「梵灯庵道の記」を読む

 人間の記憶というのは、ともすると一昨日の夕飯すら思い出せなかったりするぐらいいい加減なもので、ましてや年月が経つと、嫌なこと苦しかったことは次第に忘れ、美しい思い出ばかりが残るものだ。

 ましてその人間の記憶を集めた「歴史」なるものはもっとあてにならないもので、いろんな人たちのそれぞれの思惑から、ある部分は思い切り誇張し、ある部分はなかったことにされる。

 こうして歴史はこれまで何度も書き換えられ、今日に至っている。歴史は風化するのではない。ただ利用されるのみだ。そしてその歴史への過信は、また新たな争いを生み出す。

 連歌というのもその何度も書き換えられた歴史の中で、さまざまにゆがめられたまま、忘却の彼方に去っていった。今や訪ねる人もまれな葎蓬茂れる里になっている。

 ここで取り上げてみようと思うのは、中世の連歌師で、梵灯と呼ばれている朝山小次郎師綱(もろつな)という人の記した『梵灯庵道の記』だ。庵号がそのまま呼び名になる例は梵灯と芭蕉くらいで、それほど多くない。梵灯は『長短抄』という連歌書を記している。

 梵灯は貞和五年(一三四九年)生まれで二条良基や救済が活躍した時代よりは遅く、心敬、行助の時代よりは早い、その二つの時代の中間の人だ。

 『梵灯庵道の記』については金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)を参照する。

 この紀行文が発表されたのは応永二十五年(一四一八年)で、一四〇六年生まれの心敬が十二歳の時ということになる。宗祇はまだ生まれていない。

 実際に旅をしたのは明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入っていた頃で、それ以上のことはわからないようだ。

 まずはその書き出し部分を見てみよう。

 

 「其比知識と聞えし人に、佛法のをきてさこそ律儀にも侍らんとおぼえて、真の心をこそしらずとも、知識の法度をも伺はんがために、或は一夏、或は半夏逗留せしかども、ただ江湖の僧五百人千人集りて、自他の褒貶のみにて、一坐の修行をも成しがたかりしかば、一往は智識の會下を捜事も侍しかども、後にはただ足にまかせ、心の行にしたがひて、浮雲流水を観じてさまよひありきし程に、漫々たる蒼海に出ては、友なし千鳥の類に身をなし、うはのそらに歩行に、峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせるあり。」

 

 「知識」というのは仏教を実際に支えている識者のことで、ウィキペディアには、

 

 「知識(ちしき・智識)とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。」

 

とあるが、この場合は寄進者の意味になる。

 その知識と呼ばれている人たちに仏法の掟や法度を学ぼうとして、寺院に籠って修行しようと一夏(陰暦四月十六日から七月十五日までの夏の九十日間の安居)半夏(六月十五日から始まる一週間の大摂心)などを行ってはみた。だがそこで見たのは江湖(もとは長江と洞庭湖を意味する言葉だったが、広く世間を意味する言葉として用いられていた)の僧が五百人、千人と集まり、「褒貶(ほうへん)」は褒めたり貶したりという意味だが、実際の所、派閥を作っては互いに自分たちを持ち上げ他を罵るばかりという状態だったのだろう。今のネット上のようなものだ。

 そんなわけで浮雲流水の行脚をしているうちに、とあるみちのくの山寺にやってきた。そこは「峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせる」ところだった。

 この寺が何という寺なのかは定かでない。ただ、西行法師もしばらく滞在したということであれば、

 

   又のとしの三月に出羽国にこえて滝の山と申す山寺に侍りけるに

   桜の常よりもうすくれないの色こき花にてなみたてるけるを

   寺の人々も見きようじければ

 たぐひなき思ひ出羽(いでわ)の桜かな

     薄くれなゐの花のにほいは

                 西行法師

 都路を思ひ出羽の瀧の山

     こきくれないの花の匂ひぞ

                 西行法師

 

の歌に詠まれた瀧の山だったかもしれない。山形にある醫王瀧山寺になる。

 仁寿元年(八五一年)慈覚大師によって開創されたこの寺は正嘉二年(一二五八年)に北条時頼によって閉山させられたというが、その後も何らかの形で引き継がれていたのかもしれない。江戸時代でも瀧山大権現と呼ばれていたようだが、明治の廃仏毀釈で瀧山神社となった。

 芭蕉も尾花沢から立石寺までは来たが、瀧山大権現はそれよりさらに南になる。

 では続きを読んでみよう。

 

 「見上侍るにいかさま霊仏霊神の居をしめ給かと覚て、葛折なる道處々にあり。ここかしこにやすみつつ上るほどに、夕陽もかさなれる山にかくれぬ。心ぼそきやうにてたどり行に、入會のかねの近々と聞え侍にぞ、さればこそとおぼえ侍し。

 佛菩薩はかかる清浄の地に住給んとてこそ、寄特をも人にみせしめ、衆生をも利益し給なれ、由来うちやりざまの事にあらず、よくぞくれぐれ上り侍ける。」

 

 「瀧の山」だったにしても、かつての大伽藍はすでに失われ、寂しげな山路だったのだろう。日も傾いたころに登るあたりは、『奥の細道』の立石寺のくだりにも似たところがある。一応芭蕉の文章も比較のために掲げておこう。

 

 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸(崖)をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

 閑さや岩にしみ入蝉の声」

 

 曾良の『旅日記』には「未ノ下剋ニ着」とあり、申の刻より少し前だが四時近かったであろう。時刻が遅いので、筆者はこの蝉の声はヒグラシだったのではないかと思っている。

 さて、『梵灯庵道の記』の方に戻る。

 

 「ただ足にまかせたる中にも、かかる寄特ありけりとおぼゆ。森々たる谷の深き水の流に付て尋入に、奥はいよいよ常盤木の木ぐらくて、心のままなる石どもの苔滑にて、踏ならす人もなかりけりとみゆ。

 ただ水のながれをしるべにてたどり行に、川上は猶水の音もかまびすしく、落葉ながれをせきて行なやむ處も侍り。名もしらぬ鳥のおどろおどろしき聲にて、はるかの梢に飛かふばかりぞかすかに聞えし。」

 

 落葉が流れて関に引っかかったたりするあたり、晩秋か初冬だろうか。

 

 山川に風のかけたるしがらみは

     流れもあへぬ紅葉なりけり

          春道列樹(はるみちのつらき)、古今集

 

を思わせる。鳥はよくわからないが、鵺の声と間違えられたというトラツグミだろうか。

 

 「あらぬ谷に大河あり、峯より雲を分て漲落る瀧あり、李白が三千尺も猶かぎりありとぞ覚る。」

 

 この滝の描写から、蔵王ではなく日光ではないかとする説もある。金子金次郎氏も宗長の『東路の津登』の日光の場面との類似を指摘している。そこにはこうある。

 

 「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。」

 

 つづら折りの道と大河は一致するが、『梵灯庵道の記』には京か鎌倉かというような街は登場しないし、『東路の津登』は橋の立派さが強調されているが滝の描写はなく、「中善寺とて四十里上に湖ありとかや。」と人づての話としているところから、華厳の滝までは行かなかったと思われる。

 つづら折りの道は山に行けばどこにでもあるし、途中で大河に出くわすこともそんな珍しいことでないなら、これは偶然の一致であろう。

 蔵王山だとすると、山形側なら不動滝だが高さ十五メートルは「峯より雲を分て漲落る瀧」というほどの感じはしない。宮城県側だと高さ九十七メートルの不帰の滝があるが、山を越えてそこまで行ったか。

  『梵灯庵道の記』はこの後伽藍についての記述になる。

 

 「やうやう薄雪杉の梢にむらむらみえて、寒嵐衣をふく、楼門を見つけてたづね入に、奥に僧坊あり。本堂の燈ほのかにかかげつつ閼伽盤・花籠など持たる法師の中に、いづくより詣来る人にかと問に、只此伽藍を拝し奉らん心ざし計なりと答て、今夜ハ此礼堂に通夜し侍らんゆるし給てんやと問に、何の子細か侍べきといふ。此寺の草創いつの比にかなど尋侍る次に、むかし西行上人も暫おはしけるとなんかたり侍き。」

 

 この西行が立ち寄ったが真実だとすれば、やはり「瀧の山」だったということになるだろう。あるいはこの文章が旅の後かなりの時間が経過してから綴られたもので、「瀧の山」の記憶に華厳の滝の記憶が混ざってしまったのかもしれない。

 

 「やうやう深行ままに、正面の柱によりかかりて眠居たるに、鈴の響谷々に聞えて物すごきに、暁のかね懺法の聲にたぐひて、何となく所がらにや身にしみて聞ゆるにぞ、佛法の尊さも一際ある心地せし。さて次の日佛を礼たてまつるに、内陣の柱に西行法師と書たる筆の跡あり。是をみるに、

 山たかみ岩ねをしむる柴の庵に

     しばしもさらば世をのがればや

 かやうの霊所には、元より縁に任たる事なれば、しばらく逗留せし事も侍し。其年は白地なる様にて冬をも過し、正月のすゑつかたに出侍しやらん。」

 

とこの山寺の場面は締めくくられる。

 和歌の方は『山家集』に次の前書きとともに収録されている。

 

   東國修行の時、ある山寺にしばらく侍りて

 山高み岩ねをしむる柴の戸に

     しばしもさらば世をのがればや

                西行法師

 

 さて、梵灯の乞食行脚の旅は続く。

 

 「か様にただ心のままに乞食し侍し程に、眞の修行をしらず、或時は深山に入て居を卜に、青嵐木ずゑを拂て頻に暁の夢をやぶり、流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし。かやうのしづかなる處にも、眞の心ざしなければとどまりがたき浮世のならひ、愚なる身のはかなさも、今更おもひしられて、月日を送侍りき。」

 

 「眞の修行をしらず」とあるから、例の山寺に滞在はしたものの、探し求めているものはなかったようだ。

 「或時は深山に入て居を卜(しむる)に」と山奥に草庵を結んだり、これは昔はよくあったことなのだろう。江戸時代でも芭蕉が雲岸寺の仏頂和尚の「五尺にたらぬ草の庵」の跡を訪ねている。今ならテントを張ってキャンプするような感覚で、寝るためだけの簡単な庵を建てることは、こうした行脚の僧の間では普通に行われていたのかもしれない。「居を卜(しむる)」は「卜居」という言葉もあるように、居を定めること。

 「青嵐(せいらん)」は新緑の青葉を吹く夏の強風で、才麿の『椎の葉』の「立出て」の巻二十一句目に、

 

   麻の中出て気の広う成

 霍乱を吹だまされし青嵐(あおあらし) 才麿

 

という句がある。

 「流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし」は渓流の水はふんだんにあっても、誰も飲む人はいないということで、芭蕉の『野ざらし紀行』の「とくとくの清水」ほどわずかな水ではないが、

 

 とくとくと落つる岩間の苔清水

   くみほすほどもなきすまひかな

              伝西行法師

 

の「くみほすほどもなきすまひ」の心は共通している。

 こうしたところに草庵を結んでも、やはり留まることができないのは「浮世のならひ、愚なる身のはかなさ」としながらも、旅を続けることになる。それは連歌への思いなのか、それとも旅の魔力なのか。それとも「乞食行脚」とはいうものの、西行が勧進僧だったように、何らかの使命を担った旅だったのか。

 そしていつしかとある海浜をさすらうことになる。

 

 「或時は海邊に出て行脚し侍に、あらき浪舷をこえて、みちるしほここもと也けりとさはがしく、かの源氏の物がたりおもひよそらへて、枕を峙たるに、海のおもてはそこはかとなきに、月はただきらきらとみえて、暁出るふねどもの、いかりをあげ、ともづなをとく人のをとなゐ、まことにいそがはしげなり。

 さて「思々に漕別行梶音も猶かすかなるに、たく火のかげはほのぼのとみえて、うきぬしづみぬ遠ざかり侍に、やうやう興津しら浪よこ雲も一にあけわたりて、遠からぬすざきの松風、うきねの鳥の立つづく羽音、いづれも旅泊の夢をおどろかすかとぞおぼえし。もしほをたれ磯菜をつむ海士の子どものおもひおもひに囀る聲どもいとおかし。」

 

 この時代は丸木舟ではなく、底の平らな構造船の技術が確立され、遣明船などの大型船も作られていた。ただ、帆はまだ木綿ではなく筵だったという。海岸伝いに進む小型の貨物船が物流を支え、こうした船に便乗することもあったのだろう。

 日本海の夜の荒波で、しばしば浪が船縁を越える中、『源氏物語』の須磨から明石へ行く船旅を思い起こしたりもしたのだろう。

 やがて夜が明ける頃には静かな内海に入り、松風に水鳥に海藻を摘む子供たちの声を聞こえてくる。

 

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。はるばると歩過て神殿を拝奉るに、扉に書たる哥あり。

 松嶋やをじまの磯もなにならず

     ただきさがたの秋のよの月

 西行法師と書たりしぞ、やさしくもあはれにも覚えし。」

 

 穏やかな内海は天然の港で、物流の拠点でもあったのだろう。その内海に面してまず目に入ってきたのが仏閣と神社で、ここはどこかと聞くと「象潟(きさがた)」という答えが返ってくる。僧坊の甍が並んでいるところから、それなりの大寺院だったのだろう。ただ、築地は崩れ、門も傾き、昔の栄華には及ばなかったようだ。

 仏閣は神功皇后の伝説のある皇后山干満珠寺で、内海への入り口の所で船を下りたとすると、南北両側に内海と外海を隔てる半島があってそこに僧坊や何かが並び、北西の方に島があって、そこに干満珠寺があった。蚶方神社も併設されていたようだ。おそらく島へ向かって白洲になっていて、そこに鳥居があったのだろう。

 神殿の扉に和歌が書きつけられていた。西行真蹟かどうかはわからない。

 和歌は『山家集』にある。

 

   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて

 松島や雄島の磯も何ならず

     ただきさがたの秋の夜の月

               西行法師

 

 内海には他にもたくさんの小さな島が浮かび、波に洗われることのない穏やかな景色を形作っていて、外海の浪に洗われた松島のような荒々しさはない。

 象潟は元禄二年(一六八九年)芭蕉も『奥の細道』で訪れていて、「俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」と記している。

 その象潟も文化元年(一八〇四年)の地震で二十五メートルも隆起して、かつての内海は見る影もなくなり、やがて田んぼになった。

 瀧の山と象潟で西行法師の和歌にめぐり合えた後も旅は続く。

 

 「かやうにいづくともなく行脚し侍事十餘年。其後出羽国に山居し侍しに、其所の人草堂を一宇おもひ立事あり。もしさやうの故實有ば、とりたててたびなむやといふに、あなおもひよらずや、努々さやうの才覚なきよし返答し侍しを、仏法興隆は御身に帯してしかるべき事なりと、再三申侍し程に、心ならず一両年は彼山中にぞ逗留し侍し。今光明寺是也」

 

 明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入ってから十余年ということで一四〇三年以降のことであろう。

 金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)の解説では、

 

 「最上家の菩提寺の光明寺(時宗)ではなく、禅宗の光明寺である。惟肖得厳が梵灯伝で、『東羽陽に遊び、檀護の光明を開山するに際会し』と語るものである。」

 

とある。

 時宗の方の光明寺も開山の時期が近いために紛らわしい。「山形県の町並みと歴史建築」というサイトによると、時宗の方は、

 

 「光明寺は山形県山形市七日町5丁目に境内を構えている時宗の寺院です。光明寺の創建は永和元年(1375)、最上家の祖となった斯波兼頼が居城である山形城の城内に草庵を設けたのが始まりと伝えられています。伝承によると応安6年(1373)、領内の視察中に漆山の念仏堂に立ち寄ると、たまたま巡錫に訪れていた遊行10代上人元愚大和尚と出会い教化を受け、山形城に上人を招くと城内で出家し其阿覚就と号するようになったと伝えられています。

 康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、跡を継いだ2代直家が寺院として整備し、兼頼の戒名『光明寺殿成覚就公大居士』に因み寺号を光明寺と名付けました。以来、歴代最上家から庇護され寺運が隆盛しました。」

 

とある。

 時期が二十年くらいずれるが、同時期に山形市のそう離れてないところに二つの光明寺が創建されたことになる。

 禅宗の方の光明寺は金子金次郎によると『扶桑五山記・二』に「光明寺、出羽州、東山、開山在中(中滝)禾上」とあり、今の山形市大字上東山・下東山のあたりの山中と推定している。立石寺と瀧の山の中間のやや立石寺寄りになる。

 さて、この後梵灯は謎の湖へと向かう。

 

 「みちの國に乞食し侍し比、ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり。汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍をたどりつつ、所がらのおもしろさに一足づつ前へ歩に、傍にさかしき谷をおりくだる人あり。鬢[髟酋]は雪よりもしろく、身には藤編る衣をきたり、此翁歩に近付て、いづくへ心ざし給ふ人ぞ、此すゑには道もあるべからず、われは此山に年ひさしく杣をとりて住侍る物なり、わが跡に附ておはしませ、人里までは日も暮なんとすといふにうれしくて、彼翁のもとにいたりぬ。

 げにも白地に板ども取かけたる杣木の中に、翁がたぐひなんめりとみえて、人ひとりふたりをとなふ。むかしは此湖のあたりに、人の往来事ありけるやと問に、さる事なし、心ざしありて住給はんに子細やはあるべきといふに、やがてかの翁がこと葉に取つきて、かすかなる庵をむすび、時々里に出て食をこひなんどして一夏を送侍し也。

 しらず仙郷にもやありけんとぞおぼえし。水四面の山をうつして、みがける鏡よりもかげいさぎよく、霊松の傾たるあり、崛木の央なるあり、浪丹青をうつして、畫圖のよそほひをなす。あざやかなる事千枝・経教が筆もをよぶがたくや。

 水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし。朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ、すべて眺望一にあらず。水にむかへば天ここにあり。我はからず非想非々想に至かとうたがふ。

 かやうの霊地にこそしづかに残生をもをくりたく侍しに、かの翁あきの霧にやをかされけん、朝の露ときえ、夕の煙とたちのぼりぬ。あはれさいふばかりなし。

 いよいよたよりなくて、長月廿日比にいづくともなく吟出ぬ。ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」

 

 まずこの湖がどこかということだが、金子金次郎は斉藤清衛博士の説に従い宮城県の伊豆沼を有力としている。確かに「ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり」とあるから、仙台平野北部の伊豆沼は考えられる。それに加えて伊豆沼が有名な白鳥の飛来地でもあり、「鷺たち連おどれども」は白鳥のことではないかとしている。

 ただ、疑問がないでもない。一方では「傍にさかしき谷」だとか「水四面の山をうつして」「朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ」と山の中を示す言葉も見られる。

 また、白鳥の飛来は冬だが、「一夏を送侍」「長月廿日比いづくともなく吟出ぬ」と、旧暦九月二十日にはこの地を去っている。「水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし」という記述も水が澄んでいるから、外から水の流れ込む平地の沼とは思えない。

 そこで一つ思いついたのが会津の五色沼。山の中だが火山地形で広い野辺もある。人里は遠いが、猪苗代湖の方に出れば猪苗代城もあり町もある。景色もまた仙郷と呼ぶにふさわしい。

 そう思って調べてみたが、このあたりの湖は一八八八年の磐梯山大噴火による山体崩壊によってできた湖だった。ただ、一つだけそれ以前からある湖がある。それが雄国沼だ。

 ウィキペディアによれば、

 

 「雄国沼は猫魔ヶ岳や雄国山、古城が峰、厩岳山などを外輪山にもつ、猫魔火山のカルデラにある湖沼である。以前は陥没カルデラに水が溜まったカルデラ湖と考えられていた、しかし現在では古猫魔火山が50万年前に北東方向へ山体崩壊することで爆裂カルデラを生じ、その内部に後の火山活動で猫魔ヶ岳峰の山体が形成され、そこにできた凹地に水が溜まって雄国沼が生まれたと考えられている。

 湖面は標高1,090mの位置にあり、周囲の山々はブナが多く、また、初夏にはレンゲツツジ、6月末から7月初めには沼の南の湿原地帯でニッコウキスゲの大群落が咲き誇り、この時期は多くのハイカーやカメラマンが沼を訪れる。また、近年は冬に山スキーやスノーシューで訪れる人も増えている。かつては沼の面積は現在の半分程であったが、江戸時代初期に大塩平左衛門がおこなった灌漑工事により面積が拡大した。」

 

だという。ここだと山を越えなくてはならないが黒川(今の会津若松)に出ることもできただろう。黒川城は至徳元年(一三八四年)に築城されたというから、この頃には既にあった。

 湖への道は「汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍」と獣道よりも心細いあるかないかの道で、そこで一人の老人に出会う。[髟酋]はフォントが見つからなかったが上が髟で下が酋で「しう」と読む。鬚(しゅ:あごひげ)のことか。鬢(耳の横の髪の毛)と頬から顎にかけての髭が真っ白で、多分頭頂部は禿げあがっているのかもしれないが、中世の人だから烏帽子を被っているはずだ。今で言えばサンタクロースのような風貌か。藤衣を着ている。

 その老人に、「この先は行き止まりじゃがどこへ行くのかのう。わしゃあもう長いこと木こりをやってるものでのう。ついてきなさい。今から人里へ行こうにも日が暮れるからのう。ほっほっほっ。」という感じで話しかけられ、ついていったのだろう。

 「白地」は道も区切りも何もない土地という意味だろう。板で作った掘立小屋にその老人は仲間と一緒に住んでいた。昔はこの辺りも人の往来があったのかと聞くと、そうではなく「心ざし」があってここに住んだと言う。何らかの事情で隠棲したのだろう。梵灯もここに庵を結び、時々里へ托鉢に出て一夏を過ごすことになる。

 会津といえばこの四十年くらい後に猪苗代湖東岸の小平潟天満宮付近で、あの猪苗代兼載が誕生することになる。兼載は六歳の時に会津黒川の真言宗自在院に引き取られて僧になる。

 その頃の会津黒川ではすでに連歌が盛んで、そんな環境の中で兼載は育つのだが、その種を蒔いたのは梵灯だったのかもしれない。

 さて、その仙人のような老人も秋の霜に、多分風邪をこじらせて肺炎にでもなったのだろう。あっという間に朝の露になってしまった。その夕方には火葬にして、煙となって天に昇っていった。そして長月二十日頃、梵灯も庵を出てゆくことになる。「吟出ぬ」というのは吟行に出ることで、どこへ行くともなく去ってゆくことを遠回しに言ったものであろう。それからもしばらくは一か所に留まることもなく、「ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」という生活を続けた。ここでこの紀行文は終わる。