蕪村論


 蕪村はある意味「機動戦士ガンダム」に似ていて、コアなオタク集団が存在する。学校でのオタクたちの拠り所が漫画アニメ研究会ではなくまだ文学部だったころ、蕪村は絶大なる人気を誇ったようだ。彼らは漫画アニメに先立って同人誌文化を創ってきた。

 私はもちろんそれとはまったく関係なく、ただ俳諧の歴史の中での蕪村をどう位置づければいいのか、考えているだけだ。そのためコアな蕪村オタクからはいろいろ不満も出ることと思う。許せとは言わない。ただ、わが道を行くのは権利だ。

 ここでは三つの作品を取り扱う。

   ○蕪村『順風馬堤曲』を読む
   ○蕪村『澱河歌』を読む
   ○「牡丹散て」の巻を読む

蕪村『春風馬堤曲』を読む


 えのきどいちろうがラジオでよくっていたことに、ディズニーのアニメはかくあじになっているが、手塚治虫てづかおさむ場合ばあいせいかくあじになっている、というのがあった。これを俳諧はいかいてはめるなら、芭蕉ばしょうかくあじになっているといっていいだろう。
 たとえば、

  しづかさやいはにしみ入蝉いるせみこゑ    芭蕉ばしょう

てみよう。
 「しづかさ」は煩悩寂滅ぼんのうじゃくめつ、つまり涅槃ねはんつうじる。「いは」も無生物むせいぶつで、生命せいめいたない。『古事記こじき』の神話しんわでは、このはなさくやひめという生命せいめい象徴しょうちょうたいし、いはながひめ対置たいちされている。そして、さらに「せみこゑ」だが、これも一週間いっしゅうかんばかりのはかないいのち象徴しょうちょうする。
 これにたいし、蕪村ぶそんせいかくあじになっている。
 たとえば、

 春雨はるさめ小磯こいそ小貝こがひるるほど    蕪村ぶそん

などがいいれいだ。
 これをうみ景色けしき写生しゃせいだとってしまえばそれまでだが、うみかいはいつもれているものでわずもがななことなのに、それをあえて「小貝こがひるる」とったときには、ある程度ていどスラングで女性器じょせいきのことを「かい」とうことを計算けいさんれていたのではないかとおもわれる。
 だれしもけることができず、けようとするのは本能ほんのうでもあるし、また、だれ体験たいけんできないものであるだけに、んだらどうなるかがわからず、不安ふあんてる。
 んだらどうなるのかとううちはまだきているし、実際じっさい体験たいけんしてしまったら、それをきているひとつたえる手段しゅだんうしなわれる。だから、んだらどうなるのか、といういに確実かくじつこたえはない。ただひとはそれをあてどもなく想像そうぞうするしかない。こたえのないいには無限むげん想像そうぞうはたらく。「」がもたらす想像そうぞう無限むげんである。
 これにたいし、せいだれしも体験可能たいけんかのうだし、行為こういそのものはきわめて単純たんじゅんだ。単純たんじゅんでありながらも、そこに「性選択せいせんたく」という過程かてい存在そんざいすることによって、結構けっこう複雑ふくざつになる。つまり、たとえ動物どうぶつ世界せかいであっても、ただオスとメスが出会であえば機械的きかいてきにというわけにはいかない。そこにはよりよい遺伝子いでんしのこそうとする両者りょうしゃ思惑おもわくはたらき、相手あいて厳選げんせんしようとする。せい場合ばあい、そこにいたるまでの過程かてい無限むげん遠回とおまわりさせられうことによって、ゆたかな想像力そうぞうりょく表現ひょうげん可能かのうになる。
 がもたらす想像そうぞうは、こたえのないいにたいする無限むげん仮説かせつ自由じゆうであり、せいがもたらす想像そうぞう単純たんじゅん結末けつまつけてのてしない遠回とおまわりである。
 せいたいする想像力そうぞうりょくというと、蕪村ぶそん同時代どうじだい西洋せいようにはマルキ・ド・サド(サド侯爵こうしゃく)がいた。しかし、サドはせいいた遠回とおまわりの過程かていおおくの想像そうぞうを、暴力ぼうりょく見出みいだした。これにたいし、日本にほんではむしろフェティシズムの方向ほうこうむか傾向けいこうにあった。
 つまり、性的刺激せいてきしげきをそれそのものから、極力遠きょくりょくとおかすかなものへとおざけ、いわば、中世ちゅうせい幽玄ゆうげんわれたものを、性的象徴せいてきしょうちょうかんしても奥深おくふかかくされたかすかなしるしもとめる方向ほうこうへと発展はってんしていった。それは、今日こんにちの「え」の文化ぶんかがれている。
 芭蕉ばしょうは「シュールネタ」から「あるあるネタ」までの今日こんにち様々さまざまなおわらげい基礎きそをつくりげたが、蕪村ぶそんなにをもたらしたかというと、それは文化ぶんか基礎きそつくったことではなかったか。
 江戸えど時代じだい明治めいじ初期しょきには絵師えしとしてはたか評価ひょうかされても俳諧はいかいのほうはあまりられてなかった蕪村ぶそん評価ひょうかだったが、近代きんだい学生文化がくせいぶんかのなかではその評価ひょうか急騰きゅうとうし、かれらが文芸同人誌ぶんげいどうじんしつくってゆくなか継承けいしょうされていった。それはいまでいうオタク文化ぶんかちかいものだった。なんのことはない。表向おもてむき「写生説しゃせいせつ」をきながらも、かれらはひそかに蕪村ぶそん作品さくひん性的象徴せいてきしょうちょうたのしんでいたのだ。おそらく「エロチシズム」という言葉ことば蕪村ぶそんについてかたるのに不可欠ふかけつ言葉ことばではないかとおもわれる。それくらい蕪村ぶそんはエロい。
 そのながれは、一九七〇年代以降ねんだいいこう学生文化がくせいぶんか中心ちゅうしん文学部ぶんがくぶから漫画まんがアニメ研究会けんきゅうかいうつったさいにも自然しぜん継承けいしょうされていったとしてもなん不思議ふしぎもなかった。

 日本の漫画まんがアニメが、ときおり西洋の識者から小児偏愛の傾向けいこうが怪しからぬという指摘を受けたりする。これは暴力を基調とした性的想像力の伝統でんとう(マルキ・ド・サドの伝統でんとう)を持つ西洋人からすれば、ロリコン=小児虐待と映ってしまうからなのであろう。
 しかし、日本の漫画まんがアニメのロリコン的な傾向けいこうは、むしろ性的象徴をそれそのものとして描くよりも、それをほんの幽かに匂わせるものに求めようとするからに他ならない。
 竜騎士りゅうきし07のゲーム作品さくひん『ひぐらしのなくころかい 目明めあかへん』の一場面で、女の子(園崎詩音そのざきしおん)が不良グループに絡まれている場面があり、そのときの不良が「タイトミニもええぇんのおおぉおぉ!!上から下までぜ~~んぶ色っぽくしやあよぉおおー!肌色の面積を限りなくひろげぇて、えの姿すがたにしちゃあるんけん~~~!!!!!」」なんて発言したのに切れた主人公(前原圭一まえばらけいいち)が、「タイトミニにはえがない!!!そして肌色面積は控えめに!!たとえお天道様が西から上ることがあろうとも!!絶対絶対これはえ業界の鉄則だああぁあああ!!!」」といって思わぬ力を発揮しやっつけてしまう場面があったが、それが文化ぶんかの本質的な部分であることは間違いない。前原圭一まえばらけいいち言葉ことばを借りるなら、「色気は本能だがえはわび寂びだ、もののあはれの世界せかいだ!!」

   春風馬堤曲
                     謝蕪邨

 余一日問耆老於故園渡澱水過馬堤偶逢女帰省郷者先後行数里相顧語容姿嬋娟癡情可憐因製歌曲十八首代女述意題曰春風馬堤曲
   春風馬堤曲 十八首
〇やぶ入や浪花を出て長柄川
〇春風や堤長うして家遠し
〇堤下摘芳草 荆与蕀塞路
 荆蕀何妬情 裂裙且傷股
〇渓流石點點 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
〇一軒の茶見世の柳老にけり
〇茶見世の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
〇店中有ニ客 能解江南語
 酒錢擲三緡 迎我讓榻去
〇古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
〇呼雛籬外鶏 籬外草滿地
 雛飛欲越籬 籬高墮三四
〇春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
〇たんぽぽ花咲り三三五五五五は黄に
 三三は白し記得す去年此路よりす
〇憐みとる蒲公莖短して乳を浥
〇むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
〇春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
〇郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
〇故郷春深し行行て又行行
 楊柳長堤道漸くくだれり
〇矯首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
 待春又春
〇君不見古人太祇が句
   藪入の寢るやひとりの親の側

 まずこれが「曲」と名のつくことに注意しておこう。実のところ「うた」も本来はそうだったのだが、これは純粋に文字として書かれたテキストではなく、本来は歌詞を記したものだった。
 近代文学の読解の手法は、しばしばそれが本来持っていた音楽と切り離し、純粋なテキストとして読もうとする。あるいは音声的な評価をする場合でも「素読」を基本とし、ゆったりと浪々と謳い上げるものとして扱われることは稀だ。
 ここで何が問題になるかというと、たとえばそのさいしばしば言葉の前後関係がどうでもいいものとして扱われるということだ。つまり、和歌わか俳諧はいかいのような短いテキストはしばしば共時的に、つまり全部の文字が同時に頭に飛び込んでくるかのように解される。
 そう考えるならたとえば、

 うらやまし思い切る時猫のこい   越人(芭蕉ばしょう添削)
 思い切る時うらやまし猫のこい   越人(原案)

の違いは無視される。せいぜい、素読で発音した時、どっちが語呂がいいか程度の問題になる。しかし、もしこのテキストが音楽として、ゆっくりと謳い上げられるものだとしたら、印象は大きく異なってくる。
 聴く人は上五を聞いた時、そのあとの展開を予想しながら聴く。「うらやまし」と来れば、「一体何がうらやましいのだろう」と、何が起こるか期待し、「思い切るとき」が次に続いた時、その意外性に戸惑う。こいの切ない思いを断ち切るというのは辛いものなのに、一体何がうらやましいのか、と。そこで「猫のこい」が落ちになる。なるほど、人間ならいざ知らず猫ならガテン、ということになる。
 しかし、ともすると近代の俳人なら「猫のこい思い切るときうらやまし」でも別にいいじゃないか、と思いがちになる。その違いは単なる語呂の良し悪しという微妙なものではなく、落ちを最初に言ってしまうという致命的な過ちなのである。
 『春風馬堤曲』も、近代文学として黙読か素読を基本として読むのと、これを音楽として、きわめてゆっくりとした速さで耳に飛び込んでくると考えた場合とでは、決して同じではないだろう。
 今となっては、これがどういう音楽だったか、再現は難しい。おそらくは詩吟を基調とした吟詠であり、それに三味線の合いの手が入るような、近代になって発達する浪曲の原型のようなものと考えればいいのかもしれない。

 余一日問耆老於故園渡澱水過馬堤偶逢女帰省郷者先後行数里相顧語容姿嬋娟癡情可憐因製歌曲十八首代女述意題曰春風馬堤曲

 一日いちじつ耆老きろう故園こえんう。澱水でんすいわた馬堤ばていぐ。たまたまおんなさと帰省きせいするものう。先後せんごしてくこと数里すうりあいかえりみてかたる。容姿ようし嬋娟せんけん癡情ちじょうあわれむし。って歌曲かきょく十八首じゅうはっしゅせいし、おんなかわりてこころぶ。だいして春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょくう。

これはいわば「まえせつ」であって、謡われたわけではないだろう。それに続く、

 春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく 十八首じゅうはっしゅ

もタイトルであって、これも謡われたわけではあるまい。音楽はそのあとから始まる。
 なお、このタイトルの読み方には「しゅんぷうばていきょく」とする説と「しゅんぷうばていのきょく」という「の」を入れる説とがある。今回は一応後者にしておいた。

やぶいり浪花なにはいで長柄川ながらがは

 「やぶ入や」で、物語の舞台設定が始まる。時は藪入り、旧暦一月十五日、仕事はお休みで奉公人は一斉に帰郷する。今なら高速道路は大渋滞、鉄道も150パーセントの乗車率といったところだが、当時は徒歩で帰るし、歩ける範囲内から来ている人がほとんどだっただろう。もっとも芭蕉ばしょうが伊賀から江戸えどに出てきたみたいに故郷が遠い人もいた。そうした人たちは帰郷はしなかったと思われる。おそらくは10年に一度帰れればよかったのではないかと思われる。

 あき十年却ととせかへって江戸えどさす故郷こきょう    芭蕉ばしょう

のようなものだった。
 次に「浪花を出て長柄川」と続くことで、場所設定が明らかいなる。「長柄川」は旧淀川の支流、中津川で、この川はWikipediaによるなら、「治水対策のために1898年から1910年にかけておこなわれた現在の淀川の開削の際に、新淀川の流路の一部ないしは河川敷に転用されて現存しない。」
 江戸時代の旧淀川は今の大川の方へと流れ、大阪の市街地の真ん中で堂島川と木津川に別れ、その辺りからいくつもの人工的な堀川が東西南北に流れることで、浪花八百八橋なにわはっぴゃくやばしと呼ばれる水のみやことなっていた。
 これに対し、今の新淀川の方に中津川が流れていた。蛇行してしばしば氾濫したため、明治に大規模な治水工事が行なわれて大きく拡張され、現在の淀川となった。今でも梅田の北に中津という地名が残っている。
 『春風馬堤曲』の舞台は当時とうじの浪花の中心部を北に外れたこの中津の辺りから始まる。

春風はるかぜ堤長つつみながうして家遠いへとほ

 「春風」ということで、このが天候に恵まれ、晴れた暖かな日だったことがわかる。そして、舞台はさらに限定され「堤」がクローズアップされる。そして、この堤を通って実家への長い徒歩の旅が始まる。この堤がタイトルとなっている「馬堤」で、おそらく毛馬、今でいう大阪市都島区毛馬町を通過する道で、もう少し先まで行くと京街道に合流したのだろう。京街道は京橋を基点として大川の東側を通り、守口、枚方、伏見を経て京に至る。
 まえせつに「先後行数里」とあるが、毛馬までは一里程度だ。これは『奥の細道』の前途三千里のような誇張であろう。

堤下摘芳草 荆与蕀塞路
 荆蕀何妬情 裂裙且傷股

 堤を降りて芳しい草を摘もうとしたら、イバラとカラタチが道をふさぐ。
 イバラにカラタチ、何やきもち焼いてるの、裾を裂いては股を引っ掻く。


 意味はそう難しくない。日本で早春に摘む「芳草」といえばセリのことだろう。セリを取ろうとして堤を降りてゆくと、刺のある草が邪魔し、裾を引っ掛け、股に引っ掻き傷ができる。
 「股」という文字がいかにも露骨な感じだ。裾が裂けるというのは着物が破れるのではなく、裾がはだけてという程度の意味だろう。そこから普段は着物の裾に秘められた白い股があらわになり、そこから血が流れている。蕪村ぶそんはここで一気に勝負をかけた感じがする。ここで男達を「おっ」と思わせて、一気に話に引き込もうという寸法だ。
 「股」は太もものことで、今でいう「絶対領域」を指す。
 当時とうじの着物の着方は明治以降と違い、動きやすいようにかなりゆるく着ていたため、イバラに裾を引っ張られたりすれば、はだけやすかったのだろう。それはパンチラのようなチラリズムで男心をそそる。
 余談だが、「小股の切れ上がったいい女」というときの「小股」には諸説あるが、私はそのまんまの意味で「股」のことではなかったかと思っている。「小耳にはさむ」だとか「小腹がすく」という言い回しと同様、「小」の文字にはそんなに大きな意味はないという説もあり、その通りではないかと思う。昔から絶対領域は男性にとっての重要な萌えポイントだったのではなかったか。
 股から流れ落ちる血は、さらに別の連想も誘う。「裂裙」も、字面からすれば本当に着物が引き裂かれたかのような印象も与え、さながら婦女暴行致傷。それも蕪村ぶそんの計算であろう。
 実際、小林太市郎はまんまとその罠に引っかかって、「土手下の藪蔭で老俳諧師はいかいしと娘との間には『裂裙且傷股』の愛の交歓があったのであり、『多謝水上石(こやん註;次の詩に出てくる句)』はその愛を知った娘のよろこびの叫びであるとまでいう」(『與謝蕪村ぶそんの小さな世界』芳賀徹、1988、中公文庫、p.106)と解釈している。
 (なお小林太市郎は尾形光琳の「紅白梅図屏風」を、真ん中の川を女として、左右のうめの木を男としての、3Pのイメージで解釈したことでも知られている。江戸時代の絵画にこうした見立てが多く含まれていることは否定できない。しかし、それは隠し味であって、それを描くことが目的なのではない。それをわかったうえで、「春風馬堤曲」をそういうふうに読んでいるものと思われる。)

渓流石點點 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙

 渓流には石が転々として、石を踏んでは芳ばしい芹を摘む。
 水の上の石さんありがとう、おかげで裾を濡らさずにすむ。


 これもマイナーイメージとして読むなら、裾を濡らさずにすむというところで、かえって裾を濡らした姿を想像させる。石から足を踏み外して「きゃっっ、冷たっ」って、女の子の可愛らしい仕草としては今でも定番だ。
 マイナーイメージという言葉は正岡子規がスペンサーから学んだもので、さっそく芭蕉ばしょうの古池のに応用し、水の音をもって閑寂と言わずして閑寂を言いあらわすという解釈を思いついている。洋の東西を問わず、こうした手法は珍しくない。
 榎本其角えのもときかくは、芭蕉ばしょうの、

 はつしぐれさる小蓑こみのをほしげなり    芭蕉ばしょう

に対して、「猿に小蓑を着せて、俳諧はいかいの神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり」と評しているが、このも「ほしげなり」というだけで、猿が蓑を着たということはどこにも書かれていない。それでも猿が蓑を着た姿を想像してしまう。書かれてないもが見えるという意味で、それはまぎれもなく「幻術」だ。

一軒いっけん茶見世ちゃみせやなぎおいにけり

 芹摘みは終り、やがて一軒の茶店にたどり着く。「柳老にけり」が茶店自体も古く、そこの主人も年老いていることを想像させる。

茶見世ちゃみせ老婆子らうばしわれ慇懃いんぎん
 無恙むやうかつわれ春衣しゅんい

 茶店のばあちゃんががわたしのことを見て慇懃に、
 恙無つつがないことを喜び、わたしの春物の着物を誉める。


 このおばあちゃんは、毎年春あきに帰省するたびに会う、顔見知りなのであろう。とはいえ、世代も違うし、特に仲がいいわけでもない。あくまでも商売上のお世辞として、着物を「あら可愛いね」という感じで誉めてくれているにすぎない。

店中有ニ客 能解江南語
 酒錢擲三緡 迎我讓榻去

 店の中にはお客さんが二人いて、地元の言葉で話してくれる。
 酒代に銭の束を三つ投げては、わたしのことを迎えてくれて席を譲ってくれる。


 「江南語」はもちろん中国の江南地方の言葉ではなく、漢詩風に気取って言っているもの。青山の横断歩道をアビーロードと言ったり、中央高速をアメリカのフリーウェーに見立てたりするようなものだ。
 ただ、どこの言葉を「江南語」と呼んでいるかには諸説ある。浪花の遊郭の言葉だとかいう説もあるが、ようやく故郷に近づいたというこの場面では相応しくない。故郷の毛馬地方の言葉と考えた方がいいだろう。酒を飲んでいた二人組みも同郷のよしみで、酒をおごってくれて、席まで空けてくれたのであろう。
 昔は今のようなマスメディアもなく、人の行き来も今より少く、もちろん「標準語」なんてものもあるわけではなかったから、ほんの少ししか離れてなくても、微妙に言葉が違ってたりすることは十分ありえた。
 ともあれ、下心丸出しで寄ってくるのではなく、銭を投げ席を立って、そのまま去ってゆくところが何とも粋だ。銭の束も二つは自分達の、そしてあと一つはあそこのお嬢さんの、ということか。こうした洗練された仕草からすると、この二人も同じように浪花から帰る途中だったのだろう。

古驛こえき三兩家さんりゃうか猫兒べうじつまよぶ妻來つまきたらず

 古い宿場で三軒の家が並び、猫が妻を呼んでいるが妻は来ない。


 「古驛」は古い宿場のことだが、「三両家」と家も少なくそれほど大きな宿場ではない。だが、京街道から外れた毛馬堤の道もある程度人の行き来はあり、ささやかながらも宿場が作られていたか。
 そこでは妻を呼ぶオス猫の声が響くがメス猫は現われない。もっとも、オスの恋鳴きと思われているものは、実際はオス同士がかち合ったときの威嚇しあう声で、別にメスを呼んでいるわけではない。
 犬や猫などの小動物を出して、少女の可愛らしさを引き立てるのは、今日でもよくある手法だ。呼んでも来ない妻の切なさは、ここからさきの展開の伏線になる。

呼雛籬外鶏 籬外草滿地
 雛飛欲越籬 籬高墮三四

 籠の中の鶏の雛が外にいる母鳥を呼ぶ、外は草に満ちている。
 雛は籠を飛び越えようとするのだが、籠の背が高くて三羽四羽落ちる。


 いわゆる「籠の鳥」という古典的なテーマだ。家に縛られた女性はしばしば籠の鳥に例えられる。先の妻を呼ぶが妻の子ない猫と並べられることによって、思うようにならない切なさが強調される。
 鶏のイメージは陶淵明の『帰園田居(園田の居に帰る)』のもので、

 狗吠深巷中 雞鳴桑樹顚
 犬は路地裏の奥で吠え、鶏は桑の木の高みで鳴く。

の詩句から来ていて、故郷を表すのによく用いられる。
 故郷に帰ってくると、田舎はいつも変わらない。狭い人間関係の複雑なしがらみに縛られて、あのオス猫のように会いたい人にもなかなか会えないし、あの鶏の雛のように、飛び出そうとしてもなかなか飛び出せない。かつてはそれがどうしようもなくいやだった。
 故郷を離れ、都会に出て、籠から抜け出したと思ったのに、実際人間はいたるところ鎖に繋がれている。辛い時にはふと故郷を思い出す。そして故郷は記憶の中で次第に美化され、甘美なノスタルジーを作り出す。しかし、本当は故郷のしがらみがいやで飛び出してきたはずなのに。こうして、ひとは次第に帰るところをなくしてゆく。
 この「春風場提曲」は蕪村ぶそん自身じしんの毛馬堤への望郷の思いを、藪入りの少女に託したものだともいう。絵師として成功し、浪花に住む蕪村ぶそんにとって、一里程度しか離れていない毛馬は、帰ろうと思えばいつでも帰れる距離にあった。だが、蕪村ぶそんは帰れなかった。故郷で何があったかわからないが、いろいろな事情があったのだろう。その一里が永遠の距離になってしまうこともある。

春艸しゅうさう三叉さんさちゅう捷徑しょうけいありわれむか

 春の草に埋もれたような三叉路に来て、目の前の道は二つに分かれる。一つは故郷に帰る道。もう一つは多分京街道に出て京都へ通じる道だろう。「捷徑」は近道の意味だが、おそらく村の裏の方から入る道という程度の意味だろう。

たんぽぽ花咲はなさけさんさん五五ごご五五ごご
 さんさんしろ記得きとく去年こぞ此路このみちよりす


 三々五々というのはたくさんという意味で、本来この数字に意味はないのだが、これを三と五に分けて、五は黄色い花を咲かせ、三はすでに白い綿毛になっていると言葉遊びをする。そして、去年もこの道を通ったことを思い出す。

あはれみとる蒲公たんぽぽ莖短くきみじかうしてちちあませり

 やや重く、しんみりとした帰郷の場面になって、ここで息抜きといったところだろう。少女が腰を下ろしてタンポポの花を摘み取る仕草はまるでアイドルのグラビアのようだ。
 「乳」という言葉をここで出すのも、やはり一種のサービスだ。もちろん、本当に少女がおっぱいをポロリと出すのではなく、ただ、言葉を出すことによって連想させるだけだが。
 たんぽぽはもちろん少女の比喩に容易になりうる。

    花見はなみにと女子をなごばかりがつれだち
 のくさなしにすみれたんぽぽ  岱水たいすい

これは芭蕉ばしょう七部集の一つ『炭俵』の「空豆の花」の巻の挙句だが、少女を可憐なの花に例えるのは、別にそんなに珍しいことではない。

むかしむかししきりにおもふ慈母じぼおん
 慈母じぼ懷袍かいはうべつはるあり


 そして「乳」のイメージは母のイメージへと展開される。こうした展開の仕方は連句での取り成しの手法に似ている。

    たんぽぽ短く乳をあませり
 むかしむかししきりにおもふ慈母の恩

とでもすれば、連句だ。
 そして、この連句は次にこう展開される。

    むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり

もちろん、実際の連句で同語を反復することはまずない。もっとも式目には違反しないが。
 「懷袍」は「懷抱」のことか。懐抱かいほうは読んで字の如くふところいだかれること。
 「別に」は慈母に懐抱されるという別の春がある、という意味にも取れるし、慈母の懐抱とは別の春があるとも取れる。実際にこの少女の春は慈母の懐抱とは別にあった。

はるあり成長せいちゃうして浪花なにはにあり
 むめしろ浪花らうくゎ橋邊けうへん財主ざいしゅいへ
 春情しゅんじゃうまなびたり浪花風流なにはぶり


 これも連句風に書くと、

    慈母の懷袍別に春あり
 春あり成長して浪花にあり

となる。ここでも「春あり」を重複させて、尻取りのように展開している。ただ、四六六で、やや破調のとなる。
 前句まへくと合わせると、成長して慈母の懐抱とは別に浪花に春あり、という意味になる。
 次の句も六七六で、やや破調気味の発句ほっくの体となっている。
 「梅は白し」は芭蕉ばしょうの『野ざらし紀行』の、三井秋風みついしゅうふう別墅べっしょ花林園かりんえんで詠んだ、

 梅白むめしろ昨日きのふつるぬすまれし    芭蕉ばしょう

を彷彿させる。白梅は金持ちの庭には付き物なのだろうか。
 ここで少女の奉公先が浪花橋の辺りの投資家(金貸し)の家だったことが明かされる。

 春情まなび得たり浪花風流

 これも四六五のやや字足らずの破調。
 「春情」はここでははるの長閑な風情ではなく、男女の恋愛感情の方だ。まあ、お年頃だから恋ぐらいはするだろう。何があったかいろいろ想像を掻き立てられるところだ。
 そこで洗練された浪花流の風流を学んだという。江戸えどのさらっとした乾いた粋というよりは、もう少し湿った人情に厚い粋だったのだろう。今の江戸えどと上方の気質の違いは、このころにはかなり固まっていたのではなかったか。
 ここでは「ふり」と読ませているが、風流は狭義では俳諧はいかいのことを指し、風流は俳諧はいかいの遊び心から来ている。

がうおとうとそむ三春さんしゅん
 もとをわすれすゑとる接木つぎきむめ


 このあたりを説教くさく解釈したのでは面白くない。何よりも蕪村ぶそん自身じしんが故郷を捨てた人間なのだから、この言葉はむしろ蕪村ぶそん自身じしんの自戒と取った方がいい。
 ここでこの帰郷が奉公に出て三年目のはるであることがわかる。ただ、それまでも春と秋の薮入りのたびに帰っていたのか、それとも三年目に初めて帰ってきたのかは定かでない。ただ、特別帰れない事情がない限り、年二回帰ってたと考えた方がいいだろう。ここでの主人公は蕪村ぶそんではなく、あくまで普通の女の子だからだ。
 当時とうじ、男子は数え十五(満十四歳くらい)で成人だったし、女子も十五で嫁に行ってもおかしくない時代だったから、奉公に出たのも、おそらくそれくらいの歳だろう。というとそれから三年、今でいうと女子高生くらいの年齢だったと見ていいだろう。
 大人の女の色気ではない、芹を摘もうとして太ももを切ったり、川の飛び石を渡っては石に感謝したり、タンポポ摘んでみたり、そういう子供っぽさの中に隠されて色気を求める。それは今の日本の文化に着実に受け継がれている。たとえば、日本ほどミスコンが話題にならない国もないだろう。ミス日本は日本国内よりも海外の方で有名人だという。ミスコンよりも国民的美少女の方に関心があるのが日本文化の一つの特徴といえよう。

故郷こきょう春深はるふか行行ゆきゆきまた行行ゆきゆく
 楊柳長堤やうりうちゃうてい道漸みちやうやくくだれり


 藪入りは初春のもので、「春深し」はやや誇張した言い回しだ。しかし、これも初春は幽かなはるの風情に、はるの深さを読み取ると考えるなら、それは文字通り「萌え」だと言えよう。

 いはばしる垂水の上の早蕨の
    萌え出づる春になりにけるかも
                     志貴皇子

こころだ。
 「行行ゆきゆきまた行行ゆきゆく」は本来は漢の時代の古詩(『文選もんぜん』の古詩十九首の第一首)「行行重行行(行き行きて重ねて行き行く)」から来た言葉で、広大な中国を北と南に生き別れになった恋人の悲しみを歌ったものだった。
 『奥の細道』のなかでは、曾良そらが病気のため芭蕉ばしょうと別れて、先に伊勢長島に向ったときの

 ゆきゆきてたふれふすともはぎはら  曾良そら

でも用いられている。ここでも別離の情が生かされている。
 このまま先に旅立ってどこかに倒れても、芭蕉ばしょうさんあなたが後から来てくれるから心強いです、というのが本来の意味だったのだが、なぜかいつしか倒れても萩の原なら本望だみたいな、あたかも特攻隊のようなの美化するに祭り上げられてしまった。
 蕪村ぶそんはこうした情とは無関係に、単に故郷への道を淡々と行くという意味に用いている。換骨奪胎といえば聞こえがいいが、大げさな言い回しだ。
 「楊柳長堤」も初春ではまだ柳は青々と芽吹いてはいないだろう。それでも「春深く」なんて言葉と組み合わされると、すでに桜の花も咲きそうな感じだ。ないものを見せる、それが幻術。
 堤を下っていくと村につながる。故郷毛馬堤だ。

矯首けうしゅはじめて故園こゑんいへ黄昏くゎうこん
 白髪はくはつひとおとうといだわれ
 まつ春又春はるまたはる


 故郷の家にたどり着いたころにはすでに日は黄昏、まえせつに「数里」とあるとおり、実際の浪花の北、中津から毛馬堤の距離とは無関係に、ファンタジーワールドと考えるなら辻褄が合う。
 白髪の母と歳の離れた弟が迎えてくれて、めでたしめでたしとなる。
 ここで弟と母が出てきて、何で父親が出てこないのか。そのあたりの設定は描かれていない。
 もし故郷を去ったあとに死んだのなら、家を出て三年目の帰郷がこのように大きな意味を持つことはなかろう。死んだときの帰郷の記憶の方が鮮明なはずだ。幼くして父を失ったか、離婚したかのどちらかと考えたほうがいいだろう。
 江戸時代の女性は家庭に縛り付けられていたというイメージがあるが、実際は結構離婚率が高かった。もっとも近代の離婚と違い、家の力が強い分、家同士でもめごとがあると親の方が嫁を引き上げさせたりしたということも、離婚率の高い原因だったのだろう。蕪村ぶそんの娘も離婚している。  速水融の『江戸えどの農民生活史』(1988、NHKブックス)によると、美濃国安八郡西条村の宗門改帳の研究から、この村で天明元(1781)年から40年間、106件の結婚件数のうち40件が離婚しているという。つまり離婚率が19パーセントもあった。
 これは蕪村ぶそんが「春風馬堤曲」を書いたより少し後の時代で、場所も美濃国だが、江戸時代の離婚率が決して低くなかったことの一つの証拠とはなるだろう。
 離婚率が高く、もちろん成人男性の死亡率も今日よりはるかに高かったとあれば、この「春風馬堤曲」を聞いた聴衆も、この少女の父親がいないことをそれほど不思議には思わなかっただろう。

君不見きみみずや古人こじん太祇たいぎ
   藪入やぶいりるやひとりのおやそば


 最後の締めということでことで、蕪村ぶそんは先輩の炭太祇たんたいぎの句を引用する。
 「君不見(君見ずや)」は少女が母親に向って語りかけているのか。声には出さなくても、ひそかに母親をリスペクトして、炭太祇たんたいぎの句を捧げるという趣向なのだろう。「ひとりの」というのは実際に片親だということではなく、たったひとりの、かけがえのないという意味。
 こういう俳諧はいかい発句ほっくを知っているというのも、当時とうじの「浪花風流なにわぶり」なのだろう。
 明和・天命の時代には中国かぶれの文人が多く、池大雅いけたいが谷文晁たにぶんちょう椿椿山つばきちんざんのように中国風に漢字一字の苗字に感じ二文字の名前をつけるのが流行っていた。この春風馬堤曲も夜半亭やはんてい蕪村ぶそん与謝蕪村よさぶそんではなく、謝蕪邨しゃぶそんと中国風に署名している。
 なお、この作品の成立について、蕪村ぶそんの一通の書簡が残されている。

さてもさむき春ニて御座候。いかが御暮被成候や、御ゆかしく奉存候。しかれば春興小冊漸出板ニ付、早速御めニかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引ニ及候故片時はやく御届可被下候。
一、春風馬堤曲 馬堤は毛馬づつみ也 則余が故園也
余幼童之時、春色清和の日ニは、かならず友どちと此堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ、其中ニハ田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢粧いまようすがたに倣へ、髪かたちも妓家の風情をまなび、■伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむもの有。されども、流石さすが故園ノ情ニ不堪、たまたま親里に帰省するあだ者成べし。浪花を出てより親里迄の道行みちゆきにて、引道具ノ狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情ニて候。
当春の帳ハ同盟の社ばかりにて、他家を交ず候。それ故伏水ふしみの諸家をも洩し申候。御出会之節其御噂被成、諸子腹立なき様ニ被仰訳可被下、桃ニハ下り候て寛々ゆるゆる御物がたり可仕候。数状したため老眼つかれ、草々かしこ。
   二月二十三日             夜半

 ここでは「春風馬堤曲」の本編とは違い、ずいぶん少女について批判的な書き方をしている。
 「髪かたちも妓家の風情をまなび、■伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむもの有。」そういう風俗を風刺するのがこの曲のねらいだったのだろうか。そういうふうには読めないだろう。
 これは蕪村の萌えが同時代の俳諧はいかいの門人の間ではほとんど理解されなかったため、何でこんな破廉恥なものを書いたのかという非難を恐れて、あえてこういう建前上の表向きの理由をこさえたのであろう。
 つまり、この曲は少女を魅力的に描き出すことが目的ではなく、あくまで今時の若いもんのちゃらちゃらした雰囲気を風刺的に描き、親孝行をせなあかんことを説いたものだ、と。

 参考文献
  『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎、1988、岩波文庫
  『蕪村』藤田真一、2000、岩波新書
  『与謝蕪村』安東次男、1970、筑摩書房
  『與謝蕪村の小さな世界』芳賀徹、1988、中公文庫
  『日本の美術NO.4 文人画』飯島勇編、1966、至文堂

蕪村『澱河歌』を読む


 蕪村の「澱河歌」は安永六年(一七七七年)刊の『夜半楽』に収録されている。

 この「澱河歌」も「春風馬蹄曲」と同様、元は音楽を意図したものだったと思われる。「澱河歌」の原案と思われる、若干の異なる所のある団扇に書かれた「澱河曲自画賛」も残されている。そこには扇子を持ち刀を差した総髪の背中を向けた男と、その後ろに寄り添うような島田髷の女が描かれている。

 総髪は浪人に多く、アウトローっぽい感じがする。そのあたりが粋だったのかもしれない。

 「澱河曲自画賛」には「遊伏見百花楼送帰浪花人代妓」という前書きがついている。書き下し文にすると「伏見百花楼に遊びて浪花に帰る人を送る。妓に代はりて」になる。

 「伏見百花楼」はネット検索ではわからなかったが、当時は有名な店だったのだろうか。伏見には遊郭があった。

 

   暁台が伏見・嵯峨に遊べるに伴ひて

 夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人    蕪村

 

の句もあるが、おそらくは遊郭で遊んだのだろう。夜の伏見に行くのに他に何の理由があるだろうか。

 そういうわけで、「澱河曲」は遊郭に遊びに来た刀差した総髪の男とそこの遊女との恋ということになる。帰ってゆく男の背中を見送りながら遊女に成り代わっての曲、それは漢詩二首と和文から成り立つ。

 まずは最初の詩。

 

 春水梅花浮 南流菟合澱

 錦纜君勿解 急瀬舟如電

 春の川に浮かんだ梅の花びらは、南へ流れて宇治川は淀川に合わさる。

 あなた、もやい綱を解かないで、流れが急だから船は雷のようにあっという間に行っちゃう。

 

 伏見は水運の要衝で、伏見の遊郭に遊びに来る難波人も船を利用したのだろう。

 『夜半楽』の「澱河歌」は前説なしで、「澱河歌三首」というタイトルが付けられている。「春水梅花浮」は「春水浮梅花」に改められている。こちらの方が漢文っぽい。

 二首目の詩。

 

 菟水合澱水 交流如一身

 船中願並寝 長為浪花人

 宇治川が淀川に合わされば、流れは結ばれて一つになり、

 その船の中で枕を並べてみたいな。そして生涯難波の人となって暮らしたい。

 

 まあ、「合」「交」「如一身」「並寝」と結構生々しい言葉が並ぶ。一般的な漢詩のイメージとは随分と違う。どちらかというと昭和の演歌のようだ。

 ある意味、ここに幕末から明治にかけて形成される浪花節のルーツのようなものを見ることができるかもしれない。浪花節的な人情のどろどろした世界は、昭和の演歌へと受け継がれる。蕪村には大阪談林の人情句から浪花節や演歌への橋渡し的な役割があったのかもしれない。

 『夜半楽』の「澱河歌」では、「船中願並寝」が「船中願同寝」となっている。

 あと一首は和文になっている。

 

 君は江頭の梅のごとし

 花水に浮て去こと

 すみやか也

 妾は水上の柳

 のごとし

 影水に

 沈て

 したがふこと

  あたはず

 

 行分けされているのは、この文章が絵の上に被っているからで、島田髷の女性の絵の上にこの文章が来る。

 『夜半楽』の「澱河歌」は「江頭」と「水上」が逆になり、

 

 君は水上の梅のごとし花水に 

 浮て去こと急カ也 

 妾は江頭の柳のごとし影水に 

 沈てしたがふことあたはず

 

となっている。いずれも説明の必要のないわかりやすい文章だ。

 「江頭」は長江などの大河のほとりという意味で、「水上」はもう少し一般的に水のほとりを表す。

 「澱河曲自画賛」のバージョンだと男は淀川の大河のほとりに咲く梅で、女は宇治川の細い流れのほとりの柳と、地理的な捉え方になる。

 これに対し、『夜半楽』の「澱河歌」は、「水上」を漢詩的な用法ではなく日本語的な「水の上」の意味で用いているのではないかと思う。水の上の梅だから散った花は「水に浮きて」となる。これに対し女は普通に川辺のという意味で用いている。漢詩的な用法から日本的用法への転換が見られる。

 実際には商売で接客している遊女が客に対してこういう感情を抱くことはそうそうないとは思うが、そこはこんなふうに惚れられてみたいなという男の願望といった所だろう。

 

 参考文献
  『蕪村俳句集』尾形仂校注、1989、岩波文庫

「牡丹散て」の巻を読む


 連歌も俳諧も本来はひと所に人を集めて機知を競うものだった。「出勝ち」と呼ばれるいかにすばやく句を付けるかを競うやり方は、後のお笑い芸の中にも引き継がれ、大喜利の原型ともなっている。

 中世の連歌会(れんがえ)は一日千句興行のような、一日かけてゆっくり行われているように見えながらも、夜明けから日没までの間に千句というのはかなりスピーディーに句が付けられていかなくてはならない。十二時間で千句だとしたら、七百二十分に千句で一句あたり一分もない。即興でほとんどノータイムで句を付けて行き、そのうえでそのスキルと面白さを競うのだから、むしろ今日のヒップホップのMCバトルにも近いものがある。

 芭蕉の時代の俳諧が歌仙という短い形式になったのは、一日がかりの寺社などでの大規模な興行が廃れ、個人宅で夕方から始めるパターンが増えたからであろう。

 特に『奥の細道』の頃の軽みへの移行前の興行は一句をつけるのにも時間がかかり、ときに満尾するまで何日もかかることもあったようだ。

 俳諧が衰退期に入り、すばやく句を付けるスキルを持った人が減ってくると、一句付けるにも時間ばかりかかり、その間も句を案じてうんうん呻る時間ばかりが増えて、本来の談笑の楽しさも失われていったのではないかと思われる。

 夜半亭蕪村もまた、そんな乏しき時代の俳諧師だったのだろう。芭蕉にあこがれながらも、既に興行の機会は少なく、そこで考え出したのが手紙のやり取りでもってひと所に集まらずして句を付けてゆくというやり方だった。

 蕪村七部集の一つに数えられている『ももすもも』(安永九年冬刊)もこうしてできた歌仙二巻を収録したものだ。ここでは小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』をもとに、

 

 牡丹散て打かさなりぬ二三片   蕪村

 

を発句とする歌仙を読んで行こうと思う。

俳諧桃李序

 まずこの「ももすもも」には「俳諧桃李序」という序文が付いている。ちなみに漢和辞典によると「桃李」には自分が引き立てたり推薦したりした者、立派な人物という意味や、顔色の美しいことのたとえという意味も出てくる。蕪村もなかなか気負ったタイトルをつけたものだ。

 この序にはまず、

 

 「いつのほどにか有けむ、四時四まきの可仙有。春秋はうせぬ、夏冬はのこりぬ。」

 

とあるが、これは嘘だという。いかにも興行があったかのように偽装しているだけだ。

 

 「壱人請て木にゑらんと云。壱人制して曰、この可仙ありてややとし月を経たり。」

 

 一人がこれを木版印刷しようと言うと、一人が随分前のものなのでやめようよと言うという意味だが、これも作りに決まっている。別に蕪村と几董がこう話し合ったというわけではあるまい。というのも、「とし月を経たり」というのも嘘だからだ。昔こういう興行があったという偽装にすぎない。

 

 「おそらくは流行におくれたらん。余笑て曰、夫俳諧の活達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはば一円廓に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。」

 

 こういう一文があると、流行に疎い今の俳句爺さんたちは泣いて喜びそうだ。

 まあ、確かに流行は繰り返すという側面もある。六十年代にはやったミニスカートは八十年代に復活したし、六十年代後半から七十年代にはやった「長髪」は八十年代のパンク・ニューウエーブで急にダサいものになったが、九十年代のグランジあたりからまた復活し、いわゆる「ロンゲ」という言葉を生んだ。

 ただ、たまたま流行が戻ってきたからといっても、以前にはやった時とは微妙に違うものになっているので、時代遅れなやつは所詮時代遅れなのには変わりない。

 

 「流行の先後何を以てわかつべけむや。」

 

 俳諧に限らず、一つのジャンルが確立されてゆく時期にはいろいろな試行錯誤が為され、そのつど新しい試みが為されるが、ひとたび完成されてしまうと後は今までやったパターンをちょっとアレンジし直す程度で、大体同じようなパターン繰り返しに陥る。

 芭蕉の時代は俳諧はまだ未完成でこれから作ってゆくものだったから、次から次へと新しい実験がなされ、そのつど流行していった。

 しかし、蕪村の時代ともなると俳諧は芭蕉のリバイバルみたいなもので、芭蕉が年次を追って作り上げてきたさまざまな風を、ただいろいろ並べ替えるだけに終始する。蕪村の時代には芭蕉の時代のような顕著な流行はなかったのだろう。それはどちらかというと俳諧そのものが時代遅れになっているという意味なのだが。

 蕪村も会心の俳諧興行ができず、書簡で時間をかけて両吟をやるという形で、わずか二巻を「木にゑらん」としたのも、そのせいだと思われる。

 だから、今の俳人も流行を気にする必要など何もない。俳句そのものが時代遅れなのだから。近代俳句だけでなく、近代短歌も現代詩もいわゆる純文学も、それどころか現代文学、現代美術自体、ひと通りのパターンが出尽くし、もはや新しさを追及する時代は終わり、過去の様々なパターンのリバイバルを繰り返す状態になっている。むしろそれらは保存の時代に入ったといっていい。

 

 「ただ日々におのれが胸懐をうつし出て、けふはけふのはいかいにして、翌は又あすの俳諧也。題してももすももと云へ、めぐりよめどもはしなし。是此集の大意也。」

 

 「ももすもも」というタイトルは上から読んでも下から読んでも横から読んでもももすももなので、終わりがないというわけだ。「すもももももももももももものうち」という早口言葉もある。でも本当は、司馬遷『史記』の「桃李不言下自成蹊」や日蓮の「桜梅桃李」を踏まえているんでしょ?って言いたくなる。この二つは俳優の松坂桃李の名前の由来になっているらしい。

 そういうわけで、ようやく発句に辿り着く。

初表

発句

 

 牡丹散て打かさなりぬ二三片   蕪村

 

 まずこの句は興行の当座の興で詠んだ句ではない。安永二年(一七七三)刊の『あけ烏』に収録されている。少なくとも七年前の句だ。

 牡丹の花はばらばらと崩れるように一斉に散る。元禄十三年(一七〇〇)の乙孝撰『一幅半(ひとのはん)』には、

 

 一重づつ散を牡丹のたのみかな  石周

 

の句もある。

 

季題は「牡丹」で夏。植物、草類。

 

 

   牡丹散て打かさなりぬ二三片

 卯月廿日のあり明の影      几董

 (牡丹散て打かさなりぬ二三片卯月廿日のあり明の影)

 

 この脇は一応発句に対する返礼の形になっている。だが、卯月廿日もあくまで架空の興行の日付だろう。牡丹の散った庭に夜も白み有明の月の光にその姿がほの見えて来る。「影」はここでは「光」の意味。

 発句の景を生かすためか、あえて月の定座を引き上げている。

 

季題は「卯月」で夏。「有明」はここでは夏の月になる。夜分、天象。

 

第三

 

   卯月廿日のあり明の影

 すはぶきて翁や門をひらくらむ  几董

 (すはぶきて翁や門をひらくらむ卯月廿日のあり明の影)

 

 中世連歌や芭蕉時代には「らん」とはねるのが普通だが、あえて「らむ」とするのは国学の影響か。

 「すはぶきて」は「しはぶきて」に同じ。咳をすること。明け方に何で翁が門を開くのか、そん辺の設定は不明。何となく雰囲気で付けたという所か。

 

無季。「翁」は人倫。

 

四句目

 

   すはぶきて翁や門をひらくらむ

 婿のえらびに来つるへんぐゑ   蕪村

 (すはぶきて翁や門をひらくらむ婿のえらびに来つるへんぐゑ)

 

 延宝五年(一六七七)に『諸国百物語』が刊行され、芭蕉の時代には百物語が流行したようだ。『俳諧次韻』に収められている延宝九年秋の「鷺の足」の巻にも、

 

    先祖を見知ル霜もの夜語

 灯火をくらく幽灵を世に反ス也   其角

 

の句がある。前句の「夜語」を百物語に取り成した句だ。

 江戸中期になると、芭蕉とも交流のあった英一蝶の、その門人の書いた佐脇嵩之の『百怪図巻』や、鳥山石燕『画図百鬼夜行』などの今でいう妖怪図巻が作られ、上田秋成の『雨月物語』を始め、多数の妖怪怪異を題材とした草紙が出版された。そういう意味でも、この句は流行の句と言っていいのだろう。

 すはぶき爺さんを御伽噺に出てくるようなお爺さんとし、その爺さんのもとに婿を探しに来た変化がやって来る。女狐か何かだろうか。

 この頃はまだ「妖怪」という言葉はあまり用いられず、蕪村も「へんぐゑ(変化)」という言葉を用いている。

 

無季。「婿」は人倫。

 

五句目

 

   婿のえらびに来つるへんぐゑ

 年ふりし街(ちまた)の榎斧入れて  蕪村

 (年ふりし街の榎斧入れて婿のえらびに来つるへんぐゑ)

 

 江戸の王子には装束榎と呼ばれる榎の巨木があって、そこに大晦日になると狐たちがたくさん集まってきて衣装を改め、王子稲荷に参詣したといわれている。

 おそらく似たような話はかつて他にもあったのだろう。町中にあった榎なら切り倒されたりすることもあったのか。句はうしろ付けになっていて、「へんぐゑの婿のえらびに来つる年ふりし街の榎、斧入れて」の倒置になる。

 「て」止めのうしろ付けは古くから普通に行われている。

 

無季。「榎」は植物、木類。

 

六句目

 

   年ふりし街の榎斧入れて

 百里の陸地(くがぢ)とまりさだめず 几董

 (年ふりし街の榎斧入れて百里の陸地とまりさだめず)

 

 「百里」は遥か遠いことのたとえで、きっちり四百キロというわけではない。「陸地(くがぢ)」は陸路に同じ。「泊りわびしき」という初案があり、この方がわかりやすい。遥かな旅をして、そこで榎の古木のことを耳にして行ってみると既に切り倒されてたりする。そのように月日は留まることを知らない。

 

無季。「百里の陸地」は旅体。

初裏

七句目

 

   百里の陸地とまりさだめず

 哥枕瘧(おこり)落たるきのふけふ  几董

 (哥枕瘧落たるきのふけふ百里の陸地とまりさだめず)

 

 「瘧」はマラリアのことで、昔は珍しくなく、『源氏物語』では源氏の君もこの病気になり、療養中に若紫と出会った。「落(おち)たる」は病気の良くなることで源氏の時代には「おこたる」と言った。

 芭蕉以来、歌枕を尋ね歩く旅は江戸時代には盛んに行われていたのだろう。歌枕を尋ねての百里の旅は途中でマラリアになることもあったが、それでも終わることなく続く。

 

無季。「瘧」は今では夏の季語になっているが、当時は不明。源氏の君は春三月桜の季節にマラリアにかかっている。

 

八句目

 

   哥枕瘧落たるきのふけふ

 山田の小田の早稲を刈頃     蕪村

 (哥枕瘧落たるきのふけふ山田の小田の早稲を刈頃)

 

 早稲は旧暦七月から八月に収穫する。

 「山田」は伊勢山田か。

 

 聞かずともここをせにせむほととぎす

     山田の原の杉のむら立ち

               西行法師

 

の歌に詠まれているから歌枕といえる。もちろん次の句では単なる山の間の田んぼに取り成すことができる。

 「哥枕」に「山田」を付け、マラリアの治る季節ということで「早稲の刈頃」を付けている。四手付けというべきか。

 

季題は「早稲を刈る」で秋。「山田」は名所。

 

九句目

 

   山田の小田の早稲を刈頃

 夕月に後れて渡る四十雀    几董

 (夕月に後れて渡る四十雀山田の小田の早稲を刈頃)

 

 四十雀は留鳥で渡り鳥ではない。この場合の渡るは寝ぐらに帰る程度の意味か。

 夕月はまだ日にちの浅く夕方に現れては暗くなると沈んでゆく月を言う。夕月が見えて来る頃、それにやや遅れて暗くなった空に四十雀が群を成して飛んでゆく。

 初表は蕪村二句几董二句の進行だったが、ここからは一句づつになる。

 

季題は「夕月」で秋。夜分、天象。「四十雀」は鳥類。

 

十句目

 

   夕月に後れて渡る四十雀

 秋をうれひてひとり戸に倚(よる) 蕪村

 (夕月に後れて渡る四十雀秋をうれひてひとり戸に倚)

 

 夕月に秋を憂うと付く。わりかし紋切り型の展開だ。「ひとり戸に倚」もどういうシチュエーションなのかがはっきりしない。

 それ初裏も四句目なのに句が大きく展開せず、遣り句めいた平板な句の連続で、このあたりも芭蕉の時代の俳諧とだいぶ意識が違うように思われる。

 基本的にいえるのは生活感がないということで、それが蕪村の離俗と言ってもいいのかもしれない。遠い空想のノスタルジーの世界に読者を誘い込むというのが狙いなのだろう。手紙のやり取りで興行のような談笑の世界ではないから、笑いを取ろうと狙う必要もない。

 

季題は「秋」で秋。「ひとり」は人倫。

 

十一句目

 

   秋をうれひてひとり戸に倚

 目ふたいで苦き薬をすすりける   几董

 (目ふたいで苦き薬をすすりける秋をうれひてひとり戸に倚)

 

 食わず嫌いのものを人に食べさせる時には「目をつぶって食ってみろ」と言ったりするが、まあ飲みたくない薬を飲む時には目をつぶって一気にすするというのはわかる。

 秋はこれから寒くなる季節で、寒くなれば健康に不安もある。この冬を乗り切れるかなんて思いながら不安そうに薬をすする姿が浮かんでくる。

 

無季。

 

十二句目

 

   目ふたいで苦き薬をすすりける

 当麻へもどす風呂敷に文      蕪村

 (目ふたいで苦き薬をすすりける当麻へもどす風呂敷に文)

 

 当麻は奈良の当麻寺のあるあたりで、古くから竹内街道と長尾街道が通っている。どちらも大阪から大和行く道だ。この道は伊勢へ行く道でもある。

 当麻寺というと蓮の糸で曼荼羅を織ったという中将姫伝説が有名で、芭蕉が『奥の細道』の旅の途中山中温泉で曾良を送るために行った「山中三吟」十一句目にも、

 

    髪はそらねど魚くはぬなり

 蓮のいととるもなかなか罪ふかき   曾良

 

の句がある。神道家の曾良だから、魚は食わなくても蓮の命を奪ってるなんて突っ込みを入れたかったのかもしれない。大事なのは殺生は生きてゆくうえで避けられないもので何をやったって免罪はされない、あとは心の問題、罪の自覚の問題ということだ。

 ここではそれに関係なく、関西に住むものにとって馴染みのあるちょっと田舎の地名ということで引き合いに出しただけだろう。

 病気で薬を飲んで養生しながら、当麻から送ってきた風呂敷に手紙を添えて返してやる。蕉風というよりは大阪談林っぽい人情句だ。

 

無季。「当麻」は名所。「山田」から三句隔てている。

 

十三句目

 

   当麻へもどす風呂敷に文

 隣にてまだ声のする油うり    几董

 (隣にてまだ声のする油うり当麻へもどす風呂敷に文)

 

 江戸時代には夜の明りとして菜種油や綿実油が用いられた。油は生活の必需品となり天秤に大きな油桶を下げた油売りは各家庭に上がり込んでは油を補填するため、ご近所の噂話などにも詳しく、油を充填する間に顧客と噂話に花咲かせ、そこからだらだらおしゃべりして時間を過ごすことを「油を売る」と言うようになった。

 風呂敷包みを当麻に返しにお使いを頼もうにも、いつまでも油売りとぺちゃくちゃ油売ってる声がして、なかなかその油売りは帰ろうとしない。ありそうなことだ。

 

無季。「油うり」は人倫。

 

十四句目

 

   隣にてまだ声のする油うり

 三尺つもる雪のたそがれ    蕪村

 (隣にてまだ声のする油うり三尺つもる雪のたそがれ)

 

 油売りがなかなか帰らないのを雪のせいとした。三尺というと一メートル近いから、そりゃ帰りたくないだろう。帰るに帰れないうちに日も暮れてくる。

 

季題は「雪」で冬。降物。

 

十五句目

 

   三尺つもる雪のたそがれ

 餌(ゑ)にうゆる狼うちにしのぶらん 几董

 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん三尺つもる雪のたそがれ)

 

 三尺の雪を山奥の田舎の景色とし、飢えた狼が家の近くに潜んでるとした。

 村人の狼に対しての生々しい感情はなく、生活感なしにさらっと描くのが蕪村流の俳諧というところか。

 

季題は「狼」で冬。獣類。「うち」は居所。

 

十六句目

 

   餌にうゆる狼うちにしのぶらん

 兎唇(いくち)の妻のただ泣になく  蕪村

 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん兎唇の妻のただ泣になく)

 

 兎唇は「みつくち」と読むと今日では差別用語になるので、口唇口蓋裂と言わなくてはならないが、「いくち」はいいのかどうか。

 今日ではみんな手術で治してしまうため、実際に口唇口蓋裂の人を見ることはないし、いないなら差別のしようもないのだが、差別用語としては残っている。ただ今でも五百人から七百人に一人の割合で生まれているという。

 ただ、この句には殺生の因果と結び付けられて解釈されてきた歴史がある。前句を狼をひそかに飼っている狩人とみて、その因果のせいで妻が口唇口蓋裂になったというのはかなり無理な解釈に思えるが、蕪村の句もあまり付きが良くないので、そう読めといわれればそう読めてしまう。

 前句を特に取り成さずに、狼が潜んでいると思うと恐くて泣いていると読むほうがわかりやすい。単に奇をてらって「兎唇」を出してみただけではなかったか。まあ、ひょっとしたら兎唇フェチの人もいたかもしれないし。

 

無季。「妻」は人倫。

 

十七句目

 

   兎唇の妻のただ泣になく

 鐘鋳ある花のみてらに髪きりて  几董

 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて兎唇の妻のただ泣になく)

 

 鐘を新たに鋳造するというので、髪を切ってお寺に寄進する。兎唇(いくち)の妻も因果のことを気にしているのだろう。因果のことで泣いているのか、それともこれで救われると思って泣いているのか、蕉風の俳諧ならそれも笑いに転じてくれそうだが、蕪村流は大阪談林に近く湿っぽい。花の定座なのにあまり目出度くない。

 口唇口蓋裂差別もただ手術で直して見てわからないからなくなっただけで、それがなければ今でも何かしら深刻な事態として残っていただろう。

 同和差別にしても原発避難民差別にしても、差別の根源にあるのは感染症の恐怖の記憶で、それが本来感染らないはずのものまで拡張されてしまところに人間の無知からくる愚かさがある。

 ただ、誰も完璧な人間はいないので、それも責められないところがあって難しい。本来差別に厳しいはずの人権派の人たちが、原発となると話は別になって差別を擁護する側に回っているのは悲しいことだ。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「鐘鋳」「てら」「髪きりて」は釈教。

 

十八句目

 

   鐘鋳ある花のみてらに髪きりて

 春のゆく衛の西にかたぶく    蕪村

 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて春のゆく衛の西にかたぶく)

 

 「西にかたぶく」は西方浄土を暗示させ、釈教から離れきらない。この展開の緩さも蕉門的ではない。

 花に行く春の付け合いも古典的だし、鐘鋳だけに付きすぎの感がある。

 

季題は「春のゆく衛(ゆく春)」で春。

ニ表

十九句目

 

   春のゆく衛の西にかたぶく

 能登どのの弦音かすむ遠かたに  蕪村

 (能登どのの弦音かすむ遠かたに春のゆく衛の西にかたぶく)

 

 「能登どの」は能登守平教経(たいらのつねのり)で、『平家物語』では壇ノ浦の戦いで死んだことになっている。

 壇ノ浦の戦いが三月二十四日だったことから春の行方を平家の栄華の終わりに重ねあわせ、「西にかたぶく」には壇ノ浦が都の西にあることと西方浄土の死の暗示とを重ねあわせている。

 諸行無常の響きを感じさせる句で、やはり釈教から離れ切れていない。ただ、江戸後期的にはこういうのを三句の渡りと呼んだのであろう。近代連句でいうようなイマジネーションのシークエンスの先駆だといわれればそのとおりということになるのか。

 

季題は「かすむ」で春。聳物(そびきもの)。「能登どの」は人倫。

 

二十句目

 

   能登どのの弦音かすむ遠かたに

 博士ひそみて時を占ふ     几董

 (能登どのの弦音かすむ遠かたに博士ひそみて時を占ふ)

 

 魔除けのために弓を鳴らす鳴弦は『源氏物語』にも描かれているが、それで占いをしたのかどうかはよくわからない。ここは単に遠くで弓を射っている能登殿を影で見守りながら博士が戦況を占っているというだけかもしれない。

 

無季。「博士」は人倫。

 

二十一句目

 

   博士ひそみて時を占ふ

 粟負し馬倒れぬと鳥啼て    蕪村

 (粟負し馬倒れぬと鳥啼て博士ひそみて時を占ふ)

 

 『論語』に登場する公治長という人物については『論語義疏』に鳥の言葉を介したという逸話が記されている。

 雀の声を聞いて、「雀鳴嘖嘖雀雀、白蓮水邊有車翻覆黍粟、牡牛折角、收斂不盡、相呼往啄。(雀が騒ぎ立てているのは白蓮水のほとりで車がひっくり返ってキビやアワをぶちまけてしまい、牛の角が折れて収拾が付かなくなっているから、そのキビアワを食べに行こうという話で盛り上がってるからだ)」と言い、人に見に行かせるとその通りだったという。鳥の話から遺体の場所を言い当てたら犯人と間違えられて投獄されていたが、このことで疑いが晴れたという。

 まあ、孔子の時代より千年も後の伝説だが、江戸中期以降の古学の影響で、こういう話も一般に知られるようになっていたのか。牛を馬に変えるのは本説付けのお約束。

 ただ、この公治長の伝説と前句がどういうふうに結びつくのかよくわからない。

 

無季。「馬」は獣類。「鳥」は鳥類。

 

二十二句目

 

   粟負し馬倒れぬと鳥啼て

 樗(あふち)咲散る畷八町     几董

 (粟負し馬倒れぬと鳥啼て樗咲散る畷八町)

 

 樗は日本では「あふち」と訓じられ、栴檀の古名ともいう。中国では『荘子』逍遥遊編で恵子と荘子の対話の中に登場し「無用の用」の例とされている。前句の中国の説話を受けて、「樗」という中国風の木を登場させたのであろう。

 「畷」はあぜ道のこと。東海道川崎宿には八丁畷という地名もあり、芭蕉の元禄七年の最後の旅の時、弟子たちがここまで送ってきたという。

 

季題は「樗」で夏。植物、木類。曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』の夏の所に「楝(あふち)の花」という項目がある。

 

二十三句目

 

   樗咲散る畷八町

 立あへぬ虹に浅間のうちけぶり   蕪村

 (立あへぬ虹に浅間のうちけぶり樗咲散る畷八町)

 

 田舎のあぜ道に浅間山の虹を付ける。小諸あたりの景色だろうか。きれいなアーチ状の虹ではなく半分消えて根元だけが東の空に見えているのは夕立の後だろうか。そこに俄に浅間山の噴煙が上がる。

 富士山を祭る神社も浅間神社というが、「あさま」は本来火山のことを広く指す一般名詞だったのだろう。語源については諸説ある。

 この頃は長閑な田舎の景色だったが、三年後の天明三年、浅間山は大爆発する。

 

無季。「虹」は近代では夏になる。「浅間」は名所。山類。

 

二十四句目

 

   立あへぬ虹に浅間のうちけぶり

 勅使の御宿申うれしさ       几董

 (立あへぬ虹に浅間のうちけぶり勅使の御宿申うれしさ)

 

 勅使は天皇の代理として宣旨を伝える者のことだが、江戸時代だと将軍宣下、つまり将軍が変わる時に征夷大将軍に任ずる儀式のための使いであろう。中山道を通ることもあったのか。何らかの事情で中山道を通ったので思いもかけず勅使をお泊めすることになったということか。

 

無季。「勅使」は人倫。「御宿」は旅体。

 

二十五句目

 

   勅使の御宿申うれしさ

 江(かう)に獲たる簣(あぢか)の魚の腹赤き 蕪村

 (江に獲たる簣の魚の腹赤き勅使の御宿申うれしさ)

 

 「簣(あぢか)」は竹などで編んだ籠のことで、ネットで検索すると天秤棒の前後にぶら下がった大きな竹籠のイラストを見ることができる。

 腹の赤い魚と言うのはおそらくウグイだろう。婚姻色は春に生じるものだが、時に季語にはなっていない。

 「江に獲たる」と言う漢文っぽい言い回しは、芭蕉の天和調を意識したものか。特に意味はなく、ただ一巻の変化をつけるためにやってみたという感じだ。

 王朝時代に行われていた「腹赤の奏」を意識したと思われるが、どれくらいの人がそのことを理解できたのかはよくわからない。あまり知られてないような故事や出典で付けるのは、いかにも博識をひけらかしているようで好感は持てないが、こういう句が詠まれるようになった背景には、俳諧がマニアックになって、いわばオタク化したからではないかと思う。

 仲間内にだけわかればいいという創作態度は今日の純文学でもしばしば見られる。ただ、そうなってしまうと一般社会から遊離して先細りになる。先細りになれば新たな創作への活力が失われ、あとは過去のパターンのリバイバルを繰り返すだけで、やがて保存の時代に入ってゆく。

 

無季。「腹赤奏」は曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』では春の正月の所に記されているが、ここでは春としては扱われていない。「江」と「魚」は水辺。

 

二十六句目

 

   江に獲たる簣の魚の腹赤き

 日はさしながら又あられ降   几董

 (江に獲たる簣の魚の腹赤き日はさしながら又あられ降)

 

 前句の魚の腹が赤くなる季節が春なら、この句も前句と合わせれば春の霰の句になるが、一句としては冬の句になる。

 春になっても雪は降るし、霰が降ることも珍しくない。霰は積乱雲が発生した時に、湿った空気が急激に上昇し、急速に凍ることで生じるため、夕立の雨と同様局地的で、日が差しているのに降ってくることがある。

 

季題は「あられ」で冬。降物。「日」は天象。

 

二十七句目

 

   日はさしながら又あられ降

 見し恋の児(ちご)ねり出よ堂供養 蕪村

 (見し恋の児ねり出よ堂供養日はさしながら又あられ降)

 

 稚児というと男色を連想するが、ここでは若い修行僧の稚児ではなく堂供養の際の稚児行列の稚児。というわけで、このお稚児さんは蕪村さんの大好きな女児のことであろう。「見し恋」というのは若紫の姿を垣間見た源氏の君の俤だろうか。

 

無季。「見し恋」は恋。「児」は人倫。「堂供養」は釈教。

 

二十八句目

 

   見し恋の児ねり出よ堂供養

 つぶりにさはる人にくき也    几董

 (見し恋の児ねり出よ堂供養つぶりにさはる人にくき也)

 

 稚児髷は関西で流行した女児の髪形。その髪に触っている人は親だか師匠だか知らないが妬ましい。

 どうにでも取り成せる句で恋離れの句。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十九句目

 

   つぶりにさはる人にくき也

 十六夜(いざよひ)の暗きひまさへ世のいそぎ 蕪村

 (十六夜の暗きひまさへ世のいそぎつぶりにさはる人にくき也)

 

 月の定座なので十六夜を出す。月の出が遅く、日が暮れてしばし真っ暗になる時間があるが、その隙すら世の中は忙しく人が行き来し、人の手が頭にぶつかったりする。ともすると喧嘩になりそうだ。

 

季題は「十六夜」で秋。夜分、天象。「日」から二句隔てている。

 

三十句目

 

   十六夜の暗きひまさへ世のいそぎ

 しころ打なる番場松本     几董

 (十六夜の暗きひまさへ世のいそぎしころ打なる番場松本)

 

 曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』の碪(きぬた)の所に「碪 四手打、綾巻、衣打、しころ打」とあり、「しころは槌の名也。槌にて打をいふ」とある。

 番場は今の滋賀県にある中山道の宿場。琵琶湖東岸から関が原へ向う所にある。松本は大津宿の近くの石場一里塚のあたりか。この二つの地名の意味はよくわからない。

 街道のあたりは夜でも急ぐ人がいたのだろう。砧の音が聞こえてくる。

 

季題は「しころ打」で秋。

二裏

三十一句目

 

   しころ打なる番場松本

 駕舁(かごかき)の棒組足らぬ秋の雨  几董

 (駕舁の棒組足らぬ秋の雨しころ打なる番場松本)

 

 秋の冷たくしとしと降る雨は勤労意欲をそぐもの。宿場町の駕籠かきも欠勤が多い。

 

季題は「秋の雨」で秋。降物。「駕舁(かごかき)」は人倫。

 

三十二句目

 

   駕舁の棒組足らぬ秋の雨

 鳶も鴉もあちらむき居る    蕪村

 (駕舁の棒組足らぬ秋の雨鳶も鴉もあちらむき居る)

 

 秋の雨に出歩く人も少なく閑古鳥の啼く駕籠屋では、閑古鳥ならぬトンビやカラスもそっぽ向いている。

 

無季。「鳶も鴉も」は鳥類。

 

三十三句目

 

   鳶も鴉もあちらむき居る

 祟なす田中の小社神さびて   几董

 (祟なる田中の小社神さびて鳶も鴉もあちらむき居る)

 

 田中の小社は石祠が立っている程度のものだろう。道祖神や庚申さんや馬頭観音やお稲荷さんは今でもよく見る。非業の死を遂げた旅人の塚なんかもこれに含まれるか。そういうものは祟りを恐れて祀られている。

 お供え物を狙うトンビやカラスが背中向けていると、何だか祟りを畏れているみたいだ。

 なお、この句は荷兮編『冬の日』(貞享元年刊)の、

 

    あるじはひんにたえし虚家からいへ
 田中たなかなるこまんがやなぎおつるころ      荷兮

 

の句の影響があったかもしれない。

 

無季。「小社」は神祇。

 

三十四句目

 

   祟なす田中の小社神さびて

 既玄番(すでにげんば)が公事も負色 蕪村

 (祟なす田中の小社神さびて既玄番が公事も負色)

 

 玄蕃寮は律令時代の機関で、ウィキペディアには「度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館の管理を職掌とした。」とある。

 時代が下ると何とかの守と同様、武将が名目上こういう役職名を名前の中に入れていたのか、戦国時代の遠江国の井伊家の家老に小野玄蕃朝直という人物がいる。

 おそらく本来の仏教関係者の雰囲気を持たそうとしたのだろう。小社のある土地が神社のものかお寺のものか訴訟になっていたのだろうか。芭蕉が慕っていた仏頂和尚は、徳川家康によって寄進された鹿島根本寺の寺領五十石を鹿島神宮が不当に占拠しているかどで訴訟を起こし、勝利している。だが、この句の玄番さんの訴訟では神社の勝利で「神さびて」いる。

 

無季。

 

三十五句目

 

   既玄番が公事も負色

 花にうとき身に旅籠屋の飯と汁  蕪村

 (花にうとき身に旅籠屋の飯と汁既玄番が公事も負色)

 

 「花にうとき身」は西行法師の「こころなき身にもあはれは知られけり」だろうか。月花の心など知らぬ無風流なものでも、桜の季節となれば旅籠屋の飯と汁も、心なしか花見のご馳走に見えてくる。

 

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

 

の句の心を踏まえていると思われる。公事の方が負けて花と散ったあとだけに桜の散るのが余計に哀れに思える。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「身」は人倫。

 

挙句

 

   花にうとき身に旅籠屋の飯と汁

 まだ暮やらぬ春のともし火    几董

 (花にうとき身に旅籠屋の飯と汁まだ暮やらぬ春のともし火)

 

 薄暗くなって行灯に火をともすものの、日が長くて暮れそうで暮れない。昼行灯じゃないが、何となく影が薄い。

 前句の「花にうとき」の謙虚な心を受けて、昼行灯のようなものですよ、と謙虚に結ぶ。

 

季題は「まだ暮やらぬ春(遅日)」で春。

 

 

 蕪村の俳諧は芭蕉の時代にひと通りのパターンが出尽くし、後はその周期的なリバイバルの繰り返しのなかで、連衆をなかなか集められない中で、こういう手紙のやり取りという形で作られた。

 今日ネットで連句を試みる人たちもいないではないが、その多くは同時に連衆がパソコンの前に集まるのではなく、前日に誰かが付けた句を翌日次の人が付けるか、あるいは選者の元に送られてきた句を選者が選んでアップするという形がとられている。これは蕪村の時代の手紙のやり取りがネットでのメールのやり取りに変わっただけといっていい。

 即興で句を付けられるだけのスキルを持った人がなく、熟考しなくては句が付けられない状態では、一日一句進む程度の速度でちょうどいいのだろう。

 ある意味で蕪村の俳諧は芭蕉の時代の興行俳諧と今日の現代連句との架け橋なのかもしれない。

 熟考できる分だけ、いろいろ古典を当たり、ネタを捜す余裕は生まれる。ただ、それは誰も知らないような難解な出典を引っ張ってきて知識をひけらかすだけのものにもなりかねない。その場で笑いを取る必要もないし、読者もそれを見てからゆっくり出典を調べて、ああなるほどとわかるまで次の句はつかないからそれでいいのかもしれない。

 また、時間をかけての付け句やその読解が普通になれば、何句も前まで遡って全体の流れを意識するようにもなる。江戸後期の蕉門の句を解説した書物に「三句の渡り」などという言葉が登場するのも、この時代の俳諧そのものの変容を表すものであろう。

 蕪村の時代はまだ上句下句を合わせて和歌の形を作ってはいるし、近代でもまだ子規の時代はそういう意識はわずかに残っていたが、現代の連句ではただの連想ゲームとされていて、句を付ける付けないは問題ではなく、ただ五七五の俳句と七七の俳句を羅列していくだけのものになっている。

 江戸後期でも既に「二句一章」というような言葉が現れ、むしろ上句下句を合わせて一首の歌を作ること自体がやや特殊な句の付け方とみなされるようになっている。

 興行の衰退と手紙連句は俳諧そのものの性質を変えていった。もはやそこには即興で句を付ける機知を競う世界はなく、ただ複数作者の作品の陳列だけになった。

 もし現代に再び俳諧の魂が蘇るとしたら、何か面白い話題があるとネット上で「大喜利状態」になるようなそんな感覚で、ライブ感覚で句を付けるようなことが起こるしかないだろう。世界は広いからいつかどこかでそういう俳諧が復活する可能性もある。ただ、今の連句ははっきり言って芭蕉の時代のそれとは程遠い。蕪村の俳諧は逆に現代連句に近い。