志峠(後方これより約一・五キロ)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている   別当 清光寺」

 

とある。

 野火は文禄三年(一五九四年)の業火で、今は違う場所にあるのは享保十六年(一七三一年)の大地震により虎岩が崩落の崩落と享保十九年に新しい道ができたため、そこに新たに建立されたという。新しい飛不動の方は今もある。

 「堂守は茶を煎て往來に施ス」というのは唐茶のことであろう。隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。

 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

 

とある。

 さて、材木岩を後にすると、街道は白石川を離れ、今の県道46号白石国見線に近いコースで七ヶ宿峠を越えて桑折へ出る。田村何某氏の所に泊まり、この時『陸奥衛』二巻「むつちとり」にある、

 

 誰植て桑と中能紅畠       桃隣

 

を発句とする歌仙興行が行われたのだろう。桑と仲良く紅畠というのは、羽州街道で桑折と紅花の産地である山形とが結ばれていることを言うのであろう。

 脇がその田村何某氏であろう。

 

   誰植て桑と中能紅畠

 蓬菖蒲に葺隠す宿        不碩

 

 この宿は桑でも紅花でもなく、屋根に生えた蓬と端午の節句で軒に差した菖蒲に隠れてしまっています、と答える。四月にここを通った時に立ち寄ってくれなかったことがちょっと不満だったのかな。

 第三は桃隣とずっとともに旅をしてきたこの人。

 

   蓬菖蒲に葺隠す宿

 陰の膳旅の行衛をことぶきて   助叟

 

 「陰の膳」は陰善(かげぜん)のことで、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「旅などに出た家人の無事を祈って,留守のものが仮に供える食膳。長旅,出漁,出稼ぎ,出征などに行われ,椀(わん)のふたに露がつくと無事,つかねば凶としたりする。不在者も家族と同じものを分けて食べることにより一種の同席意識が生じるとみられる。」

 

とある。場面を転じて、旅に出た家族の帰りを待つ情景とする。

 

 「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ

       天神社造立半

    〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)

 

 この黄金天神についてネット上では情報がほとんどないし、結局桃隣のこの文章が唯一の情報ソースとなっている。朝日山萬歳楽院法圓寺のホームページでも、

 

 「天神様あるいは、天満天神、天満大自在天神は菅原道真公が神格化して、学問の神様として、広く信仰されております。近江の国の「北の天満宮」、九州「太宰府天満宮」は有名ですが、法圓寺にお祀りしてあります天神様は通称『黄金天神』あるいは『宮嶋天神』としたしまれ、不思議の縁により當法圓寺に祀られ、古くから人々の信仰を集めておりました。この天神様の縁起を紹介するものとして、元禄九年(一六九六)芭蕉の甥の天野桃隣が出しました俳諧集『むつちどり』にも次のように記載されております。」

 

とあり、「舞都遲登理」の文章が引用されている。引用のあと、

 

 「とありますように、法圓寺の黄金天神は元禄時代にはすでにお祀りされており、文化の守護神として、あるいは、雷神として、人々の信仰帰依を得ていたようです。

享保四年(一七一九)に出されました俳諧集『田植塚』にもその当時の法圓寺の境内図が描かれてありますが、そこには梅の古木と蓮池と『宮嶋天神宮』が描かれております。

 天神様の本地佛は『十一面観世音菩薩』であります。現在、法圓寺には黄金天神さまの御導きにより、この天神様の本地佛として、総本山長谷寺ゆかりの『十一面観世音菩薩』像一体が法圓寺の位牌堂に勧請しお祀りさせていただいております。」

 

と続いている。

 まず仙臺領宮嶋がどこなのかもわからない。宮戸島なら松島の方にあるが。

 

   天神社造立半

 石突に雨は止たり花柘榴     桃隣

 

 「石突(いしづき)はこの場合、建造物の土台とする石を突き固める作業のことだろう。塩釜神社の社殿造営の所でも「石搗の半也」とあったが、これと同じだろう。柘榴(ざくろ)は夏にオレンジ色の花が咲く。天神社はまだ土台を固める段階で、柘榴の花が咲いている。

36、ふたたび須賀川

 「須ヶ川に二宿、等躬と兩吟一巻滿ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正秀陳饗應。

     〇文月に神慮諌ん硯ばこ」(舞都遲登理)

 

 等躬は芭蕉の『奥の細道』の旅でも、

 

 風流の初やおくの田植うた    芭蕉

 隠家やめにたたぬ花を軒の栗   芭蕉

 

などを発句とする興行に参加している。行きに通った時にも一泊して、桃隣、等躬、助叟の三人で三つ物三つを詠む。

 帰り道での桃隣との両吟一巻は等躬撰の『伊達衣』に収録されている。

 

   奥刕の名所見廻り文月朔日須賀川

   に出て、乍單齋に舍り、一夜は芭

   蕉の昔を語りけるに、去秋深川の

   舊庵を訪し予が句を吟じ返して、

   燭下に一巻綴りぬ。

 初秋や庵覗けば風の音      桃隣

 

 句は去年の秋に作ったものだという。ちょうど等躬の家に着いたのも文月朔日で秋の最初の日だった。「庵」は芭蕉庵であるとともに等躬宅でもあり、重なり合う。

 

   初秋や庵覗けば風の音

 蚊遣仕舞し跡は露草       等躬

 

 蚊遣火を仕舞った後は草に露が降りている。この場合の「露草」はツユクサではなく、単に露の降りた草ではないかと思う。

 芭蕉がいなくなって火が消えたようなという含みもあるのだろう。

 桃隣が参詣した諏訪宮は今の神炊館神社(おたきやじんじゃ)であろう。神炊館神社のホームページに、

 

 「奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社です。

 全国でも唯一の社名は御祭神である建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟に因ります。

 室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことから、現在に至るまで『お諏訪さま』としても親しまれています。」

 

とある。曾良の旅日記にも、

 

 「一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。」

 

とあり、この諏訪明神も神炊館神社と思われる。

 

 文月に神慮諌ん硯ばこ      桃隣

 

 文月の最初の日で、その「文」の縁で神慮を諫める「硯ばこ」と結ぶ。

37、遊行柳

 「又こゆべきと、白河にさしかゝり、

    〇しら露の命ぞ關を戻り足」(舞都遲登理)

 

 しら露の命ぞ關を戻り足     桃隣

 

 これは西行法師が小夜の中山で詠んだ、

 

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや

     命なりけり小夜の中山

             西行法師(新古今集)

 

の「命」の文字を拝借した形だ。

 初秋で露の降りる季節で、白露のような命で関に戻ってきた、とする。

 

 「遊行柳。芦野一口一丁、右へ行、田の畔に有。不絶清水も流るゝ。

    〇秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰

 同所家中、桃酔興行。

    〇來る雁の力ぞ那須の七構」(舞都遲登理)

 

 行きは那須湯本から真っすぐ白河に行ったため通らなかった遊行柳は、帰りに立ち寄った。

 

 秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰     桃隣

 

 この句も、

 

 道のべに清水流るる柳蔭

     しばしとてこそたちどまりつれ

             西行法師(新古今集)

 

の歌の「柳蔭」を拝借している。夏ではないが残暑厳しく、芦野の遊行柳の柳陰でしばし涼をとる。

 

 來る雁の力ぞ那須の七構     桃酔

 

 「七構(ななかまえ)」の意味がよくわからない。桃隣が来てくれたところで、秋になって雁が飛来したみたいに元気づけられる、というのはわかる。七構は七つの(たくさん)のもてなしということか。

 桃酔は芦野の人で、『陸奥衛』に、

 

 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃酔

 

の句がある。まあ、雨の日のネコはとことん眠いという、そういうタイトルの加藤由子さんの著書もあったが。

 他にも、

 

 温泉(ゆ)に近く薬掘たき芦野哉 桃酔

 

と地元を詠んだ句もある。

38、喜連川

 「喜連川、庚申に泊合て、

    〇御所近く寐られぬ秋を庚申」(舞都遲登理)

 

 喜連川(きつれがわ)は奥州街道の宿場で、芦野からだと、鍋掛、大田原、佐久山の次になる。その先は氏家、白沢、宇都宮になる。

 

 御所近く寐られぬ秋を庚申    桃隣

 

 喜連川藩は足利家の末裔の喜連川氏が治めている。ウィキペディアによると、

 

 「頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。」

 

とのこと。「御所近く」の御所は喜連川氏のことで、喜連川氏のお膝元で、寝られぬ夜を過ごしました。なぜなら庚申の日だったから、といったところか。御所号は皇族、大臣、将軍に準じる大変な称号だった。

 庚申待(こうしんまち)についてはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」

 

とある。

39、宇都宮

 「宇津宮へかゝり、社頭に登て叩首に、額日光宮と書り。二荒を遷敬し奉るけるにや。

    〇笠脱ば天窓撫行一葉哉」(舞都遲登理)

 

 宇都宮には下野國一之宮、宇都宮二荒山神社がある。日光の二荒山神社との関係は今を以てしてもよくわかっていない。日光の方は「ふたらさん」と読み、宇都宮の方は「ふたあらやま」と読む。起源も祭神も違う神社だという。

 ただ、ウィキペディアによると、「江戸期には日光山大明神と称されたこともあり」とあり、桃隣が訪れたときには日光宮の額がかかっていたのだろう。江戸時代のことだから東照宮にあやかったということは考えられる。

 叩首には「つかづく」とルビがふってあるが、「ぬかづく」の間違いではないか。

 

 笠脱ば天窓撫行一葉哉      桃隣

 

 「天窓」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に「あたま」と読んで「かしらの頂」を意味する用法があるようだ。「あたまなでゆく」なら字余りにならないし、意味も分かりやすい。

 笠を脱いで頭を地にすりつけて参拝すると、頭の上に一枚の葉が落ちてくる。何かそれはありがたい徴なのだろう。

40、小山

 「小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸を求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。

    〇又起て見るや七日の銀河」(舞都遲登理)

 

 宇都宮からは日光街道になる。雀宮、石橋、小金井、新田と来てその次が小山宿になる。

 折から七夕だが夕方から雲が出て月もなく三寸(みき)つまり酒を飲んでうとうとしていた。

 

 又起て見るや七日の銀河     桃隣

 

 銀河は「あまのがわ」と読む。「又起て見るや」は疑いの「や」で、多分そのまま寝ちゃったのだろう。

 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。等躬撰の『伊達衣』に、

 

   名月はいかならん、はかりがたし

 七夕は降と思ふが浮世哉     嵐雪

 

の句がある。

 ただ、この年元禄九年の七月七日は新暦の八月四日なので、夕立だったか。寒冷期だから今の気候の感覚とは違うかもしれないが。

41、江戸

 「淺草に入て、はや江戸の氣色、こゝろには錦を着て、編綴の袖を翻し、觀音に詣ス。

    〇手を上ゲて群衆分ケたり草の花

 草扉はそこほれ、破れ果て、蜘蛛は八重に網を圍ふ。

    〇盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ

     子

      仲秋中旬」(舞都遲登理)

 さて、ついに江戸に帰ってきました。編綴(へんてつ)の袖は継ぎはぎということか。ぼろは着てても心は錦というところで、浅草観音に詣でる。

 

 手を上ゲて群衆分ケたり草の花  桃隣

 

 群衆は「くんじゅ」だろう。陸奥を旅して帰ってくれば、江戸の人の多さに圧倒されたに違いない。旅の前はそれが当たり前だったけど、長い旅のあとだとその人混みも懐かしい。

 家に帰ってくると、長いこと留守にしていたので、あちこち破れて蜘蛛の巣で埋まっている。桃隣の家は日本橋橘町にあったという。今の東日本橋三丁目だという。

 

 盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ   桃隣

 

 「あぐむ」は「倦む」と書き、嫌になるということ。

 最後に日付が入るが子年(元禄九年)仲秋になっている。帰ってきて一か月後には書き上げたようだ。

素堂の跋

 さて、楽しかったみちのくの旅も終わり、最後はこの大御所が締めてくれます。芭蕉が江戸に出てきた頃からの弟子にして親友だった素堂さん、それではいってみよう。

 

 「はせを老人の行脚せしみちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し、他は世上のこゝろごゞろを撰そへて、むつちどりと名付らる。其人や武陽の桃隣子也。予がむかし、かならず鹿嶋・松嶋へといへるごとく、己を忘れずながら年のへぬれば、夕を秋の夕哉といひけむ、松島の夕けしきを見やせまじ、見ずやあらまし。みちのおくはいづくはあれど松島・塩竈の秋にしくはあらじ。花の上こぐ海士の釣舟と詠じけるをきけば、春にもこゝろひかれ侍れど、なをきさかたの月・宮城野の萩、其名ばかりをとゞめをきけむ、實方の薄のみだれなど、いひつゞくれば、秋のみぞ、心おほかるべき、白河の秋風。

   時是元禄丑の年秋八月望に

              ちかきころ

                  素堂

                   かきぬ」

 

 「みちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し」までは「舞都遲登理」の部分で、「他は世上のこゝろごゞろを撰そへて」他の巻に収められた発句や俳諧のことであろう。「世上のこゝろごゞろ」は素堂の選んだ言葉だが、いわゆる門の垣根を越えて幅広くいろいろなものを選んだ、蕉門から外れた調和や不角の句を選んだことも、「世上のこゝろごゞろ」といえば理解できる。こうして『陸奥衛』全五巻が成立した。

 ここからは素堂の独り言のようになる。素堂もいつか必ず鹿島や松島を見に行くんだとずっと心に思い続けていて、行くなら秋に行きたいと言う。

 

 松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣

 

の句に共鳴してのことかもしれない。芭蕉も桃隣も夏の松島だった。秋に行っては見たいけど、帰り道で雪に足止めされることを心配してのことだったか。

 このあと象潟の花の上こぐ海士の釣舟もいいけど、それでも象潟の月、宮城野の萩に心惹かれ、実方の形見の薄になってもいいから秋に行きたいと繰り返し、「白河の秋風」と能因の歌を思い起こして終わる。

 そして日付の所で「秋八月望にちかきころ」と今が秋であることで、秋のみちのくに惹かれる理由というか落ちをつけてこの跋文は終わる。これはこれで何とも俳諧らしい剽軽な終わり方だ。「元禄丑の年」だから桃隣が帰ってきて一年後、元禄十年になる。

 

 『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)では、談林のブームの去ったあたりから点者や前句付の方に転向していった調和や不角との関係が取りざたされている。あるいは『陸奥衛』全五巻の大作を出版する際のスポンサーで、陸奥の旅も調和の門人から金を集めるためだったのではないかと、勘繰る部分もある。

 その辺の事情はまあとにかくとして、筆者の印象からすると、この「舞都遲登理」の旅で桃隣は、とにかく芭蕉のように詠みたいというその意気込みがよく伝わってくる。ただ、いくら意気込んでも何か一つ足りないという気分にさせられる。

 思うに、桃隣が芭蕉から受け継いだのは、とにかく何か気の利いたことを言って人を笑わせたい、人を楽しい気分にさせたいという部分ではなかったかと思う。だから桃隣にとって面白くて人を楽しませるものであれば、調和や不角の句を排除する理由はなかったのだと思う。

 芭蕉さんと過ごした日々のように、俳諧を楽しみたい、談笑を楽しみたい、小難しいこと抜きに楽しみたい、それが桃隣だったのではなかったかと思う。

 関西系の去来、支考、許六、越人といったところがそれぞれの理屈にこだわり、議論倒れになってゆく中で、江戸の蕉門は其角にしても嵐雪にしてもそうだが、基本的に理屈が嫌いだったのだと思う。理屈抜きに楽しもうというところで、芭蕉亡き後の全国とも言っていい俳諧師たちが桃隣を中心に一堂に集まった、その集大成が『陸奥衛』だったのではないか。そう思って読んだときに『陸奥衛』の良さがわかるのではないかと思う。