はじめに

 

 芭蕉の代表作はといわれると、大抵の人が思い浮かべるのは、

 

 古池や(かはづ)飛び込む水の音

 

でしょうか。

 あとは、

 

 夏草や(つはもの)(ども)がゆめの跡

 (しづか)さや岩にしみ(いる)蝉の声

 五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川

 旅に(やん)で夢は枯野をかけ(めぐ)

 

といった句も、多分教科書に載っていて覚えさせられたとかいう記憶があるのではないかと思います。

  昔からよく知られている句というと、

 

 物いへば(くちびる)寒し秋の風

 

なんて句もありますね。

 

 松島やああ松島や松島や

 

 これは芭蕉の句ではありません。

 

 松島やさて松島や松島や     田原坊

 

という江戸後期の狂歌師の句だと言われています。

  なら、たとえばこうした句はどうでしょうか。

 

   そっとのぞけば酒の最中(さいちゅう)

 寝処(ねどころ)に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉

 

 これは七七の前句に五七五を付けて、五七五七七の短歌の形を作るゲームです。「そっとのぞけば酒の最中(さいちゅう)」という前句に「寝処(ねどころ)に誰もねて居ぬ宵の月」を付けることで、

 

 寝処(ねどころ)に誰もねて居ぬ宵の月

     そっとのぞけば酒の最中(さいちゅう)

 

という短歌の形にして読みます。そうすると、寝所に誰も寝てないなと思ったら、別の部屋を覗いてみるとみんな集まって酒を飲んでいたという、いかにもありそうな話ですね。

 

   (おも)(しろ)(はなし)聞間(きくま)に月(くれ)

 まだいり手なき次の(すゑ)風呂(ふろ)   芭蕉

 

 これは逆に五七五に七七の句を付けています。短歌の形にすると、

 

 (おも)(しろ)(はなし)聞間(きくま)に月(くれ)

     まだいり手なき次の(すゑ)風呂(ふろ)

 

となります。

 面白い話で盛り上がっているので、誰も風呂に入ろうとしないという、これもありそうなことです。

 

 中世には連歌というのが流行しました。五七五の発句に七七の脇を付けて、それにまた五七五の第三(三番目の句)を付けます。

 

 うす雪に木葉色こき山路哉    肖柏

   岩もとすすき冬や猶みん   宗長

 松虫にさそはれそめし宿出でて  宗祇

 

というふうに句が並んでいる場合は、

 

 うす雪に木葉色こき山路哉

     岩もとすすき冬や猶みん

 松虫にさそはれそめし宿出でて

     岩もとすすき冬や猶みん

 

という二つの短歌が出来上がるわけです。

  連歌というのは雅語という古今集から新古今集の時代までの古い和歌に用いられる言葉だけで作られてました。それを庶民が日常使うような俗語を交えて作ったものを、昔の人は「俳諧」と呼んでいました。

  たとえば、

 

 此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮     芭蕉

   (そば)(はたけ)の木にかかる(つた)    泥足

 月しらむ蕎麦(そば)のこぼれに鳥の寝て 支考

 

という感じです。これを五七五に七七、それにまた五七五と延々に連ねて行って、百句連ねるのを「百韻」、五十句だと「五十韻」、三十六句だと「歌仙(かせん)」といいます。三十六歌仙という古代の和歌の三十六人の名人にちなんでこの名前があります。

  そこには似たような句が並ばないように、いろいろとルールがあり、そのルールに基づいて大勢の参加者、れんじゅといいますが、その連衆が競って句を付け、その機知を競うのが連歌であり俳諧でした。

  前句に対して、如何に思いもかけないような展開をするか、そこにこうした付け句の面白さがあります。

 

   (だき)(こん)で松山広き有明(ありあけ)

 あふ人ごとの魚くさきなり    芭蕉

 

 前句は、松山が海を抱き込むように広がって、そこに明け方の有明の月が出ているという美しい風景の句になっています。これで単に美しい風景を重ねても当たり前すぎです。

  そこで、こうした海辺は大体漁村で、明け方になると漁師たちがぞろぞろと海から戻ってくる、そんな情景を想像します。そこで「あふ人はみな漁師なりけり」ではまだ当たり前で面白くありません。「あふ人ごとの魚くさきなり」となると、漁港の魚の匂いがいかにも漂ってきそうですね。

 

   (いり)(ごみ)に諏訪の(いで)()の夕ま暮

 中にもせいの高き山伏      芭蕉

 

 前句は、諏訪の温泉を引き込んだ浴場の夕暮れという一つのシチュエーションを表してます。そこで昔のこういう山の中の温泉地にいかにもいそうな、修験(しゅげん)の山伏が汗を流しにやってきます。

  ただ山伏が来ただけでは普通なので「中にもせいの高き山伏」と、いかにもごつい体をした屈強な男を登場させています。

 

   一里の渡し腹のすきたる

 山はみな蜜柑(みかん)の色の黄になりて  芭蕉

 

 一里というと今の四キロですね。結構長い距離を渡し舟で川を下っていると腹が減ってきます。そうなると、周りの黄葉した山の景色もミカンの色に見えてきます。

 

   随分ほそき小の三日月

 たかとりの城にのぼれば一里半  芭蕉

 

 夕暮れに細い三日月が淋し気に見えてます。これだけでは普通の夕暮れの景色ですね。

  高取城というのは奈良県にあるお城で、日本三大山城の一つとされてます。標高五八三メートルの高さにあり、城郭の周囲は約三十キロにも及んだと言われてます。城門から天守閣まで約一里半、たどり着く頃には日が暮れてしまいます。

 

   今はやる(ひとへ)羽織(はおり)()つれ()

 奉行(ぶぎゃう)(やり)に誰もかくるる     芭蕉

 

 舞台は町中ですね。流行の一重羽織を着て粋がって歩いている若者でしょう。たまたまお奉行さんがやってきたら、みんなさっと隠れてしまいます。「やべえ、マッポだ」というところでしょうか。

 

   笹の葉に小路(うづみ)ておもしろき

 あたまうつなと(もん)(かき)つき      芭蕉

 

 笹の葉に埋もれた小道は、何やら風流な人が隠れ住んでいるのでしょう。門なんかも崩れかかっていて、そこに「あたま打な」と書いてあります。今なら「頭上注意」でしょうね。

  芭蕉というと、たいていは「俳句」の人のイメージでしたが、本来芭蕉は俳諧師で、こういう句を詠む人でした。俳諧というのは人を笑わせるのが商売です。本書ではこういう俳諧師としての芭蕉を見て行きたいと思ってます。

 

   *

 

 さて、もうすこし「俳諧」の句を見て行きましょうか。

 

   吸物(すひもの)で座敷の客を(たた)せたる

 肥後(ひご)の相場を又(きい)てこい     芭蕉

 

 座敷というと宴会や何かをやる所で、この場合は米取引の接待の席ということにしたのでしょう。吸物を食べた所で客が立ちあがるのは、取引がうまく行かなかったか、それですぐに部下に「肥後の相場を又聞てこい」と使いに出す場面とします。

  今でこそ新潟や宮城は米所ですが、昔は寒い地方では米の育ちが悪く、熊本の米が相場の指標とされてました。

  今みたいにネットどころか電話もありませんから、肥後まではるばる市場を見に行ったのでしょうね。

 

   秋の田のからせぬ公事(くじ)の長びきて

 さいさいながら文字(とひ)にくる   芭蕉

  公事くじというのは今でいう訴訟のことです。田んぼの境界争いでもめることはよくあって、それが決着するまで稲の収穫ができなかったりすることもあったようです。こうした裁判が長引くのは今も昔も一緒ということでしょう。

  当時は訴訟などの公の文書はみんな漢文でしたから、お百姓さんにはかなりの負担になって、その土地のお坊さんだとか医者だとかに、何度も何度も「この字は何なんだ」と聞きに来たりしてたのでしょう。

 

   (くすり)手づから人にほどこす

 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと)   芭蕉

 

 薬手づから人にほどこす、というと私利私欲を捨てて人の為に尽くす立派な人が思い浮かびますね。でも、薬だって只ではないのですから、それを多くの人に施して回るにはお金が要ります。

  田を買って、そこの米を売って薬代を稼ぐことも忘れません。世捨て人とはいえ、こうした寺領をちゃんと持っていないと、人の為に尽くすこともできないというのは現実です。

 

   星さへ見えず二十八日

 ひだるきハ(ことに)(いくさ)の大事也     芭蕉

 

 前句の二十八日を軍が長期戦になったという意味に取り成しての展開になります。

  兵糧も尽きて腹が減る。腹が減っては軍はできぬ、ということでこれは大事(大問題)ということになります。

 

   もる月を(いやし)き母の窓に見て

 (あゐ)にしみ(つく)指かくすらん     芭蕉

 

 「賤き母」は今でいう被差別民ですね。昔の特に上方の方では、紺屋はそうした人たちの仕事とされてました。指に藍が染みているとそれがバレるというので隠そうとしています。

  こうした句は、当時の人の生活感が生々しく伝わってきます。芭蕉の俳句とは全く違った世界と言ってもいいでしょう。

 

   尼に(なる)べき宵のきぬぎぬ

 月影に(よろひ)とやらを見(すか)して    芭蕉

 

 鎧が透けて見えるというのは明らかに幽霊ですね。戦死したのでしょう。それを告げに魂だけが愛しい人の所にやって来て、悲しい別れを告げることになります。女の方も出家して尼になることを決めます。笑いだけでなく、こういう悲しい物語も俳諧には含まれています。

 

   杖一本を道の(わき)ざし

 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

 

 これも老いた乞食僧が腰に脇指などの寸鉄を持たず、杖一本を頼りに旅を続けています。カラスは死体に群がるということで、野原のカラスが集まってくるのは、既に死期が近いことを暗示させます。「袖のぬらされて」は和歌などで常套句とされている、「涙する」という意味の言葉です。

 

   初恋に文書(ふみかく)すべもたどたどし

 世につかはれて僧のなまめく   芭蕉

 

 「世」というのは古文の時間にも習いますが、男女の仲の意味があります。ここでは初恋の愛しい女性にたどたどしい文を書いては、僧に届けてもらっていたのでしょう。そんなことをしていると、僧の方が恋に落ちてしまいますね。

 

   寝覚にも指を動かすひとよ(ぎり)

 中能(なかよく)ちなむ兄が膝元(ひざもと)       芭蕉

 

 これは衆道ネタでしょうね。昔の武家や僧侶の間では男色が盛んでした。

  「ひとよ切」は尺八の一種で、そこに指を動かすとなると、いろいろ想像させますね。兄は衆道の兄分なのでしょう。

  嵐山光三郎さんは芭蕉を「悪党」と呼んでましたが、私はむしろ「芸人」と言った方が良いと思います。俳諧師というのは当時の芸人だったのではないかと思います。

  当時はまだ落語はありませんでしたし、漫才というと正月の門付け芸でした。三河万歳は今にも残ってますね。当時の人の笑いはというと、俳諧だったわけです。

  人を笑わせるというのは技術も要りますし、教養も必要です。それは今の芸人を見てみましても、一流大学を出た人がたくさんいます。芥川賞を取るような人もいます。世界的に有名な映画監督になった人もいます。芭蕉もそういった芸人の一人だったと考えればわかりやすいのではないかと思います。

  特に芭蕉の俳諧は今でいう「あるあるネタ」が多いですね。今の日本のお笑い芸の原型と言っても良いのではないかと思います。

  ただ、俳諧の笑いは必ずしも爆笑を得るためのものではなく、大勢の連衆が集まってなごやかなひと時を過ごすことに重点が置かれているため、お互いの緊張をほぐすような、ちょっと頬が緩む程度の笑いで十分でした。

  俳諧は談笑であり、基本的には人間関係の緊張をほぐし、和気あいあいとするためのものです。

  句は基本的にみんなフィクションで、実在しない人や遠い過去の人を笑うわけですから、誰も傷つかなくてすむわけです。

  近代の俳句や短歌は自分の実体験から詠んだり、自分の感じ方や何かを詠んだりしますが、俳諧の付け句はほとんどがフィクションです。いわゆるネタです。

  ここでは芭蕉の句だけを切り離して紹介してきましたが、これはサッカーで言えば名ゴール集のようなものです。

  実際に三十六句からなる歌仙を読んで、全体の流れの中でどのようにして句が生まれて来るのか、それをこれから見て行こうと思います。