この現代語訳はただ訳すだけでなく、佐々木鏡石さんの小説「じょっぱれアオモリの星 おらこんな都会いやだ」で、アオモリ弁のセリフとその標準語訳をルビを使って両方同時に読めるようにしてたのにヒントを得て、古文でも応用できないかと試したものだった。
そのため、現代語訳ではあるが、ルビの方を読むと原文が読めるようになっている。
例えば、
月日は永遠の旅客にして、行きかう年もまた旅人だ。
という文章のルビを読むと、
月日ははくたいのくわかくにして、行きかう年もまたたびびとなり。
となる。
沢山の骨九つの穴の中に魂がある。仮に名付けて風羅坊という。まさに薄物の風に破れやすそうなことを言うのだろう。
彼は狂句を好むこと久しい。ついに生涯の仕事とする。ある時は飽きて放り出そうとしたこともあったし、ある時は気負って人に勝とう得意になり、いつも胸中迷うばかりで、そのせいで心休まることもなく、一時は仕事で出世しようとしたけどその思いが邪魔し、仏道でも学んで愚かさを悟ろうとおもったけどその思いから挫折し、ついに無能無芸のままただこの一筋を頼みとする。
西行の和歌でも宗祇の連歌でも雪舟の絵でも利休の茶でも、そこを貫くものは一つだ。
しかも風雅の道にいる者は天地自然に従い四季を友とする。見るものはみんな花になり、思うことはみんな月になる。心に花がないなら鳥獣のたぐいだ。野蛮を脱却し、鳥獣と区別して、天地自然に従い天地自然に帰れという。
旧暦十月の初め、空模様も定まらず、自分が風に舞う葉の行方も知れぬ心地して、
初時雨に我名は旅人とと呼ばれるだろう
また山茶花に泊り歩いて
磐城の住人、長太郎という者がこの脇を付けて其角亭で送別会を開いてもてなす。
時は冬旅の餞別に吉野を詰めよう
この句は露沾公からいただいた句だが、はなむけの初めとして旧友、親疎、門人らのある人は詩歌文章を持って訪れ、ある人は草鞋代を包んで寸志とする。荘子の『三月の糧』を集める苦労もなく、紙子、綿小といったもの、帽子、下沓などもみんなそれぞれ持ってきて、霜や雪の寒さも心配ない。
ある者は小船を浮かべ、別荘に設けた仮説の家に酒や魚を持ち込んで、前途を祝し名残を惜しんだりしてると、大宮人の門出するかのようで物々しい感じがする。
* * *
そもそも紀行文というものは紀貫之、鴨長明、阿仏尼の筆を揮い旅情を表して以降、自分も全部真似をしてるだけで、その残り粕の域を出ていない。まして、浅学非才で先人に及ぶべくもない。
その日は雨が降って昼より晴れて、そこに松があって、そこには何という川が流れてたなどということは、誰でも言いそうなことだけど、珍しくも新しくもないならば書かない方が良い。
そうは言ってもその所々の風景が心に残り、山や野辺の宿の苦しさ悲しさも、一方では話の種になり、旅の噂話くらいに思い、忘れられない場所を後先もなく書き集めてみた。なお、酔っぱらいの妄言と同じで、寝てる人のうわごとを言ってると思って、読者も聞き流してくれ。
* * *
鳴海に泊って、
星崎の闇を見るといって鳴く千鳥
飛鳥井雅章公がこの宿場に泊ったときに、「都も遠くなるみ潟遥けき海を中に隔てて」と詠んだのを、自分で書いて、それを貰ったことを聞いて、
京まではまだなかば半分雪の雲
* * *
三河の国保美という所に杜国が隠棲しているから訪ねていこうと、まず越人に連絡して鳴海から一旦戻り、百キロの道のりを行くべくその夜吉田宿に泊る。
寒いけど二人で寝る夜は頼もしい
天津縄手は田んぼの中の細道で、海から吹き付ける風がとにかく寒い所だった。
馬上に氷る姿が冬の日にまさに影法師だ
保美村より伊良湖崎へ四キロ程だろうか。三河の国と地続きで伊勢とは海を隔てた所だけど、どういうわけか万葉集には伊勢の名所の所に編纂されている。この洲崎では碁石が採れる。世に伊良湖白というそうだ。骨山という所は鷹を捕える所だ。南の海の向こうから鷹が初めて渡る所と言われている。
いらご崎に鷹一羽見付てうれしい
* * *
熱田御修復
研ぎ直す鏡も清い雪の花
蓬左の人々に迎えられてしばらく休息してた頃、
箱根越す人もいるだろうな今朝の雪
ある人の会
しっかり折って雪見に赴く紙子だな
さあ行こう雪見にころぶ所まで
ある人興行
梅の香を探れば蔵が見える軒端だな
この間、美濃、大垣、岐阜の風流人をいろいろ訪ねて来て、歌仙あるいは一折などたびたびに及ぶ。
* * *
十二月十日あまり、名古屋を出て故郷に帰ろうと思う。
旅寝して世間の大掃除を見る事となった
「桑名よりくはで来ぬれば」と歌われた日永の里より、馬借りて杖衝坂を登ると、荷鞍がひっくり返って馬から落ちた。
徒歩ならば杖つく坂で落馬とは
と、悶々としながら句が出にしようとしたが、結局季語が入らなかった。
故郷でへその緒に泣く年の暮れ
* * *
正月の前夜、一年を振り返ろうと酒を飲み夜更かしして、元日寝忘れてしまい、
二日にはきちんとしよう花の春
初春
春立ってまだ九日の野山だろうか
枯芝にやや陽炎の一二寸
* * *
伊賀の国阿波の庄という所に俊乗上人の旧跡があった。護峰山新大仏寺とかいうが、名ばかりの古い遺跡となって、伽藍は崩れて礎だけを残し、坊舎もなくなり田畑になっていて、丈六の大仏は苔の緑に埋もれて、頭だけが目の前に拝むのみというのに、俊乗坊重源座像はいまだ完全な状態で残され、その時代の名残りは疑いようもなく、涙こぼれるばかりだ。石の蓮台、獅子の座などはヨモギ、ムグラの上に積み重なり、沙羅双樹の枯れた跡を目の前に見ているかのようだ。
丈六に石の上の陽炎も高い
さまざまの事思い出す桜だな
* * *
伊勢山田
何の木の花とは知らないが匂いが良い
裸になるにもまだ如月の嵐だし
菩提山
この山の悲しさを告げてくれ野老堀り
龍尚舎
芦の若葉を何ていうか先ず問うてみる
網代民部雪堂に会う
梅の木のまだ宿り木だけど梅の花
草庵の会
芋植えて辺りは葎の若葉だな
神垣の内に梅が一本もない。何かわけがあるのかと神官などに尋ねたけど、特に理由もなく元から梅は一本もなくて、子良の調理場の裏に一本だけあると教えてくれた。
御子良子の一本に惹かれる梅の花
神垣におもひもかけず涅槃像
* * *
三月半ばを過ぎる頃、気もそぞろに浮かれたつ心の花も自分を導く道しるべとなって、吉野の花を見に行こうとしてた時、あの伊良湖崎で約束した人が伊勢へ出てきて、ともに旅情を味わおうと、さらに我がために童子となって道案内しようと、自ら万菊丸と名乗る。本当に童らしい名前でなかなか粋だ。さあ出発という時、遊び心で笠の内側に落書きした。
いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス。
天地宿なき同行二人
吉野では桜を見せてやる桧木笠
吉野では俺も見せてやる桧木笠 万菊丸
* * *
旅の持ち物が多くては道中に差し障るので、物は皆捨て払ったとはいえ、夜に必要な紙子一つ、合羽のようなもの、硯、筆、紙、薬等、昼飯などを物に包んで後ろに背負ってれば、ますます脛の力の弱さのせいか、後ろから引っ張られているみたいに道も進まない。ただ辛いことばかり多い。
くたびれて宿借りる頃には藤の花初瀬
* * *
初瀬
春の夜は籠ってる人を思う堂の隅
下駄を掃く僧も見れたよ花の雨 万菊
葛城山
でも見たい花に明けて行く時の神の顔
三輪 多武峰
細峠 多武峰より龍門へ越える道
雲雀より空高く休む峠だな
龍門
龍門の花は上戸の土産にしよう
酒のみに話してやろう滝の花
西河
ほろほろと山吹が散るよ滝の音
蜻螟が滝
布留の滝は布留の宮より二百五十メートル山の奥にある。
摂津幾田の川上にある 大和
布引の滝 箕面の滝
勝尾寺へ越る道にある。
桜
桜狩り奇特にも日々に五里六里
花に日が暮れれば淋しいあすなろう
酒汲むかげに散る桜は扇で‥
* * *
苔清水
春雨が木の下を伝うような清水だな
吉野の花に三日滞在して、曙、黄昏の景色に向かい、有明の月の哀れな情景など心に迫り胸がいっぱいになり、ある時は藤原良経公の「ながめ暮す」に共感し、西行の「枝折」に道に迷い、かの貞室が「これはこれは」と放り投げた景色に自分が付け加える言葉もなくて、どうしようもなく口を閉じるのも何とも悔しい。意気込んでいた俳諧への思いとは裏腹に、ここに来て白けさせてしまった。
* * *
高野山
父母をいつまでも恋しがるのか雉の声
散る花に髻が恥ずかしい奥の院 万菊
和歌
行く春に和歌の浦で追いついたぞ
紀三井寺
* * *
かかとが破れて西行みたいで天竜の渡しを思い、馬に乗る時には粋がった証空上人のことが心に浮かぶ。山や海辺の美景に自然の偉大さを見、ある時は世を捨てた僧の足跡を慕い、風情に人の誠を探求する。
さらに家を捨てれば物への執着もない。手ぶらならば盗難の心配もない。歩くことで駕籠に替えれば夕飯は肉よりも旨い。どこに行くかも決まってなく、朝の出発の時間もない。ただ一日の願いは二つだけ。今夜はいい宿に泊まりたい、足にフィットする草鞋が欲しい、それだけ少しばかり思うことだ。
その時々気分を変え、毎日新たな気持ちでいる。もし一人でも風雅ある人に出会えたなら、喜びは限りない。普段なら古臭くて頑固だと嫌って避けるような人も、長旅の道づれに語り合い、赤土や雑草の中で出会ったりすれば、瓦礫の中に玉を拾い、泥の中に金を見つけた気持ちになり、物にも書き付け、人にも語ろうと思うのが、またこれ旅のひとつであろう。
衣更え
一つ脱いで後ろに背負う衣更え
吉野出たらこの布売りたい衣更え
* * *
灌仏会の日は奈良のあちこちの寺に詣でた時、鹿の子を産むのを見て、この日にというのが面白かったので、
灌仏の日にちょうど生まれた鹿の子だね
唐招提寺に鑑真和尚が来た時、航海中七十回余りの難をしのいて、目の中に潮風が沁み込んて、ついに目が見えなくなったという尊像を拝んで、
若葉でもって目の雫をぬぐいたい
旧友と奈良で別れる
鹿の角まず一枝が別れてゆく
大阪である人のもとにて
杜若語るも旅の一つだな
* * *
須磨
月はあるが留守のようだな須磨の秋
月見ても物足りないな須磨の夏
四月中頃の空はまだ朧で、儚い短夜の月はますます煌々として、山は若葉に黒ずんで見えて、ホトトギスも鳴き出す夜明け前の空も海の方から白みはじめて、上野と思われる所は麦の穂波がさらに赤らんで、海人の軒近くの芥子の花が少しづつ見渡せるようになる。
海人の顔がまず見えてくる芥子の花
東須磨・西須磨・浜須磨と三区域に分かれてても、特に何かをしているとも思えない。「藻塩垂れつつ」と歌にも詠まれているが、今はそのような製法は見られない。キスゴという魚を網で獲り、砂浜の上に干し散らしているのを、カラスが飛んできて持って行く。これを防ごうと弓でもって脅すのは海人の技術とも思えない。さては古戦場の名残りを留めてこんなことをしてるのか、ますます罪ぶかく、それでも昔への興味のままに鉄拐の峰に登ることにする。
ガイドの少年が不満そうで、あれこれ言ってごまかすのをなだめすかして、「麓の茶店で何か食わせろ」など言うので、困り果てるのであった。彼は十六と言われてた鷲尾三郎よりは四つも年下だったが、千メートルもの登り坂を先導し、曲がりくねった険しい岩場を這い登れば、滑り落ちることが何度かあったものの、ツツジ、根笹に掴まり息を切らし汗だくになり、ようやく山頂に出て、頼りない導師だが仕事は果たした。
須磨の海人の矢先に鳴くかホトトギス
ホトトギス消えゆく方には島一つ
須磨寺に吹かぬ笛聞く木下闇
* * *
明石夜泊
蛸壺に儚い夢を見たか夏の月
「(この上なく悲しいのは)かかる所の秋なりけり」とか言う。この浦の真価は秋にあるというべきだ。悲しさ、淋しさは言いようもなく、秋であれば多少の心に留まることも言葉になったものをと思うのも、自分の力量の未熟を分かってないようなものだ。
淡路島が手に取るように見えて、須磨、明石の海左右に分かれる。呉楚東南坼の詩句もこういう場所だろうか。博識の人が見たなら、様々な故事に思いなぞらえることだろう。
また、後ろの方に山を隔てた田井の畑というところが、松風、村雨の故郷だという。尾根伝いに丹波路へつながる道がある。鉢伏山を覗き、逆落しなど恐ろしい名前ばかり残っていて、鐘懸け松から見下ろすと、一の谷内裏屋敷が眼下に見える。
あの時代の乱れ、あの時代の騒ぎ、さながら心に浮び、人々の面影が集まってきて、二位の尼君は皇子を抱きになって、女院は裳裾が足に絡まり、船や館に慌てて入って行く有様、内侍、局、女嬬、曹子のたぐい、様々な調度を持ち出し、琵琶、琴などを褥、布団にくるんで船中に投げ入れ、食物はこぼれて魚たちの餌になり、化粧箱はばらけて海人も顧みない物となりながら、千年の悲しみがこの浦に残され、白波の音にさえ愁いに満たされている。