「立出て」の巻、解説

初表

   秋興

 立出て侍にあふや稲の原     才麿

   眠リをゆづる鵙の雲櫓    尚列

 後の月その窓程に照ぬきて    海牛

   夜習仕まふ時に成けり    千山

 又こそは凝水こぼして帰るらん  占立

   跣になるるそだちきたなし  才麿

 

初裏

 傾城に身のありたけを打明し   尚列

   世を住かへて憂名はがさん  海牛

 涼しさや閼伽井に近き芝つづき  千山

   目印つけてもどる沢潟    占立

 蜘のひの立挙動ぞくれにける   才麿

   歩行にくさの行水の下駄   尚列

 物とがめそこで笑にしたりつる  海牛

   角力の徳は月もかまはず   千山

 鼻紙に扇そへをく露のうへ    占立

   大工の箱をなをす朝寒    才麿

 髪結はぬ花の主の形見られ    尚列

   海辺のどかに並ぶ魚舟    海牛

 

二表

 あかあかと霞の間の塔一つ    千山

   麻の中出て気の広う成    占立

 霍乱を吹だまされし青嵐     才麿

   雨のとをれば桐油まくる竹輿 尚列

 淋しさを酒で忘れんすまのうら  海牛

   禄とらねども秋は来にけり  千山

 笠着せてかかしにやとふ古俵   占立

   むかし捨たる姥を泣ク月   才麿

 此一ト間折には風の吹のこり   尚列

   恋なればこそ爰に来られる  海牛

 物竅シ雪にうたるる袖の尺    千山

   そのしはぶきのうそと真を  占立

二裏

 とりどりに骨牌をかくす膝の下  才麿

   とまりをかゆる春雨の船   尚列

 土産に白魚買て干せける     海牛

   わらやもおなじ雛の置よう  千山

 咲花に菁かけたも風情也     占立

   天女のめぐり空のゆたけき  執筆

      参考;『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)

初表

発句

 

   秋興

 立出て侍にあふや稲の原     才麿

 

 姫路まで旅したときの一場面だろう。宿を出て少し行くと収穫を前にした黄金色の田んぼが一面に広がっていて、そこでなぜかお侍さんに遭う。紀行文を見ても特にお侍さんに遭ったという記述はないから、特に誰ということはないのだろう。空我や千山も商人のようだし、一座にお侍さんがいてという挨拶の意味でもなさそうだ。蕉門には結構名だたる武士がいたりするが、ここは庶民の大阪談林だ。

 特定の誰かを指すのでないなら、ここは単に早朝の田んぼの真っ只中、こんな所になぜお侍さんが、というだけの句ではないかと思う。

 

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

 

の句だと、身分分け隔てなく楽しみ花見の席で何で無風流なという風刺が込められているが、そうはいっても去来は元武士。才麿の句はそうした風刺も含まれず、日常の意外な風景としてお侍さんが描かれている。

 

季語は「稲の原」で秋、植物、草類。「侍」は人倫。

 

 

   立出て侍にあふや稲の原

 眠リをゆづる鵙の雲櫓(とまりぎ) 尚列

 (立出て侍にあふや稲の原眠リをゆづる鵙の雲櫓)

 

 鵙(モズ)というとモズのはやにえで、秋になると捕らえた獲物を枝に刺して、そのまま食べずに放置したりする。殺生をする罪深いモズは武士の姿にも重なる。その意味でもこの脇は、お侍さんはゆっくり寝ててください、私どもは旅立ちます、という意味でいいのだろう。

 武士というと、宮本武蔵の描いた『枯木鳴鵙図』は有名だ。そういえば宮本武蔵は播磨の人だとも言われている。

 

季語は「鵙」で秋、鳥類。

 

第三

 

   眠リをゆづる鵙の雲櫓

 後の月その窓程に照ぬきて     海牛

 (後の月その窓程に照ぬきて眠リをゆづる鵙の雲櫓)

 

 「後の月」は九月の十三夜のこと。月が明るくてその光が窓一杯に広がっている。いくら当時の窓が明かり取りだったり換気用だったり、そんな大きなものではなかったにしても、月その物の大きさが窓程もあるというのでは大げさになる。ここは田毎の月だからといって月がたくさん写っているのではなく、あくまで月で明るくなった空を写しているというのと同じに考えた方がいいだろう。

 月が明るいから止まり木に眠っているモズの姿も映し出される。

 

季語は「後の月」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   後の月その窓程に照ぬきて

 夜習(よならひ)仕まふ時に成けり 千山

 (後の月その窓程に照ぬきて夜習仕まふ時に成けり)

 

 千山さんはよほど勤勉な人だったのか。表六句の発句、

 

 秋の夜や明日の用をくり仕廻    千山

 

とかぶっている。月が明るいからそろそろ勉強も終わりにしようか。

 

無季。「夜習」は夜分。

 

五句目

 

   夜習仕まふ時に成けり

 又こそは凝水(げすい)こぼして帰るらん 占立

 (又こそは凝水こぼして帰るらん夜習仕まふ時に成けり)

 

 「凝水」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注によれば、「下水、建水。茶の湯で茶碗を洗った水、またはそれを入れる器。」とあり、「夜習いを終えて又下水をその辺りにこぼして帰っていったのではあるまいか。前句の『夜習』を稽古事とした。」とある。多分この解釈でいいのだろう。今のところ他のは思いつかない。

 ウィキペディアでは「建水」で出てくる。

 

無季。

 

六句目

 

   又こそは凝水こぼして帰るらん

 跣(はだし)になるるそだちきたなし   才麿

 (又こそは凝水こぼして帰るらん跣になるるそだちきたなし)

 

 この場合「凝水」は茶の湯のそれではなく、普通の下水だろう。

 

無季。

初裏

七句目

 

   跣になるるそだちきたなし

 傾城に身のありたけを打明し      尚列

 (傾城に身のありたけを打明し跣になるるそだちきたなし)

 

 傾城は吉原の遊女でその頂点に立つのは花魁。ただ財をなし、地位を成すだけでなく、それとともに風流の心も持ち合わせなくては、花魁と会うことはできない。

 この男もそこまでは辿り着けないような冴えない男なのだろう。遊郭に来てまで、実は貧しい生まれでなどと身の上話をする。夢を売る遊郭で現実に引き戻すような話は、相当に野暮なのではないかと思う。

 今でいえば出会い系の店で出会った女子高生に説教垂れるような輩か。元文科省の官僚のような。

 

無季。恋。「傾城」「身」は人倫。

 

八句目

 

   傾城に身のありたけを打明し

 世を住かへて憂名(うきな)はがさん 海牛

 (傾城に身のありたけを打明し世を住かへて憂名はがさん)

 

 前句を傾城の遊女にではなく、傾城に入れ込んだ身のありたけを打ち明けしとして、世を離れ出家して浮き名を晴らそうということか。

 

無季。恋。釈教。

 

九句目

 

   世を住かへて憂名はがさん

 涼しさや閼伽井に近き芝つづき    千山

 (涼しさや閼伽井に近き芝つづき世を住かへて憂名はがさん)

 

 閼伽井はウィキペディアによれば「閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。」で、「閼伽を汲むための井戸を『閼伽井』、その上屋を『閼伽井屋』、『閼伽井堂』と称される。」とある。『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注には「また寺院や墓地の井戸」ともある。

 これが墓地の井戸だとすれば、前句の「世を住かへて」はこの世からあの世へ住み替えての意味になり、閼伽井に近い芝生の上にある新居はさぞかし涼しいことだろう。生前はいろいろあったけど、という所か。

 

季語は「涼しさ」で夏。釈教。

 

十句目

 

   涼しさや閼伽井に近き芝つづき

 目印つけてもどる沢潟(おもだか)  占立

 (涼しさや閼伽井に近き芝つづき目印つけてもどる沢潟)

 

 オモダカは湿地に生える植物で、矢印型の葉と白い小さな花は紋章にも用いられている。花は新暦の六、七月から咲き始めるので夏の季語になる。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「慈姑」という字を当てている。

 

 「慈姑[和漢三才図会]その苗を、俗におもだかと云。其根を白くわゐと名づく。単葉の小白花をひらく。〇慈珍曰、慈姑、一名燕尾草と云。葉、燕の尾の如く、前尖りて、後に岐あり、云々。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.323~325)

 

 湿地に咲くオモダカは涼しげで、目印をつけておくというのは月の夜にでも見に来るつもりか。

 

季語は「沢潟(おもだか)」で夏。植物、草類。

 

十一句目

 

   目印つけてもどる沢潟

 蜘のひの立挙動(たちふるまひ)ぞくれにける 才麿

 (蜘のひの立挙動ぞくれにける目印つけてもどる沢潟)

 

 「蜘(くも)のひ」は謎だが、ウィキペディアには「岡山県倉敷市玉島八島で、クモの仕業といわれる『蜘蛛の火』がある。島地の稲荷社の森の上に現れる赤い火の玉で、生き物または流星のように山々や森の上を飛び回っては消えるという。」とある。宝暦四(一七五四)年刊の『西播怪談実記』の「佐用春草庵是休異火を見し事」は半世紀後だが、元禄期にもこういう言い伝えが既にあったとすれば、才麿が地元で聞いた話を登場させたのかもしれない。

 夕暮れに蜘蛛の火を見たので、その場所に印をつけてもどってきたということか。

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注は「『蜘のひ』は『蜘の囲』。」とし、「一日中せっせと巣を張っている」とする。「囲」の通常の仮名表記は「ゐ」だが、「ひ」と混同された可能性もある。

 だとすると、蜘蛛の巣を張る蜘蛛の様子を見ていたらいつの間に時が経って日も暮れていた、ということになる。何の目印なのかはわからない。

 蜘蛛は近代だと夏だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「蜘の子」はあるが「蜘蛛」はない。

 

無季。「蜘」は虫類。

 

十二句目

 

   蜘のひの立挙動ぞくれにける

 歩行(あるき)にくさの行水の下駄 尚列

 (蜘のひの立挙動ぞくれにける歩行にくさの行水の下駄)

 

 「行水」は夏の季語だが『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。また、行水の句は、

 

 行水も日まぜになりぬむしのこゑ 来山

 行水の捨て所なき虫の声     鬼貫

 

など、秋に詠むこともある。「575筆まか勢」というサイトで行水の句を見たが「行水(ゆくみず)」の句がかなりの数混じっていた。

 「行水の下駄」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注に「行水用の下駄」とあるが、どのような下駄なのかはよくわからない。

 江戸時代の浮世絵の行水を画像検索すると、確かに盥の横にいる人物は下駄を履いているが普通の下駄に見える。

 前句が「蜘蛛の火」だとしたら、腰を抜かしたか。「蜘蛛の囲」だとしたら、せっかくの蜘蛛の巣を壊さないように歩くから歩きにくいということか。

 「蜘のひ」「歩行にくさ」の二句ははっきりいってよくわからない。当時の人ならわかったのだろう。まだまだ研究が必要だ。

 

無季。

 

十三句目

 

   歩行にくさの行水の下駄

 物とがめそこで笑にしたりつる  海牛

 (物とがめそこで笑にしたりつる歩行にくさの行水の下駄)

 

 悪いことをしたら叱り付けるのは当然だが、相手をとことん追い詰めたりせず、適当な所で笑って許すことも必要だ。

 浮世絵にもあったが、子供を行水させる母親の姿だろうか。

 

無季。

 

十四句目

 

   物とがめそこで笑にしたりつる

 角力(すまふ)の徳は月もかまはず 千山

 (物とがめそこで笑にしたりつる角力の徳は月もかまはず)

 

 昔は相撲は秋の神事だった。ただ、それとは関係なく草相撲もあったし、大道芸としての辻相撲もあった。貞享元年(一六八四)に寺社奉行のもとで勧進相撲の興行が許可されたのが、今に続く大相撲の始まりとされている。

 「かまはぬ」というのは江戸時代の模様に鎌と輪と「ぬ」の文字を書いたものがあるように江戸時代の人に大事にされた言葉だ。好きにすればいい、何の制約も課さないという、今でいう自由、フリーダムを意味してたといっていいと思う。

 相撲の良い所はお月様だって何お咎めなしで、ガチの喧嘩や戦争ではなく、ゲームで誰も死んだり傷ついたりすることなしに勝敗を決するというのは、今のスポーツの理想でもある。

 ただ理想はそうだが、実際は勝負の判定を巡って喧嘩になったりと、それも今のスポーツと同じか。蕉門の「馬かりて」の巻の四句目に、

 

   月よしと角力に袴踏ぬぎて

 鞘ばしりしをやがてとめけり  北枝

 

とあるのは、やはり勝負を巡っていさかいが起きることも多かったのだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「角力」も秋。

 

十五句目

 

   角力の徳は月もかまはず

 鼻紙に扇そへをく露のうへ    占立

 (鼻紙に扇そへをく露のうへ角力の徳は月もかまはず)

 

 角力に扇、月に露と四つ出に付いている物付けの句。

 相撲の行司は元禄期に今のような軍配を使うようになったが、それ以前は普通の扇か唐団扇を使っていたともいう。軍配も軍配扇で扇の一種ではある。

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注には、「露の降りた草の上に敷いた鼻紙に扇を乗せて相撲の勧進元が挨拶している。」としている。

 露の降りた草の上に扇を置くのなら、それこそ「馬かりて」の巻の三句目、

 

   花野みだるる山のまがりめ

 月よしと角力に袴踏ぬぎて      芭蕉

 

ではないが、草相撲を取るために、持っていた扇子を汚れないように鼻紙を敷いて、その上に置いただけかもしれない。

 鼻紙は古紙を再生した「落とし紙」から、高級な「花紙」までいろいろあったようだ。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十六句目

 

   鼻紙に扇そへをく露のうへ

 大工の箱をなをす朝寒      才麿

 (鼻紙に扇そへをく露のうへ大工の箱をなをす朝寒)

 

 露が降りるのだから朝は寒い。扇の箱は小さいので大工さんが直すのは大工道具を入れる箱ではないかと思う。一日の仕事の前に箱が壊れているのに気づき、手にした扇を横において修理を始める。

 

季語は「朝寒」で秋。「大工」は人倫。

 

十七句目

 

   大工の箱をなをす朝寒

 髪結はぬ花の主の形(なり)見られ 尚列

 (髪結はぬ花の主の形見られ大工の箱をなをす朝寒)

 

 元禄の頃はまだ公園が整備されてなく、花見は寺社で行われた。桜の木を育て、手入れしている花守は、そのお寺の童子だったのだろう。

 大工が箱をなおしていると朝早いので普段は人前に姿を現さない大童子姿の花守が見えた。秋の句から花の定座への展開。

 

 花守や白きかしらをつき合わせ   去来

 

の句も、わらわ髪のまま年取った大童子だったのだろうか。少なくとも剃髪した僧ではなかった。

 

季語は「花の主」で春、植物、木類、人倫。

 

十八句目

 

   髪結はぬ花の主の形見られ

 海辺のどかに並ぶ魚舟       海牛

 (髪結はぬ花の主の形見られ海辺のどかに並ぶ魚舟)

 

 これは向え付け。中世連歌では相対付けという。花の山に海辺と相反するものを付け、対句のように作る。

 山では髪結わぬ花守の姿があって、海辺にはのどかに漁船が並んでいる。

 

季語は「のどか」で春。「海辺」「魚舟」は水辺。

二表

十九句目

 

   海辺のどかに並ぶ魚舟

 あかあかと霞の間の塔一つ     千山

 (あかあかと霞の間の塔一つ海辺のどかに並ぶ魚舟)

 

 これは瀟湘八景図のようだ。漁村夕照だろうか。

 「あかあかと」という言葉は『奥の細道』の、

 

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 芭蕉

 

の用例があり、この場合は沈む陽の赤いさまをあらわすもので、芭蕉自筆の『入日に萩の自画賛』に萩と重なる赤い夕日が描かれていて、それに「あかあかと」の句が添えられている。千山の句も春の夕暮れの情景と見ていいだろう。霞の中の塔という趣向も中国の絵画を髣髴させる。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

二十句目

 

   あかあかと霞の間の塔一つ

 麻の中出て気の広う成       占立

 (あかあかと霞の間の塔一つ麻の中出て気の広う成)

 

 麻は麻布や麻紐に用いるため、かつては日本のいたるところで栽培されていた。高さが2.5メートルにもなるため、1.5メートルくらいだった江戸時代の男性から見るとかなりの圧迫感を感じただろう。麻畑を出て視界が開け遠くに塔が見えたりするとほっとする。

 『去来抄』に、

 

 つかみ逢ふ子どものたけや麦畠   去来

 

の句に対し、凡兆が「是の麦畠は麻ばたけともふらん。」と言ったとあるが、麻の長けとなると巨人族の子供か。

 江戸時代までの日本では麻も栽培されていたし、芥子も様々な園芸品種が存在した。それでもそれを麻薬として利用する文化はなかった。

 伊勢神宮の大麻配布はかつては麻で作られた大幣で清められた御札の配布で、麻薬の大麻を連想させるためよくネタにされる。

 

季語は「麻」で夏、植物、草類。

 

二十一句目

 

   麻の中出て気の広う成

 霍乱を吹だまされし青嵐      才麿

 (霍乱を吹だまされし青嵐麻の中出て気の広う成)

 

 「霍乱(かくらん)」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によると、

 

 「古くから知られていた,中国医学の病名の一つで,嘔吐と下痢を起こし,腹痛や煩悶なども伴う病気の総称である。暑い時に冷たい飲食物をとりすぎるなど,冷熱の調和を乱すことによって起こると考えられていた。乾霍乱,熱霍乱,寒霍乱など種々の病名が記載されている。病状からみてコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる。現在の中国語では霍乱とはコレラのことである。【赤堀 昭】

[日本]

 日本では一般に日射病などの暑気あたりの諸病をさすが,古くは中国と同様激しい腹痛,下痢,嘔吐を伴う急性胃腸炎のことをいった。」

 

だそうだ。

 「青嵐(あおあらし)」もコトバンクのデジタル大辞泉の解説に、

 

 「初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。せいらん。《季 夏》『―定まる時や苗の色/嵐雪』

 

とある。

 夏の厚さが原因となる病気も麻畑で青葉を揺する涼しい風に吹かれていると、何となく治まったような気にさせられる。

 

季語は「青嵐」で夏。

 

二十二句目

 

   霍乱を吹だまされし青嵐

 雨のとをれば桐油(とゆ)まくる竹輿(かご) 尚列

 (霍乱を吹だまされし青嵐雨のとをれば桐油まくる竹輿)

 

 桐油は中国原産のアブラギリ(トウダイグサ科)の実から採れる油で、有毒な成分が含まれているため、食用にはできず、主に燃料用に用いられていたが、油紙を作るのにも用いられていた。

 「けふばかり」の巻の第三に、

 

   野は仕付たる麦のあら土

 油実を売む小粒の吟味して     酒堂

 

の句もある。

 ここでいう竹輿は簡素な山駕籠のことで、町駕籠のような簾はなくて乗っている姿が外から丸見えで、雨を凌ぐには桐油を塗った油紙が用いられていたのだろう。

 通り雨が通り過ぎたので桐油紙を捲り上げると、霍乱も忘れるような青嵐が吹いてくる。

 

無季。「雨」は降物。

 

二十三句目

 

   雨のとをれば桐油まくる竹輿

 淋しさを酒で忘れんすまのうら   海牛

 (淋しさを酒で忘れんすまのうら雨のとをれば桐油まくる竹輿)

 

 『源氏物語』の「須磨」では光源氏らは未曾有の風雨や雷に遭うが、江戸時代に光源氏がいたら駕籠で旅をして須磨にやってきて、雨が上がったら灘の酒で一杯やったことだろう。本説でも俤でもなく、換骨奪胎の句。

 「淋しさを酒で忘れん」というフレーズは今の演歌でもありそうなもので、大阪談林の俳諧は蕪村を経て浪花節に受け継がれ、今の演歌の情緒に受け継がれているのかもしれない。

 

無季。「すま」は名所、水辺。

 

二十四句目

 

   淋しさを酒で忘れんすまのうら

 禄とらねども秋は来にけり     千山

 (淋しさを酒で忘れんすまのうら禄とらねども秋は来にけり)

 

 牢人の句とし、今年もまた仕官の決まらないまま、秋が来ても禄をもらえず、家族の者とも離れ、一人酒でも飲んで気を紛らわす。

 

季語は「秋」で秋。

 

二十五句目

 

   禄とらねども秋は来にけり

 笠着せてかかしにやとふ古俵    占立

 (笠着せてかかしにやとふ古俵禄とらねども秋は来にけり)

 

 案山子は昔は「僧都」とも呼ばれた。僧都は仏教界を統制する僧官だが、ここでは古俵に笠を着せた方の僧都で、禄をもらっているわけではない。禄がなくても秋は来ている。

 

季語は「かかし」で秋。

 

二十六句目

 

   笠着せてかかしにやとふ古俵

 むかし捨たる姥を泣ク月      才麿

 (笠着せてかかしにやとふ古俵むかし捨たる姥を泣ク月)

 

 案山子が立っているのは田んぼだということで、千枚田から姥捨山の田毎の月ということになる。本説付け。

 田毎の月は本来は初夏の水を張ってまだ田植えをしてない田んぼに月で明るくなった空が映ることをいうが、『大和物語』の姥捨山伝説では田毎の月とは関係なく、姥を捨てたけど月を見ていて悲しくなって、

 

 わが心なぐさめかねつ更級や

    姨捨山に照る月をみて

 

と歌を詠んで姥を迎えに行ったことになっている。貞享五(一六八八)年の、

 

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉

 

の句も有名だ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「姥」は人倫。

 

二十七句目

 

   むかし捨たる姥を泣ク月

 此一(ひ)ト間折には風の吹のこり 尚列

 (此一ト間折には風の吹のこりむかし捨たる姥を泣ク月)

 

 本説付けは逃げるのが難しいという欠点があり、そこで蕉門では出典がはっきりわかるような本説から、曖昧な俤付けへと変化していく。

 ここでも「捨たる姥」が前句にある以上、姥捨伝説からは逃れ難い。ただ舞台を姥捨山から小さな部屋へと変える。このことで、部屋の中で姥捨ての物語を聞いて涙する場面になる。

 

無季。

 

二十八句目

 

   此一ト間折には風の吹のこり

 恋なればこそ爰に来られる     海牛

 (此一ト間折には風の吹のこり恋なればこそ爰に来られる)

 

 そこだけ世間の風から隔絶された部屋では、男女が睦み合うことになる。

 

無季。恋。

 

二十九句目

 

   恋なればこそ爰に来られる

 物竅(むな)シ雪にうたるる袖の尺(たけ) 千山

 (物竅シ雪にうたるる袖の尺恋なればこそ爰に来られる)

 

 雪の中をじっと待ち続けている女の姿だろうか。今でも演歌ではありがちだ。

 

季語は「雪」で冬、降物。恋。

 

三十句目

 

   物竅シ雪にうたるる袖の尺

 そのしはぶきのうそと真を     占立

 (物竅シ雪にうたるる袖の尺そのしはぶきのうそと真を)

 

 「しはぶき」は会いに来たという合図の咳払いだろう。前句の雪に打たれていたのはここでは会いに来た男の姿になる。だが、雪の中わざわざ会いに来てくれたといって喜んでいては相手の思う壺。そこは男と女騙し騙され‥‥ってやっぱり演歌だ。

 

季語は「しはぶき」で冬。恋。

二裏

三十一句目

 

   そのしはぶきのうそと真を

 とりどりに骨牌(かるた)をかくす膝の下 才麿

 (とりどりに骨牌をかくす膝の下そのしはぶきのうそと真を)

 

 この場合のカルタは百人一首やいろはカルタではなく、賭博に用いられるカルタだろう。こっそりと膝の下に札を隠しておいて、見つかると「こはいかさまにござるか」とか言われたのだろう。咳払いも仲間同士の合図だろう。

 カルタは戦国時代に南蛮からカードが伝わり、ポルトガル語のcartaがそのまま日本語になった。「トランプ」は明治に再び西洋からカードが入ってきた時に、切り札の意味のtrumpが誤ってカードの名称として広まったと言われている。

 カルタは江戸時代には日本独自にいろいろな発展をした。天正カルタが改良され、17世紀後半にウンスンカルタが流行したというから、才麿の時代のカルタはウンスンカルタだったかもしれない。ただ、ウィキペディアにはウンスンカルタができたのが元禄の終わりから宝永の初め頃(18世紀初頭)とあり、だとすれば天正カルタだったかもしれない。

 天正カルタが禁制をのがれるために数字を表記しなくなり絵を描くようになったのが花札だといわれている。これも芭蕉や才麿の時代よりもかなり後になる。

 

無季。

 

三十二句目

 

   とりどりに骨牌をかくす膝の下

 とまりをかゆる春雨の船      尚列

 (とりどりに骨牌をかくす膝の下とまりをかゆる春雨の船)

 

 春雨で川が増水して船も泊める場所を変える。そんな船の船頭たちの楽しみは賭けカルタで、船が出せない日には船頭たちが集まって隠れて遊んでたのだろう。

 

季語は「春雨」で春、降物。「船」は水辺。

 

三十三句目

 

   とまりをかゆる春雨の船

 土産(いへづと)に白魚買て干せける 海牛

 (土産に白魚買て干せけるとまりをかゆる春雨の船)

 

 そんな船乗りたちも家へ帰ればいい親父で、土産に白魚を買ってきては「干して食えや」なんて言っている。あるあるだけど笑いに持っていかずに人情で「ええ話」に持ってゆく。これぞ大阪談林。

 

季語は「白魚」で春。

 

三十四句目

 

   土産に白魚買て干せける

 わらやもおなじ雛の置よう      千山

 (土産に白魚買て干せけるわらやもおなじ雛の置よう)

 

 蝉丸の歌に、

 

 世の中はとてもかくても同じこと

     宮もわら屋もはてしなければ

                 蝉丸『新古今集』

 

とあるが、宮廷に雛飾りがあるように、庶民の家でも庶民なりの雛人形が飾られている、というふうに換骨奪胎する。

 

季語は「雛」で春。「わらや」は居所。

 

三十五句目

 

   わらやもおなじ雛の置よう

 咲花に菁(あおな)かけたも風情也  占立

 (咲花に菁かけたも風情也わらやもおなじ雛の置よう)

 

 春の句が三句続いたが、花の定座なのでもう一句春の句になる。春秋は五句まで許される。

 畑の隅に桜の木があって、その下に青菜が干してある光景は、昔の農村ではありがちな景色だったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   咲花に菁かけたも風情也

 天女(つばめ)のめぐり空のゆたけき 執筆

 (咲花に菁かけたも風情也天女のめぐり空のゆたけき)

 

 挙句は古式にのっとって執筆(筆記係)が務める。

 せっかく四句春が続いたのだから、ここは天女(つばめ)を出して五つ春を続けて目出度く締める。広い大空を「かまわず」飛びまわるツバメの姿は、まさに江戸庶民のあらまし、自由、フリーダムだ。

 

季語は「天女(つばめ)」で春、鳥類。