三表

水無瀬三吟、五十一句目

   いただきけりなよなよなのしも
 冬枯ふゆがれのあしたづわびててるに 宗祇そうぎ


   古註
   夜なよな霜を、あしたづのいただき給ふ也。


 (冬枯ふゆがれのあしたづわびててるにいただきけりなよなよなのしも
 冬枯れの入江には鶴がわびしそうに立っていて、夜毎夜毎に霜が降りてゆく。


 前半の長い人事区の連続のあと、景物を読んだ穏やかな展開に入る。近代の評者はこういう叙景的な句が来ると、写生説の理念に近いせいか、高い評価をしたがるようだ。ただ、やはり普通の人間にとって第一の関心ごとは恋だったり人生のこと(述懐)だったりして、本来連歌はそのほうが中心で、景物の句は引き立て役のようなものだった。
 この句は鶴という景物を添えて、冬枯れのわびしさの中に花を添えている。こうした景色のイメージと人事の様々などろどろとした部分とが交互に展開されることで、暗くつらい人生にもひと時の救いがあり、また景物にも深い人生の寂寥感が含蓄され、深みを増してゆく。
 たとえば鶴は「掃き溜めの鶴」という言葉もあるように、君子の心を持った気高き人間の比喩にもなり、冬枯れの鶴は、冬の時代を生きる隠士の風情で、夜毎に降りる霜の厳しい寒さに耐えている姿とも読める。
 鶴の佇む入り江といえば、

 和歌の浦に潮満ち来ればかた
    葦邊あしべをさしてたづ鳴き渡る

の歌も思い浮かび、入り組んだ入江の枯れ芦のわびしげな中に鶴の立つ風景は、その意味では日本人の原風景、葦原中つ国の風景なのかもしれない。

式目分析

季題:「冬枯れ」、「たづ(鶴)」;冬。「たづ」は鳥類。その他:「江」は水辺(体)。

水無瀬三吟、五十二句目

   冬枯ふゆがれのあしたづわびててる
 ゆふしほかぜのとほつふなひと  肖柏せうはく


   古註
   しほにて一さいの物かるゝ物なれば、冬がれをつけんとて、しほ風と也。

   たてる江におきつ舟人のたてるにして也。江と云ふ、さてあながちせばくをちかきにあらず。

   たゞとほく江を見たる也。田鶴のゐたる江に、舟人のたち給ふなり。


 (冬枯ふゆがれのあしたづわびててるゆふしほかぜのとほつふなひと
 冬枯れの入江には鶴がわびしそうに立っていて、夕暮れの潮風を受ける沖の舟人がいる。


 こうした風景を水墨画のようだという人もいるかもしれない。ただ、中世の水墨画は中国色が強く、鷺や鴨は多く描かれるが、鶴を描いたものは少ない。鶴が多く描かれるようになるのは吉祥画が多く描かれるようになった江戸時代の寛文の頃からだ。いわゆる松に鶴が画題として定着したのはこの頃だ。水辺ではなく松の木に鶴を配するのは、鶴とコウノトリが混同されていたためだともいう。意外に水辺の鶴の絵は少ない。
 とはいえ、この宗祇の時代に芸愛という謎の画家がいて、その「花鳥図屏風」には水辺の風景に鶴が描かれている。中国画の趣向に日本的な要素を取り入れていこうとする動きというのは、当時様々な形で試みられていたのだろう。
 肖柏のこの付け合いも、芦辺の鶴という日本的な風景に中国の瀟湘八景の風情をつけたのだろう。もっとも、山部赤人の歌も、万葉人が和歌の浦の景観を愛したのも、元は中国の影響だった可能性は大きい。海人の釣り船などの趣向も、『楚辞』の「漁父」のように、そこに老荘的なものを投影していたからだろう。

 聖人不凝滞於物
 而能與世推移
 世人皆濁
 何不淈其泥
 而揚其波

 聖人というのは物事にこだわらずに
 世の推移に従うものだ
 世間の人が皆濁っていれば
 何でその泥を掻き混ぜて
 波しぶきを上げようとしないのか

 「遠つ舟人」は相した自然のままに風任せに生きる海人の姿で、鶴に都を追われた隠士の姿を重ねるなら、そこに「漁夫」のようなメッセージも読み取ることができる。

式目分析

季題:なし。その他:「しほかぜ」は水辺(体)。「ふな人」は人倫。

水無瀬三吟、五十三句目

   ゆふしほかぜのとほつふなひと
 ゆくへなきかすみやいづくはてならむ  宗長そうちゃう


   古註
   しほ風には、くもり霞むもの也。ひろき海づらのかすみは、いづくをはてとなり。


 (ゆくへなきかすみやいづくはてならむゆふしほかぜのとほつふなひと
 行き先を隠している霞にどこまで行けばいいのだろうか。夕暮れの潮風の遠くにいる舟人は。


 ここで宗長が季節を春に転じている。霞に見えない水平線に消えてゆく舟の姿は、霞ではないが伝柿本人麻呂の有名な、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
    島がくれゆく船をしぞ思ふ
               よみ人しらず

を髣髴させる。舟に乗って見えない霞の向こうに消えてゆく姿は、異界への旅人のようであり、海の向こうの神仙郷へ渡ってゆくのか、

 わたの原八十島かけてこぎいでぬと
    人には告げよ海人の釣り船
                小野篁朝臣おののたかむらのあそん

のような、もう戻ることのない流刑人の風情かもしれない。
 前句が岸にいる隠士に風まかせに超然と生きる海人の姿だったのに対し、宗長の句では沖の舟人が去ってゆく都人の姿になる。

式目分析

季題:「霞」;春。聳物。

水無瀬三吟、五十四句目

   ゆくへなきかすみやいづくはてならむ
 くるかたえぬやまざとのはる  宗祇そうぎ


   古註
   春はいづくよりきて、いづくに帰るとも、はてはしられぬとなり。


 (ゆくへなきかすみやいづくはてならむくるかたえぬやまざとのはる
 どこへ行くとも知れぬ霞にどこまで行けば果てはあるのか。来る方角もわからない山里の春。


 船で去ってゆく流刑人の句から、山里での隠棲の句に変わる。山は霞んで自らの行末は見えず、果たして我が身に春は来るのか。それすらも霞んでいる。春なのに我が春は来ない。まわりの春がかえって自分を悲しくさせる。謝霊運の『登池上楼』の、

 池塘生春草
 園柳變鳴禽

 池の堤に春の草が生え
 園の柳に鳴く鳥も変わる

の心を感じさせる。

式目分析

季題:「春」;春。その他:「山」は山類(体)。「里」は居所(体)。

水無瀬三吟、五十五句目

   くるかたえぬやまざとのはる
 しげみよりたえだえのこはなおちて  肖柏せうはく


   古註
   しげみよりおつる花は、くるかた見えぬと也。重見と云ふにて、山里の心有り。

   此のたえだえ、やうやう也。


 (しげみよりたえだえのこはなおちてくるかたえぬやまざとのはる春)
 生い茂る若葉の中から絶え絶えになってまだ残っていた桜の花が、どこから落ちてくるのかわからない。そんな山里だった。


 これは「くるかた見えぬ」が春に掛かっていたのを、「花落ちてくるかた見えぬ」とつなげ、そこで一旦終止形とする。技ありの付け合いだ。山桜も既に終わり、晩春の景色とした。

式目分析

季題:「花」;春。植物。『応安新式』では一座三句物だが、『新式今案』では一座三句物としながらも「近年或為四本之物」とあり、四句詠んでいいことになっている。花は一枚の懐紙に一句のみで、一の懐紙には十三句目に花が登場し、二の懐紙では三句目、この懐紙ではここに一句となる。

水無瀬三吟、五十六句目

   しげみよりたえだえのこはなおちて
 のしたわくるみちのつゆけさ 宗長そうちゃう


   古註
   これも茂みのあたりの体也。露けさと云ふは、ふかくおきたる露にはあらず。

   ただぬるるかぬれぬほどの露を云ふ也。


 (しげみよりたえだえのこはなおちてのしたわくるみちのつゆけさ)
 生い茂る若葉の中から絶え絶えになってまだ残っていた桜の花が落ちてきて、木の下を分け入る道は露の匂いがする。


 露は秋で寒さの増してくる頃、空気中の水分が結露する現象を指すばかりでなく、「村雨の露もまだいぬ真木の葉に」のように、雨が降った後の残っている水滴のことをもいう。後者であれば秋に限らず一年中ある。ことに若葉の季節とあれば、晩春の暖かさに地面の水分が蒸発し、木の間の道は蒸すような独特な湿気がある。
 深い木の間を分け入る山人の面影はあるものの、このあたりかなり遣り句気味に進んでいる。そろそろ大きな展開が欲しい。

式目分析

季題:「露」;秋。降物。降物と降物は可隔三句物で、50句目の「霜」から五句隔たる。その他:「木」は木類。二句続く。

水無瀬三吟、五十七句目

   のしたわくるみちのつゆけさ
 あきはなどもらぬいはやも時雨しぐるらん 宗祇そうぎ


   古註
   岩やなどは、一さいふり物などももらぬ物也。

   されども、秋い云へば何とてもらぬ岩屋も時雨るると也。

   露けさと云ふは、あながち置きたる露にあらねぱ、如此付け給ふ也。珍重とぞ。


 (あきはなどもらぬいはやも時雨しぐるらんのしたわくるみちのつゆけさ)
 秋は何で雨が盛るはずもない岩屋に時雨が降るのだろうか。木下を分け入る道は露の匂いがする。


 時雨は俳諧や俳句では冬の季語となっているが、和歌・連歌では秋にも詠む。漏らぬ岩屋が時雨れるというのは、

 草の庵を何露けしと思ひけむ
    もらぬ岩やも袖はぬれけり
               僧正行尊

 寂莫じゃくまくの苔の岩戸の静けさに
    涙の雨の降らぬ日にぞなき
               日蔵上人

のように、岩屋に雨は漏らなくても涙に袖は濡れるという山に籠る僧の歌の一つのパターンではある。しかし、ここでは時雨るらんと疑問を発し、涙のせいじゃない、木の茂みを掻き分けてきたからだと強がる。

式目分析

季題:「秋」;秋。その他:「いはや」は居所(体)。「時雨」は『新式今案』には一座二句物(秋一句、冬一句)、一回目は冬の時雨で、二回目は秋の時雨。

水無瀬三吟、五十八句目

   あきはなどもらぬいはやも時雨しぐるらん
 こけのたもとにつきはなれけり  肖柏せうはく


   古註
   こけのたもと、岩やにすむ人の体也。しやしんの上は、月などあいしてみんとはおもはねど、

   おのづからなるゝ秋は、なにとしたることと也。秋はなどと云ふ所、よく付け給也。


 (あきはなどもらぬいはやも時雨しぐるらんこけのたもとにつきはなれけり)
 秋は何で雨が盛るはずもない岩屋に時雨が降るのだろうか。粗末な衣のたもとにも月はなじむものだ。


 月は煩悩の象徴で、世俗の心を捨てたのだから、月に恋人を思い描いたり、出世の夢を託したりすることはないのだけれど、秋ともなれば物寂しくて、月を見ては涙が流れ、粗末な僧衣のたもとにも涙の時雨が降るのだろう、という意味になる。

式目分析

季題:「月」;秋。夜分、光物。「苔のたもと」;釈教。その他:「たもと」は衣裳。

水無瀬三吟、五十九句目

   こけのたもとにつきはなれけり
 こころあるかぎりぞしるき世捨人よすてびと    宗長そうちゃう


   古註
   これは、世をすてても月をみ給ふは、心有るよすて人と也。


 (こころあるかぎりぞしるき世捨人よすてびとこけのたもとにつきはなれけり)
 有心の心を極めてこそ本当の世捨て人だ。粗末な衣のたもとにも月はなじむものだ。


 ここで宗長が大きく展開を図る。露に時雨といった湿っぽい句が続いた後だけに、こうした悲しげな情を振り払い、ポジティブな方向に進めたかったのだろう。

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「世捨人」は人倫。

水無瀬三吟、六十句目

   こころあるかぎりぞしるき世捨人よすてびと
 をさまるなみふねいづるみゆ  宗祇そうぎ


   古註
   唐には、くらゐによらず、物をしりたるしだいに王に成り給ふ也。

   されば、厳子陵と云ふ人と、桃源と云ふ人と、両人弟子おとといにてありしが、

   厳子陵物しりといひ、弟子あににて有りしほどに、王に成りたまはんを、

   漢臣光武桃桐江を王に成し給ひて、厳子陵は嶋にはなれて、つりをたれなどしおてゐ給ひしと也。

   さてをさまりたる世に王にならずして、舟を出して嶋にはなれ行きたるは、心ある世すて人と也。

   又、祇の句に、
    あらぬかたちを見する雲ほし 

   と云ふ句に、

    友のきてむかしのことをかたる夜に
   これも、厳子陵、彼のはなれたる嶋より、王に成り給ふ桃源へきをへ給ひて、

   いにしへの桃源のやうにこゝろやすく物語などし給ふ時に、

   雲ほしの様かはり給ふ時うらなはせ給へば、

   かく厳子陵まゐりたろゆゑとうらなひしと云ふ心にての句と也。此の古事にての連歌、数句有り。


 (こころあるかぎりぞしるき世捨人よすてびとをさまるなみふねいづるみゆ)
 有心の心を極めてこそ本当の世捨て人だ。波が静かに治まれば、船が出てゆくのが見える。


 「をさまる波」は世の波風の治まるということで、天下を平定するという意味が込められている。本当は君子として十分な器を持った人間でも、天下に二君は必要ないとなれば、潔く政界から身を引き、世捨て人となる。乱世にはともに天下平定のために戦った仲でも、目標を達成したときにはその後の派閥争いの元とならないようにと、自ら船に乗って遠くに去り、釣り糸をたれて隠棲する。
 長い注釈がついている。日本には皇室があり、代々その家系の者が王になってきたが、中国では易姓革命があり、「物をしりたる」いわば能力のあるものが王となる。厳子陵げんしりょうというのは後漢の賢人厳光げんこう(字子陵)のことで、桃源とともに学んだ仲であったが、ともに天下平定を成し遂げたとき、桃源を即位させ光武帝とし、自らは船に乗り島を離れ、釣りをして暮らしたという。権力闘争に敗れて、やむにやまれず世を捨てる人は多いが、本来王になるべき人が自ら退いて世捨て人になったという点で、ただの世捨て人ではない、「心あるかぎりぞしるき世捨人」と取り成す。
 同じ宗祇の句に、

    あらぬかたちを見する雲ほし
 友のきてむかしのことをかたる夜に   宗祇

という句もあり、これも同じ厳子陵の故事を本説としている。これはあるとき光武帝が隠棲している厳子陵を見つけ出し、城に呼び寄せて昔語りなどをしたが、あるとき共に寝ているときに厳子陵の足が光武帝の腹の上に乗ったということで、おかかえの占星術師がこれを帝の御座を犯すしるしだとしたことを題材にしている。
 小西甚一は、この句を厳子陵ではなく、越の范蠡はんれいのことだという。越王勾践が呉国を滅ぼしたあと、范蠡は一切の栄誉を辞退して、船に乗って去っていったという。ただ、范蠡は臣下であり、臣下が禄を辞したというのはよくあることという感じがしないでもない。本来君子になるべき人が世捨て人になったというところに、「心あるかぎりぞしるき」の言葉が生きてくるのではないか。
 余談だが、日本の官僚社会では、同期の誰かが次官になると、残りの者は辞表を書いて退職するという。本来は厳子陵に習った習慣なのかもしれないが、職を辞したのなら隠棲して釣り糸をたれるのが筋で、天下りしてどこぞのお偉いさんになって、猶も権勢を誇ろうとするのは本末転倒といえよう。

式目分析

季題:なし。「舟いづる」;羇旅。その他:「浪」は水辺(用)。「舟」は水辺(体用の外)。

水無瀬三吟、六十一句目

   をさまるなみふねいづるみゆ
 あさなぎのそらにあとなきよるくも    肖柏せうはく


   古註
   夜の雨風すさまじくて、朝はしづかなる体也。


 (あさなぎのそらにあとなきよるくもをさまるなみふねいづるみゆ)
 朝凪の空には昨日の夜の雲の跡形もなく、波が静かに治まれば、船が出てゆくのが見える。


 宗長の図った展開から、宗祇はそれを後漢の厳子陵に結び付けて、最高に志の高い句になった。肖柏としては、それに敬意を表し、穏やかな付け合いで流したのだろう。

式目分析

季題:なし。その他:「雲」は聳物で、「霞」から七句隔たる。「空」は『新式今案』に一座四句物で、これが二回目。「夜」とあるが、意味からいってもう既に朝で夜の雲もないという意味なので、夜分ではない。

水無瀬三吟、六十二句目

   あさなぎのそらにあとなきよるくも
 ゆきにさやけきよものとほやま  宗長そうちゃう


   古註
   雪のふらぬまへは、すさまじくて、雪ふりてはしづかなると也。雪の朝の景気也。


 (あさなぎのそらにあとなきよるくもゆきにさやけきよものとほやま
 朝凪の空には昨日の夜の雲の跡形もなく、四方の遠山には雪が積もり、すきっと晴れわたっている。


 昨日の嵐の雲も去って、風もおさまりすきっと晴れわたった空に、四方の山に雪が積もった景色を付けている。これによって、冬の句となり、新たな展開を図る。

式目分析

季題:「雪」;冬。一座四句物で、発句に続き、これが二回目。冬雪。その他:「とほ山」は山類。

水無瀬三吟、六十三句目

   ゆきにさやけきよものとほやま
 みねのいほののちもみあかで 宗祇そうぎ


   古註
   遠山に嶺はきら物なれども、これはよきと也。我嶺の庵にゐて、よ所を見やりたる体なり。

    さびしさはなほ残りけり跡たゆる 

   此の歌の心也。此の歌のさびしきは、おもしろきと云ふ心也。

   付くる所は雲のめづらしきせんまでなり。


 (みねのいほののちもみあかでゆきにさやけきよものとほやま
 私の住む嶺の庵は木の葉がすっかり落ちてしまった後でも飽きることがない。四方の遠山には雪が積もり、すきっと晴れわたっている眺めが格別だからだ。


 「遠山」と「嶺」は似たようなものなので、通常はこのような重複を嫌う。ただ、句の意味から、庵のある嶺から四方の遠山を見渡す句なので、嶺も見えて遠山も見えるというような同語反復の句ではないため、この場合は良しとされる。また、古註によればこの句は

 寂しさはなほ残りけり跡絶ゆる
    落葉がうへに今朝は初雪
               鴨長明

をふまえたもので、「此の歌のさびしきは、おもしろきと云ふ心也」とあるように、紅葉する山も美しいが、紅葉が終わった後の雪の山もまた風情があるというもの。

 憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥    芭蕉

の句もあるように、「寂しさ」は「憂さ」と対比されるもので、下界の憂鬱を忘れた頃、寂しげな山里の面白さもわかり、住み慣れたといえるようになる。

式目分析

季題:「木の葉ののち」;冬。その他:「嶺」は山類。前句の「とほ山」と一見同語反復のようだが、庵のある嶺と、それを囲む遠山で別のものなので、同語反復ではない。「いほ」は居所(体)で、一座二句物。これが一回目。『新式今案』では「いほ」が一句、「いほり」が一句となっている。「木」は木類。木と木は可隔五句物で、「木のした」から六句隔てる。

水無瀬三吟、六十四句目

   みねのいほののちもみあかで
 さびしさならふ松風まつかぜのこゑ  肖柏せうはく


   古註
   松ばかりのこりて、さぴしさ事ならはすと也。


 (みねのいほののちもみあかでさびしさならふ松風まつかぜのこゑ)
 私の住む嶺の庵は木の葉がすっかり落ちてしまった後でも飽きることがない。松の木は残っていて、松の葉を吹く風の音の寂しさにも慣れ親しんでいるから。


 紅葉のすっかり散ってしまった後でも棲み飽きることがないという前句に、何か雪以外のもうひとつの理由、つまり、松風の音もまた風情があって飽きることがない、と付けている。通常の木の葉を吹く風はざわざわしていて夏などは涼しげだが、細く、葉と葉が擦れ合うことのない松の葉を吹く風は、ただシュウシュウとか細いホワイトノイズを発生させるだけで、冬などは特に寒々としている。
 松風というと、

 深くいりて神路の奥をたづねれば
    また上もなき嶺の松風
               西行法師

の歌もある。無常感あふれる寂しげな松風の音は、本地垂迹説でいう神道の背後に隠された仏道の奥義をも感じさせる。「ならう」は自ずと慣れるということでもあるが、「習う」にも通じ、「さびしさならふ」とは仏道を学ぶことにも通じる。この辺の微妙に二つの意味を残すところがうまい。

式目分析

季題:なし。その他:「松風」は木類。

   三裏

水無瀬三吟、六十五句目

   さびしさならふ松風まつかぜのこゑ
 たれかこのあかつきおきをかさねまし   宗長そうちゃう


   古註
   かさぬると云ふにて、さびしさならふと云ふ所、付け給ふ也。

   一句は、誰もあかつきおきはせで、かなはぬ物なると、世のうはさ。


 (たれかこのあかつきおきをかさねましさびしさならふ松風まつかぜのこゑ)
 誰がわざわざ毎朝夜明け前に起きて、お勤めをしたいと思うだろうか。松風の音の寂しさに慣れ親しみ、仏道の奥義を学ぶという以外の理由で。


 肖柏の句の微妙なもう一つの意味を、宗長は逃さなかった。「ならう」を習うの意味に取り成し、「暁起きをかさね」て「寂しさを習う」と付け、釈教の句にする。「誰もわざわざ暁起きを重ねようとは思わないが、やらなければ物事は成し遂げられない。」と世間の人が言うように、毎朝松の寂しげな音を聞いていると、心が洗われるようで、道が開けてゆくのを感じられるから続けられるのだ、という句で、苦行に耐えてこそ道は見えてくる。
 古註の「誰もあかつきおきはせで、かなはぬ物なる」を金子金次郎は、仏道に限らず誰でも自分の仕事のためには朝早く起きているのだから、と解釈するが、中世にそのような日常の仕事に暁起きを求めるような勤勉を賛美する精神があったかどうかは疑問だ。
 すっかり近代資本主義の道徳観に浸りきっている我々からはなかなか想像がつかないかもしれないが、江戸時代の職人でも腕に良い者は普通の職人が一日かかるような仕事を半日で上げて、昼から酒を飲んで遊び歩くのが粋とされていた。資本主義社会は技術革新などで生産性を向上させただけでなく、その技術で新しい製品を発明し、消費体系を変えてゆくことで進歩を遂げたが、消費体系がごく緩やかにしか変化しなかった前近代的社会では、必要以上に生産しても生産過剰で価格が暴落するだけだし、人の分まで働けば、その分誰かが失業するだけで、中世にあってはむしろ労働は煩悩であり、遊びは聖なるものだった。生きるため、食わがため、あるいは人よりいい暮らしをするために必死になる姿は煩悩にとらわれた人間の姿に他ならず、生存競争に必死になればなるほど競争は激化し、人間らしい心を忘れてしまうもので、生きることは大事だが、人を押しのけてでもという浅ましさは、風雅の世界では嫌われるものだった。
 ここでは、あくまで何か願を掛けたり、悟りを開くなど特別なことを成し遂げるためには、という意味ではなかったか。暁起きが何ら特別なものでないならば、「たれかこの暁おきをかさねまし」の一句そのものが生きてこない。まして、この言葉を反語に取り成す意味もなくなってしまう。

式目分析

季題:なし。「暁おき」;釈教。その他:「誰」は人倫。「暁」は一座二句物で、これが一回目。

水無瀬三吟、六十六句目

   たれかこのあかつきおきをかさねまし
 つきはしるやのたびぞかなしき  宗祇そうぎ


   古註
   旅人は、あかつきおきをするもの也。月ならでは、このかなしきをばしり給ふまじきと也。


 (たれかこのあかつきおきをかさねましつきはしるやのたびぞかなしき)
 誰がわざわざ毎朝夜明け前の早起きを続けたいなんて思うまい。月だけが知っているだろうか、この旅の悲しさは。


 疑問は反語に、反語は疑問に、という取り成しは、連歌では定石とでも言えるものかもしれない。前の句では疑問の意味だった宗長の句を、宗祇は反語に取り成す。「暁起き」も仏道修行のための朝のお勤めに限らず、普通に夜明け前に起きることをも言うし、恋などでの明け方に帰ってゆく人を見送るための暁起きも含まれる。ここでは宗祇は、長旅のために毎朝夜明け前に起きて旅立ってゆく、という意味の「暁起き」に取り成している。都を追われ、流刑となったものの心境だろう。

式目分析

季題:「月」;秋。七句可隔物で「月はなれけり」の句から七句隔てる。夜分、光物「旅」;羇旅。一座二句物で、只一、旅衣など一、とあり、旅衣は既に出ている。ここは只旅。

水無瀬三吟、六十七句目

   つきはしるやのたびぞかなしき
 つゆふかみしもさへしほるあきそで    肖柏せうはく


   古註
   露より霜にしをりもてこし旅の袖のうきせんなり。


 (つゆふかみしもさへしほるあきそでつきはしるやのたびぞかなしき)
 露も深くなり、やがて霜が降りて草木が萎れるように秋の袖も湿ってゆくのを、月だけが知っているだろうか、この旅の悲しさは。


 「霜さへしほる」は「霜にさへしほる」で、霜に草木が萎れるように、露に濡れた袖も下に萎れてゆく、という意味になる。「しほる」は小西甚一によれば、「しっとりぬらす」という意味の「湿しほる」という意味もあり、草木の萎れるに、袖の湿るを掛けたものとも思われる。秋も深まるにつれて露の量も増し、それがやがて霜に変わって草木を枯らしてゆくように、私の袖を濡らす涙も乾く間もない、という比喩になる。  「暁起き」の具体的なイメージから露や霜の比喩に変えることで、季節の景物の句への転換を求めることになる。

式目分析

季題:「露」「秋」;秋。「霜」は「霜」だけだと冬になるが、秋にも詠む。ともに降物。降物同士は可隔三句物で「雪」から四句隔てている。その他:「袖」は衣裳。

水無瀬三吟、六十八句目

   つゆふかみしもさへしほるあきそで
 うす花薄はなすすきちらまくもをし   宗長そうちゃう


   古註
   ちらまくはならんも也。すすきを袖にたとへいひならはせり。秋の袖をすゝきにして也。


 (つゆふかみしもさへしほるあきそでうす花薄はなすすきちらまくもをし)
 露も深くなり、やがて霜が降りて秋の袖も萎れてゆく。薄の穂が色あせて散ってしまうのは惜しいことだ。


 薄はまず赤みを帯びた小さな花が咲き、それが種となって白い穂に変わるが、古来その辺の区別はなく、花も穂もひっくるめて「花薄」と呼んでいたようだ。種を風で飛ばすための綿毛がすっかり開いてしまった状態が、おそらく「薄花薄うすはなすすき」なのだろう。漢字で書くと何か同語反復みたいになる。

 薄の穂が風にそよぐ姿は人が手招きして袖を振っているようにも見える。ここでは先の露霜に濡れる袖の比喩を逆転させ、萎れて散ってゆく薄を袖にたとえている。

式目分析

季題:「薄」;秋。草類。一座三句物で、これが一回目、只薄。その他:「花」は桜以外の花で、似せ物の花でもなく、正化ではない。一座三句物とも別。

水無瀬三吟、六十九句目

   うす花薄はなすすきちらまくもをし
 うづらなくかたやまくれてさむに    宗祇そうぎ


   古註
   此の一句に風とはいはずして風あり此風にてすすきちり給ん、をしきと也。祇にも自賛の句とぞ。

   人丸歌に、

    立田川紅葉ばながる神なみの三室の山に時雨ふるらし

   是を、家隆の立給ふは、三室の山に嵐吹くらしとあらば珍重なるべきと也。

   かやうの歌と同前のにや。


 (うづらなくかたやまくれてさむにうす花薄はなすすきちらまくもをし)
 鶉の鳴いて傍らの山が暮れてゆく寒い日に、薄の穂が色あせて散ってしまうのは惜しいことだ。


 鶉は町の中でも山の中でもない郊外の草原くさはらに住む鳥で、草深い里の脇には山があり、そこに日は暮れようとしている。

   遠山に日のあたりたる枯野かな    虚子

は近代の句だが、中世の人ならこうした枯れ野には秋風に薄が揺れ、鶉の鳴く声を運んでくる風情を読み取っただろう。『千載集』には、

   夕されば野べの秋風身にしみて
       鶉なくなり深草の里
                藤原俊成

『新古今集』には、

   入日さす麓の尾花うちなびき
      誰が秋風に鶉鳴くらむ
               左衛門督通光さゑもんのかみみちみつ

とあるように、鶉に薄と来れば、秋風が連想されるものだった。古註にもあるように、秋風と言わずして秋風を連想させ、秋風に薄の散るのが惜しい、と付いている。普通だと、「鶉鳴く麓の里は秋の風」とでもしてしまいそうだが、それだと、前の句が霜に薄が散ると付いているのに、その上に秋風に薄が散ると付けることになり、輪廻となる。それを避けて秋風と言わずして秋風を付けたところに、この一句の工夫があった。
 古註には柿本人麻呂(中世・近世では人丸と呼ばれていた

   立田川紅葉たつたがはもみぢばながるかむなみの
      三室みむろの山に時雨しぐれふるらし

の歌が

   立田川紅葉ばながる神なみの
      三室の山に嵐ふくらし

と言わない所が良かったという『愚秘抄ぐひしょう』の逸話を引用している。『愚秘抄』は藤原定家に仮託された偽書とされているが、二条家の秘伝書として伝えられていた。内容としては、藤原家隆が人麻呂の歌の「時雨振るらし」が「嵐ふくらし」だったら良かったのにとしきりに言うのに対し、定家が「嵐ふくらし」では単に嵐に紅葉が散って竜田川のを流れているというだけの浅い歌になるが、「時雨ふるらし」とすることで、時雨に紅葉の葉が染まり、散ってゆくさまが浮かんでくる、と答えるものだ。単に風に薄の穂が散るさまを詠むのではなく、鶉鳴く野辺に秋が深まって薄の穂が散る、というところに深みがあるということだろう。

式目分析

季題:「寒き日」;秋。月と日次の日は可嫌打越物で、月からは二句隔てている。その他:「鶉」は鳥類。「山」は山類の体。

水無瀬三吟、七十句目

   うづらなくかたやまくれてさむ
 となるさともわびつつぞすむ 肖柏せうはく


   古註
   野とならば の歌の心也。


 (うづらなくかたやまくれてさむとなるさともわびつつぞすむ)
 鶉の鳴いて傍らの山が暮れてゆく寒い日に、荒れ果てて野となってしまった里に、落ちぶれて苦しい生活ながらも住んでいます。


 中世には自然災害や戦乱や領主の横暴などで、農民が田畑を放棄して逃散することがしばしばあった。人がいなくなれば後は野となれ山となれで、家も畑も荒れ果ててゆき、里も見る影もなく野原と成り果てる。芭蕉が、

 古池や蛙飛び込む水の音

と詠んだのも、江戸時代の初め頃までは、しばしばこうした人が住まなくなり荒れ放題になっている土地が見られたのだろう。今日だと廃墟の写真集が人気あったりするが、人の住まなくなったかつての村の古池は、人の世の無常やそこにかつて住んでいた人々の様々なドラマを感じさせたのだろう。
 古註に「野とならば の歌の心也」とあるのは、『伊勢物語』百二十三の

 「むかし、をとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたに思ひけむ、かかる歌をよみけり。

 年をへて住みこし里を出でていなば
    いとど深草野とやなりなむ

 女、返し、

 野とならば鶉となりて鳴きをらむ
    かりにだにやは君は来ざらむ

とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。」

のことを言う。野となった里に侘びつつ住みながら、鶉の鳴き声が聞こえたら私だと思ってください、という恋の情を含ませている。そのため、次の句は当然恋の句へと展開されることになる。

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「里」は居所の体。

水無瀬三吟、七十一句目

   となるさともわびつつぞすむ
 かへりこばまちしおもひをひとやみん  宗長そうちゃう


   古註
   たとへば、我がをとこなど旅立ちて久しく成り給ふに。すまひも野となるとも待ちたまはん。

   帰りきて見たまはば、よくかんにんしたるといはんほどにと也。


 (かへりこばまちしおもひをひとやみんとなるさともわびつつぞすむ)
 帰ってきてくれたなら、ずっと待っていた切ない思いをあなたは見てくれるでしょう。荒れ果てて野となってしまった里に、落ちぶれて苦しい生活ながらも住んでいます。


 長いこと旅に出ていた男が、戻ってきたとき、住まいのあった里は荒れ果てて野となっていて、それでも待っていたということがわかれば、きっとその間耐え忍んでいた気持ちもわかってくれるでしょう、と、意味は古註の通り。

式目分析

季題:なし。恋。その他:「人」は人倫。

水無瀬三吟、七十二句目

   かへりこばまちしおもひをひとやみん
 うときもたれがこころなるべき  宗祇そうぎ


   古註
   旅立ちたる人を待ち侘びて、たとひかへりき給ふとも、うちとけ物をもいふまじきとおもひ給ふが、

   又引きかへし、さやうに打ちとけんと也。


 (かへりこばまちしおもひをひとやみんうときもたれがこころなるべき)
 帰ってきてくれたなら、ずっと待っていた切ない思いをあなたは見てくれるでしょう。よそよそしく見えても誰が心底そんなことをするでしょうか。


 前の句が帰ってきた男の心情なのにたいし、それを迎える女の心情に転じる。長いことほったらかしにされていれば、男の帰りは嬉しいけれども、待っていた間のことを考えれば、それを許すわけにもいかない。「今ごろ帰って来て何よ」と多少の罵声も浴びせたくなるし、わざと無視したりもするものだ。しかし、一時怒ってはみても、本当は帰って来て嬉しい。
 古註は句を「うときはなにのゆかしげかある」としてこの注釈をつけているが、この句は『湯山三吟』92句目の、

    たのめ猶ちぎりし人の草の庵
 うときは何かゆかしげもある    宗長

の句と重複する。注釈者に記憶の混同があったのか。宗長が湯山三吟の席でつい宗祇が水無瀬三吟で詠んだ句を忘れて、同じ句を付けてしまい、宗祇が宗長のためを思って水無瀬三吟での自分の句を書き直したという説もあるが、「うときはなにのゆかしげかある」の形はこの古註のある本だけで、諸本はおおむね「うきともたれが心なるべき」とあるので、ここでは注釈者の記憶の混同ということにしておく。諸本の成立段階がはっきりして、古註の形が一番古いこと(湯山三吟以前の成立)が証明されれば別だが、宗長の名誉のためにも今のところはそうしておく。

    帰りこばまちしおもひを人やみん
 うときはなにのゆかしげかある

とした場合でも、意味はそれほど変わらない。ただ、よそよそしくしては心惹かれるものもない、という女性が自分自身を咎める意味になり、相手に対して訴えるという独り言に近く、恋歌の本意からすれば弱い。湯山三吟での宗長の句の場合は、契った人を信じて待ちましょう、よそよそしくしていても可愛くない、という意味になり、自らを励ます句になる。明らかにこの方がよく付いている。

式目分析

季題:なし。恋。その他:「たれ」は人倫。人倫が二句続くが打越にならなければいい。三句続くと打越に人倫がくることになる。これに対し、体と用のあるものは、体と用を違えれば三句まで続けることができる。

水無瀬三吟、七十三句目

   うときもたれがこころなるべき
 むかしよりただあやにくのこひみち    肖柏せうはく


   古註
   おもふとひよればつらくし給ふ。うとくてゐ給ひては何のかひもなし。

   ただあやにくの恋のみちと也。


 (むかしよりただあやにくのこひみちうときもたれがこころなるべき)
 昔から恋の道というのは思い通りにならないものだ。よそよそしく見えても誰も心底ではないのに。


 恋というのは難しいもので、人の心に嘘がなければもっと単純なのだが、言い寄ってくる男も本当に自分をかけがえのない大切な人として選んでくれているのか、ただ欲望を満たしたくて誰かれかまわず声をかけているだけなのか、女性としてはそこを見分けなくてはならない。そのため、好きでも軽々しくオーケーするわけにはいかず、いろいろ相手の心を試したり、じらしたり、よそよそしくしてみたりする。それは計算とか策略とかではなく、ほとんど無意識の感情から生じるものであり、心では「チャンスじゃない?」と思っても、つい恥ずかしくて思うのと反対の言葉が出てしまったり、逆に好きでもないのについつい、ということもある。
 性というのは今日の生物学によれば、遺伝子の修復のために進化したものだという。かつてまだオゾン層がなく、有害な紫外線に満ち溢れていた時代には、遺伝子は常に損傷を受けやすく、それを修復するには他の個体の遺伝子と照合する必要があった。こうして原生生物は接合形と呼ばれる。原始的な性を発達させた。これは生殖とは関係なく、ただ遺伝子を修復するために、お互いの遺伝子を交換し合うものだった。個体を増やすための細胞分裂とはまったく別のものだった。
 やがて生物が多細胞の高度なものに発達したとき、このような遺伝子の修復は、生殖する際の最初の細胞でしかできなくなった。そのため、減数分裂した遺伝子を二つ合わせて新しい個体を作るという有性生殖が行われるようになった。ここに性と生殖が結びつくことになった。ただ、生殖は必ずしも性を必要とするものではなかった。今でも多くの生物に無性生殖が見られるように、性は決して生殖のためのものではなかった。むしろ有性生殖は相手を見つけなければならないという余計な仕事が付け加わるために、単純に生めよ増やせよという観点からすれば、かなり効率の悪いものだった。それでも、無性生殖が単純に遺伝子のコピーを繰り返すだけだから、遺伝子が劣化しやすいのに対し、有性生殖だと、絶えず遺伝子を修復できるため、有性生殖は広まっていった。有性生殖はいわば、増やすという点では効率が悪いが、よりよい遺伝子を持った相手を選び出し、遺伝子の劣化を防ぐという点で有利なために、広く行われるようになり、今日に至っている。
 そのため、われわれの性もまた、決してただ子孫を作るための、相手は誰でも良いというような無差別的な衝動ではない。よりよい相手を選択するというのは、性が始まって以来の遺伝子の至上命令であり、性的選択権(平たく言えば「選ぶ権利」)というのは性にとってもっとも本質的なものだった。西洋の古い形而上学では、性を生殖のための肉体の本能とみなし、恋を精神の作用として二元論的に区別していたため、今でも人は本来誰かれかまわず無差別に性交をしたがるもので、それを理性で抑制するところに恋愛が成立すると考える観念は根強く、そこから、人間は文化的抑制から解放されればフリーセックスの社会が作れると主張する人たちもいる。しかし、はっきり言ってそれは生物学的には無理であろう。性的選択権の抑圧は自然に反するものであり、人の心に大きな傷を負わせることになる。
 有性生殖が始まり、オスとメスの二つの性が誕生して以来、一方は比較的選択性が低い「ばら撒く性」へと進化し、一方は「選ぶ性」へと進化した。これは子供を生むのに多くの負担が生じるため、生む方の性は一生のうちに生める限られた数の子共に最善の遺伝子を提供すべく、選ぶ性となり、そうでないほうの性は、できるだけ多くのメスに精子をばら撒いた方がより多くの子孫を得られるからだ。そのため、男は嫌いな女性から体をべたべた触られてもそんなに不快感は感じないし、強制的に性交を迫られても、そんなに心に傷を負うことはない。しかし、女性にとってはそれが命に関わる大きな問題になる。男と女は明らかに違う。それがよくわからないまま、女の拒絶に一方的に腹を立ててストーカーになったり、男が信じられなくなったり、性にまつわる人間の悲喜劇は、おそらくこの世に男と女がいる限り繰り返されるのだろう。「昔よりただあやにくの恋の道」はこれからもただあやにくの恋の道なのだし、世界中どこへ行ってもあやにくの恋の道なのだろう。

式目分析

季題:なし。「恋」;恋。「恋しい」一座二句物で「恋しき」「恋しく」など違えて二句となっている。「恋しき」は既に出ている。その他:「昔」は一座一句物。

水無瀬三吟、七十四句目

   むかしよりただあやにくのこひみち
 わすられがたきさへうらめし 宗長そうちゃう


   古註
   一句は、いんとんし給ふ心也。付くる心は、昔より世の中に、あやにくになきやうに、

   恋をしそめずしてうらめしきと也。


 (むかしよりただあやにくのこひみちわすられがたきさへうらめし)
 昔から恋の道というのは思い通りにならないものだ。忘れられない二人の仲が恨めしい。


 隠遁して未練を断ち切ろうといたものの、離れてみるとますます美しい思い出がよみがえり、昔の恋が忘れられなくなる。恋の道とはままならぬもの、となる。「昔より」はここでは太古の昔よりということではなく、隠遁する前よりというニュアンスに取り成される。「世」はここでは男女の仲のことになる(古典の試験でよく出題される用法)が、これを文字通りに浮世と取り成せば、述懐に転じることができる。ただし、述懐と述懐は可隔五句物なので、七十句目の述懐からまだ四句しか隔てていず、次の句で述懐は詠めない。

式目分析

季題:なし。恋。その他:「世」は一座五句物で二回目。この場合は恋世になる。「恨む」は一座二句物だが、これで三回目。

水無瀬三吟、七十五句目

   わすられがたきさへうらめし
 やまがつになど春秋はるあきのしらるらん   宗祇そうぎ


   古註
   春よ秋よとおもしろき事をもしらぬ山がつにも、何とて春秋の見えね、らめしきと也。


 (やまがつになど春秋はるあきのしらるらんわすられがたきさへうらめし)
 山がつにどうして春秋の心がわかるのだろうか。忘れられない二人の仲が恨めしい。


 山がつの春秋を知らぬというのは、何とも差別的な響きがあるが、この場合は都人が好む古典の春秋の趣向を知らないという意味で、本当に春秋を知らないわけではない。
 都人にとって季節は様々な宮廷の行事に結びついたもので、日常の挨拶も話題もそうした行事に関連したことが多く、それに古典の素養をさりげなくひけらかすような冗談を交えたりするのだろう。出世を夢見ているときは、そうした洗練された会話を競い合ったりもし、『枕草子』にも結構お世話になったのではなかったか。この本は「枕」と言うだけあって、ある意味では会話を切り出す際の頭に敷くものの用例集にもなる。
 しかし、ひとたび左遷されたり、隠遁生活を余儀なくされたり、出世の夢も絶たれるとなると、片田舎で都人の好む話題には無反応で、それどころか方言で話されたりすると何を言っているかもわからない中で暮らさねばならない。それが春秋を知らぬということなのだろう。
 『拾遺集』巻き十六、雑春に

 年月のゆくへもしらぬ山がつは
    滝の音にや春をしるらん
              右近

の歌もあるように、宮廷の暦や年中行事は知らなくても、滝の氷が融ければ自ずと春を知る。山がつは、むしろ自然のままに春秋を知る人をいう。
 この句の場合、山がつは自称であり、今は都を離れ、山がつの身となり、都で覚えた春秋の心はすっかり忘れたというのに、忘れられない恋が恨めしい、という句になる。『湯山三吟』の、

    何をかは苔のたもとにうらみまし
 すめば山がつ人もたづぬな     宗長

の句も、それを発展させたものだろう。

式目分析

季題:なし。「春秋」は季節を特定する言葉ではない。前句と合わせると恋の歌になるが、一句としては恋の風情はない。ただし、恋は五句まで続けてもかまわないから、これを恋の句にできないというわけではない。今では、恋の句の連続を嫌う人もいるようだが、本来恋は連歌の花で、ぎりぎりまでたっぷりあっていい。また、「世」を浮世の意味に取り成してしまうと、述懐になってしまうが、述懐は四句しか離れてないので不可。その他:「山がつ」は人倫。

水無瀬三吟、七十六句目

   やまがつになど春秋はるあきのしらるらん
 うゑぬ草葉くさばのしげきしば  肖柏せうはく


   古註
   うゑヘぬ草の生えて、春秋を山がつのしるなるべし。


 (やまがつになど春秋はるあきのしらるらんうゑぬ草葉くさばのしげきしば
 山がつにどうして春秋の心がわかるのだろうか。柴の戸に茂る植えたわけでもない草葉に、それが生えてきては枯れてゆく様を見て春秋を知るのだろう。


 春秋を知らぬ山がつは、世を捨てた隠遁者で、どこか俗世を超越した山人、つまり仙人の風情がある。春秋を知らぬのは『荘子』にあるように、生まれてきたことを喜びもせず、死ぬことを悲しみもしない、生死を超越して身を自然に任せているからで、それにふさわしく、仙人の住む庵は草葉の茂るがままに任せている。生も死もない、だから行く春を惜しむことも、秋を悲しむこともない。紫野千句に、

    散ればとて花にはなどやかへるらむ
 山がつなれば春もをしまず

の句もある。ただ、草葉が茂り、枯れてゆく姿を惜しむこともなく、毎年繰り返す時の流れを見ているのだろう。
 恋四句を含む後半の一つの山を終わり、この辺で季節の句に戻り、一休みというところだろう。

式目分析

季題:「草葉のしげき」;夏。夏の茂りに特定せず、茂っては枯れてゆく時の経過を表すだけだから無季とする説もあるが、一巻に夏の句が一句のないのも寂しいだろう。夏の茂り放題の草を見て、この草が生えては枯れてゆく姿を想像しているわけだから、夏の風情は十分ある。その他:「草葉」は草類。「柴の戸」は居所の体。

水無瀬三吟、七十七句目

   うゑぬ草葉くさばのしげきしば
 かたはらにかきほのあら田返たかへしすて  宗長そうちゃう


   古註
   あれ田とつかふべからず。返しすてたる田の草なるべし。かたはらはあたり也。


 (かたはらにかきほのあら田返たかへしすてうゑぬ草葉くさばのしげきしば
 垣根の傍らの荒田も耕した途中で、そこに植えてもいない雑草が茂っている、そんな柴の戸に私は住んでいます。


 平地の肥沃な土地ならともかく、山の奥で田を切り開いては見ても、木の根が残っていてそれを掘り起こしたり、岩にぶつかったりで、いろいろ困難が多い。以前誰かが耕しては、その大変さから前に棲んでいた人が放棄していった田んぼの横の庵に棲んでみたものの、なるほど大変な所で、とても全部は耕しきれず、残ったところは雑草が生えてきている。

式目分析

季題:「返す田」;春。その他:「垣」は居所の体。居所の体は二句までは続けられる。

水無瀬三吟、七十八句目

   かたはらにかきほのあら田返たかへしすて
 ゆくひとかすむあめのくれかた  宗祇そうぎ


   古註
   雨に暮れて田を返しすて、帰りたる也。


 (かたはらにかきほのあら田返たかへしすてゆくひとかすむあめのくれかた)
 垣根の傍らの荒田も耕した途中で帰ってゆく人の姿が、雨の中に霞んでゆく、そんな春の夕暮です。


 この場合、草庵の隣にあった荒田は自分のものではなく、どこかの百姓のもので、雨が降り出したので耕すのも途中にしてその農夫は帰ってゆく。雨に黄昏てゆくと、あたりは薄暗いモノトーンの世界につつまれ、そんな中に人影が消えてゆく。これでまた人の気配のなくなってしまった草庵に、寂しく一日が終わってゆく。水墨画のような風景は、どこか陶淵明の田園の居を髣髴させる。

式目分析

季題:「かすむ」;春。その他:「ゆく人」は人倫。人倫は打越を避ければよく、「山がつ」から二句隔てている。「雨」は降物。

   名残表

水無瀬三吟、七十九句目

   ゆく人かすむあめのくれかた
 やどりせむうぐひすやいとふらむ   宗長そうちゃう


   古註
   野にやどらんの鴬にいとはれて、よ所へ行き給ふかとなり。


 (やどりせむうぐひすやいとふらむゆく人かすむあめのくれかた)
 ここで野宿して一夜明かそうと思ったが鶯に嫌われてしまったのだろうか。帰ってゆく人の姿が、雨の夕暮の中に霞んでゆく。


 金子金次郎の説によれば、

 春の野にすみれつみにとこしわれを
    野をなつかしみ一夜寝にける
                 山部赤人

などの古歌にあるように、春の野に宿ることは古くからの風雅の遊びだったという。おそらく、春宵一刻値千金とばかりに酒を酌み交わし、野の花に囲まれ、朧の月を見ながら、一夜を明かしたのだろう。しかし、あいにくの雨となれば仕方がない。夕暮にすごすごと人は皆引き上げてゆく。「あーあっ、鶯に嫌われちゃったなぁ」なんて言いながら。

 思ふどちそこともしらず行きくれぬ
    花の宿かせ野辺の鶯
                 藤原家隆

の歌もあるように、野辺の宿は鶯を主とする。

式目分析

季題:「鶯」;春。鳥類。一座一句物。その他:「やどり」;宿は一座二句物で、旅の宿と只の宿が一句づつ使える。この場合は只宿。

水無瀬三吟、八十句目

   やどりせむうぐひすやいとふらむ
 小夜さよもしづかにさくらさくかげ  肖柏せうはく


   古註
   櫻のかげにやどらんとおもへど、鴬のいとはんと也。

   我がやどり給はば、櫻のかげしづかにあるまじければ、野べの櫻なるべし。


 (やどりせむうぐひすやいとふらむ小夜さよもしづかにさくらさくかげ)
 ここで野宿して一夜明かそう。鶯に嫌いはしないだろう。桜の陰も夜ともなれば静かなものだ。


 疑問は反語にの鉄則通り、「いとふらむ」を反語に取り成し、いといはしない、ならば「宿りせむ」と終止形に取り成し、句の切るところを変える。
 桜は山だけでなく、野辺の片隅にも咲いている。昔は外灯などなかったから、花見は普通昼に行うもので、夜桜が一般化したのは公園に外灯が立つようになってからだろう。火を焚いてはいても、真っ暗な中では桜も微かにしか見えず、酒を酌み交わすにも、辺りは静寂に包まれる。それが本来の夜桜だったのだろう。ダイナモが大きな唸り声を上げ、カラオケの音が響き渡り、電気でギラギラと照らされた花を見る今日の夜桜見物とはだいぶ風情が違う。

式目分析

季題:「桜」;春。木類。一座三句物で只の桜が一句、山桜、遅桜等が一句、桜の紅葉が一句使え、この場合は只桜。その他:「小夜」は夜分。

水無瀬三吟、八十一句目

   小夜さよもしづかにさくらさくかげ
 とぼしびをそむくるはなけそめて    宗祇そうぎ


   古註
   とぼし火をそむけて、櫻にむかひて、あかしたるなるべし。


 (とぼしびをそむくるはなけそめて小夜さよもしづかにさくらさくかげ)
 灯火を向こうへやって灯火なしに桜の花が夜明けで自然に姿を表してくる様を眺めよう。桜の陰も夜ともなれば静かなものだ。


 この句は『和漢朗詠集』の春夜を出典にしているといわれる。

   「春夜しゆんや

 背燭共憐深夜月。踏花同惜少年春。
   春夜与盧四周諒花陽観同居     白居易はくきょい

 ともしびそむけてはともあはれむ深夜しんやつき
 はなみてはおなじくしむ少年せうねんはる

   古今
 はるのよのやみはあやなしうめのはな
    色こそみえねかやはかくるる
                  凡河内躬恒おおしこうちのみつね

 月を見るときは明かりを消してともに暗い中にいよう。散った花を踏んでは青春があっという間に去っていったことを惜しもう。暗い時には暗いままに、花散る時は散るがままに、それが自然の定めと受け止める、というのがこの句の本意なのだろう。夜桜は灯りで煌々と照らすことなく、ただ暗くて見えないときは見えないままに、夜が明けて明るくなれば明るくなるがままに、そう思う時、朝日に映える山桜の本当の美しさもわかる。

式目分析

季題:「花」;春。植物。「応安新式」では一座三句物で、似せ物(比喩)の花を含めて四句、一枚の懐紙に一句と定められているが、「新式今案」では四句詠んでいいことになっている。これが四句目。江戸時代に入ると、花の句は貴人巧者の詠むべきものとされ、そのため、花の句はみんな遠慮して出さなくなったために、各懐紙の最後の長句になってやっと花の句がで、これが花の定座となったというが、この時代ではそんなことはないし、『水無瀬三吟』でも花は四句とも懐紙の早い時期に出てくる。その他:「灯火」「明けそめ」は夜分。夜分が二句続く。

水無瀬三吟、八十二句目

   とぼしびをそむくるはなけそめて
 たが手枕たまくらにゆめはみえけん  宗長そうちゃう


   古註
   若し花をみぬ人は、花を夢に見給ふらんと也。


 (とぼしびをそむくるはなけそめてたが手枕たまくらにゆめはみえけん)
 灯火を向こうへやって灯火なしに桜の花が夜明けで姿を表してくる様を眺めながら、誰の手枕で花を夢見ることがあるでしょうか。


 現実の花を見ているなら、花を夢見る必要はない。夜を明かしてともに花を見る人がありながら、どうして他の人の手枕で花を夢見ることがあるでしょうか、と浮気心のないことを歌う。
 この句を夜明けの桜を二人して眺めるという夢を誰の手枕で見たのか、という意味にとって、『源氏物語』の「花宴」の朧月夜の君の面影とする説もある。ただ、「花宴」を出典とした句は既に二十七句目に「おぼろげの月かは人も待てしばし」の句がある。意味的にも、花に明かすという現実をいきなり誰かの手枕の夢としてしまうのでは、意味が通じない。金子金次郎は、私はこうして花に夜を明かしたけれど、ほかの誰かの夢にもこの花は見えていたのでしょうか、と読むが、特定の相手がいないのなら、恋の句にはならない。やはり、二人して花に明かしたが、誰の手枕でもこんな夢は見ない、という意味に取った方がいい。
 美しい夜桜の句から恋へと転じ、さあ、ここらでラストスパートと、いうところか。

式目分析

季題:なし。恋。その他:「誰」は人倫。「夢」は夜分にならない。「枕」は夜分だが、「手枕」も夜分になるとすれば、夜分が三句続くことになる。確かに「手枕」は寝そべったりうたた寝したりはするが、就寝用の「枕」ではないから、夜に限るものではない。いかがだろうか。

水無瀬三吟、八十三句目

   たが手枕たまくらにゆめはみえけん
 ちぎりはやおもひたえつつとしもへぬ  肖柏せうはく


   古註
   我ははや契り給ひたる、又誰とか契りて、夢などをみせ給ふらんと也。


 (ちぎりはやおもひたえつつとしもへぬたが手枕たまくらにゆめはみえけん)
 既に契りを立て、過去の人への思いを断ち切って長年経たのですから、誰の手枕で別の人を夢見ることがあるでしょうか。


 これも契りを交わし、元彼とはすっかり縁を切ったのに、その元彼が手枕の夢に現れるという、女の未練と取る説がある。これは「たが手枕」を反語とせずに、疑問と取った解釈だが、これだと、誰に対して訴えているのかというシチュエーションがわからなくなる。まさか、長年連れ添った夫に、実は昔の彼が忘れられないの、とでも言うのだろうか。

式目分析

季題:なし。恋。その他:なし。

水無瀬三吟、八十四句目

   ちぎりはやおもひたえつつとしもへぬ
 いまはのよはひやまもたづねじ 宗祇そうぎ


   古註
   山と我とのちぎりなるべし。


 (ちぎりはやおもひたえつつとしもへぬいまはのよはひやまもたづねじ)
 山に入ろうと契りを立て他者の、その思いも途絶えてしまったまま年を経て、もう既に死も近いという歳なのに、山を訪ねることもない。


 述懐というのは基本的に懺悔に近い。自分の罪、自分の煩悩、至らなさ、後悔、そういったものを素直に告白することで、仏の慈悲にすがり、成仏を果たそうというもので、だから、「俺はもう悟っちゃったよー」という句は述懐にはならない。山に入るというのはお寺で修行するということで、今でもお寺の名前には必ず○○山とつく。「いまは」というのは本来「今はこれにて」ということで別れの挨拶だったが、それが転じて死別することをも意味するようになった。「山も」の「も」はこの場合強調の「も」。

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「山」は山類(体)。

水無瀬三吟、八十五句目

   いまはのよはひやまもたづねじ
 かくすひとはなきにもなしつらん 宗長そうちゃう


   古註
   一句は、山にゐての心也。久敷ひさしく山に仕み給へば、はや死にたると思ひてやらん、

   人もたづねぬとなり。


 (かくすひとはなきにもなしつらんいまはのよはひやまもたづねじ)
 俗世を離れ隠棲する我が身を人はもう亡くなったものとしてしまったのだろうか。もう既に死も近いという歳なのに、誰も山を訪ねるこない。


 本来遁世というのは、自分の意志で世間を捨てるのであって、世間が自分を捨てたのではない。だから、本来隠棲するときは、世間の人が自分はもう死んだものだと思っても、それでいいという覚悟で行かなくてはならない。だが、やはり人の心は弱いもので、捨てたと思った世間が恋しくなり、山の中の庵に誰も尋ねてこないのを恨めしく思う。その恨みを告白するところで、やはりこれは述懐となる。
 江戸時代の文人画家、浦上玉堂の好んだという、催馬楽さいばらの『浅水橋』が思い浮かぶ。

 浅水の橋の とどろとどろと 降りし雨の ふりにし我を 誰ぞこの なかびとたてて みもとのかたち 消息しょうそこし とぶらひに来るや さきむだちや

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「身」「人」は人倫。

水無瀬三吟、八十六句目

   かくすひとはなきにもなしつらん
 さてもにかかるたまのを 肖柏せうはく


   古註
   いつまでいきてゐ給はんと也。


 (かくすひとはなきにもなしつらんさてもにかかるたまのを)
 俗世を離れ隠棲する我が身を人はもう亡くなったものとしてしまったのだろうか。それでもまだこのつらい現世に頼りながら命をつないでいる。


 隠棲し、人から見ればもう無きも同然の身であっても、やはり人の世話にならないことには生きることができない。寺に入るにしても、托鉢をしたり、世間の人のお寺への寄付などに頼って生活しているのだし、山で自給自足といっても、付近の村人にいろいろ助けてもらったり、結局人は一人では生きられないものだ。

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「世」は一座五句物。只世と恋世は既に出ている。浮世世の中の間に一とあるので、ここでは浮世になる。「世」はこれで三句目。「玉のを」は「新式今案」で一座二句物とされ、命の間に一とある。二表に「命のみ」の句があり、これと合わせてこれが二句目になる。

水無瀬三吟、八十七句目

   さてもにかかるたまのを
 まつをただあさゆふのけぶりにて  宗祇そうぎ


   古註
   松のおちばなどたきてゐ給ふこと、しやしんのわざなり。


 (まつをただあさゆふのけぶりにてさてもにかかるたまのを)
 松の落葉を焚いて朝夕の飯を炊くその煙に、まだこのつらい現世に頼りながら命をつないでいる。


 ガスの電機もない時代には、燃料といえば薪や柴で、松の葉も油脂を含んでいるために、燃料として用いられた。とはいえ、細い松の葉で起こす火力はささやかなもので、そのわずかな火力で自分ひとり食ってゆくだけのささやかな食事を作る。そうやってかろうじてつらい現世に命をつないでいるのは、質素な生活に耐えるだけの心を持った世捨て人だろう。

式目分析

季題:なし。その他:「松」は木類。「朝」は「新式今案」で一座二句物とされている。只一、今朝一で、この場合は只朝。「夕」は一座二句物で発句についでこれで二回目。「けぶり」は聳物。

水無瀬三吟、八十八句目

   まつをただあさゆふのけぶりにて
 うらわのさとはいかにすむらん  宗長そうちゃう


   古註
   松の葉をたきて、あさゆふ塩をやきて、すむなるべし。さびしき体也。


 (まつをただあさゆふのけぶりにてうらわのさとはいかにすむらん)
 松の落葉を焚いて朝夕煙を立てている海辺の里の人たちはどんな暮らしをしているのだろうか。


 藻塩は乾燥させたホンダワラを海水に漬けて煮詰めて作るのだが、その際、燃料に松の葉を使うこともあったのだろう。藻塩焼く海人の里は朝夕松の葉を焚いて、どうやって生活しているのだろうか、という句だが、藻塩焼いて暮らしているというのがその答だ。

 来ぬ人を松ほの浦の夕なぎに
    焼くや藻塩の身もこがれつつ
                  藤原定家

の歌が思い浮かぶ。いかに棲むらんと聞かれて、ただ藻塩を焼くだけではつまらない。来ぬ人を待って身も焦がれる思いで暮らしている松風・村雨に思いをはせるのもいいかもしれない。

式目分析

季題:なし。その他:「浦」は水辺(用)。「里」は居所(体)。

水無瀬三吟、八十九句目

   うらわのさとはいかにすむらん
 秋風あきかぜのあらいそまくらしわびぬ   肖柏せうはく


   古註
   かりそめとおもふ旅ねさへうきに、つねにいかにすむらんとなり。


 (秋風あきかぜのあらいそまくらしわびぬうらわのさとはいかにすむらん)
 秋風の荒々しく吹き付ける荒磯での旅寝に眠れずにいる。海辺の里の人たちはどんな暮らしをしているのだろうか。


 秋風は、今でいえば夏も後半になると台風の影響で風が強くなる現象をいう。この頃から海には土用波が押し寄せ、クラゲも多くなる。サーフィンをやるにはビッグウェーブにもなる。しかし、中世の旅人ともなると、宿場もまだ整備されず、風も強く波も高い海辺で一夜を過ごすこともあったのだろうか。すさまじい轟音に寝るに寝られずにいると、ここら辺に棲んでいる人は、よくこんな中で暮らせるなと思う。慣れの問題もあるし、どこからが危険でどこまでが安全か、その境を熟知しているからでもあろう。
 「あら磯まくら」というのは「草枕」に準じた造語で、草に枕するから草枕、海辺にに枕すれば荒磯枕といった所なのだろう。

式目分析

季題:「秋風」;秋。一座二句物で、「応安新式」によれば「秋風」が一、「秋の風」が一と変えなくてはいけないのだが、二の裏の句は「身をあきかぜ」なので、変えてはいない。羇旅。その他:「磯」は水辺(体)。水辺が二句続く。「まくら」は夜分。夜分と夜分は可隔五句物で、七句隔たっている。

水無瀬三吟、九十句目

   秋風あきかぜのあらいそまくらしわびぬ
 かりなくやまつきふくるそら    宗祇そうぎ


   古註
   かりもふしわびたる体也。


 (秋風あきかぜのあらいそまくらしわびぬかりなくやまつきふくるそら
 秋風の荒々しく吹き付ける荒磯での旅寝に眠れずにいる。雁の鳴いている山の上の空も夜が更けていくとともに月も傾いてゆく。


 秋になると雁も渡ってくる。秋風の荒磯で野宿して、眠れないでいると、山でも雁もはるばる北の国から旅してきて、同じように眠れないでいるのだろうかとばかり、鳴きながら飛び回っている。「月ふくる」は、「夜が更ける」を月の夜が更けていく様を表すために、「月が更ける」と造語的に言い換えたのだろう。「空」は「うわの空」というときの頭が真っ白になるような、そんな空と掛けている。

式目分析

季題:「月」;秋。夜分。光物その他:「雁」は鳥類。一座二句物で、春の雁と秋の雁が一句づつ。春の雁はすでに「きけばいまはの春のかりがね」の句があり、今回は秋の雁。「山」は山類(体)。「空」は「新式今案」に一座四句物。これが三回目。

水無瀬三吟、九十一句目

   かりなくやまつきふくるそら
 小萩原こはぎはらうつろふつゆもあすやみむ   宗長そうちゃう


   古註
   こよひは夜更けて、萩見のこしてあるほどに、あすきてみんと也り。


 (小萩原こはぎはらうつろふつゆもあすやみむかりなくやまつきふくるそら
 萩が小さく美しく咲く野原には、露が降りては消えてゆく露をまた明日も見るのだろう。雁の鳴いている山の上の空も夜が更けていくとともに月も傾いてゆく。


 萩の小さな花は、秋の夜の露を受け、それが月の光を映し、美しくきらめく。そのきらめきは朝になり陽が昇ると急速に消えていってしまうが、また夜が来ればふたたび萩の花は美しくきらめく。
 夜は様々な夢や幻を生み出す。昼間の現実の世界は何もかもが光の中であからさまに見えるだけに、この世界の様々な醜い部分も目についてしまう。しかし、夜は暗くて物がはっきり見えないだけに、暗闇を埋めるべく、様々な夢や幻が脳裏に浮かんでくる。そこには現実の世界にない、穢れなき、純粋な理想の世界が、時として思い描かれる。月の光に照らされた萩の露もまた、そんな夢のような世界で、あたかも地面の上に満天の星が輝いているかのようだが、残念ながら、雁鳴く山の月の幻想的な夜も更け、朝の光が差し込むとともに、その輝きは失われてしまう。「何もかも消えそうで、夜は永遠じゃない」と歌っていた螢という詩人もいたが、朝が来て、苦しい日常に引き戻されても、夜はまたやってくる。
 この句を詠んだ宗長は、やがて文亀二年(1502年)に宗祇法師の最後の旅に同行し、箱根湯本でその死を見取ることになる。宗長自身の筆による『宗祇終焉記そうぎしゅうえんのき』によれば、宗祇は、

   ながむる月に立ちぞうかるる

という前句に「我は付けがたし、みなみな付け侍れ」という言葉を最後にこの世を去っていったという。その半月後の十五夜に今川氏親うじちかとともに、一年前に詠んで連歌会では用いられなかった宗祇の発句をもとに追悼の連歌会を催したとき、宗長が詠んだのは次の句だった。

 曇るなよたが名はたたじ秋の月   宗祇
    そら飛ぶかりの数しるきこゑ 氏親
 小萩原朝露さむき風すぎて     宗長

このとき宗長は、かつての『水無瀬三吟』での句を思い出したのだろうか。連歌というのは結局は現実ではない。ひととき夢の世界、風雅の世界に遊ぶ、そんな一時現実の苦しさを忘れ、一瞬の心のきらめきに人生で本当に大切な何かを垣間見る、そんな瞬間だったのだろう。月を眺めては浮かれた気分になる、「ながむる月に立ちぞうかるる」萩咲く野原の露のきらめき、そのきらめきを忘れてはいけない。たとえ宗祇がこの世を去り、朝露に寒き風が吹き抜けていこうとも、夜はまた来る。

式目分析

季題:「萩」;秋。草類。草類と木類は可隔三句物で「松の葉を」の句から三句隔たっている。その他:「露」は降物。

水無瀬三吟、九十二句目

   小萩原こはぎはらうつろふつゆもあすやみむ
 あだのおほこころなるひと   肖柏せうはく


   古註
   あだの大野は、あだ野まで也。名所にあらず。大野とはひろき野と云ふ心也。

   句の心は、荻のごとくうつろひやすき人なれば、あすかはらんをもしらぬと也。
    あだし野のをがやが下葉たがためぞみだれそめたる暮を待つらん
   あだなることまでにあだ野とよめる歌の心は、誰を待つらんとも見えぬ日は、あだなる野と也。


 (小萩原こはぎはらうつろふつゆもあすやみむあだのおほこころなるひと
 萩が小さく美しく咲く野原には、露が降りては消えてゆく露をまた明日も見るのだろうか。何を待つでもなくむなしく広い野原を心に持っている人よ。


 阿太あだの大野は奈良県五条市の吉野川沿いの野原で、『万葉集』巻十、二○九六に、

 真葛原なびく秋風吹くごとに
    阿太の大野の萩の花散る
                よみ人知らず

とあり、萩の名所だった。しかし、これでは「あだのおほ野を心なる人」の意味がわからない。そこで、古註では「阿太」を「あだになる」(むなしくなる)、「あだし野」(死者を葬る野)の意味にとる。古註には「名所にあらず」というが、名所に掛けたといった方がいいかもしれない。引用されているのは藤原定家の歌で、「あだし野」というと京都の嵯峨のにあるあだし野念仏寺のある、無数の無縁仏が祭られている、あのあだし野を連想する人も多いことだろう。
 「あだのおほ野を心なる人」はそういう意味で、いにしえの萩の名所を心に抱いている風流人ではなく、ただ無駄に、何を待つでもなく荒野のような荒れ果てた心の人という意味で、前句を反語に取り成して、萩の露を明日も見るのでしょうか、そんなこともないのでしょう、本当に冷たい人、と付く恋の句になる。しばし現世を超越して、人はしばしば永遠の愛を夢見る。しかし、そんな夢も朝の光とともに消えてゆき、現実に引き戻されてゆくように、人の心は冷たく荒んでゆく。

式目分析

季題:なし。恋。その他:「人」は人倫。

   名残裏

水無瀬三吟、九十三句目

   あだのおほこころなるひと
 わするなよかぎりやかはるゆめうつつ   宗祇そうぎ


   古註
   しするかぎりまでかはり給ふなと也。かぎりやはなり。


 (わするなよかぎりやかはるゆめうつつあだのおほこころなるひと
 忘れないでくれ。夢うつつのひとときは死ぬまで変わりやしない。何を待つでもなくむなしく広い野原を心に持っている人よ。


 恋は不思議なもので、ひとたび好きになれば、現実の世界のさまざまな打算や利害も振り捨てて、時には命すらも超越でき、あたかも永遠を手にできるかのような幻を見せてくれる。それは結局、人は遺伝子の乗り物であり、遺伝子を複製し、後世につないでゆくことがすべてに最優先されるためで、どんな理性もそれに逆らうことは難しい。しかし、だからこそ、単なる物欲や名誉欲を越えられる。
 そんな恋の力を、切なくもありわくわくするようでもある、あの気持ちを死ぬまで持ち続けて欲しい。それを忘れてしまったなら、人生は荒涼たるものだ。これは恋の句ではあるが、どこか、戦乱に荒みきった人の心に、何が一番大切なのか思い出して欲しい、と呼びかけているようでもある。この『水無瀬三吟』の一巻に何度も咎めテニハの句が出てくるあたり、この一巻のメッセージ的な性格が感じられる。

式目分析

季題:なし。恋。その他:なし。

水無瀬三吟、九十四句目

   わするなよかぎりやかはるゆめうつつ
 おもへばいつをいにしへにせむ   宗長そうちゃう


   古註
   本来より契りきたる中のやうなれば、かはり給ふなと也。契りそめたるはじめもなきやうなると也。


 (わするなよかぎりやかはるゆめうつつおもへばいつをいにしへにせむ)
 忘れないでくれ。夢うつつのひとときは死ぬまで変わりやしない。恋をしているときはいつでも過去なんてものはない。


 KLFのヒット曲に「What time is love」という曲があったが、これは「What time is it now」という決まり文句をもじったもので、「愛は何時か」の答はおそらく「now」(今)なのだろう。哲学的にいえば「presence」(現在)と言った方がいいかもしれない。愛が変わることがないのなら、そこには始まりもなければ終わりもない。ただ永遠の今があるのみ。一般的には述懐の句とされているが、意味的には恋の句としてもいいように思える。
 さて、このへんで恋の句も終わり、残る六句、速やかに締めに向かう。名残惜しいが、そろそろこの百韻も終わりが近づいている。

式目分析

季題:なし。一般的には述懐とされているが、内容的には恋とした方がいい。その他:「古(いにしへ)」は一座一句物。

水無瀬三吟、九十五句目

   おもへばいつをいにしへにせむ
 ほとけたちかくれてはまたいづるに   肖柏せうはく


   古註
   ほとけの上は、はじめもをはりもなきもの也。


 (ほとけたちかくれてはまたいづるにおもへばいつをいにしへにせむ)
 三千もの仏たちが入滅してはまた生まれ来るこの世界に、考えてみれば一体いつが昔なのだろうか。


 仏は過去世に千回、現在世に千回、未来世に千回、出現するという。紀元前のインドに出現した釈迦(ゴーダマ=シーダールタ)は現在世一千仏の中の第四に出現する仏で、釈迦入滅後には五十六億七千万年後に弥勒が出現するとされている。(つまり、それまでの間に現れる釈迦の生まれ変わりとか称する者はすべて似せ物。)この気の遠くなるような時の流れの中では、人生五十年はもとより、古今万葉の昔といえどもほんの一瞬のことに過ぎない。昔だとかいにしへだとかいっても、それは一体いつのことだろうか。
 今日の世界観でいえば、この宇宙は150億年前のビッグバンに始まったという。それ以来、宇宙は加速度を付けて膨張し続けているが、その先に何があるのかは誰もわからない。ビッグバンは一度だけのものなのか、それとも宇宙はビッグバンとビッグクランチを繰り返し、延々と続くものなのか。そんな壮大な時間の流れの中で、人類の歴史などはほんの一瞬に過ぎないとも言えよう。

式目分析

季題:なし。釈教。その他:「世」は一座五句物で、既に只世、恋世、浮世が出ていて、今回は「前世後世などに一」にふくまれる。「世」はこれで四句目。

水無瀬三吟、九十六句目

   ほとけたちかくれてはまたいづる
 れしはやし春風はるかぜぞふく    宗祇そうぎ


   古註
   しやくそん入めつの時、林もかれて、又おひいで給ふこゝろなり。

   仏もかくれては出で、林もかれてほおひ出で給ふなり。


 (ほとけたちかくれてはまたいづるれしはやし春風はるかぜぞふく)
 三千もの仏たちが入滅してはまた生まれ来るこの世界に、枯れてしまった林にも春風が吹き新たな命が吹き込まれる。


 釈迦入滅は日本では旧暦の二月十五日とされ、宗派に関係なく涅槃会ねはんえが行われる。沙羅双樹さらそうじゅの林で頭を北にして横たわり、涅槃ねはんに至ったとき、たくさんの弟子たちだけでなく、たくさんの動物も集まってきているさまは、釈迦入滅図として絵画に描かれている。このとき沙羅双樹の林は白くなって枯れたといわれており、

 霞みにし鶴の林のなごりまで
    桂のかげもくもるとを知れ
               西行法師

の歌の「鶴の林」はその白くなった葉が鶴の羽のようだったところから来ている。「桂」は月に生えているとされていた植物で、「桂の影」は月のこと。
 その沙羅双樹の林も、一度は枯れてもまた来る春があるように、末法の世とは言われても、それで世界が終わるわけではない。後鳥羽院の怨霊も、当時としてはしばしば末法思想に結び付けられていたのだろう。王朝時代の崩壊、武家政治の始まりは乱世の始まりであり、その乱世の元凶ともされた後鳥羽院の流刑と非業の死も、仏が隠れ、また甦るまでの悠久の時間の中の小事にすぎないという所に、鎮魂の意味が込められているのだろう。南無阿弥陀仏。

式目分析

季題:「春風」;春。一座二句物で、春風と春の風が一回づつ。「春風」はこれが初めて。その他:「林」は木類。草類と木類は可隔三句物で「小萩原」の句から四句隔たる。

水無瀬三吟、九十七句目

   れしはやし春風はるかぜぞふく
 やまはけさいく霜夜しもよにかかすむらん  宗長そうちゃう


   古註
   此のほどまでは、霜に林もかれて、けさはそとかすみたるなり。


 (やまはけさいく霜夜しもよにかかすむらんれしはやし春風はるかぜぞふく)
 今朝の山はこれまでの幾たびの霜の降りた夜をへて霞んでいるのだろうか。枯れてしまった林にも春風が吹き新たな命が吹き込まれる。


 「いく霜夜に」は「枯れし林」に付く。「けさ山は、いく霜夜に枯れし林もかかすむらん、春風ぞふく」と読めばわかりやすい。これを倒置すれば、「山はけさいく霜夜にかかすむらん、枯れし林も春風ぞふく」となる。春風に春の訪れを詠んだ季節の句で、前句で宗祇が釈教から季節の句に転じたのを受けて、挙句に向かって穏やかに展開させている。

式目分析

季題:「かすむ」;春。霞は聳物。その他:「山」は山類(体)。山類と山類は可隔五句物で、「雁なく山」の句から六句隔たっている。「霜」は降物。降物と降物も可隔五句物だが、「小萩原うつろふ露」からちょうど五句隔たる。「夜」という字があるが、句全体の意味は朝の句なので、夜分にはならない。

水無瀬三吟、九十八句目

   やまはけさいく霜夜しもよにかかすむらん
 けぶりのどかにゆるかりいほ 肖柏せうはく


   古註
   けぶりをかすみにしてなり。


 (やまはけさいく霜夜しもよにかかすむらんけぶりのどかにゆるかりいほ
 今朝の山はこれまでの幾たびの霜の降りた夜をへて霞んでいるのだろうか。仮住まいの粗末な庵からも炊飯の煙が立ち昇り、長閑に見える。


 これも挙句へ向かっても平坦な展開で、庵から立ち上る煙に、あたりの山も長閑に霞んで見える。煙というと、『万葉集』巻一、二の国見の歌に、

 大和には 群山むらやまあれど とりよろふ あめの香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島あきつしま 大和の国は

とあるように、国の平和をあらわす象徴でもある。

式目分析

季題:「のどか」;春。その他:「けぶり」は聳物。聳物は二句まで続けることができる。「庵」は居所(体)。「応安新式」には一座二句物で、「いほ」が一、「いほり」が一とあるが、三の表に「嶺のいほ」の句があり、「いほ」が二句になっている。「新式今案」に「恋しき」「恋しく」「恨み」「恨む」については、「近年不及云替」とあるが、「秋風」や「いほり」もこの時代には言い換えなくなっていたのか。

水無瀬三吟、九十九句目

   けぶりのどかにゆるかりいほ
 いやしきもををさむるはありつべし 宗祇そうぎ


   古註
   長閑を物じゆんたくなる事に取り成し付け給ふ也。


 (いやしきもををさむるはありつべしけぶりのどかにゆるかりいほ
 身分が低くても自分の身をしっかりと治めている人はいくらでもいるはずだ。仮住まいの粗末な庵からも炊飯の煙が立ち昇り、長閑に見える。


 連歌は鎌倉時代に身分の低い地下じげの連歌師によって担われ、たちまち大衆の間に広まり、その勢いは宮廷歌人をも席巻した。宗祇自身も中堅どころの武士の生まれとはいえ、宮廷歌人からすれば「いやしき」者であり、乞食坊主と呼ばれたりもした。身分の差から、たとえ和歌をたしなんだとしても、勅撰集に名を連ねるなんてことは夢の夢で、その嘆きは『筑紫道記つくしみちのき』でも吐露されている。
 しかし、身分が低いとはいっても立派な人はたくさんいるし、「身」のみならず、社会のために役立つこともいくらでもできる。実際、世間の平和とは、一人一人がきちんと身を治め、愛し合い、人を思いやり、身の回りの平和を維持する、その積み重ねで成り立っているもので、政治や軍隊によって作られているのではない。政治が乱れ、戦乱の世になっても、庶民はいつも通りにたとえ粗末な家に住もうとも、何事もなかったかのように平和に朝の炊飯の煙を立てている。

 さて、次はいよいよ挙句。つまりエンディングである。

式目分析

季題:なし。その他:「身」は人倫。

水無瀬三吟、挙句

   いやしきもををさむるはありつべし
 ひとをおしなべみちぞただしき  宗長そうちゃう


   古註
   なべてをさめたるなれば、ことごとくいやしき上まで、身ををさめたると也。


 (いやしきもををさむるはありつべしひとをおしなべみちぞただしき)
 身分は低いといえども、自制心を持った立派な人間はいるものだ。道というものは大体において人を正しい方向に導く。


 百韻の最後の句のことを「挙句」という。「挙句の果て」という言葉はここから来たものだが、さあ、この百韻、読んでみて、「挙句の果てに」というくらい長かっただろうか。
 この百韻は後鳥羽院の霊を祭る水無瀬神社に奉納された。後鳥羽院の二百五十回忌法楽は、この一ヵ月後の二月二十日のことだが、その日に向けて、おそらく一ヶ月前からこの三吟は境内に掲示され、公開されたのだろう。これは想像だが、当代きっての連歌師三人の百韻ということで、噂を聞きつけた人が集まり、そのすばらしさがさらに口コミで広がっていって、やがて後鳥羽院二百五十回忌法楽の日には、大勢の群集が押し寄せ、たくさんの賽銭や寄付金が集まり、その資金は難民救済や復興事業の足しにされたのではなかったか。
 どんなに国が荒れ果て、どんなに悲しいことが多かったといっても、人の心は変わるものではない。悲しいときは泣き、楽しいときには笑い、人間が人間らしさを失わない限り、おしなべて人は正しい道を歩む。争いの種も笑顔で回避し、日々身近な平和を維持し、近隣との良好な関係を築いてゆく。その小さな営みの積み重ねが積もり積もって、最後には世界全体を平和にしてゆく。
 それは生きてゆく上で生存競争は避けられないから、喧嘩もすれば、誰かをいじめたり仲間はずれにしたりということもあるだろう。それでも、街を見れば、いろいろな格好をしたいろいろな人が通り過ぎ、挨拶を交わしたり罵りあったりを繰り返しながら、人は結局同じ道を歩いている。「道」観念的な理想ではない。ただ人が歩けば自然に生じるものだ。難しい主義主張などはいらない。人が生きていく限り、いつでも道はそこにある。それを信じよう。

   大道曲     謝尚
 青陽二三月
 柳青桃復紅
 車馬不相識
 音落黄塵中

 春は青陽二三月
 柳は青く桃もまた赤い
 行き交う馬車は互いに知らず
 音だけが落ちてゆく黄砂の中に

 道(ダオ)と桃(ダオ)とを掛けているのだろう。青は「陰」を表す色。陰と陽、柳と桃、見知らぬ車馬、相反するものが通い合いながら、道は混沌としながらも整然たる秩序を保っている。

 見渡せば柳桜をこきまぜて
    都ぞ春の錦なりける
            素性法師

 これやこの行くも帰るも別れては
    知るも知らぬも逢坂の関
            蝉丸

相反するものを含みながら、おしなべて道は正しい。

式目分析

季題:なし。その他:「人」は人倫。

参考文献

 『連歌俳諧集』日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館
 『連歌集』日本古典文学大系39、伊地知鐡男註、1960、岩波書店
 『連歌集』新潮日本古典集成33、島津忠夫註、1979、新潮社
 『連歌文学の研究』福井久蔵、1948、喜久屋書店
 『連歌論集』(上下)伊地知鉄男編、1956、岩波文庫
 『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館
 『宗祇名作百韻注釈』金子金次郎、1985、桜風社
 『宗祇の生活と作品』金子金治郎、1983、桜風社
 『宗祇と箱根』金子金治郎、1993、神奈川新聞社
 『連歌師宗祇』島津忠夫、1991、岩波書店
 『宗祇』荒木良雄、1941、創元社
 『宗祇』小西甚一、1971、筑摩書房
 『心敬』篠田一士、1987、筑摩書房