享徳二年宗砌等何路百韻、解説

享徳二年三月十五日 賦何路連歌

初表

 咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉     宗砌

   春に色かる松の一しほ     忍誓

 嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて   行助

   霞にうすく残る月影      専順

 鶯もまだぬる野べの旅枕      心恵

   誰か家路も見えぬ明闇     宗砌

 真葛原帰る秋もやたどるらん    忍誓

   古枝の小萩なほ匂ふ比     行助

 

初裏

 霧のぼる夕日がくれの水晴れて   心恵

   川そひ舟をさすや釣人     宗砌

 笠にぬふ岩本菅のかりの世に    専順

   のこる桜をかざす夏山     忍誓

 手向して春や行きけん神まつり   行助

   苗代垣の道の一すぢ      心恵

 賤が屋に靡く霞は煙にて      宗砌

   今はたこゆる年ぞにぎはふ   専順

 花薄末葉ほのめく秋の風      忍誓

   袂涼しくうつる稲妻      行助

 月にしけ宵のまどほの小夜衣    宗砌

   君がおき行く暁はうし     忍誓

 霜枯の野上の宿を名残にて     心恵

   時雨関もる不破の山道     専順

 

 

二表

 世のかため破れずしてや古りぬらん 宗砌

   苔むす皷打つ声もなし     心恵

 絵にかける巌も浪も滝に似て    専順

   終にやおちん水茎の跡     忍誓

 人心見えみ見えずみたどたどし   宗砌

   かよふやいづこ夜な夜なの夢  行助

 手枕に花の香とめよ春の風     忍誓

   梅咲く小野の曙の空      専順

 山賤の柴焼く庵長閑にて      心恵

   世間さわぐ年の暮れがた    宗砌

 雪折れの竹の村鳥宿り侘び     行助

   麓の雲の林にぞ入る      忍誓

 秋の日の夕の寺に鐘なりて     心恵

   人帰る野に月は出でけり    宗砌

 

二裏

 袖かけて匂へ千種の花の露     専順

   今日摘む菊に契る行末     心恵

 別れつる庭は籬も形見にて     忍誓

   飛びかふ蝶も春やしたはん   行助

 舞の名の鳥の入方霞む日に     宗砌

   うたふや木陰梅が枝のこゑ   忍誓

 友誘引難波の舟子棹取りて     心恵

   干さぬ田蓑の島人の衣     宗砌

 雨ぞふる袖や五月に成りぬらん   行助

   いつを晴間の思ひならまし   専順

 閉ぢこむる葎の奥の宿の秋     専順

   蓬が露に更くる有明      心恵

 髪白く置きそふ霜の夜はながし   専順

   忘れぬすぢをかたれ古へ    忍誓

 

 

三表

 したしきも別れて残る身は憂きに  行助

   旅の袖とふうどの浜風     宗砌

 船路にも聞く日はあれな郭公    心恵

   村雨わたるをちの遠山     専順

 広野には夕陰誘引杜見えて     忍誓

   隙行く駒ぞはむ草もなき    宗砌

 浅からず願ふは法の水なれや    行助

   すむてふ事はやすき彼国    専順

 爰をさる程をさかひの後の世に   宗砌

   あけていづみの杣の仮伏    心恵

 山陰にかた許なる松の門      忍誓

   塩干の磯屋あらす浪風     宗砌

 行く秋の湊の田づら守り捨てて   心恵

   枯るる蘆辺に落つる雁金    行助

 

三裏

 田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき   専順

   雲ゐは霧のたえまをも見ず   宗砌

 わけのぼる嶺の梯人はこで     忍誓

   ささふく軒のつづく奥山    心恵

 玉霰音する日こそ寂しけれ     行助

   雪降る比は野辺も目かれず   宗砌

 伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて  専順

   馴れにし犬ぞ杖におどろく   忍誓

 老人や思ひの家を守るらん     宗砌

   昔の歌の道はのこれり     行助

 石見がた名のみ高津の浦さびて   忍誓

   風吹きしほる松ぞかたぶく   専順

 花の木の枝を垣なる谷の庵     宗砌

   鳥の声する春の古畑      心恵

 

 

名残表

 打ち返す小田には人の群りて    忍誓

   阿辺野の原ぞ市をなしたる   専順

 見わたせば浪に虹立つあさかがた  宗砌

   朝かげ寒く向ふ雪の日     行助

 帰るさの袖の氷に月落ちて     心恵

   つらき心はとけん夜ぞなき   専順

 覚めやすき夢の思ひね結ぼほれ   宗砌

   吹くもたゆむる同じ松風    忍誓

 出でがてになるみの里の雨宿り   専順

   おくるる舟はかたもさだめず  心恵

 藻塩焼く浦はほかげをしるべにて  宗砌

   海士の栖を誰かとふらん    専順

 秋はただ山路を分けぬ人もなし   行助

   四方の木どもの紅葉する比   心恵

 

名残裏

 冷じや嵐の風も心あれ       忍誓

   来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる  専順

 蛬むなしき床に音をそへて     心恵

   夢壁にさへ見えずなりけり   宗砌

 契りしもくやしと人の思ふらん   行助

   忍びつる名を世にはもれてき  忍誓

 御幸する桜が本の今日の春     宗砌

   花に相あふ日こそ稀なり    光長

 

       参考;『新潮日本古典集成33 連歌集』島津忠夫校注、一九七九、新潮社

初表

発句

 

 咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉    宗砌

 

 藤はその薄紫の花の咲きっぷりが波のようだということで、藤波と呼ばれ、波に喩えられていて、

 

   家に藤の花の咲けりけるを、

   人のたちとまりて見けるをよめる

 わが宿にさける藤波立ちかへり

     すぎかてにのみ人の見るらむ

              凡河内躬恒(古今集)

 わがやどの池の藤波さきにけり

     山郭公いつか来鳴かむ

              よみ人しらず

 この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)

 

など、古くから歌に詠まれている。

 ここではその藤の裏葉が、さながら藤波の玉藻のようだ、とする。

 この発想はオリジナルではなく、日文研の和歌検索データベースでは「浪の玉藻」の使用例が、

 

 磯のうら浪の玉藻のなのりそを

     おのがねに刈るほととぎすかな

              番号外作者(夫木抄)

 

と、もう一首肖柏の歌があるが、肖柏はこの時代より後になる。

 この「享徳二年宗砌等何路百韻」は享徳二年(一四五三年)三月十五日の興行になる。

 時代的には享徳の乱の前年で、世の中は戦国時代に入りつつあった。享徳の乱がおきると、関東に古河公方が誕生し、関東が東西に分断されることになった。

 まだ平和で主要な連歌師がまだ都にいた頃だったからか、宗砌にもとに忍誓、行助、専順、心恵(心敬)など、そうそうたるメンバーが揃っている。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』(一九七九、新潮社)の島津注には、

 

 「野坂本、京大本には本歌連歌として、各句に本歌をあげるが、出典未詳のものが多く、この百韻の成立とのかかわりについては不審も多いが、一概に後人の偽作として退けられないので、頭注の末尾に本歌として掲げた。」

 

とある。

 基本的に連歌で本歌を取る時は、八代集の時代まで作者の有名な歌を取るもので、雅語の正しい用例の典拠となる證歌を取る場合でも、八代集の時代までの作者の歌が求められる。

 ところが、ニ十句目の「本歌」が『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、

 

 「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」

 

とあるところからすると、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌としたと思われる。

 この本歌連歌の本歌として掲げられている歌の多くは、日文研の和歌検索データベースでヒットしない歌ばかりなのも、勅撰集はもとより、通常の私歌集や歌合せや百首歌千首歌などの類にはない俗歌だとすれば納得できる。

 本来雅語ではない言葉を、俗歌を本歌に用いるというのが、「本歌連歌」の趣旨だったのなら、むしろ雅語の限界を越える意味で俗語を取り入れた、一種の俳諧だった可能性がある。

 この興行より百五十年近く前になるが延慶三年(一三一〇年)頃、藤原長清撰による『夫木和歌抄』が編纂されていて、歌謡や俗語方言を使った歌、散逸歌集の歌なども収録している。この『夫木抄』の歌は日文研の和歌検索データベースに入っているので、ここで「本歌連歌」として記されている歌の多くは、それからも漏れたものか、それ以降のものであろう。

 この発句の本歌連歌の本歌だが、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注には、

 

 行く春のかたみに咲ける藤の花

     うら葉の色は浪の玉藻か

 

とある。

 野坂本、京大本の「本歌連歌」として記されている歌で、出典はわからない。「浪の玉藻」が八代集の雅語ではないため、この言葉の典拠として、当時流布していた俗歌を用いた可能性はある。

 先に述べたように、従来の雅語の限界を越えるための、一つの実験だったとするなら、一種の俳諧と言えよう。

 

季語は「藤」で春、植物、草類。

 

 

   咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉

 春に色かる松の一しほ      忍誓

 (咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉春に色かる松の一しほ)

 

 松に藤は付け合いで、

 

 みなぞこの色さへ深き松がえに

     ちとせをかねてさける藤波

              よみ人しらず(後撰集)

 住吉の岸のふぢなみわがやどの

     松のこずゑに色はまさらし

              平兼盛(後撰集)

 

など、古くから和歌に詠まれている。お目出度い賀歌の体といえよう。

 「松の一しほ」は『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」で、

 

 ときはなる松の緑も春くれば

     いまひとしほの色まさりけり

              源宗干(古今集)

 

の歌が引かれているように、元から常緑の松も、春が来れば、なおひとしお緑になる、という意味で、

 

 それながら春はくもゐに高砂の

     かすみのうへの松のひとしほ

              藤原定家(新後拾遺集)

 

などの歌にも受け継がれているが、通常は正月の松のひとしほをよむものだが、句の方はそれを藤波の玉藻に松も「ひとしほ」とする。

 

季語は「春」で春。「松」は植物、木類。

 

第三

 

   春に色かる松の一しほ

 嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて  行助

 (嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて春に色かる松の一しほ)

 

 峰の雪が雨に融けて春が来ると、「松の紅葉」とも呼ばれる雪で白くなった峰の松も緑になる。

 松の紅葉は後になるが「新撰菟玖波祈念百韻」の九十二句目に、

 

   露分くる秋は末野の草の原

 雪に見よとぞ松は紅葉ぬ     友興

 

の句があり、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 

 雪ふりて年の暮れぬる時にこそ

     つひにもみぢぬ松も見えけれ

              よみ人しらず(古今集)

 

を本歌とする、としている。

 常緑の松は紅葉することはないが、雪で白くなればそれが松の紅葉だ、という意味。この白い雪が解ければ、松は緑の姿を取り戻す。今まで白かっただけに、ひとしお緑に見える。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 松たてる嶺の白雪消え初めて

     のどけき春に色やかるらん

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「消え初めて」の語は、

 

 この頃は富士の白雪消えそめて

     ひとりや月の嶺にすむらむ

              藤原良経(秋篠月清集)

 

の歌にも見られるが、用例はきわめて少ない。そのため俗歌を典拠にあまり使われなかった言葉を使ったのであろう。

 

季語は「雪、消え」で春、降物。「嶺」は山類の体。「雨」は降物。

 

四句目

 

   嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて

 霞にうすく残る月影       専順

 (嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて霞にうすく残る月影)

 

 雪の消えた嶺には霞にうすくなった月が残っている。明け方の空とする。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 静かなる有明の月の春の夜は

     霞にこめて影ぞ残れる

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。

 この歌の場合は単語ではなく「霞に影が残る」という言い回しを、八代集の雅語以外を典拠に取り込む意図があったのだろう。

 

季語は「霞」で春、聳物。「月影」は夜分、光物。

 

五句目

 

   霞にうすく残る月影

 鶯もまだぬる野べの旅枕     心恵

 (鶯もまだぬる野べの旅枕霞にうすく残る月影)

 

 心恵は心敬と同じ。

 明け方に残る月を見るのを、旅立ちの刻とする。鶯もまだ寝ているか、その声もない。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 春にきて幾夜も過ぎぬ朝戸出に

     鶯きぬる窓の村竹

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。

 似た歌には、

 

 鶯のよとこのたけのあさとでに

     いつしかいそぐおのが初声

              定為(嘉元百首)

 人はこぬみ山の里のあさとでに

     かたらひそむる鶯のこゑ

              宗良親王(宗良親王千首)

 

がある。この場合も単語ではなく、朝の旅立ちの鶯の典拠としての本歌だったのだろう。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。羇旅。

 

六句目

 

   鶯もまだぬる野べの旅枕

 誰か家路も見えぬ明闇      宗砌

 (鶯もまだぬる野べの旅枕誰か家路も見えぬ明闇)

 

 「明闇」は「あけぐれ」。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「夜明け前のまだうす暗い時分。未明。

  出典枕草子 雪のいと高うはあらで

  「あけぐれのほどに帰るとて」

  [訳] 夜明け前のまだうす暗い時分に帰ると言って。」

 

とある。

 朝早い旅立ちはまだ明闇の頃で、誰の家へ行く道も見えない。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 おもひでの日影のかすむ春なれば

     家ぢの見えず成けり

 

で文字の欠落があるのか。日文研の和歌データベースではヒットしなかった。

 明闇(あけぐれ)は古い時代の用例も多く、雅語で間違いない。「家路も見えぬ」は日文研の和歌データベースでは『後鳥羽院御集』に一例、「家路の見えず」はゼロで、この言い回しが雅語ではなかったのであろう。

 

無季。羇旅。「誰」は人倫。

 

七句目

 

   誰か家路も見えぬ明闇

 真葛原帰る秋もやたどるらん   忍誓

 (真葛原帰る秋もやたどるらん誰か家路も見えぬ明闇)

 

 前句の家路が見えないのをあけぐれだけでなく、葛に覆われた原っぱだからだとする。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 うつろはでしばし篠田の森を見よ

     かへりもぞする葛のうら風

              赤染衛門(新古今集)

 

で、八代集の歌なので本歌とするには問題はない。

 葛葉の秋風に裏返るを古来和歌に詠んできたので、「葛」に「かへる」は縁語になる。

 葛の葉の「帰る」と「裏返る」の掛詞の典拠として、この歌を用いたのであろう。

 近世の、

 

 葛の葉のおもて見せけり今朝の霜 芭蕉

 

の句は、普通は裏を見せる葛がしおらしく面を見せているという意味で、背いてた嵐雪が芭蕉の元に戻ってきた時のしおらしい様子を詠んだ句だった。

 

季語は「秋」で秋。「真葛原」は植物、草類。

 

八句目

 

   真葛原帰る秋もやたどるらん

 古枝の小萩なほ匂ふ比      行助

 (真葛原帰る秋もやたどるらん古枝の小萩なほ匂ふ比)

 

 真葛原をたどる頃は小萩の古枝も匂う。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 秋絶えぬいかなる色と吹く風の

     やがてうつろふ本あらの萩

 

で、

 

 秋たけぬいかなる色と吹く風に

     やがてうつろふ本あらの萩

              藤原定家(拾遺愚草)

 

の歌のことであろう。「秋たけぬ」は「秋闌ぬ」で秋も真っ盛りという意味。今日でも「宴たけなわ」という言い回しに名残をとどめている。

 「本あらの萩」は多数の用例があり雅語と見ていい。この場合は「萩のうつろふ」を「小萩なほ匂ふ」の典拠としたと見た方が良いのだろう。

 八代集の時代の作者なので、本歌とするには問題なさそうだが、有名な歌ではないから、ということか。

 

季語は「小萩」で秋、植物、草類。

初裏

九句目

 

   古枝の小萩なほ匂ふ比

 霧のぼる夕日がくれの水晴れて  心恵

 (霧のぼる夕日がくれの水晴れて古枝の小萩なほ匂ふ比)

 

 「霧のぼる夕日」というと、

 

 村雨の露もまだひぬ真木の葉に

     霧たちのぼる秋の夕暮れ

              寂蓮法師(新古今集)

 

の歌が思い浮かぶ。霧が晴れて行く中に夕日が赤く射す瞬間は、確かに美しい。

 「水晴れて」という言い回しは日文研の和歌検索データベースではヒットしなかった。寂蓮の和歌の山の中の景色を水辺の景色に移し、小萩のまだ匂う季節に当てはめる。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 秋の日の夕の河や晴れぬらん

     嵐に消ゆる雲霧の空

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。水辺の霧を読む典拠か。

 

季語は「霧」で秋、聳物。「夕日」は光物。「水」は水辺の体。

 

十句目

 

   霧のぼる夕日がくれの水晴れて

 川そひ舟をさすや釣人      宗砌

 (霧のぼる夕日がくれの水晴れて川そひ舟をさすや釣人)

 

 「水晴れて」で水辺が出たので、その景色を付ける。瀟湘八景の漁村夕照であろう。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 河づらにさをさし急ぐ釣人も

     岸の干がたに舟やよすらん

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「釣人(つりびと)」という言葉の典拠か。

 釣人(つりびと)という言葉は、日文研の和歌データベースでは

 

 かも川のかもの川瀬の釣人に

     あらぬ我が身も濡れまさりけり

              番号外作者(夫木抄)

 鷺のゐる舟かと見れは釣人の

     蓑しろたへにつもる白雪

              正徹(草根集)

 

の二例がヒットする。

 

無季。「川」は水辺の体。「舟」は水辺の用。「釣人」は水辺の用、人倫。

 

十一句目

 

   川そひ舟をさすや釣人

 笠にぬふ岩本菅のかりの世に   専順

 (笠にぬふ岩本菅のかりの世に川そひ舟をさすや釣人)

 

 釣人の笠は岩本菅で編んだものだった。菅を刈るに仮の世と掛ける。

 この世を仮の世と割り切って、ひょうひょうと生きる釣り人は、『楚辞』の「漁父」を思わせる。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 よをすげをいやしき賤がかりのよは

     笠のは伝ふ露ぞ袖ぬる

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。おそらく「仮の世」と「刈る」を掛けることの典拠であろう。

 

 風そよぐ篠の小笹のかりのよを

     思ふねざめに露ぞこぼるる

              守覚法親王(新古今集)

 

にも典拠がないわけではない。

 水辺の岩本菅は、

 

 おもひかは岩本菅を越す浪の

     ねにあらはれて濡るる袖かな

              番号外作者(続千載集)

 浪かかる袖となみせそ磯山の

     岩本菅のねにはたつとも

              番号外作者(新続古今集)

 

などの例がある。

 

無季。述懐。「岩本菅」は植物、草類。

 

十二句目

 

   笠にぬふ岩本菅のかりの世に

 のこる桜をかざす夏山      忍誓

 (笠にぬふ岩本菅のかりの世にのこる桜をかざす夏山)

 

 この世は仮の世ということで、桜の花も仮の華やかさにすぎず、いつしか散って夏山となる。

 桜は散っても自分はまだこの仮の世に、簑笠に身をやつしながら生き永らえている。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 桜ちる山路の雨に立ちぬれて

     尋ねもやせん春の行く方

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。何の典拠かよくわからない。

 

季語は「夏山」で夏、山類の体。「桜」は植物、木類。

 

十三句目

 

   のこる桜をかざす夏山

 手向して春や行きけん神まつり  行助

 (手向して春や行きけん神まつりのこる桜をかざす夏山)

 

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、賀茂祭とある。賀茂祭は卯月の酉の日に行われ、初夏のものになる。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 さを姫の神こそ春の手向なれ

     ちれる桜をぬさとはやせば

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。神の手向けの桜を詠む典拠か。

 神祇の桜と言えば、

 

 ゆふたたみ手向けの山の桜花

     ぬさもとりあへず春風ぞ吹く

              九条道家(新千載集)

 

の歌があるが、八代集よりはかなり後になる。

 

季語は「春や行きけん」で夏。神祇。

 

十四句目

 

   手向して春や行きけん神まつり

 苗代垣の道の一すぢ       心恵

 (手向して春や行きけん神まつり苗代垣の道の一すぢ)

 

 卯月の賀茂祭の参道は、まだ田植前の苗代の稲の緑に育つ中の道になる。

 近世だと『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻三十句目に、

 

   堤より田の青やぎていさぎよき

 加茂のやしろは能き社なり    芭蕉

 

の句がある。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 かよふ人野守の道はさまざまに

     苗代垣の末のとほさよ

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「苗代垣」の典拠であろう。

 苗代垣というと、

 

 しめはふる苗代垣のけしきまで

     植ゑむ田面のほどぞ知らるる

              藤原俊成(俊成五社百首)

 

の歌があるにはある。

 

季語は「苗代垣」で春。

 

十五句目

 

   苗代垣の道の一すぢ

 賤が屋に靡く霞は煙にて     宗砌

 (賤が屋に靡く霞は煙にて苗代垣の道の一すぢ)

 

 賤が屋にも今日も煙が立ち、ちゃんと飯が食えていることが知られる。賤が屋の炊飯の煙は春の霞のようにお目出度い。苗代の稲も育ち、今年も豊作を祈るのみ。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 雲まよふ春されさむし山陰に

     煙ほのかに見ゆる賤が屋

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「賤が屋」の煙の典拠であろう。

 「賤が屋」という言葉はないが、賤の煙を詠んだものに、

 

 うきわざを柴屋のけぶり山陰に

     たな引くさへもしづのをだ巻

              正徹(草根集)

 

の歌がある。

 

季語は「霞」で春、聳物。「賤が屋」は居所の体。「煙」は聳物。

 

十六句目

 

   賤が屋に靡く霞は煙にて

 今はたこゆる年ぞにぎはふ    専順

 (賤が屋に靡く霞は煙にて今はたこゆる年ぞにぎはふ)

 

 霞を春の初霞として新年の賀歌とする。

 

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

   貢物許されて國富めるを御覧じて

 高き屋に登りて見れば煙立つ

     民のかまどはにぎはひにけり

              仁徳天皇(新古今集)

 

で、賤の煙を賀歌に詠む典拠となる。

 

季語は「こゆる年」で春。

 

十七句目

 

   今はたこゆる年ぞにぎはふ

 花薄末葉ほのめく秋の風     忍誓

 (花薄末葉ほのめく秋の風今はたこゆる年ぞにぎはふ)

 

 秋の風が花薄の穂を越える、とする。

 

 風越ゆる十市の末を見渡せば

     雲にほのめく小野の茅原

              賀茂季保(正治後度百首)

 

の歌がある。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 山賤の梢嵐のゑのこ草

     今はた越えてほに出づるらし

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「風にほのめく」の典拠だろうか。

 ゑのこ草は、

 

 ゑのこ草をのがころころ穂に出でて

     秋おく露の玉やとるらむ

              藤原為家(夫木抄)

 

に用例がある。

 

季語は「秋の風」で秋。「花薄」は植物、草類。

 

十八句目

 

   花薄末葉ほのめく秋の風

 袂涼しくうつる稲妻       行助

 (花薄末葉ほのめく秋の風袂涼しくうつる稲妻)

 

 秋風に遠い稲妻の光りが袂を照らすと、秋も涼しい季節となる。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 

 秋の野の草の袂が花すすき

     ほに出てまねく袖と見ゆらむ

              在原棟梁(古今集)

 

だという。

 薄の揺れる姿が人を招いているように見えるという趣向は、俳諧でもしばしば見られるもので、その典拠となる歌には違いない。

 

 村すすきまねくをみれは出でやらで

     秋のほならす野べのいなづま

              正徹(草根集)

 

の歌もある。

 

季語は「稲妻」で秋。「袂」は衣裳。

 

十九句目

 

   袂涼しくうつる稲妻

 月にしけ宵のまどほの小夜衣   宗砌

 (月にしけ宵のまどほの小夜衣袂涼しくうつる稲妻)

 

 「まどほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「ま-どほ 【間遠】

  名詞

  ①間隔があいていること。

  ②編み目や織り目があらいこと。」

 

とある。

 

 須磨の蜑のしほやき衣をさをあらみ

     まどほにあれや君かきまさぬ

              よみ人しらず(古今集)

 須磨の蜑のまどほのころも夜や寒き

     浦風ながら月もたまらず

              藤原家隆(新勅撰集)

 

などの用例がある。蜑の衣として詠まれることが多い。

 須磨の月と言えば在原行平か『源氏物語』須磨巻かというところだが、「まどほ」という言葉はそうした須磨の配流か隠棲で配所の月を見るイメージで、海士のまどほの衣を敷いて稲妻の宵に月を待つ、ということになる。

  『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 

 有明の月待つ宿の袖の上に

     人だのめなる宵の稲妻

              藤原家隆(新古今集)

 

の歌を引いている。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 夕されの春間になびく稲妻は

     袂涼しくうつる秋風

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。稲妻の袂涼しくに宵を付ける典拠か。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「小夜衣」は衣裳。

 

二十句目

 

   月にしけ宵のまどほの小夜衣

 君がおき行く暁はうし      忍誓

 (月にしけ宵のまどほの小夜衣君がおき行く暁はうし)

 

 在原行平の海女との恋のイメージで、後朝を付ける。宵の小夜衣に、暁と違えて付ける。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 暁のうき別れをばしらずして

     逢ふはうれしき宵の手枕

 

で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」とある。『和歌集心躰抄抽肝要』は二条良基。

 正式な歌集にはないが、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌とするなら、和歌検索データベースでヒットしないのも当然だろう。

 宵に逢う嬉しさに、暁の憂きを対比させる趣向の典拠となる。

 

無季。恋。「君」は人倫。

 

二十一句目

 

   君がおき行く暁はうし

 霜枯の野上の宿を名残にて    心恵

 (霜枯の野上の宿を名残にて君がおき行く暁はうし)

 

 野上はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野上」の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙 野の上の方。

  ※俳諧・望一後千句(1652)三「うつなく野かみをさはき狂ひ出て とらへをきしもいまたあら駒」

  [2] 岐阜県不破郡関ケ原町の地名。古代、東山道の重要な宿駅。壬申の乱では大海人皇子の本陣があった。」

 

とある。宿というからには[2]の意味か。近世でも中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿になる。羇旅に転じる。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 冬がれの草の枕の別路に

     野上の宿の跡も忘れず

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「野上の宿」もヒットしないので、この言葉も俗歌の典拠であろう。

 「野上の里」の用例はいくつかある。

 

季語は「霜枯」で冬、降物。羇旅。「野上」は名所。

 

二十二句目

 

   霜枯の野上の宿を名残にて

 時雨関もる不破の山道      専順

 (霜枯の野上の宿を名残にて時雨関もる不破の山道)

 

 冬の野上の宿に時雨の不破を付ける。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 さゆる夜の軒のいたやにふる時雨

     明けても寒き不破の山みち

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。

 不破の関の時雨の典拠であろう。

 肖柏の和歌なので、この連歌より後になるが、

 

 真木の葉のなほいかならむ袖のうへを

     不破の関屋にふる時雨かな

              肖柏(春夢草)

 

の歌がある。

 

季語は「時雨」で冬、降物。羇旅。「不破」は名所。「山道」は山類の体。

二表

二十三句目

 

   時雨関もる不破の山道

 世のかため破れずしてや古りぬらん 宗砌

 (世のかため破れずしてや古りぬらん時雨関もる不破の山道)

 

 不破は破れずと書く。不破の関は国の平和を守るために、破れずに、ただ年を経て古びて言っただけなのだろう。今も時雨の中で関を守っている。

 どこか「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を思い出させる。不破の関は破れず、ただfade awayするのみ。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 植ゑ置きし二木の杉は世のかため

     やぶれて見ゆる不破の関宿

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「世のかため」の語を俗歌から追加するための本歌であろう。

 

無季。

 

二十四句目

 

   世のかため破れずしてや古りぬらん

 苔むす皷打つ声もなし      心恵

 (世のかため破れずしてや古りぬらん苔むす皷打つ声もなし)

 

 世の平和を守る堯帝の故事にある鼓の、皮の破れずとして、それが古くなってゆくから、打つ人もなく苔むして行く、とする。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 

 「訴えのある者にうたせて、自ら裁定しようと言った古代中国の堯帝の故事(『鄧析子』)により、苔むしているのは太平の証。「刑鞭蒲朽ちて蛍空しく去り、

諌鼓苔深うして鳥驚かず」(『和漢朗詠集』帝王、小野国風)「うちならす人しなければ君がよはかけし鼓も苔むしにけり」(『堀河百首』紀伊)など。」

 

とある。

 内容的にはこれらのものから出典を取っているが、「本歌連歌」の本歌は、

 

 よる浪の音は鼓の滝に似て

     岩屋の苔を風に吹く比

 

で、これは鼓を名所の鼓の滝にとりなし、苔を岩屋の苔に取り成す可能性を示している。鼓の滝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鼓滝」の解説」に、

 

 「[一] 神戸市北区有馬町にある滝。

  [二] 熊本市北西部の河内川にかかる滝。つづみがたき。歌枕。

  ※拾遺(1005‐07頃か)雑下・五五六・詞書「清原元輔肥後守に侍ける時、かのくにのつつみのたきといふ所を見にまかりたりけるに」

  [三] 謡曲。脇能物。作者未詳。当代に仕える臣下が、宣旨により山々の花を見て回るうち、摂津の国鼓の滝で木こりに姿を変えた山神に会い、奇特の舞を見る。廃曲。」

 

とある。[二]の拾遺集の歌は、

 

   清原元輔肥後守にはべりける時、かの国の鼓

   の滝といふ所を見にまかりたりけるに、こと

   やうなる法師のよみはべりける

 音に聞く鼓の滝をうち見れば

     ただ山川の鳴るにぞありける

              よみ人しらず

 

という歌。

 

無季。「苔」は植物、草類。

 

二十五句目

 

   苔むす皷打つ声もなし

 絵にかける巌も浪も滝に似て   専順

 (絵にかける巌も浪も滝に似て苔むす皷打つ声もなし)

 

 先の、

 

 よる浪の音は鼓の滝に似て

     岩屋の苔を風に吹く比

 

による取り成しで、絵に描いた鼓の滝も岩屋も実物に似てるが、鼓を打つ声はしない、絵だから、とする。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 うつす絵の滝はそれとも見えわかで

     それかあらぬか筆のすみがれ

 

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。

 「絵にかける」の語は和歌データベースでは十一件ヒットする。

 

   時時見えけるをとこの、

   ゐる所のさうしにとりのかたをかきつけて

   侍りけれは、あたりにおしつけ侍りける

 ゑにかける鳥とも人を見てしかな

     おなし所をつねにとふへく

              本院侍従(後撰集)

 

の歌など、鳥、乙女、二つの牛、松、花などの「絵にかける」が詠まれているが、滝は詠まれていない。滝を絵に描くはこの本歌による。

 

無季。「浪」は水辺の用。「滝」は山類の用。

 

二十六句目

 

   絵にかける巌も浪も滝に似て

 終にやおちん水茎の跡      忍誓

 (絵にかける巌も浪も滝に似て終にやおちん水茎の跡)

 

 前句の「滝に似て」から筆から墨が落ちるとする。

 水茎の用例はたくさんあるので、特に俗歌を引く必要もなさそうだが、「本歌連歌」の本歌は、

 

 水くきの跡を見てこそ知られけれ

     恋路にまよふ人の心は

 

になっている。日文研の和歌データベースではヒットしない。

 

無季。

 

二十七句目

 

   終にやおちん水茎の跡

 人心見えみ見えずみたどたどし  宗砌

 (人心見えみ見えずみたどたどし終にやおちん水茎の跡)

 

 相手の何を言おうとしているかが、わかったようなわからないようなたどたどしい手紙で、そう思っているうちに恋に落ちてしまう、という意味か。

 これも前句の本歌による付けで、恋に転じている。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 折節もうつればよわる世の中に

     人の心や花染の袖

 

で、

 

   夏のはじめの歌とてよみ侍りける

 折ふしも移れば替へつ世の中の

     人の心の花染めの袖

              俊成女(新古今集)

 

であることは『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注が指摘している。「人心(ひとごころ)」の典拠であろう。ただ、「人心」の用例はたくさんある。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

二十八句目

 

   人心見えみ見えずみたどたどし

 かよふやいづこ夜な夜なの夢   行助

 (人心見えみ見えずみたどたどしかよふやいづこ夜な夜なの夢)

 

 前句の「たどたどし」を「かよふ」で受け、たどたどしく通うとする。毎晩のように夢で通っているのだが、逢える時もあれば逢えない時もある。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 枕香の人の面影立ちそひて

     あふ夜の夢のはてなんもうし

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「夜な夜なの夢」は「よなよな夢に」の形なら、

 

   心さし侍りける女のつれなきに

 思ひねのよなよな夢に逢ふ事を

     たたかた時のうつつともかな

              よみ人しらず(後撰集)

 

の用例がある。

 

無季。恋。「夜な夜な」は夜分。

 

二十九句目

 

   かよふやいづこ夜な夜なの夢

 手枕に花の香とめよ春の風    忍誓

 (手枕に花の香とめよ春の風かよふやいづこ夜な夜なの夢)

 

 夢の手枕なのでいずれは覚めるものだが、せめて花の香だけは残ってほしい。

 楚の懐王が夢で巫山の神女と契った故事も思い起こさせる。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 梅がかや今朝の嵐に匂ふらん

     春まだ遅きをのの山里

 

で、日文研の和歌データベースにはない。次の句を付ける時に、「花の香」に「小野の山里」を付ける典拠となる。時々だが、一句ずれているのではないかと思える本歌がある。

 

 みる夢のさむる枕の梅が香や

     むかしの風のかたみなるらん

              正徹(草根集)

 

の歌もある。正徹も同時代の人なので、この本歌連歌も俗歌の言葉を取り入れた雅語の革新と連動してたのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。「春の風」も春。

 

三十句目

 

   手枕に花の香とめよ春の風

 梅咲く小野の曙の空       専順

 (手枕に花の香とめよ春の風梅咲く小野の曙の空)

 

 小野の山里は、

 

 鹿のねを聞くにつけても住む人の

     心しらるる小野の山里

              西行法師(新後撰集)

 ふる雪に小野の山里あともなし

     煙やけさのしるべなるらむ

              番号外作者(新千載集)

 

などの歌はあるが、梅咲く小野の山里は前句の本歌の、

 

 梅がかや今朝の嵐に匂ふらん

     春まだ遅きをのの山里

 

の歌が典拠になる。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 桜咲くひばりの床に招かれて

     梅なつかしみ暮す春哉

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 桜に雲雀は、

 

 梢より羽風をふれて桜さく野への

     雲雀もおつる花かな

              正徹(草根集)

 

と、あと一首、この時代より後の思われる肖柏の、

 

 ゆふ雲雀床もわすれて桜花

     ちりかひかすむ空に鳴くなり

              肖柏(春夢草)

 

の歌がある。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

三十一句目

 

   梅咲く小野の曙の空

 山賤の柴焼く庵長閑にて     心恵

 (山賤の柴焼く庵長閑にて梅咲く小野の曙の空)

 

 庵に住む山賤は本物の山賤ではなく、山賤同様に身を落とした隠者の卑下した言い回しであろう。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 柴の屋の煙にまがふ

     春霞帰るを急ぐをのの山人

 

で、日文研の和歌データベースにはない。柴焼く山賤の典拠となる。

 

 ま柴たく庵の煙たえだえに

     さびしさまさる小野の山人

              番号外作者(正治初度百首)

 

の歌もある。

 

季語は「長閑」で春。「山賤」は人倫。

 

三十二句目

 

   山賤の柴焼く庵長閑にて

 世間さわぐ年の暮れがた     宗砌

 (山賤の柴焼く庵長閑にて世間さわぐ年の暮れがた)

 

 山賤の庵は一年を通して長閑なのに対し、世間(よののか)の人は年の暮れになると何かと忙しくて騒がしい。違え付けになる。山賤は世の外にいて、春秋を知らぬを本意とする。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 天の原ふりさけ見れば霞立つ

     雲にまぎれていはじしらずも

 

になっている。日文研の和歌データベースにはない。空の上では霞も雲も区別がないということで、山賤の心に通じなくもない。

 

季語は「年の暮れ」で冬。

 

三十三句目

 

   世間さわぐ年の暮れがた

 雪折れの竹の村鳥宿り侘び    行助

 (雪折れの竹の村鳥宿り侘び世間さわぐ年の暮れがた)

 

 年の暮れは世間も騒々しいが、竹が雪で折れて鳥も騒いでいる、とする。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 村竹の梢のなびく雪の日は

     ねぐらのまよふ村鳥の声

 

で、日文研の和歌データベースにはない。雪に鳥もねぐらに迷うという趣向の典拠になっている。

 

 いまはとてねぐら尋ねてとふ鳥の

     あすかの里もまよふ白雪

              藤原家隆(壬二集)

 

の歌がやや近いか。

 

季語は「雪折れ」で冬、降物。「竹」は植物で木類でも草類でもない。「村鳥」は鳥類。

 

三十四句目

 

   雪折れの竹の村鳥宿り侘び

 麓の雲の林にぞ入る       忍誓

 (雪折れの竹の村鳥宿り侘び麓の雲の林にぞ入る)

 

 雪で竹林に宿れない鳥は、雲の林に行く。「雲の林」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雲の林」の解説」に、

 

 「[一]

  ① 雲がむらがっているさまを林に見立てていう語。

  ※後撰(951‐953頃)秋下・四〇九「このもとに織らぬ錦のつもれるは雲の林の紅葉なりけり〈よみ人しらず〉」

  ② 花がこずえにむらがって咲いているさまをいう。

  ※車屋本謡曲・桜川(1430頃)「花ざかり。雲のはやしの陰しげき。緑の空もうつろふや」

  [二] 京都市北区紫野にあった雲林院(うりんいん)のことをいう。

  ※蜻蛉(974頃)上「さるべきやうありて、雲林院に候ひし人なり。〈略〉思ひきやくものはやしにうち捨てて空の煙に立たむものとは」

 

とある。例文にある通り、後撰集にも見える言葉。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 かり人の山路にふかくせき入れば

     林に落つるむささびの声

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 雲の林は桜や紅葉や隠遁に詠むことが多く、何もない山に入って行くことの典拠をこの歌に求めたか。

 

無季。「麓」は山類の体。「雲」は聳物。「林」は植物、木類。

 

三十五句目

 

   麓の雲の林にぞ入る

 秋の日の夕の寺に鐘なりて    心恵

 (秋の日の夕の寺に鐘なりて麓の雲の林にぞ入る)

 

 前句の「雲の林」を雲林院とする。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 風さそふ遠方とほく鐘鳴りて

     野寺にはやく暮るる日の影

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 夕べの寺を詠んだ和歌は意外に少ない。瀟湘八景に「煙寺晩鐘」という画題はあるが、和歌にはそれほど取り入れられなかったか。

 

 山もとの夕の鐘も霞消えて

     寺の前田に蛙なくなり

              正徹(草根集)

 

の歌も、この連歌とほぼ同時代になる。江戸時代の俳諧だと普通になるが。

 

季語は「秋」で秋。釈教。「日」は光物。

 

三十六句目

 

   秋の日の夕の寺に鐘なりて

 人帰る野に月は出でけり     宗砌

 (秋の日の夕の寺に鐘なりて人帰る野に月は出でけり)

 

 秋の日が沈みお寺の鐘が鳴る頃、野にいた人も家に帰っていく。

 近代の童謡「夕焼小焼」(中村雨紅作詞、草川信作曲)を彷彿させるが、この趣向の原型と言えるかもしれない。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 秋の日は木こりの道にはや暮れて

     心なげにも月やみるらん

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 

 秋の日のややくれかかる山のはに

     また影うすき月はいてつつ

              藤原資季(宝治百首)

 

の歌はあるが、木こりなど庶民を登場させる例は珍しい。それを典拠に「人帰る野」を付ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「人」は人倫。

二裏

三十七句目

 

   人帰る野に月は出でけり

 袖かけて匂へ千種の花の露    専順

 (袖かけて匂へ千種の花の露人帰る野に月は出でけり)

 

 秋の野は秋の七草をはじめ、様々な花の咲く花野となる。秋はまた草に露が降り、萩の露草の露に袖が濡れる。

 日が暮れて月が出て野から帰る人は、花野の露に袖を濡らして帰ることになるが、その露に花の匂いが欲しいものだ。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 露ぞうき野辺に一夜のかり枕

     かたしく袖は草の花の香

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 

 秋の野をわけゆく露にうつりつつ

     わが衣手は花の香ぞする

              凡河内躬恒(新古今集)

 

の歌もある。

 

季語は「露」で秋、降物。「袖」は衣裳。「千種の花」は植物、草類。

 

三十八句目

 

   袖かけて匂へ千種の花の露

 今日摘む菊に契る行末      心恵

 (袖かけて匂へ千種の花の露今日摘む菊に契る行末)

 

 「契る」は「千切る」と掛けて「摘む」の縁語になる。

 

 心をばちぐさの色に染むれとも

     袖にうつるは萩が花ずり

              長覚法師(千載集)

 

の心か。前句の「袖かけて匂へ」を野の草の移り香ではなく花摺りとして、その袖で菊に共に長寿であることを約束する。

 花摺りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「花摺」の解説」に、

 

 「〘名〙 萩または露草などの花を衣に摺りつけて色を染めだすこと。また、そのもの。

  ※催馬楽(7C後‐8C)更衣「わが衣(きぬ)は 野原篠原 萩の波名須利(ハナスリ)や さきむだちや」

 

とある。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 我が宿の菊の白露けふ毎に

     幾世積りて淵と成るらん

              清原元輔(拾遺集)

 

で、部立では「秋」になる。特に恋の意味はない。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。

 

三十九句目

 

   今日摘む菊に契る行末

 別れつる庭は籬も形見にて    忍誓

 (別れつる庭は籬も形見にて今日摘む菊に契る行末)

 

 前句の菊を籬(まがき)の菊とする。

 この句の「本歌連歌」の本歌は、

 

 神無月霜夜の菊のにほはずは

     秋の形見に何をおかまし

              藤原定家(拾遺愚草)

 

で、「秋の形見」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「秋の形見」の解説」に、

 

 「そのしるしとして秋が残していくもの。秋のなごりのしるし。

  ※拾遺(1005‐07頃か)秋・二一四「暮れてゆく秋のかたみに置くものは我がもとゆひの霜にぞありける〈平兼盛〉」

 

とある。

 この歌の心なら、菊を秋との別れの名残とするというもので、特に人と別れるという意味はない。

 

無季。「庭」は居所の用。「籬」は居所の体。

 

四十句目

 

   別れつる庭は籬も形見にて

 飛びかふ蝶も春やしたはん    行助

 (別れつる庭は籬も形見にて飛びかふ蝶も春やしたはん)

 

 行く秋の形見ではなく、行く春の形見として、飛び交う蝶を付ける。

 この句の「本歌連歌」の本歌は欠落しているという。

 

 我が宿のやへ山吹はひとへだに

     散りのこらなん春の形見に

              よみ人しらず(拾遺集)

 

のように、秋も形見もあれば春の形見もある。

 

季語は「春」で春。「蝶」は虫類。

 

四十一句目

 

   飛びかふ蝶も春やしたはん

 舞の名の鳥の入方霞む日に    宗砌

 (舞の名の鳥の入方霞む日に飛びかふ蝶も春やしたはん)

 

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『源氏物語』胡蝶巻の、

 

 「春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。」

 

を引いている。この場面は「宗伊宗祇湯山両吟」九十一句目、

 

   春に声する鳥の色々

 袖かへすてふの舞人折をえて   宗伊

 

でも用いられている。

 蝶の舞は雅楽の『胡蝶楽』だったが、鳥の舞は『迦陵頻(かりょうびん)』になる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「迦陵頻」の解説」に、

 

 「雅楽の曲名。「迦陵頻伽(かりょうびんが)」「不言楽(ふごんらく)」ともいう。雅楽の唐楽曲で、舞楽・管絃(かんげん)両方がある。林邑(りんゆう)八楽の一つ。壱越調(いちこつちょう)が原曲。双調(そうじょう)に破と急、黄鐘調(おうしきちょう)に急の渡物(わたしもの)(一種の移調曲)があり、これらは鳥破(とりのは)・急などとよぶ。舞は童舞(どうぶ)四人舞。迦陵頻伽は天来の妙音をさえずる極楽の霊鳥として平安時代より書物にみられるが、この楽曲では、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の供養の日に極楽からその鳥が飛んできて舞い遊んだので、そのようすを妙音天が楽舞に仕立て阿難尊者(あなんそんじゃ)に伝えたという伝説がある。舞人の稚児(ちご)たちは、頭上には紅梅で飾った天冠(てんがん)、背には鳥をまねた極彩色の羽をつけ、両手に銅拍子(どびょうし)を持って打ち鳴らしつつ舞う。同じ童舞である番舞(つがいまい)の『胡蝶(こちょう)』とともにその可憐(かれん)な舞い姿が愛されている。[橋本曜子]」

 

とある。『胡蝶楽』と『迦陵頻』は対を成すもので、『源氏物語』胡蝶巻もその趣向だったのだろう。

 この句の「本歌連歌」の本歌も欠落しているという。

 和歌に「舞(まひ)」を詠むことはかなり稀なのかもしれない。

 

 よろづ世のまひの袖ふる宿にこそ

     あるじたづねてもろひともくれ

              大中臣輔親(夫木抄)

 

の歌はあるが。元から本歌がなかったのかもしれない。

 

季語は「霞む」で春、聳物。「日」は光物。「鳥」は鳥類。

 

四十二句目

 

   舞の名の鳥の入方霞む日に

 うたふや木陰梅が枝のこゑ    忍誓

 (舞の名の鳥の入方霞む日にうたふや木陰梅が枝のこゑ)

 

 「梅が枝」は『新潮日本古典集成33 連歌集』の注に「催馬楽の曲」とある。

 

 梅が枝に来ゐる鶯や 春かけて はれ

 春かけて鳴けどもいまだや 雪は降りつつ

 あはれそこよしや 雪は降りつつ

 

という歌詞で、前句を鶯の舞手が退場して、梅が枝を謡う声が残るとする。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 とりどりに大宮人のうたふなる

     にほひは雲の梅が枝の声

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 梅が枝の鶯の声は和歌にも詠まれているが、「梅が枝」の歌の声という意味ではこの歌が典拠となる。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

四十三句目

 

   うたふや木陰梅が枝のこゑ

 友誘引難波の舟子棹取りて    心恵

 (友誘引難波の舟子棹取りてうたふや木陰梅が枝のこゑ)

 

 「誘引」は「さそふ」と読む。

 前句の歌を難波の舟遊びとする。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 出舟のかたへに月のにほふらし

     霞む難波の宮の面影

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 難波の舟子の典拠であろう。

 「出舟(いでふね)の」用例は、

 

 ともになりておなじみなとを出舟の

     ゆくへもしらずこぎわかれぬる

              西行法師(山家集)

 

の歌がある。

 難波の宮の舟は、

 

 ありかよふ難波の宮は海ちかみ

     あまをとめこがのれる舟みゆ

              よみ人しらず(風雅集)

 

の歌がある。

 

無季。「難波」は名所。「舟子」は水辺の用、人倫。

 

四十四句目

 

   友誘引難波の舟子棹取りて

 干さぬ田蓑の島人の衣      宗砌

 (友誘引難波の舟子棹取りて干さぬ田蓑の島人の衣)

 

 難波の舟子の服はいつも濡れていて、干すこともない。

 「田蓑の島」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「田蓑島」の解説」に、

 

 「平安時代以前、大阪市西淀川区の一帯が海であったころ、佃のあたりにあったと考えられる島。

  ※神楽歌(9C後)大前張「〈末〉海人衣 多見乃々志万(タミノノシマ)に 鶴(たづ)立ちわたる」

 

とある。歌枕で、

 

 難波潟しほみちくらしあま衣

     たみのの島にたづなき渡る

              よみ人しらず(古今集)

 

など、和歌に多く詠まれている。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 ふる雨に袖ぞのどけき島人の

     ほさぬ田蓑を衣とおもへば

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 田蓑の島人の典拠であろう。

 同時代の歌に、

 

 折ふしもしらぬ田蓑の島人も

     けふはなこしの御祓すらしも

              正徹(草根集)

 

の用例がある。

 

無季。「田蓑の島」は名所。「島人」は水辺の用、人倫。

 

四十五句目

 

   干さぬ田蓑の島人の衣

 雨ぞふる袖や五月に成りぬらん  行助

 (雨ぞふる袖や五月に成りぬらん干さぬ田蓑の島人の衣)

 

 前句の「干さぬ」を五月雨だからだとする。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 旅人の露はらふべき唐衣

     まだきも袖のぬれにけるかな

              三条太皇太后宮(拾遺集)

 

で、「別」に部立されている。何の典拠なのかはよくわからない。

 

季語は「五月」で夏。「雨」は降物。「袖」は衣裳。

 

四十六句目

 

   雨ぞふる袖や五月に成りぬらん

 いつを晴間の思ひならまし    専順

 (雨ぞふる袖や五月に成りぬらんいつを晴間の思ひならまし)

 

 五月雨でいつ晴れるのか。降りやまぬ雨に、止まらない涙の袖の露を暗示させる。

 後の『宗長日記』の享禄四年のところにある独吟の中の、

 

   いつまでとふる五月雨のかきくらし

 雲間の空もはるかにぞ見る    宗長

 

の句を思わせる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 いく度か時雨の空のかはるらむ

     心に曇る有明の月

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 時雨に曇る有明に心の曇りを重ねるという趣向は、五月雨の晴間のないのに心の晴れないのを重ねる趣向に通じないこともない。

 

無季。

 

四十七句目

 

   いつを晴間の思ひならまし

 閉ぢこむる葎の奥の宿の秋    専順

 (閉ぢこむる葎の奥の宿の秋いつを晴間の思ひならまし)

 

 葎の茂る荒れ果てた家に閉じこもっているのも憂鬱で、いつ晴間があるのだろうか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 おもひあらば葎の宿にねもしなん

     ひじきものには袖をしつつも

 

で『伊勢物語』第三段の歌になる。「ひじき藻」と「敷き物」に掛けている。

 

 かひなしや我のみふかきおもひには

     葎の宿に袖をしきても

              小宰相(宝治百首)

 

の歌もあるが、これの本歌でもあるのか。

 

季語は「秋」で秋。「葎」は植物、草類。「宿」は居所の体。

 

四十八句目

 

   閉ぢこむる葎の奥の宿の秋

 蓬が露に更くる有明       心恵

 (閉ぢこむる葎の奥の宿の秋蓬が露に更くる有明)

 

 八重葎も荒れ果てた宿の形容によく用いられるが、同じように「蓬生」も用いられる。閉じ籠る宿には葎だけでなく蓬も露を結ぶ。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 風ぞうき有明の月の影ながら

     露おきそふる蓬生のやど

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 蓬に有明の典拠であろう。

 

季語は「有明」で秋、夜分、光物。「蓬」は植物、草類。「露」は降物。

 

四十九句目

 

   蓬が露に更くる有明

 髪白く置きそふ霜の夜はながし  専順

 (髪白く置きそふ霜の夜はながし蓬が露に更くる有明)

 

 前句の蓬を蓬髪(ほうはつ)とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蓬髪」の解説」に、

 

 「〘名〙 蓬(よもぎ)のように伸びて乱れた頭髪。蓬頭。

  ※本朝無題詩(1162‐64頃)二・賦艾人〈藤原明衡〉「親朋憐レ汝宜レ憐レ我、蓬髪蹉跎余二七旬一」

  ※鬼剥げ(1954)〈島尾敏雄〉「汚れた長屋の前で蓬髪(ホウハツ)のかみさんが」 〔晉書‐阮孚伝〕」

 

とある。

 白髪は李白の、

 

   秋浦歌   李白

 白髪三千丈 縁愁似箇長

 不知明鏡裏 何処得秋霜

 (白髪頭が三千丈、悩んでいたらまた延長。

  鏡は誰だかわからない、どこで得たのかその秋霜。)

 

の詩でも霜に喩えられるが、それに加えて蓬のように乱れた髪に露が降りる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 老が身の昔の跡やしたふらし

     霜に跡なきくろかみの山

 

で、日文研の和歌データベースにはない。白髪を霜に喩える和歌での典拠であろう。

 

季語は「夜はながし」で秋、夜分。「霜」は降物。

 

五十句目

 

   髪白く置きそふ霜の夜はながし

 忘れぬすぢをかたれ古へ     忍誓

 (髪白く置きそふ霜の夜はながし忘れぬすぢをかたれ古へ)

 

 前句の「夜はながし」から「かたれ」と展開する。前句が李白の「秋浦歌」なら、これは白楽天の「琵琶行」か。

 俳諧だと、

 

 碪打ちて我にきかせよ坊が妻   芭蕉

 

の句もある。

 「本歌連歌」の本歌は、

 

 いにしへはおどろかされて鐘の音を

     待ちてこそきけ老の暁

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 「いにしへ」を神仏の故実ではなく、老人の過去の回想に用いる典拠であろう。

 

無季。述懐。

三表

五十一句目

 

   忘れぬすぢをかたれ古へ

 したしきも別れて残る身は憂きに 行助

 (したしきも別れて残る身は憂きに忘れぬすぢをかたれ古へ)

 

 死別した旧友に、昔に戻ってもう一度語りあいたいという意味に取り成す。「かたれ」で切って「いにしへ」と読む。「いにしへ」は語の成り立ちからして「去(い)にし・へ」で「過去へ」という意味を持つ。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 かならずと契りし虫ぞ別れきて

     ともなふ事ぞ稀の世の中

 

で、日文研の和歌データベースにはない。恋でない「別れ」の例は案外少ないのかもしれない。

 

無記。述懐。「身」は人倫。

 

五十二句目

 

   したしきも別れて残る身は憂きに

 旅の袖とふうどの浜風      宗砌

 (したしきも別れて残る身は憂きに旅の袖とふうどの浜風)

 

 「うどの浜」は駿河国の歌枕、有度浜で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「有度浜」の解説」に、

 

 「静岡市南部、駿河区と清水区にまたがる有度山(久能山)の南すその海岸。久能山縁起によれば、稲川太夫が浜の松の下の天人の舞を見て、子孫に伝えたという。宇度浜。宇土浜。」

 

とある。

 

 うど浜に天のはごろもむかしきて

     ふりけむ袖やけふのはふりこ

              能因法師(後拾遺集)

 うど浜の疎くのみやは世をはへむ

     波のよるよる逢ひみてしがな

              よみ人しらず(新古今集)

 

などの歌に詠まれ、雅語として問題はない。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 風さむし恨も浪も袖なれば

     とひし之の身もことの浜風

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 「こと浜」も、

 

 逢ふことははやことはまに置く網の

     いまひと目だに見ることもがな

              郁芳門院安芸(久安百首)

 天乙女おりゐし跡もこと浜に

     真砂をしたふ千鳥なくらし

              正徹(草魂集)

 

の用例がある。正徹の時代には「うと浜」と「こと浜」が一緒にされてたのかもしれない。

 なお、

 

 おほしまのなるとのうらのこきかたさ

     うとのはまххかくやあるらむ

              藤原元真(元真集)

 

の歌もあった。「うとの浜」は鳴戸にもあったか。時代的には有度浜の歌よりも古い。

 「うと浜・こと浜」ともに天乙女を詠む歌と、逢えない気持ちを詠む歌と二系統あったと思われる。この本歌はどちらでもなく、羇旅の「うと浜・こと浜」の典拠として引き出されたと思われる。

 

無記。羇旅。「袖」は衣裳。「浜風」は水辺の体。

 

五十三句目

 

   旅の袖とふうどの浜風

 船路にも聞く日はあれな郭公   心恵

 (船路にも聞く日はあれな郭公旅の袖とふうどの浜風)

 

 羇旅の船路に、海でホトトギスの声を聞くこともあるだろうか、とする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 みじか夜もいかが明かさむとまり舟

     聞くも身にしむ山時鳥

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 

 ほととぎす鳴くや五月の短夜も

     ひとりし寝ればあかしかねつも

              柿本人麻呂

 

の歌は『古今和歌六帖』他、いくつかの歌集にも見られる。この「あかしかねつも」が明石に掛けた歌なのかどうかはわからない。

 

 二声と聞かずば出でじ時鳥

     幾夜あかしのとまりなりとも

              藤原公通(新古今集)

 

の歌では、明らかに「明石の泊」と掛けて用いられている。これを典拠にすれば水辺の羇旅のホトトギスは成立しそうなものだ。

 ただ、この歌だけだと微妙だということもあったのだろう。明石とは別の水辺・羇旅のホトトギスの典拠を必要としたのだろう。

 明石のホトトギスというと、江戸時代の俳諧の『去来抄』に、

 

「面梶よ明石のとまり時鳥     野水

 猿ミの撰の時、去来曰、此句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集すべからず。先師曰、明石の時鳥といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主の手柄なし。先師曰、句の働におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。終に是をのぞき侍る。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)

 

というやり取りがある。芭蕉は新古今集の歌を知っていたが、去来は知らなかったようだ。それほど有名な歌でもなかったのだろう。

 

季語は「郭公」で夏、鳥類。「船路」は水辺の用。

 

五十四句目

 

   船路にも聞く日はあれな郭公

 村雨わたるをちの遠山      専順

 (船路にも聞く日はあれな郭公村雨わたるをちの遠山)

 

 前句の「日はあれな」を日付の日ではなく、日差しのこととして村雨を付け、船路のホトトギスに遠山をあしらう。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 遠近に雲立ち過ぐる山見えて

     日影さだかに見えぬ村雨

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 ホトトギスに五月雨を詠んだ歌は多いが、村雨のホトトギスもなくはない。

 

 心をぞ尽し果てつるほととぎす

     ほのめく宵の村雨の空

              藤原長方(千載集)

 声はして雲路にむせぶほととぎす

     涙やそそく宵の村雨

 

などの例がある。

 ただ、ここでは宵のホトトギスではなく、「日影さだかに見えぬ村雨」を典拠に、遠い山の村雨の雲はあるが、ホトトギスが鳴くから日影のあるところ(日の射す所)もあるのか、という趣向で付けている。

 

無記。「村雨」は降物。「遠山」は山類の体。

 

五十五句目

 

   村雨わたるをちの遠山

 広野には夕陰誘引杜見えて    忍誓

 (広野には夕陰誘引杜見えて村雨わたるをちの遠山)

 

 誘引は「さそふ」と読む。

 遠山に広野と違えて付ける。遠山は村雨が降っているようだが、手前に広がる広野には夕日が差して杜(もり)が見える。鎮守の森で神祇になる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 あま雲は野守が袖に立ちまよひ

     風吹きさそふ夕されの空

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 野守はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野守」の解説」に、

 

 「① 立入りを禁じられている野原の見張りをする人。野の番人。

  ※万葉(8C後)一・二〇「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」

  ※古今(905‐914)春上・一九「春日野のとぶひののもりいでてみよ今いくかありてわかなつみてん〈よみ人しらず〉」

  ② 農夫。

  ※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)下「あさでのしづや火をもらふ野もりが見るめはづかしと」

 

とある。②が近世の意味ならば①になる。

 立ち入りが禁じられている野原は、春日野のような神域か、鷹狩をする野であろう。その意味で、雨の夕暮れの神祇の典拠となる。

 

無季。神祇。

 

五十六句目

 

   広野には夕陰誘引杜見えて

 隙行く駒ぞはむ草もなき     宗砌

 (広野には夕陰誘引杜見えて隙行く駒ぞはむ草もなき)

 

 「隙行く駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隙行く駒」の解説」に、

 

 「(「荘子‐知北遊」の「人生二天地之間一、若二白駒之過一レ郤、忽然而已」による) 壁のすきまに見る馬はたちまち過ぎ去ることの意から、月日の早く過ぎ去ることのたとえ。隙(げき)を過ぐる駒。白駒(はっく)隙(げき)を過ぐ。ひま過ぐる駒。ひまの駒。

  ※千載(1187)雑中・一〇八七「いかで我ひまゆく駒をひきとめて昔に帰る道を尋ねん〈三河内侍〉」

 

とある。千載集に證歌があることも例文に示されている。

 広野には放牧されている普通の馬が草を食んでいるが、時の流れという早馬は道草を食うこともない。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 小幡より都にひける手なれ駒

     心急がばかひ草もなし

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 「隙行く駒」を出すことは問題ないが、それの食う草もないという趣向はこの歌が典拠になる。

 

無季。「駒」は獣類。「草」は植物、草類。

 

五十七句目

 

   隙行く駒ぞはむ草もなき

 浅からず願ふは法の水なれや   行助

 (浅からず願ふは法の水なれや隙行く駒ぞはむ草もなき)

 

 時の流れは速く、人はあっという間に老いぼれて死を迎える。そこで願うのは仏法の水で、ものが水だけに「浅からず」となる。

 「法(のり)の水」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「法の水」の解説」に、

 

 「① 仏法が衆生の煩悩を洗い浄めるのを水にたとえていう語。法水。

  ※公任集(1044頃)「尋ねくる契しあれば行末も流れて法の水はたえせじ」

  ② 仏像などに注ぐ水。聖水。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

 

とある。①の意味になる。例文にもあるように、和歌に用いられている。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 室の戸のかけひの水の絶々に

     影こそやどれ有明の月

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「水の絶え絶え」は水が浅いということで、それに宿る有明月を真如の月として釈教に解し、浅い水でも法の水は浅からず、というところか。

 

無季。釈教。

 

五十八句目

 

   浅からず願ふは法の水なれや

 すむてふ事はやすき彼国     専順

 (浅からず願ふは法の水なれやすむてふ事はやすき彼国)

 

 仏法を求めて彼国にわたろうと志す。行って住むだけなら簡単だが、悟りを開くのははるかに難しい。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 あらましをおもひ立つ夜のかり衣

     おもふぞとほき彼国の道

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 狩り衣は狩りに行くのではなく旅に出るという意味だろう。行き先の彼の国は唐土であろう。古くは最澄・空海も唐に渡った。渡来僧を詠む典拠となる。

 遣唐使の時代は生存率50パーセントとも言われたが、室町時代には勘合貿易もあり航路も安定し、明に渡る人も多かった。雪舟もこの興行よりも少し後の時代になるが、絵の修行のために明に渡っている。

 後の水無瀬三吟の四十三句目にも、

 

   月日のすゑやゆめにめぐらん

 この岸をもろこし舟のかぎりにて 宗長

 

の句がある。

 

無季。釈教。

 

五十九句目

 

   すむてふ事はやすき彼国

 爰をさる程をさかひの後の世に  宗砌

 (爰をさる程をさかひの後の世にすむてふ事はやすき彼国)

 

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は「去此不遠(こしふおん)」の心としている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「去此不遠」の解説」には、

 

 「〘名〙 仏語。極楽浄土は西方十万億土のかなたにあるが、法味観念の上から見れば、この娑婆世界からは遠くないの意。

  ※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「いかにみなみな女ばうたち、大事のあんじんをばときのこしたるぞ。こしふをんととく時は、ここをさる事とをからず」 〔観無量寿経〕」

 

とある。

 西方浄土は十万億土の彼方とはいえ遠い所ではなく、住みやすい国。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 世中は何事なくてとにかくに

     別路とほくいたる彼岸

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「ここを去って後の世に」という文脈自体がこれまでにないものなので、「別路とほくいたる彼岸」を典拠としたか。「ここをさる」の語句が和歌データベースではヒットしない。

 

無季。釈教。

 

六十句目

 

   爰をさる程をさかひの後の世に

 あけていづみの杣の仮伏     心恵

 (爰をさる程をさかひの後の世にあけていづみの杣の仮伏)

 

 前句の「さかひ」を大阪の堺として和泉の国を付ける。摂津・和泉・河内の境にあるところから「堺」の名がある。

 堺を去ったのち、「世に・あけて」を「夜に・あけて」とし、夜明けには和泉の国に入る、そんな杣人の仮の宿だった。

 杣人はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「杣人」の解説」に、

 

 「〘名〙 杣木を切り倒したり運び出したり造材したりすることを職業とする人。きこり。杣師。樵夫(しょうふ)。そまうど。そま。

  ※万葉(8C後)七・一三五五「真木柱つくる蘇麻人(ソマひと)いささめに仮廬(かりほ)のためと造りけめやも」

 

とある。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 涼しさは積る泉の宿ながら

     あつき日影の杣のかりふし

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「そまのかりふし」もヒットしないので、この言葉の典拠とするとともに、「いづみ」に「杣」の縁にもなる。

 

無季。

 

六十一句目

 

   あけていづみの杣の仮伏

 山陰にかた許なる松の門     忍誓

 (山陰にかた許なる松の門あけていづみの杣の仮伏)

 

 松の門(かど)は正月の門松ではなく、ここでは松の木のある門のこと。「松の門あけて」と下句に繋がる。

 松の門はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「松の門」の解説」に、

 

 「① 松の立っている門。山住みの人の家にいう。山中の住家。

  ※壬二集(1237‐45)「とはれんとさしてはすまずまつのかど見はてんための秋の夕暮」

  ② 門松の飾ってある門。松の戸。」

 

とある。

 許は「ばかり」と読む。山陰に簡単な松の門の家があって、門を開けるとすぐに泉のある、そんな杣の仮宿だった、という意味になる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 松の戸は此の山本に見えながら

     庵りの煙立ちぞかねぬる

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 山の松の戸は、

 

 山深み春とも知らぬ松の戸に

     たえだえかかる雪の玉水

              式子内親王(新古今集)

 

の例もある。杣の仮伏のような卑しい者の松の戸の典拠としたか。

 

無季。「山陰」は山類の体。「松」は植物、木類。「門」は居所の体。

 

六十二句目

 

   山陰にかた許なる松の門

 塩干の磯屋あらす浪風      宗砌

 (山陰にかた許なる松の門塩干の磯屋あらす浪風)

 

 前句の松の門を海辺の松原の辺りの住処とする。塩干はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「潮干」の解説」に、

 

 「① 潮が引くこと。ひき潮。潮がれ。また、潮が引いたあとの浜。干潟になった海岸。

  ※万葉(8C後)一七・三八九一「荒津の海之保悲(シホヒ)潮満ち時はあれどいづれの時か吾が恋ひざらむ」

  ② 陰暦三月の大潮のとき、舟で海へ漕ぎ出し、干潮になれば舟を降りて潮干狩などをし、潮が満ちてくればまた舟に戻って遊ぶこと。しおひあそび。《季・春》」

 

とあり、この場合は①の干潟の意味であろう。風が強く吹けば高波にさらされる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 風むかふ雲のうき浪立つと見て

     釣りせぬさきに帰る舟人

 

で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、謡曲『羽衣』の、

 

 「風向ふ、雲の浮波立つと見て、雲の浮波立つと見て、釣せで人や帰るらん。待て暫し春ならば吹くものどけき朝風の、松は常磐の声ぞかし。波は音なき朝なぎに、釣人多き・小舟かな釣人多き小舟かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30712-30717). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の元ネタの歌としている。『解註謡曲全集』の野上注には、

 

 「○風向ふ雲の浮波立つと見て釣せぬ(先に帰る舟人)―― 藤原為相(ためすけ)の歌。此の歌は遠浦帰帆(瀟湘八景)を詠んだものと云われる。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30911-30913). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 謡曲は三保の松原が舞台で、この能のワキの漁夫を連想させる。この歌というよりも、世阿弥の能を典拠としたような感じもする。

 謡曲の言葉や物語を典拠とするのは、江戸時代の談林俳諧になって盛んになるが、それを先取りしたような感じだ。

 

無季。「塩干の磯屋」「浪風」は水辺の用。

 

六十三句目

 

   塩干の磯屋あらす浪風

 行く秋の湊の田づら守り捨てて  心恵

 (行く秋の湊の田づら守り捨てて塩干の磯屋あらす浪風)

 

 前句の磯屋を干潟を干拓した所に作った田んぼの刈穂の庵とし、稲刈りが済んで秋も終われば去って行く。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 露ふかくあれたる草の色ながら

     かよひぢ絶ゆる小田のかり庵

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 稲刈の跡の放置された仮庵の典拠とする。

 

 結びおく露もたまらで荒れにけり

     尾花かこひし小田のかり庵

              阿仏(安嘉門院四条五百首)

 時過ぐる小田のかり庵あれはてて

     人こそすまね露は守りける

              時光(延文百首)

 

のような八代集の時代よりも後の和歌には、こうした趣向もなくはない。

 

季語は「行く秋」で秋。「湊」は水辺の体。

 

六十四句目

 

   行く秋の湊の田づら守り捨てて

 枯るる蘆辺に落つる雁金     行助

 (行く秋の湊の田づら守り捨てて枯るる蘆辺に落つる雁金)

 

 「落つる雁金」は落雁のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「落雁・落鴈」の解説」に、

 

 「① 池や沼などにおりたつ雁。《季・秋》

  ※光悦本謡曲・善知鳥(1465頃)「平砂に子をうみて落雁の、はかなや親はかくすとすれど」 〔江総‐贈賀左丞蕭舎人詩〕」

 

とある。

 刈穂の庵も捨て去られた後は、雁金が降りてきてそこを棲家とする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 秋風に蘆の葉がれのありながら

     雲かる声の落つる雁音

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「蘆辺に落つる雁金」の典拠になる。

 「落つる雁金」の言葉は、

 

 大江山かたぶく月の影冴えて

     鳥羽田の面に落つるかりがね

              慈円(新古今集)

 

の用例がある。

 

季語は「雁金」で秋、鳥類。「蘆」は植物、草類。

三裏

六十五句目

 

   枯るる蘆辺に落つる雁金

 田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき  専順

 (田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき枯るる蘆辺に落つる雁金)

 

 蘆辺の雁金に月夜の鶴を添える。

 田鶴というと今日では、

 

 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ

     葦辺をさして鶴鳴き渡る

              山部赤人(続古今集)

 

がよく知られているが、この歌が勅撰集に選ばれたのは文永二年(一二六五年になる。蘆辺の田鶴を景物として月などとともに詠むようになるのは、新古今集の時代以降盛んになる。

 田鶴ではなく鶴であれば、

 

 和歌の浦に月の出しほのさすままに

     よる啼く鶴の聲ぞかなしき

              慈円(新古今集)

 

の歌があるが、月夜に鳴く田鶴の歌となると、もう少し時代が下り、

 

 和歌の浦蘆辺の田鶴の鳴く声に

     夜わたる月の影ぞひさしき

              後堀河院(新勅撰集)

 

になり、これだと本歌としてふさわしい年代ではなくなる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 在明の月をばいよよ侘びつらん

     田鶴鳴きあかす長き夜の内

 

で、日文研の和歌データベースにはない。月に鳴く田鶴の典拠とする。

 

季語は「夜寒の月」で秋、夜分、光物。「田鶴」は鳥類。

 

六十六句目

 

   田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき

 雲ゐは霧のたえまをも見ず    宗砌

 (田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき雲ゐは霧のたえまをも見ず)

 

 雲ゐの田鶴は、

 

 雲井にて人をこひしと思ふかな

     我は蘆辺の田鶴ならなくに

              よみ人しらず(後撰集)

 むかしみし雲ゐをこひて蘆鶴の

     沢辺に鳴くやわが身なるらん

              藤原公重(詞花集)

 

の歌があり、鶴は雲の上の住まいが恋しくて鳴くとされ、配流の境遇と重ね合わせて詠まれていた。

 宗砌の句もまだ夜の明けぬ頃に鳴く田鶴の声に、霧に見えない雲居が恋しくて鳴いているという趣向で付けている。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 遠近の峰より嶺の雲霧は

     風ならずして絶間をも見ず

 

で、日文研の和歌データベースにはない。霧の絶え間すらない、という趣向の典拠となる

 霧の絶え間に見えるということだと、

 

 武蔵野を霧の絶え間に見わたせば

     ゆくすゑとほき心地こそすれ

              平兼盛(後拾遺集)

 

の歌もある。

 

季語は「霧」で秋、聳物。

 

六十七句目

 

   雲ゐは霧のたえまをも見ず

 わけのぼる嶺の梯人はこで    忍誓

 (わけのぼる嶺の梯人はこで雲ゐは霧のたえまをも見ず)

 

 前句の雲居を単に雲の意味として、峰と峰を繋ぐ架け橋に喩える。

 嶺の梯(かけはし)は、

 

 かささぎの渡すやいづこ夕霜の

     くもゐに白き峯のかけはし

              藤原家隆(新勅撰集)

 山深くまた誰が通ふ道ならむ

     これより奥の峰のかけはし

              鷹司冬平(玉葉集)

 

など、八代集以降に用いられるようになる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 峰よりは嶺のかよひぢ跡もなし

     日影に渡る雲の梯

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 

無季。「嶺」は山類の体。「梯」は山類の用。「人」は人倫。

 

六十八句目

 

   わけのぼる嶺の梯人はこで

 ささふく軒のつづく奥山     心恵

 (わけのぼる嶺の梯人はこでささふく軒のつづく奥山)

 

 奥山に人が来るのは嶺の梯を通ってではなく、あくまで軒の続く下界の道を通って、はるばる旅をして行き着く。

 大峰山の峰入りではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「峰入」の解説」に、

 

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》

  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

 

とある。季節は時代によって変化があったと思われる。

 役行者が一言主の神に作らせようとした、葛城山から吉野金峰山への石橋を意識してのものだろう。前句の「嶺の梯」をこの石橋のこととする。「ささふく軒のつづく奥山」は熊野路のことになる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 庵しむる軒端の山の風さむし

     いささをざさの時雨なるいろ

 

で、日文研の和歌データベースにはない。山の中の笹葺く軒の典拠となる。

 「ささふく」の用例は、

 

 小笹葺く賎のまろ屋の假の戸を

     あけがたに鳴く時鳥かな

              藤原実定(新古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「軒」は居所の体。「奥山」は山類の体。

 

六十九句目

 

   ささふく軒のつづく奥山

 玉霰音する日こそ寂しけれ    行助

 (玉霰音する日こそ寂しけれささふく軒のつづく奥山)

 

 笹葺く軒に霰の降る音を付ける。笹葺きの草庵として、「つづく」は軒ではなく、奥山が続くとする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 木葉ちる峰の庵の冬籠り

     思ひかずそふあられ雪の日

 

で、日文研の和歌データベースにはない。山の庵で聞く霰の典拠とする。

 山の庵の霰は、

 

 嵐吹くみ山の庵の笹の葉の

     さやぐを聞けば霰降るなり

              藤原為家(玉葉集)

 

の歌もある。

 

季語は「玉霰」で冬、降物。

 

七十句目

 

   玉霰音する日こそ寂しけれ

 雪降る比は野辺も目かれず    宗砌

 (玉霰音する日こそ寂しけれ雪降る比は野辺も目かれず)

 

 「目かれ」は目が離れることで、見なくなること、逢わなくなることをいう。「目かれず」だから、雪が降ると逆に野辺をいつまでも見ていることになる。

 霰だけだと淋しいが、雪になると雪景色を見て心も慰められる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 くるとあくとめかれぬ物を梅の花

     いつの人まにうつろひぬらむ

              紀貫之(古今集)

 

になっている。見飽きないものを「目かれず」とする典拠となる。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

七十一句目

 

   雪降る比は野辺も目かれず

 伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて 専順

 (伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて雪降る比は野辺も目かれず)

 

 前句の「目かれず」を人が大勢来るという意味にして、雪が降っても狩場には人がたくさん来るとする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 鷹がりの鳥の落方末を見よ

     心を岡の野べのせこかひ

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「狩場のせこ」の典拠とする。

 

季語は「狩」で冬。「鳥」は鳥類。

 

七十二句目

 

   伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて

 馴れにし犬ぞ杖におどろく    忍誓

 (伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて馴れにし犬ぞ杖におどろく)

 

 鷹狩は犬を用いる。犬を使って鳥を飛び立たせ、それを鷹が狩る。ここでは背子が杖で鳥を飛び立たせようとしたので、犬がびっくりする。

 前句の「打ちむれて」を杖で打とうとして群れると取り成す。「犬も歩けば棒にあたる」という諺もあるが、昔の犬は棒でよく打たれたのだろう。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 いやしきのきたるかひなしかり衣

     うつにもさらぬ家々の犬

 

で、日文研の和歌データベースにはない。犬が棒で打たれることの典拠とする。

 

無季。「犬」は獣類。

 

七十三句目

 

   馴れにし犬ぞ杖におどろく

 老人や思ひの家を守るらん    宗砌

 (老人や思ひの家を守るらん馴れにし犬ぞ杖におどろく)

 

 何やら怪しいものが侵入してきたのだろう。老人(おいびと)が杖で追っ払おうとすると、飼ってた犬の方が打たれると思ってびっくりする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 いにしへの道はただしく残りけり

     家を守りの雲の老人

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「家を守る老人」の典拠となる。

 「老人(おいひと)」も用例は少ない。

 

 さくらはな白髪にまじる老人の

     宿には春ぞ雪も絶えせぬ

              藤原兼輔(兼輔集)

 

などが僅かにある。

 

無季。「老人」は人倫。「家」は居所。

 

七十四句目

 

   老人や思ひの家を守るらん

 昔の歌の道はのこれり      行助

 (老人や思ひの家を守るらん昔の歌の道はのこれり)

 

 古代の歌の道は二条家・冷泉家に受け継がれて、それぞれ家を守ることで中世にも残ることができた。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 かしこきは昔の跡の大和歌

     代々をのこせる水くきの跡

 

で、日文研の和歌データベースにはない。歌の道の残ることの典拠とする。

 

 いにしへの流れの末の絶えぬかな

     書きつたへたる水くきの跡

              藤原家隆(続拾遺集)

 

の歌もある。

 

無季。

 

七十五句目

 

   昔の歌の道はのこれり

 石見がた名のみ高津の浦さびて  忍誓

 (石見がた名のみ高津の浦さびて昔の歌の道はのこれり)

 

 石見国高津の浦は柿本人麻呂終焉の地で、高津の浦は寂れても、人麻呂以来の和歌の道は今日まで残っている。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 岩見がた高津の松の木の間より

     うき世の月を見はてぬる哉

 

で、人麻呂辞世の歌として『六花集』に伝えられていると、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注にある。

 

無季。「石見がた」「高津の歌」は名所、水辺。

 

七十六句目

 

   石見がた名のみ高津の浦さびて

 風吹きしほる松ぞかたぶく    専順

 (石見がた名のみ高津の浦さびて風吹きしほる松ぞかたぶく)

 

 前句の「浦さびて」に「松ぞかたぶく」と付く。風を添えることで「かたぶく」は「吹く」と掛けることになる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 露ながら松やかたぶく山風に

     浜辺の千草うら枯にして

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「松の傾く」の典拠となる。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

七十七句目

 

   風吹きしほる松ぞかたぶく

 花の木の枝を垣なる谷の庵    宗砌

 (花の木の枝を垣なる谷の庵風吹きしほる松ぞかたぶく)

 

 谷だから松も傾く。谷の庵に花を添える。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 谷の戸の籬に咲ける梅の花

     心なげにも折りやるつらん

 

で、日文研の和歌データベースにはない。谷の籬の花の典拠となる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「谷」は山類の体。「垣」「庵」は居所の体。

 

七十八句目

 

   花の木の枝を垣なる谷の庵

 鳥の声する春の古畑       心恵

 (花の木の枝を垣なる谷の庵鳥の声する春の古畑)

 

 花に鳥、谷の庵に古畑を添える。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 草ふかくなるふるはたに鳥鳴きて

     ねぐらをしめて巣にも帰らず

 

で、日文研の和歌データベースにはない。古畑の鳥の典拠となる。

 「ふるはた」に鳥の用例は、

 

 古畑のそはの立つ木にゐる鳩の

     友呼ぶ聲のすごき夕暮

              西行法師(新古今集)

 

にも見られる。

 

季語は「春」で春。「鳥」は鳥類。

名残表

七十九句目

 

   鳥の声する春の古畑

 打ち返す小田には人の群りて   忍誓

 (打ち返す小田には人の群りて鳥の声する春の古畑)

 

 新しく打ち返す田んぼには人が群がって、古い畑には鳥が群がる。相対付け。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 打ちかへす山田に人のあつまりて

     木陰の花を誰見はやさん

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 「あつまりて」という言葉自体が、

 

 夜はの月かならすいつる山のはに

     雲あつまりて又そきえ行く

              正徹(草根集)

 みなきはに鷺あつまりて河きしの

     石にゐる鵜のおるるをそまつ

              正徹(草根集)

 

の二例しかヒットしなかったので、この言葉の典拠というだけでも十分だろう。

 打ち返すに人が集まるだから、この趣向全体の典拠にもなっている。

 「あつめ」で検索すると古い時代のも二三あるが「かきあつめ」の用例が多い。

 

 このもとにかきあつめつる言の葉を

     ははその森のかたみとは見よ

              源義国妻(詞花集)

 

のように、落葉を搔き集めるのを「言の葉」を書き集めるのと掛けて用いられる。

 「あつまり」で検索すると、

 

 村雨にたち隠れせし柏木の

     青葉に夏はあつまりにけり

              源重之(重之集)

 

の一件がある。

 「あつまる」が雅語でないとするなら、

 

 五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉

 

の句も、「あつめて」が俳言だったのかもしれない。

 

季語は「打ち返す小田」で春。「人」は人倫。

 

八十句目

 

   打ち返す小田には人の群りて

 阿辺野の原ぞ市をなしたる    専順

 (打ち返す小田には人の群りて阿辺野の原ぞ市をなしたる)

 

 阿倍野というと今はあべのハルカスがあるが、昔は野原に市が立つような場所だったのだろう。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、謡曲『松虫』のの冒頭に、

 

 「これは津の国阿部野のあたりに住居する者にて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.52741-52743). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とあるのを指摘している。

 阿倍野の野原に市が立ったので、周辺の小田を打ち返す農夫たちが集まってくる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 帰るさの雨こそ人は知られけれ

     安部野の原の草のにぎはひ

 

で、日文研の和歌データベースにはない。安部野の原の典拠となる。

 「阿部の市」は古歌にも詠まれているが、これは駿河国の阿部を指す。

 

無季。「阿辺野」は名所。

 

八十一句目

 

   阿辺野の原ぞ市をなしたる

 見わたせば浪に虹立つあさかがた 宗砌

 (見わたせば浪に虹立つあさかがた阿辺野の原ぞ市をなしたる)

 

 浅香潟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浅香浦」の解説」に、

 

 「大阪府堺市東部の古名。大和川の沿岸一帯にあたり、古くは海に面していた。摂津の名所。歌枕。浅香潟。

  ※万葉(8C後)二・一二一「夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿乃浦に玉藻刈りてな」

 

とある。元は浦だったのが時代が下って、寒冷期の海面の低下で干潟になったか。

 

 夕波のたゆたひくればあさかがた

     塩ひのゆたに千鳥鳴くなり

              蓮性(宝治百首)

 

の歌がある。蓮性は藤原知家の出家後の名前。『新古今集』に入集しているので、一応は八代集の時代の歌人に入るのか。

 前句の所の本歌に「帰るさの雨こそ」とあるから、そこから浅香潟の虹へ展開したのだろう。ただ、「浅香潟」の名に掛けて、ここでは朝方の虹であろう。大阪湾は西側になるので、西に虹が出るのは朝方になる。

 朝市なら未明から市が立ち、市の終わるころの虹ということか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 打ちむかふ浪のうねうね茂るらし

     あべのの原の草はうら枯

 

で、日文研の和歌データベースにはない。阿倍野の原に浪を付ける典拠となる。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に「うねうね」の語は謡曲『草子洗小町』に見られるという。(日文研の和歌データベースではヒットしなかった。)

 

 「さても明日内裏にて、御歌合あるにより、小町が相手に黒主を御定め候。小町には水辺の草といふ題を賜はりたり。面白や水辺の草といふ題に浮かみて候はいかに。

 

 蒔かなくに何を種とて浮草の

     波のうねうね生ひ茂るらん

 

 この歌をやがて短冊にうつさばやと思ひ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.32140-32148). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。この歌が『万葉集』にあるという疑いをかけられることになる。物語の上では結構重要な歌だ。

 「虹立つ」は、

 

 時雨つつ虹立つ空や岩橋を

     渡し果てたる葛城の山

              寂蓮法師(夫木抄)

 

の用例がある。

 

無季。「浪」は水辺の用。

 

八十二句目

 

   見わたせば浪に虹立つあさかがた

 朝かげ寒く向ふ雪の日      行助

 (見わたせば浪に虹立つあさかがた朝かげ寒く向ふ雪の日)

 

 「朝かげ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝影」の解説」に、

 

 「① 朝、鏡や水に映る顔かたちや姿。

  ※万葉(8C後)一九・四一九二「朝影(あさかげ)見つつ 嬢子(をとめ)らが 手に取り持てる まそ鏡」

  ② 朝日の光。⇔夕影。

  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「あさかげにはるかに見れば山のはに残れる月もうれしかりけり」

  ③ 朝日によってできる細長く弱々しい影。恋の悩みなどでやせ細った人の姿をたとえていう。

  ※万葉(8C後)一一・二六六四「夕月夜暁闇(あかときやみ)の朝影(あさかげ)に吾が身はなりぬ汝を思ひかねて」

  [補注]③の挙例の比喩の用法については、「朝日のほのかな弱々しい光のように」と解する説もある。」

 

とある。この場合は②であろう。浪の向こうには虹がかかり、辺りは一面の雪で朝日が寒々としている。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 うす雲の時雨ぞ雪の初めなり

     朝明寒き嶺の松風

 

で、日文研の和歌データベースにはない。時雨が雪に変わるというところから、時雨の虹に雪の朝とする。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

八十三句目

 

   朝かげ寒く向ふ雪の日

 帰るさの袖の氷に月落ちて    心恵

 (帰るさの袖の氷に月落ちて朝かげ寒く向ふ雪の日)

 

 朝ということで後朝にして恋に転じる。

 袖の露(涙)は冬だから氷になり、有明の月も沈めば、寒々とした朝日が一面の雪原を照らす。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 跡つけぬ雪にはいかに朝かへり

     入る方までもさゆる月影

 

で、日文研の和歌データベースにはない。雪の後朝の月影の典拠となる。

 「さゆる月影」は

 

 降り積もる雪吹きおろす山おろしに

     山の端白くさゆる月影

              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

の用例がある。

 

季語は「氷」で冬。恋。「袖」は居所。「月」は夜分、光物。

 

八十四句目

 

   帰るさの袖の氷に月落ちて

 つらき心はとけん夜ぞなき    専順

 (帰るさの袖の氷に月落ちてつらき心はとけん夜ぞなき)

 

 袖の涙が氷ったまま、恋のつれない心の氷は解けることがない。前句が帰って行く男の歌なのに対し、見送る女性のつらき心に転じる。あなたは氷のように冷たい、というところか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 契りつる其の時ばかり打ちとけて

     別れになれば結ぶ思ひね

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 まあ、セックスの時だけ馴れ馴れしくて、終わると急に冷淡になる男っているよね。その趣向の典拠となる。

 

無季。恋。「夜」は夜分。

 

八十五句目

 

   つらき心はとけん夜ぞなき

 覚めやすき夢の思ひね結ぼほれ  宗砌

 (覚めやすき夢の思ひね結ぼほれつらき心はとけん夜ぞなき)

 

 「思ひね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「思寝」の解説」に、

 

 「〘名〙 物を思いながら寝ること。多く恋しい人のことを思いながら眠る場合に用いられる。

  ※古今(905‐914)恋二・六〇八「君をのみおもひねにねし夢なれば我心から見つるなりけり〈凡河内躬恒〉」

 

とある。例文にある通り、古今集の和歌に用いられている。

 「結ぼほる」は絡みつく、とそこから比喩として派生した気が塞ぐという意味があり、「葛藤」という言葉に近い。

 愛しい人の夢を頼みに寝ることで、いい夢が見れたとしても、覚めた時は空しいものだ。辛い心は何も変わらない。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 ぬるもうし覚むるもつらし我が心

     あふ夜の夢をあだになすよは

 

で、日文研の和歌データベースにはない。逢う夢を見ても夢なら悲しいことに変わりない。語句ではなく、この心の典拠となっている。

 

無季。恋。

 

八十六句目

 

   覚めやすき夢の思ひね結ぼほれ

 吹くもたゆむる同じ松風     忍誓

 (覚めやすき夢の思ひね結ぼほれ吹くもたゆむる同じ松風)

 

 夢に現れても醒めれば空しいように、松風の悲しげな音が強く吹いても緩く吹いても、やはり悲しいことには違いない。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 ふりはるる時雨の雲はさだめなき

     さゆる嵐ぞ同じ松風

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 降っても晴れても時雨の雲は定めないように、降っても晴れても嵐吹く松風は悲しげなことに変わりない。これも松風の変わりないという趣向の典拠となる。

 

無季。

 

八十七句目

 

   吹くもたゆむる同じ松風

 出でがてになるみの里の雨宿り  専順

 (出でがてになるみの里の雨宿り吹くもたゆむる同じ松風)

 

 なるみの里は尾張鳴海で、江戸時代には芭蕉が『笈の小文』の旅で、

 

   鳴海にとまりて

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

 ふるさとにかはらざりけり鈴虫の

     なるみの野辺の夕暮れの声

              橘為仲(詞花集)

 

など、古歌にも詠まれている。

 海辺で「鳴海潟」とも呼ばれる所なので、松風も吹く。前句の本歌の「時雨の雲はさだめなき」に応じて、ここでは鳴海の雨宿りを付ける。雨が降っても雨が止んでも松風は悲しげだ。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 雨雲になるみの里はむらがりて

     聞くぞ物うき松風の音

 

で、日文研の和歌データベースにはない。鳴海の里の松風の典拠となる。

 

無季。「里」は居所。「雨」は降物。

 

八十八句目

 

   出でがてになるみの里の雨宿り

 おくるる舟はかたもさだめず   心恵

 (出でがてになるみの里の雨宿りおくるる舟はかたもさだめず)

 

 江戸時代の東海道は隣の宮宿から七里の渡しの舟が出ていた。室町時代から既にこの航路はあったようだ。ただ、ここでは鳴海宿からなので、それとは別に伊勢湾を渡る舟があったのだろう。

 行く当てもないさすらい人の旅で、鳴海の里から船には乗るが、行き先は定めていない。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 雨の音ちかく鳴海のとまり舟

     うきおくれてはかたぞさだめず

 

で、日文研の和歌データベースにはない。鳴海の舟の行衛定めずの典拠となる。

 

無季。「舟」は水辺の用。

 

八十九句目

 

   おくるる舟はかたもさだめず

 藻塩焼く浦はほかげをしるべにて 宗砌

 (藻塩焼く浦はほかげをしるべにておくるる舟はかたもさだめず)

 

 藻塩を焼く侘し気な浦は古典の須磨の浦を思わせる。須磨明石で行方を定めずといえば、

 

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に

     島隠れゆく舟をしぞ思ふ

              よみ人しらす(一説、柿本人麿)(古今集)

 

の良く知られた歌の趣向になる。あるいは、

 

 わたのはらやそしまかけて漕ぎ出でぬと

     人には告げよあまのつり舟

              小野篁(古今集)

 

など、流刑を暗示させる。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 雲かけてさだかにもなき奥の舟

     それかあらぬか夕ざれの空

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 

無季。「藻塩焼く浦」は水辺の体。

 

九十句目

 

   藻塩焼く浦はほかげをしるべにて

 海士の栖を誰かとふらん     専順

 (藻塩焼く浦はほかげをしるべにて海士の栖を誰かとふらん)

 

 藻塩焼くと言えば海士で、海士の栖を問うというと在原行平が思い浮かぶが、ここれは問う人もない普通の海士の栖を詠む。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 浦里の藻塩の煙絶えてけり

     かよひぢ稀の海士の家々

 

で、日文研の和歌データベースにはない。問う人のない海士の栖の典拠となる。

 

無季。「海士」「誰」は人倫。「栖」は居所。

 

九十一句目

 

   海士の栖を誰かとふらん

 秋はただ山路を分けぬ人もなし  行助

 (秋はただ山路を分けぬ人もなし海士の栖を誰かとふらん)

 

 海士の栖に山路と違えて付ける。山路をわざわざ訪ねて行く人もいないから、ましてや海士の栖を訪れる人もいない。「山路を分けぬ」で切って「人もなし」という否定を二つ重ねて否定を強調する言い回しか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 村雲は高根の峰の時雨にて

     分けぬ山ぢの爪木取る人

 

で、日文研の和歌データベースにはない。「山路を分けぬ」の典拠となる。

 二重否定による肯定とすると意味が通じないし、本歌の「誰も分て行く人のいない山路に爪木取る人」の意味が生かされない。

 

季語は「秋」で秋。「山路」は山類の体。「人」は人倫。

 

九十二句目

 

   秋はただ山路を分けぬ人もなし

 四方の木どもの紅葉する比    心恵

 (秋はただ山路を分けぬ人もなし四方の木どもの紅葉する比)

 

 前句を「山路を分けて行かない人などいない」という二重否定の肯定で、紅葉が見事だから誰もが訪ねて行く、とする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 色付くる野原の草の露ながら

     山に心をうつすもみぢ葉

 

で、日文研の和歌データベースにはない。山が紅葉すれば、山路の草の露にもその心が映るということで、山路をみんな分け入るということか。

 

季語は「紅葉」で秋、植物、木類。

名残裏

九十三句目

 

   四方の木どもの紅葉する比

 冷じや嵐の風も心あれ      忍誓

 (冷じや嵐の風も心あれ四方の木どもの紅葉する比)

 

 せっかく山は奇麗に色づいたのだから、嵐で散らさないでくれ。

 「心あれ」は、

 

 われこそは新島守よ隠岐の海の

     荒き波風心して吹け

              後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)

 

を思わせるが、それ以外にも花や紅葉に関しては「心して吹け」は珍しい言い回しではない。

 

   大原野の祭に參りて周防内侍に遣しける

 千代までも心して吹けもみぢ葉を

     神もをしほの山颪の風

              藤原伊家(新古今集)

 

の例もある。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 ちりはつる四方の紅葉の色ながら

     梢にさそふ風ぞ難面き

 

で、日文研の和歌データベースにはない。

 「四方の紅葉」の用例は、

 

 惜しめどもよもの紅葉は散りはてて

     戸無瀬ぞ秋のとまりなりける

              春宮大夫公實(金葉集)

 小倉山時雨るる頃の朝な朝な

     きのふは薄きよもの紅葉葉

              藤原定家(続後撰集)

 

などがある。「四方の紅葉」の風に散るのを歎く趣向の典拠なのだろう。

 

季語は「冷まじ」で秋。

 

九十四句目

 

   冷じや嵐の風も心あれ

 来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる   専順

 (冷じや嵐の風も心あれ来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる)

 

 あの人が訪ねて来ない夜はただでさえ悲しい。嵐の風も心して吹いてくれ。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 出でがての月より人を待ち侘びて

     いかが明かさん長き夜のそら

 

で、日文研の和歌データベースにはない。月に待ち侘ぶの典拠となる。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。恋。

 

九十五句目

 

   来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる

 蛬むなしき床に音をそへて    心恵

 (蛬むなしき床に音をそへて来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる)

 

 蛬は「きりぎりす」。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 月に待つ人のおもひをきりぎりす

     難面残る老が身の露

 

で、日文研の和歌データベースにはない。月待つ夜のきりぎりすの典拠であろう。

 恋の歌で「月に待つ」は意外になかったのか、

 

 今こむとたのめし人のいつはりを

     いくありあけの月にまつらむ

              宗尊親王(続拾遺集)

 

の歌も八代集より後の時代になる。

 

季語は「蛬」で秋、虫類。恋。

 

九十六句目

 

   蛬むなしき床に音をそへて

 夢壁にさへ見えずなりけり    宗砌

 (蛬むなしき床に音をそへて夢壁にさへ見えずなりけり)

 

 キリギリスの声で眠れないから、夢にさえ逢うことができない、とする。

 壁はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①壁。草・板・土などで作る。

  ②夢。◇「(壁を)塗る」と「寝(ぬ)る」を掛けていう。主に和歌で用いられる。

  ③豆腐。◇女房詞(にようぼうことば)。」

 

とある。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 

 まどろまぬかべにも人を見つるかな

     まさしからなむ春の夜の夢

              駿河(後撰集)

 

の歌を引いている。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 我が恋はくらき夜の夢月の入る

     嵐の音をねぬになせこそ

 

で、日文研の和歌データベースにはないが、よく似た歌に、

 

 あふことぞくらき夜の夢月の色

     嵐の声はねぬになせども

              正徹(草根集)

 

の歌がある。嵐の声に眠れないから夢ですら逢えない、というところから、嵐をキリギリスに変える。

 

無季。恋。

 

九十七句目

 

   夢壁にさへ見えずなりけり

 契りしもくやしと人の思ふらん  行助

 (契りしもくやしと人の思ふらん夢壁にさへ見えずなりけり)

 

 夢にすら現れなくなったのは、あの人が契りを結んだことを後悔し、もう逢いたくないと思っているからだろうか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 偽を何なかなかに空だのめ

     契りし中のたゆる夢の世

 

で、日文研の和歌データベースにはない。契ってた仲の絶えて、夢を見ることのできないという趣向の典拠であろう。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

九十八句目

 

   契りしもくやしと人の思ふらん

 忍びつる名を世にはもれてき   忍誓

 (契りしもくやしと人の思ふらん忍びつる名を世にはもれてき)

 

 前句の「くやし」を忍んでた恋が暴露されてスキャンダルになったことの悔しとする。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 かよひぢをいかなる人やはつるらん

     忍ぶ思ひははれぬ中空

 

で、日文研の和歌データベースにはない。忍んでいた恋の通ってくる人が来なくなったことの典拠か。

 

無季。恋。

 

九十九句目

 

   忍びつる名を世にはもれてき

 御幸する桜が本の今日の春    宗砌

 (御幸する桜が本の今日の春忍びつる名を世にはもれてき)

 

 お忍びの心算の御幸だったが、桜の花のもとでは静かにしてられるはずもなく、世間に広く知られることになる。

 あえて「桜が本」を花の本の連歌の寓意として捉えるなら、この本歌連歌は今まで知られなかったような作者の歌やそこに用いられた言葉、趣向などがここで露わになる、といったところか。

 「本歌連歌」の本歌は、 

 

 百敷や大宮人はいとまあれや

     桜かざしてけふも暮らさん

 

で、

 

 百敷の大宮人はいとまあれや

     桜かざしてけふも暮らしつ

              山部赤人(新古今集)

 

であろう。大宮人の花見の心を本歌とする。

 

季語は「春」で春。羇旅。「桜」の春で植物、木類。

 

挙句

 

   御幸する桜が本の今日の春

 花に相あふ日こそ稀なり     光長

 (御幸する桜が本の今日の春花に相あふ日こそ稀なり)

 

 光長はこの一句のみで、主筆であろう。挙句を主筆が締めることはよくある。

 最後に御幸の桜が出た所で、こういうお目出度い日は稀なことだ、と一巻は目出度く終わる。

 特に本歌はない。さすがに無名の主筆に過大な要求はしなかったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

 宗砌、忍誓、行助、専順、心恵という当代きってのメンバーがそろったのは、この連歌の実験的性格からで、通常の連衆では困難だったに違いない。歌学にも通暁し、雅語を自在に使いこなせるメンバーだからこそ、俗歌の言葉や趣向を借りながら、それを雅語に取り込み、雅語の世界をより広く豊かなものにという試みだったのだろう。

 あらためて今日の我々に、雅語とは何だったのかというのを問いかけているように思える。俳諧でも貞門・談林までは證歌というのを必要としていた。それは俳諧がまだ連歌の下に置かれていたからで、雅語の習得ということに重点が置かれていたからだった。

 芭蕉が俳諧を「俗語の連歌」と位置づけ、雅語の習得を不要としたことで、それ以降の我々は雅語を守るための並々ならぬ努力を忘れてしまったところがある。

 中世の連歌のみならず、中世の和歌を語るにも、雅語という問題は避けて通れない。正徹などの室町時代の歌人も、単に雅語を守るだけでなく、それを更に発展させようと、絶えず実験を繰り返してたのではないかと思う。

 今となって、特に明治以降、俗語で和歌を詠むのが当たり前になってしまって、中世文学そのものがほとんど顧みられなくなってしまったが、この本歌連歌は当時の雅語の維持と発展に対する情熱を伝えてくれる貴重なものではないかと思う。

 なお、本歌という言葉は、今日では古典の授業でも習う、新古今集の時代の本歌取りの際の本歌の意味に限定されているが、中世の連歌や近世の俳諧ではもう少し広い意味で用いられていた。