宗因独吟「花で候」の巻、解説

寛文の頃

初表

   いづれの時、いかなる人にか、難波(なには)

堀江(ほりえ)のよしあしにもつかず、男にも

あらず、法師にもあらず、(すめ)る所も

たしかならぬ(おきな)ありけり。春の日の

長あくびなるつれづれに、うとうと

とありきのうとからぬ友もがなと(うち)

ながめつつ(ゆく)に、歌舞伎(かぶき)とかやよせ

太鼓のてろつく天も花に(ゑへ)る心ちし

て、(ねずみ)()くぐりあへず、のけあみ(がさ)

のあけほんのりと見まゐらせ奉れば、

(うち)あぐる和歌の御声、親たれさまぞ

御名をばえ(まうす)まいよのと、そぞろ(ことば)

のさまざまに、うつつなの身や、よ

しよし夢の間よ、ただしゆんできた物を。

  花で(そろ)お名をばえ(まうす)(まひ)(そで)   宗因

   夢の()よただわか(しゅう)の春

 (つけ)ざしの(かすみ)底からしゆんできて

   手と手まくらをかはすとはなし

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に

   露にぬれものほほかぶりして

 霧ふかき()格子(がうし)(たち)(かど)(たち)

   (ひき)よせ顔の見ゆる三味線

 

初裏

 はなれかねともども綱の舟遊(ふなあそ)

   川ほどふかきおもひなりけり

 君となら(この)酒樽(さかだる)(のみ)ほさん

   一寸さきは名もたたばたて

 浅からぬ()()のあまりに指を(きり)

   うかれ()なれどつよき心中(しんぢゅう)

 大磯(おほいそ)に残るかたみのちから石

   道どほりさへなみだはらは

 (たつ)宿(やど)に胸のけぶりやふすぶらん

   しんきはらせぬ(かや)(ぶき)のうち

 月にしもお茶をかごとのすき心

   たつた一筆(ひとふで)おくる秋の夜

 中立(なかだち)に長物がたりくり返し

   いつか女房にしづのをだ(まき)

 

二表

 つかはるる前だれ腰の目に(つき)

   馳走(ちそう)ぶりにもほるる()籠屋(たごや)

 (あかつき)のわかれのかねを(おき)みやげ

   鳥はものかは我ぞつたなき

 ぎやうぎやうしことごとしくも(うらみ)かけ

   なまなかしんでらちあけん(なか)

 いつも(ただ)(やみ)ほうけたる物おもひ

   (おき)たり寝たり空ながめたり

 むかしむかし男(あり)けりあだ心

   小むすめかとてよびし(くや)しさ

 見返しの(かさ)の内をもちらと見て

   南無(なむ)あみだ(ぶつ)恋はくせもの

 月にくる数珠(じゅず)のつぶつぶうき思ひ

   (ちぎ)(おき)しはけふの聖霊(しゃうりゃう)

 

二裏

 みそ(はぎ)と袖の露とはいづれいづれ

   うかうかと(ゆき)かへるかよひ()

 さりともと頼み頼みて九十九夜(くじゅうくや)

   是非(ぜひ)約束のきりは明晩(みゃうばん)

 返々(かへすかへす)(しん)(しん)ぞとかく(ふみ)

   おゆかしく(そろ)なつかしく候

 けいはくのたらたら(なみだ)こぼされて

   はぎとられたる今朝(けさ)のきぬぎぬ

 色好(いろごの)みばくち(まで)をや(うち)ぬらん

   つねにうそうそ月の夜ありき

 小男鹿(さをじか)(あひ)腹中(ふくちゅう)の妻ごひに

   露ときえばや野でも山でも

 花とおもふぬしのあるをも(ぬすみ)(いで)

   さほ(ひめ)ごぜと見まゐらせつる

 

三表

 ふり袖のうしろすがたや(かすむ)らん

   ひかばなびかでなぜにぴんしゃん

 曲馬(くせうま)のやうなおこころ(うら)めしや

   坊主(ばうず)もとんと(おち)られにけり

 恋の(ふち)わたる世はただ一つ橋

   (なみだ)の小川のちは淀川(よどがわ)

 ゆかにつもるちりは誓文(せいもん)愛宕山(あたごやま)

   天狗や鼻をはじく(わが)(なか)

 たまさかに口説(くぜつ)せしことりんきして

   したたるけれど今すこしねん

 下帯(したおび)も汗もかたびらのかたしきに

   二人むかへる蚊帳(かや)ごしの月

 しのばねど(つぼね)の口もあけひろげ

   見られたがるやなまめいた顔

 

三裏

 (わか)後家(ごけ)(しゅ)勝気(しょうげ)もなき寺参(てらまゐり)

   声をきくよりついほれげきやう

 心根(こころね)無二(むに)亦無三(やくむさん)ひとしきに

   ひねるこよりを(ひき)あひの袖

 いさかひに(とり)みだし髪恥かしや

   隣のかかも(いり)おはしたり

 思はざるざこねをしたる風呂(ふろ)の中

   けふの月見もえんでこそあれ

 秋とならん(ちぎる)宇治(うぢ)(ちゃ)(のち)むかし

   おけるあふぎのしばしおなさけ

 花の下たたれし君の(しり)の下

   かすむもゆかし小便の露

 ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に

   湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ

 

名残表

 ふつと(ただ)(なみだ)こぼする浅ましや

   かたるにおつること()あやまり

 なましりなじゃうるりぶしの前渡(まへわたり)

   ()さの使(つかひ)(ゆく)さうりとり

 (はし)ちかき傾城(けいせい)(まづ)立寄(たちより)

   きせるにおもひ(つけ)てたまはれ

 盲目(まうもく)は声をそれぞと(きく)ばかり

   よばひわたるはさてもあぶなや

 浮橋(うきはし)(ふみ)はづすかとみる夢に

   ため(いき)ほつと月の下臥(したぶし)

 身にしめて(うらみ)須磨(すま)(あま)のこと

   おとどいながらちぎられにけり

 二十五(げん)半分わけの形見にて

   やもめにうらに(この)(ひと)やしき

 

名残裏

 いたづらのふつつと髪や(きり)ぬらん

   後世(ごせ)(ほか)にはものも思はじ

 (まつ)(よひ)の鐘にも(おこ)る無情心

   こひしゆかしもいらぬ事よの

 つれなきも(もっとも)(しづ)の身ぢや(ほど)

   そもじとばかり(ふみ)上書(うはがき)

 さしにさしお(ため)に送る花の枝

   太夫(たいふ)すがたにかすむ面影(おもかげ)

 

      参考;『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

発句 

    いづれの時、いかなる人にか、難波(なには)

堀江(ほりえ)のよしあしにもつかず、男にも

あらず、法師にもあらず、(すめ)る所も

たしかならぬ(おきな)ありけり。春の日の

長あくびなるつれづれに、うとうと

とありきのうとからぬ友もがなと(うち)

ながめつつ(ゆく)に、歌舞伎(かぶき)とかやよせ

太鼓のてろつく天も花に(ゑへ)る心ちし

て、(ねずみ)()くぐりあへず、のけあみ(がさ)

のあけほんのりと見まゐらせ奉れば、

(うち)あぐる和歌の御声、親たれさまぞ

御名をばえ(まうす)まいよのと、そぞろ(ことば)

のさまざまに、うつつなの身や、よ

しよし夢の間よ、ただしゆんできた物を。

  花で(そろ)お名をばえ(まうす)(まひ)(そで)   宗因

 

 宗因は加藤清正の家臣西山次郎左衛門を父とする。里村(さとむら)(しょう)(たく)のもとで連歌を学び、本来は連歌師(れんがし)だった。

 お名前はと聞かれれば「花で候」と答える。本当の名前は「え申すまい」ということで、「舞」と掛けて「え申舞の袖」となる。

 この発句には長い前書きがついている。

 和歌連歌で盛んに用いられてきた掛詞の技法が駆使された戯文で、難波の芦に掛けて難波の「良し悪し」としたり「春の日永」に掛けて「長あくび」を導き出したりする。

 当時流行していた野郎(やろう)歌舞伎(かぶき)の客寄せのための寄せ太鼓のテンテンテロテロと鳴り響くところから「天も花に酔る心ち」を導き出し、芝居小屋の鼠戸(鼠木戸)に和歌(小唄)の声が聞こえてくれば、さぞかし立派な親を持っていることだろう親は誰だと言うにも名は言えないという。

 それを受けて、発句は野郎歌舞伎の役者の台詞風に始まる。

 歌舞伎の起源は歌舞伎(かぶき)(おどり)にあると言われ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「歌舞伎踊」の解説」には、

 

 「〘名〙 近世初期、出雲大社の巫女(みこ)阿国が、男装、帯刀の異様な姿で歌い、踊ったのにはじまる舞踊劇。また、阿国歌舞伎、女歌舞伎、若衆歌舞伎などの踊り。歌舞伎踊狂言。

  ※慶長見聞集(1614)二「江戸吉原町にて来三月五日かつらき太夫かふきおとり有と日本橋に高札を立る」

 

とある。

 それがやがて男娼の舞う若衆(わかしゅう)歌舞伎(かぶき)と遊女の舞う遊女歌舞伎とに分かれて行ったが、寛永六年(一六二九年)ごろから遊女歌舞伎は禁止されて廃れて行き、若衆歌舞伎も承応元年(一六五二年)に禁止され、前髪を剃った野郎歌舞伎へと移行した。野郎歌舞伎は歌舞伎狂言とも呼ばれ、本格的な芝居としてやがて元禄の頃に市川団十郎などによって大きく発展し、今の姿に至る。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。「袖」は衣裳。

 

 

   花で候お名をばえ申舞の袖

 夢の()よただわか(しゅう)の春

 (花で候お名をばえ申舞の袖夢の間よただわか衆の春)

 

 前句の歌舞伎の趣向から、今は禁じられた若衆歌舞伎の「若衆」を舞の袖として登場させる。そして「花」と名乗るにふさわしく、夢のように過ぎてゆく短い春の今を輝くという決意を表している。

 昔の「夢」という言葉は、夜見る夢という意味で(うつつ)と対比される場合もあるが、この世は所詮夢という意味で生きていること自体表すことも多い。今みたいな願望(あらまし)を表す用法はない

 これも日本人特有の死生観なのかもしれない。神話でイワナガヒメとコノハナサクヤヒメのどちらかを選べといわれたとき、ためらわずにコノハナサクヤヒメを選んだのが日本人だ。永遠の命なんて欲しくない。たとえ短い命でも花を咲かせたい。

 『竹取物語』でも不死の薬を富士山の名前に掛けて、富士山頂で燃やしてしまう。姫が居ないなら永遠に生きる意味などない。そうして不死の薬を燃やしたため、富士山はその後長いこと煙を吐き続けることになったとさ、となる。

 古代の富士山は常時噴煙を上げていたようだ。

 

 風になびく富士の煙の空に消えて

     ゆくへもしらぬわが思ひかな

              西行法師(新古今集)

 

と歌にも詠まれた。

 花に夢は、

 

 桜花夢かうつつか白雲の

     絶えてつれなき峰の春風

              藤原家隆(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「春」で春。恋。「若衆」は人倫。

 

第三

 

   夢の間よただわか衆の春

 (つけ)ざしの(かすみ)底からしゆんできて

 (付ざしの霞底からしゆんできて夢の間よただわか衆の春)

 

 「付ざし」は『連歌俳諧集』の注に「親愛の情を示すために、口を付けた盃または吸いつけた煙管を相手に与えること。」とある。

 「霞」は酒の異名だという。今でも濁った酒のことを「かすみ酒」という。この頃の酒は諸白という透き通った清酒がすでに普及してたが、濾過技術が今ほど完全ではなく、霞のようにうっすらと濁ってたのかもしれない。

 「しゆんできて」は凍みてきてということ。前句の「夢の間」を人生が夢だということではなく、単に酒が回ってきて夢見心地の間という意味に取り成される。米米クラブの「オン・ザ・ロックをちょうだい。」を思わせる。

 霞に夢は、

 

 行く春の霞の衣かへしては

     散りこし花や夢路なるべき

             藤原(ふじわらの)(ただ)(よし)(正治初度百首)

 

の歌がある。

 

季語は「霞」で春、聳物。恋。

 

四句目

 

   付ざしの霞底からしゆんできて

 手と手まくらをかはすとはなし

 (付ざしの霞底からしゆんできて手と手まくらをかはすとはなし)

 

 打越(うちこし)の若衆を離れるため、ここでは男女のこととすべきであろう。

 「かはすとはなし」は「かはすとはなくかはす」で結局交わすのだろう。

 手枕に霞は、

 

 花かをり月霞む夜の手枕に

     短き夢ぞなほわかれゆく

               冷泉(れいぜい)為相(ためすけ)(玉葉集)

 

の歌がある。

 

無季。恋。

 

五句目

 

   手と手まくらをかはすとはなし

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に

 (しのばれぬ昼のやうなる月の夜に手と手まくらをかはすとはなし)

 

 前句を交わさない意味に取り成したか。秋に転じ、ここに初表の月を出す。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

六句目

 

   しのばれぬ昼のやうなる月の夜に

 露にぬれものほほかぶりして

 (しのばれぬ昼のやうなる月の夜に露にぬれものほほかぶりして)

 

 「ぬれもの」の用例として、『連歌俳諧集』の注は『好色伊勢物語』(江戸前期、作者不詳)を引用している。

 

 「ぬれもの、いろ好む女をもいひ、すぐれた姿をもいふ。ぬれもの、しなものといふも同じ詞なり。吉弥といふ女方をほめていひ出したる詞とぞ」

 

 「月」に「露」は付き物ということで、露から「ぬれもの」を言い興す。なかなか色好みのいい女がいるというので、昼のような月夜でもほっかむりした男がやってくる。

 

 浅茅原葉末にむすふ露ごとに

     光りをわけて宿る月かげ

              藤原(ふじわらの)(ちか)(もり)(千載集)

 

など、月に露を詠んだ句は数多くあり、いちいち證歌(しょうか)を取る手間を省く所から、付け合いという発想が生まれたのであろう。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「ほほかぶり」は衣裳。

 

七句目

 

   露にぬれものほほかぶりして

 霧ふかき()格子(がうし)(たち)(かど)(たち)

 (露にぬれものほほかぶりして霧ふかき出格子に立門に立)

 

 前句が夜這いのような情景だったのに対し「出格子」を出すことで遊郭になる。こういうところに出入りする男は、誰だかわからないように顔を隠す。

 露の霜も、

 

 あはれみし袖の露をは結びかへて

     霜にしみゆく冬枯れののべ

              西行法師(西行法師家集)

 

の歌がある。

 

季語は「霧」で秋、聳物。恋。「出格子」「立門」は居所。

 

八句目

 

   霧ふかき出格子に立門に立

 (ひき)よせ顔の見ゆる三味線

 (霧ふかき出格子に立門に立引よせ顔の見ゆる三味線)

 

 三味線が遊女歌舞伎で取り入れられていたから、その遊女歌舞伎が禁じられ、遊女達が吉原などの遊郭に閉じ込められるようになっても、三味線はそこでも遊女達の芸だった。三味線と端唄で人を引き付け、客を誘う。

 また、かつて琵琶を用いてた浄瑠璃物語を語る盲目の法師も、この時代には三味線へと変わってきている。

 

無季。恋。

初裏

九句目

 

   引よせ顔の見ゆる三味線

 はなれかねともども綱の舟遊(ふなあそ)

 (はなれかねともども綱の舟遊び引よせ顔の見ゆる三味線)

 

 前句の三味線から川での舟遊びへと展開する。

 「ともども綱」は舟の船尾(艫:とも)にある船を繋ぐための「(とも)(つな)」に男女ともどもを掛けたもの。

 

季語は「舟遊び」で夏、水辺。恋。

 

十句目

 

   はなれかねともども綱の舟遊

 川ほどふかきおもひなりけり

 (はなれかねともども綱の舟遊び川ほどふかきおもひなりけり)

 

 舟遊びといえば川。「はなれかね」から「ふかきおもひ」と四手(よつで)に付ける。

 

無季。「川」は水辺。恋。

 

十一句目

 

   川ほどふかきおもひなりけり

 君となら(この)酒樽(さかだる)(のみ)ほさん

 (君となら此酒樽も呑ほさん川ほどふかきおもひなりけり)

 

 酒飲みの恋か。「川ほどふかき」は君への思いなのか酒への思いなのか。

 

無季。恋。「君」は人倫。

 

十二句目

 

   君となら此酒樽も呑ほさん

 一寸さきは名もたたばたて

 (君となら此酒樽も呑ほさん一寸さきは名もたたばたて)

 

 忍ぶ恋なのだろうけど、どうもバレそうになっているような。でもそれでもいい、浮名が立つならそれでもかまわない、といいながら酒を樽で飲む。こうなったら、毒を食らわば皿までというところか。

 

無季。恋。

 

十三句目

 

   一寸さきは名もたたばたて

 浅からぬ()()のあまりに指を(きり)

 (浅からぬ千話のあまりに指を切一寸さきは名もたたばたて)

 

 「千話」は痴話で、ここでは痴話喧嘩のことか。多分女が浮気や二股を疑われたのだろう。忠誠心を示すために指を切る。

 指を切るという行為は、近代ではやくざなどが罰として指を詰めさせたりするが、もとは忠誠心の証しとして、特にそれを疑われることがあったときに、忠誠心を示すために行われていたものであろう。

 ウィキペディアによれば、

 

「誓いだてに指を切らせた例として、井原西鶴の「武道伝来記」で泉川修理太夫が妻の不倫を疑い、「密夫なければ諸神誓文に五つの指を自ら離せ」といって、裸にし、指を断たせたことが見える。また吉原遊女が常連客に「一途であること」を示すために自分の小指を切って送ることがあった。ただしこの際に新粉(しんこ、米粉の餅)細工の作り物や、首切り役人から死体の指を調達して自分の指として送る例も見られた。売れっ子の花魁はその行為は「粋ではない」とし、「離れるなら離れればいい。身請けされる時にみっともない。」と決して行わなかった。身請けをされる見込みがない遊女は逆に必死になり、間男や惚れた男に誓いを立てていた。」

 

という。

 要するに夫婦で行われてたような忠誠の誓いを、遊郭の常連客が遊女にも求めたということで、そこには金で割り切った売買春の関係ではなく、遊郭は遊女との疑似恋愛の場所を提供するだけで、今でいう出会い系の要素が強かったため、買う男の側のストーカー的な極端な独占欲によって遊女に忠誠を迫ることが常態化していたと思われる。

 紋日というのが当時の遊郭の制度においてネックになっていたのではないかと思う。紋日には必ず客を取ることが遊郭の側から要請されるため、遊女はそのための常連を確保せざるを得なくなる。常連を取ることは、逆に言えばその常連に買い殺される危険を伴っていた。

 遊女の誓約はあくまでビジネス上のものだが、ストーカー男にその論理は通用しなかった。他の男にも誓文を配っていることを知ると逆上して、自分だけの確かな制約の証を求める。その結果が爪を剝いでよこせだの、指を詰めてよこせだの、どんどんエスカレートしていったのではないかと思う。

 こうした行為は遊女の事情を知らない身勝手なもので、遊び人としては野暮の極みだったのだけど、一方ではこれだけ爪や指を集めただの自慢するオヤジもいたのだろう。

 

無季。恋。

 

十四句目

 

   浅からぬ千話のあまりに指を切

 うかれ()なれどつよき心中(しんぢゅう)

 (浅からぬ千話のあまりに指を切うかれ女なれどつよき心中)

 

 「うかれ女」は遊女のこと。

 「心中」は今ではほとんど、いっしょに自殺するという意味でしか用いられないが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心中」の解説」には、

 

 「① ⇒しんちゅう(心中)

  ② まごころを尽くすこと。人に対して義理をたてること。特に、男女のあいだで、相手に対しての信義や愛情を守りとおすこと。真情。誠心誠意。実意。

  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)一「われになればこそかくは心中をあらはせ、人には是ほどには有まじと」

  ※浄瑠璃・道成寺現在蛇鱗(1742)二「若い殿御の髪切って、廻国行脚し給ふは、御寄特(きどく)といはうか、心中(シンヂウ)といはうか」

  ③ 相愛の男女が、自分の真情を形にあらわし、証拠として相手に示すこと。また、その愛情の互いに変わらないことを示すあかしとしたもの。起請文(きしょうもん)、髪切り、指切り、爪放し、入れ墨、情死など。遊里にはじまる。心中立て。

  ※俳諧・宗因七百韵(1677)「かぶき若衆にあふ坂の関〈素玄〉 心中に今や引らん腕まくり〈宗祐〉」

  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「女郎の、心中(シンヂウ)に、髪を切、爪をはなち、さきへやらせらるるに」

  ④ (━する) 相愛の男女が、合意のうえで一緒に死ぬこと。相対死(あいたいじに)。情死。心中死(しんじゅうじに)

  ※俳諧・天満千句(1676)一〇「精進ばなれとみすのおもかけ〈西鬼〉 心中なら我をいざなへ極楽へ〈素玄〉」

  ⑤ (━する) (④から) 一般に、男女に限らず複数の者がいっしょに死ぬこと。「親子心中」「一家心中」

  ⑥ (━する) (比喩的に) ある仕事や団体などと、運命をともにすること。

  ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉猟官「這般(こん)なぐらつき内閣と情死(シンヂュウ)して什麼(どう)する了簡だ」

  [語誌]近世以降、特に遊里において③の意で用いられ、原義との区別を清濁で示すようになった。元祿(一六八八‐一七〇四)頃になると、男女の真情の極端な発現としての情死という④の意味に限定されるようになり、近松が世話物浄瑠璃で描いて評判になったこともあって、情死が流行するまでに至った。そのため、この語は使用を禁じられたり、享保(一七一六‐三六)頃には「相対死(あいたいじに)」という別の言い回しの使用が命じられたりした〔北里見聞録‐七〕。」

 

とある。

 この句の場合は③の意味であろう。⑤⑥は近代の用法ではないかと思う。

 

無季。恋。「うかれ女」は人倫。

 

十五句目

 

   うかれ女なれどつよき心中

 大磯(おほいそ)に残るかたみのちから石

 (大磯に残るかたみのちから石うかれ女なれどつよき心中)

 

 これは本説(ほんぜい)による付け。

 大磯には「虎が石」ものがある。ウィキペディアによれば、

 

 「大磯町の延台寺に伝わる虎が石は、子宝祈願のため虎池弁財天を拝んだ山下長者の妻に与えられ、やがて夫妻は虎御前を授かった。虎の成長とともにこの石も成長し、祐成を賊の矢から防いだことで身代わり石とも呼ばれる。」

 

とのこと。

 (すけ)(なり)は『曽我物語』の曽我兄弟の兄のほうの曾我(そが)十郎(じゅうろう)(すけ)(なり)で、(とら)御前(ごぜん)はその愛人だった。虎御前は遊女だったから「うかれ女」ともいえる。

 この場合の心中は祐成を守る気持ちということになる。

 

無季。恋。「大磯」は名所、水辺。

 

十六句目

 

   大磯に残るかたみのちから石

 道どほりさへなみだはらはら

 (大磯に残るかたみのちから石道どほりさへなみだはらはら)

 

 大磯の力石(ちからいし)は、通りがかりの旅人さえもはらはらと涙を流す。旅体に展開する。

 大磯は古くは「こゆるぎの磯」と呼ばれていた。

 

 君を思ふ心を人にこゆるぎの

     磯のたまもや今もからまし

              (おおし)河内躬(こうちのみ)(つね)(後撰集)

 

などの歌があり、大磯はそれよりは時代が下り、

 

 大磯に朝な夕なにかづきぬる

     海人も我がこと袖や濡るらむ

              藤原(ふじわらの)(なか)(ざね)(永久百首、夫木抄)

 

の歌がある。

 

無季。恋。旅体。

 

十七句目

 

   道どほりさへなみだはらは

 (たつ)宿(やど)に胸のけぶりやふすぶらん

 (立宿に胸のけぶりやふすぶらん道どほりさへなみだはらはら)

 

 「ふすぶ」は燻ぶと書き、煙がくすぶるという意味と嫉妬するという意味がある。

 傷心を癒すために旅に出たのだろうか。それでも嫉妬する心は胸の中でくすぶり続け、涙がはらはらこぼれる。

 煙のふすぶるは、

 

 すすたるるやどにふすぶる蚊遣火の

     煙はをちに靡けとぞおもふ

              大江(おおえの)匡房(まさふさ)(堀河百首)

 

の歌がある。

 

無季。恋。旅体。「けぶり」は聳物。

 

十八句目

 

   立宿に胸のけぶりやふすぶらん

 しんきはらせぬ(かや)(ぶき)のうち

 (立宿に胸のけぶりやふすぶらんしんきはらせぬ萱茨のうち)

 

 「しんき」は「辛気」であろう。「辛気臭い」という言葉は今でも使う。

 五行説では、木、火、土、金、水の五つのエレメントは様々の物の中に見られるとされている。色で言えば、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒となり、季節で言えば木=春、火=夏、土=土用、金=秋、水=冬となり、方角では木=東、火=南、土=中、金=西、水=北となる。(「五行配当表」で検索すると色々出てくる)

 さらに五味というのがあって、木=酸、火=苦、土=甘、金=辛、水=鹹(しおからい)となる。また、感情については五志というのがある。木=怒、火=喜、土=思、金=悲(憂)、水=恐(驚)。

 これで行くと辛気が金の属性を持つもので、憂鬱を引き起こす気のことだとわかる。

 前句の「立宿に」を仮定として、宿を発ったところでどうせ胸の嫉妬心はくすぶりつづけるだろう、とし、実際は萱葺屋根の粗末な家で悶々としている。

 五行説は芭蕉の発句などでも一つの隠し味になっている。たとえば、

 

 身にしみて大根からし秋の風   芭蕉

 

の句は、大根の白に、辛いという味、それに秋という季節がすべて金気で統一されている。

 

季語は「しんき」で秋。恋。「萱茨」は居所。

 

十九句目

 

   しんきはらせぬ萱茨のうち

 月にしもお茶をかごとのすき心

 (月にしもお茶をかごとのすき心しんきはらせぬ萱茨のうち)

 

 辛気と金気が出たところで季節は秋になり月を出す。

 前句の茅葺の家を茶室としたか。「かごと」は託言と書き、(かこ)つこと、言い訳、口実、愚痴など、何かのせいにして自分をごまかすことをいう。

 名月の風流を口実に愛しい人を誘ったりして下心たっぷりでお茶室に入るも、なかなか思うように行かずかえって憂鬱になる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

二十句目

 

   月にしもお茶をかごとのすき心

 たつた一筆(ひとふで)おくる秋の夜

 (月にしもお茶をかごとのすき心たつた一筆おくる秋の夜)

 

 茶の心といえば簡素をもととし、一枚の花びらに満開の花を想像するような省略の美を良しとする。恋文も長くてはいけない。あくまで簡潔な一言で表現する。ある意味俳諧の心にも通じる。

 

季語は「秋の夜」で秋、夜分。恋。

 

二十一句目

 

   たつた一筆おくる秋の夜

 中立(なかだち)に長物がたりくり返し

 (中立に長物がたりくり返したつた一筆おくる秋の夜)

 

 中立(なかだち)は仲を取り持つ人のこと。ここでは恋文の代筆でも頼んだのだろうか。依頼者はと自分の思いを長々ととりとめもなく語るばかりでまとめるのも面倒だから、一言だけ書いて相手に贈ってやる。

 この頃には花の定座が習慣化されていたが、発句に「花」があり、花は一つの懐紙に一本なので、ここでは出せない。

 

無季。恋。「中立」は人倫。

 

二十二句目

 

   中立に長物がたりくり返し

 いつか女房にしづのをだ(まき)

 (中立に長物がたりくり返しいつか女房にしづのをだ巻)

 

 「しづのをだ巻」は「倭文の苧環」という字を当てる。「倭文(しづ)」は中国から布が輸入される前に既に日本に存在していた古いタイプの織物のことをいう。「苧環(をだまき)」は麻糸を巻いた巻子(へそ)。Weblio辞書の「三省堂 大辞林」には、

 

 「へそ【綜 ・〈巻子〉】績ぅんだ麻糸を環状に幾重にも巻きつけたもの。おだまき。」

 

とある。

 しづのをだ巻は『伊勢物語』の、

 

 古のしづのおだまき繰りかへし

     昔を今になすよしもがな

              在原業平(ありわらのなりひら)

 

の歌に詠まれている。

 「しづのをだ巻」から「繰りかへし」を導き出すなら掛けてには(あるいは歌てには)になるが、ここではただ「繰りかえし」の縁語で「しづのをだ巻」が出て来たにすぎない。「中立に長物がたりくり返しいつか女房にし」までが句の意味で、最後の「し」に「しづのをだ巻」を掛けた形になる。「まかせてちょんまげ」だとか「いただきまんもす」のようなもの。意味はない。

 仲を取り持ってくれる女に切々と思いを伝えてもらおうと長々と話しているうちに、結局その取り持ち女と結婚してしまったという話。故郷の女に毎日ラブレターを書いていたらその女が郵便屋と結婚してしまったみたいなもの。遠くにいる人よりいつも近くにいる人のほうが強い。

 

無季。恋。「女房」は人倫。

二表

二十三句目

 

   いつか女房にしづのをだ巻

 つかはるる前だれ腰の目に(つき)

 (つかはるる前だれ腰の目に付ていつか女房にしづのをだ巻)

 

 「巻」から腰に巻く「前だれ」を付ける。前垂れは下女や茶屋女がするものとされてたから「しづ」の「巻」といえよう。

 前垂れは江戸中期頃から前掛けと呼ばれるようになり、町人の男女が一般的に用いるようになったという。

 前垂れフェチということではなく、単なる尻フェチだと思うが、そうやって腰に目をつけて女房にした(しづ)の巻いた前垂れ、となる。

 

無季。恋。「前だれ」は衣裳。

 

二十四句目

 

   つかはるる前だれ腰の目に付て

 馳走(ちそう)ぶりにもほるる()籠屋(たごや)

 (つかはるる前だれ腰の目に付て馳走ぶりにもほるる旅籠屋)

 

 前垂れをした女性を旅籠屋の飯盛女とする。

 飯盛女はウィキペディアには、

 

 「飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。」

 「17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。」

 

とある。

 元禄三年の「灰汁(あく)(おけ)の」の巻の二十三句目の、

 

    旅の馳走に有明しをく

 すさまじき女の智恵もはかなくて 去来

 

も飯盛女の句か。

 

無季。恋。旅体。

 

二十五句目

 

   馳走ぶりにもほるる旅籠屋

 (あかつき)のわかれのかねを(おき)みやげ

 (暁のわかれのかねを置みやげ馳走ぶりにもほるる旅籠屋)

 

 世話になった飯盛女に、明けがたの旅立ちの時にチップを置いてゆく。「かね」は暁の鐘と置いてゆく金とを掛けている。

 

無季。恋。

 

二十六句目

 

   暁のわかれのかねを置みやげ

 鳥はものかは我ぞつたなき

 (暁のわかれのかねを置みやげ鳥はものかは我ぞつたなき)

 

 「もの」は幽霊か幻か、とにかく心に顕れる不確かなものをいう。「応仁元年心敬独吟山何百韻」の発句に、

 

 ほととぎす(きき)しハ物か不二の雪  心敬

 

とある。もっと古い例では、

 

   題しらず

 待つ宵のふけゆく鐘の声きけば

     あかぬ別れの鳥はものかは

              小侍従(こじじゅう)(新古今集)

 

の歌がある。

 いにしえの貴族のきぬぎぬを遊女の朝の別れに換骨奪胎する。

 「(つたな)き」は天性に恵まれないという意味で、身分(天分)、才能(天才)、運(天命)に恵まれないことをいう。芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川の捨て子に対し、芭蕉は「(ただ)これ天にして、汝の(さが)のつたなきをなけ。」と言う。

 

無季。恋。「鳥」は鳥類。「我」は人倫。

 

二十七句目

 

   鳥はものかは我ぞつたなき

 ぎやうぎやうしことごとしくも(うらみ)かけ

 (ぎやうぎやうしことごとしくも恨かけ鳥はものかは我ぞつたなき)

 

 仰々しく事々しく実際以上に恨んでいるかのような鳥の声はこの世の者とも思えず、なんとも運が悪い。面倒くさい女につかまってしまったか。

 オオヨシキリの別名である「仰仰子」と掛ける。

 後の芭蕉の『嵯峨日記』に、

 

 能なしの眠たし我をぎやうぎやうし 芭蕉

 

の句がある。また、元禄七年の「五人ぶち」の巻の二十七句目にも、

 

   むかしの栄耀今は苦にやむ

 市原にそこはかとなく行々子   芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「ぎゃうぎゃうし」で夏、鳥類。恋。

 

二十八句目

 

   ぎやうぎやうしことごとしくも恨かけ

 なまなかしんでらちあけん(なか)

 (ぎやうぎやうしことごとしくも恨かけなまなかしんでらちあけん中)

 

 いっそのこと死んで終わりにすることで、思いっきり恨みをかけて、生涯苦しめてやろうか、となんか恐ろしい。

 「(らち)」は今では「埒があかない」と否定的に使うが、本来は「埒があく」とも「埒をあける」とも言った。「埒」は区切りのこと。

 

無季。恋。

 

二十九句目

 

   なまなかしんでらちあけん中

 いつも(ただ)(やみ)ほうけたる物おもひ

 (いつも只病ほうけたる物おもひなまなかしんでらちあけん中)

 

 恋の病も重くなれば、いっそ死んでしまいたいと。

 

無季。恋。

 

三十句目

 

   いつも只病ほうけたる物おもひ

 (おき)たり寝たり空ながめたり

 (いつも只病ほうけたる物おもひ起たり寝たり空ながめたり)

 

 恋の病は別に寝たきりになるわけではない。むしろそわそわと落ち着かず、寝たかと思えば起き上がって空を眺めてみたりする。

 

無季。恋。

 

三十一句目

 

   起たり寝たり空ながめたり

 むかしむかし男(あり)けりあだ心

 (むかしむかし男有けりあだ心起たり寝たり空ながめたり)

 

 『伊勢物語』の書き出しの文句で、前句を在原業平さんとした。「あだ心」は浮気心。

 『伊勢物語』第二段に、

 

 起きもせず寝もせで夜を明かしては

     春のものとて眺め暮しつ

              在原業平

 

の歌がある。実際は「あだ心」から、女と寝たり起きたりを繰り返している。

 

無季。恋。「男」は人倫。

 

三十二句目

 

   むかしむかし男有けりあだ心

 小むすめかとてよびし(くや)しさ

 (むかしむかし男有けりあだ心小むすめかとてよびし悔しさ)

 

 小娘かと思って娶ってはみたものの、歳をさば読んでいたか意外に年増で、むかしむかし付き合っていた男があったとさ。

 

無季。恋。「小むすめ」は人倫。

 

三十三句目

 

   小むすめかとてよびし悔しさ

 見返しの(かさ)の内をもちらと見て

 (見返しの笠の内をもちらと見て小むすめかとてよびし悔しさ)

 

 後姿がまだうら若い娘に見えて声を掛けてみたが、振り向いたその顔は‥‥、古典的なネタだ。

 

無季。恋。

 

三十四句目

 

   見返しの笠の内をもちらと見て

 南無(なむ)あみだ(ぶつ)恋はくせもの

 (見返しの笠の内をもちらと見て南無あみだ仏恋はくせもの)

 

 阿弥陀如来像には頭の後ろのところに頭光という丸いものがある。これが笠に見えたのか。

 帽子を後ろにずらしてかぶることを阿弥陀に被るという。今は帽子だが、むかしは笠で、阿弥陀笠と言われた。そういうわけで笠と阿弥陀仏は付き物ということになる。

 只振り向いた人の笠の内を見て、恋は曲者だと呟く。僧が笠の内をチラ見して恋に落ちたから「南無あみだ仏恋はくせもの」となる。

 「恋はくせもの」は謡曲『花月(かげつ)』に出てくる言葉。

 七歳になる息子が行方不明になった男が僧となって旅をし、京の清水寺で花月という少年の曲舞のうわさを聞き、呼んでもらう。そこで登場した花月が舞うときに、

 

 「今の世までも絶えせぬものは。恋といへるくせもの。げに恋はくせもの。」

 

というフレーズが登場する。

 そういうわけで句のほうは、チラ見した相手が女ではなく美少年だったわけだ。謡曲の言葉を知っていればわかる内容になっている。

 少年の舞の歌ということで、「恋はくせもの」は男色を連想させる言葉となっていたのだろう。延宝六年の桃青の一座した「(げに)や月」の巻の挙句にも、

 

   花の時千方といつし若衆の

 恋のくせもの王代の春      (ぼく)(せき)

 

の句がある。

 

無季。恋。釈教。

 

三十五句目

 

   南無あみだ仏恋はくせもの

 月にくる数珠(じゅず)のつぶつぶうき思ひ

 (月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ南無あみだ仏恋はくせもの)

 

 阿弥陀仏から数珠を付ける。

 月に向って数珠を繰りながらお祈りをする。数珠の(つぶ)と胸がどきどきするという意味の「つぶつぶ」とが掛詞になり、念仏を唱えながらも「恋は曲者」だという。

 

 ものをだに岩間の水のつぶつぶと

     いはばや行かむ思ふ心の

              藤原(ふじわらの)実方(さねかた)(実方集)

 

の用例がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。釈教。

 

三十六句目

 

   月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ

 (ちぎ)(おき)しはけふの聖霊(しゃうりゃう)

 (月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ契り置しはけふの聖霊)

 

 前句の「うき思ひ」を片思いではなく、死別した恋人への思いとする。

 お盆は精霊(しょうりょう)(まつり)ともいう。お盆の祭壇は精霊(しょうりょう)(だな)といい、地方によっては精霊(しょうろう)(なが)しを行う。

 

季語は「聖霊」で秋。恋。

二裏

三十七句目

 

   契り置しはけふの聖霊

 みそ(はぎ)と袖の露とはいづれいづれ

 (みそ萩と袖の露とはいづれいづれ契り置しはけふの聖霊)

 

 みそ萩は元禄二年の(おに)(つら)らによる「うたてやな」の巻の二十七句目、

 

   我女房に逢もうるさや

 鼠尾草は泪に似たる花の色    補天

 

の所でも触れたが、ミソハギ(Lythrum anceps)は「鼠尾草」という字も当てる。「盆花」ともいうし、「精霊花」ともいう。

 萩の花はよく露に喩えられるが、ここではミソハギも袖の露もどれがどれだかと、似てるものとして扱われる。

 死別した恋人に涙(袖の露)すると、精霊花のミソハギもまるで涙の露のようで「いづれいづれ」となる。

 契り置しに萩の露は、

 

 契りおきし末の原野の萩の露

     うつろふ色に消えかへりつつ

              衣笠家(きぬがさいえ)(よし)(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「みそ萩」で秋、植物、草類。「露」も秋、降物。恋。哀傷。

 

三十八句目

 

   みそ萩と袖の露とはいづれいづれ

 うかうかと(ゆき)かへるかよひ()

 (みそ萩と袖の露とはいづれいづれうかうかと行かへるかよひ路)

 

 これは一転して夜這いの句になる。「うかうか」は心が浮かれて思慮もなくという意味。今日の「うきうき」ほどポジティブではない。「うっかり」というのも同じ語源か。

 ミソハギの咲く畦道(あぜみち)を会いには行くものの、帰りは涙の袖の露となる。

 

無季。恋。

 

三十九句目

 

   うかうかと行かへるかよひ路

 さりともと頼み頼みて九十九夜(くじゅうくや)

 (さりともと頼み頼みて九十九夜うかうかと行かへるかよひ路)

 

 これは謡曲『(かよい)小町(こまち)』や『卒塔婆(そとば)小町(こまち)』に描かれている百夜通(ももよがよ)い伝説に基づくもの。ウィキペディアには、

 

 「百夜通い(ももよがよい)とは、世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説。

 小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の雪の夜に息絶えた。」

 

とある。

 

無季。恋。「九十九夜」は夜分。

 

四十句目

 

   さりともと頼み頼みて九十九夜

 是非(ぜひ)約束のきりは明晩(みゃうばん)

 (さりともと頼み頼みて九十九夜是非約束のきりは明晩)

 

 (ふか)(くさの)少将(しょうしょう)も九十九回目に会いに来た時にはこんなことを言ったのか。前句の深草少将と小野小町のエピソードから離れきってなくて、展開が不十分だが、本説付けのときはある程度はやむをえない。

 

無季。恋。「明晩」は夜分。

 

四十一句目

 

   是非約束のきりは明晩

 返々(かへすかへす)(しん)(しん)ぞとかく(ふみ)

 (返す返す神ぞ神ぞとかく文に是非約束のきりは明晩)

 

 「神」は「しん」と読む。『連歌俳諧集』の注には「多く誓約のときに使う廊のことば。」とある。

 前句を手紙の文言としてかろうじて打越(うちこし)の情を去る。

 

無季。恋。神祇。

 

四十二句目

 

   返す返す神ぞ神ぞとかく文に

 おゆかしく(そろ)なつかしく候

 (返す返す神ぞ神ぞとかく文におゆかしく候なつかしく候)

 

 ここでも苦しい展開が続く。とにかくどうとでも取り成せそうな言葉で逃げた形になる。

 「ゆかし」は惹きつけられること。「なつかし」は側にいたいということ。

 

無季。恋。

 

四十三句目

 

   おゆかしく候なつかしく候

 けいはくのたらたら(なみだ)こぼされて

 (けいはくのたらたら泪こぼされておゆかしく候なつかしく候)

 

 打越の手紙の趣向を去るなら「けいはく」は手紙の末尾の文言の「敬白」と掛けない方がいい。あくまで「軽薄」で、「たらたら」は涙のこぼれる擬音であると同時に「たらす(騙す)」と掛けている。

 「おゆかしく候なつかしく候」と軽々しくいうC調言葉に騙され、泣いた泪の数も知れない。(C調は「調子いい」をひっくり返して言う業界言葉。)

 

無季。恋。

 

四十四句目

 

   けいはくのたらたら泪こぼされて

 はぎとられたる今朝(けさ)のきぬぎぬ

 (けいはくのたらたら泪こぼされてはぎとられたる今朝のきぬぎぬ)

 

 これは美人局(つつもたせ)か。けな()に泣く女についほろっとなって一夜を過ごすが、恐いあんちゃんが出てきて身ぐるみ()がされる。

 

無季。恋。

 

四十五句目

 

   はぎとられたる今朝のきぬぎぬ

 色好(いろごの)みばくち(まで)をや(うち)ぬらん

 (色好みばくち迄をや打ぬらんはぎとられたる今朝のきぬぎぬ)

 

 身ぐるみ剝がれるといったら、やはり博打。これで酒飲みなら飲む・打つ・買う三拍子揃うというところだが。

 まあ、酒も悪酔いしたりアル中になったりというリスクが有る所をチャレンジするのだから、一種の博打かもしれないし、女も一種の博打なのかもしれない。

 

無季。恋。

 

四十六句目

 

   色好みばくち迄をや打ぬらん

 つねにうそうそ月の夜ありき

 (色好みばくち迄をや打ぬらんつねにうそうそ月の夜ありき)

 

 「うそうそ」は虚々で、心ここにあらずの(うつ)ろな感じを言う。「ありき」は「歩き」。

 月夜とはいえ女や金のことが頭からはなれず、いつも心ここにあらず。

 

季語は「月の夜」で秋、夜分、天象。恋。

 

四十七句目

 

   つねにうそうそ月の夜ありき

 小男鹿(さをじか)(あひ)腹中(ふくちゅう)の妻ごひに

 (小男鹿と相腹中の妻ごひにつねにうそうそ月の夜ありき)

 

 「(あひ)腹中(ふくちゅう)」は同じ気持ちのという意味。気分は小男鹿(さをじか)というところか。

 小男鹿の妻ごひに月は、

 

 小男鹿の妻とふ小田に霜置きて

     月影寒し岡野辺の宿

              藤原定家(新後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「小男鹿」で秋、獣類。恋。

 

四十八句目

 

   小男鹿と相腹中の妻ごひに

 露ときえばや野でも山でも

 (小男鹿と相腹中の妻ごひに露ときえばや野でも山でも)

 

 『伊勢物語』の、

 

 白玉か何ぞと人の問ひし時

     つゆとこたへて消えなましものを

               在原業平

 

の下句の情に、ものが小男鹿だけに「野でも山でも」と付ける。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「山」は山類。

 

四十九句目

 

   露ときえばや野でも山でも

 花とおもふぬしのあるをも(ぬすみ)(いで)

 (花とおもふぬしのあるをも盗出露ときえばや野でも山でも)

 

 前句の「消えばや」を姿を消すこと、ランナウェイに取り成す。

 綺麗な花は夫がいてもかまわないと盗み出す。あとは野となれ山となれ。

 『伊勢物語』第六段の芥川(あくたがわ)であろう。

 

 「むかし、をとこありけり。女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ」

 

とある。

 花の定座で春に転じる。花に露は和歌では秋の野の花の露を詠むものだが、連歌・俳諧では春への季移りに用いられる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。

 

五十句目

 

   花とおもふぬしのあるをも盗出

 さほ(ひめ)ごぜと見まゐらせつる

 (花とおもふぬしのあるをも盗出さほ姫ごぜと見まゐらせつる)

 

 「こぜ」は御前。「ん」は省略されることが多い。「念仏」をねぶつと言ったりするようなもの。

 垂仁天皇の后の佐保姫(狭穂姫)は兄の沙本毘古王に盗まれたが。

 佐保姫と花は、

 

 佐保姫の花いろ衣春をへて

     かすみの袖ににほふ山風

             源通方(みなもとのみちかた)(続後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「さほ姫」で春。恋。

三表

五十一句目

 

   さほ姫ごぜと見まゐらせつる

 ふり袖のうしろすがたや(かすむ)らん

 (ふり袖のうしろすがたや霞らんさほ姫ごぜと見まゐらせつる)

 

 さほ姫ってどんな人?というと、多分降り袖の後姿も霞むような人だろう、ということ。

 さほ姫が霞の衣を着ていることは、

 

 さほひめの衣はるかぜなほさえて

     かすみの袖に淡雪ぞふる

             ()門院(ようもんいんの)越前(えちぜん)(続後撰集)

 さほひめのはないろ衣春をへて

     かすみの袖ににほふ山風

             源通方(みなもとのみちかた)(続後撰集)

 

の頃から「霞の袖」という言葉で言い表されるようになったようだ。

 

   霞のころもすそはぬれけり

 さほひめの春たちながらしとをして

 

のシモネタの句は山崎宗鑑(やまざきそうかん)撰『(いぬ)筑波集(つくばしゅう)』の巻頭を飾っている。

 

季語は「霞」で春、聳物。恋。「ふり袖」は衣裳。

 

五十二句目

 

   ふり袖のうしろすがたや霞らん

 ひかばなびかでなぜにぴんしゃん

 (ひかばなびかでなぜにぴんしゃんふり袖のうしろすがたや霞らん)

 

 前句の「霞らん」はここではたいした意味もなく殺した感じで、振袖の後姿に、袖を引いたのに靡きもせずにピンシャンしていると付ける。

 「ぴんしゃん」は今で言えば「つんとしている」ということか。平安語だと「そばそばし」になるのか。

 

無季。恋。

 

五十三句目

 

   ひかばなびかでなぜにぴんしゃん

 曲馬(くせうま)のやうなおこころ(うら)めしや

 (曲馬のやうなおこころ恨めしやひかばなびかでなぜにぴんしゃん)

 

 「曲馬」は「くせうま」で「きょくば」ではない。癖のある馬のこと。

 ぴんしゃんしていてもやはり惹かれてしまうもの。今だとツンデレだが、江戸時代だと「でれる」は何て言うのか。平安時代だと「そばなつ」?

 

無季。恋。「曲馬」は獣類。

 

五十四句目

 

   曲馬のやうなおこころ恨めしや

 坊主(ばうず)もとんと(おち)られにけり

 (曲馬のやうなおこころ恨めしや坊主もとんと落られにけり)

 

 ものが曲馬(くせうま)だけに恋に「落ちる」と。

 

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花(おみなえし)

     我れ落ちにきと人に語るな

             僧正遍(そうじょうへん)(じょう)(古今集)

 

も古今集仮名序には「嵯峨野にて馬より落ちてよめる」とある。

 

無季。恋。「坊主」は人倫。

 

五十五句目

 

   坊主もとんと落られにけり

 恋の(ふち)わたる世はただ一つ橋

 (恋の淵わたる世はただ一つ橋坊主もとんと落られにけり)

 

 これだと単に恋に落ちたという軽い意味ではなく、愛憎の地獄に落ちるという恐ろしい意味になる。「一ツ橋」は丸太一本架けただけの細い橋。

 恋の淵は、

 

 たぎつ瀬のなかにも淀はありてふを

     などわが恋の淵瀬ともなき

             よみ人しらず(古今集)

 

の歌がある。

 一つ橋も、

 

 あしひきの山のかけちのひとつはし

     又ためしなく恋ひわたるかな

             九条(くじょう)行家(ゆきいえ)(宝治百首)

 

と和歌に用いられている。

 

無季。恋。「淵」「橋」は水辺。

 

五十六句目

 

   恋の淵わたる世はただ一つ橋

 (なみだ)の小川のちは淀川(よどがわ)

 (恋の淵わたる世はただ一つ橋泪の小川のちは淀川)

 

 恋の淵は最初は泪の小川のようでも、それがいつの間にか淀川のような大河になる。長谷川きよしや野坂昭如(のさかあきゆき)が歌っていた「黒の舟歌」を思い出す。

 

無季。恋。「淀川」は名所、水辺。

 

五十七句目

 

   泪の小川のちは淀川

 ゆかにつもるちりは誓文(せいもん)愛宕山(あたごやま)

 (ゆかにつもるちりは誓文愛宕山泪の小川のちは淀川)

 

 「誓文(せいもん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「誓文」の解説」に、

 

 「① 神にかけて誓約する文言。誓約のことばやそれを書きしるした文。誓詞。

  ※発心集(1216頃か)二「相真が弟子ども誓文(セイモン)をなむ書きてぞ送りたりける」

  ※天草本平家(1592)三「ヨリトモ カラ xeimon(セイモン) ヲモッテ」

  ② 相愛の男女が互いに心変わりしないことを誓ってとりかわす文書。多く遊女と客の間でかわされた起請文。誓詞。

  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「背給ふまじとの御誓文(セイモン)のうへにて、とてもの事に二世迄の契」

  ③ (副詞的に用いて) 神に誓って、そのとおりであること。まちがいないこと。

  ※天理本狂言・遣子(室町末‐近世初)「たがひにちがへぬやうにせいもんでまいらうと云」

  ※浄瑠璃・女殺油地獄(1721)上「わしが心はせいもんかうじゃと、ひったりだきよせしみじみささやく色こそ見えね河与が悦喜」

 

とある。この場合は②の意味で、遊郭でしばしば遊女が二心ないことを誓わされたが、そこは遊女も商売なので、受け入れられるはずもない。形だけの誓文ならいくらでも発行する。事情を知った客はそれで満足するものだが、たまにストーカーまがいの客が爪を剝げだの指を詰めろだの言う。

 積もった誓文はうず高く山になり、さながら愛宕山。

 京都の愛宕山は嵯峨野の北にある。ここから流れ出した小川は桂川に注ぎ、やがて宇治川、木津川と合流して淀川になる。

 

無季。恋。「愛宕山」は名所、山類。

 

五十八句目

 

   ゆかにつもるちりは誓文愛宕山

 天狗や鼻をはじく(わが)(なか)

 (ゆかにつもるちりは誓文愛宕山天狗や鼻をはじく我中)

 

 京都の愛宕山には愛宕山太郎坊という天狗が住んでいた。その天狗の高い鼻もへこますほどの熱愛だという。「我中は天狗の鼻をはじくや」の倒置。

 

無季。恋。「我」は人倫。

 

五十九句目

 

   天狗や鼻をはじく我中

 たまさかに口説(くぜつ)せしことりんきして

 (たまさかに口説せしことりんきして天狗や鼻をはじく我中)

 

 「たまさか」は滅多にないこと。「悋気(りんき)」は嫉妬のこと。

 「たまさかに悋気して口説せしこと」の倒置。まあ、嫉妬するのも仲の良いしるしか。

 

無季。恋。

 

六十句目

 

   たまさかに口説せしことりんきして

 したたるけれど今すこしねん

 (たまさかに口説せしことりんきしてしたたるけれど今すこしねん)

 

 「したたる」は甘くてべたべたしていること。口説も舌っ足らずの甘えたような声だったのか。語源的には多分関係ないと思うが「舌垂る」と「舌足らず」は何か調和する。

 「ねん」は「寝ん」。

 

無季。恋。

 

六十一句目

 

   したたるけれど今すこしねん

 下帯(したおび)も汗もかたびらのかたしきに

 (下帯も汗もかたびらのかたしきにしたたるけれど今すこしねん)

 

 「かたしき」は、

 

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに

     衣かたしきひとりかも寝む

              藤原(ふじわらの)(よし)(つね)(新古今集)

 

の歌にもあるように、自分の衣を下に敷いて独りで寝ることをいう。二人でともに寝る時は衣を二枚重ねて寝る。

 汗びっしょりになった(ふんどし)帷子(かたびら)を敷いて、べたべたするけど一人寝よう。まあ、汗をかくようなことをした後なのだろうな。

 

季語は「汗」で夏。恋。「下帯」「かたびら」は衣裳。

 

六十二句目

 

   下帯も汗もかたびらのかたしきに

 二人むかへる蚊帳(かや)ごしの月

 (下帯も汗もかたびらのかたしきに二人むかへる蚊帳ごしの月)

 

 汗まみれの褌や帷子の片敷きに就寝するのではなく、二人座って寄り添って蚊帳越しに月を眺め、愛し合った後の余韻を楽しむ。艶なるかな。

 

季語は「蚊帳」で夏、居所。恋。「二人」は人倫。「月」は夜分、天象。

 

六十三句目

 

   二人むかへる蚊帳ごしの月

 しのばねど(つぼね)の口もあけひろげ

 (しのばねど局の口もあけひろげ二人むかへる蚊帳ごしの月)

 

 「(つぼね)」は古くは女房などの居所を言った。

 別に忍んでやってきたわけではないけど、局の入り口は開いていて、蚊帳越しの月が二人を迎える。

 

無季。恋。「局」は居所。

 

六十四句目

 

   しのばねど局の口もあけひろげ

 見られたがるやなまめいた顔

 (しのばねど局の口もあけひろげ見られたがるやなまめいた顔)

 

 江戸時代で「(つぼね)」というと吉原などの下級の遊女をいい、外から見える部屋((つぼね))で待機して、通りがかる男を誘う。口も色っぽく半開きだったりしたのか。

 

無季。恋。

三裏

六十五句目

 

   見られたがるやなまめいた顔

 (わか)後家(ごけ)(しゅ)勝気(しょうげ)もなき寺参(てらまゐり)

 (若後家の殊勝気もなき寺参見られたがるやなまめいた顔)

 

 有名なお寺にはたくさんの参拝客が来るから、なかにはナンパ目的の男や女がいたのか。

 昔はポルノのタイトルにやたら未亡人だとか若後家とかあったが、最近あまり見ないような気がする。平和な時代が続いたせいか、未亡人そのものがレアになっているのかもしれない。

 

無季。恋。釈教。「若後家」は人倫。

 

六十六句目

 

   若後家の殊勝気もなき寺参

 声をきくよりついほれげきやう

 (若後家の殊勝気もなき寺参声をきくよりついほれげきやう)

 

 お寺だけに参拝に来た若後家さんに色っぽい声で話しかけられれば、ついくらっときたりもする。惚れるを「ほれげきやう(法蓮華経)」と掛けている。

 日蓮宗のお題目の「南無妙法蓮華経」は意味的には「南無・妙法・蓮華経」なのだが、唱える時には「南無妙・法蓮・華経」と区切って読む。

 

無季。恋。釈教。

 

六十七句目

 

   声をきくよりついほれげきやう

 心根(こころね)無二(むに)亦無三(やくむさん)ひとしきに

 (心根は無二亦無三ひとしきに声をきくよりついほれげきやう)

 

 前句の「ほれげきやう」にその法華経の文句「無二(むに)亦無三(やくむさん)」が付く。仏になる事のできる教えは一つであり、二つも三つもあるのではない、という意味。

 本当は誰だって一心に仏になる道だけを進みたいのだけど、ついつい迷いがあって法蓮華経が惚れ華経になってしまう。まあ、それが人間というものだ。

 

無季。恋。釈教。

 

六十八句目

 

   心根は無二亦無三ひとしきに

 ひねるこよりを(ひき)あひの袖

 (心根は無二亦無三ひとしきにひねるこよりを引あひの袖)

 

 昔は紙縒(こよ)りの両端をそれぞれ親指と小指で挟んでひっぱり、紙縒りが指からすり抜けた方が負けという他愛のない遊びがあったそうだ。「袖を引く」というのは気を引くとか誘惑するとかいう意味がある。

 紙縒りは細く切った紙を指先でひねって作るもので、太くなったり細くなったりしないように等しくひねらなくてはならない。ゆえに、「ひとしきに・ひねる」が受けてにはになる。

 

無季。恋。「袖」は衣裳。

 

六十九句目

 

   ひねるこよりを引あひの袖

 いさかひに(とり)みだし髪恥かしや

 (いさかひに取みだし髪恥かしやひねるこよりを引あひの袖)

 

 紙縒(こよ)りのは髪を結うのにも用いた。その紙縒りを引っ張り合ったのか、髪が乱れて恥ずかしい。女同士の争いだろうか。

 「取り乱す」から「乱し髪」へと掛詞にして繋ぐ。

 

無季。恋。

 

七十句目

 

   いさかひに取みだし髪恥かしや

 隣のかかも(いり)おはしたり

 (いさかひに取みだし髪恥かしや隣のかかも入おはしたり)

 

 昔は向こう三軒両隣で、日ごろから家族同然のお付き合いをしていて、夫婦喧嘩となれば、何事かと隣のかかあも飛び出してくる。「取り乱し髪」はここでは隣のかかあのこと。

 

無季。恋。「かか」は人倫。

 

七十一句目

 

   隣のかかも入おはしたり

 思はざるざこねをしたる風呂(ふろ)の中

 (思はざるざこねをしたる風呂の中隣のかかも入おはしたり)

 

 日本のお風呂というと銭湯に素っ裸ではいる姿を想像するかもしれないが、この時代はサウナが主流で、男女混浴なので、素っ裸ではなく、男は褌、女は腰巻をつけて御座の上に寝転がった。

 ただ、温泉は湯に浸かったし、この時代はお寺を中心に浴槽にお湯を張る「水風呂」が徐々に普及していく時代だった。

 ただ、男女がそうやって雑魚寝をしていると、やはりむらむらっとくる事もあったようだ。その相手が隣のかかあだったりする。

 雑魚寝(ざこね)というと談林の俳諧師井原西鶴の書いた『好色一代男』に大原の雑魚寝の様子が記されている。もっともこの手の読み物は、多少話が盛ってあったりして、どこまでが本当かはわからない。戦前の学者は「原始乱婚制の痕跡」として真面目に議論したようだが、今時こんな説を信じる者はない。

 

無季。恋。

 

七十二句目

 

   思はざるざこねをしたる風呂の中

 けふの月見もえんでこそあれ

 (思はざるざこねをしたる風呂の中けふの月見もえんでこそあれ)

 

 「えん」は宴と縁とを掛ける。月見の宴のあと、人がたくさん集まったので寝るところがなく、風呂場の中で雑魚寝をしたのが縁となった。当時風呂場がある家というのは上級武士の相当立派なお屋敷かお寺に限られていたという。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。恋。

 

七十三句目

 

   けふの月見もえんでこそあれ

 秋とならん(ちぎる)宇治(うぢ)(ちゃ)(のち)むかし

 (秋とならん契宇治茶の後むかしけふの月見もえんでこそあれ)

 

 お茶というと今は煎茶が主流だが、この時代はまだ抹茶が主流だった。もう少し後の蕉門の時代になると隠元禅師の(えん)茶法(ちゃほう)が広まり、(から)(ちゃ)が流行することになる。

 抹茶は初夏に収穫して(てん)(ちゃ)を作ると、それをひと夏冷暗所で保管し、冬の初めに「口切(くちきり)」をして粉に引いて飲んだ。もちろん、それを待ちきれずに出来たばかりの碾茶をすぐに臼で引いて新茶を楽しむこともあったから、一概には言えない。

 将軍家に献上された碾茶は『日本茶の歴史』(橋本素子、二〇一六、淡交社)によれば、

 

 「宇治を旧暦の五月二十日前後に出発し、約三十日かけて夏六月に江戸に到着する。そして御茶壺のうち、夏切御壺と御試御壺は、そのまま夏のうちに江戸の将軍家で茶壺の口が切られて消費された。しかしメインの御用の茶壺は、秋に「口切」をして飲まれていた。」(『日本茶の歴史』橋本素子、二〇一六、淡交社、p.125

 

という。

 ただし、これは十八世紀の初め頃なので、宗因の時代はこの通りではなかったかもしれない。十六世紀に「口切」が旧暦十月の初め、つまり初冬に行われていたし、現代でも十一月(新暦)は茶人の正月と言われているから、秋の口切はそれに比べればやや早い。

 将軍家ならずとも、夏の新茶も楽しんだ後、秋にようやくひと夏置いた熟成茶の封を切るということは宗因の時代に既に行われていた可能性は十分にあるし、そう考えるとこの句はわかりやすい。

 「秋とならん(ちぎる)」はようやく秋が来たので碾茶ひと夏置いた碾茶の封を「千切(ちぎ)る」。それをもちろん男女の「契り」に掛ける。そしてそれがちょうどそれが名月の頃なので、「けふの月見もえんでこそあれ」と下句に繋がる。

 そして、その封を切ったお茶はというと、最高級の宇治茶の後昔(のちむかし:「あとむかし」とも言う)

 後昔は「コラム孫右ヱ門」というブログの2016年3月19日のところに詳しい説明がある。

 それによると、碾茶には白製法と青製法があり、白製法は、

 

 「早い時期に摘み取った茶の新芽は、この蒸し製法で仕上げると非常に白っぽい抹茶になります。

 こうして製茶された茶は『白』と呼ばれ、茶葉を蒸す製法は『白製法』と呼ばれていました。」

 

 これに対し青製法は、

 

 「古田織部が将軍家の御茶吟味役(毎年抹茶を試飲して、買い上げ品目を定める役)を務めていた慶長末年、宇治茶師の長井貞信によって工夫された製法が『青製法』と呼ばれていたようです。」

 

とあり、

 

 「『青製法』の資料は非常に少ないのですが、どうやら古来から続く『白製法』の生葉を蒸す替わりに、生葉を灰汁(あく)に浸した後、茹でてから炙り乾かす製茶方法だったようです。」

 

とある。そして、

 

 「古田織部に続いて御茶吟味役となった小堀遠州は、古来から続く白製法による『白茶』の最高級品を『初昔』と名付け、生葉を灰汁に浸してから茹でる青製法による『青茶』の最高級品を『後昔』と名付けました。」

 

とある。

 宗因のこの一句は、将軍家に匹敵するような上級武士の家で、秋の月見の夜に最高級の宇治茶の封を切るとともに、この月見の宴を婚姻の宴にしようというもので、上級武士の家にも盛んに出入りしていた連歌師宗因ならではの、格調高い一句と見るべきであろう。

 なお、『連歌俳諧集』の注には

 

 「三月節に入りては二十一日めに摘むを初昔といひ、其の後につむを後昔といふ。昔は廿一日の字謎なり」(事林広記)

 

とある。

 廿と一と日を合わせれば、たしかに「昔」という字になる。ただ、『事林広記』はウィキペディアによれば、「()(りん)広記(こうき)は、南宋の末に福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した」とあり、もっと古い時代の中国で用いられていた、おそらく「後昔」の元の意味ではなかったかと思われる。

 

季語は「秋」で秋。恋。

 

七十四句目

 

   秋とならん契宇治茶の後むかし

 おけるあふぎのしばしおなさけ

 (秋とならん契宇治茶の後むかしおけるあふぎのしばしおなさけ)

 

 謡曲『頼政(よりまさ)』の頼政自害の場面に、

 

 「これまでと思ひて平等院の庭の(おも)、これなる芝の上に、扇をうち敷き(よろい)脱ぎ捨て座を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得しその身とて」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.882). Yamatouta e books. Kindle .

 

とある。

 ただ、この物語の本説だと恋にならないので、それを換骨奪胎(かんこつだったい)する必要がある。

 秋の扇はWeblio 辞書の隠語辞典の「三省堂 大辞林」の所に、

 

 「②〔漢の成帝の宮女班婕妤(はんしょうよ)が君寵(くんちょう)のおとろえた自分の身を秋の扇にたとえて詩に詠んだという故事から〕 相手の男から顧みられなくなった女性の身。団雪(だんせつ)の扇。」

 

とある。『連歌俳諧集』の注には「『秋扇賦』を作ってうらみを述べた故事による」とある。秋扇賦は團扇詩とも怨歌行とも言うようだ。

 もっとも、ウィキペディアの「班ショウヨ」の項には、「『文選』の李善注によると、「怨歌行」は本来無関係な詩であったのを班倢伃に仮託したものだという。」とある。

 

   怨歌行    班婕妤

 新裂齊紈素 皎潔如霜雪

 裁為合歡扇 團團似明月

 出入君懷袖 動搖微風發

 常恐秋節至 涼奪炎熱

 棄捐篋笥中 恩情中道

 

 ま新しい斉の国の白練りの絹を裂けば

 霜や雪のように清らかに光る

 これを裁断して寝室を共にする時の団扇にすれば

 丸々と明月のようになる

 君の懐に出入りしては

 揺り動かしてそよ風になる

 いつも恐れてた、秋が来て

 涼しい風が猛暑を奪い去る

 竹籠の中に捨て置かれ

 君の情までもが道半ばに絶えてしまう

 

 この詩の心と合わさることで、扇を芝の上にしばし置く行為はいかつい武者の者から女のものになる。

 秋になって「飽きて」しまって、契った宇治茶も昔のことになり、宇治だけに平等院鳳凰堂で自害した頼政のように、捨て置かれる扇の私にしばしお情けを、となる。複雑な出典と掛詞と駆使した、宗因の最高の技術による付け句といえよう。

 「團團似明月」は、

 

 月に柄をさしたらばよき団扇(うちわ)かな 宗鑑(そうかん)

 

の出典でもある。

 また、和歌でも、

 

 月かげの重なる山に入りぬれば

     今はたとへし扇をぞおもふ

              (ふじ)原基(わらのもと)(とし)(新千載集)

 よそへつる扇の風やかよふらん

     涼しくすめる山のはの月

              洞院(とういん)(さね)()(宝治百首)

 

のように、扇の風の涼しさはしばしば夏の月に喩えられていた。

 この古典があるがゆえに、『去来抄(きょらいしょう)』も宗鑑の句を「不易の体」としたのであろう。

 「扇を置」くが秋の季語になるのは、

 

 なれなれて秋に扇を置く露の

     色もうらめし閨の月影

              (しゅん)成女(ぜいのむすめ)(新勅撰集)

 

などの歌によるものであろう。

 

季語は「おけるあふぎ」で秋。恋。

 

七十五句目

 

   おけるあふぎのしばしおなさけ

 花の下たたれし君の(しり)の下

 (花の下たたれし君の尻の下おけるあふぎのしばしおなさけ)

 

 さて宗因ならではの佳句が続いた後は、お約束で卑俗に落とすことになる。「落ちをつける」というのは日常の会話でも大事なことだ。特に関西では。

 我が身の分身ともいえる扇がどこに行ったのかと思ったら、立ち上がった彼氏の尻の下に敷かれていた。ここは笑いどころだ。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。「君」は人倫。

 

七十六句目

 

   花の下たたれし君の尻の下

 かすむもゆかし小便の露

 (花の下たたれし君の尻の下かすむもゆかし小便の露)

 

 これは、山崎宗鑑撰『犬筑波集』の、

 

   霞の衣すそはぬれけり

 佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして

 

を本歌として、女の放尿する姿にもまたむらむらっとくる様を付ける。

 放尿フェチとまでは行かなくても、男なら誰しも多少そういう興味はあるのではないかと思う。こういう多用な性のあり方を認めるのも、俳諧の良い所だと思う。

 

季語は「霞」で春、聳物。恋。

 

七十七句目

 

   かすむもゆかし小便の露

 ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に

 (ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日にかすむもゆかし小便の露)

 

 「赤ゆぐ」は赤湯具で風呂(サウナ)にはいるときに女性が身につける腰巻のこと。前句の「小便の露」を腰巻の染みとして、干しているうちに段々薄れてゆく様を「かすむ」とした。

 何でそんな染みが付いたかって、それは言えないでしょう。

 

季語は「春の日」で春。恋。「赤ゆぐ」は衣裳。

 

七十八句目

 

   ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に

 湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ

 (湯をあがりゆくふりをしぞ思ふほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に)

 

 「ほのぼのと」の上五が出たあたりから、当然、

 

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に

     島隠れゆく舟をしぞ思ふ

              詠み人知らず

   この歌、ある人のいはく、(かきの)本人(もとのひと)麿(まろ)が歌なり(古今集)

 

の歌を意識していたと思われる。独吟だと、次にこれを本歌で展開しようという計算がしやすい。その分、意外性に乏しく予定調和になりやすい。

 この頃の風呂はサウナだから、湯気の霧の中に消えてゆく。干してある赤湯具に、その持ち主の尻を思い出しているのだろう。

 

無季。恋。

名残表

七十九句目

 

   湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ

 ふつと(ただ)(なみだ)こぼする浅ましや

 (湯をあがりゆくふりをしぞ思ふふつと只泪こぼする浅ましや)

 

 『連歌俳諧集』の解説にあるとおり、高師直(こうのものなお)塩冶(えんや)高貞(たかさだ)の家に忍び込んで風呂を覗いた故事で付けている。本来の姓は高階(たかしな)で平安末から鎌倉初期の頃の人で高階(たかしなの)(やす)(つね)がいる。高階は苗字ではなく姓になる。その一字を取って「(こう)」を名乗った時でも、姓であるため「の」が入ることになる。

 高師直は足利尊氏の側近で、『太平記』では神仏を恐れない荒くれものとして描かれていて、こういう人間が無類の好色漢であるのはよくあることだ。

 ウィキペディアには、

 

 「師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。『新名将言行録』ではこれは事実としている。」

 

とある。この横恋慕の際に例の風呂場覗きを行い、塩冶一族が討伐されたときには高貞の妻も自害している。

 『太平記』の物語は江戸時代には庶民の間にも講釈師によって流布された。コトバンクの「太平記読み」の項の、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「太平記講釈ともいう。芸能の一種。『太平記』を朗読し,講釈する人。室町時代の日記類には物語僧から『太平記』を聞いたという記事が散見し,早くからこの種の者に朗読されてきた。江戸時代に入り慶長~元和 (15961624) の頃,『太平記』の評判書である『太平記理尽抄』の講釈が武家の間に起り,次第に流布し,貞享~元禄 (841704) の頃には民間でも盛んとなり,これが職業として確立してきた。」

 

とある。これが後の講談になる。

 宗因の独吟は貞享よりは前だが、時代の先端を行く風流人の間では、既にこの風呂覗きのエピソードは有名だったと思われる。まあ、これも見てきたような嘘の一つかもしれないが。

 

無季。恋。

 

八十句目

 

   ふつと只泪こぼする浅ましや

 かたるにおつること()あやまり

 (ふつと只泪こぼする浅ましやかたるにおつること葉あやまり)

 

 講釈師の見てきたような嘘は人を楽しませ、誰も傷つけないが、逆に本当のことをついぽろっと言ってしまうと、それが取り返しの付かないことになったりもする。言葉というのは難しい。

 しまったと思ったときには既に遅く、相手はぽろぽろと泪をこぼし、浅ましいことになっている。あわてて謝っても後の祭。

 

無季。恋。

 

八十一句目

 

   かたるにおつること葉あやまり

 なましりなじゃうるりぶしの前渡(まへわたり)

 (なましりなじゃうるりぶしの前渡かたるにおつること葉あやまり)

 

 平仮名だけだとわかりにくいが、「生知りな浄瑠璃節の前渡り」。

 浄瑠璃(じょうるり)は『宗長日記』の享禄四年(一五三一年)八月十五夜のところにも、

 

 「旅宿たすかる一両輩をつかはし、小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ、興じて一盃にをよぶ。」(『宗長日記』島津忠夫校注、一九七五、岩波文庫、p.164

 

とあり、古い歴史を持っている。最初は琵琶の伴奏で語るものだったが、後に三味線になった。この一方で浄瑠璃は琵琶語り以外の所で発展し、浄瑠璃本が出版されたり浄瑠璃の人形芝居も盛んになり、やがてそれが人形浄瑠璃(文楽)に発展するのはもう少し後の貞享の頃になる。

 「前渡り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「前渡」の解説」には、

 

 「① 前を素通りして行くこと。立ち寄らずに前を通り過ぎること。

  ※蜻蛉(974頃)中「昨日のまへわたりは、日のくれにしかばなどあり」

  ② ある人をとびこえて昇進すること。

  ※宇津保(970999頃)国譲上「左大弁のまへわたり、まかりならぬものなり」

  ③ 体裁をつくろって通り過ぎること。

  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「あだめく物は、前渡(マヘワタ)りしてとをる」

 

とある。この場合は③の意味であろう。『連歌俳諧集』の注釈には「好きな人の前を気どって渡り歩くこと」とある。

 女の気を引こうと浄瑠璃の一節を口ずさんでみたものの、生半可な記憶で「言葉誤り」。

 初期の浄瑠璃の代表作で浄瑠璃の名の由来にもなった「浄瑠璃姫十二段草紙」は牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語だった。

 元禄五年十月の「けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉」を発句にした巻の二十八句目、

 

   いかやうな恋もしつべきうす(みぞれ)

 琵琶をかかえて出る駕物(のりもの)     芭蕉

 

の句は『奥の細道』の旅の途中、塩釜で聞いた奥浄瑠璃の記憶によるものと思われる。昔の名残をとどめる古風な奥浄瑠璃は、戦国時代さながらに琵琶の伴奏で語られてたのだろう。

 

無季。恋。

 

八十二句目

 

   なましりなじゃうるりぶしの前渡

 ()さの使(つかひ)(ゆく)さうりとり

 (なましりなじゃうるりぶしの前渡夜さの使に行さうりとり)

 

 「夜さの使(つかひ)」は主人の夜の相手(遊女)を手配するために使わされた者か。草履取りの少年が使いに出されたようで、うろ覚えの浄瑠璃を口ずさんで通り過ぎてゆく。

 

無季。恋。「夜さの使」は夜分。「さうりとり」は人倫。

 

八十三句目

 

   夜さの使に行さうりとり

 (はし)ちかき傾城(けいせい)(まづ)立寄(たちより)

 (端ちかき傾城に先立寄て夜さの使に行さうりとり)

 

 「傾城(けいせい)」は単に遊女という意味。最初は城を傾けるほどの美人の意味だったが、段々意味が矮小化されてったようだ。端ちかきは遊女でも局(六十四句目のところで言った下級の遊女)の中でも端っこのほうということか。主人の女の用立てするついでに、自分の用もちゃっかりと済ます。

 

無季。恋。「傾城」は人倫。

 

八十四句目

 

   端ちかき傾城に先立寄て

 きせるにおもひ(つけ)てたまはれ

 (端ちかき傾城に先立寄てきせるにおもひ付てたまはれ)

 

 第三のところで出てきた「付ざし」は酒だったが、ここではキセルで吸うタバコのこと。

 ところでこの言い回し、粋なのか横柄なのか、当時の人にはどう響いたのか気になる。

 

無季。恋。

 

八十五句目

 

   きせるにおもひ付てたまはれ

 盲目(まうもく)は声をそれぞと(きく)ばかり

 (盲目は声をそれぞと聞ばかりきせるにおもひ付てたまはれ)

 

 これもどういうシチュエーションなのかわかりにくいが、傾城は忘れたほうがいいのだろう。

 「きせるにおもひ付てたまはれ」と言われて、目の不自由な女は誰が来たかわかるということか。

 

無季。恋。

 

八十六句目

 

   盲目は声をそれぞと聞ばかり

 よばひわたるはさてもあぶなや

 (盲目は声をそれぞと聞ばかりよばひわたるはさてもあぶなや)

 

 前句の「盲目」は比喩で、真っ暗闇で何も見えないときの夜這いは危ない。ってそれは軒端(のきば)(おぎ)?それとも常陸宮(ひたちのみや)の姫君?

 

無季。恋。

 

八十七句目

 

   よばひわたるはさてもあぶなや

 浮橋(うきはし)(ふみ)はづすかとみる夢に

 (浮橋を踏はづすかとみる夢によばひわたるはさてもあぶなや)

 

 有名な、

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして

     峰に別るる横雲の空

              藤原定家(新古今集)

 

を卑俗な夜這いにして落とす。

 元歌も「峰に別るる」に後朝(きぬぎぬ)を暗示させているが、「踏みはづす」だと別れどころかどっぷりと泥沼にはまりそうだ。

 

無季。恋。

 

八十八句目

 

   浮橋を踏はづすかとみる夢に

 ため(いき)ほつと月の下臥(したぶし)

 (浮橋を踏はづすかとみる夢にため息ほつと月の下臥)

 

 これは狐に化かされたか。

 天女の屋敷に誘われてついて行くと、突然足元の浮橋が消え去ってまっさかさま。気付くとあれは夢で、月の下に横たわってほっと溜息を付く。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

八十九句目

 

   ため息ほつと月の下臥

 身にしめて(うらみ)須磨(すま)(あま)のこと

 (身にしめて恨を須磨の蜑のことため息ほつと月の下臥)

 

 須磨の海女の恋は、

 

 須磨の海人の塩焼衣(おさ)をあらみ

     間遠(まとお)にあれや君が来まさぬ

              よみ人しらず(古今集)

 

など、様々に詠まれてきて、それがやがて『源氏物語』の須磨の物語や、在原(ありはらの)行平(ゆきひら)の伝説と結びついた謡曲『松風(まつかぜ)』などに凝縮されていった。

 須磨の海女は月の下に臥して、別れた人のことを恨んでいる。

 

季語は「身にしめて」で秋。「須磨」は名所、水辺。「蜑」は人倫、水辺。

 

九十句目

 

   身にしめて恨を須磨の蜑のこと

 おとどいながらちぎられにけり

 (身にしめて恨を須磨の蜑のことおとどいながらちぎられにけり)

 

 謡曲『松風』がなにげにすごいのは、二人の女性と同時につきあうという、男なら誰でも憧れるハーレム展開、ポルノで言えば3P。あるいは百合に挟まれたか。江戸時代の人も、三人でどうやって愛し合ったのかは大いに気になったところだろう。

 「おとどい」は兄弟、姉妹をいう。

 

無季。恋。「おとどい」は人倫。

 

九十一句目

 

   おとどいながらちぎられにけり

 二十五(げん)半分わけの形見にて

 (二十五絃半分わけの形見にておとどいながらちぎられにけり)

 

 中国には古くから二十五弦の(しつ)があり、四書五経にもその記述がある。『史記』は「太帝使素女鼓五十絃瑟、悲、帝禁不止、故破其瑟爲二十五絃。」という伝説を記し、その起源を伏羲にまで遡らせている。

 ウィキペディアの「古筝(こそう)」の項には、

 

 「唐代以降の伝説として、25弦の瑟を兄弟(文献によっては姉妹または親子)で争い、2つに分けたのを筝の起源とする伝説もあるが、これは「筝」という名称を説明するために作られた説話であろう。」

 

とある。注釈のところに

 

 「岡昌名(1727)『新撰楽道類集大全』第2巻・楽器製造集上・箏「或記云:秦女争瑟引破、終為両片。其一片有十三弦、為姉分。其一片有十二弦、為妹分。秦皇奇之、立号為箏。或云:秦有無義者、以一瑟伝二女。二女争引破、終為二器。故号箏。」

 

とある。

 この句の場合、後者の(そう)の起源となる、二十五弦の(しつ)を十三弦と十二弦に分けて姉妹とした話が元になっていると思われる。一七二七という年号はこの巻よりかなり後だが、説話自体(或記)はもっと古くからあったのだろう。

 宗因は音楽の歴史にも詳しかったようで、さすがに話の引き出しが広い。

 瑟を千切って二つの筝とし、それを弾きこなせばさながら姉妹両方と契ってるかのようだ。

 

無季。恋。

 

九十二句目

 

   二十五絃半分わけの形見にて

 やもめにうらに(この)(ひと)やしき

 (二十五絃半分わけの形見にてやもめにうらに此一やしき)

 

 これは「二十五絃」を「二十五間」に取り成したか。まあ二十五間(四十五メートル)というとかなり巨大な屋敷になってしまうから、一間四方×二十五、つまり二十五坪の小さな家と見たほうがいいのか。

 未亡人への形見分けに、本宅の裏に二十五坪の屋敷をあてがってやるという意味か。

 

無季。恋。「やもめ」は人倫。「やしき」は居所。

名残裏

九十三句目

 

   やもめにうらに此一やしき

 いたづらのふつつと髪や(きり)ぬらん

 (いたづらのふつつと髪や切ぬらんやもめにうらに此一やしき)

 

 夫と死別すると貞節の証として女性が髪を切り出家するというのは昔からあった。もっとも、「狂句こがらし」の巻の八句目のような「髪はやすまをしのぶ身みのほど」ということもあったようだ。

 『源氏物語』帚木巻の有名な雨夜の品定めのなかで、()馬頭(まのかみ)が、

 

 「にごりにしめるほどよりも、なまうかびにては、かへりてあしき道にもただよひぬべくとぞおぼゆる。」

 (俗世の濁りに染まるよりも、中途半端に仏道に入るのは、かえって往生できずに地獄をさ迷うことになるんじゃないかな。)

 

と言うように、平安時代にもほとぼりの醒めるまでしばらく出家しておくという人はいたようだ。そういえば中宮(ちゅうぐう)定子(ていし)も一度出家して還俗している。

 宗因の句の場合、別に出家するために髪を切ったわけでもないから「いたづらの(無駄に)」髪を切ったとなるのだろう。

 『連歌俳諧集』の解説には、談林の俳諧師西鶴が後に書くことになる『(ふところ)(すずり)』を引用している。

 

 「何の気もない顔して、姑の見る前にて、髪くるくると束ねて切りかくるを老母押しとどめ、其方が心底もつともなれども、いまだ若き身なれば我分別あり、待ち給へといふをふるはなし、もはやわたくしの髪の入る御分別(再婚の配慮)はふつふついやでござりますと、無理にはさみ切つて投げ出す」(『連歌俳諧集』p.330

 

 70年代くらいまでは、別に出家でもなければ再婚の意志のないことを示すためでもなく、単に気分転換のために失恋すると髪を切る人がいて、当時のニューミュージックなどに「私髪を切りました」なんてフレーズがあったりした。この世代のオヤジは今でも髪を切った若い女の子に「失恋したの?」なんて言って失笑をかったりする。

 

無季。恋。

 

九十四句目

 

   いたづらのふつつと髪や切ぬらん

 後世(ごせ)(ほか)にはものも思はじ

 (いたづらのふつつと髪や切ぬらん後世の外にはものも思はじ)

 

 前句の「らん」を反語にして、無駄に切ったわけではなく、本気で出家し、後生のことだけを思う、とする。

 

無季。恋。釈教。

 

九十五句目

 

   後世の外にはものも思はじ

 (まつ)(よひ)の鐘にも(おこ)る無情心

 (待宵の鐘にも発る無常心後世の外にはものも思はじ)

 

 愛しい人の訪れを待つ夕暮れにも、お寺の鐘の音が聞こえてきて、世の中が空しく思えて憂鬱になる。

 恋というよりは釈教だが、名残の裏ということで、そろそろ締めに入ったという所だろう。

 

無季。恋。釈教。

 

九十六句目

 

   待宵の鐘にも発る無情心

 こひしゆかしもいらぬ事よの

 (待宵の鐘にも発る無常心こひしゆかしもいらぬ事よの)

 

 これも恋の言葉は使っているけど釈教の心だ。

 

無季。恋。釈教。

 

九十七句目

 

   こひしゆかしもいらぬ事よの

 つれなきも(もっとも)(しづ)の身ぢや(ほど)

 (つれなきも尤賤の身ぢや程にこひしゆかしもいらぬ事よの)

 

 そうよ私は卑賤の身、そんな女に本気になったりしませんものね。つれなくするのも(もっと)もなことです。恋しいだとか惹かれるだとかいうこともどうでもいいのよね、と捨てられた女の恨み言。今だったらもっとあからさまに「体だけだったのよね」と言う所だろう。

 怨念のこもった言葉だけど「身ぢゃ程に」と俗語で落とすところに幽かな笑いが生まれる。これは近代の演歌でもしばしば用いられる手法で、守屋浩の「僕は泣いちっち」などもそうだし、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」(山口洋子作詞)のサビの部分も、「あの人は行って行ってしまった」とあえて反復させる所が重要だと言われている。救いのない恋も、ちょっとした言葉遊びが救いになったりもする。

 

無季。恋。「賤の身」は人倫。

 

九十八句目

 

   つれなきも尤賤の身ぢや程に

 そもじとばかり(ふみ)上書(うはがき)

 (つれなきも尤賤の身ぢや程にそもじとばかり文の上書)

 

 「そもじ」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「あなた。お前。そなた。対称の人称代名詞。女性が対等または目下の者に対して用いる。後、男性が女性に対しても言うようになった。」

 

とある。ここでは前句は身分の低い男の嘆きの言葉になる。今だとLINEの返事で「そ」とだけ書いてあったるすることもあると言うが、まあ、一々返事書くのも面倒だし、シカトするわけにもいかないし、というところか。

 

無季。恋。

 

九十九句目

 

   そもじとばかり文の上書

 さしにさしお(ため)に送る花の枝

 (さしにさしお為に送る花の枝そもじとばかり文の上書)

 

 そ文字はその文脈によってはいろいろな意味になるようで、必ずしも蔑んで用いているとは限らない。名も知らぬ相手なら「そもじ様」と書くほかはるまい。

 花の下で見初めた人なら、身分は低いし、名前も知らない。

 平安時代の手紙は季節の花の枝などに手紙をくくりつけて送ったりした。花の下で見初めた人には花の枝を添えて手紙を送る。

 そっけない前句から一気に王朝時代を偲ばせる華やかな定座へと展開し、次の挙句に繋げる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   さしにさしお為に送る花の枝

 太夫(たいふ)すがたにかすむ面影(おもかげ)

 (さしにさしお為に送る花の枝太夫すがたにかすむ面影)

 

 「太夫」は遊郭の遊女の中でも最高位の遊女。ウィキペディアによれば、

 

 「宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。」

 

とあるから、まだ花魁(おいらん)という名のなかった頃の最高級の遊女だった。

 花の枝に、華やかに着飾った太夫は恋百韻を締めくくるにふさわしい。

 この頃の太夫というと東の高尾太夫、西の夕霧太夫と言われている。 Tenyu Sinjo.jpというサイトによると、

 

 「その知性と美しさで名をはせた夕霧は、京の生まれで、本名は照。もともと京の嶋原・扇屋の太夫であったが、扇屋四郎兵衛が寛文12年(1672)嶋原から大坂新町遊廓へ移転するとき一緒に連れてこられた。このとき19歳であった。」

 

という。これだとこの百韻が巻かれた寛文十一年にはまだ京都にいたことになる。

 当時の金持ちの名士たちは、こぞってこの夕霧太夫に古式ゆかしく桜の枝に文を添えて贈ったことだろう。もちろんその姿は簡単には拝ませてはもらえない。それはどこまでも高嶺の花の「かすむ面影」だ。

 

季語は「かすむ」で春、聳物。「太夫」は人倫。