「早苗舟」の巻、解説

元禄七年夏(『炭俵』)

   百韻

初表

 子は裸父はててれで早苗舟     利牛

   岸のいばらの真ッ白に咲    野坡

 雨あがり珠数懸鳩の鳴出して    孤屋

   与力町よりむかふ西かぜ    利牛

 竿竹に茶色の紬たぐりよせ     野坡

   馬が離れてわめく人声     孤屋

 暮の月干葉の茹汁わるくさし    利牛

   掃ば跡から檀ちる也      野坡

 

初裏

 ぢぢめきの中でより出するりほあか 孤屋

   坊主になれどやはり仁平次   利牛

 松坂や矢川へはいるうら通り    野坡

   吹るる胼もつらき闇の夜    孤屋

 十二三弁の衣裳の打そろひ     利牛

   本堂はしる音はとろとろ    野坡

 日のあたる方はあからむ竹の色   孤屋

   只綺麗さに口すすぐ水     利牛

 近江路のうらの詞を聞初て     野坡

   天気の相よ三か月の照     孤屋

 生ながら直に打込ひしこ漬     利牛

   椋の実落る屋ねくさる也    野坡

 帯売の戻り連立花ぐもり      孤屋

   御影供ごろの人のそはつく   利牛

 

 

二表

 ほかほかと二日灸のいぼひ出    野坡

   ほろほろあへの膳にこぼるる  孤屋

 ない袖を振てみするも物おもひ   利牛

   舞羽の糸も手につかず繰    野坡

 段々に西国武士の荷のつどひ    孤屋

   尚きのふより今日は大旱    利牛

 切蜣の喰倒したる植たばこ     野坡

   くばり納豆を仕込広庭     孤屋

 瘧日をまぎらかせども待ごころ   利牛

   藤ですげたる下駄の重たき   野坡

 つれあひの名をいやしげに呼まはり 孤屋

   となりの裏の遠き井の本    利牛

 くれの月横に負来る古柱      野坡

   ずいきの長のあまるこつてい  孤屋

 

二裏

 ひつそりと盆は過たる浄土寺    利牛

   戸でからくみし水風呂の屋ね  野坡

 戸でからくみし水風呂の屋ね    野坡

   赤い小宮はあたらしき内    利牛

 浜迄は宿の男の荷をかかえ     野坡

   師走比丘尼の諷の寒さよ    孤屋

 餅搗の臼を年々買かえて      利牛

   天満の状をまた忘れけり    野坡

 広袖をうへにひつぱる舩の者    孤屋

   むく起にして参る観音     利牛

 燃しさる薪を尻手に指くべて    野坡

   十四五両のふりまはしする   孤屋

 月花にかきあげ城の跡ばかり    利牛

   弦打颪海雲とる桶       孤屋

 

 

三表

 機嫌能かいこは庭に起かかり    野坡

   小昼のころの空静也      利牛

 縁端に腫たる足をなげ出して    孤屋

   鍋の鑄かけを念入てみる    野坡

 麦畑の替地に渡る傍尒杭      利牛

   売手もしらず頼政の筆     孤屋

 物毎も子持になればだだくさに   野坡

   又御局の古着いただく     利牛

 妓王寺のうへに上れば二尊院    孤屋

   けふはけんかく寂しかりけり  野坡

 薄雪のこまかに初手を降出し    利牛

   一つくなりに鱈の雲腸     孤屋

 銭ざしに菰引ちぎる朝の月     野坡

   なめすすきとる裏の塀あはひ  利牛

 

三裏

 めを縫て無理に鳴する鵙の声    孤屋

   又だのみして美濃だよりきく  野坡

 かかさずに中の巳の日をまつる也  利牛

   入来る人に味噌豆を出す    孤屋

 すぢかひに木綿袷の龍田川     野坡

   御茶屋のみゆる宿の取つき   利牛

 ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ 孤屋

   水菜に鯨まじる惣汁      野坡

 花の内引越て居る樫原       利牛

   尻軽にする返事聞よく     孤屋

 おちかかるうそうそ時の雨の音   野坡

   入舟つづく月の六月      利牛

 拭立てお上の敷居ひからする    孤屋

   尚云つのる詞からかひ     野坡

 

 

名残表

 大水のあげくに畑の砂のけて    利牛

   何年菩提しれぬ栃の木     孤屋

 敷金に弓同心のあとを継      野坡

   丸九十日湿をわずらふ     利牛

 投打もはら立ままにめつた也    孤屋

   足なし碁盤よう借に来る    野坡

 里離れ順礼引のぶらつきて     利牛

   やはらかものを嫁の襟もと   孤屋

 気にかかる朔日しまの精進箸    野坡

   うんぢ果たる八専の空     利牛

 丁寧に仙台俵の口かがり      孤屋

   訴訟が済で土手になる筋    野坡

 夕月に医者の名字を聞はつり    利牛

   包で戻る鮭のやきもの     孤屋

 

名残裏

 定免を今年の風に欲ばりて     野坡

   もはや仕事もならぬおとろへ  利牛

 暑病の殊土用をうるさがり     孤屋

   幾月ぶりでこゆる逢坂     野坡

 減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし  利牛

   門建直す町の相談       孤屋

 彼岸過一重の花の咲立て      野坡

   三人ながらおもしろき春    執筆

 

      参考;『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)

初表

発句

 

 子は裸父はててれで早苗舟     利牛

 

 「ててれ」は「ててら」ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 (「てでら」とも)

  ① 襦袢(じゅばん)。膝のあたりまでしかない着物。ててれ。

  ※咄本・醒睡笑(1628)五「夕顔の棚の下なるゆふすずみ男はててら妻はふたのして」

  ② 男の下帯。ふんどし。ててれ。〔書言字考節用集(1717)〕」

 

とある。

 この場合どちらなのかはわからない。中村注はふんどしとしている。

 襦袢の用例として引用されている歌は、久隅守景(くすみもりかげ)が『納涼図屏風』にしている。

 「早苗舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 田植の時、早苗を積んで、水田に浮かべておく手押しの小舟。田植舟。《季・夏》

  ※俳諧・炭俵(1694)上「子は裸父はててれで早苗舟〈利牛〉 岸のいばらの真っ白に咲く〈野坡〉」

 

とある。

 当時の田植えは一種の神事で、彭城百川(さかきひゃくせん)の『田植図』を見ると烏帽子をかぶって踊ってる人がいるし、鼓を打ち鳴らす人もいる。田植えをする人はちゃんと服を来て笠を被っている。柳の木の下には見物する老人がいるが、これは、

 

 田一枚植て立去る柳かな      芭蕉

 

の芭蕉さんか。

 そうなると、このばあいの「ててれ」は半襦袢の方か。

 

季語は「早苗舟」で夏、水辺。「子」「父」は人倫。「ててれ」は衣裳。

 

 

   子は裸父はててれで早苗舟

 岸のいばらの真ッ白に咲      野坡

 (子は裸父はててれで早苗舟岸のいばらの真ッ白に咲)

 

 イバラは花は綺麗だけど、棘があるから裸の子供は痛そうだ。綺麗なだけで収めない所が俳諧か。

 

季語は「いばら」で夏、植物、草類。「岸」は水辺。

 

第三

 

   岸のいばらの真ッ白に咲

 雨あがり珠数懸鳩の鳴出して    孤屋

 (雨あがり珠数懸鳩の鳴出して岸のいばらの真ッ白に咲)

 

 珠数懸鳩(ジュズカケバト)はドバトと同様外来種で、本来飼育されていたものが野生化したものだろう。ウィキペディアには、

 

 「全長25から30センチメートル。全体的に淡い灰褐色で後頸部に半月状の黒輪がある。風切羽は黒褐色、嘴は暗褐色。シラコバトによく似ているが、背や翼の褐色がシラコバトよりも薄い。白変種をギンバト(銀鳩)といい、全身白色で嘴と脚が紅色。」

 

とある。クックルルルルルーとドバトよりも澄んだ声で鳴く。

 

無季。「珠数懸鳩」は鳥類。

 

四句目

 

   雨あがり珠数懸鳩の鳴出して

 与力町よりむかふ西かぜ      利牛

 (雨あがり珠数懸鳩の鳴出して与力町よりむかふ西かぜ)

 

 ウィキペディアによれば与力は町奉行の下で行政・司法・警察の任にあたり、八丁堀に三百坪程度の組屋敷が与えられていたという。与力の下には同心がいて、その下には岡っ引きがいる。

 ここでいう与力町は八丁堀にあった片与力町、中与力町のことだろう。

 雨が上がって与力町の方から西風が吹いてくる。八丁堀から西と言えば深川の方か。何やらどやどやと一緒になって岡っ引きまでやってきそうだが。

 

無季。

 

五句目

 

   与力町よりむかふ西かぜ

 竿竹に茶色の紬たぐりよせ     野坡

 (竿竹に茶色の紬たぐりよせ与力町よりむかふ西かぜ)

 

 紬(つむぎ)は紬糸で織った絹織物で、紬糸はウィキペディアに、

 

 「絹糸は繭の繊維を引き出して作られるが、生糸を引き出せない品質のくず繭をつぶして真綿にし、真綿より糸を紡ぎだしたものが紬糸である。 くず繭には、玉繭、穴あき繭、汚染繭が含まれ、玉繭とは、2頭以上の蚕が一つの繭を作ったものをいう。」

 

とある。

 江戸時代にはたびたび奢侈禁止令が出され、庶民が絹を着ることを禁じられていたが、裕福な商人は一見木綿に見える紬を好んで着たという説もある。

 紬の色としては目立たない茶や鼠が用いられた。

 句は表向きは西風で竿に掛けた紬が片方に寄ったというものだが、与力が岡っ引きを引き連れてやってくるというので、あわてて干してあった紬を取り込んだとも取れる。

 

無季。

 

六句目

 

   竿竹に茶色の紬たぐりよせ

 馬が離れてわめく人声       孤屋

 (竿竹に茶色の紬たぐりよせ馬が離れてわめく人声)

 

 荷物を運ぶ馬であろう。繋いであった馬がいつの間に綱が解けて勝手に歩き出してしまったので、みんな抑えようと大騒ぎになる。

 どさくさに紛れて干してあった紬を失敬しようということか。

 

無季。「馬」は獣類。

 

七句目

 

   馬が離れてわめく人声

 暮の月干葉の茹汁わるくさし    利牛

 (暮の月干葉の茹汁わるくさし馬が離れてわめく人声)

 

 「干葉(ひば)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 枯れて乾燥した葉。

  2 ダイコンの茎や葉を干したもの。飯に炊き込んだり汁の実にしたりする。」

 

とある。

 「わるくさい」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「( 形 ) [文] ク わるくさ・し

  〔「わるぐさい」とも〕

  いやなにおいがする。 「近く寄つたら-・い匂が紛(ぷん)としさうな/平凡 四迷」

 

とある。

 前句を馬子の家でのこととし、馬子の位で貧しい干葉の汁物を付けたのであろう。

 干した大根の葉の匂いは嗅いだことないからよくわからないが、ネットで見ると干葉を入浴剤に使う人が結構いるようで、それによると大根の葉には硫化イオンが含まれているので硫黄の匂いがするという。

 暮の月で時刻は秋の夕暮れ時。

 

季語は「干葉」で冬。「暮の月」は天象。

 

八句目

 

   暮の月干葉の茹汁わるくさし

 掃ば跡から檀ちる也        野坡

 (暮の月干葉の茹汁わるくさし掃ば跡から檀ちる也)

 

 臭みのある干葉の汁を食う人を隠遁者としたか。寒山拾得ではないが、庭を掃き清めていると、そこにまた檀(まゆみ)の葉が落ちてくる。

 香木の栴檀、白檀などの檀ではなく、ここではニシキギ科のマユミのことであろう。秋には紅葉する。

 

季語は「檀ちる」で冬、植物、木類。

初裏

九句目

 

   掃ば跡から檀ちる也

 ぢぢめきの中でより出するりほあか 孤屋

 (ぢぢめきの中でより出するりほあか掃ば跡から檀ちる也

 

 「ぢぢめき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (歴史的かなづかいは「ぢぢめき」か)

  ① 人がやかましく騒ぐこと。

  ※バレト写本(1591)「ソノバノ jijimequi(ジジメキ) シバシワ ヤマズ」

  ② 動物がやかましい声や音を出すこと。《季・秋》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕

  ※俳諧・ひさご(1690)「雀を荷ふ籠のぢぢめき〈二嘯〉 うす曇る日はどんみりと霜おれて〈乙州〉」

  ③ 小鳥を入れて運ぶ楕円形の長い籠。〔俚言集覧(1797頃)〕

 

とある。この場合は②の意味だろう。

 「るりほあか」は瑠璃鳥(るりちょう)と頬赤(ほあか)のことで、瑠璃鳥は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の「る」の八月のところに、

 

 「瑠璃鳥 [和漢三才図会]碧鳥、俗云、留里。大さ雀のことくにして、頭・背・翮上、翠色。頬・頷、臆下に至て純黒、胸・腹白く、觜・脚・尾、具に蒼色。其声、円滑にして清く囀る。」

 

とある。

 同じく頬赤は「ほ」の八月のところに、

 

 「頬赤鳥 正字未詳。[和漢三才図会]状、雀より小く、背の色も亦雀のごとし。其頬赤く胸白くして雌鶉の文あり。声、青鵐に似て細く高し。常に蒿間に棲む。」

 

とある。

 たくさん鳥が騒いでる中に、瑠璃鳥と頬赤鳥の姿を見出す。美しい鳥もいれば、檀の赤い鮮やかな葉も散っている。

 

季語は「るりほあか」で夏、鳥類。

 

十句目

 

   ぢぢめきの中でより出するりほあか

 坊主になれどやはり仁平次     利牛

 (ぢぢめきの中でより出するりほあか坊主になれどやはり仁平次)

 

 前句の「ぢぢめき」を③の鳥籠の意味に取り成して、放生会のこととするか。

 

無季。釈教。「坊主」は人倫

 

十一句目

 

   坊主になれどやはり仁平次

 松坂や矢川へはいるうら通り    野坡

 (松坂や矢川へはいるうら通り坊主になれどやはり仁平次)

 

 伊勢松阪の矢川町は現在の松阪駅前のあたりで、遊郭があったが元禄三年の大火で焼失したという。近くには清光寺(せいこうじ)がある。別にそこの坊主というわけではないだろうけど。

 坊主になっても遊郭に通うときには元の仁平次に戻ってしまう。

 

無季。

 

十二句目

 

   松坂や矢川へはいるうら通り

 吹るる胼もつらき闇の夜      孤屋

 (松坂や矢川へはいるうら通り吹るる胼もつらき闇の夜)

 

 「闇の夜」は月のない夜のこと。「胼(ひび)」はあかぎれのことで、田舎の侘しげな遊郭で、女の人たちはあかぎれに苦しみながら闇の夜に生きる。

 

無季。「闇の夜」は夜分。

 

十三句目

 

   吹るる胼もつらき闇の夜

 十二三弁の衣裳の打そろひ     利牛

 (十二三弁の衣裳の打そろひ吹るる胼もつらき闇の夜)

 

 弁の衣裳を律令制度の弁官の衣裳ということなのだろう。弁官はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「令制における太政官内の要職。左右の弁官局があり,少納言局と合せて,太政官三局という。太政官内の庶務を取扱い,宣旨,官符などの発布や諸国,諸官庁と太政官との連絡などをすべて司った。左弁官は中務 (なかつかさ) ,式部,治部,民部の4省を,右弁官は兵部,刑部 (ぎょうぶ) ,大蔵,宮内の各省を分掌。左右ともに大弁,中弁,少弁が1人ずつあり,のちに権官1人を加えて,定員7人で七弁と称せられた。名誉ある職で,家柄,能力ともにすぐれたものが任命された。弁官の制は江戸時代末期まで存続し,明治維新にいたって弁事に改められた。」

 

とある。江戸時代末期まであったというから、この頃の京都では弁官の勢ぞろいする様を見ることもあったのだろうか。あるいは弁の衣装をつけて行う行事があったのか。だとすると京の庶民が見物に来ることもあっただろう。

 

無季。「弁」は人倫。「弁の衣裳」は衣裳。

 

十四句目

 

   十二三弁の衣裳の打そろひ

 本堂はしる音はとろとろ      野坡

 (十二三弁の衣裳の打そろひ本堂はしる音はとろとろ)

 

 舞台はお寺とし、前句を貴族の一団とする。

 『枕草子』第一二四段の、

 

 「初瀬などに詣でて、局などするほどは、榑階のもとに車引きよせて立てるに、帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐といふものをはきて、聊つつみもなく下り上るとて、何ともなき經のはしうち讀み、倶舎の頌を少しいひつづけありくこそ、所につけてをかしけれ。」

 

あたりの俤か。

 

無季。「本堂」は釈教。

 

十五句目

 

   本堂はしる音はとろとろ

 日のあたる方はあからむ竹の色   孤屋

 (日のあたる方はあからむ竹の色本堂はしる音はとろとろ)

 

 青竹は日が当たると日焼けして茶色になる。本堂の縁側から見た竹垣であろう。

 

無季。「竹」は植物で草類でも木類でもない。

 

十六句目

 

   日のあたる方はあからむ竹の色

 只綺麗さに口すすぐ水       利牛

 (日のあたる方はあからむ竹の色只綺麗さに口すすぐ水)

 

 これは手水場の柄杓だろうか。

 

無季。

 

十七句目

 

   只綺麗さに口すすぐ水

 近江路のうらの詞を聞初て     野坡

 (近江路のうらの詞を聞初て只綺麗さに口すすぐ水)

 

 近江の浦に占いの「うら」を掛けたものであろう。近江の浦は「只綺麗」で、神社での「占い」に「口すすぐ水」となる。

 さらには近江八景と八卦を掛けているのかもしれない。

 

無季。

 

十八句目

 

   近江路のうらの詞を聞初て

 天気の相よ三か月の照       孤屋

 (近江路のうらの詞を聞初て天気の相よ三か月の照)

 

 占いの詞から天気の状態をあえて「相」と言う。琵琶湖の上に三日月が輝く。

 

季語は「三か月」で秋、夜分、天象。

 

十九句目

 

   天気の相よ三か月の照

 生ながら直に打込ひしこ漬     利牛

 (生ながら直に打込ひしこ漬天気の相よ三か月の照)

 

 ひしこ漬けはへしこ漬けとも呼ばれ若狭地方の名物になっている。今は鯖や鰒や大きな鰯なども用い、塩漬けにした後糠漬けにするが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の秋の所に、

 

 「[和漢三才図会]一二寸ばかりの小鰯を用て醢(あつもの)とす。造法、鮮鰯一升、洗はずして塩三合和し、三日にして後、石を以これを圧す。或は同く茄子・生薑・穂蓼・番椒等漬るも又佳也。鯷の字未詳。[本朝食鑑]鯷(ひしこ)は小鰯なり。」

 

とある。

 昔は小鰯を塩で漬けるだけで糠漬けではなかったようだ。

 小さな鰯は三日月に似てるし、三日漬けるところも三日月に通じる。

 

季語は「ひしこ漬」で秋。

 

二十句目

 

   生ながら直に打込ひしこ漬

 椋の実落る屋ねくさる也      野坡

 (生ながら直に打込ひしこ漬椋の実落る屋ねくさる也)

 

 椋の木は大木になり、秋に実をつける。大量に屋根に落ちた椋の実は椋鳥も食べきれずに屋根の上で腐ってゆく。

 生きながら塩漬けになる小鰯に屋根の上で腐る椋の実が響きで付く。

 

季語は「椋の実落る」で秋、植物、木類。

 

二十一句目

 

   椋の実落る屋ねくさる也

 帯売の戻り連立花ぐもり      孤屋

 (帯売の戻り連立花ぐもり椋の実落る屋ねくさる也)

 

 帯売りは中世の『七十一番職人歌合』にも登場する。女性の職業だった。

 「花ぐもり」は今では桜の季節の曇り空のことだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 

 「[陸放翁天彭牡丹記]半晴半陰謂之花曇、養花天同之。」

 

とある。陸放翁は陸游のことで、『天彭牡丹譜』の「風俗記第三」に、「最喜陰晴相半,時謂之養花天。」とある。

 以前に帯を売りに行った家を訪ねてみると、椋の実にすっかり屋根が腐っていて荒れ果てていたので戻ってきたということか。どこか「月やあらぬ」の俤があり、花の季節なのにもやもやとした気持ちになる。

 

季語は「花ぐもり」で春。「帯売」は人倫。

 

二十二句目

 

   帯売の戻り連立花ぐもり

 御影供ごろの人のそはつく     利牛

 (帯売の戻り連立花ぐもり御影供ごろの人のそはつく)

 

 「御影供(みえいく)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏教儀式名。「みえいく」とも読む。祖師の命日に,その図像 (御影) を掲げて供養する法会 (ほうえ) 。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり,毎月 21日に行う法会を「月並御影供」,3月 21日の法会を「正 (しょう) 御影供」という。天台宗には天台大師・伝教大師・慈覚大師・慈恵大師・智証大師の五大師御影供がある。なお,宗派により同種の行事を報恩講,あるいは会式 (えしき) ,御忌会 (ぎょきえ) などと称する。」

 

とある。旧暦三月二十一日頃は桜の季節でもあり、花見の席で着飾るための帯を求めたりして、それを当て込んだ帯売りも稼ぎ時で忙しくなる。

 

季語は「御影供」で春、釈教。「人」は人倫。

二表

二十三句目

 

   御影供ごろの人のそはつく

 ほかほかと二日灸のいぼひ出    野坡

 (ほかほかと二日灸のいぼひ出御影供ごろの人のそはつく)

 

 「二日灸」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に。

 

 「陰暦2月2日にすえる灸。この日に灸をすえると年中息災であるという。8月2日にすえる灸にもいう。ふつかやいと。《季 春》「かくれ家や猫にもすゑる―/一茶」

 

とある。ここでは「ふつかやいと」と読む。ところでこの一茶の句、じっとしててくれるのかな。今では体に貼るタイプのお灸もあるし、温灸もあるが。

 「いぼひ出(いで)」は中村注に「灸のあとのただれるをいう」とある。

 「ほかほか」は今だと炊き立てのご飯を想像するが、昔は外外(ほかほか)で離れ離れという意味。この句の場合は「あちこちに」というような意味だろう。

 二月二日にお灸をして火傷した跡がただれて、二十一日頃になってもあちこちに残っている、という意味になる。

 

季語は「二日灸」で春。

 

二十四句目

 

   ほかほかと二日灸のいぼひ出

 ほろほろあへの膳にこぼるる    孤屋

 (ほかほかと二日灸のいぼひ出ほろほろあへの膳にこぼるる)

 

 中村注は「ほろほろあへ」という料理とし、法論味噌の和えものだとする。

 ただ、ここは前句の「ほかほか」に応じて「ほろほろ」という擬音を付けたとも取れる。「ほろほろこぼれる」で、和えの膳の上に涙がこぼれるとなる。それだけ火傷のかぶれが痛むということだろう。

 「ほろほろ」は花や葉が散る擬音で、

 

 ほろほろと山吹散るか滝の音    芭蕉

 

の句もあるが、涙がほろほろとこぼれるという用法もある。

 「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」(西條八十作詞)にも「泣いてくれるなホロホロ鳥よ」のフレーズがあって、涙のほろほろとホロホロ鳥を掛けている。

 

無季。

 

二十五句目

 

   ほろほろあへの膳にこぼるる

 ない袖を振てみするも物おもひ   利牛

 (ない袖を振てみするも物おもひほろほろあへの膳にこぼるる)

 

 「ない袖を振る」というのは今日では「ない袖は振れない(お金がないので払えない)」というふうに否定形で用いられているが、芭蕉の時代でもこの言い方があったのかはよくわからない。

 「袖振る」は一般的にはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 別れを惜しんだり、愛情を示したりするために、袖を振る。

  「白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)―・る」〈万・四三七九〉

  2 袖を振って舞う。

  「唐人の―・ることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見き」〈源・紅葉賀〉」

 

とあるとおりだ。

 この場合だと別れが惜しいわけではないけど惜しむ振りをして、それでも悲しみに涙がこぼれるという意味か。

 

無季。恋。

 

二十六句目

 

   ない袖を振てみするも物おもひ

 舞羽の糸も手につかず繰      野坡

 (ない袖を振てみするも物おもひ舞羽の糸も手につかず繰)

 

 「舞羽(まいば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 糸を巻く道具。台に立てた短い竿(さお)の上に十字形の枠(わく)を載せて回し、枠の四端に差した竹に糸を掛けて巻き取るようにしたもの。まいのは。〔訓蒙図彙(1666)〕」

 

とある。糸巻きのことのようだ。

 袖のない姿で舞羽で糸を繰るというと、鶴の恩返しの民話が思い浮かぶ。元の話は室町時代の御伽草子の「鶴の草紙」で最初は機を織る話ではなく、「わざわひ」という獣を実家に取りに行かせ、悪い地頭をやっつける話になっている。今でいえば召喚師の家系ということか。

 機を織って恩返しをするのは「蛤草子」の方で、鶴ではなく蛤になっている。

 今の鶴の恩返しはこの二つが合体したものと見ていいだろう。ただ芭蕉の時代にあったかどうかは不明。

 ここでは単に前句の物思いの主を機織る女性としたと見た方がいい。

 なお福島の方では機織る男性もいたようだ。等躬撰の『伊達衣』に、

 

   福島にて

 たなばたは休め絹織男共      鋤立

 

の句がある。

 

無季。恋。

 

二十七句目

 

   舞羽の糸も手につかず繰

 段々に西国武士の荷のつどひ    孤屋

 (段々に西国武士の荷のつどひ舞羽の糸も手につかず繰)

 

 参勤交代の大名行列があると、それに先行してまず荷物を運ぶ人足たちがやってくる。次々にその人足たちが集まってくると本隊の到着も近い。機織る娘も大名行列を見物したくてわくわくしてくる。

 

無季。「西国武士」は人倫。

 

二十八句目

 

   段々に西国武士の荷のつどひ

 尚きのふより今日は大旱      利牛

 (段々に西国武士の荷のつどひ尚きのふより今日は大旱)

 

 「大旱(おほてり)」は日照り、旱魃のこと。「きのふ」は古くは前日だけでなく、最近という意味でも用いられた。

 ここでは大名行列は関係なく、単に西国武士からの物資が集まってくるとする。救援物資か。

 

無季。

 

二十九句目

 

   尚きのふより今日は大旱

 切蜣の喰倒したる植たばこ     野坡

 (切蜣の喰倒したる植たばこ尚きのふより今日は大旱)

 

 「切蜣」は「きりうじ」と読むが、今日では「キリウジ」はキリウジガガンボの幼虫を指すもので稲・麦の幼根などを食べる。

 ただ、タバコの害虫ではない。タバコに含まれる天然成分ロリオライドに防虫効果があり、タバコに害虫は付きにくい。

 ここでいう切蜣(きりうじ)はネキリムシなどを一般的に指す言葉ではなかったかと思う。

 ネキリムシにはキリウジガガンボの幼虫だけでなく、コガネムシ、コメツキムシの幼虫も含まれているし、蛾の幼虫も含まれている。

 漢字の「蜣」も本来コガネムシなどを表わす字で、「きりうじ」と言った場合、今日の生物学的区分ではなく、根を食い荒らす虫一般を指していたと思われる。

 タバコに大きな害を与えるのはカブラヤガ、タマナヤガ、オオカブラヤガの幼虫で、これもネキリムシということで「きりうじ」に含まれていたと思われる。

 タバコはネキリムシに食われ、その上旱魃となると、踏んだり蹴ったりだ。

 

無季。「植たばこ」は植物、草類。

 

三十句目

 

   切蜣の喰倒したる植たばこ

 くばり納豆を仕込広庭       孤屋

 (切蜣の喰倒したる植たばこくばり納豆を仕込広庭)

 

 「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。

  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

 

とある。

 全国納豆協同組合連合会のホームページによると、

 

 「昔は納豆は、秋から冬にかけて食べるのが習慣でした。したがって、柿の実が色づいて納豆仕込みがはじまると、毎日のように納豆が食卓にのるため、体力が充実してきて、病気に対する抵抗力も強くなるために、医者にかかる人も少なくなってしまう。」

 

とあり、水戸天狗納豆のホームページには、

 

 「昔は、寒中に乾燥納豆や納豆漬けを大量に仕込み、田植えの時の体力食にしました。」

 

とある。

 まあ大体晩秋から冬に仕込むのが普通だったのだろう。煙草の収穫は夏だが、秋に乾燥させ、冬に刻み煙草に加工する。

 肉を食べないお坊さんにとって、納豆は貴重な蛋白源だったから、お寺で納豆を作っていたのは当然だろう。タバコの栽培もひょっとしたら外来の植物だけに、お寺を中心に栽培が広まっていたのかもしれない。

 

季語は「くばり納豆」で冬。

 

三十一句目

 

   くばり納豆を仕込広庭

 瘧日をまぎらかせども待ごころ   利牛

 (瘧日をまぎらかせども待ごころくばり納豆を仕込広庭)

 

 「瘧(おこり)」はマラリアのことで、「わらはやみ」ともいう。周期的に熱が出るので、熱の出る日を「瘧日(おこりび)」という。

 「まぎらかす」は「まぎらわす」に同じ。「わらわす」を「わらかす」と言うようなもの。

 前句を寺と見て、『源氏物語』の若紫巻の、源氏の君が北山のなにがしでらを尋ねる場面を連想したのだろう。

 

無季。

 

三十二句目

 

   瘧日をまぎらかせども待ごころ

 藤ですげたる下駄の重たき     野坡

 (瘧日をまぎらかせども待ごころ藤ですげたる下駄の重たき)

 

 「すげる」は下駄の鼻緒を通すことをいう。藤の鼻緒というのは、当時はどうだったのか。ウィキペディアの「下駄」の所には、「緒の材質は様々で、古くは麻、棕櫚、稲藁、竹の皮、蔓、革などを用い、多くの場合これを布で覆って仕上げた。」とあるから藤の蔓も用いられていたのだろう。他の材質に較べて重かったのか。

 「瘧日をまぎらかす」というので、田舎での療養として、藤の鼻緒の原始的な下駄を出したのかもしれない。

 

無季。

 

三十三句目

 

   藤ですげたる下駄の重たき

 つれあひの名をいやしげに呼まはり 孤屋

 (つれあひの名をいやしげに呼まはり藤ですげたる下駄の重たき)

 

 藤の下駄を履いている人の位であろう。女房の名を賤しげに呼びまわる。

 

無季。恋。

 

三十四句目

 

   つれあひの名をいやしげに呼まはり

 となりの裏の遠き井の本      利牛

 (つれあひの名をいやしげに呼まはりとなりの裏の遠き井の本)

 

 農村の風景だろう。隣といっても離れているし、その裏の井戸はさらに遠い。

 

無季。

 

三十五句目

 

   となりの裏の遠き井の本

 くれの月横に負来る古柱      野坡

 

 中国の伝説では月には桂の木があるという。ただ、ここは田舎なので、桂ではなく古くなった柱を背負ってくる男がいるだけだ。

 

季語は「くれの月」で秋、天象。「暮の月」は七句目にもある。

 

三十六句目

 

   くれの月横に負来る古柱

 ずいきの長のあまるこつてい    孤屋

 (くれの月横に負来る古柱ずいきの長のあまるこつてい)

 

 ずいきはサトイモやハスイモなどの葉柄で食用になる。名月といえば里芋を供えるもので、芋名月とも呼ばれるが、ここでは芋ではなく芋柄。

 「こつてい」は特牛という字を書き、weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「こというし(特牛)」に同じ。 「ずいきの長(たけ)の余る-(孤屋)/炭俵」

 

とある。「こというし」は、

 

 「強く大きな牡牛(おうし)。こといのうし。ことい。こってい。こっていうし。こってうし。こっとい。 「 -程なる黒犬なるを/浮世草子・永代蔵 2」

 

とある。

 さすがに牛の体長より長いということではあるまい。牛の背中に積んだときに、横に大きくはみ出すということだろう。古柱のように見えたのは束ねたずいきだった。

 

季語は「ずいき」で秋。「こつてい」は獣類。

二裏

三十七句目

 

   ずいきの長のあまるこつてい

 ひつそりと盆は過たる浄土寺    利牛

 (ひつそりと盆は過たる浄土寺ずいきの長のあまるこつてい)

 

 浄土寺といっても浄土宗か浄土真宗かでお盆のやり方は違うが、当時は浄土真宗は一向宗に含まれていたので、ここでは浄土宗の寺であろう。

 江戸には赤坂に浄土宗浄土寺がある。「猫の足あと」というサイトによれば、

 

 「起立は文亀の頃で、初め江戸城内平川口の地に創建し、後に白銀町へ替地を命ぜられ、また麹町十丁目成瀬隼人正屋敷の邊に引き移つたが、更に寛文五年、類焼の頃、現在の地へ替地を拝領移轉した。」

 

ということで、元禄の頃には既に赤坂に移っていた。

 同じ「浄土寺」の名前でも兵庫県小野にある浄土寺は高野山真言宗だから、浄土寺だから浄土宗とは限らない。

 浄土真宗(当時は一向宗)のお盆はやや特殊だが、それ以外は精霊棚を造り迎え火を焚き、盆灯篭を置き、お供え物をし、送り火を焚いて終わる流れは一緒だ。

 盆の時は賑やかだった浄土寺も、過ぎれば静かになり、牛の背に乗ったずいきが運び込まれ、慎ましやかな生活を送る。

 

季語は「盆は過たる」で秋。釈教。

 

三十八句目

 

   ひつそりと盆は過たる浄土寺

 戸でからくみし水風呂の屋ね    野坡

 (ひつそりと盆は過たる浄土寺戸でからくみし水風呂の屋ね)

 

 「からくむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① からげ組む。綱などで縛って一つにまとめる。

  ※玉塵抄(1563)四三「舫は舟をならべてからくんで一そうのやうにしてのるを云ぞ」

  ② 組みたてる。構え作る。

  ※御伽草子・浜出草紙(室町末)「ほうらいの山をからくみ」

  ③ 言いがかりをつけて困らせる。からむ。

  ※洒落本・仮根草(1796か)三子東深結妓「なんだかおつにからくむの」

  ④ いろいろと工夫する。また、たくらむ。

  ※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)上「あぢなあき内からくんで」

 

とある。この場合は②であろう。

 当時の風呂は蒸し風呂が主流だったが、大きな桶に水をためて沸かす風呂もあり、これを水風呂と言った。

 庭に据えるもので、お寺なら水風呂を置く十分なスペースもあっただろう。古くなった戸板を廃物利用して屋根にする。

 

無季。

 

三十九句目

 

   戸でからくみし水風呂の屋ね

 伐透す椴と檜のすれあひて     孤屋

 (伐透す椴と檜のすれあひて戸でからくみし水風呂の屋ね)

 

 「伐透(きりすかす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘他サ四〙 切って間が透くようにする。

  ※再昌草‐永正六年(1509)八月二二日「夏のうちはすずむした陰しめおきし桐きりすかし月をみる哉」

 

とある。

 戸板で囲った小屋は伐り透かして、外が見えるようにしていたのだろう。

 「椴」は椴松(とどまつ)の「とど」だが、ここでは「もみ」と読むようだ。樅(もみ)は戸板に用いられる。「檜」といえばいまでも檜風呂というくらい、浴槽に用いられる。小屋と浴槽が密着しているのか、擦れ合う音がする。

 

無季。

 

四十句目

 

   伐透す椴と檜のすれあひて

 赤い小宮はあたらしき内      利牛

 (伐透す椴と檜のすれあひて赤い小宮はあたらしき内)

 

 前句を樅や檜の茂る山の中とし、間伐して新しい神社の祠を作る。赤いから稲荷神社か。

 

無季。神祇。

 

四十一句目

 

   赤い小宮はあたらしき内

 浜迄は宿の男の荷をかかえ     野坡

 (浜迄は宿の男の荷をかかえ赤い小宮はあたらしき内)

 

 浜から舟に乗る旅人の荷物を運び、帰りは新しいお稲荷さんにお参りして帰る。旅の無事を祈ってのことだろう。

 「五人ぶち」の巻の二十九句目に、

 

   神拝むには夜が尊い

 月影に小挙仲間の誘つれ     野坡

 

の句もあるように、庶民の間での神祇信仰は篤く、ちょっとの間でも時間があればお参りする。

 

無季。旅体。「浜」は水辺。「男」は人倫。

 

四十二句目

 

   浜迄は宿の男の荷をかかえ

 師走比丘尼の諷の寒さよ     孤屋

 (浜迄は宿の男の荷をかかえ師走比丘尼の諷の寒さよ)

 

 「師走比丘尼」は「広辞苑無料検索」に、

 

 「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼。」

 

とある。

 その比丘尼だが、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 《〈梵〉bhiksunīの音写》出家得度して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性。尼僧。

  2 中世、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人。

  3 江戸時代、尼の姿をした下級の売春婦。

  4 「科(とが)負い比丘尼」の略。」

 

とある。

 「諷(うた)」は経文を声に出して唱える「諷誦(ふうじゅ)」のことだとしてら、一応本物の尼さんなのか。托鉢か勧進か、街頭に立つ姿が寒々としている。

 寒い中宿の男は浜まで荷物を運び、落ちぶれた比丘尼は諷誦する。向かえ付けといえよう。

 

季語は「寒さ」で冬。「師走比丘尼」は人倫。

 

四十三句目

 

   師走比丘尼の諷の寒さよ

 餅搗の臼を年々買かえて     利牛

 (餅搗の臼を年々買かえて師走比丘尼の諷の寒さよ)

 

 一年に一度しか使わない臼だから、どこかへ仕舞っておいて黴が生えたり腐ったりして、結局毎年買い換えているということか。

 ただでさえ年末はお金が出て行くのに臼を買ったりしていては、いい正月も迎えられない。

 

季語は「餅搗」で冬。

 

四十四句目

 

   餅搗の臼を年々買かえて

 天満の状をまた忘れけり     野坡

 (餅搗の臼を年々買かえて天満の状をまた忘れけり)

 

 大阪の天満(てんま)というと天満青物市場があり栄えた場所だった。

 臼を駄目にするような人だから、手紙もうっかり忘れる、という位付けであろう。

 

無季。

 

四十五句目

 

   天満の状をまた忘れけり

 広袖をうへにひつぱる舩の者   孤屋

 (広袖をうへにひつぱる舩の者天満の状をまた忘れけり)

 

 「広袖」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 袖口の下を縫い合わせない袖。長襦袢(ながジュバン)・丹前・夜着などに用いる。平袖(ひらそで)。

  2 鎧(よろい)の袖の一種。下方が広くなったもの。」

 

とある。広袖はこれ以外にも神主や僧が着る古風な衣裳に見られる。

 あるいは天満の状を天満宮の書状として、うっかり者の神官にしたのかもしれない。

 広袖を上に引っ張るのは、袂に状が入ってないかどうか調べるためであろう。

 「舩」は「船」に同じ。

 

無季。「広袖」は衣裳。「舩」は水辺。

 

四十六句目

 

   広袖をうへにひつぱる舩の者

 むく起にして参る観音      利牛

 (広袖をうへにひつぱる舩の者むく起にして参る観音)

 

 「むく起」はむっくり起きること。

 観音様にお参りに行くのだから、前句の広袖は巡礼者だったか。舟の上で寝てしまったか、船の者が袖を引っ張って起す。

 

無季。釈教。

 

四十七句目

 

   むく起にして参る観音

 燃しさる薪を尻手に指くべて   野坡

 (燃しさる薪を尻手に指くべてむく起にして参る観音)

 

 「燃しさる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘自ラ四〙 薪の、かまどの外にはみ出した部分にまで、炎が燃え移る。炭や薪以外のものに火が移る。また、もえさしになる。燃え残る。燃えすさる。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「大釜の下より大束の葭もへしさりしに」

 

とある。

 「薪を尻手に」は「串に鯨をあぶる」と同じで今日だと「に」は「で」になる。はみ出した薪に背を向けた状態で後ろに指を伸ばし、薪の位置を戻す。

 観音堂にお籠りする時、お参りするところの後ろで寒さを防ぐために焚き火をし、その周りで休息したりしたのだろう。背中が熱いと思ったら、焚き火がはみ出していたので、後手でそっと戻す。

 

無季。

 

四十八句目

 

   燃しさる薪を尻手に指くべて

 十四五両のふりまはしする    孤屋

 (燃しさる薪を尻手に指くべて十四五両のふりまはしする)

 

 「ふりまわし」はやり繰りする事。十四五両は今だと百万円くらいの価値はあるので、そこそこまとまった金だが、商売で動く金としてはそれほどではないかもしれない。商家の囲炉裏端とする。

 

無季。

 

四十九句目

 

   十四五両のふりまはしする

 月花にかきあげ城の跡ばかり   利牛

 (月花にかきあげ城の跡ばかり十四五両のふりまはしする)

 

 月花の眺めの良い場所なのに、昔の土をかき上げただけの城跡の土塁があるばかり。十四五両あれば小さな草庵のひとつでも建てられるか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「月」は夜分、天象。

 

五十句目

 

   月花にかきあげ城の跡ばかり

 弦打颪海雲とる桶        孤屋

 (月花にかきあげ城の跡ばかり弦打颪海雲とる桶)

 

 弦打(つるうち)は魔物を祓うために弓の弦をぶんぶん鳴らすことをいい、弦打颪(つるうちおろし)は風に蔓が音を立てるような山から吹き降ろす風ということか。

 城跡だから、落ち武者の亡霊でも出てきそうだ。それを祓うかのような風の音がする。

 海雲(もずく)は春の季語になる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「是をとらんとするに滑りて得がたし。鮑空貝を用てこれをとる。阿州鳴戸、泉州岸和田、及び対州の産、肥太く佳とす。薑醋(しょうがず)に和してこれを食ふ」とある。

 

季語は「海雲」で春。

三表

五十一句目

 

   弦打颪海雲とる桶

 機嫌能かいこは庭に起かかり   野坡

 (機嫌能かいこは庭に起かかり弦打颪海雲とる桶)

 

 孵化した蚕の幼虫(毛蚕:けご)は二三日すると動かなくなり脱皮する。これを眠という。四回目の眠のことを庭休みという。この脱皮が終ることを庭起きという。このあと蚕は盛んに桑の葉を食べ大きくなる。

 前句を時候としての付け。

 

季語は「かいこ」で春、虫類。

 

五十二句目

 

   機嫌能かいこは庭に起かかり

 小昼のころの空静也       利牛

 (機嫌能かいこは庭に起かかり小昼のころの空静也)

 

 小昼(こひる)はコトバンクの「デジタル大辞泉」の解説に、

 

 「《「こびる」とも》

  1 正午に近いころの時刻。

  2 昼食と夕食の間、または朝食と昼食の間にとる軽い食事。」

 

とある。

 芭蕉の時代は『伊達衣』に、

 

 二時の食喰間も惜き花見哉    杜覚

 

の句があるように、一日二食の所が多かった。『猿蓑』の、

 

 水無月や朝めしくはぬ夕すゞみ  嵐蘭

 

の句も、朝飯は食ってないが昼飯は食ったというわけではあるまい。厚くて食欲がなく、朝から何も食ってないという意味。

 その意味ではここでの「小昼」は2の意味とも考えられる。ちょうど小腹がすくころだ。

 

無季。

 

五十三句目

 

   小昼のころの空静也

 縁端に腫たる足をなげ出して   孤屋

 (縁端に腫たる足をなげ出して小昼のころの空静也)

 

 足が腫れて仕事にならないから縁端(えんはな)に足を投げ出して、手持ち無沙汰な感じだ。

 

無季。

 

五十四句目

 

   縁端に腫たる足をなげ出して

 鍋の鑄かけを念入てみる     野坡

 (縁端に腫たる足をなげ出して鍋の鑄かけを念入てみる)

 

 「鑄(い)かけ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。鋳掛師は居職であるが,鋳掛屋は出職である。二つの箱に道具をいれて7尺5寸の長いてんびん棒をかついで町中を歩いた。」

 

とある。

 修理中に火傷でもしたか、鋳掛屋は腫れた足でやってきて鍋を直すと、その具合を念入りに見ている。

 

無季。

 

五十五句目

 

   鍋の鑄かけを念入てみる

 麦畑の替地に渡る傍尒杭     利牛

 (麦畑の替地に渡る傍尒杭鍋の鑄かけを念入てみる)

 

 「替地」はウィキペディアに、

 

 「江戸時代には、個人の田畑や町村の境界変更のために替地が行われたほか、当事者双方の合意によって宅地や田畑を交換する相対替が年季売・本物返・質流れと並ぶ田畑永代売買禁止令の脱法行為として行われていた。

 また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。例えば、境界問題や租税徴収との関係で旗本が江戸幕府の許可を得て知行地を交換したり、幕府や大名が必要上から土地を召し上げた場合の代替地提供のことを指した。だが、もっとも大規模なものは、大名の国替であった。」

 

とある。

 「傍尒杭(ぼうじくい)」は「牓示・牓爾・榜示(ほうじ)」のことで、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「〔「ぼうじ」とも〕

  ①杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。

  ②馬場の仕切り。

  ③庭の築垣ついがき。」

 

とある。

 この場合は借金で麦畑を取られてしまった人だろう。古い鍋を修復しながら細々と生活している。

 

無季。

 

五十六句目

 

   麦畑の替地に渡る傍尒杭

 売手もしらず頼政の筆      孤屋

 (麦畑の替地に渡る傍尒杭売手もしらず頼政の筆)

 

 借金取りの側に立ち、借金の形で交換した麦畑に金に困って売った頼政の筆を響きで付ける。この場合は筆そのものではなく、筆で書いたもののことか。

 「売手もしらず」はまさか頼政の筆とは売る側も知らなかったという意味だろう。二束三文で買い取った筆が思わぬお宝でびっくりという所か。

 頼政は歌人で、

 

 今宵誰すず吹く風を身にしめて

     吉野の嶽の月を見るらむ

          従三位頼政(新古今集)

 

の歌は以前「篠吹く」の例として紹介した。延宝六年の「実や月」の巻の十五句目、

 

   精進あげの三位入道

 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

 

の句が、

 

 埋木の花咲くこともなかりしに

     身のなる果はあはれなりけり

               源頼政

 

の歌による取り成しだということも以前に書いた。

 一応コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「平安末期の武将。仲政(なかまさ)の子。弓術に長じ,歌人としても著名。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方に参じ,平治の乱では平清盛にくみし,従三位(じゅさんみ)に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。1180年以仁(もちひと)王を奉じて挙兵,平氏と宇治に戦って敗死した。家集に《源三位頼政家集》がある。紫宸殿(ししんでん)上の鵺(ぬえ)を射取ったという伝説は,能などに脚色されている。」

 

とある。鵺退治の伝説を詠んだ句には「守武独吟俳諧百韻」の、

 

   すきとほる遠山鳥のしだりをに

 はきたる矢にも鵺やいぬらん

 

の句がある。

 

無季。

 

五十七句目

 

   売手もしらず頼政の筆

 物毎も子持になればだだくさに  野坡

 (物毎も子持になればだだくさに売手もしらず頼政の筆)

 

 「だだくさ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「〔近世語〕

 雑然として整理のゆきとどかないさま。ぞんざい。 「 -なやうでもただはころばない/柳多留 14」

 

とある。只の質草と掛けて用いられていると思われる。子供が出来てこれまでの骨董道楽も止め、不要なものを処分したら、そのなかに頼政の筆もあった。

 

無季。

 

五十八句目

 

   物毎も子持になればだだくさに

 又御局の古着いただく      利牛

 (物毎も子持になればだだくさに又御局の古着いただく)

 

 御局(おつぼね)というと春日局(かすがのつぼね)のような奥女中を連想するが、大河ドラマの『春日局』の頃、職場の年季の入った女性の事を比喩で「お局様」と呼んだりしていた。ここでもこうした比喩もしれない。

 職場の先輩が恩を着せようとしてやたらに古着をくれたりする。まさにお仕着せだ。

 

無季。「御局」は人倫。「古着」は衣裳。

 

五十九句目

 

   又御局の古着いただく

 妓王寺のうへに上れば二尊院   孤屋

 (妓王寺のうへに上れば二尊院又御局の古着いただく)

 

 妓王寺は祇王寺のこと。二尊院とともに嵯峨野にある。

 祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。二尊院の先輩尼から古着をもらったりしてたか。

 

無季。釈教。

 

六十句目

 

   妓王寺のうへに上れば二尊院

 けふはけんかく寂しかりけり   野坡

 (妓王寺のうへに上れば二尊院けふはけんかく寂しかりけり)

 

 祇王寺はこの頃は寂れていたようだ。江戸中期には再興されるが、明治には廃寺となる。二尊院とは天地懸隔(天と地ほどかけ離れている)だったのだろう。

 

無季。

 

六十一句目

 

   けふはけんかく寂しかりけり

 薄雪のこまかに初手を降出し   利牛

 (薄雪のこまかに初手を降出しけふはけんかく寂しかりけり)

 

 「けんかく」とあえて平仮名にしてあるのは「剣客」への取り成しのためか。修行のために表に出れば、雪に先手を取られてしまう。

 

季語は「薄雪」で冬、降物。

 

六十二句目

 

   薄雪のこまかに初手を降出し

 一つくなりに鱈の雲腸      孤屋

 (薄雪のこまかに初手を降出し一つくなりに鱈の雲腸)

 

 「一つくなり」は中村注に「ひとかたまり」とある。鱈の白子に雪が積もると、どれが雪でどれが白子やら。

 

季語は「鱈」で冬。

 

六十三句目

 

   一つくなりに鱈の雲腸

 銭ざしに菰引ちぎる朝の月    野坡

 (銭ざしに菰引ちぎる朝の月一つくなりに鱈の雲腸)

 

 銭を束ねて留める紐がなくてマコモを引きちぎって代用する。緩く束ねられた銭は白子に見えなくもないか。

 

季語は「朝の月」で秋、天象。「菰」は植物、草類。

 

六十四句目

 

   銭ざしに菰引ちぎる朝の月

 なめすすきとる裏の塀あはひ   利牛

 (銭ざしに菰引ちぎる朝の月なめすすきとる裏の塀あはひ)

 

 「なめすすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「なめずすき」とも) きのこ「えのきたけ(榎茸)」の異名。

  ※梁塵秘抄(1179頃)二「聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸なめすすき」

 

とある。

 えのき茸は今のはひょろひょろと細長いが、これはモヤシのように日に当てずに栽培するからで、本来は茶色くて立派な笠をひろげる。

 裏の塀の方でえのき茸が取れたので売って小銭稼ぎしたのか、菰を引きちぎって銭を束ねる。

 

季語は「なめすすき」で秋。

三裏

六十五句目

 

   なめすすきとる裏の塀あはひ

 めを縫て無理に鳴する鵙の声   孤屋

 (めを縫て無理に鳴する鵙の声なめすすきとる裏の塀あはひ)

 

 「めを縫て」というのは囮百舌(おとりもず)のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 他のモズを寄せるために、眼瞼(まぶた)を縫って盲目にして鳴かせるモズ。《季・秋》

  ※日次紀事(1685)八月「此月山林間囮鵙(をとりもず)縦レ日居二於架頭一傍設二黏竽一而執二鵙鳥一、是謂レ落レ鵙」

 

とある。「鵙落とし」という鵙猟に用いるもので、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 

 「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」

 

とある。秋の季語。

 えのき茸を採るあたりで鵙の罠も仕掛けてある。

 

季語は「鵙」で秋、鳥類。

 

六十六句目

 

   めを縫て無理に鳴する鵙の声

 又だのみして美濃だよりきく   野坡

 (めを縫て無理に鳴する鵙の声又だのみして美濃だよりきく)

 

 前句の鵙落としを比喩としたか。かなり無理難題を吹っかけて美濃の情報を手に入れたか。

 

無季。

 

六十七句目

 

   又だのみして美濃だよりきく

 かかさずに中の巳の日をまつる也 利牛

 (かかさずに中の巳の日をまつる也又だのみして美濃だよりきく)

 

 三月上巳は巳の日の祓だが、ここでは上巳でも正月の初巳でもなく、毎月来る二番目の巳の日のことであろう。巳の日は弁天様の縁日で金運に恵まれるから、初巳上巳だけでなく、巳の日は中でも下でも全部祀りたいのであろう。前句を「また頼みして、巳の頼り聞く」と取りなす。年がら年中弁天様に願い事をして、弁天様のご利益を乞う。

 

無季。

 

六十八句目

 

   かかさずに中の巳の日をまつる也

 入来る人に味噌豆を出す     孤屋

 (かかさずに中の巳の日をまつる也入来る人に味噌豆を出す)

 

 味噌豆は大豆に異名。大豆は今は秋の季語だが曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。乾燥大豆が一年中あったからか。

 大豆は縁起ものなので、毎月中旬の巳の日には気前よくふるまう。

 

無季。

 

六十九句目

 

   入来る人に味噌豆を出す

 すぢかひに木綿袷の龍田川    野坡

 (すぢかひに木綿袷の龍田川入来る人に味噌豆を出す)

 

 「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」

 

とある。合服に近いかもしれないが期間は合服より短い。夏の季語になる。

 龍田川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1]

  [一] 奈良県北西部、生駒山地の東側を南流し、斑鳩(いかるが)町で大和川に合流する川。上流を生駒川、中流を平群(へぐり)川ともいう。紅葉の名所。

  ※古今(905‐914)秋下・二八三「龍田河紅葉乱れてながるめりわたらば錦中やたえなむ〈よみ人しらず〉」

  [二] 奈良県北西部、大和川の龍田川との合流点から下流、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)との境にかけての古称。歌枕。

  [2]

  ① ((一)(一)挙例の「古今‐秋下」の歌から) 模様の名。流水に紅葉(もみじ)の葉を散らしたもの。

  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「西の方の中程、ちいさき釣隔子(つりがうし)、唐紙の竜田川(タツタカハ)も、紅葉ちりぢりにやぶれて」

  ② (「古今‐秋下」の「ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは〈在原業平〉」から) 紅い血が川のように流れること。

  ※雑俳・あづまからげ(1755)「咎あれば畳の上も龍田川」

 

とあり、この場合は[2]①であろう。 龍田川模様の木綿袷は初夏に着るものというよりは重陽の前に着る秋の袷のようだが、季語の扱いとしてはどうなのだろうか。前句の味噌豆も秋に採れる。実質秋だが、形式的には夏ということか。

 

無季。「木綿袷」は衣裳。

 

七十句目

 

   すぢかひに木綿袷の龍田川

 御茶屋のみゆる宿の取つき    利牛

 (すぢかひに木綿袷の龍田川御茶屋のみゆる宿の取つき)

 

 「宿の取つき」は宿場の始まるあたりということか。前句の「すぢかひに」は「御茶屋」に掛かる。

 「御茶屋」は宿場の本陣のこと。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所あるいは休息所。

 

無季。旅体。

 

七十一句目

 

   御茶屋のみゆる宿の取つき

 ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ 孤屋

 (ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ御茶屋のみゆる宿の取つき)

 

 「どんどほこらす」は中村注に爆竹を盛んに燃やすこととある。「ほやほや」は炎や湯気の立ち上るさまを言い、それが雲のようにちぎれてゆく。

 爆竹はウィキペディアに、

 

 「日本でも古くから小正月や節分の催事として「爆竹」と呼ばれるものがあったようで、鎌倉時代の1251年(建長3年)1月16日、後嵯峨上皇が爆竹を見たという記事がみえている(『辨内侍日記』)。ただしこれは青竹を燃やし音を立てるもので、火薬を用いたものではない。この催事は現在でもドンド焼きや左義長と呼ばれて各地に伝承されている。」

 

 この場合もどんど焼きの風景であろう。春になる。

 

季語は「どんど」で春。「雲」は聳物。

 

七十二句目

 

   ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ

 水菜に鯨まじる惣汁       野坡

 (ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ水菜に鯨まじる惣汁)

 

 「惣汁(そうじる)」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 

 「昔、京の町々にあった、町屋または町会所と呼ぶ会所で町人の常会が毎月一回開かれたこと

  季節 新年」

 

とある。そこでは京野菜の水菜に混じって鯨も並んでいる。

 

 煤掃之礼用於鯨之脯       其角

 (すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ)

 

という『次韻』の句があるように、これは去年の年末の干し鯨が混ざっているという意味だろう。

 

季語は「惣汁」で春。

 

七十三句目

 

   水菜に鯨まじる惣汁

 花の内引越て居る樫原      利牛

 (花の内引越て居る樫原水菜に鯨まじる惣汁)

 

 「花の内」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 

 「読み方:ハナノウチ(hananouchi)

  東北地方での小正月から月末までの間の呼称

  季節 新年

  分類 時候」

 

とある。昔は東北地方に限らず用いられていたか。四つの花の一つは似せ物の花になる。

 「惣汁」もそうだが、近代俳句では新暦正月が冬に来てしまったため、春夏秋冬とは別に「新年」を部立てしている。俳諧では歳旦や新年の句は当然ながら春になる。

 「樫原(かたぎはら)」は京都の地名で、ウィキペディアには、

 

 「樫原(かたぎはら)とは、京都市西京区の一部をいう。

 樫原は南北に通じる物集女街道、東西にのびる山陰街道の結節点にあたる。物集女街道は北摂から京都市域に入る幹線道路であり、嵐山に通じる。四条街道と通じ、梅津や桂、嵐山の木材湾港と通じる古くからの商業路である。山陰街道は大枝山方面から丹波地方にのびる幹線道路である。樫原はこのような交通の要衝であることから、古くから街道町として栄えた。丹波方面の計略を命じられた戦国時代の明智光秀による整備の歴史も語られており、幕末には志士を匿う豪商も多く存在した。ちなみに近郊の川島には、志士を経済的に支えた土豪・革嶋氏の拠点がある。」

 

とある。阪急の桂駅が近い。

 惣汁が京の習慣だったから、正月は町中で過ごし、小正月過ぎてから樫原に引っ越す。

 

季語は「花の内」で春。

 

七十四句目

 

   花の内引越て居る樫原

 尻軽にする返事聞よく      孤屋

 (花の内引越て居る樫原尻軽にする返事聞よく)

 

 「尻軽」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動)

  ① 尻の軽いこと。起居の活発なこと。身軽なこと。また、そのさま。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)一「身拵へ取いそぎ、駕籠待兼(まちかね)尻(シリ)がるに乗移りて」

  ② 振舞いのかるがるしいこと。かるはずみ。

  ③ 多情なこと。特に、女の、浮気なこと。

  ※仮名草子・御伽物語(1678)二「そふからはかしづくべきなり。世のしりがるなるをんなにきかせてしがな」

 

とある。今では③以外の意味ではほとんど用いられないが、かつては今で言う「フットワークが軽い」に近い良い意味もあったようだ。

 樫原は交通の要所なだけに、仕事上、こういうところにさっと引っ越してくれるのは使う方としては嬉しいものだ。

 

無季。

 

七十五句目

 

   尻軽にする返事聞よく

 おちかかるうそうそ時の雨の音  野坡

 (おちかかるうそうそ時の雨の音尻軽にする返事聞よく)

 

 「うそうそ時」は明け方や夕暮れの薄暗いころで逢魔が刻とも言う。雨の黄昏に返事する者は人外さんかもしれない。

 

無季。「雨」は降物。

 

七十六句目

 

   おちかかるうそうそ時の雨の音

 入舟つづく月の六月       利牛

 (おちかかるうそうそ時の雨の音入舟つづく月の六月)

 

 旧暦の六月だと梅雨も明けている。熱いカンカン照りの日が続くが夕立も多い。夕立の後には月も出る。

 この頃は灘から運ばれてくる酒も最後の売り切りになり、駆け込み需要で船が増えたのだろう。あとは新酒を待つことになる。

 

季語は「六月」で夏。「入舟」は水辺。「月」は夜分、天象。

 

七十七句目

 

   入舟つづく月の六月

 拭立てお上の敷居ひからする   孤屋

 (拭立てお上の敷居ひからする入舟つづく月の六月)

 

 「お上(うえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 主人の妻や目上の人の妻を敬っていう語。

  「いかなれば―にはかくあぢきなき御顔のみにて候ふぞやと」〈仮・是楽物語下〉

  2

  ㋐土間・庭に対して、畳の敷いてある部屋。座敷。

  「毎年お庭で舞ひまして、お前は―に結構な蒲団敷いて」〈浄・大経師〉

  ㋑主婦の居間。茶の間。おいえ。

  「―には亭主夫婦、あがり口に料理人」〈浄・曽根崎〉」

 

とある。この場合は2であろう。

 入舟が多いということで商売繁盛なのか、店の座敷の敷居もきれいに磨いてある。「ひからする」は前句の月にも掛かる。

 

無季。

 

七十八句目

 

   拭立てお上の敷居ひからする

 尚云つのる詞からかひ      野坡

 (拭立てお上の敷居ひからする尚云つのる詞からかひ)

 

 「からかひ」は古語では「争い」意味があるので、ここは口喧嘩のことであろう。「お上」を2のイの意味に取るなら夫婦喧嘩か。

 

無季。

名残表

七十九句目

 

   尚云つのる詞からかひ

 大水のあげくに畑の砂のけて   利牛

 (大水のあげくに畑の砂のけて尚云つのる詞からかひ)

 

 「あげく」は連歌や俳諧の挙句からきた言葉だが、なぜか結果が悪いという意味で用いる。

 上流から流れてきた水に含まれる砂質土が川の周りに滞積すると、自然堤防が形成されるが、川の水が増水すると、今とは違い、堤防を意図的に決壊させて水を緩やかにあふれさせることで被害を小さくしようとしたという。

 だから、堤防を決壊させたときに自然堤防を形成する砂質土が畑に流れ込んでくるのは、よくあることだったのだろう。ただ、決壊させる場所によって誰の畑のほうに砂が多いとか、口論になることも多かったのではないかと思う。

 こうしたやり方は河川敷に余裕があったからできたことで、今だったら堤防すぐそばまで田んぼだったり家が建ってたりするから無理。江戸後期の新田開発の進んだころからやらなくなっていった。

 

無季。

 

八十句目

 

   大水のあげくに畑の砂のけて

 何年菩提しれぬ栃の木      孤屋

 (大水のあげくに畑の砂のけて何年菩提しれぬ栃の木)

 

 「何年菩提」は中村注には「世に久しいこと。ただ長い間という意味にも用いる。」とある。「菩提」は単なる強調の言葉か。

 たびたび大水に見舞われても、それをものともせずに生き残っている大きな栃の古木がある。

 

無季。「栃の木」は植物、木類。

 

八十一句目

 

   何年菩提しれぬ栃の木

 敷金に弓同心のあとを継     野坡

 (敷金に弓同心のあとを継何年菩提しれぬ栃の木)

 

 「敷金」は今日では家や部屋を借りるときに預ける金のことだが、これは比較的新しいものらしい。

 江戸時代で「敷金(しききん、しきがね)」といった場合は、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 売買・貸借などの契約の際の証拠金。手付け金。また、不動産貸借の際、将来生ずるかもしれない損害の補填の意味で、あらかじめ預けておく保証金。しききん。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「敷銀(シキカネ)にして物を売(うる)共、前より残銀かさむ時は、見切て是を捨(すつ)べし」

  ② 婚姻や養子縁組などの際の持参金。しききん。

  ※浮世草子・懐硯(1687)五「入聟の敷銀(シキガネ)にて此家を継がすべき事をたくみ」

  ③ 香道で、香を炷(た)くときに敷く薄い金銀の板。銀葉。

  ※浮世草子・椀久二世(1691)下「右の手に香箸、左に敷銀(シキカネ)を持ちて、名香聞飽て鼻血たらし」

[語誌]中世では「敷銭(しきせん)」、近世に入って上方では「敷銀(しきがね・しきぎん)」、江戸では「敷金(しきがね・しききん)」といった。

 

の三つが記されている。今の敷金は本来は①の意味だったのだろう。今はただの慣習になっている。この句の場合は「あとを継(つぎ)」とあるから、②の養子縁組の持参金であろう。

 「弓同心」は弓足軽という徒歩で弓を射る弓兵のこと。鉄砲が飛び道具の主流になってからはやや影が薄くなったが、高度な技術を要することには変わりない。

 持参金をもって弓同心の後を継いで、代々弓の道を受け継いでゆく姿が、屋敷の大きな栃の古木に例えられる。この場合の「菩提」には、先祖の霊を弔う意味も読み取れる。

 

無季。「弓同心」は人倫。

 

八十二句目

 

   敷金に弓同心のあとを継

 丸九十日湿をわずらふ      利牛

 (敷金に弓同心のあとを継丸九十日湿をわずらふ)

 

 「湿」は中村注には「湿疹、ここでは疥癬などの皮膚病。」とある。ほかに「湿」とつく病気には、梅雨時などに体がだるくなる湿邪、リューマチを意味する風湿がある。この場合は湿邪が夏の三か月続いた可能性もあると思う。

 

無季。

 

八十三句目

 

   丸九十日湿をわずらふ

 投打もはら立ままにめつた也   孤屋

 (投打もはら立ままにめつた也丸九十日湿をわずらふ)

 

 「投げ打つ」は捨てる、放棄するという意味。「めつた」は滅多で思慮もなくという意味。

 湿邪の時は些細なことにもイライラしては何もする気がなくなる。

 

無季。

 

八十四句目

 

   投打もはら立ままにめつた也

 足なし碁盤よう借に来る     野坡

 (投打もはら立ままにめつた也足なし碁盤よう借に来る)

 

 前句の「投打」を囲碁の投了のこととする。負けかかると粘ろうともせずにすぐにかっとなって投了するような囲碁の打ち手はまだまだ初級で、自分の愛用の盤もなく、足のついてない簡易碁盤をしょっちゅう借りに来る。

 

無季。

 

八十五句目

 

   足なし碁盤よう借に来る

 里離れ順礼引のぶらつきて    利牛

 (里離れ順礼引のぶらつきて足なし碁盤よう借に来る)

 

 「順礼引」は中村注に「木賃宿の客引」とある。

 「ぶらつく」は清濁の表記がなかった時代には「ふらつく」との区別が難しい。同じ言葉だったのかもしれない。

 ぶらぶらと歩きまわるというよりは、手持無沙汰で暇つぶしに碁盤を借りに来るということだろう。

 

無季。旅体。「順礼引」は人倫。

 

八十六句目

 

   里離れ順礼引のぶらつきて

 やはらかものを嫁の襟もと    孤屋

 (里離れ順礼引のぶらつきてやはらかものを嫁の襟もと)

 

 「やわらかもの」は絹織物のことで、ウィキペディアによれば、

 

 「寛永5年(1628年)には、農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁じられた。」

 

とあり、

 

 「農民の服装に対しては続いて寛永19年(1642年)には襟や帯に絹を用いることを禁じられ、さらに脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、さらに紬が許された層でもその長さが制限された。」

 

とある。紬ではない絹を襟に使っていれば、農工商ではなく武士だということになる。商人が見た目が木綿に似ているということでこっそりと紬を着るということは五句目のところで触れたが、問題は紬も「やわらかもの」に含まれるかどうかだ。

 この場合、順礼引が嫁にやわらかものの襟の服を買ってやったのなら、紬であろう。

 

無季。恋。

 

八十七句目

 

   やはらかものを嫁の襟もと

 気にかかる朔日しまの精進箸   野坡

 (気にかかる朔日しまの精進箸やはらかものを嫁の襟もと)

 

 「朔日しま」は中村注に「朔日初めから、早々の意。」とある。

 「精進箸(いもひばし)」は忌(いも)ひ、つまり精進潔斎の時に使う箸で、朔日ごろ、その箸を見て精進潔斎が始まるのを予感させる。嫁の側の忌日だろうか。

 精進潔斎が始まれば男女同衾も禁じられる。

 

無季。釈教。

 

八十八句目

 

   気にかかる朔日しまの精進箸

 うんぢ果たる八専の空      利牛

 (気にかかる朔日しまの精進箸うんぢ果たる八専の空)

 

 「うんぢ果てる」は倦(う)み果てるということ。

 「八専」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「陰暦で、壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの12日間のうち、丑(うし)・辰(たつ)・午(うま)・戌(いぬ)の4日を間日(まび)と呼んで除いた残りの8日。1年に6回あり、雨の日が多いという。仏事などを忌む。」

 

とある。

 壬子(みずのえね)から癸亥(みずのとい)は十干十二支の甲子(きのえね)に始まり癸亥(みずのとい)で終わる最後の十二日になる。ちなみに今日は辛酉(かのえとり)で明後日の十九日は癸亥(みずのとい)、八専の終わり頃になる。

 精進潔斎も忌日だが、八専も忌日だ。忌日が重なればやれることも少なくうんぢ果てることになる。八専は雨の日が多いということで、空までが鬱陶しい。

 

無季。

 

八十九句目

 

   うんぢ果たる八専の空

 丁寧に仙台俵の口かがり     孤屋

 (丁寧に仙台俵の口かがりうんぢ果たる八専の空)

 

 「仙台俵」は中村注に「仙台米の俵」とある。仙台藩は六十二万石で江戸に多くの米を供給していた。

 深川に仙台藩の蔵屋敷が立つのは四年後の元禄十一年で、この頃はまだなかった。

 米俵の口は藁で編んだ円座状の蓋をかがりつけて止める。出荷用のたくさんの米俵を用意するには、なかなか面倒な作業だ。

 

無季。

 

九十句目

 

   丁寧に仙台俵の口かがり

 訴訟が済で土手になる筋     野坡

 (丁寧に仙台俵の口かがり訴訟が済で土手になる筋)

 

 江戸時代は訴訟社会で土地の境界線争い、水利争い、借金の取り立てなど、様々な訴訟が行われた。

 河川敷の改修のための土地の収用の裁判だったか、新たな土手が完成し、そこから米俵が船に乗せられてゆく。

 

無季。

 

九十一句目

 

   訴訟が済で土手になる筋

 夕月に医者の名字を聞はつり   利牛

 (夕月に医者の名字を聞はつり訴訟が済で土手になる筋)

 

 「聞(きき)はつり」はほんのちょっと耳にすること。

 医者は読み書きが得意なので、お坊さんと同様訴訟の際に書類を作成したり、弁護士のような仕事をする。

 医者は俳諧師と同様号で呼ばれることが多く、あまり名字で呼ばれることはなかったのではないかと思われる。訴訟が済んだ後の夕月の宴で初めて名字を知るということもあったのかもしれない。

 

季語は「夕月」で秋、天象。「医者」は人倫。

 

九十二句目

 

   夕月に医者の名字を聞はつり

 包で戻る鮭のやきもの      孤屋

 (夕月に医者の名字を聞はつり包で戻る鮭のやきもの)

 

 医者への付け届けであろう。名前を聞きかじっただけなので、結局会えなかったか。

 

季語は「鮭」で秋。

名残裏

九十三句目

 

   包で戻る鮭のやきもの

 定免を今年の風に欲ばりて    野坡

 (定免を今年の風に欲ばりて包で戻る鮭のやきもの)

 

 定免はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 恒常的に賦課を免除されること。また、その田。

  ※大乗院寺社雑事記‐応仁元年(1467)四月二五日「定免一斗宛在所也」

  ② (「免」は、年貢の税率) 江戸時代の徴税法の一つ。過去五年から一〇年の収穫高を平均して税額を定め、一定の年限を限って、その間は豊作・不作にかかわらず、定められた税額を徴収したもの。もし、風水害などの災害が大きい時は、とくに破免検見(はめんけみ)という処置をとって税額を減じた。定免取り。

  ※集義和書(1676頃)一六「無事の時は定免よし」

  ※浮世草子・新可笑記(1688)四「世中の秋にはつよくとり、不作の年にはそれそれの毛見(けみ)の大事是なり。定免(テウメン)の取かた用捨有へし」

 

とある。年貢の定額制ということか。

 今年は豊作になりそうだから定免にしてもらおうと思って、付け届けに鮭を持って行ったが断られたということか。

 

季語は「定免」で秋。

 

九十四句目

 

   定免を今年の風に欲ばりて

 もはや仕事もならぬおとろへ   利牛

 (もはや仕事もならぬおとろへ定免を今年の風に欲ばりて)

 

 定免だと働けなくなっても取られてしまうということか。

 

無季。

 

九十五句目

 

   もはや仕事もならぬおとろへ

 暑病の殊土用をうるさがり    孤屋

 (暑病の殊土用をうるさがりもはや仕事もならぬおとろへ)

 

 「暑病(あつやみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 夏の暑さのために病気になること。また、その病気。暑気あたり。暑さあたり。

  ※俳諧・炭俵(1694)上「暑病(ヤミ)の殊土用をうるさがり〈孤屋〉」

 

とある。熱中症のことか。

 「うるさい」は煩わしい、鬱陶しいということ。今日でも「前髪がうるさい」という言い方は残っている。

 土用は夏バテの季節だった。土用の丑の日にウナギを食べるようになるのは百年くらい後のことになる。

 

季語は「暑病」で夏。

 

九十六句目

 

   暑病の殊土用をうるさがり

 幾月ぶりでこゆる逢坂      野坡

 (暑病の殊土用をうるさがり幾月ぶりでこゆる逢坂)

 

 暑いときに旅はしたくないもので、涼しくなって久しぶりに逢坂山を越える。

 

無季。旅体。「逢坂」は名所。

 

九十七句目

 

   幾月ぶりでこゆる逢坂

 減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし 利牛

 (減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし幾月ぶりでこゆる逢坂)

 

 「店(たな)さらし」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①商品が売れずに長い間店頭に置かれたままになっていること。また、その商品。 「 -の品」 「十九世紀で売れ残つて、二十世紀で-に逢ふと云ふ相だ/吾輩は猫である 漱石」

  ②解決を要する問題が、全然手をつけられずに放置されていること。 「 -になっている案件」

 

とある。

 近江の国には鍛冶屋が多かったのだろう。包丁、農具、武器など、そうそう売れるものではないから、何か月かたって行ってみても同じものがそのまま置いてあったりする。

 

無季。

 

九十八句目

 

   減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし

 門建直す町の相談        孤屋

 (減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし門建直す町の相談)

 

 「町」は「ちょう」と読む。城下町の町人地のことであろう。職業別に分けられて、ここでは鍛治町になる。

 今の東京駅の南側に鍛冶橋という地名があり、かつて鍛冶橋御門があった。寛永六年(一六二九)の建立。京橋側に鍛冶町があった。

 ここではそんな立派な門ではなく、どこかの小さな鍛治町の木戸のようなものかもしれない。寂れているので門だけでも立て直そうということか。

 

無季。

 

九十九句目

 

   門建直す町の相談

 彼岸過一重の花の咲立て     野坡

 (彼岸過一重の花の咲立て門建直す町の相談)

 

 門を立て直し、これから町も繁栄するぞというところで桜の花もようやく咲き始めた様を付ける。

 この一巻をもって、これからこの三人で江戸蕉門を盛り上げていくぞという決意が込められているのかもしれない。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   彼岸過一重の花の咲立て

 三人ながらおもしろき春     執筆

 (彼岸過一重の花の咲立て三人ながらおもしろき春)

 

 最後は執筆が締めくくる。三人だけでも面白かったですよ、と。やや上から目線な感じがするけどひょっとして芭蕉さん?

 古典の趣向やら隠士やらの句は少なく、三井呉服店の今で言うサラリーマンの俳諧といったところか。今日日のサラリーマン川柳もこれくらい面白ければいいのだが。

 

季語は「春」で春。