芭蕉発句集一

     ──寛文・延宝・天和・野ざらし紀行前まで──

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

寛文の頃

 

 

 (うば)(ざくら)さくや老後の思ひ(いで)

 

 普通の桜は花が咲くと同時に葉が出るが、姥桜は花だけ先に咲いて葉がない、歯がない、それで姥桜という。藤原(ふじわらの)長方(ながかた)続古今集(しょくこきんしゅう))の、

 

 長らへば我が世の春の思ひ出に

    語るばかりの花桜かな

          藤原(ふじわらの)長方(ながかた)

 

の歌を踏まえて花桜を姥桜に変えて、自分はまだ若いがいつか年取って昔を思い出すんだろうなという思いを、姥桜の語で短く表してみた。

 もっともそれまで生きられれば御の字だが。

 この句は重頼(しげより)さんの()夜中山(よのなかやま)(しゅう)に採用された。

 あの時はほんと嬉しかった。

 重頼さんも季吟(きぎん)さんも(てい)(とく)の門人で、かけがえのない師匠だ。

 

註、松江重頼は貞門の俳諧師で寛永十年(一六三三年)には『犬子集(えのこしゅう)』を刊行し、その後独立した。

 寛文五年(一六五五年)刊に『佐夜中山集』を編纂し、

 

 (うば)(ざくら)さくや老後の思ひ(いで)     宗房

 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿  同

 

の二句が入集した。

 宗房を「むねふさ」と読むのか「そうぼう」と読むのかについては諸説がある。当時は名乗りをそのまま俳号にすることも多かったし、また今のような明確な戸籍上の本名の概念がなかった時代でもある。名前を幾つも持つことは特別なことではなく、名乗りがムネフサであっても俳号はソウボウと読ませていた可能性もある。

 後に惟然のように僧としてはイネン、俳号はイゼンと使い分けていた例もある。

 芭蕉の主君である蝉吟(せんぎん)(よし)(ただ)という(いみな)とは別に(むね)(まさ)という名乗りがあって、芭蕉もそれに倣って宗房(むねふさ)を名乗ったと考えられる。

 本名を呼ぶことを忌む習慣は世界中に見られるもので、英語圏でもファーストネームは略称を用いるし、日本の職場では部長課長など役職名で呼ぶ。江戸時代にあっても姓と諱はタブーとされて、姓とは別の名字を用い、諱とは別の名乗りを用いることも多かった。

 芭蕉の場合、(とう)(せい)という俳号がありながらも芭蕉と呼ばれるようになったのも、桃青が俳諧師の本名のようなもので、親しみを込めて呼ぶ場合は芭蕉を用いたのではなかったかと思う。其角の晋子、支考の盤子、凡兆の加生、宗因を梅翁と呼んだり貞徳を長頭(ちょうず)(まる)と呼ぶのも、俳諧師としての本名もまたよそよそしいという感覚があったのではないかと思う。

 

 

 月ぞしるべこなたへ(いら)せ旅の宿  芭蕉

 

 寛文4年頃か。俳諧は俗語を交えてもいいが、基本は雅語で作るものだが、謡曲の言葉はみんな知ってるから使って良いと言う。

 謡曲鞍馬天狗の「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべなるこなたへ入らせ給へや」を月に変えて旅の句にしたら重頼さんの集に採用された。

 重頼さんはその後梅翁とともに談林を起こし、(いわ)()平藩(たいらはん)藩主の(ふう)()句合(くあわせ)の時には()(しゅう)という名前で判者をやっていた。

 

 

 春やこし年や(ゆき)けん小晦日(こつごもり)

 

 寛文五年の師走は小の月で二十九日の小晦日で一年が終わった。

 ちょうどこの日は立春でもあり、珍しいことなのでそのまま句にしてみた。

 

註、二十九日が立春になるのは寛文二年だということで、これまで寛文二年に扱われてきた。

 一応確認しようと思って、こよみのページ(http://koyomi.vis.ne.jp/)というサイトで調べたが、寛文二年の旧暦十二月二十九日は新暦一六六三年の二月七日で、立春はその三日前だった。

 その前後の年を調べたところ、寛文五年旧暦十二月二十九日が新暦一六六六年の二月三日で立春になっていた。

 立春の日付は太陽暦でもその年によって前後するが、mk-mode Siteの「カレンダー - 二十四節気一覧(年別)」(https://www.mk-mode.com/rails/calendar/sekki24)によると、一六六六年は二月三日だった。

 だとすると、これは寛文五年の暮の句で、寛文五年刊重頼編『佐夜中山集』に入集した、

 

 姥桜さくや老後の思ひ出     宗房

 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿  同

 

の方が先ということにならないだろうか。

 

 

 年は人にとらせていつも(わか)(えびす)

 

 元日の朝に売りに来る若夷の御札の恵比須様は毎年見ているが年を取らない。

人は正月になると年を取るというのに。

 さては人の年を吸い取っているのか。

 

註、この句は寛文六年(一六六六年)刊『夜錦』から引用されているので、寛文六年の歳旦と推定されている。『夜錦』は今日伝わる本がなく、延宝七年(一六七九年)刊の宗臣編『()(りん)金玉集(きんぎょくしゅう)』に引用されていることでその存在を知ることができる。

 

 

 京は九万九千(くせん)くんじゆの花見哉

 

 九万九千というのはとにかく多いということ。実際に京にどれだけの人がいるのかは知らない。それだけの群衆が御室、嵐山、東山などの花の名所に押しかけては賑わっている。

 

註、この句も延宝七年(一六七九年)刊の宗臣編『詞林金玉集』に寛文六年(一六六六年)刊『夜錦』から引用として掲載されているため、寛文六年春の句と推定されている。

 

 

 花は(しづ)の目にもみえけり鬼莇(おにあざみ)

 

 鬼は隠(おん)から来た言葉だという。隠れているから、見えないから鬼。

 その鬼は信じる人にしか見えないらしい。信心の薄い下層の人は鬼を怖がることもないというが、鬼アザミの花を見て綺麗だと思うのは一緒だ。

伊賀を出る前の宗房という名乗りを用いてた頃だった。

 貞門は雅語にうるさいけど、鬼も賎(しづ)も和歌に出てくる言葉だから問題ない。

 

註、この句も延宝七年(一六七九年)刊の宗臣編『詞林金玉集』に寛文六年(一六六六年)刊『夜錦』から引用として掲載されているため、寛文六年春の句と推定されている。

 寛文七年(一六六七年)の湖春(こしゅん)撰『続山井(ぞくやまのい)』にも入集している。

 鬼が隠(おん)から来たという説は平安時代の『倭名(わみょう)類聚抄(るいじゅしょう)』に見られる。

 

 

 時雨(しぐれ)をやもどかしがりて松の雪

 

 ()(ちん)(かしょう)(新古今集)の歌に、

 

 我が恋はまつを時雨(しぐれ)そめかね

    ()(くず)が原に風さわぐなり

 

とあるように、時雨は紅葉を染めるが常緑の松を染めることはない。松を染めるのは雪で、

 

 ゆき積もる年のしるしにいとどしく

    ちとせの松の花咲くぞ見る

          (みなもとの)顕房(あきふさ)(きん)葉集(ようしゅう)

 

のように、松の花とも和歌に詠まれている。

 時雨ではもどかしいので雪にしてくれ。

 

註、この句も寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』と延宝七年(一六七九年)刊宗臣編『詞林金玉集』に入集している。

()(ちん)和尚(かしょう)前大僧正(さきのだいそうじょう)()(えん)のことで天台宗では和尚をカショウと読む。芭蕉の時代には慈鎮和尚と呼ばれることが多かった。

 

 

 花の顔に(はれ)うてしてや(おぼろ)(づき)

 

 桜の季節には朧月になって、なかなか花と月がきちんと揃うことはない。

 花のかんばせの美しさに、月も気後れしているのだろう。

 花の顔は、

 

 昨日見し花のかほとてけさみれば

    ねてこそさらに色まさりけれ

          藤原(ふじわらの)実方(さねかた)()撰集(せんしゅう)

 

の歌に用例がある。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 (さかり)なる梅にす()(ひく)風も(かな)

 

 梅が盛りだから風も無駄になってほしい。「素手(すで)()く」を「徒労に終わる」という意味の慣用句とするとそういう意味になる。

 一方、文字通りに手を引くと読むと、風が匂いを運んで愛しい人の手を引っ張ってきておくれ、という意味にもなる。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 あち東風(こち)面々(めんめん)さばき柳髪

 

 面々(めんめん)(さば)きというのは、各自がそれぞれの判断でやるということ。

 つまり「かまわぬ」、自由ということ。

 春風に(なび)く柳は結い上げられることもなく、風に吹かれるままで、自由で良い。

女の髪も柳のような(さば)き髪がいいね。

 最近街じゃ、遊女を真似て、島田(しまだ)(まげ)を結う人がいるけど。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 (もち)(ゆき)をしら糸となす柳哉

 

 餅のようにふわふわとした雪は湿っぽいから、柳の枝にべっとりとくっつく。

 風雅集の、

 

 降ればかつ凍る朝けのふる柳

    なびくともなき雪の白糸

          永福門(えいふくもん)(いん)内侍(のないし)

 

の歌の趣向を借りながら、餅雪で俗に落としてみた。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 花にあかぬ(なげき)やこちのうたぶくろ

 

 「花にあかぬ嘆き」は、

 

 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども

    けふの今宵ににる時はなし

          在原業平(ありわらのなりひら)(伊勢物語)

 

 「うたぶくろ」は、

 

 いたづらに鳴くや(かわず)の歌袋

    おろかなる口も思いいればや

 

という夫木抄(ふぼくしょう)の歌にある。

 開かぬと飽かぬ、此方(こち)東風(こち)の掛け言葉だけではない。

 寛文7年の湖春撰続山井に入集した時は「我がうたぶくろ」だったが、後に我を意味する「こち」に東風を掛けた形に直した。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に「我が」の形で最初に入集して、後に安静編延宝二年(一六七四年)刊『如意宝珠』に「こちの」に直した形で入集した。

 

 

 春風に吹き出し笑ふ花も哉

 

 寛文7年の湖春撰続山井に入集した句の一つ。

 咲という字と笑という字は元々同じで、そのため花が咲くことを花がゑむ、花が笑うとも言う。

 この場合の花は桜のことだが、春風が吹く吹き出して笑うとを掛けて、「吹き出し笑う花」としてみた。

 春風に吹き出して笑うかのように一気に桜の花が咲く。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 なつちかし(その)口たばへ花の風

 

 桜の花が散り終わるとやがて夏が来る。

 花よ、どうか風に散るな、の心だが、風の口を(たば)へという俗語で落としてみた。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 うかれける人や初瀬(はつせ)の山桜

 

 この句が、

 

 うかりける人を初瀬の山おろしよ

    激しかれとは祈らぬものを

          源俊頼(みなもとのとしより)千載集(せんざいしゅう)

 

の歌のもじりだというのはすぐにわかる。それを花に浮かれる人をということにして山桜の句にした。

 初瀬の桜もちゃんと、

 

 初瀬山うつろはむとや桜花

    色かはりゆく峰の白雲

          藤原家(ふじわらのいえ)(たか)続拾遺集(しょくしゅういしゅう)

 

といった証歌を示せるかどうかが貞門では大事。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 糸桜こやかへるさの足もつれ

 

 「糸桜に足がもつれただと?いくら糸桜でも足元まではないだろう。」

 「いや、糸桜は見えない糸で人を木の下に縛りつける恐ろしい生き物なんだ。」

 「どこにそんな糸があるんだよ。」

 「ほらここに。」

 「徳利やないか!」

 

 花見の後の帰ろうとすると足がもつれるのは、枝垂れ桜の糸が足に絡みついて帰らせないようにしているからだろうか。まあ、ただ酔っ払ってるだけだと思うが。

 「かへるさ」は、千載集の、

 

 かへるさを急がぬ程の道ならば

    長閑(のどか)に峯の花を見てまし

          藤原(ふじわらの)忠通(ただみち)

 

の歌から頂いた。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 風ふけば尾ぼそうなるや(いぬ)(ざくら)

 

 犬の尾のように枝に小さな花をびっしりと付ける犬桜も、風に散れば枝だけになって、尻尾が細くなったみたいだ。

 犬桜は夫木抄の源俊頼の、

 

 山影に痩せさらほへる犬桜

    追ひはなたれて行く人もなし

 

の歌に詠まれている。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 犬桜はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「犬桜」の意味・読み・例文・類語」に、

 

 「〘名〙 バラ科の落葉高木。本州中部以西の山野に生える。高さ約八メートルに達し、樹皮は暗灰色、小枝は灰白色。葉は長さ六~一〇センチメートル、幅二~四センチメートルの長楕円形状で縁に向かい鋸歯(きょし)があり、基部はくさび形。春、白い花が二年生の枝に総状にあつまり咲く。花弁は五枚で雄しべより短い。実は球形で黄赤色、のち紫黒色に熟す。サクラの一種だが、花が見劣りするのでこの名がある。しろざくら。したみずざくら。《季・春》

  ※散木奇歌集(1128頃)春「山かげにやせさらぼへるいぬ桜おひはなたれてひく人もなし」 〔日本植物名彙(1884)〕」

 

とある。

 

 

 五月雨(さみだれ)御物(おんもの)(どほ)や月の顔

 

 物遠は単に離れているというだけでなく、よそよそしい、疎遠になるという意味がある。

 五月雨の季節は月の桂男も通って来なくなり、ほんまおんもの(どお)やなあ。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 月には桂の木があると言われ、そこには桂男が住むという。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「桂男」の意味・読み・例文・類語」に、

 

 「〘名〙

  ① (「かつら(桂)②」から) 月の世界に住んでいるという伝説上の男。かつらお。かつらおのこ。桂の人。《季・秋》

  ※狭衣物語(106977頃か)四「かつらおとこも、同じ心に『あはれ』とや見奉るらん」

  ② 容姿のりっぱな男。美男子。かつらお。かつらおのこ。

  ※浄瑠璃・出世景清(1685)道行「手にはとられぬかつらおとこの、ああいぶりさは、いつあをのりもかだのりと、身のさがらめをなのりそや」

  [補注]①は「酉陽雑俎‐天咫」に、古くからの言い伝えとして、月の中に高さ五〇〇丈の桂があり、その下で仙道を学んだ呉剛という男が、罪をおかした罰としていつも斧をふるってきりつけているが、きるそばからそのきり口がふさがる、とある伝説による。」

 

とある。

 

 

 降音(ふるおと)や耳もすふ(なる)梅の雨

 

 五月雨のことを梅の雨ともいう。和歌では用いないが連歌では用いるので、一応雅語と言って良いのかな。

 梅の雨が長く続くと耳の中が発酵してなれ(ずし)みたいになって、酸っぱくなりそうだ。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 (かき)(つばた)にたりやにたり水の影

 

 若杜というと在原業平の、

 

 (から)(ころも)きつなりに妻しあれば

    はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

 

の歌が有名だが、謡曲杜若では都の高子(たかいこ)の後の面影として、杜若の精を舞わせる。

 「にたりやにたり」はその謡曲の言葉。 業平は高子に似たりや似たりとニタニタしたのだろう。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 謡曲『杜若』には、

 

 シテ「昔男の名をとめし、花橘の、匂ひうつる菖蒲の鬘の、

 地  色はいづれ。

 シテ「似たりや似たり」

(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1428). Yamatouta e books. Kindle .

 

とある。

 

 

 夕貌(ゆうがほ)にみとるゝや身もうかりひよん

 

 源氏物語の夕顔巻は、たまたま夕顔の花が咲いていて、何だろうというところから始まる。

 そうやって浮かれ歩いて、まあ、ろくなことにはならない。

 最後は闇に死者を看取ることになる。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 

 岩躑躅(いわつつじ)(そむ)る泪やほととぎ朱

 

 正徹(しょうてつ)の歌に、

 

 (ほとと)(ぎす)鳴くや涙のはつ染に

    木木の若葉や色に出つらん

 

とあるから、岩躑躅の鮮やかな朱色の花もホトトギスの涙が染めるのかな。ほととぎ朱というくらいだから。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 しばしまもまつやほとゝぎす千年

 

 ホトトギスはその声を今かと待つのを本意とするので。一日千秋の思いから、千年と大きく出てみた。

 もっとも、

 

 待つほどは弥勒の出世ホトトギス 捨女

 

の五十六億七千万年には負けるが。

 ホトトギスの声は一日千秋の思いで待つというイメージがあるけど、

 古今集の時代には、

 

 夏山に鳴くほととぎす心あらば

    物思ふ我に声な聞かせそ

          よみ人知らず

 

のような歌もあった。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 秋風の(やり)()の口やとがりごゑ

 

 (やり)()(まい)()()ともいう桟の沢山ある横開きの板戸で、外の様子が見えない。

 目にはさやかに見えない秋の気配も、鎗戸の隙間から凄まじい音がすれば、鎗戸の外から尖り声で秋を知らせてくれてるみたいだ。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 七夕(たなばた)のあはぬこゝろや雨中天(うちゅうてん)

 

 七夕は逢えれば有頂天、逢えなきゃ雨中天。

 貞門の頃の句で、「あはぬこころ」は夫木抄の、

 

 ()無月(なづき)の河原に生ふる青蓼の

     辛しや人にあはぬこころは

 

の歌からいただいた。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 たんだすめ(すめ)ば都ぞけふの月

 

 西行法師の、

 

 もろともに旅なる空に月出でて

    すめばや影のあはれなるらん

 

の歌の「澄む」と「住む」の掛詞をそのまま生かして、「住めば都」という諺で短くまとめてみた。

 連歌の「()(りょ)」は都を追われた人が都を懐かしむように詠むものとされていた。都は絶対で都落ちは悲劇だった。

 それが今は地方の時代で、諸国それぞれに都市があって産業があって、どこへ行っても「住めば都」と言える良い時代になった。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 影は(あめ)の下てる姫か月のかほ

 

 天の下照(したてる)(ひめ)夷振(ひなぶり)という歌を詠んだことで、古今集仮名序にも、

 

 「この歌は天地の開け始まりける時よりいできにけり。しかあれども世に伝はることは久方の天にしては下照姫に始まり」

 

とあり、和歌の起源とされている。

 なるほど今日の名月も天の下を照らしている。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 荻の声こや秋風の口うつし

 

 荻の声も基本は秋風なんだけど、それをちょっと色っぽく「付ざし」にしてみた。

 「こや」という言い回しは俗語っぽいけど、拾遺集の、

 

 ちとせとて草むらことにきこゆなる

    こや松虫のこゑにはあるらん

          平兼(たいらのかね)(もり)

 

のようにちゃんと古歌にある。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 寝たる萩や容顔(ようがん)無礼花の顔

 

 貞門時代の句は雅語の出典を必要とする。

 

 まだ宵に寝たる萩かな同じ枝に

    やがて置きぬる露もこそあれ

          新左(しんざ)衛門(えもん)(後拾遺集)

 昨日見し花の顔とて今朝見れば

    寝てこそさらに色(まさ)りけり

          藤原(ふじわらの)定方(さだかた)(後撰集)

 

 萩は伏してこそ美しいが、寝てしまっては残念。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 月の鏡小春(こはる)にみるや()正月(しょうがつ)

 

 八月は中秋の名月、九月は十三夜の月があるが、十月になってもやはり鏡のように澄んだ月が見られる。

 神無月なのに御神体の鏡のような月が見えるなんて、目の保養、目正月だな。十月のことを小春というだけに。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 小春というと今日では小春日和を指すが、ここでは十月の異称としての小春と思われる。

 

 

 しほれふすや世はさかさまの雪の竹

 

 親より子の先に亡くなる逆縁の句。

 雪に竹がしなって逆さまになってしまったかのようだ。

 「さかさま」は古今集にも用例がある。

 

 さかさまに年もゆかなむとりもあへず

    すぐる(よわい)やともにかへると

          よみ人知らず

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 (あられ)まじる帷子(かたびら)(ゆき)はこもんかな

 

 帷子雪は湿気を含んだ大きな塊になって降る雪のことで、これが着物に付着すると、衣に紋が入ったみたいになる。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 霜枯(しもがれ)(さく)辛気(しんき)の花野(かな)

 

 霜枯れに咲く花は恋の病にやつれた女の姿を思わせる。

 霜の白さと「辛」は五行説ではともに秋だけど、俳諧では冬の句になる。

 ()(しゅん)さんの続山井(ぞくやまのい)にはたくさんの句を取って頂いた。これによって貞門の俳諧師として宗房の地位を確立できたと言って良い。

 

註、寛文七年(一六六七年)湖春撰『続山井』に入集した句の一つ。

 

 

 桂男(かつらおとこ)すまずなりけり雨の月

 

寛文の頃の句。

「男すまずなりけり」は伊勢物語で「通って来なくなる」の意味で用いられる決まり文句。

月には大きな桂の木があり、桂男(かつらおとこ)が棲むと言われている。

雨雲で月が曇ると桂男は通って来ない。月の桂男澄まず(住まず)なりけり、なんちゃって。

 湖春の続山井に取ってもらった、

 

 五月雨に御物遠や月の顔

 

 

とちょっと発想が被ってしまったが、こちらは中秋の名月で月が「澄まず」と掛詞になる。

 

註、安静編延宝二年(一六七四年)刊『如意宝珠』に入集。

 

 

 波の花と雪もや水にかえり花

 

 波の白い泡の飛沫は波の花と呼ばれるが、水に降る雪は波の帰り花とでもいうべきか。

 波の花は長頭(ちょうず)(まる)俳諧(はいかい)御傘(ごさん)に、

 

 「波の花雪の花は正花にならず。但、波に落花のある句体ならば春也、植物也、正花也。」

 

とある。あくまで比喩であって植物ではない。

 

註、安静編延宝二年(一六七四年)刊『如意宝珠』に入集。

 長頭丸は松永貞徳のこと。『俳諧御傘』は慶安四年(一六五一年)刊。

 

 

 うち山や()(ざま)しらずの花盛

 

 奈良の内山(うちやま)永久寺(えいきゅうじ)は大きな寺院で花の名所でもあるのに、場所が辺鄙なせいか花見の群衆で賑わうわけでもない。知る人ぞ知る桜だ。

 

註、正辰編寛文十年(一六六九年)刊『大和順礼』に入集。

 

 

 五月雨も瀬ぶみ(たづね)見馴(みなれ)(がは)

 

 まだ伊賀にいた頃の句。

 見馴川は大和国の歌枕で、

 

 世の中はなどやまとなる見馴川

    見馴れそめずぞあるべかりける

          詠み人知らず(新勅撰集)

 

の歌でも知られている。

 見馴れた川でも五月雨で増水した時は、渡る前に足で水の深さを見たりして確認する。

 

註、正辰編寛文十年(一六六九年)刊『大和順礼』に入集。

 

 

 春立とわらはも知やかざり縄

 

 寛文の頃の句。

 家の戸や門に飾り縄がしてあれば、正月が来たというのが子供でも分かる。

 一応飾り縄の藁と童を掛詞にしている。

 

註、友次編寛文十一年(一六七〇年)刊『薮香物』に入集。

 

 

 うつくしき(その)姫瓜や(きさき)ざね

 

 寛文の頃の句。

 白くてやや小ぶりな姫瓜はその名の通りお姫様の顔みたいで母の瓜にそっくりだ。

 枕草子には、「うつくしきもの、瓜にかきたる(ちご)の顔」とあり、昔は顔を書いて遊んでたようだ。

 

註、梅盛編寛文十二年(一六七一年)刊『山下水』に入集。

 姫瓜はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「姫瓜」の意味・読み・例文・類語」に、

 

 「〘名〙

  ① マクワウリの栽培品種。果実は扁球形で小さく、長さ六センチメートルほど。黄色に熟し生食される。みかんうり。《季・夏》

  ※御伽草子・猿の草子(室町末)「姫うりにこそいにしへの光源氏の大将も、心をうごかし給ひけり」

 

とある。

 

 

 花にいやよ世間口より風のくち

 

 寛文の頃の句。

 風は和歌では花に否(いや)む物だが、紀貫之(きのつらゆき)(古今集)の、

 

 桜花とく散りぬとも思ほえず

    人の心ぞ風も吹きあへぬ

 

の歌にもあるように、花が風に散るよりも人の口の手のひら返しが早かったりする。

 世間の噂も風聞だとか風評だとか言うように、人の心の花を散らせる。

 

 

 (うう)る事子のごとくせよ(ちご)(ざくら)

 

 寛文の頃の句。

 山桜の中でも小さなピンクの花を付けるのを稚児桜という。

 その名の通り、我が子を扱うように大切に植えてくれ。

 まあ稚児というとそっちの方の連想も働くと思うけど、別に初めての時は優しくしてくれってことではない。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』に入集。

 

 

 たかうなや雫もよゝの篠の露

 

 寛文の頃の句。

 源氏物語で幼い薫が真竹の筍(たかむな)を掴んで口元でベロベロするのを見て、「いとねぢけたる色好み」と言う場面、一体何を想像したのかな。

 ここでは竹の葉の雫が筍を濡らすと綺麗にまとめてみたが、季吟さんは意外にこういう下ネタが好きだ。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』に入集。

 「いとねぢけたる色好み」は『源氏物語』横笛巻にある。

 

 

 見るに()もおれる(ばかり)女郎花(をみなへし)

 

 寛文の頃の句。

 女郎花というと僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)の、

 

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花

    われ落ちにきと人に語るな

 

の歌があるが、女郎花の色気に自分の方が折れそうだ。

 まあ初めて遊郭に行った童貞君といったところか。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』に入集。

 

 

 見る影やまだ片なりも宵月夜

 

 寛文の頃の句だったか。

 宵に見える月はまだ満月になってない。それを「かたなり」つまり未成熟ということにしてみた。

 大人が見るのは夜中の(ねや)の月か明け方の後朝(きぬぎぬ)の月。宵の月はそろそろ性に目覚める思春期の月といったところか。

 「見る影もまだ片なりや宵月夜」の方がわかりやすいか。

 

註、(ふう)(こく)編元禄十一年(一六九八年)刊『(はく)船集(せんしゅう)』に、

 

 「此句ハ阿叟宗房と名のりたまひし比の吟なり。短冊に見え侍りけり。」

 

とあるので、伊賀にいた頃の句と推定される。

 

 

 (ふみ)ならぬいろはもかきて火中(かちゅう)(かな)

 

 寛文の頃の句。

 「いろは」は色葉、つまり紅葉した落ち葉の意味だと落ち葉焚きの句。

 「いろはにほへと」の意味だと、字の練習や気に入らない文を燃やすということだが、紙も貴重なので大抵は真っ黒になるまで使い、()き直したりする。

 火中のもう一つの意味は内密の手紙で、読んだらすぐに破棄してくれという意味だが、大抵は文ならぬことしか書いてない。

 

註、延宝七年(一六七九年)刊の宗臣編『詞林金玉集』は宗信編『桲集』の引用で「伊州上野松尾氏宗房」としていることから、伊賀にいた頃の句と推定される。

 

 

 きてもみよ(ぢん)べが羽織(はをり)花ごろも

 

 寛文十二年、まだ伊賀にいた頃、貝おほひという句合わせを出版した時の句。

 相手は露節の、

 

 鎌できる音やちよい/\花の枝

 

だった。勝負よりも判の文章の面白さを狙ったもので、自分の方は負けにした。

 自分の句の方は綿入れ袖なしの甚兵衛羽織で気軽に花見を楽しもうというもの。来てもみよ、着てもみよ、は掛詞。

 鎌で甚平の首を斬られて宗房の負け。

 

註、宗房編の『貝おほひ』は寛文十二年(一六七二年)刊の句合。

 

 「九番

   左勝       露節

 鎌できる音やちよい/\花の枝

   右        宗房

 きてもみよ甚べが羽織花ごろも

 

 右花の枝を。ちよい/\とほめたる作意ハ誠に俳諧の親/\ともいはまほしきに。右の甚べが羽織は。きて見て。我をりやと。云こゝろなれど。一句のしたてもわろく。そめ出す言葉の色もよろしからず。ミゆるハ。愚意の手づゝとも申べし。そのうへ左の。かまのはがねも。かたさうなれば。甚べがあたまもあぶなくて。まけに定侍りき」」

 

とある。

 

 

 ()をと鹿や毛に()がそろふて()むづかし

 

 寛文十二年、まだ伊賀にいた頃、貝おほひという句合わせを出版した時の句。

 夫婦鹿はどっちも毛があるから気難しいと毛難しいを掛けただけの句。

 相手は政輝の、

 

 鹿をしもうたばや小野が手鉄砲

 

だった。これも鉄砲で撃たれて宗房の負け。

 

註、宗房編の『貝おほひ』は寛文十二年(一六七二年)刊の句合

 

 「二拾番

   左勝       政輝

 鹿をしもうたばや小野が手鉄砲

   右        宗房

 女をと鹿や毛に毛がそろふて毛むづかし

 

 左の発句。小野と。いふより。鹿と。つゞけられ侍るは。かの紫の。しなもの。ひかる。お源の物語にも。小野に鹿のけしきを。書つらね侍しより。尤能とりあはされたる成べし。そのうへをのがてゞつぼうと。いふを。とりなされたる。鉄砲のすの。口がしこく打出されたる。玉の句ともいふべけれバ。火縄のひごんを。打べきやうもなし。右の女夫鹿。くハしく論を。せんも。毛むづかしければ。あぶなき。筒先。足ばやに。逃のき侍りぬ」」

 

とある。

 

 

 雲とへだつ友かや雁のいきわかれ

 

 寛文十二年、江戸へ出る時の句。

 俳諧の目を開かせてくれた主君の蝉吟(せんぎん)こと藤堂(とうどう)()計良(ずえよし)(ただ)は二十五の若さで亡くなり、次男坊で家督を継げるわけでもなく、伊賀に留まる理由もなくなった。

 蝉吟の師匠の季吟さんやいろいろな俳諧の友の伝手をたどって、江戸で働きながら俳諧を続けようと思う。

 故郷の友よ、しばし生き別れだ。

 

註、土芳著川口竹人稿『蕉翁全伝』(宝暦十二年七月日自奥)には、

 

 「かくて蝉吟早世の後、寛文十二子の春二十九才仕官を辞して甚七ト改メ、東武に赴く時、友だちの許へ留別」

 

 

と前書きがある。

延宝の頃

 

 なつ木立(こだち)はくやみ山のこしふさげ

 

 江戸に出て来たばかりの頃の句。

 夏になると木が繁って遠くの山の下半分が隠れる。大丈夫、履いてますよという句。

 夏木立は和歌では春の目出度い花も失われ隠されてゆく心で、いわば「惜しむ心」だ。

 シモネタのようでも、そこはちゃんと踏まえたつもりだ。

 

註、素閑編延宝二年(一六七四年)刊『音頭集』に所収。

 

 

 白菊よ/\(はぢ)長髪よ/\

 

 白菊よ菊よ恥ぢ長髪よ髪よ。

 江戸に出てきたばかりの頃だったか。重陽の不老長寿の菊酒を振る舞われた。

周りは年寄りも多く、俳諧師や医者は僧形をしているが、自分はまだ俗形なのでちょっと気後れする。

 ふと光源氏が高僧に会ったりすると出家しなくてはと思いながら、女のことが気になってというあのパターンを思い出し、「菊よ恥ぢ、長キ髪よ」となった。

 

 

 目の星や花をねがひの糸桜

 

 疲れて目の前がちらついて見えたりすることを目星の花が散るというが、花の散る様は目がちらちらするみたいだ。

 花なら散らないで糸で繋ぎ止めて糸桜にしてくれ。

 

註、宗信編延宝三年(一六七五年)刊『千宜理記』所収。

 

 

 命こそ芋種よ又今日(けふ)の月

 

 中秋の名月は里芋をお供えすることから芋名月とも言う。

 里芋は親芋があって子芋孫芋ができて、それがまた種芋となって代々命を引き継いで行く。

 一人の命は短くても子々孫々繋いでゆくことで、命は保たれてゆく。それをあの月はいつまでも見守っている。

 

註、宗信編延宝三年(一六七五年)刊『千宜理記』所収。

 

 

 (ひと)(ごと)の口に(ある)也した(もみぢ)

 

 下紅葉は下の方の枝や散った葉の赤いのを言うが、誰でも口の中に赤いものを持っているじゃないか。舌もみじといってな。

 

註、宗信編延宝三年(一六七五年)刊『千宜理記』所収。

 

 

 町医師や屋敷がたより(こま)(むかへ)

 

 江戸に出てきて少し経った頃、晋ちゃんとの出会いがあった。其角が俳号だが晋子と呼ばれている。

 その晋ちゃんの所に遊びに行ったら、急に偉い人たちが沢山お迎えに来て、まるで昔の駒迎えのようだった。

 聞くと晋ちゃんの父さんは近江国膳所(ぜぜ)御殿医(ごてんい)竹下(たけした)東順(とうじゅん)だって。

ただの町医者だと思ってたら、そんな偉い人だったとは。

 

註、竹下東順はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹下東順」の解説」に、

 

 「16221693 江戸時代前期の医師,俳人。

元和(げんな)8年生まれ。榎本其角(えのもと-きかく)の父。藩医として近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)藩江戸藩邸につかえる。由良正春に和歌,俳諧(はいかい)をまなんだ。元禄(げんろく)6829日死去。72歳。近江出身。別号に赤子。」

 

とある。

 露沾編延宝三年(一六七五年)刊『五十番句合』にあると何丸編文正十年(一八二七年)刊『芭蕉翁句解参考』にあるが、『五十番句合』の原本は未だ発見されてない。

 

 

 針立(はりたて)や肩に槌うつから衣

 

 延宝五年に磐城平藩の殿様の息子が五十番句合をやった時の句。

 砧を打つと肩が凝るから、砧打つ肩に更に針を打っている。

 

註、露沾編延宝三年(一六七五年)刊『五十番句合』の句。原本は未だ発見されてない。

 

 

 天秤(てんびん)や京江戸かけて千代の春

 

 江戸に出てきた頃の句。

 振り売りの商人は伊賀にもいたが、こんなに大勢天秤持って忙しげに駆け回るのは、京に行った時以来か。

 天下泰平で経済も繁栄していて、こんな時代が永遠に続くといいな。

 

註、蝶々子編延宝四年(一六七六年)自序『俳諧当世男』所収。

 

 

 (この)梅に牛も初音と(なき)つべし

 

 延宝4年信章と天満宮奉納二百句興行をした時の第一百韻の発句。

 去年は梅翁が江戸にやってきて、本所大徳院で興行した。信章と一緒に参加させてもらった。

 11月には「談林十百韻」が刊行され、江戸にも談林旋風が吹き荒れた。

 談林の興行は昔の花の下連歌に倣い寺社で公開で行われるが、「談林十百韻」は大家さんの小沢さんも参加していたが、そっちは個人宅で行われた。

 とにかくこの流れに乗るっきゃない。ならばこちとうずれは、天神様の境内で。

 

 

 我も神の()(さう)やあふぐ梅の花

 

 梅の花といえば天神様、菅原道真公。

 菅原道真公の詩に、

 

 離家三四月 落涙百千行

 萬事皆如夢 時時仰彼蒼

 

とある。

 我もまた()の蒼天を仰いで、俳諧が上達しますように。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』所収。

 

 

 雲を根に富士は杉(なり)(しげり)かな

 

 延宝4年の6月に伊賀へ帰省する途中、富士山を見た時の句。

 雲が下の方にたなびいてて、杉形、つまり△の形をしていて、今は雪がなくて下の方は木が茂っている。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』所収。

 

 

 山のすがた蚤が茶臼の(おおひ)かな

 

 延宝4年の6月に伊賀へ帰省する途中、富士山を見た時の句。

 夏の巨大な濃い利休鼠の富士山を見ていると、あたかも自分が蚤になって布の覆いのかかった茶臼を見上げているかのようだ。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』所収。

 

 

 命なりわづかの笠の下涼み

 

 延宝4年の夏に伊賀に帰省した時の句。

 夏の暑い中の小夜(さよ)の中山の低い尾根道は日を遮るものもなくて暑かった。

 命なりは、

 

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや

    命なりけり小夜(さや)の中山

          西行法師

 

の歌から貰った。

 「命なりけり」のフレーズはすっかり西行法師のものになったが、古今集にも、

 

 春ごとに花の盛りはありなめど

    あひ見む事は命なりけり

          よみ人知らず

 もみぢ葉を風にまかせて見るよりも

    儚きものは命なりけり

          大江千里

 

の歌がある。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 小夜の中山は和歌では「さや」と読む。

 

 

 夏の月御油(ごゆ)より(いで)て赤坂や

 

 東海道の御油宿と赤坂宿との間はわずか16町で半里もない。

 夏夜は短いから、月明りを必要とする時間も短い。その短いことまるで御油と赤坂のあいだのようだ。

 清原(きよはらの)(ふか)養父(やぶ)の。

 

 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを

    雲のいづこに月やどるらむ

 

の心だね。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 富士の風や扇にのせて江戸土産(みやげ)

 

 延宝4年の夏に伊賀へ帰った時の句。

 お土産はと言うから扇を取り出して開いて、ほら、これが江戸の名物富士の風だ。

 

 

 百里来たりほどは雲井の下涼(したすずみ)

 

 延宝4年の夏に伊賀へ帰った時の句。

 東海道が1248丁というから、江戸から伊賀までは大体百里ということで、久しぶりに山岸重左衛門に会って俳諧もやった。

 気分は渡り鳥だね。雲の下に降りてはまた帰ってゆく。

 

 雁金の帰るを聞けば別れ路は

    雲井遥かに思ふばかりぞ

          曾禰(そねの)好忠(よしただ)

 

 

 (ながむ)るや江戸にはまれな山の月

 

 延宝4年の夏に伊賀へ帰った時の句。

 江戸は山が遠い。富士山も筑波山も日光山も遥か彼方にある。大磯まで来るとようやく山らしい山が近くにあり、箱根に入るとようやく山の中に入ったという感じがする。

 何年か江戸で過ごしていると、近くに山があるというのが新鮮な感じがする。伊賀にいた頃は当たり前だったのに。

 

 

 けふの今宵寝る時もなき月見哉

 

 これは伊賀にいた頃に作ったけど没になった句。

 

 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども

    けふの今宵ににる時はなし

          在原業平(伊勢物語)

 

を「寝る時」に変えて月見の句にしてみた。

 名月は月明かりでみんなで楽しむ時間であって、一人月を見つめることを忌む習慣があった。

 さあ、今夜はみんなで賑やかに飲み明かそうぜ、って酒は弱いけど。

 

註、季吟編延宝四年(一六七六年)刊『続連珠』所収。

 

 

 (さかづき)の下ゆく菊や朽木(くつき)(ぼん)

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合のための句。相手は忠知で、

 

 かかしにも月もれとてややぶれ笠

 

の句だった。

 案山子が破れた笠を被っていて、その破れ目からちょうど月が見える。風流な案山子もいるものだという句だ。

 それに対して自分は、重陽の節句の菊酒を飲むと、盃の底に漬け込んでいた菊が沈んでいて、朽木(くっき)(ぼん)というよくある十六菊紋のお盆みたいだ、という句だった。

 維舟さんの判定は、破れ笠の案山子の哀れに対して、朽木盆の菊は着眼点は面白くても哀れな情は伴わない、ということで負けた。

 黒塗りに朱漆で十六菊紋を描いた朽木盆は近江国の朽木で作られているという。

 琵琶湖の西の山の中で、鯖街道と呼ばれる若狭から京の大原へと魚を運ぶ道が通っている。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「四百二十番

   左勝  鹿夢  神野 忠知

 かかしにも月もれとてややぶれ笠

   右   重陽  松尾 桃青

 盃の下行菊や朽木ぼん

 案山子にも月もれ破笠句の仕立あはれにさもこそ盃の下ゆく菊朽木盆の中迄酌なかしたる体にや。今少事たらず覚申左勝。」

 

とある。

 風虎は陸奥国磐城平藩の第三代藩主の内藤義概で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤義概」の解説」に、

 

 「16191685 江戸時代前期の大名,俳人。

  元和(げんな)5915日生まれ。内藤忠興(ただおき)の長男。寛文10年陸奥(むつ)(たいら)(福島県)藩主内藤家3代となる。俳諧(はいかい)三部書「夜の錦」「桜川」「志太(しだ)の浮島」をあんだほか,和歌の家集「左京大夫家集」がある。貞享(じょうきょう)2919日死去。67歳。名ははじめ頼長,義泰。号は風虎,風鈴軒。」

 

とある。

 忠知の句は、案山子が破れた笠を被っていて、その破れ目からちょうど月が見える。月を見るためにわざと笠を一部破って風流な案山子もいるものだ、というものだ。

 これに対して、桃青の句は重陽の杯の底に沈んでいる菊が、朽木盆によくある十六菊紋の模様みたいだというもの。

 重陽の菊酒は菊の花を漬け込んだ酒で、酒の中に菊が入っているから、盃に注げば盃の底に沈む。

 朽木盆は近江国の朽木という所で作られた黒塗りに朱漆の漆器で、十六菊紋のものが多い。

 

 

 門松やおもへば一夜三十年

 

 磐城平藩の殿様が梅翁と親しくて、それで六百番俳諧発句合になるものの句を集めていた。

 これは寛文13年、三十歳になった時の歳旦だったか。

 相手は路幽で、

 

 万歳のこゑのうちにや君がはる

 

の句だった。

 角付け芸人の万歳に春が来たのを感じるというものだ。

 三十年待ったかのように見せかけて、三十歳になっただけかという落ちの自分の句に、一万歳の長寿と思わせて万歳が来ただけかという落ち。

 似ているということで「持とす」というのが任口さんの判定だった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「二十六番

   左持  元日  矢吹 路幽

 万歳のこゑのうちにや君がはる

   右   門松  松尾 桃青

 門松やおもへば一夜三十年

 左の内にや右の一夜同じさまにうたれきこころばへは持とす。」

 

とある。

 芭蕉が三十になったのは寛文十三年のことで、句合の為に二十句提出する際には、全部が描きおろしではなく、旧作も混ざっていたのだろう。

 正月になれば一つ年を取るので、大晦日から元旦にかけて一夜明ければ三十歳になっているとすれば普通のことだが、「一夜三十年」というと一瞬一夜にして三十年が経過したみたいな印象を与える。えっと思わせて、ちょっと考えて「何だ三十になったってだけか」となる考え落ちと言って良いだろう。

 路幽の句は角付け芸人の万歳がやって来て、その声に春が来たのを感じるというものだが、これも「万歳」と最初に切り出すことで一万歳とまではいかなくても長寿を連想させ、ちょっと考えて、「そっちの万歳か」と落ちになる。

 

 

 大比叡やしの字を(ひき)て一かすみ

 

 これも磐城平の殿様の六百番俳諧発句合のための句。

 仮名草子の一休さんネタで、大文字で長々と書けと言われて一文字「し」を書いたという話から、比叡山は霞も「し」の字になる。

 「し」の字は「之」の草書のくずしだが、連綿すると真っ直ぐに引き下ろすだけになる。

 

 相手は(はる)(ずみ)で、

 

 きのふこそ寒こりみしか水あみせ

 

の句だった。

 昨日寒中に冷水を浴びて身を清める寒垢離をしている人を見たから、俺も水浴びしよう、という句。

 ただ、霞は普通横にたなびくもので縦に線を引く「し」は無理があったか、任口さんの判定では負けだった。

 ちなみに、自分は「君の書くしの字は長すぎる」とよく言われる。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「五十四番

   左勝  水掛祝 青木 春澄

 きのふこそ寒こりみしか水あみせ

   右   霞   松尾 桃青

 大比叡やしの字を引て一かすみ

 左きのふこそ寒垢離行者の床も新まくらの夜床明るわびしき水あみせも慚愧懺悔六恨清浄殊に清め所あるべく候。右のしの字文字は直して心横へ引たるにや愚なる者悟りかたし人皆発明せずは黒闇地獄に堕在々々寒垢離こそ清からめ。」

 

とある。

 春澄は翌延宝六年秋、松島から京へ帰る途中に江戸に立ち寄って、「のまれけり」の巻、「青葉より」の巻、「塩にしても」の巻の三吟を似春とともに巻いている。

 延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』に参加し、その時の、

 

 鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄

 

の句に応じるように、『俳諧次韻』に、

 

 春澄にとへ稲負(いなおほせ)(どり)といへるあり  其角

 

を発句とする百韻が収められている。

 その春澄の句は、昨日寒中に冷水を浴びて身を清める寒垢離をしている人を見たから、俺も水浴びしよう、という句。

 これに対し芭蕉の句は仮名草子『一休ばなし』のネタで、大文字で長々と書けと言われて一文字「し」を書いたという話から、比叡山は霞も「し」の字にたなびくとする。

 

 

 猫の妻へつゐの崩れよりかよひけり

 

 伊勢物語では築地の崩れた所から男が通ってきて、結局バレちゃう話があったが、猫も恋の季節になるとどこからともなく通ってくる。

 猫はよく竃で暖を取ったりするから、灰だらけになって通ってきたなら、竃に崩れていて入れる隙間があったに違いない。

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合では同じ猫妻恋という題で、相手は守常で、

 

 妻恋やねしみをあけて猫の皮

 

の句だった。

 妻恋に鳴いてた猫が今は吉原の三味線になって客を招いている、という句。

 任口さんの判定は、自分の句の方が出典を良く生かしているということで勝ちとなった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「八十二番

   左   猫妻恋 長坂 守常

 妻恋やねしみをあけて猫の皮

   右勝  同   松尾 桃青

 猫のつまへつゐの崩れよりかよひけり

 左猫は傾城の後身と申はふ違所なし。三線の皮と成てむかしは三筋町今は三やの夕人待ねしみ撥にてもまねくは知音と云物やらん。右のへついの崩れより通らば在原ののらにや。よひよひことにうちもねうねうとこそ啼らめ。いづれもおとらぬ唐猫なれども妻恋の物語につきて右をかちとす。」

 

とある。

 守常の句の「ねしみ」は享保の頃の『今様職人尽百人一首』の琴三味線師の歌に、

 

 かざりよく渡せる弦のおく琴は

     したてて見ればよきねじみなり

 

の用例がある。

 「ねじみ」は今のところ謎だが、津軽三味線では「音締め」と「音澄み」があって、音締めはギターでいうハーモニクス、音澄みはカッティングのことらしい。「あけて」が「上げて」なら単に音色のことなのかもしれない。

 守常の句は、妻恋に鳴いてた猫が今は吉原の三味線になって客を招いている、という意味であろう。任口の評は音色に掛けて「知音(友)」を招くと洒落ている。

 桃青の句は『伊勢物語』第五段の、

 

 「むかし男ありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、わらはべの踏みあけたる築地ついひぢのくづれより通ひけり。」

 

という築地の崩れた所から男が通ってきて、結局バレちゃう話を踏まえている。

 猫も恋の季節になるとどこからともなく通ってくるが、猫はよく竃で暖を取ったりするから、灰だらけになっていて、さては竃の崩れていて入れる隙間から入って来たに違いない、とする。

 

 

 竜宮(りゅうぐう)もけふの塩路や土用(どようぼし)

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合のための句で、上巳という題。

 相手は由平で、

 

 出替りの水仕(みずし)は井筒の女かな

 

の句だった。

 まあ水仕は井戸にいそうだけど、それが?って句だ。

 上巳(じょうし)は新月の大潮の後になるので、潮干狩りして海産物を捧げるから竜宮の土用干しみたいだ、としたけど、伏見の任口さんの判は「左右同じほどか勝負までもなし」だった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「百十番

   左持  出替  前川 由平

 出がはりの水しは井筒の女かな

   右   上巳  松尾 桃青

 竜宮もけふの鹽路や土用干し

 左右同じほどか勝負までもなし」

 

とある。

 「水し」は「水仕(みずし)」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水仕」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「御厨子」を「水仕」と解したところから) 台所で、煮炊き、水汲み、食器洗いなどをすること。水仕事をすること。また、それをする下女。水仕女。

  ※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一〇「さて百人のながれのひめがありけるが、そのしものみづしはの、十六人してつかまつる」

  ※人情本・花筐(1841)五「先非を悔ひ歎き、たとへ炊業(ミヅシ)の業をしても」」

 

とある。雇われて炊事している女は、確かに井戸の側にいつもいそうだ。

 桃青の句も「上巳」という題だが、唐突に竜宮の塩路が出てくるかよくわからないし、土用干しは夏で季節が違う。

 多分上巳に供える海産物が竜宮の塩路みたいで、その頃が新月に近い大潮だから、水も引いて竜宮が土用干しされているみたいだ、ということなのだろう。

 

 

 (まづ)しるや()(ちく)が竹に花の雪

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合のための句で、花という題。

 相手は治尚で、

 

 遠干潟(とほひがた)あまの枝折(しをり)や桜海苔

 

の句だった。

 干潟に桜海苔が落ちていたら、それは海女がこっちへ来てと残していった枝折だ、というもの。まあちょっと卑猥な感じのする句だね。

 ()(ちく)は尺八や一節(ひとよ)(ぎり)を作った名工で、尺八の先っぽに汁がって、まあ人のことは言えないか。

 でもそのあとちゃんと花を出して、実は鼻水でしたって落ちにしている。

 任口さんの判もこの落ちが良かったようだ。勝ちにしてくれた。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「百三十八番

   左   桜海苔 加藤 治尚

 遠干潟あまの枝折や桜海苔

   右勝  花   松尾 桃青

 先しるや義竹が竹にはなの雪

 左のあまの枝折心ゆかず候歟。干潟にみだれ桜のり枝折とみるまに汐みちなば舟さす棹のさしていづくとかあるべきや。右義竹か竹に花の雪とは一よ切にも花ちりたると吹曲の篠や覧。よだれまじりのはなの雫さもこそあらめ。海士のしほりよりはまさるべく候。」

 

とある。

 桜海苔は紅藻類で、コトバンクのデジタル大辞泉にはオキツノリとあり、精選版 日本国語大辞典には米海苔(ムカデノリ)とあって、一定していない。おそらく紅藻類で食用とされるものを指していたのであろう。トサカノリやムカデノリは今日でも食用とされている。

 治尚の句は干潟に桜海苔が落ちていたら、それは海女がこっちへ来てと残していった枝折だ、というもの。まあ、海藻はしばしば女性の陰毛の譬えとして用いられるもので、そうなると干潟も比喩ということになる。

 まあ判にあるように、そこに船の「棹」を刺してと完全にシモネタだ。

 桃青の句の義竹は宜竹(ぎちく)という尺八や一節切を作った名工で、一節切は遊郭で小唄などの伴奏でも用いられていた。それに「花の雪」なら普通に風流だが、上五の「先しるや」が「汁」で「はな(鼻)」と縁語になっていて、花水まみれの一節切という落ちになる。この落ちはなくてもよかったか。

 

 

 またぬのに菜売(なうり)に来たか(ほとと)(ぎす)

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合を企画したときの句。

 ホトトギスはいにしえの大宮人なら待って聞くものだが、待ってもいないのに来るのは京の菜売りだ。頭に大きな桶を乗せてやってくる。

 相手は破扇子で、

 

 古茶壷や昔忘れぬ入日記

 

の句だった。

 古い茶壷に仕入れ値を忘れないように明細書を入れて残しているという句だが、題が「新茶」だった。

 自分の句も、菜売は冬のものでホトトギスの季節に合ってない、という指摘ももっともで、季吟さんの判定は引き分けだった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「百六十六番

   左持  新茶  延沢破扇子

 古茶壷や昔忘れぬ入日記

   右   時鳥  松尾 桃青

 またぬのに菜売に来たか時鳥

 左右茶つぼたとひ入日記とありとも右茶のななるべければ新茶といふ題に落題なるべし。

 右菜うりにきたりといへる郭公の折にもあらずすべて心得がたし。左右みな難あれば可為持。」

 

とある。

 入日記はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「入日記」の解説」に、

 

 「① 荷送りする商品に添えて入れる内容明細書。商品の在中目録。入帳(にゅうちょう)

  ※親元日記‐寛正六年(1465)五月五日「仍長唐櫃一請取之随入日記如此一通同整之」

  ② 金銭の収支、物品の出入りなどを日ごとに記しておく帳簿。いりにっき。

  ※俳諧・玉海集(1656)四「年の内の梅の暦やいれ日記〈頼永〉」

 

とある。

 古い茶壷に仕入れ値を忘れないように明細書を入れて残しているという句だが、題が「新茶」というのは確かにおかしい。

 桃青の句は、ホトトギスは待っていてもなかなか来ないのに、菜売は待ってないのに明け方になるとやってくるというものだが、ホトトギスは夏のもので菜売は冬のものだから季節が合わない。

 

 

 あすは(ちまき)難波(なには)の枯葉夢なれや

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合を企画したときの句。

 相手は殿様の息子の露沾(ろせん)で、

 

 一夢や千万人のほととぎす

 

の句だった。

 杜牧の阿房宮賦の「一人之心 千萬人之心也」を踏まえた句で、秦の始皇帝の阿房宮(あぼうきゅう)は三百里の巨大なもので、みんなその贅沢を真似したというのを、ホトトギスの一声が千万人を感嘆させるという意味に作り替えている。

 自分はというと、難波の枯葉は、

 

 津の国の難波の春は夢なれや

     葦の枯葉に風わたるなり

          西行法師

 

で、その刈り取られた芦の葉が今や粽になって猶哀れだとしてみた。

 負けた気はしないけど相手は運営のお殿様の息子だ。季吟さんも忖度したのだろう。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「百九十四番

   左勝  時鳥     露沾

 一夢や千万人のほととぎす

   右   端午  松尾 桃青

 あすは粽難波の枯葉夢なれや

 左は杜牧之が阿房宮賦の詞より一こゑや千万人の心とふくめて一唱万嘆の所あり。

 右は西上人のかにはの春を俤にしてあすのかれはを想像たるもえ思ひよるまじき句体ながら猶左のたけたかきには及まじくや。」

 

とある。

 露沾の句は、杜牧の『阿房宮賦』の、

 

 「鼎鐺玉石,金塊珠礫,棄擲邐迤,秦人視之,亦不甚惜。嗟乎!一人之心,千萬人之心也。」

 

を踏まえたもので、秦の始皇帝が建てたという阿房宮は三百里(中国の里は一里約四百メートルなので約百二十キロ)に渡る巨大な宮殿で、そこに諸国から巻き上げてきた膨大な数の宝は、見向きもされないままガラクタのように積み上げられていた。

 秦の始皇帝のこの贅沢を千万人が真似するということだが、ここではホトトギスの一声は千万人が感銘するという意味に用いる。

 一方、桃青の句は、

 

 津の国の難波の春は夢なれや

     葦の枯葉に風わたるなり

             西行法師

 

の歌を踏まえたもので、粽は笹を使うものが多いが芦の葉で包んだ葦粽というのものあった。

 難波の春の芦の若葉も刈り取って干されて、やがては粽を包むのに用いられる。

 

 

 五月雨や(りう)(とう)あぐる番太郎

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合のための句。

 番太郎は非人の身分でありながら、雨の中を愛宕灯篭を灯して回って、街の安全を守ってくれている。有り難いことだという句。

 相手は千春で、

 

 山々をかきて出たり祇園会(ぎおんえ)

 

の句だった。

 祇園(ぎおん)御霊会(ごりょうえ)の山鉾が次から次へとやってくるのを「山々をかきて出たり」とするが、季吟さんは京の人でこのネタはありきたりということで勝った。

 自分の句は「海をなしたる風情」と五月雨の中の灯籠を、海の灯籠に見たのかもしれない。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「二百二十二番

   左   祇園会 望月 千春

 山山をかきて出たり祇園会

   右勝  五月雨 松尾 桃青

 五月雨や龍灯あぐる番太郎

 左の山々の文字発句度々に出て不珍やあらん。

 右五月雨の海をなしたる風情俳諧体によくいへり。可為勝。」

 

とある。

 祇園御霊会は京の祇園社(八坂神社)の祭りで、山鉾巡業で知られている。

 次から次へとやってくる山鉾を「山々をかきて出たり」とするが、このネタは京の季吟にとっては特に新しいものではなく、町の人が皆冗談に言うありきたりなものだったのだろう。

 桃青の句の番太郎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「番太」の解説」に、

 

 「① 江戸時代、町村で治安を守り、警察機構の末端を担当した非人身分の番人。平常は、番人小屋(番屋)に詰め、町村内の犯罪の予防、摘発やその他の警察事務を担当し、番人給が支給されていた。番非人。番太郎。番子。

  ※俳諧・当世男(1676)秋「藁一束うつや番太が唐衣〈見石〉」

  ② 特に、江戸市中に設けられた木戸の隣の番小屋に住み、木戸の番をしたもの。町の雇人で、昼は草鞋(わらじ)、膏薬、駄菓子などを売り内職をしていた、平民身分のもの。番太郎。番子。

 ※雑俳・柳多留‐二二(1788)「番太がところで一トどら御用うち」

 

とある。非人身分のものが警察官のような仕事につくのは江戸時代では普通のことだった。交番のお巡りさんの前身のようなものかもしれない。龍灯を灯して回るのも番太郎の仕事だったのだろう。

 龍灯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「龍灯」の解説」に、

 

 「① 深夜、海上に点々と見られる怪火。龍神が神仏にささげる灯火といい伝え、各地の神社に伝説があるが、特に九州の有明海や八代海で、盆の前後や大晦日(おおみそか)に見られるものが有名。蜃気楼現象で、漁火の光の異常屈折現象といわれる。不知火(しらぬい)。《季・秋》

  ※三国伝記(140746頃か)六「龍燈は浪をき来て海上に浮んで熖々たり」

  ② 神社に奉納する灯火。神社でともす灯火。神灯。

  ※歌謡・淋敷座之慰(1676)地蔵の道行「齢久しき白髭の、宮居もあれに立給ふ。りうとうの光りまし、御殿を照させ給ひける」

 

とあり、本来は②の灯籠を灯して回るもので愛宕灯籠のことと思われるが、判辞の「五月雨の海をなしたる風情」は五月雨の中の愛宕灯籠を、さながら海の龍神の灯す龍灯のようだとして勝ちとする。

 

 

 近江(あふみ)蚊屋(かや)汗やさ波夜の床

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合を企画したときの句。

 近江は蚊帳の産地。それに「さざなみの志賀」に掛けて、汗も涼し気なさざ波になる、としてみた。

 相手は元好で、

 

 土用干小袖(ある)間や蘭の花

 

の句だった。孔子家語の「與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣」をふまえたもので、土用干しの小袖も蘭の部屋にあれば蘭の香になるというもの。

 引き分けだが両方とも良いということで季吟さんの「よき持」という判を貰った。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「二百五十番

   左持  土用干 広野 元好

 土用干小袖有間や蘭の花

   右   蚊帳  松尾 桃青

 近江蚊屋汗やさざ波夜の床

 左は芝蘭の室に入はかうばしき事をしる事家語に見ゆ小袖の掛香などの匂へるさまさもあるべし。

 右あふみ蚊屋といひて汗やさざなみといへる又めづらかに優美なり。よき持とぞ申べき。」

 

とある。

 元好の「蘭の花」に、判者の季吟は『孔子家語』巻第四の「與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣」を引いている。芝蘭の部屋にしばらくいるとそれが当たり前になるように、善人と交わると当たり前のように善人になるという意味の言葉だ。環境の大切さということか。

 土用干の小袖が香を焚き込んでいい匂いがするというところに、その寓意が読み取れる。

 桃青の句は近江の蚊帳であれば汗臭さもさざ波のようだというもので、環境よりも一人一人の気の持ちようを重視する。

 近江八幡は蚊帳の産地で、貝原益軒の『東路記』に、

 

 「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。

 此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。」

 

とある。それに志賀の枕詞の「さざなみ」を掛けて、近江の蚊帳と思えば汗もさざ波、となる。

 環境が大事か心がけが大事か、どちらとも言えないということで、この勝負は引き分け。

 

 

 梢よりあだに(おち)けり蝉のから

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合のための句。

 相手は京の()(しゅん)で、

 

 干瓢や夕顔つつむ上むしろ

 

だった。

 干瓢にする夕顔の実を上莚で包んでゆくという干瓢売の様子を、源氏物語の亡くなった夕顔のむくろの哀れに見立てた句だが、「夕顔」というタイトルから連想させる夕顔の花の句ではない。

 同じく自分の句も蝉の抜け殻の句で「蝉」というタイトルにあってなくて、両方傍題ということで季吟さんの判は引き分けだった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「二百七十八番

   左持  夕顔  小西 似春

 干瓢や夕顔つつむ上むしろ

   右   蝉   松尾 桃青

 梢よりあだに落けり蝉のから

 

 左かんへう売ものの莚に包みしたためしをかの夕がほの巻のことにすぐれたる哀におもひよそへしはさる事ながら聊傍題に似たり。

 右の句も蝉の題にからをいはん事同傍題にや。可為持。」

 

とある。

 傍題は今ではサブタイトルの意味で用いられるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「傍題」の解説」には、

 

 「① 和歌・連歌・俳句で、病(やまい)として嫌う一種の体。ある題で主として詠むべき事物をさしおいて、題に添えた事物を中心として詠むこと。また、両者を同一の位置において詠むもの。

  ※仁安二年八月太皇太后宮亮経盛歌合(1167)「そもそも傍題はよまぬことなりとや申す人もあれど」

  ② 歌などで、数多く詠む中に同じ事のあること。

  ※近来風体(1387)「歌の傍題と申す事は、〈略〉又歌かずをよむに同事のあるをも傍題と申すなり」

  ③ (①から転じて) 本題をはずれること。目的がずれること。

  ※滑稽本・八笑人(182049)四「すこし傍題(ハウダイ)にはなるが」

  ④ 書物・論文などの副表題。副題。サブタイトル。

  ※敗北の文学(1929)〈宮本顕治〉三「この作品には、『ある精神的風景画』と云ふ傍題がそへられてある」

 

とあり、ここでは①の意味になる。

 似春の句は「干瓢の夕顔つつむ上むしろや」で、干瓢にする夕顔の実を上莚で包んでゆくという干瓢売の様子に、『源氏物語』の亡くなった夕顔のむくろの哀れを込めたものであろう。

 ただ、夕顔の実の句であって、「夕顔」というタイトルから連想させる夕顔の花の句ではない。

 桃青の句は梢から無駄に落ちて行く蝉の儚い命と思いきや、蝉の殻で落ちにしている。これも蝉の句ではなく蝉の抜け殻の句だ。

 

 

 秋来にけり耳をたづねて(まくら)の風

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合をやった時の句。

 言わずと知れた古今集の、

 

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども

    風の音にぞ驚かれぬる

          藤原敏行

 

による句で、秋風が寝ている部屋にやってきて耳元でささやいてる、としてみた。

 相手は如白で、

 

 後世事や人間第一の水せがき

 

の句だった。

 死んだ後もまた人間に生れるのが第一、という句。まあ当たり前だ。

 判者の維舟さんは「詞つかひおかし」として勝ちにしてくれた。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「三百六番

   左   施餓鬼 鹽川 如白

 後世事や人間第一の水せがき

   右勝  立秋  松尾 桃青

 秋来にけり耳をたづねて枕の風

 後世の事人間第一勿論興少し。

 秋風枕をおどろかす体耳を尋る詞つかひおかし。右勝。」

 

とある。

 如白の句の水施餓鬼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水施餓鬼」の解説」に、

 

 「〘名〙 水辺で行なう仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)

  ※俳諧・山の井(1648)秋「されば水せがきして、火の車のたけきもうちけす心ばへ」

 

とある。

 それにこの場合の「人間第一」だが、今日の意味ではないだろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「人間」の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙

  ① 仏語。六道の一つ。人の住む界域。人間界。人界。人間道。→じんかん。

  ※観智院本三宝絵(984)下「人間はくさくけがらはし。まさによき香をたくべし」 〔法華経‐法師品〕

  ② 人界に住むもの。ひと。人類。

  ※今昔(1120頃か)五「天人は目不瞬かず、人間は目瞬く」

  ③ 人倫の道を堅持する生真面目な人。堅物。

  ※雑俳・続折句袋(1780)「人間で一生仕廻ふ不器量さ」

  ④ 見どころのある人。人物。人柄。」

 

 生まれ変わっても六道の内の人間道に生れるのが一番という意味で、餓鬼道や地獄道に落ちたくはない、という意味であろう。

 まあ、誰しもそう思うことだから「勿論」だけど、それ以上の余情はない。

 桃青の句は、

 

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども

     風の音にぞ驚かれぬる

            藤原敏行(古今集)

 

の歌によるものだが、風の音に秋が来たのを感じるという所に、秋風が耳を訪ねてくる来ると表現する所の面白さがある。

 枕もとでささやかれて起こされる様からの連想か。

 

 

 (たう)きびや軒端(のきば)(をぎ)のとりちがへ

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合をやった時の句。

 相手は萬年子で、

 

 宇治の里にかかりけるかな伊勢踊

 

の句だった。

 伊勢踊りを踊りながら伊勢まで来て、ついに伊勢の宇治橋を渡り内宮に入るというだけの句だ。

 自分の句は、軒端に荻が生えていると思ったらやけに背が高くなり、コウリャンだった。

いつの間に種がこぼれてたのだろう。光の君が間違えたかというもの。

 草の間違えを源氏物語になぞらえる所に面白さがあるということで、維舟さんは勝ちと判定してくれた。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「三百三十四番

   左   踊   柏木萬年子

 宇治の里にかかりけるかな伊勢踊

   右勝  荻   松尾 桃青

 唐きびや軒端の荻のとりちがへ

 山田より内宮へかけをどりにやさのみ興なし。

 唐きび軒端の荻其陰高き事をよせ合られたり。物語の詞実おかし。右勝。」

 

とある。

 萬年子の句の伊勢踊りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伊勢踊」の解説」に、

 

 「〘名〙 近世初頭に、御託宣によるとして伊勢神宮の神霊を諸国に送る神送りの踊り。慶長一九年(一六一四)から翌元和元年にかけて大流行した。近世中期、伊勢音頭が流行してからは、それに合わせて踊る踊りを称するようになった。

  ※会津塔寺八幡宮長帳‐元和七年(1621)「村々郷々にて御宮作立、其上たんす、もち、御酒、お作上よりのおしゑ之歌うたい申、御伊勢おとり有り」

 

とある。伊勢踊りを踊りながら伊勢まで来て、ついに伊勢の宇治橋を渡り内宮に入る。それだけ?と言われればそれまでの句だ。

 桃青の句は『源氏物語』で空蝉の寝室に忍び込んで間違えて軒端の荻と交わったことを思い起こさせながらも、内容的にはただ荻を吹く悲しげな音がすると思ったら荻ではなく唐きびだった、というもの。

 唐きびはこの時代はコウリャンのことだった。トウモロコシのことになるのはもう少し後の時代になる。そのため判にも「其陰高き事」となる。コウリャンは三メートルに達するが、荻も二メートルを越える。ともに背が高い。

 

 

 枝もろし()唐紙(たうし)やぶる秋の風

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合をやった時の句。

 紅葉という題で、風にそよぐ紅葉の葉を破れた緋の唐紙に喩えてみた。

 相手は宗旦で、

 

 ぬれつつにしゐたけをとる雨の中

 

だった。

 維舟さんの判定は、「わが衣手に雪は降りつつ」を踏まえてはいるが、雨の中の椎茸取りは軽すぎるし、紅葉を破れた唐紙に喩えるのも風情がないということで、引き分けだった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「四百四十八番

   左持  菌   池田 宗旦

 ぬれつつにしゐたけをとる雨の中

   右   紅葉  松尾 桃青

 枝もろし緋唐紙やぶる秋の風

 雨中のしゐたけ古歌をかすりたる迄候やあまりかろし。

 枝もろしとは葉の事候や緋唐紙を破が如し秋風の吹ちらすを申なし興少し。持。」

 

とある。

 雨の中にシイタケを取るというのは、

 

 君がため春の野に出でて若菜つむ

     我が衣手に雪はふりつつ

              光孝天皇(古今集)

 

のをシイタケで俳諧らしく卑俗に落としたものか。

 ただ、雪を雨にとなると、本歌をすり上げるのではなく下げてしまっているので、それだけ情が軽くなる。

 桃青の句は風にそよぐ紅葉の葉を破れた緋の唐紙に喩えたものだが、葉がもろいならまだしも、「枝もろし」はちょっと違うし、芭蕉の葉の破れるならわかるが、紅葉の葉は破れたような形はしていても実際には破れていない。その意味で「興少し」なのだろう。

 

 

 今宵の月(とぎ)(いだ)人見(ひとみ)出雲(いづも)(のかみ)

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合の句。相手は春良で、

 

 ()(むけ)(くさ)や花によるべの水せがき 春良

 

だった。

 今夜の月には薄雲がかかってるので鏡造りの名人、天下一人見出雲守を呼んで来いという句だったが、手向草の花によるべの水せがきや、の倒置の春良の詞の滑らかさに対し、「磨き出せ人見」の字余りが重たいという維舟さんの評だった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「三百六十二番

   左勝  施餓鬼 濱田 春良

 手向草や花によるべの水せがき

   右   月   松尾 桃青

 今宵の月磨出せ人見出雲守

 手向けの花よるべの水詞つづきやすらか聞へてよく叶候歟

 月を見かく人見出来鏡屋に有名を尤ながらかかる小家のいとなみほり句めきたり。七文字も口にたまり候歟。左勝。」

 

とある。

 手向け草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手向草」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「たむけくさ」とも)

  ① (「くさ」は種、料の意) 手向けにする品物。神や死者などに供える品。幣帛(へいはく)。ぬさ。

  ※万葉(8C後)一・三四「白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ」

  ② 植物「さくら(桜)」の異名。《季・春》

  ※蔵玉集(室町)「他夢化草。桜。雲は猶立田の山の手向草夢の昔のあとの夕ぐれ」

  ③ 植物「まつ(松)」の異名。〔梵燈庵主袖下集(1384か)〕

  ④ 植物「すみれ(菫)」の異名。

  ※莫伝抄(室町前)「手向草 すみれぞ野にあるべし 花さかばこれを宮居に手向草一夜のうちに二葉とぞなる」

  ⑤ 松の古木の幹や枝に生える地衣植物。松の苔。

  ※道ゆきぶり(1371か)「はま風になびきなれたる枝に手向草うちしげりつつ」

  [補注]②③④のように、ある草木の異名に特定するのは、「莫伝抄」「蔵玉集」といった異名歌集に見える説で、それ以前に広く行なわれていた形跡は認められない。室町期の連歌師の知識と推定されるが、その根拠や当時における流布の程度は明かでない。」

 

とある。補注にあるとおり、この場合は①の意味で、特に何の草ということではなく施餓鬼の死者に供える花で良いと思う。

 「手向草の花によるべの水せがきや。」の倒置で、言葉の続きが滑らかでわかりやすい。

 桃青の句の人見出雲守は鏡造りの名人と思われる。京都国立博物館の館蔵品データベースに天下一人見出雲守藤原秀次の銘のある鶴丸紋南天鏡があり、十七世紀のものとされている。それかもしれないし、天下一人見出雲守は他にもいたのかもしれないが、当時は鏡の名工として知られていたのだろう。

 

 

 行雲(ゆくくも)や犬の(かけ)尿(ばり)むらしぐれ

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合の句。相手は千春の従兄弟の千之で、

 

 祝ふ子供千代もとゐのこもちゐ哉

 

だった。

 祈るに亥の子餅を掛けた綺麗な句だ。

 自分は下ネタで、さっと降ってすぐ止む雨を犬の小便に喩えたわけだが、新味があるという事で勝った。

 判者が下ネタ好きの季吟さんで良かった。

 時雨はさっと降ってさっと止むが、犬の小便に喩えるとは、まあ若かった。

 一応、

 

 行く雲の浮田の森のむら時雨

    過ぎぬとみれば紅葉してけり

          源兼(みなもとのかね)(うじ)

 

という歌枕名寄にある歌を踏まえいて、それも評価されたかな。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「四百七十四番

   左   豕餅祝 望月 千之

 いはふ子ども千世もとゐのこもちゐ哉

   右勝  時雨  松尾 桃青

 行雲や犬の欠尿むらしぐれ

 左かの千世もといのる人の子のためとよみしことのはをとれるばかりにて詞のつづきもよろしからず。心もいひたらず侍にや。

 右世話にすがりてめづらかにきこゆ。かちとし侍べし。」

 

とある。

 望月千之は望月千春の従弟だという。

 

 

 霜を着て風を(しき)()の捨子哉

 

 磐城平藩の殿様が六百番俳諧発句合を企画した時の句。

 霜という題で、捨子は冬の寒さの中、霜に巻きれ風に吹きっさらしになっている。

 悲しいことだけどよくあることだ。いつかこういうことのなくなる時代が来るのか。

 捨子はいづめ(飯詰)に入れて捨てられていることが多い。

 裸で捨てられることはないが、冬の寒い時期の捨子は霜を着て木枯らしを敷いて寝ているようなものだ。

 相手は保俊の、

 

 両の手をあはせて十夜(とや)念仏(ねぶつ)

 

だったが、合掌する両手の指がちょうど十で十夜念仏というだけの句で、季吟さんの判は「いささか至らぬ」、それに対して自分の句は「あはれにかなし、かちとすべし」だった。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「五百二番

   左  十夜法事 武野 保俊

 両の手をあはせて十夜の念仏哉

   右勝  霜   松尾 桃青

 霜を着て風を敷寝の捨子哉

 左両の手をあはせて十夜とはゆびの数などよりおもひよれるにや。聊いひたらぬところあるに似たり。

 右のすて子あはれにかなし。かちとすべし。」

 

とある。

 

 

 富士の雪廬生(ろせい)が夢をつかせたり

 

 雪の真っ白な富士山を見ていると、邯鄲の夢に築かせた銀の山、黄金の山のようだ

 相手は研思で、

 

 鹽物(しおもの)やいづれのとしの雪のうを

 

の句だった。和漢朗詠集の「天山不弁何年雪 合浦応迷旧日珠」を踏まえて、塩鱈を万年雪に喩えた句だ。

 鱈の万年雪は大袈裟で銀の山の比喩の方が当を得ているということで、季吟さんは勝ちの判定をしてくれた。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「五百三十番

   左   鱈   浅香 研思

 鹽物やいづれのとしの雪のうを

   右勝  雪   松尾 桃青

 富士の雪廬生が夢をつかせたり

 左いづれの年の雪の魚といへる後天山不弁と作れる朗詠の詞ながらしをくちにけんたらの魚賞翫うすくや侍らん

 右かんたんに銀の山をつかせたる事ある心にや心たくみに風情面白し勝とすべし。」

 

とある。

 「いづれのとしの雪」の出典を、『和漢朗詠集』三統理平の、

 

 天山不弁何年雪 合浦応迷旧日珠

 (天山に(わきま)へず(いづ)れの年の雪ぞ

 合浦にはまさに迷ひぬべし旧日の珠に)

 

だとしている。

 

 月見れば思ひぞあへぬ山たかみ

     いづれの年の雪にかあるらむ

            藤原重家(新古今集)

 

の和歌にも取り入れられている。万年雪を指す。

 塩漬けの鱈を見て、いずれの年の雪の魚、と鱈という漢字を分解して、保存の利く塩鱈を万年雪に喩えている。

 鱈の保存食は棒鱈と干鱈があり、棒鱈は蝦夷や出羽などの極寒の中でかちんかちんになるまで干すもので、干鱈は普通の干物をいう。

 干鱈は延宝の頃の、「あら何共なや」の巻十四句目の

 

   物際よことはりしらぬ我涙

 干鱈四五枚是式恋を       信章

 

 また貞享二年の発句、

 

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

 

があり、普通に裂いて食べることができるが、棒鱈は元禄五年冬の「けふばかり」の巻二十一句目に、

 

   當摩(たへま)の丞を酒に酔はする

 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

 

の句があるが、時間をかけて戻して食う。

 ただ、干鱈を賞翫するのに万年雪を持ち出すのはやや大袈裟か。

 桃青の句の「廬生が夢をつかせたり」は邯鄲夢の故事による。「つかせたり」は「築(つ)かせたり」で謡曲『邯鄲』に、

 

 シテ「東に三十余丈に、

 地  銀の山を築かせては、黄金の日輪を出だされたり。

 シテ「西に三十余丈に、

 地  黄金の山を築かせては、銀の月光を出だされたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2416). Yamatouta e books. Kindle .

 

から来ている。

 雪の真っ白な富士山を見ていると、邯鄲の夢に築かせた銀の山、黄金の山のようだ、と富士の雪を賞翫している。こちらの喩えの方が当を得ている。

 

 

 白炭やかの浦島が老の箱

 

 磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合で、相手は行休で、

 

 寒垢離(かんごり)のあびぬる水や鼻の滝

 

の句だった。季吟師匠は鼻水の滝が笑いの壺だったか、

 「浦島の子が箱を開けて一時に白頭と成し事を白炭になぞらへしや。聊言ひ叶へぬに似たる」

という事で負けた。面白い例えだと思ったのにな。

 白炭は黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白くする。日焼けした漁師に白髭が生えたみたいだ。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「五百五十八番

   左勝  寒垢離 黒川 行休

 寒垢離のあひぬる水や鼻の瀧

   右   炭   松尾 桃青

 白炭や彼うら島が老のはこ

 左かんこりの水ひたひにみなぎりおつるを鼻の瀧といへる見るやうにおかし。

 右うらしまの子が箱をあけて一時に白頭と成し事を白炭になぞらへしにや。聊いひかなへぬに似たる所あれば左為勝。」

 

とある。

 寒垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寒垢離」の解説」に、

 

 「① 寒中に冷水を浴び心身を清めて、神仏に祈願すること。また、山法師、修験者(しゅげんじゃ)などが寒中に白装束で町を歩き、六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えながら、家々の戸口に用意した水桶の水を浴びて回る修行。寒行。《季・冬》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕

  ※談義本・銭湯新話(1754)一「寒垢離(カンゴリ)の願人が水浴るやうに」

 

とある。荒行で本来は厳粛なものだが、水を被ると鼻水がそれに混ざって、鼻の下に滝ができる。

 桃青の句の白炭は黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもの。日焼けした漁師の浦島太郎に白髭が生えた姿がそれに似ているというものだ。

 

 

 (なり)にけり(なり)にけりまで年の暮

 

 正月が来るとまた一つ歳を取る。子供の頃は嬉しかったが、年取ってくると憂鬱だったりして、それで年を忘れようと忘年会をしたりする。

 古代には御門(みかど)の生まれた日を祝う天長節というのがあったらしいが、すぐに廃れて今は正月で一つ歳を取る。

 正月が来れば春になりにけり、今年でうん歳になりにけり、その時までは年の暮。

 この句も磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合の句で、相手は吟松の、

 

 厄としや借銭(しゃくせん)そへてにしのうみ

 

だった。厄年も借金も大晦日すぎれば成仏するという句だがありきたりだ。成にけり成にけりの二つ重ねた言葉が新味があるということで、季吟さんは勝ちとしてくれた。

 

註、風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』に、

 

「五百八十六番

   左   厄払  松村 吟松

 厄としや借銭そへてにしのうみ

   右勝  歳暮  松尾 桃青

 成にけり成に気りまでとしのくれ

 左は厄難もおひ物もさらりとはらへる心をふくめ右はとしの終になるこころを成にけりなりにけりまでといひなせるともに感情の所ながら句は詞つかひ一入なるべき物なるに右の重詞新しく珍重に候なり。可為勝。」

 

とある。

 

 

 (ひと)時雨(しぐれ)(つぶて)(ふり)て小石川

 

 延宝5年から神田上水の関口から小石川にかけての浚渫工事に係わってた頃、戸田権太夫利胤に招かれて小日向へ行った。

 白堀の作業場は特に荒れていて、石礫が飛んでくることもあったが、それもいっときの事。

 

註、不卜編延宝六年刊(一六七八年)『江戸広小路』所収。

 

 

 あら何共(なんとも)なやきのふは(すぎ)河豚(ふぐと)(じる)

 

 延宝5年の冬に京から信徳が来て、信章と一緒に江戸を案内した。その時河豚も食った。

 河豚は当たるというけど、きちんと肝を取り除いて水洗いすれば大抵は大丈夫と言われていて、実際俳諧師で河豚に当たったという話も聞かない。まあ、こうやって俳諧のネタにして笑える程度には安全な食べ物だけどね。

 この句を立句に信徳と信章とで三吟百韻興行をした。

 

註、延宝五年刊(一六七七年)『桃青三百韻附両吟二百韻』にこの百韻は収録されている。

 

 

 庭訓(ていきん)の往来()が文庫より今朝の雪

 

 延宝6年の歳旦。

 庭訓往来は手紙のテンプレート集で、日常の読み書きの基本になるため、誰もが子供も頃はこれを練習させられる。

 書き初めの日になると、どこの親もこれを文庫箱から取り出して、子供に書き初めをさせる。正月あるある。

 

註、庭訓は延宝四年春の「梅の風」の巻八十九句目にも、

 

   気根の色を小謡に見す

 朝より庭訓今川童子教      信章

 

の句がある。

 「庭訓(ていきん)」は『庭訓往来』で手紙の体裁で日常の語句を解説した本。「今川」は『今川状』で今川了俊の二十三か条の家訓。『童子教』はウィキペディアに、

 

 「鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。」

 

とある。いずれも子供の教育に欠かせないものだった。ただ、寺子屋が広まってったのは江戸中期以降で、この頃はまだ稀だったのではないかと思う。

 

 

 かびたんもつくばはせけり君が春

 

 寛永10年から毎年オランダ商館長が春になると江戸の将軍の元にやって来る。

 オランダ人にとっても日本は銀の豊富な魅力的な国で、頭を下げて貿易を求めて来る。

 我が君が代日の本のなんと目出度いことよ。

 

註、二葉子編延宝六年刊(一六七八年)『江戸通り町』所収。

 カピタンはコトバンクの「百科事典マイペディア 「カピタン(日本史)」の意味・わかりやすい解説」に、

 

 「ポルトガル語の音写で,甲比丹,甲必丹の字をあてる。〈長〉の意。マカオ〜長崎間のポルトガル貿易に最高の権限を有したカピタン・モーロ(mor)に由来し,のち転じて他の外国人,中国人やオランダ人の代表に用いた。オランダ人の場合は平戸,のち長崎の出島にあったオランダ商館の館長をさす。オランダ商館長の在任期間は短く,1609年―1856年の間に162代で2度以上再任した者もある。商館長はオランダ風説書を幕府に呈出し,年1回江戸参府を行う等を任務とした。鎖国中は,日本に公的に接し得る唯一の知識人として,西洋文化の移入の窓口となった者が多い。」

 

とある。

 

 

 (もち)(ばな)やかざしにさせる嫁が君

 

正月に団子を枝につけて飾る餅花は嫁さんの簪に似ている。

 

まあ、自分に嫁はいないけど。

 

 

 大裏(だいり)(びな)人形天皇の御宇(ぎょう)とかや

 

 延宝6年の桃の節句に、どこの家だったか紙の立派な立ち雛が一対飾ってあった。大きく立派な方の内裏雛はその名からすると帝なんだろうな。

 いずれの御時の帝かと言われたら、人形天皇の御宇ということなんだろうな。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 

 

 初花に命七十五年ほど

 

 延宝6年春の句。

 風流人は結構長生きしている。西行法師は七十三、宗祇法師は八十二、宗長法師は八十五、紹巴は七十八、長頭丸は八十四、梅翁も七十四になるという。

 初物を見ると寿命が伸びるなら、初花で七十五くらいまで生きられるといいな。

 

註、二葉子編延宝六年刊(一六七八年)『江戸通り町』所収。

 

 

水むけて跡とひたまへ道明寺

 

延宝6年夏、不卜(ふぼく)の母が亡くなった時の追悼の句。

道明寺はこの場合はお寺ではなく干し飯の方の道明寺で、夏の食欲のない時に水で戻して食べると喉に通りやすい。

今は悲しみで飯が喉を通らなくても、干し飯を食べて気を確かに持って亡き母を弔ってくれ。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 

 

 あやめ生り軒の鰯のされかうべ

 

 端午の節句で菖蒲を軒に飾ると、その軒に立春の鰯の頭が乾涸びている。

 しゃれこうべからススキが生えるというのはよくあるが、ここでは菖蒲が生えたみたいだ。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 

 

 水学(すゐがく)も乗物かさんあまの川

 

 水学さんは水上輪という筒の中で螺旋状のものを回転させるポンプを作った人で、南蛮に原型があると言う。

 あと、潜水するための装置を作ったとか。

 天の川を渡るには、淀川のあの高速船「早舟」が役に立ちそうだ。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 水学はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「水学」の意味・読み・例文・類語」に、

 

 「① (水学宗甫という人が、水からくりの技術に長じていたというところから) 水を利用して行なう奇術。

  ※俳諧・大坂檀林桜千句(1678)第九「分別のふかい堀をば埋させて〈柴舟〉 底には穐の通ふ水学〈由平〉」

  ※浮世草子・棠大門屋敷(1705)二「水学の術を得、水中に入りて水中より出づるに、衣服をぬらさず」

 

とある。

 

 

 秋きぬと妻こふ星や鹿の(かは)

 

 秋が来るとすぐ七夕の夜がやって来る。

 秋になると鹿は毛が抜け替わってあの斑点が消える物だが、この時期はまだ星を付けたまま鹿も妻恋いの季節になる。

 

註、二葉子編延宝六年刊(一六七八年)『江戸通り町』所収。

 

 

 木をきりて本口(もとくち)みるやけふの月

 

 月を見る時に庭の木が邪魔になるなるというのは古典的なネタで、俳諧の祖の宗鑑も、

 

   切りたくもあり切りたくもなし

 さやかなる月を隠せる花の枝

 

という句を付けている。

 木を切ったならその切口も丸く見えるという所に、新味を出そうと思ったんだが。

 

木が邪魔で月が見えないからって切っちゃうと、月が二つあるみたいだ。

 

註、二葉子編延宝六年刊(一六七八年)『江戸通り町』所収。

 

 

 (げに)や月間口千金の通り(ちゃう)

 

 江戸鍛冶屋橋にある喋々子の家での興行の発句。

 江戸随一の繁華街で、このあたりの店は間口一つで千金を稼ぐという。橋の向こうは大名屋敷が並び、まさに一等地。

 蘇東坡は春宵一刻値千金と言ってたが、ここは本当に千金だ。

 脇はその喋々子の息子の二葉子で、

 

 (ここ)に数ならぬ看板の露

 

だった。

 ここから見る月もそれだけで値千金だ。

 この時の興行は今住んでいる家の大家さんの小沢さんが一緒だった。

梅翁が江戸に来た時の「談林十百韻」のメンバーの一人で、日本橋大舟町の名主でもある。

俳号は小沢を半分に切って「卜尺」。

 

註、二葉子編延宝六年刊(一六七八年)『江戸通り町』所収。

 

 

 

 色付(いろづく)や豆腐に(おち)薄紅葉(うすもみぢ)

 

 延宝6年の杉風との両吟の発句だった。

 まだあまり赤くない紅葉の葉も、豆腐の上に落ちてその水分で鮮やかになってくれたらな。

まあ、杉風の上達を願って、

 鯉屋は杉風の父の仙風が一代で築き上げた店で、この親子には江戸に出てきて以来いろいろお世話になっている。

 杉風は同じ頃の門人の其角嵐雪に比べると控えめで、俺が俺がといったぎらぎらしたところがない。

 その意味でも薄紅葉だが、下手に染まらない所が案外強みなのかもしれない。

 

 

 雨の日や世間の秋を堺町(さかひちゃう)

 

 延宝の頃の句。

 日本橋堺町は中村座のある所で、他にも芝居小屋がたくさん立ち並ぶ。

 特に雨の日など仕事にならない日は、屋根のある芝居小屋は大賑わいで、江戸中の人が集まって来る。

 公演の最終日、千秋楽ともなれば、江戸中の秋がここにあるかのようだ。

 

註、不卜編延宝六年(一六七八年)刊『江戸広小路』所収。

 

 

 塩にしてもいざことづてん(みやこ)(どり)

 

 延宝6年の冬、松島から京へ借りる途中の春澄を迎えて、餞別興行をした。

 都鳥といえば在原業平の、

 

 名にし負はばいざ(こと)()はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

 

だが、京へ帰るなら江戸の都鳥を塩漬けにしてもたそうかと、もちろん冗談。都鳥を食べたりはしない。

 春澄も、

 

只今のぼる波のあじ鴨

 

と鴨にしてくれって言ってる。

 

註、春澄編延宝六年(一六七八年)刊『江戸十歌仙』所収。

 

 

 わすれ草()(めし)につまん年の暮

 

 延宝6年の冬の興行だったか。年忘れといってもたいした料理もなく、ならば忘れ草を摘みに行こうかなんて冗談を言っていた。

 実際、カンゾウの若芽はお浸しにしても炒っても酢味噌で食べれば結構美味い。

 

註、延宝七年(一六七九年)刊『仮舞台』にこの句を立句とする歌仙が収録されていたが原本は未発見。

 発句は言水編延宝七年(一六七九年)刊『江戸蛇之鮨』所収。

 

 

 阿蘭陀(おらんだ)も花に来にけり馬に(くら)

 

 延宝7年春の句。

 寛永10年から毎年オランダ商館長が春になると江戸の公方様の元にやってくる。

 去年詠んだ、

 

 かぴたんもつくばばせけり君が春

 

の句は長崎を出発する時を詠んだ歳旦句だったが、今度のは桜の季節に江戸に到着する時の句にしてみた。

 大名は駕籠に乗るがかぴたんは馬に乗って来る。

 

註、言水編延宝七年(一六七九年)刊『江戸蛇之鮨』所収。

 

 

 草履(ぞうり)の尻(をり)てかへらん山桜

 

 花見に行って雨に降られると、花を折るのではなく、藁草履を脱いで折り畳んで帰ってくる。

 雨の日は草履だと歩きにくいからね。下駄ならいいんだけど。

 

註、言水編延宝七年(一六七九年)刊『江戸蛇之鮨』所収。

 

 

 見渡せば(ながむ)れば見れば須磨の秋

 

 延宝7年秋、似春と四友が須磨へ旅立つ時の餞別興行の発句。

 見渡せばは定家の卿の、

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

    浦の苫屋の秋の夕暮

 

の歌がある。

 詠むればは藤原範光の、

 

 月さゆる須磨の浦路を詠れば

    涙催す小夜千鳥哉

 

 見ればは歌枕名寄に、

 

 月影に明石の浦を来てみれば

    心は須磨の関にとまりぬ

 

の歌がある。

 

 

 蒼海(さうかい)(なみ)酒臭しけふの月

 

 延宝7年の秋、須磨へ行く似春と四友の見送りで鎌倉まで行った。

 折から大海原を見ながらのお月見になったが、二人ともよく飲むこと、酒臭い月になった。

 

註、才丸編延宝七年(一六七九年)刊『坂東太郎』所収。

 

 

 (さかづき)や山路の菊と是を干す

 

 旅の途中で重陽の日を迎えたので、華やかな宴などもなく、その場に咲いている野菊と一緒乾杯といこう。

 

註、才丸編延宝七年(一六七九年)刊『坂東太郎』所収。

 

 

 松なれや霧ゑいさらゑいと引ほどに

 

 延宝の頃、金沢八景の君ヶ崎へ行った時の句。

 内川入江に北の方から突き出た岬で、霧の中を漁師が綱を引いているが、遠くから見ると 松の木から霧に向かって糸が伸びているように見える。

 

 

 霜をふむちむば(ひく)まで送りけり

 

 延宝7年秋、似春と四友が須磨へ行く時、鎌倉まで送っていった。

 秋に、

 

 須磨ぞ秋志賀奈良伏見でも是は 似春

 見渡せば詠れば見れば須磨の秋 芭蕉

 

の発句で餞別興行をした。

 いざ鎌倉の謡曲鉢木の佐野常世は痩せ馬の千切れた具足だったが、自分は足がつった。

 

註、謡曲『鉢木』に、

 

 「今にてもあれ鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともその具足取つて投げかけ、錆びたりとも 薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参ずべき由申しつる、言葉の末を違へずし て、参りたるこそ 神妙なれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2983). Yamatouta e books. Kindle .

 

とある。

 

 

 今朝の雪根深(ねぶか)(その)枝折(しをり)

 

 延宝の頃の句。

 雪が積もってもネギの先は雪の上に出ているので、そこが畑だというのがわかる。

 

註、才丸編延宝七年(一六七九年)刊『坂東太郎』所収。

 

 

 (アゝ)春々(はるはる)大ナル(かな)春と云々(うんぬん)

 

 延宝8年の歳旦だったか。

 賛にありそうなフレーズで、大袈裟に新年の賛と見せかけて、実は受け売りでしたと落ちにしてみた。若かったね。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 かなしまむや墨子(ぼくし)(せり)(やき)を見ても(なほ)

 

 延宝の頃の句。

 芹を鴨肉と一緒に蒸し煮にする芹焼きは、墨子さんのようなお堅い人が見たら、きっと嘆き悲しむんだろうな。

 芹は生のままでも食べられるし、鴨が可哀想だとか言って。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 花にやどり瓢箪(へうたん)(さい)(みづから)いへり

 

 まあ、これは瓢箪斎という名前を思いついたということで、どういう人物かいろいろ想像して楽しんでくれればいいけどね。

 たとえば、瓢箪は酒の入れ物になるから、これをぶら下げて旅をすれば、桜の咲いてるのを見つけてその場で酒を飲み、空になった瓢箪は打ち鳴らして楽器にする。

 また、瓢箪は()(どん)(ひん)鉄拐(てっかい)、張果老といった仙人の持つ不思議なアイテムでもある。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 花に(ゑへ)り羽織着てかたな()す女

 

上野の山のお花見はいろんな人がいて面白い。花より人を見ている方が飽きないくらいだ。

これ見よがしで盛り上がる大商人や、刀指したまま来る武家とか、酒飲んで稚児といちゃついてるお坊さんとか、この前は女が羽織着て刀差してて、チョー受けるーだね。

花の下は何でも有り。多様性万歳だ。

 

 

 二日酔ものかは花のあるあいだ

 

 延宝の頃だったか。

 若かったからね。酒に弱いのに周りの雰囲気に流されて二日酔いになって、花見の時は大体そうだね。

 まあそれも花の季節だけ、花のある若いうちだけ、生きている間だけ。

 魂はあっという間に消えて、夢も終わる。

 

 

 五月(さつき)の雨岩ひばの緑いつ迄ぞ

 

 延宝の頃の句。

 イワヒバを庭や鉢に植えるのがブームになっていて、売るといい金になるというので、岩場をよじ登って採りに行く人もいるという。

 そんなイワヒバも夏の日光による乾燥に弱く、五月雨の頃は青々としていても、水無月に枯らしてしまう人も多い。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 (くも)何と音をなにと(なく)秋の風

 

 秋になるといろんな虫が鳴くが、蜘蛛の声は知らない。

 蜘蛛だって秋風に糸を乱されるんだから、鳴いてもいいんじゃない?

 

 秋の来て風吹きたらばささがにの

    蜘蛛の巣垣の荒れまくも惜し

          蓮性法師

 

の歌がある。蜘蛛だって泣きたいだろう。

 これに千載集の、

 

 なにとなく物ぞ悲しき秋風の

    身にしむ夜半の旅の目覚めは

          仁上法師

 

の「なにとなく」に鳴くを掛けて‥‥

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 よるべをいつ一葉(ひとは)に虫の旅ねして

 

 武士でも百姓でも家督を継げない人はみんな都市に仕事を求めてやって来る。

 自分は小沢さんの所に厄介になっているが、こうした拠り所もいつどうなるかわからないのは世の常だ。

 桐の大きな葉っぱなら安心どころか、真っ先に散るのはこういう所だ。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 花むくげはだか(わらは)のかざし哉

 

 延宝の頃、裸の童がムクゲの花を持っている絵の画賛を頼まれた。

 牧童であろう。裸だから頭くらいしか挿す所がない。

 槿は昔は「あさがほ」と読んだ。

 

 君来ずは誰にみせまし我が宿の

    垣根の咲ける槿の花

          よみ人知らず

 

の歌もあり、山賤の垣根に咲く。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 夜ル(ヒソカ)ニ虫は月下の栗を穿(うが)

 

 延宝8年の名月の少しあと、十七夜だったか、夜中に月が若干暗くなったような気がする。

 虫が月の下で密かに栗を食べるように、月にも時折月食ということが起きる。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

 

 延宝8年秋の句で言水撰の東日記に取ってもらったが、最初のヒット作と言っていい。

 枯れ枝にとまったたくさんのカラスが、近寄ると一斉に飛び立って思わずハッとさせられる。

 それは死を暗示させるかのようだ。

 死はいつでも枯れ枝のカラスのように見つめている。死を忘れるな。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 愚案ずるに冥途(めいど)もかくや秋の暮

 

 延宝8年の秋、深川に移る前だった。こういう漢文書き下し文に使う言い回しを、謡曲の言葉同様共通語として用いることが模索されていた。

 春に万物を生じ秋に止む。秋という季節は元来死の暗示を強く含んでいた。枯枝に烏もこの頃の句。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 (つみ)けんや茶を(こがらし)の秋ともしらで

 

 延宝の頃の句。

 「凩の秋ともしらで茶を摘けんや」の倒置。

 茶の口切は冬の初めだが、この時期に茶を摘むわけではない。

 外では凩が茶を吹き散らそうとしているが、今は茶摘みの季節じゃないよ。

 東日記では茶摘みの句として春に分類された。

 

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

深川隠棲から天和調へ

 

 火を(たい)今宵(こよひ)は屋根の霜消さん

 

 延宝8年の冬、日本橋小田原町の小沢さんの所から、杉風(さんぷう)の用意してくれた深川の泊船堂に移る時、濁子(じょくし)の奥さんがいろいろ隠居生活に必要なものを揃えてくれた。

ならばさっそく火を焚いて、凍りついた屋根の霜を溶かすことにしよう。

 

 

 いづく(しぐれ)(かさ)を手にさげて帰る僧

 

 延宝8年の冬、日本橋小田原町から深川に引っ越して、泊船堂という庵を構えて隠棲した。

 辺りは田んぼも多く、近くに(ぶっ)(ちょう)禅師(ぜんじ)臨川(りんせん)(あん)があって、他にも幾つか寺があった。

 手に(から)(かさ)を持って歩いてる僧を見たが、どこかで時雨でも降ったのだろうか。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 小野炭や手習ふ人の灰せゝり

 

 スミと言っても京都大原のスミは燃料の方の炭で、これで字を習うといったら灰を棒でいじって書くしかないだろ。

 

註、不卜編延宝八年(一六八〇年)刊『向之岡』所収。

 

 

 しばの戸に茶をこの葉かくあらし哉

 

 延宝8年冬、日本橋から深川泊船堂へ引っ越した時の句。

 粗末な草庵の柴を編んだ戸は茶筅のようでもあり、戸口には折りからの強風で木の葉がかき集められて、まるで抹茶をかき混ぜたみたいだ。

 都を追われた杜甫の茅屋もこんなだったのだろうか。

 

註、前書きに、

「こゝのとせの春秋、市中に住侘(すみわび)て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして(こがね)なきものは行路難しと(いひ)けむ人のかしこく(おぼ)へ侍るは、この身のとぼしき(ゆゑ)にや」

とある。

 

 

 雪の朝(ひと)(から)(ざけ)(かみ)得タリ

 

 延宝8年冬、深川で隠居生活に入ったばかりの雪の積もった朝、乾鮭を煮て戻して食べたが、戻し足りなくて固かった。それでもこんな日に温かい物が食えることに感謝しなくてはいけない。これも差し入れをくれる友のおかげだ。

 富家喰肌肉、丈夫喫菜根というが乾鮭は?

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

前書きに、「富家喰肌肉、丈夫喫菜根、予乏し」とある。

 

 

 石(かれ)て水しぼめるや冬もなし

 

 「水枯れて石(しぼ)めるや」とする所だが、漱石枕流に倣って逆にしてみた。

 水が枯れて、大きく見えていた川底の石が萎んで見えるのは冬だが、その逆では冬もなし。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 餅を夢に折結(をりゆ)しだの草枕

 

 旅でも宿に泊まる金もないように乞食の旅だから、野原で歯朶(しだ)を結って餅を乗せる台だけ作って、餅は夢の中で、という場面を想像してみた。

 実際はそんなことしないだろうけどね。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 はる立や新年ふるき米五升

 

 延宝8年の冬、日本橋小田原町から深川に引っ越して、泊船堂という名の庵を構えた、その頃の句だった。

 三十七歳もあと僅か。周りを見ても大体みんなこれくらいの歳で隠居しているんで、特別早いということもない。

 この年は師走の半ばに立春が来て、正月のための米五升その他いろいろなものを門人から貰った。

 

 

 藻にすだく白魚やとらば消ぬべき

 

 江戸の隅田川の白魚漁は春の風物でもある。

 それにしても消えてしまいそうな小さな魚だ。

 人に食われなくても他の魚や鳥に食われて、結局消えてゆくんだろうな。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 盛じや花に(ソゾロ)(うき)法師(はふし)ぬめり妻

 

 延宝9年だったか、上野の山の花見は今年も賑やかで、いろんな人たちがいるかが、女連れていちゃついてる坊さんがいたりもする。

 まあ、堅いこと言うつもりはないし、花の下は何でもありだね。前にも羽織着て刀さす女の句を作ったし。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 山吹の(つゆ)菜の花のかこち顔なるや

 

 深川に隠棲した頃の春、雅俗のことを考えた。

 ネギの葉は瑞々しいのに、砥ぐのに用いる木賊(とくさ)が雅。里芋の葉は蓮の葉に似ているのに俗で、蓮の雅にはかなわない。

 貞徳や宗因の俳諧も結局連歌の雅を学ぶための道具に過ぎなかったのか。

 今の俳諧は山吹の雅を真似て菜の花がドヤ顔してるだけなのか。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

前書きに「かりきは木賊(とくさ)にしほれ、いもの葉ははすに破らる」とある。

 

 

 ばせを植てまづにくむ荻の(ふた)ば哉

 

 延宝8年の冬深川に隠棲し、翌年の春に李下から芭蕉の木を貰った。

 

 いささめに時待つ間にぞ日は経ぬる

    心ばせをば人に見えつつ

          (きの)乳母(めのと)

 

なら全然気にしてないよ。

 

 いかがするやがて枯れ行く芭蕉葉に

    心して吹く秋風もなし

         藤原(ふじわらの)為家(ためいえ)

 

 秋風というと荻の上風。

 

 

 郭公(ほととぎす)まねくか麦のむら尾花

 

 深川に隠棲した頃だったか。

 麦畑の向こうの山からホトトギスの声がする。

 麦の穂がススキのように手招きをしたのだろう。

 古今集の、

 

 秋の野の草の袂に花すすき

    ほにいでてまねく袖と見ゆらむ

          在原(ありはらの)棟梁(むねはり)

 

の歌にあるように、ススキは手招きする。

 

 

 五月雨に(つる)の足みじかくなれり

 

 五月雨で川の水かさが増すと、川に立つ鶴の足が短く見える。

 五月雨の鶴は正確にはコウノトリだが、その辺結構みんなアバウトだ。

 鶴が松の木に巣を掛けて卵を産むというが、それもコウノトリ。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 愚にくらく(いばら)をつかむ蛍哉

 

 延宝の頃の句。蛍は飛び回っては草に降りるが、間違って棘の上に降りたりしたら間抜けだな。

 まあ、本物の蛍はそんなことしないだろうけど、ここはものの例えというもので、世の中物騒で生き馬の目を抜くようにもんだから、どこに落とし穴があるかわからない。ケツは明るくても目の前は見えないものだ

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 闇夜(ヤミノヨトスゴク)きつね下ばふ(たま)()(くわ)

 

 天和の頃だったと思う。闇夜に「ヤミノヨトスゴく」とルビを振ったり極端な字余りにしたりって当時流行ってた。

 妖狐玉藻に行くかと見せて、けものへんのない瓜で落ちにしてみた。

 

註、言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収。

 

 

 夕顔(ゆふがほ)の白ク夜ルの後架に紙燭(しそく)とりて

 

 書き下し文調の字余りがはやってるんで、そのノリでただ夜中にトイレに行く句を源氏物語の夕顔の場面みたくしてみた。

 人の死に混乱してか、藤原忠平が紫宸殿に出た鬼を退治した場面を思い出して毅然と振る舞うんだが、どこか中二っぽいところが草。

 

註、千春(ちはる)編天和二年(一六八二年)刊『武蔵曲(むさしぶり)』所収。

 

 

 瓜の花(しづく)いかなる忘れ草

 

 言水がいたから延宝の頃だったか。

河野松波という人に呼ばれて集まった時、瓜の花を瓢箪に生けて、その花の雫が蔓を伝って弦のない琵琶の上に落ちることで音を鳴らすというのをやって、それで句を詠んでくれと言われた。

 弦のない琴だったら陶淵明だが。まあよくわからないが俗世の常識を忘れろということか。

 

 

 (わび)テすめ月侘(つきわび)(さい)がなら茶歌

 

 棲むに月の澄むを掛けるのは、まあお約束。

 清貧の澄んだ心を持つ侘び人なら、きっと毎日奈良茶粥を食っては歌なんか詠んでそうだ。

 その名も月侘(つきわび)(さい)

 

註、千春(ちはる)編天和二年(一六八二年)刊『武蔵曲(むさしぶり)』所収。

 

 

 

 武蔵野の月の若ばへや松島(まつしま)(ダネ)

 

 武蔵野図屏風はススキの中に地面から月が生えてきたみたいに描かれていて、同じ高さに他の花も描かれている。

 松島図屏風も水平線が敷かれ、そこから松島が生えてきたように描かれている。

 武蔵野の絵は松島の月の種がこぼれて生えてきたのだろう。

 絵で地平線や水平線を描くことってあまりない。松島と武蔵野くらいではないか。

 

 

 芭蕉野分(のわき)して盥に雨を聞夜哉

 

 延宝8年冬に深川に隠棲して、翌9年春、庭に芭蕉を植えた。

 その年の秋に台風が来て、外の芭蕉の葉を吹く風の音と盥に落ちる雨漏りの音を聞いて、杜甫の茅屋為秋風所破歌のイメージで詠んだ。

 この句のおかげで芭蕉庵の名が知られ、芭蕉さんと呼ばれるようになった。

 

註、千春(ちはる)編天和二年(一六八二年)刊『武蔵曲(むさしぶり)』所収。

 

 

 ()(こゑ)波ヲうつて(はらわた)氷ル夜やなみだ

 

 深川に隠棲して一年、庭に芭蕉を植えたことで芭蕉翁と呼ばれるようになった。

 その芭蕉庵は隅田川の傍で、昼夜構わず舟が行き交い、深夜ともなると櫓の軋む音が悲しげで断腸の思いになる。

 断腸という言葉はありきたりだから一歩すりあげて、(はらわた)(こお)るとしてみた。

 

註、千春(ちはる)編天和二年(一六八二年)刊『武蔵曲(むさしぶり)』所収。

 

 

 くれ/\て餅を木魂(こだま)のわびね哉

 

 延宝9年改め天和元年の歳暮。

 年を越すから餅をくれ餅をくれと木魂のように何度も言いながら年は暮れる、という乞食坊主の句にしてみた。

 実際は頼まなくても門人が餅を持ってきてくれるけどね。

 

 

 梅柳さぞ若衆哉女かな

 

 梅柳は「夫木抄」の、

 

 梅柳過ぐらく惜しき佐保の内に

    遊びしものを宮もとどろに

          よみ人知らず

 

の歌を思い起こすもので、いわば遊びの象徴。

 相手は若衆であれ遊女であれ、人それぞれの好みで遊ぶと良い。

 柳桜だと古今集の、

 

 見渡せば柳桜をこきまぜて

    都ぞ春の錦なりける

          素性法師

 

いずれにしても、まさにこの世の春。遊び尽くせ。

 

註、千春(ちはる)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『武蔵曲(むさしぶり)』所収。

 

 

 

 袖よごすらん田螺(たにし)(あま)(ひま)をなみ

 

33日の(じょう)()の日は大潮でもあり、潮干狩りをするし、海産物をお供えしたりもする。

海から遠い所ではそういう習慣はないが、この時期になると百姓は田んぼで泥だらけになって田螺を取ってたりする。

 

 

 (エンナル)(ヤツコ)今やう花にらうさいス

 

 上野の花見に行くとひときわ派手なのは、どこの上臈(じょうろう)なのか緋の絨毯(じゅうたん)を敷いて派手に着飾って、沢山の腰元や粋な奴たちを侍らせ、()()()で酒を飲み、ろうさい節やぬめり節を唄ってる。

 

 

 花にうき世(わが)酒白く(めし)黒し

 

 天和2年春の興行の発句。

 今まさに花見で賑わう花のお江戸も、飲む酒は水のように薄く、飯は麦が多くて黒い。

 上方の酒は精米歩合が高くて濾過しているから透き通っていても濃厚だが、江戸の酒は精米歩合が低くて茶色い。それを水のように薄めて飲む。

 憂鬱な時は酒が神になり、貧しい時は銭が神になる

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

前書きに「憂方知酒聖、貧始覚銭神」とある。

 

 

 雪のふぐ(ひだり)(かち)()無月(なづき)の鯉

 

 天和の頃だったか、晋ちゃんは別格として他にも嵐雪・杉風という優秀な門人がいた。

 杉風は鯉屋藤左衛門という魚屋で、金持ちで面倒見が良かったけど、俳諧にはちょっと毒がないとね。

 句合を書く時は左の句をまず書いて、その次に右の句を書くから、本で見る時は左が右に書かれていて、右が左に書かれている。

 これは判者が正面にいて、判者から見ての左方が右に見え、右方が左に見えると考えれば良い。

 

   左勝

 雪のふぐ

   右

 水無月の鯉

 

 鯉というと天和2年の冬に晋ちゃんの発句に、

 

   詩あきんど年を貪ル酒債哉

 冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉

 

と付けたっけ。

 晋ちゃんの酒代が払えなくなった時、ぶつぶつ言いながらも鯉屋が何とかしてくれたな。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 ゆふがほに米つきやすむ(あはれ)なり

 

 天和の頃だったか、精米作業をする労働者は夏の暑い中を一日唐臼のペダルを踏み続け、夕顔の咲く頃に仕事が終わって休んでるのを見ると、大変だなと思って句にした。

後に「昼顔に米搗き涼む」に作り直した。その方が夏の昼間の過酷さをイメージしやすい。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 わらふべし(なく)べし(わが)朝顔の(しぼむ)

 

 天和2年の秋の句。

 深川での生活は朝早く起きる規則正しい生活で、毎朝咲く朝顔がとにかく楽しみだ。

 朝に開いて昼には凋む朝顔は、白楽天の「槿花一日自為榮」の心で、短い命を精一杯生きる花だ。

 人生だって短い。笑うべし。泣くべし。

 

 

 あさがほに我は(めし)くふおとこ哉

 

 天和2年の夏に晋ちゃんが、

 

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉

 

という自己紹介のような句を作ってたからな。

 それで行くと自分は毎朝朝顔が咲くのを楽しみにしている隠居の身。

 酒も苦手だから蓼味噌はご飯のともにしたい。唐辛子入りの南蛮味噌がいいな。

 蛍は恋に焦がれる女みたいだけど、まあ、夜型だからか。

 自分は一応男ということにしておこう。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 三ヶ月や朝貌(あさがほ)の夕べつぼむらん

 

 「三日月の夕べに朝顔のつぼむらんや」の倒置。

 一日花の朝顔は蕾もまた一日で大きくなり、空に三日月が見える頃には明日咲く花がわかる。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 

 月十四日今宵(こよひ)三十九の童部(わらべ)

 

 天和2年の十四夜、江戸勤番の甲斐谷村藩の家老の家で月見の会があった。

 十五夜に一つ足りないこの夜に、不肖この私、四十路に一つ足りない童を務めさせていただきます。

 

 

 (ひげ)風ヲ(ふい)暮秋(ぼしゅう)嘆ズルハ()ガ子ゾ

 

 さて問題です。アカザの杖をついて世を嘆じたのは杜甫。では深川で無精髭生やして暮秋を嘆じているのは誰でしょう。

 連歌の式目には字余りについての規定はない。

 和歌では「あいうえお」の音が入る場合に限って許されている。

 俳諧には特に決まりはない。まあ常識の範囲内ということでやっていたが、延宝の終わりから大阪の方で伊丹流長発句とかいう極端な字余り発句が流行っていた。江戸でも字余りが流行っていた。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 

 貧山(ひんざん)(かま)霜に(なく)声寒し

 

 山海(せんがい)(きょう)の中山経十一経に豊山の記述があって、金を産出する豊かな山だが黄色い猿イエローモンキーが住み、神仙耕父という神仙の偉い人が降り立って光を放つと、それまでの国々は平伏してゆく。何かどこかの国のような。

 我が家の貧山の釜も霜が下りると飯の残りのお焦げをたたき落とす音がする。

 その豊山の鐘は霜が下りると鳴り、我が家の貧山の釜は霜が下りると悲鳴を上げる。豊山の小判はどこへ行った。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉

 

 梅翁が亡くなってその年も暮れようとしている。

 梅翁は元来旅の連歌師で、宗祇法師の「宗」の字を引き継いでいる。

 

 世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祗

 

の有名な句を宗因流の抜け風にして詠んでみた。

 時雨が突然降って来る定めない物ということで、それは人生にも喩えられてきた。

 

 雲は猶定めある世の時雨哉 心敬

 

の句は、天気の方の時雨はまだ定めある方で、人生はもっと定めないという意味。

 

 世にふるもさらに時雨の宿り哉 宗祗

 

の句は定めない旅人に軒を貸してくれる人の暖かさを見出した。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

「笠の記」という俳文もある。

 

 

 よの中は稲かる頃か草の庵

 

 深川に隠棲したら、周りにはまだ田んぼがあった。今までの日本橋の喧騒とはえらい違いだ。

 隠棲しているといろいろ物をもらったりするし、米をくれる人もいる。今年も新米の季節になった。

 俳諧は新味を命とするもので、俳諧師は世の中の流れに常にアンテナを張ってなくてはいけないから、本当に世俗に疎かったらやっていけないんだけどね。

 でも世の隠遁者というのはやはりこういうイメージなんで、米に限らず何か物を貰ったら驚いて見せるのは基本。

 「か」は疑いではなく、「かな」と同様治定(じじょう)の言葉。

 

 

 夜着(よぎ)は重し呉天に雪を見るあらん

 

 天和の頃の漢詩の言葉を取り入れた句。

 玉屑の閩僧可士送僧詩の「笠重呉天雪 鞋香楚地花」によるもので、寝る時に着る綿入れの布団が重くて、頭が寒いからと襟を引き上げて潜るように被った姿を人が見たなら、頭に雪が積もったと思うかなと思って、呉天の雪としてみた。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 氷(にが)(エン)()(ノド)をうるほせり

 

 深川に隠棲してから一年になり、芭蕉を植えてから芭蕉庵と呼ばれるようになった、

 それにしても今年の冬は寒い。夜中には水が凍ってしまい、鼠が何かを齧る音もする。

 荘子に鶺鴒巣林不過一枝、偃鼠飲河不可満腹とあるが、氷を齧る生活も分相応ということか。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 雪の中の昼顔かれぬ日影哉

 

 朝顔や夕顔は秋には枯れてしまうが、昼顔は根が生きていて冬を越す。

 雪すらもやり過ごす勇剛な花だ。

 

 

 うぐひすを(たま)にねむるか(タウ)(やなぎ)

 

 柳にも川柳のように枝の垂れない柳もあるから、普通の柳を枝垂れ柳だとか嬌(たは)柳だとか言ったりもする。

 嬌柳はどこか居眠りしてこくりこくりしているようで、きっと鶯の声を夢に聞いているのだろう。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 ほとゝぎす正月は梅の花(さけ)

 

 天和の頃の歳旦で、

 

 元日やおもへばさびし秋の暮

 ほととぎす正月は梅の花咲り

 

とやってみた。

 元日で秋の暮れやホトトギスを思い出すというつもりだったが、晋ちゃんの虚栗の撰では、前者は没になり、後者は夏の部に採用された。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 山は猫ねぶりていくや雪のひま

 

 陸奥名所句合天和中のために作った句。

 題は猫山(ねこやま)。会津にある山だというが行ったことはない。

 想像だと合図だから雪を被っているんじゃないかな。その雪が解けて地肌が見えると、それはきっと猫が舐めた跡だろう。

 

 

 戸の口に宿(やど)(ふだ)なのれほとゝぎす

 

 陸奥名所句合天和中のために作った句。題は会津の戸の口宿。

 陸奥の名所というと、寛文12年にあの磐城平藩の殿様が奥州名所百番発句合をやっていたが、その続編か。百番の方はまだ伊賀にいた頃なので参加していない。

 行ったことないけど戸の口は会津の地名だという。

 ホトトギスに名乗れというのは拾遺集(しゅういしゅう)に、

 

 あしひきの山杜鵑(ほととぎす)さとなれや

    黄昏(たそがれ)時に名乗りすらしも

          大中(おおなか)(とみの)(すけ)(ちか)

 

という歌がある。

 会津の戸の口の地名に掛けて、宿の戸口に「杜鵑様御一行」と書いておくから名乗ってくれ

 二本松街道の南側のルートで、若松から行くと猪苗代湖に出る手前の辺りになるという。

 磐城平藩の殿様は陸奥の名所を愛するのは良いが、自分の領内にそれを誘致したりして混乱する。勿来(なこそ)関も怪しいもんだ。

 

 

 ひれふりてめじかもよるや男鹿(をがの)(しま)

 

 天和の頃、陸奥名所句合というのがあって、行ったことも見たこともない出羽の男鹿島の句を詠むことになった。

 こういう時には基本的に地名に掛けて意味を持たせるもので、「おがのしま」は雄鹿を生かして雌鹿も寄ってくるという夫婦和合の目出度さにするものだ。

 男鹿だから女鹿も寄ってきて、あと一つ取り(はや)しが要るなということで()()振ると古風な感じにしてみた。

 

 

 黒森(くろもり)をなにといふともけさの雪

 

 陸奥名所句合の句。

 みちのくの黒森は雪が降っても黒々としてるというけど、今朝の雪も全部真っ白になるわけではなく、却って雪とのコントラストでいろんなものが黒く見えるね。

 

 

 ほとゝぎす今は俳諧師なき世哉

 

 天和の頃だったか、最近のホトトギスの句は悲しい故事に結びつけてものが多く、笑えるものが少ないように思って、何となく作ってみた。

かくいう自分はというと、

 

 ほととぎす正月は梅の花咲り

 

 あまり笑えないか。

 

 

 はりぬきの猫もしる也今朝の秋

 

 今朝見ると張子の猫の首が風に揺れていた。秋風の季節なんだな。

 

 秋きぬと目にはさやかに見えねども

    風の音にぞ驚かれぬる

 

と藤原敏行朝臣の歌もあったっけ。

 風は見えないが吹かれてるものは見える。

 えっ、これって猫じゃなくて虎だって?

 

 

 声すみて北斗にひゞく(きぬた)

 

 天和の頃だったか。和漢朗詠集の劉元叔の詩句、

 

北斗星前横旅雁 南楼月下擣寒衣

(北斗の星の前に旅雁横たはり、南楼の月の下には寒衣を擣つ)

 

の趣向を発句にしてみた。

 南楼、月、雁といった景物を省いて、砧の響きを夜空に際立たせてみた。

天和の頃だったか。

 

 

 元日やおもへばさびし秋の暮

 

 歳旦の句で、過去の寂しさから逆説的に正月の目出度さを言い表してみた。

 元日の歳旦の発句は俳諧師の義務のようなものだけど、毎年作っているから毎度ネタに困るものだ。

 今回は奇を衒って、秋の暮れの寂しさに正月の目出度さを対比してみた。

 (たが)付けの応用で、時間を違えることで季移りさせるのは、付句ではよく用いられる。

 

 

 ほとゝぎす正月は梅の花(さけ)

 

 天和の頃の歳旦に同じ発想で、

 

 元日やおもへばさびし秋の暮

 ほととぎす正月は梅の花咲り

 

とやってみたが、晋ちゃんの虚栗の撰で前者は没になり、後者は夏の部に採用された。

 元日で秋の暮れやホトトギスを思い出すというつもりだったが、晋ちゃんの虚栗の撰では、前者は没になり、後者は夏の部に採用された。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 

 清く(きか)ン耳に香焼(かうタイ)郭公(ほととぎす)

 

 天和2年の句。天和3年の晋ちゃんの(みなし)(ぐり)に採用された。

 聞香というのはじっと耳を澄ますかのように香を鑑賞することだが、そうやって耳に香を焚き付けるとホトトギスの声もよく聞こえるようになるのかなあ。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 青ざしや草餅の穂に(いで)つらん

 

 端午の節句に青ざしという、まだ青い麦の穂の菓子があるが、これは上巳(じょうし)の草餅が育って穂になったのだろうか。

 青ざしは枕草子にも出てきて、「ませ越し」にと言って献上する場面がある。

 

 ませ越しに麦はむ駒のはつはつに

    及ばぬ恋も我はするかな

 

という詠み人知らずの歌だね。馬が食いそうだ。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 (クハノミ)や花なき蝶の世すて酒

 

 天和の大火で焼け出される前だったかもしれない。その時たまたま桑椹酒というのを飲ませてもらった。

 桑の実を磨り潰した原液に酒を加えて燗にして飲む。

 あの頃は深川に隠居して、ちょっと杜甫の茅舎など、中国の隠士を気取ってたな。

 

註、()(かく)天和(てんな)二年(一六八二年)刊『(みなし)(ぐり)』所収。

 

 

 馬ぼく/\我をゑにみる夏野哉

 

 天和3年の夏、甲斐谷村藩家老の高山伝右衛門の誘いで、しばらく甲州谷村の滞在することになった、梅翁亡き後、一所不住の旅への思いはあったが、短い旅とはいえその夢がかなった。

 乗掛け馬でぼくぼく進む姿は、傍から見たら杜甫騎驢図(とほきろず)みたいに見えるかな。

 最初は、

 

()()遅行(ちこう)我を絵に見る心かな

 

だった。

 

 

 あられきくやこの身はもとのふる(がしは)

 

 去年の暮の大火で泊船堂も燃えてしまったが、素堂が率先して多くの人の寄付を集めてくれて、この冬ようやく再建された。

 芭蕉の葉は秋風に破れたが、柏の葉は冬でも落ちない。霰が降っても大丈夫。

 

 

 発句也(ほっくなり)松尾桃青宿(やど)の春

 

 どうも、芭蕉庵の庵主の松尾桃青です。

 延宝8年の冬に深川の泊船堂に隠棲しましたが、翌延宝9年の春に李下から芭蕉の株を頂きまして、以後芭蕉庵と呼ばれるようになりました。

 千春(ちはる)撰の武蔵曲(むさしぶり)から芭蕉という名で選集に載るようになりまして、短冊色紙などのサインも芭蕉と書いてます。

 

 

 (のり)(じる)の手ぎは見せけり浅黄(あさぎ)(わん)

 

 天和の頃、浅草の千里(ちり)の家を訪ねた時の句。

 浅草といえば浅草海苔で作った海苔汁。それを漆塗りできらびやかな絵の入った浅黄椀に注ぐ。

 海苔汁が真っ暗だ地味なだけに、この取り合わせは面白い。まるで抹茶を飲んでるみたいだ。

 結構なお手前。

 

 

 るすにきて梅さへよそのかきほかな

 

 まだ天和4年で貞享に改暦する前だったか。浅草へ行った時だった。

 主人が留守で年寄り一人留守番していて、梅が見事だったから主人のことを褒めたら隣の梅だった。

 まあ、隣の梅というのも、

 

 梢をばよそに隔てて梅の花

    霞むかたより匂ふ春風

          二条(にじょう)(ため)()

 

の歌もあって、また風流なものだ。

 ちょっと「徒然草(つれづれぐさ)」みたいなのを書いてみたかった。

 

 

 蝶よ/\唐土のはいかい問む

 

 荘子像を描いてそれに添えた句。

 荘周が夢で胡蝶になったという胡蝶の夢の話から、そこいらを飛んでる蝶もひょっとしたら荘周なのかもと思い、だったら昔の中国の俳諧のことも聞いてみたいな、と思った。

 荘子の文章はそれくらい俳味がある。

 唐土(もろこし)にも「韻学大成」に鄭綮詩語多俳諧と記され、戯れて作れる詩を俳諧と呼んでいた。

詩の形を取らなくても荘子は俳諧だし、俳諧は人類普遍なんではないかと思う。

 唐土の「滑稽」という言葉も俳諧と同様のものだという。

 滑稽は詩歌に限らず、弁舌や舞や踊りなども含めて広く人を楽しませたり社会を風刺したりするもので、本朝では俳優(わざをぎ)という言葉もある。

 その意味では荘周は俳諧で俳優(わざをぎ)と言っても良いのかもしれない。

 あと白楽天という謡曲にあるように、日本の魚翁が唐土からやってきた白楽天に問答を挑む、そういう場面も想像するといいかも。

 

 

 奈良七重(ななへ)七堂(しちどう)伽藍(がらん)八重ざくら

 

 これ、

 

 奈良の京や七堂(しちどう)伽藍(がらん)八重桜 元好(もとよし)

 

じゃないのかな。元好は磐城平藩の殿様の六百番俳諧発句合で対戦したことがある。

 誰が勝手に変えたか知らないが、確かにこの方が語呂が良い。

 

 

 世にさかる花にも念仏(ねぶつ)申しけり

 

 有り難い物を見ると何でも念仏唱える人っているけど、花の盛りにも念仏唱えるのかな。

まあ、壬生念仏は春だけど。

 

 

 (しら)芥子(げし)時雨(しぐれ)の花の(さき)つらん

 

 ケシは一日花なので咲いてはすぐに散ってゆく。

 まるで時雨のようだ。

 

 

 忘れずば小夜(さよ)の中山にて涼め

 

 貞享元年6月、江戸に来ていた伊勢の松葉屋(まつばや)風瀑(ふうばく)が伊勢へ帰るというので、これはその餞別の句。

 自分も延宝4年の夏に伊賀に帰る時に小夜の中山を越える時暑くて、

 

 命なりわづかの笠の下涼み

 

の句を詠んだことがあった。暑さには気をつけて。

 

 

 南無ほとけ草のうてなも涼しかれ

 

 文麟(ぶんりん)から出山(しゅっせん)釈迦像(しゃかぞう)をもらった

 出山釈迦像は苦行では悟りを得られないと知ったお釈迦様が、裸足で杖を突きながら山を降りる姿のもので、まだ蓮台には乗ってない。

 苦行は煩悩を落とすのには役に立っても、悟りはまた別物。

 俳諧も、師匠のもとでただ修行に励むだけでは駄目で、旅に出て自分で探すことも必要と、今はその段階か。

 旅姿には山道の草の上が似合うかな。

 

 

 松風の落葉か水の音涼し

 

 秋の松風の音は悲しげだが、夏の松風は涼しげだ。

 松風も清流もさわさわさわさわ‥

 松の落ち葉は夏の季語になる。落葉しない松は夏の成長期に古い葉を落とす。

 静かに散る落ち葉も水の音があれば秋の松風のように凄まじい。

 

 

 わが宿は四角な影を窓の月

 

 貞享元年だったか、一昨年の暮の大火で去年はまだみんな月見どころではなかったし、今年はようやく落ち着いて、少人数のささやかなものではあるが月見会ができた。

 

 深川の新しい芭蕉庵も、周りはまだ木もなく部屋の中も物はなく、窓から射す月の光はただ窓の形通りの四角い影を落とすのみだ。