「木の本に」の巻②、解説

元禄三年三月廿七日 伊賀上野風瀑亭にて

初表

 木の本に汁も膾もさくらかな      芭蕉

   明日来る人はくやしがる春     風麦

 蝶蜂を愛するほどのなさけにて     良品

   水のにほひをわづらひにける    土芳

 くさまくらこのごろになき月のはれ   雷洞

   猿のなみだかおつる椎の実     芭蕉

 

初裏

 石だんの継目も見えずこけのつゆ    風麦

   顔よごれたる賤の子ども等     良品

 ほうぐわんの烏帽子ほしやとおもふらん 土芳

   木幡あたりのゆきのゆふぐれ    風麦

 売庵を見せんと人のみちびびきて    芭蕉

   井戸のはたなるいぶききるなり   雷洞

 すずしさのはだかになりて月をまつ   良品

   むしろをたてにはしり飛びする   芭蕉

 寝てゐたかおかしく犬の尾をすべて   風麦

   神事見たつる脇母子が太刀     土芳

 まんぢうの紅つけちらす花ざかり    半残

   日ながき空に二日酔ざけ      三園

 

 

二表

 かげろふのみぎりに榻をひきづられ   芭蕉

   すげなくせいのたかきさげ髪    良品

 しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもと     雷洞

   ひとへのきぬに蚤うつりけり    三園

 賤の屋もかひこしまへば広くなり    良品

   またあたらしき麦うたをきく    風麦

 御仏につかゆる日よりまづしくて    土芳

   源氏をうつす手はさがりつつ    半残

 ひちりきの音をふきいれるよもすがら  風麦

   燕子楼のうち火の気たえたり    芭蕉

 ゆふ月を扇に絵がくあきの風      三園

   露こひしがる人はみのむし     土芳

 

二裏

 しらぎくの花の弟と名をつけて     半残

   能見にゆかん日よりよければ    雷洞

 乗いるる二歳の駒をなでさすり     三園

   躙書さへならぬ老の身       良品

 降かかる花になみだもこぼれずや    風麦

   雉やかましく家居しにけり     土芳

     参考;『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)

初表

発句

 

 木の本に汁も膾もさくらかな      芭蕉

 

 発句は二重の意味があり、一方では比喩としてメインディッシュではない汁や膾も桜の木の下では花見のご馳走であるように、金持ちも貧乏人も武士も町人も花の下では見た身分わけ隔てなく平等になる、という理想が込められている。

 これはいわば「花見」の本意本情でもあり、芭蕉の花見の句ではほぼ一貫したテーマだといっていい。

 貞門時代の、

 

 京は九万九千くんじゅの花見哉  宗房

 

から、天和の頃の、

 

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

 

そして、年次不明の、

 

 景清も花見の座には七兵衛    芭蕉

 

の句にしても、テーマは一貫している。花見の座の無礼講に、身分の差を越えた花の下でみんなの心が一つになる、そんな公界の理想を表している。

 その一方でそのまんまの意味としては、花の下では散った桜の花が汁にも膾にも落ちてきてみんな桜混じりになってしまう、という花見あるあるの句になる。虚実で言えば、身分の差なく一切合財が桜だというのが「実」になり、汁や膾に桜の花びらが散っている情景が「虚」になる。

 土芳の『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

 

 「木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉  芭蕉

この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,114)

 

 「かかり」は岩波古語辞典によれば、「歌などの語句の掛かりかた。また、詞のすわり。風体。」とある。語句の繋がり方、前後との関係での詞の収まりのよさ、といった所か。

 「花見の句のかかりを少し得て」というのは、桜と汁・鱠という取り合わせの面白さにふと気づいてというような意味で、出典のある言葉をはずして「軽み」の句にした、というのが、師の言いたかったことであろう。

 ならば、その直前の花見の句はどうだったか見てみよう。

 この句の詠まれた元禄三年の前年、芭蕉は深川にいて『奥の細道』に旅立つ直前で、この年には花見の句はない。

 その前年の貞享五年は『笈の小文』の旅の途中で、伊賀では、

 

 さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 この句は今(平成二十九年春)ちょうどJCBのCMに用いられていて「皆

 

さんは春に何を思いますか?」と視聴者に問いかけている。

 この句は旧主家藤堂探丸邸の花見の際の発句で、

 

   さまざまの事おもひ出す桜かな

 春の日はやく筆に暮れ行く     探丸

 

の脇がある。

 当座の意味としては、芭蕉伊賀藤堂藩に仕えていた頃、主君藤堂良精の息子藤堂蝉吟の俳席に招かれたことが俳諧師としての道を歩むきっかけとなり、そのほかにも様々な形で蝉吟にはお世話になって、たくさんの思い出があり、今こうしてその今はなき蝉吟の息子である探丸にこうして招かれ、さまざまなことを思い出します、という挨拶だったと思われる。

 それに対し、探丸の脇は春の日は長いとは言いながらも、こうして俳諧を楽しんでいるうちにあっという間に暮れて行きます、と返す。裏には「時の流れというのは本当に早いものです」という感慨が込められていたと思われる。

 この芭蕉の発句は特に取り合わせというものはない。ただ、桜が古来様々な形で歌われたり物語りになったりしたことを思い起こし、それをそのまんま述べたにすぎない。

 探丸邸での興行のことを知らない読者に対しては、この句はあのCMの通り、私は様々なことを思い出しますが、あなたもそうでしょう、と問いかける句になる。基本的に「桜」は様々な古典に登場することを踏まえながら、読者にそれぞれの桜の思い出を思い起こさせる展開になっている。

 このあと芭蕉は吉野へと旅立つ。その途中薬師寺での句、

 

 初桜折しも今日はよき日なり   芭蕉

 

 この句も特に取り合わせはない。

 

 花を宿に始め終りや二十日ほど  芭蕉

 

 この句も単に瓢竹庵を訪れた時にちょうど二十日頃だったことを詠んだ挨拶句。

 

 このほどを花に礼いふ別れ哉   芭蕉

 

 これは瓢竹庵を出るときの挨拶。

 

 吉野にて桜見せうぞ檜木笠    芭蕉

 

 これは、万菊丸(杜国)と一緒に吉野へ行こうという句。

 こうした句も桜や花がもつ長い伝統を踏まえた上で、それを慣用的に挨拶の中に織り込んだだけのものだ。

 

   龍門

 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん 芭蕉

 酒飲みに語らんかかる滝の花     同

 

 花見に酒は付き物ということでの取り合わせの句。李白の、

 

   山中与幽人対酌    李白

 両人対酌山花開 一杯一杯復一杯

 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

 

 二人向かい合って酒を酌めば山の花も開き、

 一杯一杯また一杯。

 俺は酔って眠たくなったので卿よ一先ず帰ってくれ。

 もし良かったら明日の朝琴を抱いて来んさい。

 

の連想を誘うが、古典に密着した作り方で、「汁も鱠も」といったリアルな情景にかかることはない。「滝」もまた李白観瀑図として、何度となく画題にされてきたものだ。こういう出典との密着した関係を、『奥の細道』から帰った頃から「重い」と感じるようになり、出典をはずした「軽み」へと向かうことになる。

 ある農夫の家での句。

 

 花の陰謡(うたひ)に似たる旅寝哉  芭蕉

 扇にて酒くむ陰や散る桜       同

 声よくば謡(うた)はうものを桜散る 同

 

 これも「花」に「謡(うたひ)」「花」に「酒」という古典に根ざして慣用句化した付け合いによる言葉のかかりにすぎない。

 

 六里七里日ごとに替える花見哉    芭蕉

 桜狩り奇特や日々に五里六里     同

 

 これも花を求めての旅の風狂の句で、「花」のイメージ自体は古典に立脚している。

 

 日は花に暮てさびしやあすならう   芭蕉

 

 これも、花を見ながらその日を終えると、「あすなろう」という植物に掛けて花見を明日に明日にと先送りしている忙しそうな人を戒めた句。

 

   芳野

 花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

 

 これは芳野で呼んだ句だが『笈の小文』には載せなかった句で、自分でもこの句の凡庸さに嫌気が差したのだろう。

 このように芭蕉は花(桜)の句で、中々古典的な趣向から脱却できずに悩んでいたのだろう。

 元禄三年、ようやく「汁も鱠も」というリアルな花見の情景の掛かりを見出した時、さぞかし長いトンネルを抜けたような気分だったに違いない。

 

季題は「桜」で春。植物、木類。

 

 

   木の本に汁も膾もさくらかな

 明日来る人はくやしがる春     風麦

 (木の本に汁も膾もさくらかな明日来る人はくやしがる春)

 

 脇の内容はそのまんまの意味で、特に解説を加える必要はないだろう。

 付け方という点では、前句の既に桜の散り始めた情景を受けて、特に付け合いとなる景物を出すこともなく、ただ思ったことをそのまま句にする。これは意味で付く「心付け」といっていいだろう。「こころ」という日本語は特に心情と関係なく、単に「意味」を意味する場合もある。

 末尾の「春」は「放り込み」と呼ばれるもので、季題が入らない内容のときに、こうやって無理やり後付の季語を放り込んだりする。

 

季題は「春」で春。「人」は人倫。

 

第三

 

   明日来る人はくやしがる春

 蝶蜂を愛するほどのなさけにて     良品

 (蝶蜂を愛するほどのなさけにて明日来る人はくやしがる春)

 

 「明日来る人は蝶蜂を愛する程の情にてくやしがる、春」と付く。これも心付け。第三なので発句の桜のことは忘れて読もう。

 とはいえ、これは結構難しい。前句を暮春の情として、「くやしがる春」を「春が行くのを悔しがる」と取って、蝶や蜂を愛するような風雅の情を持つ人だから、という意味か。

 蝶はともかく、蜂はかなり特殊だ。ただ、漢詩では蜂と蝶は対として用いられるので、漢籍に通じた人ということか。

 『校本芭蕉全集』第四巻の宮本三郎の註には、次の四句目のところに補注として、

 

 蝶蜂随香 参考、唐の玄宗時代の長安の銘姫、蘇連香は容色無双で、一度出づれば、蜂長その香を慕うて集まり随ったという(開元天保遺事)。とある。

 ネットで検索する時には「蘇連香」ではなく「楚連香」で検索しないと出てこない。中国のネット辞書には、

 

 「五代·王仁裕《开元天宝遗事》:“都中名妓楚莲香,国色无双。时贵门子弟,争相诣之。莲香每出处之间,则蜂蝶相随,盖慕其香也。”

 

とある。

 

 【解释】:蜜蜂和蝴蝶跟随花香而追逐。旧时比喻那些纨绔子弟追逐女色。

 

とあるから、これは比喩で、美人には男どもがいつも取り巻いてるということか。

 ここはまだ第三なので、恋の句ではない。蝶蜂を愛する漢文かぶれの風流人ということでいいだろう。

 

季題は「蝶」と「蜂」で両方とも春。虫類。

 

四句目

 

   蝶蜂を愛するほどのなさけにて

 水のにほひをわづらひにける    土芳

 (蝶蜂を愛するほどのなさけにて水のにほひをわづらひにける)

 

 「水のにほひ」は近代だと悪臭を連想させるが、本来は水の景色の美しさを言う。「にほい」は語源的には「丹(に)ほふ」で赤らむ、明るく輝いて見えるというニュアンスを持つ。

 「わづらひ」も病気ではなく、「ほとんど病気」という言葉が昔はやったが、英語でもillという言葉にはかっこよくて惹きつけられるという意味があるように、水辺の景色のすばらしさに動けなくなる、釘付けになる、くらいに取っておいた方がいいだろう。

 これも心付け。漢詩に通じた風流人だから美しい風景には病的になる。四句目だからそれほど深く考える必要はないだろう。

 

無季。「水」は水辺。

 

五句目

 

   水のにほひをわづらひにける

 くさまくらこのごろになき月のはれ   雷洞

 (くさまくらこのごろになき月のはれ水のにほひをわづらひにける)

 

 旅体の句に転じる。前句の水の美しさを月の光のせいだとした。月明かりに波立つ水のきらきら光る様は、それこそ「わずらひ」になる。しかも、旅をしていて久々に晴れたならなおさらだ。

 

季題は「月」で秋。夜分、天象。「草枕」は旅。

 

六句目

 

   くさまくらこのごろになき月のはれ

 猿のなみだかおつる椎の実     芭蕉

 (くさまくらこのごろになき月のはれ猿のなみだかおつる椎の実)

 

 ここで芭蕉さんの登場。

 「月」に「猿」は付け合いなので、これは物付けになる。ただ、猿そのものを登場させるのではなく、落ちてくる椎の実を猿の涙かと疑う。

 猿といえば、前年の冬に、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 

の句を詠んだばかりだ。

 旅の途中、山越えの道に入ると猿と遭遇することも珍しくはなかったのだろう。「猿の声」は漢詩では古人を断腸の思いにさせる物悲しいものとされている。漢文ではニホンザルのようなマカクは「猴」の字を書き、「猿」の字はテナガザルを表す。テナガザルは夜明け前にロングコールを行い、それが哀調を帯びているのだが、残念ながら日本で聴くことはできない。

 猿の声の悲しさはそれゆえ日本では想像上のもので、俳諧のようなリアルさを追及するものでは、声でないもので猿の物悲しさを言い換える必要があった。

 猿の涙は、『奥の細道』の旅の途中、那須黒羽での興行で、

 

    洞の地蔵にこもる有明

  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

 

の句にも見られる。これも月に猿を付けた句で、しかも猿そのものを登場させるのではなく、蔦の葉が染まるのを見て猿の涙が染めたのかと疑う所も一緒だ。

 そういうわけで、悪い句ではないが使いまわしの感がなくもない。

 

季題は「椎の実」で秋。植物。「猿」は獣類。

初裏

七句目

 

   猿のなみだかおつる椎の実

 石だんの継目も見えずこけのつゆ    風麦

 (石だんの継目も見えずこけのつゆ猿のなみだか落る椎の実)

 

 「涙」に「露」が付く。古来、涙は露に喩えられてきた。

 

 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ

     物思ふ宿の萩の上の露

            よみ人しらず(『古今和歌集』)

 

を本歌と見ることもできる。雁を猿に、萩を苔に変えている。椎の実を猿の涙に喩えた前句に対し、ここでは苔の露が「猿のなみだか」となり、「おつる椎の実」はそれに添えた景色となる。

 苔むして石壇の継ぎ目も見えずという姿に一興ある。「石壇」は石で作られた祭壇。ただ、「石だん」という表記だと「石段」とも取れる。

 

季題は「露」で秋。降物。「苔」は植物、草類。

 

八句目

 

   石だんの継目も見えずこけのつゆ

 顔よごれたる賤の子ども等     良品

 (石だんの継目も見えずこけのつゆ顔よごれたる賤の子ども等)

 

 長く用いられず放置され、苔むした石の祭壇は、近所の子供たちの格好の遊び場となる。

 

無季。「顔」「子供」は人倫。

 

九句目

 

   顔よごれたる賤の子ども等

 ほうぐわんの烏帽子ほしやとおもふらん 土芳

 (ほうぐわんの烏帽子ほしやとおもふらん顔よごれたる賤の子ども等)

 

 宮本三郎の註には、

 

 「謡曲『烏帽子折』に金売吉次に伴われ奥州に下る牛若を、田舎の子と見立てた付か。同曲中にその途次、牛若が烏帽子屋に左折の烏帽子を所望し、烏帽子屋の主に身分を知られる条がある。或はそれを踏まえたか。」

 

とある。おそらく間違いないだろう。ただ、ここで登場するのは牛若丸ならぬ田舎の子供たちで、この子達はさすがに判官の烏帽子を欲しいとは思わないだろう、という意味になる。「らん」は反語になる。

 金売吉次はウィキペディアによれば、「奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けした」という。

 金売吉次の墓は壬生から鹿沼に向かう途中にあり、曾良の奥の細道の『旅日記』にも、

 

 「ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」

 

と記されている。芭蕉も見ているはずだ。

 

無季。「判官」は人倫。「烏帽子」は衣装。

 

 

十句目

 

   ほうぐわんの烏帽子ほしやとおもふらん

 木幡あたりのゆきのゆふぐれ    風麦

 (ほうぐわんの烏帽子ほしやとおもふらん木幡あたりのゆきのゆふぐれ)

 

 「木幡」は伏見の木幡山か。

 『平治物語』によると、平治の乱の時、常盤御前が今若、乙若、牛若の三人を連れて六波羅を脱出して大和に向かう途中木幡山を歩いて越え、ようやく大和国宇多郡龍門に辿り着くも宿もなく、夜もふける頃から雪になった。

 前句に「判官」が登場する以上、牛若丸からなかなか離れられない。本説を逃れるには別の本説を付けるというのは定石とでもいうもので、同じ牛若丸でも奥州ではなく、常盤御前に手を引かれての六波羅から大和へ向かう情景へと転じた。

 本説の時は必ずオリジナルを少し変えなくてはいけないので、夜更けから雪になったのを「雪の夕ぐれ」に変える。

 前句の「思ふらん」も反語から推量に取り成される。これも定石と言えよう。木幡の雪の夕暮れのあの子供は後の判官になって「烏帽子ほしや」と思うようになるのだろう、と付く。

 付け句だけを見ると、

 

 駒とめて袖うちはらふかげもなし

    佐野のわたりの雪の夕暮れ

              藤原定家『新古今集』

 

のパロディーになっている。難しい本説からの逃げ句にこの技はなかなかのものだ。

 

季題は「雪」で冬、降物。七句目の「露」から二句隔てている。「木幡」は名所。

 

十一句目

 

   木幡あたりのゆきのゆふぐれ

 売庵を見せんと人のみちびびきて    芭蕉

 (売庵を見せんと人のみちびびきて木幡あたりのゆきのゆふぐれ)

 

 木幡は木幡山の周辺の地域全体も指し、今の京都市伏見区だけでなく、宇治市にもまたがっている。宇治といえば都の巽(たつみ)、

 

 わが庵は都のたつみしかぞすむ

     世をうぢ山と人はいふなり

            喜撰法師『古今集』

 

だ。

 これは本歌というよりは宮本三郎の註にあるように、「雪→冬籠る庵」「宇治→我庵」という『類船集』の付け合いによるもので、物付けと見た方がいい。

 宇治でただ庵で隠棲する人を付けても俳諧ではないので、あえて「売り庵」として、隠棲やーめたって人の句にしている。

 

無季。「庵」は居所。「人」は人倫。

 

十二句目

 

   売庵を見せんと人のみちびびきて

 井戸のはたなるいぶききるなり   雷洞

 (売庵を見せんと人のみちびびきて井戸のはたなるいぶききるなり)

 

 「いぶき」は白槇(柏槇、百槇:びゃくしん)ともいう。「ねずの木」も白槇(柏槇、百槇)の一種。大木になる。お寺や神社などに植えられたりするし、生垣にも用いられる。「きる」というのは剪定して形を整えるということか。

 庵の価値を高めるために、井戸の脇にあるイブキを剪定して、形を整えたのだろう。

 

無季。「いぶき」は植物、木類。

 

十三句目

 

   井戸のはたなるいぶききるなり

 すずしさのはだかになりて月をまつ   良品

 (すずしさのはだかになりて月をまつ井戸のはたなるいぶききるなり)

 

 夏の夕涼みに転じる。イブキが茂ってて、月を隠しているので剪定したのだろう。剪定作業に一汗かいて裸になって月を待つ。何だか蚊に刺されそうだ。木を切るのに月のためという理由をつけているので心付けになる。

 

季題は「すずしさ」で夏。「すずしさ」と組み合わせることで「月」は夏の月になる。夜分、天象。

 

十四句目

 

   すずしさのはだかになりて月をまつ

 むしろをたてにはしり飛びする   芭蕉

 (すずしさのはだかになりて月をまつむしろをたてにはしり飛びする)

 

 これは曲芸だろうか。筵を縦に立ててそこを飛び越えるという大道芸か、あるいはその真似事をして遊んでいるのか。

 「見世物興行年表」というサイトに、小鷹和泉・唐崎龍之助の芸として、「竹籠口の径(わた)し尺半、長さ七八尺檈(だい)の上に横たへ、高さ五六尺の菅笠を被(かつ)ぎ、走り跳び、籠の中を潜り出でて地に立つ。」とある。

 月待つ夕暮れに裸になっている人を大道芸人の位として付けたか。だとすると「位付け」で匂い付けの一種となる。

 

無季。

 

十五句目

 

   むしろをたてにはしり飛びする

 寝てゐたかおかしく犬の尾をすべて   風麦

 (寝てゐたかおかしく犬の尾をすべてむしろをたてにはしり飛びする)

 

 「すべて」はすぼめてということか。岩波古語辞典に「す・べ【窄べ】[下二]すぼめる。ちぢめる。「尾を─・べ、頭(かしら)を地につけて申すは」<天草本伊會保>」とある。

 走り跳びする脇では犬が眠っている。要するに全然受けてないということか。

 十一句目までは本歌や本説のある重い付けが続いたが、それ以降は一転して軽くなる。あるいは最初から十八句で終わる半歌仙の予定で、そろそろ終りということか。

 

無季。「犬」は獣類。

 

十六句目

 

   寝てゐたかおかしく犬の尾をすべて

 神事見たつる脇母子が太刀     土芳

 (寝てゐたかおかしく犬の尾をすべて神事見たつる脇母子が太刀)

 

 これはまた難しいというか意味が全然わからない。でも近代連句のようなただの連想ゲームではないだろう。近代連句だとただ連想したことを自動記述的に付けるシュール付けが多いが。

 宮本三郎の註によると、「犬→神前」は『類船集』の付け合いだから、物付けと思われる。物付けの場合はかなり強引に辻褄を合わせてたりする。

 とりあえず、「神事 太刀」とかでネット検索してみると、いろいろ太刀にまつわる神事が出てくる。

 ただ、太刀を振るのはたいてい男なので、検索項目に「女」を加えてみると、島田大祭というのが目に止まった。安産祈願の祭で、元は女性が帯を披露していたのだが、やがてそれが大奴(男)が太刀に帯をかけて練り歩くようになったという。

 安産祈願という所で犬と神事は結びつく。句の方は「神事見たつる」だから神事ではないが神事を真似てということで、寝ている犬の脇で模造の太刀を持ってきて神事っぽく安産祈願を行ったということか。

 

無季。「神事」は神祇。「わぎもこ」は恋、人倫。

 

十七句目

 

   神事見たつる脇母子が太刀

 まんぢうの紅つけちらす花ざかり    半残

 (まんぢうの紅つけちらす花ざかり神事見たつる脇母子が太刀)

 

 宮本三郎の註によると、「饅頭→祭」が『類船集』の付け合いなので、これも物付けになる。

 花の定座ということで、前句を花見の余興に取り成したのだろう。天和の頃の、

 

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

 

の発句もある。この種のコスプレは花見の時にはよくあることだったのか。

 花見というと普通は酒だが女の「わぎもこ」の花見なので饅頭になる。紅で染めた饅頭というと紅白饅頭のようなものか。

 塩瀬総本家のホームページによると、十四世紀に塩瀬の始祖・林淨因が紅白饅頭を作っていたという。

 桜というと桜餅だが、ウィキペディアによると、「南方熊楠によれば、桜餅の知られている出現は天和三年(一六八三年)である。太田南畝の著『一話一言』に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。」とある。

 餅を桜の葉で包んだものだが、当時の桜の主流は山桜で白かったから、桜餅も今みたいなピンク色ではなかった。長命寺の桜餅は享保二年(一七一七年)だから、この頃はまだなかった。その長命寺の桜餅も白い。桜餅がピンクになったのは染井吉野が広まってからのことだ。

 

季題は「花ざかり」で春。植物、木類。

 

十八句目

 

   まんぢうの紅つけちらす花ざかり

 日ながき空に二日酔ざけ      三園

 (まんぢうの紅つけちらす花ざかり日ながき空に二日酔ざけ)

 

 前句の花見の饅頭を二日酔いのせいだとする。「もう酒なんて見たくもない」なんて言いながら饅頭食っているのか。それでも次の日になるとまた飲んじゃうのが酒飲みの性(さが)。

 この句の「日ながき空」はいかにも長閑で桜とあいまって目出度い感じなので、本来は半歌仙の挙句だった可能性がある。

 

季題は「日なが」で春。

二表

十九句目

 

   日ながき空に二日酔ざけ

 かげろふのみぎりに榻(しぢ)をひきづられ 芭蕉

 (かげろふのみぎりに榻をひきづられ日ながき空に二日酔ざけ)

 

 「榻(しぢ)」は牛車の牛の引く取っ手部分を停車する時に載せて置く台で、『源氏物語』葵巻の車争いでは、「しぢなどもみなおしをられて、すずろなる車のどうにうちかけたれば、又なう人わろくくやしう」とある。訳すと「榻がへし折られて、車軸の出っ張りにだらしなくぶら下げられていて、これ以上ないくらいに無残な状態で、くやしくて」となる。まあ、これも旧暦四月の賀茂祭で酔っぱらった若い衆の仕業だった。

 この句も、そうした酔った衆が牛車の榻を陽炎の立つ水際に押しやった結果だろう。翌日になってその惨状を見ながら二日酔いで頭が痛い、といったところか。

 本説というほど原典に忠実ではなく、俤付けに近い。

 「かげろう」が春の季語なのは、元々は野焼きから来たものではないかと思う。野の草が燃えても炎が高く上がることはなく地面をくすぶるため、その上にめらめらと陽炎が生じる。

 ただ、古代には陽炎はもっと多義的に用いられ、砌に立つ陽炎は単に水面に反射した光が水面から立ち上る湯気に映ったものではなかったかと思う。

 

季題は「かげろふ」で春。「みぎり」は水辺。

 

二十句目

 

   かげろふのみぎりに榻をひきづられ

 すげなくせいのたかきさげ髪    良品

 (かげろふのみぎりに榻をひきづられすげなくせいのたかきさげ髪)

 

 「すげなく」は「素気なく」で今だと「そっけなく」と言う。髪を結い上げない「さげ髪」は古風だ。芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』の西行谷の芋洗う女はさげ髪で描かれているから、この頃の田舎の女性はまださげ髪だったのだろう。

 「せいのたかき」は『源氏物語』末摘花巻の「ゐだけのたかうせながに見えたまふに」で末摘花のイメージか。これも本説ではなく俤に近いが、同じ源氏の別の場面で逃げるあたり、やや展開が重い。

 

無季。

 

二十一句目

 

   すげなくせいのたかきさげ髪

 しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもと  雷洞

 (しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもとすげなくせいのたかきさげ髪)

 

 「蝋燭おとす」というのは蝋燭の火を消すこと。橋はこの場合建物と建物の間に渡すもので「水辺」ではない。恋に展開するのはいいが大宮人のイメージから離れきれず、展開が重い。

 明確な本説ではないけど、古典趣味と重い展開は、元禄三年三月二日に近い日に巻いた二表だったことを思わせる。

 

無季。「しのぶ」は恋。「夜」は夜分。

 

二十二句目

 

   しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもと

 ひとへのきぬに蚤うつりけり   三園

 (しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもとひとへのきぬに蚤うつりけり)

 

 「蚤」が出てくるあたりでようやく俳諧らしくなる。ただ、蝋燭は当時高級品で一般には紙燭が用いられていた。

 ここでは普通の橋で、遊女を買いに行って蚤をうつされた。まだ蚤でよかった。

 宮本三郎の註には、「前句の『橋』を普通の橋に見替えて、下等の辻君などと転じた付か。」とある。

 

季題は「ひとへのきぬ」で夏。衣装。「蚤」も夏。虫類。

 

二十三句目

 

   ひとへのきぬに蚤うつりけり

 賤(しづ)の屋もかひこしまへば広くなり 良品

 (賤の屋もかひこしまへば広くなりひとへのきぬに蚤うつりけり)

 

 「かひこしまへば」というのは「お蚕上げ」のことであろう。旧暦の三月の終わり頃から養蚕が始まり、飼育台に孵化したお蚕さんと桑の葉を入れ、旧暦五月になるころには蛹になり繭を作るためお蚕さんを取り出し、飼育台を片付ける。それから八日くらいで繭かき(収繭)になる。

 零細な農家では蚕の飼育台が部屋を占領していたが、お蚕上げになると部屋が片付いて急に広くなったように感じられたのだろう。ここで養蚕の方も繭が出来上がるまで一休みとなるのだが、ちょうどその頃は蚤の出てくる季節でもあった。

 

季題は「かひこしまふ」で夏。虫類。養蚕の開始が旧暦三月の終わり頃なので、「蚕」は春の季語になるが、「蚕蛹(かひこのまゆ)」は旧暦四月の終わりで夏の季語となる。「かひこしまふ」も「蚕蛹」と同様になる。「賤の屋」は居所。

 

二十四句目

 

   賤の屋もかひこしまへば広くなり

 またあたらしき麦うたをきく    風麦

 (賤の屋もかひこしまへば広くなりまたあたらしき麦うたをきく)

 

 お蚕上げの季節は同時に麦の収穫の季節でもある。収穫した麦を臼に入れて杵で搗いて脱穀する時には麦搗き歌を歌う。録音技術のなかった時代のこうした歌は、その年によって新しく作られていたか。

 

季題は「麦うた」で夏。夏は三句まで続けることができる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「麦秋」「麦の秋風」「麦刈」「麦藁笛」の項目はあるが「麦うた」はない。ただ、意味からいって麦刈りの季節のことなので夏として良いと思う。

 

二十五句目

 

   またあたらしき麦うたをきく

 御仏につかゆる日よりまづしくて  土芳

 (御仏につかゆる日よりまづしくてまたあたらしき麦うたをきく)

 

 これを夏行(夏安居)のことだとすると夏の句が四句続いてしまうことになるが、ここでは夏行に限定せず、普通に仏道に入った人のこととして、貧しい草庵でのくらしを詠んだものとした方がいいのであろう。

 麦が実れば米にその新しい麦を混ぜて、半分新米の気分だったのか。

 

無季。「御仏につかゆる」は釈教。

 

二十六句目

 

   御仏につかゆる日よりまづしくて

 源氏をうつす手はさがりつつ    半残

 (御仏につかゆる日よりまづしくて源氏をうつす手はさがりつつ)

 

 「手」は書の意味もある。だが、この場合の「手はさがり」は書が下手になるのではなく、おそらく書くのが遅くなるという意味だろう。貧しければいろいろこまごまとやることも多く、源氏物語の書写にまで手が回らないということか。

 木版印刷がなかった時代は源氏物語も写本をとるしかなったが、江戸時代になって木版印刷ができても本は高価で、お金のない人は書き写したのだろう。

 

無季。

 

 

二十七句目

 

   源氏をうつす手はさがりつつ

 ひちりきの音をふきいれるよもすがら  風麦

 (ひちりきの音をふきいれるよもすがら源氏をうつす手はさがりつつ)

 

 前句の源氏物語の写本が進まないのを、源氏物語にしばしば登場する雅楽の方に魅せられてしまって、篳篥(ひちりき)にはまってしまったからだとする。もっとも、源氏の君が得意とするのは七弦琴と竜笛・高麗笛の横笛類で、篳篥はお付きのもの(惟光?)が吹いていた。

 

無季。「よもすがら」は夜分。そのため二十九句目の月は夜以外の月になる。

 

二十八句目

 

   ひちりきの音をふきいれるよもすがら

 燕子楼のうち火の気たえたり    芭蕉

 (ひちりきの音をふきいれるよもすがら燕子楼のうち火の気たえたり)

 

 宮本三郎の註には、「前句の『ひちりき』から、杜甫の夔(キ)州での淋しい生活を詠じた『秋興八首』の七律を連想した付。」とある。その詩は以下のものだ。

 

   秋興八首之二 杜甫

 夔府孤城落日斜 毎依北斗望京華

 聽猿實下三聲涙 奉使虚隨八月槎

 畫省香爐違伏枕 山樓粉堞隱悲笳

 請看石上藤蘿月 已映洲前蘆荻花

 

 夔府の孤城に日は斜めに落ちて行き、いつものよう北斗七星が指し示す京華の方角を眺める。

 たびたび鳴くテナガザルの声を聞いては涙が落ちて、使いを奉じては空しく八月の筏は天の川を流れる。

 尚書省の香炉に背いて病の枕に伏せば、山の上の楼閣の女墻(ひめがき)は悲しい蘆笙の音に覆われる。

 見てくれよ石の上の藤蘿の月、既に中洲の前の蘆や荻の花を照らせる。

 

 テキストによっては「北斗」が「南斗」になっているものもあるが、杜甫が赴任された夔から見ると長安の都は北に位置するので「北斗」でなければいけないと思う。

 また、ここに登場する「笳」は蘆笙のことで、篳篥ではなく笙の方で、江南地方には大小さまざまな蘆笙がある。パイプオルガンやバグパイプの親戚とも言える。

 また、付け句の燕子楼は徐州で夔州とは方角が違う。燕子楼というとむしろ白居易の詩で有名だ。

 

   燕子楼   白居易

 滿窗明月滿簾霜 被冷燈殘払臥床

 燕子樓中霜月夜 秋來只爲一人長

 

 窓を満たす明月に簾を満たす霜

 冷えた着物、残る灯りに払いのける臥床(ふしど)

 燕子樓の中は霜の月夜

 それは秋の到来、ただ一人のために長い

 

 この句はむしろ、前句の秋の夜長から白居易の「燕子楼」で付けた句で、ただ「燈殘」を「火の気たえたり」に代えたと見た方がいいのではないかと思う。

 

無季。

 

二十九句目

 

   燕子楼のうち火の気たえたり

 ゆふ月を扇に絵がくあきの風   三園

 (ゆふ月を扇に絵がくあきの風燕子楼のうち火の気たえたり)

 

 打越に「よもすがら」があるため、ここでは夜分の月を出せない。そのため「夕月」にして、それも絵に描いた月にして夜分をのがれている。「火の気たえたり」に「秋の風」が付く。

 

季題は「ゆふ月」で秋。天象。「あきの風」も秋。

 

三十句目

 

   ゆふ月を扇に絵がくあきの風

 露こひしがる人はみのむし    土芳

 (ゆふ月を扇に絵がくあきの風露こひしがる人はみのむし)

 

 月に露、秋風に蓑虫と四手(よつで)に付ける。

 秋風の頃、扇に夕月の絵を描く人は、露を恋しがる人で、それは誰かと尋ねたら‥‥当然芭蕉さんということになる。

 

 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵  芭蕉

 

は貞享四年の句。これにちなんで土芳は自らの草庵を「蓑虫庵」にしたという。

 

季題は「露」で秋。降物。「人」は人倫。「みのむし」は虫類。

二裏

三十一句目

 

   露こひしがる人はみのむし

 しらぎくの花の弟(おとと)と名をつけて 半残

 (しらぎくの花の弟と名をつけて露こひしがる人はみのむし)

 

 「花の弟」というのは、花のいろいろある中で一番最後に咲くという意味で、「梅は花の兄菊は花の弟」とも言うらしい。出典は、

 

 百草(ももくさ)の花の弟となりぬれば

     八重八重にのみ見ゆる白菊

               藤原季経(『夫木和歌抄』)

 

のようだ。

 

 秋の色の花の弟と聞きしかど

     霜のおきなとみゆる白菊

               藤原基家(『夫木和歌抄』)

 

という用例もある。花の末っ子ではあっても霜の花からすれば大先輩(翁)だという。凡河内躬恒の「初霜のおきまどはせる白菊の花」の歌のように、白菊は霜にも喩えられた。

 露恋しがる人は白菊を花の弟と呼ぶようなそんな人だという付け。

 

季題は「しらぎく」で秋。植物、草類。「花」も植物。三十五句目の花の定座からぎりぎり三句隔てている。

 

三十二句目

 

   しらぎくの花の弟と名をつけて

 能見にゆかん日よりよければ   雷洞

 (しらぎくの花の弟と名をつけて能見にゆかん日よりよければ)

 

 これは謡曲『菊慈童』のことか。

 

無季。

 

三十三句目

 

   能見にゆかん日よりよければ

 乗いるる二歳の駒をなでさすり  三園

 (乗いるる二歳の駒をなでさすり能見にゆかん日よりよければ)

 

 宮本三郎の註に「能見物に乗入れる若駒と見たか。」とあるが、二の裏の終わりに近いところなのでそれだけの意味の軽い遣り句か。

 

無季。「駒」は獣類。

 

三十四句目

 

   乗いるる二歳の駒をなでさすり

 躙書(にじりがき)さへならぬ老の身 良品

 (乗いるる二歳の駒をなでさすり躙書さへならぬ老の身)

 

 「にじる」というのは座ったまま膝を使って歩くことで、「にじり書き」は比喩として膝で進むのに喩えられるようなゆっくりと筆を押し付けるようなたどたどしい書き方をいう。

 歳を取ると手が思うように動かず、にじり書きになりやすいが、それすらもできなくなるというと相当なものだ。

 前句の二歳の駒の若々しさに対して付ける「相対付け(向かえ付け)」の句。

 

無季。「身」は人倫。

 

三十五句目

 

   躙書さへならぬ老の身

 降かかる花になみだもこぼれずや   風麦

 (降かかる花になみだもこぼれずや躙書さへならぬ老の身)

 

 これは反語で、降りかかる花、つまりはらはらと散ってゆく花に涙がこぼれないことがあるだろうか、ありやしない、という意味。歳取ると涙もろくなる上に、散る花が我が事のように思えてくる。

 

季題は「花」で春。植物、木類。

 

挙句

 

   降かかる花になみだもこぼれずや

 雉やかましく家居しにけり      土芳

 (降かかる花になみだもこぼれずや雉やかましく家居しにけり)

 

 前句の反語を疑問に取り成すのは定石と言えよう。雉は散る花に涙もこぼれないのだろうか、けんけんとやかましく鳴いている。そんな長閑な春を家に籠って過ごす。

 

季題は「雉」で春。鳥類。