宗因独吟「口まねや」の巻、解説

延宝の頃

初表

 口まねや老の鶯ひとり言     宗因

   夜起さびしき明ぼのの春

 ほの霞む枕の(くわ)(とう)かきたてて

   きせるにたばこ次の間の(すみ)

 気をのばし(ひざ)をも(のば)(つめ)奉公

   お鞠過ての汗いるるくれ

 月影も湯殿の外にながれ出

   ちりつもりてや露のかろ石

 

初裏

 秋風に毛を吹疵のなめし皮

   いはへて過る馬具の麁相(そせう)

 長刀もさびたる武士の出立に

   どの在所よりねるやねり衆

 (わらび)の根くだけてぞおもふ餅ならし

   過がてにする西坂の春

 有明のおぼろおぼろの佐夜の山

   無間の鐘に花やちるらん

 あだし世とおもひこそすれ出来分限

   いくらも立てする堂供養

 鎌倉や南の岸のかたはらに

   風によるをば()()よあらめよ

 帆かけ船はしり痔やみは押留て

   苫やの陰に侘た雪隠

 

二表

 さすらふる我身にし有はすきの道

   忍びあかしのおかたのかたへ

 織布のちぢみ髪にもみだれぞめ

   あかり窓より手をもしめつつ

 此人の此病をばみまはれて

   有馬の状は書つくしてよ

 うちとけぬ王子のゑぞしらぬ

   伯父(をぢ)(をひ)とても油断なさるな

 帰るさの道にかけ置狐わな

   古き内裏のつゐひちの下

 人しれず我行かたに番の者

   誰におもひをつくぼうさすまた

 哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき

   立市町は長き夜すがら

 

二裏

 引出るうしの時より肌寒み

   いのる貴布禰の川風くつさめ

 うき涙袖に玉散胡椒の粉

   やれ追剥(をひはぎ)といふもいはれず

 軍みてこしらゆる間に矢の使

   舟に扇をもつてひらいた

 花にふくこちへまかせとすくひ網

   霞の衣尻からげして

 春の月山の端にけてとちへやら

   かりの行衛も先丹波越

 借銭の数はたらでぞつばめ算

   問屋の軒のわらや出すらん

 はすは()(にご)りにしまぬ心せよ

   何かは露をお玉こがるる

 

三表

 おもふをば鬼一口に冷しや

   地獄の月はくらき道にぞ

 此山の一寸さきは谷ふかみ

   瀧をのぞめば五分のたましい

 晩かたに思ひがみだれて飛蛍

   天が下地はすきもののわざ

 大君の御意はをもしと打なげき

   采女の土器(かはらけ)つづけ三盃

 さそひ出水の月みる猿沢に

   おもひやらるる明州の秋

 牛飼のかいなくいきて露涙

   いつか乗べき塞翁(さいをう)が馬

 御旦那にざうり取より(つかへ)()

   菜つみ水汲薪わる寺

 

三裏

 児達を申入ては風呂あがり

   櫛箱もてこひ伽羅(はこ)もてこひ

 芦の屋の灘へ遊びに都衆

   ひとつ塩干やむはら住吉

 蛤もふんでは惜む花の浪

   さつとかざしの篭の山吹

 乗物に暮春の風や送るらん

   娌子のかへる里はるかなれ

 さげさせて人目堤を跡先に

   占の御用や月に恥らん

 夕露のふるきかづきを引そばめ

   雲井の節会高きいやしき

 おふなおふなおもんするなる年の賀に

   物の師匠となるはかしこき

 

名残表

 行は三人の道ことにして

   死罪流刑に又は閉門(へいもん)

 いさかひは扱ひすとも心あれな

   女夫の人の身をおもふかな

 そだてぬる中にかはゆき真の子

   うぐひすもりとなるほととぎす

 春雨の布留の杉枝(きり)すかし

   うへけん時のさくら最中

 むかし誰かかる栄耀の下屋敷

   川原の隠居焼塩もなし

 月にしも穂蓼(ほたで)斗の精進事

   松茸さそよこなたへこなたへ

 北山や秋の遊びの御供して

   見せ申つる名所旧跡

 

名残裏

 京のぼり旅の日記をかくのごと

   いく駄賃をかまかなひのもの

 大名の跡にさがつて一日路

   よはりもてゆく此肴町

 見わたせば花の錦の棚さびて

   藤咲戸口くれてかけかね

 おとがひもいたむる春の物思ひ

   かむ事かたき魚鳥のほね

 

      参考;『宗因独吟 俳諧百韻評釈』(中村幸彦著、一九八九、富士見書房)

初表

発句

 

 口まねや老の(うぐいす)ひとり言     宗因

 

 「口まねに老の鶯のひとり言(す)や」の倒置と思われる。

 鶯は他の鶯の(さえず)るのを聞いて、それを真似して囀るようになるという。飼われた鶯は、鶯笛で鳴き方を教える。

 中村幸彦氏は若い者の真似をしてこの御老体も独吟とやらをやってみようか、という風に解釈しているが、ここはむしろ梅翁自ら若い者に見本を示すために、この独吟百韻を作ったのではないかと思う。宗祇法師の『宗祇独吟何人百韻』のようなものではなかったかと思う。

 発句の意味はしたがって、後輩たちの口真似のためにも老いの鶯がここで独り言(独吟)を一巻奉げようではないか、という意味ではないかと思う。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。

 

 

   口まねや老の鶯ひとり言

 夜(おき)さびしき(あけ)ぼのの春

 (口まねや老の鶯ひとり言夜起きさびしき明ぼのの春)

 

 年寄りは早く目が覚める。若い頃は昼まで爆睡できたのに、歳を取るごとに、自然と早く目が醒めてしまうようになる。それもまだ暗い(あけぼの)に目が覚めてしまう。

 最後の「春」ほ放り込みだが、『(まくらの)草子(そうし)』の冒頭に、有名な「春はあけぼの」のフレーズがあるから無意味に放り込んでいるのではない。

 鶯に曙は、

 

 梅が枝の花にこづたふ鶯の

     声さへにほふ春の曙

              (しゅ)覚法(かくほっ)親王(しんのう)(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「春」で春。「夜起き」は夜分。

 

第三

 

   夜起きさびしき明ぼのの春

 ほの霞む枕の(くわ)(とう)かきたてて

 (ほの霞む枕の瓦灯かきたてて夜起きさびしき明ぼのの春)

 

 「(くわ)(とう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 灯火をともす陶製の道具。方形で上がせまく下が広がっている。〔文明本節用集(室町中)〕

  ※俳諧・毛吹草(1638)五「川岸の洞は蛍の瓦燈(クハトウ)哉〈重頼〉」

  ② 「かとうぐち(火灯口)①」の略。

  ※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「見附の鏡戸くゎとう赤壁残らず毀(こぼ)ち、込入たる体にて」

  ③ 「かとうびたい(火灯額)」の略。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「額際を火塔(クハタウ)に取て置墨こく、きどく頭巾より目斗あらはし」

  ④ 「かとうまど(火灯窓)」の略。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「つづれとや仙女の夜なべ散紅葉〈芭蕉〉 瓦灯(クハトウ)の煙に俤の月〈信章〉」

 

とある。ここでは①であろう。陶器製のランプと考えていい。

 陶器のスリットから光が漏れるだけなので、行灯ほど明るくはないが寝る時にはちょうど良い。それを「ほの霞む」とすることで春の季語となる。ただし本来の春の霞とは違うが、俳諧ではそれで良しとする。実質季語ではなく形式季語になる。

 「かきたてて」は灯心をかきたてることをいう。

 春の曙の霞むは、

 

 住吉の松のあらしもかすむなり

     遠里小野の春のあけぼの

              覚延法師(新勅撰集)

 

などの歌がある。

 

季語は「ほの霞む」で春、聳物(そびきもの)。「瓦灯」は夜分。

 

四句目

 

   ほの霞む枕の瓦灯かきたてて

 きせるにたばこ次の間の(すみ)

 (ほの霞む枕の瓦灯かきたててきせるにたばこ次の間の隅)

 

 ここでは時間は曙でなくてもいい。暗い中、瓦灯のほのかな灯りで煙管(きせる)と煙草を探していると、隣の部屋の隅にあった。あそこまで取りにいくの、面倒くさいなあ、というところか。

 

無季。「次の間」は居所(きょしょ)

 

五句目

 

   きせるにたばこ次の間の隅

 気をのばし膝をも伸す(つめ)奉公

 (気をのばし膝をも伸す詰奉公きせるにたばこ次の間の隅)

 

 「気をのばし」というのは「()(のばし)」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 心の慰め。気晴らし。気散じ。

  ※俳諧・犬子集(1633)二「見る春も気のはしをする梢哉〈重頼〉」

  〘名〙 のんびりすること。気晴らし。

  ※雑俳・黛山評万句合(175759)「束帯の気のべはぬぐとかしこまり」

  〘名〙 気持。気だて。気性。心ばえ。

  ※浄瑠璃・曾我会稽山(1718)四「若けれども亀菊は、侍まさりの気ばへといひ、義理強ひは傾城の習ひよもや如在は致すまじ」

 

とある。ここではのんびりするの意味か。

 「(つめ)奉公(ぼうこう)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、

 

 「常に主人の前に勤務していること。」

 

とある。

 主人がいつも見ているので、普段は緊張し、きちっと正座しているが。主人がいないときには、部屋の隅で気も膝も伸ばし、ちょっと一服煙草を吸う。

 

無季。

 

六句目

 

   気をのばし膝をも伸す詰奉公

 お鞠過ての汗いるるくれ

 (気をのばし膝をも伸す詰奉公お鞠過ての汗いるるくれ)

 

 前句の「膝をも伸す」を足を崩すことではなくストレッチのこととする。

 蹴鞠(けまり)が終って日が暮れて、汗を抜ぐえば張り詰めていた気持ちも緩め、膝を伸ばす。

 「汗いるる」は「汗沃るる(汗をそそぐ)」だろうか。

 「汗」が当時夏の季語だったかどうかという問題があるが、松永(まつなが)(てい)(とく)の『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)』には、

 

 「無言抄に夏の部に出せり。新式には是なし。汗は夏にかぎらず、病にも又恥をかきても、おもき物をもちても、あつぎをしても、湯茶(のみ)ても、常に人のながす物なり。(ある)説に汗と(ばかり)は雑なり、汗ほすとすれば夏と申されし。今思へば是もうきたる説なり。」

 

とある。

 汗が夏の季語かどうかは古くから諸説あったようではっきりとはしない。近代では夏の季語になっているが、近代俳句では何でもかんでも季語にしてしまえと乱発する傾向があるので、これも何とも言えない。

 

無季。

 

七句目

 

   お鞠過ての汗いるるくれ

 月影も湯殿の外にながれ(いで)

 (月影も湯殿の外にながれ出お鞠過ての汗いるるくれ)

 

 蹴鞠が終った後はサウナでまた一汗。汗も月の光も冷水も湯殿の外に流れ出ている。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

八句目

 

   月影も湯殿の外にながれ出

 ちりつもりてや露のかろ石

 (月影も湯殿の外にながれ出ちりつもりてや露のかろ石)

 

 かろ石(軽石)は角質を取るのに用いる。ただ、軽いので水を流すと塵と一緒に流れて行ったりする。

 月に露は、

 

 もろともに草葉の露のおきゐずは

     ひとりや見まし秋の夜の月

(あき)(なかの)卿女(きょうのむすめ)(金葉集)

 

を始めとして、数多くの歌がある。

 

季語は「露」で秋、降物。

初裏

九句目

 

   ちりつもりてや露のかろ石

 秋風に毛を(ふき)疵のなめし皮

 (秋風に毛を吹疵のなめし皮ちりつもりてや露のかろ石)

 

 中村注にもあるように、「毛を吹いて疵を求む」という、今では忘れられてしまった諺から来ている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「(毛を吹きわけて、傷を探し出す意) 好んで人の欠点を指摘する。また、わざと他人の弱点をあばいて、かえって、自分の欠点をさらけ出す。毛を吹いて過怠の疵を求む。」

 

 「かえって、自分の欠点をさらけ出す」ことを、今日ではブーメランという。

 秋風が吹いて、なめし皮の疵が露呈するが、とりあえずなめし皮の最後の仕上げで軽石を使って肉面をなめらかにする。

 露に秋風は、

 

 あだし野の露ふきみだる秋風に

     なびきもあへぬ女郎花(おみなえし)かな

              藤原(ふじわらの)(きん)(ざね)(金葉集)

 

などの歌がある。

 

季語は「秋風」で秋。

 

十句目

 

   秋風に毛を吹疵のなめし皮

 いはへて過る馬具の麁相さ

 (秋風に毛を吹疵のなめし皮いはへて過る馬具の麁相さ)

 

 「いはへて」は「(いば)ふ」でいななくこと。

 ざらざらした皮のことを「麁皮(そひ)」という。前句の「疵のなめし皮」を麁皮でできた馬具のこととするが、馬はそんなことも知らぬげにいなないて通る。

 馬耳東風の類義語に「秋風耳を過ぐ」というのがある。

 

無季。「馬」は獣類。

 

十一句目

 

   いはへて過る馬具の麁相さ

 長刀(なぎなた)もさびたる武士の出立(いでたち)

 (長刀もさびたる武士の出立にいはへて過る馬具の麁相さ)

 

 馬具が粗末なら、それに乗っている武士の刀も錆びている。

 謡曲『(はち)(のき)』、つまり「いざ鎌倉」の物語を本説にしている。

 

 「その諸軍勢の中に、ちぎれたる腹巻(はらまき)を着、()びたる薙刀(なぎなた)を持ち、痩せたる馬を自身ひかへたる武者(むしゃ)一騎あるべし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2980). Yamatouta e books. Kindle .

 

とある。

 

無季。「武士」は人倫。

 

十二句目

 

   長刀もさびたる武士の出立に

 どの在所よりねるやねり衆

 (長刀もさびたる武士の出立にどの在所よりねるやねり衆)

 

 「(ねり)(しゅう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「祭礼などに武者などの仮装行列をしてねり歩く人々。」

 

とある。前句を武士ではなく仮装の武者とする。

 

無季。「在所」は居所。「ねり衆」は人倫。

 

十三句目

 

   どの在所よりねるやねり衆

 (わらび)の根くだけてぞおもふ餅ならし

 (蕨の根くだけてぞおもふ餅ならしどの在所よりねるやねり衆)

 

 前句の「ねる」を餅を練ることとする。

 (わらび)(もち)は蕨の根を砕いて取り出した汁からデンプンを固め蕨粉を作り、それに水と砂糖を入れて火にかけながら練る。

 「くだけてぞおもふ」は中村注に、

 

 かのをかに萩かるをのこなはをなみ

     ねるやねりそのくたけてぞ思ふ

            (おおし)河内躬(こうちのみ)(つね)(拾遺和歌集)

 

を引用している。前句の「ねるやねり」から「くだけてぞおもふ」と繋げるのは、連歌の「歌てには」のバリエーションといっていいだろう。

 

季語は「蕨」の「餅」で春。

 

十四句目

 

   蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし

 (すぎ)がてにする西坂(にっさか)の春

 (蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし過がてにする西坂の春)

 

 西坂は東海道の日坂(にっさか)宿(しゅく)のこと。わらび餅が名物。

 

季語は「春」で春。「西坂」は名所。

 

十五句目

 

   過がてにする西坂の春

 有明(ありあけ)のおぼろおぼろの()()の山

 (有明のおぼろおぼろの佐夜の山過がてにする西坂の春)

 

 小夜の中山は金谷宿と日坂宿の間にある。

 そのまま読むと日坂を明け方に旅立ち、春の朧の有明の月を見ながら小夜の中山を越えるという意味になる。

 小夜の中山に有明は、

 

 関の戸をさそひし人はいでやらで

     ありあけの月のさやのなか山

              藤原定家(拾遺愚草)

 

の歌がある。和歌では「小夜の中山」は「さやのなかやま」と読む。

 

季語は「有明のおぼろ」で春、夜分、天象。「佐夜の山」は名所、山類。

 

十六句目

 

   有明のおぼろおぼろの佐夜の山

 無間の鐘に花やちるらん

 (有明のおぼろおぼろの佐夜の山無間の鐘に花やちるらん)

 

 「無間(むげん)の鐘」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。」

 

とある。

 ここでも前句の有明は有明行灯の意味にはならない。普通に明け方の月の意味になる。

 花の朧は、

 

 吉野山桜にかかる夕霞み

     花もおぼろの色はありけり

               ()鳥羽院(とばいん)(続古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。釈教。

 

十七句目

 

   無間の鐘に花やちるらん

 あだし世とおもひこそすれ出来(でき)分限(ぶげん)

 (あだし世とおもひこそすれ出来分限無間の鐘に花やちるらん)

 

 「(あだし)()」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「つねに移り変わるはかない世。無常の世の中。

  ※天満宮本拾遺(100507頃か)雑下「あだし世の (ためし)なりとぞ さわぐなる〈藤原兼家〉」

 

とある。

 「出来(でき)分限(ぶげん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「急に大金持になること。また、その人。にわかぶげん。

 ※俳諧・独吟一日千句(1675)二「仕合は日の出也けり出来分限 聟かむこなら家をとらせう」

 

とある。『独吟一日千句』は西鶴の『俳諧大句数』の前段階のもの。

 前句の「無間の鐘」の「この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちる」というのを説明しただけといえなくもないことは、中村注も指摘している。

 

無季。釈教。

 

十八句目

 

   あだし世とおもひこそすれ出来分限

 いくらも(たて)てする堂供養

 (あだし世とおもひこそすれ出来分限いくらも立てする堂供養)

 

 にわかに金持ちになって、何か良いことをしようと思ったのだろう。それが(どう)供養(くよう)か。

 堂供養はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「寺堂を建てて供養すること。また、その供養のために寺の周囲を稚児行列してねり歩くこと。

 ※今昔(1120頃か)三一「此の堂供養の間にも、兼てより可然き事共を様々に訪ければ」

 

とある。

 

無季。釈教。

 

十九句目

 

   いくらも立てする堂供養

 鎌倉や南の岸のかたはらに

 (鎌倉や南の岸のかたはらにいくらも立てする堂供養)

 

 鎌倉の南の岸といえば材木座海岸だが、そこの堂供養というと九品寺(くほんじ)のことか。ウィキペディアには、

 

 「この寺は、新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336年(建武3年)風航順西を開山として創建したものと伝えられる。」

 

とある。

 

無季。「鎌倉」は名所。「岸」は水辺。

 

二十句目

 

   鎌倉や南の岸のかたはらに

 風によるをば()()よあらめよ

 (鎌倉や南の岸のかたはらに風によるをば海松よあらめよ)

 

 「みる(見る)」に掛けている「海松(みる)」は海藻の一種。松の葉に似た緑藻。「あらめ(あらむの已然形)」に掛けている「あらめ」も海藻で、褐藻の一種。

 材木座海岸に打ち寄せられて見えるのは海松かあらめか。海松があったらいいな。

 「あらめ」は中村注によると一七一三年(正徳三)の四時堂其諺著『滑稽雑談』「六月」の条にあるという。この頃季語だったかどうかは不明。ちなみに「海松」は近代では春。

 

無季。「海松」は水辺。

 

二十一句目

 

   風によるをば海松よあらめよ

 帆かけ船はしり痔やみは押留て

 (帆かけ船はしり痔やみは

 

 

押留て風によるをば海松よあらめよ)

 

 「はしり痔」は裂肛のことで「切れ痔」とも言う。

 中村注は貝原益軒の『大和本草』を引いて、あらめが痔の薬だという。

 帆掛け舟の走るに「はしり痔」を掛けて、痔病みの者が舟を押しとめて、痔の薬のあらめがあったなら、とする。

 

無季。「帆かけ船」は水辺。

 

二十二句目

 

   帆かけ船はしり痔やみは押留て

 苫やの陰に(わび)た雪隠

 (帆かけ船はしり痔やみは押留て苫やの陰に侘た雪隠)

 

 舟を押し止めたのはトイレに行くためだった、とこれはシモネタ。

 「苫やの陰に(わび)た」までは和歌の趣向で何か風流なものでもあるかと思わせて、「雪隠」で落ちにする。

 苫屋に舟は、

 

 伊勢の海や(あま)の苫屋のもみぢ葉に

     舟流したる秋風ぞ吹く

              (ふじ)原基家(わらのもといえ)(夫木抄)

 

の歌がある。

 

無季。「苫や」は水辺。水辺が四句続く。

二表

二十三句目

 

   苫やの陰に侘た雪隠

 さすらふる我身にし(あれ)はすきの道

 (さすらふる我身にし有はすきの道苫やの陰に侘た雪隠)

 

 中村注は、

 

   堀川院御時百首歌奉けるとき旅歌

 さすらふる我身(わがみ)にしあれば象潟(きさかた)

     あまの苫屋にあまた旅寝ぬ

              藤原(ふじわらの)(あき)(なかの)()(そん)(新古今集)

 

を引いている。

 すきの道(数寄道:すきどう)はコトバンクの「世界大百科事典内の数寄道の言及」に、

 

 「17世紀には,数寄といえば侘茶を指すようになり,侘茶が茶の湯の本流として位置づけられるようになった。17世紀末に茶道の称がおこり,元禄年間(16881704)ころからは数寄道は茶道と呼ばれるようになる。茶道【日向 進】。」

 

とある。

 さすらいの茶人から、苫屋の影の侘び、と付くが、最後は雪隠で落ちになる。

 

無季。旅体。「我身」は人倫。

 

二十四句目

 

   さすらふる我身にし有はすきの道

 忍びあかしのおかたのかたへ

 (さすらふる我身にし有はすきの道忍びあかしのおかたのかたへ)

 

 「すきもの」は古くは色好みの意味だったし、近代でもその意味で用いられている。

 『源氏物語』の明石の君を江戸時代の遊郭風に「明石のお方」と呼び、須磨明石にやってきた光源氏の物語を当世風に作り変えている。

 

無季。恋。「おかた」は人倫。

 

二十五句目

 

   忍びあかしのおかたのかたへ

 (おり)(ぬの)のちぢみ髪にもみだれぞめ

 (忍びあかしのおかたのかたへ織布のちぢみ髪にもみだれぞめ)

 

 「ちぢみ髪(縮髪)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① ちぢれている頭の毛。ちぢれっ毛。色欲が強いとされた。ちぢゅうがみ。

  ※評判記・満散利久佐(1656)「とかく、ねふりめ成女也、縮髪にて、いかが侍らん」

  ② 手を加えて縮れ毛にした髪。

  ※随筆・守貞漫稿(183753)九「男女ともに縮み髪はやりて之を賞せり」

 

とある。

 明石と(ちぢみ)は明石縮という織物の縁があり、そこから「織布のちぢみ」と掛けて「縮み髪」を導き出す。

 「乱れ染め」というと、

 

 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに

     乱れそめにし我ならなくに

              (みなもとの)(とおる)(古今集)

 

の歌が百人一首でもよく知られている。「しのぶもぢずり」については諸説あるが、筆者は『奥の細道道祖神の旅』(鈴呂屋書庫)には『万葉集の服飾文化』(小川安郎、1986、六興出版)を参考にして、

 

 「摺り衣というのは植物や鉱物などをすり潰した染料を衣類に擦り付けるだけの、衣類の着色方法としては最も原始的なものだ。しのぶもぢ摺りというのは、おそらく染料を着けた平らな岩に衣を擦り付けることによって不定形の乱れ模様を着けていたのだろう。」

 

と推測した。「乱れ染め」は和歌では恋に心が乱れることと掛けて用いられる。

 明石縮の織布の縮みのような縮み髪の女はその髪のように恋に心を乱し、明石の御方の方へ忍ぶ、と付く。

 

無季。恋。

 

二十六句目

 

   織布のちぢみ髪にもみだれぞめ

 あかり窓より手をもしめつつ

 (織布のちぢみ髪にもみだれぞめあかり窓より手をもしめつつ)

 

 あかり窓は明かりを取るための障子を張った窓。

 「手を締める」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 相手の手を握りしめる。多く、男が恋する女の手を握る時にいう。

  ※俳諧・犬子集(1633)七「度々人の手をばしめけり 折やつす山の早蕨たばねわけ〈徳元〉」

  ② やり方をひきしめる。きびしくする。

  ※評判記・難波の㒵は伊勢の白粉(1683頃)三「もと作りからそれしゃが手をしめていたほどに出来のわるからう筈もなし」

  ③ 商談、約束、または和解などの成立、会合の終わりなどを祝って、参会者一同が拍手する。手締めをする。また転じて、めでたく結着をつける。手をたたく。

  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)七「双六の手をもしめあふ戯れに たがひにういつうかれめの袖〈似空〉」

  ※歌舞伎・小袖曾我薊色縫(十六夜清心)(1859)四立「いい所を二三番受たら、手を〆てお仕舞被成い」

 

とあり、この場合は①の意味。ちなみに③は今日で言う「手締め」のこと。一本締めと三本締めがある。

 禁じられた仲なのか、あかり窓を開けてこっそりと手を握り合う。

 

無季。恋。「あかり窓」は居所。

 

二十七句目

 

   あかり窓より手をもしめつつ

 (この)人の此病をばみまはれて    宗因

 (此人の此病をばみまはれてあかり窓より手をもしめつつ)

 

 中村注は『論語』「雍也(ようや)」を本説とする。

 

 「伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也、而有斯疾也、斯人也、而有斯疾也。」

 (伯牛には病気があった。子が訪ねて行って、自らその手を取って(みちび)いて言った。これは助からない、運命だ。この人にこんな病気があるとは、この人にこんな病気があるとは。)

 

の「自牖孰其手(牖よりその手を執り)」が前句になる。「(ゆう)」は漢字ペディアに「導くという意味の外に「まど。れんじまど。格子をはめた窓。」とある。それに「斯人也、而有斯疾也(この人にしてこの病あるや)」を付ける。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十八句目

 

   此人の此病をばみまはれて

 有馬の(じゃう)(かき)つくしてよ

 (此人の此病をばみまはれて有馬の状は書つくしてよ)

 

 前句の病を恋の病として有馬の湯を付ける。

 

 あい思わぬ人を思うぞ病なる

     なにか有馬の湯へも行くべき

              よみ人しらず(古今和歌六帖)

 

の歌もある。

 後に草津節で、「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」と唄われる。草津温泉は戦国時代以降なので、古代には知られてなかった。

 

無季。

 

二十九句目

 

   有馬の状は書つくしてよ

 うちとけぬ王子のゑぞしらぬ

 (うちとけぬ王子のゑぞしらぬ有馬の状は書つくしてよ)

 

 有馬といえば有間(ありまの)皇子(みこ)。とはいえ、ここでは単に言葉の縁で登場するだけで、打ち解けぬ王子への恋文を有馬の状と洒落てみただけのもの。

 

無季。「王子」は人倫。

 

三十句目

 

   うちとけぬ王子のゑぞしらぬ

 伯父(をぢ)(をひ)とても油断なさるな

 (うちとけぬ王子のゑぞしらぬ伯父甥とても油断なさるな)

 

 この場合の王子は大海人(おおあまの)皇子(みこ)大友皇子(おおとものみこ)のことか。

 天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子とが争い、大友皇子を滅ぼした。世に壬申(じんしん)の乱という。

 

無季。「伯父甥」は人倫。

 

三十一句目

 

   伯父甥とても油断なさるな

 帰るさの道にかけ(おく)狐わな

 (帰るさの道にかけ置狐わな伯父甥とても油断なさるな)

 

 狂言の『(つり)(ぎつね)』の本説に転じる。

 『釣狐』のあらすじは、ウィキペディアには、

 

 「猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが‥‥」

 

とある。

 

無季。「狐」は獣類。

 

三十二句目

 

   帰るさの道にかけ置狐わな

 古き内裏(だいり)のつゐひちの下

 (帰るさの道にかけ置狐わな古き内裏のつゐひちの下)

 

 「つゐひち」は築地(ついじ)のことだという。築地はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「泥土を築き固めた土手のような垣の上部を、瓦(かわら)や板で葺()いた土塀。築垣(ついがき)ともいう。古代から宮城、寺院、邸宅などの周囲につくられた。寄柱(よせばしら)を立て、筋違(すじかい)、貫(ぬき)を入れたものと、柱などのないものがある。現存する最古の築地としては、法隆寺に鎌倉中期のものと思われる西院(さいいん)大垣などがあり、国の重要文化財に指定されている。[吉田早苗]」

 

とある。

 古都も荒れ果てて、今では狐の棲む里になっている。

 

無季。「つゐち」は居所。

 

三十三句目

 

   古き内裏のつゐひちの下

 人しれず(われ)(ゆく)かたに番の者

 (人しれず我行かたに番の者古き内裏のつゐひちの下)

 

 中村注にある通り、『伊勢物語』第五段の、

 

 「むかし、をとこ有けり。ひむがしの五条わたりに、いと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、その通ひ路に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、いけどえ逢はで帰りけり。さてよめる。

 

 人知れぬわが通ひ路の関守は

     よひよひごどにうちも寝なゝむ

 

とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条の后にしのびてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ給ひけるとぞ。」

 

の本説による付け。関守を「番の者」とした所が江戸時代風になる。

 この段を猫の恋にしたものが、

 

 猫の(へっ)(つい)の崩れより通ひけり    芭蕉

 

 この句も延宝五年だから時期的には近い。

 

無季。恋。「人」「我」「番の者」は人倫。

 

三十四句目

 

   人しれず我行かたに番の者

 誰におもひをつくぼうさすまた

 (誰におもひをつくぼうさすまた人しれず我行かたに番の者)

 

 「思ひつく」は古語では「好きになる」という意味になる。

 前句の「人しれず我行」をこっそり恋人に逢いに行く意味にして、一体誰を好きになったか、となるわけだが、その「思ひをつく」の「つく」から番人の持っている(つく)(ぼう)(さす)(また)を導き出す。突棒はT字型の棒で、刺股は先がU字型になっている。

 突棒・刺股は犯罪者を生け捕りにするのに用いるが、ウィキペディアによれば、「『和漢(わかん)三才(さんさい)図会(ずえ)』には、関人(せきもり)・門番が用いるものとしての記述がみられる。」とある。

 

無季。恋。「誰」は人倫。

 

三十五句目

 

   誰におもひをつくぼうさすまた

 哥舞妃する月の鼠戸(ねずみど)さしのぞき

 (哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき誰におもひをつくぼうさすまた)

 

 「哥舞妃」は歌舞伎のこと。「鼠戸」は鼠木戸のことで、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「江戸の劇場の正面入口の称。見物人が穴へ入る鼠のように体を曲げて入ったためこの名がついたといわれる。江戸三座では,中村座は竪子,市村座は菱形,森田座は真四角と,木戸格子の組み様が違い,ここに端番 (はなばん) がいた。」

 

とある。

 中村注によれば、「早くお国歌舞伎などの頃には、小屋の鼠戸の辺に後々にまで続いた毛槍や梵天(劇場の櫓の上などに立てる御幣)と共に、突棒、刺股が飾ってあった」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.83)という。

 お国歌舞伎は出雲のお国の頃の歌舞伎で慶長の頃になる。当時は女歌舞伎で「哥舞妃」という表記もその名残であろう。ただ、その女歌舞伎は寛永六年(一六二九)に禁止され、若衆歌舞伎となり、やがて野郎歌舞伎となる。

 この独吟の頃はまだ市川團十郎 (初代)がようやくデビューした頃で、今の歌舞伎の草創期といえよう。この時代ならまだ鼠戸に突棒・刺股があったのかもしれない。

 夜の鼠戸は月が照らし、「さしのぞき」は月の光が差し覗くのと役者目当てに来た人が鼠戸を覗くのとを掛けている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十六句目

 

   哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき

 (いち)市町(たつまち)は長き夜すがら

 (哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき立市町は長き夜すがら)

 

 市の立つような大きな町は夜も眠らない。

 夜すがたの月は、

 

 終夜(よもすがら)見てをあかさむ秋の月

     こよひのそらにくもなからなん

              平兼(たいらのかね)(もり)(拾遺集)

 

季語は「長き夜」で秋、夜分。

二裏

三十七句目

 

   立市町は長き夜すがら

 引(いづ)るうしの時より肌寒み

 (引出るうしの時より肌寒み立市町は長き夜すがら)

 

 牛車は既に守武の頃には廃れていたが、荷物の運搬には用いられていた。そのばあいは「ぎっしゃ」ではなく「うしぐるま」という。

 前句の「市」を牛市のこととし、「引出るうし」は市場に出す牛で、丑の刻と掛けている。

 牛市は大阪の四天王寺の牛市がよく知られている。秀吉の時代からあったという。

 市場の日には夜中のうちから牛が運び込まれたりしたのだろう。

 肌寒しは、

 

 朝ぼらけ荻の上葉の露見れば

     ややはだ寒し秋の初風

              曽祢(そねの)好忠(よしただ)(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「肌寒み」で秋。「うしの時」は夜分。

 

三十八句目

 

   引出るうしの時より肌寒み

 いのる貴布禰(きふね)の川風くつさめ

 (引出るうしの時より肌寒みいのる貴布禰の川風くつさめ)

 

 前句を丑の刻参りのこととし、場面を京都の貴船(きふね)神社(じんじゃ)に転じる。

 ウィキペディアには、

 

 「また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルで賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし『丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻』に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には、丑の刻であるかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に、本来の意味が変質したものと思われる。」

 

とある。

 ただ、丑の刻というと肌寒く、川風にくしゃみをする。

 

無季。神祇。「貴布禰」は名所。「川風」は水辺。

 

三十九句目

 

   いのる貴布禰の川風くつさめ

 うき涙袖に玉(ちる)胡椒の粉

 (うき涙袖に玉散胡椒の粉いのる貴布禰の川風くつさめ)

 

 胡椒でくしゃみするというのは宗因の時代からの古典的なネタだったようだ。延宝二年刊『大坂独吟集』「十いひて」の巻七十句目にも、

 

   我見ても常住おろすこせうのこ

 同じ拍子にくさめくつさめ    ()(らく)

 

の句がある。

 中村注は『和漢(わかん)三才(さんさい)図会(ずえ)』の、

 

 「胡椒、辛気、鼻ニ入レバ則チ嚔(ハナヒ)ル、故ニ誤リテ物ノ鼻孔ニ入リ出デザル者ハ、傍ニ胡椒ノ末ヲ撒キテ嚔ヒラシムレバ随ツテ出ヅ。」

 

を引用している。

 三十八句目のところで引用したウィキペディアに貴船神社が縁結びの神とあったように、恋に悩む女性が貴船を詣でたが、袖に胡椒の粉がついていてくしゃみをする。

 胡椒は消化器系の臓器を暖め、食あたり水あたりなどの効くということで、旅のときに持ち歩くことも多かったという。それがたまたま袖にかかってしまったのだろう。

 

無季。

 

四十句目

 

   うき涙袖に玉散胡椒の粉

 やれ追剥(をひはぎ)といふもいはれず

 (うき涙袖に玉散胡椒の粉やれ追剥といふもいはれず)

 

 胡椒を振りかけてくしゃみしている間に物を奪ってゆくという追剥がいたのだろうか。「追剥だーっ!」と叫びたくてもくしゃみが止まらない。

 

無季。

 

四十一句目

 

   やれ追剥といふもいはれず

 (いくさ)みてこしらゆる間に矢の使

 (軍みてこしらゆる間に矢の使やれ追剥といふもいはれず)

 

 「矢の使」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「頻繁(ひんぱん)な催促の使い。また、至急を告げる使者。〔俳諧・毛吹草(1638)〕

 ※仮名草子・是楽物語(165558)上「此事をききて、やのつかひをたてたりけるこそ難義なれ」

 

とある。

 中村注では「こしらゆる」は腹ごしらえのことだという。単純に敵軍が見えて我軍も戦いの準備にとも取れる。

 とにかく至急を告げる使者がやってきたものの、敵軍が迫ってるのに追剥の報告なんて小さすぎて、そりゃあ言えないよな。

 

無季。「使」は人倫。

 

四十二句目

 

   軍みてこしらゆる間に矢の使

 舟に扇をもつてひらいた

 (軍みてこしらゆる間に矢の使舟に扇をもつてひらいた)

 

 これは那須与一(なすのよいち)の物語。わかりやすい。「使(つかひ)」を「番(つがひ)」と読み替えたか。

 

無季。「舟」は水辺。

 

四十三句目

 

   舟に扇をもつてひらいた

 花にふくこちへまかせとすくひ網

 (花にふくこちへまかせとすくひ網舟に扇をもつてひらいた)

 

 「すくひ網」は袋状の網で、これを用いて小型の船で小魚や小海老などを掬い取る。

 花に東風(こち)の吹く頃はイカナゴ漁の季節で、「こちにまかせろ」とばかりに(すく)い網を投げる。この掬い網が二本の棒の間に網を張った扇のような形をしていた。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「すくひ網」は水辺。

 

四十四句目

 

   花にふくこちへまかせとすくひ網

 霞の衣尻からげして

 (花にふくこちへまかせとすくひ網霞の衣尻からげして)

 

 「尻からげ」は尻端折りのことで、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟むこと。しりっぱしょり。しりからげ。」

 

とある。

 『新撰(しんせん)(いぬ)筑波集(つくばしゅう)』の、

 

   霞の衣すそは濡れけり

 佐保(さほ)(ひめ)の春立ちながら尿(しと)をして

 

髣髴(ほうふつ)させるが、ここではシモネタではなく尻からげして裾に東風で散った桜の花びらを集めている、ちょっと可愛い仕草で、それで足が見えてエロチックな趣向に変えている。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

四十五句目

 

   霞の衣尻からげして

 春の月山の()にけてとちへやら

 (春の月山の端にけてとちへやら霞の衣尻からげして)

 

 「にけてとちへやら」は「逃げてどちへやら」。

 逃げる時には、そのままだと着物の裾が邪魔でうまく走れないため、尻からげにする。

 中村注は『古今集』の在原業平(ありわらのなりひら)の歌を引用している。

 

   これたかのみこのかりしける

   ともにまかりて、やとりにかへりて

   夜ひとよさけをのみ物かたりをしけるに、

   十一日の月もかくれなむとしけるをりに、

   みこ、ゑひてうちへいりなむとしけれは

   よみ侍りける

 あかなくにまたきも月のかくるるか

     山のはにけていれすもあらなむ

               在原業平(古今集)

 

 明け方になってまだ月に飽いていないのに隠れてしまったか、山の端に逃げて、という歌だ。

 霞みを纏った朧月が、その裾をからげてスタコラサッサと逃げてゆく様子は確かに笑える。

 

季語は「春の月」で春、夜分、天象。「山の端」は山類。

 

四十六句目

 

   春の月山の端にけてとちへやら

 かりの行衛も(まづ)丹波(たんば)(ごえ)

 (春の月山の端にけてとちへやらかりの行衛も先丹波越)

 

 山の端に逃げた月はどこへ行ったという上句を受けて、帰る雁と一緒に丹波を越えて行ったとする。

 丹波越えは山陰街道で丹波路とも言う。京都から見ると西側の山を越え、亀岡、福知山を経て鳥取へと抜けてゆく。

 

「かりの行衛(帰る雁)」は春、鳥類。「丹波」は名所。

 

四十七句目

 

   かりの行衛も先丹波越

 借銭の数はたらでぞつばめ算

 (借銭の数はたらでぞつばめ算かりの行衛も先丹波越)

 

 江戸時代の商人の間では帳簿の技術が発達し、複式簿記に近いものまであったという。

 複式簿記は資産と負債を左右に分けて表記し、資産-負債=純資産になるので、これを資産(左:借方)と負債+純資産(右:貸方)というふうに左右に分けて表記する。

 「つばめ算」は合算のことだが、帳尻合せのこともつばめ算と言った。借方(資産)の方が不足しているとすれば、借りた金がどこかへ消えてしまっているので、資産の一部を誰かが横領している疑いがある。それを誤魔化すためにつばめ算をする。

 中村注が引用している『犬子集(えのこしゅう)』(寛永十年刊)の、

 

   春はただ帰る雁かね追々に

 本利そろゆる燕さん用

 

に似ている。これは前句の「雁かね」を「借り金」に取り成して、拝借していた金を追々返すことで、帳尻を元に戻すという句だったが、宗因の句だとどうやって帳尻を合わせたのか、より高度な誤魔化しのテクニックが期待される。

 

無季。

 

四十八句目

 

   借銭の数はたらでぞつばめ算

 問屋の軒のわらや出すらん

 (借銭の数はたらでぞつばめ算問屋の軒のわらや出すらん)

 

 「藁を出す」は中村注によれば、小学館の『日本国語大辞典』に、「かくしている短所・欠点をさらけ出す。失敗をしでかす。ぼろを出す」の説明があるという。

 軒にしても「軒が傾く」という言葉があるように、横領を繰り返し、そのつど姑息な帳尻合せを続けてゆけば、問屋の軒も傾き、ぼろが出てしまうことになる。

 

無季。

 

四十九句目

 

   問屋の軒のわらや出すらん

 はすは()(にご)りにしまぬ心せよ

 (はすは女が濁りにしまぬ心せよ問屋の軒のわらや出すらん)

 

 「はすは()」は蓮っ葉な女のこと。

 「濁りにしまぬ」は「濁りに染まぬ」という字を当てる。中村注は『古今集』の、

 

 (はちす)()の濁りにしまぬ心もて

     なにかは露を玉とあざむく

               僧正(そうじょう)遍照(へんじょう)

 

の歌を引用している。

 これを蓮っ葉女にたぶらかされないように心せよ、軒も傾く、と(とが)めてにはにする。

 

無季。恋。

 

五十句目

 

   はすは女が濁りにしまぬ心せよ

 何かは露をお玉こがるる

 (はすは女が濁りにしまぬ心せよ何かは露をお玉こがるる)

 

 先に引用した僧正遍照の歌から歌てにはで「何かは露を」を導き出す。そして露の玉を「お玉さん」という蓮葉女の名前にして、何でお玉のように蓮葉女に恋焦がれるものぞ、とする。

 このあたりは連歌師としての宗因のテクニックが冴える。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

三表

五十一句目

 

   何かは露をお玉こがるる

 おもふをば(おに)一口(ひとくち)(すさま)しや

 (おもふをば鬼一口に冷しや何かは露をお玉こがるる)

 

 「(おに)一口(ひとくち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 「伊勢物語」第六段の、雷雨の激しい夜、女を連れて逃げる途中で、女が鬼に一口で食われてしまったという説話。転じて、はなはだしい危難に会うこと。また、その危難。鰐(わに)の口。虎口(ここう)

  ※謡曲・通小町(1384頃)「さて雨の夜は目に見えぬ、鬼ひと口も恐ろしや」

  ② 鬼が人を一口で飲み込むように、激しい勢いであること。物事をてっとり早く、極めて容易に処理してしまうこと。

  ※浄瑠璃・栬狩剣本地(1714)五「惟茂殺すは己(おのれ)を頼まず、鬼一口にかんでやる」

 

とある。

 ここでは①の意味と思われる。

 ②の意味については、中村注は、

 

 「物のついでに述べれば、『和漢故事要言』(宝永二年)に、

 

 鬼一口 ト云ハ余ナル小事ニテ為ニ足ズト云ノ心、又心ヤスク為ヤスキ事ニテ取カカリサヘスレバ、瞬ノ間ニモ出来ル抔ト云心ニ云也(以下『伊勢物語』の本分を引く)

 

とある。」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.109

 

と記している。英語で言うa piece of cakeのようなものか。「鬼滅の刃」の鬼というよりは、「進撃の巨人」の巨人のように人を平らげたのだろうか。まあ、いずれにせよ凄まじい。

 『伊勢物語』第六段には、

 

 「はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

  白玉かなにぞと人の問ひし時

     つゆとこたへて消えなましものを」

 

とあるものの、これには落ちがあって、

 

 「御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。」

 

というのが真相だった。

 

季語は「冷し」で秋。恋。

 

五十二句目

 

   おもふをば鬼一口に冷しや

 地獄の月はくらき道にぞ

 (おもふをば鬼一口に冷しや地獄の月はくらき道にぞ)

 

 「露」「(すさま)し」と来て秋の三句目で月を出す。それも地獄の月。現世の月のように明るくはないようだ。月食の時のあの赤銅色の月(ブラッドムーン)だろうか。

 地獄には当然恐い鬼がいる。何度も何度も食べられたりするのだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

五十三句目

 

   地獄の月はくらき道にぞ

 (この)山の一寸さきは谷ふかみ

 (此山の一寸さきは谷ふかみ地獄の月はくらき道にぞ)

 

 これはまさに「一寸先は闇」だ。

 前句は「地獄の月は、暗き道にぞ(明るく照らして欲しいものだ)」と読み替えてもいいかもしれない。それならばまさに地獄に仏だ。

 

無季。「山」は山類。

 

五十四句目

 

   此山の一寸さきは谷ふかみ

 瀧をのぞめば五分のたましい

 (此山の一寸さきは谷ふかみ瀧をのぞめば五分のたましい)

 

 「五分のたましい」というと、「一寸の虫にも五分の魂」という諺が浮かんでくる。

 ただ、この場合はあくまで前句の「一寸」に「五分」を縁で付けてだけで、深い谷の瀧を見れば魂が半分に削られる思いだという意味だろう。

 これが虫だったら魂が縮むこともあるまい。

 

 (かけはし)やあぶなげもなし蝉の声    許六(きょりく)

 

はだいぶ後の句だが。

 

無季。「瀧」は山類。

 

五十五句目

 

   瀧をのぞめば五分のたましい

 (ばん)かたに思ひがみだれて(とぶ)

 (晩かたに思ひがみだれて飛蛍瀧をのぞめば五分のたましい)

 

 前句の「五分のたましい」から虫である蛍を登場させる。

 蛍は女の恋心で、中村注も、

 

   男に忘られて侍ける頃、貴船にまゐりて、

   みたらし河に蛍の(とび)侍りけるを見てよめる

 物思へば沢の蛍も我身より

     あくがれいづる玉かとぞ見る

              和泉式部(いずみしきぶ)(後拾遺集)

 

の歌を引用している。

 

季語は「蛍」で夏、虫類。恋。「晩かた」は夜分。

 

五十六句目

 

   晩かたに思ひがみだれて飛蛍

 天が下地(したぢ)はすきもののわざ

 (晩かたに思ひがみだれて飛蛍天が下地はすきもののわざ)

 

 「下地(したぢ)」は古語では本性の意味もある。

 前句の飛ぶ蛍は比喩で、夜に思い乱れ飛んでいるのは天下の好き物ばかりだ。遊郭の風景だろう。天和(てんな)三年刊()(かく)編『(みなし)(ぐり)』の、

 

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉     其角

 

の句が思い浮かぶ。

 

無季。恋。

 

五十七句目

 

   天が下地はすきもののわざ

 大君の御意はをもしと打なげき

 (大君の御意はをもしと打なげき天が下地はすきもののわざ)

 

 「下地」のは本心という意味もあり、ここでは前句は「天が求めているのは好きもののわざだ」ということで、御門(みかど)がまた女のことで無理難題を吹っかけたのだろう。

 御門でなくても、無理難題を吹っかける上司というのは困ったものだ。『(さる)(みの)』の「梅が香に」の巻の八句目、

 

   御頭(おかしら)へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

 

の御頭も困ったもんだが。

 

無季。「大君」は人倫。

 

五十八句目

 

   大君の御意はをもしと打なげき

 采女(うねめ)土器(かはらけ)つづけ三盃

 (大君の御意はをもしと打なげき采女の土器つづけ三盃)

 

 「采女(うねめ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「女官の一つ。天皇に近侍(きんじ)して寝食に奉仕する。大和朝廷時代や律令時代には,全国の国造(くにのみやつこ)や郡司が未婚の姉妹・子女を差し出し,祭祀(さいし)に奉仕させるなど宗教的な意味や人質としての政治的な意味もあった。やがて形式化し人数も減り,中・近世には諸大夫(しょだいぶ)の娘がこれを務めた。」

 

とある。「土器」は「かはらけ」と読む。

 これはいわゆる「駆けつけ三杯」であろう。まあ、遅刻はしない方がいい。

 

無季。「采女」は人倫。

 

五十九句目

 

   采女の土器つづけ三盃

 さそひ(いで)水の月みる猿沢に

 (さそひ出水の月みる猿沢に采女の土器つづけ三盃)

 

 猿沢の池は奈良興福寺の前にある。興福寺の五重塔が水に映る風景はよく知られている。

 前句の「采女の土器」で時代設定は古代なので、平城京の猿沢の池を出し、そこで月見の宴とする。猿沢の池は天平二十一年(七四九年)に造られたという。

 猿沢の池のほとりには采女神社がある。ウィキペディアによると、

 

 「奈良時代、天皇の寵愛が衰えたことを嘆いた天御門の女官(采女)が猿沢池に入水し(采女伝説)、この霊を慰めるために建立されたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜にして社殿が西を向き、池に背を向けたという。

 旧暦815日の例祭は采女祭と呼ばれ、この采女の霊を慰めるために執り行われる。」

 

だという。

 水の月に猿沢の「猿」の字は、水に映る月を取ろうとする猿の故事も思い起こさせる。叶わぬことのない願いは多くの人の共感を誘い、画題にもなっている。日光東照宮神神厩舎の三猿は有名だが、池を覗き込む猿と手を伸ばす猿の像もある。

 古代の大宮人も猿沢の池に酒を酌み交わし、叶わぬ夢を語り合っていたのだろう。

 

季語は「月みる」で秋、夜分、天象。「猿沢」は名所、水辺。

 

六十句目

 

   さそひ出水の月みる猿沢に

 おもひやらるる明州(めいしう)の秋

 (さそひ出水の月みる猿沢におもひやらるる明州の秋)

 

 明州は中国の寧波(ニンポー)の古名だという。上海・杭州・紹興(昔の会稽)に近い。

 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が帰国をしようとして明州を訪れ、そこで詠んだ歌はあまりにも有名だ。

 

   もろこしにて月を見てよみける

 あまの原ふりさけ見れば春日なる

     三笠の山に出でし月かも

             阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(古今集)

 

これには、

 

 「この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。」

 

という左注がある。

 三笠の山を望む猿沢の池では、明州で同じ月を見ていた阿倍仲麻呂のことが思いやられる。

 

季語は「秋」で秋。

 

六十一句目

 

   おもひやらるる明州の秋

 牛飼(うしかひ)のかいなくいきて露涙

 (牛飼のかいなくいきて露涙おもひやらるる明州の秋)

 

 中村注は謡曲『(とう)(せん)』の、

 

「これは唐土(もろこし)明州(みょおじう)の津に、祖慶(そけい)官人(くわんにん)と申す者なり。われ(はか)らざるに日本(にほん)に渡り、牛馬(ぎうば)をあつかひ草刈(くさかり)(ぶえ)の、高麗(こま)唐土(もろこし)をば名にのみ聞きて過ぎし身の、あら故郷(こきょお)恋しや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.2438-2439). Yamatouta e books. Kindle .

 

を引いている。

コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「謡曲。四番目物。外山吉広(とびよしひろ)作という。捕虜の唐人祖慶官人を慕い、二人の子供が唐から迎えに来る。日本でもうけた二人の子供が帰国を引き留め、官人は困って死のうとするが、日本の子供も同行を許される。」

 

とある。

 明州に棲んでいた祖慶官人が捕虜となって日本の箱崎で牛飼いとなって十三年の時を過ごす。

 

季語は「露」で秋、降物。「牛飼」は人倫。

 

六十二句目

 

   牛飼のかいなくいきて露涙

 いつか乗べき塞翁(さいをう)が馬

 (牛飼のかいなくいきて露涙いつか乗べき塞翁が馬)

 

 「塞翁が馬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。 〔「淮南子人間訓」から。昔、塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが、名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際に兵役をまぬがれて無事であったという話から〕」

 

とある。

 ただ、いつか逃げた馬が駿馬を率いて帰ってくる事を期待してしまうと、それこそ「株を守る」になってしまう。

 

無季。「馬」は獣類。

 

六十三句目

 

   いつか乗べき塞翁が馬

 御旦那にざうり(とり)より仕来て

 (御旦那にざうり取より仕来ていつか乗べき塞翁が馬)

 

 これは豊臣(とよとみの)(ひで)(よし)。わかりやすい。

 

無季。「御旦那」は人倫。

 

六十四句目

 

   御旦那にざうり取より仕来て

 菜つみ水(くみ)薪わる寺

 (御旦那にざうり取より仕来て菜つみ水汲薪わる寺)

 

 中村注は「拾遺集」の、

 

   大僧正(だいそうじょう)行基(ぎょうき)よみ給ひける

 法華経を我がえしことは(たきぎ)こり

     菜つみ水くみつかへてぞえし

 

を引用し、これに基ネタがあったことも記している。『法華経』の「提婆達多品」に「即随仙人供給所須。採果汲水拾薪設食。」という一節があるという。

 行基は行基菩薩とも呼ばれ、ウィキペディアによれば、

 

 「道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。」

 

だという。こういう立派な人にも下積み時代はあった。

 

無季。釈教。

三裏

六十五句目

 

   菜つみ水汲薪わる寺

 (ちご)達を申入(まうしいり)ては風呂あがり

 (児達を申入ては風呂あがり菜つみ水汲薪わる寺)

 

 お寺といえば(ちご)

 「申入(まうしいり)て」は招待するということ。アニメで言えば温泉回か。

この頃からお寺などを中心に、湯船にお湯を張った(すい)風呂(ぶろ)が広まっていった。それまでは蒸し風呂が主流だった。

 

無季。恋。「児達」は人倫。

 

六十六句目

 

   児達を申入ては風呂あがり

 櫛箱もてこひ伽羅筥(きゃらばこ)もてこひ

 (児達を申入ては風呂あがり櫛箱もてこひ伽羅筥もてこひ)

 

 風呂上りだから髪を整えるので、「櫛箱持って来い」となる。

 同様に「伽羅箱」も持って来いというわけだが、中村注によると、ここで言う伽羅は香木ではなく伽羅の油だという。

 「伽羅の油」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた。

  ※俳諧・玉海集(1656)一「薫れるは伽羅の油かはなの露〈良俊〉」

  ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「いにしへは女の伽羅(キャラ)の油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成しを」

 

とある。

 

無季。恋。

 

六十七句目

 

   櫛箱もてこひ伽羅筥もてこひ

 芦の屋の(なだ)へ遊びに(みやこ)(しゅう)

 (櫛箱もてこひ伽羅筥もてこひ芦の屋の灘へ遊びに都衆)

 

 中村注は、『伊勢物語』第八十七段を引用している。

 

 「むかし、男、津の国、()(はら)の郡、蘆屋の里に、しるよしして、行きて住みけり。むかしの歌に、

 

 蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみ

     黄楊(つげ)の小櫛もささず来にけり

 

とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ、蘆屋の灘とはいひける。この男、なま宮仕へしければ、それを頼りにて、衛府の佐ども集まり来にけり。この男の兄も衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて(下略)」

 

 芦屋は大阪と神戸の間にあり高級住宅地として知られている。灘は芦屋に隣接する神戸市の東側で、東灘区にある灘中、灘高は名門進学校としても有名だ。

 ただ、昔は西宮市から灘区にかけての広い地域を「灘」と言っていたという。藻塩焼く長閑な里で、櫛もささずにぼさぼさの頭で来るようなところだった。

 

無季。恋。「芦の屋の灘」は名所。「都衆」は人倫。

 

六十八句目

 

   芦の屋の灘へ遊びに都衆

 ひとつ(しお)()やむはら住吉

 (芦の屋の灘へ遊びに都衆ひとつ塩干やむはら住吉)

 

 「(しお)()」は潮干狩りのこと。「むはら住吉」は摂津国菟原郡の本住吉神社のことで、都の衆が「ここはひとつ潮干狩りに菟原住吉にでも行ってみるか」と言って遊び歩くことになる。

 

季語は「塩干」で春、水辺。「住吉」は名所。

 

六十九句目

 

   ひとつ塩干やむはら住吉

 (はまぐり)もふんでは惜む花の浪

 (蛤もふんでは惜む花の浪ひとつ塩干やむはら住吉)

 

 「花の浪」は『応安新式』に、

 

 「花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之)」

 

とあり、「花の浪」の場合は植物、水辺両方を嫌う。

 「花の浪」は、

 

 桜花散ぬる風の名残には

     水なき空に浪ぞたちける

              紀貫之「古今集」

 

風に揺れる桜を浪に、飛び散る花びらを波しぶきに喩えたもので、植物の木類として去り嫌いの規則に従うのは勿論のこと、水辺としてもその規則に従う。

 貞徳の『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)』には、

 

 「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白波のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」

 

とある。

 「浪の花」の方は、『応安新式』に「浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之)」とある。

 「花の波」は波のような花で、「波の花」は花のような波と考えればいい。

 「ふんでは惜む」は中村注に、『和漢(わかん)朗詠集(ろうえいしゅう)』の白楽天の詩句、

 

 背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春(燭を背けては共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春)

 

を引用している。

 潮干狩りは昔は春の上巳(雛祭り)のもので、住吉の潮干狩りに来た人は花ならぬ蛤を踏んで行く春を惜しむ。

 

季語は「花の浪」で春、植物、木類。「蛤」も春、水辺。

 

七十句目

 

   蛤もふんでは惜む花の浪

 さつとかざしの篭の山吹

 (蛤もふんでは惜む花の浪さつとかざしの篭の山吹)

 

 中村注は、『(さん)(ぼく)()歌集(かしゅう)』の藤原家(ふじわらのいえ)(つな)源俊頼(みなもとのとしより)との歌のやり取りを引用している。

 

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、

   やまぶきを上にさして書付けて侍りける

 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを

     ゐでのわたりの物と見るかな

                 家綱

   返し

 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは

     はまくりかへしあはれとぞ思ふ

                 俊頼」

 

 (はまぐり)を入れた籠に山吹の枝を添えて、花の浪の散るのを惜しむ。

 

季語は「山吹」で春、植物、草類。

 

七十一句目

 

   さつとかざしの篭の山吹

 乗物に暮春の風や送るらん

 (乗物に暮春の風や送るらんさつとかざしの篭の山吹)

 

 前句の「篭」を乗物の駕籠のこととする。駕籠に山吹を添えて、暮春の風に送られて旅立つ。

 

季語は「暮春の風」で春。

 

七十二句目

 

   乗物に暮春の風や送るらん

 (よめ)()のかへる里はるかなれ

 (乗物に暮春の風や送るらん娌子のかへる里はるかなれ)

 

 暮春の風は通常の里帰りにしては悲しげだ。あるいは離婚で実家に帰る情景か。

 

無季。恋。「娌子」は人倫。「里」は居所。

 

七十三句目

 

   娌子のかへる里はるかなれ

 さげさせて人目堤(ひとめづつみ)を跡先に

 (さげさせて人目堤を跡先に娌子のかへる里はるかなれ)

 

 「人目堤」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「人の見る目をはばかって隠れること。和歌では、「包み」を「堤(つつみ)」に掛けて用いることが多い。

「思へどもの高ければ河とみながらえこそ渡らね」〈古今・恋三〉」

 

とある。

 古今集のこの和歌は中村注も引用している。

 前句の里帰りには何か人目を憚る事情でもあったのだろう。人目を包んで(避けて)のひそかな里帰りだった。

 「さげさせて」は人を退かせての意味に取るのが良いと思う。中村注は荷物の包みを下げさせての意味もあるというが、読みすぎではないかと思う。

 

無季。恋。

 

七十四句目

 

   さげさせて人目堤を跡先に

 (うら)の御用や月に(はづ)らん

 (さげさせて人目堤を跡先に占の御用や月に恥らん)

 

 人目を忍んでどこへ行くかと思ったら占いだった。

 ウィキペディアの「算置(さんおき)」のところには、

 

 「1700年(元禄13年)の『続狂言記』に掲載された『居杭』には、「占い算、占の御用、しかも上手」という算置の客寄せの掛け声が引用されており、これは1792年(寛政4年)の大蔵虎寛の編纂による『居杭』では、「占屋算、占の御用、しかも上手」となっている。」

 

とある。宗因の時代よりは少し後だが、この種の口上は宗因の時代にもあったのだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

七十五句目

 

   占の御用や月に恥らん

 夕露のふるきかづきを引そばめ

 (夕露のふるきかづきを引そばめ占の御用や月に恥らん)

 

 「かづき」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「本来は「かづき」といい、女子が外出に頭に被(かづ)く(かぶる)衣服のこと。平安時代から鎌倉時代にかけて女子は素顔で外出しない風習があり、袿(うちき)、衣の場合を「衣(きぬ)かづき」といった。室町時代から小袖(こそで)を用いるようになると、これを「小袖かづき」といい、武家における婚礼衣装にも用いられた。桃山時代以降は一般の上流階級の婦女子もこれを用いて外出した。江戸時代中期以降は、形は同じであるが、頭にかぶりやすいように、衿(えり)肩明きを前身頃(みごろ)へ肩山より10センチメートルから15センチメートル下げてつけた。この特定の小袖を被衣(かづき)といった。町人のは町(まち)被衣といい、種々の色、模様のついたもので、女官のは御所(ごしょ)被衣といい、松皮菱(びし)など幾何学的区画による、黒地に白の熨斗目(のしめ)風の模様のついたものであった。布地はともに麻、絹で単(ひとえ)仕立て。江戸では明暦(めいれき)年間(16551658)には用いられなくなったが、京都では安永(あんえい)17721781)のころまで用いられた。後世に至って「かつぎ」というようになった。[藤本やす]」

 

とある。

 夕露の降るに掛けて「古きかづき」を導き出し、引きそばめて顔を隠すしぐさを恥じらいの表現とする。当時としては可愛らしい仕草だったのかもしれない。

 

季語は「夕露」で秋、降物。恋。「かづき」は衣裳。

 

七十六句目

 

   夕露のふるきかづきを引そばめ

 雲井(くもゐ)節会(せちゑ)高きいやしき

 (夕露のふるきかづきを引そばめ雲井の節会高きいやしき)

 

 『伊勢物語』九十四段に、

 

 「むかし、男、身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。すこし頼みぬべきさまにやありけむ、ふして思ひ、起きて思ひ、思ひわびてよめる。

 

 あぶなあぶな思ひはすべしなぞへなく

     高きいやしき苦しかりけり

 

 むかしも、かかることは、世のことわりにやありけむ。」

 

とある。

 身分の低い女性が古くなったかづきで顔を隠しながら、雲井(皇居)の節会で高貴な男の姿を拝む。

 

無季。秋が二句で終わってしまうが、この句が秋だとしたら重陽(ちょうよう)の節会のことか。

 

七十七句目

 

   雲井の節会高きいやしき

 おふなおふなおもんするなる年の賀に

 (おふなおふなおもんするなる年の賀に雲井の節会高きいやしき)

 

 「おふなおふな」は『伊勢物語』九十四段の和歌の「あぶなあぶな」だが、「あふなあふな」には古来いろいろな解釈があり、季吟は「(ねんごろ)に」の意味に解していたことを中村注は記している。

 一方、「おふなおふな」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、「精いっぱい。できるだけ」とある。これだと精いっぱい重んじてきた年の賀に、雲井の節会高きいやしき、となる。

 「年の賀」はこの場合年算の賀のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「長寿の祝い。四十賀・五十賀・六十賀に加えて、四二歳・六一歳(還暦)・七〇歳(古稀)・七七歳(喜寿)・八八歳(米寿)・九〇歳(卒寿)・九九歳(白寿)などを祝う。賀の祝い。〔書言字考節用集(1717)〕」

 

とある。前句が重陽だとすれば、長寿祝いで一応つながる。

 

無季。

 

七十八句目

 

   おふなおふなおもんするなる年の賀に

 物の師匠となるはかしこき

 (おふなおふなおもんするなる年の賀に物の師匠となるはかしこき)

 

 大事な年の賀に何か芸事の師匠となるのは立派なことだ。

 

無季。「師匠」は人倫。

名残表

七十九句目

 

   物の師匠となるはかしこき

 (おこなへ)は三人の道ことにして

 (行は三人の道ことにして物の師匠となるはかしこき)

 

  中村注は『論語』「述而編(じゅつじへん)」の、

 

 「子曰ハク、三人行フトキハ必ズ我ガ師有リ、其ノ善ナル者ヲ択ンデ之ニ従ヒ、不善ナル者ニハ之ヲ改ム」

 

を引用している。師と三人との付け合いはこれでわかる。

 ただ、意味としては三人それぞれの道を究め、お互いに師匠とするという意味であろう。

 

無季。

 

八十句目

 

   行は三人の道ことにして

 死罪流刑に又は閉門(へいもん)

 (行は三人の道ことにして死罪流刑に又は閉門)

 

 「閉門」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「江戸時代~明治初年の刑罰の一つ。武士や僧侶に科せられ,『公事方御定書』には,「門を閉し,窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが,同条但書およびこれより刑の軽い逼塞,遠慮の規定よりみて,出入りは昼夜とも禁止されていたことがわかる。ただし,病気のとき夜間に医師を呼び入れたり,火事のとき屋敷内の防火にあたったりすることはもちろん,焼失の危険ありと判断すれば退去して,その旨を届け出ればよいとされていた。明治政府も,『新律綱領』において,士族,官吏,僧徒の閏刑 (じゅんけい) の一つとしてこれを採用していたが,18734月閏刑五等はすべて禁錮と改称され,これに伴って消滅した。」

 

とある。死罪流刑に較べるとかなり軽い。

 まあ、主犯は死刑で、共犯者は流罪になり、ただの使い走りは閉門でくらいで済むというのは、いかにもありそうなことだ。

 

無季。

 

八十一句目

 

   死罪流刑に又は閉門

 いさかひは(あつか)ひすとも心あれな

 (いさかひは扱ひすとも心あれな死罪流刑に又は閉門)

 

 喧嘩は仲裁に入っても罪に問われることがあるから注意せよ、ということ。

 よく知った間柄なら、お互いに不問にしようで済むこともあるが、赤の他人ならこれ幸いと罪を擦り付けられたりもする。

 

無季。

 

八十二句目

 

   いさかひは扱ひすとも心あれな

 女夫(めをと)の人の身をおもふかな

 (いさかひは扱ひすとも心あれな女夫の人の身をおもふかな)

 

 夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、夫婦喧嘩の仲裁に部外者がしゃしゃり出ると、かえってこじれることになりかねない。

 「人の身」は「我が身」に対しての言葉だが、自分達だけの問題も他人が介入すると世間体だとかいろいろと気遣わなくてはならなくなる。そうなると、「あんたのせいで私がこう思われてしまったじゃないか」ということにもなる。

 「かな」は推量を含んだ緩やかな治定(じじょう)で、人に身を思うこともあるではないか、というニュアンスか。関西弁の「思うがな」に近い。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

八十三句目

 

   女夫の人の身をおもふかな

 そだてぬる中にかはゆき(まこと)の子

 (そだてぬる中にかはゆき真の子女夫の人の身をおもふかな)

 

 「かはゆき」には可哀相という意味もあるが、ここでは「可愛い」の意味だろう。

 継子(ままこ)(いじ)めというのはいつの世でもあるもので、誰だってやはり自分の子供が可愛い。「ハリーポッター」シリーズのダーズリー夫妻にしてもそうだ。

 この場合、前句の「かな」は疑問の「かな」になる。

 

無季。恋。「子」は人倫。

 

八十四句目

 

   そだてぬる中にかはゆき真の子

 うぐひすもりとなるほととぎす

 (そだてぬる中にかはゆき真の子うぐひすもりとなるほととぎす)

 

 ホトトギスは鶯に托卵する。「うぐいすもり」は鶯に守りをさせるという意味だろう。

 鶯は他人の子をせっせと育て、真の子を捨ててしまうので、この場合は「かはゆき」は可哀相なという意味になる。

 

 盲より唖のかはゆき月見哉   去來

 

の「かはゆき」と同じ。

 

季語は「うぐひす」で春、鳥類。「ほととぎす」も鳥類。

 

八十五句目

 

   うぐひすもりとなるほととぎす

 春雨の布留(ふる)の杉枝(きり)すかし

 (春雨の布留の杉枝伐すかしうぐひすもりとなるほととぎす)

 

 前句のホトトギスの托卵に、その季節をつけた遣り句であろう。

 古代石上(いそのかみ)布留(ふる)には神杉の森があったという。杉の剪定は晩春から初夏にかけて行われる。

 布留の神杉にホトトギスは、

 

 五月雨のふるの(かむ)(すぎ)すきがてに

     こ高く名のる郭公(ほととぎす)かな

              藤原定家(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「春雨」で春、降物。「布留」は名所。「杉」は植物、木類。

 

八十六句目

 

   春雨の布留の杉枝伐すかし

 うへけん時のさくら最中(さいちう)

 (春雨の布留の杉枝伐すかしうへけん時のさくら最中)

 

 布留は杉だけでなく桜も和歌に詠まれている。中村注が『後撰集』の僧正遍(そうじょうへん)(じょう)の歌と『新古今集』の源通(みなもとのみち)(とも)の歌を引用している。

 

 いそのかみふるの山辺のさくら花

     うへけむ時をしる人ぞなき

           僧正遍昭(後撰集)

 石の上ふる野の桜たれ植ゑて

     春は忘れぬ形見なるらむ

           源通具(新古今集)

 

 枝を剪定したことで桜の花が透けて見える。

 

季語は「さくら」で春、植物、木類。

 

八十七句目

 

   うへけん時のさくら最中

 むかし(たれ)かかる栄耀(ええう)の下屋敷

 (むかし誰かかる栄耀の下屋敷うへけん時のさくら最中)

 

 「下屋敷(しもやしき)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「大名屋敷の一つ。本邸である上(かみ)屋敷に対し、別荘として用いられた。江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に多く与えられた。[編集部]」

 

とある。

 まあ、宗因の時代も改易が多く、荒れ果てた下屋敷もあったのであろう。「月やあらぬ」の心情か。

 下屋敷で当世風にしているが、趣向としては在原業平の「月やあらぬ」を受け継いでいる。

 

無季。「誰」は人倫。

 

八十八句目

 

   むかし誰かかる栄耀の下屋敷

 川原の隠居焼塩(やきしほ)もなし

 (むかし誰かかる栄耀の下屋敷川原の隠居焼塩もなし)

 

 海辺の隠居なら塩を焼く煙の風情もあるが、川原だと川原乞食のイメージになってしまう。

 もっとも、この時代は藻塩製塩は廃れてたから、魚を食うのに塩がないということか。

 焼塩(やきしほ)はコトバンクの精選版 日本国語大辞典 「焼塩」の意味・読み・例文・類語」に、

 

 「〘名〙 粗製の食塩を焼いて作った純白のさらさらした塩。素焼きのつぼなどに入れて蒸し焼きにすると、粗製塩中の塩化マグネシウムが吸湿性のない酸化マグネシウムに変わるため、苦みがとれ湿気(しけ)にくくなる。炒塩(いためじお)

※蔭凉軒日録‐延徳三年(1491)三月一一日「見レ恵二焼塩一包一云」

※俳諧・鷹筑波(1638)五「田子の浦のやきしほなれや富士の雪〈道節〉」

 

とある。

 

無季。「川原」は水辺。

 

八十九句目

 

   川原の隠居焼塩もなし

 月にしも穂蓼(ほたで)(ばかり)の精進事

 (月にしも穂蓼斗の精進事川原の隠居焼塩もなし)

 

 穂蓼は蓼の花で、昔は食用にされた。蓼穂ともいい、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「たでほ」とも) 蓼の穂。特有の辛味があり塩漬にして食用にする。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「海月桶(くらげをけ)のすたるにも蓼穂(タデホ)を植ゑ」

 

とある。

 

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉   其角

 

の句もある。

 塩漬けの蓼は酒の肴にもなるが、蓼に塩気がないうえに精進となれば酒もない。わびしい。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

九十句目

 

   月にしも穂蓼斗の精進事

 松茸さそよこなたへこなたへ

 (月にしも穂蓼斗の精進事松茸さそよこなたへこなたへ)

 

 中村注によれば「さそよ」は「ざうよ」の間違いで、「松茸ぞうよ」端松茸売りの呼び声だったという。

 蓼ばかりでは味気ないから、松茸売りが来たら呼び止めよう。

 

季語は「松茸」で秋。

 

九十一句目

 

   松茸さそよこなたへこなたへ

 北山や秋の遊びの御供して

 (北山や秋の遊びの御供して松茸さそよこなたへこなたへ)

 

 中村注は謡曲『(もり)(ひさ)』だという。

 

 「如何に盛久、盛久は平家譜代(ふだい)(さぶらい)武略(ぶりゃく)の達者、そのほか乱舞(らんぶ)堪能(かんのお)(よし)聞こし召し及ばれたり。一年(ひととせ)小松(こまつ)殿(どの)北山(きたやま)茸狩(たけがり)(いう)()御酒宴(ごしゅえん)()いて、(しゅ)()(もり)(ひさ)一曲(いツきょく)一奏(ひとかなで)の事、関東までも隠れなし。(こと)(さら)これは(よろこ)びのをりなれば。ただ(ひと)さしとの御所望(ごしょもお)なり急いで(つかまつ)(そうら)へ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.3082-3083). Yamatouta e books. Kindle 版).

 

のように北山の茸狩りが登場する。

 ここはまあ別に平盛久とは関係なく、秋の北山といえば松茸狩りだったのだろう。

 

季語は「秋の遊び」で秋。「北山」は名所、山類。

 

九十二句目

 

   北山や秋の遊びの御供して

 見せ(まうし)つる名所旧跡

 (北山や秋の遊びの御供して見せ申つる名所旧跡)

 

 北山辺りには名所旧跡も多い。一巻も終わりに近いので、さらっと流した感じだ。

 

無季。

名残裏

九十三句目

 

   見せ申つる名所旧跡

 京のぼり旅の日記をかくのごと

 (京のぼり旅の日記をかくのごと見せ申つる名所旧跡)

 

 これも特にひねりはない。「日記を書く」と「かくの如く」を掛詞にして、「かくの如見せ申つる」と繋げる技法は連歌的だ。

 このあたりは笑いを取るというよりは、基本的な付け筋を解説してくれているかのようだ。

 

無季。旅体。

 

九十四句目

 

   京のぼり旅の日記をかくのごと

 いく駄賃をかまかなひのもの

 (京のぼり旅の日記をかくのごといく駄賃をかまかなひのもの)

 

 「まかなひ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①(任務として)食事や宴などの準備をすること。また、その係の人。

 出典 宇津保物語 初秋

 「かの御息所(みやすどころ)、内宴のまかなひにあたり給(たま)ひて」

 [] あの御息所は、宮中での内々の宴の準備係にお当たりになって。

  ②食事の支度や給仕をすること。また、その人。

 出典 源氏物語 夕霧

 「御粥(かゆ)など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず」

 [] お粥などを急いで差し上げたけれど、取り次ぐお給仕が間に合わず。

  ③身のまわりの世話。

 出典 宇津保物語 蔵開上

 「その御まかなひは典侍(ないしのすけ)と乳母(めのと)仕うまつる」

 [] そのお世話は典侍と乳母がして差し上げる。」

 

とある。この場合は③か。

 「いく駄賃をかまかなふ」から「まかなひのもの」と繋げる。

 

無季。「まかなひのもの」は人倫。

 

九十五句目

 

   いく駄賃をかまかなひのもの

 大名の跡にさがつて一日(ひとひ)(ろみち)

 (大名の跡にさがつて一日路いく駄賃をかまかなひのもの)

 

 一日(ひとひ)(ろみち)は「一日(いちにち)()」か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に

 

 「〘名〙 一日で行きつくことのできる道のり。一日の行程。ひとひじ。一日程(いつじつてい)

 ※天草本平家(1592)四「ホウジャウモ ychinichigi(イチニチヂ) ナリトモ、ヲクリマラショウズレドモ」

 

とある。昔の人の足だと四十キロくらいか。

 大名行列の道中にかかる費用負担は、一日後にくる(まかない)の者が処理したのだろうか。

 時代劇では「御跡小払役(おあとこばらいやく)」というのが登場するが、大名行列の費用はかなり高額だし、現金を持って跡から付いていったとは思えない。どういう仕方で決済していたか気になる。

 

無季。「大名」は人倫。

 

九十六句目

 

   大名の跡にさがつて一日路

 よはりもてゆく(この)(さかな)(まち)

 (大名の跡にさがつて一日路よはりもてゆく此肴町)

 

 「肴町」はウィキペディアに「日本の各地にある地名で、魚屋がまとまって住んだことに由来する。」とある。

 前句の「さがつて」を鮮度が落ちるという意味に取り成したか。

 大名行列の通り過ぎた後、余った魚を肴町に持って行く。

 

無季。

 

九十七句目

 

   よはりもてゆく此肴町

 見わたせば花の錦の棚さびて

 (見わたせば花の錦の棚さびてよはりもてゆく此肴町)

 

 花の錦といえばやはり、

 

 見わたせば柳桜をこきまぜて

     都ぞ春の錦なりける

             素性(そせい)法師(ほうし)(古今集)

 

だろう。

 みんな花見に行ってしまうと、市場の方はからっぽ、ということか。困った時は肴町。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

九十八句目

 

   見わたせば花の錦の棚さびて

 藤(さく)戸口くれてかけかね

 (見わたせば花の錦の棚さびて藤咲戸口くれてかけかね)

 

 前句の棚を藤棚とする。錦のように美しい藤棚の藤も夕暮れになると夕闇にまみれて色を失ってゆく。

 今日一日も終わり、戸口に掛金を掛ける。

 後に芭蕉が詠む、

 

 草臥(くたびれ)て宿かる(ころ)や藤の花    芭蕉

 

の句も思い浮かぶ。

 

季語は「藤」で春、植物、木類。

 

九十九句目

 

   藤咲戸口くれてかけかね

 おとがひもいたむる春の物思ひ

 (おとがひもいたむる春の物思ひ藤咲戸口くれてかけかね)

 

 「掛金」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「①戸・障子などが開かないようにかける金具。

  ②あごの関節。 〔日葡〕」

 

とある。②の意味だと「おとがい」に縁がある。顎が外れたか。

 

季語は「春」で春。

 

挙句

 

   おとがひもいたむる春の物思ひ

 かむ事かたき魚鳥のほね

 (おとがひもいたむる春の物思ひかむ事かたき魚鳥のほね)

 

 昔の人は顎が強く、魚や鳥の骨もばりばり食ったのだろう。

 『(さる)(みの)』の「市中は」の巻の、

 

   能登の七尾の冬は住うき

 魚の骨しはぶる迄の老を見て  芭蕉

 

の句のように、骨が噛めなくなったらかなりの老人というのが当時のイメージだったようだ。

 宗因ももはやそんな歳になったと、発句の「老の鶯」の呼応してこの一巻は終了する。目出度く終わらせないのも、宗祇最晩年の「宗祇独吟何人百韻」の挙句、

 

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に

 わが影なれや更くる灯     宗祇

 

に似ている。

 やはりこの「口まねや」の巻は宗因の遺言を兼ねたものだったのか。

 

無季。