「詩あきんど」の巻、解説

天和二年師走

初表

   酒債尋常住処有

   人生七十古来稀

 詩あきんど年を貪ル酒債哉    其角

   冬-湖日暮て駕馬鯉        芭蕉

 干鈍き夷に関をゆるすらん    芭蕉

   三線○人の鬼を泣しむ     其角

 月は袖こほろぎ睡る膝のうへに  其角

   鴫の羽しばる夜深き也    芭蕉

 

初裏

 恥しらぬ僧を笑ふか草薄     芭蕉

   しぐれ山崎傘を舞      其角

 笹竹のどてらを藍に染なして   芭蕉

   狩場の雲に若殿を恋     其角

 一の姫里の庄家に養はれ     芭蕉

   鼾名にたつと云題を責けり  其角

 ほととぎす怨の霊と啼かへり   芭蕉

   うき世に泥む寒食の痩    其角

 沓は花貧重し笠はさん俵     芭蕉

   芭蕉あるじの蝶丁見よ    其角

 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉

   鰥々として寝ぬ夜ねぬ月   其角

 

 

二表

 婿入の近づくままに初砧     其角

   たたかひやんで葛うらみなし 芭蕉

 嘲リニ黄-金ハ鋳小紫         其角

   黒鯛くろしおとく女が乳   芭蕉

 枯藻髪栄螺の角を巻折らん    其角

   魔-神を使トス荒海の崎      芭蕉

 鉄の弓取猛き世に出よ      其角

   虎懐に妊るあかつき     芭蕉

 山寒く四-睡の床をふくあらし     其角

   うづみ火消て指の灯     芭蕉

 下司后朝をねたみ月を閉     其角

   西瓜を綾に包ムあやにく   其角

 

二裏

 哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん 芭蕉

   みちのくの夷しらぬ石臼   其角

 武士の鎧の丸寝まくらかす    芭蕉

   八声の駒の雪を告つつ    其角

 詩あきんど花を貪ル酒債哉    其角

   春-湖日暮て駕興吟        芭蕉

     参考;『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)

     『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)

初表

発句

   酒債尋常住処有

   人生七十古来稀

 詩あきんど年を貪ル酒債哉    其角

 

 前書きの漢詩は杜甫の「曲江詩」

 

   曲江      杜甫

 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸

  酒債尋常行處有 人生七十古來稀

 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛

 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々

 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ

 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前

 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ

 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし

 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ

 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら

 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合おう

 

からの引用だ。「古稀」という言葉の語源と言われている。

 後半は比喩で陰謀術策をめぐらしている同僚や、周りに無関心な上司のことだろう。そして、どうせみんな最後は年老いて死んでくだけじゃないか、と語りかける。

 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、そう言いながら「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。

 其角の発句は俳諧師という職業をやや自虐的にそう語っている。「年を貪ル」は今年一年を貪ってきたという意味で、歳暮の句となる。

 

季語は「年を貪ル」で歳暮の意味になるので冬になる。「あきんど」は人倫。

 

   詩あきんど年を貪ル酒債哉

 冬-湖日暮て駕馬鯉        芭蕉

 (詩あきんど年を貪ル酒債哉冬-湖日暮て駕馬鯉)

 

 「駕馬鯉」は「うまにこひのする」と読む。馬に鯉乗する。

 「冬-湖」は前書きを受けて曲江のことであろう。一年を酒飲んで過ごした前句の詩あきんどは、曲江の湖の畔で釣りをして過ごし、鯉を馬に乗せて帰ると和す。

 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。

 まあ其角さんの場合、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのかもしれない。

 

季語は「冬-湖」で冬。「湖」「鯉」は水辺。「馬」は獣類。

 

第三

 

   冬-湖日暮て駕馬鯉

 干鈍き夷に関をゆるすらん    芭蕉

 (干鈍き夷に関をゆるすらん冬-湖日暮て駕馬鯉)

 

 「干」は「ほこ」、夷は「ゑびす」と読む。

 関守は日がな湖で釣りに明け暮れているから、いかにも弱そうな異民族でもやすやすと通り抜けてしまうにちがいない。

 まあ、本格的に攻めてきたならともかく、多少の異民族の国境を越えて出稼ぎに来るくらい良いではないか、ということか。中国は昔から国境に「万里の長城」という壁を築いてきたが。

 

無季。「夷」は人倫。

 

四句目

 

   干鈍き夷に関をゆるすらん

 三線○人の鬼を泣しむ      其角

 (干鈍き夷に関をゆるすらん三線○人の鬼を泣しむ)

 

 三線はここでは「さんせん」と読む。三味線のことで、沖縄では「さんしん」という。

 ウィキペディアによれば、三線は福建省で誕生した三弦が十五世紀の琉球で改良され、十六世紀に日本に伝わったという。「しゃみせん」は「さんせん」の訛ったもの。

 芭蕉の時代には主に関西で義太夫や上方歌舞伎などで用いられていたほか、浄瑠璃語りなども琵琶から三線に変わっていた。

 前句の「干鈍き夷」を琉球の人に取り成したか。三線の音色に思わず鬼のような関守も涙し、関所の通行を許す。この場合「干鈍き」は平和的なという意味に取るべきであろう。

 古今集の仮名序にも「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」とある。詩歌連俳や音楽には非暴力にして世界を動かす力がある。それは風流の理想でもある。

 

無季。「人」は人倫。

 

五句目

 

   三線○人の鬼を泣しむ

 月は袖こほろぎ睡る膝のうへに  其角

 (月は袖こほろぎ睡る膝のうへに三線○人の鬼を泣しむ)

 

 「こほろぎ」は今の何になるのかというと、これが結構難しい。「カマドウマ、キリギリス、コオロギ」の三者は昔は別のものを指していた。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)の「いとど」の所には、

 

 「竃馬(いとど) いとど、こほろぎ二名一物。この部「蟋蟀」の条に註す。」

 

とあり、カマドウマとイトドとコオロギは同じものだとしている。

 

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉 芭蕉

 

の句の「いとど」はカマドウマのこととされている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「いとど」の解説」には、

 

 「〘名〙 昆虫「かまどうま(竈馬)」の異名。《季・秋》

  ※俳諧・毛吹草(1638)二「八月〈略〉いとと こうろぎ かまきり」

 

とある。

 一方、「蟋蟀(きりぎりす)」の条には、

 

 「蟋蟀(きりぎりす)[大和本草]本草四十一巻、竃馬の附録にのす。一名蟋蟀(しっしゅつ)、又蛬(きゃう)といふ。立秋の後、夜鳴く。イナゴに似て黒し。翼あり。角あり。頭は切たる如く尖りなし。俗につづりさせとなくといふ。西土の方言クロツヅといふ。古歌にきりぎりすとよめるは是也。秋の末までなく故に、古歌に霜夜によめり。〇今俗にいふきりぎりすは莎雞(はたおり)也。」

 

とある。『大和本草』の記述によると、コオロギのことと思われる。

 

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに

    衣片敷きひとりかも寝む

              藤原良経(新古今集)

 

のキリギリスはコオロギだというわけだ。

 「つづれ(り)させ」は、

 

 秋風にほころびぬらし藤袴

     つづりさせてふきりぎりすなく

              在原棟梁(古今集)

 唐衣龍田の山のあやしくも

     つづりさせてふきりぎりすかな

              大伴家持(夫木抄)

 

などの歌がある。ツヅレサセコオロギというコオロギの一種になる。

 機織る虫は、

 

 秋くれば機織る虫のあるなへに

     唐錦にも見ゆる野辺かな

              紀貫之(拾遺集)

 ささがにの糸引きかくる草むらに

     はたをる虫の声聞ゆなり

              顕仲卿母(金葉集)

 

などの歌がある。今日のハタオリバッタ(ショウリョウバッタ)のことと思われる。音を立てて飛ぶのでチキチキバッタとも言う。

 一方、『増補 俳諧歳時記栞草』のコオロギの所にはこうある。

 

 「竃馬(こほろぎ) [酉陽雑俎]竃馬(さうば)、状(かたち)、促織(きりぎりす)の如し。俗にいふ、竃に馬あれば食に足の兆。[大和本草]蟋蟀(きりぎりす)に似てひげ・足ながく、せい高く、頭尾さがりてするど也。竃のあたりに穴居す。筑紫の方言にヰヒゴ。」

 

 これはカマドウマの特徴に一致する。

 つまり、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。ならばカマドウマ→キリギリスになるのかというとそうではなく、カマドウマ=コオロギになる。

 キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマ、いとど→カマドウマ(=コオロギ)となる。

 ただ、同じ『虚栗』の「飽やことし」の巻四句目に、

 

   月雪を芋のあみ戸や枯つらん

 かうろぎは書ヲよみ明ス声    李下

 

の句があり、この場合の「かうろぎ」は声を出すからコオロギのことと思われる。この時代は鳥の名称でも虫の名称でも多少混乱があり、一概には言えない。

 前句の「泣しむ」を受けて、月は袖を濡らし、カマドウマは膝の上に眠る、つまりカマドウマがじっとしてられるように体は微動だにしない状態ですすり泣く情景を付ける。カマドウマはちょっとした弾みでも大きくジャンプする。

 ただ、ちょっとややこしいのは、『万葉集』には「こほろぎ」の鳴く声を詠んだ歌がいくつか見られる。「こほろぎ」という言葉は古今集以降の和歌には登場しないが、『万葉集』の「こほろぎ」は明らかに鳴く虫を指していて、カマドウマのことではない。今のコオロギを指すのか、秋の野に鳴く虫全般を指すのかよくわからない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「こほろぎ」も秋、虫類。「袖」は衣装。

 

六句目

 

   月は袖こほろぎ睡る膝のうへに

 鴫の羽しばる夜深き也      芭蕉

 (月は袖こほろぎ睡る膝のうへに鴫の羽しばる夜深き也)

 

 「鴫の羽しばる」とは一体何のことかと謎かけるような句だ。

 

 暁のしぎの羽がきももはがき

     君が来ぬ夜は我ぞ数かく

              よみ人知らず(古今集)

 

の歌を踏まえたもので、鴫の羽がきは眠りを妨げ、儚い夢を破るものとされてきた。 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によれば、『古今集正義』に、

 

 「嘴を泥土に突きこみて物する音、よもすがらぎしぎしと聞ふる物なりと云り。さらばもし、これを羽かく音とききて、古へ羽がきといへりしにはあらずや」

 

とあり、その音がうるさいので鴫の羽を縛るのだという。

 まあ、実際に羽を縛るなんてことはありそうにもない。こういうむしろシュールとでもいえる展開は、『俳諧次韻』で確立された、談林調から脱した最初の蕉風の姿といえよう。

 

季語は「鴫」で秋、鳥類。「夜」は夜分。

初裏

七句目

 

   鴫の羽しばる夜深き也

 恥しらぬ僧を笑ふか草薄     芭蕉

 (恥しらぬ僧を笑ふか草薄鴫の羽しばる夜深き也)

 

 前句の「鴫の羽しばる」を食用に捕らえた鴫を動けないように縛っておくこととする。殺生の罪を恥とも思わない破戒僧を、薄が笑ってこっちへ来いと招いている。招かれる先には当然地獄があるに違いない。

 薄が人を招くのは、

 

 花薄まそほの糸をくりかへし

     たえずも人を招きつるかな

              源俊頼(堀河百首)

 夕霧のたえまに見ゆる花薄

     ほのかの誰を招くなるらむ

              京極関白家肥後(堀河百首)

 

などの歌に詠まれている、薄の風に揺れる姿は手招きする手の動きに似ている。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。釈教。「僧」は人倫。

 

八句目

 

   恥しらぬ僧を笑ふか草薄

 しぐれ山崎傘を舞        其角

 (恥しらぬ僧を笑ふか草薄しぐれ山崎傘を舞)

 

 傘は「からかさ」と読む。

 京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。

 唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。

 

 「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」

 

 ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。

 若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。

 

季語は「しぐれ」で冬、降物。「傘」は衣装。

 

九句目

 

   しぐれ山崎傘を舞

 笹竹のどてらを藍に染なして   芭蕉

 (笹竹のどてらを藍に染なしてしぐれ山崎傘を舞)

 

 ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。

 遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。

 さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。

 

無季。「どてら」は衣装。

 

十句目

 

   笹竹のどてらを藍に染なして

 狩場の雲に若殿を恋       其角

 (笹竹のどてらを藍に染なして狩場の雲に若殿を恋)

 

 これは衆道ネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。

 

無季。恋。「雲」は聳物。「若殿」は人倫。

 

十一句目

 

   狩場の雲に若殿を恋

 一の姫里の庄家に養はれ     芭蕉

 (一の姫里の庄家に養はれ狩場の雲に若殿を恋)

 

 雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。

 

無季。「姫」は人倫。

 

十二句目

 

   一の姫里の庄家に養はれ

 鼾名にたつと云題を責けり    其角

 (一の姫里の庄家に養はれ鼾名にたつと云題を責けり)

 

 芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。

 庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。

 

無季。

 

十三句目

 

   鼾名にたつと云題を責けり

 ほととぎす怨の霊と啼かへり   芭蕉

 (ほととぎす怨の霊と啼かへり鼾名にたつと云題を責けり)

 

 ウィキペディアにホトトギスの伝説が載っている。それによると、

 

 「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

 

だそうだ。ホトトギスが杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥と表記される理由はこれでよくわかる。

 ところで、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注には別の伝説が記されている。

 

 「ほととぎすに『郭公』の字を当てるのは、戦いに敗れて死んだ郭の国の王の怨霊がほととぎすになったという、中国伝説に基づく。よって一名怨鳥ともいう。」

 

 ただ、ホトトギスを郭公と表記するのは、カッコウと混同されたからだとも言う。

 「啼かへり」というのは繰り返し啼くことで、古来和歌ではホトトギスは一声を聞くために夜を徹するものとされていて、その一声が貴重だということから「鳴かぬなら‥‥ほととぎす」なんて言われるようにもなっている。

 渡り鳥なので渡ってきた最初の一声を聞くのが重要だったのだろう。渡ってきてしまうと後は始終鳴いていて別にありがたいものではない。

 ホトトギスは怨鳥とも言うから我こそは「怨みの霊」だとしきりに鳴いては、「鼾名にたつ」という題で歌を詠むように責め立てる。何だかよくわからない付けだが、こういうシュールさも天和調の一つの特徴なのだろう。

 『俳諧次韻』の「鷺の足」の巻五十五句目に、

 

   しばらく風の松におかしき

 夢に来て鼾を語る郭公      其角

 

の句があり、これはホトトギスの声が待てずに鼾をかいて寝てしまうと、夢の中に郭公が出てきて、「あれまあ、こんなに鼾かいて寝ちゃって」などと言ったのだろう。外で鳴いている郭公の声が夢の中でアレンジされてそんな言葉になったのか。この句を思い出しての楽屋落ちだったのかもしれない。其角に「鼾の句を詠め」とホトトギスが繰り返し啼いたのかもしれない。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

十四句目

 

   ほととぎす怨の霊と啼かへり

 うき世に泥む寒食の痩      其角

 (ほととぎす怨の霊と啼かへりうき世に泥む寒食の痩)

 

 「泥む」は「なづむ」。

 「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、

 

 「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」

 

だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)でも旧暦三月のところにある。春の季語。

 時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。

 

季語は「寒食」で春。

 

十五句目

 

   うき世に泥む寒食の痩

 沓は花貧重し笠はさん俵     芭蕉

 (沓は花貧重し笠はさん俵うき世に泥む寒食の痩)

 

 春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。

 「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、

 

 「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。

 桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」

 

とある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「沓」「笠」は衣装。

 

十六句目

 

   沓は花貧重し笠はさん俵

 芭蕉あるじの蝶丁見よ      其角

 (沓は花貧重し笠はさん俵芭蕉あるじの蝶丁見よ)

 

 丁は「たたく」と読む。

 これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。

 「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。

 花に蝶は、

 

 花に蝶ここにて常にむつれなむ

     長閑けからねば見る人もなし

              (柿本集)

 

の歌がある。

 

季語は「蝶」で春、虫類。「あるじ」は人倫。

 

十七句目

 

   芭蕉あるじの蝶丁見よ

 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉

 (腐レたる俳諧犬もくらはずや芭蕉あるじの蝶丁見よ)

 

 前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。

 

無季。「犬」は獣類。

 

十八句目

 

   腐レたる俳諧犬もくらはずや

 鰥々として寝ぬ夜ねぬ月     其角

 (腐レたる俳諧犬もくらはずや鰥々として寝ぬ夜ねぬ月)

 

 「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。ここでは「ほちほち」と読む。

 犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

二表

十九句目

 

   鰥々として寝ぬ夜ねぬ月

 婿入の近づくままに初砧     其角

 (婿入の近づくままに初砧鰥々として寝ぬ夜ねぬ月)

 

 月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。

 

   子夜呉歌   李白

 長安一片月 萬戸擣衣声 

 秋風吹不尽 総是玉関情 

 何日平胡虜 良人罷遠征

 

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。

 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。

 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 

 ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。

 月に砧は和歌にも、

 

 小夜ふけて砧の音ぞたゆむなる

     月をみつつや衣うつらん

              覚性法親王(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「砧」で秋。恋。「婿」は人倫。

 

二十句目

 

   婿入の近づくままに初砧

 たたかひやんで葛うらみなし   芭蕉

 (婿入の近づくままに初砧たたかひやんで葛うらみなし)

 

 前句の砧にオリジナルの李白の「子夜呉歌」を思い浮かべて、出征した婚約者が帰ってくる場面とする。

 葛の葉は秋風にふかれて葉がめくれ上がって葉の裏側を見せることから、「恨み」とかけて用いられる。ここは「戦い止んで恨みなし」でもいいところだが、葛の葉は秋風に裏を見せるということで、「恨み」に掛けて用いる。

 

 秋風の吹き裏かへすくずの葉の

     うらみても猶うらめしきかな

              平貞文(古今集)

 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は

     うらみてのみや妻をこふらむ

              俊恵法師(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「葛」で秋で植物、草類。恋。

 

二十一句目

 

   たたかひやんで葛うらみなし

 嘲リニ黄-金ハ鋳小紫       其角

 (嘲リニ黄-金ハ鋳小紫たたかひやんで葛うらみなし)

 

 「あざけりに、おうごんはこむらさきをいる」と読む。

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によると、宋の鄭獬の嘲范蠡(はんれいをあざける)という詩が出典だという。

 

   嘲范蠡       鄭獬

 千重越甲夜成圍 宴罷君王醉不知

 若論破吳功第一 黄金只合鑄西施

 

 千人にも及ぶ越の兵に夜、包囲されていても、

 宴席に退いた呉の王は何も知らずに酔っていた。

 もし呉を破った第一の功労者を論じるなら、

 ただ西施の黄金の像をのみ鋳るべきた。

 

 范蠡は春秋時代、越王勾践に仕え、呉の夫差を打ち破り会稽の恥をそそいだという。そのときの伝説の一つがウィキペディアに載っている。

 

 「范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。」

 

 「嘲范蠡」はこれを揶揄するものだ。越王は范蠡の黄金の像を作ったが、本当に作るべきだったのは西施の像だろう、というもの。

 これに対し小紫はコトバンクのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によれば、

 

 「?-? 江戸時代前期の遊女。

江戸吉原(よしわら)三浦屋の抱え。延宝7年(1679)愛人の平井権八(ごんぱち)が辻斬りなどの罪で死罪となったあとをおい,墓前で自害した。この話は幡随院(ばんずいいん)長兵衛と関連づけられ,「驪山(めぐろ)比翼塚」などの浄瑠璃(じょうるり),歌舞伎の素材となった。」

 

とある。三年前のまだ記憶に新しい事件を題材にした時事ネタといえよう。

 平井権八は遊女小紫に入れ込んで、貢ぐお金欲しさに辻斬りをやった。そのことで、黄金の力で小紫を射止めると洒落て、結局平井権八は死罪になり、小紫が自害したことで戦いは終わり、そのことを嘲る、とする。

 

無季。

 

二十二句目

 

   嘲リニ黄-金ハ鋳小紫

 黒鯛くろしおとく女が乳     芭蕉

 (嘲リニ黄-金ハ鋳小紫黒鯛くろしおとく女が乳)

 

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。

 ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒鯛は「ちぬ」ともいう。

 黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。

 

無季。「黒鯛」は水辺。「おとく女」は人倫。

 

二十三句目

 

   黒鯛くろしおとく女が乳

 枯藻髪栄螺の角を巻折らん    其角

 (枯藻髪栄螺の角を巻折らん黒鯛くろしおとく女が乳)

 

 「枯藻髪(かれもがみ)」というのは造語か。要するに脱色した髪の毛のこと。

 前句の黒鯛を乳首の色ではなく本物の黒鯛とし、「おとく女が乳」を海女さんのことと取り成す。始終海に潜っている彼女は塩と紫外線で髪の毛が痛み、脱色して茶髪になる。

 サーファーの髪が脱色するのも同じ理由だし、髪を染められないJCやJKは、昔はビールで髪を洗うといいなんていわれたこともあったが、塩で髪を洗うという方法は今でも行われているようだ。ただ、髪を傷めるだけでお勧めはできない。

 塩水で塗れてべたべたした髪の毛は栄螺(さざえ)の角に巻きついて折ってしまうのではないか、とややおどろおどろしく描く。

 

無季。「栄螺」は水辺。

 

二十四句目

 

   枯藻髪栄螺の角を巻折らん

 魔-神を使トス荒海の崎      芭蕉

 (枯藻髪栄螺の角を巻折らん魔-神を使トス荒海の崎)

 

 ひところのギャルメイクが「山姥」と言われたが、発想は昔からあまり変わらない。茶髪の海女さんから海の妖怪のようなものを想像し、魔神をも使役する。今でいえば召喚魔法か。

 

無季。「荒海の崎」は水辺。

 

二十五句目

 

   魔-神を使トス荒海の崎

 鉄の弓取猛き世に出よ      其角

 (鉄の弓取猛き世に出よ魔-神を使トス荒海の崎)

 

 鉄は「くろがね」と読む。

 これは百合若大臣ネタか。ウィキペディアによれば、

 

 「百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

 

だという。

 魔人を召喚する恐ろしい魔導師を倒すには、勇者様が必要だ。武器は弓。それも攻撃力の高い鉄弓のスキルを持つ勇者様がそれにふさわしい。

 

無季。

 

二十六句目

 

   鉄の弓取猛き世に出よ

 虎懐に妊るあかつき       芭蕉

 (鉄の弓取猛き世に出よ虎懐に妊るあかつき)

 

 摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。

 百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。

 

無季。「虎」は獣類。

 

二十七句目

 

   虎懐に妊るあかつき

 山寒く四-睡の床をふくあらし   其角

 (山寒く四-睡の床をふくあらし虎懐に妊るあかつき)

 

 伝統絵画の画題に「四睡図」というのがある。豊干禅師、寒山、拾得、虎が一緒に寝ている様子を描くもので、悟ったもの、死を恐れぬものには虎が近くにいても恐がることないため共存できるというもの。

 「山寒く」は「寒山」の名を隠しているし、前句の「虎懐に妊る」は夢ではなく本当に虎が懐で眠っているという意味に取り成される。

 

季語は「寒く」で冬。「山」は山類。

 

二十八句目

 

   山寒く四-睡の床をふくあらし

 うづみ火消て指の灯       芭蕉

 (山寒く四-睡の床をふくあらしうづみ火消て指の灯)

 

 「指の灯(ともしび)」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。

 芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。

 ウィキペディアによれば、

 

 「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。

 翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」

 

と、実際に「指の灯」を実践している。

 寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、

 

 「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」

 

 芭蕉も当然この了翁の事は知っていただろう。びーちくろいくのシモネタもあればこういう偉い坊さんの話も交える。この何でもありの感じが、まだ談林の延長にあった天和期の蕉風だったのだろう。

 『野ざらし紀行』の伊勢のところで「僧に似て塵有」と自嘲して言うのも、同時代のこういうお坊さんにはとても及ばないという気持ちがあったのではないかと思う。

 

季語は「うづみ火」で冬。釈教。

 

二十九句目

 

   うづみ火消て指の灯

 下司后朝をねたみ月を閉     其角

 (下司后朝をねたみ月を閉うづみ火消て指の灯)

 

 「下司」は本来は中世の荘園や公領で実務を行う下級職人のことだという。上司(うえつかさ)に対しての下司(したづかさ)だった。それが下種、下衆

と書く(げす)へと派生したのか、それとも別のものだったのが混同されたのかはよくわからない。

 身分の低い女性を后(きさき)に迎えたせいか、朝のきぬきぬの時に、さすがに鶏をキツネに食わすぞとは言わないまでも、戸を閉ざして月を見せないようにして男を引きとめようとする。月明かりがあるとまだ暗いうちに帰ってしまうからだ。火鉢の埋み火も消えて爪の垢を燃やす。

 貞門の松江重頼選の『毛吹草』の諺の部に「爪に火をともす」というのがあるという。今日でもケチの極みを意味する慣用句として用いられている。本当に爪の垢で火が灯るのかどうかはよくわからない。昔は手をあまり洗わなかったから、あちこち掻き毟ったりすると体の油分が爪に溜まったりしたのかもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「后」は人倫。

 

三十句目

 

   下司后朝をねたみ月を閉

 西瓜を綾に包ムあやにく     其角

 (下司后朝をねたみ月を閉西瓜を綾に包ムあやにく)

 

 西瓜はアフリカの乾燥地帯が原産で、室町時代には日本に入ってきたという。中国語のシークワが日本語のスイカとなったという。日本では昔から庶民の食べ物で、上流の人は食べなかった。

 子供の頃読んだ漫画でも主人公の庶民の少年がお金持ちの坊ちゃんを家に呼んでスイカをふるまうが、坊ちゃんは家じゃメロンを食べるとスイカを馬鹿にする場面があった。

 スイカの入れ物というと、昔から紐を編んだスイカ網が用いられている。ここではそんな身分の低い人の食い物であるスイカがあるのを隠すために、入子菱模様の綾布で覆っていたのだろう。模様はスイカ網を髣髴させる。

 スイカがばれないように月を閉じ、綾布をかける。そんなにスイカって恥ずかしかったのか。ものが綾布だけに「あやにく(あや、憎しの略)」。

 形容詞の活用語尾を略して語幹だけで「こわっ」「はやっ」「ちかっ」という言い方は平安時代からあった。源氏物語では光源氏が「あなかま!」という場面がある。「あな、かしまし」の略だが、「かしまっ」が更に略されて「かまっ」になってしまったのだろう。

 

季語は「西瓜」で秋。

二裏

三十一句目

 

   西瓜を綾に包ムあやにく

 哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん 芭蕉

 (哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん西瓜を綾に包ムあやにく)

 

 本歌は、

 

 あはれいかに草葉の露のこぼるらむ

    秋風立ちぬ宮城野の原

              西行法師(新古今集)

 

 宮城野は萩の名所で、

 

 宮城野のもとあらの小萩露を重み

     風を待つごと君をこそ待て

              よみ人しらず(古今集)

 

 白露は置きにけらしな宮城野の

    もとあらの小萩末たわむまで

              祝部允仲(新古今和歌集)

 

などの歌がある。

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によると「ぼた」は萩の俚称だという。それだと、「お萩」のことを「ぼたもち」と言うのも、一般的には「牡丹餅」と表記されているが、この俚称に起源があったのかもしれない。

 西行法師のように颯爽と宮城野の萩の歌を詠んで見せたが、つい萩のことを「ぼた」と言ってしまい、身分がばれるというネタだろう。それをスイカを綾で隠すようなものだ、あやにく」とつなげる。

 

季語は「ぼた」で秋、植物、草類。「宮城野」は名所。

 

三十二句目

 

   哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん

 みちのくの夷しらぬ石臼     其角

 (哀いかに宮城野のぼた吹凋るらんみちのくの夷しらぬ石臼)

 

 石臼は製粉作業に用いる回転式の臼のことで、東北の方ではあまりなじみがなかったのだろう。仙台名物で伊達政宗が発明したという伝承のある「ずんだ餅」も太刀で豆を刻んだという。

 石臼のおかげで日本では古くから団子が作られていたが、石臼の普及してないみちのくでは昔ながらのぼた餅やずんだ餅が主流だったということか。

 「夷しらぬ」は「えぞ知らぬ」と掛けている。

 

 えぞ知らぬ今心みよ命あらば

     我やわするる人やとはぬと

              よみ人しらず(古今集)

 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ

     書き盡くしてよ壺の石ぶみ

              源頼朝(新古今集)

 

などの歌に用いられている。

 

無季。「夷」は人倫。

 

三十三句目

 

   みちのくの夷しらぬ石臼

 武士の鎧の丸寝まくらかす    芭蕉

 (武士の鎧の丸寝まくらかすみちのくの夷しらぬ石臼)

 

 「石臼」を捨てて、「みちのくの夷」に古代のいくさを付ける。

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注では坂上田村麻呂の蝦夷征伐の場面とするが、蝦夷が枕を貸してくれるのだから衣川の戦いあたりを考えてもいいのではないかと思う。

 ここでいう蝦夷はアイヌではなく、みちのく地方の先住民族。縄文系の民族と思われる。

 

無季。「武士」は人倫。「鎧」は衣装。

 

三十四句目

 

   武士の鎧の丸寝まくらかす

 八声の駒の雪を告つつ      其角

 (武士の鎧の丸寝まくらかす八声の駒の雪を告つつ)

 

 「八声の駒」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によれば、「明けがたにたびたび鳴く鶏を『八声の鳥』というに基づく造語」だという。

 八声の鳥は、

 

 新玉の千年の春の初とて

    八声の鳥も千代祝ふなり

              藤原家隆(夫木抄)

 

の用例がある。

 鎧を着たまま仮眠を取っていると、馬がいなないて雪が降りだしたのを告げる。

 

季語は「雪」で冬、降物。「駒」は獣類。

 

三十五句目

 

   八声の駒の雪を告つつ

 詩あきんど花を貪ル酒債哉    其角

 (詩あきんど花を貪ル酒債哉八声の駒の雪を告つつ)

 

 前句の雪を花の散る様としたか。春に転じる。

 発句の「年」を「花」に変えただけの句で、主題を反復する。輪廻を嫌う連歌・俳諧の中では、こうしたリフレインは珍しい。

 花を雪に喩えた歌は、

 

 三吉野の山辺に咲ける桜花

     雪かとのみぞあやまたれける

              紀友則(古今集)

 桜ちる花の所は春ながら

     雪ぞふりつつきえかてにする

              承均法師(古今集)

 

など数多い。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「あきんど」は人倫。

 

挙句

 

   詩あきんど花を貪ル酒債哉

 春-湖日暮て駕興吟        芭蕉

 (詩あきんど花を貪ル酒債哉春-湖日暮て駕興吟)

 

 駕興吟は「きょうにぎんをのする」と読む。

 前句が発句のリフレインなので、同じように脇を少し変えて応じる。

 春の湖に日は暮れて、その興を吟に乗せる。花見で借金をこしらえても気にせず、風流(俳諧)の道に明け暮れる。この『虚栗』が売れれば借金が返せるといったところか。

 

季語は「春」で春。「湖」は水辺。