「初茸や」の巻、解説

初表

 初茸やまだ日数経ぬ秋の露    芭蕉

   青き薄ににごる谷川     岱水

 野分より居むらの替地定りて   史邦

   さし込月に藍瓶のふた    半落

 塩付て餅くふ程の草枕      嵐蘭

   なでてこはばる革の引はだ  芭蕉

 

初裏

 年寄は土持ゆるす夕間暮     岱水

   諏訪の落湯に洗ふ馬の背   史邦

 弁当の菜を只置く石の上     半落

   やさしき色に咲るなでしこ  嵐蘭

 四ツ折の蒲団に君が丸く寐て   芭蕉

   物書く内につらき足音    岱水

 月暮て雨の降やむ星明り     史邦

   早稲の俵にほめくかり大豆  嵐蘭

 胸虫に又起らるる秋の風     岱水

   ふごに赤子をゆする小坊主  史邦

 花守の家と見えたる土手の下   半落

   細き井溝をのぼる若鮎    芭蕉

 

 

二表

 春風に太皷きこゆる旅芝居    嵐蘭

   のみ口ならす伊丹もろはく  岱水

 琉球に野郎畳の表がへ      芭蕉

   是非此際は上ンものやく   史邦

 見知られて近付成し木曽の馬士  半落

   嫁入するよりはや鳴子引   芭蕉

 袖ぬらす染帷子の盆過て     嵐蘭

   月も侘しき醤油の粕     岱水

 草赤き百石取の門がまへ     半落

   公事に屓たる奈良の坊方   芭蕉

 傘をひろげもあへず俄雨     史邦

   見る目もあつし牛の日覆   嵐蘭

 

二裏

 出店へと又も隠居の出られて   半落

   干物つきやる精進の朝    岱水

 手拭のまぎれて夫を云つのり   芭蕉

   駄荷をかき込板敷の上    嵐蘭

 人つづく毛利細川の花盛り    史邦

   聲も賢なり雉子の勢い    半落

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 初茸やまだ日数経ぬ秋の露    芭蕉

 

 初茸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「初茸」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「はったけ」「はつだけ」とも) 担子菌類ベニタケ科のキノコ。日本特産で、夏から秋にかけ、アカマツ林内地上に発生する。全体は淡赤褐色、傷つけると青藍色に変わるため、普通は所々がしみになっていることが多い。傘は径三~一五センチメートルで濃色の環状紋があり、初め扁平、のち縁はやや下に巻くが中央がくぼみ、漏斗状になる。柄は中空で、太いがもろい。広く食用とされる。和名は、秋の早い時期に採れるところからという。あいたけ。あおはち。あおはつ。《季・秋》 〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※俳諧・芭蕉庵小文庫(1696)秋「初茸やまだ日数へぬ秋の露〈芭蕉〉」

 

とある。秋の露が降りる頃になると、ほどなく初茸の季節になる。

 

季語は「秋の露」で秋、降物。

 

 

   初茸やまだ日数経ぬ秋の露

 青き薄ににごる谷川       岱水

 (初茸やまだ日数経ぬ秋の露青き薄ににごる谷川)

 

 初茸の頃はまだ薄も青く、谷川は秋の雨で濁っている。

 岱水は『炭俵』の時代の江戸を代表する一人とも言えよう。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。「谷川」は水辺。

 

第三

 

   青き薄ににごる谷川

 野分より居むらの替地定りて   史邦

 (野分より居むらの替地定りて青き薄ににごる谷川)

 

 「居むら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居村」の解説」に、

 

 「① (飛び離れた所にある村の土地を出村(でむら)というのに対して) 本村所在の地のこと。

  ② もともと自分の住んでいる村。

  ※地方凡例録(1794)四「小作と云は自分所持の田畠を、居村他村たりとも他の百姓へ預け為レ作」」

 

とある。「替地(かへち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「替地」の解説」に、

 

 「〘名〙 土地の交換、あるいはその土地。また領主が収用した土地、または領主に返還された土地の代地をいう。代替地。

  ※内閣文庫本建武以来追加‐応永二九年(1422)七月二六日「充二給替地一事」

  ※仮名草子・むさしあぶみ(1661)下「引料として家壱家(け)に付、金子七十料宛(づつ)給替地(カヘチ)にそへて下されけり」

 

とある。

 台風の水害で大きな被害の出た村が、河川改修によって移動を強いられることになったのだろう。前句の「にごる谷川」を台風の余波とする。

 

季語は「野分」で秋。「居むら」は居所。

 

四句目

 

   野分より居むらの替地定りて

 さし込月に藍瓶のふた      半落

 (野分より居むらの替地定りてさし込月に藍瓶のふた)

 

 半落はよくわからないが元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。

 前句を藍染の村とする。

 藍瓶はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「藍瓶」の解説」に、

 

 「〘名〙 藍染めの藍汁を蓄え、藍染め作業をするかめ。紺屋(こうや)で用いる。あいつぼ。

  ※財政経済史料‐二・経済・工業・衣服・寛文八年(1668)一二月二六日「藍瓶壱つに付壱斗づつ雖下令二収納一来上」

 

とある。元禄三年春の「種芋や」の巻十六句目に、

 

   月暮て石屋根まくる風の音

 こぼれて青き藍瓶の露      土芳

 

の句もある。また、元禄五年冬の「洗足に」の巻二十三句目には、

 

   又まねかるる四国ゆかしき

 朝露に濡わたりたる藍の花    嵐蘭

 

の句もある。

 初夏に刈り取った蓼藍を瓶に入れて発酵させ、名月の頃には藍染液が出来上がる。発酵の際に水面にできる藍色の泡を「藍の花」という。

 差し込む月に本来なら藍の花が美しくきらめくものを、替地への引っ越しのため蓋がされてしまっている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

五句目

 

   さし込月に藍瓶のふた

 塩付て餅くふ程の草枕      嵐蘭

 (塩付て餅くふ程の草枕さし込月に藍瓶のふた)

 

 嵐蘭も元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。

芭蕉はこの巻と芭蕉・史邦・岱水の三吟歌仙「帷子は」の巻を巻いた後「閉関之説」を書いてしばらく休養に入り、八月には嵐蘭は鎌倉に月見に行き、そのまま帰らぬ人になった。この「初茸や」の巻は嵐蘭と芭蕉が同座する最後の興行となった。芭蕉は「嵐蘭ノ誄」を記し許六編の『風俗文選』に収められている。

 前句を旅の景色として、藍染の家に泊まり、餅に塩をふっただけの質素な食事をとる。

 「洗足に」の巻の句といい、嵐蘭は阿波に行ったことがあったのだろうか。

 

無季。旅体。

 

六句目

 

   塩付て餅くふ程の草枕

 なでてこはばる革の引はだ    芭蕉

 (塩付て餅くふ程の草枕なでてこはばる革の引はだ)

 

 「引はだ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蟇肌・引膚」の解説」に、

 

 「① 「ひきはだがわ(蟇肌革)」の略。

  ※文明本節用集(室町中)「皺皮 ヒキハダ」

  ② 調度・武具などの、蟇肌革を使って作ったもの。

  ※俳諧・桃青門弟独吟廿歌仙(1680)巖泉独吟「沖みればとろめんくもる夕月夜 雨ひきはたの露をうるほす」

 

 前句の旅人を牢人としたか。

 

無季。

初裏

七句目

 

   なでてこはばる革の引はだ

 年寄は土持ゆるす夕間暮     岱水

 (年寄は土持ゆるす夕間暮なでてこはばる革の引はだ)

 

 「土持(つちもち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土持」の解説」に、

 

 「〘名〙 土木工事、建築などの際に、畚(もっこ)などで土を運ぶこと。また、その人。

※雲形本狂言・節分(室町末‐近世初)「津の国の中島に、中津川原をせきかねて、土持(ツチモチ)が持ちかねて、しいもちもせで」

 

とある。

 武家などは土木作業に駆り出されたりもする。年寄りはさすがに免除されたのだろう。

 この時代よりは後になるが宝暦の頃に木曽三川の改修工事に薩摩藩の武士が動員された。

 

無季。「年寄」は人倫。

 

八句目

 

   年寄は土持ゆるす夕間暮

 諏訪の落湯に洗ふ馬の背     史邦

 (年寄は土持ゆるす夕間暮諏訪の落湯に洗ふ馬の背)

 

 「諏訪の落湯」は上諏訪温泉のことか。ウィキペディアに、

 

 「建御名方神と喧嘩をした八坂刀売神が諏訪下社に移った時、化粧用の湯玉(湯を含ませた綿)を持ち運んだが、移動途中に湯がこぼれ、雫が落ちたところに湯が湧いた。これが上諏訪温泉の始まりというのである。やがて下社に着いた八坂刀売神が湯玉を置いたところ、地面から温泉が湧き出した。このことから下諏訪温泉は「綿の湯」とも呼ばれる。」

 

とある。

 土木工事で馬を使って土を運んでいたのだろう。年寄りは早い時間に解放されて、温泉で馬の背を流す。

 

無季。「諏訪」は名所。「馬」は獣類。

 

九句目

 

   諏訪の落湯に洗ふ馬の背

 弁当の菜を只置く石の上     半落

 (弁当の菜を只置く石の上諏訪の落湯に洗ふ馬の背)

 

 甲州街道の馬子の昼食風景だろう。天和三年の「夏馬の遅行」の巻の脇に、

 

   夏馬の遅行我を絵に見る心かな

 変手ぬるる瀧凋む瀧       麋塒

 

の句があるが、これも宿場で馬を替えた時に瀧で馬を洗う風景だと思われる。

 

無季。

 

十句目

 

   弁当の菜を只置く石の上

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭

 (弁当の菜を只置く石の上やさしき色に咲るなでしこ)

 

 弁当の菜を置いた石の脇には撫子の花が咲いている。

 

季語は「なでしこ」で夏、植物、草類。

 

十一句目

 

   やさしき色に咲るなでしこ

 四ツ折の蒲団に君が丸く寐て   芭蕉

 (四ツ折の蒲団に君が丸く寐てやさしき色に咲るなでしこ)

 

 撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。

 「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。

 

無季。「君」は人倫。

 

十二句目

 

   四ツ折の蒲団に君が丸く寐て

 物書く内につらき足音      岱水

 (四ツ折の蒲団に君が丸く寐て物書く内につらき足音)

 

 母親であろう。つらい恋の思いを手紙に書いていると、その憎き男の足音がする。

 

無季。恋。

 

十三句目

 

   物書く内につらき足音

 月暮て雨の降やむ星明り     史邦

 (月暮て雨の降やむ星明り物書く内につらき足音)

 

 夕暮れに三日月が出ていて、それから一雨通り過ぎると星明りになる。今日は来ないと思っていた男の足音がするが、招かざる客のようだ。

 

季語は「月暮て」で秋、夜分、天象。「雨」は降物。「星明り」は天象。

 

十四句目

 

   月暮て雨の降やむ星明り

 早稲の俵にほめくかり大豆    嵐蘭

 (月暮て雨の降やむ星明り早稲の俵にほめくかり大豆)

 

 大豆はここでは「まめ」と読む。大豆のこと。

 仲秋の月の頃ということで、早稲の収穫は終り俵に収まり、大豆はそろそろ実り始める。「ほめく」はこの場合熱を持つことではなく「穂めく」であろう。

 

季語は「早稲」で秋。

 

十五句目

 

   早稲の俵にほめくかり大豆

 胸虫に又起らるる秋の風     岱水

 (胸虫に又起らるる秋の風早稲の俵にほめくかり大豆)

 

 「胸虫(むねむし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胸虫」の解説」に、

 

 「① 腹の虫。怒りの虫。

  ※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一二(1762)桜二「むね虫がにわかにむっと仕り」

  ② 胃痙攣(いけいれん)のことか。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

 

とある。ただ、胸というからには、腹ではなく心臓などの循環器系の異常ではないかと思う。

 

季語は「秋の風」で秋。

 

十六句目

 

   胸虫に又起らるる秋の風

 ふごに赤子をゆする小坊主    史邦

 (胸虫に又起らるる秋の風ふごに赤子をゆする小坊主)

 

 ふごはもっこのこと。赤ん坊を乗せるにはハンモックのようで良さそうだ。

 赤ん坊に胸虫がいるのか、夜鳴きがひどく、毎晩起こされてはあやすのが小坊主の役目になっている。

 

無季。「赤子」「小坊主」は人倫。

 

十七句目

 

   ふごに赤子をゆする小坊主

 花守の家と見えたる土手の下   半落

 (花守の家と見えたる土手の下ふごに赤子をゆする小坊主)

 

 花守は坊主がやることも多かったのだろう。花守の家には赤子を揺する小坊主の姿が見える。

 

季語は「花守」で春、植物、木類、人倫。「家」は居所。

 

十八句目

 

   花守の家と見えたる土手の下

 細き井溝をのぼる若鮎      芭蕉

 (花守の家と見えたる土手の下細き井溝をのぼる若鮎)

 

 井溝(ゐみぞ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「井溝」の解説」に、

 

 「〘名〙 田や畑に水を注いでいる溝。〔色葉字類抄(1177‐81)〕」

 

とある。花守の家の辺りの情景を付ける。

 

季語は「若鮎」で春。「井溝」は水辺。

二表

十九句目

 

   細き井溝をのぼる若鮎

 春風に太皷きこゆる旅芝居    嵐蘭

 (春風に太皷きこゆる旅芝居細き井溝をのぼる若鮎)

 

 田舎に突如芝居小屋が立つこともよくあることだったのだろう。六十年代の漫画にもそういうのがあったように思う。

 元禄二年伊賀での「霜に今」の巻三十三句目にも、

 

   幕をしぼれば皆はしをとる

 鶏のうたふも花の昼なれや    式之

 

の句がある。元禄四年の「うるはしき」の巻十二句目にも、

 

   田の中にいくつも鶴の打ならび

 芝居の札の米あつめけり     游刀

 

の句がある。田舎渡らいの旅芸人の芝居は、長いこと庶民の娯楽だったのだろう。

 

季語は「春風」で春。

 

二十句目

 

   春風に太皷きこゆる旅芝居

 のみ口ならす伊丹もろはく    岱水

 (春風に太皷きこゆる旅芝居のみ口ならす伊丹もろはく)

 

 もろはくは諸白でウィキペディアに、

 

 「諸白(もろはく) とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。

 または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。」

 

とあり、

 

 「その起源は、平安時代に奈良の大寺院で製造されていた僧坊酒で、その造り方の流れを継ぐ奈良の酒屋の「南都諸白(なんともろはく)」は、まるで今日の純米大吟醸酒のように、もっとも高級な清酒の呼び名として長らく名声をほしいままにした。

 やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。」

 

とある。南都諸白の製法の伊丹に伝わったものを伊丹諸白という。

 前句の旅芝居の一座が都にやってくると、伊丹諸白の旨さのとりこになってしまう。

 

無季。

 

二十一句目

 

   のみ口ならす伊丹もろはく

 琉球に野郎畳の表がへ      芭蕉

 (琉球に野郎畳の表がへのみ口ならす伊丹もろはく)

 

 野郎畳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野郎畳」の解説」に、

 

 「〘名〙 縁(へり)をつけない畳。坊主縁(ぼうずべり)の畳。坊主畳。野郎縁。

  ※俳諧・陸奥鵆(1697)一「拾ふた銭にたをさるる酒〈素狄〉 真黒な冶郎畳の四畳半〈桃隣〉」

 

とある。琉球畳も同様に縁のない畳をいう。

 あるいは同じ畳を関東では野郎畳、関西では琉球畳と言ったか。

 関西に来て伊丹諸白を飲み慣れたから、部屋の野郎畳も琉球畳に畳替えした、って一緒やんけーーーっ。

 

無季。

 

二十二句目

 

   琉球に野郎畳の表がへ

 是非此際は上ンものやく     史邦

 (琉球に野郎畳の表がへ是非此際は上ンものやく)

 

 「上ンものやく」がよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「献上物をする役の意か」としている。

 「揚げン物焼く」かもしれない。前句が同じものでありながら関西では琉球畳、関東では野郎畳というネタだったから、同じ天ぷらでも関西では魚のすり身を素揚げし、関東では魚をそのまま小麦粉の衣を付けて揚げるという違いに展開したのかもしれない。関西式の天ぷらは今日では九州のつけ揚げ(さつま揚げ)や飫肥天と呼ばれるものとして残っている。

 

無季。

 

二十三句目

 

   是非此際は上ンものやく

 見知られて近付成し木曽の馬士  半落

 (見知られて近付成し木曽の馬士是非此際は上ンものやく)

 

 馬士は「まご」、馬子のこと。

 ここでは「上ンものやく」は献上する役ということで、木曽の駒牽(こまひき)のことであろう。

 『去来抄』「先師評」に、

 

 駒ひきの木曾やいづらん三日の月 去来

 

の句があり、八月十六日に朝廷に献上される馬が八月の三日頃出発したという句だが、ただ計算が合うというだけの句で芭蕉に酷評された。

 半落の句は木曽の馬子と知り合いになって、献上する役をやらされてしまった、という句になる。

 

無季。「木曾」は名所、山類。「馬子」は人倫。

 

二十四句目

 

   見知られて近付成し木曽の馬士

 嫁入するよりはや鳴子引     芭蕉

 (見知られて近付成し木曽の馬士嫁入するよりはや鳴子引)

 

 「鳴子引(なるこひき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳴子引」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「なるこびき」とも) 鳴子の綱を遠くから引いて鳴らし、田畑の害鳥を驚かし追うこと。また、その綱を引く人。《季・秋》

  ※仮名草子・尤双紙(1632)下「ひく物のしなじな〈略〉くびびき、つなびき、なるこ引(ビキ)」

 

とある。

 木曽の馬子の所に嫁に行ったら、最初にやらされた仕事が鳴子引きだった。

 

季語は「鳴子引」で秋。恋。

 

二十五句目

 

   嫁入するよりはや鳴子引

 袖ぬらす染帷子の盆過て     嵐蘭

 (袖ぬらす染帷子の盆過て嫁入するよりはや鳴子引)

 

 染帷子(そめかたびら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「染帷子」の解説」に、

 

 「〘名〙 色や模様を染めた一重(ひとえ)の衣服。染めた帷子。《季・夏》

  ※舜旧記‐元和五年(1619)七月一日「長老へ曝帷一つ、森久右衛門染帷一つ遣也」

 

とある。

 綺麗に染め上げられた帷子はいい所の育ちだったのだろう。急に親に先立たれ、嫁いだ先は貧乏な家で鳴子引きをさせられる。

 

季語は「盆」で秋。「染帷子」は衣裳。

 

二十六句目

 

   袖ぬらす染帷子の盆過て

 月も侘しき醤油の粕       岱水

 (袖ぬらす染帷子の盆過て月も侘しき醤油の粕)

 

 醤油は「しゃういう」と伸ばして字数を合わせる。醤油は中京から関西を中心に広まり、この頃は江戸でも用いられるようになっていたのだろう。ただ、醤油は高くてその絞り粕を食べるあたりが侘しい。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十七句目

 

   月も侘しき醤油の粕

 草赤き百石取の門がまへ     半落

 (草赤き百石取の門がまへ月も侘しき醤油の粕)

 

 百石取は武士としてはそれほど裕福とは言えない。一石が一人の一年食える米の量だとはいえ、百石だから百人食えるわけではない。年貢を取られて実質は四十石で、その米を売って現金に換え、米以外の支出に当てなくてはならない。

 そういうわけで、見栄張って立派な門を立ててはいても、生い茂る雑草が秋には赤くなり、醤油の粕をすすって生活している。

 

無季。「草赤き」は植物、草類。「百石取」は人倫。「門がまへ」は居所。

 

二十八句目

 

   草赤き百石取の門がまへ

 公事に屓たる奈良の坊方     芭蕉

 (草赤き百石取の門がまへ公事に屓たる奈良の坊方)

 

 屓は「まけ」と読む。お寺と神社は本地垂迹で共存していても、その境界はしばしば裁判沙汰になる。公事は訴訟のことで、負けて寺領を失った坊は門にも雑草が生い茂っている。

 

無季。釈教。「奈良」は名所。

 

二十九句目

 

   公事に屓たる奈良の坊方

 傘をひろげもあへず俄雨     史邦

 (傘をひろげもあへず俄雨公事に屓たる奈良の坊方)

 

 俄雨なのですぐ止むということで、傘を差さずに坊方に雨宿りする。その坊方も公事に負けてみすぼらしい。互いに相哀れみ、

 

 世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇

 

の心になる。

 

無季。「俄雨」は降物。

 

三十句目

 

   傘をひろげもあへず俄雨

 見る目もあつし牛の日覆     嵐蘭

 (傘をひろげもあへず俄雨見る目もあつし牛の日覆)

 

 前句の俄雨を夕立のようなものとして、夏に転じる。牛舎に日除けがしてあっても見るからに暑そうだ。

 

季語は「あつし」で夏。「牛」は獣類。

二裏

三十一句目

 

   見る目もあつし牛の日覆

 出店へと又も隠居の出られて   半落

 (出店へと又も隠居の出られて見る目もあつし牛の日覆)

 

 出店はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出店」の解説」に、

 

 「① 本店から分かれて、他所に出した店。支店。分店。でだな。

  ※俳諧・天満千句(1676)三「京江戸の外にて鹿の鳴はなけ〈未学〉 出見世本宅萩の下道〈宗恭〉」

  ② 路傍などに臨時に小屋掛けをした店。露店。

  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「光る灯心三筋四つ辻 小まものや出見せのめがねめさるべし〈重安〉」

  ③ 比喩的に、大もとのものから分かれ出たもの。本流に対する支流、幹に対する枝の類など。

  ※雑嚢(1914)〈桜井忠温〉二六「露軍の銃剣の尖(さき)は〈略〉。露西亜(ロシア)の出店(デミセ)━セルビアへ向いてゐる」

 

とある。この場合は①の方か。隠居したはずなのに、ついつい家業の商売に口を出したくなる。牛の日覆も暑苦しいが、御隠居がやってきて商売の事あれこれ指図されるのはもっと暑苦しい。

 

無季。「隠居」は人倫。

 

三十二句目

 

   出店へと又も隠居の出られて

 干物つきやる精進の朝      岱水

 (出店へと又も隠居の出られて干物つきやる精進の朝)

 

 精進の朝は精進日の朝で、先祖や身内の命日であろう。この日は肉食を忌む。

 出店の方でも精進日をちゃんと忘れず守っているかどうか気になるのだろう。

 

無季。釈教。

 

三十三句目

 

   干物つきやる精進の朝

 手拭のまぎれて夫を云つのり   芭蕉

 (手拭のまぎれて夫を云つのり干物つきやる精進の朝)

 

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年刊)を引いている。

 

 「前句つねの所なれど、後句おのれが精進をもしらず、干物つけたるはその宿にはあらず、旅籠屋(ハタゴヤ)などの朝と見てつけたる也。さては手拭もゆふべの風呂よりまぎれたるをいひつのるさまに、若者どもの旅連なるべし」

 

 夕べの風呂場で手拭を誰かが自分のと間違えて持って行ってしまったのだろう。そのことを宿に文句を言って、「そんなことうちには責任ありませんよ」とか言われると、「それに精進日だというのに干物を出しやがって」といちゃもんつける。店の方としては「知るかよ」だろう。

 若者かどうかは知らないが、こういうクレーマーはいつの世にもいたのだろう。

 

無季。

 

三十四句目

 

   手拭のまぎれて夫を云つのり

 駄荷をかき込板敷の上      嵐蘭

 (手拭のまぎれて夫を云つのり駄荷をかき込板敷の上)

 

 駄荷(だに)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「駄荷」の解説」に、

 

 「① 馬につけて送る荷物。

  ※浄瑠璃・十二段(1698頃)二「今宵の中だに共数多拵へて」

  ※俳諧・七柏集(1781)雪中庵興行「紅毛(おらんだ)わたる駄荷の朝駒〈風宜〉 捨物の鎗(やり)かけてある横かすみ〈古音〉」

  ② (①の誤用から) 肩に担ぐ荷物。

  ※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)八「二裹(ふたつつみ)の担荷(ダニ)を見かへりて」

 

 手拭が見つからないが、その荷物の中に紛れているんではないかと、荷物の中身をひっくり返して調べさせる。迷惑なことだ。

 

無季。

 

三十五句目

 

   駄荷をかき込板敷の上

 人つづく毛利細川の花盛り    史邦

 (人つづく毛利細川の花盛り駄荷をかき込板敷の上)

 

 毛利氏はウィキペディアによると、

 

 「秀吉の死後は天下奪取を図る徳川家康に対抗して石田三成と接近し、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に就くも吉川広家が東軍と内通した際に毛利氏は担ぎ上げられただけとの弁明により所領安堵の約定を得た。

 ところが、敗戦後に大坂城で押収された連判状に輝元の名があったことから家康は約束を反故にしたため、輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲り、安芸国ほか山陽・山陰の112万石から周防国・長門国(長州藩)の2か国29万8千石に減封された。 このようにして毛利氏は、萩に新たな居城を造るとともに領内の再検地に着手し始め、慶長18年(1613年)に幕閣と協議したうえで36万9千石に高直しを行ない、この石高が長州藩の表高(支藩分与の際も変わらず)として公認された。」

 

とあるように、敗軍でありながらも江戸時代に生き永らえた。

 細川氏もウィキペディアに、

 

 「藤孝の長男・忠興(三斎)は、雑賀攻めで初陣し、信長の武将として実父とともに活躍。本能寺の変では妻・ガラシャの父である明智光秀に与しなかった。その後丹後北部の一色満信を滅ぼし、羽柴(豊臣)秀吉から丹後一国12万石の領有を認められ、羽柴姓を与えられた。藤孝(幽斎)は歌道の古今伝授の継承者、忠興は茶道の千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。

 慶長5年(1600年)、忠興は徳川家康の会津征伐に従軍、その間に大坂で石田三成が家康打倒の兵を挙げるとガラシャは人質になることを拒んで自害した。幽斎と三男の幸隆は丹後田辺城で西軍15,000の軍勢を相手に2か月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いにおいて東軍の部将として活躍した。戦後、忠興は功により豊前小倉藩39万9千石(豊後杵築6万石を含む)を得るとともに、姓を羽柴から細川に戻した。」

 

とあり、やはり命脈を保っている。

 今は毛利氏も細川氏も立派な屋敷の広い縁に駄荷を広げて花見をしている。天下泰平でお目出度い。

 

季語は「花盛り」で春、植物、木類。「人」は人倫。

 

挙句

 

   人つづく毛利細川の花盛り

 聲も賢なり雉子の勢い      半落

 (人つづく毛利細川の花盛り聲も賢なり雉子の勢い)

 

 キジのケンと鳴く声も「賢」と言っているかのようだ。賢い殿様がいて、長いこと徳川の平和が保たれている。その毛利氏のお膝元から討幕の炎が上がり、細川氏が戊辰戦争で薩長側に着いたのはまた別のお話になる。

 

季語は「雉子」は春、鳥類。