芭蕉発句集五

     ──上方滞在期(膳所木曽塚無名庵以降)──

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

 

上方滞在期(無名庵以降)

 

 名月や(ちご)たち並ぶ堂の(えん)

 

 元禄3年の十五夜の月見会大勢の膳所の人を集めて木曽塚で行った。

 木曾義仲の塚の横の監視小屋は立派な庵に建て直されて、周りも寺院にすべくお堂が建てられていた。

 こんな名月の夜には、お堂の縁側に美しい稚児が立ち並んでくれたらいいな。

 

 

 名月や海にむかへば(なな)小町(こまち)

 

 元禄3年の十五夜の月見会は大勢の膳所の人が集まり、木曽塚で行った。

 木曾義仲の塚の横の仮小屋は立派な庵に建て直され、周りも寺院にすべくお堂が建てられていた。

 琵琶湖の方を向くと目の前に東海道があり、人通りも多く、女性も若い女から老婆まで様々行き交う。

 

 

 月見する座にうつくしき(かほ)もなし

 

 元禄3年の十五夜の月見会は大勢の膳所の人を集めて木曽塚で行った。

 木曾義仲の塚の横の監視小屋は立派な庵に建て直されて、周りも寺院にすべくお堂が建てられていた。

 立派なお堂なので、

 

 名月や稚児立ち並ぶ堂の縁

 名月や海にむかへば七小町

 

と作ったみたが、周りの面々を見て次の句に治定した。

 あとで(しょう)(はく)と両吟を巻いたが君のことではないよ。

 

 

 月しろや(ひざ)に手を(おく)宵の宿(やど)

 

 元禄3年の中秋の名月は木曽塚で月見会をやり、その少し後だったか、初めて正秀の家で興行をした。

 暗くなって月が上るのを座って待ってたから、居待ち月だったのかな。ようやく東の空が白んで月しろが見えてきた。

 十五夜を過ぎてて、暗くなると東の空がまだ昇らない月の光に白くなる。

 正秀は膳所藩士で代々正秀を名乗っていて、この名前に誇りを持っているのだろう。寛文の頃は自分もそうだが、名乗りをそのまま俳号にする人が多かったが、今時珍しい。

 いつも裁着袴を穿いてる。

 正秀の脇は、

 

 萩しらけたるひじり行燈

 

で、月が昇れば萩を見るのに外の行燈は不要でしょうか。

 

 

 白髪(しらが)ぬく枕の下やきり/″\す

 

 元禄3年の秋に木曽塚に大阪から之道が訪ねて来た時に、珍碩と半歌仙を巻いたその発句。

 まだ寝るともなしに何となく白髪なんか抜いたりしてると床下からコオロギの声がする。秋の夜のあるあるを狙ってみた。

 

 

 桐の木にうづら(なく)なる塀の内

 

 元禄3年秋の句で最初は、

 

 木ざはしやうづら鳴なる坪の内

 

だった。木になったまま甘くなる柿が中庭にあるという句だったが、それを聞いた珍碵が興行で、

 

 木ざはしや鞠のかかりの見ゆる家

 

と蹴鞠の句で木ざはしを出してしまった。

 仕方なく桐の木の塀の内に変えた

 

 

 稲妻にさとらぬ人の(たふと)さよ

 

 「なま禅なま仏是魔界」とどこかの偉い坊さんが言ってたっけ。

 電光石火の悟りとかいうけど、頓悟はその時は良いが、後から変な思想に走って駄目になることも多い。

 日頃の勉学の積み重ねが大事なのは俳諧も同じこと。

 最近入門した盤子とやらも、閃きだけで終わらなければいいが。

 

 

 草の戸をしれや()(たで)に唐がらし

 

 元禄3年の秋、幻住庵にいた頃もひっきりなしに人が訪ねて来て閑寂というわけにもいかず、今度の木曽塚の新しい庵は街道にも近く、余計人が訪ねて来る。

 草庵は静かに暮らすもので、蓼食う虫も好き好きというように、穂蓼の南蛮味噌で一人飯食うような‥

 そういえば誰か「我は蓼食う蛍」と言ってたな。

 

 

 (びゃう)(がん)の夜さむに(おち)て旅ね哉

 

 元禄3年の9月にまた持病が出たのか、熱が上がったり下がったりするので、木曽塚から堅田へ行ってそこの医者のもとでしばらく療養した。

 一所不住の渡り鳥はいつも旅寝してるけど、それがまた病気で旅寝するなんて。

 同じ頃に、

 

 海士(あま)の屋は小海老にまじるいとど哉

 

の句も詠んだが、こっちはあるあるネタ。琵琶湖ではスジエビ漁の時期だった。

 どっちが優れているかではなく、全く性格の違う句で比較はできないということに気づいて欲しかった。

 

 

 海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉

 

 琵琶湖ではスジエビという小さなエビが名産で、冬に最盛期を迎える。

 今は秋の終わりだが、この時期だと獲れたエビに混じってカマドウマがいたりする。

 

 

 雁聞(かりきき)(みやこ)の秋におもむかむ

 

 元禄3年の9月、持病が悪化して堅田の木沅という医者に診てもらった。

 良くなったので、25日には木曽塚に戻って、菅沼外記の弟にこのことを手紙で知らせ、これから京へ行く旨を伝えた。

 

 

 (あさ)(ちゃ)のむ僧しづかさよ菊の霜

 

 元禄3年の9月の終わり頃、体調を崩して堅田の医者の所で療養してた時の句で、これは堅田祥瑞寺に泊まった時の句。

 目が覚めると、庭の菊には霜が降りていて、お寺も静まりかえっている。

 僧も特にすることもなく、朝からゆっくりとお茶を飲んでいた。

 

 

 初霜や菊(ひや)(そむ)る腰の綿

 

 加生の奥方のおとめさんから重陽の節句のお祝いにいくつか物を貰ったが、中でも綿入れの 腰当てはこれからの季節にありがたい。

 

 

 しぐるゝや田の新株(あらかぶ)の黒むほど

 

 元禄3年、近江から御斎峠を越えて伊賀に帰った時の句。

 時雨の季節は稲刈りが終わった後の稲の切株できていて、時雨の雨が泥をはね上げて黒くなる。

 

 

 きり/″\すわすれ()(なく)火燵哉

 

 元禄3年の10月、伊賀の松本氷固の家での興行の発句。

 火燵で温まれば弱ってしまったコオロギでさえまた鳴き出すんじゃないかな。

 そういうわけで寒さに負けずに句を付けていきましょう。

 

 

 こがらしや頬腫(ほほばれ)痛む人の顔

 

 頰腫れは頬が腫れて狂言の乙御前のようになる病気で、熱と痛みを伴う。

 木枯らしが頬を吹き付けると寒いというよりも痛くて、まるで頬腫れが痛むみたいだ。

 

註、乙御前はおかめやお多福の原型とされている。

 

 

 雪ちるや穂屋(ほや)(すすき)(かり)残し

 

 姨捨山からの帰りだったか、ススキの中の道を通った時、信州のこのススキは穂屋祭の時に刈り取られなかったススキなんだろうな、と思った。

 今は穂が風に舞って、やがてここが雪景色になる姿が目に浮かぶ。

 

 

 はつ雪や(ひじり)小僧の笈の色

 

 ひじりは遊行の乞食僧で、小僧も連れて、背中に背負った大きな四角い木箱にも雪が積もっている。

 

 

 霜の後撫子(なでしこ)さける火桶哉

 

 夫木抄に、

 

 霜さゆるあしたの原の冬枯れに

    ひと花咲ける大和撫子

          藤原定家

 霜枯れの草の茂みにかくろへて

    ひと花残る女郎花かな

          藤原為家

 

の歌があった。

 本当に冬に咲くのかと思ってたけど、撫子は意外に寒さに強く、火桶の脇に置いてたら咲くもんだな。

 

 

 ひごろにくき(からす)も雪の(あした)

 

 烏は黒い墨染の衣を着た僧の別名でもある。

 元禄3年の名月の頃には新しいお堂も立ち、鐘楼も整えられ、荒れていた木曾義仲のお墓の周りもお寺として整備されていった。

 新しい無名庵は寺の敷地の中なので、毎朝すぐそばで鐘が鳴って起こされる。

 

 でもお陰で今朝の雪をいち早く見ることができた。

 

 

 ()季候(きぞろ)の来れば風雅も師走哉

 

 元禄3年の暮は京で過ごした。

 師走の一日になると早速節季候という角付芸人がやってきた。

 律儀に師走の到来を知らせてくれる。

 

 

 住つかぬ旅のこゝろや置火燵

 

 元禄3年は秋の終わりから堅田では病気療養して木曽塚に戻って、それから京へ行ったり伊賀へ行ったり、また京へ行って大津まで戻ってと、なかなか落ち着かなかった。

 まあ、どこでも結構良くしてもらえた。

 

 住み着かぬ旅と掛けて置炬燵と解く。

 その心は?

 どこでもぬくぬくしてられます。

 

 

 から鮭も空也(くうや)(やせ)も寒の内

 

 元禄3年の年の暮れは京で過ごした。

 空也念仏の鉢叩きも毎日のように回って来る。

 正月用のカチンカチンに乾燥させた乾鮭を見ていると、空也上人像の痩せ細った鹿杖を持って鉦を打ち鳴らす姿が浮かんでくる。

 

 

 半日は神を友にや年忘レ

 

 元禄3年の暮、京都上御霊神社神主の示右の家での忘年興行の発句。

 正月になるとみんな一つ年を取るが、そんなことは忘れていつまでも若くいようと、一年の労を労うのが忘年会だ。

 今日は神様も一緒ということで神様も楽しませてあげよう。

 午前中は大晦日の大祓えの準備で忙しく、興行は午後の半日。

 

 

 千鳥(たち)(ふけ)(ゆく)初夜の日枝(ひえ)おろし

 

 元禄3年の冬、京都にいた頃の句。

 賀茂川のほとりに泊まった時、乙州や木節が遊びに来た。

 戯れに千鳥の絵を描いて自画賛を付けた。

 賀茂川の千鳥も夜遅くなると比叡颪が寒そうだ。

 

 

 納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)

 

 冬になるとお寺では納豆を仕込んで配り納豆を行う。

 貰った納豆はそのまま食べたりはしない。叩いて細かく切り刻んでから納豆汁にするのが一般的な食べ方だ。

 ところで納豆を叩く音って鉢叩きと紛らわしいんだよね。鉢叩きが来る時は叩くのやめてくれよ。

 

 

 (たふと)さや雪(ふら)ぬ日も蓑と笠

 

 元禄3年に三井寺で小野小町の絵を見た。

 老いた小町が蓑笠着た姿で描かれてた。

 蓑笠は諸国往来自由の公界の象徴で、蝉丸も与えられていた。猿にも着せてやりたかったな。

 

 

 石山の石にたばしるあられ哉

 

 元禄3年の暮、石山寺に行った時の句。木曽塚から石山寺は一里半といったところか。

 石山寺の白みを帯びた奇岩に霰が降ると、、石山寺の石から小石が吹き出してるみたいだ。

 「たばしるあられ」っていうと、那須の篠原みたいだけどね。

 

 

 比良みかみ雪()シわたせ鷺の橋

 

 元禄3年の年末は大津で過ごした。

 雪が降ると比良の山も対岸の三上山も真っ白で、その間を白鷺が飛ぶと、七夕のカササギの橋じゃないけど、比良と三上に橋が架からないかな。

 葛城と吉野を結ぶくらい大変だな。

 

 

 かくれけり師走の海のかいつぶり

 

 元禄3年の冬は京都に行き、その帰りに大津の乙州の新しい家に泊まった。

 木曽塚に戻る前に草津に渡り、近江八景の矢橋帰帆を見に行った。

 琵琶湖は鳰の海というだけあって、鳰鳥がたくさんいた。

 水に入る鳥だから鳰で、その名の通りよく潜って姿を消す。

 カイツブリの名前もある。

 

 

 人に家をかはせて我は年忘(としわすれ)

 

 元禄3年の暮は乙州の新居でしばらく過ごし、木曽塚に戻って年越しをした。

 

 

 煤掃(すすはき)は杉の木の間の嵐哉

 

 元禄3年の暮は大津の乙州が松本に新居を構え、そこで過ごした。

 建てたばかりで煤掃きの必要もない家だったが、逢坂山の杉林から吹き下ろす風が塵を払っていた。

 

 

 大津絵(おほつゑ)の筆のはじめは何仏(なにぼとけ)

 

 元禄4年の正月は新しくなった木曽塚無名庵で過ごした。去年は荒れ果てた木曽塚の脇の粗末な小屋だったが、今年は三井寺の別院となって、本堂と鐘楼が建てられた。

 4日にその三井寺から、そこで売られている大津絵に賛を頼まれて、何という仏かよく分からなかったけど、これが筆始めになった。

 

 

 梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろゝ汁

 

 元禄41月、乙州が江戸に行くというので餞別興行をした。

 今は梅が咲いて若菜摘みをする季節だが、この時期に東海道丸子宿の名物のとろろ汁が食えるというのは、正直羨ましい。

 乙州の脇は、

 

 かさあたらしき春の曙

 

 新調した笠で、行ってらっしゃい。

 

 

 やまざとはまんざい遅し梅花(うめのはな)

 

 今年は元禄4年の正月は木曽塚で迎え、去年は3日に伊賀に帰ったが、今年は10日頃になった。

 早速藤堂修理の屋敷に呼ばれた。

 万歳も先ず町で興行し、次第に田舎の方へ回ってゆき、山里に来るのは遅いもので、まあ遅れた言い訳にはならないか。

 

 

 月待(つきまち)や梅かたげ(ゆく)(やま)ぶし

 

 元禄4年の正月は10日になって故郷伊賀に帰った。

 二十三夜の月待に絈屋市兵衛の家に招かれた。

 部屋に梅の花を飾って料理を食い、酒を飲んで夜更かしをした。

 この梅の花は修行中の山伏が持ってきたと聞いて、そのミスマッチがおかしくて句にしてみた。

 

 

 不性(ふしゃう)さやかき(おこ)されし春の雨

 

 元禄4年の2月は伊賀にいたが、冬の寒さでまた持病が出て、落ち着いたとはいえ体がだるくて、人に抱き起こしてもらったりしてた。

 最初は「抱起さるる」だったが、個人的なことなので、わかりやすい孟浩然の春眠不覚暁の句にしておいた。

 

 

 山吹や笠にさすべき枝の(なり)

 

 元禄4年伊賀上野赤坂の生家で一折巻いた時の発句だった。

 山吹の枝は細いから、笠に挿して飾るのにちょうど良い。

 旅している時は笠にちょっと挿したりする山吹の枝も、今日は床の間に飾っている。

 

 

 (のみ)あけて花生(はないけ)にせん二升樽

 

 元禄4年の春、伊賀上野赤坂の生家にいた頃、尾張から酒一樽に木曽の独活や茶を贈られてきて、みんなで飲もうということになった。

 まあ、その前にこの発句で一巻巻いて、それから。

 桜の季節だし、開けた樽は花生けにしよう。

 

 

 年々(としどし)や桜をこやす花のちり

 

 元禄4年の春、伊賀の大坂屋次郎大夫という金貸しが入門したいと言うので、その別邸を訪ねて行った。

 折から桜の花が見事で、毎年散った桜が肥やしになって次の年にもっと桜が咲くようになる。桜の複利で雪だるま式。

 

 

 麦飯にやつるゝ恋か猫の妻

 

 元禄4年の春、伊賀にいる頃、近所の猫が通っては喧嘩したりして大声で鳴いていた。

 ネズミを捕る猫も恋の季節はそれどころじゃないのか、どことなく痩せ細ってる。

どれ、食べ物を分けてやろう。といってもうちには麦飯しかないが。

 

 

 闇の夜や巣をまどはしてなく(ちどり)

 

 元禄4年の春、木曽塚での句。

 闇の夜に鳴く千鳥は巣をまどはしてや。

 

 鳥どもの寝入てゐるか余呉(よご)の海 路通

 

の影響がなかったとは言えない。鳥のことを気遣った句を作ってみたかった。

 

 

 山吹や宇治の(ほい)()の匂ふ時

 

 元禄4年の春、伊賀にいた頃の山吹の絵への画賛。

 山吹の季節になると茶摘みも始まるが、収穫した葉はすぐに蒸して焙炉の上で乾燥させて甜茶にする。紙の上に蒸した葉を広げて遠くから炭火をあてる。

 この時期に漂ってくる茶の香りはこの時の香りだ。

 

 

 梅が香やしらゝおちくぼ京太郎

 

 しらら、落窪、京太郎は座頭の語る浄瑠璃姫の中で列挙されている本のタイトル。

 

 「読みける草子はどれどれぞ、源氏、狭衣、古今、万葉、伊勢物語、しらら、落窪、京太郎、百四帖の虫尽し、八十四帖の草尽し、扇流しに硯破、さながら鬼が読みける千島文まで、あそばす体と打見えて」

 

 梅の花咲く春は花揃えも良いが、本揃えというのも‥。

 

 

 うきふしや竹の子となる人の(はて)

 

 元禄4年夏の落柿舎滞在の時に付近を散歩した。

 大井川を渡って虚空蔵の前を通り松尾の里に行くと、竹藪の中に小督屋敷があった。

 小督の憂き節の物語もいつしか長い年月を経て、今では竹の子の里になっている。

 謡曲小督では虚空蔵法輪寺のところで琴の音が聞こえてきたから、このすぐ近くに小督屋敷があったということで間違いはない。

 ここで仲国は笛を吹くように言われる。琴の弦の音に合わせて竹の笛を吹くことを糸竹という。

 

 

 嵐山藪の茂りや風の筋

 

 元禄4年の419日、これからしばらく嵯峨の落柿舎に滞在するということで、近くを散策した。

 大井川を渡って虚空蔵の前を通り松尾の里に行くと、竹薮の中に小督屋敷があった。

 高倉天皇に愛され清盛に疎まれ、運命に弄ばれた小督はここで嵐の音を聞いていたのか。

 謡曲「小督」で仲国が小督を訪ねて行くのは名月の夜で琴の音を頼りにということだった。

 あの時は秋風で今は夏の風だが、1年通してここは風の通り道なのだろう。

 

 

 ()の花や昔しのばん料理の間

 

 落柿舎は柿だけでなく柚子の木もあって、今はそれが花を咲かせている。

 花橘は「昔の人の袖の香ぞする」と歌われてたが、柚子(ゆず)も同じ蜜柑の仲間でよく似ている。

 柚子で昔を偲ぶというと、やはり伊賀藤堂藩の厨房にいた頃のことか。

 

 

 ほとゝぎす大竹藪をもる月夜

 

 元禄4年の落柿舎在中の句。

 辺りは竹藪が多くて、ホトトギスの声も竹藪の方から聞こえてくる。

 ここに来たのが18日で既に満月は過ぎているが、夜も遅くなると竹藪から月の光が漏れ出てくる。それがホトトギスの住む竹藪を見守っているかのようだ。

 

 

 うき我をさびしがらせよかんこ鳥

 

 落柿舎滞在中の422日。昨日は去来が夕暮れまで居座り、天気も悪いので結局寝てるだけで、おかげで夜眠れなくなった。

 今日やっと一人になれた。

 隠棲というと憂鬱な俗世を離れ、却って俗世が恋しくなるもんだが、ちっとも寂しがらせてくれない。

 元禄2年の伊勢長島の大智院滞在中だったか、

 

 憂き我を寂しがらせよ秋の寺

 

という句を作ったっけ。

 去年の幻住庵も後から後から人が押しかけて来た。

 「客は半日の閑を得れば主は半日の閑を失う」と長嘯子も言ってた。

 

 

 手をうてば木魂(こだま)(あく)る夏の月

 

 元禄4年の初夏、去来の落柿舎を借りてしばらく住むことになった。

 最初は嵯峨野周辺を散歩したりして楽しかったし、門人も訪ねてきたりしたが、次第に誰も来なくなり暇だ。

 眠れずに一人で「幻住庵記」の執筆をしていると、あっという間に夜も明ける。

 この後夕方に京から去来がやってきた。

 嵯峨野はどうやら京とはみなされてないようで、この日の日記には「去来京より来ル」と記す。

 

 

 たけのこや(をさな)き時の絵のすさび

 

 竹の子を見ると子供の頃習字の練習をしている時に、竹の子の絵を描いて遊んでたのを思い出す。

 竹の子は意外に簡単に描ける。上から徐々に線を太くしていって、後で交互に斜めの線を書き加え、最後にてっぺんにちょんちょんとすれば出来上がり。

 

 

 一日/\麦あからみて(なく)雲雀(ひばり)

 

 落柿舎滞在中の元禄4423日、することもなく句を案じていた。

 この辺りにも麦畑があって、最初は涙の時雨が紅葉を染めるみたいに、雲雀の涙が麦を赤く染めるという趣向で、

 

 麦の穂や涙に染て啼雲雀

 

としてみたが、涙を言外に隠してもう一句作った。

 どっちが良いか、次来た人に聞いてみよう。

 以前黒羽で、

 

 蔦の葉は猿の泪や染つらん

 

という付句もしている。

 

 

 能なしの(ねむ)たし我をぎやう/\し

 

 元禄四年の夏、落柿舎滞在中の423日、この日は加生が来た。堅田本福寺からの帰りだという。

 夕方には去来も来て昌房や尚白の手紙を持ってきたから、去来も一緒に近江に行ってたのか。加生は直接来たが、去来は一度家に帰ったという違いか。

 まあ誰もいなくてのんべんだらりと過ごしたのは昨日だけで、今日はまた起こされてしまった。

 能なし、眠たし、行行子、なかなかいいリズムだな。

 よう、俺は能なし、やることなくて眠たし、そんな俺を眠らせない、のは外で鳴いてる行行子。

 ヨシキリのことさ行行子、ことごとしくて仰々し。

 

 

 五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡

 

 元禄4年の夏、半月ほど滞在した去来の落柿舎から出る時に、この庵を見回してみると、色紙を剥がして壁の色がそこだけ若い。

 こういう何でもない身近な風景でも、時の経過がしみじみと感じられることってあるんだな。

 

 

 粽結(ちまきゆ)ふかた手にはさむ(ひたひ)(がみ)

 

 元禄4年の夏で、落柿舎にいた頃か。猿蓑に源氏物語の句がもう少しあるといいなと思って作った。

 (たま)(かずら)が本に夢中になって髪が乱れてるのを光の君に指摘される場面があったが、俯きになって髪を無意識にいじる姿はそそられるものがあるね。

 句の方は仕草だけ取って、よくいる(ちまき)を作ってる女に変えた。

 今の女は(まげ)を結っているが、髪を下ろしていた昔が懐かしい。

 

 

 風かほる羽織は襟もつくろはず

 

 元禄4年夏、しばらく加生(かせい)の家に泊まってあちこち京を見て回った。曾良もこの頃京に来ていた。

 61日に一乗寺の詩仙堂へ行った。狩野探幽の石川丈山像は右手に杖を持って、左を向いていて、体はやや左に傾き、左肩の羽織がずり落ちたようなくつろいだ姿勢だった。

 

 

 みな月はふくべうやみの(あつさ)かな

 

 元禄4年の5月は落柿舎を出てから加生の家に滞在して、曾良が訪ねて来てくれたりしてなかなか楽しかったが、6月に入って腹を壊して下痢や嘔吐で酷い目にあって散々だった。

 

 

 玉祭りけふも焼場のけぶり哉

 

 元禄4年のお盆は京で過ごした。これは(とり)辺山(べやま)での吟。

 玉祭は死者の霊が帰ってくるが、この日に死んだ人の霊はどうなるんだろうか。

 一瞬にして往復するのか、そのまま止まっているのか、それとも一年待たされるのか。閻魔様に聞いてみたい。

 

 

 初秋や(たたみ)ながらに蚊帳(かや)夜着(よぎ)

 

 元禄4年の初秋、京の誰の家だったか。暦の上で秋になったということで蚊帳は早々に畳んだが、まだ残暑も厳しく蚊もいるので、結局外した蚊帳に潜って寝た。

 冬の寒い時期だと布団の下に蚊帳を巻くこともあるが、流石にその季節ではない。

 

 

 秋風のふけども青し栗のいが

 

 元禄4年の初秋、木曽塚にいた頃だった。

 秋風に吹かれて青いまま落下する栗のいががある。

 青いまま落ちるなんて。

 また万菊丸のことを思い出しちゃったじゃないか。

 

 

 牛部屋に蚊の声(くら)き残暑哉

 

 元禄47月、京で興行した時の発句。

 路通、史邦、丈草、去来、野童、正秀といった豪華なメンバーが揃った。讒言を受けていた路通の復帰興行でもある。

 まだ残暑は厳しいが、臭い牛小屋にも爽やかな秋風が吹いて、五月蠅かった蚊の声も弱って来ている。ここは未来志向で行きましょう。

 

 

 (ここの)たび起ても月の七ツ哉

 

 いつだった忘れたが若い頃の句だと思う。晋ちゃんが覚えていてくれて元禄5年の雑談集で眠れない句を集めて並べてくれた。

 眠れない夜というのは時間が経つのが遅く、もう九回は起きたと思ってもまだ外は煌々と月の照る七つだったりする。

 旅だったらそろそろ出発だが。

 

 

 秋のいろぬかみそつぼもなかりけり

 

 元禄4年、金沢の句空が木曽塚にやってきた。コオロギの声も弱る頃だったか。

 兼好法師の肖像に賛を頼まれたが、その時にはできず、後から手紙で送った二句のうちの一句。

 徒然草に尊い聖の言葉として「後生を思はん者は糂汰瓶一つも持つまじき」とあったので、そのまんま句にした。

 

 

 淋しさや釘にかけたるきり/″\す

 

 兼好法師の像に画賛を頼まれた。

 「ありたき事は、まことしき文の道、作文和歌管弦の道」と言ってた人だからな。

 その命も儚く消えて、こうして絵になって釘に掛けられているのも淋しいもんだ。

 会って話を聞きたかったよ。

 兼好法師の像に画賛を頼まれた。

 そういえば、「夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」と言って長生きはしたくないと、「長くとも四十に足らぬほどにて死なむこそ目安かるべけれ」なんて言いながら七十まで生きたからな。

 まあ、蝉ではないな。きりぎりすにしておこう。

 

 

 三井寺(みいでら)の門たゝかばやけふの月

 

 元禄4年の名月も木曽塚無名庵で月見会をやった。

猿楽で有名な三井寺も半里ほどで、今から行って帰れない距離でもない。

 

「波は粟津の森見えて、海越しの、かすかに向ふ影なれど月は真澄の鏡山、山田矢走の渡し舟の、夜は通ふ人なくとも、月の誘はばおのづから、舟もこがれて出づらむ」

 

の描写は最高。

 門を叩くといえば、僧()す月下の門と僧(たた)く月下の門どちらが良いかという問題があるが、やはり敲く方が良い。月下に響き渡る戸を敲く音は三井寺の鐘の音にも通じる。

 

 

 (よね)くるゝ友を今宵の月の客

 

 元禄4年の膳所の木曾義仲の墓の隣に住んでた頃にやった月見の会の時の句。大勢集まって賑やかだった。

 みんな米をくれるいい人たちだ。

 兼好法師は「良き友三つあり」と言った。

 物くるる友はここに沢山いる。弟子には医者も多いし、俳諧をやる人は知恵ある人ばかりだし、言うことなし。

 

 

 やす/\と(いで)ていざよふ月の雲

 

 元禄4年の月見の会はとにかく賑やかだったな。

 十五夜は木曽塚で、十六夜は堅田の茂兵衛成秀の家でやった。

 木曽塚で昨日やった十五夜の月見会の参加者からは路通、正秀、丈草が参加した。

 里芋とささげをお供えにして、鯉や鮒を料理して食べた。

 湖に迫り出した浮御堂があって、その向こうの鏡山から、ちょうどその時雲が晴れて、暗くなったと思ったらあっという間に月が上った。

 その茂兵衛成秀の家の庭にはそう高くないが枝が大きく横に広がった笠松があった。

 それは人と競うでもなく一人悠々と生きる成秀の人柄のようだ。

 成秀の脇は、

 

 舟を並べて置わたす露

 

 共に舟を並べたいものだ。

 

 

 十六夜(いざよひ)海老()(ほど)の宵の闇

 

 元禄4年、堅田の茂兵衛成秀の家で十六夜の月見会をやった時の句。

 湖に迫り出した浮御堂があって、その向こうの鏡山から、ちょうどその時雲が晴れて、暗くなったと思ったらあっという間に月が上った。

 酒の肴のスジエビをまだ煎ってる最中だった。

 

 

 (じゃう)あけて月さし(いれ)(うき)み堂

 

 元禄4年近江堅田の茂兵衛成秀の家で十六夜のお月見をした時、近くに満月寺の湖上に橋で繋がれた(うき)御堂(みどう)があった。

 対岸の鏡山の方から月が上った。

 

 

 (おほ)父親(ぢおや)其子(そのこ)の庭や(かき)蜜柑(みかん)

 

 元禄4年の秋、兎苓の父の堅田の別邸に行った時の句。

 柿や蜜柑などの果樹がたくさんあり、祖父の代から受けてがれてるという。

 兎苓は十六夜の興行にも参加してて、

 

   月見を当にやがて旅だつ

 秋風に網の岩焼石の竈 兎苓

 

の句は、前句の「当(あて)」を酒の肴の意味に取り成した見事な展開だ。

 

 

 名月はふたつ(すぎ)ても瀬田の月

 

 元禄4年は八月閏で、815日と閏815日と中秋の名月が二回あった。

 一回目は木曽塚で盛大に月見会をやったが、閏の方はおまけのようなもので、それでも盤ちゃんや珍碵と一緒に石山寺に行って、瀬田川で舟遊びをした。

 どっちも結局瀬田の月だった。

 

 

 鷹の目もいまや(くれ)ぬと(なく)(うづら)

 

 元禄4年秋、木曽塚での句。

 鷹が日が暮れて目が利かなくなる頃、今だとばかりに鶉が鳴いてる。

 後拾遺集の、

 

 君なくて荒れたる宿の浅茅生に

    鶉鳴くなり秋の夕暮れ

          源時綱

 

の君を鷹に変えてみた。

 

 

 草の戸や日暮(ひぐれ)てくれし菊の酒

 

 元禄4年の重陽、膳所無名庵に乙州が酒一樽の差し入れを持ってきた。

 乙州が来るんだから、多分智月の尼さんが持たせたんだろう。

 乙州にはこんな夕暮れにご苦労さんと言いたい。

 そういえば去年はおとめさんからも手紙と一緒に綿入れの腰当てを貰ったっけ。

 

 

 蝶も来て酢を吸ふ菊のすあへ哉

 

 元禄4年の重陽の頃だったか、近江堅田の木沅という医者の家に行った時の句。

 その時の料理に菊の花の膾が出た。菊酒は普通だが膾は珍しく、これじゃ蝶が飛んできてこの菊に止まったら、酢を吸っちゃうなと思った。

 

 

 橋桁(はしげた)のしのぶは月の名残(なごり)

 

 元禄49月の十三夜は大阪から之道と車庸が木曽塚に来て、一緒に石山寺に行った。

 瀬田の唐橋を十町ほど下った川に山が迫る所で、うらさびた感じがした。

 

 粟稗の粥喰盡(くひつく)す月見かな  之道

 心見のあま干おろす月見哉 車庸

 

 之道は去年の夏に京に来ていた東湖のことで、あのあと幻住庵にも訪ねて来て、秋には伊丹の鬼貫との両吟をしたり上手くやってる。

 八大龍王の池があって、そこから流れる小川があった。

 小さな川に橋桁が残っていて、しのぶ草に埋もれていた。昔の栄えた時代を偲ぶにも寂しくて‥。

 

 

 柴の戸の月や(その)まゝあみだ坊

 

 元禄4年の9月に京に行った時、知恩院の方へも行った。

 その時西行法師が、

 

 柴の庵と聞くは卑しき名なれども

    世に好もしき住まひなりけり

 

と詠んだ阿弥陀坊のことを思い出した。

 きっと東山から登る月が頭に重なって阿弥陀如来の円光背に見えたのだろう。

 

 

 (いな)(すずめ)茶の木畠(きばたけ)や逃どころ

 

 木曽塚にいた頃の句。元禄3年だったか4年だったかは忘れた。

 田んぼの稲を食いに来ていた雀は、追っ払っても茶畑の細かい枝の中に逃げられてしまえばどうすることもできない。

 

 

 まつ茸やしらぬ木の葉のへばりつく

 

 松茸を貰ったりすると、何やら知らない木の葉がへばりついていることってことあるよね。

 元禄4年の秋に松茸あるあるの句として作ったが、元禄7年に盤ちゃんが文代を連れて伊賀にやって来た時に、これを立て句として興行した。

 文ちゃんを使えば伊勢に来たくなるんじゃないか、ということのようだが、だったら盤ちゃんは余計でしょ。

 脇と第三は、

 

   秋の日和は霜でかたまる 文代

 宵の月河原の道を中程に   支考

 

だった。

 

 

 秋海棠(しゅうかいどう)西瓜(すいか)の色に(さき)にけり

 

 膳所の菅沼外気の屋敷に行った時見慣れない花があって、秋海棠というそうだ。

 折から七夕の西瓜の季節。色が西瓜のように涼しげだった。

 秋海棠のような最近の花でまだ見たことのない人に伝えるには、大胆な見立てをして、どんな花だろうと思わせるのも手だ。

 

 

 (にゅう)(めん)(した)(たき)(たつ)夜寒(よさむ)かな

 

 元禄4年の秋、菅沼外記の家に呼ばれて、「夜寒」という題で作った。盤ちゃんを連れて江戸に下る少し前だったね。

 入麺は煮る麺で、温かい素麺のことで、特に奈良の三輪素麺ということではなかったけど、そんな噂が広まったみたいだね。

 奈良へ行ったのは元禄2年の冬だった。

 

 

 荻の穂や(かしら)をつかむ羅生門

 

 京の羅生門の跡を見に行った。

 謡曲羅生門の、

 

 後より兜の錣を掴んで引き留めければ、すはや鬼神と太刀抜き持って、斬らんとするに、取りたる兜の緒を引きちぎって、覚えず壇より飛び降りたり。

 

という鬼の登場シーンを思い出す。

 そういえば頭に何か触るものがあるが‥。

 ススキの穂は柔らかく弱々しく人を手招きするが、荻は直立して風に音を立てて恐ろしげなイメージがある。

 晋ちゃんの句に、

 

 夢となりし骸骨踊る荻の声 其角

 

の句があったっけ。そんなおどろおどろしい感じ。

 

 

 秋風や桐に(うごい)てつたの霜

 

 元禄6年に木曽塚で作った句。

 蔦の霜は晩秋のものなのに、秋風では初秋を連想させてしまうので作り直し、

 

 桐うごく秋の終りやつたの霜

 

にして発表した。これはその原案。

 

 

 稲こきの(うば)もめでたし庭の菊

 

 元禄四年九月二十九日、木曽塚を出て江戸に向かう途中、彦根で昔の知り合いに会って、北村何某の家に呼ばれた。

 松や紅葉の庭に菊や鶏頭が咲き乱れる庭で、老婆が一人黙々とこき箸で脱穀作業をしているのが俳諧だなと思った。

 

 

 たふとがる涙やそめてちる紅葉

 

 元禄4年に膳所木曽塚から江戸へ向かう時に彦根の明照寺に寄った。

 紅葉は露霜に染まって色鮮やかになるもので、露霜は涙の比喩にもなる。

 

 涙さへ時雨にそひてふる里は

    紅葉の色も濃さまさりけり

          伊勢

 

の歌もある。

 ここでは悲しい波ではなく、仏法の尊さの涙にしてみた。

 その彦根の明照寺の住職は李由といって、彦根の俳諧を盛り上げてくれている。

 以前にここを通った時は、

 

 ひるがほに昼寝せうもの床の山

 

と、手紙だけ残して通り過ぎただけだった。

 今会ってその人物を知るに付けてもやはり尊いものだ。、

 

 

 百年(ももとせ)気色(けしき)を庭の落葉哉

 

 元禄4年彦根平田の李由が住職をしている明照寺で冬を迎えた。

 明照寺は元は明徳の頃多賀で創建した寺を百年くらい前にここに移転したという。

 なるほど百年の歴史を感じさせる庭の佇まいだ。

 

 

 作りなす庭をいさむるしぐれかな

 

 元禄4年の冬、木曽塚から江戸へ向かう途中、中山道の垂井宿の本龍寺に泊まった。

 庭木の枝ぶりをいかにも風雪に耐えた古木であるかのようにしつらえてあって、折からの時雨で本物の老木のように見える。

 木々も時雨よ宿は寒くとも、ではないが。

 

 

 (ねぶか)白く洗ひたてたるさむさ哉

 

 元禄410月に美濃垂井の規外の家にいた頃の句で、庭の隅に小さなねぶかの畑があった。

 

 

 折々(をりをり)伊吹(いぶき)をみては冬ごもり

 

 元禄410月、木曽塚から江戸に上る途中、大垣に立ち寄った。

 斜嶺の家での興行には如行や荊口と息子三兄弟此筋、千川、文鳥も勢揃いした。

 その千川の家にも行った。伊吹山は2年前、

 

 そのままよ月もたのまじ伊吹やま

 

と詠んだ時と変わってないくて有り難い。

 

 

 (こがらし)に匂ひやつけし(かへり)(ばな)

 

 元禄4年の冬に大垣にいた時、耕雪子の別邸に行った時、冬なのに桜がほんの少し咲いていた。

 木枯らしだけど春風のように匂ってきそうだ。

 ちなみに「匂ひやつけし」は「匂ひつけしや」の倒置。

 同じ「し」でも形容詞の「し」は切れ字になるが、動詞に付く「し」は切れ字にならないので、切れ字を補う必要がある。

 

 

 水仙や白き障子のとも(うつ)

 

 元禄4年の1020日頃、梅人という人の家に泊まって興行した。

 庭に水仙の花が咲いていて、夜になって寒さで障子を閉めていても、その障子の白さが昼間見た水仙の白さが乗り移ってるかのようだ。

 

 

 (その)にほひ桃より白し水仙花

 

 元禄4年の冬、三河新城の白雪の家に滞在していた時の興行の発句。

 白雪の二人の息子さんに桃先・桃後という俳号を付けてあげた。

 

   何謡ひやら鼻声でやる

 わかれ途の出張った石に腰掛る 桃先

   薮イタチめが仰山に出た  桃後

 

なかなか先が楽しみだ。

 今日は冬なので白雪さんを水仙の白い花ということにして、二人の桃はこれから咲くことを期待しましょう。

 

 

 京にあきて(この)()がらしや冬(ずま)

 

 元禄4年に三河新城藩の家老菅沼長七の家に招かれた。

 盤ちゃんと白雪を交えて四吟八句まで巻いた。

 もう京にも飽きたし、このあと盤ちゃんを連れて江戸に行くけど、越人の嫉妬がちょっと怖い。

 貞享元年に名古屋に来た時、

 

 狂句木枯しの身は竹斎ににたる哉

 

と「狂句木枯し」を自らのキャッチフレーズにしたからな。「此木がらし」はその木枯し。

 

 

 雪をまつ上戸(じゃうご)の顔やいなびかり

 

 元禄4年の冬に三河新城藩の家老菅沼長七の家に招かれた。

 雪が降ったら雪見酒と思ったけど、なかなか降りそうで降らないまま飲み始めた。

 盤ちゃんは酒を飲むと陽気になるのはいいが、はめ外して馬鹿やるからな。ほら御家老様がご立腹と思ったら、外の稲光だった

 

 

 夜着(よぎ)ひとつ祈り(いだ)して旅寐哉

 

 三河の鳳来寺は吉田宿の辺りに分岐点があって、新城を通って行く。

 途中で持病の下腹部の痛みがひどくなり、麓の宿に泊まった。

 

 

 木枯(こがらし)に岩(ふき)とがる杉間(すぎま)かな

 

 新城から三河鳳来寺に行ったのは元禄4年の10月も終わり頃で、盤ちゃんも一緒だった。

 三河鳳来寺は岩山にあって、杉木立の間に巨大な岩が出現する。

 木枯らしに洗い流されたような透き通った空気の中、その尖った岩肌がくっきりとより尖って見えた。

 

 

 宿かりて名をなのらするしぐれかな

 

 元禄4年に江戸へ下る時、島田宿の如舟を訪ねた時、宗祗法師の、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祗

 

の句を思い出し、冷たい雨露をしのぐありがたさにまた、

 

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉

 

の旧作を思い出した。

 

 「ところでそちらは」

 「盤子(ばんし)です。美濃の真桑瓜の里の生まれです。このたび吾叟(あそう)と一緒にお江戸に行くことになりました。以後お見知りおきを。」

 

 名をなのらするって、そっちかよ。

 

 

 馬かたはしらじしぐれの大井川

 

 元禄4年の冬、盤ちゃんを連れて江戸へ下る時に、冬の時雨の降る大井川を渡った馬は大井川の所までは運んでくれるが、河原で客を下ろして引き返して行く。

 そのあと旅人が時雨にあっても、まあ馬方には関係ないことだ。

 

 

 (みやこ)いでゝ神も旅寝の日数(ひかず)

 

 元禄41026日、ようやく沼津まで帰ってきた。どうやら今月中に江戸に着けそうだ。

 

 宿の亭主に発句の揮毫を求められたので、今月神無月、彦根を出てあちこち寄り道しながら江戸へ向かっている時に、神々も出雲を往復してたんだと思って作った。