「さぞな都」の巻、解説

延宝六之春 三字中略之百韻三吟

初表

   

 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花   信章

   霞と共に道外人形       信徳

 青いつら笑山より春見えて     桃青

   かはらけの瀧のめばのむ程   信章

 声がたつ嵐に波の遊舟       信徳

   鳫よ千鳥よあはう友達     桃青

 五間口淋しき月にその名をうる   信章

   松を證拠に礼金の秋      信徳

 

初裏

 手かけ者相取の様に覚たり     桃青

   思ひのきづなしめごろしして  信章

 木綿売或夕ぐれのことなるに    信徳

   門ほとほとと扣く書出し    桃青

 鎌田殿進退むきを頼まれて     信章

   二人のわかの浪人小姓     信徳

 竹馬にちぎれたり共此具足     桃青

   つづけやつづけ紙張の母衣   信章

 石花菜水のさかまく所をば     信徳

   波せき入て大釜の淵      桃青

 落瀧津地獄の底へさかさまに    信章

   鉄杖鯉の骨をくだくか     信徳

 酒の月後妻打の御振舞       桃青

   隣の内儀相客の露       信章

 

 

二表

 眉を取袖ふさがする花薄      信徳

   野風もいまは所帯持なり    桃青

 鍋の尻入江の塩に気を付て     信章

   のつぺいうしと鴨のなく覧   信徳

 山陰に精進落て松のこゑ      桃青

   三十三年杉たてる庵      信章

 開帳や俊成作の本尊かけて     信徳

   寂蓮法師小僧新発意      桃青

 いろは韻槇立山もなかりけり    信章

   雲を増補に時雨ふる秋     信徳

 影独長月比の気根もの       桃青

   野々宮の夜すがら袷一枚    信章

 駕籠かきも浮世を渡る嵯峨なれや  信徳

   迷ひ子の母腰がぬけたか    桃青

 

二裏

 傷寒を人々いかにととがめしに   信章

   悪鬼となつて姿はそのまま   信徳

 正三の書をかれたる物がたり    桃青

   ここに道春是もこれとて    信章

 前は池東叡山の大屋舗       信徳

   花のさかりに町中をよぶ    桃青

 青柳の髪ゆひ髪ゆひ髪ゆひやい   信章

   舞台に出る胡蝶うぐひす    信徳

 つれぶしには哥うたひの蛙鳴    桃青

   禿童が酌に雨の夕暮      信章

 恋の土手雲なかくしそ打またげ   信徳

   御朱印使風の玉章       桃青

 心中に山林竹木指切る事      信章

   末世の衆道菩提所の月     信徳

 

 

三表

 十歳の和尚の上気秋更て      桃青

   弥陀はかかさま消やすき露   信章

 蓮の糸組屋の店の風凉し      信徳

   わかいものよるのうれんの波  桃青

 恋の淵水におぼるる人相有     信章

   首だけの思ひつつしみてよし  信徳

 憂中は下焦もかれてよはよはと   桃青

   家々の書にねあせかかるる   信章

 しなひ打大夜着の裏おもて迄    信徳

   鞍馬僧正床入の山       桃青

 若衆方先筑紫には彦太郎      信章

   かづらすがたや右近なるらん  信徳

 暮の月橘の情あらはれて      桃青

   すもも山もも悉皆成仏     信章

 

三裏

 見性の眼の光錫の鉢        信徳

   轆轤のめぐり因果則      桃青

 ゑいやとさここに一つのかたは者  信章

   敷金として十貫目筥      信徳

 代八や忍び車のしのぶらん     桃青

   日用をめして夕顔の宿     信章

 山がらのかきふんどしに尻からげ  信徳

   青茶のめじろ羽織来て行    桃青

 膏薬に木の実のうみや流覧     信章

   よこねをろしに谷深き月    信徳

 山高く湯舟へだつる水遠し     桃青

   浅間の煙かる石がとぶ     信章

 しらなへし花のふぶきの信濃なる  信徳

   甲頭巾に駒いばふ春      桃青

 

名残表

 熊坂も中間霞引つれて       信章

   山又山や三国の九郎助     信徳

 関手形安宅に早く着にけり     桃青

   松風落てしぶ紙をとく     信章

 ふと物の庭の芭蕉葉五六端     信徳

   楚国のかたはら横町の秋    桃青

 邯鄲の里の新道月明て       信章

   能々おもへば会所を求る    信徳

 千句より十万億も鼻の先      桃青

   我等が為の守武菩提      信徳

 音楽の小弓三線あいの山      信徳

   四つ竹さはぐ竹の都路     桃青

 姉そひて御伽比丘尼のゆく事も   信章

   後家ぞ誠の仏にてまします   信徳

 

名残裏

 ゆづられし黄金のはだへこまやかに 桃青

   こぬかみがきの皮袋有     信章

 旅枕油くささや嫌ふらん      信徳

   鰯でかりの契りやかるる    桃青

 はかゆきにざくざく汁の薄情    信章

   連理のはしのかたしをもつて  信徳

 実や花白楽天がやき筆に      桃青

   唐土へかへる羽ばは木の鳫   主筆

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

 

 上五の「さぞな都」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注には謡曲『田村』の、

 

 「さぞな名にし負ふ、花の都の春の空」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15010-15011). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

から取ったものとしている。「さぞな」は他にも「さぞな須磨の海」(敦盛)、「さぞな大原や」(大原御行)など謡曲に用いられている。

 「浄瑠璃」はこの頃の主に古浄瑠璃で、寛文の頃から浄瑠璃本が多く出版された。人形劇も盛んになり、やがて元禄の頃に人形浄瑠璃文楽として確立されてゆく。

 延宝四年の「時節嘸」の巻の三十三句目に、

 

   雨や黒茶を染て行覧

 消残る手摺の幕の夕日影

 

の句があるように、文楽のような後ろから操るタイプの人形劇が盛んで、文楽の舞台にもあるような「手摺」がこの頃にあったことが窺われる。

 小哥(小歌)は江戸末期にうまれた「小唄」とは別のもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「歌謡。古く「大歌」に対する名称として記録にみえるが,普通室町時代から江戸時代にかけて流行した歌謡をいい,三味線伴奏の歌曲はそれぞれの伝承種目で呼ばれるため,狭義には除外される。しかし現在伝承が絶えている江戸時代初期の流行小編歌謡の総称として,近世初期小歌などということもある。ただし,江戸時代末期から明治に発生した三味線小曲は「小唄」と書いて区別される。現存する小歌集としては,『閑吟集』 (1518) ,『宗安小歌集』 (1600頃) ,『隆達小歌集』 (1593) などがある。狂言のなかに含まれているものもあり,一般に狂言小歌と総称するが,狂言における「小歌」は,ごく特定の狂言謡をいい,狂言小歌にあたるものは小舞謡のことである。伴奏楽器には扇拍子や一節切 (ひとよぎり) という尺八の一種を用いたといわれる。曲調は滅びてしまってわからないが,狂言歌謡に遺存するものや三味線組歌などから類推することができる。詞形はかなり自由で,七五七五調,七七七五調,自由な口語調とさまざまである。」

 

とある。

 京都から来た信徳を迎えての三吟で、京都はどんな様子だい?江戸は浄瑠璃や小哥が流行して江戸の花となっている、という挨拶になる。

 タイトルに「三字中略之百韻三吟」とある「三字中略」は「賦山何」などと同様賦し物を表す。「都」の三字「みやこ」の中を略せば「みこ」になる。巫女に賦す百韻。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

 

   さぞな都浄瑠璃小哥はここの花

 霞と共に道外人形        信徳

 (さぞな都浄瑠璃小哥はここの花霞と共に道外人形)

 

 「道外人形(どうけにんぎょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 人形遣いが、道化の所作に用いる人形。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「さぞな都浄瑠璃小哥はここの花〈信章〉 霞と共に道外人形〈信徳〉」

 

とある。京都では道外人形が流行っているということか。「霞と共に」は、

 

 都をば霞と共に立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

             能因法師(後拾遺集)

 

をふまえる。自分も道外人形のようなものですといった謙遜の意味も込めているのだろう。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

第三

 

   霞と共に道外人形

 青いつら笑山より春見えて    桃青

 (青いつら笑山より春見えて霞と共に道外人形)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には道外人形は青い顔をしていたという。「笑山(わらうやま)」は道外人形が観衆の笑いを取っていることと「山笑う」とに掛けて「春見えて」となる。

 霞に春見えては、

 

 長閑なる霞の色に春見えて

     なびく柳に鶯の声

              二条教良女(風雅集)

 

の歌がある。

 「山笑う」は和歌の言葉ではない。郭煕『臥遊録』の、「春山淡冶而如笑、夏山蒼翠而如滴、秋山明浄而如粧、冬山惨淡而如睡」が起源とされている。

 

季語は「春」で春。「山」は山類。

 

四句目

 

   青いつら笑山より春見えて

 かはらけの瀧のめばのむ程    信章

 (青いつら笑山より春見えてかはらけの瀧のめばのむ程)

 

 春になって山も笑えば、素焼きの盃から酒が滝のように落ちて口に吸いこまれる。

 春に滝は、

 

 春くれは滝のしらいといかなれや

     むすべとも猶あわに見ゆらん

              紀貫之(拾遺集)

 

の歌がある。

 

無季。「瀧」は山類、水辺。

 

五句目

 

   かはらけの瀧のめばのむ程

 声がたつ嵐に波の遊舟      信徳

 (声がたつ嵐に波の遊舟かはらけの瀧のめばのむ程)

 

 かはらけはweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①素焼きの陶器。

  ②素焼きの杯。

  ③酒杯のやりとり。酒宴。

 出典源氏物語 匂宮

 「御かはらけなど始まりて」

  [訳] 御酒杯のやりとりなどが始まって。」

 

とあり、ここでは酒宴の意味になる。

 荒れた海での舟遊びで酒が回れば、みんな大声を上げて騒ぐ。

 『源氏物語』須磨巻の明月の夜の場面、

 

 「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ。」

 (沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。)

 

のイメージもあったのか。

 

無季。「遊舟」は水辺。

 

六句目

 

   声がたつ嵐に波の遊舟

 鳫よ千鳥よあはう友達      桃青

 (鳫よ千鳥よあはう友達声がたつ嵐に波の遊舟)

 

 前句の声を雁や千鳥の声とする。雁や千鳥をその場の友として遊ぶ。「あはう」は「淡き」のウ音便化。

 千鳥は友千鳥という言葉もある。

 

 友千鳥群れて渚に渡るなり

     沖のしらすに潮や満つらむ

              源国信(新勅撰集)

 さよ千鳥湊吹き越す潮風に

     浦よりほかの友さそふなり

              源具親(新勅撰集)

 

などの歌がある。

 

季語は「鳫」で秋、鳥類。「千鳥」も鳥類。

 

七句目

 

   鳫よ千鳥よあはう友達

 五間口淋しき月にその名をうる  信章

 (五間口淋しき月にその名をうる鳫よ千鳥よあはう友達)

 

 五間口はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 五間(約九メートル)の間口(まぐち)。また、その大きさの間口をもった建物。

  ※浄瑠璃・山崎与次兵衛寿の門松(1718)上「大坂に五間(ケン)口の棚も所持仕る。かし蔵も持参つかまへさ。大かね持としらぬかな」

 

とある。

 幅九メートルは武家屋敷だとそれほどではないが、ウナギの寝床のような奥行きのある町家で五間口は堂々たるものだ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『忠度』の、

 

 「(一声)蜑の呼び声、ひまなきに、しば鳴く千鳥、音ぞすごき。

 「(サシ)抑もこの須磨の浦と申すは、寂しき故にもその名を得る。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.16194-16199). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 五間口の棚も借り物で、今は空き家になり淋しき所としてその名が知られることとなった。「月」は放り込み。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

八句目

 

   五間口淋しき月にその名をうる

 松を證拠に礼金の秋       信徳

 (五間口淋しき月にその名をうる松を證拠に礼金の秋)

 

 借りてから植えた松の木が礼金代わりに五間口の町家の中庭に残っている。礼金は敷金と違って去って行くときに返還されない。

 

季語は「秋」で秋。「松」は植物、木類。

初裏

九句目

 

   松を證拠に礼金の秋

 手かけ者相取の様に覚たり    桃青

 (手かけ者相取の様に覚たり松を證拠に礼金の秋)

 

 手かけ者は妾(めかけ)のこと。「相取」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 事を共にすること。人の助けを借りて行なうこと。

  ※古今著聞集(1254)五「いづれをも人々あひとりに誦しけり」

  ② 共謀して詐欺など悪事を働くこと。また、その人。

 ※虎明本狂言・禁野(室町末‐近世初)「是を一人かたらふて、あひどりをさせう」

  ③ 餠などをつく時、相方にまわる捏取(こねど)り。

  ※随筆・越の風車(1771)「臼と杵とを相はこび、其清水にて相取りして餠をつく、弁慶の力餠と名づけ」

 

とあるように、ここでは共犯者のこと。

 妾のお松という女も共犯で相生の松ならぬ相取の松か。礼金をふんだくられた。

 

無季。恋。「手かけ者」は人倫。

 

十句目

 

   手かけ者相取の様に覚たり

 思ひのきづなしめごろしして   信章

 (思ひのきづなしめごろしして手かけ者相取の様に覚たり)

 

 美人局(つつもたせ)であろう。誘惑してきた女は恐いあんさんの妾で、あやうく絞め殺されるところだった。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   思ひのきづなしめごろしして

 木綿売或夕ぐれのことなるに   信徳

 (木綿売或夕ぐれのことなるに思ひのきづなしめごろしして)

 

 たびたび木綿の着物を売りに来てた商人は間男だったのだろう。夕暮れに亭主が帰ってくると‥‥。

 

無季。「木綿売」は人倫。

 

十二句目

 

   木綿売或夕ぐれのことなるに

 門ほとほとと扣く書出し     桃青

 (木綿売或夕ぐれのことなるに門ほとほとと扣く書出し)

 

 「書出し」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 文章の書きはじめ。文章の冒頭。「作品の書き出しに苦労する」

  2 抜き出して書くこと。抜き書き。

  3 たまっている代金の請求書。特に、年末などの決済のための請求書。勘定書。つけ。《季 冬》「―やこまこまと書き並べたり/鬼城」

  4 歌舞伎で、番付の最初に名の出る俳優。また、その地位。ふつう、一座の中で第二位にあたる若手の人気俳優で、第一位の座頭(ざがしら)は末尾に載せる。初筆(しょふで)。」

 

とある。ここでは3のことで、木綿売のある夕暮れ、門をほとほとと叩いて勘定を取り立てに来た。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「古浄瑠璃・あさいなしまわたり(寛文二年)『やはんばかりの事成に、門ほとほととをとづるる』による。」

 

とある。

 

無季。

 

十三句目

 

   門ほとほとと扣く書出し

 鎌田殿進退むきを頼まれて    信章

 (鎌田殿進退むきを頼まれて門ほとほとと扣く書出し)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『朝長』の、

 

 「暮れし年の八日の夜に入りて荒けなく門を敲く音す。誰なるらんと答へしに、鎌田殿と仰せられし程に門を開かすれば」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.19374-19380). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 

を引いている。鎌田殿は「義朝父子に附き添うて来た鎌田正清。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.19670). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 門を叩いて何の用かと思ったら、鎌田殿の処遇のことで相談された。「書出し」はここでは2の抜き書きのことになる。

 

無季。

 

十四句目

 

   鎌田殿進退むきを頼まれて

 二人のわかの浪人小姓      信徳

 (鎌田殿進退むきを頼まれて二人のわかの浪人小姓)

 

 鎌田正清は義朝に仕えたが、何かの理由で解任されたとしたら、その後の身の振りはやはり義経頼朝の二人の若様の小姓となって義朝のそばに居続けるか。

 

無季。恋。「二人のわか」「浪人」「小姓」は人倫。

 

十五句目

 

   二人のわかの浪人小姓

 竹馬にちぎれたり共此具足    桃青

 (竹馬にちぎれたり共此具足二人のわかの浪人小姓)

 

 「ちぎれたり共此具足」の言葉は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木』の、

 

 「鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取つて投げかけ、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの 馬に乗り、一番に馳せ参じ着到につき」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.61046-61050). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている通り、この「いざ鎌倉」の場面から取ったとみていい。

 前句の浪人小姓はどこの若様に仕えているか知らないが、それでも竹馬の友でもあり契りを結んでいる。

 

無季。恋。「具足」は衣裳。

 

十六句目

 

   竹馬にちぎれたり共此具足

 つづけやつづけ紙張の母衣    信章

 (竹馬にちぎれたり共此具足つづけやつづけ紙張の母衣)

 

 母衣(ほろ)はウィキペディアに、

 

 「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。」

 

とある。NHK大河ドラマ『真田丸』で真田信繁が秀吉に仕えているときに、大きな黄色い母衣を背負っていたのは見た人もいると思う。

 竹馬を文字通り子供遊びとして、おもちゃの具足と紙で作った母衣で合戦ごっこをする。

 

無季。

 

十七句目

 

   つづけやつづけ紙張の母衣

 石花菜水のさかまく所をば    信徳

 (石花菜水のさかまく所をばつづけやつづけ紙張の母衣)

 

 石花菜は心太のこと。「ところてん」と読む。心太突きから出てくる心太は瀧のようでもあり、それを盛り付けると水が逆巻くようにも見える。子供たちにも大人気で続けや続け。

 「水のさかまく所をば」の言葉は『校本芭蕉全集 第三巻』の注によると、謡曲『頼政』の、

 

 「水の逆巻く所をば岩ありと知るべし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.17740-17741). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 

による。 

 

季語は「石花菜」で夏。

 

十八句目

 

   石花菜水のさかまく所をば

 波せき入て大釜の淵       桃青

 (石花菜水のさかまく所をば波せき入て大釜の淵)

 

 心太はテングサを大釜で煮て作る。

 

無季。「淵」は水辺。

 

十九句目

 

   波せき入て大釜の淵

 落瀧津地獄の底へさかさまに   信章

 (落瀧津地獄の底へさかさまに波せき入て大釜の淵)

 

 地獄の大釜とする。八大地獄の四番目の叫喚(きょうかん)地獄はウィキペディアによると、殺生、盗み、邪淫、飲酒の罪によって落ちる地獄で、「熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。」という。

 お盆に地獄の釜の蓋が開くというのもこの地獄をいう。

 

無季。釈教。

 

二十句目

 

   落瀧津地獄の底へさかさまに

 鉄杖鯉の骨をくだくか      信徳

 (落瀧津地獄の底へさかさまに鉄杖鯉の骨をくだくか)

 

 鯉の丸揚げであろう。鯉が油の中で暴れないように眉間を叩いて絞める。それを地獄の鬼の金棒に見立てる。

 

無季。

 

二十一句目

 

   鉄杖鯉の骨をくだくか

 酒の月後妻打の御振舞      桃青

 (酒の月後妻打の御振舞鉄杖鯉鯉の骨をくだくか)

 

 「後妻打(うはなりうち)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「主として平安時代の末から戦国時代頃まで行われた習俗で,離縁になった前妻 (こなみ) が後妻 (うわなり) にいやがらせをする行動をいう。女性が別れた夫の寵愛をほしいままにしている新しい妻をねたむあまり,憤慨してその同志的な婦人らとともに後妻のところへ押寄せていくこと。一方,後妻のほうでも,その仲間の女性たちを集めて応戦した。武器としてはほうきやすりこぎなどの家庭用の道具が用いられた。」

 

とある。ウィキペディアによると寛永を過ぎた頃には途絶えたとある。ただ、話としては残っていて、歌川広重の浮世絵にも描かれている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

二十二句目

 

   酒の月後妻打の御振舞

 隣の内儀相客の露        信章

 (酒の月後妻打の御振舞隣の内儀相客の露)

 

 隣の御かみさんやたまたま来ていた客も巻き添えを食って涙の露(TдT)。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「内儀」「相客」は人倫。

二表

二十三句目

 

   隣の内儀相客の露

 眉を取袖ふさがする花薄     信徳

 (眉を取袖ふさがする花薄隣の内儀相客の露)

 

 当時の女性は結婚すると眉を抜き振袖を塞ぐ。ウィキペディアに、

 

 「井原西鶴の『西鶴俗つれづれ』(元禄8年)によれば、振袖は通常、男子は17歳の春、女子は結婚の有無にかかわらず19歳の秋に、袖を短くするとともに脇をふさいだとある。」

 

とある。

 隣の内儀が招いた客は、これから眉を抜いて袖を塞ぐ花嫁だった。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「下五花嫁とあるべき所を前句の『露』の縁で『花薄』とした。」

 

とある。

 花薄と露は、

 

 ほのかにも風は吹かなむ花薄

     むすぼほれつつ露にぬるとも

              斎宮女御(新古今集)

 花薄また露深し穂に出でては

     ながめしと思ふ秋の盛りを

              式子内親王(新古今集)

 

などの歌に詠まれている。

 

季語は「花薄」で秋、植物、草類。恋。「袖」は衣裳。

 

二十四句目

 

   眉を取袖ふさがする花薄

 野風もいまは所帯持なり     桃青

 (眉を取袖ふさがする花薄野風もいまは所帯持なり)

 

 薄を嫁に迎えて、野風も所帯持ちになった。

 花薄に野風は、

 

 花薄まねかざりせばいかにして

     秋の野風の方をしらまし

              源行宗(続後撰集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。

 

二十五句目

 

   野風もいまは所帯持なり

 鍋の尻入江の塩に気を付て    信章

 (鍋の尻入江の塩に気を付て野風もいまは所帯持なり)

 

 所帯持つと付き物なのは夫婦喧嘩で、鍋の尻には気をつけよう。あと、入口に塩を撒かれないように。

 

無季。「入江」は水辺。

 

二十六句目

 

   鍋の尻入江の塩に気を付て

 のつぺいうしと鴨のなく覧    信徳

 (鍋の尻入江の塩に気を付てのつぺいうしと鴨のなく覧)

 

 「のつぺい」はのっぺい汁で、ウィキペディアに、

 

 「原型は、寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理『雲片』を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある。」

 

とある。江戸時代でも鴨を加えることがあったのだろう。さすがに牛は食わなかった。「うし」は「憂し」の方だ。鍋と塩を用意したらのっぺい汁だから鴨はご注意あれ。のっぺい汁は嫌だと鴨がなく。

 入江の鴨は

 

 あじ鴨のさわぐ入江の白浪の

    しらすや人をかくこひむとは

              よみ人しらず(古今集)

 

などの歌にある。

 

季語は「鴨」で冬、鳥類。

 

二十七句目

 

   のつぺいうしと鴨のなく覧

 山陰に精進落て松のこゑ     桃青

 (山陰に精進落て松のこゑのつぺいうしと鴨のなく覧)

 

 「精進落て」は精進落としのこと。精進の期間が終わって普通の食事に戻す事。今日から鴨が食べられる。

 鴨と山陰は『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、

 

 吉野なるなつみの川の川淀に

     鴨ぞなくなる山陰にして

              湯原王(新古今集)

 

による付け合い。

 

無季。「山陰」は山類。「松」は植物、木類。

 

二十八句目

 

   山陰に精進落て松のこゑ

 三十三年杉たてる庵       信章

 (山陰に精進落て松のこゑ三十三年杉たてる庵)

 

 三十三回忌でようやく精進落ちした。杉と前句の松は掛詞になり、三十三年過ぎ、三十三年待つのこえ、になる。

 この言葉の続きは『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に、謡曲『三輪』の冒頭の、

 

 「これは、和州三輪の山陰に住居る、玄賓と申す沙門にて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.46812-46816). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

と、途中の、

 

 「杉立てる門をしるしにて、尋ね給へといひ捨てて、かき消す如くに失せにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.46886-46888). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

によるという。

 松と杉は、

 

 杉たてる門ならませば訪ひてまし

     心のまつはいかがしるべき

              大貮高遠(後拾遺集)

 今はわれ松の柱の杉の庵に

     閉づべきものを苔深き袖

              式子内親王(新古今集)

 

などの歌にある。

 

無季。「杉」は植物、木類。「庵」は居所。

 

二十九句目

 

   三十三年杉たてる庵

 開帳や俊成作の本尊かけて    信徳

 (開帳や俊成作の本尊かけて三十三年杉たてる庵)

 

 「本尊かけて」はホトトギスの鳴き声。「テッペンカケタカ」ともいう。

 杉の庵に俊成は、

 

 またたぐひ嵐の山の麓寺

     杉の庵に有明の月

              藤原俊成(玉葉集)

 

による。

 俊成のホトトギスの歌をその鳴き声の「本尊かけたか」から、俊成作の本尊の御開帳とする。

 

無季。釈教。

 

三十句目

 

   開帳や俊成作の本尊かけて

 寂蓮法師小僧新発意       桃青

 (開帳や俊成作の本尊かけて寂蓮法師小僧新発意)

 

 寂蓮法師はウィキペディアに、

 

 「僧俊海の子として生まれ、1150年(久安6年)頃叔父である藤原俊成の養子となり、長じて従五位上・中務少輔に至る。30歳代で出家、歌道に精進した。」

 

とある。俊成からすれば寂蓮は小僧新発意(しんぼち)というところか。

 

無季。釈教。「小僧新発意」は人倫。

 

三十一句目

 

   寂蓮法師小僧新発意

 いろは韻槇立山もなかりけり   信章

 (いろは韻槇立山もなかりけり寂蓮法師小僧新発意)

 

 「以呂波韻」は漢詩を作る時に韻を調べるのに使う便利帳で、古今色々なものが出版されてきた。なにぶん漢詩の本なので寂蓮の槇立山の歌は載っていない。その「いろ」としもなかりけり。

 もちろん、

 

 寂しさはその色としもなかりけり

     槙立つ山の秋の夕暮れ

             寂蓮法師(新古今集)

 

のパロディー。

 

無季。「槇立山」は山類。

 

三十二句目

 

   いろは韻槇立山もなかりけり

 雲を増補に時雨ふる秋      信徳

 (いろは韻槇立山もなかりけり雲を増補に時雨ふる秋)

 

 いろは韻には増補が付き物だったのだろう。槇立山に増補として時雨の雲が追加される。

 槇立山に時雨は、

 

 とへかしな槇立山のゆふ時雨

     色こそみえね深き心を

              土御門院(続古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。「雲」は聳物。「時雨」は降物。

 

三十三句目

 

   雲を増補に時雨ふる秋

 影独長月比の気根もの      桃青

 (影独長月比の気根もの雲を増補に時雨ふる秋)

 

 「影独長月比」は「かげひとりながつきころ」と読む。

  「気根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 仏語。すべての人の中にあって、仏の教えを受けて発動する能力、資質。教えの対象としての、それを受けるものの能力。根機。

  ※十訓抄(1252)一〇「極楽の荘厳心にうかびて忽に聖衆の来迎に預り給ける。其機根をはからひて上人もかくすすめけるにや」

  ※ささめごと(1463‐64頃)下「歌道も仏教のごとく〈略〉心ざし浅き人は至らぬ道也。ただ機根の生熟によるとなり」

  ② 物事に堪えられる力。根気。気力。

  ※明月記‐安貞元年(1227)一二月二日「身体不調、気根如レ亡」

  ※浮世草子・傾城色三味線(1701)京「気根(コン)づよふ勤てきた目で」

  ※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉七「少しは長い手紙を書く気根も附き」

  ③ (「御気根に」の形で) お気のままに、御自由にの意の、座を立つときの挨拶のことばにいう。

  ※浄瑠璃・躾方武士鑑(1772)九「『是りゃ是りゃ娘毎時(いつも)の様に酌は入ぬ〈略〉奥へ行きゃ行きゃ』『アイアイ夫なら御気根(キコン)に』」

  ④ 植物の地上に出ている茎や幹の部分から生え、空気中にあらわれている根。その機能は、植物の種類によって異なる。〔現代術語辞典(1931)〕」

 

とある。延宝四年の「梅の風」の巻八十八句目にも、

 

   いきの松ひねり艾葉の百までも

 気根の色を小謡に見す      桃青

 

の句がある。

 句の意味はおそらく、

 

 いま来むといひしばかりに長月の

     有明けの月を待ちいでつるかな

             素性法師(古今集)

 しばし待てまだ夜は深し長月の

     有明の月は人まどふなり

             藤原惟成(新古今集)

 

のような一人で長月の有明の月を気根よく待っているということだと思う。有明の月が出ると思ったら、それに輪をかけて時雨まで降り出した、ということだろう。

 

季語は「長月」で秋。

 

三十四句目

 

   影独長月比の気根もの

 野々宮の夜すがら袷一枚     信章

 (影独長月比の気根もの野々宮の夜すがら袷一枚)

 

 野々宮というと『源氏物語』で源氏の君が六条御息所を尋ねてゆくあの場面ということになる。本文に「九月(ながつき)七日ばかりなれば」とあり、それは長月のことだった。取次を頼むと待たされて、

 

 「かやうのありきも、いまはつきなき程になりにて侍るを、おぼししらば、かうしめのほかにはもてなしたまはで、いぶせう侍る事をも、あきらめ侍りにしがなと、まめやかに聞え給へば、人人、げに、いとかたはらいたう、たちわづらはせ給ふに、いとほしうなど、あつかひきこゆれば」

 (こうやって歩いてくるなんてことは、今の身分にはふさわしくないということをおわかりいただけるなら、このような注連縄の外に立たしておいたりしないで、何とかこのもやもやを晴らしてもらいたいものなんだが。」

と真面目な口調で話すと、女房達の、

 「ほんと、傍で見てても痛々しいわ。」

 「立たせたまんまじゃ辛いでしょうに。」

などと話す声がして)

 

となる。

 ただ、ここでは物語とは違い、夜すがら袷一枚で待たされて、この気根もの、となる。

 袷は綿の入ってない裏地のある長着のことをいう。

 

季語は「袷」で秋、衣裳。神祇。「夜すがら」は夜分。

 

三十五句目

 

   野々宮の夜すがら袷一枚

 駕籠かきも浮世を渡る嵯峨なれや 信徳

 (駕籠かきも浮世を渡る嵯峨なれや野々宮の夜すがら袷一枚)

 

 性(さが)と野々宮のある嵯峨を掛ける。

 袷一枚は駕籠かきの服装だったのだろう。野々宮だけに、これも浮世を渡る「さが」。

 

無季。「嵯峨」は名所。

 

三十六句目

 

   駕籠かきも浮世を渡る嵯峨なれや

 迷ひ子の母腰がぬけたか     桃青

 (駕籠かきも浮世を渡る嵯峨なれや迷ひ子の母腰がぬけたか)

 

 謡曲『百万』は我が子を探し嵯峨に行く話だが、その冒頭は、

 

 「竹馬にいざや法の道、竹馬にいざや法の道、真の友を尋ねん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42061-42063). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

で竹馬の友とともに法の道を意味するとともに、竹馬に法(乗り)が縁語になっている。

 ここでは腰が抜けたか、駕籠に乗って行く。

 

無季。「迷ひ子」「母」は人倫。

二裏

三十七句目

 

   迷ひ子の母腰がぬけたか

 傷寒を人々いかにととがめしに  信章

 (傷寒を人々いかにととがめしに迷ひ子の母腰がぬけたか)

 

 「傷寒」はウィキペディアに、

 

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

 

とある。そしてその治療を廻って後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した『傷寒論』の翻刻、注釈が繰り返されてきた。

 まあ、近代でも風邪の特効薬を作ったらノーベル賞なんて言われてきたが、ウィルスの存在を知らなかった時代には効果的な予防法もなく厄介な病気で、ウィルスの型によっては多くの死者も出してきたのだろう。大正時代のスペイン風邪や今日の新型コロナも、おそらくこの傷寒に含まれるのではないかと思う。現代の中国医学では別の意味で使われているようだが。

 「とがむ」はこの場合「非難する」ではなく「問いただす」という意味だろう。傷寒かと人々が心配になって訪ねてくるが実は腰が抜けただけだった。

 

無季。「人々」は人倫。

 

三十八句目

 

   傷寒を人々いかにととがめしに

 悪鬼となつて姿はそのまま    信徳

 (傷寒を人々いかにととがめしに悪鬼となつて姿はそのまま)

 

 「姿はそのまま悪鬼となつて」の倒置であろう。風邪だと思っていたそのまま悪鬼の姿になった。鬼化は実はウイルスの仕業だったか。

 

無季。

 

三十九句目

 

   悪鬼となつて姿はそのまま

 正三の書をかれたる物がたり   桃青

 (正三の書をかれたる物がたり悪鬼となつて姿はそのまま)

 

 正三は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「鈴木正三。仮名草紙作者。その作『因果物語』には前句のごとき話を多くのせる。」

 

とある。鈴木正三はウィキペディアに、

 

 「鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28日))は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。」

 

とあり、仮名草子については、

 

 「また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。」

 

とある。

 

無季。

 

四十句目

 

   正三の書をかれたる物がたり

 ここに道春是もこれとて     信章

 (正三の書をかれたる物がたりここに道春是もこれとて)

 

 道春は林羅山のこと。林羅山はウィキペディアに「出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。」とある。博識で朱子学者というだけでなく、ウィキペディアに、

 

 「中国の本草学の紹介書『多識編』、兵学の注釈書である『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』、さらに中国の怪奇小説の案内書『怪談全書』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている。」

 

とある。

 鈴木正三の本は面白いが、道春の『怪談全書』も捨てがたい。

 

無季。

 

四十一句目

 

   ここに道春是もこれとて

 前は池東叡山の大屋舗      信徳

 (前は池東叡山の大屋舗ここに道春是もこれとて)

 

 ジャパンナレッジの「国史大辞典」に、林羅山は「寛永七年(一六三〇)には、江戸上野の忍岡に屋敷を与えられ」とある。東叡山寛永寺のある今の上野公園の辺りに屋敷があった。前の池は不忍池になる。

 

無季。「池」は水辺。

 

四十二句目

 

   前は池東叡山の大屋舗

 花のさかりに町中をよぶ     桃青

 (前は池東叡山の大屋舗花のさかりに町中をよぶ)

 

 林羅山は上野の山の屋敷の庭に桜を植えて、寛永寺の天海大僧正の植えた桜とともに上野を花の名所にした。今では町中の人が集まり花見をしている。

 徳川吉宗が飛鳥山公園を作るまで花見の習慣はなかったという説が花見自粛の際に必ず引き合いに出されるが、フェイクなので騙されないように。花見の習慣はかなり古くからあった。

 

   閑ならんと思ひける頃

   花見に人々のまうできければ

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ

     あたら桜の科にはありける

              西行法師(山家集)

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

四十三句目

 

   花のさかりに町中をよぶ

 青柳の髪ゆひ髪ゆひ髪ゆひやい  信章

 (青柳の髪ゆひ髪ゆひ髪ゆひやい花のさかりに町中をよぶ)

 

 桜に柳は素性法師の「柳桜をこきまぜて」の歌の縁。

 花見でみんな一斉に外出するから髪結いも引っ張りだこで、町中から呼ばれる。

 素性法師の歌は謝尚『大道曲』が元になっているのではないかと思う。

 

   大道曲   謝尚

 青陽二三月 柳青桃復紅

 車馬不相識 音落黃埃中

 (春の二月三月の柳は青く桃もまた赤い

  車も馬もお互いを知らないまま音だけが黃埃の中に)

 

 見わたせば柳桜をこきまぜて

     都ぞ春の錦なりける

              素性法師(古今集)

 

季語は「青柳」で春、植物、木類。

 

四十四句目

 

   青柳の髪ゆひ髪ゆひ髪ゆひやい

 舞台に出る胡蝶うぐひす     信徳

 (青柳の髪ゆひ髪ゆひ髪ゆひやい舞台に出る胡蝶うぐひす)

 

 胡蝶は謡曲『胡蝶』のことであろう。胡蝶の精が後ジテで出てくる。鶯は春鶯囀(しゅんのうでん)の舞か。楽屋ではせわしく髪結いを呼ぶ。

 

季語は「胡蝶」で春、虫類。「うぐひす」も春、鳥類。

 

四十五句目

 

   舞台に出る胡蝶うぐひす

 つれぶしには哥うたひの蛙鳴   桃青

 (つれぶしには哥うたひの蛙鳴舞台に出る胡蝶うぐひす)

 

 「つれぶし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 他の人とともに節を合わせてうたうこと。つれ。

  ※俳諧・貝おほひ(1672)序「右と左にわかちて、つれぶしにうたはしめ」

 

とある。胡蝶うぐひすが舞って謡うと蛙も合わせて謡い出す。もちろん『古今集』仮名序の、

 

 「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」

 

を踏まえる。

 

季語は「蛙」で春。

 

四十六句目

 

   つれぶしには哥うたひの蛙鳴

 禿童が酌に雨の夕暮       信章

 (つれぶしには哥うたひの蛙鳴禿童が酌に雨の夕暮)

 

 禿童はここでは「かぶろ」と読むが「かむろ」と同じ。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「 (1) 前髪の末を切りそろえ,後髪も結わずにそろえて垂らす髪型。 (2) 江戸時代,吉原などの遊所で,大夫,天神など上級の遊女に仕え将来遊女となるための修業をしていた少女。この禿を経ない遊女を「つき出し」といった。『江戸花街沿革誌』に「七八歳乃至十二三歳の少女後来遊女となるべき者にして遊女に事へ見習するを禿といふ。…禿の称号は吉原のみ用ひ,岡場所などにては豆どん,小職などと云ひ慣はしたり」とある。」

 

とある。

 遊郭でかむろに酌をさせながら雨の夕暮れに謡うと、外で蛙も一緒に鳴く。

 雨の夕暮れの蛙は、

 

 みくりはふ汀の真菰うちそよぎ

     蛙鳴くなり雨の暮方

              藤原定家(夫木抄)

 

の歌による。

 

無季。恋。「禿童」は人倫。「雨」は降物。

 

四十七句目

 

   禿童が酌に雨の夕暮

 恋の土手雲なかくしそ打またげ  信徳

 (恋の土手雲なかくしそ打またげ禿童が酌に雨の夕暮)

 

 土手は日本堤のこと。ウィキペディアに、

 

 「明暦の大火の後に土手南側に人形町から遊郭が移転し吉原となってからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、「雲なかくしそ」は『伊勢物語』二十三段筒井筒の、

 

 君があたり見つつを居らむ生駒山

     雲な隠しそ雨は降るとも

 

の歌から来ている。この歌は詠み人しらずとして『新古今集』にもある。

 

無季。恋。「雲」は聳物。

 

四十八句目

 

   恋の土手雲なかくしそ打またげ

 御朱印使風の玉章        桃青

 (恋の土手雲なかくしそ打またげ御朱印使風の玉章)

 

 朱印は(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。ウィキペディアに、

 

 「主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。

 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。」

 

とある。

 恋文に御朱印を押すことはなかったと思うが、あったら面白いなという句であろう。

 

無季。恋。

 

四十九句目

 

   御朱印使風の玉章

 心中に山林竹木指切る事     信章

 (心中に山林竹木指切る事御朱印使風の玉章)

 

 朱印状は領地の確定などに係わる書類が多いので、「山林竹木」が付く。それと並行して、玉章に心中指切りが付く。ウィキペディアに、

 

 「男女が愛情の不変を誓い合う旨を証拠立てることを「心中立(しんじゅうだて、心中立て)」と言うが、指切は、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から指を切って渡したことに由来している。これにはかなりの激痛が伴うため、それほど愛してるということを意味し、貰う客も、遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要であった。しかし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回ったらしい。そして、この「指切」が一般にも広まり、約束を必ず守る意思を表す風習へと変化した。」

 

とある。これが転じてやくざは忠誠の印として指をつめるが、やがて組を抜ける時に指をつめるようになる。韓国の抗議行動の際の指切りとの関連はよくわからない。

 

無季。恋。「山林竹木」は山類。

 

五十句目

 

   心中に山林竹木指切る事

 末世の衆道菩提所の月      信徳

 (心中に山林竹木指切る事末世の衆道菩提所の月)

 

 菩提所は菩提寺と同じ。衆道が心中したらそこが菩提寺?まさに世も末。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。釈教。

三表

五十一句目

 

   末世の衆道菩提所の月

 十歳の和尚の上気秋更て     桃青

 (十歳の和尚の上気秋更て末世の衆道菩提所の月)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「十歳の翁」のもじりとある。十歳の翁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「年齢一〇歳で、翁のような知恵がある人。聰明(そうめい)な児童。

  ※俳諧・毛吹草(1638)六「冬咲はこや十歳(じっサイ)の翁(オキナ)草〈正友〉」

  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「浮世の介点(こざか)しき事十歳(じっサイ)の翁(オキナ)と申べきか」

 

とある。「上気」は「うはき」で浮気と同じ。

 本物の和尚ではなく十歳のこざかしい稚児が浮気した菩提寺だった。

 秋更ての月は、

 

 高砂の尾上の月に秋更けて

     松風近く鹿ぞなくなる

              (夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。恋。釈教。「和尚」は人倫。恋は六句目になる。式目では五句まで。

 

五十二句目

 

   十歳の和尚の上気秋更て

 弥陀はかかさま消やすき露    信章

 (十歳の和尚の上気秋更て弥陀はかかさま消やすき露)

 

 賢い和尚ではあるが、幼い頃親を亡くして阿弥陀如来を母とするのも心細くて露(TдT)。

 

季語は「露」で秋、降物。釈教。

 

五十三句目

 

   弥陀はかかさま消やすき露

 蓮の糸組屋の店の風凉し     信徳

 (蓮の糸組屋の店の風凉し弥陀はかかさま消やすき露)

 

 「蓮の糸」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「はすいと」に同じ。

  「―にて織れる袈裟(けさ)なり」〈発心集〉

  ハスの茎や葉からとれるという糸。極楽往生の縁を結ぶとされる。

 「この世より―に結ぼほれ西に心のひく我が身かな」〈新続古今・八〉」

 

とある。「組屋(くみや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 組み紐を作り、それを売る家。また、その職人。組糸屋。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※浮世草子・世間手代気質(1730)四「金物の細工人、組屋の女など」

 

とある。組み紐は仏具などに用いられる。

 前句の弥陀からの縁で蓮の糸を出し、その意図で組み紐を作る組屋の情景へと転じる。

 露に凉しは、

 

 鳴く蝉の声も涼しき夕暮れに

     秋をかけたる森の下露

              二条院讃岐(新古今集)

 山里の峰の雨雲とだえして

     夕べ涼しき真木の下露

              後鳥羽院(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「風凉し」で夏。

 

五十四句目

 

   蓮の糸組屋の店の風凉し

 わかいものよるのうれんの波   桃青

 (蓮の糸組屋の店の風凉しわかいものよるのうれんの波)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「組糸屋の女工は一種私娼のごときものであった」とある。消費文化の未熟な段階では女性の職業が少なからずそういう要素を持っていたのだろう。

 糸組屋に若い者が暖簾をくぐってやってくる。

 波の凉しは、

 

 袖の浦の波吹きかえす秋風に

     雲の上まで涼しからなむ

              中務(新古今集)

 

などの歌がある。

 

無季。「わかいもの」は人倫。

 

五十五句目

 

   わかいものよるのうれんの波

 恋の淵水におぼるる人相有    信章

 (恋の淵水におぼるる人相有わかいものよるのうれんの波)

 

 いわゆる女難の相。暖簾をくぐって店に入ってくると、あっこいつは危ないなとわかる。暖簾の波だけに恋の淵に溺れる。

 恋の淵は、

 

 たぎつ瀬のなかにも淀はありてふを

     などわが恋の淵瀬ともなき

              よみ人しらず(古今集)

 みなの河恋の淵よりながれ出づる

     涙の滝はえやはせかるる

              祝部成茂(宝治百首)

 

などの歌がある。

 

無季。恋。

 

五十六句目

 

   恋の淵水におぼるる人相有

 首だけの思ひつつしみてよし   信徳

 (首だけの思ひつつしみてよし恋の淵水におぼるる人相有)

 

 「首だけ」は「首ったけ」のこと。首までどっぷりつかっているという意味。「つつしみてよし」はおみくじのような言葉で、占いの内容とする。

 

無季。恋。「淵水」は水辺。

 

五十七句目

 

   首だけの思ひつつしみてよし

 憂中は下焦もかれてよはよはと  桃青

 (憂中は下焦もかれてよはよはと首だけの思ひつつしみてよし)

 

 「下焦(げしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 漢方でいう三焦の一つ。諸説あるが、一般には臍(へそ)より下をいう。〔文明本節用集(室町中)〕

  ※浮世草子・忘花(1696)二「旦那は〈略〉六十にちかく、しかも下焦かれさせ給ひ、夜も昼も高いびきで寝てござんす計」 〔史記注‐扁鵲伝〕」

 

とある。横隔膜から上を上焦といい、横隔膜と臍の間を中焦といい、臍の下が下焦となる。

 臍の下が枯れるというのはいわゆる腎虚のこと。

 

無季。恋。

 

五十八句目

 

   憂中は下焦もかれてよはよはと

 家々の書にねあせかかるる    信章

 (憂中は下焦もかれてよはよはと家々の書にねあせかかるる)

 

 腎虚は俗な意味では「やりすぎ」ということだが、ちゃんとした漢方薬の用語だと、腎は水液をつかさどるもので、尿や汗の異常などを指す。

 悪友に「お前腎虚だろ」とからかわれて、何のことかわからずに家にある医書を見たら、寝汗を書くとか書いてあった。

 

無季。

 

五十九句目

 

   家々の書にねあせかかるる

 しなひ打大夜着の裏おもて迄   信徳

 (しなひ打大夜着の裏おもて迄家々の書にねあせかかるる)

 

 「大夜着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 普通の夜着より大型の夜着。かいまき。

  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「身にあまるなさけの程を忘れめや いとしき君とねたる大よぎ〈良庵〉」

 

とある。寝汗の原因は夜着が大きすぎて暑かったからだった。

 

無季。

 

六十句目

 

   しなひ打大夜着の裏おもて迄

 鞍馬僧正床入の山        桃青

 (しなひ打大夜着の裏おもて迄鞍馬僧正床入の山)

 

 ウィキペディアの鞍馬天狗のところに、

 

 「鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥の僧正が谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。」

 

とある。鞍馬僧正は鞍馬天狗のこと。大夜着の持ち主は巨漢の鞍馬天狗だった。鞍馬天狗が床に入った姿は巨体な人間山脈のようだ。

 布団を山に喩えるというと、後の元禄九年になるが、

 

 ふとん着て寝たる姿や東山    嵐雪

 

の句がある。

 

無季。「山」は山類。

 

六十一句目

 

   鞍馬僧正床入の山

 若衆方先筑紫には彦太郎     信章

 (若衆方先筑紫には彦太郎鞍馬僧正床入の山)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鞍馬天狗』の、

 

 地 「まづ御供の天狗は、たれたれぞ筑紫には、

 シテ「彦山の豊前坊。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.83902-83906). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 鞍馬天狗の御伴の彦山の豊前坊を、若衆方の彦太郎にした。

 

無季。「若衆方」は人倫。

 

六十二句目

 

   若衆方先筑紫には彦太郎

 かづらすがたや右近なるらん   信徳

 (若衆方先筑紫には彦太郎かづらすがたや右近なるらん)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に右近源左衛門とある。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 

 「没年:没年不詳(没年不詳)

  生年:元和8(1622)

 初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」

 

とある。

 能では女性を主人公としたシテが鬘(かづら)を付ける出し物を鬘物(かづらもの)という。

 前句の若衆方の彦太郎に、共演してるあの女性は右近源左衛門ではないかと観衆はざわつく。

 

無季。

 

六十三句目

 

   かづらすがたや右近なるらん

 暮の月橘の情あらはれて     桃青

 (暮の月橘の情あらはれてかづらすがたや右近なるらん)

 

 御所紫宸殿の前に植えられた左近の桜、右近の橘から、前句の右近源左衛門が橘の精を演じるといいのではないか、とする。謡曲『杜若』では杜若の精が現れるし、謡曲『胡蝶』には胡蝶の精、謡曲『藤』では藤の精、謡曲『芭蕉』では芭蕉の精、謡曲『遊行柳』には柳の精、謡曲『西行桜』では桜の精が出てくるから、橘の精もあってもよさそうだ。

 橘に夕暮れは、

 

 夕暮れはいづれの雲の名残とて

     花橘に風ののふくらむ

              藤原定家(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「橘」で夏、植物、木類。「月」は夜分、天象。

 

六十四句目

 

   暮の月橘の情あらはれて

 すもも山もも悉皆成仏      信章

 (暮の月橘の情あらはれてすもも山もも悉皆成仏)

 

 「草木国土悉皆成仏」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「『涅槃経』で説かれる言葉。草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞,道元,日蓮らによって主張され,やがて謡曲にこの言葉は多く出てくるようになった。」

 

とある。

 草木国土が成仏できるなら、スモモもヤマモモも成仏できるのは理。橘の精によって成仏する。

 

季語は「すもも山もも」で夏。釈教。

三裏

六十五句目

 

   すもも山もも悉皆成仏

 見性の眼の光錫の鉢       信徳

 (見性の眼の光錫の鉢すもも山もも悉皆成仏)

 

 「見性(けんじゃう)」は見性成仏の略で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 仏語。身に本来そなわる仏性を見抜いて、仏果をさとること。特に禅宗で用いる語。見性悟道。見性。

  ※梵舜本沙石集(1283)三「又禅門には『直指人心(ぢきしにんしん)、見性成仏(けんしゃうじゃうぶつ)』と云へり。詞(ことば)に随て、性を見て仏とゑられたり」

 

とある。

 仏性を見抜く目を光らせれば、錫の鉢の盛られてスモモやヤマモモは皆成仏できる。

 

無季。釈教。

 

六十六句目

 

   見性の眼の光錫の鉢

 轆轤のめぐり因果則       桃青

 (見性の眼の光錫の鉢轆轤のめぐり因果則)

 

 因果は轆轤(ろくろ)のように廻る。

 

無季。釈教。

 

六十七句目

 

   轆轤のめぐり因果則

 ゑいやとさここに一つのかたは者 信章

 (ゑいやとさここに一つのかたは者轆轤のめぐり因果則)

 

 轆轤というと陶芸を連想するが、昔は滑車の意味もあった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (回転運動をする機械の総称)

  ① 円形の陶器を作る回転円盤。台上に陶土を置き、円盤ごと旋回させながら手で種々の形を作る。手轆轤、蹴轆轤、機械轆轤がある。轆轤台。

  ※日葡辞書(1603‐04)「Rocuroni(ロクロニ) カケテ ヒク」

  ② 物を引き寄せたり、または吊したりするのに用いる滑車。地に据えつけて、縄の端を重い物に結び、軸に取りつけた柄を押して軸を回転させ、縄を巻いて引くもの。まんりき。しゃち。神楽桟。

  ※正倉院文書‐(年月日欠)造石山院所用度帳「油壱伍升参合〈略〉六呂柒工波気拭料」

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「大綱つけて轆轤(ロクロ)にまきて、磯に引あげけるに」 〔墨子‐備穴〕

  ③ (「絞車」とも書く) 大型和船の艫(とも)やぐら内部左右に設けて、帆・伝馬船・碇・重量荷物などの上げ下ろしに用いる船具。巻胴・轆轤棒・轆轤座、身縄、しゃじき棒、飛蝉などからなり、今日のウインチに相当する。神楽桟。

  ※参天台五台山記(1072‐73)八「即曳レ船未三点過二三十里一至二奔牛堰一。左右轆轤合十六頭水牛曳越已了」

 

と、他にもまだいろいろな意味がある。

 滑車を引き上げる作業は障害者にはつらいが、それでも掛け声をかけて頑張る。

 『冬の日』の「狂句こがらし」の巻十四句目にも、

 

    田中なるこまんが柳落るころ

 霧にふね引人はちんばか     野水

 

の句がある。もっとも『三冊子』では、

 

 「五躰不具の噂、一座に差合事思ひめぐらすべし。ほ句のみに不限、其心得あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95)

 

とあり、付け句でもこうした題材は慎重に扱うべきことを説いている。

 

無季。「かたは者」は人倫。

 

六十八句目

 

   ゑいやとさここに一つのかたは者

 敷金として十貫目筥       信徳

 (ゑいやとさここに一つのかたは者敷金として十貫目筥)

 

 一貫は約3.7キログラム。十貫は三十七キロになる。さすがに銀十貫ではないだろう。そんな大金は庶民が動かすものではない。部屋を借りるのに銭十貫、それを障害のある人が運ぶのはなかなか凄い。まあ、当時は健常者なら六十キロの米俵を普通に担いでいたという。

 

無季。

 

六十九句目

 

   敷金として十貫目筥

 代八や忍び車のしのぶらん    桃青

 (代八や忍び車のしのぶらん敷金として十貫目筥)

 

 十貫目箱を盗もうとするなら大八車がいる。当然一箱二箱ではないだろう。ちなみに千両箱は二十キロぐらいだという、こっちの方が軽い。昔の人なら一度に三箱くらい担げたのではないか。

 

無季。

 

七十句目

 

   代八や忍び車のしのぶらん

 日用をめして夕顔の宿      信章

 (代八や忍び車のしのぶらん日用をめして夕顔の宿)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『葵上』の、

 

 「夕顔の、宿の破れ車、やる方なきこそ、悲しけれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.57515-57518). Yamatouta e books. Kindle 版.)

  「やら・はづかしや今とても・忍び車の・わが姿。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.57535-57536). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 お忍びで通う時の車も「忍び車」と言った。ただ、大八車で乗り付けるのは貴族ではあるまい。日雇いの車引きを雇って御貴族様ごっこか。

 

季語は「夕顔」で夏、植物、草類。

 

七十一句目

 

   日用をめして夕顔の宿

 山がらのかきふんどしに尻からげ 信徳

 (山がらのかきふんどしに尻からげ日用をめして夕顔の宿)

 

 ヤマガラの腹は橙褐色なので、それを柿色のふんどしに見たて、灰色の尾を尻をからげた姿にする。柿色は卑賤な色とされていた。

 ヤマガラに夕顔は、

 

 籠のうちも猶羨まし山がらの

     身の程かくすゆふがほのやど

              寂蓮法師(夫木抄)

 

の歌に詠まれている。

 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、ヤマガラは鎌倉時代から芸を仕込まれていて、江戸時代の宝永七年(一七一〇年)刊の『喚子鳥』(蘇生堂主人著)に、

 

 「籠の内、上の方にひやうたんに、ぜにほどのあなをあげ、つるべし。夜は其内にとどまるなり」

 

とあり、「ゆふがほのやど」が瓢箪に穴をあけた巣で飼うことを意味していたという。芸をして金を稼げるので、日用を雇って世話させる人もいたのか。

 

季語は「山がら」で秋、鳥類。「ふんどし」は衣裳。

 

七十二句目

 

   山がらのかきふんどしに尻からげ

 青茶のめじろ羽織来て行     桃青

 (山がらのかきふんどしに尻からげ青茶のめじろ羽織来て行)

 

 ヤマガラが卑賤な柿ふんどしなのに対し、メジロは青茶の羽織を着ている。

 

季語は「めじろ」で秋、鳥類。「羽織」は衣裳。

 

七十三句目

 

   青茶のめじろ羽織来て行

 膏薬に木の実のうみや流覧    信章

 (膏薬に木の実のうみや流覧青茶のめじろ羽織来て行)

 

 青茶の羽織のメジロを医者に見立てて、つついて木の実から汁が流れるのを膿(うみ)とする。

 

季語は「木の実」で秋。

 

七十四句目

 

   膏薬に木の実のうみや流覧

 よこねをろしに谷深き月     信徳

 (膏薬に木の実のうみや流覧よこねをろしに谷深き月)

 

 「よこね」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「性病に感染したために鼠径部(そけいぶ)リンパ節がはれることをいう。便毒,横痃(おうげん)ともいう。無痛性のよこねは梅毒によるもので,感染3週以降外陰部の硬性下疳に引き続いて発生する。有痛性のよこねは軟性下疳によるもので,外陰部の潰瘍に引き続き発生し,化膿して皮膚が破れ排膿してくる。鼠径リンパ肉芽腫や淋病の際,鼠径リンパ節がはれ,それぞれ気候性横痃,淋疾性横痃といわれる。【岡本 昭二】」

 

とある。山の「横峰」と掛けて「よこね颪」とする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「よこね」「谷」は山類。

 

七十五句目

 

   よこねをろしに谷深き月

 山高く湯舟へだつる水遠し    桃青

 (山高く湯舟へだつる水遠しよこねをろしに谷深き月)

 

 高い山の温泉で、湯舟の向こうは谷底で遥か下に川が見える。怖いけど絶景なのは間違いない。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『山姥』の、

 

 「殊にわが住む山河の景色、山高うして海近く、谷深うして水遠し。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89874-89877). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 余談だが、「山高ければ谷深し、谷深ければ山高し」という相場の格言もここから来たのか。「シテ株」という言葉も能から来ているし。

 

無季。「山」は山類。

 

七十六句目

 

   山高く湯舟へだつる水遠し

 浅間の煙かる石がとぶ      信章

 (山高く湯舟へだつる水遠し浅間の煙かる石がとぶ)

 

 湯舟を草津の湯とする。ウィキペディアに「万里集九と林羅山は日本三名泉(他は下呂温泉と有馬温泉)の一つに数えた」という。

 火山の噴火で軽石が飛んできた。おっとラッキー、これで体をこすろう。

 浅間の煙は、

 

 いつとなくおもひにもゆる我か身かな

     あさまのけぶりしめるよもなく

              西行法師(山家集)

 

の歌がある。

 

無季。「浅間」は名所、山類。

 

七十七句目

 

   浅間の煙かる石がとぶ

 しらなへし花のふぶきの信濃なる 信徳

 (しらなへし花のふぶきの信濃なる浅間の煙かる石がとぶ)

 

 「しらなへし」は白んで萎えたということか。花吹雪は信濃では浅間山から飛ぶ軽石に喩えられる。

 「花のふぶき」は、

 

 ちりまがふ花のふぶきにかきくれて

     そらまでかをる志賀の山越え

              守覚法親王(正治初度百首)

 峰渡る花のふぶきに埋もれて

     また冬こもる谷のかけくさ

              鴨長明(正治後度百首)

 

などの歌がある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

七十八句目

 

   しらなへし花のふぶきの信濃なる

 甲頭巾に駒いばふ春       桃青

 (しらなへし花のふぶきの信濃なる甲頭巾に駒いばふ春)

 

 甲頭巾は兜頭巾(かぶとづきん)でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「江戸時代の火事装束の一。騎馬の武士がかぶった兜形の頭巾で、錏(しころ)の部分を羅紗(ラシャ)で作り、金糸などで縫い取りを施したもの。」

 

とある。excite辞書の「平凡社 世界大百科事典」の「武家の火事装束」に、

 

 「町方のものに比べると,警備用の威儀服という感が強く,地質にもラシャ(羅紗),皮などが多く用いられている。(1)男子用 (a)羽織 背割羽織で,ラシャに切りつけやアップリケで家紋をつけたものが多い。乗馬の関係で身丈もあまり長くない。これに,うしろから宛帯(あておび)をつけて,羽織の内側をまわして前で締める。(b)兜または笠 前に鍬形や前立(まえだて)のついた小型の兜や,陣笠を用い,周囲に火の粉よけの錣(しころ)がついている。(c)胸当て 前垂れのようなもので,首から前へさげて羽織の下に着ける。(d)袴 通常,馬乗袴が用いられる。」

 

とある。

 馬に乗って現われると、あたかも合戦に行くみたいに見えたのだろう。

 

季語は「春」で春。「兜頭巾」は衣裳。「駒」は獣類。

名残表

七十九句目

 

   甲頭巾に駒いばふ春

 熊坂も中間霞引つれて      信章

 (熊坂も中間霞引つれて甲頭巾に駒いばふ春)

 

 前句の兜頭巾を能の『熊坂』で用いる長範頭巾のこととする。

 「中間(ちゅうげん)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「古くからおもに武家方にみられた軽格の奉公人の一つ。戦国時代に広範に成立し、江戸時代には足軽と小者との中間の身分とされた。足軽、中間、小者は一括して軽輩と称されたが、このうち足軽のみが士分と称される侍(さむらい)・徒士(かち)と同様に戦闘員であったのに対し、中間は小者とともに非戦闘員に属した。戦時には小荷駄(こにだ)隊を形成し、平時には雑務に従った。苗字(みょうじ)帯刀はいっさい許されなかった。江戸幕府には550人前後の中間(役高十五俵一人扶持(ぶち)、御目見(おめみえ)以下、羽織袴(はかま)役、譜代(ふだい)席)があり、大・中・小の三組に編成され、各組に頭(かしら)は1人(若年寄(わかどしより)支配、役高八十俵持(もち)扶持、御目見以下、上下(かみしも)役、焼火間詰(たきびのまづめ)、譜代席)、組頭は大組に4人、中・小組に各3人(役料十俵一口)が置かれていた。城中諸門の勤番、将軍遠行の供奉(ぐぶ)などを役目とした。[北原章男]」

 

とある。

 盗賊熊坂はなぜか非戦闘員の中間の大軍を霞のように引き連れてやってくる。霞たなびく春になるのかも。

 

季語は「霞」で春、聳物。「中間」は人倫。

 

八十句目

 

   熊坂も中間霞引つれて

 山又山や三国の九郎助      信徳

 (熊坂も中間霞引つれて山又山や三国の九郎助)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の補注は、謡曲『熊坂』の

 

 ワキ「さて北国には越の、

 シテ「麻生の松若三国の九郎。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.85759-85762). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。この「三国の九郎」(源九郎義経)を中間の九郎助とする。

 「山又山」は謡曲『邯鄲』に、

 

 「山又山を越え行けばそことしもなき・旅心」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.49082-49083). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 

無季。「山」は山類。

 

八十一句目

 

   山又山や三国の九郎助

 関手形安宅に早く着にけり    桃青

 (関手形安宅に早く着にけり山又山や三国の九郎助)

 

 安宅関は謡曲『安宅』の舞台だし、『義経記』巻七が元になっているという。ウィキペディアには、

 

 「安宅の関(あたかのせき)は、石川県小松市の日本海側にある安宅に守護、富樫氏が設けたと言われる関所。」

 「『兵部式』では安宅駅、『義経記』では安宅の渡、『八雲御抄』では安宅橋と記述があるのみで、安宅関と記載のあるものは謡曲『安宅』のみで、ここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は疑問視されている。」

 

とある。なお、関所の通行手形は古代は過所と呼ばれていて、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「「かそ」とも読む。中国古代の関所通行証。古来陸上,水運の要衝に関・津を設置し,交通取締りと関税徴収を行なった中国では,旅行者は官に申請して旅行証を下付され,関・津でそれを呈示する義務を負った。漢代のけい・繻などの後身としてこの通行証を六朝時代から唐にかけては一般に過所と呼んだ。園城寺 (三井寺) に智証大師円珍が入唐中使用した大中9 (855) 年の過所 (国宝) がある。日本の公式令にも過所の書式が規定され,唐制継受が知られる。のち過書とも書くようになった。関所通過のための身元証明,および関料免除のための証明書。鎌倉,室町時代には関料免除を目的としたものが多く,下知状の形式で幕府,大名,有力寺社が発給する場合が多かった。江戸時代には往来手形が利用された。」

 

とある。

 源九郎義経ならぬ三国の九郎助は安宅関に早く着いた。謡曲『安宅』の弁慶の台詞に、

 

 「御急ぎ候程に安宅の湊に御着きにて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.63757-63759). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とあるから、早く着いたのだろう。

 

無季。「安宅」は名所。

 

八十二句目

 

   関手形安宅に早く着にけり

 松風落てしぶ紙をとく      信章

 (関手形安宅に早く着にけり松風落てしぶ紙をとく)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『芭蕉』の、

 

 「芭蕉に落ちて松の声、芭蕉に落ちて松の声、あだにや風の破るらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.23959-23961). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。この部分の『解註謡曲全集』の注に、

 

 「松吹く風が芭蕉にさわって無益にその葉を破りそうだ。「風吹けばあだに破れ行く芭蕉葉のあはれと身をも 頼むべき世か」(「山家集」西行)。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.24193-24195). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 ここでは松風に吹かれて都落ちした旅人がしぶ紙を解く、となる。渋紙はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」

 

とある。

 

無季。

 

八十三句目

 

   松風落てしぶ紙をとく

 ふと物の庭の芭蕉葉五六端    信徳

 (ふと物の庭の芭蕉葉五六端松風落てしぶ紙をとく)

 

 松風に芭蕉葉が落ちるが、枚数ではなく、布を数える端(反)を用いる。

 端(反)はこの場合もちろん土地ではなく布の単位。ウィキペディアに、

 

 「布の大きさの単位の反(この場合は「端」とも書く)は、おおむね一着分の幅・丈の大きさである。「反物(たんもの)」という呼び方はここから来ている。

 この反は、古代中国の長さの単位である端に由来するものである。端は2丈、すなわち20尺のこととされるが、周代以降は見られない。主に布帛の計量に用いられ、日本に入って「反」とも書かれるようになった。

 その大きさは時代や布の材質により異なる。古代には、絹布では幅9寸5分~1尺、長さ2丈8尺~3丈を1反とし、綿布では幅9寸5分、長さ2丈8尺を1反とした(いずれも鯨尺による)。後に、単に一着分の幅・丈として、着物用は幅9寸5分、長さ3丈以上、羽織用の綿布は幅9寸5分、長さ2丈4尺以上、その他は幅9寸5分、長さ2丈以上を標準とした。」

 

とある。九寸五分は幅約二十九センチ、三丈は約九メートルで、これが一端になる。芭蕉葉が五六端となるとかなりの量だ。

 

季語は「芭蕉」で秋、植物、木類。

 

八十四句目

 

   ふと物の庭の芭蕉葉五六端

 楚国のかたはら横町の秋     桃青

 (ふと物の庭の芭蕉葉五六端楚国のかたはら横町の秋)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注の指摘する通り、謡曲『芭蕉』の冒頭の言葉に、

 

 「これは唐土楚国の傍」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.23938-23939). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 言葉を借りているだけで本説で付けているわけでもないので、同じ謡曲が何句にもまたがっても一応問題はないのだろう。

 

季語は「秋」で秋。

 

八十五句目

 

   楚国のかたはら横町の秋

 邯鄲の里の新道月明て      信章

 (邯鄲の里の新道月明て楚国のかたはら横町の秋)

 

 「邯鄲の夢」はウィキペディアに、

 

 「邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。」

 

とある。邯鄲は趙の都で、現在の河北省南部の邯鄲市だが、能の『邯鄲』では楚の羊飛山へ行く途中という設定になっている。

 五十年の栄華の夢が覚めれば、楚の国の横町だった。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

八十六句目

 

   邯鄲の里の新道月明て

 能々おもへば会所を求る     信徳

 (邯鄲の里の新道月明て能々おもへば会所を求る)

 

 これも謡曲『邯鄲』の、栄華の後の言葉で、『校本芭蕉全集 第三巻』の注も引いている。

 

 「よくよく思へば出離を求むる、智識はこの枕なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.49323-49325). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

 当初の楚の羊飛山へ行く目的は悟りを開くことで、栄華を得る事ではなかった。それを北野連歌会所へ行くことだったとする。

 北野連歌会所はコトバンクの「世界大百科事典内の北野連歌会所の言及」に、

 

 「…さらに,ほぼ同時代の周阿(しゆうあ)や室町時代初期の梵灯(ぼんとう)庵主らを経て,宗砌(そうぜい),宗祇(そうぎ),宗長,兼載(けんさい),宗碩(そうせき)らが,室町中期から後期にかけて連歌の最盛期を形成した。なかでも宗祇は代表的な連歌師で,低い階層から連歌によって身を立て,ついには北野連歌会所奉行(北野天満宮に設けられた連歌活動を統轄する幕府の機関の長)という指導的位置につくに至った。多くの連歌作品,連歌論を残し,兼載らとともに《新撰菟玖波集》の編集に携わり,古典研究においても一家を成すに至った。…」

 

とある。北野連歌会所奉行には宗砌、宗祇、兼載、などそうそうたる名前が連なり、この時代では宗因が北野連歌会所奉行になっていた。連歌師としての最高の栄華ではあるが。

 

無季。

 

八十七句目

 

   能々おもへば会所を求る

 千句より十万億も鼻の先     桃青

 (千句より十万億も鼻の先能々おもへば会所を求る)

 

 十万億は十万億土で極楽浄土は西へ十万億の仏の世界を行った彼方にある。

 出典はわからないが、

 

 極楽は十万億土と説くなれど

     近道すれば南無の一声

              伝蓮如

 

のように、果てしなく遠い浄土も弥陀にすがればすぐに行ける。

 連歌も仏の道に適うものだから、千句興行をすれば極楽浄土も目と鼻の先になる。

 

無季。釈教。

 

八十八句目

 

   千句より十万億も鼻の先

 我等が為の守武菩提       信徳

 (千句より十万億も鼻の先我等が為の守武菩提)

 

 俳諧の祖の守武は守武千句が知られている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「俳諧集。荒木田守武著。1冊。1536年(天文5)起草,40年成稿。《誹諧之連歌独吟千句》ともいい,冒頭の〈飛梅やかろがろしくも神の春〉により《飛梅千句(とびうめせんく)》ともいう。数年にわたる推敲を経た入魂の作で,それまで詠捨ての座興であった俳諧に千句という正式の形を与えたことにより,俳諧のジャンル確立に貢献。宗鑑の《犬筑波集》と並称される。跋文は当時の一流連歌師の俳諧への嗜好を生き生きと伝える。後世,ことに談林俳諧への影響が大きい。」

 

とある。

 また、守武は伊勢神宮祠官だったが神仏習合で、伊勢神宮の本地の菩提山神宮寺で、

 

 散る花を南無阿弥陀仏とゆふべ哉 守武

 

の発句を詠んでいる。後に『阿羅野』の無常の巻頭にもなる。

 我等俳諧師も守武千句を詠んだ守武菩提にすがれば極楽浄土も鼻の先だ。

 

無季。釈教。「我等」は人倫。

 

八十九句目

 

   我等が為の守武菩提

 音楽の小弓三線あいの山     信徳

 (音楽の小弓三線あいの山我等が為の守武菩提)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「あいのやま節」とある。ウィキペディアに間の山節とあり、

 

 「伊勢参道筋の間の山でお杉、お玉という2人の女性が三味線を弾き、伊勢参りの人々に歌を歌い、銭を乞い求めた。「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。(相手)夕あしたの鐘の声、寂滅為楽と響けども、聞きて驚く人もなし」という哀調を帯びた歌詞が土地の民謡となり、また都でも流行した。「嬉遊笑覧」には、「今も浄瑠璃に加はりて、間の山といふ音節残れり」、「古市も間の山の内にて、間の山ぶしをうたひしものなるに、物あはれなる節なる故、いつの頃よりかうつりて、川崎音頭流行して、これを伊勢音頭と称し、都鄙ともに華巷のうたひものとなれり」とある。」

 

とある。『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、「ささら・胡弓・三味線と用いる」とある。

 音楽においてはあいの山、我らが俳諧は守武と相対付けになる。

 

無季。

 

九十句目

 

   音楽の小弓三線あいの山

 四つ竹さはぐ竹の都路      桃青

 (音楽の小弓三線あいの山四つ竹さはぐ竹の都路)

 

 「四つ竹」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「日本の伝統楽器の一つ。竹製の打楽器で、太い竹を四つに割って削り、両手にそれぞれ二枚ずつ持ってカスタネットのように打ち合わせて鳴らす。主として民俗芸能において用いられ、さらには猿回しや女太夫(たゆう)、住吉(すみよし)踊などの舞踊に用いられる。歌舞伎(かぶき)の下座(げざ)音楽では舞踊と同様、門付(かどづけ)や大道芸人などの出る場面のほかに、下町の裏長屋などの貧しい家の場面に用いている。[渡辺尚子]」

 

とある。延宝六年冬の「わすれ草」の巻三十二句目にも、

 

   どんよなも今此時をいはひ哥

 園生の末葉ならす四竹      千春

 

という句がある。

 伊勢から都に向かう道は間の山節に四つ竹で賑やかだった。

 

無季。旅体。

 

九十一句目

 

   四つ竹さはぐ竹の都路

 姉そひて御伽比丘尼のゆく事も  信章

 (姉そひて御伽比丘尼のゆく事も四つ竹さはぐ竹の都路)

 

 「御伽比丘尼」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「歌比丘尼」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 歌念仏を歌う尼。中世に流行し、近世まで続いた。地獄、極楽の絵解きをした勧進比丘尼、絵解比丘尼、熊野権現の縁起を語って牛王(ごおう)のお札を配った熊野比丘尼などがある。のちには、流行の歌をうたい薄化粧をして色を売るようになった。絵解比丘尼(えときびくに)。油引かず。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)三「其人にぬれ袖の哥(ウタ)びくに迚(とて)、此津に入みだれての姿舟」

 

とある。ArtWikiには、

 

 「画題辞典

歌比丘尼は江戸時代の売淫婦の一種なり、万治頃よりあり享保以後に廃る。頭を尼形にし之に繻子羽二重の投げ頭巾をかぶり、薄化粧などして幅広の帯して市中を徘徊し、表に熊野午王を売り、或はびん簓にのせて小唄など歌い、人の心をひき実は色鬻ぐなり。風俗画の好題材となる。

(『画題辞典』斎藤隆三)」

 

とある。

 

無季。恋。釈教。「姉」「御伽比丘尼」は人倫。

 

九十二句目

 

   姉そひて御伽比丘尼のゆく事も

 後家ぞ誠の仏にてまします    信徳

 (姉そひて御伽比丘尼のゆく事も後家ぞ誠の仏にてまします)

 

 その場限りの冷たい売春婦より、後家さんの方が本当の仏だ。

 

無季。恋。釈教。「後家」は人倫。

名残裏

九十三句目

 

   後家ぞ誠の仏にてまします

 ゆづられし黄金のはだへこまやかに 桃青

 (ゆづられし黄金のはだへこまやかに後家ぞ誠の仏にてまします)

 

 仏像は金箔を貼ったりする。後家さんの肌もすべすべで黄金の肌をしている。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、謡曲『卒塔婆小町』の、

 

 「これにつけても後の世を、願ふぞ真なりける砂を塔と重ねて黄金の膚こまやかに、花を仏に手向けつつ」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43411-43416). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 

無季。

 

九十四句目

 

   ゆづられし黄金のはだへこまやかに

 こぬかみがきの皮袋有      信章

 (ゆづられし黄金のはだへこまやかにこぬかみがきの皮袋有)

 

 「こぬかみがきの皮袋」は糠袋のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 糠を入れた布袋。肌(はだ)を洗うのに用いた。

  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「ながれはすねのあとをもはぢぬ臍(へそ)のあたりの垢かき流し、なをそれよりそこらも糠袋(ヌカフクロ)にみだれて」

 

とある。

 黄金の肌も日頃の手入れが大事。

 

無季。

 

九十五句目

 

   こぬかみがきの皮袋有

 旅枕油くささや嫌ふらん     信徳

 (旅枕油くささや嫌ふらんこぬかみがきの皮袋有)

 

 旅だと体から分泌する油で臭くなりがちで、糠袋を持ち歩く。

 

無季。旅体。

 

九十六句目

 

   旅枕油くささや嫌ふらん

 鰯でかりの契りやかるる     桃青

 (旅枕油くささや嫌ふらん鰯でかりの契りやかるる)

 

 干物の鰯をちぎって焼いたら油臭くて嫌われた。旅枕の仮の契りも台無し。

 

無季。恋。

 

九十七句目

 

   鰯でかりの契りやかるる

 はかゆきにざくざく汁の薄情   信章

 (はかゆきにざくざく汁の薄情鰯でかりの契りやかるる)

 

 ウィキペディアの「ごづゆ」のことろに、

 

 「内陸の会津地方でも入手が可能な、海産物の乾物を素材とした汁物である。江戸時代後期から明治初期にかけて会津藩の武家料理や庶民のごちそうとして広まり、現在でも正月や婚礼などハレの席で振る舞われる郷土料理である。なお似たようなレシピで「ざくざく」という家庭料理も作られるが、こちらは昆布・ダイコン・ゴボウなどが加わり、出汁にも煮干しなどが加わる点が異なる。 また、南会津地方ではこづゆを「つゆじ」と言うこともある。」

 

とある。今日でも「ざくざく汁」と呼ばれているが、延宝の頃にあったかどうかは不明。江戸では廃れたが会津に残ったということも考えられる。

 煮干しはカタクチイワシなので鰯をちぎって入れることには変わりない。

 「はかゆき」は物事が早く進む、はかどるということで、ここでは急いで作ったざくざく汁ということか。当時のイメージとしては、忙しいときの間に合わせ料理だったのかもしれない。

 

無季。恋。

 

九十八句目

 

   はかゆきにざくざく汁の薄情

 連理のはしのかたしをもつて   信徳

 (はかゆきにざくざく汁の薄情連理のはしのかたしをもつて)

 

 連理というと白楽天『長恨歌』の「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」で比翼連理の連理だが、ここでは枝ではなく箸になっている。「かたし」は片枝で、一本の箸では食べにくい。

 

無季。恋。

 

九十九句目

 

   連理のはしのかたしをもつて

 実や花白楽天がやき筆に     桃青

 (実や花白楽天がやき筆に連理のはしのかたしをもつて)

 

 「やき筆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 箸(はし)のような柔らかい木の端を焼き焦がして作った炭の筆。ぬぐえばその跡がすぐ消えるので、下絵を書くのに用いた。朽筆(くちふで)。土筆(どひつ)。

  ※羅葡日辞書(1595)「Describo〈略〉yaqifude(ヤキフデ) ヲモッテ シタエヲ カク」

 

とある。前句の片方の箸を白楽天が焼き筆の代わりに下絵を描くのに用い、上五で放り込みのように「げにや花」と囃す。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   実や花白楽天がやき筆に

 唐土へかへる羽ばは木の鳫    主筆

 (実や花白楽天がやき筆に唐土へかへる羽ばは木の鳫)

 

 「羽ばは木」は羽箒(はぼうき)。焼き筆の炭を払うのに使う。桜が咲く頃には雁は中国へと帰って行く。

 

 見れどあかぬ花のさかりに帰る雁

     猶ふるさとの春や恋しき

              よみ人しらず(拾遺集)

 

の歌を踏まえ、一巻は目出度く終わる。

 

季語は「かへる‥‥鳫」で春、鳥類。