「八九間」の巻、解説

初表

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

   春のからすの畠ほる声     沾圃

 初荷とる馬子もこのみの羽織きて  馬莧

   内はどさつく晩のふるまひ   里圃

 きのふから日和かたまる月の色   沾圃

   狗脊かれて肌寒うなる     芭蕉

 

初裏

 渋柿もことしは風に吹れたり    里圃

   孫が跡とる祖父の借銭     馬莧

 脇指に替てほしがる旅刀      芭蕉

   煤をしまへばはや餅の段    沾圃

 約束の小鳥一さげ売にきて     馬莧

   十里ばかりの余所へ出かかり  里圃

 笹の葉に小路埋ておもしろき    沾圃

   あたまうつなと門の書つき   芭蕉

 いづくへか後は沙汰なき甥坊主   里圃

   やつと聞出す京の道づれ    馬莧

 有明におくるる花のたてあひて   芭蕉

   見事にそろふ籾のはへ口    沾圃

 

二表

 春無尽まづ落札が作太夫      馬莧

   伊勢の下向にべつたりと逢   里圃

 長持に小挙の仲間そはそはと    沾圃

   くはらりと空の晴る青雲    芭蕉

 禅寺に一日あそぶ砂の上      里圃

   槻の角のはてぬ貫穴      馬莧

 濱出しの牛に俵をはこぶ也     芭蕉

   なれぬ嫁にはかくす内證    沾圃

 月待に傍輩衆のうちそろひ     馬莧

   籬の菊の名乗さまざま     里圃

 むれて来て栗も榎もむくの声    沾圃

   伴僧はしる駕のわき      芭蕉

 

二裏

 削やうに長刀坂の冬の風      里圃

   まぶたに星のこぼれかかれる  馬莧

 引立てむりに舞するたをやかさ   芭蕉

   そつと火入におとす薫     沾圃

 花ははや残らぬ春のただくれて   馬莧

   瀬がしらのぼるかげろふの水  里圃

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

 

 これは柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではなく、木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でない主観的なものを治定するので「かな」で結ぶことになる。

 一間は約1.82メートル。八間は十四メートル半になる。

 「八九間」という言葉は陶淵明の「帰田園居」三首の其一に、

 

 方宅十餘畝 草屋八九間

 楡柳蔭後簷 桃李羅堂前

 

とある所から来ているという説もある。ただ、中国には「間」という単位はない。この場合は部屋数を言う。「十餘畝」は岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編、一九八四)の注に「およそ五アール強」とある。

 まあ、有名な詩だから芭蕉も当然知っていたとは思うが、語呂がいいから拝借した程度で意味上のつながりはない。そこが「軽み」というものだ。

 なお、この歌仙には『真蹟添削草稿』というものが存在する。『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注にはこうある。

 

 「この芭蕉真蹟『八九間雨柳』歌仙一巻は、もと三重県四日市市鈴木廉平氏の曽祖父、小草亭李東(士朗門)が、文化七年長月庵若翁と井上士朗の斡旋によって、伊賀の俳人士得なる人から譲り受けたものという。

 李東はこれを記念して文化八年草稿のまま模刻し板行した。

 さらに鈴木芦竹氏は李東の追善のため、大正十三年に藤井紫影博士の序文を得てこれの復刻をしたが、復刻の見にくいのをおそれて玻璃版一枚を掲げた。」

 

 さらに、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)には、「草稿と版本の中間形態を示す資料(大正十一年五月『子爵渡辺家御蔵品入札』目録所収)を紹介している。

 これらによって知られるのは、『続猿蓑』がかなり本来の興行のものから手直しされているということで、しかも句の作者の名前まで変わっていて、実質的に芭蕉の作品になっているということだ。

 それまでにも『ひさご』の「木のもとに」の巻のように別の連衆によって作り直したことはあったが、句をそのままに作者名が変わるというのはなかった。

 同じ『続猿蓑』の、「いさみ立鷹引すゆる嵐かな 里圃」を発句とする歌仙も、『続深川』所収のバージョンだと発句は「いさみたつ鷹引居る霰哉 芭蕉」になっていて、内容もまったく違っている。

 これは芭蕉が『続猿蓑』に向けて、より完璧な作品を志したことと、表向きの撰者の沾圃の顔を立てるためだったと思われる。

 発句の、

 

 八九間空で雨降柳かな       芭蕉

 

の句は初案から変わってない。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。「雨」は降物。

 

 

   八九間空で雨降る柳かな

 春のからすの畠ほる声       沾圃

 (八九間空で雨降る柳かな春のからすの畠ほる声)

 

 実際には雨が降ってないので、カラスが畠を掘る長閑な田舎の景で応じる。

 沾圃はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。

 寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。」

 

とある。露沾と立圃を合わせたような名前だ。

 

 猿蓑にもれたる霜の松露哉     沾圃

 

の句を詠み、これをもとに『続猿蓑』が編纂され、沾圃はその撰者に抜擢された。たださすがに選者は荷が重く、実質的には芭蕉が存命中は芭蕉の、没後は支考の協力のもとに行われたようだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   八九間空で雨降柳かな

 春のからすの田を□たる声     沾(見)

       畠ほる声

 

とある。

 作者名は沾とした上でその上に「見」と書かれている。馬莧のことか。

 最初は「田を□たる声」だったのを「畠ほる声」に直したというのは分かる。ただ、なぜ沾を見に直したのかはわからない。

 この読み取れない□の部分は『続猿蓑五歌仙評釈』では「『わ』で問題なく」としている。「田をわたる声」だったことになる。カラスが鳴きながら飛んでゆく場面から、畑で餌を啄ばみながら鳴く声になる。これは柳の木の下が実際には雨が降ってないということを分かりやすくするための改作であろう。

 

季語は「春」で春。「からす」は鳥類。

 

第三

 

   春のからすの畠ほる声

 初荷とる馬子もこのみの羽織きて  馬莧

 (初荷とる馬子もこのみの羽織きて春のからすの畠ほる声)

 

 「羽織」は礼装だが、ウィキペディアには、

 

 「ちょっとした外出着や社交着として(紋付でない羽織)、着物の上にはおったり、着物とお揃いの羽織(いわゆる「お対」)を着用したりする。」

 

とあり、紋付でない羽織はそれほど格式があったわけではないようだ。馬子でも着ることがあったか。

 ただ、「馬子にも衣装」とはいうものの、何か板につかない感じで、そのおかしさを狙ったか。田舎のカラスもカーと鳴く。

 馬莧は『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注に、「鷺流の狂言師、名貞綱、権之丞と称す」とある。

 『真蹟添削草稿』では、

 

   春のからすの畠ほる声

 立年の初荷に馬を拵て

 初荷とる馬子も仕着せの布小きて  見(沾)

 

となっている。

 「立年の初荷」は意味的に重複している。初荷は正月のものだから「立年」とことわらなくてもいい。

 前句を「畠ほる声」に治定したあと、その長閑な雰囲気に初荷の馬を付けたと思われる。

 改案では馬子の姿をより詳しくし、「仕着せの布小」を着ているとした。

 「仕着せ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「四季施,為着とも書く。江戸時代,幕府が諸役人,例えば同朋,右筆,賄調役,数寄屋坊主などへ時候に応じて衣服を与えたこと,もしくは与えた衣服をいう。一部が代金で与えられる場合もあった。また商家や農家でも奉公人に仕着が与えられた。江戸時代の商家では,丁稚(でつち),小僧は12,13歳で雇い入れられたが,その後約10年間,元服して手代となるまでは給金は与えられず,仕着と食事および若干のこづかいが与えられるだけであった。」

 

とある。今日で言えば会社から支給される制服のようなものだろう。無理矢理着させられているという意味の「お仕着せ」もここから来たと思われる。

 「布小」は「布子」でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「木綿の綿入れ。古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れをいった。《季 冬》」

 

とある。防寒服だ。

 おそらく「初荷とる馬子も仕着せの布小きて」の方が実際にはありがちだったのだろう。ただ、あまりリアルすぎても花がないので、やや理想を込めて、最終的には「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」に直して治定したのだろう。

 正月くらい好きな着物を着てみたいし、それを許すような粋な親方がいてほしい、という願望が込められている。あえて「あるある」ではなく提案にした。

 

季語は「初荷」で春。「馬子」は人倫。「羽織」は衣裳。

 

四句目

 

   初荷とる馬子もこのみの羽織きて

 内はどさつく晩のふるまひ     里圃

 (初荷とる馬子もこのみの羽織きて内はどさつく晩のふるまひ)

 

 前句の馬子の羽織を晩に行われる宴会のためとした。馬子のことだから狭い会場に詰め込まれてあまり優雅とは言えない。

 『校本芭蕉全集 第五巻』の注には里圃も「能楽関係の人」とある。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   初荷とる馬子も仕着せの布小きて

 庭とりちらす

 内はどさつく晩のふるまひ     里

 

とある。

 「仕着せの布小」なら防寒着だから、外で震えながら正月のご馳走に預ったのだろう。多分この方がリアルだったに違いない。

 ただ、ここでもこの方が粋だという提案を込めて、狭い店の中でご馳走がふるまわれると変えている。

 

無季。「晩」は夜分。

 

五句目

 

   内はどさつく晩のふるまひ

 きのふから日和かたまる月の色   沾圃

 (きのふから日和かたまる月の色内はどさつく晩のふるまひ)

 

 どさつく理由を、急に天気が回復して、見送られてたお月見の宴を急遽やることになったからだとした。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   内はどさつく晩のふるまひ

 宵月の日和定る柿の色

 きのふから日和かたまる月のいろ  沾

 

 とりちらかった庭での宴は、天気がよくなって急遽月見の宴が催されたからだとする。庭なので柿の色を添える。

 ただ「内はどさつく」だと柿の実も外の月も見えない。そこで「きのふから」とし、日和が定まったのだから外には月が照っていることだろう、とする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   きのふから日和かたまる月の色

 狗脊かれて肌寒うなる       芭蕉

 (きのふから日和かたまる月の色狗脊かれて肌寒うなる)

 

 「狗脊」は「ぜんまい」と読む。春の山菜で蕨と並び称される。「狗脊」を「くせき」と読むと漢方薬の原料となる別の植物になる。

 ぜんまいは秋に紅葉する。紅葉というと楓や蔦のイメージがあるが、ぜんまいの紅葉も知る人ぞ知るといったところか。特に湿地に群生するヤマドリゼンマイの紅葉は美しい。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   きのふから日和かたまる月のいろ

 薄の穂からまづ

 ぜんまひかれて肌寒うなる     蕉

 

 月に薄は付け合いだが、あまりにベタなので何か外のものはないかと思案して、最終的にゼンマイの紅葉の美しさを見出したと思われる。

 

季語は「肌寒うなる」で秋。「狗脊」は植物、草類。

初裏

七句目

 

   狗脊かれて肌寒うなる

 渋柿もことしは風に吹れたり    里圃

 (渋柿もことしは風に吹れたり狗脊かれて肌寒うなる)

 

 柿が落ちるというと落柿舎を連想する。

 以前落柿舎のことを書いたときに、「不受精、強樹勢、ヘタムシ、カメムシ、落葉病など、柿の落下にはいろいろ原因がある」と書き、落柿舎の場合はカメムシが怪しいとしたが、当時の人は嵐山の風で落ちたとしてきた。

 寒さでゼンマイの枯れるのも早く、嵐が来て柿も落ちてしまったと響きで付ける。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   ぜんまひかれて肌寒うなる

 手を摺て猿の五器かる草庵

           旅の宿    見

 

 句も作者も最終稿とはまったくちがう。

 「五器」は「五具足」に同じ。「五具足」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「仏前に供える、華瓶(けびょう)一対、ろうそく立て一対、香炉一基の五つの仏具。五器。」

 

とある。

 これとは別に「御器」だと、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「ごうき(合器)」の音変化》

 1 ふたつきの食器。特に、わんのこと。

 「―なくてかはらけにてあるぞ見慣らはぬ心地する」〈讃岐典侍日記・下〉

 2 修行僧などが食物を乞うために持つ椀。」

 

とある。

 また、呉器茶碗のことも五器という。

 「猿の五器かる」はそのまま読むと猿が所有する五器を拝借するということになる。それも「手を摺て」だから猿に頭を下げてお願いするような場面になる。だが、なぜ猿が五器を持っていて人間がそれにお願いして借りなくてはならないのか、そこのところがよくわからない。

 猿が所有する五器を借りるのではなく、猿が五器を借りる、つまり持ってゆくという意味だと、今度は猿が手を摺ったりするだろうか、ということになる。

 それにいずれにしても季語がない。ここは秋でなくてはいけないはずだ。それも、「月」「肌寒」と来たわけだから、ここは放り込みで「庵の秋」でも「宿の秋」でもいいはずだ。

 となると、「猿の五器」がたとえば何かの秋の植物の異名であるのか、そういう可能性も出てくる。その場合は「猿の五器刈る」であろう。それだとしても「手を摺る」がわからない。

 いずれにせよこの句は謎で、これが最終的に治定されなかったのは幸いだ。

 治定された「渋柿の」の句は別の発想から生まれた新しい句で、作者名が違うのもそのためだろう。

 

季語は「渋柿」で秋、植物、木類。

 

八句目

 

   渋柿もことしは風に吹れたり

 孫が跡とる祖父の借銭       馬莧

 (渋柿もことしは風に吹れたり孫が跡とる祖父の借銭)

 

 今なら相続放棄という手もあるが、昔はそうも行かなかったのだろう。祖父の残した借金は孫が返さなくてはならない。

 渋柿は干せば干し柿になり、現金収入になっていたのだろう。それが風で落ちてしまうと、また返済が滞ってしまう。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   手を摺て猿の五器かる旅の宿

 みしらぬ孫が祖父の跡とる

          跡とり     沾

 

 前句が謎だからこの句も前句にどう付いているのか分かりにくい。

 祖父の跡取りと称するものが不意に現れて、手を摺ってお願いして遺産を持って行ったか。

 ここも作者名が変えられている。

 

 作者名は『続猿蓑』のバージョンでは規則正しく、芭蕉・沾圃・馬莧・里圃と続けたら、そのあと1と2、3と4を入れ替えて沾圃・芭蕉・里圃・馬莧となり、それを繰り返す。出勝ちではなく最初から順番を決めて詠んでゆく四吟の形を取っている。

 これに対し『真蹟添削草稿』は、まず芭蕉・馬莧・沾圃の三句があって、そのあとは里圃・沾圃・芭蕉・馬莧と続き、そのあと1と2、3と4を入れ替えて沾圃・里圃・馬莧・芭蕉となり、それを繰り返す。そして最後に里圃が挙句を詠んで全員九句づつになる。変則的だが、一応出勝ちではなく、あらかじめ順番が決めてあったと思われる。

 あるいは最初は発句・脇・第三の三つ物として作って、後に里圃を加えて四吟にしたのかもしれない。そのあと『続猿蓑』に載せる完成稿を作ったとき、この変則的な四吟を通常の四吟に直そうとしたため、作者名がずれてしまったのだろう。

 そのとき実際に誰がどの句を詠んだかはほとんど問題にしなかったとしか思えない。芭蕉の場合、発句、六句目、十四句目、二十二句目、三十句目の五句のみが一致する。まあ、実質的に全部芭蕉の作品ということなのか。

 ひょっとしたら芭蕉が残した『真蹟添削草稿』を元に、芭蕉の死後支考が直した可能性もあるが、だとすると、「仕着せの布小」を「このみの羽織」に直したり、「猿の五器」の句のわかりにくさを嫌って渋柿の句に変えたのも支考だということになる。

 理圃は四句目・十二句目・二十句目・二十八句目・挙句の五句、沾圃は五句目・十三句目・二十一句目・二十九句目の四句が一致するが、馬莧は一句も一致しない。どうやら馬莧が犠牲になったようだ。

 『真蹟添削草稿』の作者名が真の作者名なら、発句・四句目・五句目・六句目・十二句目・十三句目・十四句目・二十句目・二十一句目・二十二句目・二十八句目・二十九句目・三十句目・三十六句目の十四句が『続猿蓑』でも真の作者が表示されていることになる。

 そう考えると、七句目のところで「治定された「渋柿の」の句は別の発想から生まれた新しい句で、作者名が違うのもそのためだろう。」と書いたが、実際は作者名の違いに特に意味はなく、後から機械的に置き換えていっただけのようだ。

 

無季。「孫」「祖父」は人倫。

 

九句目

 

   孫が跡とる祖父の借銭

 脇指に替てほしがる旅刀      芭蕉

 (脇指に替てほしがる旅刀孫が跡とる祖父の借銭)

 

 「旅刀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、庶民が旅行中に護身用として帯用した刀。普通の刀よりやや短く、柄と鞘とに袋をかけたものが多い。旅差(たびざし)。道中差。

 ※俳諧・犬子集(1633)一「ぬらすなよ春雨ざやの旅刀」

 

とある。

 「脇指」は「脇差(わきざし)」で庶民も帯刀することが許されていた。

 「替てほしがる」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、「仕立替えするの意」とある。装飾性のない実用本位の旅刀よりは綺麗な脇差にしつらえた方が、仕立替え費用を差し引いても高く売れたか。

 今でいえば部屋を改装したほうが高く売れるというようなことか。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   みしらぬ孫が祖父の跡とり

 脇指はなくて刀のさびくさり

 脇指に仕かへてほしき此かたな   里

 

 初案では脇差はなく、錆びて腐った本差があったということか。だとすると没落した武家の跡取りということになる。

 ウィキペディアの「本差」のところには、「浪人などの一本差しは主に本差だけであり、これに副兵装として万力鎖を持っていたとしても脇差には該当しない。」とある。祖父は一本差しの浪人だったということか。

 改案だと、脇差に作り直して欲しい刀を相続したということで、武家の持つ大小の刀ではなく、町人の持つ刀だということになる。『続猿蓑』の「脇指に替てほしがる旅刀」だと、どういう刀だったかはっきりとする。

 

無季。

 

十句目

 

   脇指に替てほしがる旅刀

 煤をしまへばはや餅の段      沾圃

 (脇指に替てほしがる旅刀煤をしまへばはや餅の段)

 

 刀を高く売りたいのを借金のためではなく年末の決済のためとした。それを煤払いが終わって次は餅搗きと年末の情景だけで匂わす。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   脇指に仕かへてほしき此かたな

 煤を掃へば衣桁崩るる

   ぬぐへば           見

 

 衣桁(いかう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「室内で衣類などを掛けておく道具。木を鳥居のような形に組んで、台の上に立てたもの。衝立(ついたて)式のものと、2枚に折れる屏風(びょうぶ)式のものとがある。衣架(いか)。御衣(みぞ)懸け。衣紋掛け。」

 

 煤を掃おうとして衣桁を倒してしまうというのは、よくあることだったのだろう。

 前句の刀を脇差に作り直したいというのを、相続のためではなく、年末の決済の金を作るためとして、年末のあるあるを付けたわけだが、『続猿蓑』だとこのあるあるネタを捨てて、単なる年末の風景とする。

 

季語は「煤をしまへば」で冬。

 

十一句目

 

   煤をしまへばはや餅の段

 約束の小鳥一さげ売にきて     馬莧

 (約束の小鳥一さげ売にきて煤をしまへばはや餅の段)

 

 焼き鳥は今では鶏肉だが、かつては野鳥も焼いて食べていた。雀の焼き鳥はかなり最近まで残っていたし、今でも食べられる所はあるのかもしれない。筆者もまた十五年くらい前に会社の宴会で誰かが買ってきたのを食べたことがある。ツグミもかなり最近まで食べられていたと思う。

 江戸時代だと、その他にも鶉、雉、雲雀、鴫、山鳥、など、様々な鳥が食用にされ、塩鳥にして保存されたりしていた。料理も焼き鳥、煎り鳥、膾、汁など様々に利用されていた。

 正月には将軍家では鶴の御吸物がふるまわれていたが、もっと格下の所では小鳥が用いられていたようだ。

 曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』の「秋之部」の「鶫(つぐみ)」のところには「京師、除夜毎にこれを炙り食ふを祝例とす。」とある。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   煤をぬぐへば衣桁崩るる

 約束の小鳥一さげ売に来て     蕉

 

 これは手直しなしに一発で決まったようだ。

 

無季。

 

十二句目

 

   約束の小鳥一さげ売にきて

 十里ばかりの余所へ出かかり    里圃

 (約束の小鳥一さげ売にきて十里ばかりの余所へ出かかり)

 

 「て」留めの際は前付けになることがある。この場合も「十里ばかりの余所へ出かかり、約束の小鳥一さげ売にきて」の倒置となる。

 十里は通常の一日の旅の行程で、十里ばかりの余所へということは、その日はもう帰らないということだ。

 小鳥を注文してたのを忘れて、つい泊りがけの外出をしようとしていた。ありそうなことだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   約束の小鳥一さげ売に来て

 十里ほどある旅の出かかり

   ばかりの余所へ        里

 

 これも細かい語句の訂正だが、すでに九句目が「旅刀」になっていたとしたら、「旅」の字の重複を避けたことになる。となると『続猿蓑』の手直しとこの草稿の手直しはそれほど時期を隔てたなかったか。だとすると支考手直しの可能性は消える。

 

無季。

 

十三句目

 

   十里ばかりの余所へ出かかり

 笹の葉に小路埋ておもしろき    沾圃

 (笹の葉に小路埋ておもしろき十里ばかりの余所へ出かかり)

 

 十里の道を田舎の山越えの道とした。笹は熊笹か箱根笹か。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   十里ばかりの余所へ出かかり

 す通りの藪の経を嬉しがり

 笹のはにこみち埋りておもしろき  沾

 

 「す通り」の案だと何が嬉しいのかよくわからない。そこを具体的にわかりやすく「笹のはにこみち埋りて」とする。

 

無季。

 

十四句目

 

   笹の葉に小路埋ておもしろき

 あたまうつなと門の書つき     芭蕉

 (笹の葉に小路埋ておもしろきあたまうつなと門の書つき)

 

 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。

 「あたまうつな」、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   笹のはにこみち埋りておもしろき

 あたま打なと門の書付       蕉

 

 これは一発治定。さすが芭蕉さん。

 

無季。

 

十五句目

 

   あたまうつなと門の書つき

 いづくへか後は沙汰なき甥坊主   里圃

 (いづくへか後は沙汰なき甥坊主あたまうつなと門の書つき)

 

 前句の「あたまうつな」を「ぶたないで」の意味に取り成し、そう書き付けて結局逃げた甥坊主を登場させた。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   あたま打なと門の書付

 いづくへか後は沙汰なき甥坊主   見

 

 これも一発治定。「あたま打つな」の取り成しも面白いし、やはり身内とはいえ体罰はいけない。そりゃ家出もするわな。馬莧さん、お見事。

 前句とこの句に丸印がついているのは「合点(加点)」ということか。芭蕉の主観で付けたものではなく、当座で受けたという意味だろう。

 

無季。「甥坊主」は人倫。

 

十六句目

 

   いづくへか後は沙汰なき甥坊主

 やつと聞出す京の道づれ      馬莧

 (いづくへか後は沙汰なき甥坊主やつと聞出す京の道づれ)

 

 甥坊主のを探してあちこち聞き込みを行ったところ、やっと道づれと一緒に京へ登ったことが判明した。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   いづくへか後は沙汰なき甥坊主

 やつと聞だす京の道づれ      沾

 

 これも一発治定。加点はないが、上手く展開している。

 

無季。

 

十七句目

 

   やつと聞出す京の道づれ

 有明におくるる花のたてあひて   芭蕉

 (有明におくるる花のたてあひてやつと聞出す京の道づれ)

 

 初裏に月が出たないと思ったが、ここで月と花を両方詠むことになる。いかにも芭蕉さんに花を持たせた感じだが、実際は里圃さんだったようだ。

 「たてあひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「たて‐あ・う ‥あふ【立合】

 〘自ハ四〙 はりあう。たてつく。抵抗する。

 ※平家(13C前)六「おもひもまうけずあはてふためきけるを、たてあふものをば射伏せ、きり伏せ」

 

とある。有明の月の西に傾き、ようやくあたりも明るくなり姿を現した桜の花が、あたかも月と張り合っているかのようだ。

 前句を宿場を発つときの場面として、花月の景を付ける。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   やつと聞だす京の道づれ

 有明に花のさかりのたてあひて

    をくるる花の        里

 

 原案は有明の月と満開の花とが張り合うというもので、満月と桜の時期がなかなか一致しないことを思えば、ちょっと盛りすぎた感じになる。

 朝の景色であまり盛ってしまうと、前句の明方の宿でやっと京の道づれのことを聞きだしたエピソードが霞んでしまう。「おくるる花」くらいがちょうどいい。明るくなってようやく見えてくる花の「遅る」は「送る」にも掛かり旅人を見送る。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「有明」は夜分、天象。

 

十八句目

 

   有明におくるる花のたてあひて

 見事にそろふ籾のはへ口      沾圃

 (有明におくるる花のたてあひて見事にそろふ籾のはへ口)

 

 桜の季節は苗代作りの頃でもある。籾から芽が出たら苗代に移す。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   有明にをくるる花のたてあひて

 みごとにそろふ籾のはへ口     見

 

 これも添削なし。場面転換のやり句としては、これ以上はないだろう。

 

季語は「籾のはへ口」で春。

二表

十九句目

 

   見事にそろふ籾のはへ口

 春無尽まづ落札が作太夫      馬莧

 (春無尽まづ落札が作太夫見事にそろふ籾のはへ口)

 

 「無尽」は無尽講のこと。延宝四年の「此梅に」の巻に、

 

   ももとせの餓鬼も人数の月

 大無尽世尊を親に取たてて     桃青

 

という句があった。その時のと重複するが、「無尽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口ごとに抽籤または入札によって金品を給付するもの。→頼母子講(たのもしこう)」

 

とあり、「頼母子講」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」

 

とある。

 作太夫(さくだいふ)はよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の注には、「律儀で百姓熱心な人の仮名」とあるが、それは前句からの想像であろう。

 「大夫」をウィキペディアで引くと、

 

 「やがて時代が下ると大夫は五位の通称となり、さらに転じて身分のある者への呼びかけ、または人名の一部として用いられるようになった。五位というのは貴族の位の中では最下の位であったが、地方の大名や侍、また庶民にとってはこれに叙せられるのは名誉なことであった。そこでたとえ朝廷より叙せられなくとも一種の名誉的な称号として、大夫(太夫)を称するようになったのである。以下その例をあげる。ただし「太夫」と表記し「たゆう」と読む例が多い。

 神道

 伊勢神宮の神職である権禰宜が五位に叙せられていたことから、神職のことをいう。のちに神職でも下位の者である御師を太夫と呼ぶようになった。

 武家での通称

 江戸時代、大名の家老職に当る者を指して太夫と呼ぶことがあった。

 芸能

 神職を大夫と呼ぶことから転じて、里神楽や太神楽の長を太夫と称した(里神楽・太神楽については神楽の項参照)。

 能楽

 猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指し、古くは「シテ」の尊称として使用された時代もあったが、現在は使用されていない。

 浄瑠璃

 江戸時代以降、音曲を語る者、またはその名の一部に用いる(竹本義太夫など。女性には用いない)。

 歌舞伎

 江戸時代の歌舞伎の一座で座元のこと。座元の息子や跡継ぎを「若太夫」とも称した。立女形への尊称。

 遊廓

 江戸時代、江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者への呼び名。「松の位」とも呼ばれ、その名の一部にも用いられた(夕霧太夫、吉野太夫、高尾太夫など)。遊女をなぜ太夫と呼ぶのかについては諸説あるが、江戸時代初めのころ、能を演じた遊女が能楽の太夫に倣って称した(または称された)のが起りともいわれる。宝暦4年(1754年)に廃止され、江戸・吉原では以後名称は花魁(おいらん)に変わったが、京・島原、大坂・新町では「太夫」の名称が残り、嶋原では今も数名の太夫が存在する。

 「太夫 (遊女)」も参照

 幇間

 敬称(「太夫衆」など)。

 門付

 萬歳・猿まわし(猿も含む)等の門付芸人に対する呼び方。」

 

と様々な大夫(太夫)が列挙されているが、百姓の太夫も存在したのかどうか定かでない。

 太夫=神職の連想で、前句を御田植祭の苗とした可能性もある。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   みごとにそろふ籾のはへ口

 春無尽先落札が作太夫       蕉

 

 やはりこの経済ネタは芭蕉さんだったか。

 

季語は「春」で春。

 

二十句目

 

   春無尽まづ落札が作太夫

 伊勢の下向にべつたりと逢     里圃

 (春無尽まづ落札が作太夫伊勢の下向にべつたりと逢)

 

 太夫=神職なら、伊勢は付け合いのようなものといえよう。「べつたり」は今日の「ばったり」だという。

 伊勢へ行ったらその無尽講を入札した太夫にばったりと逢ったとする。何かご馳走してもらったかな。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   春無尽先落札が作太夫

 伊勢のみちにてべつたりと逢

    下向に           里

 

 これは細かいことだが、十六句目の「道づれ」から三句しか隔ててないということだろう。

 

無季。旅体。「伊勢」は名所。

 

二十一句目

 

   伊勢の下向にべつたりと逢

 長持に小挙の仲間そはそはと    沾圃

 (長持に小挙の仲間そはそはと伊勢の下向にべつたりと逢)

 

 「小挙(こあげ)」は「小揚(こあげ)」と同じか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 船積みの荷物を陸揚げすること。また、その人。小揚取。小揚人足。

 ※咄本・私可多咄(1671)一「馬おひは、いつもこあげにゆくといふほどに、子あぐる事がじゃうずであらふ」

 ② 荷物を運搬する人夫やその荷物。また、特に駕籠かきなどの人夫をもいう。小揚軽子。小揚取。

 ※評判記・色道大鏡(1678)二「大臣附のこあげ、かけめぐりて簍(かご)を用意し」

 ③ 徳川幕府がその直領地からの年貢米や買上米を蔵へ収納する時、陸揚げをしたり、あるいは米を量り、俵配りなどをしたりすること。また、それに従事した人夫。〔物類称呼(1775)〕

 ④ 江戸時代、道中の渡し場で、きまった渡し賃以外にとった料金。

 ※民間省要(1721)中「わざと人を肩に負〈略〉過分の小揚げを目あてにするもあり」

 ⑤ 小形の油揚(あぶらあげ)。

 ※浮世草子・諸道聴耳世間猿(1766)二「小揚(こアゲ)買うも悪銭(びた)ひらなか」

 

とある。

 伊勢へ向う船か行列かはわからないが、長持ちは貴人の婚礼か何かを連想させる。それで小挙もそわそわしているのだろう。

 あるいは古代の伊勢斎宮の赴任をイメージしたか。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   伊勢の下向にべつたりと逢

 長持にあげに江戸へ此仲間

 長持の小揚の仲間そハそハと    沾

 

 「あげに江戸へ」は字足らずなので、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)では「こあげに江戸へ」の間違いだという。

 初案では「に」が重なって意味が取りづらい。長持ちを運んで江戸へ向う小揚と伊勢に下向する小揚の仲間がばったりと出会う、ということか。

 「江戸」を捨てることで句がすっきりして意味がわかりやすくなるし、場所が特定されないから、その分想像が広がる。なんでもたくさんの意味を詰め込めば良いというものではない。

 

無季。「小挙の仲間」は人倫。

 

二十二句目

 

   長持に小挙の仲間そはそはと

 くはらりと空の晴る青雲      芭蕉

 (長持に小挙の仲間そはそはとくはらりと空の晴る青雲)

 

 青雲というとお線香を連想してしまうが、ここでは「あをぐも」と読む。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「青みを帯びた灰色の雲」とある。明方や夕方に見られる。

 前句を船着場の光景とし、空が晴れたので荷積みを開始する。快晴ではなく、嵐の雲が去って、薄暗い空に雲が青く輝いている情景をいう。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   長持の小揚の仲間そハそハと

 雲焼はれて青空になる

 くわらりと雲の青空になる     蕉

 

 芭蕉さんもここでは作り直している。

 明方の天気の回復をイメージして、最初は朝焼けの雲のはれて青空になるとしたが、朝焼けを消して単に雲が晴れたとするが、やはり朝焼けのイメージが欲しかったのだろう。『続猿蓑』では「青雲」という言葉を見出す。

 

無季。「青雲」は聳物。

 

二十三句目

 

   くはらりと空の晴る青雲

 禅寺に一日あそぶ砂の上      里圃

 (禅寺に一日あそぶ砂の上くはらりと空の晴る青雲)

 

 禅寺に遊ぶといえばまずは座禅、そしてお坊さんの法話を聞いたりし、あとは精進料理を食べたりすることか。そうやって心の雲もからりと晴れ、青雲の志を新たにする。

 「砂の上」は目の前に見える枯山水に、あたかも砂の上にいるようだということか。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   くわらりと雲の青空になる

 禅寺に一日あそぶ砂の上      見

 

 前句の青空を煩悩の雲の晴れるとして禅寺へ展開する。この展開には芭蕉さんも何も言うことはない。

 

無季。釈教。

 

二十四句目

 

   禅寺に一日あそぶ砂の上

 槻の角のはてぬ貫穴        馬莧

 (禅寺に一日あそぶ砂の上槻の角のはてぬ貫穴)

 

 槻(けやき)の角材は硬くてなかなか穴があけられない。この句自体が禅問答といった感じだ。

 寓意としては頭が固ければ悟りも得がたいという所か。

 近代俳句だと、難解な句も読者の想像力不足ということで片付けられる。だから、こういう場合はひたすら想像力をたくましくして、禅寺で一日遊ぶその横では普請が行われて、大工さんが一生懸命欅の角材に貫穴をあけている情景が目に浮かぶようだ、ということになる。『続猿蓑五歌仙評釈』はそういう読み方をしている。

 ただ、それでは俳諧らしい面白みが何もないので、一種の禅問答ということにしてみた。

 時代は下るが仙厓義梵が蛙の絵を描いて「座禅して人が仏になるならば」という讃を添えている。座るだけで仏になれるなら、蛙などとっくに仏になっている、ということか。禅寺に一日遊んでも堅い欅の角材に貫穴を開けることはできない。

 『校本芭蕉全集 第五巻』の注は「遊ぶ人に対して勤労の人を対させた付」と迎え付け(相対付け)としている。

 だがここには、

 

    つぎ小袖薫うりの古風也

 非蔵人なるひとのきく畠   芭蕉

 

の「薫うり」に「非蔵人」、

 

    僧ややさむく寺にかへるか

 さる引の猿と世を経る秋の月   芭蕉

 

の「僧」と「猿引」、

 

   月の色氷ものこる小鮒売

 築地のどかに典薬の駕      洒堂

 

の「小鮎売」に「典薬」のような明確な対立する言葉がない。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   禅寺に一日あそぶ砂の上

 槻の角の堅き貫穴

     果ぬ           沾

 

 意味としてそれほど変わってないから、この句の真意を知る手懸りにはならない。

 

無季。

 

二十五句目

 

   槻の角のはてぬ貫穴

 濱出しの牛に俵をはこぶ也     芭蕉

 (濱出しの牛に俵をはこぶ也槻の角のはてぬ貫穴)

 

 「濱出し」は年貢米を船で積み出すことで、米俵を運ぶ牛や馬で混雑したという。

 「牛に」は今の日本語だと「牛の方に」という意味になるが、当時の「に」の用法だと「牛で」の意味で用いられる。

 

   海くれて鴨の声ほのかに白し

 串に鯨をあぶる杯       桐葉

 

の「串に」も、今日なら「串で」とするところだ。「鯨を串にさして」だとわかりやすい。「牛に俵を」も「俵を牛にのせて」という意味だ。

 一句の意味は明瞭だが、前句との関係がわかりにくい。こういう難解な付けの場合、大胆な取り成しを疑ってみるのも一つの手だ。

 たとえばこの句を「槻の角(かど)の果ぬ貫穴(ぬけあな)」と読めば、欅の木が目印のあの角を曲がると行き止まりにならない抜け道がある、という意味にならないだろうか。だとすると、浜出しのために年貢を積んだたくさんの牛や馬がごった返し渋滞する中を、抜け道して横入りしてくる牛もいる、という意味になる。

 まだ他の可能性もあるかもしれないが、今回は一応この解釈で治定としておく。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   槻の角の果ぬ貫穴

 濱出しの俵を牛にはこぶ也     里

 

とあり、「俵を牛に」の四三のリズムを嫌い「牛に俵を」を直しただけで、ほぼ一発治定だったようだ。手懸りにならない。

 

無季。「牛」は獣類。

 

二十六句目

 

   濱出しの牛に俵をはこぶ也

 なれぬ嫁にはかくす内證      沾圃

 (濱出しの牛に俵をはこぶ也なれぬ嫁にはかくす内證)

 

 「内證」はweblioの「学研全訳古語辞典」には、

 

 「①心の中に仏教の真理を悟ること。また、その悟った真理。

 出典徒然草 一五七

 「外相(げさう)もし背かざれば、ないしょう必ず熟す」

 [訳] 外部に現れた姿が正しい法に反しなければ、内心の悟りは必ずでき上がってくる。◇仏教語。

 ②内密。秘密。内輪(うちわ)の事情。

 出典好色一代女 浮世・西鶴

 「ないしょうの事ども、何によらず外(ほか)へ漏らさじ」

 [訳] 内輪の事情は何によらず、他人には漏らすまい。

 ③暮らし向き。家計。ふところぐあい。

 出典博多小女郎 浄瑠・近松

 「身請けするほど、ないしょうがあたたかで」

 [訳] 身請けするほど、ふところぐあいが豊かで。

 ④主婦がいる奥の間(ま)。また、主婦。

 

とある。②の意味だと「かくす」と「内證」が重複するので、③の意味と思われる。

 年貢をどれくらい納めているか隠しているという意味か。この二句はよくわからない。まったく違う意味があるのかもしれない。

 『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)では、浜出しの俵を年貢ではなく、「大切な備蓄米すら売りに出さねばならない」とし、それを嫁いで来たばかりの嫁には隠しておくという意味に解釈する。

 この回答に釈然としないのは単純な理由で、それって結局騙しているんじゃないか、ということだ。「来て間もない嫁を一家で気づかう」なんてのは明らかに嘘だ。裕福な家だと思わせて嫁に来させて、実は借金がありましたでは、それこそ結婚詐欺だ。

 ここは単純に、年貢をどれだけ払っているか、まだ知らなくていい、というくらいの意味にしておいたほうがいい。穿った見方をすれば、年貢を過少申告しているのを、事情を知らない嫁が本当のことをべらべら喋ったりしても困ると、そのほうが俳諧らしいと思う。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   濱出しの俵を牛にはこぶ也

 名しまぬ嫁に

 よめには物をかくす内證      見

 

 前の句の「俵を牛に」→「牛に俵を」といい、今回の「名じまぬ嫁に」「よめには物を」→「なれぬ嫁には」の改作は、四三のリズムを嫌い三四のリズムに変えている。和歌では末尾を四三で止めるのを嫌う。連歌・俳諧でも基本的には七七の句の下のほうは三四がベストで、二五、五二はありだが四三は嫌う。

 

無季。「嫁」は人倫。

 

二十七句目

 

   なれぬ嫁にはかくす内證

 月待に傍輩衆のうちそろひ     馬莧

 (月待に傍輩衆のうちそろひなれぬ嫁にはかくす内證)

 

 「月待(つきまち)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「十五夜,十九夜,二十三夜などの月齢の夜,講員が寄り合って飲食をともにし月の出を待つ行事。二十三夜待が盛んで三夜供養ともいう。集落全員の講や女性のみの講もあり,村の四つ辻に二十三夜塔が建てられた。日の出を待つ日待と並ぶ物忌(ものいみ)行事。」

 

とある。「傍輩」は今でいえば「同僚」のような意味で、同じ主人に使えている仲間。まあ、男達が寄り集まると大体女の話で盛り上がり、いろいろと女房には言えないことをやっては、秘密を共有しようとするものだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   よめには物をかくす内證

 月待に傍輩衆の打そろひ      蕉

 

 これも芭蕉さん、一発治定だったようだ。

 

季語は「月待」で秋、夜分、天象。「傍輩衆」は人倫。

 

二十八句目

 

   月待に傍輩衆のうちそろひ

 籬の菊の名乗さまざま       里圃

 (月待に傍輩衆のうちそろひ籬の菊の名乗さまざま)

 

 「籬の菊」は比喩で遊女のこと。「月」が出たところで秋の季語が必要なので、この言葉を選んだか。団体が来たので遊女はそれぞれ名乗りを上げる。

 『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)は陶淵明の「菊を采る東籬の下」を持ち出して隠士の集まりの句とするが、それは真に心の打ち解けた友であって「傍輩衆」ではないと思う。

 籬はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 竹や柴などで目を粗く編んだ垣根。ませ。ませがき。

  2 遊郭で、遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸。

  3 「籬節(まがきぶし)」の略。」

 

とある。ここでは2の意味としておきたい。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   月待に傍輩衆の打そろひ

 畠の菊の

 まがきの菊の名乗さまざま     里

 

 「畠の菊」はよくわからないが、「籬の菊」に対して田舎の遊女などにそういう言葉があったか。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。

 

二十九句目

 

   籬の菊の名乗さまざま

 むれて来て栗も榎もむくの声    沾圃

 (むれて来て栗も榎もむくの声籬の菊の名乗さまざま)

 

 前句を本物の菊として、椋鳥が名乗りを上げるとした。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   まがきの菊の名乗さまざま

 うそ火たき中にもさとき四十から

 むれて来て栗も榎もむくの声    沾

 

 初案は『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)にある通り、「前句の『名乗さまざま』を受け、それぞれに鳴き集う鳥の名(鷽ウソ・鶲ヒタキ・四十雀シジュウカラ)を挙げての句作」と見ていい。前句の「菊」を本物の菊とした。

 これはこれで良さそうなものだが、貞門の古風な感じを嫌ったのだろう。椋鳥の大群に席巻されて、菊も栗も榎もないとした。人間の群集心理を風刺したか。

 

季語は「むく」で秋、鳥類。「栗」「榎」は植物、木類。

 

三十句目

 

   むれて来て栗も榎もむくの声

 伴僧はしる駕のわき        芭蕉

 (むれて来て栗も榎もむくの声伴僧はしる駕のわき)

 

 椋鳥が群れる栗や榎を大きなお寺の境内の情景とし、偉いお坊さんが駕籠で行く隣で走っているお伴の僧という、身分の上下をコミカルに描いてみせる。「駕」は「のりもの」と読む。

 ただ、芭蕉さん自身も旅のときには自分は馬に乗って曾良を歩かせたりしなかったか。蝶夢筆の『芭蕉翁絵詞伝』の那須野の場面はそういう風に描かれている。これが事実かどうかは知らないが、まあ世の中というのはそういうものだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   むれて来て栗も榎もむくの声

 小僧を供に衣かひとる

 番僧走るのりものの伴       蕉

 

 「小僧」は年少の僧の意味。後に商家の丁稚もそう呼ぶようになった。お坊さんが小僧を連れて衣類を買いに行ったら、小僧たちがはしゃいで騒がしくてしょうがない、というところか。

 最初は芭蕉さんもこれで良く出来たと思って丸印を付け、少し考えて三角にし、結局は不採用にしたか。

 理由はおそらく展開の不十分ということだと思う。椋鳥の群れの騒がしさをそのまま取るのではなく、別の展開を考えた時、あくまで椋鳥の声を伴奏とし、番僧に伴走させる方に落ち着いた。

 

無季。「伴僧」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   伴僧はしる駕のわき

 削やうに長刀坂の冬の風      里圃

 (削やうに長刀坂の冬の風伴僧はしる駕のわき)

 

 長刀坂は京都の広沢池の北側にあり、今日も北嵯峨長刀坂町の名前で残

 

っている。削(そ)ぐような冬の風といえば北山颪だ。

 伴僧からお寺の多い京都の風景とした。

 十六句目の「京の道づれ」は甥坊主が京へ上るときに道づれにしていた一般人のことだから遠輪廻にはならない。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   番僧走るのりものの伴

 そぐやうに長刀坂の冬の風     見

 

 これは一発治定。「出来たり」とばかりに丸印を二つ記す。

 

季語は「冬の風」で冬。

 

三十二句目

 

   削やうに長刀坂の冬の風

 まぶたに星のこぼれかかれる    馬莧

 (削やうに長刀坂の冬の風まぶたに星のこぼれかかれる)

 

 まさに目から星の出るような寒さだ。医学的には「眼内閃光」と言うらしい。

 「眼内閃光」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「目を閉じて眼球を圧迫したときなどに見える閃光。網膜の物理的刺激によって生じる内視現象の一。」

 

とある。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   そぐやうに長刀坂の冬の風

 まぶたの星のこぼれかかれる    沾

 

 これも無修正で治定。発想が面白い。

 

無季。「星」は天象。

 

三十三句目

 

   まぶたに星のこぼれかかれる

 引立てむりに舞するたをやかさ   芭蕉

 (引立てむりに舞するたをやかさまぶたに星のこぼれかかれる)

 

 これは静御前の舞い。涙が光に反射し、星のようにきらりと光って零れ落ちたのだろう。

 それとははっきり言わないが、義経と静御前の悲しみが伝わってくる。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   まぶたの星のこぼれかかれる

 引立てむりに舞するたをやかさ   里

 

 これも一発治定。

 「長刀坂」の句から俄然活気付いたように、テンポ良く展開されている。その「長刀坂」の句を呼び起こしたその前句の二十九句目の芭蕉自身による改作が功を奏したといえよう。

 

無季。

 

三十四句目

 

   引立てむりに舞するたをやかさ

 そつと火入におとす薫       沾圃

 (引立てむりに舞するたをやかさそつと火入におとす薫)

 

 「火入」にはいくつかの意味があるが、ここでは「タバコを吸うための炭火などを入れておく小さな器。」(コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の①」であろう。

 前句の「引立(ひきたて)て」をひっ捕らえての意味ではなく、贔屓しての意味に取り成し、お座敷の一場面とする。

 火入れに薫物(たきもの)を入れて香らすとは、なかなか粋なことをするものだ。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   引立てむりに舞するたをやかさ

 そつと火入に落す薫        見

 

 これ一発治定で、四人の連衆が楽しそうに句を付けてゆく姿が浮かんでくる。

 

無季。

 

三十五句目

 

   そつと火入におとす薫

 花ははや残らぬ春のただくれて   馬莧

 (花ははや残らぬ春のただくれてそつと火入におとす薫)

 

 桜の花もすっかり散ってしまい、春の日はただ長閑に暮れてゆく。薫物の香りだけが少しばかり花やいだ気分にさせてくれる。

 あるいは昔の恋人のことでも思って、その思い出に浸っているのだろうか。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   そつと火入に落す薫

 花ははや残らず春の只暮て

       ぬ          蕉

 

 「残らず」とすると、「春の只暮て花ははや残らず」の倒置になる。

 「残らぬ」だと「花ははや残らぬ」と「残らぬ春の只暮れて」を合わせて、「残らぬ」を花と春の両方に掛けて用いることになる。和歌的な用法だ。芭蕉さんならではの細かなこだわりと言えよう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   花ははや残らぬ春のただくれて

 瀬がしらのぼるかげろふの水    里圃

 (花ははや残らぬ春のただくれて瀬がしらのぼるかげろふの水)

 

 「瀬がしら」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「緩やかな流れから、瀬になりかかって波が立ちはじめる所。⇔瀬尻。」

 

とある。

 この場合の陽炎は水陽炎であろう。太陽の光が波に反射してゆらゆらゆれて見えるものを「かげろふ」と呼ぶこともあった。

 『真蹟添削草稿』には、

 

   花ははや残らぬ春の只暮て

 河瀬の水をのぼる

 河瀬の上のぼる水のかげろふ    里

 

 字余りになるので、書き間違いであろう。『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)は「河」を抜いて「瀬の上のぼる水のかげろふ」としている。最終的には『続猿蓑』の「瀬がしら」という言葉を見出すことになる。

 

季語は「かげろふ」で春。「瀬がしら」は水辺。