「月代を」の巻、解説

初表

 月代を急ぐやふなり村時雨    千川

   小松のかしらならぶ冬山   芭蕉

 男鹿飛嶽の建間の木がくれて   此筋

   水真白に海に出る川     左柳

 酒機嫌旅の板屋も一里程     洒堂

   襟に押込おとがひの髭    海動

 物書に慰む日あり五月雨     此筋

   散際ひさし南天の花     千川

 笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛    芭蕉

   泪も恋にいさむ寺住     嵐蘭

 

初裏

 高館は年せんさくに成にけり   左柳

   水風呂たてる雪の降出し   此筋

 ふくさ藁取乱したるすけと鱈   海動

   傷寒病の天窓かかえる    水

 伊豆の舟御崎の舟をかき入て   千川

   一夜の法に宗旨定めて    芭蕉

 としどしの花にならびし友の枝  丈草

   きしる車もせかぬ春の日   千川

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 月代を急ぐやふなり村時雨    千川

 

 月代はこの場合「さかやき」ではなく「つきしろ」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「月代」の解説」に、

 

 「① 月。太陰。《季・秋》

  ※日葡辞書(1603‐04)「Tçuqixiroga(ツキシロガ) ミエタ〈訳〉すでに月がのぼった。または月の光が見えた」

  ※談義本・根無草(1763‐69)前「日は西山にかたむき、月代(ツキシロ)東にさし出て」

  ② 中古以来、男子が冠の下にあたる額ぎわの髪を半月形にそりあげたもの。さかやき。つきびたい。

  ※玉葉‐安元二年(1176)七月八日「自二件簾中一、時忠卿指二出首一其鬢不レ正、月代太見苦、面色殊損」

  ※撰集抄(1250頃)六「年かたぶきて、もとどりを切り、月しろみえわたり」

  ③ ⇒つきしろ(月白)」

 

とある。②は「さかやき」のこと。③は「精選版 日本国語大辞典「月白・月代」の解説」に、

 

 「〘名〙 月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくること。《季・秋》

  ※大斎院御集(11C初)「いでぬまの月しろにみむあまつぼし 有明までの雲隠れする」

  ※俳諧・笈日記(1695)上「月しろや膝に手を置宵の宿〈芭蕉〉 萩しらけたるひじり行燈〈正秀〉」

 

とある。①の意味とそれほど変わならいように思える。①の例文はどちらも月が出る時のものだ。

 思うに「しろ」には居所の意味があるのではないかと思う。苗代(なわしろ)は苗床(なえどこ)と言い換えることができるように苗を育てる場所を表すし、糊代(のりしろ)は糊を付ける場所をいう。城を「しろ」というのも、居所を表すからではないかと思う。

 月代は本来月の起き上がる床であり、月の居所ではなかったか。それが「白(しるし、しろし)」と合わさることで、東の空の白む様になったのではなかったか。

 元は月がちょうど上ったその状態、月が床から起き上がる状態を表す言葉だったが、やがて「白」に釣られて、月の出る前の白んだ空を表すようになったのだろう。

 この句の場合、「月代」は白くなった空ではなく、月の出そのものを急ぐと読んだ方がわかりやすい。もうすぐ月が登る頃だから、村時雨も急いで通り過ぎて行く、心ある村時雨だ、そういう意味の句だ。興行が十月の満月を過ぎた頃だったのだろう。

 村時雨は「村雨」と「時雨」の合わさったような言葉だ。時雨も村雨の一種だと言える。

 

季語は「村時雨」で冬、降物。「月代」は夜分、天象。

 

 

   月代を急ぐやふなり村時雨

 小松のかしらならぶ冬山     芭蕉

 (月代を急ぐやふなり村時雨小松のかしらならぶ冬山)

 

 前句の月の出を急ぐという心を受けて、その月の昇る場所の景色を付ける。深川芭蕉庵から松が見えるわけではなく、ここは架空の景色で、松の若木の並ぶ冬山から月が登るとする。夜だからそれもはっきりとは見えず、月が登って初めてシルエットになって見える。

 今は冬だが正月には小松引きが行われる。春を待つという意味も含まれていたかもしれない。

 

季語は「冬山」で冬、山類。「小松」は植物、木類。

 

第三

 

   小松のかしらならぶ冬山

 男鹿飛嶽の建間の木がくれて   此筋

 (男鹿飛嶽の建間の木がくれて小松のかしらならぶ冬山)

 

 建間はよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「隙間」の間違いとする。

 イメージ的には鹿が切り立った岩の上から隣の岩に飛び移る様だが、それを建物と建物の間に見立てたのかもしれない。屋根の上の忍者が隣の屋根に飛び移るような。

 飛び移った鹿はすぐに小松の木の陰に隠れて見えなくなる。

 

無季。「男鹿」は獣類。

 

四句目

 

   男鹿飛嶽の建間の木がくれて

 水真白に海に出る川       左柳

 (男鹿飛嶽の建間の木がくれて水真白に海に出る川)

 

 河口付近は潮が巻いているか水が真っ白に泡立っている。その泡の向こうは切り立った崖で、鹿が岩の間を飛び越えて行くのが見える。

 

無季

 

五句目

 

   水真白に海に出る川

 酒機嫌旅の板屋も一里程     洒堂

 (酒機嫌旅の板屋も一里程水真白に海に出る川)

 

 板屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「板屋・板家」の解説」に、

 

 「① 板で葺いた屋根。板屋根。板葺き屋根。

  ※枕(10C終)二五六「いた屋の上にてからすの斎の生飯(さば)食ふ」

  ② 屋根を板で葺いた家。板葺きの家。

  ※続日本紀‐神亀元年(724)一一月甲子「其板屋草舎、中古遺制、難レ営易レ破」

  ※宇津保(970‐999頃)俊蔭「檜皮の大殿五、廊、渡殿、さるべきあてあてのいたやどもなど」

  ③ 能楽の作物(つくりもの)の一つ。六尺(約一・八メートル)と三尺(約〇・九メートル)の家台に、折板(へぎいた)で一部を残して屋根を葺いたもの。「雨月(うげつ)」に用いる。

  ④ 江戸時代に、板を販売した商家。また、その業者。

  ⑤ =いたやかえで(板屋楓)

  ※花壇地錦抄(1695)三「板家(イタヤ) 葉十二ひとへのごとくにて大きさ四五寸ほどもある物大木の下には雨もらざるよし」

  ⑥ 植物「はうちわかえで(羽団扇楓)」の異名。

  ⑦ 「いたやがい(板屋貝)」の略。」

 

とある。

 板葺きの粗末な宿屋が海岸にあるということか。元禄十一年の支考の『梟日記』の尾道のところに、

 

 「此日矢懸をたちて尾道におもむく。その道のかたはらにあやしき小屋の侍リ。雲鈴曰、我かつて此家に一夜をあかしつるが、能因法師のかくてもへけりとよまれし哥を、よもすがら思ひあはせ侍るといふに、げにもあさましき草のやどりなりけり。

 笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛」

 

もこうした小屋だったか。今の尾道駅の付近ではなく、一つ手前の今津宿かその少し先の松永か今の東尾道駅の辺りではなかったかと思う。

 能因法師の歌は、

 

 世の中はかくても経けり象潟の

     海士の苫屋をわが宿にして

              能因法師(後拾遺集)

 

で、「旅の板屋」は海士の苫屋をイメージしていたのかもしれない。ほろ酔い機嫌で残りの一里を行く。

 

無季。旅体。

 

六句目

 

   酒機嫌旅の板屋も一里程

 襟に押込おとがひの髭      海動

 (酒機嫌旅の板屋も一里程襟に押込おとがひの髭)

 

 旅の途中は髭剃りもままならず、芭蕉の画像もしばしば無精髭姿で描かれている。

 伸びた顎髭を隠すかのように前襟を持ち上げる。

 

無季。「襟」は衣裳。

 

七句目

 

   襟に押込おとがひの髭

 物書に慰む日あり五月雨     此筋

 (物書に慰む日あり五月雨襟に押込おとがひの髭)

 

 晴耕雨読という言葉もあるが、雨が続き、家に籠る日が続くとついつい「つれづれなるままに」ってやりたくなるものだ。ただ誰でも兼好法師みたいになれるわけではない。

 前句を翁面のような白髭の爺さんとしたのだろう。物書く時は髭が墨の上に垂れないように襟の内に仕舞う。

 

季語は「五月雨」で夏、降物。

 

八句目

 

   物書に慰む日あり五月雨

 散際ひさし南天の花       千川

 (物書に慰む日あり五月雨散際ひさし南天の花)

 

 南天は初夏に白い六弁の花を付ける。目立たない花だが、散る時も一斉に散ることがなく、「散際ひさし」になるのだろう。

 家に籠っていて物を書いていると。こういう世の人が気付かないところにも目が行く。

 

季語は「南天の花」で夏、植物、木類。

 

九句目

 

   散際ひさし南天の花

 笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛    芭蕉

 (笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛散際ひさし南天の花)

 

 草鞋掛(わらぢがけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「草鞋掛」の解説」に、

 

 「① わらじをはいていること。また、わらじをはいたままであること。遠方へ歩いて行くさまなどを表わす。わらじばき。

  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「冥途黄泉はくわらぢがけ 罪科のおもきをかへる駕子の者〈未学〉」

  ② わらじをはくときに用いる足の甲掛け。

  ※雑兵物語(1683頃)下「羽織も裁著もわらぢかけもひんぬいて」

 

とある。①は「浴衣掛け」と同じ用法であろう。浴衣の場合は浴衣を着たままくつろぐことだが、草鞋の場合は草鞋を履いたままということで、外に出歩くという意味になる。

 草鞋掛の旅人の笠を取った時の抜け毛に驚き、南天の花のゆっくりと散るのに思いを馳せる。

 

無季。旅体。

 

十句目

 

   笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛

 泪も恋にいさむ寺住       嵐蘭

 (笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛泪も恋にいさむ寺住)

 

 寺住は稚児であろう。恋に泣いたり勇んだり、顔をゆがめては前髪もゆがむ。

 

無季。恋。釈教。

初裏

十一句目

 

   泪も恋にいさむ寺住

 高館は年せんさくに成にけり   左柳

 (高館は年せんさくに成にけり泪も恋にいさむ寺住)

 

 「年せんさく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年穿鑿」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「としぜんさく」とも) 年齢をきくこと。年齢をあれこれさぐること。

  ※浮世草子・好色一代男(1682)二「仮初にもかかる一座にて、年(トシ)せんさくは用捨あるべし」

 

とある。

 高館(たかだち)は『奥の細道』に、

 

 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなた有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、巧妙一時いちじの叢となる。」

 

とある。

 中尊寺の前の小高い丘の上にありその裏は今の北上川、昔の衣川になる。ウィキペディアには「館の跡には天和3年(1683年)に仙台藩藩主伊達綱村により跡地に義経堂と義経の木像が建立された。」とある。

 義経最期の地でもあり、義経は平治元年(一一五九年)生まれで享年三十一歳とされている。ちなみにチンギス・ハンは諸説あるが、一一六二年生まれで三つ下になる。

 高館に来た義経に中尊寺の寺住が恋をして、歳は幾つだろうと穿鑿したということか。前句の「いさむ」に相手は武将という展開だろう。

 

無季。「高館」は名所。

 

十二句目

 

   高館は年せんさくに成にけり

 水風呂たてる雪の降出し     此筋

 (高館は年せんさくに成にけり水風呂たてる雪の降出し)

 

 高館は寒い所なので、雪の降る中水風呂に入る。風呂に入りながら人の年齢の噂話でもしてたのだろう。

 湯船にお湯を張る今のような風呂は江戸時代になって広まったもので、源平合戦の時代にはないが、まあそこは穿鑿しないことにしよう。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

十三句目

 

   水風呂たてる雪の降出し

 ふくさ藁取乱したるすけと鱈   海動

 (ふくさ藁取乱したるすけと鱈水風呂たてる雪の降出し)

 

 「ふくさ藁」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袱紗藁」の解説」に、

 

 「〘名〙 新年を祝賀するため、土間や庭に新しく敷く藁のこと。《季・新年》

  ※俳諧・口真似草(1656)一「ふくさ藁や年徳の神のかくれ蓑〈忠継〉」

 

とある。ここでは正月前で冬ということになる。

 スケトウダラというと今は蒲鉾かタラコだが、この頃は蒲鉾はナマズで、タラコはあまり一般的ではなかった。多分保存性の問題があったのだろう。そうなると、普通に干物にして食べていたか。正月の棒鱈はマダラだが、スケトウで作ることもあったのか。

 雪が降り出す中、干物のすけと鱈が届いて、土間に敷いたばかりの袱紗藁がとっちらかってしまったか。

 

季語は「すけと鱈」で冬。

 

十四句目

 

   ふくさ藁取乱したるすけと鱈

 傷寒病の天窓かかえる      水

 (ふくさ藁取乱したるすけと鱈傷寒病の天窓かかえる)

 

 「天窓」はここでは「あたま」と読む。普通に頭の意味。

 作者名のところに「水」とあるが、岱水か。このあと丈草の名も出て来るが、どういう経緯なのかよくわからない。

 傷寒病は高熱を出す病気で、今は腸チフスのこととされている。ただ、延宝六年の「さぞな都」の巻三十七句目、

 

   迷ひ子の母腰がぬけたか

 傷寒を人々いかにととがめしに  信章

 

の所でも述べたが、ウィキペディアに、

 

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

 

とある。そしてその治療を廻って後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した『傷寒論』の翻刻、注釈が繰り返されてきた。

 ここでも古い方の意味での傷寒だとしたら、風邪やその類似する病気一般をいう。今でいうインフルエンザなどウィルス性の風邪を指すために難病とされ、議論されてきた可能性もある。

 正月の目出度い頃に傷寒となると、やはりみんな大慌てで袱紗藁も取り乱す。

 

無季。

 

十五句目

 

   傷寒病の天窓かかえる

 伊豆の舟御崎の舟をかき入て   千川

 (伊豆の舟御崎の舟をかき入て傷寒病の天窓かかえる)

 

 御崎は三浦半島の三崎。

 傷寒病に伝染性が認識されてたとすれば、これは感染の拡大の危険があるということで一大事だ。

 

無季。「伊豆の舟御崎の舟」は名所、水辺。

 

十六句目

 

   伊豆の舟御崎の舟をかき入て

 一夜の法に宗旨定めて      芭蕉

 (伊豆の舟御崎の舟をかき入て一夜の法に宗旨定めて)

 

 港に立ち寄ってく漁師相手に布教をしていたお坊さんがいたのだろう。一夜にして宗旨替えさせるなどただものではない。伊豆法難の日蓮さんか。

 

無季。釈教。

 

十七句目

 

   一夜の法に宗旨定めて

 としどしの花にならびし友の枝  丈草

 (としどしの花にならびし友の枝一夜の法に宗旨定めて)

 

 これは花を死者として、一夜の法に宗旨を定めて弔ったということだろう。歳を取って行くと、友もまた一人、また一人と失ってゆく。

 ここでいきなり丈草が登場するが、どういうことか。

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注の前の句の所に「『金襴』は「半歌仙二句不足」とあるに記す」とあり、本来十六句で終わってた巻を千川が大垣に持ち帰った時、丈草に花の句を作ってもらい、十八句十八公として満尾の形を取った可能性もある。

 半歌仙でも問題はなかったかと思うが、八句目に「南天の花」があり、正花ではないが、花の字が二句になることを気にしたか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   としどしの花にならびし友の枝

 きしる車もせかぬ春の日     千川

 (としどしの花にならびし友の枝きしる車もせかぬ春の日)

 

 毎年植えていった桜はいつか道にたくさん並ぶようにな。きしる車はここでは水車だろうか。廻る水車は時の流れを感じさせ、春の長閑な一日も過ぎて行く。

 

季語は「春の日」で春。