「あれあれて」の巻、解説

元禄七七月廿八日夜猿雖亭

初表

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

   靍の頭を上る粟の穂     芭蕉

 朝月夜駕籠に漸追付て      配刀

   ちやの煙たる暖簾の皺    望翠

 かつたりと枴をおろす雑水取   土芳

   きうくつそうに袴鳴なり   卓袋

 

初裏

 燭台の小き家にかがやきて    芭蕉

   名ぬしと地下と立分る判   猿雖

 焼めしをわりても中のつめたくて 望翠

   おもひ窟て出ぬくらがり   土芳

 頃日は扇子の要仕習ひし     卓袋

   湖水の面月を見渡す     木白

 わき指の小尻の露をぬぐふ也   配刀

   相撲にまけて云事もなし   猿雖

 山陰は山伏村の一かまへ     芭蕉

   崩れかかりて軒の蜂の巣   卓袋

 焼さして柴取に行庭の花     土芳

   こへかき廻す春の風筋    芭蕉

 

二表

 坪割の川よけの石積あげて    望翠

   日なた日なたに虱とり合   木白

 大名の供の長さの果もなき    配刀

   向のかかのおこる血の道   猿雖

 一升は代を持て来ぬ酒の粕    芭蕉

   たらゐの底に霰かたよる   望翠

 燈に革屋細工の夜はふけて    土芳

   鼬の声の棚本の先      配刀

 箒木は蒔ぬにはへて茂る也    芭蕉

   干帷子のしめる三日月    猿雖

 神主は御供を持て上らるる    望翠

   暫く岸に休む筏士      卓袋

 

二裏

 衣着て旅する心静也       芭蕉

   加太へはいる関のわかれど  土芳

 耳すねをそがるる様に横しぶき  猿雖

   行儀のわるき雇ひ六尺    望翠

 大ぶりな蛸引あぐる花の陰    配刀

   米の調子のたるむ二月    木白

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

   

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

 

 元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。

 今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。

 

 木枯の果てはありけり海の音   言水

 

のような感覚だったのか。もっともこの句の「海」は実は琵琶湖のことだったのだが。

 この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、

 

 「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。

 〇をりをりや雨戸にさはる荻の声

   放すところにをらぬ松虫

 〇荒れ荒れて末は海行く野分かな

   鶴の頭をあぐる粟の穂

 鶴は常体之気しきに落可申候哉。」

 

とある。

 伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。

 「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。

 一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。

 ここでは後者を用いることにする。

 発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。

 

季語は「野分」で秋。「海」は水辺。

 

 

   あれあれて末は海行野分哉

 靍の頭を上る粟の穂       芭蕉

 (あれあれて末は海行野分哉靍の頭を上る粟の穂)

 

 芭蕉の粟の発句は二句ある。

 

 よき家や雀よろこぶ背戸の秋   芭蕉

 粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉

 

 「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。

 

 七月やまづ粟の穂に秋の風    許六

 

の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。

 鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。

 去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。

 

季語は「粟の穂」で秋、植物(草類)。「靍」は鳥類。

 

第三

 

   靍の頭を上る粟の穂

 朝月夜駕籠に漸追付て      配刀

 (朝月夜駕籠に漸追付て靍の頭を上る粟の穂)

 

 配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。

 鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。

 

季語は「朝月夜」で秋、天象。旅体。

 

四句目

 

   朝月夜駕籠に漸追付て

 ちやの煙たる暖簾の皺      望翠

 (朝月夜駕籠に漸追付てちやの煙たる暖簾の皺)

 

 駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。

 

無季。

 

五句目

 

   ちやの煙たる暖簾の皺

 かつたりと枴をおろす雑水取   土芳

 (かつたりと枴をおろす雑水取ちやの煙たる暖簾の皺)

 

 「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、

 

 「物を荷う棒、天秤棒。」

 

とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。

 『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。

 雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。

 

無季。「雑水取」は人倫。

 

六句目

 

   かつたりと枴をおろす雑水取

 きうくつそうに袴鳴なり     卓袋

 (かつたりと枴をおろす雑水取きうくつそうに袴鳴なり)

 

 雑炊取は袴を履いていたようだ。

 

無季。「袴」は衣裳。

初裏

七句目

 

   きうくつそうに袴鳴なり

 燭台の小き家にかがやきて    芭蕉

 (燭台の小き家にかがやきてきうくつそうに袴鳴なり)

 

 蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。

 

無季、「家」は居所。

 

八句目

 

   燭台の小き家にかがやきて

 名ぬしと地下と立分る判     猿雖

 (燭台の小き家にかがやきて名ぬしと地下と立分る判)

 

 『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。

 「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」

 

 これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。

 町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」

 

とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)

 「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」

 

とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。

 地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。

 余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、

 

 「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」

 

とある。

 湖春はウィキペディアによれば、

 

 「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」

 

とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。

 

無季。「燭台」は夜分。「名ぬし」「地下」は人倫。

 

九句目

 

   名ぬしと地下と立分る判

 焼めしをわりても中のつめたくて 望翠

 (焼めしをわりても中のつめたくて名ぬしと地下と立分る判)

 

 「焼めし」というと桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』に、

 

 焼飯に青山椒を力かな      桃隣

 

の句もある。兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。

 携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。

 この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。

 

無季。

 

十句目

 

   焼めしをわりても中のつめたくて

 おもひ窟て出ぬくらがり     土芳

 (焼めしをわりても中のつめたくておもひ窟て出ぬくらがり)

 

 『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。

 

   焼めしをわりても中のつめたくて

 おもひ初より出ぬくらがり

 

であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。

 焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。

 

   焼めしをわりても中のつめたくて

 おもひ有より出ぬくらがり

 

も似たような意味になる。

 これが、

 

   焼めしをわりても中のつめたくて

 おもひ屈して出ぬくらがり

 

となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。

 最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   おもひ窟て出ぬくらがり

 頃日は扇子の要仕習ひし     卓袋

 (頃日は扇子の要仕習ひしおもひ窟て出ぬくらがり)

 

 「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。

 ※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」

  ② 学んで自分のものにする。修行する。

 ※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」

 

となる。

 「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。

 

無季。

 

十二句目

 

   頃日は扇子の要仕習ひし

 湖水の面月を見渡す       木白

 (頃日は扇子の要仕習ひし湖水の面月を見渡す

 

 ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。

 湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。

 あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、

 

 「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」

 

とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「湖水」は水辺。

 

十三句目

 

   湖水の面月を見渡す

 わき指の小尻の露をぬぐふ也   配刀

 (わき指の小尻の露をぬぐふ也湖水の面月を見渡す)

 

 『芭蕉門古人真蹟』は小尻のところが「こじろ」となっていて、「ろ」を消して右に「り」と書いてある。「こじろ」では意味がわからないので、単なる書き間違いか、伊賀では訛ってそう言ってたのかであろう。小尻は刀の鞘の先端で、金具が付いている。

 脇差は武士でなくても持つことができた。『続猿蓑』の「八九間」の巻の九句目に、

 

   孫が跡とる祖父の借銭

 脇指に替てほしがる旅刀     芭蕉

 

とあるが、旅をする時に旅刀ではなく脇差をもつこともあり、「道中差」と呼ばれた。

 湖の月を見ているこの人もおそらく旅人であろう。ひんやりとした夜風に脇差の鞘の先端の金具に露が降りる。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十四句目

 

   わき指の小尻の露をぬぐふ也

 相撲にまけて云事もなし     猿雖

 (わき指の小尻の露をぬぐふ也相撲にまけて云事もなし)

 

 相撲に刀は付き物だったのだろう。『奥の細道』の山中温泉での三吟の四句目にも、

 

   月よしと角力に袴踏ぬぎて

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

 

とある。判定をめぐってトラブルになれば、脇差を抜くこともあったのだろう。ただ、完敗となれば刀を抜くこともできず、小尻の露を拭うだけ。どこか涙を思わせる。

 今でも相撲の行司は脇差を持っている。差し違えをしたときに切腹するためだといわれているが、最初は喧嘩になった時のために持っていたのではないかと思う。審判に食って掛かるやつは他のスポーツでは普通に見られるし。

 

季語は「相撲」で秋。

 

十五句目

 

   相撲にまけて云事もなし

 山陰は山伏村の一かまへ     芭蕉

 (山陰は山伏村の一かまへ相撲にまけて云事もなし)

 

 山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。

 山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、

 

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮

 中にもせいの高き山伏      芭蕉

 

の句がある。

 

無季。「山陰」は山類。

 

十六句目

 

   山陰は山伏村の一かまへ

 崩れかかりて軒の蜂の巣     卓袋

 (山陰は山伏村の一かまへ崩れかかりて軒の蜂の巣)

 

 その山伏村は荒れ果てて軒には蜂の巣がそのままになっている。

 

季語は「蜂の巣」で春、虫類。「軒」は居所。

 

十七句目

 

   崩れかかりて軒の蜂の巣

 焼さして柴取に行庭の花     土芳

 (焼さして柴取に行庭の花崩れかかりて軒の蜂の巣)

 

 『芭蕉門古人真蹟』は「花盛真柴をはこぶ」と書いて、「花盛」を消して右に「焼(たき)さして」と書き、「焼さして真柴をはこぶ花」とまで書いて、「花」を消して下に庭の花とし、「真」と「をはこぶ」を消して右に「取に行」とする。

 複雑だが、

 

 花盛真柴をはこぶ

 焼さして真柴をはこぶ花

 焼さして真柴をはこぶ庭の花

 焼さして柴取に行庭の花

 

の順だったと思われる。

 花の定座なので最初に「花盛」とし、荒れた家に「真柴をはこぶ」と付けたが後が続かず、花を後に持ってきて「焼(たき)さして」の上五を置いたのだろう。

 火をつけようとして真柴をはこぶという意味で、崩れかかった家の生活感を描き出す。そしてそこに花ということで、おそらく花盛り、花の庭などと考えて「庭の花」に落ち着いたのだろう。

 「焼さして真柴をはこぶ庭の花」でも良さそうなものだが、「真柴をはこぶ」の四三のリズムが今ひとつだったか、最終的に「焼さして柴取に行庭の花」で治定ということになる。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「庭」は居所。

 

十八句目

 

   焼さして柴取に行庭の花

 こへかき廻す春の風筋      芭蕉

 (焼さして柴取に行庭の花こへかき廻す春の風筋)

 

 花に春風は付き物で、前句が田舎の景色ということで糞(こへ)の匂いを付ける。

 『炭俵』の「むめがかに」の巻の十九句目にも、

 

   門で押るる壬生の念仏

 東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉

 

の句がある。

 

 十八句目の句は『芭蕉門古人真蹟』では最初、

 

   焼さして柴取に行庭の花

 柳につなぐ馬の片口       木白

 

になって、差し替えられている。

 「片口(かたくち)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「馬の口取り縄を、左または右の片方だけ引くこと。⇔諸口(もろくち)。

 「或(ある)は諸口に引くもあり、或は―に引かせ」〈長門本平家・一六〉」

 

とある。

 悪い句とは思えない。ただ、桜に柳と目出度く仕上げているあたり、ひょっとしたらこれは半歌仙の挙句だったのかもしれない。予定を変更してもっと続けようとなって、芭蕉が付けなおしたか。

 

季語は「春」で春。

二表

十九句目

 

   こへかき廻す春の風筋

 坪割の川よけの石積あげて    望翠

 (坪割の川よけの石積あげてこへかき廻す春の風筋)

 

 「川よけ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「堤防など、河川の氾濫防止施設。また、その施設を造ること。」

 

とある。

 堤防にするための石を土地の坪数ごとに割り振って積み上げてある状態であろう。

 川は風の通り道になることが多い。川にきちんと堤防を築かないと、氾濫した川に肥が流れ出して大変なことになる。

 

無季。「川よけ」は水辺。

 

二十句目

 

   坪割の川よけの石積あげて

 日なた日なたに虱とり合     木白

 (坪割の川よけの石積あげて日なた日なたに虱とり合)

 

 川除普請のためにかき集められた人足たちだろうか。

 

 夏衣いまだ虱をとりつくさず   芭蕉

 

の句もあるように、昔の人は虱と共存しているようなものだった。ありふれた光景だったのだろう。

 

季語は「虱」で夏、虫類。

 

二十一句目

 

   日なた日なたに虱とり合

 大名の供の長さの果もなき    配刀

 (大名の供の長さの果もなき日なた日なたに虱とり合)

 

 大名行列も時々休憩したりしたのだろう。道中では虱に悩まされることも多かった。

 

無季。「大名」「供」は人倫。

 

二十二句目

 

   大名の供の長さの果もなき

 向のかかのおこる血の道     猿雖

 (大名の供の長さの果もなき向のかかのおこる血の道)

 

 「血の道」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「月経すなわち婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時、月経前、月経後、妊娠時、分娩(ぶんべん)後(産褥(さんじょく)時)、流産後、妊娠中絶後、避妊手術後、更年期の血の道症に分けられる。症状としては、のぼせ、顔面紅潮、身体灼熱(しゃくねつ)感、冷え、めまい、耳鳴り、肩こり、頭痛、動悸(どうき)、発汗、興奮、不眠、月経不順、不正出血、肝斑(かんはん)、しびれ、脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症ということができる。[矢数圭堂]」

 

とある。

 大名行列見物は庶民の娯楽でもあり、徳川御三家以外は特に道にひれ伏す必要もなかったという。

 ただ、長く見物していると、途中で具合の悪くなることもある。更年期のおばさんにとっては「はてのなき血の道」となることも。

 前句の「はてもなき」を「道」で受ける、一種のうけてにはといってもいいだろう。

 

無季。「かか」は人倫。

 

二十三句目

 

   向のかかのおこる血の道

 一升は代を持て来ぬ酒の粕    芭蕉

 (一升は代を持て来ぬ酒の粕向のかかのおこる血の道)

 

 『芭蕉門古人真蹟』では最初「一升は代を置て来ぬ酒の粕」として、その「置」を消して「持」と右に書いている。「来ぬ」も消してあるがふたたび「来ぬ」右に書いている。

 「置」だと「だいをおきてこぬ」で字余りになるから、それを嫌ったのだろう。只酒かと思わせて、実は酒粕だった、それなら只でもおかしくないと落ちにする。

 一升もの酒粕を何にするのかというと、多分向かいの更年期のおばばが粕漬けでも作るのだろう。

 

季語は「酒の粕」で冬。

 

二十四句目

 

   一升は代を持て来ぬ酒の粕

 たらゐの底に霰かたよる     望翠

 (一升は代を持て来ぬ酒の粕たらゐの底に霰かたよる)

 

 酒一升を盥で飲めば、底の隅に酒粕が残る。それを霰に喩えたか。前句を只酒に取り成す。

 

季語は「霰」で冬、降物。

 

二十五句目

 

   たらゐの底に霰かたよる

 燈に革屋細工の夜はふけて    土芳

 (燈に革屋細工の夜はふけてたらゐの底に霰かたよる)

 

 「燈」は「ともしび」。革屋細工は穢多だろうか。火を灯して夜通し作業をしていると、霰が降ったのか盥の底に霰が風で一方の方に吹き寄せられている。

 

無季。「燈」「夜はふけて」は夜分。

 

二十六句目

 

   燈に革屋細工の夜はふけて

 鼬の声の棚本の先        配刀

 (燈に革屋細工の夜はふけて鼬の声の棚本の先)

 

 「棚本(たなもと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 台所。勝手元。流し元。また、そこでする仕事をいう。

 ※咄本・醒睡笑(1628)八「朝食をいそぎ用意し、〈略〉棚(タナ)もとその外掃除をきれいにして置きたり」

 

とある。

 鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。

 皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いている。

 

無季。「鼬」は獣類。

 

二十七句目

 

   鼬の声の棚本の先

 箒木は蒔ぬにはへて茂る也    芭蕉

 (箒木は蒔ぬにはへて茂る也鼬の声の棚本の先)

 

 箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」

 

とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。

 外来の植物だが零れ種から自生することもある。

 イタチの毛皮も役に立つし、自生のホウキギも役に立つ。役に立つつながりの響きで付けている。

 

季語は「茂る」で夏。「箒木」は植物(木類)。

 

二十八句目

 

   箒木は蒔ぬにはへて茂る也

 干帷子のしめる三日月      猿雖

 (箒木は蒔ぬにはへて茂る也干帷子のしめる三日月)

 

 帷子(かたびら)は夏に着る単衣の着物。

 帷子を干していると夕立が来て濡れてしまい、それが去ると夕暮れの空に三日月が浮かぶ。箒木の茂る頃の情景とした。

 

季語は「帷子」で夏、衣裳。「三日月」は夜分、天象。

 

二十九句目

 

   干帷子のしめる三日月

 神主は御供を持て上らるる    望翠

 (神主は御供を持て上らるる干帷子のしめる三日月)

 

 「御供(ごくう)」はお供え物のこと。朝夕に行われる。

 

無季。神祇。

 

三十句目

 

   神主は御供を持て上らるる

 暫く岸に休む筏士        卓袋

 (神主は御供を持て上らるる暫く岸に休む筏士)

 

 「筏士(いかだし)」は筏師とも書く。ウィキペディアには、

 

 「筏師(いかだし)とは、山で切り出した材木で筏を組み、河川で筏下しをすることによって運搬に従事することを業としていた者。筏夫(いかだふ)・筏乗(いかだのり)・筏士(いかだし)とも。」

 

とある。

 

 大井川いはなみたかし筏士よ

     岸の紅葉にあから目なせそ

             源経信(金葉集)

 筏士よ待て言問はむ水上は

     いかばかり吹く山の嵐ぞ

             藤原資宗朝臣(新古今集)

 

など、歌にも詠まれている。

 神主が朝夕のお供えを運ぶころには、筏士は休憩の時間になる。向え付け。

 

無季。「岸」は水辺。「筏士」は人倫、水辺。

二裏

三十一句目

 

   暫く岸に休む筏士

 衣着て旅する心静也       芭蕉

 (衣着て旅する心静也暫く岸に休む筏士)

 

 「衣(ころも)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①衣服。

 出典万葉集 二八

 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)のころも干(ほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)」

 [訳] ⇒はるすぎてなつきたるらし…。

  ②僧の着る衣服。僧衣。

 参考平安時代以後、①は歌語としてだけ用いられ、衣服一般には「きぬ(衣)」、その尊敬語には「おんぞ(御衣)」を使った。物語の地の文などで「ころも」と読むのは、もっぱら②の意味である。」

 

とある。

 ただ、「ころもがえ」や「たびごろも」「なつごろも」という時は別に僧衣ではないし、和歌の言葉は俳諧にも引き継がれているから、僧衣でなくても「ころも」を使うのは珍しくない。

 ただ、芭蕉が『奥の細道』の旅で詠んだ『奥の細道』未収録の、

 

   種(いろ)の浜

 衣着て小貝拾はんいろの月    芭蕉『荊口句帳』

 

のように単独で用いられると、何の衣かと言ったときには多分僧衣なのだろう。

 

 汐そむるますほの小貝拾ふとて

     色の浜とはいふにやあるらむ

               西行法師

 

の歌に因んだものとなれば、西行法師のように僧衣を着てというふうに取れる。

 まあ、旅をする時には僧形になる場合も多いから旅衣も僧衣の場合が多い。芭蕉も『野ざらし紀行』の伊勢の所で、

 

 「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」

 

とあるし、『奥の細道』でも曾良を紹介する時、

 

 「このたび松しま・象潟(きさかた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且つは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁(たびだつあかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。」

 

とある。

 この場合も、僧形で旅する心静也という意味でいいのだろう。仕事で急ぐ人と違い僧形の気ままな旅なら、筏がなかなか出なくてもいらいらしない、というところか。

 

無季。旅体。「衣」は衣裳。

 

三十二句目

 

   衣着て旅する心静也

 加太へはいる関のわかれど    土芳

 (衣着て旅する心静也加太へはいる関のわかれど)

 

 『芭蕉門古人真蹟』では最初上五が「伊賀路に」とあり、消して右に「加太へ」と書いてある。

 江戸時代の東海道は関宿を出ると鈴鹿川を北上し、鈴鹿峠を越えて甲賀へと抜ける。ここを加太川(かぶとがわ)に沿ってゆくと伊賀へ抜ける。芭蕉にとっても伊賀の連衆にとってもお馴染みの道に違いない。

 前句の旅人を芭蕉さんとして東海道を普通に行かずに伊賀に立ち寄るとしたのだろう。楽屋落ちとも言える。

 ただ、「伊賀路」だとその作意が露骨なので、途中の地名の「加太」にしたのではないかと思う。

 

無季。旅体。

 

三十三句目

 

   加太へはいる関のわかれど

 耳すねをそがるる様に横しぶき  猿雖

 (耳すねをそがるる様に横しぶき加太へはいる関のわかれど)

 

 「耳すね」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「耳のずい」とある。これでもよくわからない。耳たぶのことのようだが断定できないということか。

 「横しぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「横なぐりに降る雨のしぶき。」

 

とある。山中での悪天候に難儀する旅人を付ける。

 

 苦しくも降り来る雨か神(みわ)が崎

     狭野(さの)の渡りに家もあらなくに

               長忌寸奥麿(万葉集)

 

の歌を髣髴させる。この歌は、

 

 駒とめて袖打ち払ふ陰もなし

     佐野のわたりの雪の夕暮れ

               藤原定家朝臣(新古今集)

 

の本歌ということで、本歌取りの例として受験勉強で覚えさせられた人も多いことだろう。佐野は和歌山県新宮市の熊野路の佐野で、栃木県の佐野ではない。

 

無季。

 

三十四句目

 

   耳すねをそがるる様に横しぶき

 行儀のわるき雇ひ六尺      望翠

 (耳すねをそがるる様に横しぶき行儀のわるき雇ひ六尺)

 

 「六尺」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「陸尺とも記。江戸時代,武家における駕籠(かご)かき,掃除夫,賄(まかない)方などの雑用に従う人夫をいった。江戸城における六尺は奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など数百人に及び,彼らに支給するため天領から徴集した米を六尺給米といった。頭を除いてはいずれも御目見以下,二半場(にはんば),白衣勤,15俵1人扶持高であった。」

 

とある。ここでは武家のお抱えの駕籠かきのことか。

 「行儀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①なすべきこと。手本とすべき規範。

  ②立ち居振る舞い。また、その作法。」

 

とある。今日の「行儀が悪い」よりはやや広い意味で用いられていたか。

 多分、風雨が強いのにいきなり駕籠の引き戸を開けたりしたのだろう。そんなことしたら雨が吹き込んでびしょぬれになる。

 

無季。「六尺」は人倫。

 

三十五句目

 

   行儀のわるき雇ひ六尺

 大ぶりな蛸引あぐる花の陰    配刀

 (大ぶりな蛸引あぐる花の陰行儀のわるき雇ひ六尺)

 

 『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、

 

   行儀のわるき雇ひ六尺

 花盛湯の呑度をこらへかね

 

だった。「呑度」は「のむたび」か。お湯を飲んでばかりいるということか。前句の「行儀のわるき」をそのまま付けたのだろう。打越も六尺の無調法なので、展開に乏しい。芭蕉としてはここは普段無調法の六尺も花の席で手柄を立てたというほうに持ってきたかったのだろう。

 行儀のわるい人が急に行儀良くしても面白くないから、ここはそういう人だけ突拍子もないことをする、という方に持ってゆく。

 場所は明石だろうか。花見の席で蛸壺を引き上げると、大ぶりな蛸がそこに。これは目出度い。「六尺」には「賄(まかない)方」の意味もあったから、これをその場で捌いてご馳走してくれたのだろう。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「蛸」は水辺。

 

挙句

 

   大ぶりな蛸引あぐる花の陰

 米の調子のたるむ二月      木白

 (大ぶりな蛸引あぐる花の陰米の調子のたるむ二月)

 

 『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、

 

   大ぶりな蛸引あぐる花の陰

 戸を押明けてはいる朧夜

 

だった。「夜」の右に「の暮」と書いてあるが、「朧の暮」「春の暮」にしようとしたか。いずれにせよ字数が合わない。結局全部消して「米の調子」の句に治定する。

 二月は米の相場も薄商いなのか。年貢米も集まり田植もまだという所で、相場があまり動かなかったのだろう。田植が始まればにわかに先物相場が活気付きそうだが。

 

季語は「二月」で春。

 

 八月九日付けの去来宛書簡に「しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」とあるところからすると、最後の付けなおした二句は実質的に芭蕉の句だったのだろう。大タコも米相場もなかなか凡人の発想では出てこない。

 ここでも木白が挙句を詠んでいるところを見ると、木白は主筆だったのだろう。そう見るとやはり十八句目の初案は半歌仙の挙句だったか。

 そうなると十二句目の、

 

   頃日は扇子の要仕習ひし

 湖水の面月を見渡す       木白

 

の句は、みんなが付けあぐねている時に芭蕉が木白にも振ってみて、この句ができたら「これだ」と思って治定したか。

 多分木白は普通に景を付けただけだったのだろう。ただ芭蕉はすぐに近江の国の高島扇骨のことが閃いたか。

 十七句目の花の定座の時が特にそうだが、土芳も芭蕉の新しい風についていけずに苦戦していた感じが伝わってくる。