5月14日

 従軍慰安婦といっても、俺も戦争を知らない子供達の一人だから実際に見たわけではない。ただ、いろいろな所で言われていたのは、兵隊達に「突撃一番」というコンドームが配られ、サイズは大中小ではなく、大、特大、超特大だっただとか、慰安婦のいる所でみんな行列を作って順番にやって行ったとか、そういう話だった。
 コンドームを使ったというのは、多分事実だろう。それは妊娠や性病を防止するという以前に、みんなが中田氏したら何人目からあとは気持ち悪くてできないだろうという理由で。
 実際こういう状況におかれたら、一人だけ拒否するなんてできないだろうし、内地へ帰って女房や娘にそんな話なんてできやしないだろう。ただでさえ誰が見ても人道的に問題のある行為は証拠を残さないようにするものだし、こういう問題は結局絶対的な情報不足で真偽不明ということになってしまうのだろう。
 ただ、日中戦争・太平洋戦争の時の従軍慰安婦は、単に軍隊の行く所には娼婦がいるというレベルのものではなく、モラルの崩壊した軍隊を立て直すためにしたこたが、実際はとっくにモラルの崩壊した軍隊がそれをやったために最悪の結果になったもので、上海戦での勝利後南京に侵攻する際に、補給も何もないまま現地からの略奪をくり返すことで軍隊を進めたそのやり方が、従軍慰安婦の調達の際にもそのまま行なわれたことは想像に難くない。
 日露戦争の時のような日本が世界で最も高いモラルを誇る軍隊であった時には、従軍慰安婦など必要とはしなかった。その意味では従軍慰安婦を集めざるを得なかった時点で、皇国の軍隊としての誇りを既に失っていたといってもいいだろう。
 橋下さんの発言は、少なくとも従軍慰安婦の存在を認めたという点では評価すべきであろう。時間と共に証拠も証人も希薄になり、韓国のでっち上げ説みたいなのが幅を利かす時代に、勇気ある発言だとは思う。
 ただ、たとえ他所の国に似たようなものがあるにせよ、皇国の恥であることには変わりない。当時の軍の上層部の人たちでさえ、あくまで苦肉の策であり、これを誇ろうなどとは思わなかったに違いない。

5月13日

 ようやく賢木巻クリアー!
 途中中断したりして前のストーリーを忘れていて、最後に歳院に手紙をどうとか言うのが出てきて、加茂歳院が途中で院と皇太后との間にできた三の宮から槿(あさがお)の姫君に変わっていたのをすっかり忘れていた。
 天皇制というのが実力で王になることを禁じるシステムだということは、当時の人も不満に思うことが結構あったのだろう。誰が見ても朱雀帝より源氏の君の方が王の器にふさわしいのに、先に生まれたというだけで一方が皇位を継承し、あとに生まれた方は皇籍を剥奪され臣下に落とされる。
 冲方さんの『光圀伝』の光圀公なら、「それが義だ」と言うところだろう。
 確かに不満はくすぶってはいても、表立った皇位継承争いは起こらなかったし、ましてそれで血が流れたということも記されていない。
 源氏の君に至っても、右大臣の横暴(どうも陰で糸を引いているのは皇太后のようだが)にこれといって抵抗するでもなく、むしろ遊ぶことで発散している。これが平和というものなのか。
 才能のある人間が政治にも軍事にも無関心で、趣味にひたすら打ち込む、それが日本の伝統だったのかもしれない。江戸時代に「通」の文化を作り、今日の「オタク文化」に継承されているその起源も、この@がんばらない光源氏にあったのかもしれない。

5月12日

 たとえば猫に生まれ猫として考え、20年ほどの猫生を生きたとしても、輪廻転生を信じるのでないならば、それはたった一度きりのこと。生まれる前が無であったように、死んだあとにも永遠の無がある。
 それは虫けらに生まれても同じこと。細菌に生まれるというのもまた同じ。
 人に生まれても、生まれる前に死ぬ者、生まれてすぐ死ぬ者、幼くして死ぬ者、若くして死ぬ者、どれも一回限り、次はない。
 生まれてきて、今生きている以上、生に執着するのは自然なことで、誰もそれは否定できない。
 でもそれは最初からどうしようもなく不平等なものだ。少なくとも生きている間のことは。生まれる前の永遠と死んだあとの永遠だけが真の平等だ。生きているうちの恨みを解消できるのは、永遠の時間の中にそれが沈んで行ったときだけだ。
 いろいろな国の人たちが、互いに殺しあって、生きている限りその恨みは消えないし、恨みは子孫に受け継がれる。それが消えるのは生命の始まる前の永遠の時間と人類が死滅したあとの永遠の時間の中に飲み込まれた時だけなのか。
 巨大な無の大海の中に浮かぶ生という小島、それ同士で争っている。日本でも韓国でも中国でも北朝鮮でも。

5月8日

 テレビも新聞も景気のいい話ばかりで、それはそれで何よりだが、こういう時って必ず全く実感が湧かないという人がたくさんいるのも事実だ。
 小泉時代のイザナギ越えと言われた時代でも、たいていの人は全くそれを実感できなかったし、多分本家のイザナギ景気の時もみんな貧しくて、結局好景気というのは青春時代と一緒で「あとからほのぼの思うもの」なのかもしれない。
 今の時代もあと何年かしたら、きっとあの頃は良かったなとか、まだましだったなって思うのだろう。
 何度も言うようだが、日本経済が本当に復活するためには、生活を一変させるような消費革命がなくてはならない。ただムードだけ盛り上がって、調子に乗って物をたくさん作り、一生懸命売って歩いても、物が余ってデフレを加速させるだけだ。まあ、今は海外に投資して海外で生産するから日本はデフレの輸出国となり、世界全体がデフレなら日本のデフレも目立たなくなるだろう。
 技術だって、本来日本の技術力は長年の経験によって培われ肉体化された非言語的技術によるもので、これが科学理論となり、それをもとにマニュアル化され、誰もが共有できるようになった時点で、その技術は日本人ではなくても、中国人でもベトナム人でもミャンマー人でも良いということになる。日本人がいくらがんばって技術力を高めても、すぐに真似できるものでは三日天下に終る。
 本気でインフレを起こしたいなら、がんばらないことだ。生産意欲が下がり物が不足すれば、否が応でも物価は上がる。日本人はとかくみんな頑張りたがる。金持ちはプライベートビーチでパーティーでも開いて遊んで暮らせばいいものを、いくら金があってももっと頑張ろうとするから、下のものも空気を読んでみんな一緒に頑張ってしまう。日本を救うのは、日本人@がんばらない、だと思う。

5月6日

 今日は久しぶりに「街道を行く」の続き。去年の9月30日以来だ。
 戸塚駅をスタートしたのは10時半頃で、今日は道がわかりやすい。まずは国道一号線をしばらく行くことになる。
 まず羽黒神社が右側にあった。狛犬に銘はなく、目がくりっとしていて可愛らしい。子獅子も笑っているみたいだ。
 次に八坂神社。これも右側にある。狛犬は昭和13年の銘で耳が大きい。目が黒く塗ってあり、やはり可愛らしい印象を受ける。ただ、阿形の左目は黒いペンキが下に垂れていてちょっと恐い。
 この神社では「お札さま」という女装して踊る祭があるらしい。
 冨塚八幡宮。これも右側。狛犬は天保12年銘で、これも目が大きくて黒く塗られている。戸塚の可愛い系狛犬は、この狛犬を原型としたものなのか。
 入口の所に芭蕉の「鎌倉を生きて出けむ初松魚(はつがつお)」の句碑がある。難攻不落の自然の要塞、鎌倉を命からがら脱出できても、結局は食べられてしまう。初鰹と義経のイメージを重ねた句か。
 境内裏に元禄元年、寛文12年など何気に古い庚申塔が並んでいる。しかもどれも状態がいい。境内社に玉守稲荷、御岳大権現、冨塚天満宮がある。
 その先、やはり右側に第六天神社がある。狛犬はない。鳥居も銅製で、拝殿の扉も銅でできている。賽銭の投入口が自販機みたいに縦の細い穴になっている。
 第六天神社を出ると、道は緩やかに曲がり、上り坂になる。ここにも坂木稲荷神社がある。稲荷なのに赤ではなく銅の鳥居が珍しい。
 坂を登り始めた所にも元禄の庚申塔が並ぶ。この坂は「大坂」というようだ。
 大坂を登り吹上を過ぎると下り坂になる。遠くにうっすらと霞む大山や丹沢の山が見えるが、残念ながら富士山は見えない。横浜薬科大学の図書館棟が、かつてのドリームランドの夢の跡のように聳え立っている。
 左側に「お軽勘平の碑」がある。歌舞伎に関係があるらしいがよく分からない。
 道を下り始めると、原宿の一里塚の跡がある。その先には渋滞の名所、原宿の交差点が見えてくる。立体交差になっていくらか良くはなったというが。
 右側のセブンイレブンの手前に浅間神社の鳥居が見える。ここには狛犬はないが、入口の所にやはり元禄の庚申塔があった。このあたりは古い庚申塔がコンビニ並みにたくさんあるようだ。
 原宿交差点の先をしばらく行くと、右側に道祖神塔がある。道祖神と刻まれた石塔には注連縄が巻かれ、石塔の前にミニチュアの鳥居がある。
 そのすぐ先、歩道橋を渡って反対側に諏訪神社がある。昭和54年銘の狛犬は戦後の量産型だが、顔が長く、耳もやや長いあたりが戸塚系か。
 やがて道が二手に分かれ、左側の道が右側の道の下をくぐって交差する形になっていて。くぐった方の道は1号線バイパスになり、上のほうの道が東海道の旧道となり、遊行寺の方へと下って行く。遊行寺坂は正月の箱根駅伝でもおなじみのところだ。
 その下り始めの所にも宝暦9年の双体道祖神塔がある。こちらは屋根があり、花が供えられている。
 坂を下って行く途中に一里塚の跡がある。もう原宿から一里来たということか。
 遊行寺の手前、左側にも諏訪神社がある。入口の石段の途中に明治39年銘の黒い狛犬がある。

 遊行寺はさすがに時宗総本山というだけあって大きな寺だ。宗祖の一遍上人は全国を遊行して念仏踊りを広めた人で、この念仏踊りが今の盆踊りの原型になっているという。また、時宗の僧は名前に「阿」や「阿弥」がついていて、能の世阿弥・観阿弥はもとより、連歌師の周阿・善阿・良阿、水墨画の能阿・芸阿など中世の文化を支えていた。
 遊行寺の先、藤沢橋まで行かずにガソリンスタンドの手前を右に曲がる。ネットで調べたら、ここで曲がるように書いてあったからだ。
 遊行寺の山門の前の広い道に出ると、すぐ右に日本三大広小路の看板があり、その古い絵図を見ると、確かに遊行寺を下ってきた東海道は川の手前で右に曲がっ


て大鋸(だいぎり)広小路に入り、そこから大鋸橋を渡って藤沢宿に入るように書かれている。藤沢橋は昔はなかったようだ。
 遊行寺山門の反対側に赤い欄干の橋がある。これがかつての大鋸橋、今は遊行寺橋で、これを渡って右に曲がると藤沢宿になる。
 藤沢宿は今の藤沢の市街地からやや外れているため、それほど賑やかな所ではない。
 白幡の交差点を右に行くと白幡神社がある。入り口のところに顔が長くて白い招魂社系の狛犬がある。銘はなかった。
 石段を登って行くと、途中に義経の慰霊碑があり、ここに義経の首が流れ着いたという伝説が記されていた。石段を登り終えたところにもう一対狛犬があり昭和2年の銘がある。丸みのある優しそうな顔の狛犬だ。
 拝殿の右下手前の方へ降りて行くと、義経の藤、弁慶の藤があった。義経の藤は白く、弁慶の藤は藤色で、そこに芭蕉の「草臥て宿かる比や藤の花」の句碑があるが、この句は関西旅行を綴った「笈の小文」の中の句で、別にここで詠まれたわけではない。
 白幡神社は小田急江ノ島線藤沢本町駅のそばなので、今日はとりあえずここでセーブして終了することにする。
 さあ、2時も過ぎているし何か食べて帰ろうと、確かこの「街道を行く」には「芭蕉と狛犬とラーメンと」というサブタイトルがあるのだっけ、ということでラーメン屋を探した。
 中華料理「玉佳」という所にとりあえず入った。ラーメン専門店ではなく中華料理屋ということで、とろみ系もありということで天津麺にした。

5月3日

 今日は憲法記念日ということで、いろいろ憲法改正のことが話題になっているけど、不安なのはむしろ再軍備に反対している人たちが相変わらず50年前の議論の繰返しに終始するのではないかということだ。
 曰く、憲法改正は軍国主義への道、絶対に許すな。
 何がいけないって、まず憲法改正の議論と再軍備の議論を切り離して考えることができない。
 次に再軍備=軍国主義という短絡的発想。だったら軍隊を持っている世界の全ての国は軍国主義だというのか。それとも日本人は野蛮人だからヨーロッパ人のように軍隊をコントロールできないという意味なのか。
 こんな思考停止に陥った発想でどんな反対運動をしようが、原発と同じ結果になるのは目に見えている。もっと頭を使ってほしい。
 憲法改正への世論の高まりは、過去の戦争責任を戦後に生まれた世代やその子や孫までが引き継がされることへの不条理からくるもので、敗戦国としての国際社会での不平等な扱いを解消したいと願うのは、日本人として自然なことだ。
 その自然な感情を、引き続き平和国家の中でで平和的手段で日本の国際的地位の向上に生かすのが筋であり、それまでも「軍国主義」の烙印を押して抑圧するような運動をすれば、かえって恨みを残し、将来の軍国主義を生む危険がある。
 自民党の憲法改正草案では「内閣総理大臣を最高指揮官とする」とあり、天皇の統帥権を否定している点は評価すべきであろう。戦争は臣下の仕事であり天皇自ら手を汚すようなことはあってはならない。それに加えて「国会の承認その他の統制に服する」と一応シビリアンコントロールが明記されている。(「その他」の意味はよくわからないが)
 「国際的に協調して行なわれる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るために活動を行なうことができる」はPKOと北朝鮮問題を念頭に置いたものであろう。「公」という言葉はこの草案のいたるところに出てくるが、「国家」とは言っていないところに、「公」を国際秩序の意味に解釈する可能性を含めている。
 国民の責務のところの「常に公益及び公の秩序に反してはならない」もこの公益は「国益」には限定されていない。国際社会の秩序のためであれば国益に反する自由も可能と見るべきであろう。
 法の元の平等の所に「障害の有無」が加わっているから、自スペを差別すんなよ!
 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」これも、マスメディアでは後半部分だけ切り取って取り上げられているが、前半部分は家族が企業の利益よりも優位にあることの根拠とできないだろうか。
 「知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」とあるがこれは、単なるコピー商品は駄目だが、二次創作やサンプリングのような知的創造力の向上につながるものは規制すべきでない、というふうに解釈してもいいなら意外に画期的だ。
 選挙区について「人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して」とあるが、これだと今の自民党の改正案は行政区画を無視しているから将来違憲になるのでは。
 とにかく、憲法改正に関してネガティブキャンペーンに終止するようなことだけはやめてほしい。ちゃんと自民党の改正案http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdfを一人一人が自分で読んで、自分で考えてほしい。

 ところで、今日は国立博物館へ「国宝 大神社展」を見に行った。
 昼頃上野に着いて、まず何か食べてからと思ってアメ横あたりをうろうろした。人が多かった。海鮮丼の店がたくさんあって、どこも混んでいた。結局伊勢ろくで親子丼を食べた。とろっとした卵がたっぷり乗って、今まで食べた親子丼とは全く別のものだった。
 さて、大神社展だが、結構混んでいた。最初の古神宝の展示の所は行列になっていた。
 「日吉曼荼羅」は拝殿の縁側の所に狛犬が描かれていた。
 平安時代の神輿は鏡のようなものがたくさんぶら下がっている。きっとあれが太陽の光を反射してキラキラしてたのだろう。
 長さ2メートル70センチの長い太刀があった。これだけ長いと背中に背負うわけにもいかないし、鞘を抜くには誰かに鞘を持っててもらって走りながら抜くのだろうか。
 さて、メインは神像で、最初はまず狛犬から。滋賀若松神社の平安時代の狛犬は、木造だが普通の神社の狛犬ほどの大きさがある。胸を怒らせて正面を向いて坐る姿は招魂社系狛犬の原型ともいえよう。尻尾がなく、お知りのところに穴が開いていたから、ここで本来尻尾のパーツを留めていたのだろう。当初は朱塗りだったか。
 阿形の方はちょっと首をかしげている。吽形の方は角がある。
 京都・東寺の「女神坐像」は八幡神の像でふっくらした顔で目が細い。手は人差し指と小指を軽く立て、枝のようなものを持っている。
 松尾大社の「女神坐像」のようは、もう少し顔に丸みがある。目は東寺のものよりやや大きいがやはり切れ長の目だ。これが平安時代の美人だったのだろう。二次元だと引き目鉤鼻で描かれる平安美人は、三次元にするとこんな感じか。
 小丹生之明神の男女一対の像は今の雛人形の原型だろうか。
 「春日神鹿御正体」は背中に榊の木を乗せた鹿の像で、なかなか鹿がリアルによくできている。
 土産物の所には神社エールだとかジンジャークッキーだとか売っていた。駄洒落で来たか。一応図録は買った。
 本館に行くとミュージアムショップが1階になっていた。
 本館にも木造浅間神像があった。三人の女神の上に男の神のいる珍しい像だ。
 アジアギャラリー(東洋館)が復活していた。入口の前には中国の清の時代の狛犬があった。
 前(2010年9月5日)にも見た陶器の犬があった。「緑釉犬」という名前だった。豚耳豚鼻豚尻尾の犬。オオカミ狛犬にこれに似たものがある。
 ちょうど牡丹の季節なので上野東照宮の牡丹園に寄った。去年も来たが、花が咲くのが遅くてまだ咲きそろってなかったが、今回はちょっと終わりかけか。でも奇麗な牡丹がたくさん咲いていた。

 縁があり今年もこやん牡丹園
 傾いた陽にもやさしい牡丹かな

4月28日

 さあ、ゴールデンウィークの始まりということで、今日こそ白河の関を越えようと、朝5時に家を出て、東京駅6時20分発のやまびこ201号に乗った。
 天気は快晴だが、さすがにこの時期は山も霞み、富士山の白い姿もうっすらとしか見えない。
 『菅原道長の日常生活』(倉本一宏、2013、講談社現代新書)を読みながら豊原へと向う。
 那須塩原に近づくと、那須連山が間近に見えてくる。ホームに降りると風はひんやりとしている。やはりセーターを着て来て良かった。
 黒磯からは二両編成の電車に乗る。車窓からは桜がまだ咲いているのが見える。
 豊原到着は予定通り8時8分。まずすべきことはトイレだ。前回も黒田原を出ると、コンビにもあらなくに、だった。
 歩き始めると、民家の庭にはチューリップ、シバザクラ、ムスカリ、菜の花、水仙などが一斉に咲き、八重桜はようやく咲き始め、一ヶ月くらい季節が戻った感じだ。風は結構強い。
 このあたりのタンポポはやっぱり大きい。田んぼに水が張られて、蛙の声がする。蛙はやはり稲作開始の合図で春の季語だったんだなと実感する。

 田に映る空に向って蛙鳴く

 8時52分、寄居宿到着。ここから奥の細道の旅の続きの始まりだ。
 国道294号線に出てすぐの所に、泉田の一里塚があった。こんもりとした円形の塚の周りは公園として整備されていた。
 その先、寄居大久保の集落の所でまた旧道に入る。途中、初花清水があった。水はパイプから流れ出ていた。ふたたび294号線に合流する所に瓢箪の形をした瓢石(ふくべいし)があった。本来の瓢石は石に瓢箪の形を彫ったもので現存せず、これは後から作られたもの。鈴がたくさんついている。
 山中の集落のところでまた旧道に入る。
 ふたたび294号線に戻った後、左側にアスファルトの旧道のような上り坂がある。これは今の立派な道ができる前の旧国道なのだろうと思うと行ってみたくなるが、やめておいたほうがいい。途中で道がなくなる。(と、通ってしまってから思う。アスファルトの道は復活したが、ロープが張られていて、入ってはいけない道だった。)
 そのすぐ先に小さな石の鳥居があった。道はあるのかないのかわからない状態で、行くのはやめた。近くに自販機があった。豊原を出てから最初の自販機で、お茶を買う。
 奥州街道の下野国と道奥国との境にある境の明神は、そこからすぐだった。

 「ようこそ福島県」の案内標識が見えてくると、その手前に鳥居と狛犬が見えた。これが境の明神の下野側の住吉明神だ。神社だけではなく大日如来像もあり、本地と垂迹がそろっている。狛犬は那須によくある厳つい狛犬ではなく江戸狛犬だ。
 「ようこそ福島県」の案内標識の下をくぐると道は下り坂になる。午前10時、長かった栃木県の旅が終わり、ようやく東北に入る。芭蕉庵をスタートしたのが一昨年の6月19日だから、1年10ヶ月以上かけてようやく東北地方にたどり着いたことになる。
 すぐにもう一つの境の明神、玉津島明神がある。
 ここの狛犬も江戸狛犬で住吉明神のものによく似ている。ネットによると安政3年のものだそうだ。


 よく東北へ行くことを「白河の関を越える」という言い回しをするが、実際の白河の関は平安末には既に機能を失って廃墟と化していたため、当然芭蕉の時代に白河の関はなかったし、既にそれがどこにあったかすらわからなくなっていた。
 芭蕉が『奥の細道』の冒頭で「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ」と言っているのもあくまで慣用句であって、単に陸奥へ行くという程度の意味で用いていたのだろう。
 その意味では、奥州街道のこの境の明神を過ぎたところで、「白河の関を越えた」と言っても良かったのであろう。曾良の旅日記のよると、「関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。」という茶屋が二件あるだけの静かな峠だったようだ。
 これではやはり物足りなかったのだろう。特に曾良の学者ならではの探究心は、少なからず白河の関の本当の場所を突き止めたいという野心に燃えていたのかもしれない。「これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。」ということになる。
 境の明神を過ぎると、左側に小さな木の鳥居があった。額には「山の神」と書いてある。名もなき神様なのか。登って行くと小さな石祠があった。横には桜の木がある。

 みちのくは花を残して山の神

 やがて今日二箇所目の自販機があるところに出る。道がそこで分かれていて右側が「白河の関6.5km」となっている。曲がり角には「おくのほそ道」と書いた石の道標もある。観光用に建てたのだろう。
 正確なことはわからないが、芭蕉と曾良もこのあたりから右に曲がって旗宿へ向ったのだろう。坂道を登っていくと道がまた二手に分かれていて、右側の方にまた「おくのほそ道」の道標がある。こっちに曲がれということか。
 地図で見ると左へ行っても呼金神社の前を通り、旗宿の北側に出る。右側だと真直ぐ白河の関跡(芭蕉の時代よりも100年以上後に松平定信によって発見された)へと向う。後から思うと左の方が芭蕉の道だったかなと思うのだが、右側の道も静かで道端にシバザクラが植えられていて悪くはなかった。

 開けたところに出て関守橋を渡るとすぐに白河神社と史跡白河関跡の前に出る。今では公園として整備されている。駐車場もありそば屋がありトイレもある。北の方に山頂に建物のある山が見えて、これが結構目立つ。おそらくあれが関山だろう。
 白河神社の入口には昭和6年銘の頭でっかちの厳つい狛犬がある。鳥居をくぐり杉林の中を登って行くと右側に古関跡の碑があり、拝殿の入口の所には江戸始めのような古めかしい狛犬がある。日陰で写真がうまく取れない。
 神社の右裏手にはお堀と土塁の跡がある。そのほかにも藤原家隆の従二位の杉という巨木があり、「幌掛の楓」「矢立の松」「旗立の桜」は現存しなくて立て札だけが


立っている。ただ、白河の関の場所自体が長いことわからなかったのだから、本当に元からここにあったのかどうか‥‥。
 白河の関は奥州街道ではなく、東山道という奈良時代に作られた駅路の終点で、当初は蝦夷との国境を守る軍事施設でもあり、今で言う板門店のようなものだったのかもしれない。やがて蝦夷が北に後退し、陸奥国への出入り口となった。
 東山道はもとより当時の全国国府をネットするように張り巡らされた駅路は軍事施設としての役割を背負っていたのか、幅12メートルで直線的に進む堂々としたものだった。今では古代のハイウェイとも古代のアウトバーンとも呼ばれている。
 おそらく古くは坂上田村麻呂もここを通っただろうし平安末から鎌倉初期の西行、義経、頼朝もここを通って旅をしたと思われる。
 そうなると遊行柳がなぜ東山道ではなく後の奥州街道の芦野にあるのかという謎が生じる。「しばしとてこそ立ち止まりけれ」という言葉には、あえて芦野の有力者に呼ばれて逗留したという意味が込められていたのかもしれない。中世に流布していた『西行物語』では、あの歌は宮廷での題詠ということになっている。
 曾良の「旅日記」にも謎は残る。芭蕉と曾良は旗宿に一泊して次の日に「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。」とある。ところがこの古関跡は旗宿の中心地の南側にある。
 二通り考えられる。一つは芭蕉が尋ねた古ノ関ノ明神「二所ノ関」はここではなく、西側の別の所にあり、今では失われている可能性。もう一つは昔の旗宿は今の伊王野白河線沿いにではなく、古関跡の東側の谷の方にあったという可能性だ。
 古代の東山道は宇都宮北東の4号線の直線区間から、さくら市と那須烏山市の境界の南西から北東に伸びる直線部分(今でも将軍道と呼ばれるその跡が残っている)を一直線に貫いていて、那珂川町小川で北に向きを変え、途中で伊王野の手前で北東に向きを変え白河関跡の南にある追分明神の方へ一直線に進んだと思われる。追分から北へ直線的に進んだとすると、今の白河関の森公園の前を通り古関跡の東側を通った可能性もある。
 芭蕉の泊まった宿が今の白河関跡の東側にあったのなら、そこにあった住吉・玉津島両明神はこの白河神社の前身に当たる神社で、正解だったということになる。
 白河神社と白河関跡をひと通りまわり、昨日コンビニで買っておいたパンを食べて昼食にして、関山に向った。前回食べる所がなくてひもじい思いをしたので用意してきたのだが、ここまで来る間にパンはかなり潰れていたが。
 関跡から北に行くとすぐに今の旗宿の中心に出る。そこから関山の方に向うとすぐに庄司戻しの桜がある。これも源平合戦にまつわる伝説の木だ。この木はもうすっかり花は散って、葉になっていた。芭蕉と曾良は最初に旗宿に到着した日にこの桜を見ているから、やはり呼金神社の方を通って、北の方から旗宿に入ったのだろう。
 その呼金神社の方へ行く道との分岐を左に行くとすぐに右側に鳥居が見える。行ってみると小さな木造の拝殿があった。神社の名前は読み取れない。「瀧」という寺が入ってるように思える。
 しばらく行き郵便局の手前を左に入り、柳橋を渡る。しばらく行くと左に石段があり鳥居が見える。村社稲荷神社と書いてある。
 石段の前を守っているのは狛犬ではなくお狐さんだった。右側には大正4年の銘があり左側には昭和22年の銘があるが、どう見ても一緒に作られたみたいだ。老獪そうに額に皺を寄せた表情で、尻尾には縦に切込みが入っている、那須湯元の温泉神社にあったような九尾の狐を表現したものだ。
 神社の先には八重桜が咲いていて、「せき山桜」という碑が立っている。
 裏手の道路に出て左に行くと、すぐ右側に「関山」書いた道しるべがある。ここから登っていくのだが‥‥。
 関山に登る道はガチに山道で、すぐ息切れがするし、こんな所でまた足がつったらと思うと、時々休んで呼吸を整えながら登っていかなくてはならない。道の脇に山吹が咲いているのが救いだ。

 関の山山吹にだけ励まされ

 登るにつれ視界が開け、旗宿の街が見下ろせるようになる。そしてやがて下馬碑のあるやや広い所に出る。車が止まっている。砂利道があって反対側から登れるようになっている。
 成就山満願寺はそこからさらに登った山頂にある。行基菩薩が開いたという古い寺で、芭蕉の頃はたくさんの建物の並ぶ大きな寺で、大勢人が住んでいたようだ。今は至って静かで、曾良が記したような山門もない。寛文4年の釣鐘だけがひっそりと残されている。きっと芭蕉の頃の方が道が立派だったのだろう。
 この山がかつての関所跡だという説もあるが、それはないだろう。ただ、この山から旗宿も白河市内も一望にできるので、軍事的な意味があった可能性はある。
 かくして関山の頂に立ったのが午後2時。これからさっき見た砂利道を通って反対側に降りる。
 曾良の「旅日記」には「本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。」とある。山道で雨となると、道の状態はあまりよくなかったに違いない。芭蕉さんもすっかり曾良の学問的好奇心に振り回された感じで、機嫌が悪かったのではないか。『奥の細道』に二所ノ関の神社のことも関山のことも書いてないのは、多分そのせいだろう。
 「ったく素直に奥州街道を行けばいいものを、ちょっと寄り道といって全然ちょっとじゃないじゃん」
とかぼやく声が聞こえてきそうだ。
 ふもとの人家のあるところに出ると、左側に狛犬だけが見える。地図を見ると稲荷神社と書いてあるが、神社はなくなっちゃったのだろうか。
 国道289号線に出ると、下界に下りてきたという感じがする。それとともに、何か今日の旅はもう終っちゃったような気分にもなる。国道と並行して、おそらくこの国道の旧道と思われる道を行く。セブンイレブンが見えてくる。前回の黒田原でファミマを見て以来のコンビニだ。
 八龍神橋を渡ると、左側に旧道がある。ここを行くとかつての宿場の町並みになる。
 御斎所街道が合流する所に宗祇戻しの碑があった。連歌興行にきた宗祇が、この白河の地でそこにいた女性の機知に驚き、帰ってしまったというエピソードなのだが。
 ただ、曾良が「旅日記」に記しているのは宗祇もどし橋で、宗祇が帰ったきっかけとなったのは、

     月日の下に独りこそすめ
   かきおくる文のをくには名をとめて

という付け句だったが、ここでは「阿武隈のの川瀬にすめる鮎にこそうるかといへるわたわありけれ」という和歌になっている。それに曾良は「四十計ノ女」と書いているが、碑文には「少女」とある。この「宗祇戻しの碑」と曾良の記した「宗祇戻し橋」は別物か。
 曾良の「旅日記」では、宗祇戻し橋は旗宿の南の追分の明神のことや忘ず山や二方の山、うたたねの森など、芭蕉・曾良の通り道でなかったところと併記されている。つまり、これは相楽乍憚から聞いた話を列挙しただけだと思われる。
 せっかく白河に来たのだから、やはり白河ラーメンははずせない。桜町の御旅所という鳥居のある神社のような所の隣の秀佳亭というラーメン屋が目に入ったので、そこで食べた。醤油味だけど濃いめの味で細めの幅広縮れ麺で、チャーシュー、鳴門、メンマ、ほうれん草の乗っかっている。チャーシューの縁がやや赤く、中華街のチャーシューを思わせる。
 白川駅の近くが中町になる。曾良は中町で左五左衛門を尋ねている。どういう人なのかはよくわからない。日光には仏五左衛門がいたし、那須湯元にも五左衛門がいたが、全員同一人物ってことはいくらなんでもないよな。
 白川駅に着いた。ここで今日はセーブ。次回はここから矢吹、須賀川を目指すことになる。
 とりあえず、お土産に酒でも買っていこうと思うのだが、白河の旧市街は例によってシャッターストリートでラーメン屋以外に開いてる店は少ない。酒屋を探してかなり歩いた。ようやく千駒特別純米が買えた。
 かなり駅から離れてしまったので、ここまで来ると新幹線の止まる新白河まで歩いてもそう変わりないかと思って、新白河を目指した。
 国道289号線に出ると見慣れた看板が並ぶ。中央資本の郊外型店舗の並ぶ、これもいろいろな街でおなじみの光景だ。
 新白河の駅前は何軒かビジネスホテルがあるが、昔の新横浜みたいにがらんとしている。新幹線は1時間間隔で時間が余ったが、駅前には何もない。
 まあ、そういうわけで、結局6時22分の新幹線に乗って、家に着いたのは9時ごろだった。

4月25日

 「自閉症スペクトラム」(本田秀夫、2013、ソフトバンク新書)を読み終えた。
 確かに自分の子供の頃を思い出すと思い当たることが多い。通信簿にも「集団行動ができない」とはっきり書かれていたし、挨拶のことでは怒られてばかりだし、担任の先生の名前を間違えて覚えたりとか、いろいろ伝説にも事欠かない。今だったら「自閉症スペクトラム」と診断されていた可能性が大きい。
 まあ、あの時代だから当然何の保護も期待ない。ただ学校で怒られ、教室ではいじめられ、家に帰ってまた怒られの繰返しだった。そんな中で、誰に何言われようとしゃあしゃあと生きた方が勝ちだということを学んだわけだが。
 気になるのは、これが病気なのか変異なのかということだ。原因はよくわかってないらしいが、環境原因説は今では否定されている。となると何らかの病原体による異常なのか、それとも発達過程における事故なのか、そうでなければ遺伝子の変異によるものなのかと言うことになる。
 自スペが病気でもなく事故でもなく種族だとするなら、一種のミュータントだ。農村的な出る杭は打たれる的な共同体では不利だが、職人・芸能などの高度の技能を要求される社会では、むしろ有利になる。そのあたりでこの変異体は子孫を残してきたのかもしれない。いわゆる「職人気質」というのは自スペの特徴をよく表わしている。
 むしろ文明が高度になればなるほど高度な専門分野に特化した人間がたくさん必要になるのだから、自スペの種族の方がやがて人類の主流になっていく可能性もある。
 だとしたら、知的障害のある人は別として、知的障害のない自スペについては、病人として保護するのではなく、むしろガチな生存競争の中で生きることの方が本来の姿なのかもしれない。
 つまり、自スペの人が受けているのは単なるいじめではない。それはどちらが未来の人類の父となり母となるかの戦いなのだ。何が何でも生き延びて、遺伝子を残し、そして文化遺伝子(ミーム)を残していってほしい。

4月22日

 ガソリンは一時期150円台にまで上がったが、最近はじりじりと下がってきていて、今日は143円というのを見た。円安は続いているのにどうなっているのだろうか。
 昨日はイタリア製のスパゲッティ500グラムを93円で買ったし、トマトホールは88円だし、今のところインフレ誘導が効果を上げているようには思えない。
 よく、アベノミクスでは物価だけ上がって給料は上がらないといって批判する人はいるが、実際は物価も給料も下がり続けるという最悪の結果になるのではないか。つまり、あれだけ鳴り物入りで金融緩和しても、何の効果もなくデフレは続くという‥‥。
 金融緩和をし、豊富な資金が新たな投資に向う。その結果‥‥過剰投資、過剰生産で物価は下がる。さらに大胆な金融緩和をする。それがいわゆるデフレスパイラルなのではないか。
 通貨が増えて物が減れば、相対的に通貨の価値は下がり物の価値が上がるからインフレになる。でも、勤勉な日本人は通貨を増やしてもそれ以上に物を増やしてしまう。

 「社員食堂が安いと嬉しい」という人は一生貧乏だと言ってる人がいるらしいが、当然だ。貧乏暮らしで満足している人が金持ちになれるはずがない。もちろん、金持ちになりたいからって簡単に金持ちになんかなれないが、そもそも金持ちになろうという気もないなら、そりゃ一生貧乏確定だ。
 なぜ社員食堂が安いと嬉しいという人は一生貧乏なのか?それはいつか一流ホテルのレストランで昼飯を食える身分になってやろうという覇気がないからだ。
 結局その覇気のなさが、デフレの犯人なのかもしれない。みんながデフレ(たとえば社食の値下げ)を望んでいるなら、その願いは必ず叶う。

4月21日

 昨日韓国のフォークメタルバンド、GOSTWINDのサードアルバム、「kkokdugaksi」が届いた。
 伝統音楽とメタルとの融合はヨーロッパや中東や中国でも行なわれているが、なぜか日本では聞かない。
 kkokdugaksiは韓国の農村などで上演される伝統的な人形劇で、日本の文楽のような都市型の大衆芸能へは発展しなかったようだ。それだけに人形も素朴な感じがする。
 前作よりもヨーロッパのフォークメタルに近づいた感じがするのは、中国のTengger cavalryと同じ流れなのか。英米中心のロックやオルタナに対して、メタルはそれに対抗するかのような右寄りの人たちに支持を受けているが、メタルはメタルなりに一つのグローバルスタンダードになっている。右翼と言うのも結局根は一つというわけだ。
 このCDにはアリランの歌も入っている。日本に媚びたアイドルの「韓流」とはちがう、ほんとうの韓流が感じられる一枚だ。

 今日は半日雨で、久しぶりにホームベーカリーでパンを焼こうとしたら、牛乳を入れ忘れた。一度発酵させた粉上の物体に牛乳を入れてやり直したら、発酵しすぎて膨らんでしまっていて成形ができない。結局、生地を八分割して手で丸めただけの不恰好なパンになったが一応食べられるパンにはなった。

4月19日

 「進化言語学の構築」と並行して「自閉症スペクトラム」(本田秀夫、2013、ソフトバンク新書)を読み始めた。
 こういう本を読むと決まって、あれもこれも自分に当てはまると思えてくるものだが、10人に1人は自閉症スペクトルだと言われると、こればっかしは否定しようがない。まあ、こんなHPを作っていること自体、こだわりの固まりだし、これ以上の証拠はないだろう。
 生涯一つの仕事に打ち込むなら人からも尊敬されるが、その時の気分で次から次へとマイブームになっていくのは、やはり病的なのか。ちなみに今のマイブームは駅路(古代の街道)で、今度歩きに行きたいな。
 まあ、とにかく人に自分の趣味や考え方を押し付けないようにすることと、目上の人の行くことはよく聞くように心がけることにしよう。まあ、実際このHPに書いてあるようなことは誰にも言えないから、こういうところで憂さを晴らしているのだけど。

4月14日

 サンシャイン展望台の「勇者ヨシヒコ展~予算の少ないパビリオン~」を見に行った。
 エレベーターで展望台に昇ると、まず目に入るのが、ドラマの中で用いられたドラクエ・モンスターの張りぼての並ぶガラスケースだった。
 展望台を半周すると、今度は勇者のパーティー+仏、ヒサの等身大のパネルと、顔の所に穴の開いた撮影用のものがあった。
 他にも、撮影に使われた衣装、小道具などが展示されていた。
 帰りにジュンク堂に寄った。『進化言語学の構築』(藤田耕司、岡ノ谷一夫編、2012、ひつじ書房)が面白そうだったので買った。
 入口にミシェル・フーコーの『言葉と物』が積んであった。学生の頃読んで影響を受けた本なのでちょっと懐かしかった。何で今頃という感じがするが、そういえば「PSYCHO-PASS」でもフーコーの名前とともにパノプティコン(一望監視施設)のことがチラッと出てきてたが、これは『監獄の誕生』の方だ。
 フーコーと言うとアンチ・ヒューマニズムだが、これは日本では誤解されている。日本では「ヒューマニズム」という言葉は人道主義と訳されて、人間らしさを賛美する思想に限定的に用いられているが、本来は人文科学一般を指す言葉だ。つまり、実証科学ではなく、文献学や内省法を主とする学問の態度のことで、人文学者は「ヒューマニスト」という。そういうわけで俺の場合はマッド・ヒューマニストというわけだが。
 だから、フーコーの言う「アンチ・ヒューマニズム」というのは「人文科学の終わり」の予言と対を成すものだ。
 ただ、フーコーは文献学や内省法による人文科学の代わりに次に何が来るかといったときに、言語学をモデルにした文化人類学や精神分析だと予言した。これは見事に外れた。フーコー脳科学の進歩を予見できなかったから、言語学もその身体的・遺伝的基礎によって科学の一分野に取り込まれうるということなど思いもよらなかったのだろう。

4月12日

 思うに、アメリカでは人種差別をなくすために映画やテレビドラマでも必ず黒人を登場させなくてはいけないのだから、日本でも同和差別をなくすために同和枠というのを作ったらどうか。主要な登場人物の中に必ず一人は同和キャラを出さなくてはいけないというふうに。
 現代劇では本物の同和の人の多くがそのことを隠して生活しているから難しいが、時代劇ならできるのではないかと思う。
 時代劇なら岡引の中に含ませればいいからそんなに難しくはない。もちろん正義の味方で、ヒーローの腹心の部下というのがいい。「PSYCHO-PASS」の狡噛さんのようなちょっと陰のある渋いキャラなんてどうだろうか。
 武器は槍より六尺棒の方がいい。決して人をあやめない、生け取りを得意とするキャラがいい。
 最初はいろいろ物議をかもすだろうから、いきなりエタ出身を名乗らすのではなく、1クールに1回くらい実家を登場させて、そこで皮革業を営むもう一つの姿を描くとかすれば、わかる人にはわかると思う。
 格ゲーでも、六尺棒に柿染めの衣というキャラを作ってみてはどうだろうか。RPGだったらサルを召喚するとか。
 大体隠すからみんな妙な想像をするんで、かっこいいイメージを積極的に作って広めていく方が差別解消になるのではないかと思う。橋下さんもそう思いませんか?

 それにしても向学さん。産穢を間引き、嬰児殺しのこととし、当時は一般に広く行なわれていたなんてのは、それこそ「賤民史観」「貧農史観」なのでは。
 お産の時は感染症になりやすいので、人を遠ざけると考えたほうが自然だと思う。

4月11日

 吉田向学の「部落学序説」で長州藩青田伝説というのが出てきた。
 このサイトだけ見ていると、何やら迷信に踊らされて百姓とエタが殺しあったのが定説みたいで、吉田さんがいかにもその「賤民史観」と勇敢に戦っているように見える。
 一般的には「天保一揆」だとか「防長大一揆」だとかいわれている1831年に起きた事件で、ネットで検索すると、なるほど「石見屋嘉右衛門という商人が駕籠の中に犬の皮をしいていたのを農民に見つかったことがはじまりです。これは、稲穂が出る頃に田のそばを皮革類が通れば天気がくずれるという迷信によるものです。」という記述が出てくる。
 だが一方で、「長州藩は1829年(文政12)に産物会所を設けて特権的な豪農商を御用達に任命し,翌年には薬種と綿以外のいっさいの商品の他国からの仕入れを禁止して,農民の商品経済を藩の厳重な統制の下に置いた。31年7月末,この産物政策にからんで,吉敷(よしき)郡小鯖村の皮番所での御用達商人と農民の紛争が発端となり,百姓一揆が勃発した。」と書いてあるサイトもあり、迷信だけが原因で長州全土を巻き込むような大一揆が起きたわけではないのは周知のことのようだ。
 吉田さんが標的にしている布引敏雄にしても、ググってもプロフィールらしきものが出てこないところ見ると、別に権威のある学者とかでもないようだ。ただ、迷信が原因という説が俗説として流布しているしているなら、それを批判するのは正当だと思う。
 「賤民史観」といえば、まあ、確かに、
 「いずれにせよ、死牛馬を処理し、皮革を生産するだけでも嫌われるのに、肉まで食いつくしてしまうのであるから、農民にとって、胴震いするほど恐ろしいことであった。人の世にあってはならないことであり、死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えたに違いない。」(村崎義正さんの「怒りの砂」からの引用らしい) なんて言われると、農村で牛馬が死ぬとどこからともなくわらわらと集ってきて、皮を剥ぎ取って肉を貪り食っている情景が浮かんでくるし、そんな野蛮な連中なら差別されて当然という気にさせられる。
 物は言いようというもので、
 「その村の人たちは、農村で牛馬が死んで遺体の処理に困っていると素早く駆けつけ、プロならではの手際よさで瞬く間に解体し、皮など使える部分は利用し、肉や内蔵なども残らず食べることで決して何一つ無駄にするようなことはしなかった。」
とでも直せば随分と印象は変わる。
 周防猿回しの会の生みの親で、猿回しを一躍メジャーにした村崎さんがなぜこんな自虐的な書き方をしたのか、「怒りの砂」を読んでないからよくわからない。「猿まわし復活」なら随分前に図書館で借りて読んだが。
 「賤民史観」にしても「貧農史観」や「自虐史観」にしても、その根底にあるのは「進歩史観」だと思う。
 「進歩」というと聞こえがいいが、要するに昔の人は今の人間よりも知的能力が劣っていて、原始的で短絡的な思考しかできなかったという考え方だ。こういう19世紀的な歴史観の残存物が、今でもあらゆる方面で歴史認識をゆがめているのは確かだ。
 歴史だけでなく、古典文学の方面でもそういう残存物がないわけではない。だから、その部分では共感できる。
 いつの時代でもどこの国でも、人間の持って生まれた生得的能力は同じであり、ホモ・サピエンスである限り、同じ人間なんだということを忘れてはならない。(ホモ・ネアンデルタールなら多少違ってたかもしれないが。)

4月9日

 今日Kindle PaperWhite 3Gが届いた。
 早速スイッチを入れてみる。これじゃあkobo touchは売れないはずだ。パソコンを立ち上げることなくすぐに本を買って読める。面倒な設定は何もない。あらかじめAmazonのアカウントをもっていることが条件ではあるが。
 もちろんkoboにはkoboの良さもある。microSDが使え、microSDに自炊したPDFやEPUBのファイルをコピーするだけで簡単に読めるから、電子書籍化されてない本や、ネットで面白そうなサイトの文章を読むには向いている。その意味では便利だし、これからもkobo touchは自炊専用機として使っていくつもりだ。
 結局kobo touchは最初からデスクトップアプリが最大のネックだったように思える。

4月8日

 自炊専用機になったkobo touchで、とりあえず吉田向学の「部落学序説」を読み始めた。ネットの文章をPDF化したものだ。
 前にも、

    穢多村はうきよの外の春富て   芭蕉
 かたながりする甲斐の一乱       曾良

という句について調べた時に、このサイトを拾い読みしたが、あらためてじっくり読むと、結構面白い。
 吉田さんが言うには、穢多は本来「衛手」で警察のようなもので、刀狩のときも実際に動いたのは穢多だったという。連句では「て」留めの前句に関しては、倒置的に、「かたながりする甲斐の一乱に穢多村はうきよの外の春富て」と付けていいことになっている。
 ただ、「穢れ」について、日常の「ケ」がマンネリ化して「ケガレ」となり、「ハレ」によって回復するという民俗学の説は、近代の単調な労働を強いられる賃金労働者にはよく当てはまるが、果たして近代以前の社会でそのような意味で捉えられていたのかどうかは疑問だ。
 俺は「穢れ」は本来実体概念だったと思う。ウィルスはおろか細菌の存在すら知らなかった前近代の人たちにとって、疫病の流行は原因不明の恐ろしい事態だった。病気がなぜ伝染するのかと考えた時に、何らかの未知な病原体を仮定し、それを「穢れ」と呼んだのではなかったかと思う。
 経験的に病人に近寄ってはならない、病人の近親者への接近にも注意しなくてはいけない、死体にも近寄ってはならない、血液に触れることも危険だ、ということがわかった時点で、こうしたものを「穢れたもの」とみなして忌むようになったのではないかと思う。
 ただ、昔の人のことだから、この「穢れ」が物理現象なのか霊的現象なのかもわからないため、殺生の罪を犯すから穢れるといった精神論がまかり通っていた。今の科学の知識なら、動物を扱う仕事は動物からウィルスに感染する確率が高いということで説明がつく。
 農耕と牧畜を併用しているような動物と日常的に関わる民族では、こうした穢れの概念は発生しにくいが、日本では動物を扱うのが特殊な職業の人に限られたため隔離される傾向にあったのだろう。
 「賤民史観」が近代の創作で、江戸時代にはそもそも賤民なんてのは存在しなかったというなら、確かに問題は簡単だ。しかし、たとえば今日でも鶏インフルエンザがはやると神経過敏になって、鶏肉を食べなくなったり中国人を避けるようになるようなことが起こりかねない。病原体についての無知はいつでも差別を生む。ハンセン病でも原爆病でもそうだったし、福島の原発事故でも同じような反応が繰り返されている。それは近代だけの現象ではなかったはずだ。賤民はいつの時代でもどこの国でも存在していた。そこにこの問題の本当の難しさがあるのではないかと思う。
 「えた」は「衛手」だという説にしても、「手」を「た」と読むのはあとに別の言葉に接続する時だけで、「あめ」→「あまぐ」、「さけ」→「さかぐら」、「め」→「まぶた」、「かね」→「かなもの」というのと同じで「て」→「たづな」「たまくら」「たぢから」となる。「えた」で終止するのは変な感じだ。
 むしろ動物を扱う職業で差別を受けがちな人々に対して、あとから「衛手」としての独自の役割を振り当て、救済したのではなかったか。
 同和問題そのものが明治以降に作られた虚構であってくれれば、という気持ちは確かにわかる。もちろん、穢多が古代より延々と差別や迫害を受け続け、貧しく惨めな生活を強いられたという極端な「賤民史観」と戦うのは正しいと思う。
 芭蕉も「うきよの外の春富て」と言っているように、必ずしもみんなが貧しいわけではなかった。それは歌舞伎の千両役者が身分としては「非人」だったのといっしょで、農民でも商人でも武士でも豊かな者もいれば貧しい者もいた。
 同和問題の難しさは、差別されてきた側に、同化して完全に普通の日本人になりたいのか、それとも少数民族として独立したいのか、その両方が入り混じっている所にも原因があるのではないかと思う。

 武士と穢多が同じ非常民というところで近い関係にあったというのは、アニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』的に言えば、武士が「監視官」で穢多が「執行官」といったところか。

4月7日

 昨日に続いて春の嵐という予報だったから、今日も一日お籠りかと思ってたら、朝起きてみると雨が止んでいて薄日が差していた。
 10時ごろにはすっかり晴れていたので、府中市美術館へ「かわいい江戸絵画」展を見に行った。前期後期入れ替えがあって、今日は前期の最終日。
 晴れてはいるものの時折突風が吹きつける天気の中、府中の森公園を通り抜けて、美術館へ向った。桜はほとんど散っていて八重桜が既に満開だった。チューリップもすっかり開いていて終りかけていた。
 展示物は動物や大黒・布袋などを描いた小品が多く、光琳、蘆雪、蕭白、若冲、応挙、文晁、蕪村、仙厓、国芳など江戸時代の有名どころが勢ぞろいしている。小さな卓上の衝立に書いた絵や、ミニチュアのような掛け軸などの小物も、結構需要があったのだろう。
 大きな屏風絵や襖絵だけでなく、小さな仕事もこなさなくてはいけなかった絵師は、自然とこういうさらさらと書く簡単な絵のスタイルを洗練させていったのだろう。
 鍬形惠斎の『鳥獣略画式』は今でいうカット集で、江戸の庶民もこれを見て真似て描いたりしていたのだろう。著作権のなかった時代だからフリー素材といってもいいのか。あとで家に帰ってから検索したら、この本は現代でも単行本として売られていた。帯には「たのしい動物カット集」と書いてある。Amazonで買える。
 森狙仙の「猿図画帳」もサルの絵を得意とした狙仙の図案集だろうか。
 菅井梅関の「牡丹猫図」は頭にぶちのある帽子猫の絵だが、後の牡丹は咲いてないじゃないか。
 狩野栄信の「月に波兎図」は、兎がトビウオか何かみたいに波の間を飛んでいる幻想的な絵だ。でも何で海に兎がと、やはり家に帰ってからネットで調べてみたら、元は月を兎に見立てた漢詩から来ていて、波間に見える月を波間の兎と表現したのを、謡曲「竹生島」のなかで引用され、それが江戸時代に波間を飛ぶ兎の模様として定着したらしい。
 そのほかに、もちろん応挙の猫目の虎や子犬、国芳の猫は言うまでもない。
 「かわいい」というのは、江戸時代ではまだ「可哀想」という意味で用いられることの多かった言葉で、今で言う「かわいい」は『源氏物語』で盛んに使われている「らうたし」を引き継ぐ言葉なのかもしれない。「いとほし」も可哀想と可愛いの両方の意味をもっていたから、「かはゆし」も同様に両義性を持つようになったのだろう。弱々しい存在に対して、いたわってやりたい、守ってやりたいという感情を表す言葉だ。
 可愛いものを好む文化は何も日本に限ったものではなく、本来は幼児に対する本能的で無条件な愛情から来る万国普遍の価値観ではないかと思うのだが、多くの戦乱にさらされてきたところでは、成人男子に限ってこの感情を抑制する傾向があるのだろう。
 平和な日本だからこそ、女子供に限らず「可愛い」が普遍的な価値として認められ、それが今のジャパンクールの根底を形成している。きゃりーぱみゅぱみゅが欧米で認められたように、日本の「可愛い」は十分輸出産業になりうるし、今後の日本の成長戦略にも欠かせないものなのではないか。
 ひと通り見終わって、美術館の中にあるlong tampで、強風に揺れる外の八重桜を眺めながらハヤシライスと桜のソフトクリームを食べた。
 京王線の東府中駅に着くと、電車が強風のせいでかなり遅れていた。
 帰りがけに家の近所の公園の桜祭を見に行った。桜は既に散っていても人が花とばかりにたくさん来ていた。ステージで中学一年生のバンドがブルーハーツの「リンダリンダ」を演奏していた。まだ楽器を手にして間もないようなたどたどしい演奏だけど、パンクにテクは関係ないとばかりに結構盛り上がっていた。日本のロックの将来に希望が感じられた。

4月6日

 kobo touchの調子が悪くなり、PCに接続しても普通にスイッチが入って充電されるだけでデスクトップアプリに検出されず、本を買ってもダウンロードできなくなった。そういうわけで、結局自炊専用機になってしまった。
 その自炊して読んだ『古代道路の謎』(近江俊秀、2013、祥伝社新書)は、なかなか面白かった。
 古代の道路は幅12メートルの堂々たる物で、しかもアウトバーンのようにひたすら直線で進んでいったという。今まで歩いた江戸時代の街道とは随分趣が違う。
 これだけの立派な道を全国に作った背景には、中国の模倣と朝廷の権威を示すためだという説明が一般的なようだが、それ以前にこの時代はまだ人口が希薄でいたるところに原野が広がってたために、それほど用地の確保に苦労をしなかったためなのではないかと思う。時代が下るにつれ、道は様々な住民の既得権に配慮して、細く曲がりくねったものになっていったのではなかったか。
 ネットで「駅路」で検索すると、古代の道に関する情報がいろいろ出てくる。身近な関東の道でいうと、平塚から寒川神社のあたりで相模川を渡り、海老名を経て町田・府中・国分寺・東村山・所沢・川越を経て足利へ抜けるルートと、海老名から分岐して今の中原街道の前身となる、東京湾の方へ出て千葉へ向う道があったようだ。
 景気回復はいいが、結局戻ってくるのは長時間労働と渋滞。今年の春はやけに工事が多かった。
 もっとも、景気回復とは言っても、リーマンショック前に戻ったというだけのことで、小泉時代のあのイザナギ越えと言われた好景気の時代に戻ってきただけで、失われた何チャラといわれた時代を抜けたわけではない。
 本当に日本が飛躍的に躍進する時代が来るとすれば、それは経済構造が根本的に変わったときであろう。まだその時期ではない。

3月31日

 ミシェル・ブリュネの『人類の原点を求めて』(2012、原書房)を読み終えた。
 俺が一時期古人類学にはまったのは、 『ルーシー - 謎の女性と人類の進化』 (ドナルド・ジョハンソン、マイトランド・エディ 、1986、どうぶつ社)がきっかけだった。世紀の大発見もそれが十分な形で発表され、ひと通りの評価が固まるまでに、すぐに10年くらい経ってしまう。そして、一般向けの書籍となって手の届く所に来るのもその頃だ。
 700万年前の所記人類「トゥーマイ」がチャドで発見されたのは2001年。俺が 『ルーシー 』を読んだみたいに、若い世代がこれで人類の進化に興味もってくれたらなと思う。
 60年代に一世を風靡したハンティング・エイプ仮説は、これを読むとすっかり過去のものになったなと感じる。人類の起源が東アフリカのサバンナに限定されるものではなく、二足歩行もまだ豊かな森林が広がっていた頃に既に確立されていた。
 日本はまだ創造説を信奉するクリスチャンが少ないからいいが、それでも未だに人類の進化というと、アウストラロピテクス─ピテカントロプス─ネアンデルタール人─クロマニヨン人だと思っている人が多いのではないかと思うし、膝を曲げて猫背で前かがみで歩く「人類進化図」を思い浮かべる人が多いのも確かだ。
 科学というのは仮説と検証の繰返しであり、仮説を立てるのも検証を行なうのも人間の仕事だ。自分で考え、自分で確かめる、それをやめてしまった時から、どんな学説も神話になる。
 先生がそう言ったからといって、何十年も前に習ったことをそのまま信じていたのでは、昔の人の迷信を笑うことはできない。かといっていきなりアフリカまで人類の化石を掘りに行くわけにもいかないから、せめてはこういう新刊書を時にはチェックして、知識を更新しておかなくては、あっという間に時代遅れの爺さんになってしまう。
 脱原発が今回も敗北に終わったのも、結局再生可能エネルギーの現状について十分に学ぼうせずに、ただ昔に戻せばそれで良いといっている人が多かったせいではないかと思う。民主党も火力発電所の大増設を打ち出した時点で既に負けていた。
 あと、こういう本を早く電子書籍にしてほしいな。

3月28日

 冲方さんの『光圀伝』を読み終えた。
 一応、助さん覚さんは出てきたな。八兵衛もいたけど、どっちかというと風車の弥七の役回りだった。
 最初はなぜか榊一郎さんの『棺姫のチャイカ』と較べてしまったが、まあ史書の編纂も過去の人間の遺体を集めて歩く旅のようなものだろう。
 「義」というのが最後まで最大のテーマとなる。光圀はまさに義の人として描かれている。この義というのは、結局後継争いで国が乱れるのを防ぐための、継承順位の確定ということなのだろうか。
 易姓革命を認めた中国や韓国に対し、日本は実力で王となることを禁じてきた。それは中国や韓国にはない日本独自の義であり、今日も我々を支配している最大の大儀なのかもしれない。ドラクエでも、世界を救った勇者が家業の漁師を継いでたりする。
 すべてが争いを起こさないためのものだったとしたら、皇統の旗のもとに戦争を起こしてきた戦前の日本は果たして「義」と言えただろうか。
 聖徳太子は「和を以て尊しとする」と言ったし、そもそも日本は「大和」の国だ。この「和」と「義」が対立した時、どっちを優先させるべきなのか。多分これからも我々は問われてゆくことになるだろう。尖閣や竹島の問題に関しても‥‥。
 ところでこの『光圀伝』、大河ドラマにならないかな。主役はマツケンのリベンジということで‥‥。

3月25日

 そういえば、アニメのPSYCHO-PASS も終っちゃったな。
 最後のまとめ方は「デスノート」に近いかな。まあ、いろいろシステムに不満はあっても、それを上回るものが現実にない以上、結局付き合っていくしかない。昔に戻すなんて発想では何も変えられないのは原発と同じだ。変えなくてはいけないと思うなら、それだけ知恵を絞らなくてはならない。
 仮に監視官が免罪体質だったとしたら、それこそ怖いものはないだろうな。

3月20日

 予定では今日「奥の細道」の旅の続きで白河の関を目指すはずだったが、おととい足を怪我してしまい、今日は近所の散歩程度で我慢することとなった。
 桜の花も咲き始め、去年も行ったご近所の桃畑へ行った。
 去年は4月8日で満開だったが、今年はかなり速く見頃になっていた。コブシも咲いていて、大きな枝垂桜も咲いていた。
 去年は他の花も遅く4月になって一斉に咲いたが、今年は今一斉に咲いている。梅の花もわずかだが残っていた。

3月10日

 今月に入って冲方丁の『光圀伝』を読み始めた。
 最初の殺害シーンに何が始まるのかと思ったが、読み進めていくうちに、そうかこれは『棺姫のチャイカ』(榊一郎)なんだとわかった。平和になって生きる目的を見失った武士の物語で、この幼少期はアキュラの里なのだろう。
 先週はillion(野田洋次郎のソロプロジェクト)の「UBU」をiTuneから、わたしのココの「カラダは正直」をAMAZONからダウンロードした。「UBU」はトム・ヨーク風だが日本語曲もあり、曲も和のテイストがある。
 「カラダは正直」はいきなり昔のドリフのギャグから始まる。そういえば野田君もライブではドリフネタをやってたが、俺はリアルタイムで知っている。前に無料でダウンロードしたものに較べるとノイズが控えめでわりかし普通の音になっている。

3月5日

 昨日『野ざらし紀行-異界への旅-』のPDF版をアップしてみた。
 本当はEPUBにしたかったのだが、フォントの埋め込みをしようとすると文字化けしてしまうので今回は断念。
 使ったソフトはChainLPとpdf_asというフリーソフトで、表紙、前書き、前編、後編、あとがき、参考文献をそれぞれChainLPで出力し、それをpdf_asで合成して一つのファイルにしただけの簡単なものだ。20.3メガという大容量になってしまったが、一応自分のkobo touchでは表示できた。
 鹿島詣、笈の小文、更科紀行も同じようにして作ってみたが、容量が大きすぎるので今のホームページではいくつものファイルをアップすることはできなかった。

3月1日

 有料音楽配信売上額が減っているというニュースがあったが、騙された。
 これは着うたや着うたフルのチャートで、iTunesやAmazonなどのダウンロードは含まれていない。今はスマホ時代で今時着うたなんてはやらないし、ソニー系がiTunesに参加したことで、こっちの方へみんな行っちゃっただけではないかと思う。
 RIAJ有料音楽配信チャートだけを見て音楽ダンウロード全体が減っているかのような報道は、一体どこを見ているのか。
 日本の音楽は衰退していない。ちょっと安心した。

2月24日

 今日は立川の矢川弁財天へ狛蛇を見に行った。
 南武線の矢川駅で降りて歩くのだが、駅から西の方へ向ったつもりがいつの間にか北の方へ行ってしまい、すっかり迷ってしまった。やっとのことで矢川駅の近くに戻り、大きな団地の前を通って踏切を越えると矢川緑地に出た。川には鴨がいた。
 湿地帯は今は水がなく乾いていた。柳の木は微かに芽が膨らんでいたが、鮮やかな緑になるのはまだ先のようだ。
 みのわ通りに出る階段を上ると、道の向こうに神社の屋根が見えた。信号のあるコンビニのほうから渡って行こうとすると、ぐるっと裏側を回らされる。
 こうしてやっとのことで矢川弁財天にたどり着いた。
 境内は新しく整備されたようで、大きな龍神之池があり、鯉が泳いでいた。正面の拝殿の前には左右にとぐろを巻いた蛇の像があった。阿吽はないが鱗がきっちり掘られていて、なかなかよくできている。昭和18年の銘がある。

 拝殿の左側には新しい立派な三龍殿があり、間に毘沙門堂があった。
 神社を出るとみのわ通りに上る階段があった。こっちから来た方が早かったが、向い側の矢川緑地へ下りる階段の方に行く横断歩道がない。車の切れ目を狙ってさっと渡ることになる。
 ふたたび矢側緑地を通って、今度は川伝いに駅へと向う。この次くる時は駅で降りたらすぐに線路沿いに進み、最初の踏切を渡ってこの川に出ようと思う。このほうが迷わないし、散歩にはちょうどいい。
 さて、ここに来たついでに、隣の谷保駅の近くにある谷保天神宮に寄ってくことにした。  谷保駅から南へ200メートル(と書いてあった)、甲州街道の向こうに谷保天満宮が見えた。駅名は「やほ」だが、神社の名前は「やぼてんまんぐう」だという。一説には「野暮天」の語源になったというが、その「野暮」の響を嫌って「やほ」になったか。

 その谷保天満宮の駐車場の横には、目立たないが第六天神社がある。

 谷保天満宮の参道には二対の狛犬があった。手前のは昭和56年銘、奥のは平成21年銘で、両方とも新しい。
 普通は神社に入るときには石段を登るのだが、ここは降りて入る。階段のあたりにはなぜか鶏がたくさんいた。
 拝殿前にも狛犬があった。銘はよくわからなかったが、帰ってからネットで見たら明治21年となっていた。阿吽両方とも子取りで優しそうな感じがする。そのほかにも、臥せって動かなくなった牛の像(菅公に殉じた?)や、それとは別の撫で牛があった。
 社務所の建物に宝物館があり、ここに鎌倉時代の木造狛犬があるという情報があったので入ってみた。さすがに鎌倉時代の彫刻はレベルが高い。よく見ると両方オスだというのがわかる。こういうところも手を抜いていない。隣にオリジナルは同じ頃作られ、江戸時代に再現されたという獅子頭があった。黒い長い羽が頭についていて、独特な造形はエスニックな感じがする。
 天神様というとやはり梅で、ここにも立派な梅林があった。紅白の梅は咲いている木が3でまだ咲いてない木が7という感じだった。梅見をするにはまだ風が冷たい。でも頑張ってやっている一団があった。この梅林にも鶏がいた。
 両方とも結構盛りだくさんの楽しめる神社だった。

2月17日

 今日は六本木ヒルズの森美術館へ「会田誠展天才でごめんなさい」を見に行った。
 天気は良かったが、やはりヒルズのビル風は冷たい。エレベーターも特に混雑はなく、並ばずには入れた。スカイツリーに客を取られてしまったのか。
 会場に入るところのエスカレーターの上に大きな赤提灯がある。これも作品の一つ。
 展覧会場の中もいつも行く伝統絵画展並で結構すいていたから、ゆっくり見ることができた。もう少し人権団体の人が騒いでくれた方が宣伝になっていいかもしれない。
 会田誠は大分前に本屋で「 Lonely Planet」という画集を見つけたのが出会いだったが、その頃の作品も大体そろっていた。実物はかなり大きいものが多く、屏風などの伝統絵画の体裁のものが多い。日本の現代美術もようやく西洋の模倣から脱却したのか、最近では伝統絵画と融合した作品が多い。
 最初の方にあった「切腹女子高生」はホログラムになっているが、ルーズソックスが時代を感じさせる。「美しい旗」は日韓関係が悪化しているだけに感動的(?)だ。「紐育空爆之図」は後になってみるとアメリカ同時多発テロの予言だったのかもしれない。
 横浜トリエンナーレで見た、『自殺未遂マシーン』もあった。2ちゃんの書き込みのような文章を書にした作品にはわろた。
 「電信柱、からす、その他」はよく見るとその「その他」の部分の恐いテーマがわかるようになっている。最近の作品のようで、これが今回の一番の秀逸のように思える。芭蕉の「枯れ枝に烏のとまりたるや秋の暮れ」の句のような幽玄を感じさせる。地味だが「火炎縁雑草図」もいい。「灰色の山」は鬼面皴という伝統絵画の手法を思わせる。
 最後の方に問題の18禁部屋があった。問題になった「犬」シリーズは古い作品だが、これって児童だろうか?貧乳ではあるけど。
 会田誠の書く少女は基本的に規格化されたような笑顔をしている。ポーズや何かもグラビアのようなものが多い。きれいだが感情に乏しい、少なくとも強烈な感情を表現するようなことはなく、営業向きの顔をしている。「犬」シリーズもそうだ。
 つまり、手足を切断され、首輪でつながれてはいても、そこに苦痛もなければ快楽もない。だから、この絵の女は虐待を受けているわけでもなければ、Mの歓喜に打ち震えているわけでもない。感情的には全くニュートラルだ。だからむしろこのシチュエーションが何なのか、何の意味があるのかという想像を拒んでいる。無意味というところに意味がある。だから正常な感性を持つなら、これはポルノにはなりえない。これがポルノと言うなら、武蔵丘陵森林公園遊歩道の裸んぼうの子供達の像のほうがよっぽどポルノなのでは。
 現代美術は基本的には一定の感情を喚起させるような表現を嫌う。つまり人を笑わせたり涙させたりという大衆芸術の基本となるようなことは、芸術を肉体的な目的に奉仕させる行為であり、近代の純粋芸術の理念に反するからだ。
 女の裸を描いても欲情をそそるようのことをやってはいけないし、戦争を描いても戦争の悲惨さで涙ぐませるようなことはやってはいけない。あくまで観念的に、理性に訴えかける表現をしなくてはならない。会田誠はその点ではむしろ模範的ですらある。
 これは西洋近代哲学の霊肉二元論に基づく考え方で、ようするに肉体の快楽に奉仕する芸術は奴隷の芸術であり、一段も二段も低いものと見做す。「サブカル」という言葉もそこから来ているといっていいのだろう。
 しかし、それはキリスト教文化では多くの人に支持される考え方ではあっても、日本のような人間の思考も意識も自然の一部と考える多神教文化では、一部の西洋かぶれの知識人以外にはなかなか受入れがたい。そこから日本では伝統文化の延長線上にある大衆文化が広く一般に支持され、西洋的な現代美術は少数派に留まっている。むしろ日本ではクラッシック音楽や現代美術は純文学の方がマイナーで、むしろこっちの方がサブカルチャーといっていいのかもしれない。
 これを、西洋かぶれの一部の知識人の側から見れば、日本には文化と呼べるものがない、ということになるのだろう。
 漫画アニメが隆盛を極める中で、会田誠はもとより村上隆ですら少数派の文化で、それはこの会場に来る人の数でもわかる。むしろポルノにすらなれないというところが物足りなさでもある。
 ポスターになっている「滝の絵」のスク水の女の子も、みんなグラビアのようなポーズで規格化された笑みを浮かべていて、一人一人にはアイドルグループほどの個性もない。キャラを作るという発想はここにはない。
 「ジャンブル・オブ・100 フラワーズ」は大作で今回の展覧会の目玉ではあるが、女の子の表情はまるでコマーシャルに出てくるアイドルのような爽やかさだ。これは多分虚像であり、それを撃つと画像が穴の開いたように消去され、花びらに変わるというもので、それは一つの風刺なのだろう。
 日本の漫画アニメはいまや世界でジャパンクールと呼ばれ、様々な影響を与えているし、もちろんそのお膝元に日本人アーティストにとっても無関心ではいられない。それでいて、それと差別化しなくては現代美術として、ハイカルチャーとして扱われることはない。あくまでサブカル扱いを受けてしまう。そこの難しさをいろいろと考えさせられる展覧会だった。

 さて、森美術館を出て、一応近くの神社も回った。桜田神社は寒さのために手水が凍っていた。狛犬はなかなか愛嬌があり、状態もよくいい顔をしている。境内に稲荷神社もあったが、ここのお狐さんもなかなか古そうなシンプルなデザインをしている。
 ミッドタウンを通り、乃木神社にも行った。いかつい招魂社系狛犬が2対あった。乃木将軍の家もあり、「故乃木夫妻殉死之室」と書いた張り紙があった。何か祟りでもありそうな感じで、まあだからこそ神社が建てられているのだろう。
 煉瓦塀の脇に煉瓦模様の猫の家があって斑猫がいた。家の上にはビニール傘が開いてあって、雨露をしのげるようになっている。将軍様の猫なのだろうか。

2月11日

 この頃、特にあの雪が降った日以降、仕事で遅くなることが多く、源氏物語も止まったまんまになっていたし、ROSE GUNS DAYS season2も途中になったままだった。久しぶりに先へ進めたら、どこかで見たことのあるような街が。間違えなく川越の大正浪漫夢通りだった。
 この写真とほぼおなじ景色が用いられている。

2月4日

 ミドリムシのバイオ燃料の可能性はもう一つあった。
 火力発電所などから出る高濃度のCO2の中でミドリムシを培養し、CO2を吸収させるとともに、そのミドリムシからバイオ燃料を作り、ふたたび発電所で燃焼させるという循環を作り出せば、火力発電所の燃費を飛躍的に向上させることができる。
 この行程をすべて発電所の内部で行なえば、輸送コストがかからない。
 こうしたシステムは火力発電所に限らず、物を燃やすことでエネルギーを得ているすべての工場に応用できる。

2月3日

 川越といえば兀突骨「川越ノ残虐王」‥‥ではなく、「神様はじめました」。ということで、今日は聖地巡礼に行った。
 アニメでは西武線が出てきたが、家からだと東武線の方が早く着くので、東上線で行った。一時間半弱で到着。結構近い。
 三番町通りに出ると、稲荷神社があった。お狐さんは赤い毛糸の帽子と襟巻きをしていた。
 十時前でまだ店も開いてないので、まずは川越八幡宮へ行った。ここは別に聖地ではないが、昭和58年銘の狛犬と嘉永10年銘の狛犬があった。
 境内には「縁むすびの木」という二本の公孫樹のくっついた木があった。足腰に良いという民部稲荷神社もあった。
 川越八幡宮の裏からクレアモールに出た。なかなか賑やかな商店街で、いろいろなチェーン店が並び、ゲーセンや漫画喫茶もあった。ここだけでも大体なんでもそろうような感じだ。途中、左側の路地へ入って十一屋のコロッケを食べた。注文を受けてから衣を付けて揚げるシステムで、食べ歩き用の袋に入れてくれた。結構大きかった。
 クレアモールの終わる所に熊野神社があった。狛犬はなく銭洗い弁天や投げ輪のある加祐稲荷社、それに八咫烏を祭るということでサッカー日本代表のマークの入ったお守りがあった。投げ輪は当然金運を狙ったが、一つも入らなかった。銭洗い弁天の弁天様はFATだった。
 クレアモールの先へ行くとすぐに大正浪漫夢通りになる。とそこに、「まがって6歩」というウサギキャラの看板を見つけ、見るとzakka39というウサギと猫の雑貨を売っている店があった。
 そのすぐ先でシマノコーヒーといせやを見つけた。ここは「神様はじめました」の背景で用いられていた。このあたりから先は聖地といっていいだろう。
 大正浪漫夢通りを出ると左ヘ曲がり蔵造りの町並みに出る。ここは川越観光の中心地で古い蔵造りの家が並ぶ。ありがちな土産物屋ではなく、一軒一軒独自なものを売っていて見飽きない。
 埼玉りそな銀行の建物を過ぎたあたりで、鰹節を売っている店の前で「ねこまんま焼きおにぎり」という、焼きおにぎりに鰹節をたくさん振り掛けたものを売っていた。鰯節のもあった。ちょうど11時から販売開始で並び始めていたので、並んで買って食べた。鰯節が大量にかかっていたので、すずちゃんへの土産に持って帰った。
 さらに行くと、右側に川越のシンボル、時の鐘が見えた。時の鐘の下をくぐると薬師神社だった。ここにも稲荷神社があり、藁縄を首に巻いたお狐さんがあった。隣の店で甘酒を飲んだ。
 表通りに戻ると、お寺のほうへ入ってゆく路地の入口の左側の黒い壁に見覚えがある。ここもアニメに登場した路地だ。
 札の辻を右に曲がるとウサギと蛙の像がある。発泡スチロールでできているらしい。鳥獣戯画の相撲の場面だ。ヤジマキミオという川越の芸術家が作ったものらしく、このあと行く菓子屋横丁には至る所にこの人の作品がある。
 菓子屋横丁を一回りして、札の辻から市役所の方へ向う。だだっ広い静かな道だった。国道254に出ると歩道も狭く歩きにくい。杉下橋の歩道橋は通れなかった。
 ふたたび細い住宅地の静かな路地に入る。三芳野神社の前を通ったが、とりあえず後回しにして富士見櫓跡の御嶽神社に向った。
 どこもまっ平な川越市内のなかで、ここだけこんもりと小さな山になっている。石段があり登って行くと、正面にお狐さんがあり、富士見稲荷大神の入口になっている。左は御嶽神社と浅間神社が並んでいる。ここが「神様はじめました」で奈々生の住むことになった神社のモデルとなったところだ。
 富士見稲荷大神は、鳥居をくぐりお狐さんの所を過ぎると左に赤い鳥居があって、その先に小さな社があった。社の前にも2対のお狐さんがいた。手前の大きい方の右側は子取りで首が長い優美な姿をしていた。狐のお母さんだ。左側の壁の方にも先代さんが三対あった。神社の裏には川越高校が見える。
 御嶽神社のあと、三芳野神社に行った。
 三芳野神社の左手にも小さなこんもりした山があった。その下の枯れ草に埋もれるように、点々と猫の姿があった。なんと七匹もいた。
 三芳野神社は童歌「通りゃんせ」の舞台となった天神様だ。色あせた赤塗りの拝殿が、なかなか味がある。
 このあと伊佐沼公園に行こうとしたが、意外に遠くて途中で引き返した。川越高校の門の前を通り、時の鐘の下に戻った。ここで紫芋のソフトクリームを食べ、地ビールを飲んだ。なかなかガツンとした苦味がある。お土産に鏡山の新酒純米を買った。
 あとは蔵造りの町並みを通って、いろいろと店を覗きながら駅へと向った。アニメイトがあった。川越プリンスホテルのロビーラウンジでは「神様はじめました」とのコラボのケーキが売っていた。
 西武本川越駅を過ぎて、クレアモールに入り、川越駅から東武線で帰った。
 その夜は恵方巻を食べ、豆まきをし、鏡山を飲んだ。すずちゃんは鰯節を喜んで食べた。

2月2日

 「僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。」(出雲充、ダイヤモンド社)を読み終えた。
 ミドリムシの持つ可能性は否定しないが、世界を救うというのは明らかに大げさすぎるし、大風呂敷を広げすぎている。
 まず食料としてだが、これは無理。まず最初の前提が間違っている。
 確かに60年代くらいに、世界の人口の爆発でやがて食糧危機が来るといわれた時期があった。しかし現実に食糧危機は起こらなかった。緑の革命と呼ばれた農業革新による生産性の向上が人口の増加よりも早かったからだ。
 これからはどうか、農業革新はまだ地球上様々な地域でその余地を残している上に、少子化が新興国から発展途上国にまで広まり、今世紀後半には世界の人口が減少に転じる可能性が高くなった。
 出雲充さんはバングラディシュの飢餓が原点となっていると書いているが、一般的には今日の飢餓の問題は食料の絶対的な不足によるものではなく、貧困によるものだとされている。つまりこれは農業の問題ではなく経済格差の問題で、ミドリムシを必要としているわけではない。
 ミドリムシはサプリメント(栄養補助食品)としては、確かにクロレラを脅かす存在だろう。クロレラもかつては未来の食料という声もあったが、結局サプリメント以上のものにはなれなかった。
 人類はサルから進化する過程の中で、こうした微生物を食べてきた経験がない。哺乳類に進化する以前の段階では食べてたかもしれないが、ここ数百万年は植物や動物を主に食べてきた。そのため、人間の食欲はこれまで食べてきたものの味覚だけでなく、見た目や匂いや食感などによって引き起こされる。クロレラもミドリムシもこうしたものを満たすことができないから、いくら栄養があるといわれても、できれば食いたくねーというのが本音だろう。
 ミドリムシを加工して既存の食材に似せることができたとしても、あくまで代用品の域を出ない。現状ではクッキーに少量混ぜるくらいが精一杯なようだ。健康志向の強い一部の人間の支持は受けたり、紅茶キノコのような一過性のブームを巻き起こす可能性はあるが、一般的な食品として定着させるのは無理だと思う。
 ホリエモンがミドリムシに興味をそそられたのも、あくまで宇宙食としてだったと思う。農業も牧畜もできない宇宙基地などの狭いスペースで食糧を自給するには、確かにミドリムシは魅力的ではある。しかし、他に美味しいものがたくさんある地球では、わざわざ食べるものではない。
 次にエネルギーの問題だが、基本的にバイオ燃料は糖類か繊維質か脂質のどれかが含まれていれば十分であり、ミドリムシは無駄に栄養価が高すぎる。
 バイオエタノールは、これまで廃棄されていた藁やおからや大鋸屑からも作れるし、生ゴミからだって作れる。バイオディーゼルなら、ミドリムシよりももっと簡単に培養できる藻類から作ることができる。
 航空機燃料のような高い純度を要求されるもの以外は、コストの点で厳しいのではないかと思う。
 あまり大風呂敷を広げて、「世界を救う」なんて言うと、かえって胡散臭く聞こえる。でもその中に、二つ三つ現実的な可能性が含まれていることを見抜く人間がいた。それがこの本の物語なのだろう。
 ところで、ミドリムシの大量培養の技術は高濃度のCO2というのがヒントなのかなぁ。

1月27日

 今日は上神明天祖神社に狛蛇があるというので見に行った。
 中延駅で降りて歩いた。駅前のラーメン「でびっと」はまだ開いてなかった。
 上神明天祖神社の鳥居は銅製の神明鳥居で、空襲を受けた時もこの鳥居だけが残ったということが、「大鳥居縁起」という立て札に書いてあった。この立て札がまた手書きで、何となくこの神社のただならぬ雰囲気を予感させた。
 次に目に入ったのが掲示板のポスターで、誰の作品なのか、弁天様や白蛇様が萌えキャラになっていた。
 狛犬は普通だった。大正五年銘で、玉取りの方にも子獅子がいて、ボールと戯れていた。
 拝殿の横に弁天堂があった。荏原七福神の一つで、朱印が置いてあった。
 ここにも手水場があって、そこに真っ白な竜が‥‥ヘタウマというのか。作者は真鍋勝となっていた。コンクリート製だが地元の左官だろうか。
 奥にある弁天様の社の前にも何やら白い物体がくねくねとしていて、ネットの写真で見た狛蛇となんか違う。どうやら最近になって真っ白く塗りなおしたみたいだ。さっきの竜と同じ作者のようで、蛇は左右一対ではなく何匹もいて、社を縁取っていた。これは狛蛇とはいえないだろう。
 境内の左手には境内社の伏見稲荷があり、そこのお狐さんも同じ作者によるものだった。なにやら畏るべき力でこの神社は真鍋ワールドに改変されているようだ。アマテラスを祀る神社だけにって、それじゃ「ささみさん@がんばらない」みだいだが。そのうち狛犬も危ないかも。
 さて、上神明を見たのなら下神明もということで、次に下神明天祖神社に行った。大井町線下神明駅はこの神社から来ている。
 下神明の方は至って普通の神社だった。狛犬は二対あり、手前のは昭和七年銘で玉取りの方はやけに玉が大きい。
 もう一対はやたら大きなもので、銘はよくわからなかったが、わりかし新しい。拝殿の左に稲荷神社があるのは上神明と一緒だが、こちらのお狐さんはオーソドックスなもので、左側の方はにっこり笑っているように見える。
 このあと、戸越公園を経て戸越八幡神社へ行った。
 戸越公園は元は細川家の屋敷で、明治の頃には三井家の別邸となり、三井家の寄付により公園になったという。公園の中には日本庭園があり、鴨がたくさんいた。
 戸越八幡神社は宮前商店街沿いにあるのだと思っていたら見つからなくて、探しているうちに小さな稲荷神社を見つけた。法福栄力稲荷大善神と書かれていた。角地の小さな社で、ブロック塀に囲まれていた。お狐さんはいなかった。
 ようやく戸越八幡神社に着くと、境内で子供達を集めて餅つきをやっていた。
 ここにも狛犬が二対あり、参道の狛犬は明治六年銘で前足の爪がやけに立派だった。拝殿前の狛犬は延享三年(1746)の古いもので、なかなか味わい深い顔をしていた。
 宮前商店街を出るとすぐに戸越銀座の入り口があった。さすがに有名なだけに人も多く賑やかだった。
 戸越銀座駅の近くの「海老だしの哲」で海老だしの味噌らーめんを食べた。海老のエキスが濃厚で、海老の駄目な人とは一緒に入れない。今日は一人だから入れた。極太麺でゆでるのに時間がかかるのか、途中で店員が「あと二分」とか言いに来る。
 戸越銀座を抜けて少し行くと、今度は武蔵小山の商店街のアーケードになる。ここも結構賑やかだ。戸越といい武蔵小山といい、地元の店だけでなく、大手のチェーン店やコンビニなども混在している。大手チェーンの集客力を利用しながら、それと個人商店が張り合うことで活力を得ているのだろう。
 途中に天丼のてんやがあった。おみやげにニャンコ先生セット(お持ち帰り用)を買って帰った。ニャンコ先生のコースターをゲットしたが、天丼は俺が食べるしかない。

1月13日

 今日の午前中、いつも初詣に行く柿生琴平神社にお参りした。
 13日とはいっても、まだまだ人が多く駐車場になかなか入れなかった。境内にはまだ露店も並んでいた。
 おみくじは中吉で、桜の花の雨に散る如くだったが、それでも今年もいい年でありますように。

1月12日

 昨日、ROSE GUNS DAYS season2が届いた。
 まだ途中までしかプレイしてないが、いろいろなことを考えさせられる。
 終戦直後の設定なのに、ソ連の影がなく、代わりに中国なのはseason1の時にも書いたが、もうひとつ気になったのは、コードギアスやギルティークラウンでもそうだが、日本が他の国に占領されたという設定の時に、天皇がどうなったかについて何一つ触れてないことだ。おそらく、書くことも憚られる最悪の事態ということが暗示されているのであろう。
 日本の文化が農耕的というよりも職人的だということは「野ざらし紀行─異界への旅」でもちょっと書いてみたが、職人は高度な技術を身につけるあまりに、その技術が言葉や理論を越えてしまい、他人と共有することが困難になるという弱点がある。
 ヨーロッパ人も農耕民族であることには変わりない。中国人も韓国人も基本的には農耕民族だ。ただ、彼らは言葉を共有することによって集団をまとめることができる。日本人は言葉ではまとまることができない。日本人のもつ個々の能力は言葉を超えてしまっているため、言葉以外の何かによってまとまらなければすぐにばらばらになる。
 神道は教義もなければ生活を律する戒律もない。「神ながら言挙げせぬ」宗教だ。それは、自然を中心として成り立つもので、言葉にできない、人間の理性を超えた存在によってのみ、日本人は一つにまとまることができる。
 天皇はまさに「天」を象徴するものであり、自然そのものを象徴する。それによって日本の統合の象徴足りうる。それは人間であってもいけないし、言葉であることもできない。それゆえ、たった一つの血筋として別格のものとして扱われなければならなかった。誰もが実力次第で天皇になれるというなら、日本中、天皇だらけになってしまう。だから絶対にある一つの特定の家系のものしかなれないというところで日本の統一のシンボルは保たれている。
 さて、話をROSE GUNS DAYSにもどすが、そこに李梅九の言葉で、「中国人は個人としては竜だが集団になると豚になる」というのがあった。そしてその逆なのが日本人だという。これはもちろん正確ではない。
 日本人も個人としては世界でも最も優秀な民族の一つといってもいい。しかし、それが集団となるとその持ち味を打ち消しあって、一番卑俗な所で落ち着いてしまう。しかし、そこに中国人のような貪欲さはない。ちんまりとまとまっても、謙虚さを具えている。要するに集団となると縮んでしまうのだ。だから俺だったら「日本人も個人としては竜だが集団になると蛇になる」と言いたいところだ。
 もし仮に日本が他の国に占領され、日本の統合の象徴としての天皇を失った場合、どうやって新たな統合のシンボルを手に入れるかが最大の問題となる。それを手に入れられなければ、それこそあの民主党政権のようなばらばら状態になる。物語は一つのシミュレーション。コードギアスでは、迷走するイレブンの姿しか描かれなかった。
 ROSE GUNS DAYSは古代の女王卑弥呼のような、あらたな日本のシンボルを一人の女性として生み出そうとしているように思える。これは別に新しい発想ではない。「風の谷のナウシカ」がそうだった。核戦争で荒廃した世界で新たな統合のシンボルを求めた時、少女にして母のようなものを思い描いた。世界を救うのが一人の無垢な少女であるという幻想は、「まどマギ」にも受け継がれている。世俗的な権力を失ってなお「天」の象徴として存在する中世的な「天皇」のイメージの現代版ではないかと思う。
 それは人工的なロゴスの文化に対し、自然を中心とした日本人の感性が生み出す自然そのもののイメージといっていいだろう。
 果たして日本人が個々の能力を最高に生かしきるにはどのようなシンボルが必要なのか、物語は現実にはないシミュレーションを可能にしてくれる。

1月10日

 人間がまだ猿だった頃、生存競争はいたってシンプルなものだった。自分の腕力の強さを誇示し、食べ物でも女でもなんでも独り占めにした者が勝ちだ。
 だから、食欲、性欲、睡眠欲という三大欲求に加えて、それらを得るために人より優位に立とうという欲求も、我々は進化させてきた。
 体罰やパワハラがなくならないのも、こうした欲望を人間が本能的に持っているからで、体罰だけでなく、大声で叱りつけたり長々と説教したりという自分の優位を確認する行動は、猿のマウンティングと同じで、これによって脳内快楽物質の分泌が促され、快楽報酬が得られるように進化してきた。
 よく「叱る方も辛いんだ」という人がいるが、あれは半分は嘘だ。人を叱りつけるのは快楽だ。長々と説教する人というのは、「ああ何て俺は偉いんだろう、何て良いこと言うのだろう、何でこういうためになるありがたい言葉が次から次へとあふれ出てくるのだろう」と自惚れ、陶酔し、恍惚状態になっているものだ。
 こうして脳内快楽物質に脳を乗っ取られ、快楽の奴隷となった人たちは、あの手この手でそれを正当化する理屈を考え出しては、人生のこのささやかな楽しみを奪われまいとする。
 まして、こうして叱りつけることで、チームを成功に導いた実績でも作れば、世間の人もそんなに悪くは言えない。
 こうして世の中には、とっくの昔に快楽の奴隷に成り果て、人間をやめてしまったようなのが、世間から「偉い人」と呼ばれ、のさばり続けている。
 こういう人間への対処の仕方を身につけるのも、大人への階段の一つなのだが、不幸にもその途中で自ら命を絶ってしまう者がいる。
 まあ、俺はこういう事件が起こると、得意になってこんな文章を書きたがる一人だから、暴力教師の気持ちもよくわかるけど。
 「叱る方も辛い」というのは、半分は嘘だが、半分は本当だ。
 どんな快楽も、くり返すことで体が慣れてしまい、次第に最初のような強烈な快感を得られなくなってくる。快感を得られなくなり、苦痛ばかりになったとき、そこでやめるか、より強い刺激を求めてエスカレートしていくかで、人生の大きな分かれ道となる。
 苦労して山に登り、山頂に立った時の快感は誰しも経験のあるところだが、そこで終る人と登山家に成る人はそこが違う。
 ギャンブルにはまる人も風俗にはまる人も暴力教師になる人も、基本的にはそれだけの差なのだと思う。
 人間は少なからず脳内快楽物質の奴隷だ。この俺も、こういう文章を書いたり、「奥の細道」を歩いたりするのも、結局同じなんだと思う。
 西田幾多郎だって、若い頃の金沢の街の雑踏の中で頓悟した時のあの快楽を生涯引きずり、参禅しても再現できないあの快楽を求め続け、五十路余りを過ぎてしまったのだろう。
 どうせなら、何か世の中の役に立つことにはまりたいものだが、俺の文章はまだ世の中の役に立っていない。暴力教師にはならずにすんでいるけど。

1月7日

 「這いよれ!ニャル子さん」の9巻のkobo touch版がいつ出るのかと思ってたら、いつの間にか出てた。日付が去年の12月になっていた。紙の方は10月に10巻が出てるし、随分タイムラグがある。これじゃ電子版は売れないだろう。俺みたいないつもワンテンポ遅れて読むようなオヤジのラノベファンもそんなにいないだろうし。
 それに、7巻と8巻を買ったというのに、未だにおすすめの所に6巻が表示されているのはどういうことか。普通、7巻8巻と買えば、次は9巻を求めているというのが分かりそうなものだし、1巻から6巻までは既に読んでいると思うものだろうけど、それは人間の常識であって、コンピュータには通用しないようだ。
 もっとも、これはkoboだけでなく、iTunes StoreのGeniusも同じで、以前買ったアーチストの新譜の情報などは全く伝えてくれない。こういうプログラムというのは多分、この商品を買った人はこの商品を買っているという過去のデータだけでおすすめ商品を算定しているから、新作が出てもデータがないので計算できないのだろう。
 三木谷さんも産業競争力会議に参加するのはいいけど、koboの競争力は本当に大丈夫なのかな。結局kindleやiPadに負けて撤退なんてことになって、今まで買った電子書籍がハードの寿命を残すのみになっても困る。

1月2日

 今年はいつものような初詣ではなく、七福神廻りをした。
 4年前に鎌倉の七福神廻りをしたが、あの時は江ノ島まで回りきれず七つはそろったけどコンプリートできなかった。今年はもっと近場でということでネットで調べると、歩いていけそうなところに七福神があった。武州稲毛七福神。三が日限定のイベントだ。
 まず家を出ると歩いて北部市場の方を越えてゆき、菅生神社の前を通り、長沢から聖マリアンナのほうへ。まずは家から一番近い盛源寺から。
 境内は広く、入るとすぐ左側に合同墓所と書いてある供養塔の前に狛犬を見つけた。新しそうなもので銘はない。これが今年の初狛犬。
 その先に弁天堂があった。弁天様にふさわしく周りに堀があり、橋が架かっている。
 その先に八角堂があり、その向こうに寿老人の社があった。社の前には牡鹿牝鹿の一対があった。狛鹿?
 境内には既に三組の巡礼者がいて、色紙を売っている所に並んでいた。色紙は700円。御朱印は2つで200円だった。
 盛源寺を出て、長沢に戻り、生田緑地へと向う。
 ゴルフ場の脇を通り、そのまま行くと生田緑地の中央を横切って反対側の入口の方へゆくのだが、今日は枡形山の方へ行ってみた。枡形山は標高84メートルで、山頂は公園になっていて、桜の木が植えられている。更にその山頂に展望台がそびえ、エレベーターで昇ってゆくと100メートル近くになるのだろうか。360度の眺望が楽しめ、スカイツリーや東京タワーも見える。ただ、今日は霞がかかっていて山はよく見えなかった。
 このあと、飯室山の山頂を通り、向ヶ丘へと降りる。出口付近には長者穴横穴墓群がある。横穴がいくつもあり、市ヶ尾古墳もこんなだったか。
 ここから広福寺と安立寺、どっちを先に回るか迷う所だが、広福寺を先にした。
 左ヘ真直ぐ行こうとすると通行止めになっているので、一度細い路地を降りて川沿いの道に出た。道は小田急の線路に沿って曲がってゆく。このあたりは専修大学の通学路なのだろう。踏み切りのあるところを左に曲がると、右側に北野天神社の年季の入った大きな幟が立っている。今日は神社めぐりではないので、そこには寄らずに反対側へゆくと広福寺に出る。
 正面のお堂に靴を脱いで上がり、中へ入ると右側に大黒様が祭られていた。
 次に、元来た道を戻り、川沿いの道を反対側へ進み府中街道に出て、サイゼリアの先の細い路地の先に安立寺がある。
 奥の帝釈天のお堂に奉納されているお酒には某有名司会者の名前があった。墓地の方を見ると御法川家の立派な墓があったから、菩提寺なのだろう。
 毘沙門天は本堂の方に祀られていた。
 このあとサイゼリアで食事して、向ヶ丘遊園駅から小田急線に乗り、隣駅の生田で降りた。
 世田道を渡り、セブンイレブンの裏の観音寺に恵比寿さんがいた。住職さんがいて、甘酒とお新香をご馳走になった。今日は一日ひっきりなしに人が来て、休む暇がないと言っていた。今年は巡礼者が多いようだ。ジョギングで回っている人もいるらしい。
 ふたたび小田急線で読売ランド前へ行き、そこから歩いて香林寺へ向った。
 結構距離があった。立派な五重塔のある大きな寺だった。布袋さんの像もなかなか立派だった。
 最後は近くの潮音寺の福禄寿でコンプリート。このあと百合ヶ丘駅まで歩き、新百合からバスに乗って帰った。楽しい誕生日だった。

1月1日

 今日は一日家でゆっくり過ごした。
 猫物語(黒)のアニメの録画を見た。