「安々と」の巻、解説を読む

元禄四年八月十六日、近江堅田の成秀亭にて

初表

   堅田既望

 安々と出でていさよふ月の雲   芭蕉

   舟をならべて置わたす露   成秀

 ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに 路通

   鍋こそげたる音のせはしき  丈草

 とろとろと睡れば直る駕籠の酔  惟然

   城とりまはす夕立の影    狢睡

 

初裏

 我がものに手馴る鋤の心能    正則

   石の華表の書付をよむ    楚江

 鴻鶴の森を見かけて競ひ行    勝重

   衾つくりし日は時雨けり   葦香

 拍子木に物喰僧の打列て     兎苓

   瀧を隔つる谷の大竹     正秀

 月影にこなし置たる臼の上    正則

   只ちらちらときりぎりす鳴  重氏

 糊こはき袴に秋を打うらみ    重古

   鬢のしらがを今朝見付たり  芭蕉

 年々の花にならびし友の数    丈草

   輾る車もせかぬ春の日    正則

 

 

二表

 鳶の巣の下は芥を吹落し     狢睡

   ささやく事のもろき聲なり  正幸

 なげきつつ文書内は戸をさして  楚江

   いくらの山に添ふて来る水  兎苓

 汗臭き人はかならず遠慮なき   葦香

   せめてしばしも煙管はなたず 惟然

 風やみて流るるままの渡し船   成秀

   只一しほと頼むそめもの   路通

 はしばしは古き都のあれ残リ   紫䒹

   月見を当にやがて旅だつ   丈草

 秋風に網の岩焼石の竈      兎苓

   粟ひる糠の夕さびしき    狢睡

 

二裏

 片輪なる子はあはれさに捨のこし 路通

   身ほそき太刀のそる方を見よ 重成

 長椽に銀土器を打くだき     柳沅

   蜀魂啼て夜は明にけり    成秀

 職人の品あらはせる花の陰    絃五

   南おもてにめぐむ若草    葦香

 

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   堅田既望

 安々と出でていさよふ月の雲  芭蕉

 

 元禄四年八月十六日、近江堅田の成秀(せいしゅう)亭での興行。路通、丈草、惟然、正秀なども交え、総勢十九人でのにぎやかな興行となった。

 この時の様子は『堅田十六夜之辨』で垣間見ることができる。

 

 「望月の残興なほやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。其日申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろにゐたる。「酔翁狂客月に浮れて来れり」と声々に呼ばふ。主思ひかけずおどろきよろこびて、簾をまき塵を拂ふ。「園中に芋あり、ささげあり、鯉・鮒の切目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴をもよほす。月はまつほどもなくさし出、湖上花やかにてらす。かねてきく仲の秋の望の日、月浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山巓をまじゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いづれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、「折々雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。かの「かたぶく月のおしきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、「此堂にあそびてこそ、ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」といへば、あるじまた云、「興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に盃をあげて、月は横川にいたらむとす。

 錠明て月さし入よ浮御堂    ばせを

 安々と出でていさよふ月の雲  同」

 

 堅田は琵琶湖の南の方、今の琵琶湖大橋のあるあたりの西岸で、月は湖の方から登る。ただ、対岸までの距離はそれほどない。

 浮御堂は堅田の海門山満月寺の湖上に建てられたお堂で、橋でつながっている。ウィキペディアには「平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に『千仏閣』、『千体仏堂』とも呼ばれる。」とある。「やがて月雲外にはなれ出でて、金風銀波千体仏の光に映ズ。」の千体仏はこの浮御堂を指す。

 鏡山は対岸の野洲にある。三上・水茎の岡の三上山は近江富士とも呼ばれ、堅田から見ると鏡山の右になる。水茎の岡山は鏡山の左やや離れたところの、近江八幡市の琵琶湖の脇にある。いずれも標高は高くなく、小山の巓(みね)といえよう。

 前日の十五夜には膳所の木曽塚無名庵で月見の会を行い、その興の止まぬうちに船で北上し堅田に着いたのであろう。「二三子いさめて」はその時出席していた中の、路通、正秀、丈草のことで、この会に参加した智月、支考、珍碩(洒堂)はここには含まれなかった。

 「何某茂兵衛成秀」は竹内茂兵衛成秀で申の刻(午後三時から五時)に成秀亭に到着する。庭には里芋やささげがあり、鯉と鮒を料理して琵琶湖の岸で宴会を開いた。

 十六夜の月が待つ程もなく出てきたのはこの年の八月が小の月だったことも関係あるのだろうか。ただ、すぐに雲に隠れなかなか姿を現さず、これをそのまま詠んだのがこの日の興行の発句だった。

 「いさよふ」はためらう、躊躇するの意味で、十六夜の月は日没からややためらうように遅れて出ることからそう呼ばれた。ただ、月の楕円軌道のせいもあって、満月は十五夜とは限らず、後ろにずれることもある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「雲」は聳物。

 

 

   安々と出でていさよふ月の雲

 舟をならべて置わたす露    成秀

 (安々と出でていさよふ月の雲舟をならべて置わたす露)

 

 発句が月の出てきた時の様子をそのまま述べただけの句で、特に寓意もないので、脇の方もここにみんな舟で来て集まってきた様を「舟をならべて」とし、月に輝く露を添える。

 竹内茂兵衛成秀についてはよくわからない。ただ成秀亭の庭には松の木があって、芭蕉がそれを賛美した『成秀庭上を誉むること葉』という文章が残っている。

 

 「松あり、高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈余、枝上段を重、其葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす、箏に似、笛に似、鼓ににて、波天籟をとく。当時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は、小輪を笑て人にあらそふ。柿木・柑類は其実をみて枝葉のかたちをいはず。唯松独霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰『松能旧気を吐、故に千歳を経』と。主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るなるべし。

   元禄四年舟をならべて仲秋日    ばせを」

 

 高さ九尺(約2.7メートル)で下枝が一丈(約3メートル)だから、それほど高い木ではなく、枝が横に長く張った、いわゆる笠松ではないかと思う。松風の音は琴や笛や鼓のように天然の音楽を奏でる。『和漢朗詠集』に、

 

 露滴蘭叢寒玉白 風銜松葉雅琴清

 つゆはらんそうにしたたりてかんぎよくしろし、

 かぜしようえふをふくみてがきんすめり、

 

とある。

 牡丹の愛好家は奇抜な花を咲かせては他人に誇り、菊の育種家は大輪の花を競って小輪を笑う。柿や蜜柑を植える人は実が大事で枝葉をとやかく言うことはない。松だけが幾年もの霜に耐えて、一年中青々としている。

 芭蕉は松を好む成秀に、人と競うこともなく、ただ一人悠々と生きる人柄を感じたのだろう。

 

季語は「露」で秋、降物。「舟」は水辺。

 

第三

 

   舟をならべて置わたす露

 ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに 路通

 (ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに舟をならべて置わたす露)

 

 風にひらひらとして咲いてもじっとしていない萩の葉には露も散ってしまうが、並べた船は動かないから露が降りている。

 

季語は「萩」で秋、植物、草類。

 

四句目

 

   ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに

 鍋こそげたる音のせはしき   丈草

 (ひらめきて咲もそろはぬ萩のはに鍋こそげたる音のせはしき)

 

 「鍋こそげたる」は鍋に付着した焦げや錆びをこすって落とすことで、宮城野の萩に仙台藩の鋳物の縁で付けたか。咲きそろわぬ萩に焦げた鍋は響き付けであろう。

 露に萩というベタな路通の付け筋に、猿蓑調の最新の付け筋を披露するのだが、ややわかりにくい。

 

無季。

 

五句目

 

   鍋こそげたる音のせはしき

 とろとろと睡れば直る駕籠の酔 惟然

 (とろとろと睡れば直る駕籠の酔鍋こそげたる音のせはしき)

 

 駕籠も揺れるから乗り物酔いになったのだろう。駕籠を降りてうとうとしていると酔いも収まり、どこかの宿なのだろう、鍋を洗う音がせわしく聞こえる。

 

無季。旅体。

 

六句目

 

   とろとろと睡れば直る駕籠の酔

 城とりまはす夕立の影     狢睡

 (とろとろと睡れば直る駕籠の酔城とりまはす夕立の影)

 

 「とりまはす」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①仕事・人などをほどよく取り扱う。うまく処理する。 「店の仕事を一人で-・す」

  ②一部を取って次へ回す。 「料理を盛った大皿を-・す」

  ③ぐるりと囲む。とりまく。 「東一方をば敵未だ-・し候はねば/太平記 9」

 

とある。この場合は③の意味か。

 駕籠で酔ったのはお城の身分の高い武士だったのだろう。目を覚ませば城の周りは敵の軍勢ではないが、夕立をもたらす黒い雲に取り囲まれている。

 

季語は「夕立」で夏、降物。

初裏

七句目

 

   城とりまはす夕立の影

 我がものに手馴る鋤の心能   正則

 (我がものに手馴る鋤の心能城とりまはす夕立の影)

 

 「心能」は「こころよく」と読む。

 夕立の雲に旱魃の心配もなく農家は鋤をふるう。真新しい鋤もようやく手になじみ、平和と豊かさはあのお城のおかげだと藩主の徳を称える。

 

無季。「我」は人倫。

 

八句目

 

   我がものに手馴る鋤の心能

 石の華表の書付をよむ     楚江

 (我がものに手馴る鋤の心能石の華表の書付をよむ)

 

 「書付」は「鎌倉タイム」というサイトで引用されている水戸光圀編纂による『新編鎌倉志』の鶴岡八幡宮の鳥居についての記述に、

 

 「今の鳥居は、寛文乙巳(きのとのみ)の年より、戊申(つちのへさる)の秋に至(いたる)まで、上(かみ)・下(しも)の宮(みや)、諸の末社等に至(いたる)まで、御再興有し時の鳥居なり。其書付(かきつけ)に、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり。」

 

とある。鳥居に記された銘のことであろう。

 農業も順調だから寄付も集まり、神社に立派な石の鳥居が建立され、銘が刻まれる。

 

無季。神祇。

 

九句目

 

   石の華表の書付をよむ

 鴻鶴の森を見かけて競ひ行   勝重

 (鴻鶴の森を見かけて競ひ行石の華表の書付をよむ)

 

 「鴻鶴」はコウノトリなのかヒシクイなのかは微妙だ。コウノトリはしばしば鶴と一緒にされ、お目出度いものとされるが、ヒシクイの場合は哀鴻遍野という四字熟語もあるように悲しげなものとなる。

 打越からの大きな展開を考えるなら、ここはヒシクイとして飢饉で腹をすかした人たちの比喩とすることもできる。その場合は神社で炊出しが行われると聞いて村民が殺到する様子となる。森は神社の杜に掛かる。

 

無季。「鴻鶴」は鳥類。

 

十句目

 

   鴻鶴の森を見かけて競ひ行

 衾つくりし日は時雨けり    葦香

 (鴻鶴の森を見かけて競ひ行衾つくりし日は時雨けり)

 

 比喩ではなく鳥の方のヒシクイは冬鳥で晩秋に飛来する。ここでは前句を競うように次々とやってくる本物のヒシクイとし、時期的にはちょうど初時雨の頃となる。

 「衾(ふすま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 布などでこしらえ、寝るときに体をおおう夜具。ふすま。よぎ。

  ※参天台五台山記(1072‐73)三「寝所置衾。或二領三領八十余所」 〔詩経‐召南・小星〕」

 

とある。冬に備えて衾を準備する。

 

季語は「時雨」で冬、降物。

 

十一句目

 

   衾つくりし日は時雨けり

 拍子木に物喰僧の打列て    兎苓

 (拍子木に物喰僧の打列て衾つくりし日は時雨けり)

 

 衾を作っているのを大きな寺院の修行僧とする。

 ちなみに「食堂」という言葉は元は寺院の食事をする施設だったという。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「寺院建築の一つ。古代では大衆(僧で身分の低い人)が食事をする建物で,主要な建物の一つであった。禅宗では斎堂(さいどう),僧堂として残っているが,他宗では庫裡(くり)に移行した。法隆寺に奈良時代の遺構があり,東大寺,興福寺に遺跡がある。」

 

とある。

 

無季。釈教。「僧」は人倫。

 

十二句目

 

   拍子木に物喰僧の打列て

 瀧を隔つる谷の大竹      正秀

 (拍子木に物喰僧の打列て瀧を隔つる谷の大竹)

 

 大竹は日本固有の「しの」や「すずたけ」(メダケなどをいう)や竹細工などに使われるマダケではなく、中国から入ってきた孟宗竹のことだろう。当時はまだ珍しく、渡来僧や留学僧が持ち込んだものがお寺の周囲に植えられたのではないかと思う。初夏になれば大きな筍が食卓に上ることだろう。そのためにはまず修行。滝に打たれて。

 

無季。「瀧」は水辺、山類。「谷」は山類。「大竹」は植物で木類でも草類でもない。

 

十三句目

 

   瀧を隔つる谷の大竹

 月影にこなし置たる臼の上   正則

 (月影にこなし置たる臼の上瀧を隔つる谷の大竹)

 

 この場合の「こなす」は粉に成すという元の意味だろう、臼とセットになっている。

 名月の頃なら蕎麦だろう。蕎麦切りを作るために蕎麦の実を石臼で挽いてそれを月の光が照らす。

 月影を雪に喩えた紀貫之の、

 

 月影も雪かと見つつ弾く琴の

     消えて積めども知らずやあるらむ

                紀貫之(貫之集)

 

が元になっているが、ここでは蕎麦の粉を雪に喩えたのだろう。

 瀧があって水も良く、竹林に住む隠士の打つ蕎麦はまた格別にちがいない。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

十四句目

 

   月影にこなし置たる臼の上

 只ちらちらときりぎりす鳴   重氏

 (月影にこなし置たる臼の上只ちらちらときりぎりす鳴)

 

 「あなむざんやな」の巻のところでも触れたが、キリギリスはコオロギのこと。秋の景にコオロギの声を添えて流す遣り句。

 

季語は「きりぎりす」で秋。

 

十五句目

 

   只ちらちらときりぎりす鳴

 糊こはき袴に秋を打うらみ   重古

 (糊こはき袴に秋を打うらみ只ちらちらときりぎりす鳴)

 

 秋になるとびしっと糊のきいた袴を履かなくてはならない。辺りではコオロギが鳴いているところなど、田舎侍だろうか。

 

季語は「秋」で秋。「袴」は衣裳。

 

十六句目

 

   糊こはき袴に秋を打うらみ

 鬢のしらがを今朝見付たり   芭蕉

 (糊こはき袴に秋を打うらみ鬢のしらがを今朝見付たり)

 

 人間の一生を四季に喩えれば、春は青春秋は白秋、老化で白髪が混じる時期になる。いわゆる「さび」を感じさせる句だ。

 

 がつくりとぬけ初る歯や秋の風 杉風

 

は『猿蓑』の句で、秋は老化の季節。この句をひっくり返すと、

 

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 草田男

 

になる。

 

無季。

 

十七句目

 

   鬢のしらがを今朝見付たり

 年々の花にならびし友の数   丈草

 (年々の花にならびし友の数鬢のしらがを今朝見付たり)

 

 この場合の友は友達ではなく伴の方か。出世して、毎年恒例の花の宴の参加者も増え、年々にぎやかになってゆくが、そろそろ鬢に白髪が混じり、隠居も近い。昔は四十前後で隠居した。目出度さの中に淋しさもある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「友」は人倫。

 

十八句目

 

   年々の花にならびし友の数

 輾る車もせかぬ春の日     正則

 (年々の花にならびし友の数輾る車もせかぬ春の日)

 

 王朝時代の花宴であろう。「輾る」は「きしる」。

 

季語は「春」で春。

二表

十九句目

 

   輾る車もせかぬ春の日

 鳶の巣の下は芥を吹落し    狢睡

 (鳶の巣の下は芥を吹落し輾る車もせかぬ春の日)

 

 鳶は春に木の上に枝を集めて巣を作る。その時使えない枝を下に落としたりもするのだろう。今の時代だと枝だけでなくいろいろなゴミも拾ってくるらしい。前句の「春の日」に応じて春のあるあるネタを付ける。

 

季語は「鳶の巣」で春、鳥類。

 

二十句目

 

   鳶の巣の下は芥を吹落し

 ささやく事のもろき聲なり   正幸

 (鳶の巣の下は芥を吹落しささやく事のもろき聲なり)

 

 「もろい」には涙のこぼれやすいという意味がある。今にも泣きそうな声ということだろう。トンビのピーヒョロロという声に寄せての展開だろうか。

 

無季。

 

二十一句目

 

   ささやく事のもろき聲なり

 なげきつつ文書内は戸をさして 楚江

 (なげきつつ文書内は戸をさしてささやく事のもろき聲なり)

 

 前句の今にも泣きそうな声を、苦しい恋に文を書いている様子とした。

 

無季。恋。

 

二十二句目

 

   なげきつつ文書内は戸をさして

 いくらの山に添ふて来る水   兎苓

 (なげきつつ文書内は戸をさしていくらの山に添ふて来る水)

 

 「いくら」はたくさんのという意味。たくさんの山があってもその都度水が添うて来るというのは、夫婦仲睦まじいという比喩だろうか。苦しいときには戸を閉ざして文を書くことはあっても、それも乗り越えていけるということなのだろう。

 

無季。恋。「山」は山類。

 

二十三句目

 

   いくらの山に添ふて来る水

 汗臭き人はかならず遠慮なき  葦香

 (汗臭き人はかならず遠慮なきいくらの山に添ふて来る水)

 

 汗臭き人は常に労働している人で、いわゆる山賤(やまがつ)のことか。山を歩いてくるとたいてい気安く近寄ってくる。「水」は汗のことであろう。

 後の元禄七年の「牛流す」の巻十二句目に、

 

     抱込で松山廣き有明に

 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉

 

の句で漁師と言わずして漁師を匂わすように、ここも山賤と言わずして山賤を匂わせたのだろう。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十四句目

 

   汗臭き人はかならず遠慮なき

 せめてしばしも煙管はなたず  惟然

 (汗臭き人はかならず遠慮なきせめてしばしも煙管はなたず)

 

 「せめて」は古語では強調の言葉として用いられる。汗臭く無遠慮な人はだいたいにおいていつも煙管を咥えていて手放さない。位付け。

 

無季。

 

二十五句目

 

   せめてしばしも煙管はなたず

 風やみて流るるままの渡し船  成秀

 (風やみて流るるままの渡し船せめてしばしも煙管はなたず)

 

 この場合は運河を航行する渡し船だろう。風に流されることなく放っておいても船が勝手に進んでいくので、船頭は何もせずにずっと煙管をふかしている。

 

無季。「渡し船」は水辺。

 

二十六句目

 

   風やみて流るるままの渡し船

 只一しほと頼むそめもの    路通

 (風やみて流るるままの渡し船只一しほと頼むそめもの)

 

 友禅流しのことだろう。色挿し(いろさし)の時は一筆一筆に精魂を込め、最後に川で余分な染料や伏糊を洗い流す。

 

無季。

 

二十七句目

 

   只一しほと頼むそめもの

 はしばしは古き都のあれ残リ  紫䒹

 (はしばしは古き都のあれ残リ只一しほと頼むそめもの)

 

 近江上布のことか。「月見する」の巻の二十六句目に「高宮」が出てきた時に、高宮が近江上布とも呼ばれ、コトバンクの麻宮布の「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とあった。古都奈良に滋賀もまた古都で、二つの古都の文化を合わせて生まれたのが近江上布だった。

 「あれ残り」というとやはり、

 

 さざなみや志賀の都は荒れにしを

     昔ながらの山桜かな

             平忠度(千載集)

 

の心か。

 

無季。

 

二十八句目

 

   はしばしは古き都のあれ残リ

 月見を当にやがて旅だつ    丈草

 (はしばしは古き都のあれ残リ月見を当にやがて旅だつ)

 

 古都で見る月もまた格別なもので、そのためにあえて旅をする。「やがて」は「すぐに」という意味。

 この興行の行われている堅田もいにしえの滋賀の都だ。

 

季語は月見で秋、夜分、天象。

 

二十九句目

 

   月見を当にやがて旅だつ

 秋風に網の岩焼石の竈     兎苓

 (秋風に網の岩焼石の竈月見を当にやがて旅だつ)

 

 網の岩は「沈子(いわ)」のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「漁具の下辺に取り付けられ、漁具を水中に沈降させる役目をする資材で、「いわ」「びし」ともよばれる。浮子(あば)(浮き)とは逆の働きをする。網漁具では、網地を下方に展開させて水中で所望の形状を保たせる役目をする。釣り漁具では「錘(おもり)」や「しずみ」などとよぶことが多く、浮きと併用して釣り針を棚(魚の遊泳水深)に安定させる役割を果たす。材質は、沈降力が大きく、破損・腐食しにくく、造形加工が容易であるものが望まれる。形状は水中での抵抗が少ない球形、円筒形などが多い。沈子の材料として、従来は陶器(比重2.13)、陶素焼(比重1.72)、錬鉄(比重7.78)、鋳鉄(比重7.21)、石盤石(比重2.62)、錬火石(比重1.90)、セメント(比重2.16)などが用いられたが、現在では鉛(比重11.35)が多く使われている。」

 

とある。昔は陶器の物も用いられていた。比重はセメントとそれほど変わらない。

 竈は「くど」とルビがふってあるが、「竈 (くど)」はウィキペディアに、

 

 「竈(かまど)のうち、その後部に位置する煙の排出部を意味する(原義)。

 この意味では特に「竈突」「竈処」と表記されることもある。また『竹取物語』には「かみに竈をあけて…」という一節が存在する。

 京都などでは、竈(かまど)そのものを意味し、「おくどさん」と呼ぶ。南遠州地方でも、かまど自体をクドと呼んでいた。」

 

とある。ここでは竈そのもののこと。

 前句の「当(あて)」を酒の肴のこととし、月見をするための肴を調達にすぐに旅立つということか。

 

季語は「秋風」で秋。「網の岩」は水辺。

 

三十句目

 

   秋風に網の岩焼石の竈

 粟ひる糠の夕さびしき     狢睡

 (秋風に網の岩焼石の竈粟ひる糠の夕さびしき)

 

 「ひる」は「簸(ひ)る」で糠(もみがら)を箕(み)で篩い分けることをいう。

 貧しい漁村の景とする。

 

季語は「粟」で秋。

二裏

三十一句目

 

   粟ひる糠の夕さびしき

 片輪なる子はあはれさに捨のこし 路通

 (片輪なる子はあはれさに捨のこし粟ひる糠の夕さびしき)

 

 前句の「簸(ひ)る」、つまり篩い分けるというところから、子の口減らし、間引きへと展開させる。こういう当時にあっても極度の貧困に属するようなネタは、乞食路通と言われた人ならではの発想だろう。

 江戸時代にあっては都市文化が発達したとはいえ、消費の多くはまだ売春がらみの芝居、湯屋、遊郭などが中心で、貧しい家では娘をそういうところに売ることも珍しくはなかったのだろう。ひどい話ではあるが、口減らしで殺してしまうよりはたとえ下級遊女になってでも生き延びてくれればという、その辺りの究極の選択も理解しなくてはならない。

 健康な子供は働ける限りどこかへ売ってしまったのだろう。障害のある子供だけが家に残る。

 

無季。「子」は人倫。

 

三十二句目

 

   片輪なる子はあはれさに捨のこし

 身ほそき太刀のそる方を見よ  重成

 (片輪なる子はあはれさに捨のこし身ほそき太刀のそる方を見よ)

 

 片輪には未熟という意味もある。未熟な鍛冶の子の打った太刀でも親としては捨てがたいもの。

 江戸時代は打刀が主流で、大きく反り返った太刀は平安、鎌倉などの古い時代に多い。ここでは不出来で反ったという意味だろう。「片輪なる」は「身ほそき太刀」の方に掛かるのかもしれない。

 

無季。

 

三十三句目

 

   身ほそき太刀のそる方を見よ

 長椽に銀土器を打くだき    柳沅

 (長椽に銀土器を打くだき身ほそき太刀のそる方を見よ)

 

 「椽」は垂木のことで音は「てん」だから、「えん」と読むのであれば「縁」、つまり縁側のことだろう。「銀土器(ぎんかわらけ)」は銀泥の磁器のことか。縁側に落として割ってしまったのだろう。

 松の廊下はもっと後のことだが、縁側で喧嘩でもして、刀も室内で降れば柱か梁にぶつけて反ってしまうし、土器も縁側に打ち付けられて割れるし、良いことは何もない。『去来抄』では響き付けの例として挙げられている。打てば響くような付けということか。

 柳沅はこの一句のみだが、みんなが付けあぐねているときにこの句を言い出して、芭蕉も思わずこれだと思ったのだろう。

 

無季。

 

三十四句目

 

   長椽に銀土器を打くだき

 蜀魂啼て夜は明にけり     成秀

 (長椽に銀土器を打くだき蜀魂啼て夜は明にけり)

 

 「蜀魂」はホトトギスのこと。ウィキペディアには、

 

 「ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。」

 

とある。

 前句をホトトギスを待ちながらの酒宴としたのだろう。うとうとして盃を割ってはっと目が覚めると夜明けの空にホトトギスの声が聞こえる。

 

季語は「蜀魂」で夏、鳥類。

 

三十五句目

 

   蜀魂啼て夜は明にけり

 職人の品あらはせる花の陰   絃五

 (職人の品あらはせる花の陰蜀魂啼て夜は明にけり)

 

 絃五も初登場だが花の定座を務める。多分居合わせた偉い人なのだろう。

 市場の夜明けであろう。露店には職人の様々な品が薄明かりの中でようやくはっきり見えるようになる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「職人」は人倫。

 

挙句

 

   職人の品あらはせる花の陰

 南おもてにめぐむ若草     葦香

 (職人の品あらはせる花の陰南おもてにめぐむ若草)

 

 職人の工房の昼の景色になり、庭には桜が咲き若草が萌え出る。

 

季語は「若草」で春、植物、草類。