「此さきは」の巻、解説

初表

 此さきは何ンであらふぞ夏木立     正興

   あのように只月すずしかれ     惟然

 そこもとの替た事とせり付て      惟然

   ぼんどをろより細工ほつほつ    正興

 温泉は山の中から涌て来る       正興

   雨はらはらかさらさらとまた    惟然

 

初裏

 延すまひとにかくかるふ杖で出ふ    惟然

   火をかきたてむ油へつたの     正興

 とろとろは臼のおとやら何ンじややら  正興

   そもさとりとはかうさだめたり   惟然

 見て通る松よ流よ月よ雲        惟然

   さあ秋風が秋かぜがさあ      惟然

 五器ふけばはやすずむしの思はるる   正興

   我が居る所は福島の先       惟然

 終夜いふた事みなうそでない      惟然

   どうでも是は薪がふすぶる     正興

 花花花散と盛はいつの比        正興

   遊びはじめの若菜なるべし     惟然

       参考;『蕉門俳諧後集 下巻』1928、春秋社

初表

発句

 

 此さきは何ンであらふぞ夏木立   正興

 

 正興(まさおき)は備中井原村の人で、名字は柳本。井原というと昔は笠岡との間に軽便鉄道が走っていた、というのは筆者が中学高校の頃「テツ」だった時の知識。今ではそれとまったく関係ない井原鉄道というのがあるらしい。

 惟然が元禄十五年に播州へ行き、千山や良々との交流も深めてゆく。この時備中や美作へも足を伸ばし、正興との交流も深めてゆく。

 発句の意味は、旅の途中の惟然のことを思い、この夏木立の向こうには何が待っているのか、と問いかけたものだ。

 

季語は「夏木立」で夏、植物、木類。

 

 

   此さきは何ンであらふぞ夏木立

 あのように只月すずしかれ     惟然

 (此さきは何ンであらふぞ夏木立あのように只月すずしかれ)

 

 要するに、夏の夜の月の涼しさに誘われただけで何があるわけでもない。正興の歓迎の気持ちに対し、目的はもっと先にあるとは言えない。この先特に何があるわけでもない、今が一番大事だ、というわけだ。

 

季語は「すずし」で夏。「月」は夜分、天象。

 

第三

 

   あのように只月すずしかれ

 そこもとの替た事とせり付て    惟然

 (そこもとの替た事とせり付てあのように只月すずしかれ)

 

 まさにその場所の変わった事と食いついてみれば、何のことはない、只月が涼しかっただけだと、どこの何が変わっていたのかわからない何となくあいまいな内容だが、会話の中ではいかにもありそうというのが惟然風の持ち味なのだろう。

 

無季。

 

四句目

 

   そこもとの替た事とせり付て

 ぼんどをろ(盆燈籠)より細工ほつほつ 正興

 (そこもとの替た事とせり付てぼんどをろより細工ほつほつ)

 

 「ほつほつ」は「ぼちぼち」か。

 変わった事といえば、盆燈籠に少しづつ細工を凝らしてゆくことか。

 

無季。

 

五句目

 

   ぼんどをろより細工ほつほつ

 温泉は山の中から涌て来る       正興

 (温泉は山の中から涌て来るぼんどをろより細工ほつほつ)

 

 地獄の釜の蓋が開くイメージを山の中の温泉のイメージにしたか。特に付け筋というようなものもない。近代連句の連想ゲーム(シュール付け)に近い。

 

無季。「山」は山類。

 

六句目

 

   温泉は山の中から涌て来る

 雨はらはらかさらさらとまた      惟然

 (温泉は山の中から涌て来る雨はらはらかさらさらとまた)

 

 これも温泉の湿気と雨の湿気という程度の繋がりか。

 

無季。「雨」は降物。

初裏

七句目

 

   雨はらはらかさらさらとまた

 延すまひとにかくかるふ杖で出ふ    惟然

 (延すまひとにかくかるふ杖で出ふ雨はらはらかさらさらとまた)

 

 雨が降ったからといって旅の日程を延ばすことはない。ただ軽い気持ちで杖を突いて出てゆく。

 

無季。旅体。

 

八句目

 

   延すまひとにかくかるふ杖で出ふ

 火をかきたてむ油へつたの       正興

 (延すまひとにかくかるふ杖で出ふ火をかきたてむ油へつたの)

 

 油が減ったが油うりもこないので、杖をついてどこかに借りに行こうということか。

 

無季。

 

九句目

 

   火をかきたてむ油へつたの

 とろとろは臼のおとやら何ンじややら  正興

 (とろとろは臼のおとやら何ンじややら火をかきたてむ油へつたの)

 

 火から「とろとろ」と展開するが、火の様子ではなく臼を挽く音か何か、何だかわからないものにする。何だかわからないものを出せばどうにでも取れるから、確かに展開はしやすい。

 

無季。

 

十句目

 

   とろとろは臼のおとやら何ンじややら

 そもさとりとはかうさだめたり     惟然

 (とろとろは臼のおとやら何ンじややらそもさとりとはかうさだめたり)

 

 これは禅問答というのか。稲妻の光や火打石の火花に悟りを開くなら、何だかわからない臼を挽くような音に悟りを開いてもいいじゃないかというところか。

 

無季。釈教。

 

十一句目

 

   そもさとりとはかうさだめたり

 見て通る松よ流よ月よ雲        惟然

 (見て通る松よ流よ月よ雲そもさとりとはかうさだめたり)

 

 急にまともな句になる。「見て通る松に雲の流れる月よ」の「よ」を係助詞的な倒置で前に持ってくるのだが、三箇所にそれを持ってくる。喩えていえば、「古池に蛙飛び込む水の音や」を「古池や蛙や飛び込むや水の音」とするようなもの。

 頓悟はどんなものからも突然訪れるもので、臼の音でもいいし松に月の雲でもいい。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「松」は植物、木類。「雲」は聳物。

 

十二句目

 

   見て通る松よ流よ月よ雲

 さあ秋風が秋かぜがさあ        正興

 (見て通る松よ流よ月よ雲さあ秋風が秋かぜがさあ)

 

 この種の同語反復は惟然流の常套手段で、内容的には月が雲に隠れるのを秋風のせいにするわけだが、秋風秋風と繰り返すことで他のものを省略できる。内容が少なければそれだけ次の句の展開はしやすい。それが惟然流の超軽みの良い所でもある。ようするに悩まない俳諧というところか。

 悩みすぎて速度が遅くなった蕉風確立期の芭蕉の俳諧への反省から生まれた軽みだから、悩まずに付けられるという方向に極端に進めば、一句の内容をできる限り少なくして曖昧にするというのが答だったのだろう。

 最小で、場面の限定されない内容であれば、その展開はそこからの連想ということになる。

 

季語は「秋風」で秋。

 

十三句目

 

   さあ秋風が秋かぜがさあ

 五器ふけばはやすずむしの思はるる   正興

 (五器ふけばはやすずむしの思はるるさあ秋風が秋かぜがさあ)

 

 「秋風」に「吹く」は縁語だけど、「五器ふく」だと「拭く」の方か。五器を拭いていると鈴虫のことが浮かんでくるのはなぜかというと、「ふく」といえば秋風だからだ、と落ちになる。

 あるいは五器に五器被(ごきかぶり)の連想も働いていたか。ゴキブリと鈴虫、似てないけど。

 

季語は「すずむし」で秋、虫類。

 

十四句目

 

   五器ふけばはやすずむしの思はるる

 我が居る所は福島の先         惟然

 (五器ふけばはやすずむしの思はるる我が居る所は福島の先)

 

 福島という地名が唐突だが、「拭く」からの縁か。今だったら仙台市の虫は鈴虫(昭和47年制定)だが、宮城野の鈴虫が当時有名だったかどうかはわからない。

 

無季。

 

十五句目

 

   我が居る所は福島の先

 終夜(よもすがら)いふた事みなうそでない 惟然

 (終夜いふた事みなうそでない我が居る所は福島の先)

 

 大阪の淀川河口に西成郡福島村があったが、備中での夜を徹しての俳諧で「我が居る所は福島の先」というのは、大阪の先という点では嘘ではない。

 

無季。「終夜」は夜分。

 

十六句目

 

   終夜いふた事みなうそでない

 どうでも是は薪がふすぶる       正興

 (終夜いふた事みなうそでないどうでも是は薪がふすぶる)

 

 「どうでも」は「それにつけても」と同様、話題を転換する時の言葉で、これを使えばどんな句でもつく万能の付け句が作れる。夜もすがら語り明かしたことが本当か嘘かはともかく、薪はくすぶっている。

 「終夜いふ」を「語る」と同様に取れば、恋の句ともいえないこともない。

 

無季。

 

十七句目

 

   どうでも是は薪がふすぶる

 花花花散と盛はいつの比        正興

 (花花花散と盛はいつの比どうでも是は薪がふすぶる)

 

 「いつの比(ころ)」に「どうでも」と付く。花の定座。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   花花花散と盛はいつの比

 遊びはじめの若菜なるべし       惟然

 (花花花散と盛はいつの比遊びはじめの若菜なるべし)

 

 「いつの比」を「いつのことやら」というまだまだ先という意味にして、正月の若菜摘みにもってゆき、この半歌仙は終了する。

 

季語は「若菜」で春、植物、草類。