正岡子規論

   ○正岡子規と詩の起源

   ○写生説の根本問題
   ○地図と絵画
   ○戦争と近代俳句
   ○正岡子規と近代短歌
   ○正岡子規の『七草』


正岡子規と詩の起源

 「詩」というものに対し、我々は既に何らかのイメージを持っている。おそらく大抵の場合、そのイメージは学校の教科書で読まされた詩によって種をまかれ、その後興味ある人は様々な詩集や詩の入門書によって補強され、固まったものだろう。こうして、うまく説明できなくても我々は詩が何であるか知っているし、我々は実にしばしば安易に「あんなのは詩ではない」だとか「詩になっていない」だとか言う。
 しかし、明治初期の頃の人にとって「詩」と言えばまず真っ先に思い浮かぶのは漢詩だっただろう。短歌は「和歌」あるいは「うた」と呼ばれ、俳句は「発句」と呼ばれていた。また、ごく一部の西洋通に限っては、西洋にも「詩」のあることを知っていただろう。それでも彼等が「詩」という言葉を使ったところに、漢詩と似たようなものが西洋にもあるというニュアンスが込められていたことだろう。
 短歌、俳句、漢詩、西洋詩などをひっくるめて「詩一般」の概念が生じ始めたのは、明治十年代後半から二十年代に入ってのことだった。ここに示す正岡子規の『詩歌(しいか)の起源及び変遷(へんせん)』というテキストも、そのごく初期の思索を留めるものである。 詩はその民族の基本的な精神を読み取るには最も簡潔で、しかも言葉で示されたものであるが故に理解しやすい。どんな詩を理想とするかで、その民族の精神の理想はある程度理解できる。その意味でも、この子規の短い論稿は日本の近代文学の精神の原点を探る上で重要な意味を持っているだろう。詩の改革は民族精神の改革でもある。

一、詩の起源への問い

 正岡子規は詩をその起源において理解しようとした数少ない詩人であるばかりでなく、その言及がきわめて早い時期から見られることは注目に値するだろう。その論及の最初の試みは、既に明治二十二年四月の『詩歌の起源及び変遷』に見られる。この文章は常盤会(ときわかい)によって編纂された『真砂集(まさごしゅう)』第一編に掲載されたもので、原本は失われている。それでも、この文章は子規の最初に活字印刷された文章という意味でのデビュー作でもある。ここでは講談社版の子規全集第九巻から引用してゆくことにする。


 「こゝに云(い)ふ詩歌(しいか)とは詩歌俳諧の類(たぐい)を總稱(そうしょう)して云ふなり。狂歌都々一(どどいつ)抔(など)も此(この)中に屬すべき者なれば其(その)起原を同(おなじ)うするは勿論の事なれども、其(その)變遷(へんせん)を論ずるに至(いたり)ては之を省(はぶ)き去りたる故、其(その)心して読み給(たま)はれかし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 詩といっても、今日我々が一般的にイメージする詩とは若干異なるかもしれない。今日狭い意味で「詩」というと、短歌、俳句と区別された近代詩のことで、たいていは一行一行分けられて書き出され、数行集って連をなし、それがいくつか続くようなものを連想する。詩に詳しい人なら、行分けや連分けのない「散文詩」のことも知っているだろうし、様々な実験的な現代詩も思い浮かぶであろう。
 もう少し広い意味で、いわば「詩歌」といった場合でも、せいぜい短歌や俳句や漢詩を含む程度で、川柳、狂歌、都々逸は詩だろうか。また、ロックやJポップや演歌やラップの歌詞は「詩」といえるのか。相田みつおや326の文は詩だろうか。サラリーマン川柳や日本一短い手紙の類は詩だろうか。このあたりになると人によって答は違うだろう。それは我々にとっていかに明治後半から大正昭和にかけて延々と築かれてきた「近代詩」が詩のイメージに決定的な役割を果たしているかを物語る。いわゆる文学としての詩だ。
 しかし、明治初期の頃、一般の人が「詩」といった場合、それはまず第一に漢詩のことだったに違いない。それに一部の西洋文明を学んだ知識人にとっては西洋詩が加わる。それもまだ、フランス象徴詩などの出てくる前の古典的な詩に限られた。明治十五年の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎の撰による日本最初の新体詩集、『新体詩抄』ではテニソン、グレー、ロングフェローなどの詩が翻訳されているし、それらに混じってシェイクスピアの『ハムレット』の一節が詩として紹介されている。それに、当時はミルトンの『失楽園』もよく読まれていたようだ。それが西洋詩の一般的なイメージだっただろう。
 明治二十二年という年代は、ようやく漢詩や西洋詩に対し、伝統的な和歌俳諧も日本固有の詩ではないかという自覚が起ってきた時代だった。それとともに、西洋詩に習って新体詩を作ろうという運動もまだ糸口に着いたばかりだった。
 子規の詩の起源の探究は、今日我々がイメージするような「近代詩」の起源でもなければ、当時ようやく始まりかけていた「新体詩」の起源でもない。それは「詩歌俳諧の類」の「総称」であるとともに、狂歌都々逸も含まれる、散文に対しての韻文一般の起源だった。「詩歌俳諧」とは漢詩、和歌、俳諧という意味で、川柳や狂句も当時の概念としては「俳諧」に含まれる。今日でいう「俳句」はまだ存在しない。それはこれから後、子規の俳句革新によって生まれた概念だ。「俳句」という言葉自体は存在していたようだが、それは季題の本意本情や切れ字の使い方を知らなくても、誰もが作れるような簡単な発句という程度の意味だった。都々逸も当時流行していて、子規自身にも、明治十五年の自作の回覧雑誌『戯多々々珎誌』(子規全集、第九巻所収録)に作例が見られる。詩の起源の問題は、こうしたものをもひっくるめた詩一般の起源に対する問題提起だった。
 子規の時代にあってはまだ、いわゆる「漢詩」と新たに入って来た「西洋詩」を同じ「詩」という概念で統一する際に、それを包括するような広い概念を求めていた時期であり、そこから詩一般の概念が作られようとしていた時期だった。その意味では、かえって今日よりも『詩とは何か』という問題を根本的に問うことが可能だっただろう。でき上がった詩のイメージから出発するのではなく、洋の東西を問わず人類が普遍的に詩を生み出してゆく、その衝動そのものに迫ることができた。『詩歌の起源及び変遷』における以下の子規の文章はそれを示すものだろう。


 「俗人の考(かんがえ)にては詩歌は文章(文字を以て書きし文章なり。以下之に倣ヘ)の發達せし者にて、從(したが)つて其(その)起りも文章よりは新しからんと思ふこと多かれど、そは甚(はなは)だ誤(あやま)れることなるべし。大凡(おおよそ)言語あるの國には詩歌なる者あれども、言語ありて文字文章なき國多し。夫(そ)れ言語は發音機の作用にて發(はっ)する聲音(せいおん)の結合なり。聲音を結合する以上は從つて調子(ハーモニー)の和合と云ふ事起る。スベッテコロンデとは能(よ)く子供の用ゐる語なるが、此(この)二句は毎句四音より成り且(か)つ韻脚(いんきゃく)をも備(そな)ふる者にして、之を言ふも何となく言ひ易く之を聞くも何となく耳ざはりよし。此(これ)の如(ごと)く殆(ほとんど)ど偶然に出(い)でし調子こそ大方は詩歌の始(はじめ)なりしなるべし。」(子規全集 第九巻)

二、スベッテコロンデ

 詩は文明の高度な発達によって生じたのではない。詩は人類が普遍的に持っている韻文への衝動に基づく。それゆえ、文字を持たぬ社会においても詩は存在するし、詩の起源に遡るなら未開社会にも普遍的に見られる原始的な歌に遡る必要がある。とはいえ、当時の人類学はまだフィールドワークの方法も十分確立されていず、未開社会をあたかも過去の遺物であるかのような劣ったものという視点で見る、偏見に満ちたものだった。それに果たして、当時の子規が人類学に関してどれほどの知識を持っていたのか。おそらく何も知らなかっただろう。文字のない国の詩についても例証はなく、かわりに子規が例示したのは、身近なわらべ歌だった。
 子規がここで示した「スベッテコロンデ」というフレーズは、『お月さんいくつ、十三七ツ』という子守歌の一節で、この歌は明治二十二年の『筆まかせ』の「童謡」にも記されている。
 「お月様いくつ、十三七(じゅうさんなな)ツ、まだ年若いな、あの子を生んで、此子(このこ)を生んで、誰にだかしよ、おまんにだかしよ、おまんはどこへいた、油かひに茶かひに、油屋の前で氷がはつて、すべつてころんで、油一升こぼした、其油(そのあぶら)どした、太郎どの犬と、次郎どの犬と、みんななめてしまつた、其(その)犬どした、太鼓にはつて、あッちの方じやドンドンドン、こッちの方じやドンドンドン」(『筆まかせ』)
 子規は、この「スベツテコロンデ」のフレーズの中から、決められた字数(四文字の反復)と押韻することの二つを、詩の原始的な要素として挙げている。
 この「スベッテコロンデ」の例は、その後もしばしば引き合いに出される。
 「例へば
   すベツてー ころんでー
と謳(うた)へば小児も子守も暗々裡(あんあんり)に此(この)韻を味(あじは)ふことを得べし。」(『文学』明治二十九年)
 「日本語は母音を以て終る故にいくらでも句尾の音を永くするを得。例へば『すべツて=、ころんで=』といふが如く『て』『で』の聲(こゑ)を長く引く時は此(この)両字の下に『エ』の韻は生るゝなり。」(『新体詩押韻の事』明治三十年)
 子規というと俳句や短歌のイメージが強いが、実際子規はおびただしい数の漢詩を残している。こうした作品は近代文学の流れのなかで、取り残されてしまった感があるが、それでも漢詩への傾倒は子規が押韻(ライミング)に関して並々ならぬ関心を持っていたことと合わせて考えるなら、決して軽視できるものではあるまい。ここでも字数だけでなく、脚韻を詩の原始的な要素としているのは、子供のころから漢詩に親しんできたことの影響によるものであろう。
 子規は早くから西洋詩のライミングに着目していたし、後に明治三十年の『新体詩押韻の事』で、新体詩にライミングを取り入れることを強く主張し、実際数多くの押韻新体詩を残している。

三、詩の起源と音楽

 「言語は人間固有の音樂なれば、言語の調子よき事は音樂の調子よきが如(ごと)く聞く人に面白く感ぜしめ、其上最(そのうえもっとも)記憶に便(べん)なるが故に終(つい)に面白きこと感動せしことを故(ことさ)らに調子よく作り、之を歌ふに至りて始めて眞正の詩歌とはなりたるなり。されば日本語にて詩歌をウタと云(い)ひ之を口ずさむをウタフと云ふが如き、漢字の歌の字を詩賦にも吟誦(ぎんしょう)にも用ゐるが如き、皆此(この)理由に外(ほか)ならざるべし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 「言語は人間固有の音楽なれば」という言葉と音楽とを結びつける発想は、ジャン・ジャック・ルソーの『言語起源論』にも見られるが、子規が何の影響でこのことを思いついたかは不明だ。子規がもしルソーの次の言葉を知っていたら、喜んで引用したかもしれない。
 「それならば言語の起源は、どこに発しているのか。精神的な欲求、つまり情念からである。生きていく必要にせまられて互いに遠のいていく人々を、あらゆる情念が近づける。飢えや乾きではなく、愛や憎しみが、憐れみや怒りが、人々に初めて声を出させたのである…またそれゆえにこそ、最初の言語は、単純で整然としたものであるより先に、歌うような、情熱的なものだったのである。」(『人間不平等起源論/言語起源論』一九八六、白水社、一四四頁)
 言語は単なる概念を表示するだけの記号ではなく、抑揚やイントネーションや声色などの様々な言外の要素を含んでいる。もちろん人間の言語と動物の鳴き声との最大の違いは、情動と無関係に一定の概念だけを表示できる点だろう。しかし、実際の発話は動物的な鳴き声のメロディーの上に、純粋に概念を表示する記号が乗っかっているといっていいだろう。誰かが「火事だ!」と叫んだ時、それは動物的な警戒音(危険を知らせる叫び声)の上に「火事」という概念が乗っかっている。しかし、一方で、こうした叫び声自体は、動物の鳴き声が人間の音楽と同じでないように、まだ「音楽」とは呼べないであろう。音楽もまた、単なる情動によって生じる音声ではなく、むしろ情動とはまったく関係のない音階やリズムの音響学的秩序に従って再構成されたものなのである。
 音楽が情念からくる叫びに音響学的秩序を与えることで生じるように、詩の言葉もまた叫びに単なる論理的・文法的秩序を与えるだけでなく、それ以外の秩序、たとえば字数(音節数)が作り出すリズムや母音の音響学的調和を生み出す。子規は「スベツテコロンデ」というフレーズの中にこの二つの秩序を見い出したが、これは能記の側の秩序にすぎない。実際、詩は所記の側に独自の秩序を見い出すことによって構成されることも多い。たとえば意味の類似に基づく比喩、意味の対立項によって構成される、「解剖台の上のミシンとこうもり傘との出会い」のようなものもある。いわば、詩とは論理や文法以外の秩序によって構成された文章であり、そうした意味で音楽的なのである。
 そして、子規はもう一つきわめて重要な指摘をしている。それは「記憶に便なるが故に」の箇所だ。
 まだ文字がなかった時代、誰かがどんなすばらしいアイデアを思いついても、誰かがどんな社会のルールを考え出したにせよ、忘れてしまえば永久にこの世から消え去ってしまっただろう。文化というのは、いわば記憶との戦いであり、思いついたことをいかに忘却から守るかの戦いだった。ある有用な文化が後世に伝えられ、その民族の伝統文化として定着するには、それを何らかの覚えやすい、記憶に適した言葉によって保存される必要があった。人間の記憶は何らかの形で構造化されて保存されるため、構造を持たぬ言葉より構造化された言葉の方がより記憶に残りやすい。その点では、ライムや定った句形を持った言葉はそうでないものより残る確率が高くなる。人類はある時経験的にそのことに気づき、やがて意図的に一定の形式に残したい言葉を当てはめてゆくようになった。それが詩の起源ではなかったか。いわば、詩とは最も原始的な記憶装置であり、文字の発明に先だつ原=エクリチュールではなかったか。
 そして、こうした詩はさらに音楽と結合し、歌になることで、より記憶に適した強固な構造物となる。今日では詩は歌と切り離される傾向にあるが、子規の時代には詩は吟誦と密接に結びついていた。それゆえ、「之を歌ふに至りて始めて真正の詩歌とはなりたるなり。」ということになるのだろう。しかし、この点に関し、子規の時代は次第に詩と歌が切り離されてゆく過渡期でもあった。今日でも詩吟というのが残っているように、和歌や発句や漢詩は本来、ゆっくりと抑揚をつけた独特な節でもって吟じられるべきものだった。しかし、この習慣は近代化による伝統音楽そのものを前近代的封建的遺物とみなす風潮の中で抑圧され衰退し、次第に一般の日本人の習慣からは消えていった。
 明治二十九年の『文学』の中で、子規は「和歌にも俳句にも略一定せる朗吟法あり。然れどもこは自ら朗吟して其味を感ずるよりも寧ろ衆人に聞かしむるために設けしものなるが如し。和歌には各人各個の調を以て朗吟する者少からず。俳句は素読調に依るを常とす」と書いている。ここでは、当時はまだ吟詠の習慣が残っていたことが示されている。とはいえ、子規はそのことをもはや積極的に評価してはいない。それは人に聞かせるための方便ぐらいにしか評価されていない。そして、明治三十一年、子規が本格的に短歌革新に乗り出したときには、素読で観賞されるべきものとしての近代短歌が確立されることとなる。しかし、ここではまだ素読の優位ということは説かれていない。むしろ、ここではまだ詩が節をつけて歌われるべきものであるということに何ら疑いを持っていなかったといってもいいだろう。都々逸(どどいつ)をあたりまえのように「詩」に含めたのも、そのせいもあるのだろう。

四、詩の神話的起源

 「日本の歌は二柱(ふたはしら)の神の唱和し給へるをもて始めとなせども、其(その)体をなせるは素盞烏尊(すさのをのみこと)の三十一文字(みそひともじ)なり。されど此時(このとき)には文字さへ無しと云ふ程にて、文章杯(など)は有るべくも思はれず。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 これは伝統的に和歌の起源とされてきた神話で、二柱の神の唱話とは、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の国生みの際の「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」の唱話を指し、素盞烏(すさのお)の三十一文字は「八雲立(やくもた)つ出雲八重垣(いずもやえがき)妻籠(つまごみ)みに八重垣作るその八重垣を」の歌を指す。
 しかし、果してこの頃子規はこうした神話を信じていたのだろうか。少なくともこの文を読む限りは疑っている様子はない。そのことは、二年後の明治二十四年に子規が学年試験用の論文として書いた『成務天皇以前の日本文学史』という草稿で、きわめて微妙な言い方をしていることからも、伺い知ることができる。
 この草稿もまた、文字が必ずしも「文」即ち「文字」で書かれたものではないという、『詩歌の起源及び変遷』でも見られる主張から始まり、まず漢字伝来以前に神代文字があったという説を切り捨て、そのあと漢字伝来以前に文学はなかったという説をしりぞけ、口承文学の存在を説くことになる。
 神代文字の存在を主張する説は古くから見られ、『上記(うえつふみ)』の真仮名(鵜茅文字)を始め、日文、天名地鎮、阿比留文字など様々なものが漢字伝来以前に存在したと主張されてきた。平田篤胤(ひらたあつたね)もまた神代文字を肯定したため、平田神道から多くの影響を受けた当時の国家神道の神道家の中にも、神代文字の存在を肯定する者はけっこういたのだろう。今日でも、いわゆる「超古代史」と呼ばれるトンデモ本では、しばしばホツマ文字だとかカタカムナだとかいう幻の神代文字が登場する。
 一方で神代文字の存在を主張する神道家もいれば、一方では鬼神を語らぬ儒教的合理主義者も数多くいたし、彼らの多くは西洋の科学を受け入れながらもキリスト教とは一線を画した。「然れども世人往々に古書古記を疑ふて曰く書契已前の事物未だ知らるべからず」(『成務天皇以前の日本文学史』)これに対し、子規は、疑いだしたら文字で書かれたものだって疑わしいことも多いし、口承でも信じるに足るものはある、と切り返す。「文字なきの時に当ツて人の記憶に強きは世界万国に渉(わたり)て争ふべからざるの事実ニシテ復我喋々を待たず。」(同)
 しかし、口承の中にも歴史的事実は含まれるとしても、すべてが事実ということはあるまい。文献だろうが口承だろうが何を根拠にどこまでが信じるに足るか、それを批判的に検討しないことには本当の学問とは言えないだろう。その点では子規の論はまだ稚拙と言わねばなるまい。文字以前の口承文学が存在するということと、文字以前の口承のどこまでが真実かという問題はまったく別であり、子規の論はその点を曖昧にしたままだ。そこから、子規はこう言う。
 「古今集已後(いご)今日に至るまで流行スル卅一言(みそひとこと)の倭歌(わか)ハ素盞烏尊(すさのをのみこと)の八雲立(やくもたつ)の御詠より始まるといふ 其他(そのた)彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)贈答の御詠、神武天皇伊須(いす)かより姫の参内の時の御詠 伊須気余理比賣(いすけよりひめ)、皇子に示し給ふ御詠日本武尊(やまとたけるのみこと)出雲建(いづもたける)を殺せし時の御詠等皆是(みなこれ)なり蓋(けだ)し卅一文字(みそひともじ)の歌ハ偶然に素盞烏尊(すさのをのみこと)の口よりいでしか否や知るべからずと雖(いへども) この歌の外に当時の語言中に一種の諺(ことわざ)の如きものありて多少の句調を備へたりしや疑ふべからず 例へば伊邪那岐命(いざなぎのみこと)応答の言辞(あなにやしえをとめ云々)火照命(ほでりのみこと)の言辞(山幸もおのがさちさち云々)の如き以て和歌と為すべからずといへども亦(また)一種の音調ありて存するを見るべし。」(『成務天皇以前の日本文学史』)
こうした主張は、口承文学が存在することと口承文学の内容が事実として存在したという二つのことを混同したもので、この種の偽せ論理は今日の超古代史でも常に見られる。伝承にはいくばくかの真実が反映されているということを言いつつ、同時にあたかも全部が真実であるかのように言いくるめてしまうのである。
 しかし、子規もいつまでもその段階に留まっていたわけではない。明治二十五年の『我邦(わがくに)に短篇韻文の起りし所以(ゆえん)を論ず』の中では、はっきりとそれまでの主張を否定している。
 「我邦の韻文は神代に在りて既に燦然(さんぜん)見るべきの発達を為したるが如くなれども史傅(しでん)の載する所皆口碑(ところみなこうひ)より収拾せしものなれば盡(ことごと)く信ずるに足らず」

五、口承文学としての詩

 子規のこうした神話の引用は、一方で神話と史実との混同を含むものの、一方では文字以前の口承による文学の存在を示唆するものだった。それゆえ『詩歌の起源及び変遷』はこのように続く。


 「英國の古詩ミンストレルシーの如きも長く口碑(こうひ)によりて傳(つた)はり、又印度(またいんど)にて數多(すうた)の詩篇を言ひ傳へて今に殘(のこ)せし例もあれば、詩歌なる者は實(げ)に文字文章よりも早く世に現れしことば凝ひなかるべし。ある人は我に問ふて文字も知らざる野蠻人(やばんじん)が多くの詩篇を諳誦(あんしょう)するとは受け難き話ならずやと云ふ者あれども、前にも言ふ如く詩歌は最心(もっともこころ)に記憶し易き者にて、幼き子供にも歌を教ふれば覺(おぼ)えこむこと早く、片山里(かたやまざと)の百姓の一文字だに知らぬ者も苟(いやしく)も多少の知識ある上は能(よ)く古歌杯(など)を諳誦するを見れば、詩の口碑に傅はるも亦(また)怪むに足らざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』子規全集 第九巻)


 二柱の神の唱話や素盞烏の神話ではなく、単に記紀歌謡が文字以前の口承文学として存在し、それと同様にイギリスやインドにもというのなら、今日でも十分通用するであろう。そして、ここで子規はふたたび記憶のしやすさを重視する。むしろ、詩は文字以前の記憶装置であり、文字以前の文字、原エクリチュールだと言ってもいいのかもしれない。覚えやすいがゆえに人々の記憶に残り、そして記憶に残るころを利用して、人々は記憶に残したいものを詩歌にしたのだろう。
 いかなる民族にも言語が存在するのと同様、詩歌も普遍的に存在する。そして人間の言語の習得段階でも、早い時期から子供は様々な言葉遊びを始め、あたかも幼児は皆天性の詩人であるかのようである。
 原始的なライムへの衝動を持つのは、ひょっとしたら人間だけではないかもしれない。F・パターソンとE・リンデンの『ココ、お話ししよう』(一九八四、どうぶつ社)によると、手話を覚えたゴリラのココは、人間の言語を発声することはできないが、耳で聞く分にはいくらか理解できるという。手話だと大体二百ぐらいの言葉を喋れる。もっとも、その会話能力は単語を並べるだけで文法要素が欠落し、今日の言語学者がいわゆる「言語」として取り扱うような文法構造を具えた自然言語ではない。むしろ二歳くらいの幼児の会話や片言の外国語に近く、D・ビッカートンはこれを「原型言語」と呼ぶ。
 そのゴリラのココが、ある日こんなサインを送ったという。「一度、ブロッコリの名前をきいたところ、ココは『くさい花ピンク色の果物…ピンク色のくさい果物(Flower stink fruit pink…fruit pink stink)』とサインを綴った。私は思わず、『あなた、なんてじょうずに韻がふめるの(You're rhyming,neat!)』といった。すると、驚いたことに、ココは『あまいお肉好き(love meat sweat)』とサインしたのである。ココに物と動作との関係をきいたときにも、『ピンク色の飲むリンゴ(Apple pink drink)』とか、『あなたが唇ですする(You lip sip)』という文が生まれた。」
 これはエピソードに過ぎず、実験によって再現することができないから、ここからゴリラに韻を踏む能力があると断定するのは困難かもしれない。しかし、外界の様々な事象に対し類似点を発見しカテゴライズする能力さえあれば、人間の発する音声の中から類似した音の言葉を選り分けることは、そう難しいことではあるまい。その点では、ライムは言語よりも古いのかもしれない。むしろ、初期の人類の原型言語では、まず発声された音から類似点を見つける過程の中で、次第に音素を発見し、最初の単語が生じていったのかもしれない。そして、やがてたくさんの単語を連ねてゆくうちに、少しづつ文法を発見する能力が具わってゆき、最終的に言語が誕生したのかもしれない。そして、言語発生後も最も原始的な音声の類似を発見する能力は失われず、それがライムへの衝動として残っているのかもしれない。そして、いつしか人はこうした構造を持った言葉が忘れにくいのを知り、それを利用するようになったのだろう。

六、歌詠みから予想される反論

 言語のある所には必ず詩歌があるというのは、ほとんど子規の直感といってもいいだろう。しかし、それは詩歌をより広い意味で捉えるからでもある。詩歌を文字通り漢詩や和歌のような特定の形式を持ったものだとするなら、詩や歌は特殊な地域の特殊な文化だということもできる。


 「又ある人の言ふ様、言語ある國には詩歌ありとは餘り言ひ過ぎたり。日本にても詩歌を弄ぶは上々の事にして下々はさる事を知りたる者も無き程なれば、愚なる夷等はいかでか詩歌てふことを知らんやと。我答へてそは甚しき誤なり、歌を三十一文字に限る者と思ふが故にさる考も出づべし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 こうした議論は結局定義の問題になる。「歌」を日本の三十一文字の和歌に限定し、それ以外のものを「歌」として認めないというのであれば、歌は日本独自のもので、日本以外の国に歌はないということになる。逆の議論もけっこうある。今日でもたまに、「明治維新以前の日本には音楽はなく、ただ節があるだけだった」という人がいる。「音楽」を平均律と対位法を具えたものだと定義するのなら。これを当然のことだ。他にも、明治維新以前の日本には哲学がなかったという人がいる。ハイデッガーの言葉を引用して、哲学とは西洋哲学であり、この二つは同義語だというなら、確かにその通りだろう。こういう論法なら何とでも言える。治療不可能な特別悪性の末期ガンだけを「癌」と呼び、治療可能なものを「がんもどき」と呼ぶのであれば、癌は永久に不治の病だということになり、「患者よ癌と戦うな」ということになる。しかし、結局こうした議論は、最初の定義が不適切だというだけのことだ。


 「併し歌とはかゝる窮屈なる者にあらず。花に鳴く鴬水に栖む蛙いづれか歌をよまざりける、されば鞠歌子もり歌を始として狂歌都々一はやり歌皆これ歌にあらざるはなし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 もちろん、古今集の仮名序の「花に鳴く鴬水に栖む蛙いづれか歌をよまざりける」の言葉を引き合いに出したのは、別に動物の鳴き声が歌だと主張するためではあるまい。(もっとも、言葉を音楽だという子規のことだから、鳴き声から言語や音楽への何らかの連続性は想定していただろう。)和歌だけが歌だと思っている原理主義的な歌人たちは古今集を聖典であるかのように崇拝していたから、あえてその古今集の言葉を逆手にとってみただけのことだろう。「されば鞠歌子もり歌を始として狂歌都々一はやり歌皆これ歌にあらざるはなし。」ということを本当は言いたい。詩歌をこれらを含めた広い意味で考えよ、というのである。


 「土佐日記に


 かぢ取舟子共に曰く、みふねよりおほせたふなり、あさきたのいでこぬさきに縄手ほや引け、といふ、此言葉の歌の様なるは楫取のおのづからの言葉なり。


とあるを見れば、世の人の歌と知らで自ら歌の調子を假る事もあるべしと云へり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 これも、土佐日記の作者が紀貫之であり、古今集の選者であるところから、歌人に対して、ほれ、この通り紀貫之だって船頭の掛け声が独特な節を持ち、知らず知らずのうちに歌になっていると認めているじゃないか、という所だろう。
 子規の詩歌の概念は、今日からしてもかなり広い。川柳・狂歌・都々逸は今日の一般的な詩のイメージからはかなりはずれるし、まして船頭の掛け声は、たとえば今日にも残る焼き芋屋の呼び声やパチンコやのアナウンスの独特な節回しのようなものであり、こうした所に詩の起源があると考えた子規の発想は、今日でもかなり斬新かもしれない。そして、最も注意すべきことは、子規がこの頃まだ詩と音楽を不可分なものと考えていたということだ。

七、言葉遊びへのこだわり

 狂歌都々逸はやり歌が歌であり詩であると明言する背景には、多分にこの頃の子規にまだいわゆる「文学」とそうでないものに区別が存在すること自体、ほとんど意識されてなかったということがあるのだろう。いわゆる「近代文学」が文芸一般に対し特権的な存在として意識されてなかった、ということが。そのため、この頃の子規にあっては、まだ子供の言葉遊びから狂歌都々逸といった大人の言葉遊び、更には和歌・漢詩に至るまで連続したものとして捉えられていたのだろう。明治二十五年頃、写生説を唱え、近代俳句の基礎を確立してゆく時、この連続体に楔が打ち込まれた。それは「文学」という楔だ。これによって、狂歌都々逸はやり歌は卑俗な嫌悪すべきものとして退けられ、詩の範疇からはずされてゆくことにもなった。そして、このことは今日でも多くの人々を支配している。
 実際、『俳諧大要』(明治二十八年)における子規の俳句革新では、「文学」という言葉が最も重要なキーワードの一つとなっている。
 「初学の人にして比喩、難題、冠附、冠履、回文、盲附俳句、時事雑詠等の俳句をものせんとする人間々あり。しかれどもこれらの条件は皆文学以外の分子にして、言はば文学以外の事に文学の皮を被せたる者なり。」
 「学識ある者は理想に偏して文学の範囲外にさまよふこと多し。」
 「理屈は理屈にして文学に非ず。」
 詩が「文学」として規定されるということは、同時に詩が「近代美術」の中の一分野として、絵画、彫刻、建築、音楽などと並置されることを意味する。つまり詩が音楽とはっきり区別され、分離することでもあった。先にも述べたように、当時はまだ和歌や俳諧や漢詩を吟じる習慣が残っていた。和歌は文字通り「うた」だった。そして、狂歌も同じように吟誦されたし、都々逸も節をつけて歌われるためのものだった。和歌と都々逸は単に五七五七七と七七七五という字数のちがいだけで説明できるものではない。それはまずメロディーがちがうし、用いる楽器も異なる。音楽的に明らかに両者は異なっていた。
 子規の俳句革新や短歌革新を考える上で我々がしばしば忘れがちなのは、このことだ。子規は俳句や短歌を音楽と切り離したのだ。いわば、ここにおいて、素読あるいは黙読で鑑賞されるべきものとしての、まったく新しい文芸の概念を生み出したのだ。そればかりではない。子規は過去のすべての詩歌を、この新しい基準でもって読み替えてしまったのだ。
 狂歌、都々逸、はやり歌が文学から排除されたのは、それが歌ったり踊ったりする身体的な快楽と密接に結び付いたものであり、子規はそれゆえにこれらを好み、そしてそれゆえに「文学」の外に置いた。
 子規自身の狂歌都々逸の創作は、古くは明治十五年の自作の回覧雑誌『戯多々々珎誌』にまで遡れる。それはたとえばこういったものだった。


 貧しさに褌売りて酒のめば酒の味さへ貧褌(ひんふん)とする
 病気じゃと驚きたまふな娘親薬はただの一本の針


 主と妾は電信棒よ纏ひ付たる縁の絲
 当世嫌て車に乗らぬ人でも女にゃ乗かかる
 ほれたほれたといふのはなぜだ凹(ほ)れたところへはいるから


 その後、子規はこの『詩歌の起源及び変遷』の書かれたのと同じ年の明治二十二年のノートにも、


 神を願ふて叶ひし恋は抱た背中で手をあはす
 義理や異見ぢゃとまらぬものハ地球の自転と色のみち


といったような都々逸が見られる。

八、証明の困難

 詩の起源が文字の成立より古いことは、直感的にはかなり明白な事実のように思える。しかし、証明するとなると、当時の学問のレベルでは困難を窮めたであろう。もう少し後になれば、無文字社会のフィールドワークによって容易に明らかになったであろう。しかし、この頃はまだ子規もまた革新を持てず、一応予防線も引いてある。


 「今一歩を譲りて我説は誤なりとするも、詩歌の文章よりも早く発達せしは隠れもなき事実にて、ヘンリー・リード氏も散文の力を得るは詩歌よりも遅く、従つて文学中にても散文の部は詩歌の部よりも世に出づること遅しといへり。現に英國にては十四世紀の頃英國文学の啓明と呼ばれたるチョーサーの如き詩家ありしにも拘らず、文章の世に現れしは十六世紀の頃なりき。我國にても神代より以後歌よむ者は多かりしかど、文章の文学として現はれしは紀元千六百年代の末にして、竹取、源氏諸物語の出でし頃を始とすべきなり。蓋し詩歌は感情に基づきて起る者なるに、其感情なる者は動物にあつて最始に発達する者なれば、従つて詩歌の起るも亦早かるべき理なり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 この辺の議論の進め方はばらばらで、当時の子規の若さの現れなのだろう。最初の例はヘンリー・リードが散文の方で成果を挙げる前に詩の方で世に出たということだが、それはヘンリー・リードがたまたまそうだったというだけの話ではないか。井原西鶴が『好色一代男』を書く前は俳諧師だった(西鶴は談林の俳諧師で、早口の軽口狂句を得意とし、その作風は「阿蘭陀流」と呼ばれ、一日にどれだけ多くの連句を作れるかという矢数俳諧を興し、二万三千五百句独吟をなし遂げた)という程度の論拠にすぎない。それに、この論法は散文という意味での「文章」と文字で書かれたものという意味での「文章」とを混同している。散文は日常の言語活動そのものであり、それこそ言語の誕生とともにあった。文字によって書き留められた散文は当然文字の成立を前提としている。散文を文字に書き留められた散文と定義するなら、散文が文字以降にしか存在しないのは当り前だ。
 「我國にても神代より以後歌よむ者は多かりしかど、文章の文学として現はれしは‥‥竹取、源氏諸物語の出でし頃」という説にしてもそれなら『古事記』や『日本書紀』は文章ではないのか、ということになる。子規はこの頃まだ「神代」の存在をしんじていたが、文字以前の口承文学としての詩が存在していたというだけで、詩の起源が文字成立より古いということは十分であり、文字と散文とを混同しているから議論がおかしくなる。
 また、感情は動物にもあるから、感情に基づく詩歌も文字の起源より早いという議論は、それなら動物に詩があるのかということになってしまう。これらはむしろ余分な議論ではなかったか。結局、これは証明の困難からくる自信のなさの裏返しだろう。

九、その後の詩の起源

 子規のこうした詩の起源論は、俳句革新に着手した頃の明治二十五年の『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』にも受け継がれてゆく。もっとも、ここではなぜ日本で短い詩形が発達したかの方に重点が置かれ、詩そのものの起源論はかなり簡略化されている。この頃、子規は既に『日本新聞』での投句欄を担当し、選者として、日本派の俳諧の師匠として立机していたため、論及そのものが俳句の起源へと向けられている。
 「文学の発達は其始め散文より起らずして却りて韻文を以て第一着となすは諸國皆同一揆に出でたるが如し、(韻文と散文との區劃は敢て判然たるべきものに非ずと思惟すれどもこゝには普通の詩歌俳句を指す故に誤解を来たすことなかるべし、又韻文以外の文学は要なければ論ぜず)是れ其音調の耳を楽しましめ随つて人をして感動し易く記臆し易からしむる為に起りし者なるべく、そは俗諺卑語の間に一種の音調を備ふる者多きを見ても知るべきなり」(『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』)
 ここではあくまで「普通の詩歌俳句」が問題になる。「俳諧」ではなく「俳句」という言葉を使っているのも、既に川柳雑俳から区別しようという意識の表れだろう。ここでは既に子供の語呂合わせから狂歌や都々逸を含めた詩一般への連続性は消失し、「文学」の楔が打ち込まれている。狂歌・都々逸はもはや「俗諺卑語」の方に追いやられ、詩の起源が詩歌俳句の「音調の耳を楽しましめ随つて人をして感動し易く記臆し易からしむる為に起りし」所にあることを証明するために援用されているにすぎない。詩歌俳句ではないが 音調を有するものは、一方で広義の韻文として用いられている例もある。明治二十七年の『文学漫言』に、韻文の種類を次のように列挙した下りがある。
 「韻文の種類は各國共に多く、事実の上に區別あると共に音調の上にも區別あるを通例とす。例へば本邦にて長歌、短歌、催馬楽、朗詠、今様、謡曲、連歌、俳諧、端唄、都々一、川柳、唱歌等あり。其他浄瑠璃、琴唄、長唄、清元、常盤津の類亦一種の音調を存す。支那には詩経、楚辞、賦、歌、行、詞、楽府。五七言古詩、五七言律、排律、五七言絶句の如きあり。其他祭文の類も亦音調を存す。英國にも亦ソング、オード、エレジー、ソネット、バラド等あり。其他各国亦応に此種の區別あるべし。」(『文学漫言』)

十、起源から変遷へ

 一応ここまでの部分が詩の起源について論じた部分に当る。ここから先は詩が短く単純なものから、人間の感情が複雑になるにつれて次第に長くなり複雑になる、という一種の進歩史観に入ってゆく。西洋を中心とした進歩史観に、その流れから取り残された東洋という見方は、近代を通じて何度も繰り返されてきた議論の一つのパターンだ。


 「前に述ぶるが如く初め詩歌の世に出づるは目前の事の其感情を動かせし者を言語に発するに外ならねば、太古の詩歌は文句も平易に感情も単純に、且つ其材料も己の境遇より得来りし者なるべきは理の然るべき所にして、之を実際に徴して益々其信なるを知るべし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 そして、その具体例として、日本、中国、イギリスの三つの詩を挙げている。


 「倭歌の始は八雲立つ云々の詠にして、漢詩は舜の『股肱喜哉。元首起哉。百工熊哉』といひしを始とすとかや。(恐らくはこれより前にも詩歌ありしなるべし)英國にて最古き詩の一を挙げんに


 Sweetly song the monks in Ely
 As Canute the king was rowing by:
 "Knights, to the land draw near,
 That the monks' song we may hear'.


の如き、第一は宮を造らせ給ふ時に雲立ちければ尊はありのまゝを歌によまれ、第二は舜が皐陶と治務を講し畢りて後に太平の様を歌ひて喜びたるなり。第三も亦カニュート王が舟中にてエライの寺に僧徒の歌ふを聞き、其臣に命じて『舟ヲ岸辺ニ漕ギ寄セヨ法師ノ歌ヲ聴カマホシ』と云へるを其儘に詩とはなしたるのみ。固より面白きこともなけれど又読み難き絛もなし。(素盞烏尊の歌の如きはむづかしき様にも見ゆれども、そは國語の変りしに因るものなれば、其言葉をだに解すれば其意味の単一なるを知るべし)」(『詩歌の起源及び変遷』)


  「八雲立つ」の歌は先にも述べたように神話に属するもので、その神話がいつ頃生じたのかは定かではなく、最古とは特定できない。「股肱喜ぶかな。元首起こるかな。百工熊まるかな」の詩は『史記』の「夏本紀」に見られるもので、やはり伝説の部類に属するものだが、おそらく子規はこれを夏の時代のものだと疑ってなかったのだろう。英国の最古という詩も、今日の文学史の書にはなく、我々でも読めるような近代英語で書かれていることからも、物語の一節から取ってきたものだろう。ここで問題なのは最古の詩が何であるかではなく、古い時代の詩が単純で素朴だったということが言いたいにすぎない。「恐らくはこれより前にも詩歌ありしなるべし」と括弧に入れて書き加えているのは、最古の詩歌について別の説が提出された場合を想定してのことだろう。
 子規の時代には、まだそれほど西洋文学の歴史について、詳しいことは知られてなかったのだろう。今日であれば、イギリスの文学はルーン文字の時代にまで遡れるし、六世紀には吟遊詩人による長編の叙事詩『ベーオウルフ』が成立していたとされている。これはカヌート王の時代よりもはるかに古い。八世紀には聖書の物語を題材にした叙事詩も盛んに作られていた。
 子規自身「英國の古詩ミンストレルシーの如きも長く口碑によりて伝はり、又印度にて数多の詩篇を言ひ伝へて今に残せし例もあれば、詩歌なる者は実に文字文章よりも早く世に現れしことは疑ひなかるべし。」と書いているように、文字以前の吟遊詩人の詩(minstrelsy)のことは知っていたのだから、子規がなぜこれを最古の詩としなかったのかは分からない。先にも「現に英國にては十四世紀の頃英國文学の啓明と呼ばれたるチョーサーの如き詩家ありしにも拘らず、文章の世に現れしは十六世紀の頃なりき。」という一節があったが、『アングロサクソン年代記』は既に九世紀末のアルフレッド大王の時代に編纂が始まり、十二世紀ごろ成立したとされ、チョーサーよりも前にも散文はあった。
 先史時代の本当の最初の詩がどうであったかは、記録がないのでわからないが、詩が文字以前の記録手段だったとしたら、その社会や集団が残したいと思う情報の種類によって詩の長さは違ってくる。神話や事件や物語を記憶し保存しようと思えば、むしろ文字以前の古い時代ほど長編の詩が作られる可能性が高い。文字成立以降は散文の形で保存することが可能だが、文字以前には詩の形にして語り継ぐほうが有効だったからだ。むしろ、文字以前の時代こそ長編叙事詩の黄金時代であり、長編叙事詩は文字の成立によってかえって衰退すると考えたほうがいいのかもしれない。
 これに対し、子規が掲げた三つの短詩はみな文字以降の散文の中に記述されたものであり、散文で記述された歴史の中の一つのエピソードとして挟み込む詩は自ずとその長さが限られる。
 むしろ、詩が短いものから長いものへと進化したという説は、西洋コンプレックスの現れといったほうがいいかもしれない。つまり、和歌や俳諧になじんだ日本人の目に、初めて接した西洋の詩でまず驚いたのは、単純にその長さだった。そこから、文明の進んだ国の詩は長く文明の劣った国の詩は短い、と単純に思い込んでしまったのだろう。『新体詩抄』の序文は、このように言う。
 「学泰西之詩。其短者雖似我短歌。而其長者至幾十巻。非我長歌之所能企及也。(泰西の詩を学ぶに、其の短かき者は我短歌に似ると雖も、而して其の長き者は幾十巻に至る。我長歌の能く企て及ぶ所に非ず。)」(井上哲次郎)
 「甚だ無礼なる申分かは知らねども三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り盡すことの出来る思想は、線香烟花か流星(よばひぼし)位の思に過ぎざるべし」(外山正一)
 子規も、この『新体詩抄』の考え方を継承し、詩が短いのは知力に劣り高尚な観念を持たないからだとし、文明の発達とともに多くの観念を表現しようとするため、詩は長くなると説く。しかし、詩の長さが文明の進歩と比例するなら、今日の詩はミルトンの『失楽園』より遥かに長く、それこそ全何十巻という大長編になっていなくてはならないだろう。

十一、古代人への偏見

 「然るに世の進むにつれ智力も発達し感情も高尚となるに及んでは、目前のありふれたる事を感ずるに止らず、目の前になき事即ち過去の事を思ひ出し、未来の事を想像し、猶一層発達すれば能く無形の事をも推知するに至るものなれば、従つて詩歌の領分も広くなり、材料も面白くなり、終には長篇大作巻を重ぬるに至れり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 これでは古代人は「過去の事を思ひ出し、未来の事を想像し」といった能力がなかったかのようである。もっとも、当時はまだ未開人に対する偏見が強かった。未開人といえども同じ千三百五十ccの頭脳でものを考える、我々とまったく変らない人間であることが疑いのない事実として認められるに至ったのは、実際の所最近のことだろう。今日でも、原始人が片言みたいな単純な言語を喋っている漫画や映画は沢山あるし(実際はどんな未開な民族でも語彙の豊富さや文法の複雑さは文明社会とそう変りはない)、原始乱婚制仮説も長いこと社会主義者の間では信じられていて、万葉集の歌垣歌をその名残とする説もあった。また、古代人は自己と他者が区別できないだとか、夢と現実が区別できないだとか、こうした神話めいた偏見もまた、長いことぬぐいさることができなかった。それは人種差別を正当化する論理としても、常に繰り返されてきたことだった。
 そうした時代だから、子規が古代人について、我々とは違う原始的な人類の姿を思い描いていたとしても不思議はない。子規にとって古代人とは、今日では北京原人あたりのイメージに近かったのだろう。強いて言えば、目の前のことを即物的にしか表わせない短編詩の時代から、長大な叙事詩への進化が起きた年代は、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスへの移行期の問題か。

十二、宗教と詩

 「而して人の知識の発達するの初めに当つて最善く其感情を支配する者は宗教なり。されば英國の如きも昔時は宗教の詩を作す者多く、又詩学もこれが為に大に進歩したるの極、絶世の大家ミルトンをしてパラダイス・ロストを作らしめしなるべし。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 ミルトンの『失楽園』は当時の人にとっては衝撃的だったのだろう。しかし、それは内容以前にその長さで圧倒されたというもので、実際その後の西洋の詩の歴史は、このような叙事詩の復興の方向には進まなかった。
 宗教といえば、日本にも古くから神道、仏教、儒教、道家に民間信仰が習合しあう豊かな精神世界があったのだが、明治の西洋崇拝者からすればそのようなものは封建時代の遺物に過ぎなかったのだろう。『失楽園』だけでなく、絵画のほうでも西洋の宗教画はその写実性で当時の日本人を圧倒しただろうし、そうしたものは西洋の先進性の象徴でもあった。ここでは宗教=キリスト教といってもいいだろう。日本の俳諧の文化も、神仏儒道や様々な民間信仰と結びついて庶民に親しまれてきた。それらが明治の国家神道に吸収されてゆく中で、春秋庵幹雄の明倫講社が一万人を越える信者の下に「神道芭蕉派明倫教会」を立ち上げ、本来の民間信仰の世界を守ろうとしたのは、これより五年前の明治十七年のことだった。このことは今日ほとんど何の評価もされていない。いかに西洋崇拝の根が深いか、思い知らされる。
 西洋には宗教があったから長大な詩が生まれたが、日本では宗教がなかったから長い詩が発達しなかった、というようなことは勿論ない。六十年代にイザヤ=ベンダサンこと山本七平が日本人は本来無宗教だと言っていたが、それは正確には明治の国家神道が「神道非宗教説」の立場に立って、すべての宗教を国家神道と矛盾しない範囲でしか許可しなかった歴史に因るもので、日本人が昔から無宗教だったということではない。むしろ、春秋庵幹雄と正岡子規以降の近代俳句との断絶は、幹雄の俳諧が伝統的な宗教観に基づいていたのに対し、子規は俳諧の宗教性を封建時代の遺物として顧みることがなかったという点にあるのだろう。
 ここではまだ姿を表わしていないが、明治二十五年の『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』になると、西洋では戦争が多かったために文明が発達し、詩も長大なものとなり、日本は平和だったから文明も詩も発達しなかったという主張が生じてくる。
 「西洋にて上古より競争戦闘の絶えざりしは各邦國間の侵略併呑互に盛なるより起りしものなれば我邦に此種の争なきは当然にしてそは前にも述べたるが如し、其次に西洋にて改革変乱等烈しかりしは宗教に由る者亦多し、我邦にても佛教は広く行はれたれども会て是が為に社会の秩序を乱す程の惨酷殺伐なる光景を現出せしことだに無ければ、つまる處人間の不幸は佳人才子の不遇なる位に止まり、それさへ天涯に沈淪するの類に非ずして僅かに一夜の契に後朝の恨を述べ一年の久闊に千秋の思をなすが如き些々たることを歌謡に作りて得意とするに至りたり、而して人世無量の変化を写し出さんと欲すれば長篇に由らざるべからざれども天然の雅景を摸し来るには数十字の短篇にても可なるべし、否、後者は寧ろ短篇に傾き易きものなり、蓋し一草一木を分離して歌題と為すべく、はた全体の光景を敘し盡すとも語らず笑はざる無心の山川は雲飛び水行くが如き規則的の変化の外に更に変化なるものなければなり、是れ即ち短篇韻文の成立し得る所以なり、」
 子規のこの三年の間での変化には、様々な形で日清戦争が影を落としている。

十三、国学の影響

 子規の『詩歌の起源及び変遷』は、最初の起源の部分が子規の直感に属し、そこで子規は詩がライムや字数などによる構造化によるものであり、それが記憶しやすいがために語り継がれたことを明らかにした。この部分が子規の独創であり、最も評価できる点だろう。しかし、そこに子規は西洋の詩が長いということから文明が発達するにつれて詩は長くなるという説を継ぎ足している。これは当時の西洋崇拝の空気に反応したもので、無理があった。そして、子規はこれに更に国学から得た歴史観を継ぎ足してゆき、そこに日本の詩の問題点を提起してゆく。


 「それのみならず斯く人智の発達する上は已に文宇もあり文章もあること勿論なれば、詩歌と雖もあながちに口より口に傅へずとも之を文字に現して人に示すを得べし。そもこの文章も始めには言葉通りを写せし者に相違なけれども、既に之を文宇に現はす上は口にて言ふよりも正確に書き現はし得べきが故に、段々と言文一致の境を離れ、文章は言葉よりもむづかしくなり、終には文章を飾ると言ふ事さへ出で来にければ、況して人の感情に訴ふべき詩歌は成るべく之を飾らんとするに至れり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 このあたりは賀茂真淵や本居宣長などの国学者の影響だろう。万葉集は庶民の生の言葉で書かれていたが、時代が下るにつれ和歌は貴族達の「雅語」で書かれるようになったということは、今日でも常識のように言われている。万葉の時代は言葉を飾らず率直にものを言っていたのに対し、新古今集の時代には人々が素直な心を失い文飾の塊と化したということも同様、今日まで受け継がれている。しかし、ここにも疑問がないわけではない。そもそも万葉語はどのくらいの広さの地域で話されていた言葉なのか。万葉語自体が当時の大和地方の言葉を基礎として作られた宮廷標準語ではなかったか、そして、古今集、新古今集の時代はもとより、室町時代の「雅語」に至るまで、こうした文学の言葉は常に宮廷を中心としたものではなかったか、という疑問がないわけではない。
 ここで国学的なテーマが提示されたことによって、子規の文章は、日本の詩が唐意によって駄目になったという本居宣長的な主題へと進んでゆくことになる。日本は万葉集まで正常に発達し続けてきた詩が、中国文化の流入で発展を阻害されたという論旨はいかにも身びいきなもので、しかも、その中でもなお、日本は俳諧という独自の詩を発達させたことを説く。

十四、漢詩の歴史

 「葩經の詩は漢土に在りては甚だ古き者にして流行歌の類ならんと思はる。其後春秋戦国の世となりて民心安ぜざるの折柄なれば、学問技芸の非常に発達せしにも拘らず、詩歌の如き美術は之を修むる者なく、僅に屈原の離騒等数篇あるのみなり。漢に至りて歌や辞や賦や続々として起り、五七言古体さへ現はるゝに至れり。晋より唐に至つて詩益々盛に、終に李王二杜の出づるに及んでは律と絶との二種最人望を得たるが、古詩も末だ力を失ふに至らず、其他賦頌文銘の如き変体の詩も唐宋の間には少からずといへども、下りて明清に至つては詩家の出でざるのみならず、其体も律と絶とを専として唐宋に模倣することをのみ力めたり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 葩經というのは『詩経』の別名で、これが流行歌だというのは、大序にある「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)」というあたりから変風変雅の詩=流行歌と判断したのだろう。今日からすると「流行歌」と呼ぶのはいかにも落としめた見方のようだが、当時の子規に大衆の流行歌に対し「文学」を特権的なものとする発想はまだなかったのだろう。「流行歌」というと、子規の明治二十一年の『筆まかせ』の「放歌」に「一昨年頃の事なりけん 余の下宿に友達集りて芸まはしとて順に都々逸 はやり歌 浄瑠理など歌ひしことがありしが」とあるし、「流行歌」では「大阪伝馬」「仙台節」「サイゴドンドン」「ドンガラガン」「ホーカイ」節など、並々ならぬ関心が示されている。
 「屈原の離騒等」は『楚辞』のことだが、これも古い時代にこれだけの長編の詩が生じたことは、先の詩は短く単純なものから長く複雑なものへと進化するという見方からすれば、むしろ漢詩の先進性を表わすものなのだが、あえてその長さについては無視している。長いといえば漢と晋との間の三国時代に阮籍の『詠懐詩』というそれ以上の長編の詩があるが、これも無視されている。「晋より唐に至つて詩益々盛に」とあるように、晋から宋(司馬炎の立てた国で、のちの趙匡胤の立てたあの宋ではない)にかけての時代には謝霊運、陶淵明が活躍し、古詩の黄金時代があった。そして、唐といえば言わずとしれた王維、李白、杜甫、杜牧などがいる。また、白楽天もこの時代の人だった。絶句、律詩という短い形式の詩もこの頃発達したが、長編の古詩も決して少なくはなかった。その意味では「律と絶との二種最人望を得たるが、古詩も未だ力を失ふに至らず」というのはその通りだ。宋(趙匡胤が立てた方の)の時代も同様で、蘇東坡、黄庭堅は有名だし、やはり古詩も盛んに作られている。しかし、その後明清になっても絶句律詩ばかりになって長編の詩が作られなくなったということはない。清の呉偉業の『永和宮詞』や王闓運の『圓明園詞』はかなりの長編だ。明清の詩はたまたま日本で人気がないだけで、この時代にも優れた漢詩が作られている。むしろ子規をはじめとするこの時代の文人に「衰退期」の烙印を押されてしまったことが、今日の研究の遅れを生み、それがさらに衰退期という印象を強めてゆくという悪循環を生んでいるのではないか。子規のこの論は中国の詩が短くなったことで詩が退化したという印象を与えようとする作為的なものだろう。

十五、大石の下に

 「日本に在りては古代の歌の発達せんとするに際し、新に輸入せられたる漢文学の為に壓せられ、恰も大石の下におされたる竹の子の如くからうじて其下より枝を伸ばせしかども、其竿は既にくねりくねりて纔に餘生を保つばかりの有様なれば、雲漢を拂ふの脩竹となる能はざりしも無理ならぬことなり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 いかにも愛国心を煽るような言い回しだ。日本は万葉集まで順調に詩は発展し続けた。しかし、中国のせいで「大石の下におされたる竹の子の如く」日本の詩はねじ曲げられてしまった、と。純情な愛国者がこれを読んだなら机を拳で叩いて、「畜生!中国の野郎」とでも叫んだだろう。日清戦争はもうすぐそこに迫っていた。
 このあたりは唐意を諸悪の根源とみなす国学の影響以外の何でもあるまい。実際は中国の詩から様々な新しい趣向を取り入れ、和歌に新たな息吹を吹き込んでもいる。人麿の長歌でさえ、陸機などの古詩の影響があるという。
 国学から受け継いだ中国に対する敵意は結局それまでの中国崇拝の裏返しのようなもので、あまりに素晴しく引かれるが故に、それが自国の文化を脅かす侵略行為に映る。それは明治の西洋崇拝についても言えることだ。こうした心理は、今日の反グローバリズムの問題でも同じなのかもしれない。


 「其上日本語は二千餘年の昔より今日に至る迄、時の長きばかりにても遷り変るは尤の事なるが、まして中古漢学の入り来りてより上等社会は皆之を用ふることを務め、従つて上下の言語は自ら懸隔を生じ、其後封建政体の為に國々に特異の方言をさへ生ずる事夥しく、明治以来は洋学の為に亦多くの変化を受けたり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 江戸時代は封建社会で人の自由な移動ができなかったから、各地方に多様な方言が生じたという説は、今では否定されている。日本人自体が縄文系の先住民族と江南方面から渡来したと思われる弥生人との混血によって生まれた民族で、それぞれ独自の言語を持っていただろうし、その後朝鮮半島からたくさんの渡来民がやってきて、それも日本語に多くの影響を与えている。それが今日の日本語の方言の驚くべき多様性を形作っていると考えた方が普通だ。もっとも当時はそのようなことは知られてなかった。


 「然るに今の歌人は成るべく古昔の倭語を用ゐて之を雅言と称し、其他の言葉を俗言と称して之を斥くるを以て、昔は木樵山がつよりみるめ刈る海人早苗を植うる賎の女さへよみ得し歌も、今は雲の上人か、さなくとも朝夕古書に眼を晒す和学者ならではよみ得ぬ様になれり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 雅語というのはむしろ古来より日本国内の言語が多種多様を窮めていたため、一種の標準語として宮廷の言語をもとに形成されていったものだった。それが「雲の上人か、さなくとも朝夕古書に眼を晒す和学者ならではよみ得ぬ様」となったのは、単純に時代の変化によるものだ。もっとも、子規のこの発言はかなり誇張されている。明治二十六年の『文界八つあたり』にある次の言葉の方が当を得ていたにちがいない。
 「試みに今日の歌人には如何なる人かなると尋ぬるに先づ

 國学者 神官 公卿 貴女 女学生 少し文字ある才子 高位高官を得たる新紳士 我歌を書籍雑誌の中に印刷して見たき少年」
 最後の「我歌を書籍雑誌の中に印刷して見たき少年」には子規自身も入ったであろう。
 この頃の子規はまだ雅語で和歌を作っていたが、やがて明治三十一年頃から短歌革新を始めた時、子規は万葉集を賛美しながらも、雅語だけではなく、賀茂真淵流の復古万葉調も退けることになる。万葉に帰るということは子規にとってはその時代の言語で詠むということであり、万葉の時代の言葉で詠むということではない。その点は後のアララギ派とは異なる。歌はその時代のリアルタイムの言葉で詠むべきであるという主張は、そのまま俳諧の肯定へと続く。

十六、点取俳諧の問題

 「唯々俳句には言葉の限り広き故、昔より俗人にても之を弄ぶ者少からず。併し乍ら言葉さへ知らば誰にても詩歌を上手に作り得べしと云ふ訳には非ず。詩の材料となるべき高尚微妙の想像は金銭を追ひ廻り名利に目がくれる俗人の脳中に現出し得べき者にあらざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 伝統の和歌は雅語で詠むべきものとされてきたが、実際は室町時代まではそれほど時代遅れの言葉ではなかった。室町時代の歌論、二条良基の『近来風体抄』でも、古今集のたとえば「袖ひぢて」のような言葉は古い言葉なので今の時代では使わないというようなことが言われていた。中世の和歌連歌の言葉は決して当時にあっては古語ではない。むしろそれが急速に古語となっていったのは、中世から近世への変り目に都市文化が急速に発達し、都市の町人の言語が支配的になり、宮廷中心の標準語としての雅語が廃れていったことによるものだろう。そして、それが俳諧の急速な発展のもとともなった。
 「金銭を追ひ廻り名利に目がくれる俗人」は点取り俳諧を風刺したもので、明治二十六年の『文界八つあたり』にはこのようにある。
 「前句附三笠附景物賞品等は固より俳諧に遠くして博奕に近きことは已に享保年間に於て幕府の認むる所となりたり。今日行はるゝ所の懸賞発句の如き未だ法律を以て之を禁止せずといへども其弊或は享保年間の三笠附に劣らざらんとす。懸賞発句はもと狡猾なる商人の発意に出で其手数料として割合不相応の金を貧るにありて募集に応ずるの人全く之を知らざるにあらざれどもこれも亦懸賞を得て己れを利せんとの勘定づくにて見すみす敵の術中に陥るものとは知られたり。これもと俳諧以外のものにて文学とは何等の関係もなければこゝに論ずるの必要なしと雖奈何せん世人はこれを以て俳諧とし俳諧師はこれを以て奇貨とするの観あるを。」
 もっとも、俳諧師匠は趣味でやっているわけでなく、それで生活している以上は、まったく無償で選者となって句を集め、それを自腹切って出版するというわけにはいくまい。だから良心的な師匠といっても、点料は取るだろうし、句を集めるにはいくらか賞金も出さねばならないだろう。それにこうしたやり方は、今日の『公募ガイド』という情報誌を見てもけっこう行われていることだ。大抵は地方自治体の俳句・短歌のコンテストだが、一句(一首)千円くらいの投句料が相場となっている。明治の初期にはまだ、法外な賞金で射幸心を煽り、賞金は内輪のものが匿名で作った作品に行くような明らかな詐欺もあったかもしれない。しかし、そんなものは一度ばれたらすぐに権威や信用を失ってしまうだろうから、堅気の俳諧師匠はやらないだろう。むしろ当時はまだ俳諧が今日でいうJ-popのような巨大産業だったため、一口に俳諧といってもピンからキリまであり、いかがわしい部分も含めて俳諧が盛んだったと見たほうがいいだろう。
 子規の場合は新聞の投句欄の担当だから、必ずしも投句料を取る必要はなかったし、新聞のような多くの人が読む媒体に自分の作品が載るということ自体投句者には名誉なことだから、高額な賞金も必要とはしなかっただろう。
 正岡子規の俳句革新は一般的には点取俳諧を否定して俳句を芸術に高めたというふうに見られている。しかし、実際はむしろ近代俳句は点取俳諧を母体として成立したといったほうがいい。少なくとも中世連歌や芭蕉の俳諧のような連衆を集めて興行を行うスタイルでの文芸を求めたのではない。子規もまた『日本新聞』の投句欄の選者で、句を募りそれに順位をつけるその手法は点取俳諧から受け継がれたものだった。実際、子規は点取を否定してはいない。
 「運座点取など人と競争するも善し。」(『俳諧大要』)
 ただ、賞品や賞金のために句を競うことを否定しているにすぎない。
 「秀逸の賞品を得るが如きは野卑にして君子の為すべき所に非ず。」(同)
 つまり、子規にとって自らの俳句活動と点取俳諧を隔てるものは、まず第一に賞品・賞金の有無だった。
 多額の賞金という点さえ別にすれば、今日無数にある俳句誌、短歌誌、詩誌などは、皆一様に一般読者から作品を募集し、それを選者が選び、順位をつけて掲載するというスタイルをとっている。こうしたスタイルは点取俳諧から受け継いだものだ。
 そもそも、子規は旧派俳諧師の作風を「月並調」として非難したが、本来この「月並」という言葉は月刊の定期刊行物を意味する言葉だった。特に、春秋庵(三森)幹雄の明倫講社の発行した『俳諧 明倫雑誌』は村山故郷の『明治俳壇史』(一九七九、角川書店)によれば「雑誌の体裁は菊判洋綴じ、五号活字二段組みの活版印刷で、冒頭に社長三森幹雄の緒言、東杵庵月彦の祝詞、素学堂菊之の社説、つづいて俳話、句解、雑報、俳句欄等があり、従来のものに比ベて、体裁・内容共に著しく整備されている。この体裁は、その後、秋声会の機関誌『秋の声』や日本派の『ホトトギス』にも継承され、今日の俳誌の原型をなしているといってもよく、その意味で極めて意義深いものがある。」という。今日の定期刊行されている俳句誌、俳句同人誌の作品は、その意味では結局みんな「月並」といってもいいのではないだろうか。

十七、日本の長編詩は廃れたのか

 「又詩歌は人間の感情と思想の複雑となるにつれて益々長くもなるべきは前にも云ふ如き者なるに、漢詩は白楽天の歌行以後長篇なく、日本にても萬葉以後長歌を作る者稀なり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 日本にいわゆる「長歌」が廃れたのは事実だが。漢詩に「白楽天の歌行以後長篇なく」というのは事実ではない。「歌行」というのは「長恨歌」と「琵琶行」を指すものだが、この程度の長さのものは、その後も数多く作られている。それに、ここでは詩歌を短歌俳諧に限定してる。いわゆる最初の「言語は人間固有の音楽なれば、言語の調子よき事は音楽の調子よきが如く聞く人に面白く感ぜしめ、其上最記憶に便なるが故に終に面白きこと感動せしことを故らに調子よく作り、之を歌ふに至りて始めて真正の詩歌とはなりたるなり。」という定義だと、むしろ平家物語や浪曲のような韻律とメロディーを具えた物語は「叙事詩」にならないかという疑問も生じてくる。そして、これらを詩の範疇から除外しているのは、結局日本の詩歌を和歌中心に考え、和歌とそこから派生した俳諧に限っているためではないのか。
 子規はその後韻文と散文の境界がきわめて曖昧であることに言及するようになる。明治二十七年の『文学漫言』にはこうある。
 「韻文と散文とは動物と植物との如し。極端を取て之を言へば固より紛ふべくもあらねども其限界に至りては終に劃一なる能はず。韻文にして散文に近きものあり。散文にして韻文に近きものあり。韻文散文相錯伍して孰れとも分ち難きあり。殊に和漢には此種の文多し。」
 「本邦の散文にも多少の調子を為す者多し。太平記の時に七五調を挿むが如き殊に馬琴の小説が始終七五調を離れざるが如きは其の韻文なるか散文なるかを知るに苦む。」
 そして、一方では「韻文の種類は各國共に多く、事実の上に區別あると共に音調の上にも區別あるを通例とす。例へば本邦にて長歌、短歌、催馬楽、朗詠、今様、謡曲、連歌、俳諧、端唄、都々一、川柳、唱歌等あり。其他浄瑠璃、琴唄、長唄、清元、常盤津の類亦一種の音調を存す。」(『文学漫言』)という。
 先に子規が西洋の詩と比べて日本の詩は短くなり平和な花鳥風詠の方向に発達したのを停滞と看做していたことを挙げたが、こうしたものを韻文とし、仮に叙事詩のうちに含めるとするなら、子規の先の論拠は逸してしまうことだろう。

十八、俳句の評価

 「かの三十餘文字の歌の如き、単一の意ならでは一首中に含ませ難きは勿論の事なれば、今の歌人も亦太古の純粋無味の歌を以て無上の善き者と思へるこそいとも愚の至りなれ。これに比べなば俳句の方字数少なけれども意味深くして進に面白し。こはスペンサー氏の心力省減説(エコノミー・オブ・メンタル・エナジー)によりても知り得べき事にて、古池の吟の僅々十七字中に深き意味を含みたるは、山烏の尾のながながしき文句中に只々一意を現したるとは其面白さ如何ぞや。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 この時点ではまだ子規は万葉調ということを意識していない。子規自身のこの頃詠んだ和歌も伝統的な雅語を用いた平易なもので、『七草集』(明治二十一年)からそれを引用してみよう。


 五月雨に四方のながめもなかりけり
    堤をゆする隅田の川波


 あけぼのに渡りの舟の行へだに
    見わかぬまでに霧はこめけり


これなどはまだ写生に近いかもしれない。しかし、


 夜ハふけて行来の人もなぎさうつ
    波の音のみぞ梦に聞ゆる


 風そよく隅田のあしのふしの間に
    夏の夜あけて鶏やなくらん


などはなかなか巧みに掛言葉を使っている。「スベッツコロンデ」のような原始的ライムと和歌の技巧とは、まだ連続している。「かの三十餘文字の歌の如き、単一の意ならでは一首中に含ませ難きは勿論の事なれば、今の歌人も亦太古の純粋無味の歌を以て無上の善き者と思へるこそいとも愚の至りなれ。」と言っているわりには、実際には子規自身もそのような歌を詠んでいた。というか、子規自身そのような歌しか作れなかったから、和歌を「愚のいたり」などといったのだろう。
 それに対し、俳句は短いながら深い意味を持つという。ここでその例として芭蕉の古池の句が登場するのはまた皮肉なことだ。この句は後になると写生説の見本として、古池に蛙が飛び込む以外に何の意味もなく、ただ事物をありのままに吟じたところに価値があると言い出すことになる。(「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、復他に意義なるものなし。」明治三十一年『古池の句の弁』)しかし、ここでは「深い意味」を認めている。しかし、どういう所が深いかというと、当時の子規の古池の句に対する解釈は『筆まかせ』の中の明治二十二年の「古池の吟」という文章に見られる。
 「しかるにこの春スペンサーの文体論(フィロソフィー、オヴ、スタイル)を読みし時minor imageを以て全体を現はす 即チ一部をあげて全体を現はし あるはさみしくといはずして自らさみしきやうに見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうつて『古池や』の句の味を知りたるを喜べり、悟りて後に考へて見れば、格別むづかしき意味でもなくただ地の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまでなり」
 これではそんなに深いとは思えない。だが、これでも古池の句の妙味を知ったと豪語できるほど、当時この句は俳諧師匠の崇拝するものでありながら、その意味はほとんど再現できないほど忘れ去られていたということなのだろう。だから、マイナー・イメージの発見をもってして妙味を知ったとも言えたし、また、後に写生説を唱え、ただ事物をありのままに写したところに意味があると言っても、それほど疑う人もいなかったのだろう。今日でも多くの人は、この子規の説のどちらかを信じているといっていいだろう。
 子規が十七文字に深い意味を込めるといっても、せいぜい閑寂の文字を使わずして閑寂さを表わす程度のものだとしたら、知れたものだろう。当時の子規の俳句を『七草集』から拾ってみよう。


 声かぎりなきてハいかに都鳥


都鳥とは今でいうユリカモメのことだが、声の限り啼いてみてくれということで、その声のか細さをマイナー・イメージで描き出している。


 星はおち月ハくだくる花火哉


これも花火を月や星にたとえ、それが消えてゆくことで花火の華やかな美しさを表わそうとしている。この句の隣ではさらに


 人の身ハ咲てすぐ散る花火哉


と人生のはかなさに重ねる。これらは芭蕉の技法のほんの目につく表面だけをまねたものにすぎない。これでは後世に残るような名句が生まれるはずもないのだが、子規は名句の生まれない原因をこともあろうに俳句の十七文字の組み合わせに数学的限界があるからだとしている。

十九、錯列法の問題

 「されば我は寧ろ発句を以て和歌の進歩せし者となさんとは思へども、只々惜むらくは発句も亦十数字を以て限りとなす者なれば、其如何に変化し得らるべきとするも、錯列法(パーミュテーション)の定式に由つて対数表を繰り開けば、此言語を以て作り得べき俳句の全数は何首の上に出でずと明言するは最容易の事なり。此限ある十七字の小天地間には吾人の無数の感情を写し盡すだにいと難きに、まして吾人の感情思想は発達するに従ひて益々こみいることは屡々説きし如くなれば、到底俳句を以て完全なる詩歌となすに足らざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 一体子規がどれほど数学を理解していたかは不明だ。仮に日本語の音節の数を五十音として、それを十七個配列するとすれば、その組み合わせは五十の十七乗、意外に天文学的数字になる。月並俳句は組み合わせだけの問題ではあるまい。しかし、この俳句の十七文字の組み合わせはもう尽きた、もうすぐ尽きるに違いないという説は、その後写生説確立以後にも現われる。明治二十八年の『獺祭書屋俳話』のなかの「俳句の前途」でも「俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり。」とある。
 錯列法(パーミュテーション)の説は、明治二十五年の写生説確立期の『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』にも現れる。そこでは俳句の問題よりも、むしろ短歌が既に尽きたということが中心となり、その原因を言葉が雅語だけに限られていたことに由来するとする。
 「蓋し短歌三十一字を以て作り得べきだけの錯列法(パーミュテーション)を算するとも其の総数猶筆舌に上り得らる、程なれば先世の歌人幾多の構思を費して数千首を作り出せし上は最早後世の歌人をして筆を用ふるに處なからしむる理なり、況んや其詠ずるもの皆萬古不変の天然を主とするをや、況んや古語の外に新語を用ふるを許さず、古文法の外に新文法を用ふるを許さヾるをや、是に至りて陳套古習を脱却せんと欲するも得べからざるなり」(『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』)
 これに対して俳句は俗語を解放したことで一時息を吹き帰したが、やはり衰退したと続く。
 「俳句は敢て古語古文法の範圍内に拘束せられざるが故に新言語の力を假りて多少の新意匠を吐露し為に千篇一律の短歌に飽きはてたる文人、又は古語古文法を学ばざる詩客をして其力を擅まゝにし以て韻文の面目を一新したり、然れども此俳句も亦僅々十七字を限れる短篇なれば無かずの変化を為すこと難く且つ其俗語を用ふるを許したる為に今日にては全く無学文盲の俗人にのみ弄ばるゝに至り其運命は一日々々より短縮しつゝあるものゝ如し」(同)
 しかし、これだと無学文盲の俗人が俳句衰退の原因であって、あえて錯列法のせいにする必要もないのではないか。
 もちろん無学文盲どころか、日本は室町時代から世界でも有数の識字率の高い国で、名もない町人や百姓まで遍く字を知り、俳諧を通じて古典の風雅に親しんだことは、むしろ世界に誇れることであろう。子規のこの高飛車な態度は西洋崇拝によるもので、こうした大衆の蔑視は今日の「文学」にも普通に見られる。
 「俳句の危機」「短歌の危機」ということだったら、今日でも十年一律のように言われていることで、そんなに大きな問題ではないのだろう。何万句寄せられてきてもそのほとんどが月並なのは、子規の時代も今もそんなに変るものではない。正岡子規は明治の状況を指して、「発句俳諧の類総てこれ文学たるに相違なくんは日本文学の過半は俳諧の為に占領せられたり。俳人宗匠の類総てこれ文学者たるに相違なくんは日本人口の千分の一は即ち皆文学者と称すへきものなり。鳴呼何そ俳諧の盛にして俳人の多きや。」(明治二十六年『文界八つあたり』)と言い「試みに如何なる人が俳諧社会を組織するかを見よ。國学者公卿等数種の人が歌人となりしは愚かの事、金持の隠居、町内の口きゝ、卑賤の芸人、無学の百姓、ひまな代言、不用な役人いづれか俳諧を好まざらん。これをしも猶文学者といふべくんば日本の文学は井戸端の会議に落ち御講の戻り道に残りたりとや云ふべけん。」(同)と言う状況は百年一律とでも言うべきだろう。今日でも「カラオケ感覚」「日常雑貨」「等身大」なんて言葉が踊る。
 もちろん、「無学」と言っても明治の頃も今の日本も決してそんなことはない。むしろ、本当はしっかりとした学のある身でありながら、わざと馬鹿を装って、つまらない井戸端会議のレベルの俳句で遊んでいるほうが問題なのだろう。出る杭は打たれるというか、いかにもうまいんだぞみたいな態度は嫌われるため、日常レベルの志の低い句でみんな平均、みんな平等の雰囲気に酔いしれているのが、こうした月並俳句の真相だろう。だから、一応俳壇の頂点に君臨するものとしては、あまり平均主義が過ぎて俳句全体のレベルが下ることを心配するために、常に「俳句の危機」を叫び、危機感を煽るのはもっともなことだ。しかし、俳句が大衆に根強い人気があるのは、この平均主義のせいなのではないか。今日何百万という俳句人口があるのは、誰でも作れるという手軽さによるものではないのか。本当に俳句が高度な芸術になって下手な俳句を詠むとあからさまに嘲笑を受けるようになってしまったら、俳句人口は激減するに違いない。句集の収入ではなく、俳句誌を主催し広く大衆から句を集めることで飯を食っている俳人としては、そうなっても困るだろう。
 月並句が多いこと自体は、むしろ俳諧が世間で盛り上がっている証で、そんな悲観すべきことではないだろう。そして、明治二十二年の時点では、子規も月並調の短歌俳句を自ら作ることにそれなりに満足はしていただろう。しかし、それでも根本的な変化を要求するには、むしろ別の事情、つまり政治的背景があったのではなかったか。それはまさに子規の俳句革新が日清戦争の迫り来る中で、ある種の危機感をもって行なわれたものだったこと、つまり子規にとって日本の伝統詩歌への不満は、それがあまりに平和主義的だという所にあったのではなかったか。そのことは先の詩が西洋において戦乱の中で短いものから長いものに発展したという歴史観にも現われている。国家は今まさに弱肉強食の生存競争の中で西洋列強に脅かされている。そんな中で平和な花鳥風月の句に興じているとは何事だ─それが伝統詩歌を月並・卑俗と落としめてゆくことにつながっていったのではなかったか。
 そして、結局子規が選んだ道は、古典技法を完全に封印して、西洋画から学んだ写生の技法でもって新たなゲームを始めるということだった。写生句はまず、言葉の裏にメッセージを含ませることを拒否する。いわば、単純に対象を描写する技術だけを競うことで、句の中に特定の思想や宗教や感情を表現することを拒む。これによって、江戸時代より引き継がれた伝統的な庶民の世界観を排除し、写生を通じて、西洋崇拝の国家システムへ組み込むことができた。
 それでも、子規の写生句が当時としてそこそこの成功を収めた理由は、古典技法を知らなくても句が作れるという手軽さと、ただ目に映るものをそのまま写し取ればいいという量産のしやすさ(子規は十句連作というスタイルを定着させた)、それに写生という未開拓な技法に当時としては十分な発展の余地があったからだろう。そして、その一方では旧派の俳諧に親しんだ、いわゆる江戸の文化を引き継ぐ世代が高齢化したことも原因にあっただろう。そして、子規は俳句においてそれが成功すると、明治三十一年頃からその手法をほぼそのまま短歌に持ち込む。描写の技術を競い、俗語・俳言の使用を解禁することで、子規の短歌革新はむしろ短歌の俳句化となった。

二十、日本の詩歌の運命

 「こゝに至りて考ふれば我國の歌は古より変遷なしと謂ふて可なり。若し之れ有りと謂はゞ悪き方に変りたるなり。既往は何ぞ論ぜん、将来に於ける和歌の運命如何ぞや。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 写生説以前において、子規はまだその回答を見い出せない。しかし、写生説という答を見い出したにせよ、それは古典との断絶による新たな詩の創造の道であり、古典の継承ではなかった。


 「かの長歌は可ならざるにはあらねども、これより外に体なしと思ふは誤にて、調子だに合へば如何なる体を作り出すも勝手なり。実際は上手にさへ作れば其詩歌の体が善き様に思はるゝ者なり。今日の日の本に一新体を作り出すの詩人は一人も居らざるか。彼の所謂新体詩家の如きは詩歌の改良者にあらざるなり。角を直さんとして牛を殺す者なり。」(『詩歌の起源及び変遷』)


 「彼の所謂新体詩家」は『新体詩抄』の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎の三人を指すものだろう。確かに彼らは新しい詩を作ろうという意気込みはあったが、内容的には軍歌や勧学の歌など、いかにも官製という感じの説教臭い詩だった。しかし、結局子規も新体詩では成功しなかったし、写生説もまた俳句短歌という形式を保存するために、古典の精神そのものを否定し去ったという点では「角を直さんとして牛を殺す者」ではなかったか。
 子規のこの『詩歌の起源及び変遷』は将来の詩に対し十分なヴィジョンを示すことなく、ふたたび詩の起源を確認して終ることになる。いわば、詩は原始的ライムに基づきながらも、我が国の詩が五七の音数だけをもとにし、ライムを受け継がなかったという事実に帰ってゆく。しかし、それも日本語の特殊性というどんづまりの議論で、最後は日本語の変革にまでいってしまう。


 「つけて言ふべき事あり。今迄は唐歌も和歌も西洋の詩も皆一まとめにして之を詩歌と称へしかども、実際に於て多少の差異なきにあらず。其最著しきは倭歌のみは他國の詩歌と異なりて韻を踏むことなし。西洋にもブランク、ヴアスとて韻を用ゐぬ者あれども、そは多く長篇の場合にしていと稀なり。國詩の韻をふまぬは固より韻は詩に不必要なりとの意にはあらざるべく、只々文法上韻を用ふるを許さざるのみ。今試みに漢詩の韻脚を見るに、名詞動詞助字杯を自在に用ゐ、西洋の詩にては名詞動詞副詞形容詞前置詞等何れの言葉をも韻宇に用ゐ得れども、日本語は一句の終りには必ず動詞助動詞の語尾か、又はテニハが来るべき組立なる上に、此語尾やテニハは実に其数少くして、到底之を用ゐては無数に変化せしむる能はざるなり。若し日本の詩歌に於て韻を押さんとならば、先づ今の言語の組立を改め、テニハの類を追ひ拂ふ事を企てざるべからざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』)

二十一、日本語ライムの問題

 韻を踏む習慣のないのが日本だけということは実際にはないだろう。韓国の時調も韻は踏まないし、沖縄の琉歌やアイヌのユーカラも韻は踏まない。イギリスでも脚韻が登場するのは、フランス語やラテン語の影響を受けた十三世紀のことだ。九鬼周造の『日本詩の押韻』によれば、脚韻の文化の起源は中国にあり、それがインドやアラビアを経てヨーロッパに伝わったものだという。押韻への原始的な欲求(「スベッテコロンデ」のような)はどこの民族にもあるだろうけれど、それが民族の詩の重要な要素として定着するかどうかはあくまで文化的な要因による。日本は古代より押韻をしない文化だったが、アメリカからヒップホップという音楽が入ってきて、今日急に若者を中心にライミングが広まってきている。
 子規は日本語の文法的問題を挙げているが、古来和歌俳諧では体言止めや倒置ということが普通に行われてきたから、必ずしも動詞や助動詞や助詞が末尾に来るわけではない。形容詞、形容動詞で終ることもあるし、名詞で終ることもできる。
 むしろ、子規のみならず近代文学の中で日本語ライムが根づかなかった最大の原因は、本来ライムの持つ言葉遊びの要素が欠落して、形式主義に陥ってしまったことが最も大きいのではないか。もし明治二十二年の時点で子規が押韻詩を試みていたなら、また違った展開があったかもしれない。しかし、明治二十五年頃から始まった俳句革新は、川柳や都々逸と同様、和歌俳諧の言葉遊びを文学の名において排除するもので、子規の新体詩の実験はそのあとの明治三十年のことだった。その時の子規のライムはこのようなものだった。


   老嫗某の墓に詣づ

 われ幼くて恩受けし
 姥のなごりの墓じるし、
 せめては水を手向けんと
 行くや、湯月の村の外。
 昔辿りし田の小道、
 寺を廻りて埋葬地、
 三年過ぐればこは如何に、
 墓満ち満ちぬ、尾に谷に。
   以下略


 子規は明治三十年の『新体詩押韻の事』で日本語でのライミングの三つの仕方を挙げている。最後の母音のみを韻とするもの、最後の一字だけを韻とするもの(「い」と「い」、「か」と「か」など)、最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者(「きん」と「りん」、「つく」と「すく」など)。子規はこの二番目のものを採用し、後最初のものへと移ってゆく。『新体詩抄』の谷田部良吉の『春夏秋冬』や、後に昭和に入ってからの九鬼周造、そして今日の押韻定型派の詩人もおおむね三番目のものを採用している。しかし、英語や中国語には一音節の単語が多く、一音節だけのライムでも単語レベルでの類似が際立つが、日本語の場合一つの単語の音節数が多いため、一音節二音節のライムではあくまで音素レベルでの類似に留まる。いわば、意外な単語と単語が結びつく言葉遊びとしての面白さが発生しない。形式だけのライムに留まる。これに対し、最近のラップに見られるライムは、子音を踏み外し母音だけでライムするために、三音節以上の押韻を可能とした。ここに言葉遊びの面白さが加わり、ライムは爆発的に広まることとなった。
 おそらく子規もこの失敗に気づいていたのだろう。明治三十二年以降に、子規は童謡風の歌を試みている。明治三十二年『ホトトギス』の『内地雑居の歌』、明治三十四年『仰臥漫録』の『俚歌ニ擬ス』年月日不明の『七草』などがそうだ。「スベッテコロンデ」の原点に帰り、日本語ライムを根本から立て直そうとしたのだろう。もし子規にもう少し寿命があったなら、短歌革新が一段落したあと、もう一度押韻詩にチャレンジしていたかもしれない。少なくとも、『詩歌の起源及び変遷』のこの末尾を見ると、私は案外正岡子規は俳句や短歌の革新がその場しのぎのものであることが見えていて、本当の詩の革新は押韻をした新体詩に求めていたのではなかったかと思えてならない。

二十二、近代化と起源への問

 明治の王政復古は神武建国の時代に戻るということで、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸といった時代に脈々と作られてきた日本文化を捨て去るというものだった。しかし、実際には神武建国の時代のことなど誰も知らない。これは一つのごまかしで、口では神武建国の時代に復帰するといいながらも、実際に行われたのは西洋化だった。あたかも日本が本来西洋的であり、古代以来中国の劣った文明の影響で軟弱になり没落したかのような印象を与える、それが王政復古の狙いだった。明治政府は王政復古の名のもとに太陽暦を採用し、新嘗祭、神武祭などの宮廷で細々と残っていた祭を太陽暦で行い、その一方で正月、上巳、端午、七夕、お盆、重陽などの陰暦に基く日本古来の行事を禁止した。また、急遽国家神道なるものを作り出すことで、古くからの稲荷、道祖神、庚申などの信仰を禁止し、その勢いは排仏毀釈にまで及んだ。こうして、民衆は洋装をしてアラビア馬の曳く立派な西洋式の四輪馬車に乗る明治天皇の姿を「神武建国」への復古と受け止めたのだった。そして、幕末の志士たちは、長く平和だった日本のそれまでの歴史を馬鹿にし、大砲を積んだ黒船に三韓征伐の時代の夢をよみがえらせたのだった。
 正岡子規もまたこうした明治の申し子で、旧制中学の頃から自由民権運動に共鳴し、日本の近代化の急先鋒にいた。『無花果艸紙』という子規自身が主に学校に関係して書いた文章を綴じたものの中に、『自由何クニカアル』という松山中学時代の演説会の原稿が残されている。これを見れば、子規の「自由民権運動」に対する意識がいかなるものだったかわかるだろう。そこには「自由とは何か」といったような根本的な問いは見られない。そこに並べられているのは、むしろ次のような言葉だ。
 「然レトモ余ノ察スル所ニ依レバ我國ノ自由敢テ欧米諸國ノ自由ニ及バザランコト必セリ 然レハ則チ欧米人ニ在テモ亦自由主義ノ未タ我國ニ拡張セザルヲ以テ必ス私カニ其心中ニ於テ我ヲ侮ルベシ‥‥略‥‥然レトモ今諸君ニ対シテ現今ノ日本国ハ未タ自由ノ真理ヲ知ラザルノ国ナリ 故ニ外邦ノ侮辱ヲ受クルコト甚シ」
 何のことはない。自由主義でないと外国から馬鹿にされる。日本の名誉を重んじ、国家の威光を万国に知らしむるには、国家はまず自由の真理を国民に告げなくてはならない、といった内容だ。この論理なら、欧米諸国が武力をもってしてアジアを植民地化しているから、日本も同じように軍備を拡張し、朝鮮半島を侵略して行かないと欧米諸国に馬鹿にされる、という論理に容易にすり変ることができる。子規の『明治二十九年の俳諧』にはこう書かれている。
 「日本が世界列国の間に押し出して日本帝国たるものを世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要となりしなり。」
 写生説も、ライミングにしても、西洋がそうやっているから、日本はやっていないから、だから日本は遅れている。写生を取り入れ、韻を踏んで、西洋に負けないような日本の詩を作らなくてはいけない。そう考えると子規のやろうとしていたことはわかりやすくなる。そして、その後の文学史も同じように、西洋で象徴詩がはやっているから日本もやらないと遅れる。西洋でダダがはやっているから日本も取り入れないと遅れる。もちろん西洋に良いものがあれば、それを自国の文化に吸収しようという考え方は悪いことではない。しかし、そのつど日本の伝統文化を馬鹿にし、唾を吐きかけ、捨て去ってゆくやり方は果たして正常といえるだろうか。
 しかし、子規の詩の革新がいかにコンプレックスに彩られたものであったとしても、子規の思索は日本・中国・西洋の詩の伝統を通じて、それらの共通の起源を差し示すところから始まっていた。このことは、一方で民族を越えて詩一般について思索する可能性を開いていた。今日我々が子規の詩の革新から学ぶべきことがあるとしたら、まさにそのことだろう。詩の革新とは西洋の詩を模倣することではなく、あらゆる詩の可能性を受け入れることなのである。

参考文献

 『子規全集』講談社
 『明治俳人集』明治文学全集五七、一九七五、筑摩書房
 『明治詩人集(一)』明治文学全集六○、一九七二、筑摩書房
 『評伝、正岡子規』柴田宵曲、一九八六、岩波文庫
 『正岡子規』松井利彦、一九六七、桜楓社
 『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日出版社
 『正岡子規』岡井隆、一九八二、筑摩書房
 『子規歌論の発展と継承』有田静昭、一九八○、桜楓社
 『正岡子規-創造の共同性』坪内稔典、一九九一、リブロポート
 『正岡子規 人物叢書一四四』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
 『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
 『子規漢詩と漱石』飯田利行、一九九三、柏美術出版
 『俳句の歴史』山下一海、一九九九、朝日新聞社
 『明治俳壇史』村山故郷、一九七九、角川書店
 『明治大正俳句史話』村山故郷、一九八二、角川書店
 『明治俳諧史話』勝峯晋風、一九八四、日本図書センター
 『俳諧雑筆』伊藤松宇、一九三四、明治書院
 『イギリス文学史』平井正穂、海老池俊治編、一九七一、明治書院
 『英米文学史講座第一巻』一九六二、研究社出版
 『談林叢書』野間光辰、一九八九、岩波書店
 『明治維新と天皇』遠山茂樹、一九九一、岩波書店
 『講座神道〈第三巻〉 近代の神道と民俗社会』櫻井徳太郎、大濱徹也編、一九九一、桜楓社
 『神道の本』Books Esoterica 第二号、一九九二、学習研究社
 『サンカ研究』田中勝也、一九八七、新泉社
 『人間不平等起源論/言語起源論』ジャン=ジャック・ルソー、一九八六、白水社 
 『ことばの進化論』D・ビッカートン、一九九八、勁草書房
 『ココ、お話ししよう』F・パターソン、E・リンデン、一九八四、どうぶつ社
 『日本語と押韻』ゆきゆき亭こやん(『詩人会議』二○○一年五月号)
 『子規のライム』ゆきゆき亭こやん(『詩人会議』二○○一年十一、十二月号)


写生説の根本問題

 写生説は日本人に何をもたらしたのだろうか。写生は子規以降長いことあたかも『万葉集』以来の日本の伝統であるかのように語られてきたが、むしろそれは花鳥風月に託されてきた共感の体系そのものを葬り去り、あくまで対称物としての非常な態度を強要するものではなかったか。
 本来東アジアの詩は対象を客観的に観察するのではなく、むしろその情に共感するところに成り立っていた。花が咲くのを喜び、花が散るのを悲しみ、春の万物の生命の誕生を喜び、秋に万物が死にゆくのを悲しむ。森羅万象を生命のあるものと捉え、そこに自己の感情を託す所に成り立っていた。もちろん、共感というのは一種の想像であり、人間同士、肉親といえども誤解が絶えないように、決して確実な認識方法ではない。天地自然の心とはいっても、それは推測や擬人化によるもので、むしろ天地自然を介して古人の心を知るほうに重点が置かれてきた。花が咲くのを喜ぶのは、古人が花を愛し、花に自分の心を託した、その伝統への共鳴でもある。こうして一つの伝統となったものが本意本情と呼ばれた。
 たとえば、芭蕉の弟子、向井去来の言葉を書き残した『去来抄』にはこうある。


「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾てさびしからず。仍て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若情有らバ如何にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」『去来抄』


 「俳諧は新意を専とすといへども、物の本情を違うべからず。」『去来抄』


芭蕉の俳諧も当然本意本情を重視するものだった。
 もちろん、子規や虚子の力をもってしても、日本の伝統そのものが根底から変わるということはなかった。近代俳句でも、多くの大衆の支持を受けて記憶されている句のほとんどは、古典俳諧の基準で見ての「本意本情」を満たしている。


 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺   子規


の句は秋の味覚である柿の渋さに生きることの煩悩の辛さを諭すような寺の鐘を響かせているし、


   桐一葉日あたりながら落ちにけり 虚子


の句も、「一葉落ちて天下の秋を知る」の心を引き継いでいる。


 遠山に日のあたりたる枯野哉   虚子


もまた蕪村の「嘯々として岩に日の入る枯野哉」の心をよりありふれた景色に置き換えたものだし、


 海に出て木枯帰るところなし   誓子


は言水の「木枯の果てはありけり海の音」の心、


 十字路に彳てばいずこも秋の暮  誓子


は良暹法師の「寂しさに宿をたち出でてながむればいづこもおなじ秋の夕暮れ」の心だ。


 万緑の中や吾子の歯はえそむる 草田男


にしても、子供の成長の豊かな生命力を若葉のもゆる思いに託していて、しかも「葉」と「歯」が一種の掛言葉のように作用している。近代俳句で成功した句というのは、何万句写生によって作った中で、たまたま古典の本意本情に合致した句ではなかったか。
 近代俳句が日本にもたらしたものは、むしろ脅迫観念的なまでの「情」の排除であり、それは、反戦的な作品でさええてしてスローガンの羅列に終始し、人間として一番大事な生命を慈しみ、生き物の死を悲しむ情が伝わってこない。それは、対象の情を汲み取るという行為そのものが近代文学からすっかり抜け落ち、冷徹な客観描写のみを近代的だと信じ続けてきた結果ではないだろうか。
 古典の本意本情からの隔絶は現代文学でも何一つ変わることはない。しかし、伝統は決して死んではいない。それは今日の文学の衰退と対称的に隆盛を究めるJ-popの歌詞に受け継がれている。

 絵画の写生と俳句の写生とは、必ずしも同列にできない部分がある。絵画の場合、作品そのものが一つの具体的な美のイメージであるのに対し、俳句の場合、美はあくまで読者がその言葉から何を想起するかに関わっている。つまり、鶏頭の絵を見せられれば、人はその絵そのものの美しさを目にすることができるが、子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句から想起されるのは、読者のそれぞれのイメージの中の鶏頭にすぎない。だから、この句から得る感動もまた、読者個人の鶏頭の花への思い入れに左右される。例えば、この花を幼い頃母が大事に育てていたのを目にし、その母が死んだときに棺に母の好きだったこの花を添えた思い出があるなら、この句は格別な意味を持つかも知れない。少なくとも、この花に何の特別な思い出を持たない人とは、明かに異質な感動を得ることだろう。そして、多分にこの句が名句だというのは、多くの読者が鶏頭の花の赤い色と病床の子規の喀血のイメージとを、ほとんど無意識のうちに重ねているからに違いない。
 高浜虚子の「遠山に日のあたりたる枯野哉」の句にしても、「遠山」から想起する山は人によってまちまちだろう。青森県出身の人は岩木山を連想するかもしれないし、富山県出身の人は立山を連想するかもしれないし、鳥取県の人は伯耆大山を連想するかもしれない。高浜虚子に詳しい人なら、これがどこの山なのか知っているかもしれないが、高浜虚子が見て感動したのと同じ景色を思い描ける人なんてのは、まずいないと言っていいだろう。
 俳句にしても短歌にしても、こうした短い文芸における写生というのは、結局作者の頭に思い描いたイメージをそのまま伝えるというのは不可能なことで、むしろ大抵の場合は読者に何かを思い出させることによって感動を与えていると言った方がいい。俳句の言葉は読者の記憶の扉を開く鍵であり、読者の忘れていた大切な思い出を引き出せば引き出すほど大きな感動を与える。しかし、そうした言葉は、果たして写生である必要があったのだろうか。
 絵画の場合の写生は明かにそれとは違う。ゴッホが描き出す南仏プロヴァンスの景色は、あくまでプロヴァンスの景色以外の何物でもない。しかも、その独特なタッチや色彩で描き出されたイメージは、明かにゴッホ自身の独自なものだ。しかし、例えばそれを言葉にして、


 この道や烏群れ飛ぶ麦畑


とでもした場合、イメージはあくまで読者が作り出すものとなる。この言葉だけからの連想なら、ある人は筑波山の麓を想像するかもしれないし、ある人はアメリカの大平原を想像するかもしれない。
 言葉が読者の記憶を引き出す際、例えば正月やお盆やひな祭りやお月見のように年中行事に関係した言葉であれば、今でこそこれらの習慣は廃れつつあるが、かつては家族や親族総出で、楽しくにぎやかに過ごした記憶が即座に甦っただろう。また、都会に出て来た者にとっては、こうしたものは故郷の懐かしい思い出でもあっただろう。こうした年中行事を表わす言葉は、地方によって多少の違いはあるにせよ、日本人のほぼ共通した記憶と言ってもよかっただろう。江戸時代に用いられた季題の多くは、こうした年中行事に関連したものであり、それは季節を彩る花鳥風月とともに、日本人の共通の記憶を形作っていた。そして、この共通の記憶こそが、わずか十七文字の短い文芸で多くのことを語ることのできる土壌でもあった。
 例えば、「ブランコ」がなぜ春の季題かといえば、それがもとは正月の遊びだったからであり、その意味では今日の公園のブランコを春の季題とする必然性は何もない。子規は芭蕉の古池の句に「春季の感がない」と言い、蛙はむしろ夏の物のような気がすると言ったのは、苗代に水を入れる頃に鳴き出す蛙の声にその年の作物の実りを占う、そういう生活に密着した感覚が失われていたからに過ぎない。逆に、今日「夕焼け」というと秋の空や鰯雲のイメージがあるが、江戸時代にはこの言葉は無季題とされていたし、昭和初期の『ホトトギス』ではなぜか夏の季題とされていた。共通の記憶というのは、時代によっても変化する。「煤払い」が冬の季語で、「大掃除」が春の季語になるのは、年末に笹竹で煤払いをする習慣はもはや歴史的なものにすぎなくなったのと、文学関係者の中に教育関係者が多い所から来たものだろう。学校関係は三月に大掃除をするが、一般の家庭や企業ではあまり春に大掃除はしない。
 生活習慣に関連した事柄が一つの民族の共通の記憶を形作るように、古典の存在も共通の記憶を形作るのに大きな役割を果たす。古典の場合も、もちろん個々の個人的な体験を伴う。つまり、その古典と出会った経験やその時の感動とも切り離せないからだ。もちろん、時代が変わるとともに、新たな古典が付け加えられてもいくし、廃れていくものもある。漱石や鴎外は明治の時代では最新流行の小説だっただろうが、今では古典だし、ビートルズだって今となっては古典と言えるだろう。多くの人が知っている作品のイメージは、古典に限らず、人々の共通のイメージを喚起する。
 古典俳諧で季題の本意本情を重視するの、俳諧の表現そのものが共通の記憶の上に成り立っているのを知っていたからであり、言葉の持つ本当の力は、自分が伝えようというイメージにではなく、読者自身が持っている記憶を引き出す所にあることを知っていたからであろう。そして、一方でそうした共通のイメージに依存することが、絶えず付きすぎる(今日でいう「ベタな」)ありきたりさ、陳腐さをもたらす危険があることも。だからこそ、芭蕉は本意本情を重視し、人々の共通の記憶を基礎としながらも、そこに何らかの新味を付け加えることを忘れなかった。そこに、本意本情の不易と新味の流行とを両立させる、不易流行の俳諧が生まれた。
 芭蕉の用いた新味を出す手法はいくつもあるが、その中には確かに今日で言えば「写生」と思われるものも含まれている。たとえば


 木の下に汁も膾も桜かな     芭蕉


という時、ありふれた花見の風景に新味をもたらしているのは「汁も膾も」というリアルで庶民的な料理の描写だ。


 鴬の餅に糞する縁の先      芭蕉


の句にしても、正月に鴬は付き物だが、「餅に糞する」といういかにもありそうな卑近な描写を加えることで新味を出している。しかし、これらは写生によって対象の美を描き出すというよりは、むしろ風雅な世界に卑近な描写を挿入することでミスマッチ的な面白さ狙ったもので、むしろ卑近な描写を「俳言」として使ったと言ったほうがいいだろう。それは基本的に


 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉


の句でも言えることであり、本来蛙の鳴き声とともに苗代に水が入り、春が訪れ、一年の農作業が始まることを予感させていたのだが、そこに「水音」という当時としてはむしろ入水を連想させかねない、あまり風雅ともいえない音を登場させたところに、当時としては新味があったのだろう。もちろん、荒れ果てた古池は没落した中世的な旧家や農民の逃散といったことも連想させたかもしれないし、そこに芭蕉の「水音」の新風が新しい時代の幕開けを予感させたのかもしれない。こうした新しい着想を得るのに、古典のイメージや世間一般の通俗的なイメージに囚われず、対象を直接観察するというのは有効な方法だったのだろうそして、子規も最初は蕉門の俳諧からそのことを読み取ったのではなかったか。
 しかし、芭蕉はこのことを一つの技法として確立したわけでもなく、たとえば


  影清も花見の座には七兵衛    芭蕉


のように、花見の場に突然影清を登場させてみたり、


 梅が香にのっと日の出る山路哉  芭蕉


 のように「のっと」とうように厳かな初春の日の出に唐突に擬音を入れてみたりするのと同様のもので、芭蕉はこれらの技法をいちいち分類したりすることはなかった。芭蕉にとって重要なのは、新味を出すことであって、そのためにはむしろあらゆる可能性をためすべきことだった。

 子規の写生は明治ならではの新味をもたらすことにも成功しただろう。しかし、そのことは同時に、文学の写生と絵画の写生を混同させ、文学が基本的に読者の記憶を呼び起こすものであり、記憶を呼び起こせるなら必ずしも写生である必要はないということを忘却させてしまった。


地図と絵画

 明治二十七年に『日本新聞』に掲載された正岡子規の俳論に、『地図的観念と絵画的観念』という文章がある。この文章は与謝蕪村の


 春の水山なき国を流れけり   蕪村


という句をめぐる内藤鳴雪との評価の違いを論じたもので、簡単に言えば、子規はこの句から何ら絵が浮かばず観念的な句だと感じ、これに対し鳴雪は景色が浮かんでくるというものだ。そして、この相違は結局決着がつかず、「原因とは何ぞ。蓋し鳴雪翁は地図的観念を以て此句を視、余は絵画的観念を以て之を視るなり。此両観念は単に文学上異様の感情を起すに止まらずして亦是れ心理学上大に研究を要すべき者なりと信ずるなり。」と後の心理学的解明にゆだねられた。この問題は当時では解決不能だった。しかし、今日であればもっとしっかりした説明ができるかもしれない。
 この問題は絵画における線遠近法と斜投象に近いかもしれない。線遠近法というのは視点を一箇所に固定して、その一点に集まる光を正確に二次元上に再現するというもので、ルネッサンス期以降の西洋絵画において発展した技法だ。これに対し斜投象というのは線遠近法発明以前の絵画において洋の東西を問わず普遍的に見られる。当然、東アジアの伝統絵画も斜投象を基礎として発展してきた。江戸中期に北斎や広重などの浮世絵師が西洋画の影響で積極的に線遠近法を取り入れたりもしたが、円山応挙は線遠近法の眼鏡絵などを手がけてはいるものの、通常の絵画にこれを応用することはなかった。近代の日本画でも斜投象による画面構成は生き残っている。また、それは設計図を書くときの見取図(キャビネット図)にも使われるもので、視点を一箇所に固定せず、右側の事物を描く際には視点が自動的に右に寄り、遠くのものを描く時には視点が自動的に前へと移動する。このため、見かけの大きさに関係なく、ものの寸法を正確に表わす事ができる。視点が固定されていないため、この書き方だと無限の幅と無限の奥行きを表現できる。そのため地図にも応用される。いわゆる「鳥瞰図」と呼ばれるものだ。奥行きを表わす線は遠くへ行くからといって一点へ収斂されることなく、あくまで平行線として描かれる。
 子規が絵画的というのは、おそらく子規が西洋絵画の影響を強く受け、写生=線遠近法のイメージが強かったため、蕪村の句からも視点を一点に固定した絵画を求めていたのだろう。そのことは以下の記述からも窺える。
 「吾人が実際界に於て普通に見る所の景色は是れ絵画的にして山々相畳み樹々相重なり一山は一山より遠く一樹は一樹より深く空間に遠近あり色彩に濃淡あり前者大に後者小に近き者現はれ遠き者隠るゝを免れず。」
 視点を一点に固定すれば、山と山は重なり、木と木は重なり、手前にあるものは大きく、後ろにあるものは小さく見える。しかし、だからといって本当に山と山、木と木がくっついていると思う人はいない。また本当に遠くにあるものが小さいと思う人もいない。人はいつまでも同じ地点に留まっているわけではない。やがて歩を進め、見る角度が変れば、重なってた木も離れて見え、小さかった遠くの木も近づけば大きなものであることがわかる。つまり、線遠近法的に見ていたきときの重なり、小さく見える遠くのものはものの真実の姿ではなく、ある一点から見た時だけの見せかけの姿にすぎない。ものの真実の姿を見ようとすれば、固定していた視点を移動させ、複数の視点を持たなくてはならない。斜投象は同じ方向で左右前後に複数の視点を持つことで物事の真の姿に近づこうとするものだ。これに対して、方向の違う複数の視点を一つの対象に集中させることで、一つの角度では見えない裏側の姿を描き出し、ものの真の姿を知ろうとするのがキュービズムの方法だった。
 子規が地図的と呼んだのが斜投象による鳥瞰図的な見方であるのは、次の記述から窺える。
 「地図的観念は之に反して恰も風船に乗り虚空高く颺りて下界を一望の裡に見下すが如き者なるを以て絵画的の如く遠近濃淡等は一切之れ無く荘々千萬里の間一山一水だも我眼を逃るゝ者あらざるなり。」
 こうした俯瞰的な絵画の技法は伝統絵画ではしばしば見られるもので、渡辺華山の『千山万水図』などはその代表的なものだ。内藤鳴雪はおそらくこうした斜投象による伝統絵画に子規以上に親しんでいたのだろう。その意味では、地図的というより山水画的と言ったほうがいいのかもしれない。蕪村も明らかにこの句を山水画的なイメージで詠んだのだろう。


 春の水山なき国を流れけり   蕪村


 斜投象による絵画では地平線は存在しない。なぜなら視点は無限に遠くへ後退し、理論的には地球を一周して戻ってくることだって可能だ。つまり、描ける景色に果てはない。しかし、無限に描いていたんでは切りがないから、大抵の場合は遠くなるにつれ霧や雲で霞み、見えなくなって行くように描く。平野の中に洋々と流れる大河の絵を描くならば、遠景は山を描くことなく、霞みの中へ消えてゆくことになる。「山なき」というのは必ずしも本当に山がないだとか山が見えないということではない。そうではなく、ここで「山なき」というのは、実際には山は見えていたとしても、それはあまりに遠く、視界の外にあるという意味だろう。子規は山なき国から武蔵野を連想したようだが、武蔵野だって遠くに富士山や筑波山の姿を望むことはできる。それが見えたからといって武蔵野が山国になるわけではない。
「例へば

   山もなし武蔵流るゝ春の水
   春の水武蔵の國に山もなし
等と為さんか(句の巧拙は姑らく置き)抽象的の無形語とはならざるなり。精密に言へば「武蔵國」と云ふ一語を除きては抽象の語とならず。即ち「山無し」と云ふ事は抽象的の性質とならずして『眼中に山を見ず』と云ふ見る時の働きとなるなり。」
 子規自身「句の巧拙はしばらく置き」と言っているように、この句が蕪村の句に対し勝るということはない。「武蔵」と言うだけで十分山がないことは連想されるため、それに「山もなし」と付け加えると句がくどくなってしまうからだ。山水画の技法では薄だけを描いて遠景を省略することで武蔵野は表現できる。それに対し西洋画の技法では地平線と青空を描き足さなくてはならない。そこで「山もなし」という描写が必要になる。
 鳴雪と子規の違いはそれゆえ正確にいえば地図的か絵画的かの違いではなく、山水画的か西洋画的かの違いだろう。そして、最も正確な言い方は斜投象的か線遠近法的かということになる。
 しかし、これだけではまだ子規の疑問を解いたことにはならないだろう。「心理学上大に研究を要すべき」と子規も言っていたように、なぜ、このような二つの画法が可能かをもう少し追ってみよう。


 その前にまず「線遠近法」が唯一正確な空間の表現方法ではないということを指摘しておこう。というのも人間の視覚は決してカメラのようなものではないからだ。カメラはレンズを通して屈折した光をフイルムにあて、そこに画像を再現する。人間の目もそれと同じように、外から飛び込んできた光を網膜の上に再現していると思うかもしれない。ところが実際の網膜はフイルムのような平らなものではない。網膜は眼球のやや歪んだ球の内側の表面にすぎず、そこに写る画像はかなり歪んでいる。しかも、はっきりと見えるのはその画像の中心近くだけで、周辺へゆくにつれてぼけがひどくなる。そのなかには「盲点」と呼ばれるなにも写さない点すら存在する。人間は決して網膜に写った画像を認識しているのではない。我々が見ているのは網膜が捉えた情報を一度脳のなかで処理し直し、修正された画像だ。この画像は写真のような二次元のものではない。絶えず外の三次元の世界を再現しようとする。(マーによれば、正確には三次元のうちの見えるほうの側面だけで、物体の裏側の情報までは再現しないから、二次元半だという)三次元画像の再現は二つの目による光の角度の差だけでなく、運動視差、つまり、実際に人が行動し視点を変えてゆくことによって変る光の角度の差からも認識される。そのため、片目を失った人でも奥行きの感覚が消失することはない(若干精度を欠くことはある)。むしろ人はどんな些細な情報からも立体画像を再現しようとする。だからこそ線遠近法の絵画が、実際は平面であり、二つの目の光の角度に差がないにも拘わらず立体的に見える。人は三次元の世界に生き、そこで生活してゆく以上、視覚は常に三次元でなければならないのだ。それは網膜の情報をもとに脳のなかで構成されたものだ。
 人間の目とカメラの目との違いを示すには、ハンドカメラをもって走ってみればいい。よっぽどのプロでもカメラは走るとともに激しく振動し、画像は上下左右に激しくぶれてしまうはずだ。またカメラを持って、部屋のなかをぐるぐる見回してみればいい。カメラに写る映像は激しく揺れ動き、長く見ていると酔ってしまいそうなものになる。しかし、我々が走っているときでも景色は揺れ動くことはない。また、我々が部屋のなかをきょろきょろ見回しても、部屋の景色が激しく揺れ動くことはない。それは、我々の見ている画像が自分のからだの動きによるぶれをことごとく修正しているからだ。我々はテレビのモニター画面を眺めているのではなく、三次元ポリゴンで作られたダンジョンのなかを移動しているのだ。
 絵画というのは難しい。特に見たものをあたかもそこにあるが如く正確に描くというのは習熟を要する。それは我々の視覚が三次元だからだ。「写生」とは三次元のものを二次元の画面に変換することであって、決して見えたままのものを描くのではない。だから幼児が素朴に絵を描こうとするときは、正方形のテーブルは正方形に描き、丸いコインは丸く描く。それは、実際には遠くのほうの辺の短い台形に見えるテーブルでも、それはあくまでそう見えるだけで、本当は正方形のテーブルだということを知っているからだ。コインも角度によっては楕円形に見えるが、それはそう見えるだけであって、本当は丸いということを知っているからだ。幼児は無意識のうちに目の前の物体の三次元の姿を描きだし、そのものが最もそのものらしく見える角度を探し当てる。この傾向は大人になってもそう変るものではない。まったく絵に興味のない人に絵を描かせれば、おそらく大人でも年寄りでも幼児画とそうたいして変らない絵を描くであろう。これに対して学校でデッサンを習おうとすると絵というものが急にどうしようもなく難しくなる。というのも、正方形のテーブルを台形に描いたり、丸いコインを楕円形に描かなくてはいけなくなるからだ。
 これは我々が無意識のうちに目に写るものを三次元化し、その最も典型的に見える角度を探しだし、そのものが何であるかを認識するというその過程を、意識的に抑制しなくてはならないからだ。修練を要するのはその点だ。子供が線路を平行に描こうとすると「そうじゃないでしょ、よく見てごらん、線路は遠くのほうで一点に交わっているでしょ」と注意される。こんなとき「でも線路は平行じゃないと汽車は脱線しちゃうよ」なんて言っても無駄だ。
 奇妙なことだが、我々が三次元で認識したものをそのまま描こうとすると、なぜか平面的になってしまう。それはその対象となるものの最も認識しやすい角度を求めるからだ。机なり、コインなり、一個のものを描く場合はまだそれほど問題は起きない。しかし沢山のものが雑然とつまれた部屋のなかを描くということになると、鉛筆でも消しゴムでも、その最もそれらしい角度をそれぞれ割り出してゆく。そのため全体としては見る角度に統一感がなくなってしまうことになる。あるものは上から、あるものは下から、あるものは横からとばらばらな視点で描かれたものが集まると、統一的な一つの空間を再現できなくなり、いくつもの空間描象が紙の上に無造作に羅列された一つの地図になってしまう。複数の事物の同居する空間を再現するには視点に一つの秩序を与えなくてはならない。
 斜投象も線遠近法も(あるいはキュービズムにしても)、それは空間を描き出す視点に秩序を与える方法として考えだされた。そして、絵が難しいとすれば、その秩序を学ぶことが難しいのである。
 斜投象は基本的に対象に対して視点を横に移動させてゆくときに生じる運動視差に基づく遠近法といっていいだろう。たとえば、今目の前に見掛けの上では台形に見えている本があるとする。(本当は長方形!)台形をそのまま描けば、線遠近法になる。これに対し、斜投象は、目の前にある本に対し、視点を横にずらすことで、その奥行きを測る。たとえば、ちょっと首を右に動かすと本の形は右に傾いた平行四辺形に近い形になる。本を真上から見て、長方形の形をしているときには、横に首を動かしてもこの変化は起こらず、あくまで長方形に見える。それは、長方形のどの角も目からの距離はそう変わらないからだ。之に対し、上辺が実際に遠くにある状態なら、首を右に動かせば遠くにある上辺に比べ、手前にある下辺が左へ早く動く。斜投象は、最初に物の正しい長方形の形を表象し、それに運動視差による上辺の遅れを付け加えて表現する。
 この表現法が、東洋絵画に限らず、多くの文化圏で、ルネッサンス以前の西洋も含めて普遍的に見られるのは、それが物事の客観的な形を正確に表せること(今日でも設計図に用いられるように)と、運動視差による遠近感の知覚が、実際の遠近感の認識において最も中心的な役割を果たしているという二つの理由によるものだろう。遠近感は両方の目の差からも認識できるが、片目をつぶっていても、急に世界が平面になるということはないし、実際に片目の不自由な人でも日常生活にほとんど支障をきたすことはない。針に糸を通すような精密な遠近感を要求される場合に多少影響を受ける程度だという。
 これに対し、線遠近法というのは,むしろ騙し絵の手法といったほうがいい。実際に平面なものをあたかも立体的であるような錯覚を起こさせることを基本としたものだ。それだけに、線遠近法は高度な「発明」であり、一つの技術なのである。そのため、この手法はルネッサンス期以降の西洋で独自に発達したもので、自然発生的な絵画ではない。


 さて、話を蕪村の句に戻そう。


 春の水山なき国を流れけり   蕪村


正岡子規がいかに蕪村びいきとはいえ、この句の「山なき」という表現はあくまで頭の中に山を思い浮かべてそれを否定するという観念的操作であるかのように受け取り、写生句からはずそうとしたのは明らかだろう。つまり「山なき」は「巧み」であり、一切の技巧を排した客観写生を求める子規の俳諧にとっては疵以外の何でもない、ということなのだろう。だとすると、問題は、単に「山なき」が絵画的かどうかという以前に、人間の自然な知覚にとって、存在しない山を思い浮かべる行為が本当に不自然な「作為」かどうかということにもなるだろう。つまり、正岡子規は
 「『山なき國』とは文学的客親の景象に非ずして地理学的主親の抽象に似たるなり。作者の意は固より目前の景を吟じ出だせるものにして故らに抽象的の語を為すには非るべしと雖も而も此語法は抽象的に組成せられたるかの嫌あり。」
というが、本当にこれは「作為」なのかどうかという問題だ。
 人間の視覚は見たものを決してそのまま表象しているのではない。それはいったん脳を通して様々な修正を加えながら再構成されたものなのだから、それをあえて見えたとおりに戻そうとすることも、厳密には作為的なものであり、むしろ高度な技術を要する作為といってもいいだろう。線遠近法はまさにそれであるがゆえに、高度な文明を必要とした。それはちょうどどんな原始的な民族にも神話が存在するのに対し、科学の体系は決して自然発生することがなかったことにも似ているかもしれない。写生説も、その意味ではもっとも高度な作為であったはずである。つまり、山をいつも見て育った人が突然大平原にやってきたときには、まず「山がない」ということにびっくりするのは自然なことだ。その驚きを抑制し、あたかも最初から山などないのが当たり前であるかのように振舞うのは一つの作為だし、写生説はその作為を要求しているのではないだろうか。
 たとえば、自然な日本語を使うといったとき、その人にとって最も自然なのは日常話すときの言葉だろう。しかし、日常の会話というのは、たいていの場合様々な俗語、スラング、業界言葉などが混在しているし、文法的にも省略や倒置が多く、音声的にも様々な省略が生じる。自然な言語は実際にはいわゆる標準語とはほど遠い。もし、文学が正確な標準語で書かれるべきだとしたら、それは明らかに作為なのである。私は別にそれが悪いと言いたいわけではない。ただ、本来最も人工的であるはずのことを、あたかもそれが最も自然であるかのように言い含めるやり方は、やはりごまかしなのだ。私は写生説そのものを否定するつもりはない。しかし、写生が一つの高度な技術であるということは、はっきりさせておくべきだろう。そして、それがまた日本の昔からの伝統ではなく、明治の近代化の際に誕生したものだということも付け加えておこう。


戦争と近代俳句

   一

 明治二十八年正月、正岡子規は『日本新聞』に『俳諧と武事』という俳論を三回に分けて発表した。時はまさに日清戦争のさなかのことだった。この二年前、子規は明治二十六年の歳旦に


 十万の常備軍あり国の春


と詠んでいるし、二か月後の二十八年の三月には子規自身が志願して従軍記者となり、当時の朝鮮(李朝)から清国まで取材に行くことにもなる。さらに、三十年正月の『明治二十九年の俳句界』にも
 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」(子規全集、第四巻)という発言が見られる。
 『俳諧と武事』も俳諧が積極的に戦争を肯定し、戦争を煽るような勇ましい句を詠むべきことを説いたものであることは、容易に想像できる。
 「戦闘の如きは太平の詩人が実験するを得ざるのみか安永天明頃徳川の盛時に方りて世人の夢寐にも想はざる者而して之を論議する者林子平あり之を風詠する〈者〉謝蕪村あり。共に是れ一世の豪傑なり。」(『俳諧と武事』子規全集、第四巻)
 この「太平の詩人」の中には暗に芭蕉も含まれていただろう。戦争前の明治二十四年の『獺祭書屋俳話』には
 「夫れ風流は弓馬剣槍の上に留らず。雅情は電光石火の間に宿らず。否これらは寧ろ風雅の敵にして、芭蕉も行脚の掟には『腰に寸鐵たりとも帯すべからず惣て物の命を取る事なかれ』といひ、去来も亦た
 何事そ花見る人の長刀
と詠して人口に膾炙せり。」(子規全集、第四巻)
と、本来俳諧の風雅の精神が武力と相容れないことを述べている。それが二年後には「十万の常備軍あり」の句となり、その二年後には『俳諧と武事』を書くに至る。しかも注目すべきなのは、この時期がまさに子規が写生説を唱え、近代俳句の基礎を確立した時期に重なるということだ。
 明治二十四年の頃の子規はまだ俳句の題材としての戦争というものにそんなに固執はしてなかったようだ。だが、この頃の子規は既に「写生説」の着想を得ていた。これは実際には西洋絵画から触発されたもので、西洋の高度な科学と軍事力の背景に、自然をありのままに観察し捉えるという精神があることを見ていた。そして、西洋画の圧倒的な写実にそれを見い出したのだろう。こうして俳句近代化の第一項目として提起された写生説は、それに権威を与えるために、やがて芭蕉がその第一発見者に仕立て上げられ、あたかも芭蕉が説いたかのように仮託され、蕪村がその後継者であり中興の祖であるとして蕪村復興運動が起きた。
 子規は明治二十六年の『芭蕉雑談』の中でこのように書いている。
 「芭蕉独り深川の草庵に在り、静かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に属して貞徳俳諧を興し、貞門亦陳腐に属して檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林も亦一時の流行にして終に万世不易の者に非ず。是に於てか俳運亦一変して長句法を用ゐ漢語を雑へ、漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。我門弟等盛んに之を唱道し我亦時に此流の俳句を為すと雖も、奇に過ぐる者は再三再四するに及んで忽ち厭倦を生ずるの習ひ、我亦此体を厭ふこと漸く甚しきに至りたり。さりとて檀林の俗に帰るべくもあらねば、況して貞門の乳臭を学び連歌の旧套を襲ぐべくも覚えず、何がな一体を創めて我心を安うせんと思ふに、第一に彼佶屈聱牙なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用ふべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に、十七字中に十分我所思を現はさんとせば、為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句は如何なるべきかなどつくづく思ひめぐらせる程に、脳中濠々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只々惘然として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。万籟寂として妄想全く断ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく『蛙飛びこむ水の音』といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫く考へに傾けし首をもたげ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。
 以上は我臆測する所なるを以て、実際は此の如くならざりしやも計り難けれども、芭蕉の思想が変遷せる順序は此外に出でずと思はる。其蕉風(俗に正風といふ)を起せしは実に此時に在りしなり。」(子規全集、第四巻)
 子規が自ら「我憶測する所」と断わっているように、もちろん芭蕉がこのようなことを考えていただとか、こうして芭蕉が写生説を説いただとかいうことを書いた当時の史料はない。完全な子規のフィクションである。しかし、このことは今日でも俳人の間に神話のように信じられている。だが、ここで子規が書いていることは、正岡子規自身の経験ではあっても、芭蕉の経験ではない。もちろんひいき目に見れば、子規は芭蕉を「近代的に」解釈したということなのだろう。そして、「近代的」ということが即「正しい」というならば、子規は芭蕉を前近代の無知蒙昧の底から救い出したという評価にもなるだろう。今まではそれでも良かったのかもしれない。しかし、「近代的」ということにも問題点はあり、前近代的なものにも固有の価値があるとするならば、子規は芭蕉を誤読し、その後の芭蕉研究の方向を決定的に狂わせてしまったということにもなるだろう。
 このようにして子規は芭蕉の権威を利用し、芭蕉に自らの写生説を仮託してみたものの、戦争が始まると、芭蕉の終始一貫した平和主義の態度が子規にとって邪魔っけになってゆくことになる。そこのところの苦し紛れな議論が、『俳諧と武事』の最初に展開される。
 「芭蕉の俳諧を興すや務めて実景実情を敘し敢て架空の理想に趨るを許さず。元禄俳諧の高潔古樸後世の企及すべからざるもの実に此に在り。然れども一個人の境遇は変化限りあり。足跡は天下萬國に遍く一身能く千変萬化の人事天然を実験するが如きは得て一人に望むべけんや。況んや史書の伝ふる所に由りて遠く千歳の古に遊ぶ如き到底実験以外の事なるをや。一生を標泊の間に送りし芭蕉は猶ほ可なり。」(『俳諧と武事』子規全集、第四巻)
 芭蕉は写実に徹して空想を退けたからこそ、現実に起きてない戦争の句を詠むことができなかっただけで、もし戦争が起きてたなら勇ましい武士の姿も詠んでいたはずだと言わんばかりだ。しかし、それだと蕪村も太平の人で、写生の精神で目の前にないものを詠んではいけないということであれば、蕪村が戦争を題材にするのも変な話だ。子規はここでまた、苦しい言い訳をしなくてはいけない。 「蕪村は芭蕉の後百年に出で始めて闊眼を理想界に開けり。是に於て紛々たる今古の人事雑然たる天然の風光千様萬態一として蕪村の俳句に上らざるなし。」(『俳諧と武事』子規全集、第四巻) ここでは理想や空想で句を詠むことを認めることになる。そうして、戦争の句を詠んだ蕪村を林子平になぞらえ、「豪傑」と呼ぶ。しかし、ここで例として掲げられた句は


 絶頂の城たのもしき若葉かな
 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな


といったもので、戦争の賛美とはほど遠い。しかも、その後で子規は、連句では空想を許されるため、芭蕉の句でもいくさを詠んだものがいくつもあることを認める。それは


   削りへらした状箱の蓋
 御謀反も先づとゝのはぬ金の沙汰 芭蕉


   粥すゝる暁花にかしこまり
 狩衣の下に鎧ふ春風       芭蕉


のようなもので、これもとても戦争賛美とは言い難い。結局この『俳諧と武時』という小論は、「蕪村こそ林子平とならぶ豪傑」という最初の趣旨がぼやけてしまい、腰くだけで終ってゆく。
 子規も最初は認めていたように、古来日本の風雅の精神というのは、戦争に対し否定的なものだった。それは『古今集』仮名序の「たけきもののふの心をなぐさめ、力をいれずしてあめつちを動かす」という言葉にも現われている。これは今で言えば軍事的緊張を緩和し、非暴力で世界を動かす、とでも言うべきだろう。実際、記紀歌謡のような古い民謡には「撃ちてしやまぬ」のような戦争の歌はあるが、『古今集』以降の和歌の伝統の中には、戦争を賛美するような歌はない。武士の家に生まれながら武士になることを拒否し、出家して和歌の道に入った西行法師も、今でいえば徴兵拒否といったところか。その西行は、たまたま鎌倉を訪れた時源頼朝に呼ばれ、西行の出た家の兵法について尋ねられた時も、「罪業のもととなるためすべて忘れた」と答えたという。結局は頼朝に再三促されて弓馬のことを語ったが、その時頼朝から賜わった銀の猫を外で遊んでいた子供にやったというエピソードがある。
 また、中世の連歌には


   罪をもしらで勇むもののふ
 後の世につるぎの山のあるものを 良阿


   はかなきものはもののふの道
 たが為の名なれば身より惜しむらん 宗祇


といった句もある。
 もっとも、理想と現実は常に一致していたわけではない。むしろ日本では古くから戦争は武家と呼ばれる世襲の専門家集団によって担われていたため、常に兵農分離への圧力が働いていた。つまり為政者にとっては庶民が花鳥風月を楽しみ、戦争に無関心であることは、むしろ好ましいことだった。風雅の道も庶民の不満が武装蜂起という形で爆発するのを防ぐ、いわゆる「ガス抜き」の機能を持っていたのも確かだろう。それが明治の国民皆兵の時代になり、徴兵制がしかれたとき、平和を愛する庶民の風雅が邪魔になり、一転して戦争を賛美する勇ましい句が推奨されたことは想像に固くない。明治十五年の最初の近代詩集『新体詩抄』が軍歌のオンパレードであったのもそのためだろう。

   二

 ところで、今日の文学史だと幕末から明治初期の停滞し月並調に陥った俳諧に対し、明治二十年代に正岡子規が登場し、またたくまにそれが旧派を圧倒して広がっていったような印象を受けるかもしれない。しかし、実際正岡子規が生きていた頃は、子規の近代俳句は書生俳諧ぐらいにしか扱われず、大衆に圧倒的な人気を誇っていたのはあくまで老鼠堂永機、春秋庵幹雄などの伝統俳諧師だった。永機は決して頑迷な旧派師匠ではなく、それまで邪教として扱われていたキリスト教に興味を持ち、いち早く「耶蘇祭(今日のクリスマス)」を季題としたり、キリスト教の日本で作られた俗謡調の賛美歌を聞いて


 どの道を行もひとつの花野哉   永機


と詠んだりする、いわば信教の自由に対し先駆的な役割を果たした。
 幹雄は明治六年に大教院の教導職に任じられ、翌七年に明倫講者という俳句結社を起し、どちらかというと伝統的な民間信仰に立脚する俳諧と国家神道との妥協を計ろうとした人だった。維新当初、神道を国教化しようとして、次々と民間信仰や年中行事、祭礼に禁止令を出していた明治政府は、結局神学体系の不十分と仏教界の反発、キリスト教容認を求める外圧などにより挫折し、神道による国民教化政策も次第に宗教色をゆるめ、落語家、講談師などとともに俳諧師をも教導職に採用するに至った。しかし、その後神道国教化政策自体が挫折し、信教の自由を形式的に認めた上で神道を宗教を超越するものとした神道非宗教説が台頭してくることで、明治十七年には教導職を廃止し、厳しい条件をつけた公認宗教を認める方向に転換した。これを受けて、幹雄は俳諧風雅の精神を芭蕉を神とする神道芭蕉派に仕立て上げることにより、国家神道との妥協を計り、伝統風雅の生き残りを画策した。
 こうした伝統俳諧師たちの句も、明治の始めの頃はあくまで平和的なものだった。


   二百年の昇平僅三ケ月を過ざるに
   かゝる乱離の端となる。当時の形
   勢見るに聞くに魂をひるがへさぬ
   はなし
 花襲ふ風や出口の処々      見外
   卯月のはしめ有志の士脱走せしと
   聞て
 松平に達なる枝の落葉哉     湖堂
   東叡山に屯せし彰義隊敗走の跡にて
 吹かなくも落ちる松葉を青嵐   乙彦
   同處に戦死の人々を見て
 目連の鉢に入ても夏の虫      同
   上野の戦場を遁れ出て
 血を流す雨や折ふし時鳥     永機
   其跡にて
 あぢきなや蝿のむらがる握り飯  奇泉
   白川落城の跡にて
 人声もまれや昼なく虫の声    春峯
   官軍の魂むかへを見て
 いさましき中にさびあり草の花   同
   北越の戦争きくも物うく
 矢叫びや列を乱して渡る鴈    雪麿
   奥州平定
 弓折れて雪に笠脱ぐ案山子哉   乙彦
   去年は伏見の戦争天下に動揺しこ
   としは東の都に万代安穏ならしむ
 初東風と成て西風は止みにけり  半湖
   干戈の声の止みしを
 しめし野や列も乱さず帰る鴈   雪麿
   世の中騒がしかりしも一歳にして
   めでたき御代に立かへりければ
 おもへ只軍のあとのはな盛り   春湖


 ここには戦争を賛美したり、幕末の志士を英雄視したり美化したりする言葉はない。古典の風雅の精神はまだ生きていた。


 花襲ふ風や出口の処々      見外


の句は徳川三百年の平和を花に例え、それが時ならぬ西洋列強の侵略という風にあおられて散ってゆく、その様を風に例えている。そして幕末の志士たちもここでは風に吹かれ出口を探す花びらにすぎない。


 血を流す雨や折ふし時鳥     永機


戦場に流れた血を「血の雨」と呼ぶのはよくあること。そこで敗残した兵隊も、冥土の使いともいわれ血を吐くように啼くともいわれる郭公に例えられている。


 あぢきなや蝿のむらがる握り飯  奇泉


これも戦場に倒れた兵隊の無残さをリアルに表現している。死ぬ前のわずかな力を振り絞って、兵糧の握り飯を口にしようとしたのだろうか。


 人声もまれや昼なく虫の声    春峯


虫はきりぎりす(今日のコオロギ)だろうか。芭蕉の


 夏草や兵どもが夢の跡
 むざんやな甲の下のきりぎりす


を連想させる。ここでも古典風雅の精神に従って、戦争の空しさ、失われた夢の哀れさをテーマにし、無常感を漂わせている。


 いさましき中にさびあり草の花  春峯


これも表向き勇ましそうに行進してゆく兵隊に、いくさで死んだ人の面影を見て取っている。兵隊の足元で咲いた花は、あたかも戦死者の魂のようだ。


 矢叫びや列を乱して渡る鴈    雪麿


鴈は列をなして飛んでゆくということで、古来礼節の象徴だった。戦争は礼節を失わせる。前書きに「きくも物うく」とあるのも、作者が戦争という非礼そのものに怒りを発しているのが感じられる。それゆえ、戦争が終ると、


 しめし野や列も乱さず帰る鴈   雪麿


ということになる。


 弓折れて雪に笠脱ぐ案山子哉   乙彦


これも雪に埋もれてなす術のない会津藩士の姿のあわれを感じさせる。


 おもへ只軍のあとのはな盛り   春湖


戦争が終り、どっちが勝ったかではなく、とにかく平和な春を喜ぶのは庶民の正直な反応だ。「只」の一字が利いている。
 こうした句は近代俳人にとっては「月並句」でしかなかった。こうした句が月並と呼ばれたのは、本当に単なる技法上の問題(写生でないという)だったのだろうか。
 やがて時は移り、日清戦争後の明治三十年七月に『明治俳諧 征清日本の光』(渡辺桑月編)という句集が刊行される。これもいわゆる旧派の句集だが、あれから三十年という時の流れか、ここでは戦争賛美の句が並ぶようになる。富国強兵政策はここまで人の心を蝕んでいた。


   帝国万歳
 はつかしやいくさせぬ身も華の春 聴秋
   皇軍の出発
 国のため尊き神の御たびかな   風来
   京城の衝突
 から衣うつべき時の来りけり   十湖
   豊島の戦捷
 夕栄や紅葉にそまる水の色    春月
   東学党
 神風の吹たびにちる紅葉かな   俳友
   牙山の戦勝
 日のもとのかをりは是ぞ菊の華  一春
   大鳥公使
 あらわしの羽風にちるや雪の花   晋
   威海衛の夜襲
 日のはるのとゝかぬはなし海山に 魯石
   黄海の大勝
 蚊はしらや崩れて涼し夕月夜   梅宮
   海軍大捷
 船をしづめ城を落して冬籠    蓬河
   北洋艦隊之降服
 背を出した鯨のこらず捕へけり すみれ


強いて弁護の余地があるとすれば


 はつかしやいくさせぬ身も華の春 聴秋


の句は自らを「いくさせぬ身」と言い切るところに、俳諧師はいくさとは関係ないという微かな過去の風雅の徒の気概が感じられる。


 から衣うつべき時の来りけり   十湖
 夕栄や紅葉にそまる水の色    春月
 神風の吹たびにちる紅葉かな   俳友


「衣打つ」「夕栄の紅葉」「散る紅葉」はいずれも哀れや悲しみを含んだ言葉で、このあたりはむしろ古典風雅の言葉がいかに戦争という題材とミスマッチなものかを証明するものなのかもしれない。こうした風雅の言葉があってこそ、これらの句は一面的な戦争の賛美ではなく、戦争の悲しさをも同時に表現できる。
 しかし、近代俳人が嫌ったのは、むしろこうした言葉自体が作者の意に反して戦争の空しさ、悲しさを表現してしまうことではなかったか。子規が日清戦争を境に急に写生説を唱え、古典技法を排除していった背景には、こうした古典の言葉がそれ自体平和思想を持っていて、それが富国強兵の精神に合致しないという事情があったのではなかったか。
 昭和五十七年になっても村山故郷は『明治大正俳句史話』(一九八二、角川書店)の中でこのように言っている。
 「宗匠といえば花鳥風月を専ら事とした風流月並俳句をのみ弄んでいたように思えるが、憲法発布に祝句を作ったり、戦勝祝賀の句を物したり、案外時局に敏感に反応を示している。」
結局伝統俳諧が「月並」として退けられた背景には「花鳥風月を専ら事とし」ていて戦争に非協力的だったということがあったのではなかったか。しかし、それは「花鳥風月を専ら事とし」ていたのではない。本来古典の風雅は命の大切さや平和への祈りを花鳥風月に託すというものだったからだ。それに対し、子規は花鳥風月を単なる物理的な対象として捉え、古人が花鳥に込めた情を消し去ることで近代化しようとしたのではなかったか。
 日露戦争後、既に子規は亡くなり、その弟子の一人、星野麦人が詠んだ日本海海戦の連作は、ある意味で俳句の近代化の本質ではなかったか。


   日本海海戦      星野 麦人
 快報や薫風南より来る
 夏霞敵艦晴れて波高し
 烏帽子魚即チにして船出哉
 雷雨一過日本海の波涼し
 夏の海既にして露西亜滅ひけり
 日本に涼し東郷平八郎
 浦安の国涼し国日本かな
 沖膾冷気胸裏に徹す哉
 鴛鴨の涼しからざる貌もなし
 捷報や草の末まで踊草
 あだし浪和清の天下日本あり


 やがて時代はうつろい、明治以来の軍国主義の時代も過去のものとなった。たとえ今後憲法改正の問題が活発に議論されたとしても、もはやかつての世界中が侵略戦争と植民地獲得に狂騒した時代に戻ることはないだろう。戦争は今やグローバル経済に破壊しかもたらさない。トーマス・フリードマンが『レクサスとオリーブの木』の中で、もはやマクドナルドのある国同士は戦争できないし、やれば経済的な大きな損失を覚悟しなくてはならないと言っているように、経済の発展は着実に戦争を過去のものにしていくだろう。そういう時代だからこそ、もう一度明治の「月並」とは何だったか問い直すべきではないか。
 今後地球規模で民主化が進んでいけば、やがて国際世論は超大国の軍事力をも凌ぐ時代が来るかもしれない。そうなれば、それぞれの国が自国の軍隊を放棄し、あくまで国際世論に基づいて民主的に紛争を解決するという方向性も見えてくるだろう。国際政治において軍事力や経済力より世論形成のほうが重要になれば、人々は武器を取る手を楽器に持ちかえ、詩歌音楽を始めとする様々な芸術が世界を動かす時代も来るだろう。その時こそまさに「力をも入れずしてあめつちを動かす」という古人の理想が実現する。その時こそ我々は日本の風雅の歴史を世界に誇ってもいいだろう。

参考文献

 『子規全集 第四巻』一九七五、講談社
 『正岡子規 人物叢書一四四』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
 『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
 『俳句の歴史』山下一海、一九九九、朝日新聞社
 『明治俳壇史』村山故郷、一九七九、角川書店
 『明治大正俳句史話』村山故郷、一九八二、角川書店
 『明治俳諧史話』勝峯晋風、一九八四、日本図書センター
 『俳諧雑筆』伊藤松宇、一九三四、明治書院
 『西行』安田章生、一九八三、彌生書房
 『西行』白洲正子、一九八八、新潮社
 『講座神道〈第三巻〉近代の神道と民俗社会』櫻井徳太郎、大濱徹也編、一九九一、桜楓社


正岡子規と近代短歌

 「貫之は下手な歌詠みにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」
 明治三十一年二月十四日の『再び歌よみに与ふる書』はこのような出だしで始まる。それにしても「下手な」「くだらぬ」という言い回しは穏やかではない。こうした言葉がセンセーショナルな反応を引き起こすことを、子規は十分計算していたのだろう。この時一体子規は何を突き崩そうとしていたのだろうか。権威だろうか、伝統だろうか、理屈や言葉遊びだろうか、それとも西洋列強に対抗できぬ日本の弱さに対してだろうか。一言で言い表わすことは難しいだろう。
 この問題は子規にとって短歌だけの単独の問題ではなかっただろう。むしろ俳句の改革のさいに生じた一つの帰結を短歌にも拡大して論じることで、短歌の改革は俳句の改革よりも急速に明治三十年の前後から行われた。この時俳句にはない一つの問題、つまり「国歌」の問題を避けて通ることができなかった。俳句における芭蕉の権威があくまで民間レベルのものであったのに対し、国歌の権威は皇室の権威と結びついている。国歌の権威は短歌革新の大きな障壁になる。しかし、皇室の権威を否定することは当時としては許されることではないし、子規自身もそれは望まなかっただろう。むしろ、子規は明治維新にこれを例える。
 「従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁を為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行われるべき事にては無之候。今日軍艦を購ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟日本国を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ふべき外国の文学思想などは、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。」(『六たび歌よみに与ふる書』)
 明治の王政復古は神武建国の時代に戻るということで、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸といった時代に脈々と作られてきた日本文化を捨て去るというものだった。しかし、実際には神武建国の時代のことなど誰も知らない。これは一つのごまかしで、口では神武建国の時代に復帰するといいながらも、実際に行われたのは西洋化だった。あたかも日本が本来西洋的であり、古代以来中国の劣った文明の影響で軟弱になり没落したかのような印象を与える、それが王政復古の狙いだった。明治政府は王政復古の名のもとに太陽暦(グレゴリウス暦)を採用し、新嘗祭、神武祭などの宮廷で細々と残っていた祭を太陽暦で行い、その一方で正月、上巳、端午、七夕、お盆、重陽などの陰暦に基く日本古来の行事を禁止した。また、急遽国家神道なるものを作り出すことで、古くからの稲荷、道祖神、庚申などの信仰を禁止し、その勢いは排仏毀釈にまで及んだ。こうして、民衆は洋装をしアラビア馬の曳く立派な西洋式の四輪馬車に乗る明治天皇の姿を「神武建国」への復古と受け止めたのだった。そして、幕末の志士たちは、長く平和だった日本のそれまでの歴史を馬鹿にし、大砲を積んだ黒船に三韓征伐の時代の夢をよみがえらせたのだった。
 正岡子規もまたこうした明治の申し子で、旧制中学の頃から自由民権運動に共鳴し、日本の近代化の急先鋒にいた。子規が和歌において万葉復古を唱え、古今集以来の伝統を否定するのは当然の成り行きだった。しかし、この万葉復古は江戸の国学者の万葉復古とは違い、万葉の古体を模倣することではない。むしろ万葉集と西洋とを結びつけ、近代化を「復古」として位置付けることだった。しかし、万葉集と西洋文学という全く違うものを結びつけることは、神武建国の精神に立ち返ることとは違い、『万葉集』という現物がとにかく存在する。想像の域を出ない誰も知らない古代であれば、すり替えは容易である。しかしとにかく『万葉集』はそこにある。あとはそれをいかに西洋的に解釈するかという問題が残る。
 子規にとってその難問の解決のきっかけになったのは「俳句」の問題だった。俳句は本来中世の連歌から派生した俳諧の発句が独立して一つの作品となったものだった。連歌は本来五七五の発句に七七の下句を付けることで五七五七七の和歌を完成させるという遊戯だった。そして、その七七の下句に更に別の五七五の上句を付けることによって別の和歌を作る。その五七五に更にまた別の七七という具合に延々と繰り返してゆく。三十六句続ければ「歌仙」、百句続ければ「百韻」。こうした遊びは数人から多いときには十人を越える連衆を集めて行われ、誰が一番うまく句を付けるかをその場で競った。こうして出来た連歌は祭りのときに寺社に奉納され、作品は境内に貼り出され、それを祭りに集まってきた群衆が見てはあれこれ批評し、良い句は口コミで広がっていった。『二条河原落書』に「京鎌倉ヲコキマゼテ、一座ソロハヌエセ連歌、在々所々ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ゾナキ」というように、ちょうど巨人ファンが皆巨人の監督になったような気分で試合を見るように、連歌を見物する人は皆自分が点者になった気分で、あの句はいい、あの句は駄目だなどと口々に批評したのだろう。
 俳諧は最初のうち、連歌の余興で面白おかしい付け合いを考えては楽しんでいたのだろう。しかし、荒木田守武が俳諧だけで百韻を作り、更に江戸時代に入ると松永貞徳が俳諧を「俗語の連歌」と位置付け、いわば一般庶民が連歌に親しめるように橋渡しする役割のものと位置付けた。これに対し西山宗因は、俳諧を庶民が自由に身近な世界を表現する手段として解放し、芭蕉がそれを受けて、庶民の俗語の俳諧を連歌と同様の高雅なものへと高めた。
 しかし、その一方で木版を使った出版メディアが確立されたことにより、広く大衆から句を募集し、選んで本に載せて出版するという商売が生まれた。それがいわゆる「点取り俳諧」だった。募集するときに点料(今日でいう応募料や投句料)という名目でお金を取り、出来た本は投句者が買ってくれるから、句がたくさん集まれば結構いい商売になる。中には高額の賞金で射幸心を煽り、賞金はいつも身内の誰かが貰うというような詐欺まがいのものもあったようだ。
 こうした点取り俳諧は、江戸から明治にかけて盛んになる中で、句を集めやすくするため、長く句を連ねるよりも発句だけを集めたり、もっと誰でも気軽に作れるようなスタイルを求めていった。たとえば川柳点は七七のお題(たとえば「にぎやかなことにぎやかなこと」といったような)を出してそれに付ける五七五を募集したが、やがて前句となる七七は省略され、発句よりも軽い「狂句」のスタイルが確立されていった。「俳句」という言葉もまた、そういう流れの中で、形式ばった伝統的な俳諧の「発句」と区別して、いわば発句と狂句の中間のような存在として明治の始め頃から広まっていった。点取り俳諧は、作品が作られた事情とか作者の意図とは無関係に、単に句として面白いものを選び出すことによって成り立っていた。いわば、純粋にテキストとして見て、そこから浮かび上がる想像の世界に優劣をつけるゲームだった。
 正岡子規の近代俳句は一般的には点取り俳諧を否定して俳句を芸術に高めたというふうに見られている。しかし、ここにはごまかしがある。むしろ近代俳句は点取り俳諧を母体として成立したといったほうがいい。少なくとも中世連歌や芭蕉の俳諧のような連衆という空間での付け合いの文芸を求めたのではない。子規もまた『日本新聞』の投句欄を担当し、自ら選者となり、投句を募り、それに順位をつけ、その手法は高浜虚子選の俳句誌『ホトトギス』に受け継がれた。子規による俳句の近代化は基本的に点取り俳諧の手法を受け継ぎながら、ただ句を選ぶ際の選者の態度の問題として行われたにすぎなかった。
 実際、子規は点取り俳諧を奨励している。「運座点取など人と競争するも善し。」(『俳諧大要』)ただ、賞品や賞金のために句を競うことを否定しているにすぎない。「秀逸の賞品を得るが如きは野卑にして君子の為すべき所に非ず。」(『俳諧大要』)つまり、子規にとって自らの俳句活動と点取り俳諧を隔てるものは、まず第一に賞品・賞金の有無なのである。しかし、賞金はなくても、数々の入選歴を重ねてゆけば、ゆくゆくは自ら選者となり俳句誌を主催する道が開けるなら、全く無報酬ということではない。むしろ一時の賞金より、選者の地位のほうがはるかに美味しいかもしれない。
 そして、その次に来るのが選考基準の違いなのである。点取り俳諧というのは本来匿名性に基づく想像力の遊戯だといってもいいだろう。それは今日の深夜放送の何々コーナーとかいうのにせっせと葉書を書くのに似ている。俳号はいわばラジオネームのようなもので、本名を隠すことによって一つの架空の人格を作り出す。聞く人はその名前を聞いてどんな人なんだろうかと想像を廻らす。若ぶっているけど本当はオヤジかもしれないなどど思いながら。そして、作品もまた作者の生活や訴えたいことを表現するというよりは、作品そのものの刺激する想像力に依存する。
 子規もまた、最初は点取り俳諧の持つ匿名性と想像力の遊戯に取りつかれた一人だった。作者がいつどのような状況でその句を作ったか分かってしまえば、作品の意味は限定される。句の創作された状況が伏せられているからこそ、読者は自由な解釈を許される。だから、点取り俳諧に匿名性は不可欠な要素なのである。
 しかし、俳諧を芸術に高めようとしたとき、むしろ奔放で無制限な想像力は却って邪魔になる。それはまた「通俗的」解釈の生じる源泉でもあったからだ。芭蕉の「道の辺の木槿は馬に喰はれけり」の句を出る杭は打たれる、という教訓に解釈したりしたのでは、せっかくの名句も台なしだ。虚子の「去年今年つらぬく棒のようなもの」の句も、庶民の奔放な想像力のもとでは「秘め初め」の句と解釈されるかもしれない。つまり、俳句が読者の想像力の遊戯であることを認めつつ、想像力を規制する中で句の価値を高めようというものだった。子規が芭蕉や蕪村の句を評するときでも、句の意味を作られたときの作者の意図に還元するのではない。かといって無制限な想像力を認めるものでもない。想像力を制限することによって、近代俳句にふさわしい「読み方」を作り出していったのだ。あの子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句にしても、歌人の間で高く評価されたにもかかわらず虚子がこの句の評価を拒んだのは、むしろこの句が「作者」と密接に結びつけられて解釈されることを危惧したからだろう。
 したがって、俳句には模範的な読者としての「選者」が必要とされる。俳句の価値は作者や不特定多数の大衆によってではなく、「選者」という模範的な読者によって判断される。これまで近代俳句は作家論やテキスト論ばかり盛んに為されてきたが、俳句を論じる際一番大事なのはこの「選者」という独特な存在ではないだろうか。子規の俳句改革は何よりもまず「選者」の意識改革だった。つまり、庶民の投句に対し、その奔放な想像力に制限を加え、言葉の機能を単に実景を再現する範囲に限定することで、句が卑俗で月並な連想をさそうのを防ごうとした。写生説はそこから生まれた。だから、「作者」としての子規は必ずしも純粋に写生説に従っていたわけではないし、理屈や想像や笑いを完全に排除していたわけではない。子規の俳句の創作はむしろ自由奔放といっていいくらいのものだ。それは子規の俳論が創作の態度というよりも、選者の立場のものであり、読者の過度な想像力の暴走を食い止めるためのものだったからだ。
 しかし、規制はいかなる場合も諸刃の剣で、このやりかただと本当に芸術にふさわしい豊かな想像力をも奪ってしまう危険も大きかった。良いにつけ悪いにつけ「無難さ」が近代の「写生説」を支えてきた。実際、子規が写生説を説くさいに、常に無難さが強調されている。
 「空想より得たる句は最美ならざれば最拙なり。しかして最美なるは極めて稀なり。…略…実景を写しても最美なるはなほ得難けれど、第二流位の句は最も得やすし。」(『俳諧大要』)
 「理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上がらうとしてかへつて池の中に落ち込むやうなことが多い。写生は平坦である代りに、さる仕損ひはないのである。」(『病牀六尺』)
 近代俳句はこうした無難さ、事勿れ主義があたかも民族の伝統であり、精神であるかのようなイメージを植えつけてきた。
 もちろん、こうした文学から理想を退けようとする発想の背後には、当時の人々の精神状況を反映するものではあるだろう。明治維新によってそれまでの中国から伝わってきた儒教、仏教、老荘思想などの理想が一気に否定され、かといってそれに代る国家神道はいつまでたっても明確な形を現わさない。西洋のキリスト教やギリシャ哲学の伝統も、当時としてはまだほとんど浸透していない。そんな思想的空白の中で、西洋の精密な写実画は理屈抜きですごいと思う部分があった。
 子規は写生説を権威づけるために、芭蕉に写生説の仮託を試みる。子規の明治二十六年の『各句批評-芭蕉雑談』の中でこのように書いている。
 「芭蕉独り深川の草庵に在り、静かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に属して貞徳俳諧を興し、貞門亦陳腐に属して檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林も亦一時の流行にして終に万世不易の者に非ず。是に於てか俳運亦一変して長句法を用ゐ漢語を雑へ、漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。我門弟等盛んに之を唱道し我亦時に此流の俳句を為すと雖も、奇に過ぐる者は再三再四するに及んで忽ち厭倦を生ずるの習ひ、我亦此体を厭ふこと漸く甚しきに至りたり。さりとて檀林の俗に帰るべくもあらねば、況して貞門の乳臭を学び連歌の旧套を襲ぐべくも覚えず、何がな一体を創めて我心を安うせんと思ふに、第一に彼佶屈聱矛なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用ふべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に、十七字中に十分我所思を現はさんとせば、為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句は如何なるべきかなどつくづく思ひめぐらせる程に、脳中濠々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只々惘然として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。万籟寂として妄想全く断ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく『蛙飛びこむ水の音』といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫く考へに傾けし首をもたげ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。
 以上は我臆測する所なるを以て、実際は此の如くならざりしやも計り難けれども、芭蕉の思想が変遷せる順序は此外に出でずと思はる。其蕉風(俗に正風といふ)を起せしは実に此時に在りしなり。」
 子規は自ら「我憶測する所」と断わって、予防線を引いてはいるものの、確信を持ってこの句がこのようにできたと主張することには変わりない。それでも、このフィクションが真に迫るのは、これが子規自身の経験だったからだろう。子規はまさにこのころ写生に目覚めたばかりだった。洒落や滑稽に熱中したのは子規自身だったし、それに厭倦を感じていたのも子規自身だった。
 芭蕉は写生なんてことを一言も言っていない。そのため、芭蕉研究はその後いくつもの矛盾を抱えていかなくてはならなかった。まず、蕉風確立以後も芭蕉は高度の技法を駆使した句を詠み続けている。また、芭蕉に忠実な門人たちもそうだし、芭蕉の弟子の書いた俳論でも明確に写生を説いた箇所は見つからない。そこで芭蕉に対する一つの神話が作られていった。つまり、「芭蕉の蕉風確立はあまりに時代の先を行き過ぎてしまったため、門人はもとより芭蕉本人ですら十分理解できず、徹底できなかった」というふうに。この神話を楯に取ることで、今日我々は芭蕉を研究するさい、同時代の資料を無視してもいいということが常識としてまかり通っている。そのうえで、任意のいくつかの句や断片的な論評を無理やりこじつけて、芭蕉が写生説を説いたことの根拠としているのだ。
 子規は俳句において成功したこの手法を、そのまま短歌にも持ち込んだ。万葉復古は万葉語を使うことでも万葉調を模倣することでもない。万葉=写生でなくてはならなかった。そして、この説を広めるためには、子規は写生歌の作者になる以上に「選者」にならなくてはならなかった。点取り俳諧のシステムをそっくり短歌の世界に持ち込んで、「写生」を投稿のさいの最低限「歌詠み」が守るべきルールとして提起しなくてはならなかった。「写生」は美学というよりはルールである。それは読者に対し作品の正しい読み方を指南すると同時に、作者の守るべきルールでもあり、更に選者が選ぶさいに課せられるルールという三重のルールである。
 子規の短歌革新は、短歌の点取り俳諧化とでもいうべきもので、それは歌語の問題にも反映されている。それまでの短歌は雅語と呼ばれる中世に確立された文章言葉で作られていた。こうした文語は、国家レベルでの国語教育によって標準語が広められる以前の時代には、共通語としての重要な意味を持っていた。つまり、各地方の人がそれぞれのお国言葉で喋っていたのでは全くコミュニケーションが成り立たない。言文一致では極めて狭い地域の人しか理解できず、和歌に普遍性を持たせるには「雅語」が実際問題として必要だった。近代の言文一致運動は、義務教育制度の確立、標準語の制定と切り離すことはできない。しかし、雅語だけで詠む和歌はいかにも古めかしい。そこで、江戸時代にはおおむね雅語を基本としながら、そこに漢語、俗語、新語、流行語、方言などを部分的に取り入れる「俳諧」の文化が花開いた。
 長いこと、雅語で詠むのが和歌で、俗語・俳言を交えて詠むものは俳諧歌や狂歌として区別されていた。子規の短歌革新は古い雅語を新たな言文一致に基づく標準語に変えようというものではない。むしろ俗語・俳言を取り入れることによって、いわば和歌を俳諧化させることによって成し遂げられた。短歌は口語化されなかった。このことは、近代詩が早い時期から口語化してゆくのに対し、短歌の口語化が未だに十分進まない理由の一つでもあるように思える。それは「俳言」という独自な発想で文語の堅苦しさを中和する手段を知っていたからだ。だから、今日「口語短歌」と呼ばれているものでも、実際は口語と文語をごちゃ混ぜにした中途半端なものが多く、それを流行語、新語、外来語、学術用語を大胆に取り入れることで口語っぽく見せている。これは発想としては俳諧のものだ。私は俵万智の歌などは口語短歌ではなく、むしろ俳諧歌と呼んだ方がいいと思っている。
 こうした背景には、当時まだ言文一致運動が標準語を形成するにまで至っていなかったこと、雅語に固執する和歌が、かつての尊王攘夷論的な国粋主義の牙城となっていたことが考えられるであろう。
 「生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりにて候。」(『六たび歌よみに与ふる書』)
 しかし、この発想は新しいものではなく、俳諧では従来から行われていたことだった。
 子規の短歌革新のもう一つの特徴は、音楽との訣別であろう。『詩経』の大序に「言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。(言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)」とあるように本来詩は音楽と切り離せないし、音楽はまたダンスへと発展してゆく。西洋近代詩もまたしばしば朗読のパフォーマンスを伴い、また、人々もこぞって詩を暗唱し、口ずさむうちにメロディーが生まれ、そうした中からベートーベンやシューベルトの歌曲が生れた。日本でも古来短歌は吟じるものだったし、吟には琴や鼓の伴奏が付けられることもあり、舞いを伴うこともあった。しかし、もっぱら書物に書かれた文字から喚起されるイメージを競う点取り俳諧にあって、早くから音楽性は消失していた。
 明治の近代化で急速に西洋音楽が流入してくるなかで、日本人は自らの伝統音楽に自信と誇りを失っていった。未だに明治以前の日本には音楽はなく、節しかなかったという人がいるくらいだから、当時の状況は推して知るべしであろう。
 もっとも子規自身は人並みに音楽を好んでいたようだ。当時まだ珍しかった蓄音機を恕堂が持ってきて聞いたことが『墨汁一滴』には記されている。しかし、子規の芸術論の中に音楽や舞踏への言及を見い出すことは難しいし、詩歌俳句を音楽と結びつけて論じることはなかった。(音楽や舞踏の美を写生で説明することは実際困難で、もしこれらへの言及を行っていたなら写生説そのものを危機に陥れただろう。)
 子規が掛言葉や縁語などの古典和歌の技法を容易に否定できたのは、次に来る言葉を韻の一致や意味の二重性を利用して聴衆にあれこれ想像させながら、思いがけない展開で盛り上げ、感動を与えてゆくという方法をもはや必要としなかったからだ。子規にとって短歌は紙の上に一つの空間を生み出せばそれでよかった。当時としては、録音技術が発達し、音楽CD産業がこれほどまでに巨大化するとは誰も予想しなかった。今日短歌のみならず、近代詩まで苦しい状況にあるのは、民衆は相変わらず『詩経』にあるとおり、言葉だけではもの足りず、叫んだり、歌ったり、踊ったりすることを望むからであろう。音楽を敵に回してしまったことが、近代詩歌の悲劇ではなかったか。
 明治三十一年、一連の『歌よみに与ふる書』で過激なアドバルーンを上げ、これに呼応して集まった香取秀真、岡麓などとともに態勢を固め、翌三十二年から『日本新聞』上で短歌の募集を始める。ここにおいて短歌選者としての正岡子規が誕生する。翌三十三年には伊藤左千夫や長塚節も加わり、後のアシビからアララギ派への基礎ができ上がる。もっとも、伊藤左千夫は子規的な短歌の俳諧化に反発し、作者の叫びと言葉の調べを重視した。そのあたりから俳句と短歌は若干異なる道を歩き出すことになった。
 点取り俳諧から受け継いだ選者主導型のシステムは、まず作品を広く世間に発表できるかどうかというその入り口をがっちり押さえているため、作者に対し常に独断で自分の決めたルールを押し付けることができる。しかし、こうしたルールを選者は恣意的に決められるため、実際は選者の数だけルールができてしまう。こうして、俳壇も歌壇も絶えず分裂し、それぞれが独自の結社を旗揚げし、細分化されてゆく危険をはらんでいた。
 子規があえて短歌の革新を急いだのは、少なからず西洋文明の侵略による伝統文化への危機意識からだっただろう。だからこそ子規は短歌を軍事に例え、「『日本文学の城壁ともいふべき国歌』云々とは何事ぞ。代々の勅撰集の如きものが日本文学の城壁ならば、実に頼み少なき城壁にて、かくの如き薄っぺらな城壁は、大砲一発で砕け可申候。生は国歌を破壊し尽くすの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯づらどもが大砲を発たうが地雷を仕掛けうが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願有之…略…」と言った。
 明治十八年の『筆まかせ』で子規は、「世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし。併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」と書いている。世界が一つになるというのは聞こえはいいが、そこには諸民族が弱肉強食のサバイバルゲームを繰り返し、弱い民族は亡んだり、国を失い他民族に吸収されたりしながら、最後は最も強い国だけが残るという漠然としたイメージがそこにはあった。現実的には西洋列強がアジアを次々と植民地化している状況があり、もう一方には日本人自らがアイヌを和人化させて民族としての独立性を抹殺したり、琉球の国家主権を剥奪したりしていた。世界が一つになるというのは、日本が世界のどこかの国に吸収され消滅するか、それとも日本だけが生き残るか、そのどちらかでしかない。こうした、「国際関係は弱肉強食、食うか食われるかだ」という意識は戦後になっても未だに残っている。こんなのは全く馬鹿げているし、こうした戦いは世界征服を果たすまで終りようがない。一つには日本は他民族の支配から自らの力で独立を勝ち取った経験がなく、国がなくなればすべてが終るかのような悲観的な見通ししか立てられないからだろう。子規の短歌革新も常に、負ければすべて無に帰すという焦りの中でなされている。
 子規は『俳諧大要』の中で、「美は比較的なり。絶対的に非ず。故に一首の詩、一幅の画を取て美不美を言ふべからず。もしこれを言ふ時は胸裡に記憶したる幾多の詩画を取て暗々に比較して言ふのみ。」(『俳諧大要』)と述べている。美が相対的だということは、他と比較して少しでも劣るものは醜であるということを意味しているし、少しでも劣った美は亡びるという危機感と結びついている。ここにおいて美もまた弱肉強食の戦いとなる。それは歌合せや連歌や点取り俳諧のゲーム的な競争ではなく、生き残りを賭けた生存競争でなくてはならなかった。子規が与謝野鉄幹に対し、「鉄幹是なら子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり」(『墨汁一滴』)といった不寛容な態度をとったも、その一貫に他ならない。
 子規の立場は民族固有の文化を守るといった立場ではない。民族固有の価値観は当てにせず、世界で唯一の美の標準を求める立場だった。しかし、その子規が見つけたのは、単なる描写技術の人を圧倒する力にすぎなかった。それだけが世界中どこへ行っても「理屈抜き」で人を感動させられる美だった。
 保守化した頼りのない江戸幕府に対し維新の志士たちが立ち上がったように、子規もまた頭の固い伝統歌壇に対し反乱を起した。それが最初に掲げた『歌よみに与ふる書』の過激な主張に結びついたのだろう。しかし、短歌革新は結局士族の反乱だった。それは真の民衆の文学の確立ではなく、むしろ選者の軍事独裁政権を生み出し、今日に至っているのではないか。ただでさえ明治の近代化は民衆の中から沸き起こったものというよりは、政府主導の欧風化政策によるトップダウン的なものだった。そのため、選者主導の短歌革新は時代の空気に合っていた。
 子規の時代から百年たった今となって、世界が一つになるどころか少数民族の独立の気運は高まるばかりで、既に国の数は二百を越えている。経済では確かにグローバリズムということが言われているが、お金はもとより自然科学同様人類の共通の言語であり、経済がグローバル化したからといって文化が一つになるわけではなく、むしろ消費体系が膨張すればするほど人々は消費文化の多様性を求めるであろう。かつて世界を席巻する勢いだったマクドナルドのハンバーガーも、今は低迷し、名店系のラーメン屋に長い行列ができているように、グローバリズムはむしろ世界中に点在していた様々な文化を急速にごちゃ混ぜにする方向に運ぶだろう。つまり、マクドナルドもあればタコスもあるしラーメンも寿司もピビンバもドネルケバブもシュラスコもイタ飯もカレーも全部一つの町に混在するような、そんな世界を作り出すことになるだろう。文学もまた一つになるどころか、今後ますます諸民族が独自のアイデンティティーを主張し、多元化する方向に向かうにちがいない。もはや日本か西洋かという二者択一の時代ではない。世界の中のたくさんある民族文化の一つとして大和民族の文化がどのような役割を果たせるかを考える時期に来ている。
 日本人は昔から点取り俳諧的な遊戯が好きで、今でもテレビ、雑誌、ラジオなどで様々な形で投稿を募る、いわゆる業界でいう「ネタもの」が氾濫している。短歌もその一つのいくぶん品のいいもの程度に認識され、それなりに繁栄を極めている。今でも、自分の作った短歌が新聞に載ったり、歌会初めで天皇の前で読み上げられたりすることに喜びを感じる人は、老若男女問わず無数にいる。だから、今後とも短歌人口が急速に減る心配はないだろう。問題は、今日様々な過激な実験が行われ、一見短歌の様々な可能性が開かれているように見えるものの、そのほとんどが「描写の技術を競う」という子規的な枠組みに封じ込められているという点ではないか。私はむしろ、グローバル化の時代だからこそ、伝統的な手法をもう一度見直すべきではないかと思う。多様性こそこれからの時代を生き延びる道であり、もはや西洋化に固執すべき時代ではない。

参考文献

 『正岡子規』松井利彦、一九六七、桜楓社
 『正岡子規-創造の共同性』坪内稔典、一九九一、リブロボート
 『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日新聞社
 『正岡子規』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
 『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
 『明治維新と天皇』遠山茂樹、一九九一、岩波書店
 『天皇親政』笠原英彦、一九九五、中公新書


正岡子規の『七草』

   一

 子規の近代文学館所蔵の自筆稿の中に、制作年月日不明の三編の詩があり、その一つに『七草』という詩がある。


   七草

 七草七つ、何ぞ、名は。
 尾花、葛花、萩が花、
 名もなつかしき なでしこや、
 深きゆかりの 藤袴、
 何、女郎花、霧の中、
 朝顔咲ける、朝な朝な。


 松井利彦はこの詩を含む三編の詩を子規の『病牀手記』の明治三十年八月十五日の条にある「冨山房遠藤某来ル新体詩ヲ依嘱セラル」という時に作られた三編の詩と推定している。しかし、この『田植の歌』『月と星』『七草』はそれぞれ作風が大きく異なっている。
 『田植の歌』のライムは同語反復が多い。それはこんな具合だ。


 植ゑよ。植ゑよ。
  緑の早苗 はや植ゑよ。
 菅の古簑、菅の笠、
  兄も弟も はや植ゑよ。
  雨の千町田 水足りぬ。


 明治三十年三月の『俚歌に擬す』の作風に近い。『俚歌に擬す』の其一はこんな具合だった。


 ねんねんやをおころりや。
 ねんねの坊やは誰が子ぞや
 お城の上の星の子か、
 南の海の河豚の子か。
 坊やを産んだ母の子ぞ、
 坊やを抱いた母の子ぞ。


  『月と星』は一番から四番になる唱歌の歌詞のような体裁になっている。


   一
 一つ、二つ、 三つ、四つ、
 星見えそむる、あちらこちら。


   二
 東、西 南、北、
 星かゝやけり、きらきら。


   三
 見よや、かなたの 山の端に、
 月白のぼり、 月出たり。


   四
 空の真中、 月のすむ
 あたりに、星も なかりけり。


 子規作詞の唱歌『富士山』『太平洋』はともにライミングされていない。『月と星』の場合、二番と三番はライムされていると言えば言えなくもない。母音だけで子音を一致させないタイプのライミングは子規の明治三十一年十一月の『猩々』に初めて見られるもので、子規の唱歌の作詞は明治三十二年になる。
 これに対し、『七草』もまた母音だけで子音を一致させないタイプのものだが、唱歌の歌詞とは思えない。
 果たして、こうした作風もライミング法も異なる三編の詩が、同一の目的のために書かれたものかどうかは疑問だ。私はこの三編は別々の目的で書かれたもので、『七草』に関しては明治三十一年十一月以降、『月と星』は明治三十二年頃と推定する。『田植の歌』の年代の推定は難しい。俚歌は明治三十四年にも『仰臥漫録』の中で試みられているからだ。それはこのようなものだ。


   俚歌ニ擬ス

 枝豆 枝豆 ヨクハヂク枝豆 プイト飛ンデ 三万里 月ノ兎ノ目ニアテタ 目ツカチ兎 ヨクハヂク枝豆 十三夜ノオ月様


 『田植の歌』『月と星』『七草』の三編がほぼ同じ時期のものだとすれば、明治三十二年だろう。

   二

 この『七草』という作品が特異なのは、脚韻だけでなく頭韻をも用いて語呂合わせ的な言葉遊び(七草七つ、何ぞ、名は。)をしていることと、「何、女郎花、霧の中」というように、俳句や短歌の革新の際に排除したはずの掛言葉(「何、女郎花」「何を皆経し」)が用いられていることだ。「経し」は時を経るという意味で、時を経て忘却の霧の中へ消えたとつながる。「経し」は微妙にではあるが「隔てる」につながる。こうした掛言葉は『古今集』の


 白露を玉にぬくとやさゝかにの
    花にも葉にもいとをみなへし
              紀友則 古今和歌集、物名、四三七
 朝つゆを分そほちつゝ花みんと
    今その山をみなへしりぬる
              紀友則 古今和歌集、物名、四三八

を彷彿させる。
 頭韻は以下の通りだ。


 七草七つ、何ぞ、名は。
 尾花、葛花、萩が花、
 名もなつかしき なでしこや、
 深きゆかりの 藤袴、
 何、女郎花、霧の中、
 朝顔咲ける、朝な朝な。


 また、脚韻の方も「名は/が花/や/袴/中/朝な」と、aの韻で一音節から三音節にかけてライミングしている。頭韻の使用はおそらく万葉集の影響で、


 よき人のよしとよく見てよしといひし
    よし野よく見よよき人よく見つ
               天武天皇


といった歌を彷彿させる。おそらくこうした万葉集の影響からも、この詩は短歌革新以降のものと思われる。
 明治三十二年以降の子規の新体詩は『内地雑居の歌』にしても、その調子はわらべ歌調だし、『富士山』『太平洋』『古城の月』が唱歌の歌詞として作られたものだ。とすると、この『七草』は子規の新体詩としては短編ながら最終的な形だったと思われる。頭韻、脚韻、掛言葉を駆使した緊密な言葉の組み合わせは、子規のライムの総決算であるとともに、新たな詩の可能性へ向けての実験だったのかもしれない。子規は新体詩に対し、いくつもの実験を繰り返してきた。初期の詩には俳句を末尾に付け加え、ちょうど長歌に対する反歌のように用いた例がある。そして、ライミングの実験をし、そして最後には古典技法とふたたび融合した。

   三

 ライムは本来素朴な言葉遊びの中から徐々に洗練され発展してゆくもので、子規が俚歌(俗謡や童歌の類)に傾倒していったのもそのことに気付いていたからに違いない。子規はライムの根源を語るとき、決まってあるフレーズを引用する。
 「スベッテコロンデとは能く子供の用ゐる語なるが、此二句は毎句四音より成り且つ韻脚をも備ふる者にして、之を言ふも何となく言ひ易く之を聞くも何となく耳ざはりよし。此の如く殆ど偶然に出でし調子こそ大方は詩歌の始なりしなるべし。」(『詩歌の起原及び変遷』明治二十二年)
 「例へば
   すベツてー ころんでー
と謳へば小児も子守も暗々裡に此韻を味ふことを得べし。」(『文学』明治二十九年)
 「日本語は母音を以て終る故にいくらでも句尾の音を永くするを得。例へば『すべツて=、ころんで=』といふが如く『て』『で』の聲を長く引く時は此両字の下に『エ』の韻は生るゝなり。」(『新体詩押韻の事』明治三十年)
 この「すべってころんで」はおそらく子守歌から来たものだろう。もっとも松山では歌われてない、東京に出て来て知った歌のようだ。


  お月様いくつ、十三七ッ。まだ年若いな、あの子を生んで、此子を生んで。誰にだかしよ、おまんにだかしよ、おまんはどこへいた、油かひに茶かひに、油屋の前で氷がはって、すべってころんで、油一升こぼした、…以下略(『筆まか勢』「童謡」より、子規全集 第十巻)


 子規の俳句革新と短歌革新が成功したのは、文学者が高いところから詩というのはこういうものだと説くのではなく、広く投句を募り、庶民に句を作らせ、あくまで選者としてそこに国体の精神に合うような句を意図的に選びだし、庶民の作った句として国体精神の句を広めてゆくことができたからだ。ここにおいて、選者は単に俳諧の主催者ではなく、庶民の作る詩に検閲を加え、時には「添削指導」の名のもとに作品を改竄する独裁者となることができた。しかも、それがうまくいったのは、思想性を全面に出さず、むしろ理窟や思想を表向き排除するという仕方を取ったからだった。いわば「神道非宗教説」のようなもので、国体精神は思想ではないということによって、特権化できたからだ。そして、新体詩(近代詩)のその後の歴史もまた、思想性を前面に押し出すことを控えた、神道非宗教説的な情緒性を優先するものが主流となっていった。
 これに対し、子規の新体詩は思想性がはっきり出てしまっていた。これは子規に限らず、明治十五年の『新体詩抄』以来、初期の新体詩の持つ一つの特徴だった。明治の早い時期から、明治政府はそれまでの庶民の生活習慣や節句、祭、信仰などをことごとく「渾沌無智の風俗」「野蛮の余風」などと決めつけ、次々と禁止令を出していった。今からでは想像もつかないが、ひな祭りや端午の節句やお盆までも禁止した。元来江戸時代の俳諧はこうした節句や習俗、民間信仰と切っても切れないものだったし、そうした季節の「心」を詠むべきものだったから、この時点で本来俳諧は息の根を止められたようなものだった。こうした動きに対し、江戸時代から脈々と伝統を受け継いできた俳諧師匠たちは三森幹雄の明倫社を中心にして、芭蕉を神として何とか国家神道の中に組み込むことで妥協を計ろうとしたが無駄だった。元来非業の死を遂げた人の魂は神となるという御霊信仰の考え方があったから、確かに芭蕉がその意味で神となることはそう不自然なことではない。しかし、そうした御霊信仰(あるいは道祖神信仰)に通じるものこそ、明治政府がもっとも排除したかったものではなかったか。このような「旧習に染まった」俳諧師匠たちに対し、明治国体の精神の教化の手段として誕生したのが新体詩だった。
 だから、子規が俳句から思想を排除しようとしたことと、新体詩が思想的であることとの間には何の矛盾もない。俳句においては旧来の伝統的な風雅の精神を否定し、無思想な中に国体思想を表現しようとしただけのことであり、新体詩では旧来の思想を排除する必要がなかっただけのことだ。 それなら一体なぜ伝統的な風雅の精神は否定されねばならなかったのか。それは本来東洋の風雅が「力をいれずしてあめつちを動かす」といった非暴力による社会変革を標榜するものであり、また中世公界の身分のない世界を理想とするものでもあり、そこには仏教的な不殺生や無所有の考え方や、老子の万物斉同の考え方も含まれていた。要するに平和平等で命を大切にするという思想に貫かれていた。だからこそ、明治の富国強兵の時代にはこれらの思想が「軟弱」で「月並」なものとして否定されねばならなかった。
 しかし、子規の新体詩は結局その押し付けがましい国体思想ゆえに大衆に受け入れられることもなかった。もっとも、子規の近代俳句も、子規の生きていた時代には書生俳句の域を出ず、必ずしも国民的な人気を博していたわけではなかった。明治末まで庶民の圧倒的な人気を博していたのは、「月並」「軟弱」という批判を受けながらもしぶとく生きながらえた旧派の俳諧だった。近代俳句が庶民の間に定着するのは昭和初期の高浜虚子の『ホトトギス』の成功を待たねばならなかった。
 そうした子規が、ライムの新たな可能性を探ったとき、民謡やわらべ歌のノスタルジーの中に傾倒してゆく理由があった。それはライムをその原点の中に保とうというものであるとともに、古くからの土着の民謡に対し、新しい民謡を作るという意図も含まれていた。子規が作る俚歌は本当の民謡ではない。あくまで俚歌に擬した新体詩だ。それはあたかも国体の精神が日本人の故郷であるかのように、過去の記憶を書き換えようというものだ。こうした動きはいわゆる「唱歌」の創作と平行したものだった。先の子規の三作品もそうした故郷の幻想を作り出そうというものだとすれば理解しやすい。
 子規が俳句や短歌から古典技法を排除したことは、古典技法そのものを前近代的なものとして否定したのではなく、あくまで古典の風雅の精神を封印するためのものだったのだろう。俳句や短歌には思想があってはいけない、そして新体詩では思想を表現する。古典技法もそれと同様に考えられていたのだろう。
 私は子規は思想的に見れば、古典文化に対してもっとも過激な破壊を企てた人間だったと思っている。しかし、その一方で、子規には伝統に囚われずにあらゆる詩の可能性を試すという側面もあった。それは近代化が常にその両面を持っていたということだろう。子規は一編の詩の中に俳句や短歌を取り込んだり、頭韻・脚韻・掛言葉を混在させたり、あらゆる詩の技法を吸収した所に最終的な新体詩を求めていたようだ。この点だけは引き継いでもいいだろう。
 今日、反戦平和や命の尊さを説く詩はあっても、その多くは技法的な洗練を欠き、アジビラの類と変わりなくなっているものが目に着く。私はもっと古典を学び、現代詩と古典技法との融合を計ってもいいと思っている。

参考文献

 『子規全集』講談社
 『明治俳人集 明治文学全集五七』一九七五、筑摩書房
 『明治詩人集(一) 明治文学全集六〇』一九七二、筑摩書房
 『評伝、正岡子規』柴田宵曲、一九八六、岩波文庫
 『正岡子規』松井利彦、一九六七、桜楓社
 『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日出版社
 『正岡子規』岡井隆、一九八二、筑摩書房
 『子規歌論の発展と継承』有田静昭、一九八○、桜楓社
 『正岡子規-創造の共同性』坪内稔典、一九九一、リブロポート
 『正岡子規 人物叢書一四四』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
 『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
 『子規漢詩と漱石』飯田利行、一九九三、柏美術出版
 『俳句の歴史』山下一海、一九九九、朝日新聞社
 『明治俳壇史』村山故郷、一九七九、角川書店
 『明治大正俳句史話』村山故郷、一九八二、角川書店
 『明治俳諧史話』勝峯晋風、一九八四、日本図書センター


自虐史観を越えて

 今でこそ日本の自虐史観は政治の問題だけに留まらず、文化、芸術、経済でも議論されるようになってきた。もちろん何ごとも行き過ぎというのはいいことではない。行き過ぎた国粋主義が劣等感の裏返しであることは、古くから指摘されてきたことだ。アジアの人々への差別感情が西洋コンプレックスの裏返しであることも、今さら指摘するまでもない。
 六十年代になって庶民が海外旅行できるようになると、英語も喋らず、レストランに行っては「箸もってこい!」と怒鳴ったりするような人がいたらしいが、相手の立場を無視する横柄さはいくら自虐史観から脱却するといっても許されるものではない。
 文化においても、確かに幕末の開国の時点で日本は科学技術に関して西洋に後れを取っていた。政治においても、すべての人間が同じように幸福になれるべきであるなら、日本は民主化の度合いや人権意識の点で西洋より劣っていたのは確かであろう。
 もちろん当時の西洋にも人種差別はあったし、まだ婦人参政権はなかったし、アメリカの奴隷制度も撤廃されて間もない頃だった。
 不平等条約にしても、おおむね西洋諸国がタイとの間に結んだスタイルを踏襲したもので、日本だけが殊更軽視されてたわけではなく、むしろ中国などよりはかなり優遇された扱いを受けていた。
 むしろ当時の日本人にとって最大の問題だったのは、軍事力における西洋の圧倒的な優位であり、西洋列強の脅威に他ならなかった。西洋列強に対抗するには、いつまでも刀を振り回しては駄目だ。銃や大砲を取り揃え、西洋式の軍隊を作る必要がある。その考え方自体は間違っていなかった。
 ただ問題は、軍事的な弱さが日本の文化そのものの弱さと見做されてしまったことだ。明治の富国強兵は単純な軍事や経済の問題と見做されず、日本人が長い年月をかけて築き上げてきた平和な文化を根底から否定し、好戦的な文化に作り変えようとしてきたことは、様々なひずみを生み出してきた。
 実際、明治初期には祭などの伝統行事がことごとく禁止され、弾圧された。日本人は自らの伝統文化を野蛮な劣ったものだと卑下し、自分の国の伝統文化に自信も誇りも持つことがないまま多くの芸術作品は二束三文で海外に流出していった。
 正岡子規の俳句革新や短歌革新は未だにその「近代化」の華々しい側面と「先見性」ばかりが評価されているが、革新は同時に伝統の破壊であったことも忘れてはならない。それは単に過去の作品を無視するといったものではなく、むしろ過去の作品を読み変えるものであり、近代化のフィルターを通してしか過去の伝統文学を評価することはもちろんのこと、読むことすらできなくしてきた歴史はもう一度問い直されなくてはならない。