震災から一ヶ月たってもなかなか余震が収まらず、鹿島神宮のある茨城の方もしばしば震源になっている。
電車や車で行くのもいいが、それでは何かありがたみがないような気がして、それに鹿島詣でといえば芭蕉という偉大な先人もいるので、その足跡をたどりながら行けないだろうかと、何となく思い立った。
一日では無理だから、日曜ごとに何回かに分けて行けば、というわけで、今日はその一回目。
出発点は深川芭蕉庵跡。電車に乗って清澄白河から歩いた。
途中、深川稲荷神社に寄った。布袋尊という看板もあり、深川七福神の一つのようだ。布袋さんの石像があった。右側の石灯籠が震災で崩れたようだった。
芭蕉庵跡には芭蕉稲荷があり、すぐ近くには正木稲荷がある。芭蕉稲荷には賽銭箱がなく、代わりに小さな缶が置いてあり、「さい銭入れ」と書いてあった。こういうのも一種の侘び寂びなのか。
正木稲荷の裏手から登ってゆくと、清洲橋の見える芭蕉像のあるところに出る。小さな池が作ってあり、蛙ではなくおたまじゃくしが泳いでいた。
鹿島へとおたまじゃくしの旅はじめ
芭蕉がどの経路で行徳まで行ったのかはよくわからなかった。以前に書いたHPの文章では海沿いに行ったようなことを書いたが、近くに川船番所跡があり、そこの説明を読むと、
「江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(一六二四~四四)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。」
とあった。川船番所は小名木川を通る人と荷物を検査したところで、寛文元年(一六六一)に中川口に移転したため、芭蕉が鹿島に旅立った頃にはもうここに番所はなかったようだ。
小名木川を通って利根川水系の方に行く船が出てたというのなら、わざわざ東京湾に出なくてもここを通って行徳の方へ行った方が近くて安全だったので、おそらくここを通ったのだろう。
そう思って、小名木川沿いの遊歩道を歩いた
遊歩道は途中で途切れ、川の北側へ行くと猿江神社があった。狛犬は御影石の昭和六年製の招魂社系で区有形文化財の札が立っていた。境内社には藤森稲荷神社があり、その左側には先代のお狐さんが二組互いに向き合って並んでいた。
四つ目通りを南に行くと、小名木川の橋の手前に、
川上とこの川下や月の友 芭蕉
の句碑があった。
碑の横の説明版には、
「『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は元禄六年(一六九三)、五十歳の秋にこの小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、『深川の末、五本松といふ所に船をさして』の前書きで」
と記されていた。
この五本松の辺りに住んでいた友が誰なのかは定かでない。
この年の秋八月十六日には、濁子、岱水、依々、馬莧、曾良、涼葉らが集って、
いざよひはとり分闇のはじめ哉 芭蕉
鵜船の垢をかゆる渋鮎 濁子
に始まる俳諧が興行されているが、脇句が渋鮎(産卵のために川を下る鮎)を芭蕉に喩えた家の主人の挨拶だとすれば、濁子の家が川下にあったのかもしれない。
川の南側を少し行くと北砂水上公園があり、ここからまた川沿いの遊歩道が始まった。丸八通りを越えると大島稲荷神社が見えた。
入口のところに、
秋に添て行はや末ハ小松川 芭蕉
の句碑があった。
芭蕉像の後にある看板には
「この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄五年(一六九二)芭蕉五十才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中船を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流れを眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。」
と記されていた。
正確には芭蕉四十九歳で、『奥の細道』の三年後の句。「九月尽の日、女木沢に舟さし下して」という前書きがあり、珍碩を加えた三人で興行が行われている。
なお、今栄蔵の『芭蕉年譜大成』では、先の「川上と」の句もこの時の句としているが、新月も近い時期に「月の友」はないと思う。
境内には年代不明の大きな獅子山狛犬が拝殿前にあり、社務所の前にも小さな狛犬が一対あった。そのほかに、三猿の石像、出世開運の撫で牛が二体、境内社に佐竹神社があった。ここでも、大きな石灯籠が崩れて、ごろごろ転がっていた。
さらに川沿いに行くと、中川に出て、中川船番所資料館があった。橋を渡ってさらに行くと荒川の土手に出た。これが噂のスーパー堤防か。スーパー堤防の説明書きがあった。台風などの増水にはいいかもしれないが、十五メートルの津波が来たならこれでも防げないだろうなと思った。昔見た「日本沈没」の映画では関東で大地震が起きた時に、津波によって江東ゼロメートル地帯が水没し、十万人の死者が出たということになっていた。
荒川ロックゲートのところで、小名木川は終っていた。
ここで、芭蕉の足跡を見失い、土手を南下して葛西橋を渡った。
葛西に入ると、時空のひずみ(?)からか、雛見沢村に迷い込み、ピットインというおもちゃ屋や、エンジュルモート(ジョナサン西葛西店)、歩道橋下の屋台、雛見沢警察署(葛西警察署)と、前に葛西を散歩した時に来たところを通った。途中、「だるまのめ」という厚木に本店のある博多ラーメンの店で昼飯を食った。唐辛子を練りこんだという赤い麺が珍しかった。
浦安橋を渡ると、「ようこそ千葉県へ」の看板があり、ここからは千葉。浦安市議選が始まっていて、結構うるさかった。震災のときは液状化がひどかった所だが、1ヶ月以上も立っていたせいか、所々建物と歩道との間にひびが入っていたり修繕した跡がある以外は震災を感じさせなかった。
最後に猫実(ねこざね)という所にある豊受神社に行った。大きな狛犬は獅子山の常で銘が見当たらなかった。ここでも常夜灯の石灯籠の上半分がなくなっていた。
境内には浅間神社の富士塚があり、その隣には秋葉大権現と金毘羅大権現の石祠があり、その奥には三峰神社があった。金網の中に昭和四十五年銘の狛オオカミがあった。かなり犬っぽいオオカミだったが、狛オオカミを見るのは久しぶりだった。
ところで、後でわかったのだが、どうやら昔は荒川がなく、やや北側の向かいにある新川にそのまま船でいけたようで、行徳へ行く船は新川を通って、浦安の北側を通って行徳まで行っていたようだ。芭蕉もそのルートを通ったとすれば、次回は船堀の辺りからやり直さなくてはならない。
今日は鹿島詣での続きということで、都営地下鉄の東大島駅からスタート。この駅には前回も駅前のコンビニでデジカメの電池を買うために立ち寄っていたので、そこでセーブしていたということにして、そのセーブポイントからのやり直し。
新大橋通りの船堀橋を渡って、そこから中川に沿って下ると稲荷神社があった。境内には黒猫がいて、猫に誘われるように中に入ると、お狐さんの石祠に案内された。手前の大きな社殿の前にもお狐さんが鎮座し、境内社が二つあってその中の一つには昭和二年銘の狛犬があった。
新川西水門まで来ると、観光用の櫓が聳え立ち、公園として整備されていた。中川の堤防に登ると、反対側に前回通った荒川ロックゲートが見えた。
新川沿いも遊歩道が整備され、川には魚や亀の姿もあった。船堀街道の宇喜多橋をくぐると、どこかで見たような景色。「うみねこのなく頃に」で縁寿がさくたろうや煉獄七姉妹としりとり遊びをした、あの場所だった。そういえば、ここは葛西から近い。
しばらく行くと遊歩道も途切れ、工事中になる。その向こう側に新川東水門が見えてきて新川は終り、旧江戸川に出る。
旧江戸側に沿って歩いてゆくと、鉄の柵で覆われた神社が目に入る。稲荷神社だった。社殿は古く補強されていた。
新今井橋で新中川を渡り、もう一つ今井橋で旧江戸川を渡ると、「ようこそ千葉県へ」となる。
千葉県側の旧江戸川沿いにも遊歩道があり、行徳の船着場だった常夜灯公園まで行ける。芭蕉もここで船から降りたのだろう。ここから行徳街道で本八幡へと向う。
川を離れ少し行くと旧笹屋うどん店があり、ここから街道に入る。ところどころ古い木造の建物があり、旧道らしい風景となる。
途中いくつか神社があった。
神明宮には三毛猫に導かれて入った。文化二年銘の狛犬があり、口と鼻の穴が赤く塗られていて面白い顔をしていた。
続いて八幡宮があり、境内の裏手に富士塚があった。
続いて神明豊受神社。狛犬は嘉永六年銘。吽形の方は背中に子獅子を乗せている。
さらに稲荷神社があり、胡録神社・春日神社があった。
その後芭蕉の時代にはまだなかった新江戸川の橋を渡り、稲荷木にも稲荷神社があった。一本松の跡、大和田甲大神社と進む。狛犬は明治三十三年銘。境内に古い崩れた鳥居の残骸があり、そこに「よく見て考えて」という立て札が立っていた。
「うしろに見える石の断片は何でしょう。
今から約九十年前、村の人たちがこの甲大神社の鳥居として建ててくれた大鳥居が地震で倒れてくだけたものです。」
とあり、今度の震災ではなく関東大震災の時に崩れたもので、
「地震は全く恐ろしいものです。この教訓を忘れないで下さい。氏子中」
と結ばれてた。
本八幡の駅の近くのタバコ屋に、大きな古そうな石の招き猫があった。なぜか手に鍵を持っていたが、単に誰かの落し物をここに掛けていったものか。
本八幡駅をとりあえず今日のセーブポイントということにして、都営地下鉄に乗って帰った。
今日はついついテレビの銀魂の劇場版を最後まで見てしまい、出発が遅れてしまった。
セーブポイントの都営地下鉄本八幡駅に着いたのは十一時半で、今日はここからスタート。
ところが地下鉄駅から出たところ、方向が良くわからぬまま歩き始めたところ、京成の線路を越えて、「荷風の散歩道」とかいう狭い道に入ってしまった。永井荷風といえば「断腸亭日乗」、俺のHPの日記は「ゆきゆき亭日乗」ということで、これも何かの縁だろう。
その後道に迷って、やっとのことで、本八幡の地名の由来となっている葛飾八幡宮にたどり着いた。この辺りの道は細く曲がりくねっていて、大きな松の木が点々としていた。
随身門(楼門)の前の狛犬は安永六年銘で角ばった顔をしている。
拝殿の左手の片隅に、苔むした先代の狛犬があった。阿形のほうは損傷がひどく、吽形のほうはかなり形をとどめていた。腰を上げて立ち上がったポーズだから、獅子山だったか。
苔むした狛犬にまだ春は行かず
奥には千本公孫樹という、根元からたくさんの公孫樹の木が寄り集まったような公孫樹があった。切り株から伸びてきた芽がが全部大きく育ってこうなったのだろうか。だとすると、鎌倉鶴岡八幡宮の大公孫樹も、将来はこうなるのかもしれない。
葛飾八幡宮を出て、京成の線路を渡ると、京葉道に出るところに一の鳥居があり、道路の向こう側に竹薮と小さな社が見えた。行ってみると「不知八幡森(八幡の藪知らず)」の説明書きがあった。小さな藪だけど入ってら出てこれない、というようなことが書かれていた。ひょっとして神隠し?ちょうど今、甲田学人のラノベ「missing」の座敷わらし編まで読んでいる所なので何かそんな連想をした。もっとも、枯れ草に鉄錆の混ざった匂いがするわけでもなく、京葉道の排気ガスの匂いばかりだった。
京葉道を行くと鬼越というところに、京成の線路の向こうに鳥居があるのが見えた。鬼越神明社で、狛犬は両方とも魂取りで、それも玉乗りのできそうな大きな玉に前足を乗せていた。家へ帰ってからネットで調べたが、どうやら「広島玉乗り」と呼ばれる、広島に多いタイプらしく、何で千葉に‥‥。
結構境内は広く、奥には富士塚もあった。入口付近には不思議な形をした石を祭った祠があり、なぜか松ぼっくりがたくさん並べられていた。 京葉道から木下(きおろし)街道にはいる鬼腰二丁目のT字路には古い石造りの建物があったが、被災したのか、屋根にブルーシートがかけられていた。瓦屋根の家では結構こういう風景が見られる。
この辺りにも高石神社があり、黒猫がお迎えしてくれた。狛犬は昭和六十年銘の新しいものだった。
道端のこんなところにという藤の花を見つけた。
ガラクタのように休めよ藤の花
木下街道を行くと東山魁夷記念館があった。伝統絵画は好きだけど日本画には興味がないので素通りした。日本画なのに教会風の洋館というところがいかにも西洋かぶれな感じだ。
船橋法典に近づくと道路わきに大きな駐車場が多く、中山競馬場が見えてきた。競馬場の反対側には赤い鳥居がいくつも並ぶ白幡神社があった。狛犬は昭和十年銘。
船橋法典駅を越えてさらに行くと古い木造観音像を祭る藤原観音堂があり、その先には藤原神社があった。ここの狛犬もかなり立派で、明治三十三年の銘があった。
馬込駅まで来ると、馬込天満宮があったが、石段を登った鳥居の前にロープがはってあって入れなかった。
鎌ヶ谷大仏駅まで来ると鎌ヶ谷八幡神社があった。三時過ぎで木が鬱蒼としていて薄暗く、写真がうまく取れなかったが、狛犬が四対あって百庚申という庚申塔の列があった。
今日はここで終り、新京成鎌ヶ谷大仏駅でセーブということで、駅中でつけ麺を食べて帰った。
今日は八時に家を出てセーブポイント(鎌ヶ谷大仏駅)に着いたのが十時。思えば遠くへ来たものだ。
鎌ヶ谷八幡宮は、この前来たときは気付かなかったが、ネットで写真を見たら入口の狛犬の後に大きな鳥居があったのがなくなっている。境内に鳥居の残骸がまとめて置かれていて、崩落していたようだ。
八幡宮の向かいに鎌ヶ谷大仏があった。ブロンズの野ざらしのもので、高さ一・八メートル。大仏と言うにはそんなに大きくはない。
JRA競馬学校の手前に天神社があった。狛犬は入口付近の明治三十五年銘のものと、中にもう一対昭和三十五年銘のものがあった。
明治三十五年の方の吽形の方は、ネットで「寝ている狛犬」として紹介されていたが、これはよく見ると寝ているのではなく、前足が破損したため、前につんのめった姿で土台に固定されたものだろう。一種のど根性狛犬と言うべきものだ。鎌ヶ谷八幡宮ほどではないが、ここにも庚申塔群があった。この辺りのものは彩色されていない。
これより少し先に、ナガミヒナゲシが奇麗に咲いている空き地があった。
道端にどこにでも咲いている帰化植物だが、最近はハルジオンの地位を脅かしているのではないかと思う。
貧乏を埋めてながみひなげしか
白井大橋の北総鉄道の線路を越えるあたりは新道と旧道に分かれていた。市役所入口のところで合流する。そこからさらに先へ行き、白井の交差点の手前にも天満宮があったが、狛犬はなかった。
白井交差点の先に鳥見大明神参道入口の看板があり、ここから細い道を入って行くと鳥見大明神がある。石の鳥居は正徳三(一七一三)年のものだという。新しい鳥居が崩れているのにこういう古い鳥居がちゃんと残っているあたりなど、昔の人の技術は侮れない。狛犬は大正二年銘。
その少し先にわかりにくいが茂みの中に小さな道があり、赤く塗られた庚申塔群が静かに佇んでいた。赤は昔から疫病や伝染行を避けるための色だったが、ここもそういう意味があるのだろうか。震災のせいか、石がずれていた。
船橋カントリークラブの近くにはラーメン屋が三件ほどかたまっていて、その中で一番たくさん車が止まっている「岩間」で昼飯を食べた。醤油ラーメンは大きな丼で出てきて、鰹節の香りが心地いい。
ラーメン屋を出た辺りから、ほっぺたにヒヤッとする感触が。雨が降ってきた。
しばらく行くと阿夫利神社の大きな鳥居があった。なるほど、この雨は阿夫利神社が呼んだのだろう。
鳥居から阿夫利神社まではかなり距離があり、参道は鉄工所があったり、ちょっとした田舎の工業地帯だった。日本の製造業はこういうところで支えられているのだろう。
阿夫利神社は山になっていて長い石段を登っていくと拝殿や神楽殿があった。その左手にさらに石段があって奥院があり、そこに二対の狛犬があった。手前のは昭和五十八年銘、奥のは天保十四年銘だった。
果たして、阿夫利神社を出ると雨は止んだ。しばらく行くと消防車のサイレンの音がして、前のほうの車が並んでいて通行止めみたいだったので、左に向かって抜け道する車に釣られて迂回すると、そこにも赤い文字の庚申塔群があった。
この先の街道沿いにも赤塗りの庚申塔群あり、赤い庚申塔はこの辺りには普通に見られるもののようだ。
大六天神社が左側にあり、狛犬はなかったが、手賀沼干拓の碑があり、神社の裏手から手賀沼が見渡せた。干拓前はもっと広かったのだろう。
亀成橋を渡り、大杉神社を過ぎると木下街道と鮮魚(なま)街道の分岐点があり、そこにも赤い庚申塔があった。芭蕉はここから鮮魚(なま)街道に入り布佐へと向う。
橋を渡ると踏切があり、布佐駅も近い。ここを真直ぐ行くと利根川の土手に突き当たる。その手前に観音堂があり、そこに「なま街道」の説明書きがあった。
「江戸時代、銚子や鹿島灘で水揚げされた鮮魚は江戸日本橋の魚市に送られていました。旧暦の五月から七月の夏季には関宿を回ってすべて船便で送られました。それ以外の季節は銚子から木下、布佐の河岸に送られ、そこで馬に積み替えられて陸路、木下からは行徳へ(行徳みち)、布佐からは松戸へ(松戸みち)送られ、再び船に積み替えられて日本橋へ送られていました‥略‥
なま街道で鮮魚の輸送が始まったのは慶安三年(一九六〇)頃からです。」
芭蕉の歩いた八月の中秋の名月の季節は、木下街道もなま街道も鮮魚の行き来でにぎわう季節で、そのため馬が不足していて歩かざるをえなかったのかもしれない。
残念ながら芭蕉の時代の名残を留めるものはなく、ただ観音堂の脇の小さな藤棚が、芭蕉が吉野へ行った時の句、
草臥て宿かる比や藤の花 芭蕉
を思い起こさせた。
その後、利根川の土手に登る。芭蕉はこの辺りから船で鹿島へと向ったのだろう。
布佐も屋根瓦をブルーシートで覆っている家が多く、石塀などのひびが入ったりしている箇所が目に付く。石材店の石灯籠の崩れたところなども、まだ片付いていない。ここも紛れもなく被災地だ。鹿島はここよりももっと被害が大きかったに違いない。
さすがに、ここから鹿島まで歩く気はしない。芭蕉も夜のうちに船に乗ったのだから、ここから先は車を使ってもいいだろう。
JR布佐駅をセーブポイントとし、四回に分けての深川芭蕉庵から布佐までの徒歩の旅は終わった。芭蕉はおそらく朝未明に深川から行徳まで船で行き、そこから布佐まで一日で歩いたのだろう。やはり昔の人はたいしたものだ。
今日は五時起床で五時十五分車で出発。
セーブポイント(布佐駅)までどう行けば早いかといろいろ考えたが、結局は首都高で市川まで行って、そこから鬼越へ行き木下街道へと、今までの総集編みたいになった。
市川を降りる頃から、雨がポツリポツリと降って来た。
鎌ヶ谷大仏まで約一時間、高速代千円。早朝で渋滞がないと車は早い。ただ、景色をゆっくり見ている暇はない。大仏はあっと思ったらもう通りすぎていたし、赤い庚申塔はよほど注意してないと見落とす。
ラーメン岩間のあたりで、若干薄日が射してきた。
布佐駅到着が六時四十三分。ほぼ一時間半。今日はここからスタートだ。
川沿いの道を通る予定でいたが、道路陥没のために通行止め。ここでも震災の爪あとが。線路沿いの道のほうに迂回するが、長門橋のところで大型車の通行規制をやってたり、ここでも震災の爪あとが。安食からようやく川沿いに出た。スーパー堤防の発祥の地らしく、スーパー堤防が続く。水門の辺りで車を止めたら、対岸に牛の姿が見えた。常総大橋の手前に七福神のストーンサークルみたいなのが見えたが、あれは何なのだろうか。宝船もある。
芭蕉の船が佐原のあたりから横利根川に入り、潮来の牛堀から常陸利根川を通り、北浦に出て大船津に上陸したものと思われるので、それに近いルートということで佐原から水郷大橋を渡り51号線を通って潮来から神宮橋を渡り鹿島に入った。途中、電柱が傾いているところもあり、道路も一部波を打ったみたいになっていた。屋根のブルーシートはすっかり見慣れた光景になっていた。
鹿島神宮到着は八時過ぎでほぼ三時間で着いた。
鳥居のあったところは土が円錐形に盛られ、注連縄がしてあった。大きな楼門があり、その裏側には普通は馬とかがあるのだが、ここではパックマン見たいな木に輪切りにした木に、稲妻のマークがあるものが幣といっしょに飾ってあった。
本殿の先に行くと鹿園があり、神鹿がいた。こっちの方を向いて「みーー」と鳴いていた。
鹿園の前に「さざれ石」というのがあった。左には日の丸の碑があり、右には「さざれ石の由来」という石に彫られた説明書きがあった。
「さざれ石(石灰質角礫岩)は、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝結し段々と大きくなり、ついには巌となり河川の侵食により地表に露出し苔むしたものであります。
国家『君が代』は天皇の御世の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもととなっており天皇の大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石の巌となりて苔のむすまで永く久しく栄えますようにという祈りの込められた歌であります」
「君が代」という言葉は、愛する人への愛の変わらぬことへの誓いの意味と、天皇に対する忠誠の意味と、常に両義的に用いられてきた。連歌ではこの両義性を利用して取り成され展開することも多かった。
ただ、中世以降になると、特定の天皇への直接的な忠誠心というよりも、広く天下そのものを指すようになっていたように思える。
心敬法師の
身を安くかくし置べき方もなし
治れとのみいのる君か代 心敬
の句は、応仁の乱で乱れた天下を憂いての句だ。
中世・近世を通じで、「君が代」がお祝いの席で最後に歌われた理由としては、この歌がむしろ天下泰平をことほぐ歌と解釈されていたからではなかったかと思われる。つまり、この平和な世の中が千代に八千代に続くように、と祈ったのである。
奥宮から右へ行ったところに要石があった。その途中に武甕槌(タケミカヅチ)の神がナマズを退治している石像があった。そんなに古くはない。武甕槌の神は雷属性だから水系のナマズと相性がいいのかもしれない。
要石の周りは新しい鳥居が立ち、取り囲む柵も新しく整備されたものだった。肝心の要意志は三十センチくらいの円盤状のものだった。これが地下にどれくらい深く埋まっているかはわからないという。水戸光圀公が七日七晩掘って調べようとしたが、次の日には穴が埋まって確かめられなかったという。つまりこれは猫箱だ。
地震は大地の底でナマズが暴れるために起こるものであり、この石がそのナマズを抑えているという説も、掘ってみないことには反証は不能。つまり地震の原因の科学的説明と神話的説明は並存可能ということになる。地震を起こすナマズがいることを証明するにはナマズを実際に示す必要があるが、それがいないことを証明することは悪魔の証明になり、否定は困難になる。
おそらく、水戸光圀公のエピソードは、神話を守ろうとする何者かによって穴が埋められ、検証を妨害されたか、あるいは掘ってみて、水戸光圀自身が真実を明らかにしない方がよいと判断したのであろう。
安政地震の時には鹿島神宮の武甕槌の神は大人気だったが、今は科学の時代となり、この震災にもかかわらず要石のあたりは人も少なくひっそりとしている。ただ、いつまでも余震が収まらない今の状況だと、この神様にお願いしてみたくもなる。原発を止められるかどうかは知らないが、
被災せし古戸に倦むも若葉かな
君が代が八千年でも、プルトニウム239の半減期は二万四千年とその三倍に当たる。日本はこれから長い年月にわたって放射線との共存は避けられない。
要石からさらに奥の方へ行ったら、道路に出てしまった。その向こう側にも鳥居があり小さな社があった。境内には庚申塔や猿田大神の石祠や新しそうな双体道祖神塔があった。
ふたたび鹿島神宮に戻り、御手洗(みたらし)池の傍の茶店でみたらし団子を食べた。結構大きく、三百円でお茶も出してくれた。茶店で団子をほおばると、気分はうっかり八兵衛だ。
ふたたび参道の方へ戻る。境内社の稲荷神社には老獪そうな顔をしたお狐さんがいた。
鹿島神宮をひと通り回る終えると車を駅前の市営駐車場(一日三百円)に移し、潮来へと芭蕉の道を歩いた。
まずは芭蕉が宿泊し、月見をしたという根本寺は、鹿島小前から51号線を下りていったところにあった。牡丹が咲いてて奇麗だった。
ひとつひとつ心の月を咲く牡丹
常夜灯崩れた後も牡丹かな
境内に芭蕉の句碑が二つあった。
月はやし梢ハ雨を持ながら 芭蕉
寺に寐てまこと顔なる月見哉 同
「寺に寐て」の句は『鹿島詣で』には出てこないが、『続虚栗』に「鹿島に詣ける比、宿根本寺」という前書きで収録されている。
近くに鎌足神社があり、道の反対側の崖の上には下生稲荷神社があった。ここにもお狐さんがいたが、ここまでまだ狛犬というものを見ていない。狛犬の習慣がなかったのだろうか。
神宮橋を渡った。風が強くひんやりとしていた。渡り終えると左へ北浦の堤防を歩いたが、ここもかなり地割れして波打っていた。
しばらく行くと、延方干拓排水機場の水門があり、その横には親水公園があり、川の周りにツツジが植えられ、奇麗に整備されていた。この辺りから右に曲がり、田んぼの中の道を歩いた。所々で田植えが行なわれていた。
道の駅の隣には瓦礫の集積場があった。材木、石などが分別され、積み上げられていたが、かなりの量だ。
道の駅から延方へ出ると途中に鳥居と小さな石祠があり、その前に小さな置物のような狛犬が2対置かれていた。これが今日の初狛犬。
潮来へと行く道沿いに三つほど神社があった。須賀天満宮には丸っこい可愛らしい狛犬がいた。昭和四十六年銘。辻二十三夜尊・月読神社には狛犬はなかった。水郷硯宮神社には大きな新しい狛犬があった。
さらに旧道を行くと、鹿島線の線路が見えてくる。この辺りに本間自準亭跡があるはずなのだが、よくわからなかった。天王橋のところに鳥居があったが、その付近だったようだ。
長勝寺をさがしてセイミヤの付近をうろうろするがよくわからないので、とりあえず潮来駅へ行く。駅にはガイドマップが置いてあるし、ついでに鹿島神宮駅への帰りの電車の時刻も見ておく。電車は一時間に一本あるかないかで乗り遅れたら大変だ。
ガイドマップを見ながら、前川あやめ園を越えて長勝寺に向う。橋は工事中で、あやめ祭りに間に合うといいが。長勝寺も静かで仁王門があったが仁王がいなかった。
芭蕉の句碑が二つあった。一つは発句・脇・第三の三つ物を刻んだ句碑で、
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ 松江(自準)
あきをこめたるくねの指杉 桃青(芭蕉)
月見んと汐引きのぼる船とめて ソラ(曾良)
これは『鹿島詣で』に「帰路自準に宿ス」という前書きで載っている。
もう一つの碑は『笈の小文』の旅立ちの句、
旅人と吾が名よばれむはつしぐれ 芭蕉
の句が記されていたらしいが、だいぶ風化していてよく読めなかった。
電車で鹿島神宮へ戻ると、朝は車で通り過ぎた参道へ行った。駅から参道へ通じる歩道もだいぶ被害を受けていた。参道へ出るとサッカーボールの像があった。
参道は昼でもひっそりとしていて寂しい感じだった。何か町全体が沈んだような感じがする。地震のご利益のある神様なのだから、こういう時こそみんなに参拝に来てほしいところなのに、何か自粛ムードでもあるのだろうか。
地元の人を元気付けるためにも、地元の経済に貢献するためにも、もっとたくさんの人が積極的に被災地に観光に行くと良いと思う。
火事と喧嘩は江戸の花とも言うくらいで、本来日本人は物見高い民族だったはずだし、被災地だってマスメディアやネットで見るよりも、実際に行ってみる方がはるかに本当のことがわかると思う。「百聞は一見にしかず」という言葉もあるし、もっと野次馬根性を出してもいいのではないかと思う。
ただ、もちろん節度は必要で、壊れた家の前に人が群がって記念写真をなんてのはどうかとも思うので、昔の人は「おかげ参り」といういい習慣を作ってくれたものだと思う。あくまで観光のついで、ということに留めたい。
駅に戻り車で鹿島スタジアムを見に行った。中にクレーンが入って修理していた。
帰りは、ほぼもと来た道を引き返した。途中気になっていた七福神を見に行った。下総利根宝船公園だった。(完)
鹿島神宮には要石があって、この石で地下の鯰を押さえつけて地震を防いでいるというので、安政地震の時には、鹿島大明神が鯰を退治している浮世絵がはやったという。
今度の地震でも、早く復興できるように祈るなら、やはり鹿島神宮かと思ったが、鹿島はさすがに遠いし、あのあたりもかなり被害を受けていて、鳥居が崩れたという。
鹿島までは無理となれば、近くに似たような物がないかと調べたら、あった。川崎市幸区の鹿島田。ここなら南武線が動いていれば行ける。ここにある鹿島大神社は鎌倉時代の創建で鹿島神宮の神を祭ったもので、後に新田開発が進み、ここの地名が鹿島田になったのだという。
鹿島大神社は南武線鹿島田駅よりは新川崎駅の方に近く、駅のすぐそばに鹿島田幼稚園があり、神社はその中だった。
普段は園児が遊んでいるのだろう。今日は日曜なので人も少なく、参拝にはちょうどよかった。狛犬は明治三十五年銘のものがあった。
このあと、夢見が崎の浅間神社まで散歩した。浅間神社は富士山を祀った神社であちこちにあるが、富士山真下を震源とした地震も起こっているし、噴火も心配だ。
こちらは動物園の中にあった。
雉、孔雀、ミーアキャット、プレーリードッグ、シマウマ、ペンギンなど、結構盛りだくさんだった。鹿もいたしシベリアヘラジカという大きな鹿もいた。レッサーパンダは残念ながら既にお亡くなりになっていた。
動物園の中に天照皇大神と浅間神社と熊野神社の三つの神社があった。
天照皇大神には狛犬はなく、弓を持った武者の像が左右に置かれていた。拝殿の右手には石祠が並んでいたが、弁才天社の石祠が倒れていた。震災によるものか。
浅間神社は富士塚になっていて、そのすぐ隣は熊野神社だった。
熊野神社には二対の狛犬と一対の武者像があり、手前の方の狛犬の台座に、「嘉永六年八月建立、昭和六十年十一月吉日改修」の銘があった。左側の玉取りの方は肩に子獅子が乗っていて面白いのだが、傷みがひどいのが残念。もう一対の方は大正九年の銘。
動物園は無料で、子供連れの人もちらほら来ていた。震災がなかったら、春の動物園祭りが行なわれ、もっとにぎわっていたところだろう。それでも、今日は暖かな日差しでほのぼのとした雰囲気で、ここは平和そのものだ。いろいろ先行き不安なこの国ではあるが、
鹿島田の夢見が崎は夢じゃない
しかと来ている春よ終るな