「そんならば」の巻、解説

惟然撰『二葉集』より

初表

    花見席

 そんならば花に蛙の笑ひ顔     智月

   落つくやうな雲も陽炎      柯上

 覚へたい事ども多ふ春くれて    方舟

   所ならひの風のりつぱさ     惟然

 沓籠に腰かけながら月ながら    遅望

   くわつと薄も見ゆるしんなり   船彦

 

初裏

 参詣もなければ秋の水もまた    昌房

   案じらるゝは今度目の首尾    也風

 さればいの年寄くさふつくれども  乙州

   宿から宿のどつさくさたゞ    泥山

 ほとゝぎす聞人御座らふ此うちぞ  山路

   何ンのかけやら酒をいつでも   松賀

 ふらふらと植てぞ松も小百年    錦江

   応々なれば中もたがはず     智月

 象潟のこゝらで月の今宵とは    柯上

   つまみ菜すこし是もしるしか   方舟

 不届のそなたさりとは漸寒う    惟然

   あつたら水の海へ流れつ     遅望

 

 

二表

 身体はどうをどうともかうじゃとも 船彦

                    下略之

     参考;『蕉門俳諧後集 下巻』1928、春秋社

初表

発句ほっく

   花見席はなみせき
 そんならばはなかはづわらがほ     智月ちげつ

 

 かはづというと、俳諧はいかいの祖、山崎やまざき宗鑑そうかんの、


 をついてうたまうしあぐるかはづかな    宗鑑そうかん

の句がある。『古今集』の仮名序に「花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑヲきけば、生きとし生けるもの、いづれかうたをよまざりける」とあるのを踏まえ、蛙の姿に、権威にへつらう当世の歌人を痛烈に諷刺した句だ。
 その後、貞門ていもん俳諧はいかいを開いた松永貞徳まつながていとくは、

 和歌に師匠なき鶯とかはづかな    貞徳ていとく

の句を詠んでいる。藤原定家ふじわらのていかが「和歌に師匠なし」といったにもかかわらず、定家ていか末裔まつえいである二条にじょう冷泉家れいぜいけの歌人達は、厳格な師弟関係を築いてきて、今や本当に師匠がないのは古今集にいう鶯と蛙くらいかと、これもきびしく諷刺している。ただ、この句によって、「蛙」は歌人のシンボルから、本来の「師匠なし」の道を貫いている俳諧師のシンボルに転換されることとなった。
 そして、芭蕉ばしょうのあの古池の句も、『蛙合かはづあはせ』興行を行い、四十人の門人を集めて二十番勝負を行い、蕉門の名を広く世間に知らしめた時、蛙=俳諧師のイメージは定着したといっていいだろう。
 智月ちげつの句も、花見に集まった俳諧の連衆の面々を見回し、みんな笑顔で、「花にかはづの笑ひ顔」と詠んだものだ。上五の「そんならば」という口語的な表現が、惟然いぜん流といえよう。
 惟然いぜん(この名前は俳諧師はいかいしとしては漢音で「いぜん」と読み、そうとしては呉音で「いねん」と発音する。)といえば、

 むめはなあかいはあかいはあかいはさ   惟然ゐぜん
 きりぎりすさあとらまへたはあとんだ   同
 みづさっととりよふはふはふうはふは     同
 なむでやのかき大分だいぶんなったはさ      同
 のらくらとただのらくらとやれよはる    同
 水鳥みづどりやむかふのきしへつういつうい     同

などの発句ほっくがある。無造作に作っているようでも、決して本意本情ほいほんじょうを踏み外すものではなく、きちんとした蕉門しょうもん俳諧はいかいの基礎があってこそ為せる技である。むしろ仙厓せんがいの禅画の境地に近いといっていいだろう。
 智月ちげつ寛永かんえい十七(一六四〇)年頃の生まれで、芭蕉ばしょうよりはやや年上になるが、芭蕉ばしょうの死後享保きょうほう三(一七一八)年まで長生きした。
 京都きょうとの山城国宇佐に生れ、若い頃は宮仕えをしたという。のち、大津に嫁ぎ、貞享三(一六八六)年頃、夫と死別し、尼となった。
 元禄二(一六八九)年の冬、芭蕉ばしょうと出会い、以後、芭蕉ばしょうの弟子であるとともに、近江での芭蕉ばしょうの生活を手助けするパトロン的存在だったと言われている。
 ただ、芭蕉ばしょうがマザコンで熟女好みだったことを考えると、なかなかいい関係だったのではないかと思われる。
 芭蕉ばしょうの死後は、惟然いぜんの新風に共鳴し、このように惟然撰いぜんせんの『二葉集じようしゅう』に参加している。

 

 「はな」ははる植物うえものかわずは虫類。

わき

    そんならばはなかはづわらがほ
 おちつくやうなくも陽炎かげらふ    柯上

 (そんならばはなかはづわらがほおちつくやうなくも陽炎かげらふ

 

 雲は「はなくも」か。古来、山桜の白い繊細な花は、山にたなびく雲に例えられた。散る気配もない花の雲もおぼろに見え、あたかもはる陽炎かげろうのようだ。

 

陽炎かげろう」ははる。「くも」は聳物そびきもの

第三

    おちつくやうなくも陽炎かげらふ
 おぼへたいことどもおほはるくれて    方舟

 (おぼへたいことどもおほはるくれておちつくやうなくも陽炎かげらふ

 

 雲はしばしば煩悩ぼんのうの象徴となる。はる日永ひながとはいえ、色々な芸事をいっぺんに覚えようとするには短すぎる。人生はそんなふうに陽炎のようにあっという間に過ぎ去ってゆく。

 

はる暮れて」ははる

四句目

    おぼへたいことどもおほはるくれて
 ところならひのふうのりつぱさ   惟然ゐぜん

おぼへたいことどもおほはるくれてところならひのふうのりつぱさ)

 

 「ところならひ」はその土地の風習のこと。前句まえくの「おぼへたいことどもを、その土地の風習とした。田舎の村の寺に移り住んできたそうの気持ちか。

 

無季。

五句目

    ところならひのかぜのりつぱさ
 沓籠くつかごこしかけながらつきながら    遅望

沓籠くつかごこしかけながらつきながらところならひのふうのりつぱさ)

 

 沓籠くつかごは大名行列の際に用いる靴を運ぶため担ぐ籠で、人が乗る籠ほど大きなものではないので、地面に下ろせば腰掛けることもできたのであろう。
 折からの名月で、たびの途中でもお月見を欠かさないのは、その沓籠持ちの出身地の習いなのであろう。

 

つき」はあき。夜分、天象てんしょう

六句目

    沓籠くつかごこしかけながらつきながら
 くわつとすすきゆるしんなり 船彦

沓籠くつかごこしかけながらつきながらくわつとすすきゆるしんなり)

 

 つきにススキは付き物。
 「くわっと」していて、それでいて「しんなり」と矛盾するような言い回しは、

 うみくれてかもこゑほのかにしろし   芭蕉ばしょう

の句を思わせる。
 こういう句も惟然いぜん影響えいきょうだろう。

 

すすき」はあき。植物、草類。 

 

初裏

七句目

    くわつとすすきゆるしんなり
 参詣さんけいもなければあきみづもまた    昌房

参詣さんけいもなければあきみづもまたくわつとすすきゆるしんなり)

 

 前句まへくの「くわっと」それでいて「しんなり」と見えるのを、みずに映ったススキのこととした。
 人がいないので、水面も波一つなく鏡のようになる。

 

あきみず」はあき水辺すいへん。「参詣」は神祇じんぎ

八句目

    参詣さんけいもなければあきみづもまた
 あんじらるゝは今度目こんどめ首尾しゅび  也風

参詣さんけいもなければあきみづもまたあんじらるゝは今度目こんどめ首尾しゅび

 

 「首尾しゅび」は男と女が会うこと。当時とうじのことだからデートのようなおおっぴらに会うことではなく、ひそかに会うことだと考えた方がいいのだろう。
 神社で落ち合うのだろうか。参詣人もなく、秋の水はそれほど意味がなさそうだが、果たしていとしい人と無事に会えるかどうかが気になる。

 

無季。「首尾」は恋。

九句目

    あんじらるゝは今度目こんどめ首尾しゅび
 さればいの年寄としよりくさふつくれども  乙州おとくに

(さればいの年寄としよりくさふつくれどもあんじらるゝは今度目こんどめ首尾しゅび

 

 「さればいの」は「さればいな」と同様どうよう、女性が相手の言葉を受けて同意する言い回し。「そうよねー、だよねー」って感じか。年寄りっぽい格好していてもバレバレ、ってとこか。
 乙州おとくに智月ちげつの弟でもあり養子でもある。芭蕉ばしょうの門人。

 

無季。

十句目

    さればいの年寄としよりくさふつくれども
 宿しゅくから宿しゅくのどつさくさたゞ  泥山

(さればいの年寄としよりくさふつくれども宿しゅくから宿しゅくのどつさくさたゞ)

 

 前句を聞こえてくる会話の内容としたか。街道は今日も賑わい、宿場から宿場までの間は、さながらラッシュ。「どさくさ」とは人込みのこと。口語的には「どっさくさ」と発音されたか。

 

無季。「宿」は旅体。

十一句目

    宿しゅくから宿しゅくのどつさくさたゞ
 ほとゝぎす聞人きくひと御座ござらふこのうちぞ  山路

(ほとゝぎす聞人きくひと御座ござらふこのうちぞ宿しゅくから宿しゅくのどつさくさたゞ)

 

 ホトトギスの一声を聞こうという風流者はどこだ、と探してはいるものの、この街道筋はどこも人がたくさんいるもののそれらしき人はいない。

 

「ほととぎす」はなつ。鳥類。「聞く人」は人倫。

十二句目

    ほとゝぎす聞人きくひと御座ござらふこのうちぞ
 ンのかけやらさけをいつでも 松賀

(ほとゝぎす聞人きくひと御座ござらふこのうちぞンのかけやらさけをいつでも)

 

 風流の遊びというのは、さけを賞品にしたり、あるいは酒を罰として飲ませたりと、結局何かにかこつけて酒を飲むものが多かった。曲水の宴も杯が流れてくるまでに詩を作れないと、罰として酒を飲むというものだった。
 ホトトギスを聞くために夜を徹して待つにも、その暇潰しはさけを賭けてのゲームということになる。

 

無季。

十三句目

    ンのかけやらさけをいつでも
 ふらふらとうゑてぞまつ小百年こひゃくねん    錦江

(ふらふらとうゑてぞまつ小百年こひゃくねんンのかけやらさけをいつでも)

 

 前句まへくの「かけ」を「かげ(影)」と取り成したか。「ふらふらと」を「ンのかけ」に掛かるように読めば、「まつうゑ小百年こひゃくねんぞ、ふらふらとンのかげやら、さけをいつでも」と読める。
 植えてから百年近くなる松は、ようやく老木の風情。その影がふらふらと揺れているのは、さけのせいか。

 

無季。「まつ」は木類。

十四句目

    ふらふらとうゑてぞまつ小百年こひゃくねん
 応々おうおうなればなかもたがはず   智月ちげつ

(ふらふらとうゑてぞまつ小百年こひゃくねん応々おうおうなればなかもたがはず)

 

 「応々おうおう」は返事をするときの「おう、そうか」「おう、今行くぞ」の「おう」で、肯定的な返事。用例として、

 応々おうおうといへどたたくやゆきのかど   去来きょらい

の句がある。「おうおう」と返事だけはいいが、なかなか戸を明けてもらえず、戸を叩き続けなくてはならないという、ゆきの日にはありがちな光景を詠んだだ。
 前句まえくの百年近くなる松を、夫婦めおとの松として、「おう」と言えば「おう」と返ってくるような仲で、仲たがいをすることはない、とした。

 

無季。こい

十五句目

    応々おうおうなればなかもたがはず
 象潟きさかたのこゝらでつき今宵こよひとは    柯上

象潟きさかたのこゝらでつき今宵こよひとは応々おうおうなればなかもたがはず)

 

 象潟きさかたつきでもあればそれこそ言うことはない。まさに象潟きさかたつきは「応々おうおう」の仲。
 ちなみに芭蕉ばしょうが象潟に行った日は旧暦六月十六日で、この日はあいにく雨で、

 象潟きさかたあめ西施せいしがねぶのはな    芭蕉ばせを

の句が生れた。
 だが、次の日にはあめも上がり。曾良そらの「旅日記」によれば、夕飯の後に舟遊びをしている。ここで象潟きさかたつきを十分堪能した可能性はある。
 だが、芭蕉ばしょうは『奥の細道』では、「朝日あさひはなやかにさしいづほどに、象潟きさかたふねをうかぶ。」と、朝の話に作り変え、つきについては何も語ってはいない。あえて、あめ象潟きさかたのイメージをメインにしている。
 芭蕉ばしょうはあえて象潟きさかたつきという「応々の仲」を嫌ったか。

 

つき」は秋。夜分、天象。「今宵」も夜分。「象潟きさかた」は名所。水辺。

十六句目

    象潟きさかたのこゝらでつき今宵こよひとは
 つまみすこしこれもしるしか 方舟

象潟きさかたのこゝらでつき今宵こよひとはつまみすこしこれもしるしか)

 

 「つまみ」は間引まびのことで、今日でいうベビーリーフのこと。曲亭馬琴きょくていばきん編の『増補ぞうほ 俳諧はいかい歳時記さいじき栞草しおりぐさ』には、「およそ蕪青かぶな蘿菔だいこんたぐひ、大抵八月たねを下し、彼岸ひがん中に苗を生ず。其繁そのしげきをぬき煮食にくふ。摘菜つみな間引菜まびきな是也これなり」とある。
 岩波の古語辞典で「つまみな」を引くと、「水菜の三、四葉の芽生えをすかし取った菜」とあり、今井宗久いまいそうきゅう日記の用例が記されている。水菜のベビーリーフは古くから珍重されていたのだろう。
 ここでは、はるかな象潟を旅する乞食僧か何かの風情で、托鉢して間引き菜をもらえるのも有り難いことだ、というような意味か。

 

「つまみ菜」は秋。

十七句目

    つまみすこしこれもしるしか
 不届ふとどきのそなたさりとは漸寒ややさむう    惟然ゐぜん

不届ふとどきのそなたさりとは漸寒ややさむうつまみすこしこれもしるしか)

 

 不届き者のそなた、それにしてもやや寒くなってきたな、と惟然いぜん得意の口語体。おかずがつまみ菜だけというのも、あんたが悪い。

 

漸寒ややさむ」は秋。「そなた」は人倫。

十八句目

    不届ふとどきのそなたさりとは漸寒ややさむ
 あつたらみずうみながれつ   遅望

不届ふとどきのそなたさりとは漸寒ややさむうあつたらみずうみながれつ)

 

 これはひょっとして楽屋落ちの一種か。
 「さり」は連歌れんが俳諧はいかいでは「去り嫌い」のことも意味する。たとえば水辺すいへんは三句「り」で、十五句目に水辺すいへんの「象潟」が出てきた場合は、十六句目、十七句目、十八句目に水辺すいへんは出せない。
 しかし、ここにあえて、「みず」やら「うみ」やらの言葉が使われている。これは違反になる。
 そういうわけで、不届きなあんた、「去り」の規則に違反するとは寒いなぁ。折角のみずの句が、海に流れていってしまったわい、となる。
 「あつたら」は「あたら」の促音化で、「せっかくの」という意味。「あたらし」は本来は立派なという意味で、そこから、立派な‥なのだけど、という言い回しで「あたら」が生じた。形容詞の「あたらし」の方は平安時代に「あらたし(新しい)」と混同され、今の「新しい」という意味で使われるようになり、今では元の「立派な」という意味の方が廃れてしまった。

 

無季。「みず」「うみ」は水辺すいへんで、十五句目に水辺すいへんがあるため違反だが、ここはあくまでネタということで、水辺みずべ景色けしきを詠んでいるわけではないので、良しということにしておこう。 

二表

十八句目

    あつたらみずうみながれつ
 身体しんだいはどうをどうともかうじゃとも 船彦

身体しんだいはどうをどうともかうじゃともあつたらみずうみながれつ)

 

 「身体」は「身代」のことか。財産はあったらたあったで、いつの間にか水が海に流れてゆくようになくなってしまう。
 さて、この歌仙かせんはここまでしか記されていない。あとは、「下略之」とある。全部読めないのが残念だ。
 惟然いぜん俳諧はいかいは、芭蕉ばしょうの晩年の「軽み」をより極端に押し進めようとしたものだが、いかがだろうか。賛否両論あって良いとおもう。
 私個人としては、芭蕉ばしょうの風を不易のものとして固定しようとして、次第に形骸化していった他の蕉門しょうもんに比べれば、むしろ最後の新風の試みとして評価しても良いと思う。
 芭蕉ばしょうがもし長生きしていたら、むしろ喜んでこの惟然いぜんの流れに乗っかり、真の芭蕉ばしょう流の口語俳諧はいかいが聞けたかもしれない。

 

無季。 

 『二葉集』では残念ながらここまでしか掲載されていない。「下略之」となっている。