貞徳翁十三回忌追善俳諧、解説

寛文五年霜月十三日興行

初表

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉    蝉吟

   鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 飼狗のごとく手馴し年を経て     正好

   兀たはりこも捨ぬわらはべ    一笑

 けうあるともてはやしけり雛迄    一以

   月のくれまで汲むももの酒    宗房

 長閑なる仙の遊にしくはあらじ    執筆

   景よき方にのぶる絵むしろ    蝉吟

 

初裏

 道すじを登りて峰にさか向      一笑

   案内しりつつ責る山城      正好

 あれこそは鬼の崖と目を付て     宗房

   我大君の国とよむ哥       一以

 祝ひとおぼす御賀の催しに      蝉吟

   きけば四十にはやならせらる   一笑

 まどはれな実の道や恋の道      正好

   ならで通へば無性闇世      宗房

 切指の一寸さきも惜しからず     一以

   おれにすすきのいとしいぞのふ  蝉吟

 七夕は夕邊の雨にあはぬかも     宗房

   鞠場にうすき月のかたはれ    正好

 東山の色よき花にやれ車       一笑

   春もしたえる茸狩の跡      一以

 

 

二表

 とゝの子を残る雪間に尋ぬらし    蝉吟

   なつかで猫の外面にぞ啼     宗房

 埋火もきへて寒けき隠居処に     一以

   湯婆の湯もや更てぬるぬる    一笑

 例ならでおよるのものを引重ね    正好

   あふも心のさはぐ恋風      蝉吟

 恨あれば真葛がはらり露泪      一笑

   秋によしのの山のとんせい    一以

 在明の影法師のみ友として      宗房

   未だ夜深きにひとり旅人     正好

 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

   市につづくは細ひかけはし    一笑

 堀際へ後陣の勢はおしよせて     一以

   息きれたるを乗替の馬      蝉吟

 

二裏

 早使ありと呼はる宿々に       正好

   とけぬやうにと氷ささぐる    宗房

 あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて 一笑

   大ぶくの爐にくぶる薫      正好

 佐保姫と言ん姫御の身だしなみ    蝉吟

   青柳腰ゆふ柳髪         一以

 待あぐみ松吹風もなつかしや     宗房

   因幡の月に来むと約束      一笑

 鹿の音をあはれなものと聞及び    正好

   おく山とある歌の身にしむ    蝉吟

 いろはおばらむうゐのより習初    一以

   わるさもやみし閨の稚ひ     宗房

 花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり    蝉吟

   覆詠も古き神前         正好

 

 

三表

 春の夜の御灯ちらちらちらめきて   一笑

   北斗を祭る儀式殊勝や      一以

 出し初る船の行衛を気遣れ      宗房

   涙でくらす旅の留守中      蝉吟

 独り居を思へと文に長くどき     正好

   そちとそちとは縁はむすばじ   一笑

 だてなりしふり分髪は延ぬるや    蝉吟

   俤にたつかのうしろつき     宗房

 したへども老かがみしは身まかりて  一以

   誰に尋むことのはの道      正好

 まだしらぬ名所おば見に行しやな   一笑

   都にますや海辺の月       一以

 罪無くば露もいとはじ僧住居     正好

   する殺生もやむはうら盆     蝉吟

 

三裏

 竹弓も今は卒塔婆に引替て      宗房

   甲の名ある鉢やひくらし     正好

 焼物にいれて出せる香のもの     一以

   何の風情もなめし斗ぞ      宗房

 お宿より所替るが御慰        蝉吟

   野山の月にいざとさそえる    一以

 秋草も薪も暮れてかり仕舞      正好

   肌寒さうに年をおひぬる     一以

 川風に遅しと淀の船をめき      一笑

   久しぶりにて訪妹が許      蝉吟

 奉公の隙も余所目の隙とみつ     宗房

   こよと云やりきる浣絹      正好

 一門に逢や病後の花心        一以

   かなたこなたの節の振舞     一笑

 

 

名表

 とし玉をいたう又々申うけ      蝉吟

   師弟のむつみ長く久しき     宗房

 盃はかたじけなしといただきて    一笑

   討死せよと給う腹巻       一以

 防矢を軍みだれの折からに      正好

   いとも静な舞の手くだり     蝉吟

 見かけより気はおとなしき小児にて  宗房

   机ばなれのしたる文章      一笑

 媒をやどの明暮頼みおき       一以

   ちやごとにあらで深きすきもの  正好

 うさ積る雪の肌を忘れ兼       蝉吟

   氷る涙のつめたさよ扨      宗房

 訪はぬおも思月夜のいたう更     正好

   律のしらべもやむる庵室     一以

 

名裏

 秋はなを清き水石もて遊び      一笑

   残る暑はたまられもせず     蝉吟

 是非ともにあの松影へ御出あれ    一以

   堪忍ならぬ詞からかひ      正好

 おされては又押かえす人込に     宗房

   けふ斗こそ廻る道場       一以

 花咲の翁さびしをとむらひて     正好

   経よむ鳥の声も妙也       一笑

      参考;『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟

 

 この巻は芭蕉がまだ伊賀の宗房だった頃の唯一現存している俳諧一巻でもある。

 寛文五年(一六六五年)霜月十三日の興行になる。

 発句は伊賀藤堂藩の藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇の季吟は京都在住、当時主流の貞門俳諧の大家で、後に『源氏物語湖月抄』など古典の注釈書の出版などでも活躍した。季吟は脇だけの参加なので、書簡による参加と思われる。

 この興行ではそれに加えて、正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。宗房(芭蕉)は六句目に登場する。

 田中善信の『芭蕉二つの顔』(一九九八、講談社)によると、一以は明暦二年(一六五六)の『崑山土塵集』や『玉海集』に入集歴があり「宗匠格」ではないかとしている。正好、一笑は商人ではないかとしている。

 一笑は芭蕉が「塚も動け」の句を詠んだ加賀の一笑とは別人で、一笑は他にもいて、まあ俳諧は笑いの文学だから、ありふれた俳号だったのかもしれない。

 この興行は貞門の祖松永貞徳の十三回忌追善俳諧で、発句は、

 

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟

 

 これに、季吟が、

 

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉

 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 

と付けた所で始まる。

 紫苑は秋の季語だが、ここでは「雪」と組み合わせることで冬の句となる。

 紫苑は別名「鬼の醜草(おにのしこぐさ)」ともいう。

 

 忘れ草我が下紐に付けたれど

     鬼のしこくさ言にしありけり

              大伴家持

 

の歌もある。原文は「鬼乃志許草」だが、万葉の頃は「しこのしこくさ」と読んでいたようだ。

 

 真熊野に雨そぼふりて木隠れの

     塚屋に立てるおにのしこくさ

              源俊頼(散木奇歌集、夫木抄)

 

の歌もあるので、平安時代の和歌では「おにのしこくさ」で、以降この読み方で定着する。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、『袖中抄』を引用し、

 

 「鬼醜女草、これ紫苑也。鬼のしこ草とは別の草の名にあらず。忘草は愁を忘るる草なれば、恋しき人を忘れん料に、下紐につけたれど、更にわするることなし。忘草といふ名は只事にありけん、猶恋しければ鬼のしこ草也けりといふ也。」

 

と書いている。

 忘れるなら忘れ草(萱草)、忘れないなら紫苑だった。

 「枯れぬ紫苑」は決して忘れることがない、という意味で、「紫苑」は「師恩」に掛かる。貞徳さんのご恩はたとえ野が雪に埋もれても決して枯れることがない、忘れることのできない師恩ですというのがこの発句の意味になる。

 

季語は「雪」で冬、降物。「紫苑」は植物、草類。

 

 

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉

 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 (野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉鷹の餌ごひに音おばなき跡)

 

 鷹は冬の季語で、飼われている鷹は人に餌をねだる時に甲高い大きな声で餌鳴きする。「鳴く」と師匠の「亡き跡」を掛けている。

 芭蕉も後に『奥の細道』の旅で、加賀の一笑の死を知らされ、

 

 塚も動け我が泣く声は秋の風   芭蕉

 

と詠んでいる。昔の日本人は韓国人のように大声で泣いたようだ。

 雪の野に鷹というと、

 

 ふる雪に行方も見えずはし鷹の

     尾ぶさの鈴のおとばかりして

              隆源法師(千載和歌集)

 空に立つ鳥だにみえぬ雪もよに

     すずろに鷹をすゑてけるかな

              和泉式部(和泉式部集)

 

など、古歌に雪の鷹狩りを詠む歌は幾つもある。それゆえ雪と鷹は付き物で、あえて證歌を引くまでもない。

 いちいち證歌を引いて雅語の用法が正しいかどうか検証する作業は、スムーズな運座の妨げにもなるので、よく使われる語句の組み合わせは特に検証しなくていいようにしたのが、「付き物」の始まりだったのではないかと思う。

 

季語は「鷹」で冬、鳥類。

 

第三

 

   鷹の餌ごひに音おばなき跡

 飼狗のごとく手馴し年を経て   正好

 (飼狗のごとく手馴し年を経て鷹の餌ごひに音おばなき跡)

 

 ここからが実質的な興行の始まりで、即興のやり取りになる。

 第三は発句の師恩の情を離れて展開する。とはいえ脇の鷹の餌乞いの声と「なき跡」の掛詞だと、追悼の意は去りがたい。

 そのため「飼狗のごとく手馴し」と育てられた鷹の気持ちになって、鷹の主人を失った悲しみに泣くとする。

 鷹狩りに猟犬は付き物で、

 

 鷹飼ひのまだも来なくに繋ぎ犬の

     離れて行かむ汝来る待つほど

              藤原輔相(拾遺集)

 

の歌に詠まれている。

 鷹狩は犬が鳥を追払って、飛び立ったところを鷹が狩る。

 

無季。「飼狗」は獣類。

 

四句目

 

   飼狗のごとく手馴し年を経て

 兀たはりこも捨ぬわらはべ    一笑

 (飼狗のごとく手馴し年を経て兀たはりこも捨ぬわらはべ)

 

 兀は「はげ」。犬張子はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「犬の形姿を模した紙製の置物。古くは御伽犬(おとぎいぬ),宿直犬(とのいいぬ),犬筥(いぬばこ)ともいった。室町時代以降,公家や武家の間では,出産にあたって産室に御伽犬または犬筥といって筥形の張子の犬を置いて,出産の守りとする風があった。はじめは筥形で中に守札などを入れ,顔も小児に似せたものであった。庶民の間には江戸時代後期に普及したらしく,嫁入道具の一つに加えられ,雛壇にも飾られた。犬張子を産の守りとする風は,犬が多産でお産が軽い動物と信じられ,かつ邪霊や魔をはらう呪力があると信じられたからであろう。」

 

という。この頃の犬張子は今のものとはやや違うようだ。

 「犬筥」で検索すると今のものや江戸時代後期のものは出てくるが、あまり古いものは残ってないようだ。本来は役目を終えたら神社に奉納するものだったのか。

 ただ子供の遊び道具になってしまったものもあって、古くなるとあちこと禿げてきて、それでも子供心になかなか手放せない。

 犬張子はまだ庶民のものではなく上流の習慣だったことで、「俗」ではなく「雅」とされていて、貞門の俳諧にふさわしい題材だったと思われる。

 

無季。「わらはべ」は人倫。

 

五句目

 

   兀たはりこも捨ぬわらはべ

 けうあるともてはやしけり雛迄  一以

 (けうあるともてはやしけり雛迄兀たはりこも捨ぬわらはべ)

 

 前句の張子は犬張子から切り離して只の張子とし、「わらはべ」から「雛(ひひな)」へと展開する。三月三日のひな祭り、春の句となる。

 当時は上流階級では寛永雛という小さな小袖姿の雛人形があったが、庶民の間に紙製の立ち人形が広まるのはもう少し後で、元禄二年に、

 

 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉

 

の句があるように、この頃でもそれこそ「時代が変わったな」と感じるほど画期的だったのではないかと思われる。

 古くなった張子は、あるいは流し雛のときに一緒に流したのかもしれない。

 

季語は「雛」で春。

 

六句目

 

   けうあるともてはやしけり雛迄

 月のくれまで汲むももの酒    宗房

 (けうあるともてはやしけり雛迄月のくれまで汲むももの酒)

 

 ここでようやく芭蕉の登場となる。次が執筆だから末席といっていいだろう。

 「桃の酒」は貝原好古の『日本歳時記』(貞享五年刊)に、

 

 「三日桃花を取て酒にひたし、これをのめば病を除き、顔色をうるほすとなん。桃花を酒に浸さば、ひとへなる花を用べし。千葉の花を服すれば、鼻衂いでてやまずと本草に見えたり。」

 

とある。

  また、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 

 「[蘇頌図経]太清本草本方に云、酒に桃花を漬してこれを飲は、百病を除き、顔色を益す。[千金方]三月三日、桃花一斗一升をとり、井花水三升、麹六升、これを以て好く炊て酒に漬し、これを飲めば太(はなはだ)よろし。○御酒古草、御酒に入るる桃也。」

 

とある。

 ひな祭りには付き物だったのだろう。アルコールの入った酒だが、昔は特に法律があるわけでもわけでもなく、『阿羅野』(荷兮編、元禄二年刊)には、

 

 おやも子も同じ飲手や桃の酒   傘下

 

の句もある。

 近代ではひな祭りというと白酒だが、この時代にもあるにはあったが、全国に広がるのは江戸時代後期のようだ。

 

季語は「桃の酒」で春。「月」は夜分、天象。

 

七句目

 

   月のくれまで汲むももの酒

 長閑なる仙の遊にしくはあらじ  執筆

 (長閑なる仙の遊にしくはあらじ月のくれまで汲むももの酒)

 

 桃の酒は不老不死の仙薬ということで仙人を登場させる。「しく」は及ぶということ。仙人の遊びに及ぶものはない。

 「長閑(のどか)」は、

 

 この春はのどかに匂へ桜花

     枝さしかはす松のしるしに

              徳大寺実能(金葉集)

 帰るさをいそがぬほどの道ならば

     のどかに峯の花は見てまし

              藤原忠通(千載集)

 

などの歌もあり、連歌の時代から春の季語となる。

 ただ、和歌では春に限らず、

 

 ながむれば更ゆくままに雲晴て

     空ものどかにすめる月かな

              藤原忠隆(金葉集)

 天の原すめるけしきは長閑にて

     はやくも月の西へゆくかな

              賀茂成保(千載集)

 

のように澄む月に詠むこともあるが、この場合は真如の月で、悟った長閑さを意味する。こうした歌から、仙の遊びの月だから長閑という意味で、月と長閑を付け合いと考えることもできる。

 

季語は「長閑」で春。

 

八句目

 

   長閑なる仙の遊にしくはあらじ

 景よき方にのぶる絵むしろ     蝉吟

 (長閑なる仙の遊にしくはあらじ景よき方にのぶる絵むしろ)

 

 さて一巡して蝉吟に戻ってくる。

 「しく」に「絵むしろ」は連歌でいう「かけてには」になる。前句の「しく」を後付けで「敷く」との掛詞にして、その縁で「絵むしろ」を出して「絵莚を敷く」とする。

 「絵むしろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「絵筵」の解説」に、

 

 「〘名〙 種々の色に染めた藺(い)で、花模様などを織り出したむしろ。花むしろ。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。

 

無季。

初裏

九句目

 

   景よき方にのぶる絵むしろ

 道すじを登りて峰にさか向     一笑

 (道すじを登りて峰にさか向景よき方にのぶる絵むしろ)

 

 「さか向(むかへ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」によれば、

 

 「平安時代,現地に赴任した国司を現地官が国堺まで出迎えて行った対面儀礼。《将門(しょうもん)記》に常陸(ひたち)国の藤氏が平将門(まさかど)を坂迎えして大饗したとみえる。新しい支配者を出迎えてもてなした行為に由来し,堺迎・坂向とも書く。また中世伊勢参詣などからの帰郷者を村堺まで出迎えて共同飲食した行為を,坂迎えといい,酒迎とも記した。」

 

だという。

 「景よき方」に「峰」、「絵むしろ」に「坂迎え」と四つ手に付く。峰に向かって坂道を登って行き、景色の良い所に絵莚を敷いて出迎える。

 

無季。旅体。「峰」は山類。

 

十句目

 

   道すじを登りて峰にさか向

 案内しりつつ責る山城      正好

 (道すじを登りて峰にさか向案内しりつつ責る山城)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 

 「『さか向』を『逆向へ』(下から上に向って攻める意)に取りなし、山城(山上の城)を攻める意とした。」

 

とある。

 

無季。「山城」は山類。

 

十一句目

 

   案内しりつつ責る山城

 あれこそは鬼の崖と目を付て   宗房

 (あれこそは鬼の崖と目を付て案内しりつつ責る山城)

 

 「崖」は「いわや」と読む。前句の「山城」を鬼の岩屋に見立てるわけだが、これは物付けではなく意(こころ)付けになる。

 鬼というのは大江山の酒呑童子のように山を拠点とするもので、源頼光の鬼退治のイメージだろうか。

 

無季。「崖」は山類。

 

十二句目

 

   あれこそは鬼の崖と目を付て

 我大君の国とよむ哥       一以

 (あれこそは鬼の崖と目を付て我大君の国とよむ哥)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 

 「謡曲・大江山『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の住家なるべし』。

 

とある。

 『太平記』巻第十六に、

 

 「又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、『さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。』とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。」

 

とあるのが出典か。

 本説付けだが、後の蕉門の本説付けのようにほんの少し変えるというのをやってなくて、そのまま付けている。このころはそれで良かったのだろう。

 

無季。「我大君」は人倫。

 

十三句目

 

   我大君の国とよむ哥

 祝ひとおぼす御賀の催しに   蝉吟

 (祝ひとおぼす御賀の催しに我大君の国とよむ哥)

 

 「祝ひ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、「『む』の誤写。「いははむ」と読む」とある。

 「賀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「①祝い。

  ②長寿の祝い。賀の祝い。

 参考②は、四十歳から十年ごとに「四十の賀」「五十の賀」などと祝った習慣で、平安貴族の間で盛んに行われた。室町時代以後は、「還暦」「古稀(こき)」「喜寿」「米寿」「白寿」などを祝った。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 

 「天皇の四十歳以後十年毎に年寿を祝うこと。」

 

とある。前句の「我大君」と合わせて、御賀は天皇の賀ということになる。

 お祝いの時に謡う和歌といえばやはり、『古今集』巻七の、

 

 わが君は千代に八千代にさざれ石の

     いはほとなりて苔のむすまで

              よみ人しらず

 

だろうか。「我大君の国」の言葉となると、

 

 やすみしる我が大君のをし国は

     大和もここも同じとぞ思ふ

              よみ人しらず(夫木抄)

 

の歌の方か。『万葉集』巻六・九五六の大伴旅人の歌。

 

無季。

 

十四句目

 

   祝ひとおぼす御賀の催しに

 きけば四十にはやならせらる  一笑

 (祝ひとおぼす御賀の催しにきけば四十にはやならせらる)

 

 「御賀」に「四十(よそじ)」と付く。御賀の催しがあると聞いて、あらためて四十になったということを知る。

 

無季。

 

十五句目

 

   きけば四十にはやならせらる

 まどはれな実の道や恋の道   正好

 (まどはれな実の道や恋の道きけば四十にはやならせらる)

 

 これは「咎めてには」で連歌の頃からの付け方。

 『論語』の「四十にして惑わず」だが、色恋に迷うなという説教ではなく、逆に恋の道こそ「実(まこと)の道」だと説く。やまと歌は色好みの道、惑うべからず。

 

無季。恋。

 

十六句目

 

   まどはれな実の道や恋の道

 ならで通へば無性闇世     宗房

 (まどはれな実の道や恋の道ならで通へば無性闇世)

 

 「無性(むしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[名]仏語。

 1 《「無自性」の略》実体のないこと。

 2 《「無仏性」の略》仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの。⇔有性(うしょう)。

 [名・形動ナリ]分別のないこと。理性のないこと。また、そのさま。

「朝精進をして、昼からは―になって」〈浮・三所世帯〉」

 

とある。

 今日では「無性に」という形以外はほとんど用いられない。激しい衝動に突き動かされるという意味で、「無性にラーメンが食べたくなる」とかいうふうに使われるのみとなった。

 相手がその気がないのに一方的に衝動に突き動かされて通い続ければ、それこそ今でいうストーカーだ。まさに「闇の世」。まどうなかれ。

 

無季。恋。釈教。

 

十七句目

 

   ならで通へば無性闇世

 切指の一寸さきも惜しからず  一以

 (切指の一寸さきも惜しからずならで通へば無性闇世)

 

 「一寸先は闇」という諺があるように、闇に一寸が付く。

 日本では指を切るのは忠誠の証で、江戸時代には女性が忠誠を示すために指を切って贈ったり、男の方が不倫を疑って指を切らせることがあったようだ。

 江戸時代の遊郭はお金を出せば誰でもやれるという種の売春ではなく、遊女との仲を仲介するという、半ば出会い系的な要素を持ったもので、そこで客は疑似恋愛を楽しむ。そのため、お金で割り切った関係とも言い切れず、野暮な男は遊女に忠誠を求め、誓文を書かせたりしたが、爪を剥がさせたり指を切らせることもあった。

 こうした風習は、あるいは達磨に弟子入りしようとした慧可(えか)が、「自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている(雪中断臂)。」(ウィキペディアより引用)から来ているのかもしれない。雪舟の絵にも「慧可断臂図」がある。

 まあ、恋の指詰めはやくざの指詰めと一緒で、堅気の人間のする事ではない。遊郭の恋は闇の世だ。

 

無季。「切指」は恋。

 

十八句目

 

   切指の一寸さきも惜しからず

 おれにすすきのいとしいぞのふ 蝉吟

 (切指の一寸さきも惜しからずおれにすすきのいとしいぞのふ)

 

 これもウィキペディアの引用になるが、「おれ」という一人称は、

 

 「「おれ」は「おら」の転訛で、鎌倉時代以前は二人称として使われたが次第に一人称に移行し、江戸時代には貴賎男女を問わず幅広く使われた。」

 

とあるように昔は男とは限らなかった。

 この場合も女性であろう。やはり女郎だろうか。自らを風にそよぐか細いススキの糸に喩え、「いとしい」と掛詞にするが、全体が小唄調にできている。このあたりに蝉吟の技が感じられる。

 薄の糸は、

 

 花薄まそほの糸をくりかへし

     たえずも人を招きつるかな

             源俊頼(堀河百首)

 

の歌に詠まれている。薄が人を招くということの典拠にもなる。

 

季語は「すすき」で秋、植物、草類。恋。「おれ」は人倫。

 

十九句目

 

   おれにすすきのいとしいぞのふ

 七夕は夕邊の雨にあはぬかも  宗房

 (七夕は夕邊の雨にあはぬかもおれにすすきのいとしいぞのふ)

 

 ススキが出て秋に転じたことで、七夕の恋の句にする。

 七夕に薄の糸は、時代はだいぶ下るが、

 

 くりいだす天つ織女の糸ならぬ

     たかはた薄秋みたるらん

             正徹(草根集)

 

の歌がある。

 恋の句はこれで五句続いたが、連歌の「応安新式」では恋は五句まで続けて良いことになっている。まさに大和歌は色好みの道、恋は連歌の花ということで、ここでもその伝統は守られていた。

 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。

 語尾の「かも」は「けやも」の転じたもので、『万葉集』ではよく使われる。「かな」に近い。名古屋弁では「きゃーも」という形で残っている。

 

季語は「七夕」で秋。恋。「雨」は降物。

 

二十句目

 

   七夕は夕邊の雨にあはぬかも

 鞠場にうすき月のかたはれ   正好

 (七夕は夕邊の雨にあはぬかも鞠場にうすき月のかたはれ)

 

 蹴鞠は王朝時代の貴族の遊びのイメージもあるが、江戸時代の町人の間でも流行した。ウィキペディアには、

 

 「江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。」

 

とある。

 元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』にも、

 

 椑柿や鞠のかゝりの見ゆる家  珍碩

 

の句がある。

 「鞠場」は蹴鞠場で、ウィキペディアに、

 

 「貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。」

 

とある。

 七夕の文月七日の月は半月なので、「月のかたはれ」となる。

 

 七夕は割れてまたあふ鏡かと

     秋の七日の月や見るらむ

             後宇多院(新千載集)

 

の歌もある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十一句目

 

   鞠場にうすき月のかたはれ

 東山の色よき花にやれ車    一笑

 (東山の色よき花にやれ車鞠場にうすき月のかたはれ)

 

 鞠場ということで王朝時代のイメージで花の定座になる。

 京都東山の桜に牛車ということになるが、破(や)れ車ということで変化をつけている。

 東山の花の名所と言えば清水寺だが、こうした所に貴族の牛車が集まれば、駐車場争いで『源氏物語』葵巻の賀茂の斎院行列の時の車争いのようなこともありそうだ。

 月の片割れが割れた車輪のようだ。

 

季語は「花」で植物、木類。「東山」は名所、山類。

 

二十二句目

 

   東山の色よき花にやれ車

 春もしたえる茸狩の跡     一以

 (東山の色よき花にやれ車春もしたえる茸狩の跡)

 

 「茸狩」は秋のものだが、跡なので秋に茸狩りをした思い出を慕ってということだろう。春に秋の記憶を付ける違え付けになる。

 

 松が嶺の茸狩りゆけば紅葉葉を

     袖にこきいるる山颪の風

             寂蓮(夫木抄)

 

の歌が證歌か。

 

季語は「春」で春。

二表

二十三句目

 

   春もしたえる茸狩の跡

 とゝの子を残る雪間に尋ぬらし 蝉吟

 (とゝの子を残る雪間に尋ぬらし春もしたえる茸狩の跡)

 

 「とゝの子」は意味不明。父親の「とと」にしても魚の「とと」にしても意味がわからない。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 

 「『とらの子』の誤写か。前句の茸狩を竹林の狩として、とらの子をつけた。」

 

としているが、これも何かしっくりこない。竹林に茸というのはあまり聞かないし、何でわざわざ虎の子を尋ねてゆくかもわからない。

 『校本芭蕉全集 第三巻』には原本の書体がまぎらわしいため、全文の摸刻が掲載されている。それを見ると、たしかに「と」のような文字のしたにチョンとしてあるように見える。「之」にも似ている。

 あるいは前句の「たけ」を「竹」と取り成し、之の子を雪間に尋ねるとしたのかもしれない。ならば孟宗の「雪中の筍」の故事になる。打越に植物の「花」があるので「竹の子」は出せない。

 「残る雪間」は、

 

 冬がれも残る雪まの浅緑

     やや見えそむる野辺の若草

             中山忠定(宝治百首)

 

の用例がある。

 

季語は「残る雪」で春、降物。

 

二十四句目

 

   とゝの子を残る雪間に尋ぬらし

 なつかで猫の外面にぞ啼    宗房

 (とゝの子を残る雪間に尋ぬらしなつかで猫の外面にぞ啼)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「前句の『とらの子』を虎猫とした。」とある。

 「之の子」だとすれば、猫が自分の子供の所へ行き、外で啼いているとなる。子持ちの猫だから、なおさら警戒心が強く、人にはなつかない。

 

 末重み折れふす竹の雪間より

     今朝は外面の山も隠れず

             阿仏(夫木抄)

 

の歌がある。

 

無季。「猫」は獣類。「外面」は居所。

 

二十五句目

 

   なつかで猫の外面にぞ啼

 埋火もきへて寒けき隠居処に  一以

 (埋火もきへて寒けき隠居処になつかで猫の外面にぞ啼)

 

 猫といえば火燵。だが、ここでは「埋火(うづみび)」。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「埋火」の解説」には、

 

 「〘名〙 灰の中にうめた炭火。いけ火。いけずみ。うずみ。《季・冬》

※落窪(10C後)二「うづみ火のいきてうれしと思ふにはわがふところに抱きてぞぬる」

 

とある。その上にやぐらを組んで布団を載せたものが火燵(こたつ)になる。

 火が消えて寒いから猫が寄ってこない。

 「埋火」は、

 

 なかなかに消えは消えなで埋火の

     生きてかひなきよにもふるかな

             永縁(新古今集)

 

の歌にも詠まれている。老いた身に埋火の消えるという趣向の典拠にもなる。

 

季語は「埋火」で冬。「隠居処」は居所。

 

二十六句目

 

   埋火もきへて寒けき隠居処に

 湯婆の湯もや更てぬるぬる   一笑

 (埋火もきへて寒けき隠居処に湯婆の湯もや更てぬるぬる)

 

 湯婆(たんぼ)は湯たんぽのこと。寒い隠居処では湯たんぽのお湯も冷めている。

 生活感があり、「ぬるぬる」の言葉も後の「軽み」の風のようでもある。

 

 「埋火」の「更けて」は、

 

 埋火のあたりの窓居さ夜ふけて

     こまかになりぬ灰の手すさび

             式子内親王(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「湯婆」で冬。

 

二十七句目

 

   湯婆の湯もや更てぬるぬる

 例ならでおよるのものを引重ね 正好

 (例ならでおよるのものを引重ね湯婆の湯もや更てぬるぬる)

 

 「例ならず」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  いつもと違う。珍しい。 「この女、-・ぬけしきを見て/宇津保 嵯峨院」

 ②  体がふつうの状態ではない。病気や妊娠をいう。 「 - ・ぬ心地出できたり/平家 6」

 

とある。

 「およる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御寝」の解説」に、

 

 「〘自ラ四〙 (「およる(御夜)」を動詞化した語) 「寝る」の尊敬語。おやすみになる。多く女性が用いる。およんなる。→おひるなる。

  ※古今著聞集(1254)五「月をも御覧ぜで、御よるなれば、この御ふみ参らするに及ばず」

  ※人情本・清談若緑(19C中)四「アノ、お前様(まへさん)、モウお寝(ヨ)りましたかエ」

  [語誌]動詞として確立した中世後期には、敬意の高い女房詞として用いられ、近世初期に一般女性にも使用が広がる。

 

とある。

 湯たんぽもぬるくなり、病気ということもあって、夜着を着重ねる。

 

 秋風はそらはた寒しいざ今宵

     妹が衣手引き重ねてむ

             葉室光俊(新撰和歌六帖)

 

の歌もある。

 

無季。「およるのもの」は夜分。

 

二十八句目

 

   例ならでおよるのものを引重ね

 あふも心のさはぐ恋風     蝉吟

 (例ならでおよるのものを引重ねあふも心のさはぐ恋風)

 

 何となくいつもと様子が違うのは、病は病でも恋の病だとする。

 恋に騒ぐ風は、

 

 わが恋は松を時雨の染めかねて

     真葛が原に風さわぐなり

             慈円(新古今集)

 

の歌による。

 

無季。恋。

 

二十九句目

 

   あふも心のさはぐ恋風

 恨あれば真葛がはらり露泪   一笑

 (恨あれば真葛がはらり露泪あふも心のさはぐ恋風)

 

 恋風に葛の葉が裏返り涙の露がはらりと落ちる。

 葛の葉の露の風に裏返り落ちるという趣向は、

 

 ま葛はふあだの大野の白露を

     吹きなみだりそ秋の初風

             藤原長実(金葉集)

 

による。

 その「真葛が原」に「はらり」と落ちる泪を掛詞にするのだが、「はら」と「はらり」は意味の融合が不十分で半ば駄洒落になり、それが俳諧らしい笑いとなる。

 「恨み」も葛の葉の「裏見」に掛かっているが、こちらは、

 

   題しらず

 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は

     恨みてのみや妻を恋ふらむ

             俊恵法師(新古今集)

 

の頃からの伝統的な掛詞で、笑いには結びつかない。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「真葛」は植物、草類。

 

三十句目

 

   恨あれば真葛がはらり露泪

 秋によしのの山のとんせい   一以

 (恨あれば真葛がはらり露泪秋によしのの山のとんせい)

 

 吉野葛の縁で吉野に展開するが、花のない秋の句なので、山の遁世となる。西行の俤もあるが、物でも付いているので俤付けではない。

 

季語は「秋」で秋。「吉野の山」は名所、山類。

 

三十一句目

 

   秋によしのの山のとんせい

 在明の影法師のみ友として   宗房

 (在明の影法師のみ友として秋によしのの山のとんせい)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 

 朝ぼらけ有明の月とみるまでに

     吉野の里にふれる白雪

              坂上是則(古今集)

 

の歌が「吉野」と「有明」が付け合いになる證歌となっている。

 李白の「月下独酌」に、

 

 挙杯邀明月 対影成三人

 盃を挙げて月を客として迎え、影と対座して三人となる。

 

の句があり、「影法師」はそのイメージと思われる。

 芭蕉の後に『冬の日』の「狂句こがらし」の巻でも、

 

   きえぬそとばにすごすごとなく

 影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉

 

の句を詠んでいる。吉野の遁世に有明の影法師が出典にべったりと付いているのに対し、「消えぬ卒塔婆」の「暁」に火を焚いた「影法」は蕉風確立期の古典回帰とはいえ、出典とは違う独立した趣向を生み出している。

 

季語は「在明」で秋、夜分、天象。「友」は人倫。

 

三十二句目

 

   在明の影法師のみ友として

 未だ夜深きにひとり旅人    正好

 (在明の影法師のみ友として未だ夜深きにひとり旅人)

 

 朝未明の旅立ちは杜牧の『早行』を思わせる。

 

   早行     杜牧

 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴

 林下帯残夢  葉飛時忽驚

 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横

 僮僕休辞険  時平路復平

 

 鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、

 数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。

 林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、

 落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。

 降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、

 暁の月は遠い山の端に横たわる。

 召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。

 それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 

の詩で後の芭蕉の『野ざらし紀行』で、

 

  「二十日余のつきかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。

 

  馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

 

の出典でもある。

 ただ、『早行』とは違って一人旅立つ旅人には、有明の月の落とす影が唯一の友となる。

 

無季。旅体。「夜深き」は夜分。「旅人」は人倫。

 

三十三句目

 

   未だ夜深きにひとり旅人

 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

 (よろつかぬほどにささおものましませ未だ夜深きにひとり旅人)

 

 十八句目の小唄調に続いて、ここでも芝居か何かの台詞のような口語っぽい文体で作っている。全部平仮名だとわかりにくいが「よろつかぬ程に酒(ささ)をも飲ましませ」。

 前句の「ひとり旅人」を旅立つ夫として、妻が草鞋酒を汲んで見送るというところか。

 「草鞋酒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「旅立ちの際に、わらじをはいたまま飲む酒。別れに際しての酒盛り。」とある。

 

無季。

 

三十四句目

 

   よろつかぬほどにささおものましませ

 市につづくは細ひかけはし   一笑

 (よろつかぬほどにささおものましませ市につづくは細ひかけはし)

 

 打越の旅体を離れ、ただ市場から来た人に酒をふるまったとする。

 

無季。「かけはし」は山類。

 

三十五句目

 

   市につづくは細ひかけはし

 堀際へ後陣の勢はおしよせて  一以

 (堀際へ後陣の勢はおしよせて市につづくは細ひかけはし)

 

 これは大名行列の先陣・後陣だろうか。大きな町にはいくつもの堀がめぐらされてたりするが、そこから市場へとかかる橋が細いので、後陣の列はなかなか入れなくて立ち往生する。

 

無季。「堀」は水辺。

 

三十六句目

 

   堀際へ後陣の勢はおしよせて

 息きれたるを乗替の馬     蝉吟

 (堀際へ後陣の勢はおしよせて息きれたるを乗替の馬)

 

 江戸時代の馬は宿場から隣の宿場までを往復するもので、宿場に着くたびに馬を乗り換えなくてはならなかった。後陣の勢も息を切らしてたどり着いたところで次の馬に乗換えとなる。

 

無季。旅体。「馬」は獣類。

二裏

三十七句目

 

   息きれたるを乗替の馬

 早使ありと呼はる宿々に   正好

 (早使ありと呼はる宿々に息きれたるを乗替の馬)

 

 馬を乗り換える旅人を早使いとした。

 

無季。旅体。「早使」は人倫。

 

三十八句目

 

   早使ありと呼はる宿々に

 とけぬやうにと氷ささぐる  宗房

 (早使ありと呼はる宿々にとけぬやうにと氷ささぐる)

 

 ウィキペディアによれば、「江戸時代には、毎年6月1日(旧暦)に合わせて加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあった。」という。

 前句の「早使」を氷を献上する使者とする。

 

季語は「氷ささぐる」で夏。

 

三十九句目

 

   とけぬやうにと氷ささぐる

 あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて 一笑

 (あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきてとけぬやうにと氷ささぐる)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「前句の『氷ささぐる』を氷様(ヒノタメシ)に見なす。」とある。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「氷様の奏」の解説」に、

 

 「元日(がんにち)の節会の時に、宮内省から昨年の氷室の収量や氷の厚薄、一昨年との増減などを奏し、あわせて氷様を天覧に供する儀式。〔江家次第(1111頃)〕」

 

とある。

 新年の「ほのぼの」は、

 

 ほのぼのと春こそ空に来にけらし

     天の香具山霞たなびく

            後鳥羽院(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「あけて今朝」で春。「日」は天象。

 

四十句目

 

   あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて

 大ぶくの爐にくぶる薫    正好

 (あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて大ぶくの爐にくぶる薫)

 

 「大ぶく」はおおぶくちゃ(大服茶・大福茶)のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「元日に若水でたてた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒さんしようなどを入れて飲む。一年中の悪気を払うという。福茶。 [季] 新年。」

 

とある。

 

季語は「大ぶく」で春。

 

四十一句目

 

   大ぶくの爐にくぶる薫

 佐保姫と言ん姫御の身だしなみ 蝉吟

 (佐保姫と言ん姫御の身だしなみ大ぶくの爐にくぶる薫)

 

 前句の「くぶる薫(たきもの)」を「大ぶくの爐」に染み付いた香りではなく、姫君の衣の薫物とする。春三句目だから春の季語になる佐保姫を出す。

 佐保姫は春の女神で、奈良の東の佐保山に住む。霞の衣には春の香りがする。

 

 佐保姫の花のたもとや匂ふらむ

     霞をわくる春風ぞ吹く

            成実(洞院摂政家百首)

 佐保姫の花色衣春を経て

     霞の袖に匂ふ山風

            中院通方(続後撰集)

 

などの歌がある。

 

季語は「佐保姫」で春。

 

四十二句目

 

   佐保姫と言ん姫御の身だしなみ

 青柳腰ゆふ柳髪       一以

 (佐保姫と言ん姫御の身だしなみ青柳腰ゆふ柳髪)

 

 その姫君の姿を付ける。柳腰と青柳を掛け、それに柳髪を加える柳尽くしの女性だ。

 佐保姫と柳は、

 

 佐保姫のうちたれ髪の玉柳

     ただ春風のけづるなりけり

            大江匡房(玉葉集)

 浅緑春の姿に佐保姫は

     枝垂り柳のかつらしてけり

            藤原仲実(堀河百首)

 

などの歌がある。

 

季語は「青柳」で春、植物、木類。

 

四十三句目

 

   青柳腰ゆふ柳髪

 待あぐみ松吹風もなつかしや 宗房

 (待あぐみ松吹風もなつかしや青柳腰ゆふ柳髪)

 

 柳といえば風。松は当然ながら待つに掛かる。「なつかし」は心引かれるという昔の意味で「なつく」から来ている。

 松吹風は、

 

   源仲正がむすめ皇后宮に初めて參りたりけるに、

   琴弾くと聞かせ給て弾かせさせ給ければ、

   つゝましながら弾き鳴らしけるを聞きて、

   口遊のやうにて言ひかけける

 琴の音や松ふく風にかよふらん

     千代のためしに引きつべきかな

            摂津(金葉集)

   返し

 うれしくも秋のみ山の秋風に

     うゐ琴の音のかよひけるかな

            美濃(金葉集)

 

の歌の例もあり、前句の柳髪で柳腰の女性の弾く琴の音の松風に心惹かれる、という意味になる。

 柳に風は、

 

 鴬の糸によるてふ玉柳

     ふきなみたりそ春の山かせ

            よみ人しらず(後撰集)

 

の歌を挙げておけば十分だろう。

 

無季。恋。「松」は植物、木類。

 

四十四句目

 

   待あぐみ松吹風もなつかしや

 因幡の月に来むと約束    一笑

 (待あぐみ松吹風もなつかしや因幡の月に来むと約束)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる

     まつとし聞かば今帰り来む

            中納言行平

 

を本歌とする。「約束」という言葉が俳言になる。謡曲『松風』では松風・村雨の二人の姉妹を残し、結局帰ってこなかった。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「因幡」は名所。

 

四十五句目

 

   因幡の月に来むと約束

 鹿の音をあはれなものと聞及び 正好

 (鹿の音をあはれなものと聞及び因幡の月に来むと約束)

 

 月に鹿の音の哀れとなれば、

 

   暁聞鹿といへることをよめる

 思ふこと有明がたの月影に

     あはれをそふるさを鹿の声

            令子内親王(金葉集)

 

の歌がある。この哀れの情に前句の月の夜に来ると約束しながら、待てども来ない情を重ね合わせる。

 因幡はこの場合前句の在原行平の興を離れるのであれば、「稲葉」への取り成しと見ていいだろう。稲葉の鹿であれば、

 

 山里の稲葉の風に寝覚めして

     夜深く鹿の声を聞くかな

            源師忠(新古今集)

 旅寝して暁がたの鹿の音に

     稲葉おしなみ秋風ぞ吹く

            源経信(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「鹿の音」で秋、獣類。

 

四十六句目

 

   鹿の音をあはれなものと聞及び

 おく山とある歌の身にしむ  蝉吟

 (鹿の音をあはれなものと聞及びおく山とある歌の身にしむ)

 

 「おく山とある歌」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 

 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の

     声聞く時ぞ秋は悲しき

            猿丸大夫(古今集)

 

の歌を指す。

 前句の「聞及び」を実際に聞いたのではなく人の話に聞いたものとし、実際に奥山にいるわけではないけど、あの歌が身に染みるとしたか。

 「身にしむ」は、

 

 月はよし激しき風の音さへぞ

     身にしむばかり秋は悲しき

            斎院中務(後拾遺集)

 秋吹くはいかなる色の風なれば

     身にしむばかりあはれなるらむ

            和泉式部(詞花集)

 

などの歌もあり、連歌以来秋の季語とされている。

 

季語は「身にしむ」で秋。「身」は人倫。「おく山」は山類。

 

四十七句目

 

   おく山とある歌の身にしむ

 いろはおばらむうゐのより習初 一以

 (いろはおばらむうゐのより習初おく山とある歌の身にしむ)

 

 前句の「おく山とある歌」をいろは歌の「我が世誰ぞ常ならむ有為(うゐ)の奥山今日越えて」とし、子供が「らむうゐの」と順番に練習して行き、「おくやま」と続く。

 

無季。

 

四十八句目

 

   いろはおばらむうゐのより習初

 わるさもやみし閨の稚ひ   宗房

 (いろはおばらむうゐのより習初わるさもやみし閨の稚ひ)

 

 「閨」は寝る屋で寝室のこと。「稚ひ」は「おさあい」と読む。「おさない」の変化した言葉。

 「いろは」を習い始めた子供はいたずら盛りで、それがようやく止むとぐっすり眠っている。ほほえましい情景だ。芭蕉にもそんな時代があったか。

 

無季。「閨」は居所。

 

四十九句目

 

   わるさもやみし閨の稚ひ

 花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり 蝉吟

 (花垣の蠅のゆひ目もゆるうなりわるさもやみし閨の稚ひ)

 

 二裏の花の定座は蝉吟が務める。前句の眠る子に「目もゆるうなり」と付くが、縄の目と掛けて、縄の目もゆるうなり、稚ひの目もゆるうなる。「掛けてには」になる。

 「花垣」は花の咲く垣根のことで、正花ではあっても桜ではない。和歌では

 

 しのび音ねいづくに鳴きてほととぎす

     卯の花垣になほ待たるらむ

             藤原忠良(新後撰集)

 

など、卯の花の垣根を詠むことが多い。

 蝉吟は十八句目の「おれにすすきのいとしいぞのふ」といい、二十三句目の「よろつかぬほどにささおものましませ」といい、こういう口語的な表現を好んだようだ。

 談林の流行も突然始まったものではなく、貞門の内部でもこういう小唄や謡曲の調子を取り入れるのは、既に流行していたのかもしれない。蝉吟もこの頃まだ二十四で若く、流行には敏感だったのだろう。

 

季語は「花垣」で春、植物、木類、居所。

 

五十句目

 

   花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり

 覆詠も古き神前       正好

 (花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり覆詠も古き神前)

 

 覆詠(かへりまうし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「返申」の解説」には、

 

 「① 使者が帰って来て、その返事や報告をすること。また、その報告や返事。復命。かえりごともうし。

  ※続古今(1265)離別・八四一・詞書「おなじ群行の長奉送使(ちょうぶそうし)にてまかりくだりて、かへりまうしの暁、女房の中へつかはしける」

  ② (「かえりもうじ」とも) 神仏へお礼参りをすること。報賽(ほうさい)。願ほどき。かえりもうで。

  ※宇津保(970‐999頃)藤原の君「万の神たちに、返申の幣帛(みてぐら)奉らん」

  ※源氏(1001‐14頃)玉鬘「三条らも、ずいぶむに栄えて、かへり申はつかうまつらむ」

  ③ 神前、仏前から立ち去るときに別れの礼拝をすること。また、その礼拝。

  ※浄瑠璃・神霊矢口渡(1770)一「いざ神前へ御暇(いとま)、賽(かへり)もうしの拍掌(かしはで)の」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「県召の除目の御礼参り」とあり、春の季語としている。

 ウィキペディアには、

 

「春の除目

 諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った。任命は位の低い官から始まり日を追って高官に進むのが順序であった。天皇の御料地である県の官人を任す意味から、県召の除目(あがためしのじもく)ともいい、中央官以外の官を任じるから、外官の除目ともいう。」

 

とある。

 前句の「花垣」を神社の花垣とする。

 

季語は「覆詠」で春。神祇。

三表

五十一句目

 

   覆詠も古き神前

 春の夜の御灯ちらちらちらめきて 一笑

 (春の夜の御灯ちらちらちらめきて覆詠も古き神前)

 

 神社の場面なので神前に灯る火を付ける。「ちらちらちら」というオノマトペの使用は蕉門の軽みの風にしばしば現れ、やがては惟然の超軽みでも用いられてゆくが、散発的には貞門の時代にもあった。

 

季語は「春の夜」で春、夜分。「御灯」も夜分。

 

五十二句目

 

   春の夜の御灯ちらちらちらめきて

 北斗を祭る儀式殊勝や   一以

 (春の夜の御灯ちらちらちらめきて北斗を祭る儀式殊勝や)

 

 「御灯(ごとう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御灯」の解説」に、

 

 「① 神仏または貴人の前にともす灯火。みあかし。

  ※宇治拾遺(1221頃)二「仏供、御とうなどもたえず」

  ② 平安以降、三月三日、九月三日に北辰(北極星)をまつる行事。また、そのとき捧げる灯火。天皇自ら精進潔斎(しょうじんけっさい)して行ない、庶民もならった。運勢を守り、不祥を退けると信じられた。《季・春‐秋》

  ※日本紀略‐延喜一六年(916)三月三日「御燈、廃務」

  ※増鏡(1368‐76頃)一〇「春の司召し、御燈などいふ事どもあれば、行幸は今夜かへらせ給」」

 

とある。前句の御灯を①の意味から②の意味へ取り成す。

 

季語は「北斗を祭る」で春。

 

五十三句目

 

   北斗を祭る儀式殊勝や

 出し初る船の行衛を気遣れ 宗房

 (出し初る船の行衛を気遣れ北斗を祭る儀式殊勝や)

 

 北斗七星のうちの五つの星は、日本では船星と呼ばれていた。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「夏空の北斗七星のうち,α星とβ星を除いた5つの星を船に見立てた和名。北斗七星全体をさす地方もある。」

 

とある。

 だが、実際に進水式の時に北斗を祭る習慣があったのかどうかは定かでない。

 余談だが、我国の天皇は道教の天皇大帝から来たという説があり、天皇大帝は北辰の神であり、すべての星がこの周りを回る天の中心の神だった。

 ただ、古代の北辰は今日の北極星のことではない。天の北極は長い年月を経て位置が変わっていて、紀元前にはこぐま座のβ星に近かったという。さらに五千年前ともなるとりゅう座のα星のあたりが天の北極だったという。

 北斗はこの天の北極を回る沈まない星、つまり周極星として信仰されるようになった。コトバンクの「北斗信仰」の項の「世界大百科事典内の北斗信仰の言及」には、

 

 「《史記》天官書などの記述によると,北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた。これをうけた道教では,北辰の神号を北極大帝,北極紫微大帝もしくは北極玄天上帝などと称し,最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどる神として尊崇した。」

 

とある。

 なおウィキペディアによると、天皇という称号は中国にもあったという。

 

 「中国の唐の高宗は「天皇」と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。」

 

無季。「出し初る船」は旅体、水辺。

 

五十四句目

 

   出し初る船の行衛を気遣れ

 涙でくらす旅の留守中   蝉吟

 (出し初る船の行衛を気遣れ涙でくらす旅の留守中)

 

 船の行衛を気遣うとなれば、旅人の留守を預る家族の情となる。

 

無季。「旅」は旅体。

 

五十五句目

 

   涙でくらす旅の留守中

 独り居を思へと文に長くどき 正好

 (独り居を思へと文に長くどき涙でくらす旅の留守中)

 

 「口説く」というと、今ではセックスの誘いだが、Weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 

 「①繰り返して言う。くどくどと言う。恨みがましく言う。

  ②(神仏に)繰り返して祈願する。

  ③(異性を自分の意に従わせようとして)しつこく言い寄る。◇近世以降の用法。」

 

だという。近世の俳諧では一応恋の言葉になる。ただ、この句の場合ニュアンス的には恨み言を長々と語るという古い意味で用いられている。

 独りで旅の留守を預る辛さを切々と訴え、あまり恋の感じはしない。

 「口説く」と「くどくど」は何か関係あるのかと思ったが、「くどくどし」は「くだくだし」から来た言葉で、砕いて細かくするところから、細かいことを言うことを「くだくだし」と言ったようだ。それが後付で「口説く」の意味につられて「くどくどし」になったのかもしれない。

 ひとりゐの涙は、

 

 ひとりゐて涙汲みける水の面に

     うきそはるらむ影や出づれと

            紫式部(紫式部集)

 

の例がある。

 

無季。恋。

 

五十六句目

 

   独り居を思へと文に長くどき

 そちとそちとは縁はむすばじ 一笑

 (独り居を思へと文に長くどきそちとそちとは縁はむすばじ)

 

 これは②の「(神仏に)繰り返して祈願する」の意味に取り成したか。神様だって余りくどくどと訴えられてもううざいので、臍を曲げてしまった。

 

無季。恋。

 

五十七句目

 

   そちとそちとは縁はむすばじ

 だてなりしふり分髪は延ぬるや 蝉吟

 (だてなりしふり分髪は延ぬるやそちとそちとは縁はむすばじ)

 

 「振り分け髪」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、

 

 「童男童女の髪型の一つ。頭頂から髪を左右に振り分けて垂らし、肩の辺りで切りそろえる。八歳ごろまでの髪型。「振り分け」とも。」

 

だという。

 振り分け髪は髪の毛を左右に分けるため両側に垂れた髪の毛は離れ離れになり、結ばれることがない。これはそういう洒落で、『伊勢物語』とは直接関係ない。ただ、

 

 くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ

     君ならずしてたれかあぐべき

 

の歌は、「振り分け髪」という雅語の證歌にはなる。

 

無季。恋。

 

五十八句目

 

   だてなりしふり分髪は延ぬるや

 俤にたつかのうしろつき  宗房

 

 「うしろつき」は後ろ姿のこと。

 これは幽霊だろうか。こういう突飛な空想が芭蕉らしい。

 愛しい人の幽霊に、髪が伸びたと時間の経過が恨めしい。

 

無季。恋。

 

五十九句目

 

   俤にたつかのうしろつき

 したへども老かがみしは身まかりて 一以

 (したへども老かがみしは身まかりて俤にたつかのうしろつき)

 

 「振り分け髪」は童女だったが、ここでは老婆の幽霊とする。臨終の時に去ってゆく姿を夢に見たか。

 

無季。無常。

 

六十句目

 

   したへども老かがみしは身まかりて

 誰に尋むことのはの道   正好

 (したへども老かがみしは身まかりて誰に尋むことのはの道)

 

 老いた師匠も今は身罷って、誰に和歌の指導をしてもらえば良いものか。

 ほんの一瞬、これが貞徳追善の興行だということを思い出させてくれる。

 

無季。「誰」は人倫。

 

六十一句目

 

   誰に尋むことのはの道

 まだしらぬ名所おば見に行しやな 一笑

 (まだしらぬ名所おば見に行しやな誰に尋むことのはの道)

 

 「行きしやな」は「行っちゃったな」という感じか。師匠は旅に出ちゃったんで誰に和歌のことを尋ねれば良いのか。

 

無季。旅体。

 

六十二句目

 

   まだしらぬ名所おば見に行しやな

 都にますや海辺の月    一以

 (まだしらぬ名所おば見に行しやな都にますや海辺の月)

 

 海辺(かいへん)の月は松島の月まず心にかかりてというところか。と、それは随分後の芭蕉さんだ。月そのものはどこで見てもそんなに変わるものではないが、周りの景色なら確かに違う。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。旅体。「海辺」は水辺。

 

六十三句目

 

   都にますや海辺の月

 罪無くば露もいとはじ僧住居 正好

 (罪無くば露もいとはじ僧住居都にますや海辺の月)

 

 「罪無くして配所の月を見る」という言葉がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(「古事談‐一」などによると、源中納言顕基(あきもと)がいったといわれることば) 罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。

  ※平家(13C前)三「もとよりつみなくして配所の月をみむといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事共し給はず」

 

とある。

 源顕基(みなもとのあきもと)は長保二年(一〇〇〇年)の生まれで、紫式部が『源氏物語』を書いた後の世代になり、おそらく『源氏物語』の須磨巻の月見の場面は当時の風流人を魅了していたのだろう。配所で見る月という趣向の面白さに、別に罪を犯したわけではなくても、その気分になりたくて、あえて須磨に月を見に行くというのが流行したのかもしれない。

 文治四年(一一八八年)『千載集』の巻八羇旅歌では、

 

 播磨路や須磨の関屋の板びさし

     月もれとてやまばらなるらむ

           源師俊(千載集)

 波のうゑに有明の月を見ましやは

     須磨の関屋にやどらざりせば

           源国信(千載集)

 

など、題詠として須磨の関屋の月を詠んだ歌が見られる。

 この頃から実際に配流されなくても、片田舎から都を思い月を詠むという趣向の者が定着してくる。

 この句も僧として諸国を旅し、罪があるわけでもなく名所の月を見る。そのためなら「露もいとはじ」と苦労を厭わない。。

 露は粗末な家の草の茂れるに露にまみれるという意味と、「露ほども」という意味との両方を含んでいる。

 

季語は「露」で秋、降物。釈教。

 

六十四句目

 

   罪無くば露もいとはじ僧住居

 する殺生もやむはうら盆  蝉吟

 (罪無くば露もいとはじ僧住居する殺生もやむはうら盆)

 

 前句の罪の無いお坊さんに対し、罪深き漁師もお盆は殺生をやめるという相対付け(迎え付け)になる。このあたりの蝉吟の技術も確かだ。夭折したのが惜しまれる。

 

季語は「うら盆」で秋。釈教。

 

三裏

六十五句目

 

   する殺生もやむはうら盆

 竹弓も今は卒塔婆に引替て 宗房

 (竹弓も今は卒塔婆に引替てする殺生もやむはうら盆)

 

 竹弓を使う猟師の墓参りとする。あるいは親父の代からの猟師で、親父が亡くなったのを期に、その初盆に弓を奉げてこれで猟師を辞めるという意味か。

 「弓」に「引」の縁語に一工夫ある。

 

無季。釈教。

 

六十六句目

 

   竹弓も今は卒塔婆に引替て

 甲の名ある鉢やひくらし  正好

 (竹弓も今は卒塔婆に引替て甲の名ある鉢やひくらし)

 

 前句の「竹弓」に「ひく」で受けてにはになる。竹弓は卒塔婆に、兜は鉢に、かつて武士だった者の托鉢姿とする。

 

無季。

 

六十七句目

 

   甲の名ある鉢やひくらし

 焼物にいれて出せる香のもの 一以

 (焼物にいれて出せる香のもの甲の名ある鉢やひくらし)

 

 「香のもの」は今日でも「お新香(しんこ)」というように、漬物のこと。托鉢僧にお新香を恵む。

 鉢は確かに焼物だが、料理の焼物にも掛けている。香の物だけでなく焼物も一緒に鉢に入れたか。

 

無季。

 

六十八句目

 

   焼物にいれて出せる香のもの

 何の風情もなめし斗ぞ   宗房

 (焼物にいれて出せる香のもの何の風情もなめし斗ぞ)

 

 「なめし」は「ない」と「菜飯」に掛かる。菜飯は菜っ葉を炊き込んだご飯のこと。

 菜飯というと、芭蕉の終焉の時の、

 

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

 

の句も思い出される。ご馳走ではなく看病の時にも作るような普通の食事だったか。

 菜飯にお新香だけでは、確かに何の風情も無いか。

 

無季。

 

六十九句目

 

   何の風情もなめし斗ぞ

 お宿より所替るが御慰   蝉吟

 (お宿より所替るが御慰何の風情もなめし斗ぞ)

 

 「お宿(やど)」は、『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「平生のお住まい」とある。

 「御慰(おなぐさみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御慰」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「お」は接頭語) その場かぎりのお楽しみ。ちょっとした座興。たわむれや皮肉などの意味をこめていう。

  ※雑俳・湯だらひ(1706)「のうれんを首尾よう取たらおなぐさみ」

 

とある。

 この場合も皮肉の意味で用いている。外泊して何か珍しいものでも出るかと思ったら、どこにでもある菜飯で御慰み。

 

無季。旅体。

 

七十句目

 

   お宿より所替るが御慰

 野山の月にいざとさそえる 一以

 (お宿より所替るが御慰野山の月にいざとさそえる)

 

 これは皮肉ではなく一興という意味。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「野山」は山類。

 

七十一句目

 

   野山の月にいざとさそえる

 秋草も薪も暮れてかり仕舞 正好

 (秋草も薪も暮れてかり仕舞野山の月にいざとさそえる)

 

 秋草はここではススキだろう。茅を刈ったり薪を取ったり野山の仕事も忙しいが、日が暮れれば終了。「かり仕舞」は「仮仕舞」と「刈り仕舞」の両方に掛かる。

 さあ仕事も終わったし、野山は今度は月の出番だよ、というところか。

 

季語は「秋草」で秋、植物、草類。

 

七十二句目

 

   秋草も薪も暮れてかり仕舞

 肌寒さうに年をおひぬる  一以

 (秋草も薪も暮れてかり仕舞肌寒さうに年をおひぬる)

 

 前句を貧しい老人の句とした。「老いる」と掛けているが、「薪」に「おふ(負ふ)」は受けてには。

 「肌寒」は、

 

 朝ぼらけ荻の上葉の露見れば

     ややはだ寒し秋の初風

           曽禰好忠(新古今集)

 秋風のややはだ寒く吹くなべに

     荻の上葉の音ぞかなしき

           藤原基俊(新古今集)

 

など和歌にも用いられ、秋の季語となる。

 

季語は「肌寒」で秋。

 

七十三句目

 

   肌寒さうに年をおひぬる

 川風に遅しと淀の船をめき 一笑

 (川風に遅しと淀の船をめき肌寒さうに年をおひぬる)

 

 「をめき」は喚(わめ)きと同じ。船を大声で呼ぶことをいう。風で押し戻されてしまうのか、船がなかなか来なくて、ついつい大声になる。そうでなくとも年を取ると耳が遠いもんだから声が大きくなるものだ。

 和歌では、肌寒は風の肌寒として多く詠まれる。

 

無季。「川風」「淀の船」は水辺。

 

七十四句目

 

   川風に遅しと淀の船をめき

 久しぶりにて訪妹が許   蝉吟

 (川風に遅しと淀の船をめき久しぶりにて訪妹が許)

 

 大声で船を呼ぶのを女の許(もと)を訪ねるためとする。ついつい気が急いて船が遅く感じられる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に引用されている、

 

  思ひかね妹がりゆけば冬の夜の

     河風さむみ千鳥なくなり

               紀貫之(拾遺集)

 

の歌は證歌といっていいだろう。

 

無季。恋。「妹」は人倫。

 

七十五句目

 

   久しぶりにて訪妹が許

 奉公の隙も余所目の隙とみつ 宗房

 (奉公の隙も余所目の隙とみつ久しぶりにて訪妹が許)

 

 当時は芭蕉も蝉吟のところの奉公人だったが、今みたいな休暇はほとんどなくても仕事の合い間合い間に暇ができたりすることはあっただろう。そういう時には俳諧を楽しんだりもしたか。

 もっともたいていの奉公人は、そんな渋い趣味を楽しむよりは、女の許にせっせと通っていたのではないかと思う。「余所目」は「よそ見」の意味もある。妹というのは浮気の相手か。

 突飛な空想も芭蕉ならではのものだが、こういう妙にリアルなあるあるネタを持ち出すのも芭蕉の持ち味で、豊かな想像力とリアルな感覚の同居が芭蕉の作品に幅を持たせているといっても良いだろう。

 

無季。恋。

 

七十六句目

 

   奉公の隙も余所目の隙とみつ

 こよと云やりきる浣絹   正好

 (奉公の隙も余所目の隙とみつこよと云やりきる浣絹)

 

 「浣絹」は「あらひきぬ」。絹は洗うと縮むので板の上に伸ばした乾かしたり、伸子張りという竹の棒を何本も弓のようにして伸ばしたり、大変だったようだ。

 「あらひきぬ」は万葉集で取替川に掛かる枕詞として以外は見ない言葉で、「解き洗ひ絹」は『万葉集』と、あとは中世の正徹の和歌に、

 

 山姫のときあらひ衣かけほすや

     日影にかすむ棹の川岸

           正徹(草根集)

 花のひもときあらひ衣露ちるや

     萩のえこゆる野ちの川なみ

           正徹(草根集)

 

といった用例がある。

 

無季。恋。「浣絹」は衣装。

 

七十七句目

 

   こよと云やりきる浣絹

 一門に逢や病後の花心   一以

 (一門に逢や病後の花心こよと云やりきる浣絹)

 

 病み上がりで一門の前に顔を見せるということで、洗ったばかりの着物を着る。

 「花心」は正花だが、いわゆる「にせものの花」、比喩としての花になる。

 連歌の式目「応安新式」では花は一座三句者で、その他ににせものの花を一句詠めることになっている。各懐紙に花の定座の習慣が定着しても、おおむねにせものの花一句のルールに従う場合が多い。花の句が同じような句にばかりならないよう変化をつける意味もある。

 

季語は「花心」で春。

 

七十八句目

 

   一門に逢や病後の花心

 かなたこなたの節の振舞  一笑

 (一門に逢や病後の花心かなたこなたの節の振舞)

 

 この場合の「節(せち)」は正月のこと。前句の花が桜でないので正月でもいい。

 「かなたこなた」ということで、一門はたくさんあり、あちらこちらで一門が集まっている。

 

季語は「節の振舞」で春。

名残表

七十九句目

 

   かなたこなたの節の振舞

 とし玉をいたう又々申うけ 蝉吟

 (とし玉をいたう又々申うけかなたこなたの節の振舞)

 

 お年玉は今では子供が貰うものになっているが、昔は大人同士の贈答の習慣で、主人や師匠の元に年始参りに土産を持ってゆき、お年玉を貰って帰るものだったようだ。ウィキペディアには、

 

 「年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」

 

とある。

 この句の場合「申し請け」だからお年玉用の大量の扇の発注でも請けたのであろう。それゆえ「かなたこなた」につながる。

 

季語は「とし玉」で春。

 

八十句目

 

   とし玉をいたう又々申うけ

 師弟のむつみ長く久しき  宗房

 (とし玉をいたう又々申うけ師弟のむつみ長く久しき)

 

 「申しうけ」はお願いして受け取るという意味もある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「申受・申請」の解説」に、

 

 「① お願いを申しあげる。お願いをしてその許可を得る。申し請う。

  ※高野山文書‐長寛二年(1164)五月二〇日・紀円正田地耕作請文「円正謹 申請那耶間田事〈略〉任年来作人申請、可耕作仕之状如件」

  ② お願いしてもらい受ける。願い出て請い受ける。頂戴する。

  ※百座法談(1110)二月二九日「こがねの銭はべらばまうしうけむ」

  ③ 招待する。招く。

  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「大夫がた日比の知音をよびよせ、待うけては、珍客を申うけたる心地し」

 

とある。②の意味もある。

 師弟の睦みでお年玉を受け取る。

 

無季。「師弟」は人倫。

 

八十一句目

 

   師弟のむつみ長く久しき

 盃はかたじけなしといただきて 一笑

 (盃はかたじけなしといただきて師弟のむつみ長く久しき)

 

 師弟で酒を酌み交わす場面とする。

 

無季。

 

八十二句目

 

   盃はかたじけなしといただきて

 討死せよと給う腹巻    一以

 (盃はかたじけなしといただきて討死せよと給う腹巻)

 

 「腹巻」はここでは今日のような防寒用のものではなく武具の腹巻を言う。ウィキペディアには、

 

 「腹巻は鎌倉時代後期頃に、簡易な鎧である腹当から進化して生じたと考えられている。徒歩戦に適した軽便な構造のため、元々は主として下級の徒歩武士により用いられ、兜や袖などは付属せず、腹巻本体のみで使用される軽武装であった。しかし、南北朝時代頃から徒歩戦が増加するなど戦法が変化すると、その動きやすさから次第に騎乗の上級武士も着用するようになった。その際に、兜や袖・杏葉などを具備して重装化し、同時に威毛の色を増やすなどして上級武士が使うに相応しい華美なものとなった。 南北朝・室町期には胴丸と共に鎧の主流となるが、安土桃山期には当世具足の登場により衰退する。江戸時代になると、装飾用として復古調の腹巻も作られた。」

 

とある。

 この場合の酒をふるまわれて良い気持ちになっているとそこが罠で、一緒に戦ってくれと腹巻を下賜される。

 芭蕉の死後に許六が去来に、

 

 「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 「願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70)

 

と言っていたのを思い出す。さすがに去来はこの腹巻を断ったが。

 

無季。「腹巻」は衣装。

 

八十三句目

 

   討死せよと給う腹巻

 防矢を軍みだれの折からに 正好

 (防矢を軍みだれの折からに討死せよと給う腹巻)

 

 「坊矢(ふせきや)」はweblio古語辞典によると、

 

 「敵の襲来を防ぎとめるために矢を射ること。また、その矢。◆後に「ふせぎや」とも。」

 

とある。

 これは退却する時の殿(しんがり)のことであろう。殿(しんがり)はウィキペディアに、

 

 「本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。」

 

とあるように、この大役を命ずる時に「討死せよと給う腹巻」ということになる。

 

無季。

 

八十四句目

 

   防矢を軍みだれの折からに

 いとも静な舞の手くだり  蝉吟

 (防矢を軍みだれの折からにいとも静な舞の手くだり)

 

 これは謡曲『吉野静』の本説になる。野上豊一郎編『解註謡曲全集』の『吉野静』の「主題」に、

 

 「判官義経が吉野を落ちた時、衆徒の追及を遅延させる ために、忠信の謀計で静御前に舞を舞わせるという 筋で、舞を中心としての戯曲的構想が特色である。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.26498-26501). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 この頃の本説付けはほとんど原作そのまんまで、少し変えるということをしていない。

 「いとも静な」はもちろん静御前と掛けている。

 

無季。

 

八十五句目

 

   いとも静な舞の手くだり

 見かけより気はおとなしき小児にて 宗房

 (見かけより気はおとなしき小児にていとも静な舞の手くだり)

 

 さて、ここでは静御前のことは忘れて、小児(こちご)を登場させる。

 小稚児はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小稚児」の解説」に、

 

 「〘名〙 年少の稚児。小さい子ども。⇔大稚児。

  ※春曙抄本枕(10C終)二二六「赤ぎぬきたるこ児(チゴ)の、ちひさき笠をきて」

 

とある。満年齢だと十四、十五の少年ということか。

 普段はいかにもやんちゃな男の子でも、舞となると人が変わったように凛々しく舞う。そのギャップ萌えというべきか。

 「おとなし」は「大人し」で大人びてるという意味。

 

無季。「小児」は人倫。

 

八十六句目

 

   見かけより気はおとなしき小児にて

 机ばなれのしたる文章   一笑

 (見かけより気はおとなしき小児にて机ばなれのしたる文章)

 

 「机ばなれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 

 「机とは学習机をさし、書や文章などの完成して一人前になること。」

 

とある。

 前句の「大人(おとな)し」を舞ではなく書の才能とした。

 

無季。

 

八十七句目

 

   机ばなれのしたる文章

 媒をやどの明暮頼みおき  一以

 (媒をやどの明暮頼みおき机ばなれのしたる文章)

 

 書が上手いと恋文の代筆とかをさせられる。媒は「なかだち」。

 

無季。恋。

 

八十八句目

 

   媒をやどの明暮頼みおき

 ちやごとにあらで深きすきもの 正好

 (媒をやどの明暮頼みおきちやごとにあらで深きすきもの)

 

 「ちやごと」は茶事で茶道のこと。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 

 「茶道の数奇者ではなく別のすきもの(好色漢)であるとの意。」

 

とある。

 

無季。恋。

 

八十九句目

 

   ちやごとにあらで深きすきもの

 うさ積る雪の肌を忘れ兼  蝉吟

 (うさ積る雪の肌を忘れ兼ちやごとにあらで深きすきもの)

 

 「雪の肌」を女の白い肌に掛けて、前句の好色漢(すきもの)が昔の女を忘れられない、とする。

 「積もる雪の」と「深き」で掛けてにはになる。

 

季語は「雪」で冬、降物。恋。

 

九十句目

 

   うさ積る雪の肌を忘れ兼

 氷る涙のつめたさよ扨   宗房

 (うさ積る雪の肌を忘れ兼氷る涙のつめたさよ扨)

 

 前句の浮かれた恋心を悲恋に変える。「扨」は「さて」。

 

季語は「氷る」で冬。恋。

 

九十一句目

 

   氷る涙のつめたさよ扨

 訪はぬおも思月夜のいたう更 正好

 (訪はぬおも思月夜のいたう更氷る涙のつめたさよ扨)

 

 せっかくの月夜なのに愛しいあの男は尋ねて来てくれない。王朝風の恋で連歌っぽいが「訪はぬをも」に「おもひ」と続けるところに俳諧がある。

 「訪はぬをも」の言葉は、

 

 とはぬをも恨むる心今はなし

    車に乗らぬ程ぞうかりし

           和泉式部(和泉式部集)

 

に用例がある。

 

季語は「月夜」で秋、夜分、天象。恋。

 

九十二句目

 

   訪はぬおも思月夜のいたう更

 律のしらべもやむる庵室  一以

 (訪はぬおも思月夜のいたう更律のしらべもやむる庵室)

 

 王朝風なので雅楽の律の調べとする。

 雅楽には律と呂がある。曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 

 「律の調 索隠曰、按ずるに律十二あり。陽六を律とす。黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射。陰六を呂とす、大呂、夾鐘、中呂、林鐘、南呂、応鐘、是也。名づけて律といふ。

 ○貞徳曰、りちのしらべは秋也。しかれば呂の声は春になるべき道理なれ共、其さたなければ、呂は雑とす。」

 

とある。「貞徳曰」は『俳諧御傘』の、

 

 「りちのしらべ 秋也。然ば呂の声春に成べき道理なれど、その沙汰なければ呂の字は雑にして置也。」

 

を指す。

 

季語は「律のしらべ」で秋。「庵室」は居所。

名残裏

九十三句目

 

   律のしらべもやむる庵室

 秋はなを清き水石もて遊び 一笑

 (秋はなを清き水石もて遊び律のしらべもやむる庵室)

 

 前句の庵室の季節と庭の風景を付ける。

 水石はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水石」の解説」に、

 

 「① 水と石。また、水中にある石。

  ※類従本懐風藻(751)山中〈釈道融〉「草蘆風湿裏、桂月水石間」 〔宋書‐隠逸伝論〕

  ② 泉水や庭石。山水景情石。

  ※凌雲集(814)同元忠初春宴紀千牛池亭之作〈賀陽豊年〉「貞交符二水石一、深奇契二寒松一」

  ※徒然草(1331頃)一三七「世を背ける草の庵には、閑(しづか)に水石をもてあそびて」

  ③ 水盤に入れたり、盆の上に庭園や景色を模して配したりする石。盆石。」

 

とある。

 ここでは「きよき水」に「水石」とつながるから、盆石ではなく庭の石で②の意味になる。

 庵室といっても粗末な草庵ではなく立派な寺院で、庭には水を流し、形の良い庭石を並べ、そこで管弦の宴を行う。「もて遊び」は「以て遊び」か。

 「あそび」には音楽の意味もあり、『源氏物語』で「あそび」というと大体この意味になる。

 

季語は「秋」で秋。「水石」は水辺。

 

九十四句目

 

   秋はなを清き水石もて遊び

 残る暑はたまられもせず  蝉吟

 (秋はなを清き水石もて遊び残る暑はたまられもせず)

 

 庭に流れる綺麗な水は、残暑の厳しい折にはありがたいものだ。

 

季語は「残る暑」で秋。

 

九十五句目

 

   残る暑はたまられもせず

 是非ともにあの松影へ御出あれ 一以

 (是非ともにあの松影へ御出あれ残る暑はたまられもせず)

 

 暑いなら松の影で涼めとのこと。「是非ともに」「御出あれ」と口語っぽく結んではいるものの、一種の咎めてにはといえよう。

 松風の涼みといえば、

 

   松下納涼といへる心をよみ侍りける

 とこ夏のはなもわすれて秋かせを

     松のかけにてけふは暮れぬる

           具平親王(千載集)

 

の歌もある。

 

無季。「松影」は植物、木類。

 

九十六句目

 

   是非ともにあの松影へ御出あれ

 堪忍ならぬ詞からかひ   正好

 (是非ともにあの松影へ御出あれ堪忍ならぬ詞からかひ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 

 「前句を喧嘩を挑んだ言葉として、『詞からかひ』を出した。」

 

とある。まあ町外れの一本松の下での決闘なんて、昭和の番長ものの漫画でも定番だが。

 「からかひ」は今日ではweblio辞書の「三省堂大辞林」にある、

 

 「①  冗談を言ったりいたずらをしたりして、相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむ。揶揄(やゆ)する。 「大人を-・うものではない」

  ②  抵抗する。争う。 「心に心を-・ひて/平家 10」

 

 の特に①の意味で用いられることが多い。「いじる」というのと似たような意味だ。

 ただ、昔はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「負けまいと張り合う。争う。言い争う。」

 

とあるような意味だったようだ。言い争い、挑発されて松陰の決闘へ、となる。

 

無季。

 

九十七句目

 

   堪忍ならぬ詞からかひ

 おされては又押かえす人込に 宗房

 (おされては又押かえす人込に堪忍ならぬ詞からかひ)

 

 前句の「からかひ」の声を荒げて言い争う様を、街の喧騒に取り成す。リアルな方の芭蕉がよく出ている。

 

無季。

 

九十八句目

 

   おされては又押かえす人込に

 けふ斗こそ廻る道場    一以

 (おされては又押かえす人込にけふ斗こそ廻る道場)

 

 道場は今日では武道を行う場所のことを言うが、本来の意味はウィキペディアの「道場 (曖昧さ回避)」にあるように、

 

 「サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語で菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことである。また、仏を供養する場所をも道場と呼ぶ。中国では、隋の煬帝が寺院の名を道場と改めさせている。また、慈悲道場や水陸道場のような法会の意味でも用いられている。日本では、在家で本尊を安置しているものを道場と称する場合もある。また、禅修行の場や、浄土真宗、時宗の寺院の名称としても用いられている。」

 

だった。

 駅伝でもお馴染みの藤沢の遊行寺も、かつては藤沢道場と呼ばれていた。

 縁日か秘仏の公開か、とにかく今日ばかりはということでお寺は人がごった返している。

 

無季。釈教。

 

九十九句目

 

   けふ斗こそ廻る道場

 花咲の翁さびしをとむらひて 正好

 (花咲の翁さびしをとむらひてけふ斗こそ廻る道場)

 

 「翁さぶ」はweblio辞書の「三省堂大辞林」に、

 

 「老人らしくなる。老人らしく振る舞う。 『 - ・び人な咎(とが)めそ/伊勢 114』」

 

とある。この伊勢物語の歌は、

 

 翁さび人なとがめそ狩衣

     けふばかりとぞ田鶴も鳴くなる

 

で、下句の頭「けふばかり」となっている。

 前句の頭が「けふばかり」なので、その上句に「翁さび」を持ってくることで『伊勢物語』の歌と同じような上句下句の繋がり方になる。一種の歌てにはといえよう。歌てにはの場合は形だけで、本歌付けのような歌の内容を借りてくるわけではない。

 「花咲」は花が咲くということだが、松永貞徳の隠居した花咲亭に掛けている。花の咲く花咲亭の翁さびた貞徳さんの弔いのために「けふ斗こそ廻る道場」という意味になる。

 なお、この歌は『後撰集』に、

 

   おなし日、たかかひにて、

   かりきぬのたもとにつるのかたをぬひてかきつけたりける

   行幸の又の日なん致仕の表たてまつりける

 おきなさび人なとがめそ狩衣

     けふはかりとぞたづもなくなる

              在原行平(後撰集)

 

とある。

 

季語は「花咲」で春、植物、木類。無常。「翁」は人倫。

 

挙句

 

   花咲の翁さびしをとむらひて

 経よむ鳥の声も妙也  一笑

 (花咲の翁さびしをとむらひて経よむ鳥の声も妙也)

 

 「経よむ鳥」は「経読み鳥」に同じ。「経読み鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「経読鳥」の解説」に、

 

 「〘名〙 (鳴く声が法華経と聞えるところから) 鳥「うぐいす(鶯)」の異名。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。貞徳翁の弔いのために鶯が「ホーーホケキョー」と法華経を読む。これにて追善の百韻は終る。

 この巻でやはり目立つのは芭蕉の主人でもあり俳諧の師匠でもあった蝉吟の多彩な技と運座を仕切る展開の小気味よさ。それに後の談林風にも通じる進取の気性だ。

 芭蕉はそこから多くのものを吸収し、やがて自らの風を確立していくことになった。

 

季語は「経よむ鳥(鶯)」で春、鳥類。