更科紀行─名月の旅─

 『更科紀行』は貞享五(一六八八)年秋、『笈の小文』の旅の帰りに中山道(なかせんどう)を経由して、更科(さらしな)姨捨(おばすて)(やま)の月を見に行った時のもので、真蹟草稿も発見されている。

一、姨捨山へ

 「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に(ふき)さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人(ゑつじん)(いふ)。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の事も心もとなしと、荷兮子(かけいし)()(ぼく)をしておくらす。をのをの心ざし(つく)すといへども、()(りょ)の事心得ぬさまにて、(とも)におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々におかしき事のみ多し。」

 

 貞享五(一六八八)年四月二十日、明石夜泊をもって『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は、四月二十三日には京都に戻り、五月中旬には岐阜に戻る。そして、八月十一日、ふたたび芭蕉は信州更級の姨捨山の月を見るべく、岐阜を発つことになる。

 姨捨山は、『古今集』(九〇五年成立)巻十七の、

 

   題しらず

 わが心(なぐさ)めかねつ更級(さらしな)(さらしな)や

    姨捨山(おばすてやま)に照る月を見て

                     詠み人しらず

 

の歌で古くから知られ、この歌の由来については、『大和物語』(九五一年頃の成立か)の百五十六段や、『今昔物語』(一一二〇年代以降の成立)巻第三十、第九の説話に描かれている。そして、この説話は中世には謡曲『姥捨(おばすて)』という能になって、各地で上演され、よく知られるものとなっていった。

 『大和物語』に描かれた姨捨山伝説は、以下のとおりである。

 

 「信濃の国に更級といふ所に、男すみけり。若き時に、親は死にければ、をばなむ親のごとくに、若くよりそひてあるに、この妻の心憂きことおほくて、この(しうとめ)の、老いかがまりてゐたるを、つねに憎みつつ、男にもこのをばの御心(みこころ)さがなくあしきことをいひ聞かせければ、むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく、このをばのためになりゆきけり。このをば、いとたう老いて、ふたへにてゐたり。これをなほ、この嫁、ところせがりて、今まで死なぬことと思ひて、よからぬことをいひつつ、『もていまして、深き山に捨てたうびてよ』とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。月のいとあかき()、『(おうな)ども、いざたまへ。寺にたうときわざすなる、見せたてまつらむ』といひければ、かぎりなくよろこびて負はれにけり。高き山のふもとにすみければ、その山にはるばると入りて、高き山の峯の、おり来べくもあらぬに、置きて逃げて来ぬ。『やや』といへど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、いひ腹立てけるをりは、腹立ちてかくしつれど、年ごろおやのごと養ひつつあひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。この山の(かみ)より、月もいとかぎりなくあかくいでたるをながめて、夜ひと夜、いも寝られず、悲しうおぼえければ、かくよみたりける。

 

 わが心なぐさめかねつ更級や

    姨捨山に照る月をみて

 

とよみてなむ、またいきて迎へもてきにける、それよりのちなむ、姨捨山といひける。なぐさめがたしとは、これがよしになむありける。」

 

 この物語のポイントは、捨てるのが実の母ではなく、しかも育てられた男の側からではなく、妻の側から提案されたものだったことだ。つまり、この背後には月並ながら、嫁と姑の対立と、その板ばさみになる男というテーマがあったと思われる。

 しかも「むかしのごとくにもあらず、おろかなることおほく」とあり、今でいう認知症であったことがほのめかされている。長年に渡って嫁姑対立に悩まされてきた嫁が、介護に疲れ果てて殺意を抱くまでになるということは、現代社会でも十分ありそうなことだ。

 しかしなぜか、この物語は一九五六年に深沢七郎が『楢山節考』を書いて、それがベストセラーになったことから、甲州の楢山と信州の姨捨山が何となく結び付けて語られることが多くなり、昔は口減らしとしてしばしばこういうことが行われていたという説がまことしやかに流布して、今日まで影響を及ぼしている。

 口減らしは通常赤ん坊を間引くことが多く、少なくとも人口の抑制という点では、姨捨は決して効果的な方法ではない。仮りにある社会が極限の貧しさにあり、飢餓に瀕していたとしても、老人を犠牲にするということは稀だっただろう。

 単純に考えても、口減らしを行なうなら、あと何年生きるかわからない老人の口を減らすよりは、赤ん坊の口を減らした方が、長い将来にわたって人口が一人減るわけだから、人口の調整としては確実であり有効だったはずだ。放っておいても数年以内に死ぬ人間を若干早く殺した所で、人口抑制の効果はほとんどないに等しい。

 マーヴィン・ハリスによれば、特に女児の口減らしが効果的だったという。なぜならば、子供を生む可能性のあるものを一人減らす方が、将来の人口に与える影響が大きいからだ。男児を一人殺しても人口が一人減るだけだが、未婚の女児を一人殺せば、その女児が将来産むであろう子や孫まで減らすことができる。だから実際に意図的に間引かれなくても、女児は育児の際に常に男児より軽視され、そこにハリスは男尊女卑の起源があったという。

 多分、生贄に捧げられるのがだいたい処女と相場が決まっているのもそのためだろう。

 「姨捨伝説」は今日の新聞の三面記事のように、極めて特殊で極限的なショッキングな例として語り継がれてきたのであろう。単なる子殺しや捨て子や子供の人身売買は、かつての貧しい農村ではそんなに珍しいことでもなく、語り継ぐほどの価値もなかったに違いない。しかし、姨捨てというのは、やはり異常だという感覚があったのであろう。

 実際、どんな極貧の状況にあっても、実の親を捨てることことはまずなかったであろう。姨捨伝説は、血縁のない認知症老人の扶養という特殊な状況で起きた事件と見た方がいい。しかも、最後は思いなおして迎えに行っている。

 絶えず飢餓と隣り合わせにあり、人が生きてゆくのもやっとで、子供をやむなく口減らしをしているような状態の貧しい農村であれば、認知症老人の存在は今日と比べものにならないほどに悲劇的だったであろう。ある意味では、ボケたとはいえ老人を粗末に扱えないという生得的な感情と、飢餓と隣り合わせのぎりぎりの現実との関係で、葛藤の末、姨捨てという行為に及んだと解釈すべきで、この葛藤が理解できなければ、姥捨て伝説は決して多くの人の心を捉えることがなかったであろう。

 老人が尊敬されるというのは人類にとって普遍的な傾向であり、多分何らかの生得的な感情なのだろう。今でこそ老人は珍しくなくなったが、昔は老人になるまで生きられるということ自体が稀なことだった。だからこそ「古希(こき)」という言葉があるくらいだ。(今日、敬老精神が薄れてきているのは、昔に較べると老人の希少性が希薄になったせいだろう。)

 老人になれるということは、それ自体が優秀な遺伝子を持つことの証しで、老人を抱える家族は、その遺伝子を引き継いでいるわけだから、それを誇りとするのは当然だ。だから、敬老精神は文化などではなく、遺伝子に刻まれた人間の本能だと考えてもいいかもしれない。

 これに対して、そうではない、老人には長い人生経験の中で培われてきた知識と技術を持っているからだと言う人もいるかもしれない。これは背理である。なぜならば、それならば脳の障害によってそれらが損なわれてしまった老人は、もはや敬意に値しないのか、ということになる。敬老精神は「実利」の問題ではないし、あくまで実利と切り離して考えなければならない。

 芭蕉もまた、この伝説に心動かされ、更科の姨捨山の月を一度見てみたいと、また胸中の道祖神が騒ぎ出す。

 「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に(ふき)さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人(ゑつじん)(いふ)。」

 月見をしきりに勧めるのは「秋風」であり、いわば、心の中に吹く無常の秋風を感じて、いてもたってもいられなくなったのであろう。昭和四十二(一九六七)年に発見された真蹟草稿には、「秋風の身にしミ心にさはぎて」をあったのを直した跡が見つかっている。「身にしむ」というと、『野ざらし紀行』の旅立ちの発句、

 

 野を心に風のしむ身哉    芭蕉

 

の句が思い起こされる。

 人はいつかは死ぬ身であり、この世にいる時間は限られている。何で人生はこんなに悲しいことが多く、争いに満ちあふれ、不条理ばかりが多いのか。それを何とかする方法はないのだろうか。そんな難問に、生きている間に答を見つけ出そうと思うなら、一刻の猶予はない。姨捨山には何かがあるに違いない。

 同じように、姨捨伝説に心動かされ、道祖神に招かれた客が一人いた。越智越人。明暦二(一六五六)年、北越の生まれで、紺屋を営む三十二歳。

 

 花にうづもれて夢より(すぐ)に死なんかな

 おもしろや理屈はなしに花の雲

 何事もなしと過ぎ行く柳哉

 

などの句がある風流人だ。

 「木曾路は山深く道さがしく、旅寐の事も心もとなしと、荷兮子(かけいし)()(ぼく)をしておくらす。をのをの心ざし(つく)すといへども、()(りょ)の事心得ぬさまにて、(とも)におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々におかしき事のみ多し。」

 荷兮(かけい)もまた、越人とともに名古屋の蕉門を代表する人間で、ともに貞享元(一六八四)年の『野ざらし紀行』の旅の時に、それまでの貞門から蕉門に移ることになった。この場合は尾張藩士であるため、敬意をもって「子」をつけているものと思われるが、其角を晋子と呼んだり支考を盤子と呼んだりするように、親しみを込めて子を付ける場合もある。

 荷兮というと、

 

 こがらしに二日の月のふきちるか

 

の句を詠んで、「木枯しの荷兮」と呼ばれるようになるが、それはこの年の冬のことか。

 何か旅の手伝いにと多分自分の部下をつけてくれたのだろう。「羇旅の事心得ぬさま」というのは、必ずしも旅そのものに慣れていないということではなく、むしろ風流の旅の心を知らないという意味だろう。

 荷兮がわざわざ旅に不慣れなものをお供につけるような愚を犯すはずもあるまい。街道での宿や馬の手配をしたり、旅費の管理をしたりという重役に堪える人選はしたはずだ。いわば添乗員のようなものだったのだろう。

 ただ、中仙道の道には詳しいが、公用での旅しかしたことのなかったか何かで、名所や歌枕に疎く、芭蕉らとはかなり頓珍漢な会話を交わしたのではなかったか。

二、道心の僧

 「何々といふ所にて、六十斗(むそぢばかり)の道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たはむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来たれるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの(ども)、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に(つけ)て、我をその上にのす。高山奇峰(かしら)の上におほひ重なりて、(ひだ)りは大河ながれ、岸下(がんか)千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち)もたいらかならざれば、(くら)のうへ静かならず。只あやふき(わづらひ)のみやむ時なし。」

 

 ここでまた、六十にもなるという老僧が登場する。「むつむつ」というのは、今日でも「むっつり」とか「むっとする」とかいうが、本来は「(むづか)し」から来た言葉だろう。とにかく無愛想な老人で、風流の道にも興味がなかったようだ。「難しい」というと、今では簡単ではない、困難なという意味だが、本来はけだるそうな、覇気のないというニュアンスだった。

 

 あかつきをむつかしさうに鳴く(かはづ)     越人

 

の句もある。

 この老僧は、善光寺詣でのガイドか何かだったのだろうか。何やら大きな荷物を背負ってやってきたが、どうにもよろよろしている。荷兮がよこしたお供の方が役に立つようで、すぐに馬の手配をして、その老僧の荷物だけでなく、みんなの荷物を一つに束ねて馬に背負わせて、その上に芭蕉が乗るようにした。「羇旅の事心得ぬさま」などというが、ところがどうして立派に使える男だったようだ。

 上には木曽山脈がそびえ立ち、下を見下ろせば木曽川が流れ、道は上り下りの坂の連続で、落馬するのではないかと気が気でなかったのだろう。杖突坂(つえつきざか)で芭蕉は一度落馬しているから。

三、木曽路

 「(かけ)はし・()(ざめ)など過ぎて、猿が馬場・たち峠などは、四十八曲リとかや、(つづら)(をり)(かさな)りて、(くも)()にたどる心地せらる。歩行(かち)より(ゆく)ものさへ、()くるめき、たましゐしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる()(ぼく)いともおそるるけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、(おち)ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて、あやうき事かぎりなし。仏の御心(みこころ)衆生(しゅじゃう)のうき世を見給ふもかかる事にやと、無常(むじゃう)迅速(じんそく)のいそがはしきも、(わが)身にかへり見られて、あはの鳴戸(なると)は波風もなかりけり。」

 

 このあたりの行程は、例によって記憶が前後している。まず、(かけはし)寝覚(ねざめ)ノ床だが、岐阜から行くと寝覚ノ床の方が手前になる。行程はおそらく、まず岐阜から犬山へ向い、今でいう二十一号線を通って、中仙道に出たと思われる。そこから先は木曽谷を通る。

 恵那、中津川、そして寝覚ノ床は上松(あげまつ)にある。木曽の御嶽山(おんたけさん)と中央アルプスの木曾駒ケ岳とにはさまれた、急峻な谷で、木曽川の水によって削られた花崗岩が、ちょうど寝床のように平になったところだ。かつてはダムなどがなかったため、木曽川の水量も今より多く、かなり豪快な景色だったのだろう。

 (かけはし)は険しい崖に丸太と板を組んで藤蔓で結わった橋で、正保四(一六四七)年に旅人の松明が燃え移り焼失したため、尾張藩は慶安元(一六四八)年に木橋をかけた石積みを作り上げた。芭蕉が通ったのはそういうわけで、丸太を藤づるで組んだ道ではなく、立派な木橋だった。

 西行法師に、

 

 ひときれは都を捨てていづれども

    めぐりてはなほきそのかけはし

 

の歌もあるが、木曽にはいたるところに桟があったため、果たしてこの桟だったかどうかはわからない。鎌倉の鴫立つ沢と同様、西行の歌が有名になったために、後の人がここがその有名な鴫立つ沢だと言って歌枕ができる例もあり、この桟もその類かもしれない。

 猿が馬場峠と立峠も順序が逆だ。善光寺への道は、名古屋側から行くと塩尻の手前の()()から松本へ向い、そこから立峠を越え、猿が馬場峠を越えると更科の里に着く。

 しかし、この木曽路に関する記述は、実にあっさりとしている。多分、我々からすると雄大な自然は珍しいもので、そこに過ぎ去った時代のノスタルジーを感じるために、美しさを感じ、癒される思いがするのかもしれない。

 特に戦後の急速な開発の波に、山という山には道路が走り、高圧線の鉄塔が立ち並び、谷という谷にはダムが建設され、もはや手つかずの自然はほんの片隅にわずかに残されたもので、人間が守ってやらなければすぐにも消えてしまうようなか弱いものになってしまった。

 だが、芭蕉の時代には何ら珍しいものではなかったのではなかったか。むしろあまりに人間を圧倒するかのような大自然は人間に脅威を与えるもので、ただただ目がくらみ足が震えるようなものだったのだろう。()(ごめ)の宿も今でこそ昔の面影を残す名所だが、当時は何の変哲もないひなびた宿場町にすぎなかったのだろう。

 これは、芭蕉の時代に満天の星空を詠んだ句がほとんどなかったりすることにも関係があるかもしれない。また、宗祇法師が『筑紫(つくし)道記(みちのき)』のなかで、海辺の景色に目を止めながらも、

 

 「松原遠く連なりて、箱崎にもいかで劣り侍らむなど見ゆるは(たぐひ)なけれど、名所ならねば()ゐて心とまらず」

 

と言ったことにも関係があるかもしれない。

 名所というのはあくまで故事来歴を呼び起こすことで名所となるし、連歌・俳諧で名所という場合は歌枕、つまり古歌に詠まれた所という意味になる。今で言えば「聖地」の感覚に近いかもしれない。

 御嶽山も木曽駒も、また松本を通ったときにはひょっとしたら穂高連峰も見たかもしれないが、それらは当時は名所ではなかった。それよりはるかに低いが、姨捨伝説があるがゆえに姨捨山(冠着山)は名所であり、はるばる芭蕉の足を運ばすのに値するものだった。自然は今日では「美」とされているが、当時はむしろカント的な意味で「崇高なるもの」の次元にあったと思われる。

 ここでの芭蕉の関心は、目もくらみ魂の縮み上るような険しい道で、荷兮の連れてきた同行人が何事もないかのように居眠りして、馬から何度も落ちそうになったということだった。やはり思ったとおり、木曽の道を知り尽くした男なのだろう。何度も中仙道を通いなれた人間には、山また山の景色も変化に乏しい退屈なものでしかなかったか。

 それを芭蕉は一つの人生の教訓に持ってゆく。悟りきった人間にとっては、人生のめまぐるしい浮き沈みも喧騒も修羅場も、何てこともないみな同じものに見える。「あはの鳴戸は波風もなかりけり。」は、兼好法師の作と伝えられる、

 

 世の中を渡りくらべて今ぞ知る

    阿波の鳴門は波風もなし

 

の歌の引用だ。

四、旅の夜

 「夜は草の枕を(もとめ)て、昼のうち思ひまうけたるけしき、むすび(すて)たる発句など、矢立(やたて)(とり)(いで)て、(ともしび)(もと)にめをとぢ、(かしら)をたたきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもひするにやと推量し、我をなぐさめんとす。わかき時おがみめぐりたる地、あみだのたふとき数をつくし、をのがあやしとおもひし事共(ことども)はなしつづくるぞ、風情のさはりとなりて、何を(いひ)(いづ)る事もせず。」

 

 八月十一日(旧暦)に旅立ち、十五夜まで四泊。馬に乗ったとはいえ、かなり急ぎの旅だった。昼間はずっと馬にゆられて、旅の疲れをためないためには居眠りも必要だった。俳諧の方も夜に宿についてからようやく昼の景色を思い出し、発句を案じたりしていると、風流の道とは無縁の例のむっつりした坊さんがホームシックと勘違いして、慰めようとしていろいろ思い出話を始める始末だった。もっとも、それをうまいことネタにしてしまうあたりはさすが芭蕉だ。

 

 「とてもまぎれたる月影の、かべの破れより()()がくれにさし入りて、引板(ひた)の音、しかおふ声、所々にきこえける。まことにかなしき秋の心、(ここ)に尽くせり。」

 

 折から宿には月の光が差し込み、月の明るい夜なので鹿狩りもあたりで行われていた。山では鹿がしばしば農地に現れるため、駆除の対象にもなっていたし、また鹿の肉も当時は広く食用にされていた。

 「引板(ひた)」というのは鳴子(なるこ)のことで、板をカタカタカとスタネットのように鳴らし、鹿を追い出すのに用いた。鹿狩りは大勢で鹿を山から追い出し、出てきたところを待ち伏せして弓で射るもので、風流とは程遠いものだった。

 鹿狩りではないが、

 

  (ゐのしし)のねに行くかたや(あけ)の月   去来

 

の句もある。妻恋う鹿の遠音(とおね)とは別の意味で哀れではある。

 芭蕉は『千載集』の、

 

 ことごとに恋しかりけれむべしこそ

    秋の心を(うれへ)といひけれ

                   藤原(ふじわらの)季通(すえみち)()(そん)

 

の歌を思い起こし、「まことにかなしき秋の心、(ここ)に尽くせり」と記す。

 

 「『いでや月のあるじに酒(ふる)まはん』といへば、さかづき持出(もちいで)たり。よのつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつつかなる蒔絵(まきゑ)をしたり。都の人はかかるものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、おもひもかけぬ興に(いり)て、𤦭(せい)琬玉巵(わんぎょくし)の心ちせらるるも所がらなり。」

 

 宿の主人は酒を飲もうと盃を持って現れたが、この盃が、今でいう木曽漆器の原型ともいうべきものだったのだろう。そこには蒔絵で絵が描かれていた。

 蒔絵は漆で絵を描き、その上に金銀の粉や螺鈿などを施すもので、漆を接着剤として使う。江戸時代前期は特に加賀蒔絵のような高度な技術が確立された時代でもあり、木曽蒔絵も同じ頃に作られるようになったのだろう。ただ、「ふつつかなる」と芭蕉の評価はかなりきびしい。

 ただ、都の人なら見向きもしないが、このような田舎で思いもかけず高度な工芸品に出会えたことで、「𤦭(せい)琬玉巵(わんぎょくし)の心ち」と持ち上げている。当時はまだまだ蒔絵は京都が中心で、木曽漆器の評価の低さも当時としては普通だったのだろう。

 さて、以下に発句が四句掲げられている。

 

「あの中に蒔絵(まきえ)(かき)たし宿の月

 (かけはし)やいのちをからむつたかづら

 桟や(まづ)おもひいづ馬むかへ

 霧(はれ)て桟はめもふさがれず   越人」

 

 「あの中に蒔絵書きたし宿の月」は「宿の月の中に蒔絵描きたし」の倒置。「あの中に」と何の中にだろうと期待を持たせ、最後に「宿の月」と持ってくる。月は漆黒の夜空に螺鈿のように見えるため、その周囲に萩、ススキや野に臥す鹿などを描き込めば、なかなか風流にちがいない。月そのものの中に描き込むのではなく、宿の窓から見える区切られた月の出ている夜空の中にと読んだ方がいいだろう。

 「(かけはし)やいのちをからむつたかづら」は「桟に命をからむ蔦かづらや」の「や」を倒置にして前に持ってきて、「桟」を強調した句。人もまた桟によって生活を成り立たせ、命をつないでいるという点では、あのツタやカズラのような心細い存在だ。

 「桟やまづおもひいづ馬むかへ」の「馬むかへ」は「駒迎へ」とも言い、かつて宮中に献上される馬を、八月十六日に逢坂(おうさか)の関まで迎えにいったという行事のことだが、木曽から献上された馬もこの桟を通ったのだろうか、と思い起こす。

 「桟に駒むかへをまず思ひいづや」の倒置で、「桟や」と「や」を前に持ってくることで「桟」を強調し、桟に何を思い出すのだろうかと期待させておいて、最後に「駒むかえ」を持ってくる。

 『拾遺集』の、

 

 あふさかの関のし水に影見えて

    今やひくらむもち月のこま

                   紀貫之

 

の歌を思い起こしたか。

 「望月の駒」は折からの名月に、信州佐久地方の地名である「望月(もちづき)」を掛けたもの。ここで放牧された馬が名馬とされていた。

 なお、『去来抄』には、

 

 駒ひきの木曾やいづらん三日の月   去来

 

の句に対して、駒むかえが八月十六日だから木曽を出たのは三日ごろだという数字合わせの句にすぎないと芭蕉が酷評したことが記されている。芭蕉の句は、木曽から献上される馬が、狭くて目もくらむような粗末な橋を渡るところに一つの姿があるが、去来の句にはそれがない。

 

 最後に「霧晴れて桟はめもふさがれず 越人」の句だが、霧の中だと距離感がわからなくなり、見えない山は果てしなく高く、見えない谷底はどこまでも深く感じられ、不安になる。霧が晴れれば、山や谷の距離感ははっきりし、不安もなくなる。心の曇りも同じことで、何がなんだかわからず、五里霧中になって生きている時は、どんな願いもかなわないもののように思えて、絶望感に駆られる。しかし澄み切った心で物事を見れば、物事はただあるがままにあるだけだ。霧が晴れれば桟も目を塞がれることはない。そんな越人の教訓の句で、この連作は締めくくられる。

五、姨捨山

 ここから先は文章はなく、発句だけが並べられている。『鹿島詣』と同様、紀行文としては未完だったのかもしれない。

 

    姨捨山

 (おもかげ)(おば)ひとりなく月の友

 いざよひもまださらしなの(こほり)(かな)

 さらしなや()よさの月見雲もなし    越人

 ひょろひょろと(なほ)露けしやをみなへし

 身にしみて大根からし秋の風

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉

 送られつ(わかれ)ツ果ては木曾の秋

 

 蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁文集』には、

 

 「姨捨山(おばすてやま)は八幡と(いふ)里より一里ばかり南に、西南に横をれてすさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。なぐさめかねしといひけんもことわりしられて、そぞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとど涙も落そひければ、」

 

という一文が挿入されているが、これは『更科姨捨(さらしなおばすて)月之(つきの)(べん)』という『更級紀行』の前身に当る俳文の後半部分をくっつけたものだ。

 更科の里から見ると姨捨山は南側にあり、今日では(かむり)着山(きやま)と呼ばれている。標高一二五二メートルで、たしかに信州の山としてはそんなに高くない。山が特別高いだとか、奇岩奇峰のような形に特長があるという外見上の理由で名所となっているのではない。当時の名所は何らかの故実を持っていることが重要だった。それは姨捨の伝説を持っているから特別な山であり、「あはれ深い」山だった。

 なお、ここには()(ごと)の月の記述はない。田毎の月は、西行法師が一反歩を四十八枚に分けた棚田を、阿弥陀四十八願にちなみ「四十八枚田」と名づけたという伝説によるものだ。

 田毎の月といっても、本当にいくつもの田に月の姿が映るわけではない。月そのものではなく、月明かりで明るくなった夜空が水面に反射し、いくつもの田んぼが闇の中に窓のように浮かび上がる現象を言う。ビルのネオンなどの夜景のなかった時代には、これだけでも十分目を引く美しいものだったのであろう。

 これを見るには、田んぼに水が張られていて、なおかつ稲が十分育ってない状態、つまり田植えの前後でなければならない。中秋の名月に田毎の月が見えたはずはなかった。

 

 帰る雁田毎の月のくもる夜に    蕪村

 

 この句は芭蕉の時代より百年のち、晩春の雁が北へ帰ってゆく頃、既に田植えの準備のできた棚田に、朧の月が写り、それが行く春を惜しんで涙で曇っているようだという句だ。

 芭蕉も『更科紀行』の旅の前に、大津に滞在した六月の初め頃、瀬田のゲンジボタルを見て、

 

   木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、

   まづ瀬田の螢を見に出でて

 この螢田毎の月にくらべみん

 

と詠んでいる。瀬田の田の上を飛ぶゲンジボタルの光は田んぼの水面に反射して、田毎の月もこんなだろうかと想像したのだろう。しかし、田んぼに光が映るのは、田に水が入っている夏だからであり、中秋の名月ではなかった。

 西行もまた、

 

 雨雲のはるるみ空の月かげに

    恨みなぐさむ姨捨の山

                   西行法師

 あらわさぬわが心をぞ恨むべき

    月やはうとき姨捨の山

                   同

 くまもなき月のひかりをながむれば

    まず姨捨の山ぞ恋しき

                   同

 

のような中秋の名月を詠んだと思われる歌はあるが、田毎の月の歌はない。

 千枚田は日本だけでなく、東南アジアやヒマラヤ山麓などでも見られる。水田耕作可能な山地では、むしろありふれた光景なのかもしれない。急な斜面に小さな田んぼをいくつも作っても、平地に比べれば面積あたりの効率も悪いし、農民にとってもまた急な斜面を上り下りしなくてはならず、かなりの重労働となる。それでもこのような土地にまで田んぼを作らなくてはならないのは、ひとえに人口増加の圧力のせいといえよう。

 姨捨伝説はこうした、限界まで農地を増やさねばならないほどぎりぎりの状況に置かれていた過酷な現実が生んだ物語にちがいない。それは、千枚田の景色の牧歌的な美しさと裏腹に、そうまでして田んぼを増やさざるを得なかった過酷な生活があった。

 

 (おもかげ)(おば)ひとりなく月の友   芭蕉

 

 さて、芭蕉のこの句だが、これは「俤は姨一人泣く月の友や」の「や」の部分が倒置になったもので、これによって「俤」が強調されることになる。

 「俤」は人の姿があたかもそこに見えるかのような幻をいい、姨捨山にかかる月を見ていると、今にもそこに姨の姿があるようだという意味になる。その姨というのは、やはり月を見ながら一人で泣いている。それを月のみを友としている「月の友」と表現したことが、技有りといえよう。

 

 いざよひもまださらしなの郡哉  芭蕉

 

 十五夜の名月だけでなく、その翌日の十六夜(いざよい)の月も、十五夜に負けず劣らず趣がある。一日滞在を伸ばしてでも見る価値はある。後に『奥の細道』の旅の途中、新潟で詠んだ、

 

 文月や六日も常の夜には似ず

 

にも通じる心か。

 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人



 「さらしなの三よさの月見雲もなきや」の倒置。

 これは芭蕉の名月の句、十六夜(いざよい)の句に応じたもので、十五夜、十六夜だけでなく、十七夜まで含めた三日間の月も曇ることがなかった、と続ける。一句としてはそれほど見るべきところもなく、こうやって三句並べることで意味を持つ句といってもいいだろう。

 

 ひょろひょろと尚露けしやをみなへし 芭蕉



 「をみなへしはひょろひょろと尚露けしや」の倒置。

 オミナエシは人里に咲く花で、今やその生態学的地位(ニッチ)はすっかりセイタカアワダチソウに奪われてしまって見る影もない。背は高いがどこか細く頼りなげな花は女性的で、それゆえ本来高貴な女性を意味する「女郎」の文字が当てはめられてきた。風に吹かれて揺れるさまが、互いに寄り添うかのように見える。

 この句は単独だと昼夜の区別はないが、名月の句の後に来ることで、月夜のオミナエシの句になる。「ひょろひょろと」は俳言で、万葉・古今以来の古歌で名高いこの花を、あえて卑俗な擬態語で落とす手法は、貞享二(一九八五)年の上島(うえしま)(おに)(つら)の、

 

 にょっぽりと秋の空なる富士の峯

 

や、芭蕉が後に詠む、

 

 梅が香にのっと日の出る山路かな

 

の句を彷彿させる。細くて頼りなげな花の姿を一度そう笑っておきながら、「尚露けし」と続けることで、露が月の光に黄金色に輝き出す。その輝くものは何か、オミナエシだ、となる。

 この句は本来、『更科紀行』の旅立ちの時に詠んだ句で、

 

 ひょろひょろと転けて露けし女郎花     芭蕉

 

だった。『古今集』秋上の、

 

   題しらず

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花

    我おちにきと人にかたるな

               僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)

 

をふまえたもの。女郎花という名前に惹かれて折っただけで、女郎の魅力に負けたわけではないという歌で、女郎花を本当の女性と掛けた二重の意味を持っている。今でも口説いたり口説かれたりすることを、「落とす」「落とされる」というが、平安時代からの歴史のある言葉だ。芭蕉はそれをさらに「こける」という俗語で落としてみせる。

 

 身にしみて大根からし秋の風

 

 「大根」は冬の季題だが、秋にも詠む。季題は杓子定規に守るべきものではなく、本来はもっと柔軟に、実際の季節感に即して用いるべきものだった。

 五行説では木・火・土・金・水の五つのエレメントはそれぞれ、春・夏・土用・秋・冬に対応する。これと同様、五味にも対応していて、金気の秋は「辛」に相当する。さらに色では秋は「白秋」というくらいで「白」に対応しているから、大根の白い姿とも重なる。それゆえ、白くて辛い大根は秋風を思い起こさせる。

 春に万物を生じ、秋には止むという、万物が死へと向い、自らの死への存在を自覚させるような秋の風に、白くて(から)い大根もまた人生の(つら)さを感じさせる。この句自体は直接更科の月とは関係ないが、更科の棚田の過酷な生活を思うと、大根の辛さもまた身にしみるものとなる。

 姨捨の伝説を生んだ貧しさと生きることの過酷さと、それを静かに見つめているかのような月。あの月はみんな知っているのだろうか。生きるために子を間引き、生きるために娘を売り、果てることのない苦しみと悲しみを噛みしめながら、人は今日も急な山間の棚田を上り下りし、わずかな田んぼを守っていることを。そうしてかろうじて命をつなぎ、生きながらえ、いつかそこから解き放たれる希望を抱き続けていることを。その思いが秋風となり、雲を振り払い、月を輝かせていることを。我々が死への存在であること、そして、そこに「生きるため」というすべての生存競争の重圧から自由になるかすかな希望があるということを。

 

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉

 

 土産といっても、今日のように、大量に買っては宅急便で送るというわけにもいかない。長い道のりを背負って歩ける程度のものといえば、そんな大きなものにはできない。江戸時代後期ともなると、各地に名物の郷土菓子なども発達したが、芭蕉の時代にいわゆる土産物屋があったかどうかはわからない。

 「浮世の義理」なんて言葉もあるように、遠くの神社・仏閣などを参拝に行くとき、餞別をくれた人には何かそのお返しをしなければならない。その場合、高価なものよりも、その神社・仏閣のお守りのようなものの方がふさわしい。その意味では、この橡の実はおそらく善光寺の境内で拾ったのだろう。

 句の意味は、木曽の(とち)はいわゆる浮世の人のいう土産だ、という意味で、芭蕉は浮世の外にいて、浮世の人に土産を持ち帰るという意味ではない。それではいかにも自分を高い位置においているようで、お土産を渡す人に失礼だ。

 この土産は実際には荷兮に送った物とされている。旅の便宜のために自分の部下を付けてくれたし、多分スポンサー的な役割も果たしたのだろう。その労に比べれば、このお土産はいかにも質素だ。だが、それは芭蕉の謙遜であり、いわば乞食坊主の身にすぎない私には、この程度のお土産がふさわしいという意味だ。この翌年の春に公刊された芭蕉七部集の一つ、『()()()』には、

 

   木曽の月みてくる人の、みやげにとて(とち)

   実ひとつおくらる。年の(くれ)(まで)うしなはず、

   かざりにやせむとて

 としのくれ杼の実一つころころと     荷兮

 

の句が収録されている。

 贈り物というのは贈った方が、たとえ本人にその気がなくても恩を着せることになり、もらった人は負い目を感じる。そのため、もらいっぱなしだとそこに上下関係が生じてしまう。そこで贈り物にはお返しをするという習慣ができる。高価なものをお返しすると、かえって逆に恩を着せようとして張り合っているように映ってしまうし、お返しがもらったのと同額であれば、相手から受けた恩を帳消しにして、持ちつ持たれつの縁を切ろうとしているように受け取られかねない。(やくざから贈り物を受けた場合はそうすればいいともいう。)逆にお返しが質素であったり、全くなかったりすると、自ら乞食であり、恩を受けっぱなしであるということを表明することになる。今日のいわゆる「半返し」と言われるのは、大体ちょうどバランスの取れたお返しの目安として広まった習慣だ。

 橡の実は「にび色」つまり灰色を染める時に染料として用いられる。また、橡の実は一方で食用にもされる。韓国では「ム」という団栗の粉を水で溶いて固める料理があるが、日本でも橡の実は橡餅や橡粥にしたという。いずれにせよ僧侶の衣や精進料理にふさわしい、質素なものだ。

 

 送られつ別ツ果は木曾の秋

 

 この句も、オミナエシの句と同様、本来、『更科紀行』の旅立ちの時に詠んだ句で、初案は、

 

 送られつ送りつ果は木曾の秋   芭蕉

 

だった。

 

 岐阜を旅立つちょうどその時に、野水が京へ行くというので送った餞別句だった。野水を京へ送り、その野水に送られて木曾へと旅立つ、その両方の意味で「送られる送りつ」だった。それが『更科紀行』では、この位置に来ることで、更科で出会った人との間に出会いや別れがあって去って行く、という意味になる。

六、善光寺

    善光寺

 月影や四門四宗(しもんししゅう)も只一ツ

 吹きとばす石はあさまの野分(のわき)(かな)

 

 善光寺は大化の改新より前の六四二年、皇極天皇の勅願によって建立された寺で、まだ日本の仏教が諸派に分かれる前からあるため、宗派に関係なくすべての人に開かれたお寺となった。実際には天台宗と浄土宗が中心となって管理運営されているという。

 芭蕉のいう四門四宗(しもんししゅう)は、特定の四つの宗派という意味ではなく、あくまであらゆる宗派、四方(よも)の宗派という意味。もちろん、ただそれだけの意味では面白くない。この句は仏教に限らず、すべての宗教、すべての思想に拡大して考えた時、その本当に深さが味わえる。

 伝統絵画の一つのモチーフに、三聖嘗酸図というのがある。孔子、老子、釈迦の三人の聖人が大きな壺に入った酢をなめて、酸っぱそうに顔をしかめるという図だ。孔子、老子、釈迦、言っていることはそれぞれ違っていても、酢を舐めれば酸っぱいという事実には変わりない。それと同じで、本来人間にとって真理というのは、結局一つなのだという、そういう教えだ。三聖がそろって囲碁を楽しむという絵もある。これも思想信条の違いを越えて、遊ぶ事の楽しさは同じという意味だ。

 思想によって酢を甘くすることができないように、どんな理屈をつけても人間として間違ったことはやってはいけない。思想的な名目があれば、何十万、何百万という人を虐殺したり飢えさせたりしてもいいのか。いいわけはない。それは明らかに思想の方が間違っているのである。

 たとえ育ての母で血はつながってないとはいえ、老いた母を山に捨ててきてもいいのか。理屈はいろいろつけられるかもしれない。かの姨捨伝説の主人公の男は、月を見て、月に諭された。誰の教えに従ったのでもない。四門四宗の教えもそれぞれ尊いが、月にまさる説法はない。人間の意思決定の上で、最終的に重要なのは教義ではない。あくまでその人間の自然な心だ。

 芭蕉はあらためてこの更級の地で、悠久の昔から月の心が変わっていないことを見て取ったのだろう。たとえ数百年を経ても、月を見て人が心を動かされる、その情は不易だ。

 芭蕉は『笈の小文』で、

 

 「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。」

 

と書いた。漢籍が教えによるなら、風雅の心は夷狄とは異なる文明の花(中華)という考えがあったのだろう。いわゆる中華思想だ。

 しかし、それは中国人に限ったものではなく、日本には日本の風雅があるし、基本的にはどこの国の人であれ、都であれ田舎であれ、人間の心は変わることはない。ここ、信州更科の里を廻り、このすぐ後にはみちのくを旅することになる。その果てに時代や地域を超えた人の心の普遍を確信し、「不易流行」を説くに至ったのではなかったか。

 日本のこうした神仏習合の中で培われた宗教的相対主義は、近代西洋のプラグマティズムを先取りするような、すばらしい文化伝統だといってもいいだろう。明治の近代化の際にも、日本はキリスト教を排除する必要もなかったし、日本がキリスト教化することもなかった。ただ、河鍋(かわなべ)(きょう)(さい)の『五聖人舞囃子之図』のように、従来の三聖にキリストと預言者ムハンマドを加えて、五聖にするだけでよかった。その根底にある真理が一つであることを確信していたからだ。宗教戦争やイデオロギーの対立に疲弊することなく、日本が順調な発展を遂げることができたのも、この宗教的相対主義のおかげといえよう。

 文学は何か人の知らないことを教え込むのではない。誰もが知っていながら忘れていることを思い出させるにすぎない。それは人として、あるいは獣すら持っているかもしれない遺伝子の声だ。

 近代化以前の社会では、たとえ生産力を高める発明があっても、あっという間に人口の増加によって食い尽くされるという、マルサス的な現実があった。だから、どこの国でも、近代以前の人間の生活はどこも似たりよったりだった。常に飢餓と隣りあわせで、いつ死ぬかわからない人生を、ただその日その日力いっぱい生きるだけだった。豊かな地域は自ずと周囲から人間がなだれ込み、貧しい地域は人が寄り付かないから、結局一人当たりの食い分は一定に保たれる。庶民は貧しいが定員が多いため、さほど激しく争う必要はない。支配者階級は豊かだが、ポストが限られているため、親兄弟でも血で血を洗うような争いを繰り返す。まさに、

 

 世の中はとてもかくても同じこと

    宮も藁屋もはてしなければ

                 蝉丸

 

だ。

 しかし、それでも人は過酷な労働や、肉親や愛する人の死や別離の苦しみに耐えながら、月に見果てぬ夢を思い描いてきた。平和、豊かさ、笑って暮らせる世の中、言葉にすればいかにもありきたりかもしれない。しかし、そうやって苦渋に満ちた生活に虚しさを感じ、心の底に風が吹くのを感じ、そしてないものを求め続けた。だからこそ今がある。

 今のわれわれの世界があまりに平和すぎて、あまりに豊かすぎて、逆にそれが不満で、昔の貧しい生活を懐かしむ人もいるかもしれない。しかし、今のこの豊かさが作られるまでに、どれだけ多くの人の血と涙があったのか、その人たちはわかっているのだろうか。

 もちろん、今の世の中にも解決しなければならない困難な問題がたくさんある。まず、どうやってこの豊かさを持続可能なものにするかだ。たとえば、地下資源は使ってゆけばいつかは枯渇する。資源循環型社会の理想は、まだ入り口に立ったばかりだ。

 

 吹きとばす石はあさまの野分(のわき)(かな)  芭蕉

 

 善光寺が(しゃく)(きょう)なのに対し、浅間は富士山の浅間神社にも通じるということで、神祇(じんぎ)と言ってもいいだろう。ここに神祇・釈教とそろって『更級紀行』は終るのだが、目出度いというよりもあくまで自然の偉大さ、厳しさでもって終る。

 浅間山は今日もなお活発な火山活動を続ける山で、特に芭蕉の時代より約百年後の天命三(一七八三)年に大噴火し、火砕流は麓の村に千二百人もの死者を伴う大きな被害をもたらた。さらに、この時の噴煙は地球を一周するほどで、ヨーロッパの空をも曇らせ、地球規模での寒冷化をもたらし、フランス革命の原因にもなったと言われている。浅間山の噴火は寛文の頃にもあって、多くの人が記憶してたことだろう。富士山には火山の噴火を鎮めるべく浅間神社が建立されたが、浅間山のほうは神様の方でも止めるすべがなかったのか。

 芭蕉は浅間山の噴火を台風(野分)にたとえている。人の世の苦しさ、自然の過酷さ。それは別のものだろうか。そうではない。人の世がきびしいのは、人口増加の圧力という自然の要因で起るものであり、憎しみや嫉妬や復讐心の情もまた人間の中の自然の成せる技だ。人間もまた自然の一部と思えば、自然の過酷さ、人生の厳しさは一つのもの。そうして、傷つき疲れ果てては、いつの世も人は月を見るのだろう。(完)