クラーク『現れる存在』寸評

 アンディ・クラークの『現れる存在』の原題は「Being There: Putting Brain, Body, and World Together Again」で、一九九七年に刊行されている。

 時期的にはウィンドウズ95によって日本でもパソコンブームが起こり、インターネットというのが一般に知られるようになった頃で、ポケベルが廃れて携帯に取って代わられてゆく頃でもあった。いわゆるITバブルが起きるのはもう少し先になる。

 ルンバの発売も二〇〇二年で、この頃にはまだなかった。AIBOも一九九九年で、まだ発売になっていない。

 こうした時代に、この本はかなり先鋭的な情報を含んだものだったのかもしれない。

 この本の日本語訳が 池上高志・森本元太郎訳で『現れる存在―脳と身体と世界の再統合─』というタイトルでNTT出版から出版されたのは二〇一二年。この十五年の変化は大きかった。

 まずインターネットが急速に一般に普及し、GAFAの台頭があり、今のネット社会が大体整ってきた時期でもあった。また、二〇〇七年にはアメリカでiPhoneが発売され、翌二〇〇八年には日本でも発売され、スマホの時代になった。

 そして二〇二二年にこの本がハヤカワ文庫NF版で再版され、Kindleでも読めるようになった。最初の英語版の発売から既に二十五年が経過している。

 そういうわけで、もはやここに書かれていることは最新の情報とは言えない。ただ、今のロボットやAIの開発の基礎はこの頃に既に作られていた。その意味では今でも読んでみる価値はある。

 クラークは文庫版の序でこう述べている。

 

 「私たちの世界には今、補助的なテクノロジーやスマートフォン、インターネット、そしてさまざまな形式の人工知能がより一層浸透しています。このような世界においては、環境の中にある形や構造や機会を活用するために生物の脳がどのようにして自ずから諸々 の活動を繫ぎ合わせているのか、そしてそれを可能にする上で身体化された行為がどれほど大きな役割を担っているのかを理解することが、かつてないほどに重要になっているように私には思われるのす。」(アンディ クラーク. 現れる存在 脳と身体と世界の再統合 (ハヤカワ文庫NF) (p.9). 株式会社 早川書房. Kindle 版. )

 

 Being Thereはドイツ語のDaseinに相当する言葉でもある。そしてこのタイトルの通り、クラークは何回かハイデッガーに言及している。

 ただ、基本的にはこの本は環境世界の中での脳の働きに焦点を当てたもので、それをロボットやAIの原理として活用するということに重点が置かれている。その意味では「Being There」はむしろロボットやAIにとってのBeing Thereと考えた方が良いかもしれない。

 ハイデッガーのDaseinは、昔の実存主義者は「人間存在」と同義のものと捉えていた。当時の人はロボットの現存在なんて想像もしなかった。

 ドイツ語のDaは英語のhereとthereの両方を含んだ意味があって、実存主義者はDasein(ここにある、あそこにある)を人間存在としての自分自身の「ここにいる」という意味で解釈する傾向にあった。

 ロボットも環境世界(Umwelt)に働きかけ、そこから学習してゆくなら、ロボットも世界内存在していると言える。ただ、ロボットの場合はIn-der-welt-sein(世界内存在)というよりも英語のBeing of the worldになる。なぜならロボットはek-sisutanz(実存=外に立つ)しないからだ。

 ロボットは世界を意識することなく、あくまで世界の一部にすぎないという意味ではBeing of the worldであって、人間のようなIn-der-welt-sein(世界内存在)にはならない。

 ハイデッガーの現存在は日常的・非本来的には世界に埋没し、没頭しているzuhandensein(手にしている世界、道具存在)として描かれる。そして、その世界を一歩引いて客観的に眺めた時に、世界はvorhandensein(手を加える前の存在、事物存在)となる。

 これに対して、死への存在を契機にこうした道具存在・事物存在を超えた現存在の本来の姿に目覚めた時、現存在は単なる道具でも事物でもなく、それらを可能にする開かれた、自由な世界として現れる。

 実はこれがハイデッガー哲学の最も難しい部分であり、誤解されてきた部分でもある。

 戦前の九鬼周造や和辻哲郎は、ハイデッガーの言う本来性・非本来性は逆で、日常に没頭しているのが人間の本来のあり方だとして、この考え方は九鬼周造男爵のソルボンヌ大学留学中にフランス語の家庭教師をしていたサルトルにも引き継がれた。

 メルロ・ポンティも基本的にそのzuhandensein(手にしている世界、道具存在)の優位という考え方を継承し、それを身体性の優位として発展させた。クラークもその後継者を自任する。

 メルロ・ポンティの身体性は、古い形而上学の霊魂と肉体における霊魂の優位に対して、人間の生きた生身の存在を開放しようとする意図があった。ただ、クラークはむしろ身体をロボット技術に応用することで、人間を解放するという意図とはかなり違う方向に行ってしまったように思える。

 zuhandensein(手にしている世界、道具存在)をロボット化させることで、むしろ逆にvorhandensein(手を加える前の存在、事物存在)に関する表象主義を擁護し、そこに精神(Geist)を復活させようとしているかのように思える。

 いわゆる前期ハイデッガーもvorhandensein(手を加える前の存在、事物存在)と開示性としての現存在との分離が不十分で、結局はあの悪名高いフライブルグ大学学長就任演説で、Geist(精神を意味するとともに亡霊の意味もある)を甦らせ、ナチス支持に回ることとなった。

 事物存在を可能にする表象は容易に理性やロゴスという古典的な形而上学概念を呼び興す。現存在の現(Da)はより超越的なものでなくてはならない。

 ハイデッガーの『存在と時間』は現存在が時間に対して開かれているという意味で、現存在を時間性として規定する所で中断され、終わっている。クラークもzuhandensein(手にしている世界、道具存在)を力学系の理論を用いて説明する際に、当然この時間性の問題にかかわっていた。

 力学系はウィキペディアには、

 

 「一定の規則に従って時間の経過とともに状態が変化するシステム(系)、あるいはそのシステムを記述するための数学的なモデルのことである。」

 

とある。

 ハイデッガーは現存在の時間性を過去や未来を現在化させるその地平として捉えてたのではないかと思う。そして書かれなかった「時間と存在」の章では存在そのものの意味を「現在」として示そうとしたのではなかったかと思われる。

 現在は確かに不思議な概念ではある。物理的には瞬間はあっても現在はない。しかも物理的には「同時」というのは存在しない。

 なぜ人間は「同時」を感じ、過去や未来を現在として現前させることができるのか。それはかなり難しい問題でもある。ペンローズの言うように、何らかの特殊な量子的な場がそれを可能にしている可能性がある。

 しかし、形而上学における「presence(現在・現前)」は容易にvorhandensein(手を加える前の存在、事物存在)の表象に結びついてしまう。

 結局戦後のいわゆる後期ハイデッガーは、『存在と時間』の残り部分を断念し、伝統的なpresence(現在・現前)の概念と本来的な意味での現在(Anwesen、あるいはアレーテイア)との差異を表す言葉を模索し続けることになる。デリダはそれを差延 (différance) と呼んだ。

 クラークがこの領域に踏み込むことがなかったのは、とにかく残念に思える。ロボット存在の哲学に留まる。