日本語と押韻


 「無冠の帝王」なんてのは本来孔子に冠せられた言葉で格好良すぎるが、残念ながらゆきゆき亭こやんは一度賞というものを貰っている。
 二〇〇一年の第三十五回詩人会議新人賞評論部門で『日本語と押韻(ライミング)』が受賞している。
 詩人会議がどういう団体か全く知らずに、ただ「公募ガイド」見て適当に応募したら、なぜか受賞してしまったというものだ。
 まあ、思想的に多少は問題あるものの、これも一つの縁と一年くらい詩人会議と付き合うことになったが、このあとすぐにあの9-11同時多発テロ事件があり、詩人会議の方も反米路線を強化することとなり、まあ結局は思想的問題で追い出されるような形でやめてゆくことになった。
 まあ、それでもいろいろな人に逢えたし、楽しい一年ではあった。本書はその頃書いた文章を集めたもので、今思えば人生の中でほんのわずかだが、文壇とやらの表舞台に立った時期でもあったwww。


 『日本語と押韻(ライミング)』はその受賞作で、『子規のライム』『J-popの作詞と俳諧の手法』とともに『詩人会議』に既出。それ以外は、この頃書いてはみたものの日の目を見なかった。

   ○日本語と押韻(ライミング)
   ○子規のライム
   ○九鬼周造のライム
   ○J-popの作詞と俳諧の手法
   ○田村隆一、錯乱の旋律
   ○田村隆一の『芭蕉・夢七句』
   ○芭蕉「閑さや」の句
   ○俳諧と百姓一揆


日本語と押韻(ライミング)


   酔っ払いのライマーただ今ここに参上
   言葉のケツ追っかける難病
   先天性ライミング症候群が病名
   検査結果は陽性
 Taiki & Mummy D, zeebra『末期症状』



 ライミング(押韻)は西洋の詩では普通に行われていることだし、日本のすぐそばの中国でも古代より延々と続いていた一つの伝統だった。日本はその中国から夥しい数の文化を吸収したにしても、日本語の詩歌の伝統のなかでライミングということはまったくといっていいくらい行われることはなかった。日本が明治の近代化の際、これまた夥しい数の西洋文化の流入のなかで西洋の詩を学び、近代詩を確立したにもかかわらず、ライミングはせいぜい一部の実験的な試みに終り、ついに定着することはなかった。つい何年か前までは日本語はライミングに向かない言語だということを、ほとんどの人が疑うことがなかったのではなかったか。ところが、ここ五年くらいの間にライミングは若者の間で一つの文化現象となった。それは活字メディアを中心としたいわゆる「近代文学」とはまったく無縁の所から起きてきたものだった。アメリカのニューヨーク・ブロンクスで生まれたB-boyカルチャーから生まれたラップという音楽の影響によるものだった。
 ニューヨークの貧しい黒人の間で生まれたこのB-boy(ブロンクス・ボーイの略)のカルチャーは大きく言って三つあり、一つはブレイクダンス、もう一つはグラフィックアート(落書き芸術)、そしてもう一つがヒップホップだ。ヒップホップは、レコードを回して同じ箇所を繰り返したり他のレコードと組み合わせることで音楽を作り出すDJ(ディスク・ジョッキー)と、その音楽に乗せてメッセージをリズムカルに語るMC(メッセージ・コメンター)から成り立つ。そのMCの繰り出す言葉の抑揚やリズムをそのまま生かした、決まったメロディーを持たない独特な歌が、いわゆるラップだ。それに歌や楽器が加わることもあれば、バンドで演奏されることもある。
 このラップを日本の若い世代が取り入れ、日本語で試み、自分たちの文化に取り入れてゆく中で、日本語のライミングという問題が生じた。最初の頃は日本語は韻を踏みにくい言語だという固定観念を持つものも多く(たとえば八十年代の近田春夫がそうだった)、ライミングといっても駄洒落的な語呂合わせや同じような助詞の語尾を並べてライムっぽく見せているものも多かった。しかし、今やいわゆるラップに限らず、J-popやロックにもライミングの波は及んでいて、日本の流行歌にあってライミングは着実に根を降ろそうとしている。
 この波が果たして、いわゆる伝統的な俳句や短歌や近代詩にも及ぶのか、それはまだ何ともいえない。しかし、日本人がきわめて短期間のうちにライミングをしない民族からライミングを好む民族に変ったとすれば、むしろそこからライミングというのが一体何なのかを問うのにちょうどいい機会なのではないか。ライミングの起源とまではいかなくても、ライミングがどのように受け入れられ、発展して行くのかを見るにはちょうどいいサンプルを提供するであろう。


 一般に西洋ではポップスはもとより、ハードロックでもパンクロックでも、たいていの場合歌詞はライミングがなされている。日本の七五調以上にライミングしないものは詩ではないという感覚が根付いているのだろう。だから、ラップという新しい音楽が流行したときも、ライミングは当然のことであったし、別に珍しいことではなかった。しかし、日本人が西洋のポップスやロックなどの文化を受容したときにも、ライミングまでまねしようという発想はほとんど起こらなかった。それは八十年代に日本に最初にヒップホップという新しい音楽が入ってきたときも、最初はそうだった。日本語ラップの創製期において、ラップはまだ言葉の響きとか美しさとかいうことと関係なく、ただ早口でまくしたてるものくらいに考えられていた。まだ、その背後にあるB-boyカルチャーにも関心が払われず、初期のラップはむしろロックミュージシャンの余興か、歌謡曲でも際もので、あるいはほとんど商品名を連呼するだけのコマーシャルなどでお茶の間に入っていったものだった。爆風スランプの『ああ、武道館』やしぶがき隊の『寿司食いねえ』あたりがそれだ。この頃が一応、第一次のラップブームといえよう。そうした中で、最初にブレイクダンスやグラフィックアートとともに、ヒップホップにも関心を持つ先鋭的なミュージシャンたちがいた。近田春夫、いとうせいこう、高木完などがそれだった。しかし、近田春夫は日本語のラップにはライミングは不要と考えていたようだし、いとうせいこうのライミングもこんなもんだった。


 元気に現金 一獲千金
 パンクもバンクでBANG-A-GONG-MONEY
 ナマは言えねえ 現なま ハラホレ
 昭和げんロック やどロック ロック
    いとうせいこう&タイニー・パンクス『マネー』(1986)


今から見ればどうしようもないオヤジギャグで、駄洒落とライミングの区別もついてないような状態だった。
 八十年代に日本にラップが入って来たとき、ラップは詩や歌の歌詞とは違い、ネタに頼るという傾向を持っていた。つまり心に思ったことをそのまま言い表してゆくというよりは、最初にテーマを決めて、そのテーマを盛り上げるために面白おかしい言葉を選んで、一種のコントを作るような方法で作られることが多く、こうしたネタもの的手法はさすがに今日では主流ではなくなったが、それでもしばしば行われている。
 また、言葉の調子を合わせるという点では、自然と伝統的な七五調に近づく傾向もあった。たとえば電気グルーブ(テクノハウス系で、いわゆるヒップホップとは異なるが)の初期のラップはこんな調子だった。


 今が旬のまがいもの
 それがパンクアート、ラップ、テクノハウス
 辞書を引いても載ってねえ
 ページ開いても載ってねえ
 ヘビメタよりも音でけえ
 だけど、パンクスよりも気がちっちぇえ
 バンドみたいでバンドじゃねえよ
 それは何かと尋ねたら
    電気グルーブ『マイアミ天国』(1989)


 厳密ではないが、大まかに七五調のフレーズが続いているのがわかるだろう。一見ライミングしているように見えるが、形容詞の語尾[ai]の口語的発音[e:]がたまたま重なっているだけで、詩全体に規則的なライミングがなされているわけではない。
 スチャダラパーの初期のラップも七五調という点では大差あるものではなく、しかも典型的なネタものだが、ここでは語尾の一音節だけがライミングされている。


 今日は土曜日だ大集合
 ファミコン戦士が皆集う
 素人玄人そろうとも
 まさしくその場は即戦場
 おのおの自慢の技披露
 あいつに負けじと皆競う
 憎いぜずるいぜあん畜生
 知らず知らずに真剣勝負
 負けたら悔しさが付きまとう
 負けるくらいなら死にたいよ
 かたわらに置いた遺言状
 負けてたまるかど根性
    スチャダラパー『ゲームボーイズ』(1991)


 長母音のオーと短母音のオとが混じっているが、耳で聞く分にはそう違和感はない。
 しかし、七五調ラップの時代はそう長く続かなかった。七五調の詩はたしかに四拍子のリズムには乗せやすい。しかし、この乗せやすさはメロディーのある歌ならともかく、ラップにしてしまうとどうしても単調で変化の乏しいものになってしまう。それが本場のアメリカのラップに比べてもいかにもカッコ悪い。そのため、七五調ラップは程なくダサいラップの代名詞となった。
 八拍均等にリズムを刻む中で七音節や五音節の詩がいかにリズムに乗りやすいかは、これまでもしばしば指摘されてきたことだった。日本の七五調だけでなく、漢詩が五言と七言を主流とすることも、韓国の時調が七七調を基調としていることもそれで説明がつく。しかし一方で、一文字字余りにすることで二拍の所に三音節乗せることになり、三連符を刻むことでリズムに変化がつけられることを、我々は古くから感覚的に知っていた。実際、和歌の五七五七七も厳密なものではなく、字余りの短歌がかなりの頻度で作られている。


 秋の田の刈穂のいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ       天智天皇
 唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞおもふ    在原業平


実際に声に出して読んでみると、よく注意すればわかることだが、「苫をあらみ」「つましあれば」「旅を」の所で無意識のうちに三連符を刻んでいる。俳句にもこの三連符の効果を持つものは少なくない。たとえば


 芭蕉野分してたらいに雨を聞く夜哉 芭蕉
 櫓の声波を打って腸凍る夜や泪   芭蕉


のような破調の句は、「芭蕉野分」「波を打って」の所が三連符になることで独特の緊張感を引き出している。日本のラッパーもまたリズムが単調に8ビートを刻むのではなく、しばしばそこに変化を与える三連符の効果に十分気づいていた。(それをフロウと彼らは呼んでいる。)そのことが次第に定型を踏みはずし、変化に富んだ字数のラップを生み出していった。
 九十年代の前半までの日本のヒップポップシーンはむしろ生みの苦しみとでもいうべき多様な実験がなされた時期であった。ECDは押韻というよりは類似する言葉を並べてゆく、先のいとうせいこう的な語呂合わせをより洗練したものにし、後のラッパーに影響を与えていった。それは


 ECDいっそ乾電池
 ECDいっそ感電死
 173センチ
 レンチで調子直せれば便利
 千里の道も全然全然びくともしないで
 あー行くとも行くとも
    ECD『いっそ感電死』(1995)


というような調子だ。
 ライミングを定着させるには、ライミングと駄洒落を区別するということも重要だった。本来ライミングの効果というのはあくまで音楽的なものであって、意味に関してはほとんど影響を与えない。しかし、似たような言葉を二つ並べたとき、相反する二つの効果を生じることがある。一つは掛け言葉や造語のような意味の融合で、もう一つは相反する意味のものがお互いに打ち消し合って無意味(ナンセンス)を生じるという効果だ。こうした効果は紙一重の所がある。前者は詩にとって重要な要素となるが、後者がいわゆる駄洒落となる。
 もちろん、別に駄洒落そのものが悪いというわけではない。ユーモアは時と場合によっては文学にも必要となる。駄洒落はいわばメッセージが持ちうる意味を無効にする。たとえば「隣の家に囲いができたってね」「へい」という古典的なギャグは、隣に囲いができたということがひょっとしたら何か重要な意味を持つのかもしれないと思わせておいて、それを無効にすることでメッセージの生み出す緊張感をそぐ働きがある。「あなたは癌です」「ガーン!」というのもそういう類だ。会話の緊張感を消し去り、無意味にするという点では無意味な間投詞もしばしば同様な効果を上げる。「ガチョーン」「アジャパー」の類だ。こうした言葉は緊張緩和が要求されている場面では喜ばれるが、逆に緊張を要求される場面で発せられると、怒られたり、人格を疑われたりする。
 先のいとうせいこうのラップは駄洒落に陥っていたし、無意味な「ハラホレ」なんて言葉も入っていた。しかし、ECDの場合、意味を破壊しナンセンスを生み出して笑いを取るということはほとんど見られない。その点ではより本来のライミングに近づいている。
 さらに同時期、Tokyo NO.1 soul setはむしろライミングよりも、メッセージの意味を重視させ、むしろ近代詩的な発想に近づいている。


 僕らはそもそも昼に生きるのか
 そうでなければ何故、昼は
 太陽の光りで注意を引き
 たちまち僕らの目を眩ませて
 輝きたいと思わせるのか
 より高く、もっとより高く
 空想よりももっと高くと
 たえず光源へとおびき寄せる
 なら飛び立とう、そして到達しよう
 足場が不安定なのに気づかずに
 翼のバランス考慮して
 飛翔は合理的に計算され
 おかしい所は無いはずなのに
 妙に自信だけ持っているのに
 昇天への欲望はどうして
 狂気のように見えるのか
    『黄95~太陽の季節』Tokyo No.1 Soul Set(1995)


 駄洒落ラップやネタもの的な笑いを取る方向を拒否した点では、これもラップがより詩として洗練されてゆく一つの方法ではあった。ただ、ライミング文化の受容という点では完全に後退してしまっている。かせきさいだあもそれに近い方向を持っていたが、しかしこの方向は結局日本のヒップホップの主流にはならなかった。実際、商業的に成功したのはECDの路線でもTokyo No.1 Soul Setの路線でもなかった。むしろライムやリリックを両方とも切り捨てて、日常会話に近づけてゆく(おそらくは深夜放送のトークを理想とする)方向に向い、しかも相変わらずネタもののギャグで勝負し続けたスチャダラパーやEast end & Yuriだった。詩というよりは、むしろ散文ラップに向かうものだった。
 九十年代前半において、まだ世間のヒップホップカルチャーについての認識は皆無に等しく、売れるためにはいわゆる「際もの」だとか「色物」だとかいわれる路線を取らざるを得なかった。世間で十分受け入れられていない音楽をやっている音楽家にとって、ギャグで客を集めるということは、別に珍しいことではない。クレージーキャッツはジャズバンドだったし、ドリフターズもエレキバンドだった。ヒップホップが売れなかった時代に、ギャグ路線を取った色物的なものであれ、ヒット曲を出し、世間にヒップホップの存在を知らしめたことは決して意味のないことではない。一九九四年はEast end & Yuriの『DA.YO.NE.』や小沢健二featuringスチャダラパーの『今夜はブギーバック』のヒットなどで、第二次ラップブームの時期をむかえ、East end & Yuriはヒップホップ界で初の紅白歌合戦出場歌手となった。
 しかし、本格的なライミングへの道は、この頃のマイナーシーンの新しい世代の間で動き始めていた。それまでのお笑いラップや語呂合わせラップに飽き足らず、あくまでカッコいいラップを追及し、一躍脚光を浴びたのが、Zeebra率いるキングギドラだった。Zeebraのラップの大きな特徴はフリースタイルと呼ばれる即興的なライミングと計算されたフロウ、そしてギャグやおちゃらけを交えないという点だった。
 本来アメリカのB-boyカルチャーではスポーツ感覚で互いに競うということに重点が置かれていた。ダンスバトル、DJバトル、そしてラッパーもまたMCバトルを行っていた。ZeebraはこのMCバトルの感覚を取り入れ、いかに巧みに韻を踏んだ言葉を即興で吐き出せるかを互いに競うという仕方を持ち込むことで、ライミングを急速に発達させた。それまではせいぜい末尾の一音節か二音節くらいで韻を踏んでいたのに対し、ライムを競うようになってから三音節、四音節と韻字の数を急速に増やしていった。
 そのzeebraひきいるユニット、キングギドラの記念碑的なラップは次のようなものだった。


 Zeebraの脳味噌フリースタイルモード
 きまっちまったあとはいつもこのコード
 シークレットコードまるで暗号のように
 乱雑に羅列される単語
    キングギドラ『空からの力』(1996)


 誰かの夢また行方不明
 悲観的思考で現実見つめ
 あとでつけた言い訳の説明
 見失ったが最後絶体絶命
    キングギドラ『行方不明』(1996)


 これがほぼ、その後のラップのスタイルとして、大きな影響を与えていくこととなった。
 詩で勝負ごとというと、奇妙に思うかもしれないが、日本でも古代より歌合というのが行われていたし、中世の連歌も集まった連衆がその場で誰が最も巧みに句を付けるかを一句ごとに競うというものだった。さらにでき上がった連歌の中で佳句の上に点を打ってゆき、誰が一番多くの点を取ったかを競った。こうした遊戯は江戸時代の俳諧にも受け継がれ、いわゆる「点取り俳諧」を生み出した。今日の近代俳句もよくよく考えて見れば、投句されてきた俳句を選者が審査し、入選句数や入選順位を競うものだ。
 即興でライムをするということ自体、日本人にはそれまでほとんど経験のないことだった。しかし考えてみれば、即興で五七五の句を作り、それを競うということであれば、実は日本人は果てしなく長い時間それを経験してきた。特に俳人や歌人を志すものなら、日常目に映るものを即興で俳句や短歌の形式にするという訓練を誰しもやっているのではないのか。それこそ「今まさに電車のドアが閉まろうとすれども我はまだ階段に」みたいな練習をひそかにやってなかっただろうか。交通標語だって五七五だし、我々は日常的にこうした決まった文字数に言葉を収める訓練をしてきた。だからこそ、七五調は日本人の血となり、肉になってきた。ラップにフリースタイルを取り入れるということは、単に即興のライミングに挑戦するというだけでなく、MCバトルで勝とうと思えば日常的にライミングの練習を行うことになる。また、互いに相手のライミングを聞くことによって、お互いの経験を学び合うこともできる。そして、競うようにたくさんの作品が作られてゆけば、次の世代はそれを聞くことで自然にライミングの感覚に慣れることもできる。これまで日本人がライミングを苦手としてきたのは、そうした過程を我々はまったく経験してこなかったし、する機会もなかったからではなかったか。
 一九九九年、Dragon Ashの『Let's yourself go, let's myself go』のヒットによって始まった第三次ラップブームは、Zeebraの影響を受けた降谷健志によって作られたものだった。Dragon Ashは本来ロックバンドとしてスタートしたバンドで、それにヒップホップの要素を取り入れた、いわゆるバンド系ラップだった。しかし、『Let's yourself go, let's myself go』やzeebra、ACOをフューチャーした『Greatful days』のヒットによって、それまでマイナーだったラッパーたちが一躍メジャーになった。しかも、それまでのブームのようないわゆる色物としてではない。際ものではない、おちゃらけではない、若者のカッコいい新しい音楽としてヒップホップがついにメジャーなものになった。これとともにライミングに対しても駄洒落や語呂合わせとは違ったカッコいいものとして若者の間で認識されるようになってきた。そうなると、ロックやJ-popの歌詞にも人は競ってライミングを取り入れるようになる。ライミングが日本人の心に定着するにはそういう過程が必要だったのではなかったか。次に掲げるのは二十世紀末の日本人のライミングの一つの到達点である。


 草木は緑
 花は咲き誇り色とりどり
 四季はまた巡り小春日和
 用もないのにただ並木通り
 思う今一人
 ハーフタイムなんてなしに過ぎる日常
 俺もなんとかここで一応
 やりくりしてるわけで
 時にはなりふり構わず生きよう
    Dragon Ash『静かな日々の階段を』(2000)


 ライミングの必然性というのは、それが耳で直接聞いた時の響やリズムといったものと切り離せないもので、だからラップのような早口で読み上げる形式のものでは最も早くその必然性が自覚された。さらに音楽の詞をきれいに響かせるという点で、ライミングがすぐにJ-popに影響を与えたのも理解できる。それなら、何で今まで日本ではライミングというものが発達することがなかったのだろうか。
 日本語のライミングが難しいとされた理由の一つには、日本語の一つの単語の音節数が多いため、間伸びするからだというのがあった。しかし、それならスペイン語やラテン語も同様の欠点を持っていたはずだ。また、日本語は助詞や助動詞で終ることが多く、同じ助詞で終らせると単調になるというのも理由とされてきた。しかし、詩では体言止めも多用されてきた。むしろ古くから日本語にライムが重視されなかった最大の原因は音楽の形式、つまり吟詠という一音節を極端に長く引き伸ばして朗々と歌い上げる習慣にあったと思われる。つまり、句の語尾と次の句の語尾が来るまでの時間が長すぎれば、ライミングの効果はそれだけで目立たなくなる。ライミングの持つ効果を十分発揮させるには、前の句の語尾がまだ記憶に残っているうちに次の語尾が来なくてはならない。しかし、日本の吟詠だと次の語尾が来たときには既に前の句の語尾を忘れてしまうくらい時間が経過してしまう。これだと脚韻はほとんど音楽的効果を上げることができない。ライミングが効果を上げるには早いテンポで句が繰り出される必要がある。その意味で、吟詠とラップは両極にあるものだ。
 それに加えて長く引き伸ばす吟詠は必然的に言葉を短く切り詰める必要を生じる。そのため発達したのが、二つの類似する韻を持つ単語を末尾に並べるのではなく、一語にまとめて掛け言葉にするという技法だった。たとえば、


 世にふるもさらに時雨の宿り哉  宗祇


という句の「ふる」は「雨が降る」と「世に経る(年老う)」という二つの言葉を掛けて用いられている。これをライミングの技法で作りかえるなら、こんな感じになるだろう。


 時雨世に降る
 雨宿りする
 我よわい経る


 「ふる」という言葉を二回重複して用いる分、句は長くなる。そして長くなった分、早い調子で歌い上げることで時間としては釣り合う。
 漢詩であれば一音節の単語が多いため、ゆっくりと吟じても語尾と語尾との時間の経過は少ない。しかし、日本語の吟詠の場合、一つの単語が長い分、韻を踏んでもその間の時間の経過が長すぎてしまう。それが最大のネックだったことは、中世の和歌や連歌に五韻連声のような尻の音と次の頭の音とを合わせる独特なライミング法があった所からも想像できる。五韻連声はたとえば『水無瀬三吟』の最初の部分で次のように用いられている。


 雪ながら山もと霞む夕べ哉
    行く水遠く梅にほふ里
 川風にひとむら柳春見へて


 しかし、吟詠の伝統は明治期に急速に衰退し、代りにそれまでの日本にはなかったようなテンポの早い西洋の歌曲が入って来たとき、なぜライミングは定着しなかったのだろうか。それはおそらく、近代詩が俳句や短歌同様、出版メディアを中心に発展したことに原因があるのではないかと思われる。いわば近代の日本の詩人は自分の詩をライブの場で直接聴衆に向かって朗読して、耳で聞かせるということをほとんど行ってこなかった。それゆえ、文字表記や活字の配列には単に気を配るだけでなく、様々な技法を実験してきたにもかかわらず、音声上の技法にはほとんど注意がはらわれてこなかった。それに加え、和歌の伝統技法から脱却することを詩の近代化として捉える意識が強かったため、言葉遊びや技巧があるのは文学の本質からはずれる、という一つのイデオロギーを生じていた。詩が書物で読まれるものである限り、近代詩は次第に散文化し、読み物として発達する傾向を持っていた。
 さらに、一部日本語でのライミングを試みた人たちも、たいていは一音節だけで韻を踏もうとしていた。ここに一つの落し穴があったように思う。たとえば英語でpray(祈る)に対しgray(灰色)と韻を踏んだ場合、一音節のライミングでありながら、意味を持った二つの単語が微妙に結びつき、「灰色の祈り」といった意味の加算が生じる。しかし、日本語で「祈り」「灰」という韻を踏んでも音素レベルでの一致にすぎない。たとえばこれを「祈り」「血糊」と韻を踏むなら、そこに血塗られた祈りというニュアンスを生じさせることができるかもしれない。ところが、押韻を試みてもたいていの場合、英語や漢詩にならって韻を踏もうとする。そして、一音節だけやってみてあまり効果がないからやめよう、というふうになりがちだったのではないか。私は日本語のライミングが十分な効果を上げるには最低三音節(長母音、二重母音は二音節に数えて)は必要だと思っている。これがいわば日本語ライムの臨界だ。三音節ライムを越えたあたりから、ヒップホップシーンでも急速にライミングが見直され、広がってゆくようになった。
 今日のラップを聞くにつけ、私は「日本語だってやればできるじゃないか」と思っている。しかし、それはラップであって詩ではないという人もいるかもしれない。実は、私はラップ、作詞、近代詩、短歌、俳句なんていう境界線がなくなり、詩が一つになればいいなと思っている。明治の近代詩の揺籃期にあって、正岡子規はまだ、俳句、短歌、漢詩、近代詩を平行して制作し、詩は一つだという感覚を持っていた。しかし、その弟子たちは各々俳句、短歌の結社を作り、互いに門戸を閉ざし、そのまま今日に至っている。その子規はまた、ライミングの先駆者でもあった。子規は明治三十年にこう言っている。
 「われは調子の上より新体詩に韻を踏まざるべからずとは言はず、されど今の散文的新体詩を韻文的ならしむる一方便として韻を踏むことを勧むる者なり。韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん、支離滅裂ともならん。佶屈聱牙も支離滅裂も刺激剤として必要なりと信ず。」
 今、その刺激剤の役割を果たしているのが、俳人でも歌人でも詩人でもなく、ラッパーなのである。


子規のライム

 正岡子規というと俳句や短歌は有名だが、たくさんの新体詩の作品が残されていることについては、あまり知られていない。というのも、これまでの正岡子規研究の大半は俳人か歌人の手によるものだったからだ。彼らにとって正岡子規を読むということは、自分たちの作っている俳句・短歌の基礎の確認であるとともに、自分たちがこの偉大な先人の真の後継者であることを主張し、権威づける手段であることははっきりしていた。だから、子規に対し若干の批判はあるものの、おおむね子規が芭蕉から近代俳句へ、万葉から近代短歌への伝統の正当な橋渡し役であることを疑うものはなかったといっても言い過ぎではないだろう。しかし、子規の作った新体詩作品が一つや二つではない以上、我々は子規論を俳人や歌人の独占物にしておくわけにはいくまい。ここでは子規の詩の大きな特徴であるライミング(押韻)を手がかりに、正岡子規の隠された一面に触れてみたいと思う。
 子規の新体詩研究のこれまでの困難は、おそらくライミングという西洋や中国では普通に行われていながら、日本ではなじみの薄かったこの技法のせいもあっただろう。しかし、子規にとって新体詩を漢詩や西洋詩のようにライミングするというアイデアは決して唐突に現われたものではない。まだ俳句や短歌の革新を手がける前の明治二十二年の『詩歌の起源と変遷』で既にほのめかされていることだった。実際に子規がライミングを試みるのは明治三十年のことだから、最低でも八年越しのアイデアだった。しかし、私はこのアイデアはもっと古かったのではないかと想像する。というのも、子規は幼少期から漢詩に親しみ、生涯に渡り夥しい数の漢詩を残している子規のことである。明治十五年刊の『新體詩抄』(外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎撰)の中に谷田部良吉の『春夏秋冬』という、ライミングをした日本語の詩を見つけた時、既にこのアイデアが生じていたことは十分に考えられる。
 この日本語でライミングするというアイデアは、新体詩の揺籃期には盛んに議論されたものの、既に長いこと近代文学史の中では忘れられた状態にある。しかし、幸いなことに今はラッパーたちの類稀な努力によって、日本語のライミングはそんなに珍しいことではなくなった。つまり、今日であれば比較研究によって子規のライミングの特徴を描き出すことが可能となったのだ。試みに、ここに今日のライムと子規のライムを並べてみよう。


 消えていく夢の数
 煮え切らない気持ちに爪を噛む
 胸を刺す痛みをくたびれたこのノートに書き留め
 今日より明日へ
 折れた鉛筆の針
 変らぬ現実のシーン
 降り出した雨にじんでいく文字
 何も語らない死んでいるように
 プラスとマイナス
 また行ったり来たりする二つの解釈
 最悪の結末をかたくなに
 拒み続けまた歌い
 もがき続け甘くない水じゃ潤せぬ喉
 忘れたくつろげること
 また無情に過ぎる二十四時間
 未だ見えないあのユートピア

 二十四時間この宇宙の下
 がむしゃらな思いをシュートした
 未だ見えないあのユートピア
    (Kick The Can Crew『ユートピア』より)


 指かゞなへて 十あまり
 思へば夢の 昔なり
 我まだ若き 花の顔
 春に酔ひたる 心、猶
 道の柳も 手折らまく
 籬の桃も かざすべく
 手の觸れ足の 踏むところ
 いづれ情の 浮くそゞろ
    (『おもかげ』子規全集 第八巻より)


 Kick The Can CrewはKreva, MCU, Littleの三人からなるユニットで、ここではそのKrevaによる部分を抜粋した。KrevaはB-Boy ParkのMCバトルで二年連続優勝を果たした、まさに実力ナンバーワンのラッパーだ。
 ライミングする音節数は子規のほうが遥かに少ないが、最後の「の踏むところ/の浮くそゞろ」あたりは今日のラップと比べても遜色がない。しかし、よく見ると子規のライムは最後の一字だけを取ってみると「り」と「り」、「く」と「く」というように単なる母音の一致ではなく子音までもが一致してるのに気付くだろう。これに対し、Kick The Can Crewの方は「いく文字」「いるように」のように長母音と短母音が同じ韻として扱われたり、「二十四時間」「宇宙の下」のように、最後の「ん」の音が無視されたりしている。これは子規のライミングがあくまで漢詩の「韻字」の発想によるものなのに対し、Kick The Can Crewの方は耳で聞いた感じを重視しているからだ。
 子規は明治三十年の『新體詩押韻の事』(子規全集 第八巻)という論稿で、ライミングの仕方について三つの説を挙げている。
 「日本の語は総て母音を以て終る者なれば支那、英國などゝ稍異なり。故に其量に付きても三説あり。 第一、最後の母音のみを韻とする者(あ、か、さ、た、な等皆同韻なり。此説に従へば僅に六種に止まる。即アイウエオンなり。)
 第二、最後の一字だけを韻とする者(「い」と「い」、「か」と「か」、「ぶ」と「ぶ」、「ん」と「ん」、「きヨ」と「きヨ」の如し。此説に従へば韻の種類八九十ある筈なれど実際に用ゐ得べきは四五十に上らざるべし。)
 第三、最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者(「きん」と「りん」、「つく」と「すく」、「よる」と「のる」の如し。此説に従へば韻の種類は非常に増加す。)」
 第一のタイプのものは明治二十二年に出版された訳詩集『於母影』にも見られるし、明治二十四年の中西梅花編『新體梅花詩集』にも見られる。しかし、これらの韻の踏み方は必ずしも統一されたものではなく、そこには第二のタイプのものも混じっている。たとえば『於母影』の中の『笛の音』という詩は


 君をはじめて見てしとき
 そのうれしさやいかなりし
 むすぶおのひもとけそめて
 笛の聲とはなりにけり


という一のタイプの押韻で始まるが、途中では


 そのふく笛の音に添へて
 おのがおもひはつたへなむ
 そのふくこゑをたのみきて
 さきのうたをばうたひなむ


という二のタイプのフレーズが入る。第二のタイプの押韻は第一のタイプの押韻のたまたま子音まで一致したものと取ることもできる。第二のものだけに限定したライミングは子規の独創かもしれない。
 第三のものは『新體詩抄』の矢田部良吉の詩、『春夏秋冬』に習ったものだ。それは


 春は物事よろこばし
 吹く風とても暖かし
 庭の桜や桃のはな
 よに美しく見ゆるかな
 野辺の雲雀はいと高く
 雲井はるかに舞ひて鳴く


というものだった。
 三つの説を実際に子規の作品においてたどると、子規のライムはこの第二の型から始まる。子規の最初のライミングされた詩は明治三十年の一月二十日の『日本人』第三十五号に掲載された四編で、その中の一つがこれだ。


   老嫗某の墓に詣づ

 われ幼くて恩受けし
 姥のなごりの墓じるし、
 せめては水を手向けんと
 行くや、湯月の村の外。
 昔辿りし田の小道、
 寺を廻りて埋葬地、
 三年過ぐればこは如何に、
 墓満ち満ちぬ、尾に谷に。
 彼方に見ゆる岡高く
 薄の穂波さし招く、
 薄は吾を知るか、その
 吾も薄を見覚えの
 その墓に来て思ひきや、
 さて似もつかぬ戒名や。
 しりへを見れば又しりへ、
 薄の垣の一搆へ、
 そこぞと許り尋ね入る、
 そこにもあらぬ墓立てる、
 右も左も薄、墓、
 あの墓か、この穂薄か
 詮方盡きて彳みつ、
 無常の思ひ胸を打つ。
 鷺谷下る道半ば、
 心残りて見返れば
 数百の墳墓いづれそれ、
 いたゞき許り見え隠れ、
 湯の山颪吹き靡き、
 白髪を乱す花薄。
   (子規全集 第八巻)


 子規は『新體詩押韻の事』でこう言う。
 「韻の量に付きて種類あり。西洋にては最後の母音(其母音の後に子音来る時は其子音をも併せて)を繰り返すなり。go, show,又はchain, main,の如し。支那にては一字の音を全く繰り返し又は半ば繰り返す者なれば西洋の韻と同じ量か又は之より少し多きことあり。例へば「リン」「ギン」といふ韻は西洋と略同じく、「シウ」「シウ」といふ韻はSの子韻だけ西洋のより量多し。」 
 ここで子規はgo, showに第一の「最後の母音のみを韻とする者」を見て取り、そのあとのchain, mainを第三の「最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者」とするならば、子音で終り母音を持たないのを一字と数えてしまっていたことになるだろう。これを日本語に当てはめると、「あまり」「なり」、「顔」「猶」ということになる。ここで、英語のt,n,pのような文字と日本語の「り」や「お」とを同等に捉えている。これは明らかに「字」ということに惑わされた発想だ。単独で音節にならない英語の末尾の子音と、母音子音との両方が一致した日本語の一音節を、同じように「一字」として同じ分量の押韻としている。これは「ん」を独立した韻字として扱うところにも現われている。


 世を憤るそのために
 名士の末に生れけん、
 不平に駈られ、君終に
 都を出れば行路難。
    (『田中館甲子郎を悼む』より)


この「けん」と「難」とをライムとみなすのはこうした「韻字」という発想による。子規のライムは文字ライムだ。これに対し、今のライムは末尾の字の一致を必要としない、あくまでも母音の一致によるライムだ。だからこそ「二十四時間」と「ユートピア」がライムになる。文字的には「十(じゅう)」と「ユー」は一致しないが、発音上は一致するし、「時間(じかん)」と「ピア」は明らかに末尾の文字は異なるが、母音は一致している。
 韻の量の推定について、子規はもう一つ間違いを犯している。それは英語や中国語に一音節、二音節の単語が多いのに対し、日本語には一音節の単語は少なく、三音節以上の単語が少なからずあるということだ。このため、英語や中国語では一音節の母音の一致でも、単語レベルでの類似となる。たとえば、「暁」と「鳥」との韻の一致は、「あかつき」の「き」と「とり」の「り」との一致ではない。単語全体の韻が一致しているくらいの(たとえば「あかつき」と「かざむき」くらいの)類似性を持つ。そのため、漢詩のライムは一音節でも日本語の一音節以上の強烈な印象を与える。特に五言絶句などは五音節毎に韻が踏まれるために、本来はかなり強いライムを持っている。試みに李白の『秋浦の歌』をヒップホップ風に訳しておこう。


   秋浦歌           李白
 白髪三千丈 白髪頭が三千丈
 縁愁以個長 悩んでいたらまた延長
 不知明鏡裏 鏡は誰だか分からねぇ
 何處得秋霜 どこで得たのかその秋霜


 同じ明治三十年一月二十日の『日本人』に掲載された最初のライム作品『古白の墓に詣づ』では、同語反復による疑似ライムがあちこちに用いられている。


 何故汝は 世を捨てし。
   浮世は汝を 捨てざるに、
   我等は汝を 捨てざるに、
 汝は我をぞ見捨てにし。


の中二行は同語反復だし、一行目と四行目も同じ「し」という助動詞で韻を踏んでいる。


 億萬人を 容るるべき
   浮世は、古白 てふ汝が、
   大文学者 てふ汝が
 住むとはいかで 知り得べき。


も「べき」「てふ汝が」の反復による。こうした同語反復のライムは、その後の『俚歌に擬す』にも見られる。こうしたライムはもっとも初歩的なもので、全部がこの手のものだと、果たしてライムと呼べるかどうかということにもなりかねない。しかし、部分的にであれば、今日のラップでも用いられている。たとえばZeebraの『Mr. Dinamite』には「…奴ら、…奴ら」という「奴ら」の連続が見られる。しかし、これは曲の中のめりはりの一つであって、こればかりだったらライムとは言い難いだろう。しかし、おそらくライムの起源の一つには、こうした同語反復による対句やリフレインが関係しているのかもしれない。同語反復に近いものに、特定の語尾や感動詞を付け足す方法がある。漢詩でも『楚辞』など古いものでは「兮」の文字を語尾に補ってライムにしているものがある。日本の童謡『あんたがたどこさ』もこの種のライムに属する。ラップでも最近は用いられないが、初期の古いラップ、たとえばEast end &Yuriの『DA. YO. NE.』は「…でぇ」「…だしぃ」という語尾を用いたこのタイプのものに属する。私は韓国の音楽事情についてはよく知らないが、九十年代前半のソ・テジやデュースのラップもゴ(?)やヨ(?)といった語尾によるこの種のライムに留まっているようだ。
 ライミングするとき、同語反復は一番初歩的なものとして、同音意義語というのも思いつきやすい。たとえば、「…だろうか」に「廊下」という言葉は出て来やすいが、これだと駄洒落に陥る可能性も高い。次に思いつきやすいのは一字違いだ。たとえば、「祈り-血糊-道のり-日取り-気取り-緑」なんていうのはわりかし踏みやすい。しかし、「祈り」からいきなり「みそぎ」「煮干し」なんて言葉は出て来にくい。これはやはり、言葉を母音と子音に分解し、子音をランダムにすげ替えるという作業そのものが習熟を要するからだ。さらに、文法的な働きの違う言葉はより高度になる。たとえば「祈り」に対し「青い鳥」だとか「一人飲み」のような。その点ではKick The Can Crewの「最悪の結末をかたくなに/拒み続けまた歌い」というライムはかなり難易度が高い。こうした習熟は体で覚えるもので、理窟ではない。
 これに対し、子規が「お」と「お」、「り」と「り」のような同音節のライムにこだわったのは、子規のライミングが自ら作った韻字表と首っ引きのもので、身体的な習熟にまで至ってなかった証拠であろう。子規は新体詩で韻を踏もうとしたときに、すぐに「韻さぐり」という韻字表を作ったという。これをもって子規の並々ならぬ努力を評価する向きもあるが、問題はそれが正しい方向への努力だったかということだ。スポーツでも非科学的な無茶なトレーニングは体をこわすだけで良いことは何もない。韻字表を作るという発想もまた日本語の音声を感覚的に捉えるものではなく、むしろ機械的に文字を当てはめてゆく作業となる。これは日本の漢詩の特異なやり方だ。中国人にとって漢詩の韻は母国語のもので、表にしなくても感覚的に理解しているものだ。韓国人にとっても漢詩は韓国音で発音されるため、やはり母国語だ。そのため韓国では漢詩の文化が庶民の間にまで浸透し、金笠(キム・サッカ)のような国民的に広く親しまれている漢詩人がいる。
 たとえば、日本では孟浩然の『春暁』という詩を「シュンミンフカクギョウ/ショショブンテイチョウ」とは発音しない。しかし、こう読んだ方が韻を踏んでるということがはっきりわかる。しかし、これを「春眠暁を覚えず/處々啼鳥を聞く」というと、どこで韻を踏んでいるかはっきりしない。「覚えず」と「聞く」で韻を踏んでいるわけではない。書き下し文という日本の伝統的な漢詩読解法では韻を訳出することができない。にも関わらず、漢詩を創作するときには規則として韻を踏まなくてはならない。こうして長いこと日本人はライムの持つ本来の面白さを知らず、ただやかましい面倒くさい約束事として韻を踏んできた。面白さがわかったとしても、それは文字遊戯としての面白さに留まった。かつてはライムの先駆として横井也有の『鶉衣』の押韻俳諧が引き合いに出されることもあったが、それは


 木曽路に假の旅とて別しが
 武蔵野に長きうらみとは成ぬ留
 呼べばこたふ松の風
 消てもろし水の漚
 わすれめや 茶に語し月雪の夜
 おもはずよ 菊に悲しむ露霜の秋
 庵は鼠の巣にあれて 蝙蝠群れて遊
 垣は犬の道あけて 蟋蟀啼て愁
 昔の文なほ残 老の涙まず流


といったもので、漢詩の韻字を用いた文字遊戯であって、日本語でライミングしているわけではない。(どちらかというと途中の「にあれて蝙蝠」と「道あけて蟋蟀」の方がライムになっている。)
 おそらく、本来のライムの発展の道筋から言うと、同語反復の語尾や対句からやがて同音異義語を対句に用いることを発見し、それが母音のみを一致させるものへと進化してきたのだろう。そして、日本の場合同音異義語の発見が掛言葉へと発展することで、ライムへの道が未発達のままに留まったのだろう。
 子規は最初第二の「最後の一字だけを韻とする」ライムから始めるが、やがて慣れてくると、時折第三の「最後の一字と其前の字の母音とを韻とする」ライムが所々に混じるようになる。そして、それがさらに進むと冒頭で掲げた「の踏むところ/の浮くそゞろ」というような多音節ライムも登場するようになる。これはいくつもの詩を作っているうちに、本人も無意識のうちに脳の中にライミングするための回路が形成され始めていたのだろう。子規のこういう多音節ライムは偶然ではない。「浮くそぞろ」なんて言い方は不自然な倒置だし、あえてその不自然な句を用いるのは、ライムが面白いから以外に理由はないだろう。
 子規が提起した三つの説のうち、第一の「最後の母音のみを韻とする」方法は、あとの二つに比べ、散発的な実験に終った。『猩々』や『芒老ゆ』がそれに当る。ともに明治三十一年秋以降の作品だ。ここではその『芒老ゆ』を掲げておこう。


   芒老ゆ
 芒老いて菊はつぼむ
 萩を刈りて菊は開く
 白き薔薇に晴るゝ小雨
 葉鶏頭に散る夕栄
 蝶来らず居らざる蜘
 静かなるは秋行く園
 くさる落葉うるほふ土
 四十雀はひそかに在り
 病みて三年庭を踏まず
 窓にもたれ景を弄す
 雲は過ぐる上野の杉
 山気骨にしみて寒し
   (子規全集 第八巻)


 ここにおいてようやく子規は韻字的発想から逃れて来たのだろう。しかし、そのライムは一音節から二音節に留まった。子規の新体詩の創作は明治二十九年から三十年に集中的に作られ、ライミングは三十年に入ってからになる。そして、三十一年の一月を境に新体詩の創作は急に減り出す。これは三十一年の二月から『歌よみに与ふる書』の『日本新聞』への連載を始め、本格的な短歌革新に乗り出したからだ。このため、せっかく韻字の発想を離れ、母音による多音節ライムへの道が開かれかけたところで、結局子規の新体詩の仕事は終りを告げることになる。
 子規が『新体詩押韻の事』でライムの効用について挙げている箇所でも、その内容は漢詩での経験から来たものと思われる。
 「第一、狭き範囲に在れば却って自己の技量を現すに適すること
 第二、言語の範囲を限られるがために却って思想上の惑いを生ぜず早く作り得ること
 第三、限られたる韻語を探して韻語より思想を得るがために却って奇想警句を得ること」
 このうち第二については韻字表と首っ引きで作るときのやり方で、母国語で感覚的に作る場合はむしろ選ぶほどの言葉が思い浮かばず、かえってあれこれ言葉を探すことになり、なかなか早くは作れない。早く韻を踏める言葉を見つけ出し、詩句を作るには、かなりの習熟を要する。
 第一の「技量を現す」ということは、ともすると軽視されがちだが、案外近代の日本の詩人に欠けていたのはこの部分ではなかったか。いわば、「詩人」が世間からなかなか尊敬されず、プロとして自活しにくい理由は、誰でも無条件に「すごい」と言わせるような技術を持っていないという点ではなかったか。たとえば井原西鶴は一日にして二万三千五百句を作るという俳諧大矢数興行を行った。今日ではこれを愚の骨頂と見る向きもあるが、しかし、内容を全く知らなくても、一日にして二万三千五百句は無条件に「すごい」と言える数字だ。それと同様、目の前で即興で次から次へと韻を踏んだ詩を作ってみせれば、詩のことを何も知らない人でも「すごい」と言うのではないか。いわば、これまでの日本の詩人には一種の職人芸として人を唸らせるものがなかったのではなかったか。昔の歌人は雅語を使いこなすことと掛言葉や縁語などの古典技法に通じていることで、一つの技術職となることができたし、連歌師や俳諧師は即興で付け句を行うことで、やはり一つの技術職となることができた。しかし、近代では詩は「誰にでも作れるもの」になってしまった。この「誰にでも作れるもの」を作っても人からの尊敬を得ることは難しい。俳句の五七五でさえ小学生でも作れるから、技術と呼べるほどのものではない。しかし、多音節でライミングするというのは習熟が要求されるもので、詩人を技術職として確立する一つの手段になるのではないか。
 第三の「奇想警句を得る」という効用も実際は馬鹿にならない。というのも、天才的な言語感覚を持っているならともかく、普通の人は日常的な文脈からはずれる言い方を思いつくことはなかなかできない。良いにつけ悪いにつけ月並になる。これに対し、ライミングすることはしばしば日常的な言い回しを困難にする。「消えていく夢の数」と来れば、たいていの人は「数えあげれば切りがない」みたいな続き方を思いつくだろう。これだと韻を踏めない。「切りがなく」とすれば一応二音節ライムにはなるが、これでも韻としては弱い。これを「夢の数」と五音節とってひねり出せば、「爪を噛む」というフレーズも浮かぶ。そこでKick The Can Crewの「消えていく夢の数/煮え切らない気持ちに爪を噛む」というフレーズも浮かんでくることになる。奇想を得るというのは、韻を踏める言葉から内容を逆算して考えてゆくことによって生じる。たとえば「祈り」と「煮干し」は普通に考えれば到底結び着きそうにない。だが、これを「飢えた野良猫の祈り/腹を満たす一本の煮干し」とでもすれば、それっぽくなる。
 しかし、子規の『新体詩押韻の事』では音声の一致によって二つの単語が結び付けられるという効用には触れられていない。しかし、ライミングの一番の面白さは、とにかく似たような音の並ぶ面白さだ。母音の一致というだけで思いがけない言葉が飛び出してきて、互いに意味を深めあったり、時には駄洒落になったり、いろいろ変化が加わる。暁と鳥、この二つが並べば、暁という字に鳥の啼き声が、鳥という字に夜明けの清々しさが加わる。しかし、「春眠暁を覚えず/處々啼鳥を聞く」ではその面白さが伝わらない。
 英語や中国語は語尾に名詞の来ることが多いが、日本語だと用言か助詞で終ることが多い。子規の明治二十二年の『詩歌の起源及び変遷』でも指摘されているとおり、日本語のライムにはこうした文法的な困難があった。 「國詩の韻をふまぬは固より韻は詩に不必要なりとの意にはあらざるべく、只々文法上韻を用ふるを許さざるのみ。今試みに漢詩の韻脚を見るに、名詞動詞助字杯を自在に用ゐ、西洋の詩にては名詞動詞副詞形容詞前置詞等何れの言葉をも韻字に用ゐ得れども、日本語は一句の終りには必ず動詞助動詞の語尾か、又はテニハが来るべき組立なる上に、此語尾やテニハは実に其数少くして、到底之を用ゐては無数に変化せしむる能はざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』子規全集 第九巻)
 しかし、実際和歌や俳諧では体言止めということが頻繁に行われてきた。子規もやがてそのことに気付くことになる。子規は明治三十年の『新体詩押韻の事』ではこう言う。  「日本にて古来韻文の體を成す者にて句尾に名詞多きは俳句なり。只俳句は一首の長さ新體詩の一句位なれば長さの点より韻を踏む能はず。今新體詩に韻を踏まんとせば多少俳句の構造を学ばざるべからず。又俳句の構造を学ばんには新體詩に韻の踏めぬ事はあるまじと思はる。」
 体言止めには基本的に二パターンある。一つは倒置によるもので、もう一つは語尾の省略によるものだ。前者はたとえば、


 むざんやな兜の下のきりぎりす  芭蕉


は「兜の下のきりぎりすはむざんやな」の倒置、


 五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉


は「最上川は五月雨をあつめて早し」の倒置だ。
 これに対し、後者の例では、


 夏草や兵どもが夢のあと     芭蕉


のようなもので、これは「夏草に兵どもが夢のあと(を見るようだ)」の省略、


 ゆく春や鳥啼き魚の目は泪    芭蕉


は「ゆく春に鳥啼き魚の目は泪(するようだ)」の省略だ。発句(俳句)ではしばしば倒置と省略の両方を組み合わせて、複雑な言い回しをする。


 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉


は「閑さに蝉の声が岩にしみ入る(ようだ)」の倒置プラス省略、


 ゆきゆきて倒れ臥すとも萩の原  曾良


は「萩の原をゆきゆきて倒れ臥すとも(あとあらん)」の倒置プラス省略だ。
 先に掲げた子規の最初のライム、『老嫗某の墓に詣づ』でいうと、このうち体言止めが用いられているのは


 1、行くや、湯月の村の外。
 2、昔辿りし田の小道
 3、寺を廻りて埋葬地
 4、薄の垣の一搆へ
 5、右も左も薄、墓、
 6、白髪を乱す花薄。


という二十八行中の六行で二一・四パーセントに当る。このうち1と6は「湯月の村の外に行くや」「花薄が白髪を乱す(ようだ)」の倒置、2、3、4、5は「昔辿りし田の小道(を行き)」「寺を廻りて埋葬地(に出)」「薄の垣の一搆へ(あり)」「右も左も薄、墓(ばかりなり)」の省略だろう。最初に掲げたKick The Can Crewの『ユートピア』では二十箇所中十四箇所までが体言止めで、実に七十パーセントに及ぶ。なお、『新体詩抄』の矢田部良吉の『春夏秋冬』も二十四行中七行が体言止めで二九・二パーセントだから、日本語のライミングに体言止めがいかに欠かせないかがわかるだろう。
 子規の新体詩が十分な成果を収められなかったのは、子規だけの問題というよりは、当時の新体詩が抱えている一般的な問題ではなかったかと思われる。それは明治の新体詩が「我邦にも長歌だの、三十一文字だの、川柳だの、支那流の詩だのと様々の鳴方ありて、月を見ては鳴り、雪を見ては鳴り、花を見ては鳴り、別品を見ては鳴り、矢鱈に鳴りちらすとも十分に鳴り尽すこと能はず…略…蓋し其鳴方の漸く簡単なるを以て見れば、其内にある思想とても又極めて簡単なるものたるは疑なし。甚だ無礼なる申分かは知らねども、三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想は、線香姻火か流星位の思に過ぎざるべし。少しく連続したる思想内にありて鳴らんとするときは、固より斯く簡単なる鳴方に満足するものにあらず。」という『新体詩抄』の外山正一の序文にあるように、俳句や短歌では表現できないような複雑な思想を表現するために長編の詩を必要とするところから始まったところにある。ここでいう思想が何であるか、『新体詩抄』を読めばすぐにわかる。まず『ブルウムフヰールド氏兵士帰郷の詩』『カムプベル氏英国海軍の詩』『テニソン氏軽騎隊進撃ノ詩』と冒頭から軍歌が並ぶ。『ロングフェルロー氏人生の詩』(外山正一訳)も「此世の中は戦争ぞ/其戦争の中に居て/人に生まれた甲斐もなく/人に使はれ追はれつゝ/あゆむ羊や牛たるな/人に劣らず憤発し/功名手柄なすべきぞ」という調子のものだ。さらに矢田部良吉の『勤学の詩』、外山正一の『社会学の原理に題す』のような学問を勧める詩など、簡単に言えば明治の国体精神を学校教育を通じて国民に徹底させるというものだった。特に外山正一の『抜刀隊』の詩は、国木田独歩が『抒情詩』(明治三十年)の序で「何時の間にか山村の校舎にまで普及し、『われは官軍わが敵は』てふ没趣味の軍歌すら到る處の小学校生徒をして足並み揃へて高唱せしめき」というものだった。それは


 我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
 敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
 之に従ふ兵は 共に慓悍決死の士
 鬼神も恥ぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
 起しゝ者は昔より 栄し例あらざるぞ
 敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
 玉ちる剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし


といった詩だ。抜刀隊というのは西南戦争のときに薩摩に恨みを持つかつての会津藩士を中心に集めて、国が組織したと言われている。
 子規は『新体詩抄』の出た明治十五年頃、ちょうど自由民権運動に熱中していたが、これとて決して国体そのものを否定するのではなかった。子規の自由民権運動での演説の草案が、子規自身が主に学校に関係して書いた文章を綴じた『無花果艸紙』の中に残されている。そこには「自由とは何か」といったような根本的な問いは見られない。そこに並べられているのは、むしろ次のような言葉だ。
 「然レトモ余ノ察スル所ニ依レバ我國ノ自由敢テ欧米諸國ノ自由ニ及バザランコト必セリ 然レハ則チ欧米人ニ在テモ亦自由主義ノ未タ我國ニ拡張セザルヲ以テ必ス私カニ其心中ニ於テ我ヲ侮ルベシ…略…然レトモ今諸君ニ対シテ現今ノ日本国ハ未タ自由ノ真理ヲ知ラザルノ国ナリ 故ニ外邦ノ侮辱ヲ受クルコト甚シ」(子規全集 第九巻)
 何のことはない。自由主義でないと外国から馬鹿にされる。日本の名誉を重んじ、国家の威光を万国に知らしむるには、国家はまず自由の真理を国民に告げなくてはならない、といった内容だ。この論理なら、欧米諸国が武力をもってしてアジアを植民地化しているから、日本も同じように軍備を拡張し、朝鮮半島を侵略してゆかないと欧米諸国に馬鹿にされる、という論理に容易にすり変ることができる。もちろんこれは冗談で言っているのではない。子規の『明治二十九年の俳諧』(子規全集 第四巻)にはっきりこう書かれている。
 「日本が世界列国の間に押し出して日本帝国たるものを世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要となりしなり。」
 子規の詩はその意味で、一方では明治二十九年のまだライミングを試みる以前の『洪水』という詩のように、人間が欲に駆られ森林を伐採するのを神様たちが見て、怒って洪水を起し懲らしめるという、国の林業政策を風刺する詩も詠んでいるが、全体としては国体精神の普及を計るという『新体詩抄』の発想を出るものではない。押韻するしないに関わらず、子規の新体詩の抱えている根本的な問題は、こうした上から大衆を見下ろすような国体思想の説教臭さではなかったか。明治天皇の母を称える『皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみたてまつる』、ナポレオンの侵略戦争を豊臣秀吉に例え、英雄視する『奈翁假面の圖を見る』、船が沈むときに我が子を抱きしめていた母の愛を称える『子の愛』にしても、国家を家族の延長とみなす国体思想と無関係ではない。
 ライミングの問題は、結局子規の新体詩の失敗とともに忘れ去られていった。ライムが根づかなかったのは、それが民衆の側の素朴な地口や語呂合わせなどの言葉遊びの中から正常な形で洗練され発展してきたものではなく、あくまで上から与えられた「規則」という発想が抜け切れなかったためだろう。明治二十二年の子規であったなら、地口、語呂合わせ、洒落、あるいは掛言葉などの古典技巧とライムを連続的に考えることもできたかもしれない。しかし、子規は明治二十五年頃の俳句革新の際、俳諧の伝統技法を完全に封印してしまっていた。そこにライムだけがいきなり説かれても、一度詩の技巧を排除したところに何でライムだけ正当なのか、説明に窮するところだっただろう。
 そして、今日ライムの問題をふたたび提起できたのは、文学の権威と全く無縁なヒップホップという音楽のおかげだった。権威的な規則としてのライムではない、本当に大衆の中から沸き起こったライムだからこそ、多くの人を魅了する力があったのだ。

参考文献

 『子規全集 第四巻 俳論俳話一』一九七五、講談社
 『子規全集 第五巻 俳論俳話二』一九七六、講談社
 『子規全集 第七巻 歌論・選歌』一九七五、講談社
 『子規全集 第八巻 漢詩・新体詩』一九七六、講談社
 『子規全集 第九巻 初期文集』一九七七、講談社
 『子規全集 第十巻 初期随筆』一九七五、講談社
 『子規全集 第十四巻 評論・日記』一九七六、講談社
 『明治詩人集(一) 明治文学全集60』一九七二、筑摩書房
 『評伝、正岡子規』柴田宵曲、一九八六、岩波文庫
 『正岡子規』松井利彦、一九六七、桜楓社
 『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日出版社
 『正岡子規』岡井隆、一九八二、筑摩書房
 『子規歌論の発展と継承』有田静昭、一九八○、桜楓社
 『正岡子規-創造の共同性』坪内稔典、一九九一、リブロポート
 『正岡子規 人物叢書144』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
 『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
 『子規漢詩と漱石』飯田利行、一九九三、柏美術出版


九鬼周造のライム

西洋崇拝から来た押韻論

 日本の新体詩は特殊な始まり方をした。西洋の詩は吟遊詩人の伝統を引き、大衆文芸の中から自然な発展を遂げてきたし、日本の和歌や中国の漢詩も同様、その国の長い歴史の中で培われ、十分な大衆的基礎を持っていた。これに対し、新体詩は明治の西洋化政策の中で生まれた。
 当時の日本人にとって西洋というと、単にエキゾチックでもの珍しいというだけでなく、まず第一にその強大な軍事力への脅威が先にあった。そして、西洋への関心はもっぱら、その軍事力を支えている科学技術と資本主義経済だった。幸か不幸か日本は薩英戦争や長仏戦争で惨敗を喫し、攘夷を敢行する前に西洋の軍隊に対抗できるだけの科学力、経済力が必要なのを痛感したところだった。
 人間は元来好奇心に富んだ生き物で、異国のエキゾチックなものに引かれるのは自然な反応だ。異文化との交流は自然に文化の融合を生み、それは文明の発展に不可欠なことだ。しかし、ひとたび国策として西洋化政策が行われると、欧風化は強制となり、同時に伝統文化や風習に対する激しい弾圧となった。今日でも日本人が自国の文化伝統に自信が持てず、いわゆる自虐史観の病理に陥っているのは、戦後の革新団体のせいなどではない。明治維新そのものが自分たちの過去の歴史を抹消し、偽りの歴史を捏造するものだったからであり、歴史の捏造を繰り返す限り本当の意味での民族の誇りは帰っては来ない。
 『新体詩抄』の作者たちが西洋の詩を見てカルチャーショックを受けたのは、結局、恋や花鳥を詠む平和な詩しか知らなかった所に、初めて軍歌というものを知った驚きだったのだろう。そして、以降文学の近代化の旗手たちは力強い勇ましい文学を求め、日本の伝統文学を「軟弱」だとか「女々しい」だとか言って卑下してきた。この問題は文学的な性差別(テクスチュアル・ハラスメント)の問題にも関わってくる。
 ライム(押韻)の問題も、基本的には西洋崇拝の中で浮上したといえよう。西洋の詩はちゃんと韻を踏んでいる。漢詩でさえ韻を踏むのだから、日本の詩も韻を踏まないと西洋はおろか中国にさえも遅れをとる。そういう発想が根底にあったことは十分想像がつく。斜投象で描かれた伝統絵画を見て青い目をした外人さんが「コノエ、エンキンホウガヘンデスネー」なんて言うと、すぐにこんな絵は価値がないと決めつけ、二束三文で外国に売られていったり、伝統音楽を外人さんに「コレ、オンガクデナク、ザツオンデスネー」なんて言われると、明治以前に日本には音楽がなく、節しかなかったということになってしまう。そんな心理は当然文学者にもあっただろう。別に西洋の人が楽しそうにライムでもって遊んでいるのを見て、面白そうだから真似してみようと思ったわけではなかっただろう。ライムに魅せられ、「はまった」わけでもなく、ただ韻を踏まないと西洋に遅れをとるという意識で始めたライムは、それこそ文字どおりの根無し草だった。
 そして、この問題はやがて自然消滅していった。というのも、肝心の西洋の方が押韻定型詩から自由詩や散文詩の時代へと変わっていったからだ。西洋の最先端の詩がライムの形式にこだわらなくなると、今度は逆に押韻なんて時代遅れだ、ということになる。こうして明治の終りから大正にかけて自由詩の嵐が新体詩だけでなく俳句の世界にまで吹き荒れたとき、ライムの問題は次第に忘れられていった。そして、それ以降ライムに関心を持つのは、いわゆる「形式主義者」だった。

九鬼周造

 九鬼周造もそうした形式主義者の一人だった。もっとも、九鬼が形式主義なのは、日常語の「形式にうるさい」という意味ではなく、カントの形式美学の系譜を引く本来の意味での形式主義者という意味でだ。つまり、美の基礎を人間の主観の超越的な形式に求めるという点での形式主義者だ。
 九鬼周造というと、一般には『「いき」の構造』が有名だし、哲学をやった者にとっては、むしろ戦前にハイデッガー哲学を日本に紹介し、その時ドイツ語のExistenzに「実存」という訳語を与え、戦後の実存主義の流行の基礎を作った人としても知られている。一説には、フランス留学中たまたまある学生の家庭教師をし、その時フッサールやハイデッガーのことを教えた所、その学生こそが実は後にフランス実存主義の旗手となるサルトルだったとも言われている。
 九鬼周造のライム論は昭和初期、時代からすると、日本が次第に国際社会から孤立し、破滅的な戦争への道を歩んでゆく頃のものだ。大正時代の自由詩の流行に対し、次第に自由という言葉が禁句になり、国家秩序への服従が強要されてゆく時代の中で、詩にもまた厳しい形式と秩序への服従が説かれる傾向が生じていたのだろう。俳句の世界でも井泉水、山頭火の自由律俳句が急速に衰退し、虚子の『ホトトギス』の俳句が全盛を究めた時期だった。

四つのテキスト

 九鬼周造のライム論で今日残っているテキストには四つある。一つは昭和五年三月に『冬柏』に小森鹿三のペンネームで発表された『押韻に就いて』で、もう一つは昭和六年十月に『大阪朝日新聞』に発表された『日本詩の押韻』、もう一つも同じ昭和六年に岩波講座『日本文学』に発表された『日本詩の押韻』、そして昭和十六年に岩波書店から刊行された『文芸論』に収められた『日本詩の押韻』の四つがある。
 最初の『押韻に就いて』の成立事情については九鬼自身が岩波講座『日本文学』所収の『日本詩の押韻』の序文でこう書いている。
 「この一篇は私の巴里滞在中に出来たものである。昭和二年の三月と四月に、私は雑誌『明星』ヘ寄稿のつもりで与謝野寛氏、同晶子夫人宛てに「押韻に就いて」と題する原稿を巴里から送つた。同年五月『明星』の休刊と共に、その原稿は満三年間与謝野氏の許に保管されるやうになつた。その間、私は原稿の返却を再三乞うたが聴き容れられなかつた。昭和五年三月、雑誌『冬柏』の創刊と共に、同雑誌第一号に突然、私の原稿の第一節が掲載された。それは私の意志に反してゐたから、第二節以下の掲載を見合はせてもらつた。同時に原稿の一部分だけは校正刷の形で返却してもらふことが出来た。しかし私の自筆の原稿は保管中に全部紛失して了つたとの通知を受けた。今回、本講座に執筆することになつたので、私の手許に僅かに残つてゐた書き荒しの草稿を取出して加筆したのがこの一篇である。」(『九鬼周造全集 第五巻』P,273)
 そして、三番目の岩波講座『日本文学』所収の『日本詩の押韻』はその加筆した一篇だった。二番目の『大阪朝日新聞』の『日本詩の押韻』はその要約と思われる。岩波書店版の『九鬼周造全集』では『大阪朝日新聞』版を『日本詩の押韻〔A〕』、『日本文学』のを『日本詩の押韻〔B〕』として区別している。
 『押韻に就いて』は書き出しだけの断片であり、九鬼ライム論の成立過程をたどる意味では貴重だし、概略を知るには『日本詩の押韻〔A〕』もいい。しかし、九鬼押韻論を詳しく知るには『日本詩の押韻〔B〕』及び、それを更に大幅に加筆・改稿した昭和十六年版の『日本詩の押韻』に依るべきだろう。
 しかし、いずれにせよ、九鬼は何かしら新しい押韻法を提起したわけではない。押韻の仕方は基本的に正岡子規の明治三十年の『新体詩押韻の事』に見られる三つの説をそのまま受け継ぐもので、末尾から母音子音の両方を一致させてゆくやり方であり、今日のヒップホップのライムのような子音を無視するものではない。ただそれに末尾の母音だけを一致させるものを単純韻と呼び、その前の子音を一致させるものを拡充単純韻、その前の母音までを一致させるものを二重韻というふうに用語を整理し、また完全韻と不完全韻の区別など、規則を事細かくした程度である。

自由詩か律格詩か

 正岡子規の時代には、まだ「自由詩」という発想が明確でなく、新体詩の多くは押韻するしないに関わらず七五調の定型を持っていた。だから、そこでは自由詩か押韻定型詩かという二者択一は問題ではなかった。押韻定型詩か押韻しない定型詩があるだけだった。そこに自由詩が加わったとき、原理的には押韻自由詩も当然可能だった。今日のラップも当然この押韻自由詩に含まれるだろう。
 しかし、実際には今日に至るまでほとんど押韻と定型はセットとして扱われてきた。九鬼周造はそれを「律格詩」と呼ぶ。
 「詩の形式に関して次のやうに考へる者もあるであらう。いはゆる律や韻は外的形式に過ぎない。真の詩は内的形式に従はなければならない。真の律とは感情の律動であり、真の韻とはこころの音色である。かういふやうに考へるのは広義における自由詩の立場である。私はこの立場に対して決して抗議をするものではない。寧ろ自由詩と律格詩とは相並んで発達して行くべきものと信じてゐる。ただここに両者の相違を明かにして置きたい。自由詩を主張する者は感情の律動に従ふことを云ふ。然しながら、この場合の従ふといふ意味は詩の律格に従ふ場合とは意味を異にしてゐる。感情の律動とは主観的事実である。詩の律格は権威をもつて迫る客観的規範である。両者の間には衝動に『従ふ』恣意と、理性に『従ふ』自由との相違に似たものがある。自由詩の自由は恣意に近いものである。律格詩にあつては詩人が韻律を規定してみづからその制約に従ふところに自律の自由がある。現実に即して感情の主観に生きようとする自由詩と、現実の合理的超克に自由の詩境を求めようとする律格詩とは、詩の二つの行き方として永久に対蹠するものであらう。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,226)
 自由詩は感情への服従であり、律格詩(押韻定型詩)は理性への服従であるというこの考え方が、古典的な霊肉二元論と結びついているのは言うまでもない。感情への服従は肉体の奴隷になることであり、理性に服従することによって精神の自由を得ることができるというのは、西洋の古典哲学の考え方だ。ここで九鬼は自由詩と律格詩を両方認めているふりをしているが、当時の一般的な哲学を知る者がこれを読めば、自由詩に対し律格詩が優位にあると見るのは自明のことだった。しかも、「詩の律格は権威をもつて迫る客観的規範」だという所に、権威主義を見い出すのは容易であろう。
 この部分は他のテキストでもほとんど同じ主張がなされているが、ただ昭和二年の初稿の形を残す『押韻に就いて』では「芸術上の自由詩と律格詩との関係は道徳上の自然主義と理想主義との関係に似たものである。」(『九鬼周造全集 第五巻』P,256)の一文が付け加わっている。これは文学の自然主義ではなく、おそらくルソーの自然主義に対しカントの形式倫理学を「理想主義」と呼んだものだろう。それゆえに自由詩と律格詩の並立はカント哲学における「アンチノミー」のイメージで述べられている。「現実に即して感情の主観に生きようとする自由詩と、現実の合理的征服に自由の詩境を求めようとする律格詩とは、詩の二つの理想として永久にアンティノミイをなすものであらう。」(『九鬼周造全集 第五巻』P,256)これが九鬼の押韻論の骨格となっている。

アンチノミー(二律背反)

 ここで押韻の問題が突然哲学上の大問題に巻込まれているのがわかるだろう。ここでわかりやすくカント哲学を解説しておこう。
 西洋哲学では霊肉二元論という古典的な二元論がある。古代ギリシャには霊魂不滅の思想があり、ソクラテスも死んでも霊魂は失われないと信じて毒杯を受け入れた。キリスト教も同様に、人間は肉体という衣を着た精神だと考えてきた。霊魂なんていうと、今では非科学的なように思えるが、科学が未発達な段階では自然界で説明できるものより説明のつかないことのほうがはるかに多かった。知っている世界、説明のつく世界は人間の住むほんのわずかな世界であり、一歩外に出ればそこに広がるのは広大な神秘の世界だった。不可解で不条理に満ちたこの世界にまがいなりにも答を与え、安心させてくれるのは宗教の力だった。
 東アジアでは霊魂はあくまで「気」の一種で、目に見える気は様々な物質を構成し、目に見えない気が霊魂だというだけで、どちらも物質的に一元的に捉えられていた。そして、朱子学においてはその「気」の間に働く法則としての「理」のみを超越的な存在として捉えていた。これに対し、西洋では霊魂は早い時期から「ロゴス」と結び付いていた。霊魂とは言葉でも論理でもある「ロゴス」であり、幾何学的な形式や社会的な法律もまたここに属するものとされてきた。それゆえ、東アジアでは霊魂が万物に存在すると考えられていたのに対し、西洋では人間だけが霊魂を持つとされてきた。 やがて科学が発達するにつれ、これまで不可解だった現象も、次第に合理的な説明がつくようになってくると、やがて、この世界はすべて原因があって結果があり、世界は精密機械のようなものではないか、という考え方(マルクス主義者の言葉では、いわゆる「機械的唯物論」)が芽生えてきた。もちろん、それならその精密機械を作ったのは誰か、神様がいるのではないか、という主張も成立する。カントの『純粋理性批判』の試みは基本的にはこうした機械的唯物論の限界を指摘しようとするものだった。それゆえ理性の「批判」となった。
 この時のカントの解決法は、その後の近代哲学の方向をほぼ決定的にしたといえよう。カントは個々の人間の主観に対し、先験的主観(超越的主観とも訳される)を礎定する。これによってデカルトが考えたような反省的に認識される自我は、あくまで先験的主観の認識対象となり、客観的物質と同次元に置かれる。自己を反省的に見つめるというのは、反省する自分と反省される自分がいるのだから、後者は客観的対象となる。これによって先験的主観は、個々の人間の主観やいわゆる客観的な物質の世界をも超えた、すべての認識の根底となる。こうした根底は、やがて現象学でいう「地平」へと受け継がれていくことになる。
 カントの先験的主観は超越的主観とも呼ばれる。これはTranszendentalというドイツ語を、「先験的」とも「超越的」とも訳すというだけで、本来この二つは別の言葉ではない。先験的主体とか超越的主体とも訳されるが、「主観」も「主体」も同じSubjectの訳で、別な言葉ではない。
 科学的認識はカントによれば、先験的主観が物質的対象に関する情報の断片を統一してゆくことによって生じる。それはまず感性によって知覚され、悟性の論理形式によってそれらが体系化されてゆくことによって、次第に科学の体系は練り上げられてゆく。こうした科学は、自然を対象にすることもできれば人間自身を対象にすることもできる。しかし、先験的主観はこうした科学的対象としての人間ではないため、科学的決定論の外に逃れることができる。
 しかし、先験的主観もまた人間という客観的対象の一つの持って生まれた性質に過ぎないのではないか、それなら、先験的主観も科学的な必然に従うのではないのか。ここで、カントはこの問題はどちらとも決めることはできないという、いわゆる「アンチノミー」を提起する。カントはこれを先験的主観の一つの宿命として捉える。つまり人間の悟性は客観的対象にのみしか適用できないもので、それを超えて無制限にすべてのものに適用しようとするとかならず矛盾が生じる、というのだ。世界の果てはあるのか?あるとしても、その果ての向こうには何があるのか、と問題提起できる。世界に始まりや終りはあるのか?始まりがあるとしても、その始まる前はどうなっていたのか?終りがあるにしても、その終った後はどうなるのか?それと同様に先験的主観もまた物質的に説明できるとすれば、その説明をするのもまた先験的主観だということになる。
 カントがこの結論を留保したことが、後にヘーゲルの弁証法的観念論とマルクスの弁証法的唯物論の並存のもとにもなっただろう。そしてまた、先験的でもあり、経験的でもありうるような「先験的主観」の概念は、近代の様々な人間学への道を開いた。心理学、精神分析、文化人類学、社会学、社会生物学など、近代はまさに様々な人間学の乱立する時代になった。今日ではカントが形而上学的に展開した感性論や悟性論について、特にここ半世紀の急速な大脳生理学や分子生物学の発達により、多くの部分で自然科学的解決の目処が立ってきた。これは先験的主観を否定し去ることにはならないまでも、かなりその議論の範囲を限定することになるだろう。デビッド・チャルマーズの提起した「ハード・プロブレム」の問題は、ある意味ではカント的アンチノミーの最終的に絞り込まれた姿だといえよう。

美学のアンチノミー

 カントは『純粋理性批判』において解決を留保したアンチノミーの問題を、『実践理性批判』において倫理的に解決しようとした。つまり先験的主観の自由や神の存在、神による天地の創造といった問題を、科学的には証明しえないとしながらも、倫理的に求められるべきものとして提起しなおした。しかし、このようなカントの倫理学は「形式倫理学」とも呼ばれるように、実質的に人間はいかにあるべきかを明らかにするものではない。あくまで先験的主観が自由のもとに生み出す各自の格律が普遍的な道徳法則として通用するように行動せよ、という所で終る。ここからあのサルトルが言う「万人のアンガジュマン(契約、拘束)」への距離はそれほど遠くはない。
 カントは更にそれを『判断力批判』において、美学への適用を試みる。(ここにおいてカントのいわゆる「三大批判書」が出揃う。)美的判断もまたここでは先験的主観の声とされる。しかし、その判断は現実の様々な欲求や客観的な認識と無関係には行われえない。そこで、ここでもアンチノミーが生じる。つまり「趣味については論議せられ得ない」「趣味については論争せられ得る」。(『判断力批判』上、カント著、篠田英雄訳、岩波文庫P,311、312)芸術は理屈ではない。でも芸術は議論できる。芸術は先験的主観から直観的にもたらされるものだから、どんな理屈をも超えたものだということもできるし、それを様々な人間学が可能なように、こうした直観を生物学的に、遺伝学的に説明したり、社会科学的に説明したりすることも可能だろう。

「偶然性の問題」

 カント的に考えるなら、芸術は超越であっる。つまり、現実に考えうる様々な必然性を超えうる。しかし、これは可能性の域を出ない。そして、この「可能性」の領域こそ、九鬼にとって「偶然性の問題」が展開される場所でもある。
 偶然性と可能性は確かに密接な関係を持っている。たとえば渋谷の街の雑踏の中で数十年来音信不通だった昔の友人にばったり出会う可能性はある。そして、もしそれが本当に起ったら、「何という奇遇だ」ということになるだろう。つまり、偶然起るというのはそれが可能だったからであり、不可能なことは偶然にも起らない。偶然というのはいわば二つの者の間に何ら必然的な関係が発見できないところに生じるもので、起るべくして起きたものでもなく、絶対にありえないことが起きたのでもない。起る可能性のあることが起きたから偶然だということにある。結局の所、人間が二つのものを関連があるかないかわからないままとりあえず結び付けておくところに生じる。
 九鬼の『偶然性の問題』は、科学における偶然とは関係ない。それは「偶然を偶然としてその本来の面目において問題となり得るものは形而上学としての哲学を措いてほかにない」(『九鬼周造全集 第二巻』P,11)とはっきり言明しているとおりだ。今日の科学では偶然性が非常に大きな問題となっているが、当時はまだ量子力学についても疑問を提起する学者が多く、アインシュタインも不確定性原理を最後まで認めようとしなかった一人だった。九鬼もこの問題を留保している。「然しながら、不確定性原理は必ずしもすべての有力なる自然学者の承認するところではないのみならず、また自然科学的思惟の本質そのものと果たしてどの程度相容れるものかもなほ多少疑問とすべきであろう。」(『九鬼周造全集 第二巻』P,109)そして、量子力学は偶然性の原理を利用しているだけで、その偶然性の原理そのものはあくまで形而上学の問題であることを確認する。「その謂はゆる不確定性原理は偶然性を単に原理として承認しているにすぎない。」(『九鬼周造全集 第二巻』P,11)
 また、ダーウィン進化論にしても、当時はまだDNAの二重螺旋構造とその複製のメカニズムが解明されていなかったため、突然変異がどのように起きるかはっきりせず、哲学者の間ではむしろベルグソン流の創造的進化の方が人気があった。九鬼は『偶然性の基礎的性格の一考察』という未完の遺稿の中で、「偶然変異にあっても遺伝質に起る変化は一方に生物体と他方に温度光線其他との間に何らかの積極的相対的偶然の存在を認めている。」(『九鬼周造全集 第二巻』P,384)とあり、これが当時としては定説だったのだろう。
 九鬼によれば、偶然とはあるものとあるものとを結びつけるところに存在する。二つのものに何らかの必然性がある場合もあれば、何の関係のない場合もある。直接関係のない二つのものが結びつけられたとき、偶然が生じる。「さうしてこれらすべてを原本的に規定してゐる偶然性の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定ということである。(『九鬼周造全集 第二巻』P,255)九鬼によれば偶然とは「邂逅」に他ならない。

ライムの偶然

 『偶然性の問題』の中でも、ライムについて触れている箇所がある。九鬼によると文学は驚異の情緒を主とし、驚異は内容、形式の両面において偶然性を契機とする。(『九鬼周造全集 第二巻』P,217~218)
 しかし、九鬼にとってライムの問題は内容上の偶然の問題ではなく、あくまで形式上の問題として扱われる。つまり、ライムは意味論的な問題ではなく、あくまで音韻上の問題に留めている。「偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉との行きずりとして詩の形式の中へ取り入れることは、生の鼓動を詩に象徴化することを意味してゐる。さうして『言霊』の信仰の中に潜在してゐる偶然性の意義を果無い壌れ易い芸術形式として現勢化することは詩の力のゆたかさを語つてゐなければならない。要するに偶然性が文学の内容および形式の上に有する顕著なる意義は、主として形而上的驚異と、それに伴ふ『哲学的の美』に存してゐる。」(『九鬼周造全集 第二巻』P,220)そして、ライムは第二章第三節の『理由的積極的偶然』の問題として提起されている。
 「理由的」という言い回しは「因果的」に似ているが、ここでいう「理由」は物質的原因としての理由ではない。むしろ先験的主観に属する言語や論理、数学、幾何学に関するものだ。何らかの物理的原因がある場合は、「因果的」と呼ばれる。九鬼において、ライムの価値はこのように物質性を持たない超越論の次元に限定される。

形式美学の限界

 九鬼の「偶然性」が「可能性」とともに先験的主観の超越性である以上、九鬼の美学もまた偶然性/可能性の領域に基礎づけられる。この美学は物質的必然性のもう一つの美学と解消し得ないアンチノミーとともに現われる。いわば止揚のない弁証法として。この時、九鬼の超越性はカントと同様、伝統的な霊肉二元論の哲学を引き継いで、形式性として解釈されることとなる。その意味で、九鬼の美学もまた形式美学である。そして、美学の基礎が先験的主観の形式性にあるということになれば、九鬼はそこから先、多くのことを語る必要がないかの如く、こうした形式を一つの伝統として語り継ぎ、継承する民族共同体の共同主観性(間主体性とも訳される)に結びつけてゆく。このあたりは後期フッサールの影響によるものだろう。
 「偶然を成立せしめる二元的相対性は至るところに間主体性を開示することによって根源的社会性を構成する。間主体的社会性に於ける汝を実存する我の具体的同一性へ同化し内面化する所に、理論における判断の意味もあったやうに、実践における行為の意味も存するのでなければならない。(『九鬼周造全集 第二巻』P,258~259)
 先験的主観は一方では「可能性」としての様々な「自由」をもたらす。しかし、一方では先験的主観はロゴスであり、一つの言語や法体系、慣習の体系を共有する共同体のものでもあり、そこに常に「同化」が求められる。ここに、あのハイデッガーの悪名高いフライブルク大学学長就任演説に似たものを見い出すことができるかもしれない。超越論的な自由は常に即座にロゴスへの服従、そして国家への服従へとすりかえられてゆく。九鬼の場合もまさにそのやり方で、最初のあの律格詩の主張に戻ってゆくことになる。
 「感情の律動とは主観的事実である。詩の律格は権威をもつて迫る客観的規範である。両者の間には衝動に『従ふ』恣意と、理性に『従ふ』自由との相違に似たものがある。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,226)
ここで言う「客観的」は物質の客観的実在を意味するものではない。むしろ「間主体的社会性」の客観的実在をいう。
 実際には文学は共同体に対する「異化」の文学として、共同体から疎外された旅人の声となり、故郷の喪失と遥かな約束の地を語ることで、一共同体の理念を超えた人類普遍の声を発することも可能だろう。それはさておくとしても、押韻に関して、九鬼は日本において押韻が伝統として存在してなければならないという問題に直面せざるをえなくなる。これまで日本の民族伝統の共同主観になかったような西洋ライムの体系を導入するということになると、その根拠は急に薄弱になる。 ここに日本にもあたかも押韻の伝統があったかのように偽装工作を行う必要が生じてくる。そして、実際九鬼は、もちろんはっきりとではなく暗にほのめかすような仕方ではあるが、驚くような仕方でライムの日本起源説を提起することになる。

天然ライムという問題

 まず、九鬼は日本語の押韻の例として夥しい数の古典作品(和歌・俳諧・俗謡等)を掲げている。これだけを見ると、知らない人はあたかも日本にもライムの伝統があったかのように錯覚する。それだけでなく、奈良時代の『歌経標式』や平安時代の『奥義抄』その他、日本でライムが意識された数少ない例を拾い上げ、「日本詩の押韻はむしろ現実に憧れてゐる可能性と考えてよいであろう」(『九鬼周造全集 第四巻』P,223)と言う。しかし、ここに掲げられた日本の古典に見る押韻の例は、果たして意図的な押韻かという問題が当然あるだろう。
 漫才にはボケとツッコミとあり、長年の修練による洗練された芸としてのボケもある。しかし、ぽっと出のコメディアンやお笑いと無関係だったタレントが絶妙のボケをかますこともある。これを世間は「天然ボケ」と呼ぶ。ライムにも習熟した芸としてのライムもあれば、本人が必ずしも意図しているわけではない天然のライムというのもある。もちろん偶然ということもあるが、詩人は常日頃から感覚的に美しい言葉を探しているから、ライムを意図したわけでなくても実質的に韻を踏んでいる場合がある。
 たとえば芭蕉が「青葉して御目の雫ぬぐわばや」の句の上五を「若葉して」に改めたとき、素人目にも「若葉」の方が全体の調子がいいというのはわかるだろう。ただ、なぜかということはたいていの人は考えない。これをたとえば、頭の「ワカバ」と末尾の「ワバヤ」が韻を踏み、呼応し、句全体に対称性を生み出していると説明しても、「ふーん」てなもんだろう。おそらく、芭蕉も芭蕉の門人も誰もそんなことは考えてなかったに違いない。しかし、詩人が絶えず美しい言葉の配列を意図する以上、こうした半分無意識的なライムはかなりの頻度で出現する。
 単純に考えても、日本語の母音は五つしかないのだから、和歌の上句の末尾と下句の末尾が単純韻を踏む確立は五分の一、『古今集』の千首余りの和歌のうち二百首がこの種の韻を踏んでいることは当然予測できる。また、いろはは四十七文字だから、拡充単純韻を踏む確率は四十七分の一、少なくとも二十首はあってもおかしくない。実際末尾に来る文字というのは四十七文字均等ではなく、頻繁に出現する文字が幾つかあるから、もっと確率は高い。まして、先に述べたような無意識のライミングが存在するなら、より多くの頻度で末尾の一致が生じている可能性がある。
 ところが実際に数えてみると、『古今集』の巻一から巻十八までのちょうど千首の和歌に関して、上句と下句の末尾の母音の一致するもの(単純韻)は百十九首、末尾の母音子音とも一致するもの(拡充単純韻)は十三首しかない。これはむしろ、上句と下句の母音の一致を嫌っている可能性がある。少なくとも、ここには意図的な押韻は認められない。
 ライムが自覚的になされたか無自覚のうちになされたか、外見だけで識別するのは難しい。ただ、作者がライム論を展開していたり、作者が属する流派がライムを主張してたりすれば、意図的だろうという推定は成り立つ。また、ライム論がなくても、同一作者、あるいは同一流派内で一連のライム作品群が存在すれば、意図的だと推定してもいいだろう。無自覚なライムは幼い子供が早い時期から言葉遊びをするように、むしろ人類普遍的なものであり、それに対し、一つの確立された技法に高められたかどうかがライム文化と非ライム文化の境目といえよう。その意味で、私は日本のライム文化はここ数年急速に成立したものであり、それ以前にはあくまで幾つかの散発的な実験を除けば、ライム文化はなかったと考えている。しいて独自のライム文化が生じたとすれば、中世の和歌・連歌における五音連声くらいだろう。それ以外はすべて天然だ。
 このことは九鬼自身もしっかりと予防線を引いている。
 「これらのものが果たしてどの程度まで意識的になされた押韻であるか。そのことを明らかにするのは我々にとってはさほど重要な事柄では無い。我々の関心の重点は過去にあるのではなく、未来にあるのである…略…たとへこれら句尾の押韻とみられ得るものがすべて無意識の所産であるとしても、なほ未来における押韻発達の可能性を投企の地平において示してゐる。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,271~272)

ライムは日本起源?

 証明不能な説でも、あたかもそれが真実であるかのように多くの文章を費やし、しっかり読者に印象づけておいて、反論された時の弁解を、うっかりすれば見落としてしまうくらい申し訳程度に予防線として付け加えておく。これは文章家のよく使うテクニックで、覚えておいた方がいいだろう。このほかにも、最初に突飛な説を「ある人の説」とか言って掲げておいて、次に若干それより穏健な説を提起すると、その説がいかにもまともに見える。これに更に「百歩譲って‥‥」などと言ってもっと消極的な説で補強すると、より堅固になる。
 『日本詩の押韻』の結びの「押韻の日本性と世界性」の章で、「日本詩に押韻を採用することは西洋の模倣に過ぎない愚な企ではないかという疑念」(『九鬼周造全集 第四巻』P,426)に答える形で、九鬼はライムの起源論を展開する。そこでは一応「印度か支那が恐らく押韻の発生地であろう。」(『九鬼周造全集 第四巻P,439)とは言っている。しかし、それはあくまで予防線で、そのあと恐るべき博識によって押韻が中東からヨーロッパに伝わっていった経緯を描き出し、こう続く。
 「要するに押韻法は東洋に発達したもので、西洋では、先ずラテン語がアラビア語から押韻の法を輸入し、ラテン系の文学がそれを継承して更にチュウトン及びアングロサクソンの文学に伝へたのである。それ故に、西洋の押韻はいづれの場合にあつても、自国語のうちに存する可能性が外国文学の刺激によって発揮されたのであるといふことが出来る。假りに若し日本語の押韻が外国文学を機縁として可能性から現実性へ移るとしても、そこには何らの忌避すべき事実も見られない。むしろ、東洋に起源を有つ押韻の法を、西洋に委ねて顧みず、押韻の採用を西洋の模倣の如くに考へることが、甚だしく自己を忘却した行き方である」(『九鬼周造全集 第四巻』P,441)
 「東洋」という曖昧な言い方は意図的なものだろう。これだと日本も含まれる。更に九鬼の文章はこう続く。
 「しかしながら、一方に、押韻の萌芽が我が国の詩歌の中に示され、他方に、押韻の起源そのものも東洋にあることが明らかになっても、なほ日本詩の押韻に対する反対論が執拗に台頭してくるであろう。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,441~442)
 九鬼のこういったやり方は、当時としては決して奇異なものではなかった。明治維新そのものが神武建国の昔への復古と言いながら実際は西洋化だったように、あるいは正岡子規が西洋画の影響で得た写生説を、あたかも『万葉集』や芭蕉の俳諧がそうであったかのように仮託したりしたように、西洋化をあたかも日本が本来そうであったかのようにすり替えてゆくやり方は、何度となく繰り返されてきたことだった。
 しかし、いかに八紘一宇を信じ、日本が世界の中心だと信じる国粋主義者でも、このライム日本起源説には首をひねっただろう。九鬼自身も、これが承認されなくても、「假りに若し日本語の押韻が外国文学を機縁として可能性から現実性へ移るとしても、そこには何らの忌避すべき事実も見られない。」ということが認められれば十分だったのかもしれない。しかし、これで果たして「西洋の模倣に過ぎない愚な企ではないかという疑念」に答えたことになるだろうか。

ライムの起源

 技法としてのライムの発祥地については、私自身はまだ答を持っていない。『鳥になった少年─カルリ社会における音・神話・象徴』(スティーブン・フェルド、1988、平凡社)によれば、パプアニューギニアの少数民族カルリの歌にも脚韻は見られるが、これがどこの文化の影響によるものなのか、それとも独自に生じたものかも定かではない。ただ、天然のライムは人類に普遍的に存在するものであり、しいて言えば遺伝子に起源があると言ってもいいのではないかと思っている。私の息子も三歳の時「招き猫、真似するの?」だとか言っていたし、「ほかほかになるよ/おなかにのるよ」なんて歌を作ってた。
 ライムはあるいは人間だけのものではないのかもしれない。F・パターソンとE・リンデンのゴリラを使った手話習得実験の際、このようなエピソードが記されている。
 「一度、ブロッコリの名前をきいたところ、ココは『くさい花ピンク色の果物…ピンク色のくさい果物(Flower stink fruit pink…fruit pink stink)』とサインを綴った。私は思わず、『あなた、なんてじょうずに韻がふめるの(You're rhyming, neat!)』といった。すると、驚いたことに、ココは『あまいお肉好き(love meat sweat)』とサインしたのである。ココに物と動作との関係をきいたときにも、『ピンク色の飲むリンゴ(Apple pink drink)』とか、『あなたが唇ですする(You lip sip)』という文が生まれた。」(『ココ、お話ししよう』F・パターソン、E・リンデン、1984、どうぶつ社、P,204)
 ライムが遺伝的だといっても何も特別な「ライム遺伝子」を仮定する必要はない。外界の様々な情報の中から類似点を発見しようとする漠然とした衝動が人間の音声に適用された時、ライムはいつでも生じうる。ただ、それが一つの文化となるには、また別のステップが必要になる。それは道端の石を見て蹴飛ばしたい衝動に駆られることはあっても、それが直ちにサッカーを生み出すのではないようなものだ。
 今日では先験的主観の主要な問題であった言語、論理、幾何学、法律などの問題に、様々な形で生物学的、生理学的アプローチがなされている。また、一方では哲学の方でも西洋のロゴス中心主義からの脱却が試みられ、九鬼周造の時代とはかなり様相が変わってきている。ライムに関しても、今日では先験的主観の問題に限定せず、生理学的アプローチは可能だろう。
 今日の日本のヒップホップのライムも、むしろこれまでの伝統的な形式主義のライムとは一線を画す、「身体のライム」として捉えてもいいのではないか。人間は常に身体のライムを生み出す素質を持っている。それがある種の文化の共同主観において一つの伝統として様式化されたとき、古典的な押韻定型詩が生まれる。
 日本のヒップホップのライムも、直接的にはアメリカ人の主に黒人のラッパーがこうしたヨーロッパの伝統的で習慣化したライムを用いているのを聞いて、それを模倣しようとしたところから生まれた。明治の西洋崇拝のような国策的なものではないが、根底にあったのはアメリカへの憧れだろう。しかし、かつての押韻定型詩派と決定的に異なっていたのは、彼らが完成された形式を模倣するのではなく、その根底にある身体的生理的基盤を体得したことだ。
 英語やドイツ語などの閉音節(子音+母音+子音で構成される音節)の多い言語では、末尾の母音の後に続く子音も一致させた。フランス語の場合弱いe(ウ)の音で終る音が多いため、これをないものとみなし、その前の母音と子音を押韻する方法を考え出した。開音節(子音+母音だけで構成される音節)の多いラテン語、イタリア語、スペイン語などでは、そのまま最後の母音だけを押韻してもよかったのだが、これらの言語は単語あたりの音節数が多く、後ろから二番目の母音にアクセントがくることが多いため、九鬼の言うような二重韻を生み出した。それらは皆その国の言語の特性に合わせて考え出されてきたものだった。しかし、矢田部良吉、正岡子規、九鬼周造、そして戦後の押韻定型派の詩人の多くもこのイタリア流の押韻をそのまま踏襲し、結局猿真似の域を出なかった。日本語に合ったライミング法を考え出すには、西洋のライムの事例に囚われないオリジナルな発想が必要だった。

韻量の問題

 九鬼周造は何かしら新しい押韻法を提起したわけではない。押韻の仕方は基本的に正岡子規の明治三十年の『新体詩押韻の事』に見られる三つの説をそのまま受け継ぐもので、末尾から母音子音の両方を一致させてゆくやり方であり、今日のヒップホップのライムのような子音を無視するものではない。子規は『新体詩押韻の事』の中でこう言う。
 「日本の語は総て母音を以て終る者なれば支那、英國などゝ稍異なり。故に其量に付きても三説あり。
 第一、最後の母音のみを韻とする者(あ、か、さ、た、な等皆同韻なり。此説に従へば僅に六種に止まる。即アイウエオンなり。)
 第二、最後の一字だけを韻とする者(「い」と「い」、「か」と「か」、「ぶ」と「ぶ」、「ん」と「ん」、「きヨ」と「きヨ」の如し。此説に従へば韻の種類八九十ある筈なれど実際に用ゐ得べきは四五十に上らざるべし。)
 第三、最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者(「きん」と「りん」、「つく」と「すく」、「よる」と「のる」の如し。此説に従へば韻の種類は非常に増加す。)」
 九鬼はこの第一のものを単純韻と呼び、第二のものを拡充単純韻、第三のものを二重韻というふうに用語を整理し、また完全韻と不完全韻の区別など、規則を事細かくした程度である。
 九鬼のライム論にとって決定的に限界をなすのは、この形式性と音楽性の偏重であり、ライムの持つ意味の合成や生理的快楽の側面が欠落していた。それは韻の量を決める際、決定的となった。
 九鬼はそれ以前の正岡子規らのライム論を受け継ぎ、日本語をローマ字化の際の末尾から何文字を一致させるか、という議論にこだわり、子音と母音を分解して考えるという発想がなかった。そこから、韻を「単純韻」「拡充単純韻」「二十韻」「拡充二重韻」「三重韻」という風に分類した。即ち、「浦に(urani)」と「煙(keburi)」は単純韻、「月(tuki)」と「秋(aki)」は拡充単純韻、「すめらぎ(sumeragi)」と「ときわぎ(tokiwagi)」は二十韻、「心(kokoro)」と「石ころ(isikoro)」は拡充二重韻、「羽衣(hagoromo)」「心も(kokoromo)」だと三重韻になる。これ以上の韻だと「栗色(kuriiro)」「瑠璃色(ruriiro)」のような、半ば同語反復になったり、「破壊しに(hakaisini)」「墓石に(hakaisini)」のような同音異議語になり、韻を踏める言葉がほとんど限定されてしまうし、駄洒落になりやすくなる。
 ちなみに、今日のヒップホップでは一般的に母音のみを一致させ、子音を無視するため、こうした分類では測ることができない。たとえば


 プラスとマイナス
 また行ったり来たりする二つの解釈


       (Kick the can crew「ユートピア」より)

という場合、九鬼の分類ではpurasu to mainasuとhutatu no kaishakuとの文字の一致は末尾から数えると最後のU音のみになる。その前はSとKで異なる。しかし、これは果たして単純韻に分類されるべきなのか。子音を取り除くとこれはu,a,u,o,a,i,a,uと八音節に渡って一致する。
 九鬼は一方で七種類の不完全韻を規定している。その中に「(三)子音の性質を異にするもの」という項目がある。これには更に細かい項目があり、
「(A)子音が同一でなく類似してゐるもの。言い換えれば清音、濁音、半濁音などの応和してゐるもの。」P,359
というのがある。この規定だとsuとzuなら当てはまるがsuとkuでは当てはまらない。また、
「(B)一つの子音を全然ことにし、他の子音は同一または類似を示してゐるもの。拡充二重韻に起る。」P,361
 これだと、後ろから二番目の子音が一致か類似(清音、濁音、半濁音など)する必要がある。この規定でもnasuとshakuでは当てはまらない。
「(四)母音または子音の応和の位置の傾倒してゐるもの」(『九鬼周造全集 第四巻』P,362)
という項目もあるが、それは、gasaとzakaやrabaとbara、kaisoとkosaiのような例で、これも微妙に当てはまらない。つまり、九鬼の基準では拡充単純韻の不完全韻にもならなければ、拡充二重韻の不完全韻にすらならない。あくまで単純韻ということになる。しかし、この詩は明らかに八音節で意図的に韻が踏まれている。
 母音のみならず子音をも一致させるというハードな条件がついているがため、九鬼は実質的に拡充二重韻以上の韻の分量を想定することができなかった。即ち、「三音綴の応和の三重韻、四音綴の応和の四重韻等は実際問題としては考慮する必要がない。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,322)
 九鬼は正岡子規が試みたような拡充単純韻の押韻の量的不足を指摘してはいるものの、拡充二重韻以上にすると、同音意義語や同語反復が多くなるため、二重韻が妥当という結論になる。
 「要するに日本の詩韻の量としては、単純韻は要求を充たすことが出来ず、ぜひとも二重韻が典型的のものとして立てられなければならない。また拡充単純韻は既に或度まで韻の効果を表わすから、補助的に用ひてよいものであり、拡充二重韻は豊富な韻として尊重して差支ないものである。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,355)
 しかし、これでは一つの単語の音節数の多い日本語では韻の效果としてはまだ弱い。そう考えると、子音を無視して母音のみで韻を踏むというヒップホップ流のライムがいかに画期的だったかがわかる。
 実際、九鬼流の母音子音ともに一致させるタイプのライムで、三重韻を採用してこの問題に挑戦している人もいる。


   一陽来復
           星野 晃

 影が 細く 長く
 侍る--冷えた 舗道
 遠い 夏の 鼓動
 人は 糧に あがく

 裸身 晒す 木々に
 歌を 寄せる 季節
 すさぶ 我が手 稚拙
 金の 言葉 右に

 立ち返る 陽光
 陋屋の 隅をも
 開き 御手に 包む

 垢付いた 操行
 吹き寄せる 罪をも
 拭い 永久に 睦む


 ライムの規則や定型の規則は、ちょうど手を使えないからサッカーが面白いようなもので、適度のゲーム性を備えていることが最大の魅力なのだろう。九鬼流の押韻で三重韻以上となると、さすがに使える言葉も限られ、それによって表現できる内容も限定され、動きの悪い、重い感じの詩になっていないだろうか。ゲーム業界の方では簡単すぎるゲームをサルゲーと呼び、難しすぎて誰もできなかったり、難易度の割りには達成感のないゲームをクソゲーと呼ぶ。誰もが楽しく遊べるゲームを作るには、難易度の調整が一番重要な課題になる。三重韻はある程度九鬼流の押韻法に熟達した人があえて難易度の高い技に挑戦するにはいいが、一般的には労多くして効少ないのではないか。同じ三音節ライムでも、子音を変えてもいいヒップホップのライムはそれよりかなり難易度が下がる。難易度が下がるということは、それだけ選択できる語彙が増え、表現内容も豊かになる。それでいて、熟達した人は四音節、五音節とより難易度の高いライムに挑戦できる。中には八音節くらいのライムを試みる人もいる。ヒップホップのライムはその点で、表現手段としてもゲームとしてもすぐれている。
 しかし、こういうことを言う人がいるかもしれない。「日本のヒップホップのような子音を完全に無視したようなライムは世界に例をみない。果たしてこんなライムで国際的に通用するのか。」他に例を見ないから駄目だと思うのは、西洋崇拝による自虐的な発想ではないか。他に例がないなら、それこそ日本のオリジナルであり、むしろ我々はそのことを胸を張って誇りにすればいいのである。

ライムの難易度

 大ざっぱに言って日本語の母音はアイウエオの五つ。もちろん地域による差はあるし、「知らねぇ」という時の最後の「えぇ」は口を横に大きく開く開音のエの発音になることもある。また、同じアでもアクセントが来ると来ないでは微妙に違う。また、アとアーのような長母音、またカとキャのような拗音も違う母音だという人もいるかもしれない。しかし、一般的に言って九鬼流のライムでもヒップホップ流のライムでも、そのような細かい区別をせず、アイウエオの五母音を基礎としている。
 これに対し、子音の数は一般的に言ってア、カ、サ、タ、ナ、ハ、マ、ヤ、ラ、ワ、ガ、ザ、ダ、バ、パの十五種類だ。母音は五種、子音は十五種、この差が九鬼流のライムとヒップホップ流のライムの難易度を大きく左右する。
 まずヒップホップの一音節ライムは九鬼流の単純韻と難易度の点では同じになる。しかし、拡充単純韻を用いると、使える言葉は一気に十五分の一にまで減る。ヒップホップ流の二音節ライムはこれに対し、単純韻の五分の一にしかならない。三音節ライムにしてようやく二十五分の一になり、九鬼流の拡充単純韻よりも難しくなる。つまり正岡子規が盛んに用いた拡充単純韻は、ヒップホップの二音節から三音節のライムに相当する。
 しかし、九鬼が最も適切な韻量とする二重韻となると、十五分の一の更に五分の一、つまり七十五分の一にまで使える言葉が減少する。つまり、九鬼の言う二重韻はヒップホップの三音節ライムに比べて三倍難しいことになる。ヒップホップの四音節ライムは三音節ライムの五分の一で百二十五分の一だから、三音節ライムと四音節ライムの中間の難易度だが、二重韻は二音節であるため、韻量は同じ難易度で五分の三になる。
 これだけだと、九鬼流のライムもヒップホップのライムもそんなに大差ないと思うかもしれない。しかし、これが拡充二重韻、三重韻となると、もっと大きな差が出てくる。拡充二重韻は二重韻の十五分の一、単純韻の千百二十五分の一にまで減少し、三重韻になると五千六百二十五分の一になる。これに対してヒップホップの四音節ライムは百二十五分の一、五音節は六百二十五分の一、六音節で三千百二十五分の一になる。三重韻の難易度はヒップホップ流の六音節ライムよりも高い。
 ちなみに拡充三重韻は二万八千百二十五分の一、ヒップホップ流の七音節ライムは一万五千六百二十五分の一、八音節で七万八千百二十五分の一となる。
 もちろん難易度の問題は単に使える言葉の数だけではない。母音子音とも一致すると、音節数が増えるにつれ、ほとんどが同語反復か同音異義語に限定される。それだけ変化の乏しいライムになる。

駄洒落の問題

 九鬼は「同音異義語の語または語の連続で数音綴りに亙るもの、たとえば「小松内大臣」と「駒繋いだ異人」とかdes japonaisとdéja poneyなどは偶然性が極度に達するため、滑稽の感情を齎して駄洒落に堕してしまふ。」(『九鬼周造全集 第四巻』P,365~366)と言う。実際は同音異義語の組み合わせが常に駄洒落になるわけではない。駄洒落は結びつけられた二つの語が相反したりまったく無関係だった場合、お互いに意味を打ち消し合ってナンセンスを生じる現象であって、二つの語が緊密に結びつく場合は駄洒落とは言えない。掛言葉は同音異議語の組み合わせではあるが、そこに強力な意志が働き、二つの語の意味が結合するときは、むしろ新たな意味の創造という積極的な意味を持つ。たとえば「雨が降る」と「年をふる」とが結びついた時、そこには長年の雨に打たれて朽ち果ててゆくように年が経過するというニュアンスを生じる。
 哲学者が新たな用語を作る際にも、この技法は用いられている。ヘーゲルが『精神現象学』の中でMeinung(思い込み、感覚的確信)という言葉をmeinen Meinung(私の思い込み)というふうに使うとき、Meinungという言葉自体に(私的な感覚的確信)というニュアンスが追加される。また、ハイデッガーも『存在と時間』の中で、lichten(森を切り開く、光りを当てる)の両義性を生かしながら、Lichtung(森の空き地)にあたかも森の木が切り払われてそこに光りが差し込むようなイメージで、存在の光りの照らす「明るみ」のニュアンスを追加している。この言葉はFrei(自由な、空っぽな)、Offen(開かれた、オープンな)と同様の二義性をもって用いられる。
 デリダのdifféranceもdifférence(距離)にdifferer(遅らす)というニュアンスを追加している。しばしば哲学者はこうした言葉遊びによって新しい哲学用語を作る。日本でも和辻哲朗は人間存在(human being)という言葉に「人の間」という意味を付け加えて用いている。同音異義語、あるいはきわめて近い言葉を結びつけるとき、こうした意味を合成し、変形させる効果がある。このように用いられる時は、決して同音異義語はナンセンスにはならず、駄洒落を免れる。
 九鬼はナンセンスに陥るのを恐れ、同音異義語や三重韻以上のライムに対して消極的だったが、使いようによっては積極的な効果も期待できる。それには二つの言葉をただの偶然に留めず、作者が強力な意志をもって二つの言葉を繋ぐ必要がある。ライムはただ偶然の一致の生む形式的・音楽的な美ではなく、むしろ偶然を必然に変える主体的意志の発露と考えた方がいいだろう。九鬼もしばしばそれを試みている。


 平行直線の公理
 望み通り
     (『偶然性』より)


 赤い赤い色
 誘ひの罠の林檎
 なんでなんで知ろ
 悪戯の蛇の隠語
     (『悔』より)


 九鬼は男爵家の生まれにふさわしく、貴族趣味的で、生々しい情念や人間臭いどろどろとした世界を嫌い、調和と秩序を重視する。それゆえ、ライムが鑑賞者に驚異を与えることを避けたのだろう。しかし、実際、庶民大衆の求めるのはむしろ、驚異に満ちた刺激に富んだライムではなかったか。

不完全韻の問題

 九鬼は「韻の質」という章で七項目の「不完全韻」を規定している。しかし、九鬼自身が「詩韻を論ずる場合には決して假定的な理論から出発してはならない。有體的な事実的な聴覚印象を唯一の與件と考へなければならない」(P,364)と言っているように、こうした規定を金科玉条として杓子定規になるのだけは避けたい。
 実際、ここで指摘されている「不完全韻」は、末尾からの母音・子音両方の一致をもとに作られた韻に対しての不完全韻であって、今日のライムには当てはまらないものが多い。それと、九鬼の場合長母音と二重母音について、若干の混乱が見られる。
 (一)母音の性質を異にするもの


  ほろほろと  (oto)
 山吹ちるか滝の音(ooto)


 これは今日では「ほろと(o,o,o)」「の音(o,o,o)」の三音節ライムで完全といえる。また、九鬼の基準でも(oto)と(oto)の二重韻と見て完全韻としてもいいのではないかと思う。「おお」と続く場合、同じ単語だと「こおり(氷、郡)」のように(コー)と長母音で発音することがある。しかし「たきのおと」の場合、単語の切れ目が来るため、よほどルーズに発音しない限り「ノー」と伸ばす音にはならない。「の」と「お」のあいだに一瞬息を止め、吐き直すのが普通だ。こうした息継ぎは、今日の言語学では独立した音素とみなされている。つまり、これは(horoto)と(no'oto)であり、完全韻として問題がない。
 これはai,oi,au等の場合も同じで、英語などの二重母音の発音とは質的に異なる。英語でaiと発音する場合、iの音は単独で発音するiの音ではなく、aの口の形からiの口の形に向けて連続的に変化し、完全なiの音になる前の曖昧な音にまでしかいかない。これに対し、日本語のaiはa'iと独立に発音する。日本語でも韻が連続する場合、たとえば「青い葵」と言う場合でもa'o'i'a'o'iであって、決してこれを六重母音とは言わない。この「'」はあくまで一つの独立した音素であって、一つの子音と数えることができる。つまり、「子等が遊び/空が青い」という韻も完全韻とみなすことができる。
 (二)母音の性質を異にするもの
 これも発音上、母音の組み合わせに親疎の別がある。たとえばアとイは遠いが、アとオ、アとエは音的に近い。「煙草盆」と「将棋盤」に比べて、「煙草盆」と「ビール瓶」ははるかに韻としては異なる。これは母音が二つの周波数のピーク(フォルマント)によって構成されるため、上下のどちらかのフォルマントの一致する場合は音響的に類似する。これを図にすると、こうなる。

        
    / E───A
   I   │    │
    \ U───O

      

 ここで隣接する韻は比較的違和感が少ない。また、韻を踏む量が大きい場合、一音だけが異なっていても、それだけ違和感が少なくなる。たとえば「ノートに書き留め/今日より明日へ」の場合、どこが違っているのか、注意しないと見落とす。これと「煙草盆/ビール瓶」はともに不完全韻ではあるものの、かなりの程度の差がある。
 (三)子音の性質を異にするもの
 これは今日では子音の別を無視するので問題にならない。
 (四)母音または子音の応和の位置の転倒しているもの
 これも子音の転倒に関しては問題にならない。「快走/虹彩」のような母音の転倒のみ不完全韻とすればいいだろう。
 (五)応和してゐる音の結尾に更に他の音をつけたもの
 これは今日のラップでもしばしば見られる。不完全韻と言えよう。
 (六)同音異義の語
 これは今日では問題にならない。
 (七)同語の反復
 これは(六)とは違い、不完全韻としたほうがいいだろう。それは音響的な問題ではなく、意味的な発展性がないからだ。
 最初に述べたように、これらの不完全韻は決して杓子定規に排除されてはならない。俳句や短歌にだって字余りがあるように、不完全韻には不完全韻の味がある。九鬼もはっきりこう言っている。「要するに、すべての不完全韻は必ずしも美的価値の欠乏を意味するわけではない。単に正式の韻から何らかの意味での疎隔を示してゐるまでのことである。((『九鬼周造全集 第四巻』P,374)私はむしろ「不完全」という言い方自体価値的判断を含んだものなので、単に強い韻、弱い韻として区別したほうがいいのではないかと思う。(六)の同音異義語と(七)の同語反復を除けば、九鬼の言う不完全韻は弱い韻だといってもいいのではないか。

結び

 ライムは音声に何らかの秩序を見出そうという生理的な欲求から、いつでもどの地域でも自然に生じうるものであり、それがその文化の詩の一つの技法として社会的に定着したとき、一つの押韻文化が形成される。それらはそれぞれの言語の特質を反映したものであり、唯一これじゃなければいけないという押韻法が存在するわけではない。われわれが九鬼のライムを考えるとき、それを偉大な先人の説として金科玉条にするのではなく、むしろ九鬼流のライムがほとんどわれわれの文化に定着しなかったことを考えるなら、九鬼説にとらわれずよりよい押韻法を求めるべきであろう。
 今日のヒップホップの押韻ももちろん唯一の答ではない。それどころか、ヒップホップの押韻法はMC(ラッパー)によっても様々で、試行錯誤の段階といってもいいだろう。ライムは進化し続けなくてはならない。そしてきっと九鬼周造もそれを望んだであろう。

参考文献

   『九鬼周造全集』岩波書店


J-popの作詞と俳諧の手法

技巧のデパート

 一九七○年代くらいまでは流行歌というと演歌と歌謡曲が中心で、それに時折フォークやニューミュージックが入り込んでくる程度だった。それに比べると、今日のJ-popははるかに多様化している。
 演歌や歌謡曲の作詞はほとんどがプロの作詞家の手によるものだったが、今日のJ-popではプロの作詞家が作詞する比率はそう高くない。ロック系、フォーク系、ヒップホップ系、ソウル系、テクノ系、レゲエ系などの作詞はほとんどがミュージシャン自身によってなされているし、アイドル系でもアイドル自身が作詞するケースが増えている。その作詞方法も、ミュージシャンが売れるかどうか意識することもなく自由にやる場合もあれば、テーマや内容までスタッフとの企画会議での綿密な販売戦略によって決まっている場合もある。また、詞が先か曲が先かという問題にしても、曲が先のケースが大半を占めているものの、一概には言えない。
 こういう状態だから、J-popの歌詞について、一括して論じることはほとんど困難で絶望的なことだろう。そうしたなかで一つ言えるのは、J-popがそうした多様性を含んだ空間であるということ、つまり何でもありの場所だということだ。そこでは古典から現代に至るありとあらゆるテクニックがごちゃ混ぜに用いられ、まさに技巧のデパートという感がある。
 J-popはいわゆる軍歌や唱歌の類とは違い、社会や集団の結束や意思統一を計り、士気を高めるために「歌わせる」ことを意図したものではない。どんな偉い人の作品であれ、大衆は「聞かなくてはいけない」だとか「歌わなくてはいけない」という意識でもって受け止めることはない。そのため、移り気な大衆の心を捉えるために、あの手この手を使うのは当然のことだ。そうしたなかには、いわゆる近代文学では忘れられたような古い古典的な技法が至る所に残っている。特に江戸時代の俳諧の様々な手法が、浪曲や民謡などを経て今日に受け継がれていることには、注意してもいいだろう。

俳言という発想

 俳諧がそれまでの和歌や連歌と区別されるのは、俳言の使用によってだった。俳言とは雅語でないものを一般に指す言葉で、俗語、方言、漢語、外来語などを指すが、それらはしばしばミスマッチな言葉を放り込むことで笑いを誘うために用いられてきた。たとえば芭蕉の「梅が香にのっと日の出る山路かな」の句は、初春の厳かな日の出のイメージに「のっと」という卑俗な擬態語を入れることでおかしみを持たせたものだった。
 古い歌謡曲でも、こうした技法はしばしば見られる。守屋浩の『僕は泣いちっち』(浜口庫之助作詞作曲)のような使い方がそれだ。失恋の暗い歌でも俳言を使うことで明るく親しみやすいものになる。五木ひろしの『よこはま・たそがれ』(山口洋子作詞)でも失恋の暗いムードをかきたてる歌詞の後に、サビで「あの人はいっていってしーまった」と無意味な同語反復をすることで俳言の効果を出している。歌というのは、悲しいからといっても絶望に陥るために歌うのではない。むしろ救いを求めるからこそ歌う。だから、悲しい中にもどこか遊びを入れ、気持ちをなごませようとするのは当然だ。森山良子が歌い、最近ではTHE BOOMも歌っている『さとうきび畑』(寺島尚彦作詞作曲)のあの「ざわわ」の繰り返しも、同様の効果を持っている。
 最近では宇多田ヒカルも俳言の効果をうまく使っている。『traveling』では曲の途中に「どちらまで行かれます/ちょっとそこまで」といったタクシーの運転手との会話を折り込んだり、そのあとでは「ふいに我に返りクラリ/春の夜の夢のごとし」だとか「若さ故にすぐにチラリ/風の前の塵に同じ」といった、『平家物語』の冒頭の有名なフレーズを換骨奪胎している。同じ宇多田ヒカルの『SAKURAドロップス』という曲のタイトルも、雅語でいうなら「花の露」だろう。それを「桜」という和語と「ドロップ」という英語とをミスマッチさせることで、俳言の効果を出している。芭蕉の「芭蕉野分」や「狂句木枯し」の造語感覚に近い。

出典のある言葉

 演歌や歌謡曲の作詞では、昔からよく「手垢の着いた言葉を使いこなせれば一人前」とか言うらしい。誰もが知っているような言葉は、言葉自体が豊富なイメージを持っている。たとえば「桜」という言葉には、『古今集』の時代から和歌に詠まれ、様々な文学作品の中に登場し、たくさんの物語の連想が含まれている。「雨の中、傘もささずに」といったよくあるフレーズも、実は芭蕉の「笠もなき我をしぐるるかこは何と」の句にまで遡れる。聞く人にいろいろな想像をふくらませるには、こうした言葉を使わないという法はない。しかしまた、こうした言葉を使いこなすには、そうした言葉の過去の歴史を知っていなければならない。更に言えば、言葉の過去を知っていても使い方に新味がなければ、どうしようもなく月並になってしまう。それを避けるには古い言葉に新しい解釈を与えるのが一番いいのだが、実際は俳言を交えることで組み合わせを新しくするほうが多い。
 サザンオールスターズの『TSUNAMI』(桑田佳祐作詞作曲)も一見すると月並な言葉の羅列に見える。たとえば


 人は誰も愛求めて
 闇に彷徨うさだめ
 そして風まかせOh, My destiny
 涙枯れるまで


といった調子だ。しかし、「Oh, My destiny」と唐突に英語が入ることで、これが俳言の効果を上げ、変化をもたらしているし、デステネーと訛ることで脚韻も踏む。
 出典のある言葉というのは、単に歴史を持った言葉を使うというだけでなく、明白にある過去の作品をイメージさせることを狙って用いられることもある。古典でも、たとえば「蓬生に」というだけで『源氏物語』の一場面を連想させたり、梅に月ということで『伊勢物語』の「月やあらぬ」の場面を連想させたりすることがしばしばあった。中世の和歌や連歌では、こうした言葉の出典は古典に限定されていたが、江戸時代になると謡曲の一節や仮名草子、それに芸能の言う決まり文句のようなものまで、様々なものに拡大された。其角の「ゆづり葉や口にふくみて筆始」の句は正月の万歳の祝言「ゆづり葉を口に含み、五葉の松を手にもちて」から来ている。
 今日ではそれに加え、映画、漫画、CMコピー、過去のヒット曲のフレーズなど、様々なものが出典のある言葉として用いられている。たとえば、一九七九年のサザンオールスターズの『勝手にシンドバット』というタイトルは、沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンクレディーの『渚のシンドバット』との合成で、この二つのヒット曲の内容を知っていれば、「浜辺で勝手にナンパやってろ」という意味になる。一九九○年のたまのヒット曲『さよなら人類』(柳原幼一郎作詞)の「今日人類が初めて木星に着いたよ/ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ」のフレーズにしても、映画『猿の惑星』のイメージで、核戦争による人類滅亡の恐怖を風刺した歌だとすぐわかるようになっている。
 最近の長渕剛の『静かなるアフガン』(長渕剛作詞作曲)にも「海の向こうじゃ戦争がおっ発まった/人が人を殺し合ってる/アメリカが育てたテロリスト/ビンラディンがモグラになっちまってる」というフレーズがある。ここでいう「モグラ」は地下に潜っているという単なる比喩ではない。これは七十年代後半に一世を風靡したモグラ叩きゲームのイメージだ。

「興」という発想

 今日でも「興がのる」だとか「興ざめ」だとかいうが、興とは本来『詩経』でいう詩の六義の一つで、花鳥風月などから情を読み取り、それに共感するかのように自分の情を述べてゆく技法だ。『詩経』の「桃の夭々たる/灼々たる其の華/この子于に歸ぐ/其の室家に宜しからん」などは、その基本的なものといえよう。この場合、景色はあくまでも実景だから、単なる比喩として引き合いに出されているのではないし、そこから引き出される情に主眼が置かれるので客観写生でもない。対象の持つ生命や情に共感することによって両者が不可分に結び着き、主客未分の世界を生み出すのを特徴とする。この手法もよく使われる。
 たとえば、THE BOOMの『島唄』(宮沢和史作詞作曲)では「でいごの花がさき/風を呼び嵐が来た」で始まり、花が咲いては嵐に散ってゆく悲しみを引き出し、そこに「ウージの森であなたと出会い/ウージの下で千代にさよなら」と展開させ、主観的な情を述べてゆく。寺島尚彦作詞作曲の『さとうきび畑』も、さとうきび畑を駆け抜けていった風に戦争の悲しさを託している。こうした手法は、花鳥風月が単なる物理的対象ではなく、情をもつ生きた存在だと捉える東アジア的なアニミズムを基礎としている。西洋詩学一辺倒のいわゆる現代詩ではあまり用いられないが、こうした考え方は大衆の間には根強く残っている。
 明治以降、日本の文学もまた西洋に追い付け追い越せということで、伝統的な手法を軽視したり、時に排除したりしてきた。しかし、それらの諸技法は消えることなく、今でも大衆文化のなかに引き継がれている。もちろんここで紹介したのはそのほんの一部分にすぎない。


田村隆一、錯乱の旋律

 二○○一年の六月三日に『緑の思想、Green Thought』という白石かずこが田村隆一の詩を読むという朗読会に招待され、聞かせていただいた。音響に若干問題があったのか、時折声はエコーがかかりすぎて輪郭を失い、意味のよく分からない言葉のメロディーがさながら見知らぬ外国語の海に投げ出されたかのように響き渡ることがあった。しかし、だからこそ、田村隆一の詩のメロディーが、意味と切り離されて、それ自体独特な世界を形作っているのに気付くことができたのかもしれない。
 田村隆一の詩が音楽的なのは、決してラップが音楽的だというような意味で音楽的なのではない。ラップにはリズムトラックによって刻まれる延々と反復するリズムパターンがあって、声は時折それに反するような言葉自体が持つ異質のリズムを刻む。8ビートにたとえば6/8ビートの言葉が乗ったとき、二つのリズムのずれから言葉がリズムトラックを離れて浮きたってゆき、強力なフロウが生まれる。ラップだけでなく、こうしたフロウはポップスの歌詞一般に見られるし、七五調の伝統音楽や和歌俳諧でも字余りの際には自然に生じる。螢の詩の朗読もまた根底にリズムを持ち、そのリズムに対してフロウのある詩を乗せてゆく。
 これに対し、田村隆一の詩はベースとなるようなリズムトラックが存在しない。詩の内部に隠されたリズムパターンを持たず、言葉自体が呼吸のリズムによって旋律を奏でてゆく。短いフレーズは短い呼吸のリズムで、長いセンテンスは長い呼吸でもって自在に伸縮してゆく。どんなに長いフレーズでも、決してリズムが圧縮されてフロウを生み出すことはない。言葉は一定の早さで淀みなく流れてゆく。根底に決まったリズムパターンがないため、こうした詩とフリージャズを組み合わせるのは当を得ている。少なくとも田村隆一の詩をラップしようなんて思わないほうがいい。確かにあの日の朗読はフリージャズの演奏とみごとに溶け合っていた。
 言葉にはそれ自体、高低のメロディーがある。それはアクセントのことではないし、中国語やタイ語のような声調のことではない。言葉の高低はそれ自体意味を持っている。落ち着いて話すときには落ち着いて話すときの音程があり、興奮して喋るときには興奮して喋るときの音程がある。低く押し殺して喋るときにはその音程があり、絶叫するときにはその音程がある。声の高さには意味がある。言葉のメロディーもまたそれ自体意味を持っている。
 大まかに言うなら、こうした音程はそのまま感情の高ぶりを示す。冷静で落ち着きを持って真剣に語ろうとすれば言葉は自ずと低くなり、まして自分が冷徹な人間であることを示そうとすれば低く抑えたいわゆる「ドスの利いた」声になる。これに対し、興奮し、感情が高ぶるにつれ声は高くなり、絶叫に至ったとき、その声は動物の鳴き声でいう警戒音の音域に達する。おそらく、こうした音程によるメッセージは、人類がまだ言語や音楽を獲得するはるか以前、まだ猿の声を上げていた時代の名残なのだろう。
 こうしたメロディーは文法にも微妙に反映されている。大体どこの国の言語でも主語述語のような文の根幹をなす部分は一定の音程を保ち、目的語や補語や修飾する語句はそれより高い位置に来る。ただ、これらの言葉でもメッセージを強調しようとすると、そこだけ基音よりも低くなる。たとえば「僕は愛す」という文の根幹に「僕は君を愛す」と目的語が入ると「君を」の部分が高位に来る。ただし、「君を」というところを力強く強調しようとするとかえって低くなる。I love youでもJe t'aimeでも同じ高低が見られる。アクセントや声調のある言語でも、こうした高低は一つの根底のメロディーを作り出している。
 さて、ここで田村隆一が得意とする一つのパターンを見てみよう。


 一篇の詩が生まれるためには、
 われわれは殺さなければならない
 多くのものを殺さなくてはならない
           (四千の日と夜)


 わたしは地上の死を知っている
 わたしは地上の死の意味を知っている
           (立棺)


 その声は遠いところからきた
 その声は非常に遠いところからきた
           (三つの声)


 小鳥を見た
 ちいさな欲望から生れ
 ちいさな生にむかって慄えている小鳥をぼくは見た
           (日没の瞬間)


 これは一つの根底的なパターンとなる。短い一つの文章に新たに一語が加わると、その言葉が一つ高い音程に収まる。そして次にさらにたたみかけるように夥しい数の目的語、補語、修飾語を付け加え、長いセンテンスを生み出すと、これらはすべて高い音程に収まり、文章全体のトーンを押し上げ、上ずった高いトーンの連続となる。たとえば「僕は愛す」では低音程の言葉だけだが、「僕は君を愛す」とすると「君を」が高音程に来る。その上「僕は君をとてもとても心から愛す」とすれば、「君を」から「心から」まで長い高音程のセンテンスが生じる。この方法で延々と引き伸ばしてゆくことができる。「僕は君を、君の髪、君の唇、ちょっとした仕草から君の生き方から…すべてを何から何までとてもとても心から愛す」と、いくらでも高いテンションの言葉を吐き続けることができる。


 その声は遠いところからきた
 その声は非常に遠いところからきた
 あらゆる囁きよりもひくく
 あらゆる叫喚よりもたかく
 歴史の水深よりさらにふかい
 一○八三○メートルのエムデン海淵よりはるかにふかい
 言葉のなかの海
 詩人だけが発見する失われた海を貫通して
 世界のもっとも寒冷な空気をひき裂き
 世界のもっともデリケートな艦隊を海底に沈め
 われわれの王とわれわれの感情の都市を支配する
 われわれの死せる水夫とわれわれの倦怠を再創造する
 その声は遠いところからきた
 その声は非常に遠いところからきた
           (三つの声)


 三行目から十三行目まで文章は途切れない。一気呵成にのべつまくなしに高い音程のままの高いテンションを維持した言葉の連続が生まれる。これが篠田一士をして「ここでは言葉はほとんど楽音と同じように扱われている。音型はまったく同じで、フレージングが変るだけだということもできるのだ。当然そこには反復による単調さ、あるいは安易にもとづく弛緩が予想されるが、実際この作品を読むものが経験するのは、それとまったく正反対の、異常な興奮であり、めくるめくような衝撃であり、さらにこの世のものとは思われぬ、かがやかしい抽象世界への沈潜に外ならない」と言わしめた田村隆一の詩の技法なのである。
 『三つの声』という詩はその技巧がもっともはっきり現われている例だが、多くの作品では必ずしも同じフレーズを反復するのではなく、反復されるべきフレーズを省略したり、やや違ったフレーズで置き換えたりする。『腐敗性物質』の冒頭もまた


 魂は形式
 魂が形式ならば
 蒼ざめてふるえているものはなにか
 地にかがみ耳をおおい
 眼をとじてふるえているものはなにか
          (腐敗性物質)


というもので、二行目の「魂が形式ならば」は「地にかがみ」以下にも掛かる。つまり「魂が形式ならば、蒼ざめてふるえ、地にかがみ耳をおおい、眼をとじてふるえているものはなにか」という反復するフレーズを省略している。『枯葉』のような短い詩でも基本的には反復されるべきフレーズの省略と見ることができる。


 そして
 かれらは死んだ 緑の
 血もながさず


 土にかえるまえに
 かれらは土の色に
 一つの死を死んだ沈黙の
 色にかわる
            (枯葉)


 これはたとえば次のように書き直すことができる。


 そしてかれらは死んだ
 緑の血もながさず(にかれらは死んだ)


 土にかえるまえに
 かれらは土の色に
 一つの死を死んだ沈黙の
 色にかわ(って死んだ)


 しかし一方で、高音程の言葉はメッセージ的には弱く、感情の高ぶりだけを延々と伝え続ける。そこに錯乱の旋律が生まれる。このメッセージの弱さは言葉からリアリティーを奪い去り、宙に浮いた言葉だけの上滑りした虚構の世界を形作る。田村隆一は死や恐怖や殺戮や破滅のような刺激に豊んだ言葉を好んで使うようだが、これらの言葉がほとんどリアルな響きを持たず虚構となることによって、感情の高ぶった言葉は一つの狂気の世界を構成する。たとえば


 鳥の目は邪悪そのもの
 彼は観察し批評しない
          (言葉のない世界)


のようなフレーズも、実際に森の中で小鳥に出会ったときの経験とは離れ、一種の被害妄想的な世界に誘い込む。「この世のものとは思われぬ、かがやかしい抽象世界への沈潜」という篠田一士の評は、まさにそれが意図的に計算され装われた狂気の表象だからこそ、リアリティーがないからこそ可能なのである。それが田村隆一の詩の最もいいところでもあれば、最大の欠点でもある。
 逆に一つ一つの言葉にリアリティーを与えようとすれば、高音域に来る言葉を極力少なくしなくてはならない。短い二語か三語くらいの文章で、基底音だけを響かす、そういうやり方もまた可能であろう。そういう逆田村隆一的な詩はたとえばこのようなものか。


 微動もしないモノかげ
 トリのくちばし
 いのちの危機
 わずかなしあわせ
 閃光
        (螢『びんぼう草』より)


 田村隆一の詩はあたかも街角に立つ怪しげな預言者のように狂気に満ちた意味不明の言葉を巻き散らし続ける。そして、その詩の評価は結局その狂気を装った言葉がどれだけの隠された真実を含んでいるかで決まるだろう。そのためには音楽の問題だけではなく、当然詩の意味そのものの解読に入らねばならないのだが、今急ぐことはあるまい。錯乱の旋律を生み出す技法の発見、それだけでも田村隆一は日本の詩の歴史に対し、大きな貢献をできたことには変りない。
 なお、この技法は実は『万葉集』にそのルーツを求めることができるかもしれない。田村隆一も多分知っていただろう。この有名な柿本人麿の長歌を。


 芦原の瑞穂の国は
 神ながら言挙げせぬ国
 しかれども
 言挙げぞわがする
 言幸くまさきくませと
 つつみなくさきくいまさば
 有磯波ありても見むと百重波千重波にしき
 言挙げすわれは
 言挙げすわれは
     (『万葉集』巻十三、三二五三)


 たとえこの神国日本が言挙げを拒む国であろうとも
 わたしは言挙げする
 世界が平和でみんなが本当に幸せになれるようにと
 何事もなく永遠に幸せでいられるようにと
 荒磯に打ち寄せる波の百の波濤と千の波濤にかえて
 言挙げするわたしは
 言挙げするわたしは


 人麿に限らず、万葉集の長歌に特有な対句の多用や長い序詞が全体のテンションを高めるための技法として発達したのだとすれば、万葉調を新たな角度から捉えることも可能だろう。その意味では、田村隆一の詩は斎藤茂吉以上に万葉調だ。

参考文献

『田村隆一詩集』1968、思潮社現代詩文庫1
『続・田村隆一詩集』1993、思潮社現代詩文庫110


田村隆一の『芭蕉・夢七句』

一、芭蕉の虚実

 虚実というと今日の我々は目の前にあるこの現実の世界が「実」で、夢や空想の世界が「虚」だと考える。しかし、芭蕉の時代は実は逆だったと中村幸彦は言う。中村によると、西山宗因の言葉に
 「抑、俳諧の道、虚を先として実を後とす。和歌の寓然連歌の狂言なり。連歌を本として連歌を忘るべしと、古賢の庭訓なるよし」(『阿蘭陀丸二番船』)
という場合の実は「人間の心情」、いわゆる和歌の「本意本情」であり、虚は「五感に感ずる事物事象」だという。そして芭蕉の弟子である各務支考の言う「虚にゐて実をおこなふ」という有名な蕉門の虚実論も、客観的な事象でもって真実の情(誠)を表現するという、客観性重視の論だとしている。(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦、1889、富士見書房、P,7~9)
 これは確かに十分考えられることだ。仏教では形あるものは空で現世は夢幻だという。日本の伝統的な世界観でもこの世はうつろいゆく「うつせ」で、あの世のことを「常世」と呼ぶ。西洋でもカント哲学では現象と物自体とを区別し、現実の世界をErsheinung-(見せかけ、現象)と呼ぶ。目に見える世界はあくまでも見せかけのイドラ(偶像)であり、真実の世界は目に見えない理想(イデア)の世界だとするのもプラトン以来の世界観で、アリストテレスも「本質は実存に先立つ」という。こうした世界観は近代以前の社会ではごくすんなり受け入れられるものだった。というのも、科学技術が未発達で、人間が知っている知識というのはいつでも不確かで、当てにならないものだったからだ。だから当てにならない不確かな知識より心に直接感じ取れる世界のほうが確かだと思うのはごく自然なことだった。むしろ、今日あまりに科学が精密で確かなものになりすぎてしまったために、目に見えない人の心の中のことがないがしろにされているのだろう。
 『古今集』の仮名序に「人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とあるように、本来詩歌は物事を描写したり写生したりすることより、気持ちを伝えるということに重点が置かれていた。西行もまた明恵上人の伝えるところによれば、「華・郭公・月・雪すべて万物の興に向かひても、およそあらゆる相皆これ虚妄なること眼に遮り耳に満てり。‥‥略‥‥華を読むともげに華と思ふことなく、月を詠ずれどもげに月とも思はず、ただこの如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置くところなり。」と言ったという。様々な風情を詠んではいてもそれは見かけのことであり、歌を詠むことはあくまで仏像を刻むようなものだという。(『明恵上人集』1981、岩波文庫、P,151~152)芭蕉と同時代の儒学者伊藤仁斎もまたこう言う。「古人の詩は、みな咨嗟詠嘆の余に発して、一も事実に非ざるものなし。いわゆる性情にもとづくという、これのみ。後人のこと無うして強いて作るがごときにあらず。その感托するところ無うして、いたずらに光景に流連し、物象を模写するものは、かたどりがたきの景を写して、目前にあるがごとしといえども、畢竟徒作のみ。風雲月露、山川草木、もと天地おのずからあるのもの、詩人のこれを模写することをもちいず。」(『童子問』1970、岩波文庫、P,235)心は目に見えない。愛は目に見えないし、恨みや憎しみも目には見えない。それと同様に天地万物にも心があって、それは目に見えない幽玄の世界を形作っていた。芭蕉が「風雅の誠」と呼び、「造化」と呼んでいたのは、そうして自然の心だった。「見えないものを見ようとして‥‥」とはBump of Chickenのヒット曲『天体観測』にもあったが、それはおそらく今日でも変らない永遠のテーマなのかもしれない。

ニ、「君の夢を見ることができない」

 だいぶ前ふりが長くなったが、ここで田村隆一の『芭蕉・夢七句』というエッセイの問題に入ろう。このエッセイは胡適という中国の現代詩人の詩から始まる。英訳が引用されているが、最後の追記の部分に原文があるので、まずそれを引用しておこう。


   夢與詩

 都是平常経験、
 都是平常影象、
 偶然湧到夢中来
 変幻出多少新奇花様!


 都是平常情感、
 都是平常言語、
 偶然碰着個詩人、
 変幻出多少新奇詩句!


 酔過方知酒濃、
 愛過方知情重…
 你不能做我的詩、
 正如我不能做你的夢。


   夢と詩

 すべてが平常の経験、
 すべてが平常の形像、
 ふと夢の中に湧いて出て、
 変幻しあまたの新奇な模様となる!


 すべてが平常の情感、
 すべてが平常の言語、
 ふと詩人に出会い、
 変幻してあまたの新奇な詩句となる!


 酔ってはじめて酒の濃さを知り、
 愛してはじめて情の重みを知る…
 君は僕の詩を作ることはできない、
 ちょうど僕が君の夢を見ることができないように。
             (中野達氏訳)


 中国の現代詩人にふさわしく、この詩は現実的だ。現実の確固とした世界、平常の世界があって、そこにふと夢が入り込んだ時詩が生まれるという。そして、他人の夢を見ることができないように、誰も他人と同じ詩を作ることはできない。ここには芭蕉の時代のようなこの世は夢とみなし、心の中にこそ永久不変の真理があるという確信はない。このずれが田村隆一を『四千の日と夜』以来『緑の思想』に到るまで続いてきた狂気ともバッドトリップとも思える世界の表象を現実に引き戻していったのではないか。1973年の詩集『新年の手紙』はそれまでの詩集と一変し、それまでの幻想的な世界が急速に消えてゆく。
 たとえば『村の暗黒』では


 見えないものを見るのが
 詩人の仕事なら
 人間の夏は
 群小詩人にとって地獄の季節だ


と見えないものを見ようとする詩人に対し突き放した見方をする。そして、それはかつての田村隆一自身にも向けられている。『ある種の瞳孔』でははっきりとこう宣言する


 眼に見えないものを見る
 あれは撃鉄をひいたことのない
 群小詩人の戯言だ
 眼に見えないものは
 存在しないのだ


このテーマは『海の風』でもくり返される。


 眼に見えないものは
 存在しないのである 耳に聞こえないものは
 そんざいしないのである


『緑色の顔の男』では


 幻だけが実在なのだと
 ぼくらはあくまで信じていた


という反省とも取れる言葉が見られるし、それは


 夢見ないためにもっと想像力がいる
 ぼくらは『ぼくら』と別れるべきだ


と続いてゆく。そして同じ詩集のなかに、明らかに胡適の『夢與詩』の影響と思われる詩がある。


   われらにとって夢とはなにか


 われらは
 われらの夢を見ることができない
 ぼくはぼくの夢を見るだけだ
 ぼくはきみの夢を見るわけにはいかない


 たとえば
 あの野原である
 一本道だけ見えていてどこまでも歩いて行く
 秋とも思えるし春とも感じられる
 冬ではないことはたしかだ
 雪がないからだ 枯葉の音がしないからだ
 だしぬけにA女が泣き出す
 隣の部屋の木の寝台の上で
 おそらく死んだ母親の夢を見ているのだ


 ぼくは彼女の母親を知らない
 写真で見ただけだ


 そして
 夜明けになる


まずここで夢と呼ばれているのが何かを考えて見よう。ここでいう夢はまず第一による寝ているとき見る生理現象としての夢だ。ある女が隣で死んだ母親の夢を見て泣いているにしても、そばで見ている人にその夢の内容は分からない。それはあまりに自明なことだ。その意味で誰も「ぼく」の夢は見れない。各自が各自の夢を見る。「われらの夢を見ることができない」。これは単純なロジックだ。しかし、詩的幻想は果たしてこれと同種のものだろうか。ここに田村隆一の論理は飛躍する。詩的幻想もまた、詩人の個人の幻想として、他人の詩的幻想は見ることができない。そのため、いかなる幻想的な詩も「ぼくら」のものとはなることができず、群小詩人の戯言となる。

三、枯野の夢

 この詩集『新年の手紙』は『芭蕉・夢七句』の三年後になる。『芭蕉・夢七句』はこの『夢與詩』の


 君は僕の詩を作ることはできない、
 ちょうど僕が君の夢を見ることができないような。


の詩句から芭蕉の有名な


 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る


の句へとつながる。それは先の『われらにとって夢とはなにか』の「たとえば/あの野原である」の野原のイメージにも影を落としている。ただし、ここではあえて冬の枯野を嫌い、季節不明の冬ではない枯野として示される。つまり、これは芭蕉の夢ではない。芭蕉の夢は見れない。芭蕉のいう枯野の夢の内容がどのようなものだったのか、それはテーマにすらならない。そこからこのエッセイは始まるといってもいいだろう。そして、そのあとの芭蕉の発句における「夢」についての分析は、精密ではあるが、あくまで現代的な虚実の転倒の中でくり広げられる。夢は夜寝るときに見る生理現象であって、他人の夢は見れない。そして詩的幻想もまた詩人個人の夢にすぎないという前提で進んでゆく。そして、最後にこう結ぶ。
 「臨終にあらわれた初源的な『夢』について、ぼくはあらためて書く気はない。」
これはあくまで他人に夢が見れないことの確認、つまり実際臨終の間際に芭蕉がどんな夢を見ていたかは知りえないという確認にすぎない。そのあとこう続く。
 「この『夢』の体験こそ、ぼくらが通常口にする『詩的体験』にほかならないからだ。ぼくはただ、『夢』のなかに入って行くまでである。そして、歴史的意識こそ。」

四、超越としての夢

 芭蕉にとって夢とは自分の夢であるとともに古人の夢だった。西行、宗祇、雪舟、利休、もちろんそれだけでなく、旅に死んだすべての古人の満たされぬ思いこそ、芭蕉の夢だった。そして、それは歴史的意識に留まることなく、全人類の根本的な夢に到る可能性を持っていた。悲惨な現実、終らない生存競争と戦争、憎しみあい、恨みあい、いつになっても訪れない心の平和、不条理な死、そうしたものから逃れたいと思った時、それは歴史を越えて万人の夢になる。永久平和、ユートピア、黄金時代、先王の治世、呼び方は変っても人が普遍的に求めているものがある。それらは眼には見えないし、耳には聞こえない。だけど存在する。芭蕉が伝統を受け継ぐとはそうした古人の魂を受け継ぐことに外ならない。
 田村隆一の芭蕉の夢についての分析は正確だし、当を得ている。ただ、一つ惜しむのは、なぜそこで「伝統」の肯定に到らず、伝統とつながることを拒絶して「個」の中に閉じ篭ってしまったかだ。古人ではなく個人を選んだ。ここにおいて私は詩人としての田村隆一は死んだのではないかと思っている。そして、『緑の思想』は実質的に彼の最後の詩集となったのである。
 芭蕉のいう夢とは生理現象としての夢ではないし、何らかの幻覚による虚像でもない。それはむしろ「超越」とでもいうべきものだった。この言葉が観念的だというのなら、「祈り」と言い換えてもいい。現実が常に争いに満ち、この世に戦争というものがなくならないものであったとしても、我々は永久平和を求めることができる。そして、そのための社会システムを考案したり工夫改良したりすることもできる。それは幻想ではない。一つのアイデアである。今までにない発想、今までにない考え方、新しいアイデア、つまり「イデア」を可能にするのは、我々は過去の既存の認識に拘束されるのではなく、それを超越し、変革できるということに他ならない。
 世界が主観的な認識図式によって再編された客観的な物質の世界なのに対し、超越とはその認識図式を無限に作り直す可能性である。「超越」なんていうと何か神秘主義的なニュアンスを感じる人もいるかもしれないが、私は十分に物質的説明も可能だと思っている。というのも、生物は日々変化する環境に適応するために、認識に可塑性を持たせる方向への進化の道を開いてきたからだ。ある段階で生物は認識システムを実際の知覚経験に照らし合わせて変更できるように変えた。このメカニズムの発明は、おそらく意識の発生の問題にも関わってくるであろう。生得的な認識図式であっても、一度学習された認識図式であっても、それが状況に応じて絶えず変更できるように可塑性を保つ。人類がこうした進化の頂点にあるのは間違いないだろう。現象界は人間の生得図式及び後天的に学習されたによって表象された世界であり、超越とはその変更の可能性だと考えれば十分物質的に説明できる。もちろん、私とて物質的な基礎を超えて、すべての物質に先立つ先験的・超越的な真理が存在するという超越哲学を信じるつもりはない。
 固定された認識よりも過疎的で自由度の高い認識能力を持っていた方が、日々変化する環境への適応に有利に働くとすれば、従来の認識を覆えすような体験に快楽を覚えたり、進んでそれを求めるような行動パターンが進化したとしても何ら不思議ではない。そう、私は人間の芸術への欲求も、本来危機管理能力の一つとして進化した一種の本能ではないかと思っている。日常的な「わかった!」「なるほど!」と思った時の目から鱗の落ちるような体験、心理学でいうA ha!体験、それが量的に大規模に生じたときに、いわゆる法悦だとか悟りだとかいう体験になる。これは何ら神秘的な特別な体験ではない。認識図式を変更したときの報酬として、そのような脳内物質が分泌されるようにプログラムされているだけのことであろう。
 詩が与える「夢」もそういった超越が生み出す光りであり、寝ているときに見る夢ではない。夢というのは日常的には多義的に用いられる。寝ているときに見る夢も「夢」だし、子供が「大きくなったらサッカー選手になりたい」と言ったり、サラリーマンが「いつか独立して社長に」と思う、いわば個人的な願望も「夢」と呼ぶ。しかし、詩的幻想はこうした「夢」とは明らかに異なる。それがわかれば十分であろう。芭蕉の夢は十分共有可能である。それは一つのアイデア(イデア)であり、それを伝達することは可能だからであり、まさにそれが詩人の仕事なのである。

参考文献

『田村隆一詩集』1968、思潮社現代詩文庫1
『続・田村隆一詩集』1993、思潮社現代詩文庫110


芭蕉「閑さや」の句

 芭蕉の


 閑さや岩にしみ入蝉の声


の句は今日では教科書にも載ったりして、試験にも出るということで、みんな覚えさせられた経験がおありだろう。ところで、この句の説明はというと、山寺で静かに心を無にすれば、うるさく鳴いていた蝉の声も静かに聞こえるといった、はなはだ精神主義的で面白くない解釈が一般的だ。参考までに尾形仂の『松尾芭蕉』(1989、ちくま文庫)を引用しておこう。
 「この句が『おくのほそ道』中で絶唱とされるのも、…中略…作者の心が主客の差別相を通り抜けて、蝉の声と一つに融けあい、重厳の内奥深く浸透して、一種宗教的ともいうべき一大閑寂境に到達しているからだといっていいだろう。その景情の一枚になった澄心の世界は、禅定悟入の境地を思わせさえもする。」
しかし、禅の境地とはいっても、この句の詠まれた立石寺は禅寺ではなく密教の寺だ。
 教科書的な解釈というのも一つの権威ではあるが、それだけでは面白くない。そこで私ゆきゆき亭としては、もう一つ別の解釈を提示し、この句が実はもっと多くの謎を含んだもので、皆様にいろいろと推理する楽しみを与えることができれば、と思っている。

四つのバージョン

 この「閑さや」の句は、芭蕉の句の制作過程をたどる意味では、もっとも重要な句の一つだといってもいい。というのもこの句には四つのバージョンが知られているからだ。一つは、昭和に入ってから曾良の『随行日記』とともに発見された『俳諧書留』の


   立石寺
 山寺や石にしみつく蝉の声


の句で、これが元禄二年の『奥の細道』の旅の途中に作られたと思われる。もう一つは元禄八年刊の壷中・芦角編『こがらし』にみられる


 淋しさの岩にしみ込む蝉の声


もう一つは元禄九年刊の風国編『初蝉』ので


 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ


とある。『奥の細道』の書かれたのが元禄五年頃とされていて、最近発見された自筆本『奥の細道』にも今の姿で書かれているから、この二句はそれ以前の推敲過程のものが何らかの形で伝わったもので、刊本『奥の細道』(素流本)が出たのが元禄十五年のことだから、完成形を知らずに掲載されたものだろう。
 たった十七文字の詩でありながら、着想から完成までに実に三年の歳月をかけており、ここに芭蕉の一語一句へのこだわりを見ることもできるだろう。

初案に現れた作意

 まず、元禄二年、実際に立石寺を見て、その印象で即興的に詠まれたと思われる初案を見てみよう。


   立石寺
 山寺や石にしみつく蝉の声


 芭蕉は正岡子規によって写生説の開祖に祭り上げられてしまったが、実際、芭蕉の句は初案に遡るほど作意がはっきりする句が多い。つまり技巧的で、しかもその技巧がはっきり表に出てしまっていることが多い。この句も「山寺の石に蝉の声が染み着いているようだ」というふうにすんなりと読み下すことができる。
 石というのは言うまでもなく立石寺の石で、寺の名前も石ヲ立テルと書く以上、立石寺の石は特別な意味を持っている。それがどういう意味なのかは、実際に行ってみれば一番よくわかるだろう。ここでいう石は実は墓石であり、それもただの墓石ではない。
 その特別な墓石に蝉の声が染み着いている。これは蝉の声が岩に染み込んで消えてしまったというのではなく、むしろ蝉の声が何十年、何百年にわたって石の中に蓄積されているというニュアンスだ。そうなると、この蝉の声は単なる物理的な音ではないし、ここではまだ静寂がテーマになっているわけではない。蝉の声は地上へ出て来てわずか一週間で死ぬという、兼好法師が「春秋を知らぬ」といった儚い命の象徴であり、それはこの墓地に眠る死者の魂を連想させる。何世代、何十世代にわたって儚い命の悲しげな泣き声がこの石に染み着いているようだ、というそういう意味になる。

作意を消す

 芭蕉の「山寺や」の句のその後の推敲は、作為のはっきり表に出てしまっているこの句を、いかに隠し込み、潜在意識に響かせるかの戦いといってもいい。そこに芭蕉の最高の技巧が用いられてゆくことになる。
 まず、前書きで立石寺だとわかっているところでもう一度「山寺や」と繰り返しになるのがいささかくどく、立石寺と石を掛けるのもわかりやすすぎてあざとく見える。また、「染み着く」の語感もきれいではない。そこで、


 淋しさの岩にしみ込む蝉の声


という第二の案になる。
 「淋しさの」を補うことによって、句の持つ情はよりはっきりする。ここでもまだテーマは、蝉の声に託された死者の魂の儚さにある。「石」は「岩」と改められることによって、掛け言葉のあざとさもなくなり、「染み着く」は「しみ込む」になることによって、より優雅な言い回しになった。
 しかし、強いて欠点を言えば、句切れの悪さだ。「淋しさの」だと「岩にしみ込む」は「淋しさ」と「蝉の声」の二つの主語を両側から受けなくてはならない。倒置法を解消して本来の語順に戻せば、この句は「蝉の声の淋しさの岩にしみ込む」となる。「蝉の声」を倒置することによってこの句の形になる。これを切れ字を使い、


 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ


とする。意味は変わらないが、句の切れはだいぶ良くなる。これでほぼ完成といってもいい。いや、並の作家ならこれで完成とするところだろう。
 しかし、芭蕉はさらに二つの変更を試みる。一つは「しみ込む」をさらに「しみいる」に変えるということ。そして、もう一つは「淋しさ」を「閑かさ」に変えるということだ。「しみ込む」だと水が地面にしみ込んだりするような、物理的な印象が強く残る。それに比べ「しみいる」という表現はよりメンタルな、「心にしみいる」という印象を与える。これによって、岩にしみいる蝉の声の静けさは、そのまま心にしみいるかのように響く。そのため「淋しさ」という表現は不要になる。蝉の声が心にしみいるなら、それだけで既に十分淋しいからだ。そこから「閑さ」が導かれてくる。
 この言葉は、これまでもしばしば指摘されてきたが、王籍の『入若耶渓』という詩から来た言葉だ。


   入若耶渓
 艅艎何泛泛 空水共悠悠
 陰霞生遠岫 陽景逐廻流
 蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽
 此地動歸念 長年悲倦遊


 大きな船は洋々と進み、空も水も果てしない。
 遠い山々に生じる霞の陰に、水の流れを追いかける陽の光。
 蝉は騒いで林はいよいよ静けさを増し、鳥が鳴いて山は更に奥深い。
 この土地に来ると居着きたくなり、長年の役人勤めが悲しく厭に。


 蝉の声の間断ない鳴き声は、人の耳にはかえって慣れを生じさせ、むしろ他の雑音を押し流して静寂感を与える。滝の音、雨の音、淡々としたリズムのBGMなどは皆同じような効果がある。あちこちから聞こえてくる蝉の悲しげな声も、その間断のなさがかえって静寂感を深める。その悲しく淋しい静寂が岩にしみ入ると共に、心にもしみ入ってくる。ここにこの句は完成する。


 閑さや岩にしみ入蝉の声


 この完成形には山寺の石も詠み込まれているし、そこに蝉の声が染み着いていることも詠み込まれている。しかし、そこには「立石寺の石」といったあからさまな言い方はないし、儚く何世代も死を繰り返していった人間の魂の叫びも、静寂の影に隠されている。

悟りきった芭蕉のイメージ

 さて、「閑さや」のこの句の推敲過程をたどってみると、この句は一見何でもないような静かで穏やかな句ではあるものの、裏に暗に死者たちの悲しげな叫びを潜ませていることがわかった。そう考えてみると、一体この句の悟りきった芭蕉のイメージは何だったのか。
 中世の連歌書『宗祇初心抄』(『連歌論集』下、1956、岩波文庫)には「述懐連歌本意にそむく事」という条項があり、そこにはこうある。


 「身はすてつうき世に誰か残るらん
 ひとはまだ捨ぬ此よを我出て
 老たる人のさぞうかるらむ


か様の句にてあるべく候、(述懐の本意と申は、


 とどむべき人もなき世を捨かねて
 のがれぬる人もある世にわれ住て
 よそに見るにも老ぞかなしき


かやうにあるべく候)歟、我身はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云たる心、驕慢の心にて候、更に述懐にあらず」
 つまり、俺はもう悟ったのだ、心に一点の迷いもないのだ、なんて句は傲慢の極みであり、自分のいたらなさを嘆いてみせてこそ救済への思いが読者に伝わる、というものだ。その意味では、悟りを説くならまず自分の迷っている姿を表に出せ、ということになる。芭蕉の句でも、


 みそか月なし千とせの杉を抱あらし


は月のない真っ暗闇を彷徨う自分の姿を描き出すし、


 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉


は、最初は鵜飼の殺生を楽しんでいる自分を描き、やがて悲しくというところに悟りへの道を表している。『奥の細道』での月山での


 雲の峯幾つ崩て月の山


もまた、煩悩の雲の沸き起こっては消えていったあとに、天台止観の真如の月を輝かせている。その意味では、『奥の細道』の立石寺の場面自体がそういう構成法を取ってないだろうか。

『奥の細道』の本文

 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚天師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。崖をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。


 閑さや岩にしみ入蝉の声」


 曾良の『随行日記』によると山寺には「未ノ下剋ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。」とあり、芭蕉『奥の細道』の記述がほぼ間違いなかったことがわかる。未の下剋は当時の不定時法だと、三時半くらいになる。それから宿を探し、落ち着いてからいざ山寺へということになると、既に日は暮れかかっていてもおかしくはない。ここで芭蕉はただでさえ夕暮れの寂しい時に、墓所となっている山寺の岩をめぐることになる。「松柏年旧」の「松柏」は見過ごされがちだが、漢詩では通常墓地を意味する。
 こうした静寂はやがて「仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。」とあるように、夕暮れの山寺の心細さは、仏にすがり、山頂から見る山水画のような絶景を眺め、その美しさに心和ませることによってのみ、しばし救われる。立石寺の「閑さ」はそうした心の変化を含めた上での静寂ではなかったか。

ヒグラシ説

 一般的には立石寺の蝉の声はニイニイゼミ説と油蝉説が有力である。しかし、私はあえてヒグラシ説に立ちたい。それは一つには、古典で蝉といえばヒグラシのことだったし、命の儚さ、悲しさを表現するには「かなしかなし」となくヒグラシをおいて他になかったのではないか。もちろんそれだけではなく、芭蕉が立石寺を訪れたのが夕暮れだったということもある。
 夕暮れのヒグラシの鳴く墓所を巡れば、寂しさ物悲しさに胸を締めつけられるばかりだ。おそらく、自分もいつかは墓の下へ行くのだろう。それなら一体今こうして生きているというのは何なのだろうか。そんなことを振り返らざるを得ない。
 満足な人生だったか。こうして旅をしている一瞬もやがて消え去ってしまうのだろうか。ここには何代にも渡ってたくさんのかつて生きていた人々が眠っている。一体その人たちは何を見たのだろうか。どんな人生を歩み、どのような思いで死を迎えたのだろうか。遥かな夢、満たされぬ思いを背負い、最後はこれが精一杯とあきらめて息を引きとったのだろうか。そんな取りとめもない思いに胸が締めつけられるような思いになりながら、ただヒグラシの「カナカナ」いう声だけが際限なく繰り返されている。それはまさに立石寺の岩の中にしみ入ってゆくかのように、かえって果てしない静寂を生み出してゆく。

共感という方法

 芭蕉に限らず、日本の伝統詩歌は対象への共感を基礎としている。花の咲くのを喜び、花の散るのを悲しむのは、花を命を持った存在として捉え、その命に自己の感情を移入することによって生じるものだ。
 もちろん、この感情移入は作者の主観かもしれない。しかし、もし共感というものが主観的にしか存在し得ないものだとすれば、他人が自分と同様の、人間として尊重すべき存在であることをどう証明すればいいのか。感情移入が移入する側の幻想にすぎないとすれば、いわゆる独我論(唯我論)に陥るしかないだろう。共感は物理学的な客観性とは異なるものの、何らかの客観性を持っているのは確かだ。
 詩はしばしばこの共感という、厳密に主観的でもなければ、厳密に客観的でもない場に生じる。芭蕉にとっての蝉も、この場合主観か客観かということは決定しづらい。蝉の声が悲しげなのは、蝉の儚い命への共感に基づくものだが、これは自分の人生の儚さを単に蝉に投影したというわけでも、蝉という存在が客観的に悲しさという属性を持っているのでもない。対象を描写するのでもなく、対象を何かのシンボルとして用いるのでもない。対象から共感的に喚起される情を、いわゆる「物の本意本情」と呼び、詩歌に不可欠な要素としてきた。芭蕉はあくまでその論理の中で句を作っている。
 しかし、このことは残念なことに明治以降、西洋から主客二元論の哲学が入ってきたため、日本の主客未分の共感に基づく詩歌は後進的とみなされ、芭蕉の発句にしても近代俳句の歴史の中では、客観的な事物を写生したという所に近代性があるとされてきた。そして、そうした客観写生の考え方に反発する者も、主観的な象徴詩や観念詩の枠組みの中で理解しようと試みたにすぎなかった。
 私が芭蕉をはじめ伝統詩歌に接する際、はっきり言っておきたいことは、私は客観写生の立場に立つものでもなければ、象徴詩の立場に立つのでもなく、あくまで伝統の立場に立つということだ。そして、それこそが芭蕉はもとより古典文学を正しく理解する道だと信じている。

死者の追悼と平和への祈り

 さて、芭蕉の立石寺での句は、蝉の声を通じて立石寺に埋葬された死者へと思いを馳せ、死に対し深く思いをめぐらす中で、ついに静寂を得るといったものだった。
 もちろんこうした死への不安は、芭蕉自身の個人的なものもあったであろう。芭蕉自身三十代の頃から持病をかかえ、『奥の細道』の旅の途中でも病魔に襲われている。元来屈強ともいい難い芭蕉にとって、この旅は生きて帰れぬとも知れぬ不安なものだったし、おそらくもう東北を旅できるのもこれが最後、という思いも強かっただろう。
 しかし、死への不安はそれだけではあるまい。東北といえば朝廷と蝦夷が長いこと民族紛争を繰り返してきた土地だし、東北に逃れた源義経が奥州藤原氏とともに頼朝の軍と戦い、非業の死を遂げた地でもある。芭蕉も旅の途中、しばしばその戦乱の記憶を呼び起こしている。
 たとえば、芭蕉は仙台へ行く途中、佐藤庄司の旧跡を尋ね、「人の教ゆるにまかせて泪を落し」ている。この佐藤庄司とは奥州藤原三代の一人藤原秀衡の家臣、藤原元治のことで、その息子嗣信・忠信は義経とともに平家と戦い、八島で戦死している。
 謡曲『接待』はこの佐藤庄司の家を舞台にしたもので、頼朝の軍に追われ東北に落ち伸びようとして山伏に化けた弁慶等十二人の一行を、そうと知らずに泊めるところから始まる。出羽の山伏を名乗るものの、言葉訛からばれてしまった弁慶等は、嗣信・忠信の老いた母に、二人の息子が戦死したことを伝える。嗣信は義経をかばい、平教経の息子菊王丸の矢に当たり落馬し、そのまま息絶える。忠信はその菊王丸が嗣信の首を取りに来た所を射て、仇を取る。しかし、それによって忠信は教経の息子の仇となる。
 いつの世でも戦争というのはそういうものだ。最初はどちらがやったかわからないまま、お互い親兄弟を失った憎しみを晴らさんと、殺戮を繰り返す。仇討ちは新たな仇討ちを生み、延々と繰り返され、どこかでそれを断ち切らないことには戦争は終らない。自分の親や子を殺されれば、犯人を殺してやりたいと思うのは、確かに人として自然の感情だ。しかし、どこかでそれを抑えなくては、人はいつまでたっても同じ過ちを繰り返すことになる。
 謡曲『接待』では、話を聞いた嗣信の子が弁慶に、仇を打ちたいから一緒に連れていってくれと言い、それを弁慶が断わるところで終る。芭蕉も佐藤庄司の旧跡でそんな悲しい歴史を思い、涙したのだろう。
 その佐藤庄司の家の跡は寺となり、芭蕉はそこで茶をいただき、寺に伝わる宝物を見せてもらったようだ。本当は曾良の書くところによれば義経の笈と弁慶筆の写経だったようだが、芭蕉の記憶違いで「義経の太刀・弁慶が笈」となっている。そしてそこで芭蕉は


 笈も太刀も五月にかざれ帋幟


の句を詠む。
 当時はまだ今日のような鯉のぼりや武者人形はなく、家紋を入れた四角い幟の上に、厚紙で作った人形や甲を飾ったという。芭蕉の句は義経の太刀や弁慶の笈も幟に一緒に飾ってくれ、というものだ。そこには戦争の悲しい記憶を風化させないでくれ、という願いが込められているように思える。
 芭蕉の平和への祈りといえば、そのあと奥州藤原氏三代の都、平泉を訪れたとき、あの


 夏草や兵どもが夢の跡


の句を詠んだことも周知のことであろう。
 私は蝉の声によって引き出された死者の魂の中に、こうした戦争で死んだ人々への鎮魂の意図も含まれていたのではなかったか、と思っている。少なくとも、この句は蝉の儚い悲しい命への共感と、立石寺の岩に葬られた死者への共感が基礎となって詠まれたもので、それが救済を求める祈りの声となったとき、本当の心の静寂が得られるのである。


俳諧と百姓一揆

 芭蕉に一揆の句はあるかと言われれば、ないと答えるのが適切だろう。理由は三つ考えられる。一つは、芭蕉の時代が土一揆や一向一揆に代表されるような、農民が本格的に武装蜂起して自治権の獲得を目指す中世的な一揆が既に終息した時代であり、一方で享保以降に多発する、幕藩体制の範囲内での仁政を求める、デモストレーション中心の近世的一揆のスタイルが確立される前で、つまり農村で争議はあってもそれが「一揆」という概念で認識されることの少なかった時代であったことが原因だろう。
 中世も特に戦国時代には、百姓同士の争いでも百姓と領主との争いでも、それを仲裁する幕府の機関が機能しないため、それこそ無政府状態にあり、要求を貫徹するにはとにかく実力行使しかなかったといってもいいだろう。これに対し、江戸時代は幕府の権力が十分機能しており、むしろ我々のイメージ以上に訴訟社会で、農民の不満もいきなり一揆という形を取るのではなく、まず代官所などへの合法的な愁訴を行い、それで解決できない場合に藩主や老中、将軍などへの越訴という順序を経るのが普通だった。越訴は建て前上非合法だが訴える側に非がなければ罰則もなく、実質的に上告審の役目を果たしていた。享保以降に多発する一揆も、基本的には越訴を補助するものであり、一揆はもとより徒党を組むこと自体が禁止されていた江戸時代にあっては、もちろん今日でいう団結権、団体交渉権、争議権はなく、まずまちがいなくその首謀者は死罪などの厳罰に処せられる。しかし、一方でそれと引き替えに仁政を獲得する例も多く、喧嘩両成敗の形を取ることが多かった。
 しかし、こうした事態が多発した背景には、享保以降の武士の財政難による年貢の値上げの動きがあり、米の増産と贅沢の禁止から、商品作物の取り引きなども制限する動きがあった。一揆の多くはこうした動きへの反発から起きたが、芭蕉の時代はむしろ農民の商品作物の栽培は始まったばかりで、むしろ綿畑などの珍しさを詠んだ句はあるが、それによって農民は豊かになることはあっても、一揆を起こすような状況ではなかった。
 もう一つの原因は、芭蕉の俳諧が中世的な風雅の道の復興に主眼が置かれていて、基本的には武士農民などの定住者のものではなく、そこから疎外されたものの立場を代表するものだった。故郷を追われ都市に流れ着くもの、度重なる改易による当時二十万人とも言われた浪人、出家僧などの、基本的に定住する土地を持たぬ者が中心で、芭蕉はそれを体現するかのように一所不住の旅に生涯を閉じた。芭蕉は中世的な公界の夢を追う立場から、人類の自由と平等を求め、蓑笠着た旅姿にそれを表現し続けたが、それは公界の無所有の立場からのものであり、農地の私有を求める農民の立場とはその点では相容れない。そのため、蕉門の俳諧では一般的に農民を外から眺める句はあっても、農民の立場で句を詠むということはほとんどなかった。
 もう一つは、農民が起こす非合法な争議について、当時どれほどの言論の自由があったか、という問題がある。流行を重視する芭蕉が世間で起きる事件に無関心ということはなかっただろう。しかし、直接あの事件をという形でテーマにするのは危険が大きすぎる。詠むとしてもやんわりとほのめかすようなものに留まらざるを得なかっただろう。そんな中で、きわめて稀な例であるが、芭蕉の延宝時代からの弟子の鯉屋杉風にこういう付け合いがある。


   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや    杉風


これでは何のことかわからない。いわゆる伏せ字で、伏せ字部分を補うと、


   よしなき謀反笑止千万
 夢なれや由井正雪夢なれや    杉風


となる。もちろん、伏せ字を埋めても由井正雪の乱を支持しているわけではない。
 そんな中で、芭蕉の美濃の門人越智越人の句に一つ注目すべき句がある。


   砧も遠く鞍にいねぶり
 秋の田をからせぬ公事の長びきて    越人


 田の境界争いの訴訟の句は『望一後千句』(寛文七年刊)の第十「何茸」中の付合に、


   萩もはや末になをりてひざまづき
 訴訟叶ひて田をぞかりとる


という句もあり、芭蕉の句に付けた野坡の句もある。


   丸三とせ旅から旅へ旅をして
 境の公事の今に埒せぬ         野披


 越人の句も同様に読むのが妥当だろう。もちろん、検地のやり直しの申請など、農民と領主の訴訟とも取れなくはない。公事というのは裁判のことで、当時の農民の争議は法廷闘争が主流だった。
 いずれにせよ裁判に時間がかかるのは今も昔も同じようで、裁判が結審するまでは収穫もできないとなれば、農民には死活にかかわる大きな負担になる。その上、弁護士などもいなかった時代に、農民が自分で訴状をこしらえるのも難儀だったのだろう。


   秋の田をからせぬ公事の長びきて
 さいさいながら文字問にくる   芭蕉


 文字に通じているとすれば、お寺のお坊さんとかだろうか。あるいは芭蕉自身もそういう相談を受けることがあったのだろうか。後の時代になると、裁判を専門にやる公事師と言われる僧もいた。今で言えば弁護士だ。
 芭蕉の時代では、これが精一杯だろう。蕪村の時代は、一揆の多発した時代であり、度々飢饉にも見回れた。しかし、一揆のことを表だって詠むことはなかった。ただ、その反映と思われる若干の句はないわけではない。


   黒髪にちらちらかかる夜の雪
 うたへに負ケて所領追るる      蕪村


この句だけだと、ただ所領を追われた為政者の悲哀の句にすぎないが、これに几董がこう続ける。


   うたへに負ケて所領追るる
 日やけ田もことしは稲の立伸し    几董


これで裁判に勝ったのが農民であることがほのめかされる。


   とし経し公事のさらさらと済
 翌植ん門田の早苗風わたる      馬南


   一人の母持て候からき世に
 公事に勝しを誰も喜ぶ        月居


これも裁判に勝利した農民のの喜びが現われている。
 一揆は違法であり、たとえ訴訟には勝っても首謀者は処罰される。しかし、もとは年貢をどこまでも絞り取ろうとする欲張りな為政者の方にある。次の蕪村の句の真意はわからないが、そういう意味に取れなくもない。


   賊とらへよと公の触
 早稲刈て晩稲も得たる心也      蕪村