芭蕉発句集七

     ──最後の旅──

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

最後の旅

 

 麦の穂を便(たより)につかむ(わかれ)かな

 

 元禄7年、大阪に向かった時のこと、最近すっかり衰弱して駕籠に乗って品川宿を過ぎて、六郷の河原で弟子たちと別れた。

 貞享5年に六郷大橋が流されたため、渡し船になってた。

 ここからは元服したての二郎兵衛と二人だと思うと頼りないと思ってると、曾良が小田原まで来てくれるという。藁ならぬ麦だ。

 

註、路通編の『芭蕉翁行状記』には、

 

 「深川の桃梨散過れば、卯の花雲立わたるききにかんこ鳥の一聲一聲そぞろに、ものなつかしき方もおほしとて、おもひ立旅心しきりにて、五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく

 麥の穂を便につかむわかれかな    翁」

 

とあり、桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』には、

 

 「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、

 麦の穂を力につかむ別哉」

 

と品川迄とある。

 一方土芳の『赤冊子草稿』には、

 

 「五月十一日、武符を出て古郷に趣。川崎迄人々送けるに」

 

とあり、浪化編『有磯海』にも、

 

 「人々川さきまで送りて、餞別の句を云、其かへし」

 

とある。

 ここでは中を取って六郷河原までとする。

 

 

 目にかゝる時やことさら五月(さつき)富士

 

 元禄7513日、小田原を出て箱根の関の前で曾良と別れた。

 この季節には珍しく富士山が見えた。

 

   延宝4

 山のすがた蚤が茶臼の覆かな

 

   貞享元年

 霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き

 

   貞享4

 一尾根はしぐるる雲か富士の雪

 

富士が見えないのは一回だけだった。

 

 

 どむみりとあふちや雨の花曇

 

 元禄7年の上方への旅はちょうど梅雨時だった。

 箱根を越える時はちょこっと富士山が見えたが、駿河の国は雨の中。

 駕籠に乗るのも疲れて、降りて一休みすると、栴檀の花がまるで雲のようだ。この季節に花の雲が見られるとは。

 元禄7年の上方への旅は511日に深川を出て戸塚泊。12日は小田原泊。ここまでは曾良が一緒だった。

 13日は箱根を越えて三島泊。これはその日の句だった。

 そのあと島田まで24里。15日に着いたのは変だと思うでしょう。

 実は沼津から江尻までは船で行ける。14日に江尻泊なら15日に島田に着く。

 

 

 うぐひすや竹の子藪に(おい)(なく)

 

 元禄7年に上方へ行く時の旅はすっかり体力も落ちて、駕籠に乗っての旅だった。

 大井川では川止めで島田宿の如舟の家に四泊した。

 

 口まねや老いの鶯独り言 宗因

 

の句なども思い出して、

 

 

 するが()(はな)(たちばな)も茶の匂ひ

 

 元禄7514日に伊豆国から駿河国に入り、翌日宇津の山を越えた。駿河は茶畑が多くて、そこらかしこで茶を蒸す煙と乾燥させる時の臭いがする。

 古歌では花橘の香を懐かしむ季節。

 

 

 五月雨(さみだれ)蚕煩(かひこわづら)ふ桑の畑

 

 元禄7年の上方への旅で、島田に着く頃はちょうど五月雨の季節で大井川の川止めにあった。

 やることないから白氏文集の酬鄭侍御多雨春空過詩三十韻の「預怕為蠶病、先憂作麦傷」の詩句から何か作れないかと思って作ってみた。

 桑畑に鬱々と降り続く五月雨に、蚕が病気にならないか心配する農家の句。

 この句は「桑の畑の五月雨に蚕煩うや」の倒置なので、病気の蚕や死んだ蚕ではなく、桑の畑に降る五月雨の鬱々とした風情を思い浮かべてほしい。

 

 

 ちさはまだ青葉ながらになすび汁

 

 元禄7年の上方への旅の途中、大井川で川止めにあった時に、島田宿の如舟のところにお世話になった。

 これはその時の献立の一部。チサは育つと先が赤くなってくるが、この時は青かった。

 チサというと「春の日」に、

 

   世にあはぬ局涙に年とりて

 記念にもらふ嵯峨の(ちさ)畑 重五

 

という句があった。

 前句を小督の局のこととして、嵯峨野に隠棲したならチサ畑があっただろう、という句だが、チサがそんな昔からあったかどうかは知らない。

 

 

 さみだれの空(ふき)おとせ大井川

 

 元禄7年の上方への旅の時はちょうど五月雨の大井川で、何日も島田宿の如舟のところに厄介になった。早く晴れるといいな。

 

 

 たはみては雪まつ竹のけしきかな

 

 元禄7年の上方への旅の時はちょうど五月雨の大井川で、何日も島田宿の如舟のところに厄介になった。

 暇だから竹の絵を描いたが、先の垂れた竹の絵になったので、雪がこれから積もるところだということにした。

 

 

 世を旅にしろかく小田の行戻(ゆきもど)

 

 元禄7522日に久しぶりに名古屋の荷兮の家に泊まった。

 これは24日の興行の発句で越人にも会えた。盤ちゃんを連れて江戸に帰ったこと、特に何も言ってなかった。

 貞享元年の冬の日以来、江戸と上方を行ったり来たりで、名古屋には何度も立ち寄った。

 まあ、旅が仕事だから、お百姓さんが自分の田に行ったり来たりするようなものか。

 脇は荷兮で、

 

 水鶏の道に渡すこば板

 

 田を行き来するなら歩きやすいように板を渡しておきましょう。

 

 

 涼しさを飛騨(ひだ)のたくみが指図(さしづ)

 

 元禄7年の上方への旅で名古屋に着くと、野水が隠居所を立てるという。

冬の日の時は若者だったのにもう三十七か。自分も三十七で深川に隠居したしな。

 まあ良い老後を送れるように、飛騨の匠の腕に期待したい。

 大工さんの手際を見ていると、この辺りの大工は郡上の長滝寺大講堂を建てた藤原宗安の血を引いているのかな。

 

 

 すゞしさの指図にみゆる住居哉

 

 元禄7年の上方への旅で名古屋に着くと、野水が隠居所を建てていた。

 

 涼しさも飛騨の匠が指図哉

 

の句もこの時詠んだが、飛騨の匠のような大工さんがあれこれ指図して、夏を涼しく過ごせる庵を建てているのは何よりだ。

 

 

 水鶏(くひな)なくと人のいへばやさや(どま)

 

 元禄7525日、上方へ行く旅の途中で名古屋を出て陸路で桑名に向かい、佐屋の山田庄右兵衛の家に宿泊して興行した時の発句。

 一面の田んぼの広がるここなら水鶏の声が聞けると聞いて、泊まってゆくことにしました。

 

 

 涼しさや(すぐ)()(まつ)の枝の(なり)

 

 元禄7年、伊賀滞在中の閏511日に雪芝の家で興行した時の発句。

 庭には植えたばかりのまだ真っ直ぐな松の若木があって清々しい。

 松というと長年の風雪に耐えた松のねじ曲がってそれでも生きているというのを面白がるけど、松だって本当は真っすぐ生きたいんだろうな。

 これが育った姿を見ることはないんだろうな。

 

 

 柴(つけ)し馬のもどりや田植(だる)

 

 元禄7年の閏5月だったか。

 伊賀の猿雖の所に行く途中、田んぼの中の道で、柴を大きく丸く束ねて馬の背に乗せて戻ってくる人とすれ違った。

 一瞬田植えのために酒樽を運んでるのかと思った。田植えは村人総出の祭で、笛や太鼓、それに樽酒は欠かせない。

 

 

 柳小折(こり)片荷は涼し(はつ)()(くわ)

 

 元禄7年閏522日、嵯峨の落柿舎での興行の発句。

 差し入れだといって大きな柳行李(やなぎごうり)二つが天秤棒で担いで運ばれてきた。片方には真桑瓜がぎっしり。さあ、みんなで食おう。

 

 

 六月(ろくぐわつ)や峰に雲(おく)あらし山

 

 元禄7年に嵯峨野の落柿舎に滞在した時の句。

 暑い季節で入道雲が嵐山の上に掛かってた。

 

 嵐山麓の花の木末まで

    一つにかかる峰の白雲

         二条(にじょう)(ため)(うじ)

 

の歌もあるように、嵐山の雲は和歌にも詠まれているが、ここでは夏の雲なので、上にちょんと乗っかってる感じを「置く」としてみた。

 

 

 大井川浪に塵なし夏の月

 

 元禄76月に嵯峨野へ行った。落柿舎で瓜を食べたり、()(めい)の家で心太をご馳走になったりした。

 明け方の大井川にゆくと下弦の月がちょうど川上の嵐山の方に見えて、川の波にそれが反射してキラキラ眩しく、そこには一点の塵もないかのように見えた。

 

 

 清滝の水(くみ)よせてところてん

 

 元禄7年、去来の落柿舎でしばらく過ごした。

 去来の弟子の野明の家にも行って、そこでところてんをご馳走になった。

 暑いこの時期のところてんは最高。味の決め手は清滝の水を使ったことかな。

 

 

 すゞしさを絵にうつしけり嵯峨(さが)の竹

 

 元禄7年に去来の落柿舎を訪ねた時、去来の弟子で嵯峨在住の鳳仭(ほうじん)の家に行った。

 夏の挨拶に涼しさを詠むのは、まあ、お約束だけどね。

 

 

 夕顔に干瓢(かんぺう)むいて(あそび)けり

 

 元禄7年夏に嵯峨野にいた頃、辺りは畑が多く、干瓢も作っていたので、干瓢作り体験をさせてもらった。

 夕顔の実の皮を剥き、それを薄く一定の幅で実を回転させながら削ってゆく。途中で切れないようにするのが難しい。

 

 

 朝露によごれて涼し瓜の土

 

 元禄7年の句。

 嵯峨野落柿舎周辺は瓜畑が多く、朝採りの泥のついた瓜をもらった。

 泥付きは新鮮な証だが、くれた人に対して泥よりは土の方がいいかなと思って最初は土だったが、涼しで感謝の気持ちは十分と思って泥で治定した。

 伊賀に帰った時土芳には話したが、続猿蓑の原稿はそのままになっていた。

 

 

 瓜の皮むいたところや蓮台(れんだい)()

 

 元禄7年の嵯峨野の落柿舎に滞在してた時に、瓜の産地はどこがいいか話題になってたので、昔の葬送の地を受けを狙って‥。

 盤ちゃんがいなくて良かった。しつこく美濃の真桑村を推すからな。

 嵯峨野に近い昔の葬送の地も今は瓜畑になっている。

 

 

 松すぎをほめてや風のかほる音

 

 元禄7年夏に嵯峨野に滞在した時に小倉山(じょう)寂光寺(じゃっこうじ)に行った。

 松や杉の木立を吹く風が爽やかだ。

 風薫るというのは、和歌や連歌では梅や桜の香りが風に乗って来る時に用いられる。花橘にも用いられるから、その場合は夏になる。

 ただ、俳諧では禅語の「薫風自南来」から、夏の木の香りを表すものとして用いる。

 小倉山常寂光寺は定家の卿の時雨亭があった所と言われている。

 

 君が代は依羅の杜のとことはに

    松と杉とや千たび栄えむ

          藤原定家

 

の歌が夫木抄にある。

 

 

 夏の夜や(くづ)れて(あけ)し冷し物

 

 元禄7616日の夜は膳所藩中老の菅沼外記の所で納涼会をやった。

 月は琵琶湖東岸の信楽高原や鈴鹿山脈の方から上り、手前の琵琶湖の湖面がキラキラ光る。

酔い潰れた奴がいたら、罰として飲んだのと同じ数だけ水を飲ませようって、このあたりは盤ちゃんが今宵賦に記している。

 食って、酔いと眠気を覚まして、さあ俳諧興行を始めるぞ。

 

 

 (めし)あふぐかゝが馳走や夕涼

 

 元禄76月、しばらく京に行ってから膳所に戻って来た。

 菅沼外記の家で「田家」という題で発句を作った。

 外記の句は、

 

 菜種干す筵の端や夕涼み

 

だった。

 普通に景色を詠んだだけなので、もう少し生活感を出してみようと思った。

 

 

 (さら)(ばち)もほのかに闇の(よひ)涼み

 

 元禄7年の6月、木曽塚にいた頃は、いろんな所にお呼ばれした。

十六夜の納涼会の少し後の居待月か寝待月か。日の沈んだ後の宵闇の中での食事もまた涼しい。

 

 

 ひら/\とあぐる扇や雲の峰

 

 元禄76月、大津の能太夫本間丹野さんの家で興行した時の句で、庭に能舞台があった。

 夏の入道雲は大きくなると上に扇のような金床雲ができる。それを能役者の扇を掲げて舞う謡曲羽衣のクライマックスのマネキ扇に見立ててみた。

 丹野さんの舞う姿を見て見たいものだ。

 脇は、

 

 青葉ぼちつく夕立の朝 安世

 

 羽衣は雨の止んだ朝の設定だった。

 

 「万里の好山に雲忽ちに起こり、一楼の明月に雨初めて晴れり。‥波立ち続く朝霞、月も残りの‥」

 

 

 蓮のかを目にかよはすや(めん)の鼻

 

 元禄7年の6月の末、大津の猿楽師本間丹野の家に呼ばれた時、軽く謡や舞の手ほどきをしてもらった。

 能面の目の穴は思った以上に小さく、下が見えるように鼻にも穴が開いている。

 外に咲く蓮もこの穴で嗅ぐだけでなく、ここから目でも見る。

 

 

 

 稲妻やかほのところがすすきの穂

 

 元禄7年の6月の末、大津の猿楽師本間丹野の家で舞台に掛けられてた骸骨が猿楽能する絵に画賛を頼まれた。

 業平は奥州八十島で小野小町の髑髏の目の所からススキが生えるのを見、「秋風の吹く度ごとにあな目あな目」という上句を聞いて、というのを思い出した。

 

 

 この宿(やど)水鶏(くひな)もしらぬ(とぼそ)かな

 

 いつだったか忘れたが、近江三井寺の近くの瓢千亭を訪ねた時の句。

 草に埋もれた小さな小屋だった。

 水鶏の声が戸を叩く音に似ていることで、古来和歌に詠まれている。

 

 叩くとて宿の妻戸を開けたれば

    人もこずゑの水鶏なりけり

          よみ人知らず

 

と、人が来たかと思ったら水鶏だったというふうに用いられる。

 

 

 さざ波や風の(かをり)(あひ)拍子(びゃうし)

 

 琵琶湖のさざなみは平風を進み、それに伴い夏の木立ちの薫る風とが一つになる。

 膳所の游刀の所で詠んだ二句のうちの一つ。

 

 

 湖やあつさをおしむ雲のみね

 

 元禄76月、膳所の游刀の所に遊びに行った時の句。

 琵琶湖の素晴らしい眺望も暑さが玉に瑕だとばかりに、雲の峰がむくむくと大きくなり、夕立にしようとしている。

 

 

 秋ちかき心の(よる)や四畳半

 

 元禄7年の621日、大津の木節の家で興行した時の発句。

 秋も近く、もうすぐ涼しくなるので、こうして部屋に身を寄せ合ってという興行開始の挨拶だったが、実際はとにかく暑くて、木節の脇は、

 

しどろにふせる撫子の露

 

だった。みんな汗びっしょりでぐったりしてた。

 

 

 ひや/\と壁をふまへて昼寐哉

 

 元禄7年、大津の木節の家に行った時の句。

 残暑の厳しい日だったけど日の当たらない壁はひんやりとしてて、そこに持たれかかって、無意識に蚊帳の吊り手に手を絡ませたりしながらうとうとと昼寝をした。

 それをそのまんま句にしてみた。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「此句はいかにきゝ侍らんと申されしを是もたゞ殘暑とこそ承り候へかならず蚊屋の釣手など手にからまきながら思ふべき事をおもひ居ける人ならんと申侍れバ此謎は支考にとかれ侍るとてわらひてのみはてぬるかし。」

 

とある。

 

 

 道ほそし相撲とり(ぐさ)の花の露

 

 元禄7年の7月の初め、久しぶりに木曽塚の無名庵に戻ってきた。

 庭の道は草に埋もれて細くなっていて、季節外れのスミレが咲いて露に濡れていた。

 スミレの花の茎が下に曲がってるため、子供がここを引っ掛けて引っ張って遊ぶため、相撲取り草の別名がある。

 今は秋だから相撲取り草と呼んだ方がいいか

 

 

 なまぐさし小なぎが上の(はや)(わた)

 

 元禄7年の7月の初め、木曽塚にいた頃だったか。

 琵琶湖の方に行くと、漁師の獲ったハヤの内蔵が捨てられていて臭かった。

 でも、こんなもんでも俳諧のネタにならないかなって思った。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「梅か香の朝日は餘寒なるべし小なぎの鮠のわたは殘暑なるべし是を一躰の趣意と註し候半と申たれバ阿叟もいとよしとは申されし也。」

 

とある。

 

 

 たなばたや秋をさだむる夜のはじめ

 

 元禄7年の七夕は京の野童のところで過ごした。

 七月は秋の初め。七夕は初秋の最初の夜の行事で、秋が来たのを実感させてくれる。

 

 

 家はみな杖にしら()墓参(はかまゐり)

 

 元禄7年のお盆に故郷の伊賀に帰った。

 兄の半左衛門に後妻のばば様、妹で兄の養女になったおよしに、その旦那の又右衛門、みんな年取ったな。

 

 

 数ならぬ身となおもひそ玉祭り

 

 元禄762日に寿貞尼が亡くなったことを嵯峨の落柿舎で知った。去年3月に夫の桃印を失ったばかりだった。

 残された二郎兵衛、お風お雅のことも心配だ。

 715日の初盆は故郷の伊賀で迎えた。

 あまり気に掛けることがなかったが、かけがえのない身内だった。

 

 

 いなづまや闇の(かた)(ゆく)五位の声

 

 元禄7年の秋、伊賀にいた頃雖子の家に泊まった。その時土芳もいた。

 題詠で稲妻の句を作ろうということで、稲妻に何か取り合わせをと鷺の声を選んで、帝から五位の位を授かったという謡曲にもある五位鷺と取り囃して見た。

 土芳の句は、

 

 明ぼのや稲づま戻る雲の端

 

だった。

 

 

 (かざ)(いろ)やしどろに(うゑ)し庭の萩

 

 元禄77月、伊賀の藤堂長兵衛の家に呼ばれた。

 庭にはたくさんの萩が無造作に植えられていて、その茂る枝がざわざわと揺れるのを見て、最初は「風吹くや」としたが、「風色」という言葉を思いついて迷った。

 風吹くだと普通だが、風色だと風が意志を持ってるかのように、妖しく手招く感じになる。

 

 

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし

 

 元禄787日、伊賀の望翠の家での発句。

 望翠の家の庭にも柿がなっていたが、この辺りの家はみんな庭に柿を植えている。

 自分の生家もそうだったし、柿の木を見ると故郷は良いもんだなって思う。

 

 

 名月に(ふもと)の霧や田のくもり

 

 元禄7年の中秋の名月で故郷伊賀のみんなが集まった時に披露した句の一つ。

 下界にいると霧がかかれば月が見えなくなるが、山の上にいると、見下ろす下の方には霧がかかり、それを月が照らし出すと、麓が白く映り桜の花が咲いたのではないかと思わせる。

 いつか旅で見た光景だ。

 

 名月の花かと見えて綿畠

 

の句も同時に作ったが、霧は本来月に嫌う物を用いた軽みの句で、綿畑は古典の題材に新しい物を用いた不易流行の句になる。

 霧は月を隠すものとして、本来は月に嫌うものだった。

 

 秋風にいとどふけ行く月影を

    たちな隠しそ天の川霧

          藤原清正

 塩釜の浦吹く風に霧晴て

    八十島かけて澄める月影

          藤原清輔

 

 それを麓の霧として月を隠さぬ霧の大きな景色にしてみた。

 麓の霧は花のようだ。

 

 今宵誰吉野の月も十六里

 

もその時の句の一つ。

 なかなか共存できない月と花がテーマ。

 月は澄んだ心に映る本当の自分。花は生きることの素晴らしさ。

 花があると我を忘れ、目覚めた時は花はない。

 

 

 名月の花かと見えて(わた)(ばたけ)

 

 元禄7年の中秋の名月で故郷伊賀のみんなが集まった時に披露した句の一つ。

 

 名月に麓の霧や田のくもり

 

 の句の方は澄んだ名月も麓は霧で霞んでいて風情があるという句で、名月は澄むのが良くて曇るのを惜しむという古典の本意を意図的に外した軽みの句。

 こっちは名月と桜が一緒だったらという古典的テーマを今の綿畑に詠んだ不易流行の句。

盤ちゃんにそう説明してはずだったが。

 

註、『続猿蓑』には、

 

「ことしは伊賀の山中にして、名月の夜この二句をなし出して、いづれか是、いづれか非ならんと侍しに、此間わかつべからず。月をまつ高根の雲ははれにけりこゝろあるべき初時雨かなと、圓位ほうしのたどり申されし麓は、霧横り水ながれて、平田渺々と曇りたるは、老杜が唯雲水のみなり、といへるにもかなへるなるべし。その次の棉ばたけは、言葉麁にして心はなやかなり。いはヾ今のこのむ所の一筋に便あらん。月のかつらのみやはなるひかりを花とちらす斗に、とおもひやりたれば、花に清香あり月に陰ありて、是も詩哥の間をもれず。しからば前は寂寞をむねとし、後は風興をもつぱらにす、吾こゝろ何ぞ是非をはかる事をなさむ。たヾ後の人なをあるべし。 支考評」

 

とある。

 

 

 今宵誰よし野の月も十六里

 

 元禄7年の月見の会は故郷伊賀で開催した。伊賀の人たちが沢山集まってくれた。

  名月に花というテーマで、

 

 名月に麓の霧や田のくもり

 名月の花かと見えて綿畑

 

と詠んで、ふと昔、万菊と吉野へ行く前の伊賀での花見を思い出し、この季節に花はないけど吉野に思いを馳せてみた。

 

 

 蕎麦(そば)はまだ花でもてなす山路かな

 

 元禄793日、盤ちゃんが伊勢の文代を連れて伊賀にやって来た。

 どうやら文代を出しにして伊勢に呼ぼうという魂胆のようだ。

 まあ、蕎麦の花の咲く季節だから花は受け取っておくけど、まずは大阪の之道と洒堂の喧嘩を仲裁しないとね。それが終わったら一緒に新蕎麦でも食べて、あと伊勢に落ち着くのも悪くないかな。

 でももっと西の方へも行ってみたいな。太宰府だとか、長崎だとか、そうだな阿蘭陀なんかもいいな。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「九月二日

支考はいせの國より斗従をいざなひて伊賀の山中におもむく。是は難波津の抖擻の後かならず伊勢にもむかへむと也。三日の夜かしこにいたる草庵のもうけもいとゞこゝろさびて」

 

とある。

 

 

 日にかゝる雲やしばしのわたりどり

 

 元禄7年秋の伊賀での句。

 日が陰ったかと思ったら、渡り鳥の群れが太陽の前を通り過ぎただけだった。まるで雲のようだった。

 何だか知らないけど胸が熱くなるような思いで、その渡り鳥の行く末を見届けた。

 何かの前兆なのか、何かの寓意になるのか、よく分からないまま書き留めて盤ちゃんに渡したっけ。

 

 

 (ゆく)秋や手をひろげたる栗のいが

 

 元禄79月の初め、伊賀にいた頃で、栗のいがが開いて中の栗が剥き出しになるのが手を広げているみたいだなと思って、ふっとこの句が浮かんだ。

 2日後重陽を奈良で迎えるために伊賀を離れる時、「手を広げ」が握ってた手を離すみたいな別れのメッセージになった。

 

 

 新藁の出初(でそめ)てはやき時雨哉

 

 元禄7年の96日、故郷に長々と居座り、そろそろ大阪へと思った頃、猿雖の家での興行で盤ちゃんが発句を案じている時だったたか。新藁が出始めたと聞いて、

 

 

 顔に似ぬほつ句も(いで)よはつ桜

 

 続猿蓑に花の句が欲しかったが浮かばなくて、晋ちゃんの、

 

 花笠をきせて似合む人は誰 其角

 

の句から、自分は似合わないんだということで、「顔に似ぬ発句も出でよ」というフレーズができたが、最後桜じゃ字足らずで何桜にしようかいろいろ迷った。

 まあ、自虐ネタというのも定番だね。自分を笑う分には誰も傷つかないし。

 天和の頃の虚栗の、

 

   芭蕉あるじの蝶叩く見よ

 腐レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉

 

もその意味に取ってね。別に誰かをディスるつもりは無いんで。

 

 

 冬瓜(とうがん)やたがいにかはる顔の形

 

 元禄7年の故郷伊賀での句。

 冬瓜は初秋に収穫して冬までの保存がきく。

 故郷の人たちもみんな年取って姿が変わってしまったというイメージで、例えば昔の女がすっかり老婆になってとか、思い浮かべてくれるといいな。

 まあとにかく、いつまでも元気でいてほしいな。

 

 

 びいと(なく)尻声(しりごゑ)かなし夜の鹿

 

 元禄798日、伊賀を出て奈良へ向かった。陸路で笠置へ行って、そこから船で木津川を下った。

 銭司(です)の辺りは蜜柑の産地で、盤ちゃんはこの前の、

 

   一里の渡し腹のすきたる

 山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉

 

はこれだったのか、と言った。

 夜は奈良に泊まった。鹿がビイビイ鳴いていた

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「九月八日

 難波津の旅行この日にさだまる事は奈良の旧都の重陽をかけんとなり。人々のおくりむかへいとむつかしとて朝霧をこめて旅立出るに、阿叟のこのかみもおくりミ給ひてかねて引わかれたる身の此後ハあはじあはじとこそあきらめつるにたがひにおとろへ行程は別もあさましうおぼゆるとて供せられつるもの共に介抱の事などかへすがへすたのみて背影の見ゆるかぎりはゐ給ひぬ。その日はかならず奈良までといそぎて笠置より河舟にのりて錢司といふ所を過るに山の腰すべて蜜柑の畑なり。されば先の夜ならん

 山はみな蜜柑の色の黄になりて  翁

と承し句はまさしく此所にこそ候へと申ければあはれ吾腸を見せけるよとて阿叟も見つつわらひ申されし。是は老杜が詩に青は峯巒の過たるをおしみ黄は橘柚の来るを見るといへる和漢の風情さらに殊ならればかさぎの峯は誠におしむべき秋の名残なり。船をあがりて一二里がほどに日をくらしてさる沢のほとりに宿をさだむるにはい入て宵のほどをまどろむ。されば曲翠子の大和路の行にいざなふべきよししゐて申されしがかかる衰老のむつかしさを旅にてしり給はぬゆへなるべし。さみづからも口おしきやうに申されしがまして今年ハ殊の外によはりたまへり。その夜はすぐれて月もあきらかに鹿も声々にみだれてあはれなれば月の三更なる比かの池のほとりに吟行す。」

 

とある。

 

 

 菊の香や奈良には古き仏達

 

 元禄7年の重陽は奈良で迎えた。

 昨日は伊賀からここまで移動したし、これからくらがり峠を越えて大阪に行くので、ゆっくりしてもいられない。

 奈良というと貞享2年は二月堂のお水取り、貞享5年は灌仏会だった。元禄2年の冬には雪に埋もれた大仏様を見たっけ。思い出すな。

 古き仏たちをもう一度見ることができないのは残念だ。

 

 

 菊の香やならは幾代の男ぶり

 

 元禄7年の重陽は奈良で迎えた。

 奈良といえば、ここからかなり南になるが、業平寺があったな。

 その血脈なのか、奈良のお坊さんは美男が多い。やはり男は菊。

 同じ時に、

 

 菊の香や奈良には古き仏達

 

の句も作った。たくさんの古い仏像とそれを守ってきた男ぶり。また戻ってきたらゆっくり奈良を回ろうか。なんか行きたい所がたくさんあって困るな。

 

 

 菊の香にくらがり登る節句かな

 

 重陽の日にいよいよ暗峠を越えて大阪入りとなった。

 この峠は歩いて越えたかったけど、今は駕籠に乗る身。

 でも無理を言って駕籠から降りて、最後の下り坂は自分の足で歩いた。

 すぐに病気が悪化して寝込むことになったけどね。

 

 

 菊に出て奈良と難波(なには)(よひ)月夜(づきよ)

 

 元禄799日の重陽の日に奈良からくらがり峠を越えて大阪へ行った。菊に奈良を出て難波は宵月夜、というそのまんまの意味。

 くらがり峠から下って大阪に入る道は、どうしても自分の足で歩いてみたくて駕籠から降りたが、結果大阪の洒堂の家で寝込むことになった。

 

 

 (ゐのしし)(とこ)にも()るやきり/″\す

 

 元禄7年の重陽の日に奈良を発って、大阪高津宮の洒堂の家に泊まった。

 くらがり峠の下り坂を無理して駕籠から降りて歩いたせいか、体調を崩して寝込むことになった。

 洒堂も一応医者だし、泊めてくれるのはありがたいが、鼾だけは勘弁してくれ。猪が隣にいるみたいだ。

 

 

 舛(かふ)て分別かはる月見かな

 

 大阪で病気で臥せりがちだった頃、住吉大社の升の市があって、無理して見に行って升を買ってきたら雨に降られて、また病気が悪化して十三夜の畦止亭での月見の興行をドタキャンしてしまった。

 翌日はなんとか興行できて、問題の喧嘩状態という之道と洒堂も参加した。もちろん盤ちゃんや素牛もいる。とにかく楽しくやろう。

 言い訳めいた発句になってしまったが、脇は普通に「状況が変わって月見になった」と読んで、ならば魚(肴)も運び込まれる、

 

 秋の嵐に魚荷連れ立つ 畦止

 

と返すのは正解。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「今宵は十三夜の月をかけてすみよしの市に詣けるに昼のほどより雨ふりて吟行しづかならず。殊に暮々は悪寒になやみ申されしがその日もわづらはしとてかいくれ帰りける也。次の夜はいと心地よしとて畦止亭に行て前夜の月の名残をつぐなふ。住吉の市に立てといへる」

 

とある。

 

 

 秋もはやばらつく雨に月の(なり)

 

 元禄7919日に大阪の其柳の家で興行した時の発句。

 事前に発句を用意していくことはよくあるが、最初は、

 

 昨日からちょちょッと秋も時雨かな

 

にする予定だった。

 予想通り、その夕方は時雨になったが、興行を始めようとした頃ちょうど月が上ったので、急遽即興で作り直した。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなといふ句なりけるにいかにおもはれむ月の形にハなしかえ申されし。」

 

とある。

 

 

 秋の夜を打崩(うちくづ)したる(はなし)かな

 

 秋の夜はしんみりとなりがちだけど、それを打ち砕くような楽しい話でもして、今夜の興行を盛り上げましょう。

 実はこの頃病がひどく悪化していて、みんなかなり気を遣っていた。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「此句は寂寞枯槁の場をふみやぶりたる老後の活計なにものかおよび候半とおのおの感じ申あひぬ」

 

とある。

 

 

 おもしろき秋の朝寐や亭主ぶり

 

 元禄7年の921日には大阪の車庸の家で半歌仙興行をし、そのまま泊まった。

 その時の車庸の脇は、

 

 月待ほどは蒲団身にまく

 

だった。

 いつものように早く目が覚めたが、車庸はなかなか起きてこない。

 ようやく起きると、「宵に寝るのは無粋だし、朝早く起きるのは貧乏臭い」なんて言ってる。立派なもんだ。

 ここの亭主になったつもりでもう少し寝よう。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「廿六日は淸水の茶店に遊吟して泥足が集の俳諧あり」

 

とある。

 

 

 (この)道や行人なしに秋の暮

 

 秋も終わりの元禄7926日、大阪の晴々亭での興行の発句だったが、作ったのは何日か前だった。

 夜も遅くなると、他の門人はみんな夜になると帰っちゃうけど、盤ちゃんはいつも付きっきりで介護してくれている。

 外は人通りもなく、辺りは静まり返っている。

 盤ちゃんはいるか?26日の晴々亭での興行の発句だが、

 

 人声や此道かへる秋の暮

 此道や行人なしに秋の暮

 

とどっちにするか迷ってるんだ。

 帰る人ばかり、行く人がない、同じイメージだけどね。死出の山路は一人で行くしかない。

 でも、行人なしにの方がいいって。そうか盤ちゃんは帰らずに最後まで見送ってくれるね。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「此二句の間いづれをかと申されしにこの道や行ひとなしにと獨歩したる所誰かその後にしたがひ候半とて是に所思といふ題をつけて半歌仙侍り爰にしるさず」

 

とある。

 

 

 松風や軒をめぐつて秋暮ぬ

 

 元禄7926日、大阪の晴々亭で興行した。

 この時の発句は、

 

 此道や行人なしに秋の暮

 

だったが、それとは別に発句の揮毫を頼まれて作った句。

 この頃臥せりがちで、宿の軒を吹いて行く松風の悲しげな音ばかり聞きながら秋が終わってゆく。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「是はあるじの男の深くのぞみけるよりかきてとゞめ申されし」

 

とある。

 

 

 この秋は何で年よる雲に鳥

 

 元禄7926日、大阪の晴々亭で興行した。

 その時の発句とは別に、病気が治ったらどこへ行こうかと、朝から旅懐の句を案じていた。

 文代ちゃんの誘いに乗って伊勢へ行こうか、それともまだ見ぬ西へ向かって旅立とうか。

 とにかく病魔が邪魔。今の自分は飛べない鳥だ

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「此句はその朝より心に籠てねんじ申されしに下の五文字寸々の腸をさかれける也。是はやむ叓なき世に何をして身のいたづらに老ぬらんと切におもひわびられけるがされば此秋はいかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て後は明暮になやみ申されしが京大津の間をへて伊勢の方におもむくべきかそれも人々のふさがりてとゞめなばわりなき心も出さぬべし。とかくしてちからつきなばひたぶるの長谷越すべきよししのびたる時はふくめられしにたゞ羽をのみかいつくろひて立日もなくなり給へるくやしさをいいとゞいはむ方なし」

 

とある。

 

 

 白菊の目にたてゝ見る塵もなし

 

 元禄7927日、大阪の園女の所で興行した時の発句。

 園女とは前に伊勢で会ったことがあったが、大阪へ来てたんだ。久しぶりだな。

 まあ、女性だから白菊にでも喩えておこう。粗探しはせずにね。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には

 

「是は園女が風雅の美をいへる一章なるべし。此日の一會を生前の名殘とおもへばその時の面影も見るやうにおもはるゝ也。」

 

とある。

 

 

 月(すむ)や狐こはがる(ちご)(とも)

 

 元禄7928日、畦止の家に之道、洒堂、盤ちゃん、素牛、泥足を加えた7人で集まって、一人づつ恋の句を詠んだ。

 稚児を連れたお坊さんが月明かりの中を寺を出て駆け落ちする場面にしてみた。

 稚児はまだ子供なので、夜道で狐に化かされるのを怖がる。

 

 

 秋深き隣は何をする人ぞ

 

 元禄7928日、明日の芝柏亭での興行の発句をあらかじめ芝柏に送っておいた。

 秋も深まる中みんな集まってくれて、隣は何をする人かな?もちろん俳諧だ。

 残念ながら当日体調を崩して興行は流れてしまった。早く治らないかなと思いつつ、時は過ぎて行く。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には

 

「畦止亭

 今宵は九月廿八日の夜なれば秋の名殘をおしむとて七種の戀を結題にしておのおのほつ句あり。是ハ泥足が其便集に出し侍れバ爰にしるさず。

 明日の夜は芝柏が方にまねきおもふよしにてほつ句つかはし申されし。」

 

とある。

 

 

 旅に(やん)で夢は枯野をかけ(めぐ)

 

 108日の夜中だったか、ふと目が覚めた。

 有明行燈がぼんやりと灯り、枕元にいるのは呑舟か。

 みんな今日は住吉神社に祈願に行ってたから、疲れて寝ちゃったかな。神無月だと言うのに。

 呑ちゃん、ちょっと筆の用意をしてくれ。一句思いついた。

 

註、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』には、

 

「八日

 之道すみよしの四所に詣して此度の延年をいのる所願の句ありしるさず。此夜深更におよびて介抱に侍りける呑舟をめされて硯の音のからからと聞えければいかなる消息にやとおもふに」

 

とある。

 

 

 清滝や波に(ちり)(こむ)青松葉

 

 ずっと寝てて日にちの感覚がなくなる。今日は109日か。

 うんんん‥枕元にいるのは盤ちゃんか‥。

 嵯峨に行った時の句、覚えてるか?

 大井川波に塵なし‥だったか。

 あれこの前の興行の白菊の句で「塵なし」を使っちゃったからな。

 何か気になって、これじゃ成仏できないな。

 

 月じゃなくて、そう、夏だから青松葉‥。

 

 

 

 うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。枕元には盤ちゃんがいる。晋ちゃんはまだ寝ているのかな。‥‥。

 

 昨夜は盤ちゃんが早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、盤ちゃんは若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば自分も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。

 俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、洒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。

 それにしても洒堂のやつ、俺が治してやるなんて言ったくせに、どこへ姿をくらませたか。

 

 何か騒がしくなったと思ったら、障子に蠅が集まってるのか。鳥餅棹なんて持ち出して。

 こういうのでもやはり上手い下手ってあるんだな。

 

 このネタで何か一句つくれな‥‥い‥‥か‥‥