「鶯の」の巻、解説

元禄三年二月六日、伊賀百歳亭

初表

 鶯の笠落したる椿かな      芭蕉

   古井の蛙草に入声      乍木

 陽炎の消ざま見たる夕影に    百歳

   指さすかたに月ひづむ也   村皷

 梢なる隣の柿をからすらん    式之

   きびを吹折る風のあらさよ  梅額

 

初裏

 侘しらに牛の子にがす朝ぼらけ  一桐

   世を土なべといのちなりけり 槐市

 俤に妹が袷をうへに着て     村皷

   夢さへ酒に二日酔する    芭蕉

 古郷をわすれぬ馬にぼくぼくと  乍木

   はへて程なき月の花蕎麦   百歳

 住持なき庭に木の実の落るをと  梅額

   鳩吹人のなり窄き也     一桐

 給物は麓の市にはし売て     呉雪

   機嫌にむけば幸若の舞    式之

 孫曽孫うちならべたる花のかげ  百歳

   藤むらさきにさまざまの蝶  乍木

 

 

二表

 春の色新古今こそあはれなり   芭蕉

   尾上をへだつ木魚はかなき  槐市

 むら雨の笠きぬ程に降過て    村皷

   桑も早苗も一度成けり    呉雪

 ゆるされて流され人の立かへり  一桐

   泣てゐる子のかほのきたなさ 梅額

 宿かして米搗程は火も焼ず    芭蕉

   脚気を侘て膏薬をはる    槐市

 大内に井戸ほりを召す秋のくれ  一桐

   地震にころぶ松の下露    乍木

 有明に母の里より文をこし    百歳

   形見にびんを残す陸奥    式之

 

二裏

 掛香を小袖のふりに縫ふくみ   村皷

   三味糸引てならぶ乞食    芭蕉

 東山中にもはなは清水寺     乍木

   げにのどかなる知恩院のかね 一桐

 連歌師の杖をわするる春の空   式之

   すいかむたたむ庭の若草   呉雪

 

       参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 鶯の笠落したる椿かな      芭蕉

 

 椿は花びらが散らず、花全体が落ちるため、落ちた椿は奇麗な色の花笠が落ちているように見える。それを春を告げる鶯が笠を落としたみたいだ、とする。

 

 鶯の笠にぬふといふ梅の花

     折りてかざさむ老いかくるやと

              源常(古今集)

 

などの古歌はあるが、梅の花だと縫い合わせなければないが、椿だとそのまま笠にできそうだ。

 特に興行開始の挨拶としての寓意はない。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。「椿」も春、植物、木類。

 

 

   鶯の笠落したる椿かな

 古井の蛙草に入声        乍木

 (鶯の笠落したる椿かな古井の蛙草に入声)

 

 古今集仮名序の「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」を踏まえたもので、鶯と蛙を対にする。

 古池の蛙はよく古井戸の蛙と間違える人がいたというが、ここでは芭蕉の句との重複を避ける意味もあったのだろう。古井の蛙は水に飛び込むのではなく草の中に入って行く。

 「古池」も「古井戸」も似たようなもんじゃないかという人もいたが、古井戸だと「井の中の蛙」という寓意が加わる。ここでも古井の蛙は井戸に飛び込まずに草に入るのは、井の中の蛙にはならないという、寓意を打ち消す意味もあったのだろう。

 発句は花に鳴かない鶯、脇は草に入る蛙で、どちらも微妙に古今集仮名序の言葉をはずし、和歌と俳諧の違いを際立たせている。

 

季語は「蛙」で春、水辺。「草」は植物、草類。

 

第三

 

   古井の蛙草に入声

 陽炎の消ざま見たる夕影に    百歳

 (陽炎の消ざま見たる夕影に古井の蛙草に入声)

 

 夕暮れで石を照り付ける日もなくなり、陽炎も消えて行く。あたりは薄暗くなり蛙の声だけが残る。

 夕暮れの蛙は、

 

 折に逢へばこれもさすがにあはれなり

     小田のかはづの夕暮の聲

              藤原忠良(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「陽炎」で春。

 

四句目

 

   陽炎の消ざま見たる夕影に

 指さすかたに月ひづむ也     村皷

 (陽炎の消ざま見たる夕影に指さすかたに月ひづむ也)

 

 日の出も月の出も、地平線や水平線の近くでは大気の屈折の関係から楕円形に歪んで見える。夕暮れに登る月を良く表している。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

五句目

 

   指さすかたに月ひづむ也

 梢なる隣の柿をからすらん    式之

 (梢なる隣の柿をからすらん指さすかたに月ひづむ也)

 

 水平線の歪んだ月は赤くて、熟した柿に似ている。指さす方には柿の枯枝に月が掛かる。

 

季語は「柿」で秋、植物、木類。

 

六句目

 

   梢なる隣の柿をからすらん

 きびを吹折る風のあらさよ    梅額

 (梢なる隣の柿をからすらんきびを吹折る風のあらさよ)

 

 黍は風で折れやすい。貞享四年の「稲葉山」の巻四句目に、

 

   鵙の居る里の垣根に餌をさして

 黍の折レ合道ほそき也      越人

 

の句がある。

 秋風の荒く吹けば黍は折れて、柿の実も枯らしてしまうのだろうか、となる。

 

季語は「黍」で秋、植物、草類。

初裏

七句目

 

   きびを吹折る風のあらさよ

 侘しらに牛の子にがす朝ぼらけ  一桐

 (侘しらに牛の子にがす朝ぼらけきびを吹折る風のあらさよ)

 

 「侘しら」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 

 「[形動ナリ]《「ら」は接尾語》気を落としているさま。

 「—に猿(ましら)な鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ」〈古今・雑体〉」

 

とある。

 牛の子を逃がしてがっくりと来ている朝、見渡せば黍も風に折れている。

 

無季。「牛」は獣類。

 

八句目

 

   侘しらに牛の子にがす朝ぼらけ

 世を土なべといのちなりけり   槐市

 (侘しらに牛の子にがす朝ぼらけ世を土なべといのちなりけり)

 

 土なべは「つちなべ」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土鍋」の解説」に、

 

 「ど‐なべ【土鍋】

  〘名〙 土製の鍋。また、その形をしたもの。直火(じかび)にかけて使用し、湯豆腐、ちり、雑炊、鍋焼きうどん、柳川鍋などに用いる。つちなべ。

  ※俳諧・武玉川(1750‐76)一六「土鍋の尻のわれる留守事」

  つち‐なべ【土鍋】

  〘名〙 土焼きの鍋。どなべ。〔書陵部本名義抄(1081頃)〕

  ※浮世草子・近代艷隠者(1686)四「竈に土鍋(ツチナベ)掛て外には器物とても見へず」

 

とある。どちらも似たようなものだが、今日では底のところは素焼きのままでも鍋の側部や内側、蓋などは釉が掛けられ、綺麗に着色されてたりするが、古い時代の「つちなべ」は全体が素焼きのままになっている。

 とりあえず土鍋があれば米は炊けるし汁も作れる。何とか命を繋ぐことができる。

 

無季。

 

九句目

 

   世を土なべといのちなりけり

 俤に妹が袷をうへに着て     村皷

 (俤に妹が袷をうへに着て世を土なべといのちなりけり)

 

 妻の遺品の袷を上に来ながら、自分一人かろうじて生き残っている。飢饉や災害などの生き残りか。

 

無季。恋。「妹」は人倫。「袷」は衣裳。

 

十句目

 

   俤に妹が袷をうへに着て

 夢さへ酒に二日酔する      芭蕉

 (俤に妹が袷をうへに着て夢さへ酒に二日酔する)

 

 前句を袷を着た妹が夢に出てきたことにする。

 昨日の酒がまだ残っているように、夢もまだ過去の幸せだった日々に酔っている。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   夢さへ酒に二日酔する

 古郷をわすれぬ馬にぼくぼくと  乍木

 (古郷をわすれぬ馬にぼくぼくと夢さへ酒に二日酔する)

 

 馬が故郷を忘れないというわけではないだろうから、一句は「わすれぬ」で切れて、故郷は忘れまい、馬でぼくぼくと旅を続けようとも、という意味になる。

 「ぼくぼく」というと、

 

 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな 芭蕉

 

の句を思い浮かべる人も多いと思うが、

 

 一僕とぼくぼくありく花見哉   季吟

 

の用例もある。少し後になるが、元禄十二年朱拙編の『けふの昔』にも、

 

 誰が笠ぞぼくぼく夏の葉の梢   投錐

 

の句がある。基本的には忙しそうではない、自由気ままな移動を表すと言っていいだろう。

 ゆったりと自分のペースで気ままな旅を続けてはいるが、やはり故郷のことは忘れられず、昨日の酒の醒めぬまま二日酔いの旅をする。

 ならば帰ればいいではないか、と言われても、そこは帰りたくても帰れない事情がある。そこを汲み取るべきだろう。

 

無季。旅体。「馬」は獣類。

 

十二句目

 

   古郷をわすれぬ馬にぼくぼくと

 はへて程なき月の花蕎麦     百歳

 (古郷をわすれぬ馬にぼくぼくとはへて程なき月の花蕎麦)

 

 蕎麦の小さな白い花が月明かりを受けて、うっすらと白く見える。前句の馬に乗った旅人に夜明け前の早行の景色を付ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「花蕎麦」は植物、草類。

 

十三句目

 

   はへて程なき月の花蕎麦

 住持なき庭に木の実の落るをと  梅額

 (住持なき庭に木の実の落るをとはへて程なき月の花蕎麦)

 

 住持は住職のこと。住職が留守で小坊主一人が寂しく待っていると、寺は静まり返っていて木の実の落ちる音が聞こえてくる。お寺の周りは蕎麦畑で人家も遠い。

 

季語は「木の実」で秋、植物、木類。「住持」は人倫。「庭」は居所。

 

十四句目

 

   住持なき庭に木の実の落るを

 鳩吹人のなり窄き也       一桐

 (住持なき庭に木の実の落るを鳩吹人のなり窄き也)

 

 「窄(すぼ)き」は「すぼむ」の形容詞形で小さくなる、細くなる、ということで、この場合は身なりがみすぼらしいということ。

 鳩吹(はとふく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳩吹」の解説」に、

 

 「〘自カ四〙 両てのひらを合わせて吹き、鳩の鳴声のような音を出す。秋の頃、狩人が鹿の居所を知らせ、また人を呼ぶためにする。《季・秋》

  ※曾丹集(11C初か)「まぶしさしはとふく秋の山人はをのが有かを知らせやはする」

 

とある。殺生をする人なので住持とは対照をなす。相対付けになる。

 

季語は「鳩吹」で秋。「人」は人倫。

 

十五句目

 

   鳩吹人のなり窄き也

 給物は麓の市にはし売て     呉雪

 (給物は麓の市にはし売て鳩吹人のなり窄き也)

 

 「給物」はここでは「たべもの」と読む。

 はし売りはどういう人たちがやっていたのかはわからないが、杉の白木の箸なら鳩吹く人の副業だったのかもしれない。狩猟の方は収入が安定しなかったため、箸売は保険のようなものだったのだろう。

 ネット上の向井由紀子さん、橋本慶子さん、長谷川千鶴さんの「わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について」によると、象牙、瑪瑙、琥珀などの高級輸入箸がある一方で、庶民は杉箸を用い、塗り箸も用いられるようになったという。

 

無季。

 

十六句目

 

   給物は麓の市にはし売て

 機嫌にむけば幸若の舞      式之

 (給物は麓の市にはし売て機嫌にむけば幸若の舞)

 

 幸若舞というと織田信長の敦盛のイメージがあり、武家の式楽のイメージが強いが、本来は唱門師の曲舞から派生したもので、万歳にも受け継がれていた。

 前句の箸売をこうした芸能の人たちに結び付けたのだろう。幸若舞は本業ではないので、気が向いた時に舞う。

 

無季。

 

十七句目

 

   機嫌にむけば幸若の舞

 孫曽孫うちならべたる花のかげ  百歳

 (孫曽孫うちならべたる花のかげ機嫌にむけば幸若の舞)

 

 「曽孫」は「ひまご」。たくさんの孫やひ孫達に囲まれた老人の長寿の宴に、老人自ら興が乗ったか、幸若舞を舞う。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「孫曽孫」は人倫。

 

十八句目

 

   孫曽孫うちならべたる花のかげ

 藤むらさきにさまざまの蝶    乍木

 (孫曽孫うちならべたる花のかげ藤むらさきにさまざまの蝶)

 

 「藤むらさき」は色の名前で、その名の通り藤の花のような薄い紫をいう。ここでは前句の花を藤の花として、そこに蝶を舞わせる。

 

季語は「蝶」で春、虫類。

二表

十九句目

 

   藤むらさきにさまざまの蝶

 春の色新古今こそあはれなり   芭蕉

 (春の色新古今こそあはれなり藤むらさきにさまざまの蝶)

 

 前句の藤を藤原氏として、歌学が藤原氏に独占されていったことを風刺した句であろう。二条家も冷泉家も藤原北家に属する。

 

季語は「春の色」で春。

 

二十句目

 

   春の色新古今こそあはれなり

 尾上をへだつ木魚はかなき    槐市

 (春の色新古今こそあはれなり尾上をへだつ木魚はかなき)

 

 尾上は、

 

 年も経ぬいのるちぎりは初瀬山

     尾上の鐘のよその夕暮れ

              藤原定家(新古今集)

 

であろう。鐘を木魚に変えると何だか寂しい。

 

無季。「尾上」は山類。

 

二十一句目

 

   尾上をへだつ木魚はかなき

 むら雨の笠きぬ程に降過て    村皷

 (むら雨の笠きぬ程に降過て尾上をへだつ木魚はかなき)

 

 さっと降ってはすぐに止んでゆく雨で、笠を被るまでもなく、ほんの一時の雨宿りで済んだのだろう。遠く山の方から木魚の音が聞こえてくる。

 

無季。「むら雨」は降物。

 

二十二句目

 

   むら雨の笠きぬ程に降過て

 桑も早苗も一度成けり      呉雪

 (むら雨の笠きぬ程に降過て桑も早苗も一度成けり)

 

 ひと村雨が養蚕に用いる桑畑も田んぼも早苗も一度に潤して行く。雨が去れば日も射して美しい景色が広がる。

 

季語は「早苗」で夏。「桑」は植物、木類。

 

二十三句目

 

   桑も早苗も一度成けり

 ゆるされて流され人の立かへり  一桐

 (ゆるされて流され人の立かへり桑も早苗も一度成けり)

 

 尾張を追放され三河に隠棲した杜国のイメージだろうか。『笈の小文』の旅の時に伊賀も訪れている。

 ここでは一度だけ故郷を見ることを許されたという話に作っている。

 

無季。旅体。「流され人」は人倫。

 

二十四句目

 

   ゆるされて流され人の立かへり

 泣てゐる子のかほのきたなさ   梅額

 (ゆるされて流され人の立かへり泣てゐる子のかほのきたなさ)

 

 一度だけ父に会うことを許された子は、泣いて顔がぐしゃぐしゃになる。

 

無季。「子」は人倫。

 

二十五句目

 

   泣てゐる子のかほのきたなさ

 宿かして米搗程は火も焼ず    芭蕉

 (宿かして米搗程は火も焼ず泣てゐる子のかほのきたなさ)

 

 唐臼ではなく杵で搗く作業だろう。粉塵が飛ぶから火を焚かないということか。泣いてる子の顔も汚れる。

 

無季。

 

二十六句目

 

   宿かして米搗程は火も焼ず

 脚気を侘て膏薬をはる      槐市

 (宿かして米搗程は火も焼ず脚気を侘て膏薬をはる)

 

 精米しすぎると脚気になる。

 

無季。

 

二十七句目

 

   脚気を侘て膏薬をはる

 大内に井戸ほりを召す秋のくれ  一桐

 (大内に井戸ほりを召す秋のくれ脚気を侘て膏薬をはる)

 

 大内は皇居のこと。銀シャリが脚気を生むというなら、公家の間にも多かったのか。

 

季語は「秋のくれ」で秋。

 

二十八句目

 

   大内に井戸ほりを召す秋のくれ

 地震にころぶ松の下露      乍木

 (大内に井戸ほりを召す秋のくれ地震にころぶ松の下露)

 

 寛文二年の寛文近江・若狭地震だろうか。ウィキペディアに、

 

 「本地震は近江国や若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約41万人の人口を有し依然として国内第二の大都市があった京都盆地北部においても被害が多発した。」

 

とある。

 井戸を掘って地下の鯰を呼び覚ましてしまったのだろうか。

 

季語は「下露」で秋、降物。「松」は植物、木類。

 

二十九句目

 

   地震にころぶ松の下露

 有明に母の里より文をこし    百歳

 (有明に母の里より文をこし地震にころぶ松の下露)

 

 母の里からこんな明け方に急ぎの文が届くのは、あまり良い知らせとは思えない。危篤を知らせるものか。折から悪いことには悪いことが重なるとばかりに地震が起こる。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。「母」は人倫。「里」は居所。

 

三十句目

 

   有明に母の里より文をこし

 形見にびんを残す陸奥      式之

 (有明に母の里より文をこし形見にびんを残す陸奥)

 

 遥か陸奥の地で客死したのであろう。故郷から手紙が来るが、既に読む人もいない。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   形見にびんを残す陸奥

 掛香を小袖のふりに縫ふくみ   村皷

 (掛香を小袖のふりに縫ふくみ形見にびんを残す陸奥)

 

 愛しい人の訃報を聞いた女性に転じる。

 

無季。恋。「小袖」は衣裳。

 

三十二句目

 

   掛香を小袖のふりに縫ふくみ

 三味糸引てならぶ乞食      芭蕉

 (掛香を小袖のふりに縫ふくみ三味糸引てならぶ乞食)

 

 鳥追(とりおひ)だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥追」の解説」に、

 

 「① 田畑の作物をあらす害鳥を追い払うこと。また、そのしかけ。鳥おどし。

  ② 農村の小正月の行事の一つ。正月一四日の晩と一五日の暁、または、一四・一五・一六日の早朝に、田畑の害鳥を追い払うため、若者や子どもたちが、ささら、杓子(しゃくし)、槌(つち)、棒などを打ち鳴らし、鳥追歌をうたって家々を回り歩く。稲穂の実るころに行なう地方もある。鳥追遊び。鳥追祭。《季・新年》

  ※随筆・本朝世事談綺(1733)四「その中にささらをすりてうたふもの数人あり。〈略〉鳥追(トリオヒ)と云者也とぞ」

  ③ 新年に人家の門に立ち、扇で手をたたきながら祝歌をうたって米銭を乞うた乞食。京都悲田院に住む与次郎の始めたものという。たたき。たたきの与次郎。《季・新年》

  ※咄本・醒睡笑(1628)一「千秋万歳ともまた鳥追(とりおひ)ともいふかや、家毎に歩きて慶賀をうたふに」

  ※俳諧・桜川(1674)春一「鳥追や春をもってなる口拍子〈久友〉」

  ④ 門付(かどづけ)芸の一つ。江戸時代、新年に女太夫が新服に日和下駄、編笠姿で、三味線をひき鳥追歌をうたって人家の門に立ち米銭を乞うたもの。《季・新年》

  ※雑俳・柳多留‐三(1768)「鳥追ひは笠を一寸一寸とばちで上」

 

 ④の女大夫が元禄の頃に既にいたのであろう。

 

季語は鳥追の意味なら春。「乞食」は人倫。

 

三十三句目

 

   三味糸引てならぶ乞食

 東山中にもはなは清水寺     乍木

 (東山中にもはなは清水寺三味糸引てならぶ乞食)

 

 前句を「鳥追」で春として、花の定座を繰り上げたのだろう。

 清水寺の参道は三味線の音も聞こえてくれば乞食もたくさんいる。花の名所は数あれど、東山なら清水寺が一番だ。

 

季語は「はな」で春、植物、木類。釈教。「東山」は名所、山類。

 

三十四句目

 

   東山中にもはなは清水寺

 げにのどかなる知恩院のかね   一桐

 (東山中にもはなは清水寺げにのどかなる知恩院のかね)

 

 知恩院は祇園社の裏で、清水寺から北に一キロくらいの所にある。清水寺にいれば知恩院の鐘も聞こえてくる。

 

季語は「のどか」で春。釈教。

 

三十五句目

 

   げにのどかなる知恩院のかね

 連歌師の杖をわするる春の空   式之

 (連歌師の杖をわするる春の空げにのどかなる知恩院のかね)

 

 「杖をわするる」は旅に出るのを忘れるということ。春の京の長閑さに、しばらくは都に留まりたいと思う。

 「春の空」は旅の空と同様で、遥か彼方に思いを馳せることをいう。

 

季語は「春の空」で春。「連歌師」は人倫。

 

挙句

 

   連歌師の杖をわするる春の空

 すいかむたたむ庭の若草     呉雪

 (連歌師の杖をわするる春の空すいかむたたむ庭の若草)

 

 春は五句までOKなので、前句の連歌師の普段着の水干を畳み、庭を眺めてはくつろぐ姿をもって一巻は目出度く終わる。

 

季語は「若草」で春、植物、草類。「すいかむ」は衣裳。「庭」は居所。