鈴呂屋日乗2014

12月31日

 今年一年が終わる。
 正月料理のほうはいつもより簡単にして、特に正月でもない普通の料理を多くした。
 「棺姫のチャイカXI」を読み終わった。アニメの方はとっくに終わっているが、大分内容が変わっている。あっちはダークな部分をカットした健全バージョンとでもいうべきか。
 アニメ版と連動しているなら、トールとチャイカが生きていてという後日談があるのか。そして、二人の記憶を取り戻すためにアカリが推理小説を書いて‥‥
 今年はいろいろな最終回を読んだ。「ムシウタ」「神様のいない日曜日」この二つはラブストーリーに落ちはついたが、結局何も変わっていない。「ヒカルが地球にいたころ」、てっきりもう一つの元ネタは「ヒカルの碁」だと思っていた。「サイハテの救世主」も一応今年だが、これは最終回というより打ち切りだろう。
 音楽の方は、日本のは今ひとつだったな。中国金属が今は一番面白い。Silent Resentment(寂静的幽怨)の「 Death Is Utopia」は2009年のだが、この曲にはふるえが来た。ボーカルのLibidoはか細い声と時折音程が不安定になるところが、どこか「螢」と共通している。
 来年はどんなものと出会えるかな。絶対に良い年にしたい。

12月28日

 韓国と日本の一人当たりのGDPが接近してきて、もうすぐ逆転するのではないかと言われている。これは円安ウォン高のせいでもあるのだろう。韓流ブームが急速に去っていったのも、ヘイトスピーチのせいと言うよりは、単純に韓流のコンテンツが割高になったからではないか。
 ASEANの給与水準も中国に迫っているという。地球規模での給料の平均化は着実に進んでいるのだろう。巨大なグローバル中間層が出現する日も近いと思えば、世界経済の未来もそんなに暗いものではない。
 日本で人手不足だから移民を入れろという議論が未だにあるが、円安で日本に働きに来ている外人も、かなり帰国しているのではないか。新興国はもとよりフロンティア諸国にまで今や少子化が進み、移民といってもそんな無尽蔵な人材が海外にあふれているわけではない。それらの国々もこれから経済がどんどん発展してゆくのだから、そうそう海外にくれてやるほど人が余ることもないだろう。
 今移民に大きく門戸を開放しても、わざわざ円安の日本に来る人はそういない。ただでさえ日本は労働時間当たりの生産性が先進国最低レベルなのだから、人手不足は労働の効率化でもって解決すべきだ。
 それに、少子化をあたかも日本固有の政治的問題であるかのように言う誤った宣伝はやめるべし。少子化は地球規模で例外なく起きている自然現象だ。おそらくは過密に対する生理的反応なのだろう。ネズミなら共食いを始め、サルなら子殺しを始めるところを、人間だから少子化という形で収まっていると考えた方がいい。
 保育園の騒音が問題になっているが、子供嫌いというのもそうした反応の一つなのだろう。伊武雅刀の「子供達を責めないで」はもうずいぶん前になるが、少子化の元になっているのは、誰も大声では言わないが潜在的に抱いてる子供嫌悪なのかもしれない。マタハラも根は同じなのだろう。
 日本が資本輸出国として生き残るには、技術だけでなく、ビジネスモデルにおいてもイノベーションを起こしていかなくてはならない。60年代の高度成長の夢よもう一度と言ってた世代が現役を退いて、新しい力がこの国に台頭してくれば、日本の未来もそんなに悪くはない。
 格差社会ということで一時的にマルクスの言う妖怪が復活することはあっても、結局今の段階で、資本主義の自由経済よりも効率のよい生産を他の手段で実現することは難しい。基本的には貧富の差はその人間のもって生まれた資質の差でどうしても生じるもので、大事なのは誰もが等しく金持ちになれるチャンスを与えられることと、失敗したときのセイフティーネットを確実にすることで挑戦する意欲をそがないことだ。
 セーフティーネットがないからリスクを避けるのか、リスクがないのを前提にしているからセーフティーネットに税金をかけたがらないのか、どっちにしても悪循環だ。不景気で失業すると、それだけで落伍者扱いで人格を疑われてしまうような社会では、結局どんな悪条件でも会社にしがみつくしかないし、新しい事業を始めるよりも、今やってる事業を1日でも長く持たせることが優先されてしまう。それがこの国の経済を停滞させている。
 プロ野球やサッカー選手やミュージシャンが高給取りでも、それを妬む人は少ない。それはチャンスが均等で実力がきちんと反映されていると感じるからだ。ビジネスの世界もそうしなければならない。
 日本人の幸福度は世界的にも高い。だからわざわざ今から貧しくする必要はない。ただ、唯一のネックは長時間労働だ。これは高度成長期に形成された終身雇用・年功序列の賃金体系が生んだエスカレーター式の人生にどっぷり漬かった世代の感覚が残っているからで、一人ひとりがきちんとリスクを受け入れて生きるようになれば、自ずと解決するはずだ。「正社員が夢」だ何て言ってる某政党の感覚が一番問題だ。
 アベノミクスを批判するならまさにここだというのは、地方再生や少子化対策に名を借りたばら撒き行政の復活だ。
 地方経済の衰退と日本経済の衰退の根は一つだ。その最たるものは敗北主義だ。TPPをやったら日本はアメリカに勝てるはずがないから日本経済は崩壊する。その発想が地方では、中央から大型店が入ってきたら市街地は壊滅するとなって、大型店をみんな郊外へ追いやってしまった。そのため人の流れは車で行ける郊外へと移り、駅前はどこもかしこもシャッターストリートだ。いい加減に目を覚ませ。集客力のある店舗を誘致しないで、どうやって市街地が活性化するというのだ。
 どうやらこの国では外から入ってくるものはすべて敵で、共存共栄という発想がないようだ。そんな偏狭な国は、それこそ辺境に取り残されるだけだ、なんて親父ギャグかましたりして。  地方交付金はいくらばら撒いても、市庁舎が立派になったり、閑散とした記念館・博物館・地域振興館などの箱物に消えるだけだ。民間が自分たちでしっかりと産業を興していかなくては基本的に駄目だ。だが、いくらいい物を作っても客が来ないのでは話にならない、そのために中央の大資本の集客力を借りるのはありだと思う。
 今の日本が抱えている問題は結局そんなに複雑なものではない。どうすればいいかはわかっているのだけど、でもリスクは負いたくない。だからいくらジリ貧になっても今のやり方でぎりぎりまで粘ろうとする。自分の生きているうちだけは持ちこたえてくれればいい。あとは野となれ山となれ。そうやって失われた20年が過ぎ、またこれからも失われた年月が続いてゆく。
 こうした勢力はイデオロギーの右左に関係なく存在する。そして、こうした勢力に足を引っ張られて、結局アベノミクスは失敗する。税収は伸びず、増税もできないまま財政は破綻し、IMFの支配下に落ちる。日本の逆襲は結局それからだ。日はまた昇る。日本の将来は明るい。

12月27日

 今年はいろいろなことがあった。
 正月に父母のところに行く前に買い物を頼まれて、その中にロキソニンSがあって、薬局にじいさんに高齢者がこの薬はということを言われ、医者にちゃんと見てもらうことを勧められたが、そのときに何か感じていればもう少し心構えができていたかもしれない。どっちにしても、すでに末期癌で結果は同じだったにしても。
 東海道を歩いて吉原の左富士を見たことは、ずいぶん昔のことのようだ。
 2月の初めにNISA口座ができたことと、そろそろ老後に向けてお金を貯めなければと思ったことから、証券会社の口座を作り投資家デビューしたのも、特に何か予感があったわけではなかったが、結果的に親父の遺産を受け継ぐ受け皿になった。
 相次いだ不幸の後、日記の方もホームページの方もなかなか書く気になれなかった。今もまだ、気持ち的には盛り上がらない。「源氏物語」の方も明石巻の途中で止まったままで、このままでは須磨帰りになりそうだ。
 あの頃は仕事でもろくなことなかった。大雪でチェーンが外れたり切れたり、小さな事故が続いたりした。気持ち的に落ち着かなかったのもあっただろう。雪の後は自家用車はパンクするし、会社の車では高速道路で立て続けに2回、何かを暗示するかのように飛び石で窓ガラスにまるで銃弾を受けたかのような丸いひびが入った。このまま仕事も家庭も何もかも失うのではないかと一時期は思った。
 夏になって相続関係が一段落すると、ようやく落ち着いてきた。そんなときに秋にまた仕事の方で別の部署に移り、配達するものも変わった。
 何か一気に老け込んだような、激動の一年がもうすぐ終わる。来年はせめて穏やかな年になってくれればな。

12月17日

 駄目な人間の方が多いというのは、例えば俺にこの会社の経営をやってくれと言われても、やはり「すみません、できません」だし、プロ野球の試合のバッターボックスに立ってくれと言われても、相手が二線級の投手だろうとかすりもしないだろう。そういうもので、大企業を動かせる人間もほんの一握りなら、プロ野球で年棒何億円も稼げるのもほんの一握りだ。
 中小企業の社長なら、もう少し数が多くなるし、やっと食っていける程度の個人店主ならもっと多い。野球でも最低年棒でやっている人間の数はもう少し多くなるし、プロになれなかった野球選手は数限りなくいる。
 たとえノーベル賞をもらった科学者でも、企業を経営しろといわれたり、バッターボックスに立てと言われても、多分「駄目」だろう。完全な人間などいないし、何か一つのことに秀でた人間すら、ほんの一握りで、あとは結局みんな、俺も含めて、何をやってもたいしたことのない駄目人間ということになる。
 そういうわけで、金持ちになれる人間は最初から限られている。残念ながら誰もがプールつきの豪邸に住めるような時代が来ることはない。結局人間というのは、与えられた遺伝子の多様性の一つを生きるしかない。
 世界経済は刻一刻と変わっていくもので、昨日儲かっていた仕事が明日も儲かるという保障はない。アベノミクスがたとえ大成功して、日本に未曾有の好景気が訪れたとしても、すべての人が儲かるということはない。やはり、儲かる業種もあれば、衰退してゆく業種も当然ある。まして今の状況では、衰退しているものの方が多いかもしれない。
 そんな中で、新しい事業に果敢にチャレンジして、成功を収める人は、やはり天才というべきだろう。たいていの人はどうしていいのかわからないまま時が過ぎてゆく。そして、政治が何とかしてくれるのを期待する。だが、我々にどうしていいのかわからないことは、政治家だってどうしていいかわからない。
 駄目なのはしょうがない。ただ、駄目な者が大勢寄り集まって、数の力に物を言わせて一握りの有能な人間を引き摺り下ろしたとしても、どうなるものでもない。やはり、ない頭でも一生懸命絞る方がいいのではないかと思う。天からお金が降ってくるのを待ってたところで、それこそあぶく銭身につかずだ。

12月16日

 株価が下がっているのは選挙とは関係なく、どうやら株というのは3月6月9月12月の節目で下がるらしい。ようやく慣れてきた。
 選挙の方は自民伸び悩みで民主微増、共産躍進、次世代惨敗で、赤い妖怪は着実に復活しつつあるようだ。数字を見る限り「自民圧勝」ではない。むしろ左翼復活の方向に振れたと見るべきであろう。
 人間には生まれながらに能力差があって、格差や不平等はどんなことをやっても必ず生じるものだ。しかし、できる奴は少数で、駄目な奴の方が数は多いとなると、駄目駄目連合でできる奴を引き摺り下ろすことができる。
 原始共産制は要するに、徹底的に出る杭を打ちつけ、全員を底辺の生活に繋ぎ止めていたにすぎない。そこから脱却し、何らかの豊かさを求めれば、そこに能力の差によって必ず不平等が生じる。
 赤い妖怪はいつの時代にもいる。富裕層の富を数の暴力でもって奪って配分すれば平等な世の中になる、という誘惑は常に庶民感情の中にある。
 ただ、それをやると結局万人が等しく貧しくなる。いくら平等でも貧乏は嫌だ。飢えたくはない、病気になっても治療できなくなる、それでもいいとはなかなか言えない。本当はわかっている、貧しさは人の心を荒ませ、人を不幸にすることを。だから、歴史はいつも最終的に豊かさを選んできた。
 富裕層を引き摺り下ろしたい、そのためには野党らしい野党に徹するべきだという声が一方にあり、でも貧乏や嫌だ、経済成長を選ぶ方が現実的だという声が一方にある。その間で揺れ動いている限り、野党再編はなかなか進まないのかもしれない。

11月30日

 分厚い中間層というが、実際のところ経済のグローバル化の中で、日本の中間層は日本だけのものではなく、他の先進国や新興国を合わせて、グローバル中間層が形成される過程にあると見るべきであろう。先進国と新興国の経済格差が解消される方向に向かうため、新興国ではまだ給料が上がるが、先進国では一般に給料は下がってゆくことになる。
 格差社会反対デモは、以前からアメリカやヨーロッパで起きていた。日本もそれに巻き込まれてゆくことになるだろう。もっとも、国内の格差が開いているだけで、新興国やフロンティア国の中間層との格差は縮んでいるのだが。
 グローバルな動きの中で、一国だけ最低賃金を引き上げたりして対抗しようとしても、結局企業が日本から出て行ってしまうだけで、かえって町に失業者があふれてしまうことになる。そういう意味で、残念ながら今のところ賃金低下には打つ手なしというところか。
 公務員の給料を減らして、それを民間人にばら撒いたとしても、基本的に国内の限られた富の再分配にすぎない。貧乏人同士での平均化にすぎない。グローバルな問題は、国内の規制強化やばら撒きではどうにもならない。
 グローバルな動きに対しては、一国だけで抵抗するよりも、むしろその大きな波に乗って発展を目指すことを考えた方が利口だ。その意味で、アベノミクスは基本的な方向性としては間違ってなかったのだが、結局官僚や自民党内の既得権派の圧力で骨抜きになったと見るべきであろう。
 今回の選挙で野党がアベノミクス批判票を集めて躍進したにせよ、結局自民の反安倍勢力を喜ばすだけで、これで給料が上がることはなさそうだ。
 やはり糞ったれの世の中だ。

11月28日

 リスクというのはいつの時代にもあったはずだ。
 人類がまだ狩猟で生計を立てていた頃は、何日も獲物が取れないこともあっただろう。農耕を始めても、不作や凶作のリスクは常に付いてまわっていた。労働者もまた常に解雇のリスクを背負っていた。
 ただ、戦後の日本はその意味では特殊だった。
 モータリゼーションとエレクトリゼーションによってもたらされた大規模な消費革命、数多くの破壊的イノベーションの複合によって、我々の身の回りの景色が一変したとき、日本の選んだ道は、労働者をリスクから解放することだった。
 まず、終身雇用、定期昇給による年功序列の賃金体系がそれだった。これによって、企業が倒産することさえなければ、エスカレーター式の人生が保証された。
 ただ、ノーリスクと引き換えに失ったのは、企業に抵抗する自由だった。これによって、日本の労働者はストすらできない過労死と隣り合わせの会社奴隷と化した。
 これは労働条件の改善を遅らせただけでなく、企業にしても労働時間当たりの生産性を向上のモチベーションを失い、先進国では最低レベルとなった。生産性を向上させなくても、単純に労働時間を延長すればより多くの利益が上がるという安易さが、日本の経済の停滞を招いた。
 そして、ノーリスク体質はその後の破壊的イノベーションを抑制し、新たな事業を開拓するエネルギーを押さえ込むことになった。
 結果、モータリゼーションとエレクトリゼーションが一通りいきわたる頃から、日本はこのリスクのない労働を守るため、恐ろしく保守的な国になっていった。
 今問われているのはそれを変えるかどうかの選択だ。
 相変わらずリスクのない人生を守ろうと、好き好んで正社員になってわざわざ会社奴隷になろうというなら、長時間労働低賃金に甘んじるべきだ。そんな糞ったれの人生が好きならそうすればいい。
 昔アナーキーが唄っていた。
 ♪自分を安全な場所においてるやつら、それでいいと思っるのかい、そんな態度で~
 今こそこういうロックスピリッツを取り戻したい。
 ブルーハーツも唄っていた。
 ♪原爆突きつけられても、水爆突きつけられても、糞ったれと言ってやる~

11月24日

 昨日は日比谷のギャラリーで石黒光男さんの絵を見に行った。定年退職して毎日絵を描けるようになったと言っていた。俺も後12年したら、文章を書くことに専念できる日が来るのかな。まだまだ大分先のことだ。
 その後日比谷を散歩した。よくわからないB級アイドルのイベントをやっていた。石垣に猫がいて、登れなくなっていたのか、下は池だし、無事脱出できるまでついつい見てしまった。
 池には大きな亀がいた。池の周りには大きな望遠レンズをつけたカメラを持ったバードウォッチャーがたくさんいた。
 鹿児島のアンテナショップでつけあげを買い、銀座の熊本のアンテナショップで九代目という球磨焼酎を買った。

 今日は東山道武蔵路の続きで、朝6時に出て本中野駅を9時にスタート。さすがに遠い。空は曇っている。
 東山道武蔵路も今日が最終回で、ここから足利までのショートコース。あとは観光して帰ることにしよう。
 県道20号線に出て少し行ったところの中野小学校の前に小さな塚があって小さな社があった。中には愛宕神社と書いたバケツがあった。その少し先にも小さなお稲荷さんがあった。
 左に曲がって国道122号線を少し行き、五料橋から小さな用水路沿いに進む。突き当たったところを右に行くと高島小学校の近くに四祀開(ししかい)神社があった。大正13年銘の狛犬は四角張った顔をしていた。このあたりには小さな塚の浅間神社が境内にある神社が多い。浅間山の噴火の記憶からか。
 この前噴火した御嶽山もそうだが、火山は神社として祭られていることが多い。これはもちろん火山の噴火を恐れてそれを鎮めるために祭るというものなのだろうけど、それだけでなく、危険な火山を神社の聖域として、修験者以外の一般人の立ち入りを制限するという意味もあったのではないかと思う。コノハナサクヤヒメを祭るだけあって、塚の前は冬でも花が咲いていた。
 小さな川を渡ると秋妻という所で、玉取神社がある。天長2年(825)創立という古さは、ここに古代道路が通っていた証拠にならないだろうか。平成12年銘の新しい狛犬があり、ここにも富士塚の浅間神社があった。
 ところで気になるのが、神社の前にあるリベットでつなぎ合わせたような大きな玉があることだ。玉取りだから玉はわかるが、これはひょっとして昔の機雷では。ネットで調べると、結構神社で機雷を祭っている例がある。竜宮の玉も近代では弾丸除けにご利益があるという信仰に変わって行ったのか。
 玉取り神社の裏から未舗装のあぜ道を行くと、また小さな川を渡る。このあたりはもうグンマーではなく栃木県に入る。
 県道に出てしばらく行き、右の用水路に沿った道を行くと、やがて東武線の踏切がある。この踏切を渡ったところに赤城神社がある。銘は読み取れなかったが新しそうな岡崎型の狛犬があった。
 しばらく線路沿いを行くとまた赤城神社があった。平成26年4月の銘の真新しい狛犬がある。赤城山が近いだけあって、赤城神社がこのあたりにはたくさんあるようだ。
 そのすぐ裏側には東武和泉駅がある。踏切を渡り再び線路沿いに行くとやがて広い道に出る。緑の屋根のお城のようなマンションがかなり目立つ。
 このあたりは健康ランドがあり島忠やヤマダ電機など、郊外型店舗が集中している。
 国道293号線に出て、渡良瀬川を渡るといよいよ旅も終わり。JR足利駅南口に出る。11時40分、1年に渡る東山道武蔵路の旅はここで終了する。1月13日に分倍河原を出て、しばらく両親を相次いで失い中断していたが、無事旅を終えることができた。

 さて、足利といえば、やはり足利学校だろう。といっても正直足利学校が何なのかはさっぱりわからない。足利秋祭りの期間内で入場無料だった。
 中に入ると孔子の像があり、その前に渡来系の狛犬があった。隣には稲荷神社がある。
 正面には孔子を祭る廟があり、湯島聖堂を思い出す。
 有名なだけあって人は結構来ている。紅葉も今が見ごろという感じだ。
 茅葺屋根の建物があり、ここは中に入れる。歴代徳川将軍の位牌が並んでいる。日本庭園もきれいに管理されている。悪くはないところだが、結局足利学校って何だったのかよくわからなかった。世界遺


産に推薦するなら、何かわかりやすい説明が欲しいな。

 そのあと中央通りにあるワインショップ和泉屋でココファームワインのヌーボー、「のぼっこ」を買った。
 あしかがフラワーパークの駐車場で足利グルメグランプリというB級グルメのイベントをやっているというので、そこで昼食にしようと、JR足利駅に戻り電車で隣の富田駅へ行った。もう徒歩旅行は終わったのだから、歩く必要はない。一駅とはいえ、結構距離がある。
 足利グルメグランプリは結構にぎわっていた。がらがらの店もあれば行列のできている店もあり、すでに完売した店もあった。1000円の投票券付きの金券を買い、まずは腹の膨れそうなものをと思い、チーズ入りもんじゃ焼きそばの列に並んだ。
 次にとり皮まきまき、それからしょうが焼きメンチカツ、これは誰も並んでなかった。100円分余ったのでコーヒーを飲んだ。
 どれもなかなかだったが、オリジナリティーという点ではやはりとり皮まきまきに一票。
 あしかがフラワーパークも足利秋祭りの期間内で入場無料だったので、入ってみた。さすがにこの季節だと花は少ない。アメジストセージはきれいに咲いていたが、あとはバラが少々残っているくらいだった。一番の売りの大きな藤棚は黄葉し、そこにイルミネーションの電球が取り付けられていた。あちこちにイルミネーションが用意されていて、夜になればさぞかし見事なものなのだろう。これが冬の一番の売りなのだろう。これもLEDのおかげとなると、さすがノーベル賞。
 電車で再び足利駅に戻り、渡良瀬川を渡って東武線足利市駅に行き、ここからまた電車に乗って隣の野洲山辺駅に行き、そこから歩いて下野國一社八幡宮へ行った。足利氏発祥の地の真新しい碑があった。
 狛犬は紀元2600年銘のものがあり、吽形の方は角がある。その裏にまた小さな狛犬があった。天保3年銘で、阿形の方は特に顔が丸っこくて可愛らしい。
 足利はワインもあればB級グルメもあり、「あしかがひめたま」という萌えキャラの幟が立ってたり、今まで行った地方都市の中でも結構頑張っている方だと思う。川を隔てて旧市街と新市街が歩いて行き来できる距離にあるのもいいのかもしれない。
 足利織姫神社は行きそびれたが、東武線の窓からそのきらびやかな建物を拝むことはできた。晴れているか雨が降っているかどちらかなら、山の紅葉ももっと美しく見えたのではないかと思うが、あいにくの曇り空だった。
 帰りは特急りょうもうで北千住まで乗っていった。4時に出て6時半には帰れた。

11月17日

 どうやらGDPの今年度マイナスが見えてきた。驚くようなことは何もない。アベノミクスでマスコミが散々大本営発表を繰り返して盛り上げたものの、生活の方は失われた何ちゃらの時代とほとんど変わっていない。
 何かと消費税のせいにされがちだが、消費税のアップがなくても似たり寄ったりの結果だったと思う。ただ、駆け込み需要の好景気がない分、初期のアベノミクスのインパクトが鈍く、その分今年の消費の落ち込みが目立たなかっただけだと思う。
 基本的に未だに失われた何ちゃらと同じで、生産過剰(需要不足)は続いている。給料が上がらないから物を買わないのではなく、給料が上がらない上にそれほど買うべきものもないから、簡単に我慢ができてしまうだけだ。
 日本の産業界は既得権を維持する傾向が強く、破壊的イノベーションを望まない。だからスマホゲームの課金システムなんかも正当に評価されず、いろいろ悪く言われるばかりだった。その結果、慢性的な過剰満足に陥っている。テレビが4Kになってもテレビを見ない人が増えているのだから、せいぜいテレビしか楽しみのないお年寄りが買うだけで、プラズマテレビの二の舞になるだけだ。
 この前「何でも鑑定団」であまりにも高価すぎて職人さんも使うことができなかったトンカチのことをやっていたが、日本の高度な技術はだんだんそれに近づいてきている。それは「純粋芸術」、つまり何かの役に立ってはいけないという意味での「芸術」の域に近づいてきている。
 過剰満足体質、生産過剰、需要不足体質が改善されない限り、日本は依然としてデフレ傾向を脱したわけではない。ただ消費税の便乗値上げと輸入品価格の高騰で、あたかもインフレになったように錯覚しているだけだ。
 逆に言えば、日本にはたくさんの無消費者層が存在する。潜在的にはいくらでも需要はある。ただ、日本の企業が売りたいものと消費者が買いたいものとが一致しないだけだ。
 日本は労働時間当たりの生産性が低い。ということは日本経済にはまだかなりの伸びしろがある。ただ、残念ながら安倍さんはそれを引き出すのに失敗した。日本はとっくに加工貿易国であることを止め、資本輸出国になっているというのに、相変わらず円安になればという幻想に縛られて失敗した。
 円建てで見れば株は上がったが、そもそも円安なのだから、グローバルに見れば日本の株は上がっていない。株価が上がったから景気が良くなったというのも幻想だ。投資家が儲けたのではない。投資をした人はかろうじて株高で円安による財産の目減りを防いだだけで、投資をしない庶民は円安の分だけグローバルに見れば多くの財産を減らしている。これがアベノミクスの正体だ。
 さて、解散総選挙ということだが、これだけアベノミクスの失敗で突っ込みどころがたくさんあるにもかかわらず、野党は見当はずれな批判を繰り返すだけで、どうすれば日本の潜在的な成長力を引き出せるかを示してはくれない。ただ「貧しいくても幸せな国」というたわごとを繰り返すだけだ。

11月7日

 『イノベーションの最終解』(クレイトン・M・クリステンセン、2014、翔泳社)を読み終えた。この本はあくまでアメリカ中心だが、法則自体はいろんなところに適応できる。
 日本も結構いろんなところで破壊的イノベーションを行ってきた。この本に書かれていたのはソニーのトランジスタラジオとNTT docomoのiモードだったが、最近のヒット商品を見てもこの法則はかなり当てはまりそうだ。
 スマホゲームも、既存ゲーム機が大容量の華麗なCDグラフィックに走りすぎて、開発コストが上昇しすぎたため、ゲーム自体は過去のヒット作の焼き直しが多くなる中、低予算で開発できるということで新進気鋭のゲーム作家が容易に参入できるようになったところでヒットにつながったのだろう。
 課金システムもいろいろ批判はあったが、遊んだ分だけ払うというのは合理的な考え方で、そんなに悪いものではない。既存ゲーム機のソフトは、大容量化するにつれてますます高額になり、前評判が高くて予約して大金はたいて買ったものの、やってみたらくそげーだったということがえてしてあったが、そのリスクがなくなったのは大きな進歩だ。
 電子書籍でも1巻無料というのがあるが、その応用といえよう。今読んでいる『魔法少女禁止法1』(伊藤ヒロ、2013、エンターブレイン)は89円だが、2巻は1350円する。やばい。
 ネット証券も手数料が10分の1以下というのは画期的だ。手数料が何千円もすると、それ払っても割が合うだけの高額な投資をしなければならないから、庶民ではなかなか手が出なかったが、ネット証券なら10万円でもはじめられる。俺も最初は10万から始めた。ちょうど新興国通貨が下落してたので新興国の高金利のMMFを買った。そのあとまた小遣いをためて最初に買った株が5万円弱のアサカ理研100株だった。
 昔は情報が限られたいたため、素人が株に手を出すにはハードルが高かった。会社情報というと会社四季報くらいだったが、今はどの企業もホームページを出していろんな情報を提供してくれる。株価を知るにも短波ラジオが頼りだったが、今ではネットで随時確認できる。
 そんな情報が絶対的に不足している時代には、証券会社の営業マンのコンサルティングに従って買うのが普通だった。そのコンサルティング料と、株の売買自体が人間が手サインでもって行ってたことが高い手数料の原因だったのだろう。

 話は変わるが、女性の社会進出が進まない最大の原因は、日本の長時間労働体質だと思う。
 男性でさえ過労死と隣り合わせの過酷な労働に女性を巻き込むということには、たいていの人には抵抗感があると思う。出産も育児も犠牲にして、いわば女を捨ててまで24時間365日闘う必要があるのか。一番の問題はそこだと思う。
 北欧並みに週32時間勤務になれば、女性の社会進出は一気に進むのは間違いない。要は男が一人で64時間働く社会がいいのか、男女で32時間ずつ、計64時間働く社会がいいのか、そういう問題だと思う。

11月3日

 今日は東山道武蔵路の続き。朝7時前に出て、行田市駅に着いたのが9時過ぎだった。だいぶ遠くまで来た。
 前回、さきたま古墳群から行田市まで急ぎ足で通り過ぎただけだったので、まずは市内観光をしてからさきたま古墳群に行き、続きを始めることにした。頑張れば一気に足利まで行けそうだが、その少し手前に東武小泉線の本中野駅があるので、とりあえずそこまでを目標にした。まずは忍城に向かった。
 忍城手前に東照宮・諏訪神社があった。
 入ってすぐ右が諏訪神社の拝殿で、昭和8年銘の狛犬があった。江戸狛犬で、阿形は子獅子と玉、吽形は子獅子二匹だった。
 隣には多度社・一目蓮社があり、奥に東照宮があった。東照宮には紀元2600年銘の狛犬があった。招魂社系で両方とも股間にはあれがあってオスだった。
 道路を渡ると忍城旧本丸で、行田市郷土博物館があった。ここから御三階櫓に登れる。古代の展示を見ると、行田市内の古墳の分布や旧盛徳寺から、古代の文化の中心は行田市の東側の方に集中していて、東山道武蔵路が通っていたとしたら、やはりさきたま古墳を経て北北西に向きを変えるルートが一番良いように思えた。

 最短コースを取るなら、元荒川を渡ったアピタ吹上店のあたりから真っ直ぐ北上するルートになるが、これだと忍城のあったと水城公園から行田市駅のあたりを突っ切ることになる。ただ、かつてこのあたりが沼地で、それを利用して忍城が建てられたことを考えると、このあたりは迂回したのではなかったかと思う。
 博物館の前では菊がたくさん飾られていた。城址公園の中にはあちこちに「蚊にご注意を!!」の立て札があった。代々木公園とはずいぶん離れているが、念のために蚊に刺されないようにとのことだった。
 このあと水城公園に行った。日本庭園があり、そ


の南側には大きなしのぶ池があって、釣りをしている人がたくさんいた。

 次に佐間天神社に行った。季節柄、七五三の子供が来ていた。昭和10年銘の狛犬があった。こちらは普通に子取り玉取りだった。
 佐間の交差点からさきたま古墳群に向かう途中に川端酒造の酒蔵があったが、日曜祝日は休みらしい。自販機で桝川純米生酒を買った。
 さきたま古墳群に辿り着いたのが11時だった。大衆食堂ことぶきやでフライを食べた。フライといっても揚げ物ではなくお好み焼きで、子供の頃鷺沼プールの帰りに的屋の屋台で食べたお好み焼きを思い出した。関東式のお好み焼きは生地を薄く敷いて、その上に具材を乗っけて作る。そして、食べやすいように半分に折って紙に包んであった。ここも同じような感じで、お皿の上に二つ折りにしたお好み焼きが乗っていた。350円で結構大きく、十分昼食になった。
 このあとふたたび丸墓山古墳に登った。今日は冬空で遠くの山もくっきり見えていた。赤城山や日光の山々が見えた。
 丸墓山古墳を越えて裏側からさきたま古墳群を後にしたが、北北西に進路をとろうにも武蔵水路が工事をやっているせいか、なかなかうまく進めなかった。
 ようやく武蔵水路の脇の道に出るが、歩道がなくて歩きにくい。長野の交差点から左右と進んで、ようやく北北東に向かう直線道路に出た。この長屋や富士見町のあたりの道路の傾斜とその先の斎条の道路の傾斜はほぼ一致する。古代の条里制の跡だという。
 道はやがて突き当たり、並行する一つ東側の道を行く。ベルクの前を通り、この道もやがて秩父鉄道に遮られる。
 秩父鉄道の踏切を越え、大きな通りに出て右へ行くと谷郷生コンの看板が見える。平城京で出土した木簡に、「武蔵国策覃郡宅子駅菱子一斗五升」とあり、「策覃郡」がさきたま郡のことで「宅子駅」が谷郷のことではないかと言われている。現在の地名ではここは長野で谷郷はもう少し西側になる。
 小見南交差点を曲がり、田んぼの方へ入ってゆき、しばらくするとまた北北西へ向かう直線道路に出るが、その途中に神社があった。鳥居の額の文字が上が五でその下に大神とあるのはわかるが、その間の字がよくわからない。後で調べたら、どうやら「所」という文字で五所神社だった。ここにも昭和9年銘の狛犬がある。全体に直線的でかくかくしている。
 直線道路に出て少し行くと、広い田んぼに出る。見渡す限りまっ平らな田んぼの向こうに、遠くの山がくっきり見える。西の方にあるぎざぎざした山は妙義山だろうか。その横は榛名山か。赤木山と日光山は行く方向に見える。東には筑波山も見える。南東にある山は秩父山系なのだろう。この道の傾斜が条里制の名残だとすれば、古代にもここは田んぼが広がる場所で、同じように周辺の山々が見渡せたのだろう。
 道はやがてわずかに右に曲がり、やがて県道に出る。興徳寺があり、その裏には利根川の土手が見えてくる。左斜め前に向かう小さな道を行くと、治子(はるこ)神社がある。拝殿の左裏には石塔のたくさん並んだ塚がある。中央の大きな石塔には、三笠山大神、御嶽山大神、海山大神と刻まれている。大正12年銘のやや面長の狛犬もあった。
 治子神社の裏の堤防を登ると、利根川が見えた。さすがに大きい。近くに武蔵大橋が見えていた。この橋は利根大堰の上に作られている。
 武蔵大橋は一応歩道があるものの、すぐ横を大型トラックがびゅんびゅん走る上、川を見下ろすと青い水は波立って、風も強く、何となく恐怖を感じる。長さはこの前荒川を渡ったときのほうが長いのかもしれないが、武蔵大橋もずいぶん長く感じられた。
 そして13時20分、ようやく橋を渡り終えるとそこはグンマーだ。といっても埼玉とそんなに変わらないように見えるが。ただ、「川と緑のまち、ようこそ千代田町へ」と書かれている。
 このあたりは上五箇という地名で、『続日本紀』宝亀2年10月27日(771年12月7日)条に「而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。」とある、この「五ケ驛」の候補地でもある。この「五ケ驛」を地名ではなく五つの駅とするせつの方が有力だったが、それは1989年に所沢の東の上遺跡の道路遺構が発見され、それが熊谷の方へ向かっていたため、「其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。」を、上野国の新田駅を出て下野国足利駅へ行くのが「便道」だけど、新田駅で曲がって上野国邑楽郡から五つの駅を経て武蔵国へ至る、と読むようになっただけのことだ。
 考古学の分野は一般的に物証が極めて少ないため、たった一つの発見でも定説が覆ることがある。それは人類の起源なんかでも、インドネシアでピテカントロプスが発見されればアジア起源説が有力になり、アウストラロピテクスが発見されればアフリカ起源説に傾き、ルーシーが発見されれば東アフリカ起源が定説となり、最近では西アフリカからも初期人類の化石が発見され、まだどこが起源かよくわからなくなってきているのといっしょで、2002年に西吉見条里遺跡の道路遺構が発見され、それがさきたま古墳の方を向いてるとなると、またわからなくなってくる。
 『続日本紀』の「而枉從上野國邑樂郡」の「而」の字は順接にも逆接にも用いられる。つまりこの文章は、足利駅までは便道で、そこから曲がって上野国邑楽郡を通り、五箇駅を経て武蔵国に至る、と読むこともできる。
 東山道武蔵路も府中から八幡前・若宮遺跡くらいまではある程度確定できるが、そこから先の道はあくまで推定路にすぎない。これから先、何らかの考古学的発見があれば、徐々に確定できる道は増えてゆくかもしれないが、今はとにかくあくまで推定路ということで、まだあくまで推理を楽しむ次元のものにすぎない。
 そういうわけで、群馬県邑楽郡千代田町上五箇を東山道武蔵路の一つの候補地として、ここから足利駅を目指すことになる。足利駅の位置もあくまで推定にすぎないのだが、一応足利市の国府野遺跡をその候補地とする説があるので、それに従う。この国府野遺跡は現在のJR足利駅の下で、くしくも今日の足利駅と古代の足利駅はほぼ一致している。
 そういうわけで、利根川の土手を降り、ここからまた北北西に向かうことになる。上五箇の交差点を通り、千代田町東部運動公園を横切り、北へ行くと白山神社があった。村社白山神社と書いてある石塔があるが、鳥居には雷電社と書いてある。境内には芭蕉の「梅が香にのっと日の出る山路かな」の句碑がある。もちろんこの句はここで詠まれたわけでも何でもない。地元俳人たちが芭蕉の功績を表してこういう句碑を立てるのはそんなに珍しいことではない。
 千代田消防署の方から北へ向かい県道20号線に出た後は、しばらく20号線を歩いた。右側に工場がたくさんある。
 狸塚を左に曲がり大黒の交差点を右に入ると、邑楽町役場の立派なタワーが見える。
 やがて20号線に戻るところに神明社があった。境内には田山花袋の歌碑があった。

 松原につづく萱原すすき原
     そぞろにこひしいにし昔の
               田山花袋

 平成5年銘の新しい狛犬もあった。岡崎型のようだが、顔が長く全体に荒削りな感じがする。
 ここから本中野駅まではすぐだった。15時40分本中野駅到着。あと2時間ちょっと歩けば足利まで行けるのだろうけど、その頃にはすっかり暗くなってしまうので、やはり今日はここまで。次回は10キロに満たないショートコースになる。まあ、足利もいろいろ見るところがあるから、東山道武蔵路の旅の終わりにはちょうどいいって所か。

11月2日

 今日は生田緑地ばら園へ行った。
 晴れで暑くなるという予報だったが、空は曇っていて気温も暑くなくちょうどよかった。
 バラの花もまだまだ十分咲いていた。
 作っていったサンドイッチを食べ、バラの香りに十分包まれた後、かわさき宙と緑の科学館のプラネタリウムに行った。
 チケットを買って開始まで時間があったので、公園内を散歩した。D51がペンキを塗りなおしたのか、やけにぴかぴかになっていた。

 岡本太郎美術館では「TARO」祭りをやっていて、館内には入らなかったが、外で「TAROと叩こう!」という太鼓の演奏のリハをやっているのを見た。

 プラネタリウムは昔南極観測船宗谷で一度だけ観測されたという、鳳凰座流星群のことをやっていた。南極観測船というと、俺の子供の頃は「ふじ」で、プラモデルに水中モーターをつけてお風呂で遊んだ記憶があるが、宗谷の記憶はない。ずいぶん昔の話だが、そのときの宗谷に乗っていた人が、今年鳳凰座流星群が復活するかもしれないというので、カナリヤ諸島へ見に行くとのことだった。中村純二先生(91歳)、見れるといいね。


11月1日

 9月の終わりには株価も下がるレアルも下がるで、年内はしばらく我慢の時かなと思ってたが、ここに来てブラジルの金利引き上げに日銀の追加緩和となって、アベノミクスも首の皮一枚でつながった感じだ。
 こうなるとつくづく今の世界を動かしているのは政治家ではないんだと思い知らされる。政治家は所詮つまらない政治資金のあら捜しでちくちくやりあっているだけで、アベノミクスが駄目だといっても誰もその対案を出す能力がない。
 日経平均がいくらになろうと、そんなものは株をやってない人にはほとんど影響しない。一口に庶民といっても、投資している庶民と投資してない庶民はまったく意識が違う。世界が株高に沸き立っても、投資してない庶民は完全に仲間はずれだ。
 特に若い世代の多くは投資以前に貯蓄すらなかなか難しい。せっかくNISA口座を作っても、10万20万がせいぜいだったりする。
 金を持っているのは祖父母の世代で、それを相続するのはまだかなり先のことだし、その時には相続税の増税が立ちふさがっている。
 人手不足でも企業は賃金を上げたくないから、ますます工場は海外に出て行くし、そうでなきゃ移民を受け入れろという話になる。どっちにしても一生懸命働くだけでは豊かになれない。
 ここにマルクスの言う妖怪が復活している。イスラム国を心情的に支えているのも、そうした人たちかもしれない。
 野党再編は絶望的だし、このままでは共産党と極右が勢力を伸ばすだけだろう。志位委員長のドヤ顔はあまり見たくないな。

10月22日

 田辺哲学の続き。
「種」というのは国家や民族のような客観的に把握された対象ではなく、むしろ生まれてきてこれまでさまざまな形で体験してきた、親兄弟、教師、ご近所、職場などのさまざまな「他人」から加えられてきた有形無形の圧力の総体と言った方がいい。
 ここで言う「他人」は自分に対して自分でないもの、「他者」のことで、親族に対しての他人ではない。
 この圧力は、自分を育ててくれた、今日の自分があるための礎ではあるものの、そこには様々な愛憎渦巻くドラマがあり、幸せだった瞬間もあれば傷ついたことも数多く、とても一言では言い表せないような矛盾を含んでいる。
 躾と虐待はいつだって紙一重だし、いじめられたりいじめたり、様々な理不尽の中で、結局すべてを受け入れざるをえなかった、そうした大きな力だ。過ぎてみれば、それは甘いノスタルジーかもしれないが、概ねそれは苦渋に満ちた人生なのである。
 それは「自分にとっては」過去の記憶にすぎない。しかし、自分の周囲の人にとってみれば、それぞれの意志を持ち行動する、それぞれの無数の未来が平行して存在している場でもある。
 過去が現在に決定的な拘束力を持っているのは、こうして積み重ねてきた人生経験に基づいて物事を判断し、行動を決定するからであり、それは単に過去にそう教えられたというだけのことではなく、自分の行動に対し他人がどう反応するかを予測する根拠にもなっているからだ。
 たとえば、旧日本軍が最新兵器を持って中国本土に乗り込んでいったとき、中国人がどう反応するかは日本人の過去の経験から推測されていた。つまり、たった四杯の黒船にあっけなく開国したことや、薩英戦争や下関戦争の記憶から、中国人も海を越えてやってきた近代兵器の圧倒的な力にひれ伏すだろう、という予測があった。このとき、秀吉の朝鮮出兵のときの補給路を軽視して行けるところまで行ったため、結局制海権を奪われ補給路を絶たれて惨敗したことを思い出せなかったのは残念だ。思い出していたら南京侵攻はもう少し時間をかけて慎重に行われたであろう。
 「所でかかる束縛を加える過去はいろいろ考えられますが、もっとも強く我々の規定される過去はどんなものかと云うと、それは単に人類の世界に起こった出来事ではなく、我々が属している種族の伝統となっているものである。」(p.48)
 ここでようやく田辺の「種の論理」が展開されることになる。
 それは決して過去に形成された習慣が惰性的に働くのではない。一人ひとりが様々な人生経験の中で学び、身に着けた知識や習慣は、未来の予測や他者の反応の予測にもかかわっている。
 「自分の属する種族以外の力が自分を動かすのも、種族を通して動かすのである。」(p.48)
 黒船が来て日本が開国したのはアメリカの圧力ではあるものの、外圧に対する反応の仕方は、我々の国民性に深くかかわっている。後に原爆が落ちて日本が連合国に屈したときも、日本はほとんど抵抗することなく速やかにアメリカの様々な提案を受け入れていった。長いものには巻かれろというのは、我々の先祖から受けついた知恵だ。
 「この種族というのを民族とか国民とか特に規定する必要は今ない。」(p.48~49)
 それは民族とか国民とかについて議論し、定義を試みるにしても、それは結局我々がそれぞれ生きて経験し、身につけたことが基礎になっているからだ。
 「どの場合にせよ、我々は我々がその中から生まれ、現在そこにあり、また将来の目標をあたえられて居る、そういう種族の規定力を脱却する事は出来ない事を認めねばならない。」(p.49)
 ただ、ここで注意する必要があるのは、この規定力は何ら神のような超越的な力で一人一人を拘束しているのではない。規定されるのも我々それぞれの一人一人ならば、規定するのもまた我々それぞれ一人ひとりなのである。いわば相互に規定し合い、牽制し合い、足を引っ張り合っているといってもいい。
 「人類という集団が私の行為に束縛を加える事はない。」(p.49)
 「之に反して例えば部落の習慣に反すれば、殺されるか、追放されるか、また追放されて外の部落で生活できなければやはり元の社会の束縛を受けねばならない。」(p.50)
 正確には人類の共通の遺伝子は我々の行為に束縛を加えている。たとえば、どのような言語を喋るかは生まれ育った集団に拘束されるだけで、人類の共通語というのはないが、ただ言語の習得能力を持つという点では「類」に拘束されている。チンパンジーは人間の3歳児程度の簡単な手話を学ぶことはできても、音声言語を学ぶことはできない。それは人間の言語を発話する器官が遺伝的に具わっていないからだ。音声言語を持つという点では、我々は「類」に拘束されている。
 同じように、喜怒哀楽の感情や顔の表情なども、我々はどんな未開社会にいってもそれらを共通言語とすることができる。「世界の共通言語は英語ではなくて笑顔」と高橋優が唄っていたとおりだ。
 そのほかにも人類は様々な世界共通のものを持っている。科学はどんな言語でも習得可能だ。原爆はアメリカ人が作ってもインド人が作っても同じように爆発する。経済もまた世界の共通言語といえるし、音楽も民族によって様々なものがあってもその根っこは共通している。道徳感情も、その根底は生物学的基礎によるもので、我々が唯一無二の親友を裏切ってはいけないと思うのは、種ではなく類によって規定されている。
 ただ、言語習得能力が生得的であっても、そこで学習される言語は無数に異なる。それと同じように、道徳感情の根底は共通してても、その上に様々な掟や仕来たりが作られ、それは確かに大きな拘束力を持っている。
 「部落の習慣に反すれば」というのはいわゆる「村八分」のことを言うのであろう。今日の「ハブる」の語源にもなっている。ただ、規定されるといってもこれは他人からそのような圧力を受けるというだけで、遺伝子の規定力に比べると遥かに自由がある。つまり、村八分をひとたび覚悟し、死ぬ気になれば、部落の習慣を打ち破ることもまったく不可能ではない。部落の習慣も時代によって変わっていくもので、それは自然に変わったのではなく、やはり変えようという人の心があってのことだ。
 あの戦争のときも、死ぬ気で抵抗した人はたくさんいた。そして実際殺された人もいた。種の規定力は絶対的なものではない。なぜなら、村八分は村という抽象的な存在が裁いているのではなく、あくまで村人一人一人の判断で裁いているにすぎないからだ。

10月21日

 日曜日の東松山へ行く電車の中で、『イノベーションの最終解』(クレイトン・M・クリステンセン、2014、翔泳社)の30パーセントから37パーセントくらいのところを読んだ。
 アメリカで盛んなネット系のビジネススクールは、そのうち日本でもはやるんだろうなと思うものの、ただ日本では実利よりも資格という考え方が根強く、資格さえあれば名前貸しでなんて考える人が多かったから、そこの常識が変わるかどうかだ。
 企業の人事担当も、直接その人間の能力を測るのではなく学歴とか資格とかに頼っている限り、実力より形式で、企画化された紺のスーツに体育会系の優位は変わらないだろう。要するに、学校教育の集団生活によくなじんで、さまざまな理不尽にも耐えてきたその忍耐力の方が、これから会社に入っても同じような状況が一生続くのだから必要だというわけだ。
 これから企業の方がその意識を変えてゆくなら、一流大学への進学コースからそれてでも、小学校のうちからビジネス教育に特化したようなネット塾が登場するかもしれない。英会話、IT、資本化教育の三拍子がそろえば、世界で戦える逸材を育てられるのではないかと思う。
 学校教育が限られた予算の中であれもこれもと詰め込みがちになるのは、アメリカでも一緒のようだ。こういう学校では、結局現実の問題解決のための思考力ではなく、教師の顔色をうかがって傾向と対策を練る能力ばかりが研ぎ澄まされてしまうものだ。自分で答を出すのではなく、教師が隠し持っている答を言い当てるのばかりがうまくなる。
 日本も今や貧困化が進み、学費が払えなくて進学を断念する人が少なくないから、そういう人をまずターゲットに、低予算で仕事の合間に学べるネット教育システムを作るといいかもしれない。資格や進学のためのものではなく、起業のためのスキルに特化したプログラムなら、無消費者の需要を掘り起こせるかもしれない。資格まで欲張ると、大原やユーキャンと競合してしまうから、なかなか厳しくなるのではないかと思う。
 ヒッキーでも昼はネット株で資金を貯め、夜に起業の勉強に励めば、そういう中から将来の日本経済を背負って立つ人間が現れるかもしれない。
 教育のイノベーションの後、この本は旅客機の話になる。なるほど、三菱が今になって急に旅客機を開発したのはそういうわけだったのか。後追いという感じもするが。

10月19日

 2週続けて台風だったので、ようやく今日東山道武蔵路の続き。目指すはさきたま古墳群というわけで、朝からFM横浜で流れているダイシンハウスのCMソングがぐるぐる回っている。歌詞がちょっと違うが。

 ♪ささささささ、北埼玉×2
  さきちゃん、たまちゃん、さきたま古墳、さきたま古墳
 (元歌は、北久里浜、だいちゃん、しんちゃん、ダイシンハウス)

 というわけで朝6時に家を出て8時15分に東松山駅を出発。9時には久米田付近の前回の終了地点に着いた。ここから一直線にといいたいところだが、途中荒川に橋がないので、大芦橋まで迂回しなくてはならない。
 長閑な農村風景の広がる中を歩き始めると、三ノ耕地遺跡の解説板があった。古代道路が通るだけあって、古代から開けていた地域なのだろう。
 少し行くと久米田神社があった。境内にある長乳歯大神の石塔が珍しい。道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)のことか。
 吉見中の横を通り、ふれあい広場入り口の方へ向ける道筋は、あちこちに柿の実がなっている。

 古代への道の標は柿の朱(あか)

 途中、横見神社があった。鳥居に「延喜式内」と書いてあり、古代道路のあるところにふさわしい古い神社のようだ。ここの拝殿の賽銭投入口が、格子状の窓のガラスを小さく斜めに切ったものだった。
 ふれあい広場入り口交差点の先で道は緩やかに左に曲げって行くが、ここを直進するあたりが、多分古代道路に近いのだろう。狭い道を行くと、右の方に熊野神社があった。このあたりから荒川の堤防が見えてくる。
 堤防の手前に「ふる里に帰った道標」という説明板のある石碑が建っていた。何でも行方不明になった供養塔を兼ねた道標が大田区山王の旧徳富蘇峰邸で見つかり、昭和60年に帰ってきたとのこと。きっとこういう田舎にある石塔を勝手に持ち去って、庭のアクセサリーにと売ってる人がいたんだろうな。
 その先にゴルフ場のレストハウスがあり、その裏からカートが堤防に登っていくのが見えた。堤防に登ってみると、その向こうにゴルフ場があった。堤防はサイクリングコースになっていた。
 東山道武蔵路はここでゴルフ場に遮られて、進めなくなる。ゴルフ場の向こうは荒川で、ここから堤防伝いに大芦橋まで行かなくてはならない。
 大芦橋は遠かった。荒川の河川敷はとにかく広い。もっとも、荒川が今の位置になったのは江戸時代初期の1629年(寛永6年)のことだという。それ以前は、荒川は今の元荒川で、越谷を経て中川に合流していた。大芦橋を渡り始めると、荒川の手前に小さな川があるが、本来ここにはこの和田吉野川しかなかった。東山道武蔵路も、あのゴルフ場の向こうでこの小さな川を渡っただけだったのだろう。

 長い橋を渡って川沿いに下ってゆくとコスモスアリーナふきあげがあり、河川敷にはコスモス畑があった。この辺でちょうど12時になった。
 ゴルフ場の対岸はこのもう少し川下で、堤防は工事中で堤防の下を通って、大体このあたりというところで再び堤防に登った。北東の方にアピタの看板が見えた。大体あの看板を目印に進めばさきたま古墳群のほうに行ける。
 田んぼの中の道をしばらく行くとバス通りに出る。そこを右に行ってすぐのところを左に入ると高崎線の踏切があり、そのすぐ先に元荒川がある。ここが昔の荒川だったのだろう。今は小さな川だが、かつては大きく蛇行する大河で、広大な河川敷があったのだろう。


 元荒川を渡る橋のすぐ横に三ツ木堰があり、その脇に小さな公園があった。蕪村と同時代の俳人、白雄の句碑が二つあった。

 馬ほこり蠅も忘れてひと間哉   白雄
 この中にわかきはたれそ屠蘇の酒 同

 このあとアピタ吹上店のラーメン十勝でたんめんを食べた。サラダとコーヒーが無料だったが、先を急ぐのでサラダだけ食べた。
 アピタの前の歩道橋を渡り、少し行くと袋神社があった。昔は女体社だったという。うちの近くの馬絹神社が女体神社だったのを思い出した。ここでも元荒川を鎮めるために人柱になった女がいたのだろうか。
 袋神社の前を左に曲がると、向こうに上越新幹線の線路が見えてくる。線路に沿って左に行くと、バス通りに出るところに神社があった。
 右へ行くと忍川を渡る橋があり、その先を左に曲がると伊奈利神社がある。大正15年銘のお狐さんがあった。
 その先を右に曲がると熊谷バイパスの下に出る。用水路に沿って左に行き、用水路の橋を渡って左に行くとさきたま古墳群の入り口に出た。目の前に奥の山古墳がある。向こう側に中の山古墳が見える。大体14時45分頃か、ついにさきたま古墳群に着いた。
 着いたとはいえ、別に古代史にそれほど詳しいわけではなく、たまたま古代道路には関心を持ったものの、こうやって古墳を見ても、でかいなーとは思うものの、正直よくわからない。とにかく広い敷地に人はあまり多くない。途中、移築民家があった。古代だけでなく、民家園のようなものもある。駐車場もがらがらだし、幸い捨て猫野良猫などの姿はない。
 とりあえず何とかと煙は高いところに昇るというわけで丸墓山古墳へ行ってみた。石田堤というのは、「のぼうの城」で有名になった行田の忍城の水攻めの際に石田三成が作らせた堤防だという。普通に歩道になっているが、高さはほとんどない。崩れて平たくなったにせよ、この幅ではもともとそんな高いものではなかったのだろう。せいぜい1メートルか高くて2メートルもあればいいくらい、というところだろう。
 ここへ来るまでの袋神社のあたりからも、石田堤が残っているらしいが、見た感じそれらしきものはなかった。まあ、1週間で28キロの堤防を築いたというくらいだから、ほとんどやっつけ仕事で、別にスーパー堤防のようなものを作ったわけではなく、ちょっと雨で増水したらすぐに流されてしまう程度のものだったのだろう。のぼう様の人柄とかそういうのがなくても、最初から作戦自体に無理があったのではなかったか。
 秀吉は備中高松城の水攻めが成功したことで天下を取ったが、過去の成功体験に縛られて失敗するというのはよくあることだ。
 丸墓山は高さ約19メートルで、登ると眺めがいい。その忍城とやらも見える。再現されたものらしい。石田三成もここに陣を張ったという。このあたりは見渡す限りまっ平らで、ほかに高いところがないから、昔は結構目立ったのだろう。東山道武蔵路もこの丸墓山をランドマークにして作った道だったのかもしれない。
 コンパスのない時代にどうやってあんな長い直線道路を作ったかは謎だが、俺が思うに、山か何かを目印にして、それに向けて山と重なる位置に櫓を並べていって作ったのではないかと思う。たとえ樹海でも、木の上に顔を出せるくらいの櫓が組めれば、遠くまで見渡すことができる。そこに一直線になるように櫓を並べ、櫓と櫓の間をつなぐように道路を作ってゆけば、何十キロという直線道路も作れたのではないかと思う。
 所沢の八国山の鞍部で向きを変えるところも、あえて麓を目指さずにわざわざ山を越えているのは、遠くから見えるところを目標に道を作っていたからだったかもしれないし、的場から越辺川までの直線も、その延長線上には後に松山城の築かれた山がある。
 一応せっかく来たからさきたま史跡の博物館にも入ってみた。国宝金錯銘鉄剣は雄略天皇の実在が証明されたとかで昔結構話題になったのは、ぼんやりと記憶にある。もともとはこんなに綺麗に字が読み取れる状態ではなかったはずなのだが、どういう処理をしたのだろうか。
 最後に前玉神社に行った。「延喜式」の載っている神社だが、その建っている場所が浅間塚古墳だから浅間神社になってた時期もあったのか、今も境内に浅間神社の社がある。
 入り口には延宝4年という芭蕉が江戸に出てきた年に立てられた鳥居がある。
 その先には狛犬がある。そういえばお狐さんは見たが、狛犬はこれが今日初めてだ。銘はないがなかなか古そうな風格のある狛犬だ。
 社務所には毛づやの綺麗な黒猫がいた。首輪をつけている。ここの神社の猫だろう。おみくじの箱の上に座って店番をしていた。部屋の中にも雉トラの猫がいた。
 境内社の明治神社は鳥居が崩れていた。ネットで調べてみると、2013年9月27日のブログでは健在で11月13日のブログでは壊れていたとあるから、その間に何かあったのだろう。
 今日の旅はここまでで、あとはそのまま秩父鉄道の行田市駅まで歩いた。

10月13日

 昨日のことになってしまったが、去年に続き今年も横浜オクトーバーフェストに行った。
 この日は横濱JAZZ PROMENADEもやっていて、桜木町の駅前でバンド演奏をやっていた。
 赤レンガ倉庫が見えてくると、後ろに急に何かビルが建ったように大きな船が止まっていた。飛鳥IIだった。
 まずはGRAFALCOヴァイスで、ふわっとやわらかい口当たりがいい。おつまみのジャーマンプレートはソーセージ、アイスバイン、ジャーマンポテト、ザワークラウトと、一通りそろっていた。
 テーブル席はいっぱいなので、芝生の方へ行くと飛鳥IIが見える。空は曇っていて、時折薄日がさす


程度だが、暑くもなく寒くもなくちょうどいい。

 2杯目はプランクのところで限定のものがまだ残っているとかで、ちょうど並んでる人もなくて名前は忘れたが黒いビールを買った。炒った麦の強い香りのするビールだった。
 おつまみにポムピンとプレッツェルを追加した。ポムピンは松ぼっくりの形をしたマッシュポテトフライで、食品の配送をしてた頃に冷凍物を運んでいたのを思い出した。
 今日はそこまでで明るいうちに帰った。
 去年の日記を見ると、山下公園まで歩いたり、ビールを4杯飲んだりしてた。1年で何だか老けたかな。

 「5月には1万7千円」なんていってたのが「夏には」になり、「年末には」になり、どうもそれも怪しくなってきた。
 景気が回復してないのは誰の眼にも明らかだろう。いろいろ数字をごまかしてみても、実際仕事は減っているし、株も下がっちゃったし。
 原因を外に求めようとすれば、確かにいくらでもある。ウクライナ、イスラム国、香港、エボラ出血熱、アルゼンチンの債務、不安要因はいくらでもある。
 ただ、やはり「物づくり」にこだわりすぎて世界経済から取り残されている、その付けが来ているというのもあるだろう。
 物づくりは安い労働力が武器だから、豊かになってしまったら終わりだ。いつまでも貧しい国で、「働けど働けど」の国を続けなくてはならない。豊かさを求めてしまうと、後続の新興国やフロンティア諸国に地位を明け渡さなくてはならない。
 こういう経済がグローバル化した世界では、国際賃金相場が平均化する傾向にあるので、フロンティア国の賃金は上がるが先進国の賃金は下がるしかない。賃金格差がある限り、工場は日本を離れてゆく。とっくに多くの工場が海外に出て行った後だから、いまさら円安になってもそのメリットは何もない。アベノミクスの好景気は、結局円高時代に海外に投資した人の含み資産が増えたというだけのことだったのかもしれない。
 日本の教育もあくまで労働者を育てる教育で、資本家を育てようとしなかった。これは財界も社会主義者も共犯だった。その結果、日本全体に投資=ギャンブル=悪という観念が広まり、才能ある若者たちも起業や投資には無関心で、みんなこぞって労働者になりたがる。とはいえ、今の日本が必要としているのはブラジル人並みの賃金で働いてくれる安い労働力で、日本の若者を雇用するくらいなら移民を受け入れろなんて言っている。結果、就職できずに派遣やフリーターやニートになるしかなくなる。
 NISAはたくさん貯金して低金利に嘆いていた高齢者を引き付けただけで、若者は口座を作ったものの、そこに投資する資金がない。若者ではないけど、俺だって親父の遺産を引き継がなかったなら、100万円の枠なんてとても使い切らなかった。子供NISAを作るよりも高齢者のNISA枠を増やした方がいい。
 日本は物づくりの国から資本輸出国へと大きく転換したが、残念ながら庶民はそこから仲間はずれに(疎外)されたままだ。だからといって、いまさら社会主義を目指して効率の悪い官僚経済にしても、今より確実に貧しくなるだけだ。野党再編が進まないのは、社会主義の吸引力が民主党の失敗で地に落ちてしまったからだ。自民党に対抗できる野党が可能だとしたら、自民党よりも資本主義的でなければならない。
 基本的に今資本主義の矛盾を解決するには、誰もが労働者の社会を作るのではなく、誰もが資本家になれる社会を創らなくてはならない。幸いなことにネット証券の登場で、高い手数料を払う必要がなくなり、10万円程度の元手でも実力しだいで巨万の富を築き上げるチャンスはできた。ただし、それこそ何万人に一人の世界だが。
 今からでも学校できちんとした資本家教育を行うなら、投資家の質を向上させることができ、チャンスを多くの人に平等にすることができる。だが、IT教育や英会話教育と一緒で、結局は誰がそれを教えるのかというところで行き詰ってしまう。教員免許制度をはじめとする根本的な教育改革が必要だ。
 あと、日本の社会が安定を優先する里山資本主義で、破壊的イノベーションを好まないことも、日本経済の行き詰まりの原因になっていると思う。IT革命に乗り遅れたのは、コンピューターの小型化が可能になったときでも、あくまで「家電」にこだわってマイコン家電の方に行ってしまったからだ。コンピューターが従来の家電とはまったく違ったツールになることに気付かなかった。
 ガラパゴス化というのは、別に日本だけの特殊な現象ではない。過剰満足に陥った業界に対し破壊的イノベーションが抑制されれば、当然過剰満足なままの状態が維持されるというだけのことだ。テレビが白黒からカラーになりハイビジョンになり、4Kになり8Kになっても所詮はテレビで、買い替え需要しか生じない。日本の高度な技術が単なる買い替え需要のために浪費されている限り、海外から来る破壊的イノベーションの波に抗すべくもない。
 3Dプリンターがこれだけ話題になっていても、家庭で物づくりという方向ではなく、物づくりはあくまで工場でやるものだという固定観念から、業務用の大型3Dプリンターという発想に陥ってしまっている。こういうものはただ金型屋を食うだけだ。
 それにフィギュアなんてものは大体マニア向けのものだから、大量生産にはなじまない。むしろ、よりマニアックなロングテール市場を狙わなくてはいけないのだから、家庭用3Dプリンターが普及すればダウンロード販売が主流になるだろう。
 再生可能エネルギーも、大手電力会社の一括集中型の送電網に頼っていたんでは、これ以上の発展は望めない。そのうち外資系電力会社の餌食になる。
 教育だって、ぼやぼやしてたらそのうちアメリカのネット系の教育システムに席を譲ることになる。

10月11日

 田辺哲学の続き。
 3回目の講義で「歴史の地域性」と「国家と人類、政治と文化」というテーマが提示され、ようやく「種の論理」の核心に入る。
 まず前回のおさらい。
 過去は過ぎ去ってもはやないにもかかわらず、現在において「無くして有る」。
 未来はまだないにもかかわらず、将来への企画として現在において「無くして有る」。
 現在は無であるが、無から過去・未来という有が生じる。
 ゆえに、
 「現在は過去と未来の時の間にあって而も成り立たしめるから永遠性をもつ。過去も未来もあらゆる時が成り立つのが現在である、現在は永遠であり、永遠は絶対無である。」(p.41~42)
 現在は現に在るのだから「有る」のではないかと思うのだが、田辺によると現在という無から過去も未来も作られることになる。過去も未来も現在も結局は意識が作り出したもので、無から生まれた有だというのであろう。無から作られる以上、それは自由だということになると、未来だけでなく、過去も自由に作ることができるわけだ。
 「たとえば我々は普通日本でも支那でも過去の歴史は一遍あったきりでもう動かすことの出来ないものと考えている。併し過去がどんな意味を持つかというに、決してそれは固定された意味を持っているものではなく、それは現在がいかに動くかによって、従ってまた未来に何が目指されて居るかによって決められるのである。」(p.42)
 確かに歴史は二度とそこに行って検証することはできない「もやは無い」ものだから、どうにでも好きなように解釈して「無いもの」を有らしめることができるのかもしれない。
 「そのことは何か歴史的な事件を例にとるまでもなく、私たちが自分自身の生活をとってみると明白である。たとえば私が或る過失を犯したとして、それは自然現象としては私の閲歴から消すことのできないもの、変わらないものとして一方向きに現在をも未来をも規定している。
 併しその過ちが歴史的現実としてどういうものであるかは、私がそれを現在の自分に如何に働きかけさせ如何に自己の行為の媒介にするかによって定まり、またこの現在は私が未来においてどういうことを為し得るかによって意味を変ずるものである。」(p.44~45)
 要するに実際のところ歴史的事実は物理的に存在していて、それを消すことはできないが、それをどう解釈するかは自由に決められるというわけだ。
 ここでまた現象学的独我論が顔を出している。自分には自由に決められても、他人はそうは思わない。違うだろうか。
 たとえば俺がかつて人を殺したことがあるとする。このことは自分の明るい未来のためには無かったことにしたい。自分一人で無かったことにするにしても、自分の中の記憶はそう簡単には書き換えできない。それでも、あれは仕方なかったんだ、相手が悪かったんだと自分に都合よく解釈してしゃあしゃあと生きてゆくことは不可能でない。過去に対する解釈の自由というのはその程度のものだ。
 しかし、世の中決して自分ひとりで生きているわけではない。殺された被害者の遺族にとって見れば、俺は殺人犯であり、死刑にしなけりゃ気がすまない。早く逮捕して裁判にかけろ、ということになる。
 さらには、そんな殺人鬼が大手を振って歩いていたんじゃ、いつ殺されるかわかったもんじゃない、と思う第三者もたくさんいる。
 かくして、自分では俺は殺していない、俺の過去は自分で自由に決められるんだ、と言ってみても、被害者の遺族や大勢の第三者がそれを許すはずもなく、俺は殺人犯として生きなくてはならなくなる。
 過去に対する自由というのはそういうもので、自分一人で生きているなら自由だが、社会生活を営む以上、過去は自分の未来だけでなく、大勢の他人の未来によっても決定される。
 田辺の挙げている例だと、
 「それで私が若し過ちを犯したからこそ却って更生し、再びそれを犯さないようにこれを超克して行けば、過ちは却って私にとっての恵みとなり、それに反してそれが縁になって何時までも習慣的に同じ過ちを繰り返すなら禍となるのである。」(p.45)
なのだが、ここではその過ちがただ自分一人の問題でしかないのに注意を払っておこう。飲み会で泥酔してゲロ吐いたくらいの過ちならこれでいいが、被害者のある過ちならこんな呑気なことは言ってられない。
 同じように、日本の歴史は日本人だけで決められるものではなく、中国の歴史は中国人だけで決められるものではない。歴史は「種」が決めるのではない。かといって人類全体で一つの歴史観を共有できるような状況にはまだなっていない。その意味では田辺の言う「類」が歴史を決めるわけでもない。歴史は実際のところ、大勢の不特定多数の「個」と複数の「種」のせめぎあいの中にある。

10月9日

 合田正人の『田辺元とハイデガー』(2013、PHP研究所 )を読み終えた。
 何やら「種」を友の声として友愛の哲学にし、いろいろとポストモダン哲学の言葉で飾り立てて、この哲学上のA級戦犯をポストモダンの先駆者として祭り上げ、マルクスに身をささげた英霊たちと合祀されてしまったようだ。
 本人が知ったらどう思うやら。
 まあ、結局日本の左翼というのはあの戦争を本気で反省するつもりなどこれっぽっちもないのだろう。責任を君が代や日の丸や天皇に擦り付けて自分だけ良い子になっているというか。

 ちょうど中村さんがノーベル賞を受賞した矢先、政府は社員の発明の特許権を企業のものにして、社員への報酬は就業規定で定めるという方針を打ち出した。
 これは諸刃の剣というもので、就業規定があまりに渋ければ、当然ながら優秀な研究者は集まらないし、今いる研究者も逃げてゆくことになる。才能のない研究者が安定した就職先というだけで居座り、お役目ご苦労で仕事をしていても、企業の発展につながらないのは言うまでもない。優秀な研究者を集めようと思えば、就業規定にそれなりの高額報酬を盛り込まなくてはならない。
 ただ、あらかじめきちんとその辺を契約しておけば、後で訴訟になって双方とも多額の訴訟費用を払うような事態が避けられるから、その点では悪くはない考え方だ。日本の優秀な頭脳をアメリカの企業に引き抜かれないよう、日本の企業もそこは頑張ってもらいたい。
 ノーベル賞といえば文学賞でまたまた落選した人がいたが、マスコミもロンドンのブックメーカーのオッズとか引き合いに出して過度に期待しすぎているのでは。多分ブックメーカーの評価が高いのは、日本人がそれだけ多額のお金を賭けてくれるからだと思う。まあ、ハルキストは毎年酒を飲む口実ができて、それはそれでいいのでは。
 平和賞では日本国憲法が候補なんて報道もあるが、それだったらノルウェー憲法を平和憲法にしちゃったら?ちなみにノルウェーにはもちろん軍隊があり徴兵制度もあるが、兵役を拒否して社会奉仕活動を選ぶこともできるという。

10月8日

 LEDは確かに画期的な技術だったが、ノーベル賞を取る頃ともなると、そろそろ過去の栄光ということになるのか。次はどうも量子ドットらしい。日本はついていけるのか。
 モータリゼーションとエレクトリゼーションは、それまで下僕や家畜にさせていたことを機械で代用した。IT革命は人間の思考の一部を機械に任せるようにした。次の消費革命は何を機械にさせることになるのだろうか。量子は人間の何の代わりになるのだろうか。
 50年代に起きたモータリゼーションとエレクトリゼーションの波も、電気や内燃機関の技術は20年代にはある程度出揃っていた。後はそれにインフラが追いつくのを待たねばならなかった。コンピューターも60年代には登場していたが、それを誰もが便利に使いこなせるようなOSやネットは90年代まで待たねばならなかった。
 今の最先端技術が次の消費革命を引き起こすとすれば、それはおそらく2040年代だろう。それまで世界はデフレと闘うことになるのか。

 田辺哲学の続きに行く前に。
 現象学的な他者認識の困難は、自己の思い描く未来と他人の思い描く未来が食い違ったとき、「あいつはあいつ、俺は俺」という当たり前の判断を困難にする。
 自分の未来は自分の「我」であり、他人の未来もまた自分の思い描く「自分でないもの」の一般として自己の外に強力な、ほとんど絶対者といえるようなものに仮定されてしまう。
 そこに単純な人間関係の悩みも、心の内の激しい矛盾や葛藤として認識される。
 「種の論理」もこうして生じた一つの妄想ではないかと思われる。それは自己ならざるもの、自己に対立するものの一般化であり、具体的な誰それではなくあくまで他人一般としての「種」を仮定しているのだ。
 「種」は「民族」とイコールになることも「国家」とイコールになることもない。もちろん人類全体のことでもない。それは自分の記憶の中にあるこれまで受けた他人からの圧力の総体なのである。それを受け入れることで自分という「個」が誕生する。それゆえ、「個」が集まって「種」になるようなことはない。
 田辺の時間論においても、過去をあたかもどうにもならないもののように自分にのしかかる圧力とし、それに対し未来の自由はほとんど奇跡的な、いわば宗教的飛躍を必要とするものに近かった。

10月6日

 「イスラム国」を全共闘だと評した人がいた。そのことで今さらながらにかつて赤軍派が中東へ行ってパレスチナ独立のために共闘したことを思い出した。
 そういえばテルアビブで銃を乱射した人も、赤軍派にスカウトされたっけ。
 イスラム国の背後には、多分こうした新左翼の末裔もいるのだろう。彼らは「反米」の名目があればイスラム原理主義者とも手を組む。新左翼ではなくても、ちゃんとした政党に属している人の中でも心情的にイスラム国を応援している人はいるのではないかと思う。
 新左翼は日本だけでなく、世界各地に大勢いた。それが今最後の戦いに挑んでいるのかもしれない。その意味ではあれは安田講堂なのかもしれない。
 あの頃の学生がいつも小脇に抱えていたのが「朝日ジャーナル」。その朝日も、こうして日本最大のデマゴーグ(大衆煽動装置)としての歴史的使命を終えてゆくのだろう。

 香港の民主化デモに対して、さすがに天安門の時のようには行かないか。あの頃と違って、中国はグローバル経済の中での重要な地位を占めるに至っているし、その分経済の外国への依存率も高くなっているから、経済制裁となればそれなりのダメージを受けるはずだ。
 それで、日本のしばき隊にヒントを得たのか、民主化デモに対して反対デモを煽っている。やくざのような反対デモと小競り合いがあったという報道もあるし、今朝のニュースではタクシーの反対デモの映像が映し出されていた。多分中国政府の提供した映像をそのまま流しているのだろう。
 これで収まらないとなると、最後の手段として考えられるのは、軍隊に私服を着せて反対デモをさせて民主化デモを一掃するという現代版便衣兵だ。あの国ならやりかねない。

 田辺哲学の続き。
 結局これは田辺自身のメンタリティーの弱さなのだろうか。
 現実を最初からどうにもならないものだと思い込み、それを受け入れるための後付けの理由を探す。そして、それはあくまで仮説であり相対的なのにもかかわらず、相対即絶対などという理屈にもなってない理屈でもって絶対的なものだと言い聞かす。さらには仏様を持ち出して、あたかもそれが仏教の教えであるかのように人に言い含める。学生たちの何人かはそれを真に受けて戦場へと向かったのだろう。
 ここには、あたかも他人が、あるいは他国が自分とは違う未来を思い描く独立した存在であることが認識されてないかのような節がある。他者はただ壁のように過去の遺物としてそこにあり、それ相手に自分一人でもがいているように見える。
 そして、後に敗戦が濃厚になると、急に懺悔を始めるわけだが、基本的な思想はほとんど変わってない。現実の変化に闘おうともせず、ただ従順に後付けの理由を探すだけだ。
 相対即絶対という理論を正当化する根拠として示されるのは、アウグスティヌスの「永遠の今」というわけで、この後その説明に入る。とはいっても、アウグスティヌスの時間論を紹介するのではない。田辺自身の時間論を展開する。
 「過去が現在にあるとは我々の意識とか記憶の中に我々の働きを制約するものとして働いていることである。」(p.30)
 記憶は確かに我々の行動に何らかの影響を与えている。一つの情報として、経験上ここはこうした方がいいという助言を得られるし、繰り返し習い体得したことは、体が勝手に動くところまで肉体化されている。いわゆる運動記憶になっているものは、たとえ記憶喪失になったとしても失われることはない。記憶を失った人が見事にピアノを弾きこなせたりするのもそのためだ。
 記憶の一部は、特に強い恐怖によって刻印されたものに関しては、しばしば強迫観念となって我々の行動を縛り付ける。また、こうした強迫観念は「偽記憶」として吹き込まれることもある。
 「過去は過ぎ去っていながら『ある』もの、現在を必然的に規定しているものである。」(p.30)
 ここでもあくまで「必然」が強調されているのが気になるところだ。後でどうせ未来は自由だと言うのだから、それならそれほどの必然でもないってことにならないか。
 物理現象としての時間ではなく、ここではあくまでも現象学的な心理的時間なのだから、それほど強力な必然によって支配されているわけではないし、記憶自身も変容しやすく、つらい思い出もいつの間にか甘いノスタルジーに変わっているものだ。
 「併し現在に『ある』なら過去ではない。過去というからには同時に過ぎ去っていなければならない。それで過去は『なくてある』というより外に言いようのないものなのである。」(p.30)
 過去は過ぎ去って「すでにない」。すでにないものが今「ある」。これは時間の現象学ではおなじみのパラドックスだ。未来に関しても「まだない」。まだないものが今「ある」。時間は「ないもの」が「ある」。
 時間の認識というのはおそらく意識の成立に根本的にかかわるものであり、物理的には本来存在しないはずの「同時」というのを認識させるところに可逆性が生じ、さまざまなシミュレーションが可能になる。人間はほんの少しだけ時間を止めて、その順序を入れ替えるところに「自由」を感じている。それが何によって生じるものなのかはいまだに開明されていない。それは霊魂の存在を示すものなのか、それとも量子力学的な場によって生じるものなのか、猫箱はまだ空いていない。
 人間はとにかく、「すでにない」ものや「まだない」ものを同じ現在の「ある」という土俵に乗せることで、意識というものを成立させている。
 「而して時は過去と未来とが互いに対立しながら結びついておるものであり、その転化し合う所が現在である。若し時間が直線的な川の流れのようなものなら一つの統一を形作ることはできない。時は円環をなしていると云わねばならない。併し唯円環だけでは時は成り立たない。一方では直線的に考えられる面もなければならない。」(p.33)
 物理学的な時間は四次元かあるいはそれ以上の次元を持つ高次時空であり、そこでは時間は同時に空間であり空間は同時に時間である。それを我々は三次元空間プラス直線的時間というふうに認識する。この認識を成り立たせているものが我々の時間意識であるため、時間は空間を持つとともに、その空間が直線的に変化するものとして認識される。
 現象学は時間空間がどのように我々に意識されるかを教えてくれるが、時間そのもの、空間そのものはそこから演繹されることはない。それはあくまで我々の意識の外にあり、物理学的に仮説検証を繰り返すしかない。ただ当時は相対性理論も量子力学も始まったばかりで、哲学者たちはまだその意義を十分に吸収できてなくて、ベルグソンのようにこのような物理学的時間は空間にすぎないなどというのが一般的に通っていた。ハイデッガーも時間そのものを開明しようとする時点で現象学の限界にぶつかり、結局『存在と時間』は完成することなく終わってしまった。

10月4日

 結局マルクス主義者にとって歴史とは「作る」ものだったんだ。為政者が自分たちの都合のいいように歴史をゆがめるのに対抗して、プロレタリアートも一つの「歴史」を作るというのがその基本的なコンセプトだった。
 彼らにとって歴史はイデオロギーに他ならず、それは階級闘争の道具にすぎなかった。だから歴史をどのように改変しようが、プロレタリアート革命のためという名目がつくなら、なんら罪悪感はなかった。
 そして、自分たちだけでは体制を揺るがすことができないと知ると、彼らは「外圧」に頼るようになった。
 旧日本軍の闇の部分だけを増幅し誇張した、政府見解とは別のもう一つの「歴史」を戦勝国の間に広め、戦勝国の圧力を利用してこの国を動かそうとした。
 こうしてばら撒いた歴史観が結局東アジアの大きな溝となっている。
 そして「つくる会」も同じようにまた歴史を作ろうとしている。
 歴史的真実はどうにでも作れるものだというのは誰が教えたことだったのか。田辺だったのかもしれない。

 田辺哲学の続き。
 ここから次の時間の講義になるのだが、講義の初めに前回の概略を一応まとめておいてくれている。
 「この前の話の要点は、歴史的現実は過去のもつ必然性の結果として動かすことの出来ない、どうにもならないものであり、而もそれが我々の未来において自由に自己を決断する可能性の媒介であると云うのであります。」(p.20)
 歴史的現実があたかも物理現象か何かであるかのように、過去の必然性の結果とされているが、実際の現実はいろいろな人のいろいろな思惑が絡んだ、人それぞれの過去を背負い人それぞれの未来を夢見、それが互いにぶつかり合いながら雑然としている状態と考えた方がいい。
 歴史的現実が過去の必然だとすれば、それは現実を何らかの歴史観でもって必然があるかのように解釈した結果であり、それは、案外見方を変えればどうにでも動いてしまう。
 たとえば、1937年の日本軍の南京侵攻は一体何の必然性の結果だというのであろうか。その後の中国の抵抗は何の必然性の結果だったのだろうか。戦争の泥沼化による1940年の東京オリンピックの中止は何の必然性の結果だったのだろうか。こうした問いに田辺が答えてくれるわけではない。ただ漠然と「過去のもつ必然性の結果として動かすことの出来ない」といわれてもどうしようもないのではないか。ただ、それが起きてしまったということは動かしがたい現実なのだが、それが必然なのか偶然なのか、必然だとしたらどういう必然によるものなのか、一体誰にわかるというのだろうか。
 「我々はこのどうにもならないという所を手離してはならぬ。それを忘れず捨てず、自己と現実とが隔てのないものになるとき、このどうにもならない必然が却ってどうにでもなるのであり、その中に自由の天地が開けて来るのである。」(p.20)
 どうにもならないものがどうにかなるというのは、初めからどうにかなるものだったのではないのか。つまり必然はあったとしても、誰もその必然は認識できない。誰にも認識されてないなら、必然はないのと同じだ。つまり、最初からどうにもならないなんてものはなく、自分の自由の意志によって切り開くしかなかったのではないか。
 このことの一つの例として、田辺は泥棒の技を息子に教える親方の話を始める。それは息子を連れて金持ちの家に泥棒に入り、立派な着物の入った櫃に息子を入らせてから蓋をして鍵をかけ、自分は外に逃げて「泥棒が入った」と叫ぶという、要するに息子を谷底に突き落として這い上がってこれるかどうかを試したわけだ。もちろん息子はいろいろ機転を利かせ、無事に逃げ帰ってくるのだが、それが過去の必然によって動かすことの出来ない現実を媒介として自由な自己の決断を行った例とされている。
 もちろん、この息子は物理法則に反して鍵を解除したわけではない。音を立ててネズミがいると思わせ、その家の女中を騙して開けさせたにすぎない。それは、どんな困難な現実でも、それが人間の自由な意志によって作られた現実である以上、人間の意志を(騙してでも)変えさせれば現実は動くということなのでは。禅の奥義を持ち出すまでもない。
 しかし、この例は当時の日本の一つの現実の隠喩であるとするなら、笑ってもいられない。
 つまり、裕福な西洋列強に対し貧しい日本人が生きていくには泥棒(侵略戦争)をしなくてはならない。これに対し、それを非難するのは、西洋と日本の経済格差を棚に挙げて一方的に侵略そのものが悪いというのは神の視点であり、歴史の外でものを考えている、というわけだ。
 まあ、豊かな西洋に勇敢にも盗みに入るのなら、アジアの国々は拍手喝采しただろう。日露戦争のときのように。しかし、日本よりもさらに貧しい中国を叩いても、それは弱いものいじめというやつだ。結局日本はこの後アメリカの参戦で一気に敗戦への道を進むことになる。
 「実際現実を上から、超越的に批判する規準はないのである。これをはっきり腹に入れることが第一に必要である。歴史的であるとは一切が歴史的に相対的であるという事である。」(p.25)
 そしてさらに田辺はこのあと「相対即絶対」の議論を展開する。
 「相対が動く、その活動の中には一々が絶対であると云う所がある。これは我々が時の構造を語る際に、この現在の中には永遠即ち時を超えたものがあり、それが時を成り立たせるのだと言ったのと連関してお分かりになるでしょう。」(p.25)
 永遠の今というのは、今この瞬間であっても、この瞬間の意識が過去や未来を成り立たせているのだから、永遠というのも結局は今この一瞬のことなのだという逆説で、これを当てはめろというなら、歴史の評価が相対的であっても、その相対的な意識でしか歴史の絶対を語ることが出来ないのだから、相対的な意識が絶対なのだ、ということになるのか。
 歴史が絶対的な法則の必然によって成立しているのではなく、あくまで今いる人間のそれぞれの自由意志の複合であるなら、その意思を変えさせれば歴史は動く。しかし、本当にその意思を変えさせようと思うのなら、相対即絶対なんて論理はないだろうと思う。
 逆に言えば、中国人にしても、日本人の侵略の意思を変えさせるには、騙してでもそれを力づくで防ぎきらなくてはならない。たとえば便衣兵という民間人に偽装しが兵隊を使い、民間人を装って日本軍のいるところに近づき、一気に奇襲攻撃をかけるというのも「有り」ということになる。その善悪は神の視点で裁くことが出来ない。あくまで相対的なものであり、相対即絶対である、というブーメランに陥るだけなのである。
 これは言い方を変えれば、善悪は仮説と検証の繰り返しだということであり、ある行為をやってみて、その正しさは結果が決めるということだ。
 田辺は物理学を例にとって、物理学の真理といえども絶対的なものではなく、仮説検証の繰り返しでより精度を高めてゆくことを指摘して、歴史もそれと同じだとしているが、それなら歴史的真実は絶対的ではないと言えばそれですむところに、この相対即絶対の理屈で絶対的真理がそこにあるかのように言いくるめる。
 「自然の場合、絶対的な真理が一挙に掴めないからといって真理がないと云う人はないであろう。我々にとって生きてゆくのにもっと重大厳粛なものである歴史的現実について、一挙に確定せられる理念がないからといって絶対的なものがないというのは不公平であり抽象である。」(p.28)
 自然の場合絶対的な真理はないが、真理の近似値である相対的な真理ならある。歴史的現実についても同じように一挙に確定せられる理念はないが、それに近い未確定な理念ならある。それで十分公平なはずだ。その未確定の理念が絶対的であるとするなら、自然科学の仮説もすべて絶対的としなくては公平ではない。

10月3日

 田辺哲学の続き。
 現象学的内省法では、基本的に他者認識が説明できない。
 他人が自分と同じようなものでありながらやはり違う「他人」であるという認識は、おそらくは遺伝的に形成されたものであり、本来は肉体の次元で説明されるべきものであろう。
 ところで、哲学は肉体ではなく精神の学であり、現象学は精神現象学だ。となると、他者は精神の次元で説明されなくてはならないから、結局は他人は言葉を介することで認識されるということになり、言語は自己と他者を超越した存在だということになる。
 他者が言語によってしか認識されないのであれば、他者の未来はただ他人の過去に発した言葉から推測されるにすぎない。つまり、他人が何を思おうが、それは自分にとっては過去にすぎないということになる。
 そういうわけで、「現実」がなぜ動かしがたく我々の前に立ちはだかるかは、現象学的には他人の未来ということでは説明できない。ただ自分自身に現れた過去が動かしがたいだけのものとなる。
 過去が単なる記憶であれば、それは容易に改変されてしまうわけだが、この当時そのような心理学的なことは問題になってない。むしろ、過去は現在の原因として認識される。現実が我々の前に立ちふさがるのは、そこで過去の因果による必然があるからだというふうに認識される。
 「過去の必然性と未来の可能性の結びつくのが永遠の現在である。歴史は直線的に滝が落ち水が流れているようなものと考える事は出来ない。歴史は過去から押す力と未来から決定する力との、相反対する二つの力が結び合い、交互相媒介する円環に成立するのであります。」(p.16)
 こういうふうに言うといかにも深遠な哲学がそこにあるように見える。しかし、これは結局歴史は過去によって決定されるが、未来は開かれているという、それだけのことにすぎない。だが、それが一人の人間にとって現れるのではなく、何十億という人間にとって、その数だけの過去の必然性があって、未来があるということが忘却されている。
 歴史は現在生きている膨大な数の人間のそれぞれの過去認識があって、そこから思い描くあまりに多様すぎる未来によって形成されている。
 「歴史は必然の自由である。」(p.19)と田辺は言うが、正確には「歴史は人の数だけある必然の自由である」と言うべきであろう。
 歴史は各自にとって明確な必然性を持つものであっても、それはあくまで各自のものであり、その記憶はあいまいで、容易に改変されてしまう性格のものであることは、今日では疑いようもない。
 「戦争の記憶を風化させるな」ということがよく言われるが、記憶は時が立つにつれ変容し、その中には後から人づてに聞いた話や、意図的に誘導されて「そんなこともあったかもしれない」というような実際になかった記憶が付け加わったりする。
 それは、その人にとってはいかにも確実で間違いのない記憶に思えるのだが、他人の記憶や古い資料に照らし合わせると、何らかの形で矛盾が出てきてしまう。こうして、過去の歴史というのは、無数に違うバージョンのものが形成され、それが政治的対立を引き起こし、えてして将来の戦争の火種になりかねない。それが歴史問題の難しさと限界といえよう。
 「戦争の記憶を風化させるな」というなら、何十年もたった後のあやふやな老人の証言を求めるよりも、戦後間もない頃の証言をきちんと保存し、誰もがアクセスできるようにすることが肝心なのは言うまでもない。
 歴史は開かれた未来からの働きかけによっていくらでも改変されてしまうようなあやふやのものであり、その改変された歴史を根拠にまた偏った未来を思い描くという、どうしようもない「円環」という名の悪循環を生むということを忘れてはならない。

 なお、従軍慰安婦の問題だが、もちろん強制連行があったとしたらそれは明確な犯罪だから、たとえあったとしても簡単に証拠を残すようなことを当時の軍部がするはずがない。そのため従軍慰安婦の強制連行は長いことグレーゾーンとして語り継がれてきた。
 建前としてはそれは存在しないが、実際に陰ではあってもおかしくなかった。思うように志願者が集まらなければ、末端の方で良からぬことをする連中がいてもおかしくないし、そうでなくても戦時には単純な強姦事件が多発する状況にあるから、一部に暴走する連中もいたであろう。
 また、売春婦の名目で連れてこられたにせよ、その労働環境が苛酷で肉便器状態にあったことは十分想像できる。
 朝日新聞の例の誤報は、おそらくは遥かに時間が経過した後に様々な暗示によって吹き込まれた偽記憶だと思われるが、黒が否定されただけで白が証明されたわけではない。従軍慰安婦の強制連行はあくまでグレーとして扱うべきであろう。

10月1日

 再生可能エネルギーの新規買い取りを北海道電力、東北電力、四国電力、九州電力の四社が停止した。まあ、来るべきものが来たかという感じだが。
 既存電力会社の電力供給システムは、水力・火力・原子力といった大規模な発電所から広範囲な地域に一律の送ることを前提に作られているのだから、地産地消的な小規模の再生可能エネルギーを前提としていない。だからといって、こうした既存の電力大手にシステムを根本的に新しくする意思はない。あくまで原発再稼動にこだわり続け、既存のビジネスモデルを守ろうとしている。
 再生可能エネルギーを推進するには、本来はこうした既存のシステムから脱して、小規模電力供給網のネットワーク化という破壊的イノベーションが必要とされる。そのために電力の自由化が必要だったわけだが、その電力自由化が実施される前に既存電力会社は先手を打って攻撃に出たというわけだ。電力自由化までに再生可能エネルギーを潰しておけば、枕を高くして眠れるわけだ。
 タイミング的にも、たとえばウエストHDが株式会社ウエスト電力を立ち上げた矢先のことだ。こうした新興勢力が独自の売電網を調えてしまうと、既存電力会社は劣勢にならざるを得ない。通信事業でかつて電電公社が独占していたところにAUやソフトバンクが台頭してきたようなことが起こりうるからだ。
 しかし、既存電力が再生可能エネルギーという破壊的イノベーションに対し、吸収という形ではなく対決という方向に出るなら、それは世界的な流れに逆行することになり、目先の利益は十分確保できても、長期的にはエネルギー産業の進化に取り残されることになるだろう。
 逆に再生可能エネルギーを推進する側も、従来の集中型の送電網ではなく、独自の分散型送電ネットワークを作らなくてはならない。単に買い取り制度があるから安定しているだとか、いかにも地球環境に貢献しているようなポーズが取れるだとかいう安易さで参入しているところは淘汰されるだろう。  また、再生可能エネルギーの技術そのものも進化させなくてはならない。
 今日のニュースにイスラエルのブレンミラー・エナジー社が、昼間の余剰な太陽熱を媒体を使って保存し、24時間発電できるシステムを開発したというのがあった。これは太陽電池ではなく太陽熱発電の方だ。太陽電池は高温に弱いため、砂漠などではかえって発電効率が落ちるというから、イスラエルのような半砂漠地帯では太陽熱発電の方が有利なのだろう。
 太陽電池でも同じような電力の平均化が出来ないものだろうか。家庭用くらいなら蓄電池に蓄えることが出来るが、ある程度大規模になると膨大な量の電池が必要になってしまいコストが上がってしまう。
 出力の調整の出来ない原発では、昼間の電力供給にあわせて稼動させると夜間の電力が大幅に余ってしまうため、その電力でポンプで水を汲み上げて揚水発電をしたりしているが、同じようなことがメガソーラーでも出来ないだろうか。昼間に余るほどの電力が生じるなら、それで水を汲み上げて夜間に発電するようなことは出来ないものだろうか。せっかく水上太陽光発電所を作るなら、何かそういう手はないものだろうか。電力が安定して供給できれば太陽光発電もベースロード電源の一角を担うことが出来るのだが。
 とにかく、既存の固形ウラン原発はリスクが大きすぎるし、液体トリウム原発はまだ夢のエネルギーである以上、今は再生可能エネルギーが最善の選択と思われる。何とかその火を消さないようにしてもらいたいものだ。

9月29日

 さて、田辺元の『歴史的現実』の続きだが、内省法を選択したあたりから予想できることだが、この講演は決して支那事変をめぐる国際動向を分析したりはしない。それは、それについて語る自由があったかどうかの問題ではなく、田辺元の専門ではないというだけのことであろう。
 「ところで改めて申すまでもなく我々が歴史的現実に関心を持つのは、それから殆ど堪え切れない壓力を加えられており、我々自身の希望とか要求とかがその前には全く無力であり、それが我々に抵抗することの出来ない力としてはたらいているからであります。」(p.9)
 これが1939年当時の学生の空気だったのは言うまでもない。世間は戦争へ向かって突き進んでゆく。軍部だけでなく、それを支持する大衆も当然たくさんいたはずだ。学生の中にも好戦的な人がいなかったわけではないだろう。
 もっとも、本音のところでは誰だって死にたくはない。それは学生だろうと庶民だろうと同じだ。政治家だって軍人だってそうだろう。戦争など、やらなくていいならやらないでいてほしい。そんなことよりもオリンピックに熱狂したい。それは人情というものだ。ただ、その声は「ほとんど堪え切れない圧力」で封じられている。その圧力の正体は、もちろん哲学的内省法で開明できるようなものではない。
 この講義会場が憲兵に見張られていたのかどうかは知らないが、それでもこの田辺の一言は勇気のある発言だっただろうし、これを言うだけが精一杯だったのは想像に難くない。にもかかわらず、話はこれ以降すぐに抽象的な時間論に流れてゆく。
 田辺によれば、歴史的現実が耐えがたい圧力となるのは将来のための要求や希望があるからで、現実はそれを必然的に不可能にする。それは現実が過去の力の働きを受けている、というわけだ。
 ここで田辺が、「物理学者は時をパラメーターtで表しYの座標軸に盛って行きさえすればよい。(p.10)と言って、これから展開する時間論を物理学的時間と区別する。これは現象学ではお約束の展開で、人間が直に体験する時間がより根源的であり、物理学で言う時間はそこから派生したものだと言うわけだで、物理学者の言う「時間」は実は「空間」だとまで言うこともある。そうなると根源的な時間はあくまでの個人の主観的なものの中に閉じ込められてしまう。つまり、自分が生きているからこの世界があるのであって、世界は自分が死んだら存在しないというわけだ。
 哲学的な内省法によって把握される「時間」は確かに、一人一人が今感じている時間だ。そして、一人ひとりにとって感じられる「現実」というのは、確かに現在今そこにあるものであり、過去や未来ではないかもしれない。
 「然るに現実とは何であるかというと、それは現在に於いて成り立って居るものである。過去も未来も直ちに現実とは云えない。」(p.10)
 そして、現実が動かしがたいものなのは、動かそうという意志があってそれに反しているからであり、「そこで現実は過去からいえば動けないもの、しかも未来的には動ける筈のものである、未来に対する自由を含むものである。」ということになる。(p.11)
 しかし、この議論は何か変な方向にそれていると感じないだろうか。
 この場合議論されているのは現実そのものではなく、現実を現実たらしめている意識にすぎない。つまり、実際に憲兵が見張っているかどうか知らないが、下手なことを言えばいつ逮捕されるかわからないような状況というものが、単に自分の意識の問題として片付けられていいものなのかどうか、そうではないだろう。
 現実が動かしがたいのは、それは自分自身の意識の過去によって存在しているからではない。そして、自分の思い描く未来への意志によって簡単に改変できるものでもない。なぜか?それは現実というのが自分の意志や意識や時間意識と無関係に存在しているからではないのか。つまりそれはおびただしい数の他人のそれぞれの意志や思惑によって存在しているために、自分の意志だけでは動かすことができないというだけではないのか。
 たとえばどうしようもなくむかつく奴がいる。殺してやりたい。だが、殺そうとすれば当然抵抗に合うだろう。あいつだって死にたくはない。必死に抵抗するはずだ。下手すりゃこっちがやられてしまう。それは自分の未来と他人の未来は違うからだ。自分の未来への欲求が阻止されるのは、それが他人の未来への欲求と違うからだ。単純なことではないか。
 日本が大東亜共栄圏を作り西洋列強に対抗し、そしてゆくゆくは日本の生み出した秩序が世界を一つにする。八紘一宇の実現。しかし、中国人だって、かつての中華のプライドがある。中国を中心とした「一つの世界」を作りたい。ならば死力を尽くしてでも日本の進める大東亜共栄圏を阻止しなくてはならない。その歴史的現実から、日本は日中戦争の泥沼にはまっていったのではなかったか。
 人それぞれみんな異なる未来を夢見、諸民族もそれぞれの未来を持っている。それがぶつかり合えば争いとなり、どうしようもない現実の壁となって目の前に立ちふさがることになる。
 現象学は基本的に現象を個人の意識の持つ志向性へと還元する。そこに、デカルトのコギト・スム(我思う、我有り)の明証性のもとに現象の複雑な状態の背後に潜む根本的な秩序を発見できると確信する。しかし、だからといって現実が一人の人間の意識に還元されるわけではない。それでは独我論に陥ってしまう。
 田辺がこの頃大きな影響を受けていたハイデッガーにしても、現存在の時間性、つまり人間の意識の中に現れる時間を明らかにしたところで、時間そのものが開明されるとは考えてなかった。同様に、現存在の存在が時間性であるということが明らかになったとしても、それが存在そのものであるなどとは考えてなかった。
 しかし、ハイデッガーに直接師事した田辺やあるいは九鬼周造はここのところを誤解して、現存在の時間性が時間そのものであり、現存在の存在が存在そのものであるかのように日本に紹介していた。日本だけだなく、九鬼周造はフランスでまだ学生だったサルトルの家庭教師となり、誤ったハイデッガー哲学を伝えた。
 この困った混同は、結局ここでも歴史的現実をこの講義を聞きに来ている個々人の意識の問題であるかのように誤解させることとなった。
 人間は存在そのものにも時間そのものにも容易に近づけるものではない。それを既にわかっているものだと思わせるなら、それは「無知の知」を知らないということになるだろう。

9月23日

 横浜トリエンナーレを見に行った。
 2001年の第一回の最初の感激も薄れ、なんとなくだんだん惰性で行くようになっていったが、数字で見ると総事業費は、第一回のあの巨大なバッタなどの目を引く華やかさにもかかわらず7億円で、第二回の質素で手作り感漂うあれが9億円だったというのは、今調べてわかった。
 気持ちが今一つ盛り上がらない理由は、純粋芸術としての現代美術の意味が薄れていることにあるのかもしれない。60年代を一つのピークとして、あの世代の終わりとともに現代美術も、終わらないまでも一つの時代の様式の保存に向かっているのかもしれない。現代俳句がそうであるように。


 感情に訴えることを拒否し、理知的な遊びと化した現代芸術は、商業芸術がかつての低俗さを脱して高度に洗練化されていく中で、すっかり埋没しているように思える。それが今回の自虐的なテーマ「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」になった理由か。
 今回もメイン会場の前に展示されたゴシック建築風のモチーフを用いた赤錆びたトレーラーは確かに目立ったが、どうせなら本当のデコトラにして欲しかったな。あれも「トラックアート」を名乗っているし。
 館内に入ると中央に「芸術のためのゴミ箱」があったが、何かこういうのも又かという気がする。「黒歴史」なんて書いたゴミもあった。
 ジョンケージの楽譜、ルネ・マグリットの写真、これはまあ古典だから文句もつけられない。
 釜ヶ崎芸術大学の展示も雑然とした、ネット以前の昔の掲示板の落書きみたいで、ここに集う生徒もきっとかなりいい歳なんだろうなと思う。「釜」と「芸」は縁語ということで、Kama Geiと約されているが、本当のゲイではないと思う。
 エドワード&ナンシー・キーンホルツの作品はシモネタだが、テレビがくそを垂れ流しているという至極常識的なことを表現している。そのほかのテレビは本当に映るテレビとして製品化してもいいのではないか。
 大谷芳久コレクションは、戦中の有名詩人の言葉を集めたものだが、ネトウヨが泣いて喜びそうな言葉に溢れていた。
 中平卓馬の写真では狛犬のが良かった。黒くて口のところが赤く塗られた狛犬で、どこのだろうか。あと、うし猫の写真もあった。
 福岡道雄の「僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか」は、小さな文字でびっしりとこのタイトルが書かれていたが、所々入っているあのマークで、あの事件のことだとわかる。まあ、過度におびえない方がいいと思う。過剰反応は福島県民を傷つけます。
 「法と星座・Turn Coat / Turn Court」はなかなかの大作で、真っ赤な法廷はあの世での裁判を表すのか。左右にDJブースが設けられているが、ここで原告と被告がライムバトルで争うのか。古代ギリシャの法廷みたいに。裏側に行くと緑のテニスコートになっている。タイトルにあるとおりの駄洒落的展開。次の部屋に行くと監獄がある。
 一周して、カフェ内の売店で公式ガイドブックを買ってから、新港ピアの方へ向かった。天気はよく、いつの間にか日本丸の帆が揚がっていた。その割には人がまばらで静かだった。
 新港ピアの方は映像作品が多かった。それに広島の新旧を比較した写真、といっても古いもので1979年だから、ちょうど俺が修学旅行で行ったころのものだ。河原恵美子のは日本ではなかなかお目にかかれない喜捨箱のコレクション。日本では賽銭箱のようなものか。
 大竹伸朗の「網膜屋/記憶濾過小屋」を見ると、リサイクルなのかゴミ屋なのかわからない、よくある店を思い出す。
 次に像の鼻テラスに行く。
 パラトリエンナーレということで、全部障害者の作品かと思ったら、障害者と岩崎貴宏とのコラボ作品だった。
 次がBankART Studio NYKの「BankARTLifeⅣ東アジアの夢」を見た。
 入るとまず現代舞踏のビデオを写すモニターがたくさん並んでいた。
 動物の骨がお皿に入った作品は、火葬や納骨の時のことを思い出してしまった。俺もいつかはこんな骨になるんだろうな。一面にオイルを張った黒いプールがあった。匂うし、手を触れるなと言われても触りたくはない。ここに落ちたらと思うと怖い。
 アートの世界ではまだ社会主義的なインターナショナリズムが残っているからだろうか。今の日韓中の関係を考えると何か複雑だ。
 多分日本がかつてジャパン・バッシングを受けたように、経済大国に成り上がった韓国や中国も同じように奢り高ぶり世界で叩かれるという同じ道をたどっているだけなのだろうけど、このままだと東アジア全体がバッシングならぬパッシングにあい、来年から始まるASEAN経済共同体に負けるのではないか。その前に日本も脱亜入欧じゃないけど、ASEAN経済共同体に混ぜてもらった方がいいのでは。
 最後に黄金町バザール2014に向かった。その前に博多ラーメンのたつ屋でチャーシュー麺を食べた。チャーシューは厚切りのが四枚別の皿に盛られて出てきた。
 黄金町バザール2014は小さな展示場が点在していて、時間も遅く疲れていたので全部回りきらなかった。
 ところであのポスターにあったゴミ袋の熊さん、すっかり忘れていた。そういえば見なかったな。まいっか。「世界の中心には忘却の海がある」

9月17日

 ずいぶん前に古本屋で見つけたものだが、うちの本棚には田辺元先生の『歴史的現実』(1940、岩波書店)がある。1939年に行われた講演をまとめて本にしたものだという。論文ではないので読みやすく、哲学が専門でない当時の学生も、かなりの人がこれを読んだのだろう。そのなかには、学徒動員で戦争に取られ、「これなら死ねる」と言って本当に死んじゃった人もいたのかもしれない。そんな怨念が乗り移ってるかもしれないので、この本はやはり一語一語丁寧に読まなくてはならないのだろう。
 出だしはソクラテスの「無知の知」の話から始まる。本来は「身の程を知れ」という意味の言葉なのだが、哲学者はこれをいろいろな意味で用いる。
 まず田辺はこれを「常識を疑え」という意味で用いる。常識でわかっていると思っていることも、確かに実際とは違うことがある。いわゆる「常識の嘘」というやつで、昔そんなタイトルの本がはやったが、当時からその本に書かれていた「常識の嘘」自体、嘘が多いなんてことが言われていた。
 常識の多くは教育やマスコミの影響で形成されたもので、大体ある学説が学校の教科書に載るまでには複雑な審査過程があるから、教科書に載る頃にはたいてい一昔前の時代遅れの知識になっていることが多い。マスコミについては、今日の朝日新聞を見るなら言わずもがなであろう。常識なんてのはそんなものだ。
 さて、そこから本題に入るときに、田辺はこう言う。
 「我々と対立し、我々と独立に存在して居る自然の事物に就いて語り、認識する場合には、分かって居る事は分かってい、分かってないものは分かってないことは明白である。」(p.5~6)
 一般向けの公演だからか、かなり大雑把な、適当な言い方をしている。科学的真理だって所詮は仮説なのだから、時代とともに学説が代わり、自明だったことも疑われたり、間違いだと判明したりすることもある。「常識を疑え」というなら、科学の世界で定説になっていることも疑ってしかるべきだろう。まして歴史的現実の認識となればなおさらのことだ。
 歴史的現実についての認識が科学的認識と違いはまず、それが「我々自身も歴史的現実の内にあるだけでなく、歴史的現実の如何なるものなるかは我々自身によって決定せられる所があるから」(p.5)だと言う。
 これは歴史的現実が単なる「事件」ではなく、それについて当時の人がどう思考しどのように行動したかまでを含めて言っているかで、たとえば2010年に起きた尖閣諸島中国漁船衝突事件はそれだけで切り離された事件ではなく、その衝突映像の隠蔽とネットでの流出、抗議行動の高まり、尖閣国有化、日中関係の冷え込みなど、その後のさまざまな歴史を決定していった。そして、それを行ったのは単にどこかの政治家がそう決断したというだけではなく、多くの大衆の声というものが当然ながら関わっている。それはブログやツイッターに書き込まれた声に限らず、日常のお喋りの中で何気なく言ったことまで、相互に微妙な影響を与え合って、声というものは作られてゆく。それらみんなが我々が作った歴史的現実に他ならないのである。
 1937年の日中戦争勃発、南京のあの事件、そして国際世論で日本が袋叩きにあって経済封鎖に発展し、やがて1941年に太平洋戦争に至るあの一連の歴史も、傍観者といえるような人は一人もいない。世界中のみんなが作った事件なのである。田辺元の1939年のこの講演も、そこに参加した学生たちが考えたことも、みんなそれ自体が当時の歴史的現実だったのである。
 当時はまだ統計処理に基づいた社会学の手法が未熟だったこともあってか、こうした歴史的現実の認識はどうしても哲学的内省法に頼りがちだった。そのため、
 「併し歴史的現実について何か知る手懸りはないか。それには我々は歴史的現実の中に於いてありそれに最も近い故に分かっていると感じている事から、却って其の事がどういう意味を持っているかを解きほぐす事によって手懸りを持つより外に道がない。」(p.6~7)
ということになる。
 こういう方法には当然限界があるわけだが、これから講演が進むうちにどれだけの人がその限界を自覚していたかどうかは分からない。そこで、これから語られる哲学的な歴史の意味づけも、あくまで我々は本当は何もわからないし、こんなものは一つの仮説にすぎないということを忘れてしまうと、とんでもない帰結を生み出すことにもなる。
 せっかく最初にソクラテスの「無知の知」を引き合いに出しながら、それを忘却せしめるようなレトリックを田辺が意図的に使ったのだとしたらそれは大きな罪であり、意図的ではなかったにせよ、やはり反省すべき点は無数にあるだろう。

9月16日

 昨日の電車のなかで合田正人の『田辺元とハイデガー』(2013、PHP研究所 )を半分くらいまで読んだ。
 まあ、はっきり言って何がいいたいのかわからないような本で、多分著者はごく普通の戦後的な左翼文化人の一人なのだろう。
 こういう人たちというのは、戦後哲学が実は戦前の京都学派を言葉だけ新しくした焼き直し思想だというのを自覚しているから、京都学派に対するあからさまな批判をしたりはしない。そんなことしたらすぐにブーメランになって自分に帰ってきてしまうからだ。
 田辺元が戦争に協力した件についても、その国家主義や全体主義そのものを批判してしまったら、今度は社会主義の寄って立つ基盤がなくなってしまうから、やはりなんとなく言葉を濁してしまうものだ。
 だから、この本はそういう戦前の京都学派の問題点をなんとなく避けて通って、戦後の社会主義思想につながる先駆者に祭り上げたがっているように読めてしまう。それが田辺哲学の再評価だというなら、まだ埋もれていたほうが田辺さんのためにも良いのではないかと思う。
 私見を言うなら、田辺元もそうだし和辻哲郎もそうだが、否定の弁証法だとか空の弁証法だとか言うのは、あまりに抽象的でざっくりしすぎている。
 個人が社会を否定するにはいろいろな場面が考えられるだろうけど、ただそれは外見であって、本人に本当に社会を否定する意図があるのかどうかというと、おそらく違うだろう。引きこもりだってネトゲを通じて社会につながろうとしてたりするし、犯罪者は犯罪者同士で共犯関係の下に独自の社会を持っているものだし、テロリストは自分の理想とする社会を作ろうと使命に燃えているのだろうし、基本的に社会を否定するとは言っても、それは社会の自分の気に入らない部分に向けられているだけで、社会の何を否定しようとしているのかは人によってまったく異なる。そういうのを抽象的にすべて「否定」という言葉でくくったところで、一体何がわかるのやら。
 逆に社会が個人を否定する場合でも、同じだ。死刑というのは、多分その一番究極のものだろう。次には戦争という命の犠牲を要求する事態が考えられる。さらには犯罪者として刑務所で世間から隔絶した生活を送らせたり、精神病の名の下に病院に隔離したり、さらには村八分、いわゆる「はぶる」というのもそういう「否定」に含まれるのかもしれない。
 しかしそれを、個人は本来社会を否定するものであり、社会は本来個人を否定するものであり、個人と社会はそういう相互の否定を通じて弁証法的関係として成り立ってなんて言われても、ほとんど何も意味のあることを言ってないに等しい。
 そんな難しく考えなくても、社会は基本的に生存競争の場であり、人間の場合、共感能力が発達し、集団で戦えばどんな強い個人をも打ち破れることを知ってしまった以上、生存競争が個と個の力の戦いではなく多数派工作の競争になってしまったと考えれば済むことなのではないかと思う。
 個と個は基本的に生存競争を展開する。ただ、個のままでは勝てない。だから集団を利用する。集団を利用するためには個を抑える。そこに個と集団、さらには小規模集団とより大きな単位の集団との間に複雑な相互否定の関係が生じているにすぎないと思う。それは弁証法と言うよりは「駆け引き」と呼んだ方がいい。あるいは「取り引き」か。
 全体主義だとか国家主義だとかいうのは何が間違っているかというと、所詮一個人にすぎない一思想家に国家だとか民族だとかの全体がどうしてわかるのかという、そこからして思い上がりも甚だしいし、大きな勘違いがあるのではないかと思う。
 「世間」だとか「人様」とか言うのは簡単だが、結局それはその人の生きてきた範囲での狭い世間の話で、本当の世界はもっと大きく未知なものを含んでいる。「国家のため」と言っても、一人の小さな頭でできるのは、せいぜい自分の頭で理解した範囲での「国家のため」にすぎない。だから、国家のためにハーケンクロイツを振り回して行進したりする連中が出てくるんだ。
 だから、本当に賢い哲学者はあくまで個の次元にとどまり、個にとって何ができるのかだけを考える。それがソクラテス以来の「汝自身を知れ」だと思う。

9月15日

 今日は東山道武蔵路の続き。9時30分に北坂戸駅をスタートした。
 まず勝呂廃寺まで歩く。
 前回は書き漏らしたが、ここには聖護院門跡道興准后の、

 旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や
     すぐろの薄霜に朽ちにき

の歌碑がある。「旅ならぬ袖もやつれて武蔵野をすぐろの薄霜に朽ちにきや」の倒置で、勝呂という地名を「過ぐ」に掛けている。小さな橋があって
 この前は気付かなかったが、近くにラーメンショップがあった。勝呂神社裏の庚申塔のところから真っ直ぐ勝呂廃寺に向かってたなたここを通ったのだが、前回はちょっと北に回り道をしたので通らなかった。
 その勝呂神社裏の庚申塔の先に小さな橋があって、その先を左に入ってゆく。あたりは一面の田んぼだ。
 まだ刈り取られていない稲にはイナゴが飛び跳ね、白鷺がたたずみ、草むらからはコオロギの声がして長閑だ。
 取り合えずルートとしては勝呂廃寺東側を通り、吉見百穴の東側に西吉見条理Ⅱ遺跡を北東に進み、さきたま古墳の方を目指すルートを選択した。一応物証のあるほうを選ぶの筋だろう。
 ただ、このルートだと、荒川を渡る際に近くに橋がないのがネックになる。吉見ゴルフ場に突き当たって進めないばかりでなく、一番近い橋が大芦橋になるので、かなり大回りになる。直線的に進めれば、ちょっと頑張れば北鴻巣駅まで行けそうだが、大芦橋まで迂回するとなるとかなり距離が伸びるので、結局今日は東松山までのショートコースにした。
 越辺川(おっぺがわ)の近くに白山神社があった。瓦屋根の赤塗りの両部鳥居があり、境内には彼岸花が咲いていた。
 この裏には昨日買ったばかりの2014年版の地図に落合橋が記されているのだが、土手に登ってみると道は通行止めになっている。結局南へ1キロ行った天神橋まで行って越辺川を渡ることになった。  往復2キロ以上の回り道となった。とはいえ、土手は至る所彼岸花が咲いていて、散歩道としては悪くない。途中に水道橋があった。ここを渡れれば少しは近いのだが。
 白山神社の対岸に戻ってくると、川に橋桁だけが残っていた。あとでネットで調べたら、長楽落合橋は2011年に倒壊して撤去されたということだった。
 都幾川(ときがわ)と越辺川の合流するこの地点は、かつて低湿地だったのだろう。川の流れも何度も変わったのかもしれない。ただおそらく、この辺で北北東に向きを変え、西吉見条理Ⅱ遺跡の方へ向かったのだろう。
 早俣橋の先に氷川神社があった。ここもさっき見た白山神社と同じような両部鳥居があった。昭和16年銘の結構大きな立派な狛犬があった。目は黒く、口は赤く彩色されているが、かなり薄くなっていた。
 小さな川を渡るとまた田んぼが広がり、その先が古凍(ふるごおり)になる。多分本来は古郡で古代道路が通っていたことに由来する地名なのだろう。
 その古凍に鷲神社がある。ここにも赤い両部鳥居がある。ここには嘉永4年銘の古い狛犬があった。
 この神社の裏から市野川を渡れば西吉見条理Ⅱ遺跡のあるあたりに出るのだが、ここも慈雲寺橋まで迂回しなくてはいけない。橋を渡って堤防の上を行くと、鷲神社の対岸あたりに北に降りてゆける道がある。おそらくこのあたりに西吉見条理Ⅱ遺跡があったのだろう。埋め戻されてどこにあったのかよくわからなかった。このあたりから北北東に向かう道がある。なぜかここに南吉見の飛び地がある
。  やがて広い通りがあり、これを右に曲がると東松山の駅の方へ行く。時間も2時を回り、今日は、この辺で終わり。
 久米田の交差点の近くにヤマザキデイリーストアがあったので、そこでパンを買い、昼食にした。
 東松山に行く途中、長い石段のある羽黒神社があった。登っていったら拝殿が工事中で、といってもほぼ完成しているようだったが参拝はできなかった。

 その少し先に吉見百穴があった。吉見百穴というと、子供の頃読んだ藤子不二雄Aの「フータくん 」で、日本一週旅行の途中でこの吉見百穴に立ち寄る場面があったのを思い出す。瘋癲暮らしのフータくんには当時憧れたもので、今こうして徒歩旅行をしているのも、その時の延長なのかもしれない。そんなわけで拝観料を払って見学していった。
 あの漫画では「戦争中の防空壕の跡」というボケがあったが、実際戦争中は軍需工場として利用されていたので、あながち間違いではない。
 吉見百穴を出たのが15時。あとは真っ直ぐ東松山駅に向かい、帰った。


9月14日

 先日息子が月島のフクロウカフェに行こうとして満員では入れなかった話を聞いて、今そんなのがはやっているのかと思ってネットで調べたところ、何とうちから3駅のところにフクロウカフェがあるのが判明した。
 市ヶ尾の246沿いで、仕事で毎日通っているのに全然気づかなかった。
 予約が必要なのだが、予約はすぐに取れた。(詳しくは、フクロウに会える店「ふわふわ」のブログを見てね。)
 秋晴れの良い天気で、予約した時間に行くともう一組来ていてお客は4人だった。まだあまり知られてないせいか、来るなら今がチャンスというところか。


 最初にフクロウにふれあう際の注意事項を聞いて、それからフクロウのところに。小さいフクロウが5羽、大きなフクロウが7羽、そのうちシロフクロウは神経質なので見るだけ。
 販売もしているが、小さいのはすずちゃんの狩猟対象になりそうだし、大きいのはすずちゃんがたべられちゃいそうでちょっと無理。
 フクロウを手に乗せてもらい、頭を撫でる。本当にふかふか。癒されるあっという間の1時間だった。

 秋日和羽ふわふわの福ふくろう

 

8月24日

 一週間前の日記になってしまったが‥‥

 お盆休みも最終日。天気予報は曇りで、街道ウォーキングにはちょうどいい。
 そういうわけで今日は7時に家を出て、8時37分新狭山駅から時速4キロの旅(このフレーズは先日テレビで誰かが使っていた)の始まり。
 まず線路沿いにHONDAの工場の脇を行き、ボーリング場のあたりから左に曲がり国道16号に出た。東山道はもう少し先、おそらく新狭山公園のあたりを通っていたのだろう。
 びっくりドンキーの先を左に入ると、突き当たりに氷川神社があった。狛犬はないが今日最初の神社参拝。
 ネットの情報だと、かつてこの左側の郵便局の先当たりに、鎌倉街道堀兼道の跡と思われる堀割状遺構があったらしい。今ではすっかり住宅地になってしまっている。
 氷川神社に戻り先に進むと道はカーブして小さな川を渡る。その先の道の直線が、ほぼ堀兼道の延長線と平行になる。
 今の道はすぐに右にカーブする。次の十字路を左に行くと老人ホームがあるが、このあたりもその延長線になるのだろう。
 この先に白山神社があった。ここも狛犬はなかった。その北側には泉福寺があり、本地垂迹の関係にあったのだろう。
 泉福寺の北に行くと、アーチ上の橋のようなものが見えてくる。右側には市場がある。その先で広い道に突き当たり、右に行くと八瀬大橋南の信号があり、そこを左に曲がると八瀬大橋に出る。左側にさっきのアーチが見える。水道橋か。東山道武蔵路もこのあたりで川を渡ったのだろう。
 橋を渡ると道が左右に分かれていて、右側の的場上交差点を直進し、少し行くと若宮八幡神社入り口の看板が見える。ここを矢印のとおり右に行くと若宮八幡神社がある。この付近に八幡前・若宮遺跡があって、「驛長」と書かれた墨書土器が出土している。このあたりに東山道武蔵路の駅があったと思われる。今は埋め戻されてどこにあったかよくわからない。
 若宮八幡神社には紀元2600年銘の狛犬があった。実はこれが今日見た唯一の狛犬だった。このあたりは長いこと狛犬の習慣が入ってこなかったのだろう。
 若宮八幡神社を出て左の細い道を行き、突き当りを左へ行くと、狭く緩やかに曲がりくねりながら北へ行く道がある。関越道をくぐり、県道15号線を渡ったところに馬頭観音塔がある。さらに先に行くとJR川越線の踏切があり、やがてきれいに区画整理された住宅地に出て突き当たる。
 そこを右に行くすぐに左に行って少し行くとおなぼり山公園がある。ここが女堀遺跡のあったところで、この東側に12メートル離れて並行する小溝が見つかり、古代道路ではなかったかといわれている。
 地図で線を引いてみると、若宮八幡と女堀を結ぶ線は所沢・入間の堀兼道よりも若干北寄りに進路を変えている。
 住宅地を抜け小さな川を渡り、すぐに左に行き、道なりに行くとやがて近くにサンクスのある東武東上線の踏み切りに出る。この先は広大な東洋大学のキャンパスが行く手を阻んでいる。
 とりあえず踏み切りを渡り、東洋大学のグランドを左に見ながら次の信号、東洋大学南側を左に曲がる。右へ行くと川越市外のほうへ行くみたいだ。
 右側に雑木林があり、市民の森になっている。そこの入り口のところに鎌倉道という説明書きがあった。どうもここがあの堀兼道の先らしい。ずいぶん東に寄っている。ここから今の道路と平行に掘割状の細い道がある。いかにも中世の鎌倉街道って感じの道だ。馬がやっとすれ違える程度の幅というか。
 市民の森はすぐに終わり再び現代の道に戻る。この道はかつての鎌倉街道をほぼ踏襲しているのだろうけど、古代道路はもっと西側だったと思われるので、小堤北の信号で左に曲がる。川鶴クリニックのあたりで右に曲がり、白山神社を目指すと大体古代の道の近いコースになる。
 川鶴クリニックのあたりは鶴ヶ島駅に近く、いろいろな店の看板が目に付く。ただ、まだ11時半なので昼飯には早いかなと思って先に行ったのは失敗だった。
 川鶴クリニックのあたりを入ってゆくと、左側に大きな工場がある。工場だと思っていたけど、あとで調べてみたところこれはどうも東光の本社のようだ。とはいってもこの会社の名前は初めて聞いた。一応東証一部上場らしい。
 白山神社は今日で二つ目だが、白山神社が多いのは奈良時代に高麗人1799人がこのあたりに移住させられて高麗郡になったことと関係があるらしい。
 この神社の説明板には、「奈良時代霊亀二年(一二六三年前)に駿河など七ヶ国に住む高麗人一七百九十九人を武蔵に移して入間郡を分割して高麗郡となるに及んで、広谷村も武蔵国高麗郡となる。したがって霊亀以前すでに集落を形成して居た事が明らかで、当時より産土神として村人たちに崇められていた。」とある。
 今の韓国は新羅人中心で、韓国国内で全羅道出身者が差別されているのは、おそらくそこがかつての百済の地だったことにも関係するのだろう。これに対して高麗人は今でいう北朝鮮の方にいた。
 新羅が7世紀に朝鮮半島を統一して日本との国交を絶った後、その北にある渤海国からの使者が日本にたびたび訪れたが、この渤海国は高麗人とツングース族の建てた国だといわれている。渤海国の使者は『源氏物語』の桐壺巻にも登場する。まだ幼かった光源氏が渤海国の使者と対等に漢詩を作り交わし、光源氏の名の由来も渤海人使節が「光君」と呼んだことから来たという。
 高麗人は百済人と同様、おそらく民族的にも言語的にも日本人に近かったのではないかと思う。
 古代道路の技術も、おそらくそれを持ち込んだのは反日的な新羅人ではなく、親日的な高麗人なのではなかったかと思う。狛犬の「コマ」も高麗人の技術によって彫られたものが伝えられたからだったのかもしれない。とはいえこの白山神社にも狛犬はなかった。
 なお、ネット上で白山神社を被差別部落と結びつけ、「モンブラン」とか言っている人たちがいるが、被差別部落の成立は民族に関係なく、今まさに西アフリカで起きているような伝染病の蔓延から、ある種の人たちを隔離したのが最初だろう。そのさい、動物からの感染ということが経験的に知られていたため、動物を扱う職業集団が真っ先にその対象となったのだと思う。そうした人たちはたまたま高麗人が多かったとか、せいぜいその程度の関係ではなかったかと思う。今日のような病原体に関する知識のなかった古代日本人は、その病気の原因となる未知のものを「穢れ」と呼んだのだろう。「死穢」は死体との接触による感染の危険、「産穢」は出産の際の母子感染の危険を、何らかの形で経験的に知っていたということだったのではなかったか。
 白山信仰が高麗人と関係があるなら、ひょっとしたら白頭山に関係があるのかもしれないし、呉の太白の子孫ということから来ているのかもしれない。まあ、この辺を詮索していくときりがないので、この辺で。
  東條英利さんの『神社ツーリズム - 世界に誇る日本人のルーツを探る』(2013、扶桑社新書)には、本来日本の神道は山に登りたいという欲求を抑えることに価値を見出していたみたいなことが書いてあったが、白山信仰のような山に登る修験道も神道の中に取り込んで進化してきた面も否定できない。山に入らないというのは今で言えば自然を無秩序な農地開発から守るという側面を持っていたと思う。中国の照葉樹林は焼畑耕作のために多くが失われていったというが、日本で照葉樹林が守られてきたのは神道のおかげなのかもしれない。「森」は語源的にも「守り」から来ているという。だったら、その保護区域をただ放置するのではなく、積極的に入っていって守るという発想があってもおかしくはない。修験道は西洋の登山のような征服するための入山ではない。
 白山神社を出た後、小さな川に沿って広谷小学校のほうへ出る。その裏側から北東へ圏央道をくぐって256号線へ出る細い道がある。この延長線上に町東遺跡があり、幅10メートルの道路遺構が発見されている。はっきりした場所はよくわからなかったが、若葉病院の西側を通っていたらしい。
 これは八幡前・若宮遺跡と女堀遺跡を結ぶ線の延長としてはやや西に寄っている。
 ところで、若葉病院の向こうの何やら怪しげな建物がどうも気になる。中国風のきらびやかな屋根の建物で、周囲の景色から浮いている。

 行ってみると「聖天宮」という道教のお宮だという。読み方は「しょうてんぐう」ではなく「せいてんきゅう」と漢音で読む。平成7年の開廟と、新しい。中華街の真ん中ならいざ知らず、誰が何のためにここにこんなものを立てたのか、入場料が要るので中に入って確かめることはしなかった。一応渡来系の狛犬はいたが‥‥。
 このあと、256号線に出る少し手前の未舗装の農道から北へ向かい、カクイチの看板のあるところで269号線に出る。ここを右に行ってすぐ、北へ向かって溝のようなものがあり、これがほぼ町東遺跡の延長になるらしい。


 もう少し先に行くと「坂戸キリスト教会」の矢印がある。道教にキリスト教とこの地には何かやはりパワーがあるのだろうか。
 その教会の前をとおり、小さな川を渡ると、すぐ左に勝呂神社がある。これも白山神社だ。入り口の説明板には「発掘調査の成果では、神社の東を東山道武蔵路が通っていたことが確認され、七世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つ勝呂廃寺との関連も注目されている。」とある。
 この神社の東だと、八幡前・若宮遺跡、女堀遺跡のラインには一致するが、それだとやはり町東遺跡は西に寄りすぎている。並行する二本の道があったのか、謎は深まる。
 勝呂神社は小高い山の上にあるが、これは天然の山ではなく古墳らしい。  狛犬はなかったが、弁財天の石塔の横に先代狛犬の片割れで首のないような何かがあったが、この尻尾がどう見ても猫に見える。少なくとも狛犬や狐ではないし、狼でもない。
 勝呂廃寺の跡は勝呂神社の西側、勝呂小学校交差点の角にある。かつて勝呂公民館があったところらしく、公民館は廃墟になっていて、勝呂廃寺のところだけ緑の芝生があり、柱の跡が再現されている。
 ここから北方面には、東山道武蔵路の場所を特定できるような遺跡がほとんどない。あとは推定路ということになる。
 八幡前・若宮遺跡、女堀遺跡のラインの延長だと吉見百穴の前を通り熊谷へ行く。多分これが本命のルートだろう。
 ただ、吉見百穴の東側に西吉見条理Ⅱ遺跡があって、ここで北北東に向かう幅12メートル古代道路の遺構が発見されている。この延長線上にはさきたま古墳群がある。まだまだ謎が多い。
 今日のところはこの勝呂廃寺で終了して、北坂戸駅に向かう。時間は2時を過ぎている。だが、駅前の通りに出ると、出たー、シャッターストリート。開いている店もないでもないが、結局池袋に出て、遅い昼食を食べて帰った。

8月16日

 桜木町の駅を降りると、黄色い紙製のサンバイザーに黄色い団扇を持った人がたくさんいて、それらは駅前で配られていた。ピカチュウの着ぐるみが1体、子供たちと写真を撮っていた。
 「ピカチュウ大量発生チュウ」という横浜を挙げての大イベントが行われていた。
 駅前にはピカチュウバスが展示されていた。これは都筑の方で見たことのある幼稚園バスだ。
 ビルの壁にも大きなピカチュウが描かれ、日本丸にもピカチュウが乗っている。思わず「もんげーーーー!」と言いたくなるが、それはピカチュウのライバルの方だ。
 ランドマークプラザのポケモンセンターは人があふれていた。吹き抜けのところにはたくさんのピカチュウ風船を入れた透明のピカチュウ風船が釣り下がっていたが、なんかロケット団に捕まったピカチュウの群みたいだ。
 コスモワールドでもピカチュウの描かれた遊具が空を飛び、赤レンガ倉庫にはピカチュウの海の家があり、シーバスにもピカチュウが描かれていた。シーバス乗り場の近くでルアーを投


げている人がいたが、それはシーバス違い。

 すっかりピカチュウに占領されてしまったみなとみらいを見るにつけ、以前に何かの連句で、

 ピカチュウの恩沢四方(よも)にゆきわたり

という句を作ったのを思い出した。

   ピカチュウの恩沢四方に行き渡り
 世は平らかに遊びせんとや

 まあ、ロシアや中国にアメリカの威を借るイスラエルの横暴と、なんとも雲行きの怪しい世の中に日本ができることといえば、ゲームやアニメの文化を輸出することで戦意を喪失させるくらいだろう。「遊びをせんとや生まれける」と、人は戦のために生まれてきたのではないというのは、我々の先人の言葉だ。
 晴れていた空は今日も黒い雲に覆われ、赤レンガ倉庫から戻る頃には雨が降り出した。パシフィコ横浜の中に入ると、そこではピカチュウ祭りが行われていた。ピカチュウの着ぐるみが推定30体踊っていた。日によってはこれがぞろぞろと外を歩いたりしていたのだろう。
 この会場にはトヨタポルテをベースにしたピカチュウカーや、東北の被災地を回ったPOKÉMON with YOU ワゴンも展示されていたし、ピカチュウ駅長も来ていた。

 何だかとにかく楽しい一日だった。みなとみらい駅にも大きなピカチュウがいた。その下に貼ってあったポスターで何か忘れていたと思ったら、横浜トリエンナーレも始まったいたんだった。まあ、こっちの方は11月までやっているし‥‥。今は純粋芸術よりもポケモンの方がアートのような気がする。
 帰りに横浜駅西口の塚田農場で夕食にしたが、店員さんとポケモンの話をしたせいか、最後にフシギダネの絵をチョコシロか何かで描いた大きな皿に小さなデザートを乗っけて持ってきた。このまま消えてしまうのも勿体ないので写真に撮った。


8月14日

 今年のお盆は父母の初盆となった。
 とはいっても、父母がお盆で何か特別なことをやってたという記憶がないので、何をやっていいのかわからない。何しろいかにも戦後の左翼知識人という感じで、唯物論を気取っていたから、下手に送り火とかお供えとかやったら「何やってるんだ」とか言われそうだ。
 お盆という行事の由来もどうも諸説あってよくわからないようで、ウィキペディアによればサンスクリット語のウランバナが盂蘭盆会になったものらしく、本来はイランあたりの精霊信仰から来たもので、それが東アジアの祖霊信仰と結びついたものらしい。
 日本の文化とシュメール文明との類似を指摘する説もあるし、古代シュメール語は今のドラビダ語に近い、つまり日本語にも近い同じ語族に属したという説もある。今も日本にはたくさんのイラン人がいるが、日本とイランとの関係は案外かなり古いものなのかもしれない。
 ただ、死霊に関わることは死穢を嫌う神道とは相容れなかったのか、盂蘭盆会はもっぱら仏教と結び付けられてきた。ただ、死者の霊が帰ってくるというのは、輪廻転生や解脱を解く仏教とは相容れない。昔からお盆は仏教に取り入れながらも微妙な距離を保っていたようだ。
 『去来抄』には連句の席で「盆」を釈教とするかどうかで芭蕉と蘭雪とで口論になり、芭蕉が「盆を釈教と云はば、正月は神祇になるか」と言って盆を釈教とすることに反対したことが記されている。
 午前中は曇っていて昼ごろは雨がぱらついたが、すぐに止んだんで、せっかくのお盆休みだからどこか出かけなければ勿体ないと思って、新百合ヶ丘近辺の狛犬散歩をすることにした。


 車で新百合ヶ丘まで行ってパーキングに止め、そこから歩いた。
 まずは駅の近くの十二神社に行った。十二神社は天神七代・地神五代の十二柱の神を祭っているからだと説明されているが、これは明治以降の国家神道に所属するための建前だろう。七代・五代といっても夫婦の神もいるから十二柱の神のはずがない。二十柱ぐらいはいるはずだ。際神は宇気母智大神となっている。
 津久井道(世田谷通り)を行くと真新しい石段が鳥居ある。境内も新しく整備されたもので、登ってゆくとダヨーンのような唇の大きな狛犬がある。大正5年銘、登戸の石工、吉澤耕石の作。このあたりじゃ溝の口の内藤慶雲と双璧をなす狛犬作家だ。吉澤耕石の狛犬は、こういう横に広い顔のものが多い。

 津久井道に戻り百合ヶ丘駅の手前で左の山のほうに登ってゆくと高石神社がある。このあたりは以前に稲毛七福神廻りをしたときに来たが、高石神社は素通りしていた。

 十二神社を出る頃から雨が降り出し、高石神社に来る頃には本降りになっていた。


 入り口付近にある狛犬は昭和62年銘の岡崎型だが、唇が真っ赤で目も黒く塗られていて、なかなか凶悪そうだ。

 石段を登ってゆくともう一対狛犬がある。銘はよくわからなかった。明治43年の銘でこれも吉澤耕石の作。
 拝殿前に岡崎型の狛犬が片方だけあって、もう片方はどこかと思ったら、手水場で口から水を出していた。唇が赤く葉が白く塗られ、目も白く塗られ真ん中に点で目玉が表現されていた。目張りも赤い。ここの神社の趣味だろうか。
 境内には新しい句碑がたくさんあって、現代のアマチュア俳人のために分譲されているのだろうか。雨の中、すぐ耳元でヒグラシが鳴いている。

 ひぐらしの雨に名もなき句も滲め

 境内には三匹の蛙を祭った池もある。句碑が多いのは古池の蛙の縁か。三匹の蛙は「禍転じて福蛙、商売繁盛銭蛙、萬ず不老の若蛙」となっていて、いかにも現世的でそんなに風流ではない。
 高石神社をあとにして、山の反対側に下ってゆくと、学校の横を通り、細山神明社の前に出る。
 石段を登ってゆくと銘のよくわからない狛犬があった。ネットで調べたら文政4年の古い江戸狛犬だった。
 石段を登ると右側に鳥居があり、そこから下って神社に入る。
 入り口のところにまたまたダヨーン狛犬が。こちらのほうがもっと漫画っぽくデフォルメされている。吉澤耕石さんの一つの到達点か。昭和3年の銘。これまでの吉澤狛犬はこれを作るためのものだったのか。
 ここを出て、読売ランド前駅に向かう。途中庚申塔があり、二枚橋という弁慶ゆかりの橋がある。弁慶が橋を作ったという伝承があるということは、ここに街道が通っていたのか。古代道路と言うよりは、鎌倉街道の前身のようなものだったのだろう。府中へ行く抜け道だったか。
 ふたたび津久井道に戻り、読売ランド前駅を越えて右に曲がり線路を越えて坂を上って、今日の最後の目的地、西生田杉山神社に行った。
 神社には裏から入った。狛犬は吉澤耕石さんのライバルの内藤慶雲作、明治32年銘。ライバルといっても内藤さんのほうがかなり年長だったのだろう。内藤さんのほうはどちらかというと王道を行く狛犬か。
 今日はここまでで、読売ランド前駅から電車で新百合ヶ丘に戻り、そこから車で帰った。

8月4日

 例の事件で冷蔵庫から猫の頭が出てきたということで、「海辺のカフカ」の影響ということが言われている。
 俺はハルヒは読んでるがハルキはまだ読んだことがないので、どんなものか試しに読んでみようかと思ったが、koboにもkindleにもなかったのでやめた。
 まあ、多分さんざん猫をいたぶって殺しては、もっともらしい理屈をこねている病んだ悪役が出てきて、最後はヒーローに退治されるというストーリーなのだろう。
 猫殺しがしばしば人殺し以上に不快感を与えるのには、何かしら理由があるのだろう。
 たとえば蛙のケツに爆竹詰めるといったような子供のいたずらは、「バカヤロー」ではあっても「病んでる」という印象はない。蛙の殺害はどちらかというと虫を殺す感覚に近い。ただ、人に危害を加えるわけではないので、「無駄な殺生をするな」、「生き物の命を大切にしろ」ということになる。
 ネズミに関しても、子供の頃工事のおっさんが路上でネズミの頭をバールのようなものでぶっ叩いて殺しているところを見たことがあるが、ネズミの死体が気持ち悪いとは思っても、そのおっさんが変だとは思わない。
 これと比べると、猫殺しに関しては我々の文化には強力なタブーがあるというのがわかる。
 一つには、猫が家畜であること。つまり、猫を殺すことは他人の財産を破壊することであるということが考えられる。
 さらに猫は家畜の中でも小くて力が弱い。牛を殺すということになると、闘牛士のように逆にその勇気が賞賛されるかもしれない。また、猫は食用にならないため(中国南部の一部の地域を除けば)、食うためという動機が存在しない。毛皮を剥ぐためでもないとなると、猫を殺すのに凡人にもすぐにわかるような動機が思いつかない。
 また、猫はたとえ野良猫であっても、猫おばさんが毎日餌をやってたりして、誰かにかわいがられてたりすることが多い。それをあえて殺すということは、他人の愛するものの命を奪うということになる。
 猫がおそらくこれほどまでに地球上に広がったのは、猫の進化が人間の赤ちゃんへの擬態だったからなのではないかと思われる。大きさも新生児に近いし、声も似ている。
 猫を殺すという行為は、単に生き物の命を奪うのではなく、あえて誰かの愛するものの命を奪うというふうに受け取られがちで、そのことが人間社会への挑戦と受け取られてしまうのが、やはり大きな理由なのではないかと思う。
 一方で、殺生は何らかの快楽をもたらす。それは人間の長い進化の歴史の中で、捕食をしたり身を守ったりする際に常に生き物を殺せるように進化してきたため、こうした行為に何らかの脳内物質による快楽報酬があってもおかしくはない。ただ、殺戮欲求がむやみやたらに発現したのでは、生存に必要なものまでも殺してしまいかねない。そのために一方では強力な抑制系も発達させている。
 快楽殺人に走りやすい体質というのがあるとすれば、多分それは興奮系と抑制系のバランスが取れてないということなのだろう。
 そういう体質の人が何らかの理由でひとたび猫を殺してしまったとする。すると世間の反応は怒りを通り越して、何か異常なものを見るようなドン引きを経験することになる。世間からすれば理由がわからないし、しかも人がそれを愛しているのを知っててやるというのが信じられないからだ。
 逆に言えば、自分に対する愛情が感じられない、猫が愛されているのに嫉妬を感じる、というのが最初の動機になるのかもしれない。いや、最初はその気がなくても、猫を殺せばそのことに気づかされる。世間は猫に同情するばかりで、誰も自分のことはわかってくれない。
 蛙に爆竹とは違い、猫殺しは確実にその人を孤独に追い込む。それでも脳には快楽の体験が記憶として刻まれ、その快楽の再現を求める。誰とも共有できない快楽に、ただ独り身を沈めていくしかなくなる。
 これが麻薬や危険ドラッグだったら、売人がいて、同じような悪い仲間がいて、多くの人の共犯関係の中に縛り付けられてゆくのだが、猫殺しはそれとは違いあまりに孤独だ。ただ人に愛されているものを殺し続けることによって、自分と人との距離が取り返しのつかないほど離れていってしまうだけだ。
 やがて猫殺しに脳が慣れて十分な快楽が得られなくなると、次にやることは一つしかない。人から愛されているもっと大きなものを殺すこと、つまり殺人だ。
 昔から猫は殺すと祟るというのは、こういうことだろう。猫を殺したことで否応なしに人間社会からの孤立を招き、転落して行った人は何人もいたのだろう。
 村上春樹さんがなかなかノーベル賞を取れないのも、「海辺のカフカ」で猫殺しを書いてしまったことによる「猫の祟り」なのかもしれない。

8月2日

 アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」は今思うと結局、成長を続ける脳科学に対する古典哲学の抵抗ということに尽きるのかもしれない。
 その場合焦点となるのは、怒りや不安、恐怖、欲望、快楽といった肉体的な基礎を持たない、純粋に理性的な殺人がありうるかどうかということになる。精神の完全な自由意志における殺人がありうるなら、色相を濁さずに人を殺せることになる。
 おそらく生まれ持った人殺しの因子というのは誰しもが持っているもので、それがなければ暴漢から身を守る、いわゆる正当防衛もありえないだろうし、戦争になれば誰でも人を殺せるようになることも説明できない。人は誰しも人を殺せる存在でありながら、社会的な関係がそれを強力に抑制していると見るほうがいいのだろう。仲間を守るためという名目が立つなら、人は容易に殺人を思い立つことができる。戦争にしても死刑にしても。
 怒りや恐怖による犯罪とちがい、快楽的殺人というのはむしろ後天的な要因が強いのではないかと思う。
 殺人鬼がある段階で猫を殺すのは、人を殺したくて猫で試すというよりは、猫を殺したときの快楽が脳に刻まれて、やがてもっと強烈な快楽を求めて殺人へと移行するのかもしれない。
 最初は万引きの快楽と一緒で、人に隠れて反社会的なことをするスリルにはまっただけだったのが、いつの間にかそれが小動物を殺す快楽になったとき、殺人鬼への道が始まるのかもしれない。
 いずれにせよ不審な猫の遺体が発見されたときには、徹底的にして捜査して犯人を突き止め、厳罰に処す必要がある。今の法律では殺人を起こす恐れがあると精神科医が指摘しても、処罰はもとより拘束することもできないが、猫殺しの事実があるなら処罰は可能だ。

8月1日

 今年はいろいろなことがあったので、前期のアニメはほとんど見る余裕もなかった。「棺姫のチャイカ」は一応見たが、原作のダークな世界はやはり再現できなかったか。大分違ったストーリーになっていた。
 今期もまだそんなにアニメは見ていない。「東京喰種 トーキョーグール」はTK from 凛として時雨で、ラジオでもずいぶん流れているし、エンディングがPeople In The Boxだというのも気になって、一応見てみた。
 ひょんなことから人間の心を持つグールー(人間の肉以外のものを食うことができない種族)として生きなくてはならなくなった主人公が、親友を食いたいという内なる衝動と闘い勝利する展開はなかなかヒューマニズムだ。肉欲と闘う理性というテーマは西洋の古典哲学ではお約束のもの。
 このパターンは「おおかみかくし」の櫛名田眠を思い出した。
 「PSYCHO-PASS新編集版」の第4話のことも今いろいろ話題になっている。王陵璃華子が誰かさんを連想させるからなのか。
 ただ、現実と虚構は明らかに違う。こういう物語は理性の持つ想像力の一つの可能性を描き出すだけであって、そこに人間の生々しい肉体的衝動は存在しない。ただ「汝為し得る」というカント的な定言命令の声しかそこにはない。前にも言ったDQN理性だ。肉体から切り離された理性のイマジネーションはどうしようもなくDQNなだけだ。
 実際に人を殺す衝動というのは、物語が描くものよりは遥かにシンプルで強烈だから、それを芸術にしようなんて考えは働きにくいと思う。今回の事件もアニメの様々なダークな幻想に影響された形跡はない。雛見沢症候群の症状に多少は共感していたかもしれないが、結局自分を抑えることは学べなかったようだ。
 人間の心の闇なんてものは、それほど深いものではない。何十億年もの進化の中で培ってきた様々な攻撃的衝動があるだけだと思う。それは誰でも持っているから、だから自分の心の中にそれがあるのが嫌で嫌でしょうがない。特に歳を取るとともに、いまさらそんなもの見なくても良いではないかと、目を背けがちになるものだ。

 ダークなテーマのアニメはそのことに気づかせてしまう。だから目の敵にされるのだろう。だが、アニメも理性の産物だから、結局それほど眠っている衝動そのものに影響を与えることはできない。良いにつけ悪いにつけ芸術はリアルな犯罪に対しては無力なのだろう。

7月21日

 ようやく今日は旅の続きで、1月13日の東山道武蔵路の続きということで、東村山駅をスタートした。7時50分、空はどんより曇っていて涼しい。
 駅から北へ少し行くと、古い庚申塔があった。一つは明和3年と書いてあった。その先に土方医院遺構があった。幅12メートルの道路の跡が発見され、東山道武蔵路がここを通っていたと思われる。今は埋められてラインビルド土方というビルが建っていて、一階にはあいデンタルオフィスがある。
 その先の踏切を越えて少し行くと、諏訪神社があった。別に死穢を気にしていたわけではないが、久しぶりの神社参拝だ。木製の両部鳥居があり、昭和58年銘の岡崎型狛犬があった。狛犬というと、今は妖怪ウォッチの「コマさん」がもんげー人気のようだが、唐草模様の風呂敷を背負って田舎から出てきたという設定は東京ぼんたを髣髴させる。今の子供にはわからないだろう。
 その先にふるさと歴史館があったが、朝早いのでまだ開いてなかった。
 もう一つ踏み切りを渡り、ここから八国山緑地給料南斜面の遺構を目指すのだが、直進できる道はない。住宅地の中、行き止まりも多く、八国山緑地の入り口もわかりにくい。ようやく山道のようなところを見つけて登ってゆく。八国山(はちこくやま)がトトロの七国山に通じるせいか、ここもトトロの里ということになっている。トトロの里はあちこちにある。七国山とか八国山とかいう地名も鎌倉街道の通っていたところにはあちこちにある。八国見渡せるといっても本当に関八州が見渡せるのではなく、あくまで眺めが良いという比喩で名づけられているのだろう。
 山頂付近には新田義貞ゆかりの将軍塚がある。南斜面の遺構の位置はよくわからなかったが、東山道武蔵路はこの将軍塚のすぐ横の鞍部を通っていたらしい。最初はてっきり八国山のふもとを通るものと思っていたが、わざわざ八国山の鞍部に切り通しを作って、そこまで直線にこだわっていたようだ。
 八国山を降りて今度はやや北北西に向きを変えて東の上遺跡に向かう。今は南稜中学校になっている。この道も住宅地の中で行き止まりが多い。ようやく橋を渡りJAの前に出る。ここからはゆるい上り坂になる。南稜中学校の横に説明版があって、12メートルの道路遺構が八国山の方へ向かっている写真が掲載されている。今は家が建て込んで、八国山は見えない。
 西武池袋線の踏切を越えると、北北西に向かう直線的な細い道がある。旧鎌倉街道だ。東山道武蔵路はこれよりやや西よりに平行に走っていたのだろう。直線的な古代道路に対し、中世の道はそれをフリーハンドでなぞるというよりは、慣れないマウス操作で引いた線のようにやや外れたところをうねうねと行く。西側がやや小高くなっていて、古代道路はほぼ稜線上を通っていたようだ。鎌倉街道はやや中腹をぬうように行く。
 新光寺前で左に大きく曲がり、県道6号線に出ると、正面に鳥居がある。白い神明鳥居で、所沢神明社だ。

 境内は広く、右側へ行くと本来の正面の木造鳥居があり、その横には人形殿があり人形供養を行っている。その上には蔵殿神社がある。
 拝殿前には昭和35年銘の狛犬があり、神明造りの拝殿がある。今年2月にNISAに釣られて投資家デビューしてしまったこともあって、金色の金運招き猫を買った。
 しばらく6号線を歩き、安楽亭のところを右に入ると、ここにも直線的な道がある。これは堀兼道という古道で鶴ヶ島の方へほぼ直線的につながっている。これも東山道武蔵路の跡と言われている。八国山遺構、東の上遺跡ともほぼ直線でつながる。

 今の道はすぐに西武新宿線の前で途切れる。新所沢駅東口入口交差点の先のしんとこ耳鼻咽喉科の先で再び


斜めに入る道があり、堀兼道に戻る。西友の横を通り、しばらく直線の道が続く。途中、所々に茶畑が見える。狭山茶どころ茶の香り。
 この直線道路もやがて特別養護老人ホームに突き当たり途切れる。左へ行き右へ行き、ネオポリス西交差点で、再び堀兼道に戻る。
 ここから先の道は広く、やや右に左に曲がっている。古代の道をフリーハンドでなぞったような感じだ。
 だんだん家もまばらになり、左に変電所を見ながら通り過ぎたところに堀兼神社があった。立派な朱塗りの楼門があった。その先に二対の狛犬がいて、手前のは銘がなく、昭和30年代くらいの最後の江戸狛犬という感じだ。奥のは平成5年銘の岡崎型。
 境内の横には堀兼の井がある。

 武蔵野の堀兼の井もあるものを
     うれしく水の近づきにけり
               藤原俊成

の歌にもある古い井戸だが、これが本当にその井戸なのかどうかはわからない。ただ、どこに本物があるのかといわれてもわからないから、一応ここということになる。歌の方は、堀兼を「堀かねて」に掛けて、堀かねた井戸だからてっきり水がないと思っていたのに水があるから嬉しいという意味か。ここから能ある鷹は爪隠すではないが、実力があってもあえて謙虚な態度をとるたとえとなったようだ。
 ふたたび緩やかなほぼ直線の道路を行く。どんどん人家が減り、サトイモ畑が多くなる。それにしてもまっ平らだ。昔は原野の中の一本道だったのだろう。
 やがて、堀兼みつばさ保育園の前で道は左にそれる。正面には低い山があり、切り通し状になっているが道はない。道は左に大きく迂回し、やがて右に堀兼中学校が見えてくる。この裏門のあたりからふたたび堀兼道に戻る。このあたりは狭くゆるやかに曲がりくねっている。
 やがて正面にHONDAの工場が見えてくる。その直前で道は大きく右に曲がる。東山道武蔵路はこのHONDAの工場の真ん中を突っ切ってたと思われる。
 さすがに工場の中は通れないので、左に行き西武新宿線の踏み切りまで来た。この手前には三ツ木原古戦場の碑がある。
 ここまで来ると新狭山駅は近い。12時50分、ちょっと早いが、今日はここまで。駅前のぎょうざの満州で塩ラーメンと餃子を食べて帰った。

7月19日

 リチャード・マーティンの『トリウム原子炉の道』(2013、朝日新聞出版)を読み終えた。
 これを読むと「原子力村」というのは日本だけでなく、アメリカであれインドであれ中国であれ、基本的に同じなんだろうなと思った。
 原子力開発にはあまりにも多くの資金が動きすぎたし、その動機にしても軍事目的が強すぎた。  これだけ金をつぎ込んだ以上、もはや後戻りはできない‥‥それは多くの公共事業も同様だが、原発は予算的にも桁外れだった。
 この本で示されているのは、原子力村は他ならぬ原子力の発展そのものをも妨げているということだ。
 アメリカ、インド、中国、これらの国ではトリウム原発の状況は決して良くはない。南アフリカならひょっとしたらというところだ。
 そしてわずかなページではあるが日本にも触れている。
 日本はトリウム原発を作るだけの技術力を十分持っているという点では中国よりいくらか先を行っているが、民間レベルで細々とやっている点ではアメリカの状況と大して変わらない。
 この本では亀井啓史、吉川和男、吉川雅章、原丈人といった名前も挙げられていて、株式会社トリウムテックソリューションにも触れているが、その記述は短い。
 吉川雅章の『原発安全革命』(2011、文春新書)は俺も震災の直後に読んで、初めてトリウム原発のことを知った。あの頃は本屋の目立つところに並んでいたから、ほかにも読んだ人はたくさんいたのだろう。それでも結局マスコミや政治家は原発推進かゼロかの不毛な二者択一論に終始して、いつの間にか忘れ去られている。
 安倍政権も既存原発の再稼動を進めるだけで、トリウム原発は成長戦略には組み込まれていない。
 アベノミクスに対抗して野党を再編しようという意欲のある者がいるなら、固形ウラン原発の順次廃絶して、順次トリウム原発に置き換えてゆくことを成長戦略の柱にしてはどうだろうか。
 原発ゼロのお題目をいくら繰り返したところで票にならないのは、この前の都知事選で証明済みだ。
 もちろんトリウム原発は一朝一夕には作れないから、当面は既に技術の確立されている、つまり「夢のエネルギー」なんかではない地熱発電をベースロード電源として推進し、火力と既存原発を減らす方向に持って行き、その間にトリウム原発を実用化に向けて開発を進めなくてはならない。
 既存原発の再稼動も何が何でもだめというのではなく、老朽原発の廃炉を前提とし、廃炉費用の捻出のための条件付きで認めるべきであろう。
 これから新興国はもとよりフロンティア諸国(今は途上国とは言わないらしい)での電力需要はますます高まるばかりであろう。そのために世界は環境にやさしく安全で安定した電力供給を求めている。日本の再生可能エネルギー技術は今での世界のいたるところに輸出されている。これにトリウム原発が加われば、世界のエネルギー市場を制することも夢ではない。
 そういうわけで、江田さん橋下さんあたり、どや?

6月22日

 今朝のナイジェリア=ボスニア・ヘルツェゴビナ戦の実況解説は、「はっきり言ってボスニア・ヘルツェゴビナびいきです」だったな。
 まあ、ボスニア紛争はマスコミで大々的に取り上げられたから誰でも知っているということで、ここでボスニアを応援しておけばいかにも文化人の気分になれるというのだろうか。
 ただナイジェリアだって67年から70年にかけて独立をめぐる激しい内戦があって、北部では150万人とも言われる大虐殺があった国で、選手の親の世代はその時代を生きていたはずだ。
 その後も民族や宗教の対立が残り、2010年にもキリスト教徒の村が襲撃されて200人が虐殺されたりしているし、最近でもイスラム原理派のボコ・ハラムによって民間人数百人が殺害され、300人近くの女子学生が連れ去られる事件が起きている。
 サッカーで祖国を一つにしようと気持ちは決してボスニア・ヘルツェゴビナの選手に負けてなかったと思うし、実際足がつった選手もいたくらいよく頑張ってたと思うよ。
 アフリカ人といったって同じ人間なんだからそんな超人的な体力があるわけではない。だから勝てて良かったと思うよ。テレビ局の人ももう少しナイジェリアのことも勉強してほしかったな。

 日本=ギリシャ戦はラジオしか聞けなかったが、自力突破はなくなったし次は頑張ってほしい。やはり戦後日本の高度成長期のエスカレーター式の人生に慣れてしまったリスクをとろうとしない体質は、若い世代を深く蝕んでいる。ここを乗り越えなくては、サッカーだけでなく経済の再生もないと思う。

6月15日

 ワールドカップが始まった。オランダのファンペルシは凄い。あんなヘディングでのループシュートは初めて見た。
 今日は午前10時に車検の予約を入れてしまっていて、失敗した。この時間が空いていたのはそういうわけだとは気づかなかった。
 車を預けたあと、携帯のワンセグで日本=コートジボワール戦の前半を見た。小さな画像で止まってばかりで、それでも何とか本田のゴールは見れた。
 家に帰ってテレビを見ると、そのタイミングで立て続けに2失点。携帯で見てた方が良かったのか。
 開幕戦の審判の判定といい、日本の弱点がさらけ出された感じだった。確かにルール上はああいう後ろからの接触プレーはファウルなのだが、あまりに杓子定規な対応で融通が利かない。今日の試合も接触プレーを恐れているみたいで、当りの弱さが目についた。
 サッカーはバスケやハンドボールと違い接触プレーが禁じられているわけではない。だからといってラグビーやアメフトのように全面的にOKでもない。グレーゾーンの接触プレーが多く加減の難しいのが、逆に言えばサッカーの面白さでもある。要は相手を怪我させないように手加減してぶつかるというスポーツで、その加減の仕方で相手を思いやる心を養うと言ってもいいのではないかと思う。ある意味でプロレスに似ている。
 日本人も昔はこういう手加減する柔軟性を持っていたが、戦後の教育で杓子定規になりすぎちゃったのではないかと思う。手加減の仕方がわからないから、ちょっとしたことで何かと問題にされてしまう。それが面倒くさいから人との接触を避けるようになる。そんな今の日本の状況がサッカーには如実に現れる。
 それと、海外で活躍する選手がちょっとばかり増えたということで、驕りがあったのではないかと思う。今の日本の実力ではコートジボワールと真正面から戦える状態にはない。1点先制したら、あとは11人で泥臭く守りきるくらいで良かったのではなかったか。
 夕飯にはカルディでブラックビーンズの缶詰とシュラスコシーズニングを買って、フェジョアーダとシュラスコを作ってみた。それに成城石井で買ったブラジルのワインで気分を出した。

6月4日

 ルチル・シャルマの『ブレイクアウト・ネーションズ』(2013、早川書房)を読み終えた。
 ブレイクアウトというと古いところだが80年の一風堂の「ブレイクアウトジェネレーション」という曲を思い出すが、投資家の間では突出する銘柄、要するにブレイクする銘柄を意味するらしい。
 つまり次にブレイクする国家はどこかというわけだが、韓国の評価はちょっと高すぎるんじゃないかな。韓国人は勤勉だし策略家でもあるが、発展の方向が見えているのかどうか疑問だ。かつての日本と同じで、後追いはできても世界をリードする力があるのかどうか。
 チェコ、ポーランドは日本から遠すぎて情報が少なくてよくわからないが、凄いのかな?
 トルコもオリンピック招致のライバルだったくらいだから、かなり有望ではあるのだろう。
 インドネシアはASEAN共同体が来年からだから、その中心になるのだろうな。ミャンマーも今ブームになっているし、いい意味でASEAN諸国が競争してゆけばもう一度東南アジア全体が急成長する可能性はある。
 日本はというと、まず控えめな国民性で突出を好まないから最初からブレイクアウトしようという意思がないといったほうがいい。韓国語の「モッ」は突出するだとか型破りのというニュアンスを持っているが、日本で好まれる美学ではない。イルボヌンモッチンナラアニヤ。
 実際大多数の日本人は今のこの平凡な日常が永遠に続くことを望んでいて、IMFの支配下に落ちてまで荒療治でこの国を変えるなんてのは無理な話だ。日本はブレイクアウトよりもアウトブレイクの似合う国だ。榊一郎の『アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者』のような戦略のほうが日本にふさわしい。じわじわと世界をオタク文化に感染させてゆくのがこの国のやり方だ。アウトブレイクネーションだったら日本は一番だろう。
 本当の意味でのブレイクアウトネーションがあるとすれば、それはモータリゼーションやIT革命に続く大きな消費革命の発信地となる国だが、それはちょっと新興国には荷が重い。やはりアメリカか。

5月29日

 非西洋圏の経済が発展するには、穏健な民族主義が必要なのだろう。
 いきなり西洋のような豊かさを性急に求めるあまりに、伝統文化やその地域の習慣を無視して西洋中心主義で改革を進めても、大衆のほとんどはついていけなくて脱落し、結果一部の特権階級が利益を独占する格差社会に陥る。
 西洋中心主義者は大衆を露骨に軽蔑し、無知蒙昧な群集として単なる啓蒙の対象としか考えなくなる。それではまともな経済発展は望めない。
 かといってそれに反発して急進的な民族主義や原理主義が政権をとると、それも発展の芽を摘んで昔ながらの貧しい生活を国民に強いることになる。
 イランは開明君主といわれたパーレビ(パフラヴィー)国王の西洋中心主義に反発した民衆が革命を起こし、ホメイニ氏の極端なイスラム主義に傾き、経済発展から取り残された。
 これに対し、トルコは西洋寄りの世俗主義が敗退し、緩やかなイスラム主義になることで経済成長を遂げた。タイも西洋寄りの黄シャツではなく、緩やかな民族主義のタクシン派の下で経済成長を遂げた。日本ももちろん西洋中心主義の社会党ではなく穏健な民族主義の自民党の下に一度は経済大国とまで言われる地位を築いた。
 民主党もいろいろな政策や考え方の違う人たちが集まってはいても、アメリカ型のリベラリズムやヨーロッパの混合経済の幻影の違いはあっても、西洋中心主義ではまとまることができたのだろう。
 これに対して、維新の会と太陽の党も政策がまったく違うにもかかわらず一緒になれたのは、自民党よりやや急進的な民族主義というところで一致点があったからだろう。
 穏健な民族主義は、民族固有の文化を尊重しつつ、その上で西洋の良い所を取り入れていける柔軟さがある。ただ、どの辺を取り入れるかでいろいろな異なる主張が生まれる。石原さんと橋下さんの対立も、その辺で世代差が大きかった。
 古い世代の右翼は「ひとつの世界」という妄想に支配されていた。国際社会は弱肉強の戦国時代で、やがて世界は一つになる。日本が生き残るには地球レベルでの天下統一の戦いに勝利しなければならない。その意味では国を守ることと世界征服を達成することとは一つのことだった。
 石原さんの核保有論も、結局その天下取りの発想から、アメリカ・ロシア・中国に対抗できる軍事力を要求してのものだ。原発もエネルギー政策としてよりもむしろ核開発のために存続させようとしている。
 今の右翼は侵略戦争を国を守るためだとして正当化するのではない。戦争そのものをなかったことにしたいだけなのだ。南京虐殺なんて、人間がそんなことできるはずない。連合国の捏造だ。日本人はみんな虫も殺せぬいい人ばかりだった。そう信じたいだけだ。
 この論理を拡大すれば、ナチスも実はみんないい人で、ホロコーストも連合国のでっち上げだということになる。それはホロコーストを正当化しようとするネオナチの発想とはまったく別のものだ。
 東浩紀も郵便的なんちゃらの中で、ナチスのホロコーストを否定していたと思う。はっきりなかったとは断言しないものの、証拠がないで押し通す手法は橋下さんと共通している。
 橋下さんはそんなに極端ではないにせよ、やはり戦争をなかったことにしたい派に属するように思える。その穏健民族主義が果たしてハーバード流の西洋中心主義者とやっていけるのかどうか。非西洋圏ではこの対立は結構致命的だったりする。

5月22日

 前に第四の肉欲というのを書いたような気がしたが、どこに書いたかわからなかった。

 人間には食欲、性欲、睡眠欲の三大欲求のほかにもう一つ、第四の肉欲が存在する。
 それは主にβエンドルフィンなどの脳内快楽物質に関するもので、本来は苦痛や恐怖などをやわらげるためのものなのだが、一度その快楽を覚えると、自ら進んで苦痛と恐怖を求め、しばしば麻薬のような依存状態を生じさせ、時として死に至ることもある。名だたる登山家が山で死んだり、ジョギングの教祖とも呼ばれるジム・フィックスが、ジョギング中に心筋梗塞を起こして突然死したのがそのいい例だ。
 これには、従来精神的欲求と考えられてきた多くのものが含まれている。しかし、非物質的な「霊魂」の存在を仮定しない限り、肉体的基礎を持たない純粋な精神的欲求なるものは存在しない。少なくとも何らかの快楽にかかわる欲求は、脳内快楽物質を求め、それに依存する肉体的欲求だといっていい。  この欲求は大きく言って苦痛型と恐怖型と問題解決型に分けられる。
 苦痛型の快楽には、ジョギング、マラソン、ダンス、登山、ウォーキング、その他のほとんどのスポーツが含まれ、ヨガなどの苦行や労働の際のワーキングハイもこれに含まれる。
 恐怖型には、ホラー、ジェットコースター、スカイダイビング、バンジージャンプ、様々な冒険、ギャンブル、常習的な犯罪行為、格闘、戦争なども含まれる。
 問題解決型は、a-ha体験を主としたもので、クイズ、パズル、囲碁将棋などの頭を使うゲーム、多くのテレビゲーム類、それに学問が含まれる。宗教的な悟りはその極地といっていいだろう。
 悩むという点では苦痛型の要素を持っている一方、苦痛そのものが快楽に変るのではなく、問題が解けた瞬間に一気に緊張から開放されることで快楽が生じることから、恐怖型の要素をも具えている。
 こうした快楽は、一方では社会に多大な迷惑をかけることもあるが、多くの場合は社会に貢献するもので、その中で特に成功した人は世間での惜しみない賞賛を浴びることになる。
 これらの快楽は本来同じものでありながら、一方ではオリンピックで金メダルを取ったり、学者として大発見してノーベル賞を取ったり、その一方では万引きがやめられなくて何度も刑務所に入ったり、生き物を殺す快楽がクセになってついには大量殺人を犯したり、何にはまるかによって人生の明暗を大きく分けることになる。
 おそらく、人それぞれ最初にその快楽にはまるきっかけが何だったかによって、天と地ほどの差が生じてしまうのであろう。
 人はそれぞれの持っている資質と、与えられた環境や偶然の出会いなどによって、一番入りやすい快楽に溺れるといっていいのかもしれない。それが社会に有益であるか有害であるかによって、サクセスストーリーの始まりにもなれば、転落の始まりにもなる。
 一度刷り込まれた快楽は制御が困難ではあるが、より手軽により多くの快楽が得られるものが見つかれば、変えられないものではない。喧嘩をするときの緊張は、格闘技の試合での緊張に転換可能だし、さらに格闘ゲームへの転換もありうる。
 社会への有用性というのも可変的なもので、人を殺す快楽も戦争の際には奨励される。だから、どれが本来もっとも奨励されるべき快楽の追及の仕方なのかは、政治的状況にも翻弄されかねない。
 スポーツでも、大きな国際大会があり、国威発揚に利用できるものは高く評価される傾向にあるが、そうでないものの評価は低い。
 同じゲームに没頭してても、囲碁や将棋は社会的にある程度の評価を得られるが、コンピューターゲームの名人では評価を得にくいのは不条理なことでもある。

 食欲や睡眠欲は生存に欠かせぬものであり、それを得ることに快楽報酬があるのはわりかし理解しやすい。性欲も子孫を残すことに役に立つため、そこに快楽が伴うのもうなづける。
 これに対し第四の肉欲は、直接生存や子孫繁栄に結びつくものではない。それでもこうした快楽を得るように進化して来たのは、理由がないことではない。
 たとえば肉食獣に追いかけられた時、ある程度走ると脳内快楽物質が分泌され、ハイな状態になった方がより長く走ることができ、逃げおおせる確率が高くなる。
 ならば、走ることに最初から快楽を感じればいいのかというとそうではない。敵もいないのにむやみやたら走り回っていたのでは体力を消耗し、肉体を傷めることになる。だからある程度までは苦痛であり、ある一定限度を越えた時に快楽のスイッチが入るほうが理にかなっている。
 逃げている時に目の前に崖があった。飛び降りれば逃げ切れそうな時に、恐怖に負けた者はそこで終りになる。恐怖を振り切って行動したものに快楽が与えられることで、勇気をふり起して崖から飛び降りれば、多くはそのまま死ぬかもしれないにしても、わずかでも助かるものがいればその者はやがて子孫を作り、勇敢な遺伝子を残して行くことになる。
 これも恐怖の感情がないなら、何でもないときに崖から飛び降りてしまうので、快楽の報酬は恐怖を克服したときでなくてはならない。
 問題解決への報酬は、それよりは後になって、知性が生存戦略に重要な役割を果たすようになったことで生じたのであろう。悩まないものよりも悩んだものの方がより多くの知識を得、生存を有利にするなら、そこに快楽を見出すものの方が勝利をおさめる率が高くなる。
 これも、悩むことが苦痛でないなら、どうでもいいことを考えすぎてしまう。本当に必要なことだけを考えるには、考えることは苦痛でありながら、その果てに快楽を得られるようにしなければならない。
 こうした快楽は、平常時ではむしろ苦痛でありながら、非常時になると快楽を感じるように作られているといっていい。
 しかし、あるとき大きな快楽を経験し、その記憶が刷り込まれてしまうと、ちょうど酒やタバコや麻薬などのように、ふたたびその快楽を求め、依存状態に陥る。
 むしろ薬物による快楽は、本来苦痛や恐怖の際に分泌される脳内快楽物質を人工的に投与するものであり、苦痛や恐怖なしに、何もせずに同じ状態を作り出すものだと考えた方がいい。

 この第四の肉欲は西洋的な霊肉二元論では説明困難だった。
 大体において三大欲求に属さない欲望は精神的欲求と見做されるか、あるいは性欲のバリエーションとして扱われるかのどちらかだったように思える。
 ギャンブルなどの快楽をパスカルは慰戯と呼び、本来は精神的な欲求でありながら、現実と向かい合うことをやめたネガティブな逃避的な精神的欲求として扱っていて、今日でもエンターテイメントがもたらす快楽をこの文脈で理解する西洋かぶれ文化人は多い。
 確かに会社経営というのも一種のギャンブルであり、リスクを背負ってでも大きな利益を追求することは精神的欲求として評価すべきだが、ギャンブルはそれのシミュレーションにすぎないから、堕落した精神的欲求という見方になるのだろう。しかし、有用かどうかは社会の側の決めることであって、快楽そのものは同質ではないだろうか。
 またしばしばこうした快楽にはフェティシズム(物神崇拝)と結び付けられることもあるが、これはフロイトを代表とする汎性欲的な解釈といえよう。
 結局の所、おおむね社会に有用な快楽は精神的欲求と見做され、社会に害を与えるものは性欲の延長という、ご都合主義的に理解されるのが現状ではないかと思う。

 さて、あのパソコン遠隔操作のゲームにはまった人も、基本的にはこの第四の肉欲、脳内快楽物質のもたらす快楽の奴隷となった結果であろう。通常の肉欲の概念では理解しがたいものではあるが、だからといって精神の自由ということで正当化することはできないし、精神の病ということだけで片付けてほしくはない。
 カント的な自由な精神なんてのは、それこそ理性の幻想だ。第四の肉欲はさまざまな偶発性によってどこに向かうかわからないDQNなものなのだ。

5月21日

 結局こういうゲーマーにしてみれば、退屈が最大の敵だったんだろうな。
 何の進展もなくだらだらと続く裁判で、検察も決定打がなくこのまま延々と退屈な裁判が続くくらいなら、さっさと自分からわざと負けてゲームから降りたいと思っても不思議はなかっただろう。
 ただ、降参するのは癪だから、わざと稚拙なトリックを仕掛けて、相手に勝つチャンスを与えてやった、そう考えればこの事件はわかりやすい。
 こういうのを懲らしめたければ、とにかく裁判を終わらせないことだ。退屈の地獄を味わわせてやればいい。

 世の中が豊かになり、食うに困らなくなると、こういう犯罪者が増えるのだろうな。欲望のために人を騙すのではなく、単なるゲームのために人を騙すというのが。
 普通なら、人のパソコンを遠隔操作する技術があったら、それで何とか金を騙し取れないかと考えるものだが、そういう欲はない。欲望のための犯罪ではなく、あくまで純粋に想像力を満たすための犯罪。ここでまたカント哲学の裏返しになる。
 マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」は「実践理性批判」の裏表紙だと評する人も昔からいたが、肉体的欲望から解き放たれた人間の自由な想像力は、決して良い方向に行くとは限らない。人間の理性は唯一絶対の神の理性ではない。人間の理性は肉体から開放されると方向性を失い、どこへ行くかわからないDQN理性だ。

4月26日

 20日の日曜日に池袋で「護国志士の会」のデモがあったというのを2ちゃんねるで知った。旭日旗と一緒にハーケンクロイツの旗を掲げたということで話題になっている。
 これだとそれこそ「旭日旗はハーケンクロイツと一緒だ」という最近の韓国のネトウヨの主張をそのまま地で行くような事態だから、韓国の陰謀を疑いたくなる気持もわからないではないが、そんな単純な問題でもなさそうだ。
 「護国志士の会」でぐぐればすぐに高木脩平のツイッターやブログが出てくる。デモが主催者側の発表で約40人だったこともこれでわかるし、その主張もある程度はわかる。たいした人数でもないが、某左翼政党の系統のデモなら、これくらいの人数でも十分マスコミの取り上げるニュースとなる。
 右翼というと昔は貧しい階層の不満のはけ口とされていたが、今の右翼は当てはまらない。右翼に限らず、それに対抗する「しばき隊」なるものもそうだが、そういういかにも人間臭い動機とは無関係なところが、この種の団体の主張を捉えどころなくしているように思える。多分人間臭い動機があるとすれば、一般的な社会からはぶられたとかそういうところにあって、常識的な社会そのものに反発しているのかもしれない。
 社会が豊かになり、引きこもりでもニートでも生きていけるようになると、むしろ世間の荒波だとか厳しい生存競争とかから逃げ出して、いわば社会的な様々な利害関係から切り離された所で生きている人たちというのが、一定の勢力になってくる。
 彼らは母体となる階級もないし、特定の集団の利益のために行動しているのでもない。彼らは世界-外-存在と言ってもいい。ただ、生存競争から開放された、肉体的欲望に拘束されることなない自由意志に基づいて行動している。
 それは昔の哲学者からすれば永遠の憧れでもあった。肉欲にとらわれない自由な意志、何かのための手段ではない、ただそれ自身が目的となる「目的の王国」、純粋な「汝為しうる」の声に基づく行動、だがそれは実現してみると結局何でもありのDQNワールドに過ぎなかった。カントも草葉の陰でさぞかし嘆いていることだろう。「こんなはずではなかった」と。
 ごく当たり前な人間的な欲望に基づく行為は、誰でも理解できるし予測もしやすい。しかし、自由意志に基づく行動は全く予測不能だ。こういう主張も可能だというだけで、結局何でもありになっているのだ。
 彼らの民族主義はあくまで観念的なものであり、先祖から受け継がれた文化を子孫に受け継ぐためのものではない。おそらく子孫を残すという生物学的欲求にも興味がないのだろう。
 もちろんこれは日本だけでなく、今や世界中にこうした人たちが一定の勢力となって存在している。あるものは右翼になり、あるものは左翼になり、あるものは何とも名状しがたい存在となる。それは自由だからだ。
 人間同士は同じ遺伝子を共有し、同じ欲望を共有することでお互いを信用している。そこから自由になってしまった人間というのは、結局どうしようもなくDQN以外の何ものでもない。

4月24日

 『量子元年、進化する通信』(佐々木雅英・根本香絵・池谷瑠絵、2014、丸善ライブラリー)を読んだ。
 「量子計算は時間が可逆」という言葉が引っかかった。意識というのもやはり量子計算なのか。シュレーディンガーの猫が死んだり生き返ったりできるという話は、現実では確かにありえないことだが、人間の想像の中では普通にやっていることだ。

4月11日

 四国八十八箇所めぐりのお遍路さんの道に韓国人向けのステッカーを貼る運動があったらしく、親切心は良いのだが、町の景観との調和ということになるとやはり問題があったのではないかと思う。
 ただ、ステッカーに抗議するステッカーというのはやはり矛盾している。何か他の方法がなかったのか。
 例によってマスコミは人種差別だとわめき散らし、ネットは某国の陰謀説で溢れかえる。もう飽きた。別の展開が欲しい。
 それにしても島田裕巳の『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(2013年、幻冬舎)。未だに八幡神社が韓国起源なんていうトンデモ説を書くと快哉を叫ぶ読者層がいたりするのかな。
 日本は戦争に負けたとき、それを単なる軍事的・戦略的な敗戦と位置付けず、日本の伝統文化そのものの敗戦として受け止め、日本を全否定し西洋化に邁進することを誓った文化人達がたくさんいたから、ひと頃そういう人たちは天皇の祖先が実は韓国人だったとか言う説に飛びついていたりしていた。
 この本に示されている韓国起源説の根拠はというと、中世に書かれた『宇佐託宣集』の「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という一文くらいのもので、この「辛国(からくに)」を百済(ペクジェ)でも高句麗(コグリョウ)でもなく「新羅(シルラ)」だと断定し、その理由を新羅明神が存在するからだと、直接関係ない神社の例を挙げている。
 この本をもう少し読むと『承和縁起』の欽明天皇の時代の「宇佐郡辛国宇豆高島に天降った八幡神社は‥‥」という文を引用しているが、ここに「辛国」の字があることについてはスルーしている。
 八幡神社の起源が三韓征伐に関係していたのは十分想像できる。応神天皇と関連付けられ武神とされたのもそのせいだろう。
 一説には「八幡」は諸葛孔明の八陣図を基にそれを舞楽化した八つの旗から来ているともいうし、それが秦(はた)氏と結びついたともいう。そこから道教との関連が指摘されている。まあ、「天皇」も道教の「天皇大帝」の影響だとすれば、八幡信仰が道教起源であっても不思議ではない。
 日本の文化の多くは長江流域で発達した稲作文明に負うもので、江南地方で発達した道教の影響を色濃く受けているのは当然ともいえよう。朝鮮半島の南部も同様に江南地方の文化の影響を受けていたから、日本と韓国に共通するものがたくさん見られるのは当然なのだが、それだけを根拠にした「〇〇の起源は韓国にあるニダ」という説が多すぎるのは困ったものだ。
 桜にしても本来ヒマラヤや雲南省から長江流域、沖縄、日本、朝鮮半島の南部に広く分布するもので、ただ済州島にもあるからというだけの理由で韓国起源だと主張するのはあまりに乱暴だ。ただ、この類の説が一時期日本の知識人の間で盛んにもてはやされたのは確かだろう。韓国人からすれば、それこそ「日本人も認めているニダ」ということになる。
 八幡神社が日本にたくさんある理由は、仏教と習合した「八幡大菩薩」が武家の間で広く信仰されていたことに由来するのではないかと思う。明治以降も三韓征伐の栄光と結び付けられ、明治政府の意向にかなっていたため、奨励されることはあっても潰されることはなかったのであろう。

4月2日

 3月30日、母が旅立った。半年から一年と言っていたのに2ヶ月も持たなかった。
 春分の日に母が家に帰りたいといっていたので、病院に外出の許可を取って、この日の12時に一時帰宅する予定だった。
 午前4時21分に病院から血圧が下がって危ない状態だとの電話があって駆けつけた。
 病室には商店街の飾り用に河童橋で売っていそうな桜の造花が飾ってあった。
 来た時には酸素マスクをつけながら、まだ荒々しく呼吸をしていた。眠っているのか話ができる状態ではなかった。
 兄の方はこんな時だというのに始発を待って電車で病院に向っていた。タクシーで高速を使えば1時間かからずに来れただろうに。
 春の嵐という天気予報にたがわず、未明には雨がぽつぽつと降り出していたが、夜が明けて少しすると雨も止み薄日が射してきた。その頃には息は既に弱々しくかすかなものになっていた。
 7時半を過ぎた頃、ようやく兄の夫婦が到着した。そしてそれを待ってたかのように、7時49分、息を引き取った。
 医者が死亡診断を終えると、解剖の許可を求めてきた。半年から一年がなぜ2ヶ月持たなかったのか、きちんと調べてもらう意味でも、即許可した。
 死因は食道の炎症からの出血で、子宮癌の転移が血液にも及んで、出血が止まらなかったことによるものだった。
 遅まきながら体の中の癌細胞は取り除かれ、全快してあの世に旅立った。
 帰宅を予定していた12時ごろは予報通り春の嵐となった。あの朝差し込んできた薄日は、やはり奇跡だったか。

 花曇り薄日は天の戸を開く

 父の死の前後が大雪だったことを思い出し、

 降る雪は星の海への旅路かな

 翌々日4月1日、家族葬をした。葬儀代には8パーセントの消費税が掛けられていた。

3月25日

 以前どこぞのお得意の社長さんに、どんな時に春が来たのを感じるのかを聞かれて、車の窓をちょっと開けて走るようになった時と答えたのを思い出した。
 その社長さんは花の名前を挙げて、それが咲いたらと言った。
 花で春を知るのは、いわば和歌連歌の風流。生活の日常卑俗の中で季節を感じてこそ俳諧だと、そのとき心の中で思った。
 今日は窓を開けて走った。

 窓ちょいと開ければ春だ、運転手


3月16日

 浦和のサポーターの事件は、結局コアなサポーターで独占していたエリアに、空気を読まない外国人(西洋人やブラジル人が主な対象か?)が入ってくるのを防ぐためのものだったし、「アンネの日記」の事件は著作権厨の犯行だった。まあ、確かに女の子の日記をそのまま本にするわけはないし、編集の手が入っていることくらいみんなわかっていることだが。
 何でもかんでも「右傾化」に結び付けようとするマスコミに、それをすぐに韓国の陰謀に結びつけるネット、どちらも違っていた。世の中はいろいろ多種多様な人がいて、それぞれの動機で動いている。二者択一的な短絡な発想はやめよう。
 STAP細胞は、結局おじさんたちは美人に甘いということだったのか。
 理研副センター長の笹井芳樹さんは山中伸弥さんと同じ1962年の生まれだが、早生れのため学年は笹井さんの方が上だが、ほぼ同世代と言っていい。どちらも関西の生まれ。
 片や京大医学部出のエリートで出世街道をまっしぐら。片や神戸大学を出た後しばらく病院勤務で、後に大阪市立大学大学院に行き、様々な苦難を経てノーベル賞受賞者にまで登り詰めた。
 どちらも万能細胞(多能性細胞)の研究者で、笹井さんからすればライバルと言うよりは思わぬ伏兵に出し抜かれた気分だったのかもしれない。それが、あるいはSTAP細胞の発表を見切り発車させることになったのかもしれない。
 国から予算を貰い続けるにも、ここらで何か目立った成果を見せたかったところだろう。
 もちろん失敗した時に備えて自分は黒幕に徹し、小保方さんを前面に押し出して、割烹着まで着せて、何かあったら若い未熟な研究者で、しかも女だからということで誤魔化すつもりだったか。ハーバード大学のチャールズ・バカンティも共犯か?
 STAP細胞は捏造とまでは行かなくても、理論面でも検証の面においてもまだ不十分な段階だったのだろう。
 この前ラジオで言っていた、アジア航測の赤色立体地図というのは、ひょっとしたら古代道路を探すのにも役に立つかな。山の地図(山っぷ)はセブンイレブンで売っているらしいが、平地の地図は高そうだ。図書館にでもないかな。

3月15日

 タブレットからのホームページ更新のテストをした。
ちゃんとできたかな。

3月6日

 いろいろなことがあった。
 親父が入院したという知らせを聞いた。言動が何かおかしいからといって神経科行ったら違うということで、結局肺炎だったという。年取ると肺炎はそれらしい症状が出ず、意識障害がきっかけで発覚することも多いという。
 病院に見舞いに行ったのが2月2日のことで、親父の意識はまだはっきりしていたが、記憶が混乱していたのか、「同級生か?」と言った。やがて何かを思い出して握手を求めてきた。「どこも悪くないのに入院させられた」と言っていた。これが最後の会話となった。
 このあと東京は記録的な大雪に見舞われた。仕事の方もさんざんで、帰宅途中にも乗用車のチェーンが切れて、やっとのことで帰ってきた。翌日は雪かきをした。
 2月11日に今度はお袋が入院した。お袋から病院に来てくれと電話があって、勘違いして親父の入院している病院に行き、呼吸器をつけて親父の眠っている姿を見た。これが生きている親父の最後の姿となった。そのあとお袋のいる病院に行った。見たところ元気そうだった。腰痛がひどいので救急車を呼んだということだった。
 その翌日、仕事が終ったあと、何となく以前にyoutubeで聞いたIXIONというフランスのドゥームメタルが聞きたくなり、それを流しながら帰路につこうとしたところ電話が鳴り、親父の死を知らされた。2月12日18時50分。宇宙の果てへと旅立って行くIXIONの音楽が葬送行進曲のように聞こえた。
 お通夜もなく、東京はふたたび大雪となった。雪の中を自宅と病院と母の自宅とを何度も往復する長い一日となった。
 母の病気が深刻で、その余命を医者から聞かされたのもこの頃だった。そして久しぶりに逢った兄貴が、実は自宅警備員でアルコール依存で、あの年で親父から仕送りを受けていたことも発覚した。
 2月16日は坊さんのお経もない簡単な家族葬となった。お袋もこの日は外出許可が出て、見送ることができた。
 いろいろあった。3月3日には遺骨を親父の故郷の岐阜へ持って行った。墓はあるがまだ埋葬はできない。だが、ここでようやくお坊さんがお経を上げてくれて、戒名も付いた。
 お袋は魂が抜けたように物事に無関心になり、体よりも心が先に衰弱してしまったようだ。
 まだまだ「源氏物語」を読み、週末の街道ウォーキングを計画するような、あの日常は戻ってこない。平凡な日常がある日急に終わるというのは、本当にあることだった。

2月3日

 『源氏物語』の紅葉賀に、雛遊びしていた若紫が、
 「昨日鬼やらいだといって、犬公(いぬき)が壊しちゃったので、修理してるの。」
という場面があった。これは元旦の話で、平安時代の追儺(鬼やらい)は大晦日に行なわれていた。
 内容も今のような豆まきでなく、陰陽師が祭文を読み上げる中を弓矢(もちろん本物ではない)で攻撃して撃退する儀式だったようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には冬の12月の「追儺」の項に『公事根源』を引用して、
 「大舎人寮、鬼を勤め、陰陽師、祭文をもて、南殿の辺に着てこれを読む。上卿以下これを追ふ。殿上人、御殿の方に立、桃の弓、蘆の矢にてこれを射る。」(『増補 俳諧歳時記栞草』、岩波文庫、p.391~392)
と記している。
 いつも困ったちゃんのイヌキは、多分若紫の雛人形を鬼に見立てて、おもちゃの矢を放ったりしたのだろう。
 一方、この本の冬の12月の「節分」の項にはこうある。
 「凡そ節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒せられて疫鬼を逐ふ。春にあるも亦然り。」(『増補 俳諧歳時記栞草』、岩波文庫、p.460)
 宮中を中心とした大晦日に行なわれる追儺の儀と、お寺を中心に行なわれていた節分の豆まきとがいつの間にか一緒くたになって、今の節分の豆まきになったらしい。豆まきは道教が起源という説もある。
 旧暦は太陰太陽暦とも呼ばれ、月の満ち欠けを基礎にしながら12ヶ月も、月の12ヶ月が一年の長さと一致しないため、二十四節季と組み合わせて、一ヶ月に節季が一つしか入らない月が生じたら、その月を閏月として調節する方法を取っていた。
 このため年によっては二十四節季の一つである立春と一年の始まりであり春の始まりでもある元旦とが一致せず、前後するようになった。
 俳諧の季語は基本的に元旦を以って春としていたが、これだと元旦の前に立春が来る「年内立春」は冬になってしまう。ただ、『古今集』の春の冒頭の、

 年のうちに春は来にけり一年を
     去年とや言はむ今年とや言はむ
                      在原元方

の歌を典拠に、年内立春も春と見做していたのであろう。
 それとは逆に立春が正月二日よりも遅ければ、節分も春になってしまう。今年がまさにそれなのだが、年内立春とバランスを取るなら、やはりこの場合も「冬」ということになるのだろう。
 この前テレビで芸能人に節分の句を作らせるのがあって、みんな疑いもなく春の句を作っていた。新暦で二月の節分となるとそう思うのも無理はない。
 昔の句では、

 追はれてや脇にはづるる鬼の面      荷兮

がよく知られているようだ。
 昔は豆まきは一家の主が行なったというが、今では鬼の役をやる方が多い。ただ、wikipediaによると、平安時代の追儺も、最初は方相氏と呼ばれる大舎人寮の役人が鬼を追い払っていたのだが、9世紀中頃から方相氏が鬼の役をやるようになったという。
 我が家では鬼役を決めずにみんなで豆まきをやっていたが、家によっては子供が大きくなって豆まきが家長の元に戻ってくる家もあるのだろうか。

 親も子も心の鬼に鬼は外


2月1日

 アベノミクスは日本をふたたび悲惨な戦争に導く─おそらく古い世代の左翼系文化人にとっては、これは疑いようのない自明なことなのだろう。この種の主張は途中の論理が省略されて、いつも結論ばかりが連呼されるために、同じ思想を共有する人間には自明であっても、そうでない人間にはめちゃくちゃなことを言ってるようにしか聞こえない。
 それならその途中の論理とはどういうものなのか。これは日本の戦後思想の出発点に関わるものなのだが、それを研究しようとする人は皆無だ。ただ、和辻哲郎の『倫理学』の戦後書かれた下巻を読むなら、大体その概略は知ることができる。
 まず敗戦を軍事的な敗戦に限定せず、日本文化そのものの敗戦として捉える所に大きな特徴がある。敗戦を受け入れることは日本の文化を全否定することであり、この耐え難い困難な状況を受け入れなくてはならないとするところから、戦後の日本の文化人達の思想が始まっているということだ。
 それは日本人の生活一般に関しても徹底した西洋化を要求するものであり、空調付きのコンクリートの家に住むことが奨励された。それは戦後の高度成長の過程で現実のものとなったし、実際日本国民のほとんどがアメリカ的な生活に憧れ、それを模倣してきた。
 そして、民主主義や人権思想などももちろん西洋を模倣してきた。今では考えられないが、「人権蹂躙」なんて言葉は、50年代ではごく日常的な会話の中でも用いられていた。
 しかし、彼らは一体何で日本の文化を徹底的に否定すべしという結論に至ったのだろうか。何で「だから日本は駄目なんだ」という言葉を繰り返さなくてはならなかったのか。その根底にある論理は、今ではすっかり忘却されているが、根底にあるのは「世界が一つになる」という妄想だ。
 吉田松陰を始めとする幕末の志士達は、西洋列強の植民地争奪戦を地球規模での戦国時代が始まっているかのように捉え、日本もそれに名乗りを挙げるべく韓国中国からオセアニアに至るまで日本の領土とすることを主張した。
 開国はそのための国力をつけるために一つの選択肢であり、西洋の軍事力に対抗するにはその背後にある西洋科学を学ぶ必要があることを痛感したからだ。
 開国からほとんど時期を経ずに征韓論が登場するのも、開国が本来侵略戦争を始めるための一段階と認識されていたからだ。
 世界が一つになるなら日本はどうなるか。それは日本が世界を征服するか、西洋のどこかが世界を征服して日本は消滅するか、そのどちらかだ、というのが基本的な認識だったのだろう。
 そして日本は前者を選択した。この二つしか選択肢がないなら当然の結論だった。
 そして1945年8月、日本の世界征服のための戦争は惨めな敗北に終った。
 そして焼け跡の中で日本の知識人たちはふたたび同じ選択にたたされた。そして結論したのは、日本を否定し、西洋中心の世界統一に合流することでしか日本は生き残れないということだった。
 あれから70年近くが経って、今もなおこの感覚は生きている。当時日本人がどういう思索をしたのかは忘却されても、繰り返されてきたスローガンに洗脳された頭には、日本を肯定するということ自体がふたたび日本を侵略戦争に引き戻す危険思想であり、絶対に容認してはいけないものであり続けているのだ。
 彼らの最大の間違いは「一つの世界」という妄想から抜け出せなかったということだ。

1月31日

 ようやく須磨巻をクリアー。
 それにしても、昔の人って泣いてばかりだな。
 ここでやめれば「須磨戻り」。昔の人もここくらいまでは大体読んだのかな。
 でも、ここでやめる人の気持もわかる。最初の頃はコメディータッチの軽い読み物だったのが、ここに来て涙涙の物語で、明石では少し持ち直してくれるのか。

1月27日

 以前、将門ゆかりの神社をめぐった時、鳥越神社、神田明神、築土八幡神社、鎧神社がほぼ東西の一直線上に並んでいるのを知ったが、古代に創建された神社が幾何学的に配列されているというのは風水とかそういうものではなく、単純にそこに古代道路が通ってたからかもしれない。
 つまり、鳥越から今の神田を通り神楽坂を登り(この辺りはかつて豊島郡と呼ばれ、豊島駅がこの辺りにあってもおかしくない)、北新宿の鎧神社の所を通るこの直線をさらに西に延長すれば、ほぼ中央線に沿って荻窪の北の天沼に至る。天沼は乗瀦駅のあったところとされている。

 昨日は電車の中で『ヒトの進化七〇〇万年史』(河合信和、2010、ちくま新書)を読み始めた。
 チンパンジーやゴリラの先祖の化石がまったくと言っていいほど見つかってない現状とその理由が書いてあったが、これでは結局仮に人類が熱帯林で誕生したとしてもその化石はまず見つからないわけだから、ほぼ永久に証明されることはない。
 人類のサバンナ起源説が定説になっていたのは、結局そういうことだったのだろう。かつてサバンナだった所は今は砂漠になっていて、化石を見つけやすい。だからそういう所からしか人類の化石は出てこない。それゆえ、史料が示す所によれば、人類はサバンナで誕生したとしか言うことができない。
 今ようやく足の指が木登りに適応して対向しているところから、半分樹上で半分地上で生活していたというふうに修正されて、サバンナと森林との境界で誕生したのではないかと言われている。しかし、森林の真ん中で誕生したという証拠は今後も出ることはないだろう。
 まあ、中央アフリカもこれから経済が急成長して、それまでジャングルだった所も宅地開発や工場の建設で掘り返されれば、ひょっとしたら人類が密林で生まれたという衝撃的なニュースが出てこないとは限らないが。
 同じ理由で水生類人猿説も証明は困難だ。この説が魅力的なのは、熱帯の海辺というのが、人間が裸でくらすのにもっとも優しい環境だからだ。だから、今でもこういうところはリゾート地とされ「楽園」と呼ばれている。人間がお風呂を好み、温泉につかっては「極楽、極楽」というのも、それがやはり人間が本来いるべき環境に近いからなのだはないか。
 だが、人間というのは自分達が楽園で生まれたことを否定したがるものだ。サバンナの乾燥地帯で飲むものも食うものもなく、昼は灼熱地獄で夜は極寒地獄で、しかも恐ろしい肉食獣に苛められながら、人間は仲間の信頼と英知の力でそれを乗り切った、という物語を欲しがるものなのだ。

1月26日

 今日は二度目の入れ替えで大田区立郷土博物館に川瀬巴水展の後期を見に行った。
 午後から寒くなるというので午前中に出かけた。
 今回は戦後の作品だが、これまでに較べて作品数が少なく、その分をいろいろなバージョンを展示して穴埋めしたような感じだった。
 多分、戦後の混乱期にこうした絵を求める日本人も少なく、外国人の土産やポスターやパンフレットなどの商業デザインの仕事に限定されてしまったのだろう。
 作品はどれも完成度が高いが、どこかで見たようなという感がなくもない。
 たとえば、絶筆の前の作品で、完成しなかったという「三保の朝」は昭和6年のスケッチによるもので、一度「東海道風景選集」の一枚として発表されている。元のスケッチでは松の木の間に富士が描かれているが、昭和6年の完成版では松の木が左にずれていて、松の木の横から富士が見えるように描いている。それを昭和32年版では富士を元の位置に戻している。
 昭和28年の「増上寺の雪」は新しいスケッチで、路面電車の駅で電車を待つ人が描かれている点は新しいが、大正14年の「東京二十景」の「芝増上寺」の焼き直しの感がなくもない。
 昭和25年の役者絵で松本幸四郎の絵があった。先代(八代目)だと思うが今の幸四郎によく似ている。国芳の絵にも松本幸四郎の絵があったが、あれは五代目の「鼻高幸四郎」だったのか。大体大きな鷲鼻が強調されていて、あの時代には珍しい彫りの深い顔だったが、七代目が養子なので血はつながっていないようだ。
 絶筆の「平泉金色堂」も昭和9年の古いスケッチによるもので、石段を登る二人の観光客が雪の中を登って行く僧の姿に置き換えられている。単なる演出上の問題だとは思うが、これが「絶筆」だと言われると、何か死を暗示しているように読み取れてしまう。
 冬の雪景色だけど、どこか芭蕉の死の一ヶ月くらい前に詠んだ、

 この道や行く人なしに秋の暮れ    芭蕉

の句が思い浮かんだ。たくさんの弟子達に囲まれながらも、結局人生の最後は一人だ旅立つしかない。誰もがいつかはその時に直面するのだろう。
 川瀬巴水さんの時代は、江戸時代から続いてきた浮世絵の伝統の最後の時代で、戦前はまだしも、戦後になるとこうした版画を楽しむファン層そのものが壊滅してしまった。それに取って代わるように、漫画やアニメやグラビア写真の時代が来た。巴水さんの最後の仕事は、浮世絵から受け継いだ手法にそれ近代的な写実を加えたアングルや構図などを、その後の観光用のパンフやポスターの写真に引き継ぐことだったのかもしれない。街で見た東京消防庁の文化財防火デーのポスターを見てふとそう思った。そこには増上寺の山門の写真が使われていた。

技術は引き継がれなくても、その根底にある文化は受け継がれてゆく。江戸時代のの俳諧も、子規の俳句革新の前にその基本的な技法がことごとく捨て去られてしまったが、俳諧の高度な技法はむしろ今のJ-popの作詞に生き残っている。かつての浮世絵の文化も、その意味では今でも生きている。

 

  川瀬巴水展を見た後、また馬込の近所を散歩した。馬込の神明社は境内全体が幼稚園になっていて入ることはできなかったが、門の前に明治15年銘の狛犬があった。右側は子取りだが、左側は股の間に牡丹の花を挟んでいた。自主規制?裏手には庚申塔を兼ね江戸時代の石灯籠があった。
 そのあと中延商店街を通って旗の台の駅まで歩いた。駅前の城南らーめん紫龍で紫龍ラーメンを食べた。こってりとした醤油とんこつで、博多風の細麺も選べる。辛子高菜も置いてある。だけど博多ラーメンではない。野菜は増量できるが富士山盛りというほどではない。チャーシューは角切りに切ってある。柔らかい。
 午後になると風が急に寒くなってきた。今日はここまでにして帰った。


1月20日

 ケヴィン・ネルソンの『死と神秘と夢のボーダーランド』(2013、インターシフト)をようやく半分くらいまで読んだ。
 以前『野ざらし紀行─異界への旅』の註の所に、
 「また、しばしば臨死体験に付随して見られる「幽体離脱」に関しても、方向定位連合野の活動低下に伴う誤作動の可能性がある。つまり、周りの環境の中での自分の位置を正確に表象できないため、実際とずれた位置に自分自身を定位してしまったならどうなるだろうか。周囲の環境についてのわずかな認識情報や、あるいはそういう状態に陥る直前の記憶などで、部屋の様子はある程度正確に表象される。しかし、自分の位置だけは誤った場所に表象される。自分の位置が実際よりやや上に表象された場合、ベットに寝ている自分を見下ろすような情景が生じる。しかし、そのずれが大きくなり、自分の位置が天井を突き破り、部屋の外に出てしまうと、その場所についての情報がなくなるわけだから、そこは空白として表象される。これが穴に吸い込まれるような感覚となる。そして、やがて、その空白を過去の記憶で埋め合わせた時、周りにお花畑が広がり、この世とあの世の境に到着する。」
と書いたことがあったが、より正確な情報がこの本に記されていた。
 「神経内科医は、体外離脱について、脳が感覚を統合して自己のボディ・スキーマ(身体図式)を形成するメカニズムに混乱が生じて起こるものだと捉えている。(p.171)
 「このボディ・スキーマを構築するのに、数ある感覚のうちどれほどが必要かは定かでないが、身体の位置(たとえば、右足は今どこにあるか)と身体運動の知覚、それに触覚は不可欠だ。これは幻肢のような手一本、足一本、あるいは身体の一部くらいの話ではない。身体全体の位置がずれたと思い違いするのが体外離脱体験である。」(p.171~172)
 「脳が自分の身体の位置と、ひいては意識の在処を把握するには、視覚、内耳から送られてくる情報、それにペンフィールドの身体地図から送られる手足の一感覚など、身体のさまざまな感覚を統合しなければならない。」(p.172)
 それが「側頭頭頂接合部」だという。
 体外離脱体験は脳の特定の所に電流を流し込むことで、人工的に引き起こせるという。
 「側頭頭頂接合部は、一人称視点に立って、自分自身を自分の行為の主体と認識する上でも重要な役割を担う。他者の心を読み取ることにも一役買っているし、他者との共感を可能にする径路にも大きくかかわっている。」(p.175)
 また、トンネルに吸い込まれる感覚は、血流の低下によって周辺視野から徐々に視野が狭まる現象だとしている。立ちくらみの時に体験する感覚がより強く起こったものだという。
 臨死体験は死後の世界を証明するものではなく、脳のある種の状態が生み出す一種の夢だなんて言われると何か元も子もない気もするが、だからこそ死に甘美な幻想を抱かずに、今この生きているときを大事にするとともに、ともに生きているものの命も大事にしなければならないと、そういう教訓として受け止めればいいのではないかと思う。
 自分の生死を超越し、死を恐れなくなるのはそれはそれでいいが、それを他人にも要求するとなると恐ろしいことになる。宗教の恐さはまさにそこにあるといっていい。

1月16日

 今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)をやっと読み終えた。まあ、この本に限らず俳人(俳句ジャンキー)の書く本というのは一方的な価値観の押し付けがうざくて疲れる。ただ昔の句に触れられることだけが救いだ。

 梅も咲き柳青みぬ冬木町    幹雄

の句は、俺はそんな悪い句じゃないと思う。てにはの使い方などもいかにも熟練した技で、子規など足元にも及ばない。
 ちなみにこの「も」という助詞は並列の「も」ではなく、芭蕉の時代には「力も」と呼ばれていた強調の用法で、係助詞として用いられる。幹雄さんはこれを「はも」とか「只も」とか呼んでいるけど、「はも」というのは「は」と入れ替えても意味が変わらない「も」という意味で、強調するだけで並列の意味がないという点では「只も」というのも間違いではない。
 内容的には梅の木には花が咲き、柳の木は芽吹いて青みを見せているが、町の名前は冬木町という他愛のないものだが、俳意確かに力強く詠み切っている。
 勘違いしてはいけないのは、俳諧というのは漫才やコントと違って爆笑させる必要はない。あくまで季候の挨拶として、ほんの少し相手の頬を緩ませることができればそれでいい。これが冬木町での興行の挨拶の句だとすれば、まずまずの出来だと思う。
 テレビでは俳句の先生が芸能人相手に得意気に「ふるふらぬ」の議論をしていた。確か芭蕉は否定したはずだったが、生半可にかじると使ってみたくなるものなのね。まあ、笑えるから許せるけど。額に皺寄せて口をへの字に曲げた爺さんがこんな議論を始めたら、即チャンネル変える。
 まあ、基本的に昔も今も俳句の世界というのは変わらないもんだなって、結局俳句村なんだと思う。それを打ち破るには芭蕉くらいの天才でなければ駄目なんだろうな。それでも芭蕉が死んだらすぐ元に戻っちゃったからな。

1月13日

 奥の細道も東海道もだいぶ遠くなってしまい、そうそう気軽にも行かれなくなって、またどこか新しい旅を始めようかと、候補になっていたのは平塚から秦野・渋沢を経て足柄峠を目指す古代東海道の続き、浜田駅から自分ちの近くを通って丸子橋から大井町を通って千葉を目指す延喜式東海道、分倍河原から群馬県の大田市を目指す東山道武蔵路だったが、今回は東山道武蔵路に決定した。
 東山道武蔵路の良い所は、発見されている道路遺構が豊富で、川越くらいまでほぼルートが確定していることだ。推定ではなく確定ルートを歩けば、古代道路がどういうところを通っているかわかるのではないかと思った。

 9時ちょっと前に分倍河原に到着した。
 今回は南口ではなく北口からのスタートだ。南口には新田義貞の像があったが、北口はすぐに商店街だ。
 甲州街道の旧道に出て、そこからまず東へ、武蔵国府の跡を目指した。
 高安寺の所に弁慶坂というのがあった。古代道路がこの辺を通ってたなら、弁慶さんが通っていてもおかしくない。弁慶が実在したかどうかは別としても、弁慶伝説の聖地としてはふさわしい場所だ。
 国府の跡は甲州街道旧道より南側にあるので、府中市役所前を右に曲がり、その先を左に曲がった。大国魂神社の鳥居があった。昭和43年銘の見慣れた岡崎型の狛犬があった。
 神社の中に入るとまだまだ初詣モードで的屋の屋台が並ぶなか、成人式の着物姿の人もたくさん着ていた。なぜか少年野球の一団もいた。
 真新しい随神門の前には小ぶりな天保10年銘の狛犬があった。玉取りの方も背中に子獅子を乗せていた。
 随神門をくぐるともう一つ中雀門があり、その前に大きな狛犬があった。やはり天保10年銘で、阿形はおっぱいを吸っている子取りだった。
 落合さよりさんの漫画の『ぎんぎつね』に出てくる狛犬は両方とも男だったが、本来狛犬は雌雄一対だったのではないかと思う。少なくとも子獅子におっぱいを吸わせている以上、雌であることは間違いない。玉取りや子獅子と遊ぶ姿の吽形のほうが雄だったのではないかと思う。狛犬によっては股間に一物を彫っているものもあるが、古い木彫り狛犬でも一方はあまり目立たないふくらみを持つように彫られている。
 古い時代には「獅子狛犬」と呼ばれ、角のないのが獅子で角のあるほうが狛犬と呼ばれていたらしいが、ちょうど豹が虎の雌と考えられていたように、獅子が雌で狛犬が雄と解釈されていたのではなかったか。
 中雀門をくぐると、右に鶴石、左に亀石があり、正面に拝殿がある。どこかでみたようなと思ったら、そう、アニメ『coppelion』に出てきた神社だ。あの大きな方の狛犬も登場していた。府中はcoppelionの聖地でもある。
 参道に戻り、今度は北側の正面の入口の方へ行ってみた。一の鳥居の前に昭和46年銘の狛犬があった。正面向きの招魂社系だが、なぜか尻尾がない。後で調べたところによると、この神社の宝物殿の伝運慶作の神殿狛犬を模したものらしい。そういえば宝物殿があったような。そんな貴重な狛犬があるなら行っておけばよかった。多分、長く伝わってくるうちに尾の部分が取れて消失したのだろう。
 ふたたび随神門の前に戻り、東側から出るところにも狛犬があった。昭和46年銘の岡崎型だった。
 狛犬4対で十分な収穫だと思っていたら、あとで大国魂神社のHPを見たら、拝殿裏にも境内社があって、巽神社や東照宮の前にも狛犬が映っていた。初詣の賑わいの中でついつい見落としてしまった。
 国府の跡は大国魂神社の東側の鳥居を出て左に行ったところにあった。ガラス張りの建物があって、そこに国府跡の説明と付近の古代道路を解説した地図があった。
 それには東山道武蔵路だけでなく、国府から北へ行き、途中で北西に曲がって国分寺へ向う道も記されていた。
 ふたたび大国魂神社を横切り、ふるさと府中歴史館に行った。そこでもらった「ふちゅう地下マップ、発掘!ここまでわかった武蔵国府」というパンフレットには、古代道路のことがもっと詳しい地図があった。これによると、甲州街道旧道のこの辺りの直線区間も古代道路で、至大井と書かれている。これに並行した府中駅を通る短い道も記されている。また、国分寺への道にはもう一つ並行した道があり、東山道武蔵路へは二つの斜行道路も記されていた。
 とりあえず、この地図に従い、甲州街道旧道を通って分倍河原の方に戻った。そして、京王線の踏切を過ぎたところで来たに向うのだが、直進できる道はない。美好町公園に突き当たり、それを除けて今の甲州街道国道20号線を越え、そこからまたジグザグに進んで団地とすずかけ公園との間の道に出た。ここも東山道武蔵路の近似値にすぎない。ルートは確定しているものの、その上の今の道路が走っていない。
 この道も東芝の工場に突き当たり、結局東に曲がり武蔵野線の線路を越え府中街道に出て大きく迂回することになる。
 右には府中刑務所の高い塀が見える。ここもcoppelionに出てきたっけ。
 やがて東八道路の上を通り、その先の所を左に行って武蔵野線のガードをくぐり、線路に沿って行くと国分尼寺の跡に出る。ここの線路側のところに斜めに国分尼寺の塀の外にあった溝の位置が示されている。おそらくこのさらに外側が東山道武蔵路だったのだろう。この溝はふたたびそのまま斜めに武蔵野線と交差する。
 ふたたびガードをくぐって府中街道に戻る。この先で東山道武蔵路は府中街道と交差し、右側の国分寺跡の脇を通る。ここも真直ぐ進める道はない。
 地形的にはこの辺りから右側がやや低くなり、谷間になって行く。東山道はこの谷間に落ちずになだらかな稜線を登って行ったのだろう。
 府中街道から右側に行くと国分寺公園があった。これが今の国分寺の裏側で、まず薬師堂にお参りしてそこから下って行くと、西側に八幡神社があった。本地垂迹の関係だろう。昭和8年銘の小さな狛犬があった。ここから坂を下りて行くと、工事をやっている広い場所に出た。ここが古代の国分寺の跡だ。
 講堂跡は工事中で、南側の金堂跡では子供達がサッカーをして遊んでいた。なんかデジャブ感がある。海老名の国分寺跡でも子供がサッカーをしていたような。

 来た道を戻り、八幡神社の横を登り、国分寺公園の入口の先を左に行くと、史跡東山道武蔵路跡と書いた札の立っている空き地のような場所があった。両側は老人ホームのようだ。ここでも東山道の遺構が見つかっていて芝生の上にそれが再現してある。幅12メートルでかなり広い。そこの説明板には古代東海道の時に通った打越山遺跡の写真もあった。奥の所には、ここから国分寺の脇に降りていく景色をイラストで再現した看板があった。かなり急坂に描かれている。実際はこれほど高低差はないだろう。
 この道の北側は民家で途切れているが、その向こう側は国分寺四小入口交差点で、そこから来たに伸びるマンションと都立武蔵国分寺公園との間の道路の西側の


歩道はやたらだだっ広く、そこに黄色い線が二本引かれている。これも東山道武蔵路を復元したものだ。広い歩道は古代道路の広さとそれほど変わらず、ここを歩くといかに古代道路が広かったかがよくわかる。これなら視界も開けて、遠くの山まで見えただろう。今は家やビルが立っていて見えないが。
 やがて道は突き当たり、その向こう側は中央線の線路になっているが、かなり下にある。その向こうに池が見える。姿見の池だ。東山道はここから急な坂道を下り、この池を突っ切っていたことになる。
 この急坂を考えると、この前見た延喜式東海道の雪谷のあたりの八幡坂くらいの坂はあってもおかしくない。
 徒歩や馬なら多少の急坂は問題ない。急坂が問題なのは重い荷車を通す時だが、古代の車が祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなハンドルのない四輪車だとしたら、梃子を使って持ち上げながら方向転換をしなくてはならないため、回り道をするよりは一直線に進んだ方が良かったのだろう。曲線的な迂回路は、二輪の大八車が主流になったことによるものではないか。
 とにかく直進するためなら急な坂をも下り、池をも埋めて通る。それが古代道路だ。
 中央線の線路がある上に急な斜面とあって、今では姿見の池に降りるのに一度府中街道に戻らなくてはならない。かつては鎌倉街道も古代道路と今の府中街道との間を走っていて、恋ヶ窪はその鎌倉街道の宿場町だったという。宿場には付き物の遊女が朝な夕なに自ずらの姿を映して見ていたという言い伝えがあることが、この池の説明板に書かれていた。
 この池は昭和40年に一度埋め立てられ、平成10年に昔の池をイメージして新たに作られたのだという。つまり、今の池の姿は鎌倉時代の姿でもなければまして古代の姿でもないということだ。
 姿見の池を後にして旅を続けるが、ここから先も古代道路のあたりを真直ぐ抜ける道はない。左側に行くと北へ向う道があったのでそこを行く。
 少しいくと右側に熊野神社があった。
 入るとすぐ右に、

 朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪
     今はた訪うも知記りならずや
           聖護院道興准后

の歌碑があった。文明18年(1468)の歌。この時代は東山道ではなく鎌倉街道だったのだろう。
 拝殿前の狛犬は昭和49年銘の岡崎型だった。
 境内の奥に芭蕉の「ひょろひょろとなほ露けしやをみなへし」の句碑があった。この石碑の文字は明治7年に恋ヶ窪の俳人可尊の揮毫によるもので、横には可尊の辞世の句を記した句碑もあった。

 月花の遊びにゆかむいざさらば    可尊

亡くなったのは明治19年、まだ正岡子規が頭角を現す前のことだった。
 ちょうど電車の中で今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)を読んでたところで、明治19年という年は何かの縁を感じる。
 幕末から明治初期の俳諧のレベルは実際かなり高かった。だから今泉さんも最初は、月並句の山の中からわずかな佳句を拾うことができれば、みたいな感じでこの時代の俳諧の研究を始めたようだが、意に反して佳句がざくざくと出てきてかなりとまどったようだ。
 幕末から明治の初めの句は、少なくとも技術的なレベルはかなり高かったと思われる。ただ、何を表現するかという点で、明治維新の急激な時代の変化に対応できなかった所があったと思う。だから佳句は確かに多いのだが、今ひとつ印象に残る、いわゆる記憶に残る句が少ない。明治育ちの正岡子規にはそのあたりに歯がゆさがあったのだろう。
 この「月花の」の句も悪くない。死を前にしてこんな句が詠めるのは確かに凄いことだと思う。だけど果たして記憶に残るかというとどうだろうか。
 熊野神社の裏側に抜けるとすぐに踏切があった。この辺りからまた北へ行かなくてはいけない。だが、実際はかなり西にそれて府中街道に出てしまった。この辺りの府中街道は東側に膨らんでて、東山道武蔵路とかなり近い所を通っているのは確かだ。
 ラーメンの看板が目に入る。時間も12時半ということでここで昼食にした。一代元国分寺店でラーメンの種類も多い。韓国ラーメンというのも気にはなったが、普通に熟成とろ玉ラーメンの醤油とんこつにした。
 東山道の方に戻るべく、東恋ヶ窪5丁目の交差点を右に曲がった。少し行ってから北へ向う道に入った。
 やがて北西に道の向きが変り、左側に茶畑が見えた。こんな住宅地の真ん中でも狭山茶を作っているんだと思った。
 ここから先も右へ行ったり左ヘ行ったりしながら、それほど大きくコースアウトすることもなく鎌倉橋にたどり着いた。ここは鎌倉街道が通ってたのだろう。この手前に上水本町遺跡の東山道の遺構があったようだが、どこかはわからなかった。
 ここから先何本もの道が並行している所を北に向う。道と道の間は細長い団地になってたり、ずっと畑や果樹園が続いているところもある。このあたりに原島農園遺構があったらしいが、場所はよくわからなかった。
 やがて武蔵野線の新小平駅の近くに出る。恋ヶ窪からここまでずっとまっ平で、小平と言うよりは大平ではないか。
 やがて北へ向う道はブリヂストンの工場で遮られる。これを迂回すると、また府中街道に出た。

 ダイエーのある八坂の交差点を右に曲がると、小川住宅という小さな団地があった。ここにも小川団地遺跡があり東山道の遺構が発見されている。

 東山道はこのあと緑風荘病院の中を通り、西武多摩湖線の八坂駅の横をかすめ、野口橋へと向う。ここも道がないため、西武線の線路を越えた所で左に曲がり、ふたたび府中街道に戻った。

 府中街道もこの辺りは道幅が広い。左に八坂神社があった。
 入るとまず万延元年銘の狛犬があった。なかなか独特な顔をしている。
 狛犬はもう一対、昭和51年銘の岡崎型のものがあった。
 八坂神社の先に野口橋がある。この辺りにも東山道の遺構が見つかっている。
 野口橋の交差点を過ぎたあたりで、東山道武蔵路は府中街道と交差し、西側に行く。そして、東村山駅の辺りを通過する。
 午後3時。東村山駅でセーブして今日の旅は終る。


1月11日

 今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)をようやく半分ほど読んだが、とにかく突っ込み所の多い本だ。いちいち突っ込んでたら一冊の本になるくらいの文章になりそうだから止めておくが、まあ幕末や明治初期のいわゆる旧派の句を紹介してくれるのはありがたいし、救われた気分になる。
 「子規は何を葬ったか」と言われれば、日本の伝統そのものとでも答えたい。
 子規も「一つの世界」の妄想に取り憑かれた一人で、日本の和歌や俳諧の伝統の言葉遊びを日清戦争の頃を境に一気に葬ろうとしたし、その方法がまた巧妙で、西洋絵画から着想を得た「写生」をあたかも日本の本来の伝統であるかのように偽装し、写生説を万葉集や芭蕉に仮託した。
 日本の平和な文化はこれから世界と戦争をしていくのに邪魔なものだったし、日本がこれから西洋と対抗して「一つの世界」の中心に名乗りを挙げるには、日本の文化そのものを西洋的に作り変えなくてはいけないと考えたのは、もちろん正岡子規だけでなく、幕末の志士達以来の西洋を学んだ文化人達の共通の認識でもあったのだろう。
 「一つの世界」の実現のためには、軍国主義と西洋崇拝はその両輪を為すものであり、先の大戦の敗北も、多くの知識人たちにとっては軍隊の敗北ではなく、日本の文化の敗北として受け止められ、よりいっそうの西洋化を要求するものだった。
 戦後の左翼は軍国主義的侵略戦争の根本原因が「一つの世界」の妄想にあったことを認めず、あくまで君が代、日の丸、天皇、靖国神社といった日本独自のものに向けようとした。
 ヒットラーもムッソリーニも侵略戦争をやったし、スターリンもいくつもの社会主義国家に介入し、支配下においてきた。どれも「一つの世界」という妄想においては共通していた。侵略戦争は君が代や日の丸がなくても、世界のどこでも起こりうるものなのだが、それを認めようとはしない。
 今泉恂之介も基本的にはその価値観を共有する人間で、子規が葬り去ったものをあくまで幕末・明治初期の俳諧史に限定し、その中からあくまで正岡子規以来の近代俳句の尺度で言う「名句」を救い上げるだけのものだ。近代俳句以前の伝統的な価値観には全く興味がない。
 他人事ながら言っておきたいが、幕末・明治初期の俳句の心配する前に、今の俳句をもっと心配すべきであろう。22世紀の評論家は多分こう言うだろう。
 「昭和末から平成にかけての俳句は月並調に堕し、見るべき物は何一つない。
 ただ子規の教えを絶対視するだけの陳腐な句を垂れ流した。」
 子規は月並句の特徴をこう言ったという。
  1・感情に訴えずに知識に訴えようとするもの。
  2・陳腐を好み、新奇を嫌うもの。
  3・言語のかいし(たるみ)を好み、緊密さを嫌う傾向。
  4・使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの。
  5・俳句界の系統や流派に光栄ありと自信するもの。
 今の俳句にも当てはまってないだろうか。

 俳句といえば、「GO!GO!575」という5分アニメを見た。SEGAのゲームのアニメ化のようだ。季語の入ってない他愛のない575ではあるが、言葉を575にして遊ぶという俳諧本来の初期衝動は大事だ。

 弾けたいこの街全部抱きしめて   正岡小豆


1月10日

 平安時代の船の引き綱がどんなだったかわからず、いろいろネットでググってみてもなかなかこれというようなヒットするものがない。遣唐使船ばかりが注目を集めて、それ以外の船の研究はあまり進んでないのか。
 それでふと平安時代の車がどんなだったのかも気になりググってみたものの、やはり牛車以外のものがほとんど出てこない。ようやく古代に地車(じぐるま)というのがあったらしいというのが、だんじり祭りの研究サイトからわかった。
 そんなこんなで無駄に時間を潰しては、「源氏物語」の須磨巻もまた止まってしまうのだった。

 古代道路の直進性は、祇園祭の山車や岸和田の地車(だんじり)のようなハンドルのない四輪車が存在していたとすれば、最も無理なく理解できる。このような車は徐々に曲がるのではなく、ある一点で向きを変えたほうが転回しやすかったからだ。
 古代の古墳の造営の頃から、重い石などを運ぶのに修羅(すら)と呼ばれる、コロを並べてその上を滑らせる橇が用いられていた。地車(じぐるま・だんじり)もこの橇を原型として発達したものらしく、丸太を切ったコロを車輪として用い、引き綱で引き、梃子を用いて車を転回させた。
 陸上輸送の主流が、古代にあってはこうした修羅や地車が用いられていたが、やがて小型で二輪の大八車に取って代わられていったとすれば、道路が細くなり、曲がりくねるようになった理由も説明できる。二輪なら転回が簡単だからだ。
 江戸時代の日本ではからくり人形には車が用いられているにもかかわらず、輸送手段としての車が未発達だった所から、あたかも日本には昔から牛車を別にすれば車の文化がなかったかのような先入観ができてしまっていたのかもしれない。
 古代道路についても、つい最近まで獣道のようなものしかなかったかのようなイメージを持たれていた。車に関してもそれは言えるのではないか。

1月5日

 午前中は毎年正月にお参りに行っている柿生琴平神社に行き、午後からは大田区立郷土博物館に川瀬巴水展を見に行った。入れ替えがあって、前期中期後期に分かれていて、今回は中期。昭和6年から19年までの円熟期の作品だ。
 「東海道風景選集」はおととい行ったばかりの原や吉原の絵があった。
 東京の景色を描いた「井之頭の春の宵」は月明かりの夜桜を描いた絵で珍しい。江戸時代の句に夜桜の句が少ないのは、もちろん外灯がなかったというのも第一だが、桜の季節の青天率が低く、桜の開花期も短いため、満月と満開の桜が重なるというのは極めて稀だったからなのだろう。
 芭蕉には、

 しばらくは花の上なる月夜かな

の句があるが、これは貞享五年、『笈の小文』の旅で見た景色を後から思い出して作った句だろうか。月は夜遅くなってから登ったのだろう。満開の千本桜を山の上から見下ろし、それが月明かりにほのかに白く見える幻想的な光景が思い浮かぶ。時間も遅く長く眺めていられない。それゆえに「しばらくは」だったのか。
 「関口之雪」は関口芭蕉庵のあたりなのだろうか。ほとんどモノクロに近い画面にワンポイント赤い窓の灯があり、巨大な水車が無機的で何かインダストリアルな感じだ。
 「新東京百景」の「中央市場」は築地だろうか。ターレがないくらいで今の築地とそれほど変わらない。
 精進湖の赤富士は小さな宣伝用のポスターだが、2万枚の大ヒットを記録した作品だという。
 小さな女の子を描いた作品や韓国の景色、両班(ヤンバン)の肖像など、いろんなものに挑戦していたようだ。
 同じ絵でもすり方や色を変えることでいくつものバージョンができるというのは、前回の展示でもあったが、「暮るる雪」の藍摺版、鳴沢之富士の薄青灰色摺版など、今だったら画像編集ソフトでできそうだ。以前すずちゃんの写真をグレーの虎模様から普通の茶虎にしてみたことがあったが。
 とにかく今回もいい絵がたくさんあった。
 帰り道は前回と同様荏原町の方へ歩いたが、スリーエフのある荏原町駅入口の交差点、を左に行くと中原街道までほぼ直線の道があるのを思い出した。この道は明治20年の地図にも書かれていて、延喜式の古代東海道ではないかと思われる一つの候補でもある。右の方は道が細くなりやや南の方へ曲がって行ってしまうが、直線に延長して行けば大井駅のあったと思われる大井町に行く。
 広いわりには交通量の少ない道で、右は品川区中延、左は大田区北馬込と区の境になっている。
 やがて道は細くなり、商店街になる。そして環七を渡ってもその向こうに長原商店街があり、中原街道に出る。ここから洗足池の方へ下る坂は洗足坂といって、かつては難所だったらしい。
 中原街道はここから真直ぐ丸子へ行くのではなく、洗足池の手前で右に大きく膨らむコースを取っている。ここを真直ぐ石川台駅の方へ行こうとすると、二度の急なアップダウンになる。おそらくそれを避けるために中原街道は迂回しているのだろう。
 ここを真直ぐ行く道は今はないし、明治20年にもなかったようだ。だいたい雪ヶ谷八幡神社の東側の宮前坂のあたりを通る。この延長で雪が谷大塚駅付近で中原街道に合流するというのが、古代東海道の考えられるコースだろう。おそらくあまりにアップダウンが激しいため嫌われて、今の中原街道の道筋に落ち着いたのではないかと思う。
 通りがかったついでに雪ヶ谷八幡神社にもお参りした。明治29年の小さな狛犬があった。
 今の中原街道は田園調布陸橋の所でやや右にそれて今の丸子橋に向うが、中原街道の旧道はここを直進して、今のさくら坂を経て沼部駅の方に行く。
 さくら坂は切通しになっているが、昔の中原街道はその右側の側道のように急坂になっていたという。
 今日も結構歩いてしまったが、さすがにここから多摩川を渡り小高駅の方まで歩く気はしない。いつか延喜式東海道をあるいてみたいけど、それは時間のあるときにとっておいて、今日はここから電車に乗って帰った。
 今日で正月休みも終わり。8日間は今までで一番長い正月休みだったが、終ってみればあっという間だ。
 まあ、幕末の町人は元旦の一日しか休めなかったというから、それを思えば贅沢なことなのだろう。今日電車の中で読んだ本で見つけた句。

 やっと来た元日がただ一日かな   鳳朗
 夜に入るにも一つほしき初日かな  同


1月4日

 昨日の電車の中で『ゲーデルの哲学─不完全性定理と神の存在論─』(高橋昌一郎、1999、講談社)を読み終えた。
 これによると、ゲーデルの不完全性定理から導き出されるのは、一つは人間の精神は脳の機能に還元できないということで、人間はニューロン機械ではないということになる。
 そしてもう一方では、数学は人間の創造ではなく、人間の知らない決定不可能な命題が存在し、人間の外に実在するということだ。
 人間の理性は自分自身を知ることができない。それは理性が神性ではなく、広大な実在の世界のほんの一部、砂粒のようなものだとしたら当然のことのように思える。
 「汝自身を知れ」というが、それは無理な話だ。自分自身をどのように認識しようが、その当の自分自身は知っている内容からは証明できない。
 ハイデッガーの存在論でも、存在は存在するもの(存在者)に関するいかなる知識からも導くことはできない。
 要するに、人間の知っている「数学」は、実在する宇宙数学のほんの一部にすぎない。それは人間が単なる数学的な機械ではなく、それだけではないから、自身の数学がすべてではないことを感じ取ることができる。
 これを存在論にするなら、人間の存在は存在そのもののほんの一部にすぎない。それは人間の現存在の存在と存在そのものとの間の差異を直観するからである。ほぼハイデッガーの見解と一致する。

 ところで、神の存在証明。
 数学も論理学の素人な俺が言うのもなんだが、

 帰納的に記述できる公理系では証明できないものを神と呼ぶ。
 第一、第二の不完全性定理のいずれにしても、それは存在する。
 ゆえに神は存在する。

ではいけないのだろうか。

1月3日

 今年の正月は休みが長いので、今日は旅初めで、東海道の続きをすることにした。
 朝5時過ぎに家を出て、三島へ向った。
 小田原駅には駅伝のグッズが売られていて、駅伝を見に行くと思われる人もちらほらいた。今日は復路だから元箱根へ今から見に行くのだろう。
 小田原を出ると相模湾の朝日が見えた。子供の頃日本で二番目に長いトンネルだった丹那トンネルを通った。ちなみに一位は新幹線の通る新丹那トンネルで、その後清水トンネルに抜かれたと記憶している。トンネルを抜けると函南駅は山の中だった。♪オッパッ、函南スタ~イル。
 8時ごろ三島駅に到着。空は曇っていて富士山は見えなかった。
 前回は真っ暗だった三島大社に向った。これが今年の初詣だ。
 三島大社はすっかり初詣モードで、的屋の屋台が並び、おみくじ売り場も拡張されていたし、商売繁盛の熊手や福太郎餅も売っていた。賽銭箱も大きくしてあったが、時間が早いせいか、まだ人はそう多くなかった。参道をロープで囲っているため、境内社の方へは行かれないようになっていた。
 おみくじは吉だった。ちょっと微妙。小さなおかめのお守りが入っていた。
 境内には神馬舎があり馬の像があった。午年だけに縁起がいい。
 宝物館はまだ開いてなかったが、その前に明治44年の狛犬があった。参道の狛犬は昭和34年で戦後の標準型(岡崎型)だった。その後いやというほどこの岡崎型を見るとは、この時には思わなかった。
 三島大社の正面の鳥居を出たところから東海道の旅の始まりだ。
 伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の手前に三石神社があった。狛犬はなく「時の鐘」という釣鐘があった。ここはいたって静かだった。
 向側の蓮馨寺にはなぜか芭蕉翁の墓があった。まあ、栃木に紫式部の墓があるくらいだから、ここに芭蕉の墓があってもおかしくないか。
 三島広小路駅から少し行くと秋葉神社・八坂神社があった。狛犬はなかった。
 さらに行くと一里塚があった。左に宝池寺一里塚、みぎに玉井寺一里塚、両方ともお寺の中にあるせいか、完全な形で残っている。
 八幡の信号で国道1号線を越える。でもどっかで見たような景色と思ったら、去年仕事でここを通ってタイヤがバーストした所だった。右側の陸橋の側道を行き、曲がった所でタイヤ交換をした。
 八幡だから八幡神社があるはずと思ったら、その先にあった。大きく対面石の看板があった。鳥居の貫の所に真直ぐ横に注連縄を張るのは、このあたりの神社の特徴のようだ。
 二の鳥居の前に単体道祖神塔があった。鳥居の裏には鶴岡八幡宮のような太鼓橋の小さなものがあった。堀や池はなく、参道の上にあった。
 境内には水仙の花が咲いていた。左手に狛犬が片方だけあった。昭和8年銘で、口の所が大きく欠けていた。吽形の方は土台だけだった。境内社の白旗社の狛犬だった。
 八幡神社の拝殿の前には平成2年銘の真新しい岡崎型の狛犬があった。胸のところに注連縄が巻いてあった。
 左側の入口には首のない御隋神があった。左側は首がないとわかるが、右側は原形をとどめていなかった。
 左の奥に看板にあった対面石があった。頼朝と義経がこの石に座って語り合ったとのことだった。
 東海道の戻り、さらに先に行くと智方神社があった。狛犬は紀元2600年(昭和15年)銘で、首に丸く注連縄がかけてあった。斑猫がいた。
 その先の新黄瀬川橋は工事中でその横に迂回路橋があった。
 三島と沼津の間は家が途切れることがなかったが、ここからが沼津になるようだ。
 賽銭用の小銭が切れたので、この橋を渡ったところのダイドー自販機で缶コーヒーを買った。「おおきに」という声の出る関西バージョンだった。いきなり当りが出た。一人で二本もと思いながらも、まあ今年は幸先が良いということにしておこう。
 その先にも八幡神社があった。昭和47年銘の岡崎型だった。
 東下石田で広い道に出る。県道380号線で旧国道1号線になる。
 ここをしばらく行くと広い道は右に曲がり、直進する路が昔の東海道になる。事前にネットの地図で調べた所メガネのパリーミキが目印だったがつぶれていた。ただ、パリーミキの特徴のある建物は健在だったのでわかった。
 分岐点のところには小さな社があるが、その前がゴミの集積所になっていて、カラスよけの籠が置いてあった。家の前がゴミ捨て場になった神様の心境はいかなるものだろうか。
 ここから先川沿いを行くことになるが、高い堤防のため川は見えない。
 「日本三大仇討ちの一つ平作地蔵尊」というのがあった。日本三大仇討ちとは曽我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘だが、平作はその鍵屋の辻の登場人物らしい。荒木又右衛門36人斬りの舞台となった鍵屋の辻は伊賀上野にあって、高校生の頃行ったことがある。その頃はまだ芭蕉には興味がなかった。
 その先に一里塚があった。玉砥石というのが一緒の所にあった。よくわからない。
 左側に旧東海道川廓(かわぐるわ)通りとあり、旧東海道はここから左に曲がる。石畳の路できれいに整備されている。ここを抜けると沼津の市街地の広い通りに出る。
 通横町を右に曲がり、次の信号を左に行って静銀の角を右にいくのだが、まちがえて二つ目の信号まで行ってしまった。これだと沼津浅間神社・丸子神社の脇に出る。コースアウトだ。とりあえず浅間神社の角を左に曲がって、静銀の角を左に曲がって一つ目の信号の所に戻った。途中セブンイレブンがあったので、切れかけていたデジカメ用の電池を買った。そこから浅間神社に向った。
 三島大社以外の神社はいたって静かだったが、ここは結構賑やかだった。狛犬は平成7年銘。彩色はなく真っ白できれいだ。入口脇に解体された鳥居がおいてあった。後で調べた所、一の鳥居が老朽化して危険な状態にあったため、平成7年に立て直したとのことだった。
 浅間神社・丸子神社を出たのが11時、ここまで結構かかった。ここからあとはしばらく一本道だ。
 西高入口交差点のところに山神社があった。小さな神社だが、拝殿前と境内社の賽の神の前にそれぞれ狛犬があった。拝殿前は昭和30年銘、賽の神前は平成22年銘。どちらも岡崎型だった。
 西間門の交差点で県道380号線(旧国道1号線)と交差する。地酒白隠正宗の看板がある。どこかで買えるといいが、今まででも開いている酒屋はなかった。
 この先にも八幡神社があった。狛犬は平成5年銘の岡崎型。首に注連縄を巻いていた。拝殿と本殿の間に薄茶色の狛犬がもう一対あった。これは顔の平らなタイプの違うものだった。年代は不明。
 この先に諏訪神社があった。昭和18年銘だが形は岡崎型に近い。銘と狛犬とが合っていないのか。
 静岡は狛犬貧困地区だと言われていたが、確かに狛犬はたくさんあるけど、どれも新しい。ここから先もたくさん狛犬を見るが、おそらく30年前に旅をしていたら、ほとんど狛犬を見かけなかったのではないかと思う。箱根を越えるまでは当たり前のように幕末の狛犬を目にしていたのと随分と様相が違う。北関東でも古い江戸狛犬はたくさんあった。
 東海道で江戸と直結してたにもかかわらず、静岡では狛犬はあまり作られなかったのだろう。理由はよくわからない。立派なお寺が多いところから、仏教の力が強かったせいなのか。鳥居の前に単体道祖神塔が多いのもその原因なのか。ここではある意味で今が狛犬建立ブームなのかもしれない。
 このあたりの道は延々と真直ぐで変化に乏しい。この直進性の強さはおそらく古代道路をそのまま引き継いだためであろう。木下良の『事典 日本古代の道と駅』によれば、古代東海道は近世東海道よりもかなり北側を通っていたようだが、古代の伝馬の道が後世の街道に踏襲されることになったとしている。
 左に西友があったので、地酒があるかどうかいってみた。前に見た富士錦はあった。近くに片浜駅があるので、もしいいのが見つからなかったらここに戻ってくればいいやと思い、街道に戻った。
 ところで子供の頃覚えた東海道線の駅名は「三島・沼津・原・東田子の浦・吉原」で片浜という駅はなかった。最近できたのだろうか。
 東海道線の踏切を渡ると、そろそろ昔の原宿なのだろう。神社の密度は高いが、狛犬は少なく、あっても新しい。すっかり正月モードで拝殿で爺さん達が飲み会をやってたり、入口の単体道祖神塔のところに鏡餅が具えてあったりして、それはそれで面白い。
 12時半でそろそろ腹が減ってきたので、ミニストップでおにぎりを買った。キティーちゃんのストラップが着いてきた。
 さっき看板で見た白隠正宗の高嶋酒造の店が開いていたので、そこで白隠正宗誉富士特別純米をゲット。これで今日はお土産を探してうろうろしなくてすむ。
 道は相変わらず一直線で淡々としている。ただ、この頃から雲が少なくなってきて、富士山の姿がチラッと見えるようになった。歩いてゆくうちにだんだんとその姿を現してくる。
 富士山も見えてしまうと、ああ、こんなもんか、という感じで、それを思うと、いつ見えるかとわくわくしている時の方がやはり面白いのかもしれない。芭蕉自身が『甲子吟行画巻』で描いた富士山も雲の切れ間に現れた富士山で、「富士を見ぬ日ぞおもしろき」はそういう意味だったのか。
 俺の唯一の著書『野ざらし紀行─異界への旅』では、陶淵明の絃のない琴を例にして、見えないことによって無限の可能性がそこに生じるという『荘子』の思想に結び付けて解釈したが、やはりそれは観念的過ぎたようだ。
 雲で見えないときには結構実際より大きな富士山の姿を想像してしまい、余計な期待をしてしまうものだ。だから、見えたとき、えてして当てはずれなような気分になる。それを「富士を見ぬ日ぞおもしろき」と表現したのが本来の意味だったのではないか。
 ふたたび踏切を越え、東柏原で380号線に合流する。柏原は旧東海道の間宿だが、木下良の『事典 日本古代の道と駅』によると、『三代実録』の貞観6年12月10日の条に柏原という駅があったが廃止するという記述があり、かつて古代東海道がここを通っていたこともあったようだ。
 380号線沿いにも神社がいくつかあった。六王子神社、米之宮神社・淡島神社、愛鷹神社、なかなか面白い狛犬には出会えない。
 やがて380号線は右に曲がり東海道線を越えて行く。その手前の所に左に矢印のある「旧東海道順路、見よう歩こう富士市の東海道」の標識があった。
 ここをいったん左に行き、すぐに右に曲がると昔の東海道の道になる。
 途中小さな山の上に社が見えたので、行ってみるとお稲荷さんだった。顔の長いお狐さんがいた。ここからだと富士山がよく見える。一休みした。
 ふたたび街道に戻り少し行くと、左に石段があって毘沙門天と大きく書いてあった。境内には的屋の露店も並び、結構人も多い。入口の鳥居は白木作りだった。
 途中にもうひとつ石段がありその脇に丸っこい犬の形をした狛犬があった。大正13年の銘で、このあたりでは古いほうだ。
 拝殿の前には中国式の線香を焚く所があり、真新しい渡来系の狛犬があった。日本と中国とインドが混じったような無国籍な世界だった。
 やがて道は吉原駅に行くのだが、旧街道は線路の向こう側へ行くため、一つ手前の角を右に曲がって踏み切りを越え、線路の反対側に出る。
 吉原駅北口の交差点に着いたのがちょうど午後の三時半。ここを左に行けば吉原駅に行けるが、この先道が右に大きくカーブして富士山を左側に見る「左富士」のポイントがあるというので、せっかく今日は富士山がきれいに見えているから行ってみたくなった。次に来る時に富士が見えるかどうかわからない。
 河合橋を渡り、左ヘ行き新幹線の下をくぐる所で右の細い方の道に入る。やがて道は右にカーブする。ここが左富士かと思っても、木と建物にさえぎられて富士山が見えない。遮っていた木は左富士神社のものだった。通りの反対側に渡り、少し行くと富士山の姿が左に見えた。
 一応戻って左富士神社を参拝した。獅子山のような溶岩でできた台座に新しい狛犬が普通に座っていた。顔は岡崎型だが、尻尾がやや体のほうに流れている。右側には典型的な岡崎型の狛犬の阿形だけがあった。

 この先の交差点が、一番左富士のよく見えるポイントだろう。そこを渡ったところに左富士の碑と説明の看板があり、小さな公園として整備されていた。ただ、やはり日清紡の工場が邪魔だ。
 この先で道は左に大きくカーブして左富士は終る。
 旧東海道は吉原で北に大きく迂回しているが、昔は田子の浦港の北側まで入江だったか、干潟だったかしたのだろう。このあたりは島や新田のつく地名があるから、江戸後期には田んぼになって、広重の絵のようになったいたのだろう。
 歩道を塞いでいる小さな社がある。馬頭観音の社のようで、撤去できなかったのだろう。車道にまで若干はみ出している上、車道の方を向いているため、お参りする


には車道に飛び出さなくてはならない。
 だいぶ吉原駅から遠くなったが、大丈夫ちゃんと下調べしてある。この先に岳南鉄道の吉原本町駅がある。今日はここまで。次は吉原本町駅スタートになる。
 岳南鉄道で吉原駅に出て、そこから熱海行きの電車に乗ったのが4時20分。結構混んでいて座れなかった。窓からは夕映えの富士山が見える。今まで歩いてきた道筋を巻き戻して、あっという間に三島を過ぎた。
 熱海から東京行きの電車に乗り換えると、車内は西武やルミネの広告で一気に東京モードとなった。来る時に見た海は既に真っ暗だった。
 小田原から小田急に乗り換え帰った。家に帰ってから有楽町の火事で新幹線が大変なことになっていたのを知った。幸い、行きも帰りも何の影響もなかった。