「梅の風」の巻、解説

延宝四年春、奉納貳百韻うちの第二百韻

初表

 梅の風俳諧国にさかむなり     信章

   こちとうづれも此時の春    桃青

 さやりんず霞のきぬの袖はえて   桃青

   けんやくしらぬ心のどけき   信章

 してここに中比公方おはします   信章

   かた地の雲のはげてさびしき  桃青

 海見えて筆のしづくに月すこし   桃青

   趣向うかべる船のあさ霧    信章

 

初裏

 いかに漁翁心得たるか秋の風    桃青

   実土用なりあまの羽衣     信章

 うつせみも吉野の山に琴ひきて   桃青

   青嵐ふくひとよぎりふく    信章

 松杉の木の間の庵京ばなれ     桃青

   糞擔籠きよし村雨の空     信章

 夕陽に牛ひき帰る遠の雲      桃青

   老子のすがた山の端がくれ   信章

 寓言の昔の落葉かきすてて     桃青

   桐壺はは木木しめぢ初茸    信章

 鍋の露夕の煙すみやかに      桃青

   釘五六舛こけらもる月     信章

 ふる里のふるかねの声花散て    桃青

   志賀山の春ふいごふく風    桃青

 

 

二表

 さざ浪や二蔵が袖にさえかへり   信章

   あかがりあらふ芦原のすゑ   桃青

 ある説に淡のかたまる石一ッ    信章

   玉子の前やうちくだく覧    桃青

 伝聞唐のやうかんかすていら    信章

   上碧洛より下は杉折      桃青

 付とどけ縦千尋のそこまでも    信章

   親類分はのがれがたしや    桃青

 世の中よ大名あれば町人あり    信章

   柳は緑かけは取がち      桃青

 古帳に横点を引朝霞        信章

   火鉢をはりし氷ながるる    桃青

 かねのあみかかれとてしも浪の月  信章

   河童子のいけどり秋をかなしむ 信章

 

二裏

 うそばなし聞ばそなたは荻の声   桃青

   地ごくのゆふべさうもあらふか 信章

 飛蛍水はかへつてもえあがり    桃青

   熊手鳶口瀬田の長はし     信章

 釣瓶取龍宮までもさがすらん    桃青

   亀はたちまち下女にあらはれ  信章

 老鶴の隠居さまへの御使に     桃青

   白むくそへて粟五十石     信章

 田舎寺跡とぶらひてたび給へ    桃青

   ぬるい若衆も夢の秋風     信章

 床は海朝鮮人のねやの月      桃青

   虎の毛ごろも別行露      桃青

 くろがねの築地の崩花ふんで    信章

   草もえあがる秦の虫くそ    桃青

 

 

三表

 あさ霞徐福が似せのうり薬     信章

   まづ壺一ッ乾坤の外      桃青

 瀬戸の土崑輪際をほりぬきて    信章

   弁才天に鯰ささぐる      桃青

 かまぼこの塩ならぬ海このところ  信章

   その夜の富士に足打の山    桃青

 かんな屑たいまつはつとふりたてて 信章

   見よ見よ成仏はきだめの虫   桃青

 鶏の御斎を申今朝の月       信章

   龍田の紅葉豆腐四五丁     桃青

 村時雨衆道ぐるひの二道に     信章

   人死の恋風さはぐなり     桃青

 大火事を袖行水にふせぎかね    信章

   漸こゆる土手の松山      信章

 

三裏

 日本橋ちんば馬にて踏ならし    桃青

   方々見せうぞ佐野の源介    信章

 かいつかみはねうち拂ふ雪の暮   桃青

   鷺はかへつて鳶となりけり   信章

 浪に声芦のものいふよの中に     桃青

   何とて松はすねて見ゆらん   信章

 薄柿とも茶ともわかれぬ峯の雲   桃青

   浅間の土を焼帰しして     信章

 物語伊勢白粉とよまれたり     桃青

   平家の秋に痤あれ行      信章

 かみそりも内侍所も水の月     桃青

   のうれんかけしとこやみの霧  信章

 衣屋もすでに弥勒の花待て     桃青

   かねの御嶽を両替の春     桃青

 

名残表

 岩橋やりんとかけたる一かすみ   信章

   天につらぬく虹のつつぱり   桃青

 その四隅多門は手木をよこたへて  信章

   日傭の札に悪魔おさむる    桃青

 独過都鄙安全になすべしと     信章

   慈悲はかみよりさがる米の直  桃青

 人として思はざらんや親の五器   信章

   願によつて雪の竹箸      桃青

 いきの松ひねり艾葉の百までも   信章

   気根の色を小謡に見す     桃青

 朝より庭訓今川童子教       信章

   さてこなたには二条喜右衛門  桃青

 宿の月城を弓手にひちまがり    信章

   後陣はいまだ横町の露     桃青

 

名残裏

 上々新蕎麦面もふらず切て出    信章

   大根の情たちかくれけり    桃青

 終夜此本草を読誦する       信章

   南無いき薬師来迎の時     桃青

 紫の蛸は雲路にはい出て      信章

   とがり矢二筋まなばしの先   桃青

 軍は花追手勝手をもみ合      信章

   その勢何百きさらぎの巻    桃青

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 梅の風俳諧国にさかむなり    信章

 

 梅の風は宗因が梅翁と呼ばれていることから、宗因の談林の新風が吹き荒れて、日本中俳諧の花が咲こうとしている、とする。「咲かむ」は「盛ん」にも通じる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『老松』が引用され、謡曲の言葉を使っていることが示されている。『老松』は菅原道真の飛び梅伝説を題材とした能で、その一節に、

 

 「唐の帝の御時は、国に文学盛んなれば花の色を増し匂ひ常より勝りたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12174-12176). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 俳諧の言葉は貞門の時代は雅語に俗語を一句に一語交えるもので、雅語が基本になっていたが、より江戸上方の都市部を中心とした口語に近づけようと、謡曲の言葉が使われるようになった。

 標準語というのは近代国家が誕生し、標準語を制定し学校教育を通じて広められたもので、それ以前はそれぞれその地域の言葉というのがあった。明治の頃でも田舎から出てきた人は東京の言葉がわからず、謡曲の言葉で会話したなんて話もある。

 貞門から蕉門の軽みの風に至るまでというのは、俳諧が独自の共通言語になるための戦いでもあった。それはより口語に近い江戸時代の標準語を作る戦いでもあった。このこと抜きに貞門から、談林、天和調、蕉風確立、猿蓑調、軽みといった変化は語れないといってもいい。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

 

   梅の風俳諧国にさかむなり

 こちとうづれも此時の春     桃青

 (梅の風俳諧国にさかむなりこちとうずれも此時の春)

 

 「こちとふ」は「こち等」で「こちとら」と同じ。「づれ」は「連れ」。桃青(芭蕉)とその連れの信章(素堂)もこの時とばかりに春を楽しんでる。

 

季語は「春」で春。

 

第三

 

   こちとうづれも此時の春

 さやりんず霞のきぬの袖はえて  桃青

 (さやりんず霞のきぬの袖はえてこちとうづれも此時の春)

 

 「さやりんず」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紗綾綸子とある。紗綾形綸子(さやがたりんず)のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の紗綾形綸子の言及」に、

 

 「…日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。今日でも,染織品の地模様としてひろく用いられている。…」

 

とある。「紗綾形」は同じくコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「卍(まんじ)つなぎの一種で,卍をななめにつらねた連続模様。紗綾(さや)は4枚綾からなる地合の薄い絹織物。その地紋に用いられたのでこの名があるという。この系統の模様は名物裂(めいぶつぎれ)に多くみられ,おそらく明時代の中国から伝わったものであろう。日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。」

 

とある。

 紗綾形綸子の絹を着て二人ともこの世の春を謳歌している。

 霞の袖といえば佐保姫の霞の衣の袖で、

 

 佐保姫の霞の袖の花の香も

     名残はつきぬ春の暮かな

              藤原良経(秋篠月清集)

 

などの多くの和歌に詠まれている。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

四句目

 

   さやりんず霞のきぬの袖はえて

 けんやくしらぬ心のどけき    信章

 (さやりんず霞のきぬの袖はえてけんやくしらぬ心のどけき)

 

 江戸時代はたびたび倹約令が出て、武士以外は絹は禁止で紬(つむぎ)までだった。そういう意味では「さやりんず」は挑発的な言葉だが、本当に着てたかどうかは知らない。

 まあとにかく、紗綾形綸子を着て倹約令なんて知っちゃこたねえ、と突っ張って見せる。

 「心のどけき」は、

 

 はるは猶我にてしりぬ花さかり

     心のとけき人はあらしな

              壬生忠峯(拾遺集、和漢朗詠集)

 

などの歌がある。

 

季語は「のどけき」で春。

 

五句目

 

   けんやくしらぬ心のどけき

 してここに中比公方おはします  信章

 (してここに中比公方おはしますけんやくしらぬ心のどけき)

 

 公方様、つまり将軍様なら倹約令は関係ない。さぞのどかだろうなと皮肉る。ただ、今の公方様と思われてはいけないから、一応「中比(なかごろ)」とことわっておく。weblio辞書の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「昔と今との中間。あまり遠くない昔。

  出典方丈記 

  「これをなかごろの栖(すみか)に並ぶれば」

  [訳] この住まいをちょっと前の住まいに比べると。」

 

とある。

 この言い回しも『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『安宅松』の、

 

 「ここに中頃・帝おはします。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.63977-63978). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を用いている。

 

無季。「公方」は人倫。

 

六句目

 

   してここに中比公方おはします

 かた地の雲のはげてさびしき   桃青

 (してここに中比公方おはしますかた地の雲のはげてさびしき)

 

 「かた地の雲」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「地の堅い塗物の雲形模様」とある。堅地(かたじ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 漆塗りなどで、下地を堅く、しっかり塗ること。また、そのもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※仮名草子・ぬれぼとけ(1671)下「新町もののわん・おしき、かた地と見へてのり地なり」

  ② 堅く布目のつんでいる織物の地質。

  ※小学読本(1874)〈榊原・那珂・稲垣〉二「錦にも金糸を用ゐれども、其他を堅地(カタチ)と称して、織法を異にす」

  ③ 堅い地面。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)四「諸はだぬぎて鍬を取堅地(カタヂ)に気をつくし、身汗水なしてやうやう堀ける」

  ④ 性質が物堅いこと。きまじめであること。

  ※浄瑠璃・卯月の紅葉(1706頃)上「かたぢの父の親の手を、水離れせぬお亀とは」

 

とある。

 雲形模様は、雲形肘木(くもがたひじき)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 肘木の下端(したば)が雲形など複雑な曲線になったもの。現在では法隆寺系建築に用いられたものを雲肘木といい、他は花肘木という。雲形肘木。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

 

とある。

 昔は公方様のいたところも今は漆が剥げてさびしい。「雲」は「雲居(皇居)」や「雲上人」を連想させる。

 

無季。「雲」は聳物。

 

七句目

 

   かた地の雲のはげてさびしき

 海見えて筆のしづくに月すこし  桃青

 (海見えて筆のしづくに月すこしかた地の雲のはげてさびしき)

 

 硯の水を入れる所を「海」という。それに対し、平らなところを陸(おか)、間を波止(はと)という。

 漆塗りの剥げたものに筆で住みを入れて応急措置をしているのだろう。前句の雲を受けて、そこに月のように墨を垂らす。月が出たところで、風景にも取れるように硯の「海」を付ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「海」は水辺。

 

八句目

 

   海見えて筆のしづくに月すこし

 趣向うかべる船のあさ霧     信章

 (海見えて筆のしづくに月すこし趣向うかべる船のあさ霧)

 

 前句の筆で絵を描く様に、海から「船のあさ霧」の絵を描くとする。朝霧なので月はかすかにしか見えないから「月すこし」となる。

 朝霧に船といえば、人麿の歌とも言われている、

 

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に

     島かくれゆく舟をしぞ思ふ

               よみ人しらず(古今集)

 

の歌の趣向になる。

 

季語は「霧」で秋、聳物。「船」は水辺。

初裏

九句目

 

   趣向うかべる船のあさ霧

 いかに漁翁心得たるか秋の風   桃青

 (いかに漁翁心得たるか秋の風趣向うかべる船のあさ霧)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『白楽天』の、

 

 「いかに漁翁、さてこの頃日本には何事を翫ぶぞ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12790-12792). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とそのあと少し離れた所にある、

 

 「いでさらば目前の景色を詩に作つて聞かせう。青苔衣をおびて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を囲る。 心得たるか漁翁。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12810-12815). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 白楽天が漁翁に向かってこういうふうに目の前のもので詩を詠むんだ心得たか、と問い、明け方の松浦で「青苔衣をおびて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を囲る」の趣向をうかべる。「秋の風」は放り込み。

 

季語は「秋の風」で秋。「漁翁」は水辺、人倫。

 

十句目

 

   いかに漁翁心得たるか秋の風

 実土用なりあまの羽衣      信章

 (いかに漁翁心得たるか秋の風実土用なりあまの羽衣)

 

 「実」は「げに」と読む。これは謡曲『羽衣』になる。漁夫が三保の松原で、

 

 「これなる松に美しき衣懸かれり。寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。いかさま取りて帰り古き人にも 見せ、家の宝となさばやと存じ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30723-30726). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

と松の木にかかった天野羽衣を持ち帰ろうとする。

 物語とは違って、ここではこの漁夫、どうしてここに天の羽衣があるのかと考えて、そうか土用干しで干してあったんだと合点する。

 

季語は「土用」で夏。「天の羽衣」は衣裳。

 

十一句目

 

   実土用なりあまの羽衣

 うつせみも吉野の山に琴ひきて  桃青

 (うつせみも吉野の山に琴ひきて実土用なりあまの羽衣) 天つ乙女

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『国栖(くず)』の、

 

 「呂律の調べ琴の音に、嶺の松風通ひ来る天つ乙女の返す袖、五節の始めこれなれや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.79225-79228). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。羽衣ではないが前句を「天つ乙女の返す袖」として、吉野で琴を弾き、舞わせる。「土用」に「うつせみ」を付ける。

 うつせみの羽衣は、

 

 たがためと脱ぎて貸すらむうつせみの

     鳴く木のもとのおのが羽衣

              九条基家(夫木抄)

 

の用例がある。

 

季語は「うつせみ」で秋。「吉野の山」は名所、山類。

 

十二句目

 

   うつせみも吉野の山に琴ひきて

 青嵐ふくひとよぎりふく     信章

 (うつせみも吉野の山に琴ひきて青嵐ふくひとよぎりふく)

 

 「青嵐」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「青嵐(せいらん)」を訓読した語) 初夏の青葉を吹き渡る風。《季・夏》

  ※梵燈庵主袖下集(1384か)「青嵐、六月に吹嵐を申也。発句によし」

  〘名〙 青々とした山気。また、新緑の頃、青葉の上を吹きわたる風。薫風。あおあらし。

  ※和漢朗詠(1018頃)下「夜極浦の波に宿すれば、青嵐吹いて皓月冷(すさま)じ〈慶滋為政〉」

  ※平家(13C前)三「青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり」 〔呂温‐裴氏海昏集序〕」

 

とある。

 一節切(ひとよぎり)はウィキペディアに、

 

 「一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。

 尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの手孔がある。音域は尺八よりも狭く、約1オクターヴ半ほどである。」

 

とある。「吉野山」は一節切の曲の名前になっていて、吉野の山で琴を弾いて、空蝉の季節だから吉野に青嵐も吹いて、我もまた一節切を吹く、とする。

 

季語は「青嵐」で夏。

 

十三句目

 

   青嵐ふくひとよぎりふく

 松杉の木の間の庵京ばなれ    桃青

 (松杉の木の間の庵京ばなれ青嵐ふくひとよぎりふく)

 

 京都の町中を離れ松杉の山の中の庵に住んで、青嵐吹く中で一節切を吹く。

 趣向としては、

 

 人はこて峰の松杉立ちならひ

     杣山嵐宮木ひくこゑ

              正徹(草根集)

 住みわひぬ松のかきほの杉の門

     雲しく閨をはらふあらしに

              正徹(草根集)

 

にも近い。

 

無季。「松杉」は植物、木類。「庵」は居所。

 

十四句目

 

   松杉の木の間の庵京ばなれ

 糞擔籠きよし村雨の空      信章

 (松杉の木の間の庵京ばなれ糞擔籠きよし村雨の空)

 

 糞擔籠は「肥たご」。田舎の庵に引き籠ると、そこらに肥溜めががあって農夫の担ぐ肥たごの匂いがする。村雨が降るとその肥たごもきれいになり、さわやかな空気になる。

 これもまた、

 

 山もとの紅葉の木のまもる月の

     光をそむる秋のむら雨

              正徹(草根集)

 

の室町時代に完成された風流の趣向を、「糞擔籠」で卑俗に落としている感じがする。

 風流の言葉を形だけ引用して俗な世界を描こうとした談林に対して、中世後期の和歌・連歌から貞門俳諧の風雅の心を引き継ぎならが、詞や題材を俗にするというあたりは、蕉門の独自な流れの萌芽を感じさせる。

 談林に感化されながらも、貞門の特に季吟から学んだものを引き継ごうという姿勢が感じられる。

 

無季。「村雨」は降物。

 

十五句目

 

   糞擔籠きよし村雨の空

 夕陽に牛ひき帰る遠の雲     桃青

 (夕陽に牛ひき帰る遠の雲糞擔籠きよし村雨の空)

 

 肥を撒き終わった百姓さんの肥たごも村雨にきれいになり、牛を引いて帰る頃には雨も上がって雲も遠のき、夕陽が射す。

 村雨に夕暮れは、

 

 村雨の露もまだひぬ真木の葉に

     霧立のぼる秋の夕暮

              寂蓮法師(新古今集)

 

の歌が百人一首でもよく知られているが、そこに糞擔籠に牛引きという農村風景に置き換え、卑俗な農村風景を高雅な世界に高めている。

 

無季。「夕陽(ゆうやう)」は天象。「牛」は獣類。「雲」は聳物。

 

十六句目

 

   夕陽に牛ひき帰る遠の雲

 老子のすがた山の端がくれ    信章

 (夕陽に牛ひき帰る遠の雲老子のすがた山の端がくれ)

 

 老子騎牛図は画題になっている。『史記』に描かれた老子が出典になっているという。

 コトバンクの「関尹子」の項の「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「中国上代の思想家。またはその著書の名。人物としての関尹子の名は、『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』や『荘子(そうし)』に静寂を尚(たっと)んだ人物としてみえるが、その経歴は明らかでない。ただ『史記』「老子伝」によると、関令(かんれい)尹喜(いんき)(関所役人の尹喜)なる人物がおり、老子は、彼の要請によりその書を著して授けたという。そして、この関令尹喜がすなわち関尹子であるとされることから、関尹子とは老子の一番弟子であり、『老子』を伝授された人物として伝えられるようになった。」

 

とある。この関が函谷関で、老子が牛に乗って函谷関を越えたという伝説が生じたという。

 

無季。「山の端」は山類。

 

十七句目

 

   老子のすがた山の端がくれ

 寓言の昔の落葉かきすてて    桃青

 (寓言の昔の落葉かきすてて老子のすがた山の端がくれ)

 

 老子は寓言を『道徳経』に記し、それを関尹子に与えて函谷関を越えていった。

 

季語は「落葉」で冬。

 

十八句目

 

   寓言の昔の落葉かきすてて

 桐壺はは木木しめぢ初茸     信章

 (寓言の昔の落葉かきすてて桐壺はは木木しめぢ初茸)

 

 『源氏物語』は季吟の『湖月抄』に、

 

 「或抄云、〔稱名院御説也〕、おほむね荘子。寓言を模して作物語也といへども一事として先蹤本説なき事をのせず。」

 

とある。称名院は三条西公条で『明星抄』を書き表している。

 寓言に「桐壺はは木」、落葉に「しめぢ初茸」が付く。落葉を掻き捨てると茸が顔を出す。

 

季語は「しめぢ初茸」で秋。

 

十九句目

 

   桐壺はは木木しめぢ初茸

 鍋の露夕の煙すみやかに     桃青

 (鍋の露夕の煙すみやかに桐壺はは木木しめぢ初茸)

 

 茸といえば鍋。

 鍋の汁だと季語が入らないので鍋の露とする、一種の放り込み。火を焚いて鍋を作るので夕べに煙が上がる。

 

季語は「露」で秋、降物。「煙」は聳物。

 

二十句目

 

   鍋の露夕の煙すみやかに

 釘五六舛こけらもる月      信章

 (鍋の露夕の煙すみやかに釘五六舛こけらもる月)

 

 前句の鍋の露を雨漏りの露を受ける鍋とした。雨漏りがして煙も漏れて、月の光までが漏れている杮葺(こけらぶき)屋根を、釘五六升使って修繕する。「杮葺」はウィキペディアに、

 

 「屋根葺手法の一つで、木の薄板を幾重にも重ねて施工する工法である。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。

 なお、「杮(こけら)」と「柿(かき)」とは非常に似ているが別字である。」

 

とある。

 杜甫の「茅屋為秋風所破歌」を思わせ、後の

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉

 

の元になったのかもしれない。芭蕉の発句は他人の付け句にヒントを得ている場合が時折見られる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十一句目

 

   釘五六舛こけらもる月

 ふる里のふるかねの声花散て   桃青

 (ふる里のふるかねの声花散て釘五六舛こけらもる月)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「古金」と「鐘」に掛けているとある。古里の古い金物を集めて鐘を鋳造して、その金の声に花は散る。

 屋根を直すための釘五六舛も取られてしまい、部屋の中に月の光が漏れる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 山寺の春の夕暮きて見れば

     入相のかねに花ぞ散りける

             能因法師(新古今集)

 

の歌を踏まえているとある。

 

季語は「花散て」で春、植物、木類。

 

二十二句目

 

   ふる里のふるかねの声花散て

 志賀山の春ふいごふく風     桃青

 (ふる里のふるかねの声花散て志賀山の春ふいごふく風)

 

 志賀山は近江の国の長等山で三井寺の後ろにある。花散るに志賀山は、

 

   志賀の山越えに女のおほくあへり

   けるによみてつかはしける

 梓弓春の山べを越えくれば

     道もさりあへず花ぞ散りける

             紀貫之(古今集)

 

の歌の縁がある。

 古金で鐘を鋳造するところから、たたらのふいご吹く風になる。

 

季語は「春」で春。「志賀山」は名所、山類。

二表

二十三句目

 

   志賀山の春ふいごふく風

 さざ浪や二蔵が袖にさえかへり  信章

 (さざ浪や二蔵が袖にさえかへり志賀山の春ふいごふく風)

 

 二蔵は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二蔵は鍛冶職人の通名」とある。春のふいごふく風に鍛冶屋の二蔵の袖がさえかえり、となる。

 「志賀」に「さざなみ」というと『平家物語』で平忠度の歌となっている、

 

 さざ波や志賀の都は荒れにしを

     昔ながらの山桜かな

             よみ人しらず(千載集)

 

の歌の縁となる。こうして縁語となる言葉による物付けをしながら、並行して当世風のネタを展開していくのが、この頃の芭蕉のやり方だった。「此梅に」の巻七十句目の所でも触れているので参照を。

 

季語は「さえかへり」で春。「さざ浪」は水辺。「袖」は衣裳。

 

二十四句目

 

   さざ浪や二蔵が袖にさえかへり

 あかがりあらふ芦原のすゑ    桃青

 (さざ浪や二蔵が袖にさえかへりあかがりあらふ芦原のすゑ)

 

 あかがりはあか切れのこと。前句のさざ浪であかがりを洗うとする。「さざ浪」だから、ここは琵琶湖で淡水だから、あかがりを洗うには問題はなさそうだ。

 

無季。「芦原」は水辺、植物、草類。

 

二十五句目

 

   あかがりあらふ芦原のすゑ

 ある説に淡のかたまる石一ッ   信章

 (ある説に淡のかたまる石一ッあかがりあらふ芦原のすゑ)

 

 『古事記』のイザナギイザナミの国生みの際に、最初に蛭子が生まれ、それを蘆に乗せて流した後、次に生んだのが淡島だった。そのあとようやく、淡路(あわじ)のホノサワケの島を生み、これが最初の蘆原中つ国の島になる。その注釈風に「ある説に淡のかたまる石一ッ」とする。

 前句の「芦原のすゑ」の注釈ということになる。

 

無季。

 

二十六句目

 

   ある説に淡のかたまる石一ッ

 玉子の前やうちくだく覧     桃青

 (ある説に淡のかたまる石一ッ玉子の前やうちくだく覧)

 

 前句の天地開闢ネタを受けて『日本書紀』の冒頭「古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。」の「渾沌如鶏子(まろかれとりのこの如く)」から生まれる中の玉子の中身を付ける。

 生まれる前の細胞分裂を続ける玉子のごちゃごちゃとしたよくわからない状態を渾沌(まれかれ)というもので、生まれる前の玉子を打ち砕いてしまったか、最初の国は「淡のかたまる石一ッ」となる。

 それと並行して「玉子の前」は玉藻の前の連想も誘い、玉藻の前を退治して殺生石ができるという二重の意味を持たせる。

 

無季。

 

二十七句目

 

   玉子の前やうちくだく覧

 伝聞唐のやうかんかすていら   信章

 (伝聞唐のやうかんかすていら玉子の前やうちくだく覧)

 

 前句を単に玉子を割って作る菓子としてカステイラを出すが、わざとボケて南蛮ではなく羊羹とともに中国から伝わったとする。

 

無季。

 

二十八句目

 

   伝聞唐のやうかんかすていら

 上碧洛より下は杉折       桃青

 (伝聞唐のやうかんかすていら上碧洛より下は杉折)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『楊貴妃』の、

 

 「せめてのことに魂魄の在所を尋ねて参れとの宣旨を蒙り、上碧落下黄泉まで尋ね奉れども、更に魂魄の在家を 知らず候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.25432-25438). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の一節を引いている。「碧落」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 青空。大空。転じて、遠い所。果て。

  ※性霊集‐二(835頃)沙門勝道上補陀洛山碑「嶺挿二銀漢一、白峯衝二碧落一」

  ※太平記(14C後)三七「方士則ち天に登り地に入て、上は碧落(ヘキラク)を極め、下は黄泉の底まで尋ね求むるに」 〔白居易‐長恨歌〕」

 

とある。ここでは天上界から黄泉の国も探したけど、という意味になる。

 前句の「唐」から謡曲『楊貴妃』の一節を付け、羊羹カステラにその容れ物の「杉折」を付ける。

 

無季。

 

二十九句目

 

   上碧洛より下は杉折

 付とどけ縦千尋のそこまでも   信章

 (付とどけ縦千尋のそこまでも上碧洛より下は杉折)

 

 前句の「杉折」から付(つけ)とどけということになる。まあ、賄賂のようなもので、杉折の中は天上の人だと山吹のあれが入ってたりするのだろう。

 「縦千尋(たとひちひろ)のそこまでも」は「上碧洛」に対する言葉だが、「千尋のそこ」は謡曲では海の底を表すのに用いられ、謡曲『海人』には、

 

 「たとひ千尋の底の海松藻なりとも、仰せならば、さこそあるべけれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.87183-87186). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

 謡曲『藤戸』には、

 

 「そのまま海に押し入れられて、千尋の底に、沈みしに」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.55663-55664). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

というふうに用いられている。

 

無季。

 

三十句目

 

   付とどけ縦千尋のそこまでも

 親類分はのがれがたしや     桃青

 (付とどけ縦千尋のそこまでも親類分はのがれがたしや)

 

 親類に配る付け届けは浮世の義理で逃れられない。

 親類は今では家族を除く親戚の意味だが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「① 血族および姻族の総称。血縁・婚姻などによって関係づけられる人々。みより。みうち。親戚。親族。類親。江戸幕府法上は甥従弟の続までは親類とされている。具体的にいえば、配偶者・直系血族・他家の養子とならない直系卑属の妻・三親等以内の傍系血族、および四親等の傍系血族のうちいとこだけであるが、このほか養子と養親およびその親類とか、嫡母と庶子、継父母と継子との間柄も親類とみなされた。親類は互いに服忌を受けた。

  ※将門記(940頃か)「何ぞ若干の財物を虜領せしめ、若干の親類を殺害せしめて、其の敵に媚ぶべけむや」

  ※浮世草子・好色盛衰記(1688)五「京に親類(シンルイ)とてもなく、此たび不首尾あっては」

  ② (特に「縁者」と区別して) 父方の血族。父系の一族。

  ※平治(1220頃か)上「去んぬる保元に、門葉の輩おほく朝敵と成りて、親類みな梟せられ」

  ※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)三「親類縁者たり共、他国者は城内へ堅く禁制との掟なり」

 

とある。

 

無季。「親類」は人倫。

 

三十一句目

 

   親類分はのがれがたしや

 世の中よ大名あれば町人あり   信章

 (世の中よ大名あれば町人あり親類分はのがれがたしや)

 

 世の中には大名もいれば町人もいるが、血筋は逃れ難い。

 

無季。「大名」「町人」は人倫。

 

三十二句目

 

   世の中よ大名あれば町人あり

 柳は緑かけは取がち       桃青

 (世の中よ大名あれば町人あり柳は緑かけは取がち)

 

 「柳は緑」は「柳緑花紅真面目」という禅語が元になっている。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『山姥』の、

 

 「仏あれば衆生あり・衆生あれば山姥もあり。柳は緑、花は紅の色色。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89910-89912). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。言葉の続きはここから取っていると思われる。

 「世の中よ大名あれば町人あり柳は緑」はここでは序詞のようなもので、緑から「かけは取がち」を導き出すわけだが、掛売は取り立てた者が勝ちということか。逆を言えば逃げられれば負けで、実は借りた方の立場の方が強い。貸し手はデフォルトが怖いからそれを利用しない手はない。これは大名でも町人でも、現代の債務国でも変わらない真理だ。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。

 

三十三句目

 

   柳は緑かけは取がち

 古帳に横点を引朝霞       信章

 (古帳に横点を引朝霞柳は緑かけは取がち)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「横点は勘定済・決済のしるしに線を引くこと」とある。

 取り立てが成功し、勝ったしるしに横点を引く。それが柳に朝霞のようだ。

 柳の霞は、

 

 霞より緑は春の色なれど

     景色ことなる玉柳かな

              藤原家隆(壬二集)

 

などの歌に詠まれている。

 

季語は「朝霞」で春、聳物。

 

三十四句目

 

   古帳に横点を引朝霞

 火鉢をはりし氷ながるる     桃青

 (火鉢をはりし氷ながるる古帳に横点を引朝霞)

 

 火鉢に張った氷も流れる。庭に置いて水を溜めるのに使ってたのだろうか。

 年が改まり古帳に横点を引いて春が来た。

 霞に氷は、

 

 谷川の氷もいまだきえあへぬに

     峯の霞はたなびきにけり

              藤原長能(後拾遺集)

 

の歌に詠まれている。

 

季語は「氷ながるる」で春。

 

三十五句目

 

   火鉢をはりし氷ながるる

 かねのあみかかれとてしも浪の月 信章

 (かねのあみかかれとてしも浪の月火鉢をはりし氷ながるる)

 

 浪に映った月は網で掬い取れない。猿が手を伸ばして水の月を取るようなもので、分不相応の高望みという寓意があるのだろう。氷の解けた火鉢の水に月が映る。

 浪の月は、

 

 あきの海にうつれる月を立ちかへり

     浪はあらへと色もかはらす

              清原深養父(後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「浪の月」で秋、夜分、天象、水辺。

 

三十六句目

 

   かねのあみかかれとてしも浪の月

 河童子のいけどり秋をかなしむ  信章

 (かねのあみかかれとてしも浪の月河童子のいけどり秋をかなしむ)

 

 河童を生け捕りにして一儲けとたくらむけど、悲しく秋は過ぎて行く。

 

季語は「秋」で秋。

二裏

三十七句目

 

   河童子のいけどり秋をかなしむ

 うそばなし聞ばそなたは荻の声  桃青

 (うそばなし聞ばそなたは荻の声河童子のいけどり秋をかなしむ)

 

 通うことも少なくなり、気持ちが冷めた男が、いろいろ言い訳してごまかしたのだろうか。そんなあなたの声は荻の声のように寒くて、まるで河童の生捕の話をしているみたいだ。

 荻の声は、

 

 荻風もやや吹きそむる声すなり

     あはれ秋こそふかくなるらし

              藤原長能(後拾遺集)

 荻の葉にかはりし風の秋の声

     やがて野分の露砕くなり

              藤原定家(玉葉集)

 

などの歌に詠まれている。「荻の声」という成語は正徹・肖柏の時代になる。

 

季語は「荻の声」で秋、植物、草類。恋。

 

三十八句目

 

   うそばなし聞ばそなたは荻の声

 地ごくのゆふべさうもあらふか  信章

 (うそばなし聞ばそなたは荻の声地ごくのゆふべさうもあらふか)

 

 地獄の夕べもさもあらん、だけの句だと何の変哲もない。「さうもあらふか」は草も洗ふかで、謡曲『草子洗』に結び付けたか。草紙を洗って嘘話を暴く。

 

無季。恋。

 

三十九句目

 

   地ごくのゆふべさうもあらふか

 飛蛍水はかへつてもえあがり   桃青

 (飛蛍水はかへつてもえあがり地ごくのゆふべさうもあらふか)

 

 夕べと蛍は白楽天『長恨歌』の「夕殿蛍飛思悄然」の縁。

 蛍の光を燃え上がる炎に称えるのは、和歌に見られるもので、

 

 さつきやみ鵜川にともす篝火の

     數ますものは蛍なりけり

             よみ人しらず(詞花集)

 蘆の屋のひまほのぼのとしらむまで

     燃えあかしてもゆくほたるかな

             源俊頼(千載集)

 

のように、川の篝火にも喩えられる。

 蛍は水辺にすむところから、普通の火なら水で消えるのに蛍の火は水で燃え上がるとする。水が燃え上がれば地獄のようだ。

 言葉の表には現さないが、蛍には燃え上がる恋の炎を象徴するもので、地獄は愛欲の地獄になる。

 

季語は「蛍」で夏、虫類、夜分。恋。

 

四十句目

 

   飛蛍水はかへつてもえあがり

 熊手鳶口瀬田の長はし      信章

 (飛蛍水はかへつてもえあがり熊手鳶口瀬田の長はし)

 

 江戸の火消しは類焼を防ぐために家を壊すのが主だった。木造家屋の密集する中で、有効な消火手段がなかったためだ。燃えてもいないのに家を壊されるのはたまらないが、感染症対策に喩えればよくわかる。感染症の予防や治療に有効な手段がないなら、人の動きを止めて感染そのものを防ぐしかない。二〇二〇年、世界中の人々がこの方法でコロナを防いでいた。

 熊手鳶口は建物を壊すための道具で、蛍の火が燃えているのを瀬田の橋が燃えていると思ったのか、火消しが駆けつけるってまさかね。

 瀬田の長橋は、

 

 槇の板も苔むすばかりなりにけり

     幾世經ぬらむ瀬田の長橋

              大江匡房(新古今集)

 

など、歌に詠まれている。

 

無季。「瀬田の長はし」は名所、水辺。

 

四十一句目

 

   熊手鳶口瀬田の長はし

 釣瓶取龍宮までもさがすらん   桃青

 (釣瓶取龍宮までもさがすらん熊手鳶口瀬田の長はし)

 

 時代劇などでよく見る滑車型の釣瓶は落ちても紐がついているが、竿の先に釣瓶を付けタイプのものは、水の重さで手が滑って落とすこともよくあったのだろう。

 釣瓶竿は橋の上から水を取るのにもつかわれたのだろう。ただ、落としてしまうと湖の底を探さなくてはならない。そうやって竜宮城にまで行ってしまったりして。

 琵琶湖には竜が住むとされていた。御伽草子の『俵藤太物語』でも竜宮の大蛇が登場するし、三井寺の鐘の起源も竜が係わっている。

 

無季。

 

四十二句目

 

   釣瓶取龍宮までもさがすらん

 亀はたちまち下女にあらはれ   信章

 (釣瓶取龍宮までもさがすらん亀はたちまち下女にあらはれ)

 

 釣瓶なくした下女は実は亀で竜宮城に連れてってくれる、なんてないだろうな。

 

無季。「下女」は人倫。

 

四十三句目

 

   亀はたちまち下女にあらはれ

 老鶴の隠居さまへの御使に    桃青

 (老鶴の隠居さまへの御使に亀はたちまち下女にあらはれ)

 

 亀といえば鶴で、老いた鶴の御隠居様の所へ、お使いの亀は下女の姿になる。

 

無季。「鶴」は鳥類。

 

四十四句目

 

   老鶴の隠居さまへの御使に

 白むくそへて粟五十石      信章

 (老鶴の隠居さまへの御使に白むくそへて粟五十石)

 

 「白むく」は近代では結婚式の花嫁衣装だが、それ以前は結婚式や葬儀をはじめさまざまな儀式に用いられた。

 ここでは鶴の隠居だから白無垢の着物を贈る。五十石の所領も与えるが、鶴だけに米ではなく粟になる。

 「鶴の粟を拾う如し」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「きわめて少量ずつであることのたとえ。鶴の粟。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。

 

季語は「粟」で秋。

 

四十五句目

 

   白むくそへて粟五十石

 田舎寺跡とぶらひてたび給へ   桃青

 (田舎寺跡とぶらひてたび給へ白むくそへて粟五十石)

 

 謡曲『源氏供養』に、

 

 「わが跡弔ひてたび給へと」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.33825-33826). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

という用例がある。『実盛』の最後にも、

 

 「影も形もなき跡の、影も形も南無阿弥陀仏、弔ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18239-18242). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。他にも謡曲のエンディングによく用いられる。

 「たびたまふ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典に、

 

 「①お与えくださる。

  出典曾我物語 一

  「男子(なんし)にてましませば、わらはにたびたまへ」

  [訳] 男子でいらっしゃいましたならば、私にお与えください。

  ②〔動詞の連用形、または、それに「て」の付いた形に付いて〕…てくださる。▽補助動詞的に用いる。

  出典隅田川 謡曲

  「さりとては乗せてたびたまへ」

  [訳] どうか(舟に)乗せてください。◆「たまふ」は、ほとんど命令形「たまへ」が用いられる。

  なりたち 動詞「たぶ」の連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」

 

とある。田舎の寺に、後を弔ってくださいと白無垢に粟五十石を寄進する。

 

無季。無常。

 

四十六句目

 

   田舎寺跡とぶらひてたび給へ

 ぬるい若衆も夢の秋風      信章

 (田舎寺跡とぶらひてたび給へぬるい若衆も夢の秋風)

 

 田舎の寺でのんびりぬくぬくしてた若衆も、和尚さんが亡くなって秋の風が吹く。

 若衆はウィキペディアに、

 

 「若衆」はこの場合は「寺小姓」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 寺にあって、住持の雑用をつとめた少年。男色の対象とされることが多く、女が扮(ふん)することもあった。寺若衆。ちご。

  ※浮世草子・好色一代男(1682)三「竹一村の奥にちらりとお寺扈従(テラコシャウ)のみえける」

 

とある。

 

季語は「秋風」で秋。恋。「若衆」は人倫。

 

四十七句目

 

   ぬるい若衆も夢の秋風

 床は海朝鮮人のねやの月     桃青

 (床は海朝鮮人のねやの月ぬるい若衆も夢の秋風)

 

 「朝鮮」は「てうせん」と読む。当時の日本人も今よりは感情表現が豊かだったと思うが、朝鮮びとはもっと感情をはっきり表すと思われていたのだろう。若衆との後朝に床が海になるほど涙を流す。아이고!

 閨の月は、

 

 恋ひわぶる涙や空に曇るらむ

     光も変る閨の月影

              西園寺公経(新古今集)

 

などの和歌に詠まれている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「朝鮮人」は人倫。

 

四十八句目

 

   床は海朝鮮人のねやの月

 虎の毛ごろも別行露       桃青

 (床は海朝鮮人のねやの月虎の毛ごろも別行露)

 

 ソウルオリンピックでも虎のホドリ君がマスコットになったように、虎は朝鮮(ちょそん)のシンボルだが、虎の毛皮を着ていたというのは、単にそういうイメージだというだけだろう。

 信章の順番だが、ここで桃青が続けて付けることで次の花の定座を信章に譲る。

 閨の月に露は、

 

 なれなれて秋に扇をおく露の

     色もうらめし閨の月影

              俊成女(新勅撰集)

 

の歌の縁がある。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「虎の毛ごろも」は衣裳。

 

四十九句目

 

   虎の毛ごろも別行露

 くろがねの築地の崩花ふんで   信章

 (くろがねの築地の崩花ふんで虎の毛ごろも別行露)

 

 「くろがね」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「鬼の住居の常套語」とある。ただ、日本の鬼がいつから虎のパンツをはくようになったのかは定かでない。

 謡曲『咸陽宮』には咸陽宮の描写で、

 

 「内裏は地より三里高く、雲を凌ぎて築きあげて、鉄の築地方四十里。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.70579-70583). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。虎は日本にはいないので、虎は韓国だけでなく中国のイメージもあったのではないかと思う。

 「築地の崩れ」は『伊勢物語』第五段に、

 

 「昔、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。」

 

とある。

 

 猫の妻竃の崩れより通ひけり   桃青

 

はこの翌年延宝五年の発句になる。

 謡曲『咸陽宮』の華やかなイメージではなく、前句の虎の毛ごろもの別れから、「築地の崩れ」の中国版のようなものを意識しての付けであろう。

 「花ふんで」はここでは正花なので散った花びらを踏んでということになる。

 

季語は「はな」で春、植物、木類。「筑地」は居所。

 

五十句目

 

   くろがねの築地の崩花ふんで

 草もえあがる秦の虫くそ     桃青

 (くろがねの築地の崩花ふんで草もえあがる秦の虫くそ)

 

 咸陽宮は秦の始皇帝の宮殿。築地の崩は既に荒れ果てている様で、杜甫の「城春草木深」で「草もえあがる」であろう。

 「秦(しん)の虫くそ」はよくわからないが「秦」は「はた」とも読めるから両方を掛けて、「草もえあがる畑の虫くそ」ならわかりやすい。

 「草もえあがる」は、

 

 焼かずとも草はもえなむ春日野を

     ただ春の日にまかせたらなむ

              壬生忠見(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「草もえあがる」で春、植物、草類。「虫」は虫類。

三表

五十一句目

 

   草もえあがる秦の虫くそ

 あさ霞徐福が似せのうり薬    信章

 (あさ霞徐福が似せのうり薬草もえあがる秦の虫くそ)

 

 秦の徐福は不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行ったというが、その蓬莱山が実は日本だったという伝説もある。日本には徐福の求めた薬があるということで、これがそれだといって偽物を売るのは昔からあったのだろう。今でも徐福の名を語って霊芝というキノコが売られている。

 

季語は「あさ霞」で春、聳物。

 

五十二句目

 

   あさ霞徐福が似せのうり薬

 まづ壺一ッ乾坤の外       桃青

 (あさ霞徐福が似せのうり薬まづ壺一ッ乾坤の外)

 

 これが徐福の薬だと言って怪しげな壺を取り出す。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に『和漢朗詠集』の「壺中天地乾坤外」の句を引いている。壺中の天地はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(後漢の費長房が市の役人をしていたとき、店先に壺を掛けて商売をしていた薬売りの老人が売り終わると壺の中にはいったのを見、頼んで壺の中に入れてもらったところ、りっぱな建物があり、美酒、嘉肴(かこう)が並んでいたので共に飲んで出てきたという「後漢書‐方術伝下・費長房」の故事から) 俗世界とはかけ離れた別天地。酒を飲んで俗世間のことを忘れる楽しみ。仙境。壺中の仙。壺中の天。壺中。

  ※和漢朗詠(1018頃)下「壺中天地は乾坤(けんこん)の外 夢の裏(うち)の身名は旦暮の間〈元稹〉」

 

とある。

 

無季。

 

五十三句目

 

   まづ壺一ッ乾坤の外

 瀬戸の土崑輪際をほりぬきて   信章

 (瀬戸の土崑輪際をほりぬきてまづ壺一ッ乾坤の外)

 

 その壺は瀬戸物で瀬戸の土を掘って作ったわけだが、前句の「乾坤」を受けて、金輪際と崑崙山を掛けている。「金輪際」の本来の意味はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏教用語。金剛輪際ともいう。仏教の宇宙論では,大地の下の底辺部に,黄金でできた金輪あるいは金剛から成る金剛輪があって,その最下端,すなわち大地のはてを金輪際という。」

 

とある。今では「もう二度と」という意味で用いられている。

 

無季。釈教。

 

五十四句目

 

   瀬戸の土崑輪際をほりぬきて

 弁才天に鯰ささぐる       桃青

 (瀬戸の土崑輪際をほりぬきて弁才天に鯰ささぐる)

 

 「神使の館」という狛犬のサイトの鯰のところを見ると弁財天の鯰というのがあり、そこには、

 

 「琵琶湖ではまれに黄白色のナマズ(ほとんどはイワトコナマズのアルビノ)が捕れることがあるとのこと。

古くから、地元の漁師はこの鯰を「弁天ナマズ」と呼んで、琵琶湖に浮かぶ竹生島(宝厳寺)に祀られている弁財天のお使いであるとして、捕れるとすぐに放流してきたと伝わる。

 このように琵琶湖周辺では鯰(ナマズ)もまた、弁財天の神使とされている。」

 

とある。土の底をどこまでも掘っていったら、地底の底に鯰がいたので弁財天に捧げる。多分地震を起こす鯰だろう。

 

無季。神祇。「鯰」は水辺。

 

五十五句目

 

   弁才天に鯰ささぐる

 かまぼこの塩ならぬ海このところ 信章

 (かまぼこの塩ならぬ海このところ弁才天に鯰ささぐる)

 

 鯰は白身魚だからかまぼこの材料にはなるだろう。「塩ならぬ海」は淡水の海、琵琶湖のこと。『源氏物語』関屋巻に、

 

 わくらばに行き逢ふ道を頼みしも

     なほかひなしや潮ならぬ海

 

の歌がある。

 

無季。「海」は水辺。

 

五十六句目

 

   かまぼこの塩ならぬ海このところ

 その夜の富士に足打の山     桃青

 (かまぼこの塩ならぬ海このところその夜の富士に足打の山)

 

 琵琶湖を掘った土を運んで富士山を作ったという伝説が江戸時代に広まり、このことはネット上の吉田信さんの『富士山と琵琶湖についての言い伝えをめぐって』という論文に詳しく記されている。これによると、浅井了意の『東海道名所記』(一六六一年ごろ刊)に、

 

 「諺に、むかし、富士権現、近江の地をほりて、富士山さんをつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり、夜すでにあけゝれば、簣かたかたを。爰にすて給ふ。これ三上山なりといふ。さもこそあるらめいにしへ、孝霊天皇の御時に、此あふミの水うみ、一夜のうちに出きて、その夜に、富士山わき出たり。その時しも。三上山も出来にけり。一夜の内に山の出き。淵の出き、又ハ山のうつりて、余所にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也。故なきにハあらずと、申されし。」

 

とあるという。三上山は琵琶湖の近くにある山で近江富士と呼ばれている。

 富士山と琵琶湖が孝霊帝五年六月に同時にできたという伝説は十四世紀にはあったようだ。

 足打(あしうち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 足を打つこと、また、足の疲れをとるために、足をもみたたくこと。

  ※梁塵秘抄(1179頃)二「単身(ひとり)越路の旅に出でて、あしうちせしこそあはれなりしか」

  ② 器物に足を取り付けること。また、足付きの器。

 ※言経卿記‐文祿元年(1592)一二月一四日「兵部卿へかはこ一つ、足打一つ等預置了」

  ③ 「あしうちおしき(足打折敷)」の略。

  ※石山本願寺日記‐私心記・天文一八年(1549)正月一五日「朝粥、北殿御うへにて参候。粥足打也」

  ④ 足を使って打ち紐を組み上げること。

  ⑤ 水泳で、両足を交互にばたばたさせ、水面を打って推進力をつけること。ばた足。」

 

とある。

 足打折敷は足のついたお膳のことで、琵琶湖のかまぼこをその夜のうちに運んで足打折敷の上に富士山のよう積み上げる。

 夜の富士は、

 

 しるしなきけぶりを雲にまがへつつ

     夜を経て富士の山と燃えなむ

              紀貫之(新古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「夜」は夜分。「富士」は名所、山類。

 

五十七句目

 

   その夜の富士に足打の山

 かんな屑たいまつはつとふりたてて 信章

 (かんな屑たいまつはつとふりたててその夜の富士に足打の山)

 

 曾我兄弟の仇討の場面。『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、舞曲『夜討曾我』の兄弟の討入前対面する部分に、

 

 「たいまつはつとふりたてて、たがひにかほを見合はせて」

 

とあるという。『去来抄』の、

 

 兄弟のかほ見るやミや時鳥     去来

 

の句もここから取ったものだろう。ただわかりにくいということで、「先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ謂おほせず。其角が評も同前なりと、深川より評有あり」とある。

 「かんな屑」が唐突な感じもするが、「足打」に「② 器物に足を取り付けること。」という意味もあるから、その作業で出たかんな屑をを燃やして松明にして、足打ならぬ仇討をするということになる。

 

無季。「たいまつ」は夜分。

 

五十八句目

 

   かんな屑たいまつはつとふりたてて

 見よ見よ成仏はきだめの虫    桃青

 (かんな屑たいまつはつとふりたてて見よ見よ成仏はきだめの虫)

 

 「飛んで火にいる夏の虫」という諺もあるが、松明の火に虫が飛び込んできて成仏する。

 

季語は「虫」で秋、虫類。釈教。

 

五十九句目

 

   見よ見よ成仏はきだめの虫

 鶏の御斎を申今朝の月      信章

 (見よ見よ成仏はきだめの虫鶏の御斎を申今朝の月)

 

 「御斎(おとき)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」

 

とある。

 鶏が時を告げて斎(とき)を食べよという。虫が死んだからその供養って普通はしないが。

 和歌には有明の月は多く詠まれているが「朝の月」の用例はほとんどない。鎌倉時代の、

 

 入り残る雲間の月は明けはてて

     なほ光ある庭の朝露

              西園寺実兼(玉葉集)

 

くらいか。

 

季語は「朝の月」で秋、天象。釈教。「鶏」は鳥類。

 

六十句目

 

   鶏の御斎を申今朝の月

 龍田の紅葉豆腐四五丁      桃青

 (鶏の御斎を申今朝の月龍田の紅葉豆腐四五丁)

 

 「紅葉豆腐」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、和泉国(大阪府)堺の名物の豆腐。上にもみじの形をしるしたもの。のちに江戸でも売られた。〔堺鑑(1684)〕

  〘名〙

  ① 紅葉の葉の型をおした豆腐。

  ※俳諧・常盤屋の句合(1680)六番「桜にあらぬさくらごんにゃく、予たはぶれに曰、彼は紅葉豆腐に増れるといはんか」

  ② 豆腐料理の一つ。豆腐に刻んだ唐辛子や生薑(しょうが)をすり混ぜ、揚げたもの。〔豆腐百珍続編(1783)〕」

 

とある。時代的には①の方か。

 御斎に豆腐だが、それでは季語が入らないので「龍田の紅葉豆腐」とする。

 月に紅葉は、

 

 秋の月山辺さやかに照らせるは

     落つるもみぢの数を見よとか

              よみ人しらず(古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「紅葉」で秋、植物、木類。「龍田」は名所、山類、水辺。

 

六十一句目

 

   龍田の紅葉豆腐四五丁

 村時雨衆道ぐるひの二道に    信章

 (村時雨衆道ぐるひの二道に龍田の紅葉豆腐四五丁)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『井筒』の、

 

 地 「また河内の国高安の里に、知る人ありて、二道に、忍びて通ひ給ひしに、

 シテ「風ふけば沖つ白波竜田山」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.21954-21960). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引用している。謡曲の二道(ふたみち)は今でいう二股のことだが、句の方は両刀の意味なのか男二人に二股なのかよくわからない。

 紅葉豆腐で精進料理、僧という連想で衆道狂いを付ける。

 紅葉に時雨は、

 

 龍田川もみぢ葉ながる神奈備の

     三室の山に時雨降るらし

              よみ人しらず(古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「村時雨」で冬、降物。恋。

 

六十二句目

 

   村時雨衆道ぐるひの二道に

 人死の恋風さはぐなり      桃青

 (村時雨衆道ぐるひの二道に人死の恋風さはぐなり)

 

 「人死(ひとしに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」

 

とある。事故病気以外となると殺人か自殺かとなる。

 時雨にさはくは『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 わが恋は松を時雨の染めかねて

     真葛が原に風さわぐなり

              前大僧正慈円(新古今集)

 

の歌を引いている。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

六十三句目

 

   人死の恋風さはぐなり

 大火事を袖行水にふせぎかね   信章

 (大火事を袖行水にふせぎかね人死の恋風さはぐなり)

 

 「袖行水(そでゆくみず)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「袖を流れる水の意で、涙のこと。袖の水。

  ※新続古今(1439)恋三・一二二六「かたしきの袖ゆく水のうす氷思ひくだけていく夜ねぬらん〈丹波忠守〉」

 

とある。

 恋の炎が大火事のようになると袖を行く水くらいでは防ぎきれない。人が死ぬ。

 

無季。恋。

 

六十四句目

 

   大火事を袖行水にふせぎかね

 漸こゆる土手の松山       信章

 (大火事を袖行水にふせぎかね漸こゆる土手の松山)

 

 明暦の大火の後、焼け跡五か所に火除地(ひよけち)を作り、そこに火除土手も作られた。広重の『名所江戸百景』「筋違内八ツ小路」には火除地の脇に火除土手が描かれ、そこには松の木がある。

 大火事で逃げてやっとのことで火除土手の松山を越える。

 

無季。「松山」は植物、木類、山類。

三裏

 

六十五句目

 

   漸こゆる土手の松山

 日本橋ちんば馬にて踏ならし   桃青

 (日本橋ちんば馬にて踏ならし漸こゆる土手の松山)

 

 火除土手は神田川と日本橋川に沿って作られた。

 前句の「漸(やうやう)こゆる」を馬の足の障害のためだとする。

 

無季。「馬」は獣類。

 

六十六句目

 

   日本橋ちんば馬にて踏ならし

 方々見せうぞ佐野の源介     信章

 (日本橋ちんば馬にて踏ならし方々見せうぞ佐野の源介)

 

 謡曲『鉢木』にも登場する「いざ鎌倉」で有名な佐野源左衛門を、ここでは庶民っぽく「佐野の源介」と呼ぶ。上州佐野からはるばる出てきたのだから、江戸見物でもしていけと案内する。佐野源左衛門の馬は痩せた馬ではあったが。

 

無季。

 

六十七句目

 

   方々見せうぞ佐野の源介

 かいつかみはねうち拂ふ雪の暮  桃青

 (かいつかみはねうち拂ふ雪の暮方々見せうぞ佐野の源介)

 

 これが佐野は佐野でも熊野の佐野で、

 

 駒とめて袖打ち払ふ陰もなし

     佐野のわたりの雪の夕暮れ

              藤原定家(新古今集)

 

の歌を本歌とする。今の和歌山県新宮市の紀伊佐野のあたりにあったという。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、「天狗が人を掴んで飛び去って遠国を見せるということがある。」とある。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

六十八句目

 

   かいつかみはねうち拂ふ雪の暮

 鷺はかへつて鳶となりけり    信章

 (かいつかみはねうち拂ふ雪の暮鷺はかへつて鳶となりけり)

 

 雪を打ち払ったら白鷺だと思ってた鳥が鳶だった。

 

無季。「鷺」「鳶」は鳥類。

 

六十九句目

 

   鷺はかへつて鳶となりけり

 浪に声芦のものいふよの中に   桃青

 (浪に声芦のものいふよの中に鷺はかへつて鳶となりけり)

 

 浪の音のする難波の芦に今は鷺もいず、御足(おあし)の物いう今の世の中では鳶職ならたくさんいる。

 

無季。「浪」は水辺。「芦」は植物、草類。

 

七十句目

 

   浪に声芦のものいふよの中に

 何とて松はすねて見ゆらん    信章

 (浪に声芦のものいふよの中に何とて松はすねて見ゆらん)

 

 難波の芦といえば住吉(すみのえ)の松だが、謡曲『高砂』では遠く離れた明石の高砂の松と夫婦で、謡曲では船で住吉に「高砂や、この浦船に帆を上げて」逢いに来る。

 住吉の姫松は待たされる側だから、なかなか来ないので拗ねていてもおかしくはない。

 

 ひさしくもなりにけるかなすみのえの

     松はくるしき物にそありける

              よみ人しらず(古今集)

 我見てもひさしく成りぬ住の江の

     岸の姫松いくよへぬらむ

              よみ人しらず(古今集)

 

などの歌に詠まれいている。久しぶりに会えても「何でこないのよ」と拗ねて見せる松も面白いかもしれない。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

七十一句目

 

   何とて松はすねて見ゆらん

 薄柿とも茶ともわかれぬ峯の雲  桃青

 (薄柿とも茶ともわかれぬ峯の雲何とて松はすねて見ゆらん)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「前句『すねて』を『すね色』(淡い色)としてつく。」とある。

 薄柿も茶も雲の色とは思えないので赤松の幹の色のことだろう。峯の松に雲がかかって霞むとそういう淡い色になる。

 

 紫の雲路に誘ふ琴の音に

     憂き世をはらふ峰の松風

              寂蓮法師(新古今集)

 

なら釈迦来迎だが。

 

無季。「峯」は山類。「雲」は聳物。

 

七十二句目

 

   薄柿とも茶ともわかれぬ峯の雲

 浅間の土を焼帰しして      信章

 (薄柿とも茶ともわかれぬ峯の雲浅間の土を焼帰しして)

 

 浅間山の火山の火で土が何度も焼き返されて、その煙で峰の雲も薄柿とも茶ともわかぬ色になる。

 浅間の雲は『古今集』の俳諧歌に、

 

 雲晴れぬ淺間の山のあさましや

     人の心を見てこそやまめ

              平中興(古今集)

 

無季。「浅間」は名所、山類。

 

七十三句目

 

   浅間の土を焼帰しして

 物語伊勢白粉とよまれたり    桃青

 (物語伊勢白粉とよまれたり浅間の土を焼帰しして)

 

 「伊勢白粉(いせおしろい)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「伊勢国射和(いざわ)村(三重県松阪市射和町)特産の白粉。水銀と赤土を主原料とする。昔は射和の軽粉(けいふん)または「はらや」の名で知られた。櫛田(くしだ)川上流の丹生(にう)(多気(たき)郡多気町丹生)の丘陵地帯から産出する水銀と、射和の朱中山(しゅなかやま)産の丹土(にど)(赤土)を使用して軽粉業が興った。最盛期は室町時代で、釜元(かまもと)が83軒もあったが、のち粗製乱造をおそれ16釜になる。伊勢神宮の禰宜(ねぎ)は軽粉を京都の公卿(くぎょう)たちに贈り、山田(伊勢市)の御師(おし)も御祓(おはらい)配りのため諸国の檀家(だんか)回りにもこれを土産(みやげ)物とした。江戸初期、丹生水銀の廃鉱後も他国産原料で製造を続け、射和の軽粉はなお伊勢の特産物として知られた。明治以後、化学薬品に押され衰退し、最後に残った1軒の釜元も1953年(昭和28)に廃業した。」[原田好雄]

『山崎宇治彦・北野重夫著『射和文化史』(1956・射和村教育委員会)』

 

とある。

 『伊勢物語』第八段に、

 

 「むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ、あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、

 

 信濃なる浅間の嶽にたつ煙

     をちこち人の見やはとがめぬ」

 

とある。『伊勢物語』と浅間の縁といえばこれだろう。

 浅間の焼き返された土を物語では伊勢白粉にしたのか。

 

無季。

 

七十四句目

 

   物語伊勢白粉とよまれたり

 平家の秋に痤あれ行       信章

 (物語伊勢白粉とよまれたり平家の秋に痤あれ行)

 

 「痤」はえのごとも読むがここでは「にきび」と読む。

 平家の武将、特に敦盛は美少年といわれているが、にきびを気にして伊勢白粉を塗る。戦国時代でも江戸時代でも武将が顔色を良く見せるために化粧することは珍しくなかったともいう。

 

季語は「秋」で秋。

 

七十五句目

 

   平家の秋に痤あれ行

 かみそりも内侍所も水の月    桃青

 (かみそりも内侍所も水の月平家の秋に痤あれ行)

 

 内侍所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 平安時代前期に、令制の後宮十二司の一つである内侍司が変質した機関。他の後宮十二司の機能の多くも吸収した。通常内裏の温明殿にあり、主殿寮・掃部寮などの女官もここに詰めた。

  ※貞信公記‐抄・天慶元年(938)七月一三日「地震、内侍所遷二後涼殿一」

  ② 三種の神器(じんぎ)の一つである神鏡を、天皇との日常の同座を避けるようになって以後、安置した場所。平安前期以降、蔵司に変わり内侍所に置かれるようになったので、この名がある。かしこどころ。

  ※新儀式(963頃)四「以二清涼殿一為二内侍所一」

  ③ 三種の神器の一つである神鏡。

  ※日本紀略‐貞元元年(976)八月四日「内侍所自二縫殿寮一奉レ渡二堀川院一」

 

とある。八咫鏡はウィキペディアに、

 

 「平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。」

 

とある。

 前句のニキビの荒れた原因は剃刀負けだったか。その剃刀も壇ノ浦で八咫鏡とともに沈んで水の月になった。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

七十六句目

 

   かみそりも内侍所も水の月

 のうれんかけしとこやみの霧   信章

 (かみそりも内侍所も水の月のうれんかけしとこやみの霧)

 

 剃刀と八咫鏡は水に落ちて常闇の霧の中に消えるが、常闇は「床屋」と掛けていて、暖簾がかかっている。

 床屋はウィキペディアに、

 

 「男性の髪結いは、月代が広まった室町後期に一銭程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」(いっせんぞり)が起源である。

 雑用をこなす召使のいる武士と違い、庶民は自分で月代を剃ることができず(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)髪結いに頼んでいた。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮の店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。

 床屋が多かったのは独身男性が多い江戸だったが、江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく、番所や一種の社交場としても利用された。江戸や大阪・京都では、床屋は幕府に届を出して開業した後は町の管理下で見張り役なども務め、番所や会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、道具を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた。」

 

とある。

 

季語は「霧」で秋、聳物。

 

七十七句目

 

   のうれんかけしとこやみの霧

 衣屋もすでに弥勒の花待て    桃青

 (衣屋もすでに弥勒の花待てのうれんかけしとこやみの霧)

 

 衣屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 僧尼の法衣を仕立てて、商う人。また、その家。

  ※俳諧・新身(1705)「衣屋の看板稚が産衣長け」

 

とある。

 衣屋も弥勒菩薩の下生を待って、今日も暖簾を掛けて僧衣を商う。弥勒の有明を待つ常闇の霧の中にいる。

 

季語は「花待て」で春、植物、木類。釈教。「衣屋」は人倫。

 

七十八句目

 

   衣屋もすでに弥勒の花待て

 かねの御嶽を両替の春      桃青

 (衣屋もすでに弥勒の花待てかねの御嶽を両替の春)

 

 「かねの御嶽」は吉野金峰山の別名、ウィキペディアに、

 

 「金峰山(きんぷせん)とは、奈良県の大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称である。金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれる。」

 

とある。金峰山の蔵王権現はウィキペディアに、

 

 「蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によると、銭緡で束ねて一貫にしてないばら銭のことを「みたけ銭」というらしい。その御嶽に掛けて、弥勒の救済を待つ衣屋が「金の御岳」でみたけ銭を両替する。

 

季語は「春」で春。「金の御岳」は山類、名所。

名残表

七十九句目

 

   かねの御嶽を両替の春

 岩橋やりんとかけたる一かすみ  信章

 (岩橋やりんとかけたる一かすみかねの御嶽を両替の春)

 

 役小角の葛木山と金峯山の間に石橋を架けようとした伝説による。ウィキペディアに、

 

 「役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。」

 葛城山の神の姿に関しては、芭蕉も『笈の小文』の旅の時に、

 

   葛城山

 猶みたし花に明行神の顔     芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 まあ、役小角のしたことはたとえ橋を架けるという公共事業のためとはいえ、無理やり働かせて言うこと聞かなければ折檻だとかブラックなことをやってれば、そりゃ流罪も当然だと思うが。多分どこかの橋で住民が過酷な労働を強いられていたことなんかが元になった話ではないかと思う。

 「りんとかけたる」は凛と架けたると厘とが掛詞になっている。江戸時代には厘という通貨の単位はなかったが、端数を計算する必要のある時には用いられた。江戸時代は金と銀と銭が変動相場で動いていたので、相互に両替するときには厘という単位も用いられたのであろう。

 金峰山に石橋はできなかったが、霞の橋は凛と架かっている。

 

季語は「かすみ」で春、聳物。

 

八十句目

 

   岩橋やりんとかけたる一かすみ

 天につらぬく虹のつつぱり    桃青

 (岩橋やりんとかけたる一かすみ天につらぬく虹のつつぱり)

 

 「つっぱり」はここでは刎橋(はねばし)の刎ね木のことであろう。

 刎橋はウィキペディアに、

 

 「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」

 

とある。日光の神橋や大月の猿橋が知られている。この構造の橋なら刎ね木が虹のようなアーチ形になる。

 

無季。

 

八十一句目

 

   天につらぬく虹のつつぱり

 その四隅多門は手木をよこたへて 信章

 (その四隅多門は手木をよこたへて天につらぬく虹のつつぱり)

 

 「手木」はここでは「てぎ」ではなく「てこ」と読む。てぎはロープを締めるための棒で、てこは梃子のことになる。

 多門は多聞天のことで毘沙門天のことだが、四隅の多門だと多聞天をはじめとする四天王という意味ではないかと思う。須弥の四洲を守護する。そうなると虹のつっぱりは中央の須弥山を支える柱ということになる。梃子でもってその柱を立てようとしているのだろう。

 「多門は手木をよこたへて」という言い回しは『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に、謡曲『熊坂』の、

 

 「さりながら仏も・弥陀の利剣や愛染は・方便の弓に矢を矧げ、多聞は鉾を横だへて、悪魔を降伏し災難を払ひ 給へり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.85685-85693). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を踏まえているとする。

 四天王は確かに鉾を持った姿で描かれているから、その矛を梃子を持ち替えたのだろう。

 

無季。釈教。

 

八十二句目

 

   その四隅多門は手木をよこたへて

 日傭の札に悪魔おさむる     桃青

 (その四隅多門は手木をよこたへて日傭の札に悪魔おさむる)

 

 多聞天の仕切る現場では日雇いの悪魔が働いている。ちゃんと給料が出るなら役小角から比べれば仏といえよう。

 

無季。釈教。

 

八十三句目

 

   日傭の札に悪魔おさむる

 独過都鄙安全になすべしと    信章

 (独過都鄙安全になすべしと日傭の札に悪魔おさむる)

 

 「独過(ひとりすぎ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 結婚しなかったり配偶者に死別したりなどして、ひとりで生計を立てること。また、その人。ひとりぐらし。

  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「うるし吹こす風は有けり 三よしのの吉野を出て独すき〈三昌〉」

 

とある。

 打越の多聞天と設定を変えるために、独り者が身の安全のためにと場面を変える。

 「都鄙安全(とひあんぜん)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に、謡曲『田村』の、

 

 「然るに君の宣旨には、勢州鈴鹿の悪魔を鎮め、都鄙安全になすべしとの、仰せによつて軍兵を調へ」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15071-15076). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。軍勢を送るのではなく金で雇って悪魔を鎮める。

 

無季。

 

八十四句目

 

   独過都鄙安全になすべしと

 慈悲はかみよりさがる米の直   桃青

 (独過都鄙安全になすべしと慈悲はかみよりさがる米の直)

 

 コトバンクに「慈悲は上(かみ)から」という項目があり、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「慈悲は主人や目上から下さるものであるの意。

  ※大観本謡曲・藤栄(1532頃)「如何なる流罪死罪にも行ふべけれども、よしよし慈悲は上より下り、仇をば恩にて報ずるなれば」

 

とある。

 ここでは慈悲は上方より米の値が下がり、独り身でも安心して生活できるとする。

 『炭俵』の「梅が香に」の巻四句目に、

 

   家普請を春のてすきにとり付ついて

 上のたよりにあがる米の値    芭蕉

 

の句がある。農家にとっては慈悲はかみより上がる。

 

無季。

 

八十五句目

 

   慈悲はかみよりさがる米の直

 人として思はざらんや親の五器  信章

 (人として思はざらんや親の五器慈悲はかみよりさがる米の直)

 

 五器は五具足と御器の二つの意味がある。この場合は五具足の方か。「五具足」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 仏前に供する蝋燭立一対、華瓶(けびょう)一対、香炉一基の称。五器。

  ※叢林集(1698)四「本寺の大会のときは五具足なり」

 

とある。親の仏前のことだろう。

 仏前にご飯をお供えするのに米の値が下がるのはありがたい。

 

無季。「人」「親」は人倫。

 

八十六句目

 

   人として思はざらんや親の五器

 願によつて雪の竹箸       桃青

 (人として思はざらんや親の五器願によつて雪の竹箸)

 

 前句の五器を御器、つまりお椀のことにする。

 「雪中の筍」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(中国、三国呉の孟宗が、冬に竹林に入って哀歎したところ、母の好む筍を得たという「呉志‐孫皓伝」の注に引かれる「楚国先賢伝」に見える故事から出たことば) 有り得ないもののたとえ。得がたいもののたとえ。また、孝心の深いたとえ。

  ※古今著聞集(1254)一八「むかしは雪中たかんな、しはすのやまももも、ねがふにしたがひてもとめ出しけり」

 

とある。

 親のために雪の筍ではなく箸を買いに行く。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

八十七句目

 

   願によつて雪の竹箸

 いきの松ひねり艾葉の百までも  信章

 (いきの松ひねり艾葉の百までも願によつて雪の竹箸)

 

 「生(いき)の松原」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「福岡市西区姪浜の海岸。白砂青松の景勝地。元寇防塁跡がある。神功皇后が新羅遠征の折に松を植えたという。和歌などでは「行き」「生き」にかけて用いる。[歌枕]

  「都へと―いきかへり君が千年(ちとせ)にあはむとすらむ」〈後拾遺・雑五〉」

 

とある。

 艾葉(もぐさ)ひねりというのはお灸の際に艾の形を整えることで鍼灸師の重要な技術の一つになっている。

 句は「ひねり艾葉の百までもいきの松」の倒置で、「百までも生きる」と「生の松」が掛詞になっている。前句の「竹箸」は灸箸(ヤイトハシ)のことになる。

 

無季。「いきの松」は名所、植物、木類。

 

八十八句目

 

   いきの松ひねり艾葉の百までも

 気根の色を小謡に見す      桃青

 (いきの松ひねり艾葉の百までも気根の色を小謡に見す)

 

 「いきの松」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもあるように謡曲『高砂』にも出てくる。

 

 「所は高砂の、所は高砂の、尾上の松も年ふりて、老の波も寄り来るや、木の下蔭の落葉かくなるまで命ながら へて、なほいつまでか生の松、それも久しき、名所かなそれも久しき名所かな。」野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1761-1765). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

 「気根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 仏語。すべての人の中にあって、仏の教えを受けて発動する能力、資質。教えの対象としての、それを受けるものの能力。根機。

  ※十訓抄(1252)一〇「極楽の荘厳心にうかびて忽に聖衆の来迎に預り給ける。其機根をはからひて上人もかくすすめけるにや」

  ※ささめごと(1463‐64頃)下「歌道も仏教のごとく〈略〉心ざし浅き人は至らぬ道也。ただ機根の生熟によるとなり」

 ② 物事に堪えられる力。根気。気力。

  ※明月記‐安貞元年(1227)一二月二日「身体不調、気根如レ亡」

  ※浮世草子・傾城色三味線(1701)京「気根(コン)づよふ勤てきた目で」

  ※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉七「少しは長い手紙を書く気根も附き」

  ③ (「御気根に」の形で) お気のままに、御自由にの意の、座を立つときの挨拶のことばにいう。

  ※浄瑠璃・躾方武士鑑(1772)九「『是りゃ是りゃ娘毎時(いつも)の様に酌は入ぬ〈略〉奥へ行きゃ行きゃ』『アイアイ夫なら御気根(キコン)に』」

  ④ 植物の地上に出ている茎や幹の部分から生え、空気中にあらわれている根。その機能は、植物の種類によって異なる。〔現代術語辞典(1931)〕」

 

とある。④は近代の意味なので関係なさそうだ。まあ、元気の源は高砂にも謡われているといったような意味か。

 

無季。

 

八十九句目

 

   気根の色を小謡に見す

 朝より庭訓今川童子教      信章

 (朝より庭訓今川童子教気根の色を小謡に見す)

 

 「庭訓(ていきん)」は『庭訓往来』で手紙の体裁で日常の語句を解説した本。「今川」は『今川状』で今川了俊の二十三か条の家訓。『童子教』はウィキペディアに、

 

 「鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。」

 

とある。いずれも子供の教育に欠かせないものだった。ただ、寺子屋が広まってったのは江戸中期以降で、この頃はまだ稀だったのではないかと思う。

 小謡(こうたひ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「能の用語。謡曲のなかから独吟に適するようなごく短い一節を取り出したもの。小謡用の箇所は指定されているのが普通である。節付けの細かい、叙景や叙情を内容とする「上歌(あげうた)」が多く、内容やうたう場合によって祝言、送別、追善、四季用などに分かれる。婚礼や宴席でめでたい小謡をうたう風習は今日でもまだ各地に残っているが、とくに江戸時代以降は小謡本の刊行が盛んで、一曲を通して稽古(けいこ)する素謡(すうたい)とは別の簡便な形として民衆の間に流行し、小謡本が寺子屋の教本に用いられるほどであったという。[増田正造]」

 

とある。小謡も子供の学習に利用されていたので、謡曲の言葉が共通語として通用したのだろう。庭訓今川童子教プラス小謡で子供のころから気根を養う。

 

無季。

 

九十句目

 

   朝より庭訓今川童子教

 さてこなたには二条喜右衛門   桃青

 (朝より庭訓今川童子教さてこなたには二条喜右衛門)

 

 京都二条の喜右衛門は正本屋、つまり出版社だった。ネット上の柏崎順子さんの『鶴屋喜右衛門』という論文によると、寛文期までに古浄瑠璃の正本を多数出版していた。字を学ぶには教科書類もいいが、やはり面白い浄瑠璃本で覚えるのが一番。今なら国語の勉強にラノベをというところか。

 別にラノベを馬鹿にするつもりはない。日常会話に役立つ生きた日本語を学びたい外国人には、古臭い「標準語」の文学を読むよりもラノベの方が役に立つと思う。

 

無季。

 

九十一句目

 

   さてこなたには二条喜右衛門

 宿の月城を弓手にひちまがり   信章

 (宿の月城を弓手にひちまがりさてこなたには二条喜右衛門)

 

 「弓手(ゆんで)」は弓を持つ方の手で左手のこと。

 「ひちまがり」の「ひじる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘自ラ四〙 ゆがむ。曲がる。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ユガミ figitta(ヒヂッタ) キヂャ。シモ(下)」

  〘他ラ四〙 (歴史的かなづかいは、通常「ひぢる」とするが、根拠未詳) うばい取る。盗み取る。

  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)一「おのりゃちょこちょこ腰な物ひぢるな」

 

とある。

 あるいは「弓手にひちまがり」は浄瑠璃で言葉を覚えるとそういう言い回しをするようになるということか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

九十二句目

 

   宿の月城を弓手にひちまがり

 後陣はいまだ横町の露      桃青

 (宿の月城を弓手にひちまがり後陣はいまだ横町の露)

 

 先陣は城の左手に回っている間、後陣はいまだに横町にいる。城下町に入った大名行列であろう。城下は敵に侵入を防ぐために、わざと回り道をさせるようにできてたりする。

 

季語は「露」で秋、降物。

名残裏

九十三句目

 

   後陣はいまだ横町の露

 上々新蕎麦面もふらず切て出   信章

 (上々新蕎麦面もふらず切て出後陣はいまだ横町の露)

 

 後陣は横町で、この上ない新蕎麦をわき目もせずに切って行くその手際を見ている。

 

季語は「新蕎麦」で秋。

 

九十四句目

 

   上々新蕎麦面もふらず切て出

 大根の情たちかくれけり     桃青

 (上々新蕎麦面もふらず切て出大根の情たちかくれけり)

 

 そばを切っている脇では、蕎麦の敵を討とうと大根の精が隠れている。多分返り討ちにあって下ろされることになる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「徒然草六十八段に、大根の精が出て敵を追払うた話あり」とある。

 

 「筑紫に、なにがしの押領使(あふりやうし)などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおほね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ける事、年久しくなりぬ。

 或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵(かたき)襲ひ来りて、囲み攻けるに、館の内に兵(つはもの)二人出で来て、命を惜まず戦ひて、皆追返してンげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼て、朝な朝な召しつる土大根らに候」と言ひて、失(うせ)にけり。

 深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」

 

という話だが、大根を食ってる方が大根の敵なのではないか。

 

季語は「大根」で冬。

 

九十五句目

 

   大根の情たちかくれけり

 終夜此本草を読誦する      信章

 (終夜此本草を読誦する大根の情たちかくれけり)

 

 「読誦(どくじゅ)」は普通は経本だが、ここでは相手が野菜だから本草を読む。大根の精が退散する。

 

無季。

 

九十六句目

 

   終夜此本草を読誦する

 南無いき薬師来迎の時      桃青

 (終夜此本草を読誦する南無いき薬師来迎の時)

 

 「いき薬師」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《生きてこの世にいる薬師如来の意》すぐれた医者。名医。」

 

とある。名医は本草に通じている。名医のことを生き薬師というから、きっと本草を読誦しながら来迎するのだろう。

 

無季。釈教。

 

九十七句目

 

   南無いき薬師来迎の時

 紫の蛸は雲路にはい出て     信章

 (紫の蛸は雲路にはい出て南無いき薬師来迎の時)

 

 蛸薬師であろう。江戸では目黒の成就院に蛸薬師がある。京都の永福寺にもあるという。

 いき薬師の来迎だから、紫雲ならぬ紫の蛸がたなびく。

 

無季。「雲路」は聳物。

 

九十八句目

 

   紫の蛸は雲路にはい出て

 とがり矢二筋まなばしの先    桃青

 (とがり矢二筋まなばしの先紫の蛸は雲路にはい出て)

 

 「まなばし」は取り箸のこと。元禄二年春の「衣装して」の巻二十一句目にも、

 

   流れにたつる悪水の札

 尸に生膾箸ならす注連の内    芭蕉

 

の句がある。

 「とがり矢」は「利雁矢」という字も書く。尖った貫通力の高い矢で、空飛ぶ紫の蛸を食おうと思ったら箸をとがり矢にする必要がある。

 

無季。

 

九十九句目

 

   とがり矢二筋まなばしの先

 軍は花追手勝手をもみ合     信章

 (軍は花追手勝手をもみ合とがり矢二筋まなばしの先)

 

 まあ、料理を奪い合うように食うのも一種の軍(いくさ)だ。特に兄弟が多かったりすると戦場だ。箸は矢になり、勝手(台所)も大忙しでこっちも戦争だ。

 

季語は「花」植物、木類。

 

挙句

 

   軍は花追手勝手をもみ合

 その勢何百きさらぎの巻     桃青

 (軍は花追手勝手をもみ合その勢何百きさらぎの巻)

 

 発句は「梅」だから、この巻の興行が旧暦二月だったわけではあるまい。前句の花の定座に合わせて「きさらぎの巻」としただけであろう。

 「その勢何百」とあるから、寺社での興行に大勢の人が押し寄せたのだろう。天和から貞享に入ると、私邸での歌仙興行が主になるが、談林流行期の延宝の頃は寺社などで百韻興行を行うのが普通だった。境内に大勢の聴衆が押し寄せ、押し合いへし合いでさながら戦場になる。そんな熱気を感じさせる挙句だ。もっとも「何百」は多少盛っているかもしれないが。あくまで主催者側の発表。

 公開だとすると、第三の「さやりんず」が出た時も、「おい本物か?」「まさかな」とか言ってたのかもしれない。

 

季語は「きさらぎの春」で春。

 

 「此梅に」の巻とこの「梅の風」の二つの巻は『桃青三百韻 附両吟二百韻』に収録された「附両吟二百韻」の方に当る。おそらく同じ日に立て続けに詠まれたのではないかと思う。おそらく天満宮でのライブだったのだろう。

 芭蕉(当時の桃青)は宗因流に心酔し、宗因のように詠みたいという思いがそれだけ強かったのだろう。

 ただ、速吟だけにかえって発想の違いがはっきり出てしまう。芭蕉もじっくりと吟ずれば、人間の深い情を詠むこともできたのだろうけど、咄嗟に出てくるのはむしろシュールなまでの奇抜な言葉の連想だった。

 「梅の風」の巻の最初の方では、図らずも後の蕉風に繋がるような、高雅な趣向を俗語で行うという局面も見せることになった。これも即興が生み出す計算外のことだったかもしれない。

 この実験的な速吟を終えて、芭蕉は宗因と自分との才能の違いに気付いたのかもしれない。これ以降『俳諧次韻』まで、談林の主流が人情句に走りがちだったのに対し、乾いたシュールギャグをより先鋭的に展開してゆくことになる。

 宗因のようにと思って巻いた二百句だったが、詠み終えてみると宗因はどこへいっちゃったのか。八十年代に橋本治氏が倉田江美を評して言った言葉を借りるなら、芭蕉も「水分に乏しかった」のかもしれない。