10月10日

 乗り換え検索によると壬生までは三時間はかかりそうなので、それまではiPodでブラックメタルを流しながらゆっくり読書ができた。
 角田史雄の『地震の癖』(二〇〇九、講談社+α新書)は、予想以上に画期的な本だった。
 ブルーハーツの唄に「今まで覚えた全部、でたらめだったら面白い」というのがあるが、七十年代から盛んに喧伝され、今や常識にまでなったプレート・テクトニクス理論や大陸移動説が実はでたらめだったということになると、こんな面白いことはない。これは水生人類説や石油無機起源説に匹敵するか、それ以上かもしれない。
 まあ、相対性理論もひょっとしたらひっくり返るかもしれないご時世だから、これぐらいのことで驚いてはいけないのかもしれない。定説なんてのは所詮は信仰だ。

 十時ごろ、ようやく壬生駅に着いた頃には一冊読み終わっていた。この前は幻想的なんて書いたが、静かだけど小奇麗な感じの町だ。蘭学通りは電線を地下に埋めていてすっきりしているし、いたるところに蘭学と街道の町として盛り上げようとしている息ごみが伝わってくる。
 まず駅の反対側の縄解地蔵尊に行ったが、お地蔵さんは堂の中で見ることができなかった。近くにローソンを見つけたので行ってみると、にゃんこ先生の一番くじをやっていた。F賞のハンドタオルだった。店の人がフレンドリーに話しかけてくるところなど都会のコンビにではありえない雰囲気だった。
 蘭学通りに戻り、長屋門を右に曲がり、町役場の前の雷電宮を拝んでから、その奥の雄琴神社に向った。


 雄琴神社は大きな赤鳥居から二の鳥居まで長い参道があり、二の鳥居をくぐると古い楼門があり、その向こうの拝殿の前に二対の狛犬が並んでいた。手前のは天保十年銘、後のは明和六年銘とかなり古い。明和の方は顔が逆三角で狛犬▽。本殿は貞享三年にできたということで、芭蕉が歩いた時代から既にあったようだ。


 ふたたび蘭学通りに戻り、大師町南を左に曲がると愛宕神社があり、銘はないが昭和風の招魂社系狛犬があった。

 さらに少し行った所を左に折れて精忠神社に向った。ここの狛犬も嘉永二年銘で、またしても江戸時代。このあたりも古い狛犬の宝庫だ。

 このあと352号線をひたすら進むことになる。北関東自動車道の下をくぐり、次の角のセブンイレブンの裏に金売り吉次の墓があった。といっても金売り吉次って誰って感じだが、源義経と一緒に平泉に向かう時にここで倒れた人らしい。曾良が「旅日記」に「ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」と記しているから、芭蕉と曾良も見たのだろう。近くに吉次の守護仏である観音様を祭ったお堂があった。



 その少し先に稲葉の一里塚があった。
 このもう少し先左側に梅林天満宮がある。ここにも狛犬があり、銘はなく、かなり磨耗しているが、なかなか味のある狛犬だ。


 北赤塚の判官塚古墳の反対側にも神社があり、そこにも狛犬があった。ここにも何気に安政五年の銘があった。あとでどこかの塀に張ってあった地図を見ると、磐裂根裂神社と書いてあった。磐裂根裂はなんて読むのかわからなかったが、家に帰ってから調べたら「いわさくねさく」だそうだ。


 やがて一里塚が見えてきて、そこから先は昔の街道の杉並木が残っていた。その横の木が茂ってる所に赤い鳥居があり、よく見るとその隣に石の鳥居もあった。磐裂根裂神社もそうだが、このあたりの神社は注連縄が低くたらしてあって、中央が太くなっている。これをくぐって通る形になる。愛宕神社だが、狛犬はなかった。
 並木道に戻ると左は千趣会ベルメゾンの巨大な配送センターがある。よく見ると杉じゃない木もあり、後から足したのだろうか。並木道を行くとやがて東北自動車道をくぐり、293号線と合流する追分交差点がある。このあたりから楡木宿になる。293号線はかつての日光例幣使街道だ。
 楡木の北のはずれの奈佐原に奈佐原神社があった。ここも古い狛犬の宝庫で、拝殿前の狛犬は天保五年銘、境内社の前には2対の狛犬があったが、手前の方は安政六年の銘が見て取れた。奥の方はよくわからなかったが、やはり古いそうだ。鳥居の前にも一対の狛犬があり、銘はわからなかったがやはりかなり古いもののようだ。(ネットで調べた所によると、鳥居の前のは安政六年、境内社の奥のは天保六年だという。


 樅山駅を過ぎると、生子神社(いきこじんじゃ)の入口の看板が見える。泣き相撲で有名だという。そういえば赤ちゃんの泣き声の大きさを競わせるというのは、何かテレビで見たような気がする。
 ところで、壬生道の道端には「馬力神」と書いた石塔がいくつかあった。生子神社へ行く途中でも見かけたが、最初は馬頭観音の一種かと思ったが、どうもそうではないらしい。元は愛馬の供養塔だったものが、明治になるとこのあたりは軍馬の産地になり、戦死した軍馬の供養塔として数多く建てられたようだ。それとは別に日露戦争徴馬記念碑もどこかで見た。
 馬は人間のように靖国神社に入ることはできないが、戦争で死んだ馬だって英霊には違いない。藁にまみれて手塩にかけて育てた馬を偲んで、この土地の人は馬力神として祀っていたのだろう。


 生子神社にはその泣き相撲のための土俵があった。狛犬は安政四年銘。

 ここまで来ると、鹿沼はすぐそこだ。新鹿沼駅前まで来ると旧市街に入る。やはり昭和を思わせるようなうらぶれた商店街が続く。
 こういう景色は古い町ではどこにでもある風景で、昔ながらの商店主は昔ながらのお客さんの相手をし、昔ながらの付き合いのある問屋から仕入れていて、みんなそろって年取って行くから、昔ながらのやり方をわざわざ変える必要もなく、そこだけ時間が止まったようになってしまう。


 若者は郊外の新市街に逃れ、そこには日本中どこへ行っても同じような郊外型店舗やコンビニが並ぶ。鹿沼もそんな感じの町のようだ。
 幸手や鷲宮は、本来は時間の止まったような旧市外に、急にアニメで町興しを始め、何とか変ろうと努力を始めたのだろう。「らき☆すた」とは程遠そうなじいさんばあさんが「つんだれソース」を売っている光景は、ほほえましい。壬生もやはり観光名所で町興しをしようとがんばっている。こうした所には旧市街と新市街の分離がそれほどない。だが、鹿沼は分離してしまった町のように見えた。かえって町が大きいとそうなるのかもしれない。
 東武線新鹿沼駅で今日の旅は終った。さすがにここまで来ると列車の本数は少ない。特急電車は満席のようで、日光は紅葉の季節でにぎわっているようだ。多分あと二回くらいで日光にたどり着けるだろう。
 そういえば、今回も駅前の酒屋で地酒を探した。鹿沼の日本酒は品切れということで、「美ろく」という芋焼酎を買った。鹿児島以外の芋焼酎は初めてだったが、これがなかなか旨かった。


 一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上剋、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ剋、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。大楽院ヘ使僧ヲ被添。折節大楽院客有之。未ノ下剋迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ坊ニ宿。壱五弐四。

                   (『曾良旅日記』より)

10月30日

 今日は一気に鹿沼から日光まで行った。
 乗り換え検索は今回もバッチリで、八時四十五分に新鹿沼に着いた。
 途中北千住の乗換えで東武線のホームを探してしまったが、十分快速電車に間に合った。
 わずか2時間半で、さすがに東武の快速は早い。朝早いわりには結構込んでいて、座るのがやっとだった。
 家を出たときは曇っていたが、新鹿沼に着いたときには薄日が差していた。駅を出て、日光例幣使街道に出るとCoco'sの前に二荒山神社の遠鳥居の跡というのがあった。鳥居跡というくらいだから、すでに元の鳥居はない。日光開山の時に勝道上人がここに四本の榎を植え、その後源頼朝が鳥居を建てたという伝説があるだけで、江戸時代には既になかったようだ。今は二荒山神社の小さな社があり、小さな鳥居がある。ここから今日の旅の始まり。
 十月末の日曜日ということもあって、ハローウィンの仮装をした学生の一団とすれ違った。
 右側に白山神社があった。小さい神社だがちゃんと狛犬がいた。新しいもので、平成十五年銘。中心部の一部は街道の町らしく整備されている。祭りのときの使う屋台の蔵があったりして、さぞかし祭りのときは盛り上がるのだろうけど、残念ながら前回に鹿沼にたどり着いた時、ちょうど終っていた。
 さらに行くと左に戸張星宮神社があり、昭和四十九年銘の狛犬がある。


 御成橋を渡ると家は途切れ、杉並木の名残の、所々杉が残っていて、後は別の木が新たに植えられている、鹿沼に来る前にも見たような景色になる。
 右側に三つの山が並んでいる。生子神社に行く途中の端からも見えた山で、鹿沼の目印ともいえよう。地図によると赤岩山・古賀志山・天狗鳥屋となっていた。右側には二つのピークをもつ山があり、これも地図を見ると二股山というのがあるから、多分それだろう。このあたりは鹿沼土の産地のようで、土を乾かしているビニールハウスがある。

 御成橋を渡ると家は途切れ、杉並木の名残の、所々杉が残っていて、後は別の木が新たに植えられている、鹿沼に来る前にも見たような景色になる。
 右側に三つの山が並んでいる。生子神社に行く途中の端からも見えた山で、鹿沼の目印ともいえよう。地図によると赤岩山・古賀志山・天狗鳥屋となっていた。右側には二つのピークをもつ山があり、これも地図を見ると二股山というのがあるから、多分それだろう。このあたりは鹿沼土の産地のようで、土を乾かしているビニールハウスがある。


 御成橋を渡ると家は途切れ、杉並木の名残の、所々杉が残っていて、後は別の木が新たに植えられている、鹿沼に来る前にも見たような景色になる。

 富岡のあたりから本格的な杉並木になり、並木の外側の歩道を歩くことになる。人通りも少なく、人と出会うと挨拶を交わす。都会では考えられないことだ。
 杉並木の中を爆音を立てて何台ものバイクが通って行く。このあたりにはまだ暴走族がいるんだと思うと、何か懐かしい。

 杉並木暴走族も秋深し

 小山に着いた時は三十五度の暑さだったのを思い出し、

 炎天の道今はせいたかあわだち草

 あまり暖かいので、旧暦が十月だということを忘れてた。
 松平正綱の杉並木寄進の碑があり、このあたりから日光市に入る。とはいえ、このあたりは元は今市市で、看板やなんかには未だに今市市と書いてあるものが多い。平成の大合併で消滅したようだ。
 道路の案内板でも日光市まで何キロって書いてあるが、あれも今市までの距離で、日光駅のあるあたりまでの距離ではない。ただ、日光市に相応しいのは、前方に男体山が見えてくるところだ。
 やがて杉並木の合間からJRの文挟駅が見えてくる、ここを過ぎると杉並木が途切れ、文挟(ふばさみ)宿になる。曾良が「火バサミ」と書き誤った所だ。多分この辺の人に聞いたので訛ってて聞き違えたのだろう。
 このあたりの杉並木は保存レベルが三つあって、特別保護地域、保護地域、普通地域に分かれている。かつての宿場のあったあたりは普通地域になっているようだ。
 右へ分かれる道があり、その角に二荒山神社がある。境内社の星宮神社の前には慶應三年銘の古い狛犬があった。


 ふたたび杉並木になる。ホテル(ラブホと思われる)「ヒグラシ」の看板のあるあたりで、草のなかでガサゴソ音がすると思ったら、雉のつがいが飛び立っていった。こんなに間近で野生の雉を見るのは初めてだ。
 それから少し行くと歩く人も稀なのか、車道脇の歩道は草に埋もれて歩きにくくなってくる。左にヨックモックの工場が見える。ところで、このあたりの道端に、赤い実の粒々がたくさん固まってなっている草をよく見るが、これは何なのだろうか。あとでネットで調べたが、マムシグサの実か。
 ヨックモックを過ぎると道は良くなる。しかし、行けども行けども杉並木だ。昔の人はよくこれだけの杉を植えたものだ。
 そろそろ十二時になる。天気予報はたがわず、どんより曇ってきた。
 やがて板橋の交差点が見えてくる。板橋宿のあったところで、曾良も記している。板橋交差点のすぐ先で道が二つに分かれ、右は日光宇都宮道路に通じる新道で、左が日光例幣使街道だ。


 このあたりからふたたび杉並木の特別保護地域になるが、側道がない。仕方なく車道を歩くが、車が結構ぶんぶんと通る。かといって道路わきに行くと道になってなくて草や枝に足を取られる。そうこうしているうちに、頬にポツリと冷たいものが。
 そういえば、芭蕉と曾良が鹿沼を発ったときも「前夜ヨリ小雨降‥(略)‥止テハ折々小雨ス。終日雲」とある。前日の天気予報では雨マークが消えていたが、芭蕉の旅に合わせて雨が降ったのだろうか。
 それにしても、最初は凄いなと思った杉並木も、このあたりに来るとそろそろ飽きてくる。なんか金太郎飴のように、行けども行けども同じような景色が延々と続く。これは昔の旅人も結構退屈したのではないか。
 日光宇都宮道路をくぐると、峠のように下り坂に変った。今市はもうそんなに遠くないだろう。室瀬一里塚があった。
 幸い雨は強くならず、ほどなくJRの踏み切りが見えてきて、今市の市街地に入った。
 今市で日光例幣使街道と日光街道が合流する。合流点には追分地蔵尊がある。ここのお地蔵さんはかなり大きくて、普通の仏像のように座っている。だが、赤い涎掛けをしているから、やはりお地蔵さんだ。徳川吉宗の時代にはあったというが、芭蕉の時代にはまだなかったのだろう。


 近くに二宮神社があり、二宮尊徳の墓があった。生まれは小田原だが、栃木県の方に引き抜かれて、最後は日光山領の経営をしていたようだ。二宮神社には明治四十二年銘の狛犬がある。


 最初は東武線下今市駅までいければと思っていたが、時間はまだ午後二時半で、この調子だと何とか日光までいけそうな気がした。前回は生子神社を出たあたりから足が痛くなったが、今日はまだ調子がいい。
 日光へ向って日光街道を歩き始めると、左に瀧尾神社の大きな木の鳥居があった。風車を祭る神社で境内に点々と風車があった。狛犬は三対あり、一番奥にある物はブロンズ製、銘はわからなかった。叶願橋の前の狛犬は大正二年の銘があった。入口の鳥居脇にあるものはネットで調べたら天保七年のものだという。左右とも角がある。


 日光街道の反対側は杉並木公園で、しばらく車の通らない杉並木の道が続く。途中、高龗神社があった。何と読むのかわからなかったが、「たかお」と読むらしい。狛犬は明治四十四年銘。

 しばらく日光街道と並行した旧道を行くが、ここも行けども行けども杉並木だ。途中、馬頭観音塔や馬力神塔がたくさん並んでいる所があった。三十分くらい行くと日光街道の新道に合流する。ここからは車道を歩くことになる。
 江戸幕府がこれだけの杉並木を整備したのは、おそらく旅人へのサービスでもなければ、単なる威信でもないだろう。
 最大の目的は、おそらく旅人に決まった道を歩かせ、寄り道や抜け道をさせないということではなかったか。決まった立派な道がある以上、あえてそこを通らないものは「怪しい」とみなすことができる。

 幕府が直接手を下さなくても、周辺住民が、道を外れて旅するものがいたら自然と怪しいやつではないかと疑うようになる。それが治安の維持につながるという発想によるものではなかったかと思う。これだけ目立つ杉並木なら「道を間違えた」という言い訳は通用しそうにない。


 中世の日本には職人、芸能、商人などたくさんの人が自由に旅し一所不住の生活をしていた。江戸幕府はこうした人たちを定住させ、町の一角に封じ込めていった。それと同じように旅する際にも決められた道を通るように封じ込めていった。それがこの杉並木だったのではなかったか。
 そう考えると、芭蕉と曾良が壬生道を一時的に離れて室の八島に立ち寄ったのは、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
 新道に出ると、目の前に大きく男体山が見えてくる。ここから先が着きそうで着かない。七里のあたりになると、足が何となく攣りそうな感じになってきて、立ち止まったりゆっくり歩いたりしながら進む。
 ようやくJRの線路をくぐると、JRの日光駅が見えてくる。この少し先が東武日光だ。道が広くなり土産物屋が並ぶ、観光地ならではの風景に変る。ついに日光に到着だ。

 時計を見ると四時半。芭蕉と曾良は辰上刻(不定時法で六時半頃か)に宿を出て、正午ごろ着いたというから、二時間以上遅いペースで歩いたことになる。芭蕉と曾良はほとんど寄り道しなかったのだろう。
 おみやげに「うまかんべ」という酒を買って帰った。帰りの電車ではフランス語やら中国語やらが聞こえてくる。さすがに世界遺産だ。


11月3日

 前回は日光に到着したが、駅前の土産物屋を見ただけで帰ってきてしまった。今日は同行二人で、東照宮参拝。
 (同行二人というのは、お遍路さんが一人旅でも弘法さんと一緒という意味で笠に書き付けたりするが、ここはその意味ではなく、芭蕉が曾良と二人で旅すると言う意味で書き付けたほうの意味。)
 今日はこの前よりは若干遅めで、七時ごろに家を出て、北千住から東武の快速に乗った。今日は混んでて座れなかった。周りは中国人ばかりで、どうやら貧乏な日本人とリッチな中国人は同じレベルのようだ。
 晴れて暑くなるという予想に反して、朝からどんより曇っていて、日光に着いたときにはポツリポツリと雨まで降り出した。どうやら天気の方は今日も、芭蕉と曾良の旅した日に合わせてくれたようだ。
 昼飯に金谷ホテルのパンを買い、土産物屋の並ぶ街道を歩き始めた。早速二匹の猫に出会った。猫使いと旅をすると、自然と猫が寄ってくるのか。
 入場料を払って神橋を渡った。ただ、通り抜けはできなくて、渡ったらまた引き返してくるようになっていた。神橋は修学旅行だとバスから眺めるだけで、ほんの一瞬チラッと見えるだけだった。季節がら、七五三の着物を来た子供が来ていて、記念写真を撮っていた。


 輪王寺は修復中で本堂が完全に建物に覆われていた。ここは今日はパス。
 東照宮はさすがに人が多かった。
 狛犬もたくさんあった。まず仁王門の裏、次に陽明門の裏、この二対は神殿狛犬で金ぴかに彩色されていた。眠り猫を見ておく院へ進むと、途中に寛永の石の狛犬が一対、これは松平正綱寄進のもので、立て札にそう書いてあった。あの杉並木を寄進した人だ。石の狛犬としては最古の部類に属するが、ほとんど欠けた所がなく完全な形で残っている。さすがに日光東照宮だ。
 その先の鋳抜門前にブロンズの狛犬があった。ブロンズ狛犬は遠くで眺めるだけだった。家康の棺のある御宝塔の前に、鶴亀と一緒に玉取りの獅子があるが、これは片方だけ。戻ってくると陽明門の前に石の柵を背にした逆の方向を向いた狛犬があった。「飛び越えの獅子」というらしい。来る時には柵の影になっていて気づかなかった。


 三猿のある神厩舎は、修学旅行の時は三猿しか印象に残ってなかったが、他の猿の像もわかると面白い。遠くを眺める猿があって、その隣に三猿が来る。
 三猿は庚申塔にも刻まれていたりするように、本来は道教の三尸の虫が人間の体から抜け出して、天帝にその人間の罪をチクるというので、それを防ぐために夜通し起きているというところから来たもので、いつの間にかその夜が「庚申(かのえさる)」の日であるところから、三匹の猿に摩り替わったのだろう。罪をチクらないように、何も聞かなかった言わなかった見なかったという姿で描かれる。
 次に空を見上げている猿が来る。おそらく月を見ているのであろう。次に下を見下ろす猿と下に向って手を伸ばす猿が来る。これは池に移った月を取ろうとする猿なのだろう。若い頃は遠い目をしていた猿も、罪を知ると目を閉ざすようになり、月を取ろうなどという分不相応な野望を抱いては、池の月をすくおうなどという愚行を繰り返す。まあ、人生というのはそんなものか。

 陽明門もたくさんの彫刻がある。碁をする聖人、麒麟?に跨った聖人、ふにーとした虎など、全部解読していると、本当に日暮しの門になりそうだ。誰かそういう研究をしている人はいないのだろうか。



 次に隣の二荒山神社に行った。ここは特に縁結びに力を入れることで東照宮と差別化しているようだった。狛犬はなかった。境内社が境内社と思えないくらい立派な建物で、さすがこのクラスの神社は違うと思った。
 そのあと田母沢御用邸記念講演で昼食を食べた。途中大正三年の古い教会があった。なかなか味のある洋館だ。

 その少し先の空き地でも白猫に出会う。今日三匹目。
 東照宮は一回りするだけでかなり時間がかかり、日帰りの旅ではこれくらいが限界で、すぐに帰路についた。芭蕉と曾良も、早朝に鹿沼を出発して昼ごろ日光に着き、東照宮近辺を回ってその日は上鉢石の仏五左衛門の家に泊まり、含満淵と裏見の滝を見たのは翌日だった。修学旅行のコースでも一日は華厳の瀧・奥日光、もう一日が東照宮周辺だった。そういうものだろう。
 なお、『奥の細道』では、その年には存在しなかった三月二十九日に仏五左衛門の家に泊まり、翌日東照宮を参拝してから裏見の瀧へ行ったことになっている。森晶麿の「奥ノ細道オブ・ザ・デッド」も同じ。
 帰りは下今市からスペーシアに乗って新宿へ出た。朝来た時と違って、聞こえてくるのは日本語だけだった。これが日本人の経済力だ、というところか。
 渋谷で久しぶりに居酒屋へ行った。この頃の居酒屋は均一料金でタッチパネルで注文と、なかなか進化していた。盛りだくさんの一日だった。
 「日光を見ずして結構というなかれ」というのは昔の人の言葉だが、今の言葉だと「結構」はNo thanksの意味で使われるのがほとんどなので、「日光サイコー」の方がいいかもしれない。


 一 同二日 天気快晴。辰の中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・大田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカカルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越。せノ尾・川室ト云村ヘカカリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

   ○今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。

  ○大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。

  ○船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。

 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

 一 同三日 快晴。辰上剋、玉入ヲ立。鷹内へ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。

                   (『曾良旅日記』より)

11月24日

 今年は多分これで最後になるだろう「奥の細道」を歩く旅の続きで、今日は日光で見残した憾満ガ淵、裏見の瀧を見た後、大谷川の北側を通り、瀬尾を経て東武線の大桑駅まで歩いた。
 鹿沼へ行った時と同様、朝早く出て、日光到着は九時二十分だった。
 曾良の「旅日記」の「同二日、天気快晴」の記述に合わせたかのように、今日は朝から快晴だった。前に日光へ行ったときから二十日が過ぎ、紅葉は見ごろを過ぎて山は冬枯れになっていた。
 神橋を横に見ながら日光橋を渡り、ホテルいろはの手前を左に入ると、人はいなくて静かだった。
 ひぐらし荘の先に磐裂神社があった。境内は苔むしていて庚申塔がたくさんあった。


 その先の浄光寺の前を左に行くと橋があり、憾満ガ淵(含満ガ淵)は川の反対側だった。
 慈雲寺の小さな山門をくぐると小さなお堂があり、その向こうにお地蔵さんが並ぶ。右側に川が見えてきて、大きな岩の間をすべるように水が流れてゆく、これが憾満ガ淵だ。
 小さな東屋のようなものがあるが、これは霊庇閣という、護摩供養のための護摩壇らしい。対岸の岩には何かが書かれているようだがよくわからなかった。(ネットで調べてみると凡字だという。)説明版には「対岸の不動明王の石像」とあるが、それもどこなのかわからなかった。とにかくここが憾満ガ淵の中心のようだ。
 そこから先もお地蔵さんが並び、遊歩道は川から離れてゆく。そこに小さな稲荷神社があった。額には糠塚稲荷社と書かれていた。


 しばらく行くと大日橋があり、再び川に出る。橋を渡って下に下りると大日寺の跡があり、芭蕉の「あらたふと青葉若葉の日の光」の句碑があった。
 120号線に出るとすぐに裏見の滝へゆく分岐点に出る。そこから2.5キロという表示がある。
 日光三名瀑の一つでありながら、今はやや忘れられたような存在で、車もほとんど通らない。右側には古河電工の所有地の看板があり、整然とした住宅地になっている。その先には安良沢浄水所があって、タンクには大きく「日本の光。日光 NIKKOU is NIPPON」と書かれている。
 あと五百メートルのところに駐車場があり、ここから先は遊歩道になっている。最初の急な登りはけっこうしびれる。
 登り切るとその先に滝が見えるが、まだあれではない。
 途中、小さな石仏があり、その向こうにも滝が見えたが、それもまだ違う。そのさらに奥に見えたのが本物のようだった。
 近くへゆくと遊歩道は小さな展望台みたいな所で終っている。
 滝の裏へと、なるほど人がやっと通れるかどうかの獣道のようなものがあるが、滝の水に濡れてかなり危険そうだ。
 途中に仏像があり、滝の裏を過ぎると板が斜めに渡してあって、さらに奥に登れるようだが、さすがに今日のいでたちを考えると、「そんな装備で大丈夫か」と言われそうで、結局展望台止まりにした。


 裏見の滝を見終わって駐車場まで降りてくるとちょうど十二時で、曾良「旅日記」の「漸ク及午」と重なる。ただ、芭蕉と曾良の場合は逆コースで、憾満ガ淵を見終わったのが十二時ごろだったか。
 この二つの名所を廻ってみて気付くのは、どちらも「手つかずの自然」ではないということだ。憾満ガ淵では岩に梵字が描かれ、対岸に霊庇閣が建てられているし、裏見の滝の滝裏の道も人工的なもので、そこに仏が祀られている。
 いずれも人が手を加えた宗教施設であり、いわば聖地だ。
 日本人が自然そのものの美しさを求めて旅をするようになったのは、明治に入って西洋の影響を受けてからで、それ以前は旅というと、寺社や歌枕などの巡礼だった。
 奥日光もかつては修験者の修行の場であり、一般人が入れるようになったのは近代になってからだった。それ以前は、自然そのものというのは畏怖すべき神の領域であり、美の対象ではなかった。
 120号線に戻り、日光駅の方へと戻る。この頃から空はどんよりと曇ってきた。
 途中、夜鳴き石、花石神社、日光八幡宮、青龍神社があった。
 花石神社の鳥居の脇には若山牧水の歌碑があり、境内には焼加羅(たきがら)の碑という元禄十一年に死んだ名馬の碑があった。芭蕉が来たときにはまだ健在だったから、見たりしたのだろうか。
 日光八幡宮には大正十一年銘の狛犬があり、これが今日の初狛犬となる。隣に輪王寺の釈迦堂と延命地蔵尊がある。
 青龍神社には苔むした古い狛犬があった。銘は見つからなかったが、ネットによると明暦(一六五五~一六五七)の狛犬だという。阿形の方は鼻が欠けて下唇が突き出たように見える。


 東照宮の前で昼飯に湯葉丼を食ったあと、鉢石のあたりの酒屋でお土産のお酒(自然醸 清開)を買い、東武日光駅の手前の信号を左に曲がり、川を渡り、東武大桑駅へと向った。
 とりあえず霧降大橋をわたり、右に曲り、県道247線に入った。川の向こうには東武日光駅の三角屋根が見える。さらば日光。
 日光市には公園が多い。少し行くと右には運動公園、左側も公園になっていて松並木の散歩道が道路に並行している。別にこれが旧道というわけではないのだろう。芭蕉の通った道は抜け道で、特に街道ではなかったのだろう。だから、それがどこにあったのか、今となってはわからない。ただ、大谷川の北岸のどこかを歩いたのは確かだろう。
 左側の公園の道は程なく途切れて、県道247に戻る。右側はゴルフ場が延々と続く。
 右側のゴルフ場が終り、東照宮晃陽苑があり、その先に今市特別支援学校が見えてくると、その先にもまた公園があり、左側にも教習所のミニチ


ュアのような交通公園のようなものが見える。その先に分岐点があり、ここが旧道の入口のようだ。

 曲がるとすぐに男体山の石塔があり、その横には石祠や石仏が並んでいた。こういうものを見ると、ここは古くからある道なのだという実感がわいてくる。これまでの県道247では、こういうものは見なかった。

 その先にも馬力神、馬頭観音などの石塔があり、こういう道なら、芭蕉が通ったとしてもおかしくはない。ただ、この道も瀬尾の交差点を過ぎると急に細くなり、やがて途切れてしまった。

 この道は今でも抜け道なのか、車が時折通る。その車の流れにしたがって右に曲がり、次を左に曲がって道なりに行くと大桑バイパスのセブンイレブンの裏に出る。

 道の反対側にはココスがあって、その向こうには杉並木が見える。会津西街道だ。会津若松へと続く道で、途中にはあの大内宿もある。東武鬼怒川線が並行して通っていて、大桑もその宿場の一つだった。

  曾良の「旅日記」には大桑宿の記述がないので、そのあたりは通ってないとすると、おそらく古大谷川に沿った、瀬尾から川室へと最短コースで抜けてゆく道があったのだろう。

 ところで、その方向に進もうにも、まず大桑バイパスには信号も横断歩道もない。車の途切れたのを見計らって自力で渡れということなのか。渡ったはいいが、右側にあの杉並木のほうに抜ける道がない。

 結局さっきのセブンイレブンのあたりまで戻り、会津西街道の杉並木の道に出る。そうこうしているうちにもうすぐ4時。日も傾いていて薄暗くなってくる。とりあえず大桑駅まで急ごうということで、そのまま会津西街道を歩き続けた。

 つい一ヶ月前、一生分の杉並木を見たと思ってたが、今日もまた延々と杉並木。

 かろうじて四時二分の快速に間に合ったと思ったら、ダイヤが乱れていて三十八分遅れているとのこと。結局十五分くらいして区間快速が来た。取りあえずこれに乗って帰ったが、予定より三十分は遅くなり、家に帰ったのは八時過ぎていた。

 今回の場合は一時ごろ鉢石を出て、三時間でようやく大桑までだった。瀬尾の先で迷ったことと、最短コースで大渡りに向かわなかったという点では、最短コースを行っていれば三時間で大渡までいけたかもしれない。

 芭蕉が日光をあとにしたのが午の刻で、これが午の上刻(十一時前)だったとすると、日光発は二時間くらいしか差がなかったことになる。それから芭蕉は未ノ上刻(一時半くらい)から雷雨に合い難儀したとあるが、この頃には既に大渡から鬼怒川を渡り、船生を過ぎていたとすれば、ここまで二時間半で歩いたことになる。大渡まで「三里に少し遠し」と書いているわりにはハイペース過ぎる。

 芭蕉と曾良はマラソンでもしたというのか。あるいは古大谷川を下る船でもあったのか。日光から大渡に至る行程はやはり謎だ。

2012年3月20日

 今日は「奥の細道」の旅の続きで、大桑をスタートした。
 朝六時前に出発して、大桑到着は予定通り九時十六分。
 田園都市線は下りがかなり遅れていて心配したが、上りは通常通り動いていた。北千住で東武線の快速に乗った。
 一昨日までの天気予報では曇りだったが、前日に晴れ曇りに変り、今日は朝から多少雲があったものの、栃木県に入るころには快晴となる。これも日頃の行いがよかったせいだろう。電車の中からも、雪を被った日光の山々がくっきりと見える。
 下今市で大きなカメラを提げた車両の写真を撮っている一団がいた。服装からして中国の留学生かと思ったら、喋ってるのは日本語で、テツの一団だったようだ。アニメオタクが結構おしゃれになったのに対して、テツは昔ながらだ。
 大桑駅を下りて、大桑バイパスの歩道橋を渡り、突き当たりを右に曲がると、長閑な農村風景が続き、道路脇の水路には鮮やかの緑の水草が生えていた。

 水草の緑に水もぬるむかも

 道端にはイヌフグリの花も咲き、風はまだ冷たいけどようやく春らしくなってきた。

 寒空の一番星か、いぬふぐり

 少し行くと川室の公民館があった。川室は曾良の「旅日記」にも出てくる。だが、芭蕉と曾良がどのルートを取ったかは定かでない。瀬尾から真直ぐ日光北街道には言った方が最短コースだと思うのだが、芭蕉はこの川室を経由している。
 公民館の少し先に道祖神の社があり、男根型の道祖神が大小二体あった。
 すぐに日光広域農道に入る。広い道は大型トラックが通るが、杉並木の道よりは歩きやすい。
 大渡りに近くなったあたりに貴船神社と刻まれた石柱が立っていた。


 そこから斜めに戻るような形で参道があり、その先に鳥居が見えた。狛犬はないのかと思ったら、拝殿の階段の脇に小さな狛犬が置いてあった。だいぶ磨り減っていて江戸中期のものを思わせるようなデザインだが表面は奇麗で、いつのものかは定かでない。足元に木の葉の上に飯が盛られていた。何か「万葉集」の世界だ。 

 戻るとすぐに「大渡」と書いてある交差点に出た。振り返ると鳥居があり、小さな社と、となりにはお堂があり、本地垂迹両方そろっていた。

 このあたりには大谷石の蔵がたくさんあるが、結構新しそうなものも多く、窓の所にいろいろな装飾が施されている。大渡り交差点を過ぎると大谷石でできた消防団の建物があった。

 やがて左に折れると東照温泉の建物があり、その先に「のらないよ!しらない車 とどろく小PTA」と書いた小さな立て札があった。

 田舎の方は、歩いていると泊まって乗せて車があったりするが、実際には親切な人ばかりでもないのだろう。

 轟(とどろく)というのは川室の南側の日光北街道沿いにある地名で、芭蕉らが黒羽で巻いた俳諧連歌に、


   尋ルに火を焼付る家もなし

 盗人こはき廿六(とどろく)の里    翠桃


の句がある。ここには轟早進という、名前のとおり足の早い義賊がいたらしい。

 芭蕉が日光北街道を避けたことをネタにした、さては盗賊が恐くて避けたかという句だったのかもしれない。これに対し芭蕉は、


   盗人こはき廿六の里

 松の根に笈をならべて年とらん    芭蕉


 旅の僧に取られるようなものは何もなく、ただ歳を取るだけだ、と答えている。

 すぐ先に橋があり、鬼怒川を渡る。曾良の「旅日記」には、
 「絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。」
とあり、普段は渡し舟があるが、水量の少ない時には仮橋が架かっていたようだ。
 大渡はその名のとおり、川幅が広くなっていてその分浅く渡りやすかったのだろう。
 橋を渡り、船場の信号を右に行き、日光北街道の旧道と船生バイパスとの分岐店で右下に降りる道があり、河原に出る。旧道はここから始まっていたのだろう。途中聖徳太子の石塔があるが、そんなに古いものではない。
 むしろバイパスとの分岐店を過ぎた旧道に、古い馬頭観音や庚申塔などが並ぶ。馬頭観音塔については地元の人が「お馬さんのお墓だ」と説明していた。
 しばらく行くと船生(ふにゅう)宿の中心に出る。静かな町だ。右側に小さな鳥居があり、愛宕神社の石祠がある。

 中心部をやや過ぎたあたりに廃墟となった大きな駐車場のある店(ファミマが天頂に移転した跡か?)があり、その角に新しい「芭蕉通り」の刻まれた道標があった。岩戸別神社の入口にもなっていて、遠くに鳥居が見える。
 行ってみると、途中に駐車場があり公衆便所があったのはありがたく、その先は公園として整備され、そこにも同じような「芭蕉通り」と刻まれた石があった。地図には「ほたるの里」と記されている。芭蕉と螢で観光を盛り上げようとしているのだろうか。人の気配はなく閑散としていて、トイレも大の方は故障中だった。まだ兵どもが夢の跡というには早いが、町興しもなかなか難しい。
 岩戸別神社は天手力雄命(あまのたぢからをのみこと)を祀った神社で、力岩や力の文字の刻まれた巨大な臼、それにお守りや絵馬にも「力」の一字が書かれていて、文字通りパワースポットとして盛り上げようとしている。
 狛犬は明治四十四年銘で以前那須の方で見たような角ばったいかつい顔をしている。
 夢福神という獏のキャラがいたが、石像の方は某有名ネズミキャラに似ている。


 岩戸別神社を出て、日光北街道に戻ると、板橋区公民館と書いた建物があった。こんな所に板橋区が、と思ったが、このあたりの地名が板橋だった。
 しばらくして天頂という交差点で船生バイパスと合流し、ファミマがある。今日初めて見るコンビニだ。
 ここから山あいの道になり、玉生(たまにゅう)へと向う。

 曾良の「旅日記」には、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。」
とある。未ノ上刻(1時半くらい)だが、問題は芭蕉が日光を出たのが午の刻で、これが午の上刻(十一時前)だったとしても、二時間でここまで来たことになる。

 今日の俺の足だと、大桑から大渡りの川を越えるまでで一時間以上かかっていて、前回日光から大桑までは途中迷ったりしたせいもあり、三時間かかっている。

 曾良も日光から大渡まで「三リニ少シ遠シ」と記していて、普通に歩いたら三時間以上かかるところだ。大渡から船生までは「壱リ半ト云ドモ壱里程」とあり、合わせて四里余りということになる。
 芭蕉が実は忍者で、フルマラソンを五時間くらいで走るペースで走り続けたというのを別にするなら、唯一考えられるのは、古大谷川を船で下ったのではないかということだ。
 これだと、なぜ真直ぐ轟(とどろく)の里を通らずに、川室のほうへ大きく北回りしたか説明がつく。

 芭蕉が旅する数十年前、慶長の大洪水の前は、古大谷川の方が大谷川の本流だったという。芭蕉の時代はまだ古大谷川の水量も多く、水上の交通路となっていて、仏五左衛門はそれを芭蕉に教えたのではなかったか。

 大渡まで一時間程度でショートカットできるなら、その日の内に一気に矢板まで抜けることも可能だっただろう。ただ、あいにく船生を過ぎたあたりで激しい雷雨に遭い、思うように進めず難儀した末、やむをえず玉生で宿を探すこととなった。そこであの「かさね」との出会いが生まれたのだろう。

 芭蕉と曾良は船生から玉生へ行く途中に雷雨に遭い、難儀した末に玉生に宿を求めたが、良い宿がなくて名主の家に頼み込んで泊まらせてもらい、これが『奥の細道』の、
 「那須の黒ばねと云ふ所に知る人あれば、是より野越にかゝりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行くに雨り降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。」
というあの「かさね」のエピソードの元になった。
 曾良の「旅日記」にも、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。」
とあり、『奥の細道』の本文と一致している。

 これからその舞台となった地に入るということで、天頂のファミマを出た後、玉生へと向った。
 道はほぼ真直ぐで坂もなだらかだ。ただ、昔の道はこれほど真直ぐではなく山あいを縫うように進んで行ったのだろう。


 旧道の名残はごく一部に残されていて、ここを歩いた先人がネットでupしていてくれたのでそれを尋ねながら行くことにした。
 まずは芦場新田の先の幼稚園の辺りから、その先の左へ大きくカーブする所に抜ける道だというが、幼稚園はどこにもなかった。多分公園か何かを作る工事していたあのまとまった敷地が幼稚園の跡だったのだろう。
 この工事現場の横に鳥居がある。地図で見ると芦場神社とある。
 鳥居の所から山道のような所を登っていくと、小さな社があった。五日市で見た日天神社と雰囲気が似ている。

 結局その先の左へ大きくカーブする手前を戻るように左に登っていく道の古い道標を見つけただけだった。昔の街道はこんな山道だったのだろうという、雰囲気だけは味わえた。

 地蔵坂という緩やかな上り坂を登ると、玉生の集落に出る。

 左に石垣があり、その上に墓地があり、その下を斜めに入る細い道があった。変電所の裏を通る道で、ここが旧道らしい。ただ、別のサイトによると、本当の旧道はさらに山側にあったという。確かに、今は道になっていないが、それらしきものが見えた。
 やがてバス道(と言ってもバスは一日三本くらいのようだが)に合流すると、そこに道標があった。その先に「芭蕉一宿之跡」記念碑入口と書いてある。

 矢印に従って左に行くと、空き地にかつての池の跡と思われる石がごろごろと転がった場所があり、裏手には小さな石祠がある。ここが「芭蕉遺跡 尾形医院」の跡地で、芭蕉が泊まった名主の家は時代が下って尾形医院になったようだが、それも今はない。
 その医院跡の横に「芭蕉一宿之跡 元禄二年四月二日」と刻まれた新しそうな石碑があった。これが元禄二年に立ってられたのでないことは一目瞭然だ。

 バス道に戻ると、道はすぐに右に折れ、突き当たりに伯耆根神社と書いてあったが、社や鳥居の姿は見えない。昔玉生城のあった山の上にあるらしい。
 右に曲がった所が玉生のメインストリートのようだが、この南側の一本入った細道が旧道のようだ。玉生小学校の手前で道は民家に阻まれて途絶えるが、そこに道標をかねた熊野山、湯殿山、男体山の三つの石祠が並んでいた。
 荒川という川を渡る。もちろん東京の荒川とは何の関係もない。この川は那珂川へ合流し、水戸の方へ流れている。このあたりで家が途切れると雪を被った高原山が見える。
 やがてローソンのある所で日光北街道の今の新道と合流する。道はなだらかに下り「たてば」というドライブインというか、自販機のたくさん並んだ所の先に分岐点があって、ここから右に入った所が旧道らしい。
 アスファルトで舗装された道は静かで、小山帰の小さな集落をぬうように、なだらかに行く。多


分、途中に分岐していた未舗装の林道のような道が本来の倉掛峠を越える旧道だったのだろう。そうとも知らず道なりに歩いてゆくと、峠のような所に小さな社があった。地図だと八坂神社と記されている。庚申塔やお地蔵さんなどが並んでいて、その中の一つだけ、色鮮やかな赤いものをたくさん着せられていた。
 そこから新道に合流する直前に道標があり、右日光道とあった。本来の倉掛峠の道はここに出たのだろう。
 なるほど、やはりわかりにくく、この俺も別の道を来てしまったことでもわかるように、『奥の細道』で草刈るおのこが、
 「いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐしき旅人の道(みち)ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を返し給へ」
と言って馬を貸してもらい、「かさね」という女の子とともに越えたのは、那須野ではなく倉掛峠だったのだろう。
 『奥の細道』の本文のその前の、「明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。」も、玉生の名主の家を出て、これから倉掛峠を越えて矢板に向おうとするその矢先に、玉生宿を出たあたりに野飼いの馬がいて、と読むのが自然ではなかったかと思う。
 このあたりは山といってもそれほどの高さはなく、なだらかで、「山越え」というよりは「野越え」の方が相応しい。
 曾良の「旅日記」によれば辰の上刻の出発で、卯の刻に日が昇るから、この日は朝の八時くらいの十分日が高くなってからの出発だった。この時間なら、子供たちがくっついてきてもおかしくない。

 かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良

の句の、「八重撫子」は大和撫子ではなく、おそらくオランダから入ってきたカーネーションのことだろう。
 きっと「かさね」という女の子は、ほんわかしたの平安貴族が理想とした女の子ではなく、強い目をして時折鋭いことを言うようなツンデレ系ではなかったかと思う。曾良のような学者には、その方がいろいろ刺激があって楽しかったのではないかと思う。まあ、これは勝手な妄想だが。
 このあと新道に左側にあるという、倉掛の松に通じる戸方坂というのも結局わからずに通りすぎてしまった。
 このころにはかなり疲れていたし、早く帰りたいという気持ちから、とにかく黙々と新道を矢板に向かって下っていくだけだった。
 やがて視界が開け、東北自動車道が見えてくる。着いた、という感じだ。日光から歩いてくると、何かようやく下界に戻ってきた気分になる。『奥の細道』に「頓て人里に至れば」とあるのはこういうことだったのだろう。

 さて、矢板の町に着いたらお土産の地酒でもと思って、まず道の駅に行ったが、酒のコーナーはそんなに大きくなく、めぼしいものは売り切れていた。
 町中の酒屋を探すが、ここは新鹿沼駅前以上に寂れた感じだった。まあ、多分ここも郊外に、大都市資本の大型郊外型店舗の並ぶ地域があるのだろう。
 ようやく郵便局のあたりにあった酒屋に入ると、店の棚はがらんとしていて、地酒を探していると奥からおばあさんが出て来る。何でも、あの震災の時に棚のものが一斉に崩れ落ちた恐怖から、棚の上に酒を並べるのが怖くなったのだと言う。
 それでも、地元の酒はちゃんとそろえてあった。「花子」というピンク色の瓶の酒を買って帰った。
 帰りの電車は、またしても途中の踏み切りの安全確認のために十分遅れた。
 途中「土呂」という駅に止まったとき、そういえば、宇都宮、栗橋、赤羽と聞いたことがあるようなって、みんな「ゴクジョッ。」のキャラの名前だ。それにしても栗橋南は南栗橋駅があるところからつけたのか、鉄道むすめとかぶっている。

 一 同三日 快晴 。辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

 一 四日 浄法寺図書ヘ被招。

 一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉。

 一 六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。 

 一 十日 雨止。日久シテ照。

 一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。

 一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。

 一 十三日 天気吉。津久井氏被見廻テ、八幡ヘ参詣被誘引。

 一 十四日 雨降リ、図書被見廻終日。重之内持参。

 一 十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ被参。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参 。

 一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。

 一 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間は太田原ヨリ三里之鍋かけヨリ五、六丁西。

                   (『曾良旅日記』より)

4月30日

 今日は「奥の細道」の旅の続きということで、矢板スタート。
 朝六時に家を出て、矢板着が九時四十分。
 西口を出て扇町から461号線の陸橋の方へ行く。陸橋前から左ヘ行く道が旧道なのだろうけど、線路で途切れている。
 線路を渡って長峰公園の脇に下りて、公園の北側を行くと、長峰霊園の脇に出、更に行くとやがて日光北街道旧道の分岐点がある。旧道は未舗装の山道になる。
 しばらくは昔の道を偲ぶような山道が続き、視界が開けると工事現場の塀のような所に「奥の細道」の解説が書かれていて、その先に芭蕉と曾良の像がある。古池の句も刻まれていたが、もうひとつ、「宇久ひ寿や柳のうし路藪の前 玄甫」の句碑があった。天保五年と書いてあるけど、どう見ても最近立ったものだ。
 その先、製材所の脇を通って国道4号線に出る。合流ポイントには「大聖不動明王」の額のかかった木の鳥居があり、小さな社がある。本体は


赤い衣と覆面でほとんど覆われている。後に古代の剣のような形をした金属性のものがたくさん飾ってある。「名状し難い剣のようなもの」とでもいうべきか。
 日光北街道に行くには4号線の向こうの県道52号線に行かなくてはならないのだが、信号はおろか横断歩道もない。車が途切れた隙を見て渡り若干後戻りをして県道52号線に入った。
 少し行くと新幹線の線路が見えてきて、その下の交差点に「沢」とある。曾良の「旅日記」にも出てくる沢村だ。
 新幹線の線路をくぐり少し行くと右側に鳥居が見える。行ってみると、小さな山へと路が続いていてその上に石祠があった。橿原神社と八幡神社と書かれていた。そのほかにも金毘羅社の石祠があった。
 沢の集落は大谷石の蔵や塀など大谷石を多用していて、静かな別世界のようなところだった。小さな稲荷神社があったが、狛犬やお狐さんの姿はなかった。心なしか、日光を過ぎるとかなり狛犬との遭遇率が減る。神社も小さな所が多い。
 沢を過ぎると箒川があり、そこにかかる橋が「かさね橋」となっている。

 曾良の「旅日記」が昭和十八年に発見されるまでは、芭蕉の宿泊地などはまったくわからなかったため、「奥の細道」の「かさね」のくだりは那須野ということで、このあたりと推定されてたようだ。そのため、矢板から大田原までは「かさね」の里とされている。
 いったんここがその「かさね」の舞台として流布してしまうと、あとから曾良の「旅日記」が発見され、芭蕉の宿泊地が玉生だったことが明らかになっても、そう簡単に説を変えるわけにはいかない大人の事情があるのだろう。既に観光開発されてしまったところで、実は違ってましたというわけにはいかない。
 一番手っ取り早いのは、「かさね」のエピソードそのものが虚構だとすることだろう。虚構である以上、舞台は日光から黒羽の間のどこであってもいい。
 次に考えられるのは、このエピソードが玉生を出てからしばらくしてであっても良いという説で、もちろん「かさね」そのものは「奥の細道」の登場する以外に他の史料がないため、どのみち実証できない。結局、決定的な証拠がない以上、どこでもいいということになる。
 芭蕉か曾良の真筆で、「かさね」の消息について触れた書簡とかが出てこない限り、この問題は永久に決着のつかない問題なので、まあ、それぞれの場所でうちが本家と主張しあってればいいのだろう。
 かさね橋を渡ると大田原市に入る。このあたりは麦畑と水田が入り組んでいる。麦は穂が出ているもののまだ青く、田んぼは水が張られ一部田植えが終っている。その合間に咲いているタンポポがやけに大きい。このあたりのタンポポは種類が違うのか。

 大田原、田んぼタンポポ麦畑

 また少し行くと八雲神社がある。ここにも狛犬はなく、拝殿もない。石祠が並び、その上を鞘堂が覆っている。

 その先には塩化ビニールのパイプを組んで作った鳥居があった。中は立ち入り禁止になっていたが、奥に拝殿のようなものが見える。近くのバス停には「合格神社」と書いてあった。
 さらに行くと道の左側に赤い鳥居があり、雷電神社の石祠がある。その横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた石が立っている。どうやらそこに立っている木が「なんじゃもんじゃの木」らしい。
 やがて田んぼや麦畑が少なくなり、大田原の市街地に近づく。
 サンクスのある角を過ぎると道が細くなり、旧道っぽくなる。
 そしてやがて日光北街道の新道(国道461号線)と合流する。その合流点のあたりに愛宕神社があるが、ここにも狛犬はない。社殿は公民館を兼ねていているようだ。草鞋の供えられた小さな境内社がある。
 そのすぐとなりには薬師堂があり、石の七重塔は貞享元年建立というから、芭蕉がここを通った時には既に存在していたのだろう。寛政五年のお堂もなかなかきれいだった。


 大田原信金の前には那須与一の銅像があり、金燈篭の角は公園になっていた。
 旧市街が寂れた印象なのは、鹿沼、今市、矢板と見てきて今に始まったものではないが、震災の影響もあるのかもしれない。若い活力がないと、復興への意欲も萎えてしまうのかもしれない。
 龍頭公園から大田原護国神社、大田原神社を回ったが、ここは震災後一年経ってもまだ荒れ果てたままだった。
 大田原城址のほうへ行く橋は通行止めのままだし、大田原護国神社の狛犬倒壊したまま放置されていた。右側の方は横倒しで、倒れた鳥居などの瓦礫に埋もれ、左側の方はちょっと離れた所の地面にぽつんと直置きされていた。ひっくり返った台座には昭和十六年の銘があった。

 社殿のあるはずの場所も石垣だけが残り、何もなかった。おそらく倒壊のおそれがあるというので撤去されたのだろう。
 大田原神社の方も鳥居や燈篭などに大きな被害があったようだ。
 狛犬は拝殿前に二対、手前のが昭和十五年銘、奥のが大正九年銘のがあり、こちらはどうやら無事だったようだ。

 境内の右側には狛オオカミと昭和十二年銘の小さな狛犬があった。ただ、その先には何もなく、三峰神社の社殿も撤去されたようだ。
 狛オオカミは耳が長く、ムーミン谷のスニフに似ている。ただ、阿形の方は上顎が欠けていた。ネットで五年前の写真を見たら欠けてなかったので、震災で欠けたのか。

 境内には稲荷社もあり、昭和八年銘の老獪そうなお狐さんがいた。

 石段を降りて外に出ようとすると、そこには江戸時代の古い鳥居があり、こっちの方は無事だった。あらためて昔の人の技術は凄いと思った。
 さて、今日の「奥の細道」のたびはここまでで、セーブポイントの西那須野駅へと向う。



 その前に白河中華そばよし川家で中華そばと餃子を食べた。醤油味で佐野ラーメンに似ていた。
 西那須野へはぽっぽ通りという遊歩道があった。ぽっぽといっても、どこぞの元首相とは何の関係もなく廃線跡を遊歩道として整備したからで、途中に駅もあった。
 西那須野駅の前で天鷹純米辛口をお土産に買った。駅前の交番にはなぜか巨大なピカチュウ像らしきものがあったが、警察のことだから著作権法に違反するようなことはしていないにちがいない。


5月4日

 今日は西那須野スタート。
 朝5時半に出発。天気予報は外れて、まだ雨が残っていた。
 上野駅についてスーパーラビットを待つが、宇都宮線の大雨のせいで遅れているという。結局十分遅れて出発。間々田-小山間でも徐行運転で、結局西那須野到着は九時二十五分でほぼ三十分遅れだった。
 ただ、駅の前にちょうど黒羽行きのバスが止まってたので、これに乗って大田原神社まで行くことにした。西那須野-大田原間は別に芭蕉が歩いた路でもないので、別にかまわないだろう。大田原神社は前回行っているので、路はちゃんとつながる。
 神社と城址公園を結ぶ橋をくぐると蛇尾(サビ)川を渡る。昨日からの雨でかなり増水している。そこからひたすら461号線を歩く。
 家も途切れてまっ平で見晴らしがいいが、山の方は雲がかかっている。上奥沢で広い道に合流する。脇を歩いていると、田んぼにジョボッとダゴンくんの飛び込む水の音、でなくて蛙の水音がする。蛙の声も賑やかだった。
 ここへ来るまでの電車の中で読んだラヴクラフト全集一の「インマウスの影」では半漁人というか半蛙人のようなのがいかにも不気味に描かれていたが、日本では田んぼの蛙は昔から親しまれてきたので、蛙に対するイメージも西洋人とは違うのだろう。
 ニャルラトホテプもキリスト教の文化では邪神だが、東洋では混沌は老子が「万物の母」と呼んだように、万物を生み出す元のなるもので、陰陽未分という意味では太一神に相当するのではないか。
 まあ、その辺の文化の違いからニャルラトホテプも日本だと萌えキャラになるのかもしれない。「這いよる混沌」というよりは「母なる混沌」か。

 混沌というやさしさよ蛙鳴く

 那須神社(金丸八幡宮)の近くになると、ふたたび雨が降りだした。那須神社は二年前のちょうど同じ日に一度行っている。この時は車で那須のステンドグラス博物館や殺生石を見てから黒羽を一回りし、雲巌寺を見て、最後に室の八島にも寄った。

 震災の後でも那須神社は特に変わったところはなかった。大田原神社のあたりは特別だったのか。昭和九年銘のいかつい狛犬も健在だ。
 一の鳥居のあたりには軍馬慰霊塔があった。別に珍しくもないと思うくらい、にほんでもたくさん「戦場の馬」がいたのだろう。馬頭観音塔もいたるところにあるのはそのせいもあるのか。日光より南では神道式で「馬力神」になっていたのを思い出す。
 黒羽の中心地に入る。二年前に来た時は寂れた印象があったが、今回は逆で、むしろ壬生の町みたいに旧市街と新市街が分離しない、こじんまりとしたなりの活気が感じられた。矢板や大田原を見てきたせいだろうか。
 今回は時間の都合で黒羽城址の方へは行かなかった。前回も来ているし、ここと雲巌寺への路は宿題ということにした。
 黒羽向町を左折し、芭蕉の宿泊した余瀬の方へ向った。
 光明寺跡は、前回見つけられなかったところで、芭蕉が「夏山に足駄を拝む首途哉」の句を詠んだところだ。このころ雨は止んだ。


  次に、前回も見た鹿子畑桃翠邸跡へ行った。
 十字路に出ると、そこに余瀬の芭蕉遺跡の案内板があった。前に来た時に、こんなのあったかと思ったが、ここを通らなかったから光明寺跡も見落としたということで納得した。西教寺へ行く道の途中にも馬頭観音の石塔や何かが立っている。
 西教寺には「かさねとは‥‥」の句碑があったが、さすがにここがかさねの里だというのは無理があるだろう。もとは町役場の方に立っていたものらしいが‥。
 鹿子畑桃翠邸跡はこの先を右に入った所にあり、一昨年来た時と特に変わりはなかった。

 『秣おふ』の巻の全句を書いた看板があり、そこには

    尋ルに火を焼付る家もなし
 盗人こはき廿六の里         翠桃

の句もあり、これまで歩いてきた道を思い出した。
 「不説軒一忠恕唯‥」と刻まれた翠桃の墓もそのままで、やはり辞世の歌は見つからなかった。
 それから玉藻稲荷神社に向ったが、この頃からふたたび雨が降り出し、着いた頃はどしゃ降りだった。境内は薄暗く、写真もうまく取れなかった。

 蜂巣集落センターの方に戻り、犬追物の跡を見に行こうと思ったが、この雨なので黒磯駅の方へ急ごうと思った。それに、このあたりから犬追物の跡のある場所は見える。どっちにしても何もないところだ。

 そこから北へ向い黒磯駅に向った。
 蜂巣小の先で路が分かれ、そこに最近立てられた「奥の細道」と書いた碑と馬頭観音塔があった。左の細い方の路が「奥の細道」なのか。
 雨も小降りとなり、道の脇にはスミレがたくさん咲いていた。あたりは水田や麦畑だが、昔は那須の篠原だったのだろう。
 曾良の旅日記に「‥‥余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。」とあり、ここから野間までは芭蕉は馬に乗っている。そして、この道で「野を横に馬牽むけよほととぎす」の句を詠んでいる。
 ホトトギスの声は聞こえないが、鶯は鳴いていた。
 やがて雨も上がり雲が切れて日も差込み、車もほとんど通らない長閑な田舎道が続く。いい所だ。
 羽田(はんだ)に入ると視界が開ける。天気が良いと那須の山々がくっきり見えるのだろう。今日は山頂に雲がかかっている。
 県道と交差する所に「和郷之絆」と刻まれた立派な碑がある。何の碑だかよくわからない。隣には獣畜霊魂供養塔がある。
 さらに行くと左に小さな観音堂がある。

 その先に道が左にカーブする所の突き当たりに鳥居が見える。八龍神社だ。
 狛犬は平成十八年銘で新しいが、全体に角ばった感じが那須神社の狛犬も通じる、このあたりの伝統なのだろう。


 境内に羽田太々神楽の舞台があった。このあたり特有の神楽があるのだろう。
 この先、公民館前のバス停の先を右に曲がると道は未舗装になり、田んぼの間を抜けると旧奥州街道に出る。このあたりが野間になる。
 旧奥州街道を少し行くと野間十文字がある。このあたりでは十字路のことを十文字というようだ。
 いままで八龍神社の通る道を「野を横に‥‥」の句の道だと思って歩いてきたが、実際の所はっきりとしているわけではない。
 奥の細道の碑のある分岐点を右に行き、砂の目を通り黒羽刑務所やなべかけ牧場の中を突き抜け、野間十文字に出たのかもしれない。あるいは、八龍神社の手前を右に行き野間十文字へ抜けたか、これが唯一というのを証明するのは難しいだろう。
 それと、このあたりで気になるのは、ムスカリがあぜ道などにこぼれて雑草化していることだ。スミレ、タンポポ、ハルジオン、ナガミヒナゲシなどに混じって咲いている。


 野間十文字の先に樋沢神社がある。八幡太郎義家が蹄の跡をつけたという伝説のある巨石と葛籠石がある。

 その先には鍋掛の一里塚があり、その奥には愛宕神社がある。その先すぐにファミマのある鍋掛十文字がある。

 今回はここで左に曲がり、真直ぐ黒磯の駅に向った。芭蕉はここを直進し、越掘から左折したとの説もある。ただ、曾良の「旅日記」には「鍋掛」は書いてあるが「越掘」の地名は見えない。
 問題は「旅日記」の四月十七日の「野間は太田原ヨリ三里之鍋かけヨリ五、六丁西。」という記述だが、これは高久に到着した次の日に書かれている。つまり、実際にここを通って記したというより、あとで高久で角左衛門に聞いた「野間」の奥州街道上の位置を記したと思われる。そのため大田原からの距離と鍋掛からの距離が記されているだけであり、鍋掛を通ったという証拠にはならない。
 結局、野間を通ったのは確かだけど、この間の道筋は不明というほかない。
 黒磯までの道は真直ぐな一本道だった。駅に着くとちょうど上野行きの快速ラビットが止まっていたのですぐに乗って帰った。八時半には帰れた。

 一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。 暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯元へ三リ。未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。

 一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不レ定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不レ出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。

 温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、

    湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁

  殺生石 

    石の香や夏草赤く露あつし

  正一位ノ神位被レ加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被二寄進一之由。祭礼九月二十九日。

                   (『曾良旅日記』より)

7月16日

 ようやく待ちに待った連休で、「奥の細道」の旅も再開。
 きょうは黒磯スタートということで、あさ五時に家を出て、那須塩原まで新幹線を使った。新幹線に乗るのは三十年ぶりだが、乗ってみると昔とそんなに変ってない。外見は随分変ったし、スピードも速くなっているのだろうけど。
 「♪新幹線はうんと、うんとうんと早い」なんて歌にあったとおり、七時半には那須塩原に着いた。そこから乗り換えて黒磯に着いたのは七時五十分と、今までで一番早いスタートとなった。
 ところで、空はいつのまにどんより曇っていた。東京を出たときには晴れていて、夏の富士山の黒々とした姿がくっきりと見えていたのに。那須の山々もまったく見えない。
 黒磯駅を降り、まず黒磯神社に参拝。狛犬は昭和四年銘のこのあたりに多い厳つい角ばった狛犬だった。
 境内には神馬のブロンズ像があり、面足尊・惶根尊という男女一対の神像があった。


 このあと晩翠橋を渡り、ちょっと寄り道になるが那須分岐点を右に曲がり熊田坂温泉神社に向った。珍しい狛猫に逢いに行くためだ。
 しばらくは田舎道が続き、道の脇にはユリの花が咲き、水がしょろしょろ流れ、蛙の飛び込む水の音がする。りんご園があり、東北がもうすぐそこだと感じさせる。
 熊田坂温泉神社は赤坂バス停の前にあり、短い石段を上がり、一の鳥居の前に小さな狛猫がちょこんと座っていた。耳は磨り減っていて、顔もよくわからないが、短い鼻と真直ぐでふくらみのない尻尾がお狐さんでないことを示している。

 そこからさらに石段を上がってくると、壊れた二の鳥居があり、奥に真新しい社殿があった。
 熊田坂温泉神社を出ると、芭蕉の宿泊地、高久へ向った。
 那須高原病院の前を通り左ヘ行くと聖跡愛宕山公園があり、入口の所に、

 落くるやたかくの宿の郭公 風羅坊(芭蕉)
 木の間をのそく短夜の雨 曾良

の新しい句碑があった。


 この句は郭公(ホトトギス)が落ちてきたのではない。本来、

 「みちのく一見の桑門、同行二人、なすの篠原を尋て、猶、殺生石みんと急侍るほどに、あめ降り出ければ、先、此処にとゞまり候」

という前書きがあったように、落ち来たのは芭蕉と曾良だった。
 高久の宿の高久角左衛門を郭公に例えたものだ。
 雨に降られて高久の宿にこうやって落ち延びてきたが、そこは思いもかけないホトトギスの宿だった、という意味だ。
 「たかくの宿の郭公のもとに落くるや」を倒置にして、「落くるやたかくの宿の郭公のもとに」となり、「のもとに」を省略すると、「落くるやたかくの宿の郭公」の句になる。


 曾良の脇はその補足というべきもので、「短夜の雨に木の間を覗くと、たかくの宿に‥‥」と付く。
 この公園内には高久神社があった、狛犬はなかった。
 芭蕉は旧暦四月十六日にこの地に到着し、角左衛門の家に泊まっている、その翌日は一日雨が降って足止めされ、十八日に午の刻というから、昼になってやっと出発している。この日は卯の刻、つまり夜明けの頃に地震があったことが記されている。
 芭蕉の一行は松子まで馬に乗り、未の下刻というからだいたい四時頃に那須湯元に着いている。
 那須インターまでは田舎道が続く。

 道端に牛魂碑という真新しい碑が立っていた。馬頭観音はたくさん見てきたが牛の供養等は珍しい。
 さらにいくと、マリア様の立っている十字路があった。観音様なのかもしれないが、手には緑の十字を持っている。その裏には江戸時代の古い石塔があったが、字がよく読めなかった。
 インターのすぐ先にファミマがあったが、看板が茶色で、この辺から那須高原の観光エリアに入る。看板は茶色で文字のみを記すシンプルなものに統一されている。
 曇っているとはいえ蒸し暑く、取り合えずここで一休み。サッポロの限定ビールが売っていたが、今ビールを飲んだら歩けなくなりそうだ。
 本来、那須街道はインターの料金所のあたりを通って、JOMOのスタンドのあたりに抜けていたのだろう。このあたりに左に入る小道があり、これが旧道だったと思われる。
 連休とあって車がひっきりなしに通る県道を離れ、静かな小道に入る。途中、県道との間にはさまれた所にお堂があった。そのさらに先、県道へと合流する直前の所を左に曲がると、小さな池があって、水草の白い小さな花が咲いていた。

 古池は水草の花を星にして

 


 さらに人家の庭先をかすめて通りぬけると松子神社がある。ここには狛犬があったはずなのだが‥‥。
 震災で崩れたまま放置されているのだろう。阿形の方は台座に額をこすりつけるような形で置かれていて、吽形の方はひっくり返って足を上に向けている。無残な姿だった。ネットでは「松子神社」と「那須町」で検索すると二〇〇八年の震災前の姿を見ることができる。

 気を取り直して旅を続ける。
 やがて左側に那須高原ビールの建物が見えてくるが、まだ時間が早いせいかひっそりしている。その先にはサッポロビールの那須森のビール園がある。さっきファミマで見たのはここの限定ビールのようだ。いつか時間のあるときにじっくり見学していきたいが、車で来るとビールは飲めないし、バスはさすがに観光地で一時間に一本は通っているが‥‥。
 この先は保養地だけあって、いろんなミュージアムの看板がたくさん並んでいる。とっくりあーと、ではなくてとりっくあーと、これは高尾山にもなかったか。戦争博物館、オルゴール美術館、ステンドグラス美術館、これは二年前に行った。「うみねこ」の九羽鳥庵だ。黄金の巨大神像というのは、実物は見なかったが名前だけでいかにも胡散臭い。「手力男命」らしいが、そういえば船生にもハンドパワー神社があったが、何か関係があるのか。


 やがて、二年前にも立ち寄った道の駅「那須高原友愛の森」に着いた。あの頃はまだ首相が鳩山だった。とりあえずここでまた一休み。
 さて、ここから先もいろいろな看板の並ぶ高原の道で、車の数も増えてきて、なかなか渡るのが困難になる。だが、それほどの渋滞もしていない所を見ると、やはり風評のせいなのか。
 歩道もない道で車がびゅんびゅん通るとなると、なかなか歩きにくい。その上、この辺りから予想以上に上り坂がこたえる。
 このあたりで、那須湯元から黒田原へ歩き通すのは無理だという気分になってきた。季候が良ければできたかもしれないが、この上り坂と暑さでは到底無理だ。となると、駅でセーブというルールをどうすればいいか。幸いにバスは一時間に一本通っているから、帰れないことはないが。
 とりあえず、那須湯元までは歩き通すことにした。途中、パン香房ベル・フルールで昼食用とお土産用のパンを買った。
 一軒茶屋のセブンイレブンで一休みをすると、あとは温泉街の坂道に入る。
 現代の道路だと、道の駅のあった辺りから那須湯元まで六キロの表示があり、松子からでもせいぜい十キロくらいではないかと思う。曾良の旅日記に松子から湯元まで三里とあるのは、おそらく今日ほど道が真直ぐではなかったからだろう。
 一日雨で足止めされたように、雨が降ると通行困難になるような山道で、金森敦子さんの言うような「豪雨でもらくらく歩く芭蕉と曾良」というわけにはいかなかったようだ。この人は芭蕉忍者説の信者なのか、芭蕉と曾良に超人的な体力を求めているようなところがある。芭蕉と曾良も、高久から湯元まで四時間近くかかったのは、忍者でないなら妥当な線だろう。
 一軒茶屋から先はいよいよ坂も急になり、道も曲がりくねっていて昔の道に近くなる。
 地酒・地ビールと書いた看板のある酒屋があり、帰りには寄ろうと思う。だが、そろそろ足が限界に近づいている。鹿沼から三十キロ歩いて日光の手前まで来たときの、あの時の状態に近い。
 とにかくようやく那須湯元の温泉神社にたどり着いた。
 前に一度来ているから、細かい境内社などは見ずに、一直線に拝殿へ行って参拝し、となりの九尾稲荷神社にも参拝してから殺生石の方へ行った。東屋でさっき買ったパンを食べた。

 一休みして、若干体力も回復し、とりあえず、次回湯元からスタートするよりは少しでも距離を減らして、一軒茶屋からスタートしたいので、歩いて降りることにした。途中、さっき見つけた酒屋で那須高原ビールと「平成の森」という日本酒を買った。あとでよく見たら、製造が大田原の天鷹酒造になっていた。天鷹の純米辛口は美味しかったから、問題はないが。
 一軒茶屋からバスに乗って黒磯駅に戻ると、ちょうど上野行きの快速ラビットが止まっていた。何か前回と同じパターンだが、新幹線だと座れるかどうかわからないので、確実に座れるこれに乗って帰ることにした。途中古河で大船行きに乗り換えて、八時頃には帰れた。
 さて、駅をセーブポイントにというルールを厳密に守るとなると、今回はクエスト失敗ということで、黒磯再スタートになって、もう一度那須湯元まで歩かなくてはならなくなる。 ただ、場所的にも苦しい所で、今回に限っては一軒茶屋バス停に臨時のセーブポイントがあったということにして、次回はそこからのスタートとしたい。