「有難や」の巻、解説

羽黒山本坊におゐて興行   元禄二、六月四日

初表

 有難や雪をかほらす風の音     芭蕉

   住程人のむすぶ夏草      露丸

 川船のつなに蛍を引立て      曾良

   鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月    釣雪

 澄水に天の浮べる秋の風      珠妙

   北も南も碪打けり       梨水

 

初裏

 眠りて昼のかげりに笠脱て     釣雪

   百里の旅を木曾の牛追     芭蕉

 山つくす心に城の記をかかん    露丸

   斧持すくむ神木の森      曾良

 歌よみのあと慕行宿なくて     釣雪

   豆うたぬ夜は何となく鬼    露丸

 古御所を寺になしたる檜皮葺    芭蕉

   糸に立枝にさまざまの萩    梨水

 月見よと引起されて恥しき     曾良

   髪あふがするうすものの露   芭蕉

 まつはるる犬のかざしに花折て   露丸

   的場のすゑに咲る山吹     釣雪

 

二表

 春を経し七ッの年の力石      芭蕉

   汲ていただく醒ヶ井の水    露丸

 足引のこしかた迄も捻蓑      圓入

   敵の門に二夜寝にけり     曾良

 かき消る夢は野中の地蔵にて    露丸

   妻恋するか山犬の声      芭蕉

 薄雪は橡の枯葉の上寒く      梨水

   湯の香に曇るあさ日淋しき   露丸

 鼯の音を狩宿に矢を矧て      釣雪

   篠かけしほる夜終の法     圓入

 月山の嵐の風ぞ骨にしむ      曾良

   鍛冶が火残す稲づまのかげ   梨水

 

二裏

 散かいの桐に見付し心太      露丸

   鳴子をどろく片藪の窓     釣雪

 盗人に連添妹が身を泣て      芭蕉

   いのりもつきぬ関々の神    曾良

 盃のさかなに流す花の浪      会覚

   幕うち揚るつばくらの舞    梨水

       参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

          『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、一九七九、岩波文庫)

初表

発句

 

 有難や雪をかほらす風の音     芭蕉

 

 まず興行の前日の三日から見てみよう。

 曾良の『旅日記』の六月三日のところにはこうある。

 

 「三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方 より状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海ヨリ禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有)。一リ半古口へ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。平七 より状添方ノ名忘タリ。 状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。」

 

 新庄を発った芭蕉と曾良が羽黒山の門前の羽黒手向荒町の近藤左吉(露丸)宅に着いたのは申の刻、今でいうと四時過ぎで「本坊ヨリ帰リテ会ス。」というのは露丸が本坊から戻るのを待ったという意味か。

 露丸に会い、新庄の大石田平右衛門の紹介状を露丸に預け、羽黒山の若王寺宝前院へ行き、別当執行代和交院(会覚)にそれを渡してもらう。

 ふたたび露丸が戻ってから、南谷の別院紫苑寺に行く。そこが会覚(本坊)の隠居所で、途中祓川の辺で暗くなったというから、午後七時くらいだったのだろう。この日からしばらくこの南谷の別院紫苑寺に泊まることになる。

 残念ながら若王寺宝前院の大伽藍も別院紫苑寺も今はない。明治元年の神仏分離令で、羽黒山は出羽神社になり、明治五年には修験道が禁止され、見る影もなくなった。

 そして曾良の『旅日記』の六月四日のところにはこうある。

 

 「四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎麦切ニテ被招、会覚ニ謁ス。幷南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢、互ニ泣第ス。」

 

 四日は良い天気に恵まれたが、その分暑かっただろう。蝉の鳴く中を蕎麦切りを食べに若王寺宝前院の本坊へ行き羽黒山別当代の会覚阿闍梨に会う。この人はのちに、別れの時に、

 

 忘なよ虹に蝉鳴山の雪       会覚

 

の発句を送ることになる。

 蕎麦切りは今日のように細く切ったそばで、それ以前の蕎麦掻に対して言う。

 曾良の『俳諧書留』の前書きに、

 

 「羽黒山本坊におゐて興行

   元禄二、六月四日」

 

とあるように、この日の興行は南谷ではなく羽黒山の本坊の方で行われた。俳諧はここでまず表六句ができあがることになる。そしてこの日は「俳、表計ニテ帰ル」とあるように、本坊で行われた後、南谷の別院紫苑寺に帰っている。

 この発句は後に、

 

 有難や雪をかほらす南谷      芭蕉

 

に改作され、『奥の細道』に収められている。

 羽黒山は標高四一四メートルで雪はないが、隣の月山は一九八四メートルで、夏でも雪渓がある。南風に乗って、あたかも月山の雪渓の雪の香りが運ばれてくるようで涼しげです、という興行開始の挨拶になる。

 季語は「かほらす風」が風薫るで夏になる。芭蕉はこの直前新庄で、

 

   御尋に我宿せばし破れ蚊や

 はじめてかほる風の薫物      芭蕉

 

の脇を詠んでいる。

 

季語は「かほらす風」で夏。

 

 

   有難や雪をかほらす風の音

 住程人のむすぶ夏草        露丸

 (有難や雪をかほらす風の音住程人のむすぶ夏草)

 

 脇は羽黒手向荒町の近藤左吉(俳号露丸)が詠む。南谷の別院紫苑寺の宿を手配した功績もあってのことだろう。

 住める程度に夏草を結んだだけの粗末な草庵ですと謙虚に応じる。

 

季語は「夏草」で夏、植物、草類。「人」は人倫。

 

第三

 

   住程人のむすぶ夏草

 川船のつなに蛍を引立て      曾良

 (川船のつなに蛍を引立て住程人のむすぶ夏草)

 

 夏草に蛍は付け合いといってもいい。

 須賀川での「かくれ家や」の巻の脇にも、

 

   かくれ家や目だたぬ花を軒の栗

 まれに蛍のとまる露草       栗斎

 

 出羽大石田での「さみだれを」の巻の脇にも、

 

   さみだれをあつめてすずしもがみ川

 岸にほたるを繋ぐ舟杭       一榮

 

の句がある。

 

季語は「蛍」で夏、虫類。

 

四句目

 

   川船のつなに蛍を引立て

 鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月      釣雪

 (川船のつなに蛍を引立て鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月)

 

 川船の綱から鵜飼の連想に持ってゆくが、鵜は潜らずに飛んでいくから鵜飼ではない。夕暮れの景色に三ヶ月を添える。

 曾良の『旅日記』に「三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢、互ニ泣第ス。」とある。曾良の旧知の僧のようだ。『俳諧書留』に「花洛」とあるところからすると京都の人のようだ。尾張の釣雪と同一人物なのか別人なのかはよくわからない。

 曾良は信州諏訪の生まれで、若い頃を伊勢長島で過ごしている。そのあと江戸に出て、芭蕉に出会うわけだから、この時はまだ京都に住んだことはなかったとすれば、伊勢長島の大智院にいたころの旧友か。ならば川船の綱に長良川の鵜飼いを連想するのは自然だったし、「鵜の飛跡」は伊勢長島から大きく羽ばたいた曾良のことを言っているのかもしれない。

 

季語は「三ヶ月」で秋、夜分、天象。「鵜」は鳥類、水辺。

 

五句目

 

   鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月

 澄水に天の浮べる秋の風      珠妙

 (澄水に天の浮べる秋の風鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月)

 

 三日月を天の川を渡る船に見立て、七夕の頃の句とする。

 

 天の海に雲の波立ち月の舟

     星の林に漕ぎ隠る見ゆ

              柿本人麻呂(万葉集)

 

の歌がある。

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注によれば、珠妙は『旅日記』に「南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円人ニ会ス」とあるところの浄教院の僧だという。

 

季語は「秋の風」で秋。

 

六句目

 

   澄水に天の浮べる秋の風

 北も南も碪打けり         梨水

 (澄水に天の浮べる秋の風北も南も碪打けり)

 

 秋風に砧は李白の「子夜呉歌」であろう。

 

   子夜呉歌       李白

 長安一片月 萬戸擣衣声

 秋風吹不尽 総是玉関情

 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。

 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。

 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 

 萬戸擣を北も南もと言い換える。

 梨水は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注には「羽黒住の俳人」とある。

 水無月四日は、ここまでで終わり、近藤左吉の宅に戻る。

 

季語は「碪」で秋。

 

 元禄二年水無月五日、曾良の『旅日記』にはこうある。

 

 「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。」

 

 断食のところは岩波文庫の萩原恭男注に「三山巡礼のために断食した」とある。もっとも、九日の特にどこへも出かけない日でも断食している。

 ただ、一日二食だった時代に朝飯を抜いて結局昼に食べているならあまり変わらない気もする。まあ、前日には朝夕とは別に昼に蕎麦を食っているから、それに比べれば少ないが。ただでさえ夏は食欲が減退するし、また蕎麦を食べたのかな。

 夕飯もまだ明るいうちに食ったのだろう。それから神前に向かう。当時は神仏習合で、若王寺宝前院に隣接してたのであろう。明治の廃仏毀釈と修験道の禁止で羽黒山には出羽(いでは)神社が作られ、その後出羽三山神社に統合された。

 

 涼風やほの三ヶ月の羽黒山

 

はこの時のものか。実際は五日の月だが三ヶ月とそう変わらない。

 神社に参拝した後、「帰」とあるからこの日は本坊ではなく、南谷の別院紫苑寺で続きが行われたようだ。

 付け順は釣雪・芭蕉・露丸・曾良・釣雪・露丸・芭蕉・梨水・曾良・芭蕉・露丸・釣雪で特に規則性がないところから出がちで行われたようだ。珠妙がはずれている。

初裏

七句目

 

   北も南も碪打けり

 眠りて昼のかげりに笠脱て     釣雪

 (眠りて昼のかげりに笠脱て北も南も碪打けり)

 

 「眠りて」は「ゐねむりて」と読む。「昼のかげりに笠脱て眠りて」の倒置で、旅体に転じる。

 

無季。旅体。

 

八句目

 

   眠りて昼のかげりに笠脱て

 百里の旅を木曾の牛追       芭蕉

 (眠りて昼のかげりに笠脱て百里の旅を木曾の牛追)

 

 旅体ということで場面を木曾に転じる。姨捨山に行ったときに中山道で荷物を運ぶ牛を目にすることが多かったか。

 

無季。旅体。「木曾」は名所、山類。「牛」は獣類。

 

九句目

 

   百里の旅を木曾の牛追

 山つくす心に城の記をかかん    露丸

 (山つくす心に城の記をかかん百里の旅を木曾の牛追)

 

 前句を木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いの「火牛の計」に取り成すのは、まあお約束といったところか。『源平盛衰記』に記された伝説で、ウィキペディアには、

 

 「しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。」

 

とある。

 山城というと「木曽義仲の隠れ城」と言われている楡沢山城が知られている。木曽義仲の功績を記録にとどめようということなのだろう。

 芭蕉も木曽義仲のファンで大津義仲寺をたびたび訪れ、無名庵を結び、最後はこの義仲寺に眠ることとなった。

 

無季。「山」は山類。

 

十句目

 

   山つくす心に城の記をかかん

 斧持すくむ神木の森        曾良

 (山つくす心に城の記をかかん斧持すくむ神木の森)

 

 曾良は物騒なことを好まないのか、山城を作るにも御神木には気を付けるように釘を刺す。さすが吉川惟足の門下生だ。

 

無季。神祇。「神木の森」は植物、木類。

 

十一句目

 

   斧持すくむ神木の森

 歌よみのあと慕行宿なくて     釣雪

 (歌よみのあと慕行宿なくて斧持すくむ神木の森)

 

 これは西行の跡を慕ってみちのくを旅する芭蕉と曾良を詠んだ楽屋落ちか。宿がなければ自分で作るしかないと斧をふるうことになりますよと、曾良に向かって言っているのか。曾良もいろいろ苦労はしているが、さすがに斧をふるうことはなかっただろう。

 

無季。「歌よみ」は人倫。

 

十二句目

 

   歌よみのあと慕行宿なくて

 豆うたぬ夜は何となく鬼      露丸

 (歌よみのあと慕行宿なくて豆うたぬ夜は何となく鬼)

 

 「何となく」は「何と泣く」。

 宮本注は、

 

 草も木も我大君の国なれば

     いづくか鬼のすみかなるべき

            (太平記)

 

の歌を引用している。「宿なくて」に「鬼」が付く。

 豆は巻かれなくても、結局一年中鬼は外のわけだから、鬼はいつでも泣いているのだろう。ただ「歌よみのあと慕行」が生かされていない。

 

「豆うたぬ」は節分で冬。「夜」は夜分。

 

 十三句目

 

   豆うたぬ夜は何となく鬼

 古御所を寺になしたる檜皮葺    芭蕉

 (古御所を寺になしたる檜皮葺豆うたぬ夜は何となく鬼)

 

 檜皮葺はウィキペディアによれば、

 

 「飛鳥時代より寺院の建築技術のひとつとして瓦葺が伝来し、寺院の建物の多くは瓦葺きが用いられたが、檜皮葺は付属的な建物の屋根に用いられた。

 また、奈良時代・平安時代では公的な建築物が瓦葺きだったのに対し、私的な建築物では檜皮葺が用いられた。例えば朝廷の公的な儀式の場である大極殿は瓦葺きであったが、天皇の私邸である紫宸殿や清涼殿は檜皮葺である。また平安時代以降の貴族の私邸である寝殿造も檜皮葺である。

 伝来当初は瓦葺がより格式の高い技法であったが、平安時代以降は国風文化の影響もあり、檜皮葺が屋根葺工法の中で最も格式の高い技法となった。平安時代中期以降は、公的儀式の場も瓦葺の大極殿から、檜皮葺の紫宸殿に移動している。」

 

ということで、御所の紫宸殿などに用いられてきた。

 ここでいう古御所がどこの御所かは定かでないが、御所の建物がそのままお寺として用いられたなら、昔ながらの檜皮葺が残っていてもおかしくない。

 芭蕉は平泉の伽羅御所のあたりも訪ねている。曾良の『旅日記』には「さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル」と記されていて、秀衡屋敷は伽羅御所(現在の柳之御所遺跡)と思われる。『奥の細道』本文にも「秀衡が跡は田野になりて」とある。せめて檜皮葺の建物の一つでも残っていてくれればというところか。中尊寺の金色堂は木瓦葺きだった。

 現存しないが京都の御所のあたりに、当時は檜皮葺のお寺があったのかもしれない。やや離れているが千本釈迦堂(大報恩寺)には檜皮葺の建物が残っている。ここではおかめ福節分が舞や狂言を交えて華やかに行われている。

 

無季。

 

十四句目

 

   古御所を寺になしたる檜皮葺

 糸に立枝にさまざまの萩      梨水

 (古御所を寺になしたる檜皮葺糸に立枝にさまざまの萩)

 

 糸萩は糸のように枝の細い萩で、立枝(たちえ)は高く枝の伸びる様。萩にもいろいろな品種があり、古いお寺ならそうしたものが植えられていてもおかしくない。

 

季語は「萩」で秋、植物、草類。

 

十五句目

 

   糸に立枝にさまざまの萩

 月見よと引起されて恥しき     曾良

 (糸に立枝にさまざまの萩月見よと引起されて恥しき)

 

 萩は臥すに通じる。

 月の夜は男が月明かりを頼りに通ってくる夜でもある。そうして床に伏してお楽しみになったのだろう。そしてうとうとしていると起こされる。何となくきまりが悪い。「さまざまの萩」は庭の眺めか、それとも臥した様の比喩か。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

十六句目

 

   月見よと引起されて恥しき

 髪あふがするうすものの露     芭蕉

 (月見よと引起されて恥しき髪あふがするうすものの露)

 

 寝乱れた髪に濡れた薄衣、引き起こされた時の状態であろう。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十七句目

 

   髪あふがするうすものの露

 まつはるる犬のかざしに花折て   露丸

 (まつはるる犬のかざしに花折て髪あふがするうすものの露)

 

 宮本注は狆(ちん)だという。愛玩犬なら花の簪もあったのかもしれない。高価な犬で遊女に好まれた。

 足もとにまつわりついてくる狆に、花の枝を折って頭にのせてやる。可愛い。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「犬」は獣類。

 

十八句目

 

   まつはるる犬のかざしに花折て

 的場のすゑに咲る山吹       釣雪

 (まつはるる犬のかざしに花折て的場のすゑに咲る山吹)

 

 的場は弓場、矢場とも言い、本来弓矢の練習場所だが、江戸時代には次第に寺社の縁日などの射的などをも指すようになった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「(1)古くは弓術の練習場をさし、この意味では弓場(ゆば)、的場(まとば)ともいう。武家では長さ弓杖(きゅうじょう)33丈(約76メートル)、幅は同じく1丈(約2.3メートル)と決められ、射場には(あずち)を築き、これに的をかける。矢場は城内や屋敷内、または人家の少ない郊外に設けられた。

 (2)江戸時代には、矢場は料金をとって楊弓(ようきゅう)(遊戯用小弓)を射させた遊戯場をさす。これは江戸での呼び名で、京坂では一般に楊弓場といった。楊弓は古くから行われ、主として公家(くげ)の遊戯であったが、江戸時代に民間に広がり、日常の娯楽として流行をみた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころには寺社の境内や盛り場に矢場が出現、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気をよんだ。間口(まぐち)1、2間のとっつきの畳の間(ま)から7間(けん)半(約13.5メートル)先の的を射る。的のほか品物を糸でつり下げ、景品を出したが、矢取女のほうを目当ての客が多かった。的場の裏にある小部屋が接客場所となり、矢場とは単なる表看板で、私娼(ししょう)の性格が濃厚になった。1842年(天保13)幕府はこれを禁止したが、ひそかに営業は続けられ、明治20年代まで存続した。のちに、矢場の遊戯場の面は鉄砲射的に、私娼的性格は銘酒屋に移行したものもある。」

 

とある。

 この場合は前句を大きな屋敷に住むか仕える女性として、庭の的場の端に山吹が咲いていて、ということだろう。

 庶民の矢場は元禄の頃から広まっていったらしいが、最初は健全な娯楽だったのだろう。後にいかがわしい場所になったことから、一説に「やばい」は「矢場」から来たともいう。

 山吹のかざしは宗因独吟「口まねや」の七十句目に、

 

   蛤もふんでは惜む花の浪

 さつとかざしの篭の山吹      宗因

 

の句がある。『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りが本歌になる。

 

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、

   やまぶきを上にさして書付けて侍りける

 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを

     ゐでのわたりの物と見るかな

                 家綱

   返し

 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは

     はまくりかへしあはれとぞ思ふ

                 俊頼」

 

 この場合は手紙に添えるかざし。

 さて、翌日はいよいよ月山に向けて出発。

 

季語は「山吹」で春。植物、草類。

 水無月六日の曾良の『旅日記』には、こう記されている。

 

 「六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小やがけ也)。弥陀原、こや有、中食ス。(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」

 

 好天に恵まれて、芭蕉、曾良御一行は月山を目指すこととなった。『奥の細道』の本文には、

 

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」

 

 「八日」は芭蕉の記憶違いであろう。この種の間違いは『奥の細道』のあちこちに見られる。芭蕉はあくまで自分の記憶で『奥の細道』を書き、曾良の『旅日記』と照合することはなかったのだろう。書いたのが三年後の元禄五年だから、記憶違いがあるのもしょうがない。

 

 「木綿しめ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 こより、または白布で編んだ紐で輪を作り、首にかける修験袈裟(しゅげんげさ)。

  ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)出羽三山「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて」

 

とある。「宝冠」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「③ (「法冠」とも書く) 五智宝冠または八葉蓮華をかたどった山伏・修行者が着用したかぶりもの。

  ※俳諧・曾良随行日記(1689)日記本文「浄衣・法冠・しめ斗にて行」

 

とある。

 宝冠は白い布を頭に巻いて結んだようなもので、木綿注連は縄状のものを首からかける。普段の旅姿にこの二点を加えたスタイルだったのだろう。もちろん二人で登るような無謀なことはせず、強力が付き従う。ガイドと荷物持ちを兼ねていたのだろう。

 今日では八合目の弥陀ヶ原まで道路が通っているが、当時もこの少し手前の七合目高清(今の合清水)まで馬で行けたようだ。ここまで九里だとするとまだ暗いうちに南谷を出なくては昼までに高清には着かない。

 道路ができる前の道筋は「山形県鶴岡市羽黒町観光協会ブログ」で写真入りで辿ることができる。

 おそらく朝早く、午前四時には南谷を出て、馬で合清水に向かったのだろう。馬は馬子に曳かれて尾根伝いの道をゆっくりと進む。

 「三リ」とあるから三時間後くらいには四合目の強清水に着く。小月山(おづきやま)神社のあるところが二合目だから、それよりは先にある。その名の通り湧き水があり、休憩場所になっていた。ここから先が急な上り坂になり、上ると視界が開け、鳥海山が見えるという。

 六合目の平清水は今でも避難小屋があり、少し前まではキャンプ場もあった。

 七合目の合清水で弥陀か原高原へと一気に登ってゆく途中にある。かつては馬の終点だったため小屋があったようだ。ここから更に登り高原に出ると、今では高山植物の咲き乱れる高原だが、江戸の寒冷期には至る所に雪の残る雪原だったのではないかと思う。『奥の細道』の「氷雪を踏みてのぼる事八里」もあながち誇張ではなかったのだろう。

 弥陀ヶ原にも小屋があって昼食をとる。当時は朝餉と夕餉の間のという意味で「中食」だったか。持ってきた弁当でも食べたのだろう。

 「(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。」とあるように、この高原は氷雪踏み分けてゆく難所だった。「フダラ」は雨告山の方が西補陀落、藁田禿山(わらたかむろやま)の方が東補陀落と呼ばれているように、この高原全体が補陀落だったのかもしれない。御浜池は藁田禿山の先にある。濁沢は御浜池より一つ南側の谷にある。これらへの道への分岐点があり、そのつど強力さんが解説してくれたのだろう。

 「御田有。行者戻リ、こや有。」の御田は御田原で弥陀ヶ原からそれほど離れていない。「行者戻リ」は行者返しで大きな岩を上る険しい道で、役行者(えんのぎょうじゃ)がここで引き返したという伝承があるらしい。ここを上ると山頂も近い。

 山頂に着いたのは申の刻で四時頃だった。今だと出羽三山神社の月山本宮だが、当時も神仏習合した月山権現の御室があったのだろう。角兵衛小屋があってそこに宿泊する。

 曾良の『旅日記』に「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」とある。岩波文庫の『おくのほそ道』の萩原恭男注は、ブロッケン現象のこととしている。

 芭蕉の『奥の細道』には「息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」とあるが、六日の月だから月は半月までいかずに西の方にあったと思われる。そのあと「笹を舗、篠を枕として、臥て明るを待。」と野宿を匂わせているが、ちゃんと山小屋に泊まっている。

 この日は天気も良く、夏の入道雲がもくもくと現れては大きくもならずに消えて、それを繰り返してたのだろう。霧はかからず雲も広がらず、来光(ブロッケン現象)は見られなかったが、夜には月山の名前の通りの月も見えた。

 

 雲の峰幾つ崩て月の山       芭蕉

 

と、この句で締めくくっておくことにしよう。

 

 翌日、月山山頂から湯殿山に向かう。曾良の『旅日記』にはこうある。

 

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニシメカケ・大日坊ヘカカリテ鶴ケ丘ヘ出ル道有)。是ヨリ奥ヘ持タル金銀銭持テ不帰。惣テ取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。

 △ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。

 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

 

 湯殿山へは月山山頂から西側の尾根を行くことになる。

 山頂からそれほど離れてないところに鍛冶屋敷があった。今でもそこは鍛冶小屋跡で鍛冶稲荷神社がある。芭蕉の『奥の細道』の本文には、

 

 「谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て爰に潔斎して釼を打終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に釖を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ、道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」

 

とある。

 牛首はそこから尾根伝いに下ったところにある。今は月山スキー場への分岐点になっている。ここを越えてゆくと今なら月山湖に出る。寒河江ダムの下のあたりが本道寺になる。岩根沢はそれよりかなり東側で、今のハイキングコースでは月山から南東へと降りてゆく道を岩根沢コースと呼んでいる。岩根沢分岐で道が分かれ、左は岩根沢、右は本道寺になる。

 ここにも小屋があり、体を清めるだけの水があったようだ。

 「少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル」とあるのは今の装束場だろうか。「草鞋(わらじ)脱ぎ替え、手繦(たすき)掛けなどして御前に下る。」

 ここの下りから森林に入り急な坂を下ることになる。下ると湯殿山の御前に着く。これは御宝前のことであろう。その先に弘法大師によって開かれた大日坊がある。

 芭蕉の『奥の細道』にはこう記されている。

 

 「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし、行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。」

 

 月山の桜は高山植物のタカネザクラ(俗称タケザクラ)というものらしい。雪の中に小さく咲くこの桜を見て芭蕉は行尊の、

 

 もろともにあはれと思へ山桜

    花よりほかに知る人もなし

 

の歌を思い起こす。

 そのあと御宝前の御神湯に入り、

 

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな    芭蕉

 

の句を詠むことになる。

 「△ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。」は装束場から稜線沿いに湯殿山山頂を経て南へ行くと志津へ抜け、そこから寒河江川を下っていくと最上川に出るという情報であろう。その次には「堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。」という山小屋の宿泊料の情報も記されている。

 芭蕉と曾良はここで引き返して昼には月山山頂に戻る。ここで昼飯を食うわけだが、今度は「昼食」となっている。「中食」「昼食」結局どっちでもいいみたいだ。

 四合目の強清水にまで戻ると、そこで羽黒山南谷のほうから弁当を持って迎えに来た人に出迎えられることになる。そして夕暮れまでに南谷に帰ることになる。「甚労ル」、ああ疲れた。

 今のハイキングコースの所要時間だと、弥陀ヶ原から月山、月山から御宝前はともに三時間から三時間半くらいのコースとされている。

 一日目は月山に四時ごろ着いたとして、弥陀ヶ原を出たのは十二時半ごろか。中食にはちょうど良かった。

 翌日は朝の五時くらいに山頂を出たとして、八時には湯殿の湯につかり、十二時前には月山山頂で昼食をとる。そうなると弥陀ヶ原に着いたのは三時か三時半くらいか。弥陀ヶ原から合清水まで行き、そこから馬に乗ったにしても、強清水までは四里。時速六キロくらいは出さないと日が暮れる前に強清水で夕食を食べるのはきつい。

 そこから南谷まで三里。早駕籠にでも乗ったか、それとも本当に忍者だったのか、普通に歩いたとしたら十時頃になっていたのではないか。

 ともあれ二日目の行程はかなりハードだった。そりゃあ「甚労ル」となるわけだ。まあ、当然この日も俳諧などする余裕はない。

 『奥の細道』の方の記述に、

 

 「六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。」

 

とある。「図司佐吉と云者を尋て」は『旅日記』に「近藤左吉ノ宅ニ着」とあるからここは間違ってない。ただ、そこへの行程が新庄から船で清川を通り、

 

 「船ヨリアゲズ。一リ半、雁川、三リ半、出羽手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊より帰リテ会ス。」

 

とある。

 「雁川」は今日の「狩川」であろう。ここから南へ行くと羽黒町手向に出る。

 午後四時ごろ、手向荒町の近藤左吉宅に着いて、そこで近藤左吉こと露丸に「本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡す。本坊ヘ持参」とあり、この和交院が会覚なので、この日は手紙を渡しただけで、会覚に会うのは翌日の蕎麦切りに招待された時だったと思われる。

 「羽黒山に登る」は若王寺に着いたということで、特に登山をしたわけではないだろう。

 湯殿山から帰った翌日の記述は短い。

 

 「八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院御入。申ノ刻ニ至ル。」

 

 昼会覚がやってきて、四時ぐらいに帰る。会覚の発句にある「虹に蝉鳴く」の虹はこの日の昼頃、雨が止んだ時のものか。

 

 八日は俳諧の方は一休みして九日に興行の続きが行われる。曾良の『旅日記』にはこう記されている。

 

 「九日 天気吉、折々曇。断食。及昼テシメアゲル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。」

 

 この日は晴れ時々曇りで、午前中は五日と同様断食シテ、この日は昼に素麺を食べる。

 午後から俳諧興行の続きを行うと、会覚から飯と酒の差し入れがある。四時ごろまで興行が行われた。

 それでは二の懐紙の表、十九句目。

二表

十九句目

 

   的場のすゑに咲る山吹

 春を経し七ッの年の力石      芭蕉

 (春を経し七ッの年の力石的場のすゑに咲る山吹)

 

 的場は弓矢の練習場だった。武家の子供たちがここで練習したのだろう。片隅には去年七つになる子供が持ち上げた力石が置かれている。

 力石は今でも神社に行くと見られるが、神社にあるのは大人用の、祭りの時などに力比べをするためのものであろう。子供が持ち上げる力石はわざわざ子供用に用意したものか。

 

季語は「春」で春。

 

二十句目

 

   春を経し七ッの年の力石

 汲ていただく醒ヶ井の水      露丸

 (春を経し七ッの年の力石汲ていただく醒ヶ井の水)

 

 醒ヶ井は近江にある中山道の宿で、琵琶湖と関ヶ原の間にある。日本武尊が伊吹山の神(白猪とも大蛇ともいう)と戦って敗れ、ここの水で傷を癒したという話が記紀に記されている。ザコだと思ってたら実はラスボス級だったというのが敗因のようだ。これが原因で結局日本武尊は亡くなることになる。

 力石を持ち上げていた子供も、いつか大人になり、戦いに敗れる日が来る。

 

無季。

 

二十一句目

 

   汲ていただく醒ヶ井の水

 足引のこしかた迄も捻蓑      圓入

 (足引のこしかた迄も捻蓑汲ていただく醒ヶ井の水)

 

 この日の興行では円入が加わる。四日に蕎麦切りを食べたときに「南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス」とあり、釣雪と会ったときに一緒にいたが、四日の興行には参加してなかった。

 「捻蓑(ひねりみの)」がどういう蓑かはよくわからない。「足引のこしかた迄も」は足引きの山路の来し方までも蓑を着てとなるが、同時に「足を曳き、腰肩までも捻り」となる。

 

無季。旅体。

 

二十二句目

 

   足引のこしかた迄も捻蓑

 敵の門に二夜寝にけり       曾良

 (足引のこしかた迄も捻蓑敵の門に二夜寝にけり)

 

 隠れ蓑という言葉があるように、蓑は正体を隠すのに用いられる。足を引きずった乞食を装って敵の門に探りを入れる。

 

無季。「二夜寝にけり」は夜分。

 

二十三句目

 

   敵の門に二夜寝にけり

 かき消る夢は野中の地蔵にて    露丸

 (かき消る夢は野中の地蔵にて敵の門に二夜寝にけり)

 

 て止めの場合は後ろ付けでもいいので、「敵の門に二夜寝にけり」の結果として「かき消る夢は野中の地蔵にて」と読んでもいい。返り討ちにあって野中の地蔵になったのだろう。

 

無季。釈教。

 

二十四句目

 

   かき消る夢は野中の地蔵にて

 妻恋するか山犬の声        芭蕉

 (かき消る夢は野中の地蔵にて妻恋するか山犬の声)

 

 妻恋というと鹿が思い浮かぶが、前句のお地蔵さんに墓場のイメージがあるなら犬の声は付き物だ。

 この場合の山犬は野良犬のことで狼ではないだろう。生類憐みの令で野良犬が増えて問題になっていたともいう。

 

無季。「山犬」は獣類。

 

二十五句目

 

   妻恋するか山犬の声

 薄雪は橡の枯葉の上寒く      梨水

 (薄雪は橡の枯葉の上寒く妻恋するか山犬の声)

 

 橡(とち)は東北に多い。橡の実は食用になるし、木材は硬くて木目が美しいので家具や椀に用いられる。また樹齢千年の巨木にもなる。『炭俵』の「早苗舟」の巻八十句目に、

 

   大水のあげくに畑の砂のけて

 何年菩提しれぬ栃の木       孤屋

 

の句もある。

 山の古木にうっすらと雪が積もると冬の始まりで、やがて雪に閉ざされる季節がくる。この場合の山犬はニホンオオカミかもしれない。

 

季語は「薄雪」で冬、降物。

 

二十六句目

 

   薄雪は橡の枯葉の上寒く

 湯の香に曇るあさ日淋しき     露丸

 (薄雪は橡の枯葉の上寒く湯の香に曇るあさ日淋しき)

 

 前句に刺激されて地元愛に目覚めたか。羽黒の冬の訪れに温泉の湯気に曇る朝日を付ける。雪見の朝風呂でも朝日が曇っていると寂しいか。

 

無季。

 

二十七句目

 

   湯の香に曇るあさ日淋しき

 鼯の音を狩宿に矢を矧て      釣雪

 (鼯の音を狩宿に矢を矧て湯の香に曇るあさ日淋しき)

 

 鼯は「むささび」と読む。ムササビは夜行性で夜鳴く。その声を聴きながら狩人(マタギの人か)は矢を作り、早朝に狩に出るが、温泉の煙で視界は良くない。

 

無季。「鼯」は獣類。

 

二十八句目

 

   鼯の音を狩宿に矢を矧て

 篠かけしほる夜終の法       圓入

 (鼯の音を狩宿に矢を矧て篠かけしほる夜終の法)

 

 「篠」は「すず」と読む。「篠懸け」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「修験者(しゆげんじや)が衣の上に着る麻製の法衣。「素襖(すあを)」と似た形に作る。◆深山の「篠(すず)」の露を防ぐために着ることから。」

 

とある。「しほる」は「しをる」で濡れること。マタギはムササビの声に矢を作り、山伏は夜すがら修行する。向かえ付け。

 

無季。釈教。「篠かけ」は衣裳。「夜終」は夜分。

 

二十九句目

 

   篠かけしほる夜終の法

 月山の嵐の風ぞ骨にしむ      曾良

 (月山の嵐の風ぞ骨にしむ篠かけしほる夜終の法)

 

 月の定座だがここでは地名の月山を出す。真如の月にちなんだその名だが、修験者には過酷な嵐となることもある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「月山」は名所、山類。

 

三十句目

 

   月山の嵐の風ぞ骨にしむ

 鍛冶が火残す稲づまのかげ     梨水

 (月山の嵐の風ぞ骨にしむ鍛冶が火残す稲づまのかげ)

 

 月山といえば山頂付近に鍛冶小屋があり、芭蕉と曾良は見てきたばかりだった。前句の嵐を受けて稲妻の光る中で鍛冶屋が作業を終え、火だけが灯っている。「かげ」はこの場合は光という意味。

 

季語は「稲づま」で秋。

二裏

三十一句目

 

   鍛冶が火残す稲づまのかげ

 散かいの桐に見付し心太      露丸

 (散かいの桐に見付し心太鍛冶が火残す稲づまのかげ)

 

 「心太」はここでは「こころぶと」と読むようだ。「太」を「てい」と読んで「こころてい」となって、それが「ところてん」になったとも言われる。

 意味は分かりにくい。鍛冶が残していった火に当たってちょうどいいくらいの夜寒になって、空には稲妻がちらちらと見える頃には、心太もあまり食べなくなりこうして時は移ろいで行く、ということで、桐の葉の散る甲斐を見つけた、ということなのだろうか。

 

季語は「桐」の「散」で秋、植物、木類。

 

三十二句目

 

   散かいの桐に見付し心太

 鳴子をどろく片藪の窓       釣雪

 (散かいの桐に見付し心太鳴子をどろく片藪の窓)

 

 鳴子は田畑を鳥獣から守るための音を立てる板。

 「片藪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 道に沿って片方にある藪。

  ※宇治拾遺(1221頃)四「かたやぶにかくれゐて見れば、鳳輦の中に、金泥の経一巻、おはしましたり」

 

とある。

 窓は明かり取りとか換気用の窓で通りの方に面して開いているのだろう。通りの向こうは藪で鳥獣除けの鳴子が仕掛けてある。

 そこに住んでいる人は慣れているのだろうけど、旅人は何が起きたのかとびっくりする。

 

季語は「鳴子」で秋。

 

三十三句目

 

   鳴子をどろく片藪の窓

 盗人に連添妹が身を泣て      芭蕉

 (盗人に連添妹が身を泣て鳴子をどろく片藪の窓)

 

 盗人になってでも妹を食わせてゆこうとする兄と、それを心配そうに見守る妹、そういう設定だろうか。

 鳴子が鳴って何か悪いことが起きたかと驚く。

 

無季。恋。「盗人」「妹」「身」は人倫。

 

三十四句目

 

   盗人に連添妹が身を泣て

 いのりもつきぬ関々の神      曾良

 (盗人に連添妹が身を泣ていのりもつきぬ関々の神)

 

 奥州街道の白河の関には住吉明神と玉島明神を祀った二つの明神社がある。同じように古い関所には神社があったのだろう。不破の関には関比男明神が祀られていた。逢坂の関にも関明神上下社があり、今は関蝉丸神社になっている。

 盗みを犯して関所を越えて逃げようとする兄と、それに従う妹、関の神々への祈りは尽きない。

 

無季。恋。神祇。

 

三十五句目

 

   いのりもつきぬ関々の神

 盃のさかなに流す花の浪      会覚

 (盃のさかなに流す花の浪いのりもつきぬ関々の神)

 

 さて、最後の花の定座だが、曾良の『旅日記』にある「花ノ句ヲ進テ、俳、終。」がこのことだったのがわかる。芭蕉さんがそれまで俳諧興行を見ているだけだった別当代会覚阿闍梨に花の句を詠むように勧め、それがこの句だった。

 「花の浪」は桜の枝が風に波打つ様子をいい、「浪の花」だと浪の白いしぶきが花のようだという意味になる。前に宗因独吟「口まねや」の巻の七十句目の所で触れたが、

 

 桜花散ぬる風の名残には

     水なき空に浪ぞたちける

              紀貫之「古今集」

 

により、風に揺れる桜を浪に、飛び散る花びらを波しぶきに喩えたもの。

 花見の酒の肴に花の浪を眺めながら、今年も花は散り春は行ってしまうのか思うと、関々の神々に祈らずにはいられない。

 

季語は「花の浪」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   盃のさかなに流す花の浪

 幕うち揚るつばくらの舞      梨水

 (盃のさかなに流す花の浪幕うち揚るつばくらの舞)

 

 前句の酒宴の終わり(打ち上げ)とばかりに燕が空を舞う。これにて「俳、終。」

 そのあと『旅日記』に「ソラ発句、四句迄出来ル。」とあるが、これは不明。

 曾良の『俳諧書留』には、この「有難や」の巻の前に、

 

    「翁

 雲の峰幾つ崩レて月の山

 涼風やほの三ヶ月の羽黒山

 語れぬ湯殿にぬらす袂哉

 月山や鍛冶が跡とふ雪清水     曾良

 銭踏て世を忘れけりゆどの道

 三ヶ月や雪にしらげし雲峯」

 

とあるが、この中の曾良の一句が用いられたか。

 芭蕉の三句は会覚に贈った真蹟短冊が残っている。

 

季語は「つばくら」で春、鳥類。