アレクサンドル・ドゥーギン『政治的プラトニズムを読む』


 アレクサンドル・ドゥーギンさんの「Putin vs Putin」(英語版)には、あの日本でも有名なノストラダムスの予言が載っている。

 

 In the year 1999, in the seventh month,

 from the sky will come the great King of Terror,

 bringing back to life the great King of the Mongois.

 Before and after, Mars to reign by good fortune.

   -Michel de Nostredame (Nostradamus)

 

 Instead of the great King of Terror, on 11 August 1999 there came Putin.

   -Alexander Dugin, New Year's Speech to Arctogaia, 31 December 1999

 

 1999年7月、

 空から恐怖の大王がやってくる

 モンゴアの偉大な王を生き返らせます。

 前後、幸運によって君臨する火星。

   ─ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)

 

 偉大な恐怖の王の代わりに、1999年8月11日にプーチンが登場した。

   ─アレクサンドル・ドゥーギン、アークトガイアへの新年のスピーチ、1999年12月31日

 

 日本では人類滅亡の予言の詩が、何とロシアではプーチンの首相就任の予言として捉えられていた。アンゴルモア(モンゴア)はここではドゥーギンのユーラシア主義に結びついていると言って良いだろう。

 ユーラシア主義はアジアでもヨーロッパでもない、あいまいな概念だ。アジアというとどうしても中国が中心になるだろうし、ヨーロッパは西ヨーロッパのイメージが強い。このどちらでもない東欧から中央アジアにかけての広大な地が、ロシア人本来の領土だという意識が現れている。そこには当然ながらウクライナも含まれていた。

 「君臨する火星」はいわゆる軍神マルスの君臨で、ユーラシアの統治は軍隊の力によってなされる。

 図らずもこの時既にプーチンの侵略戦争は予言されていたわけだ。

 

 

1,哲人独裁

 

 アレクサンドル・ドゥーギンさんの「Political Platonism: The Philosophy of Politics」(英語版)をiOSやgoogleの自動翻訳の力を借りながら読んだので、その印象をちょこっと書いてみることにしよう。

 自動翻訳は時々おバカな間違いをするもので、西田哲学の「場所」を「芭蕉」と訳してたりした。そこは気を利かせて修正しなくてはならない。

 

 まず表題の通りこの本は新・プラトニズムを標榜するもので、民主主義を否定して哲人独裁を説いている。

 

 「プラトニズムは、知識、社会、宇宙の構造の根本的な統一に基づいています。 これらの領域はすべて、秩序の三つの側面です。」

 

とあるようにプラトニズムは体系であって、知識、社会、宇宙は根本的に一つの秩序を持つという信念に裏付けされている。

 周知のように人間の知識は極めて不完全なものであり、矛盾に満ちたものだ。我々の文化はそこから出発して、社会も雑然とした渾沌としたものであり、宇宙もまた人知を超えたはかりの知れない「陰陽不測」と考えられてきた。そのなかに繰り返されるパターンを見つけ出し、それを「道」と言い表してきた。

 これに対し、西洋の文化はこの秩序を言葉や論理と結びつけて、「ロゴス」として表現する。ロゴスは完全なものであり、キリスト教の流入とともに唯一神と結びつけられてきた。

 ロシアの伝統主義はこのプラトン的なロゴスの秩序に従うことを要求する。この伝統はモスクワがローマ、ビザンチウムに続く第三のローマと呼ばれたことを根拠とするもので、ローマの正当な後継者としてのモスクワのユーラシア支配を正当化するものだ。これがウクライナ侵略を正当化するものであることは、容易に理解できよう。

 それ以上に問題なのはロゴスの支配、ロゴスへの服従という考え方だ。

 「ロゴスへの服従」はハイデッガーの有名なフライブルグ大学就任演説に見られる言葉でもあり、これがハイデッガーのナチス入党とあいまって、国家への服従=ナチスへの服従となったことは、ハイデッガー哲学を知る者の間では周知のことだ。

 国家や民族への服従は後に撤回しているが、この「ロゴスへの服従」は撤回していない。これがハイデッガー哲学の闇の深さでもあり、ドゥーギンのプーチン支持にも受け継がれていると考えて間違いないだろう。

 ドゥーギンは二十世紀の「哲学の終わり」を思考した一人でもあり、その意味ではポストモダン哲学と呼ばれることもある。

 だが、ドゥーギンの場合はあくまで西ヨーロッパ哲学の終わりであり、ユーラシアに新しい哲学を再興しようという野心から、西洋の民主主義を否定してユーラシアにプラトニズムに基づく独裁帝国を作ろうという方向に向かう。

 ロシアは紛れもなく西洋文化圏であり、その西洋文化の根底となる哲学の終焉は、本来自らの文化そのものに深い反省を強いるものだったはずだ。

 実際、ロシアはインドや中国や日本やトルコなどと違って、西洋以外の文明の基盤を持っていない。そのため西洋哲学の終わりは西洋哲学の始まりの時点への回帰という形を取らざるを得ない。

 ここに近代の否定が加われば、その哲学は前近代の中世的な思考に逆戻りしてゆくことになる。

 西ヨーロッパの場合はマルクス・ガブリエルなど、一部にヨーロッパ精神の再構築が試みられて、ヘーゲル・マルクス主義の後継を担っているが、大勢は哲学の終わりを科学の勝利と捉え、意識などの古くからの哲学的問題に脳科学のメスが入るようになった。

 

 思うにロシア人には西側の文化への根強い不信感が潜んでいるのではないかと思う。それは冷戦よりももっと古く、ナポレオン戦争にまで遡れるのではないかと思う。何しろ高らかに人権宣言をした国が最初にやったのがロシア侵略だったからだ。人権思想の持つ欺瞞に早くから気付いていたとしてもおかしくない。

 人権思想は確かに根本的な矛盾を抱えて誕生した。有限な国土は増え続ける人口のすべてを養うことはできない。そのため前近代社会は基本的に生存権に優先順位を付けざるを得なかった。その掟が乱れれば親子兄弟でも血で血を洗う争いになる。そのため、神や天の名において守られなくてはならなかった。

 人権思想はこの優先順位を否定するが、国土の有限と増え続ける人口の問題を何一つ解決したわけではない。そのため人権思想は飢餓か侵略かの二者択一を迫られることになる。西洋社会は地球規模での植民地争奪戦を展開することで、この問題に目をつぶって来た。まあ、日本も明治維新とともにその一角に加わった共犯者だが。

 ただ、後続の国が欧米や日本を追いかけて経済成長しようとするとき、過度な人権思想はその足枷になる。もはや国境の変更の許されない国際社会で、侵略戦争で農地を獲得するという一時的な飢餓の解消は許されず、国内の新たな農地の開墾すら森林や野生生物保護が壁になる。

 イギリスはかつて二度のエンクロージャーで国土の大半の森林を失ったが、同じことは今のフロンティアには許されていない。その徹底した森林破壊から生まれた自然保護思想が、今のフロンティアを縛り付けている。

 またかつて植民地化された多くの国では、民族固有の領土と無関係に宗主国の都合で国境が引かれ、さらにはロヒンギャのように勝手に移動させられた民族もいる。そうなると、かつての植民地は独立後に深刻な民族問題を抱えることになった。人口問題の解決に外への侵略という手段を奪われた以上、内なる少数民族に向けられることになる。当然ながら人権思想はそれを許さない。

 こうした新興国やフロンティアの不満を利用しているのが中国とロシアの二つの国連常任理事国だ。中国は西洋の人権思想を逆手にとってうまいこと利用しているが、ロシアにはそうした器用さが足りなかった。それが侵略戦争につながったのだろう。

 

 

2,ロゴスへの服従

 

 ドゥーギンは哲学の死とともに西洋近代を否定しようとするが、ロシアはもとより西洋文化圏で、西洋近代を否定した所で中国やインドや日本やトルコのような別の文明の基盤を持っているわけではない。

 そういう意味では西洋近代の否定は近代化前の西洋への回帰とならざるを得ない。それがプラトンの哲人独裁であり、東ローマの継承としての正教だった。

 哲人独裁は特権的なロゴスの支配であり、そのロゴスの特権は、イデアの光りであることろに基づいている。

 以下、ドゥーギンはこの光についてヘラクレイトスに求めることになるが、基本的にはハイデッガーの一九五一年の『ロゴス』に依存している。それはヘラクレイトスの、断片50と呼ばれるものについての解釈で、以下のものをいう。

 

 oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ τοῦ Λόγου ὰκούσαντας

 όμολογεῖν σοφόν ἐστιν Ἓν Πάντα.

 

 ハイデッガーが一般的なドイツ語訳として引用しているスネル訳の、宇都宮芳明訳の日本語では、

 

 おまえたちが、私にではなく、理義ジン〔ロゴス〕に聞いて、

 同じ理義〔ロゴス〕で、〈全ては一である〉と言うのが賢いことだ。

  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.6)

 

となる。

 ちなみに、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、

 

 「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであるということを認めるのが、智というものだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)

 

となっている。出典はヒッポリュトス(169頃~235)の『全異教徒駁論』だという。

 ドゥーギンの「Political Platonism: The Philosophy of Politics」(英語版)では、この断片は、

 

 Listening not to me but to the logos, all is one.

 私ではなく、ロゴスに耳を傾ければ、すべては一つです。(google訳)

 

となっている。

 ハイデッガーはロゴスの動詞形レゲイン(λέγειν)を、ドイツ語のlegen、つまり〈下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen〉に結び付けて考える。ギリシャ語とドイツ語とでは系統がちがうのだが、この二つの語は単なる偶然の音の一致ではなく、ラテン語のレゲレ(legere)を経由して、結びついているものだという。

 そのため、「すべては一つ」はロゴスのもとに下に置かれる、支配されるというニュアンスを持つ。それがあの悪名高いフライブルグ大学学長就任演説での「ロゴスへの服従」につながる。それは民族精神としての国家の理想に従うことを意味し、具体的には当時台頭していたナチスへの服従を意味していた。

 プラトンの哲人独裁の理想も同じように、ロゴスの支配によってすべてが統一されると考えていいだろう。

 ドゥーギンはここで哲学の終わりを西洋近代の形而上学の大伽藍の崩壊をイメージしているのだろう。

 ハイデッガーはこうした「すべては一つ」の世界を整然と体系化した知識体系ではなく、一即多のただ存在するものがあるがままにそこに横たわっている状態、と解釈する。これは或る種の神秘体験を想像させる。日本人にはおなじみの梵我一如の悟りの境地だ。

 アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著の『脳はいかにして<神>を見るか』(2003、PHP研究所)によれば、瞑想によって深い宗教的境地に達した時、上頭頂葉後部の方向定位連合野の活動が低下し、前頭前野の注意連合野の活動は逆に増大するという。

 これによって、自己と外界との区別が曖昧になりながらも、強い集中力で外界に接している状態が生れる。これによって、自他不二の宇宙と一体化したような意識が生れるという。

 おそらく、脳科学的には、こうした神秘体験は一つの脳の状態として説明可能なものであろう。

 こうした体験の中での世界は、物事があるがままに現れる「花は紅柳は緑」の状態になる。ハイデッガーはこうしたあるがままの状態を古代ギリシャのアレーテイアの概念に結び付け、そこで「覆われてない」という独自の解釈を行う。

 

 「Ἀληθείηとλόγοςは、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.28)

 

 ハイデッガーはここでアレーテイア(Ἀληθείη)をἈ-Λήθειη(隠れ=なさ)と解釈する。Λήθη(レーテー)は隠すことをいい、それに否定の接頭語をつけたのがἈληθείη(アレーテイア)だという。

 それは沈黙のロゴス、声なき声であり、そこから真理の本質は形而上学の壮大な体系の中にあるのではなく、むしろ沈黙の何にも拘束されない自由の内に見出す。そこから「真理の本質は自由である」を導き出す。この自由は『存在と時間』で展開された現存在の「開示性」の「開かれている」「障害物のない状態」を引き継いでいる。

 この現存在の開示性を『存在と時間』では、ハイデッガーは森の間伐の比喩で説明する。

 『存在と時間』第一部第一篇第五章第28節には、こうある。

 

 Die ontish bildlich Rede vom lumen naturale im Menschen meint nichts anderes als die existenzial-ontologishe Struktur dieses Seienden, daß es ist in der Weise, sein Da zu sein. Es ist »erleuchtet«, besagt: an ihm selbst als In-der-Weltsein gelichtet, nicht durch ein anderes Seiendes, sondern so, daß es selbst die Lichtung ist. ("Sein und Zeit"p.133)

 

 「人間の内なる自然の光という存在的で比喩的な言葉は、この存在者がそのありうべき現という仕方で存在しているという実存論的かつ存在論的構造のことにほかならない。それが「明るく」されているということは、この存在者自身が「この世にいる(世界内存在)」という形で木が伐りはらわれ、光が射し込んでいるということをいうのであり、それも他の存在者によってそうなっているのではなく、この存在者自身が森の空き地なのである、ということをいうのである。」

 

 一般的にはgelichtetは「明るくされ」と訳され、その次のLichtungは「明るみ」と訳されている。しかし、ドイツ語の辞書を引いてみればわかるとおり、lichtenは森の余分な木を間引くこと、間伐することを言い、Lichtungは間伐によってできた空き地のことをいう。

 それをハイデッガーは自然の光(lumen naturale)によって明るくされている(erleuchtet)というのがどういうことかを説明する文脈にこのlichten、Lichtungという単語を持ってくることで、森の木が伐り払われて光が射し込み、明るくなるという両方の意味をもたせている。

 これをドゥーギンはロゴスの光に対して、森の暗がりをロゴスに対するカオスの闇(英語でdark)とする。そして、ギリシャ神話の光りのアポロに闇のディオニソスを対比させる。

 この光は既にハイデッガーによって、ヘラクレイトスの以下の断片に結び付けられている。

 

 「ヘラクレイトスは言う(断片六四)、Τά δέ Πάντα οἰακίζει Κεραυνός.≪ところで、(現前するものの)全てを(現前することへと)舵を取るのは、雷光である。≫」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.30)

 

 ロゴスの光りは稲妻であり、それによって闇が一瞬明るくなる。このイメージだと昼の間は輝き続ける太陽のイメージとはずいぶん違ってくる。真理は一瞬閃いてあっという間に消えてゆく。真理のロゴスを留めることの困難の方がより強調されることになる。

 アレーテイアは一瞬の閃きであり、その閃きは稲妻によってもたらされる。稲妻が去れば辺りは再び闇に包まれる。

 これに対し西洋形而上学の歴史はロゴスの光りを壮大な学問の体系として組織化し、それを権力の根底に置いた。ドゥーギンはここに光でも闇でもないもう一つの属性を付け加えた世界観を設定する。それが英語版だとBlack(黒)だ。暗黒と訳してもいいかもしれない。

 光の守護神がアポロンで闇の守護神がディオニソスであるように、この暗黒にも守護神が設定されている。それがキュベレという女神になる。

 キュベレはウィキペディアによると、

 

 「ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。 女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテスと呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。」

 

とあり、乱交と去勢のイメージを伴っている。確かに或る意味今の西洋文明を象徴しているかもしれない。レイブパーティーを彷彿させる。

 ここにはおそらくロシアがアポロンとディオニソスの男の文化なのに対し、西洋をおかま文化として貶める意図が感じられる。

 アポロンを理性として、それにディオニソスを情動(エモ)を対立させるのは、ニーチェの『悲劇の誕生』に由来する。これに対しキュベレは、

 

 Initially I thought that two Logoi, i.e. two types of rationality, would be enough for the basic model of the plurality of structures of consciousness. But the more I studied the dualism of Apollo/Dionysus, the exclusive/inclusive, I came to the conclusion, empirically and phenomenologically, that this pair does not cover all types of rationality and that another absolutely distinct fundamental structure could was detected: the Logos of Cybele, So Dionysus transformed from the black Logos to the dark Logos; his secret color was discovered against the backdrop of Cybele's darkness. That is how I came to the idea of three Logoi, on which Noomachy is based.

 

 「当初、私は意識の複数構造の基本モデルとして、2つのロゴイ、つまり 2種類の合理性で十分であると考えていました。しかし、アポロ/ディオニュソスの排他的/包括的二元論を研究すればするほど、経験的にも現象学的にも、このペアはすべてのタイプの合理性をカバーするわけではなく、別の絶対的に異なる基本構造が検出される可能性があるという結論に達しました: ロゴスシベレのディオニュソスは、黒いロゴスから暗いロゴスに変身した。彼の秘密の色は、シベレの闇を背景に発見されました.そこで、Noomachyのベースとなる3つのロゴイを思いつきました。」(google訳)

 

と言う。

 ロゴイはロゴスの複数形で、日本語なら「2つのロゴス」で十分。シベレはキュベレのこと。

 これはディオニソスは本来暗黒だったが、アポロの光の閃きによって、光に対しての相対的な闇になったと考えていいのではないかと思う。これに対し暗黒のまま残ったロゴスがある、それが西洋近代のロゴスだということになる。おそらくこれはハイデッガーの言う「存在忘却」に結びつけられているのだろう。

 ロシアの文化は闇が深く、それによって闇と光の対比が守られているが、西洋は光の根源としての闇を忘れてしまったため、暗黒面に落ちたということになる。確かに西洋哲学には精神と肉欲はあってもその中間の感情に関しては疎い。性欲とそれを制御する理性はあっても恋が存在しない。機械的な欲望と理性との二元論によって成り立っている。それをディオニソス的なものとして開放しようとしたのがニーチェだったとも言える。

 余談だが「エモ」という言葉は本来西洋の音楽で情動の解放から生まれた概念だが、日本では伝統的な「もののあわれ」に近い意味で用いられている。「エモい」の意味のよくわからない昭和人は「ディオニソス的」でOKなのではないかと思う。

 暗黒はいわば理性を持つ前の暗黒であり動物的なものだが、西洋では動物性は機械論的に説明されてきた。つまり機械論的に解釈された身体とそれを表象し制御する理性というのが西洋哲学の基本的な発想で、これは最近のアンディ・クラークにも受け継がれている。

 このこと自体は西洋哲学の欠陥だが、それを安易な情動の開放によって克服しようとしても、おおかた西洋対東洋のありきたりな対立図式に押し込められ、それが侵略思想と結びつきやすい。それは日本も経験したことだし今の中国でも起きている。

 そこでドゥーギンはNoomachyという日本語では名状しがたい概念を提起することになる。Noomachyはヌースの戦い(machy)を意味する。

 ヌースはウィキペディアには、

 

 「ヌース(ヌウス、希: νους, nous)は、知性、理性、精神、魂などを意味するギリシャ語。

 アナクサゴラスは世界はヌースが支配しており、人間はヌースを把握することができると考えた。また、プロティノスは万物は一者から流出したヌースの働きによるとした。ストア派においては、ロゴスとほぼ同義で用いられる。

 イマヌエル・カントの哲学においては、この語から派生した「ヌーメノン」(noumenon, 考えられたもの)という語が、「物自体」と同義で用いられる。」

 

とある。物事の根底に仮定される、現象として知覚できないスピリチュアルな概念と思われる。ヨーロッパとロシア(ユーラシア主義)との戦闘もここに根拠を持つと思われる。

 おそらくこうしたスピリチュアルな議論をする目的は、光と闇による精神の優越性を説くのと同時に、存在忘却を根拠として西洋近代を暗黒への後退として貶めようというものであろう。その物質文明をあたかも人間から動物への後退であるかのように。

 ただ、こうした議論は科学の不当な軽視であり、科学を神秘主義に置き換えようとしているだけのものだ。これによってロシアのユーラシア主義は科学と経済を失うことになる。そして、中国、日本、インド、トルコなどの西洋科学を受け入れた国々からも、最終的には見放されることになるだろう。

 残念なことに、それを失ってでも精神を取り戻すのだという所に今回の戦争が正当化されてしまった。

 西洋の人権思想には確かに限界がある。それは人口論を欠いているからだ。

 地球は有限であり、無限の人口を養うことはできない。

 科学の恩恵があり、グローバル経済を受け入れて、より高い生産性を目指すなら、地球の定員をその分だけ増やすことは可能だ。我々は多少の人権を犠牲にしても、高い生産性を獲得できるなら、結果的には限られた大地の恵みを奪い合わずに済むことになる。

 人権思想の完全な遂行は、今の欧米や日本にとっても生産性向上の足枷になる。その事情は新興国やフロンティアでも同じだ。むしろ既に十分な豊かさを獲得した欧米や日本以上に大きな足枷になる。

 経済成長をさせようにも、もはや過去の欧米や日本のような植民地獲得や新大陸の征服などの侵略行為によって解消することが許されなくなっている。それは先行した国の「やったもん勝ち」だった。新興国やフロンティアにそれを真似できない不満が溜まっているのは理解できる。ロシアがそれに反発するのも同様だ。

 ただ、だからと言って西洋近代を根底から否定するやり方では、生産性向上どころか、生産性を前近代レベルにまで引き戻す危険がある。こうして国土の養える定員が減れば、より大規模で残虐なジェノサイドによって人口を調節せざるを得なくなる。だから、ロシアはこの選択をすべきではなかった。

 この批判は欧米や日本の資本主義否定論者にも当然当てはまる。自然に帰れなんて幻想は飢餓と粛清しか生まない。

 人権思想は人口論を考慮しながらその限界を認めなくてはならない。それと同時に人権の問題は日本人なら人情の問題として戦いを継続することは可能だ。権力による一律な法的解決ではなく、個々の生存の取引の問題として、ドゥーギンの言葉を借りるならナロッドの問題として処理することが可能だ。

 公権力の暴力装置による統制ではない、民間の一人一人が自分の身の回りから作って行く人情による人権が重要だ。

 さて、次はそのナロッドについてのドゥーギンの説を見ていくことにしよう。

 

 

3,ナロッド村

 

 日本の左翼の革命至上主義も、基本的には西洋コンプレックスから来るものなんだと思う。

 マルクスが社会主義革命を予言し、それが歴史の終局とされたことで、非西洋圏の人達でも西洋に先立っていち早く社会主義革命を起こせば西洋を追い抜ける、という思いがあったんだと思う。

 ロシア人は社会主義革命を起こしたが、結局それが失敗に終わった。だから今度はポストモダンを持ち出して、ハイデッガーの予言した西洋社会のダス・マンに頽落した社会に対して本来的現存在のフォルク(村社会)を実現しようと、西洋社会の破壊に踏み切ったのかもしれない。

 ただ、ドゥーギンはこのフォルクをナロッドと呼び、ロシア的なそれは基本的に西洋的なプラトン的ロゴスとロシア正教に服従する哲人独裁の共同体にすぎなかった。ロシア人は我々のような独自文化の共同体を持たないため、ダス・マンへの頽落を生み出す近代的ゲゼルシャフトから逃れようとするときに、中世的な共同体への回帰しか思いつかなかったようだ。

 我々からすれば異世界のような、光と闇と暗黒の属性の論理による哲人(異世界的には賢者)の独裁を呼び戻し、残虐な戦争を日常とする世界に退行させようとしている。ウクライナ戦争はリアル異世界との衝突がもたらしたリアル・ジェノサイドというわけだ。

 

 ハイデッガーの現存在(Dasein)は戦後の実存主義者は人間存在と同義で扱ってきた。それはむしろサルトルの側から解釈したもので、道具存在でも事物存在でもない人間存在という意味で用いてきた。

 人間存在という用語は戦前から既に和辻哲郎が用いてきて、そこには人と人との間の存在という意味を持っていた。この考え方は戦後の廣松渉の共同主観に受け継がれている。

 実存主義者は現存在を「その都度私の物である」(Sein und Zeit"p.42)という『存在と時間』の規定から、個人的なものとして解釈してきた。他の誰のものでもないたった一人の人間としての現存在は社会に対立するものであり、それは「死への存在」が誰にも取って代わることのできない自分自身の死であることとともに、孤立の実存と解釈されてきた。

 ただ、ハイデッガーは大きく理論を展開することもなかったが、本来的現存在の共同体としてのフォルク(Volk)への言及があり、ドゥーギンはそこに着目する。

 

 Heidegger says:

 

 Selbst is not exclusively a determination of the ego, 'I' (ich). That si the fundmental error of modernity. Selbst is not determined from the ego, 'I' (ich). On the contrary, the Selbst-dharacter is also inherent in 'you [singular].' 'we,' and 'you [plural].' Selbst is mysterious in some new sense. The Selbst-character does not belong exclusively only to 'you,' 'me,' 'us,' but to all equally in a primordial way.

 

 「ハイデガーは次のように述べています。

 

 自分(Selbst)は、自我「私(ich)」 の決定だけではありません。それは近代の根本的な誤りです。自分は自我「私(ich) 」からは決定されません。それどころか、「あなた[単数形]」にも自分性が内在している。「私たち」と「あなたたち[複数形]」。自分は新しい意味で神秘的です。自分性は、「あなた」、「私」、「私たち」だけに排他的に属するのではなく、原始的な方法で等しくすべてに属します。」

 

 自分という日本語は集団の中での分け持った部分というニュアンスがあり、そこには社会の中での与えられた分限があり、他人にも同様の自分と異なる分限があることを含んでいる。

 そのため自分は他人と同じではない。他人と区別されて自分になる。だが、自分と他人はそれぞれの役割の違いで分かたれているため、そのまま社会的存在になる。

 ハイデッガーの場合は「現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。」(Sein und Zeit"p.42)というところから自分自身であるという意味でこのSelbstを用いているのかもしれない。

 ただ、ここではそれは自我によっては決定されない、他の何かから規定されていることが仄めかされている。それは何らかの共同体でありVolkをイメージしていると考えられる。

 ドゥーギンは言う。

 

 Selbst thus precedes both the singular and the collective, being a common basis for both. So we can very well set ourselves the task of studying the Selbst of society That entails an entirely peculiar approach to it.

 Such a society will be an existential society, and Heidegger uses a special world precisely for society understood in that way: Volk.

 

 「したがって、自分(Selbst)は単数形と集合形の両方に先行し、両方の共通の基盤となっています。ですから、私たちは、社会の自分(Selbst)について研究するという課題をうまく設定することができます。それには、社会に対するまったく独特のアプローチが必要です。

 そのような社会は実存論的な社会であり、ハイデガーはVolkというそのように理解された社会のために、まさに特別な世界を用いています。」

 

 このフォーク(ドゥーギンはナロッドと呼ぶ)は憂慮(Solge)と死への存在である本来的な現存在の社会になる。それは存在を忘却してない者の社会ということを意味する。これがどういうことなのかは難しいが、原因結果だとか手段目的だとか、そういうカント的な理性によって表現される世界ではなく、よりメンタルに、よりエモーショナルに表現される世界であり、そこにおいて存在の意味やロゴスの価値が再定義可能な世界ということになる。

 ゾルゲや死への存在はまさに今の言葉で言えば「エモ」に近い。ドゥーギンはそれをディオニソス的な「闇」と呼んだ。

 このあとそれを西洋の社会(ゲゼルシャフト)と対比してドゥーギンはこう言う。

 

 We see clearly here the unity of the philosophical and sociological conception of Dasein. Heidegger describes the fate of Western Dasein as the gradual cooling-off of the question of being, as the forgetting of being, but the decision (Entscheidung) to remember being (Sein) or to forget it, to think about it or to focus on beings (Seiende), is made always and only by Dasein itself.

 

 「ここに、現存在の哲学的および社会学的概念の統一がはっきりと見られます。ハイデッガーは、西洋の現存在の運命を、存在の問題の漸進的な冷却、存在の忘却として説明しているが、存在を思い出すか、それを忘れるか、それについて考えるか、それに集中するかの決定 (Entscheidung) として説明しているような存在者は、常に現存在自身によってのみ作られています。」

 

 これは作られる(made)というよりは存在を思い出すことも忘れることも可能な存在者のことを現存在と定義していると言って良い。そして存在忘却の歴史をここでドゥーギンが「西洋の現存在(Western Dasein)」と限定していることに注意する必要がある。存在忘却、ダス・マンへの頽落を西洋社会の固有の現象として捉えている。

 確かにこう考えると、我が国の和辻哲郎がなぜハイデッガーの言う本来性・非本来性が逆だと考えたか理解しやすくなる。

 つまり日本の村社会(Volk)は元から西洋のゲゼルシャフトとは異なっているから、日本の社会はそのまま本来的で、西洋的な社会が非本来的と考えるのは自然なことだった。

 人間が組織の歯車となって、打算的で計算的に扱われ、和辻はむしろそうした社会を「個人」の私欲によって成り立つ社会と捉えていた。

 日本的共同体は本来互いを気遣い(solgen)、そして葬儀などを執り行い、死への存在を共有する。特に「死への存在」は仏教の教えが絶えずそれを意識させる。その結びつきはメンタルでもありエモーショナルでもある。そこに理性は支配していない。

 日本人はキリスト教のような永遠の命を信じていないし求めてすらいない。イワナガヒメではなくコノハナサクヤヒメを妻として選んだ時から、短い限りある人生を受け入れて生きている。

 しかし、ロシアにその文化的伝統はなく、あるのは西洋と同じキリスト教だった。カトリックか正教かの違いはあれ、永遠の命の存在を前提としている。

 死への存在は永遠の命の希求であり、その永遠の命を与えるものとしての神のロゴスが支配している。

 結局ドゥーギンはこうした伝統の中でいかにしてディオニソス的な闇属性を取り戻すかという難問に突き当たってしまうことになる。そこで混沌(カオス)の再定義へと向かうことになる。

 

 

4,混沌の哲学

 

 西洋におけるカオス(混沌)は、いわゆる「カオス理論」という場合のように、論理的でありながらより複雑なシステムを意味したりする。ドゥーギンは言う。

 

 This "chaos" isn't the Greek Chaos at all, but the product of the dispersion and collapse of Logos. We still have not left the limits of the Logos: the Chaos that contemporary science deals with is enclose within Logos, splashing around in its inner expanses, although in the furthest orbit. 

 

 「この『カオス』はギリシャのカオスではなく、ロゴスの分散と崩壊の産物です。私たちはまだロゴスの限界を離れていません。現代科学が扱うカオスはロゴスの中に閉じ込められており、最も遠い軌道ではあるが、その内側の広がりで飛び散っています。」

 

 これに対して、本来のカオスはロゴス(論理、理性、言葉)になる前の、ロゴスを生じさせている世界で、東アジアの老子が「混沌は万物の母也」という時の混沌も基本的には万物を生み出すものとして、その中にロゴスも含むものとしての混沌を意味する。

 

 True Chaos is pre-logical and pre-ontological. 

 

 「真のカオスはは前論理的で前存在論的です。」

 

 ロゴスの側から、それで決定できないものをカオスと呼ぶのではなく、ロゴスはカオスから生まれてくる。

 東アジアでも混沌を世界の根底に据えながらも、老徒は理の限界を知るがゆえに無為自然の道を学べと説き、朱熹は混沌の中になおかつ支配原理としての「理」を見出す。

 西洋の哲学史だと、それはプラトンやアリストテレスの存在忘却以前にまで遡ることになる。ただ、それだと、「政治的プラトニズム」もまた、そのよって立つ根拠を失うことにならないか。あるいは混沌の中からプラトニズムをふたたび構築しようというのだろうか。

 ロゴスとカオスの関係をドゥーギンは魚と水の比喩で最後に語る。

 

 Logos can be thought of as a fish swimming in the waters of Chaos. Without this water, discarded on the surface, a fish will die. That, in effect, is how the structures of Logos have "died." We are dealing only with its disspative vestiges, the bones of the fish discarded on the shore, and it is no accident that many are dpeaking about the symbolism of the new water of Aquarius, without which the old fish could not live.

 

 「ロゴスは混沌の海を泳ぐ魚と考えることができます。 水面上に浮かび上がり水がなければ、魚は死んでしまいます。事実上、ロゴスの構築物が「死んだ」のはそのせいです。私たちは、岸に打ち上げられた魚の骨という、その散逸した痕跡だけを扱っており、古い魚がそれなしでは生きられなかった水瓶座の新しい水の象徴について多くの人が話しているのは偶然ではありません。」

 

 二十一世紀はそれまでのうお座の時代からみずがめ座の時代への移行期だということは、日本でも占星術の方で話題になっている。これを一つの大きな時代の変わり目として象徴的に論じられつこともある。

 ドゥーギンは魚(ロゴス)座の時代から水(カオス)の時代へというふうに、この占星術の比喩をもって語っている。

 ロゴスは混沌の海に支えられてこそ生きられるもので、今の西洋的ロゴスは水面に打ち上げられて死のうとしている。いわゆるポストモダンの哲学はその波打ち際に打ち上げられたロゴスの残骸を論じているというわけだ。

 ここでは老子的な無為自然への回帰ではなく、混沌の力によってロゴスが支えられる時代を想定していて、そこに政治的プラトニズムと正教の独裁を見出す。そのやり方は朱子学の方に近く、朱子学もまた天子を中心として独裁体制を根拠づけている。

 朱子学の方法はある意味実証的で、歴史上繰り返されてきたパターンに不易の理を読み取り、それを政治の基礎とする。それはある意味で政治的実証主義とも言えよう。うまくいった政治を学び、うまくいかなかった政治を捨てる。そこには西洋的な科学的論理による人工的な体系はない。経験的体系の集積と言った方が良い。

 経験の重視ということで(それを格物窮理と呼ぶ)この朱子の政治哲学が一番生きているのは、自覚はないが案外日本かもしれない。韓国や中国は残念ながら原理原則が先行して、中国は西洋の社会主義、韓国はリベラリズムといったロゴスを偏重する方向に向かってしまった。

 朱子学のこうした性質は芭蕉の俳諧の理論にも表れている。古典を学びそれが現代人をも感動させるなら、それは不易であり、何度でも反復されてはくり返し人々に感動を与える。心は同じでも、その都度時代の変化に応じた新しい言葉、新しい生活スタイルで更新されてゆく。ここに不易と流行との調和が生まれる。

 ドゥーギンが果たしてそこまでたどり着けるのかは今の時点ではわからない。もしその地点までたどり着いたなら、おそらく政治的プラトニズムは破棄されるだろうし、侵略戦争を支持したりもしなくなるであろう。民主主義は少なくとも経済の発展という点では成功した一つの前例になっていて、あえて哲人独裁を選ぶ必要はない。

 

 Chaos is not simply no "old," it is always "new," because eternity is always new; the eternity (l'eternite) that Rimbaud found (a retrouve), C'est la mer allee avec le soleil.

 

 「混沌は単に『古い』ものではなく、常に『新しい』ものです。なぜなら、永遠は常に新しいからです。ランボーが見つけた永遠 (l'eternite) (また見つかった)、C'est la mer allee avec le soleilを参照。

 

 このランボーの詩は一八七二年五月という日付の草稿「 L’éternité」によるもので、『地獄の季節』では、

 

 C'est la mer mêlée

   Au soleil.

 

の形になっている。

 混沌は常に新しく、止まることを知らない。それは不易であると同時に流行する。

 最後にドゥーギンはこう締めくくる。

 

 After all, our task is the construction of the philosophy of Chaos.

 

 「結局のところ、私たちの仕事はカオスの哲学を構築することです。」

 

 この哲学は西洋のこれまでのどんな哲学とも違ったものにならなくてはならない。それが本当にプラトンの哲人政治と正教の支配する世界なのか。我々日本人はもっと別のものを持っている。いつかこの独裁政治とユーラシア主義の侵略思想を捨てて、我々の仲間になってくれることを祈る。日本も敗戦から多くのことを学んだ。次はロシアの番だと思う。