「おきふしの」の巻、解説

元禄二年五月、尾花沢

初表

 おきふしの麻にあらはす小家かな  清風

   狗ほえかかるゆふだちの簑   芭蕉

 ゆく翅いくたび罠のにくからん   素英

   石ふみかへす飛こえの月    曾良

 露きよき青花摘の朝もよひ     芭蕉

   火の気たえては秋をとよみぬ  清風

 

初裏

 この島に乞食せよとや捨るらむ   曾良

   雷きかぬ日は松のたねとる   素英

 立どまる鶴のから巣の霜さむく   清風

   わがのがるべき地を見置也   芭蕉

 いさめても美女を愛する国有て   素英

   べにおしろいの市の争ひ    曾良

 秀句には秋の千種のさまざまに   芭蕉

   碑に寝てきさかたの月     清風

 篷むしろ舟の中なるきりぎりす   曾良

   つかねすてたる薪雨にほす   素英

 貧僧が花よりのちは人も来ず    芭蕉

   灸すえながら眠きはるの夜   清風

 

 

二表

 まつほどは足おとなくてとぶ蛙   素英

   菅かりいれてせばき賤が屋   曾良

 はての日は梓にかたるあはれさよ  清風

   今ぞうき夜を鏡うりける    芭蕉

 二の宮はやへの几帳にときめきて  曾良

   鳥はなしやる月の十五夜    素英

 舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた   芭蕉

   桝かける三ツの樟の木     清風

 つくづくとはたちばかりに夫なくて 素英

   父が旅寝を泣あかすねや    曾良

 うごかずも雲の遮る北のほし    清風

   けふも坐禅に登る石上     芭蕉

 

二裏

 盗人の葎にすてる山がたな     曾良

   簗にかかりし子の行へきく   素英

 繋ばし導く猿にまかすらん     芭蕉

   けぶりとぼしき夜の詩のいへ  清風

 花とちる身は遺愛寺の鐘撞て    曾良

   鳥の餌わたす春の山守     芭蕉

 

       参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 おきふしの麻にあらはす小家かな 清風

 

 麻は背が高い。二メートル六十センチくらいになる。その朝畑に囲まれていれば、麻が風で傾いたときは家が見えるが、真っすぐに戻ると見えなくなる。そんな麻に見え隠れする小家です、と挨拶する。

 小家の外から見た印象をいうあたり、素英亭での興行か。曾良の『旅日記』に「廿二日 晩、素英へ 被招。」とある。

 

季語は「麻」で夏、植物、草類。「小家」は居所。

 

 

   おきふしの麻にあらはす小家かな

 狗ほえかかるゆふだちの簑    芭蕉

 (おきふしの麻にあらはす小家かな狗ほえかかるゆふだちの簑)

 

 興行は夕方行われたのであろう。夕立の中を簑をきて会場にやってきて、その時に犬に吠えられたと、その時の状況をそのまま詠んだものと思われる。

 

季語は「ゆふだち」で夏、降物。「狗」は獣類。「簑」は衣裳。

 

第三

 

   狗ほえかかるゆふだちの簑

 ゆく翅いくたび罠のにくからん  素英

 (ゆく翅いくたび罠のにくからん狗ほえかかるゆふだちの簑)

 

 前句の簑を着た人物を猟師として、鳥が罠にかかり犬が吠えかかるとする。

 

無季。

 

四句目

 

   ゆく翅いくたび罠のにくからん

 石ふみかへす飛こえの月     曾良

 (ゆく翅いくたび罠のにくからん石ふみかへす飛こえの月)

 

 前句の「ゆく翅」を月夜に飛ぶ雁とし、月明りで夜の川を渡る風狂者が石を何度も踏みしめて、安全を確認している様を付ける。大丈夫だと思っても乗っかろうとすると石が動いたりして、罠にかかったような気分になる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

五句目

 

   石ふみかへす飛こえの月

 露きよき青花摘の朝もよひ    芭蕉

 (露きよき青花摘の朝もよひ石ふみかへす飛こえの月)

 

 青花(あをばな)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「青花」の解説」に、

 

 「ツユクサ (『万葉集』などでは「つきくさ」) の花。また,これからとった青い染料,もしくはその液汁を和紙に吸収させた青花紙をいう。青花に似ているところから,藍染めの青い色を花色と呼ぶ。「つきくさずり」は青花を布地にすり染めにしたもので,古くから行われたが,水に濡れると退色するため,のちにはすたれた。滋賀県草津近郊で産する青花紙は,藍花紙 (あいばながみ) ,縹紙 (はなだがみ) とも呼ばれ,この退色する性質を利用して,友禅 (ゆうぜん) や臈纈 (ろうけち) の下絵を描くのに用いられる。」

 

とある。

 前句をツユクサ摘みを職業とする人とする。「朝もほひ」は朝食時で、朝飯のために川原に帰ってきたか。

 

季語は「露」で秋、降物。「青花」は植物、草類。

 

六句目

 

   露きよき青花摘の朝もよひ

 火の気たえては秋をとよみぬ   清風

 (露きよき青花摘の朝もよひ火の気たえては秋をとよみぬ)

 

 「とよむ」は大声で騒ぐこと。

 青花を摘んで生活する人は、そんな豊かな階層とは思えない。雑種賤民の類ではないかと思う。朝飯すらまともに食えない時もあるのだろう。

 

季語は「秋」で秋。

初裏

七句目

 

   火の気たえては秋をとよみぬ

 この島に乞食せよとや捨るらむ  曾良

 (この島に乞食せよとや捨るらむ火の気たえては秋をとよみぬ)

 

 前句を島流しになった人とする。

 

無季。「島」は水辺。「乞食」は人倫。

 

八句目

 

   この島に乞食せよとや捨るらむ

 雷きかぬ日は松のたねとる    素英

 (この島に乞食せよとや捨るらむ雷きかぬ日は松のたねとる)

 

 松の実は今日では食材として売られているが、日本に多いアカマツ、クロマツは実が五ミリ程度の小さなもので、一般的には食用にされてこなかった。それを拾って食うのは流人くらいか。

 隣の国では朝鮮五葉という松の実を取るための種があるが、日本にはなかった。

 

無季。

 

九句目

 

   雷きかぬ日は松のたねとる

 立どまる鶴のから巣の霜さむく  清風

 (立どまる鶴のから巣の霜さむく雷きかぬ日は松のたねとる)

 

 松に巣をかけるのは正確にはコウノトリだが、鶴とコウノトリはしばしば混同されてきた。

 

季語は「霜」で冬、降物。「鶴」は鳥類。

 

十句目

 

   立どまる鶴のから巣の霜さむく

 わがのがるべき地を見置也    芭蕉

 (立どまる鶴のから巣の霜さむくわがのがるべき地を見置也)

 

 前句の鶴を高士の比喩としたか。空き家になった庵に、ここに住もうかと内見に来る。

 芭蕉が次の年に一時的に住むことになる幻住庵も、曲水の伯父である幻住老人の空き家になっていた別荘だった。

 

無季。「わが」は人倫。

 

十一句目

 

   わがのがるべき地を見置也

 いさめても美女を愛する国有て  素英

 (いさめても美女を愛する国有てわがのがるべき地を見置也)

 

 あの大陸にあるでっかい国のことだろう。長恨歌なんてのもあった。廬山尋陽を見に行くのだろう。

 

無季。「美女」は人倫。恋。

 

十二句目

 

   いさめても美女を愛する国有て

 べにおしろいの市の争ひ     曾良

 (いさめても美女を愛する国有てべにおしろいの市の争ひ)

 

 「べに」といえば尾花沢、つまりここだ。おしろいは鉛や水銀で作られていたから結構危ない。それでも江戸では奪い合うように売れて行く。まあ、だから尾花沢の清風さんも良い暮らしができるってもんだが。

 日本では君主が美女にはまって、というのはそれほど聞かない。『源氏物語』の桐壺帝のモデルになった花山天皇はいるが、国が傾くほどのものではなかった。むしろ出家してお遍路さんの元祖となった。

 大和歌は色好みの道で、日本では下々の庶民に至るまでみんなが美女を愛するから、為政者のそれがそれほど目立たなかったということなのだろう。

 

無季。恋。

 

十三句目

 

   べにおしろいの市の争ひ

 秀句には秋の千種のさまざまに  芭蕉

 (秀句には秋の千種のさまざまにべにおしろいの市の争ひ)

 

 秀句は俳諧の句で、秋の千種はしばしば女の名前に取り成される。この場合も「べに」と「おしろい」を女性の名前として市場で争ってるとでもしようか。

 芭蕉の秀句といえば元禄七年春の『炭俵』にも収録された「むめがかに」の巻の八句目、

 

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

 

の句で、これは法則と言ってもいいのかもしれない。

 

季語は「秋」で秋。

 

十四句目

 

   秀句には秋の千種のさまざまに

 碑に寝てきさかたの月      清風

 (秀句には秋の千種のさまざまに碑に寝てきさかたの月)

 

 壺の碑を見てこれから象潟に向かう芭蕉さんは、秋の千種の如くたくさんの秀句があるとよいしょする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。旅体。「きさかた」は名所、水辺。

 

十五句目

 

   碑に寝てきさかたの月

 篷むしろ舟の中なるきりぎりす  曾良

 (篷むしろ舟の中なるきりぎりす碑に寝てきさかたの月)

 

 篷は「とま」。前句の象潟の旅体に船中泊とする。「きりぎりす」はコオロギのこと。

 

季語は「きりぎりす」で秋、虫類。旅体。「舟」は水辺。

 

十六句目

 

   篷むしろ舟の中なるきりぎりす

 つかねすてたる薪雨にほす    素英

 (篷むしろ舟の中なるきりぎりすつかねすてたる薪雨にほす)

 

 「つかね」は束ねること。舟の中で雨に濡れてしまった薪の束を筵の上で干す。

 

無季。「雨」は降物。

 

十七句目

 

   つかねすてたる薪雨にほす

 貧僧が花よりのちは人も来ず   芭蕉

 (貧僧が花よりのちは人も来ずつかねすてたる薪雨にほす)

 

 貧しい僧でも吉野に庵を構えていれば、それこそ

 

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ

     あたら桜の科にはありける

              西行法師

 

の歌だ。ただ、桜の季節が終わればまた誰も来なくなる。余った薪をゆっくり干す暇もある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。釈教。「貧僧」「人」は人倫。

 

十八句目

 

   貧僧が花よりのちは人も来ず

 灸すえながら眠きはるの夜    清風

 (貧僧が花よりのちは人も来ず灸すえながら眠きはるの夜)

 

 花が散って長閑な春の夜はお灸を据えていてもそのまま寝落ちしそうだ。

 

季語は「はるの夜」で春、夜分。

二表

十九句目

 

   灸すえながら眠きはるの夜

 まつほどは足おとなくてとぶ蛙  素英

 (まつほどは足おとなくてとぶ蛙灸すえながら眠きはるの夜)

 

 何を待っているのかよくわからない。恋への展開を狙ったのか。ただ、灸据えながら眠くなるというのはちょっと違う。

 待っていても誰も来ず、蛙の飛び込む水の音ばかりがする。

 

季語は「蛙」で春、水辺。

 

二十句目

 

   まつほどは足おとなくてとぶ蛙

 菅かりいれてせばき賤が屋    曾良

 (まつほどは足おとなくてとぶ蛙菅かりいれてせばき賤が屋)

 

 恋の方は不発で、賤が屋の風情で流す。

 

季語は「菅かり」で夏。「賤が屋」は居所。

 

二十一句目

 

   菅かりいれてせばき賤が屋

 はての日は梓にかたるあはれさよ 清風

 (はての日は梓にかたるあはれさよ菅かりいれてせばき賤が屋)

 

 「はて」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①終わり。最後。しまい。

  出典方丈記 

  「はてには笠(かさ)うち着、足ひき包み、よろしき姿したる者」

  [訳] しまいには、笠をかぶり、足をくるんで、かなりの身分らしいかっこうをした者(まで)。

  ②喪の終わり。そのときの仏事。四十九日や一周忌の法会。

  出典徒然草 三〇

  「はての日は、いと情けなう、互ひに言ふこともなく」

  [訳] 喪の終わりの日(=中陰の終わる四十九日目)は、(早く事をすませて帰りたくて)まるで情味もなく、お互いにものも言わないで(別れてしまう)。

  ③末路。なれのはて。

  出典紫式部日記 消息文

  「そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍(はべ)らむ」

  [訳] そういう不誠実な性質になってしまった人(=清少納言)の末路が、どうしてよいでありましょうか、よいはずがありません。

  ④遠いかなた。最果て。▽中央(=都)から遠く離れた所。

  出典更級日記 かどで

  「あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つ方に生(お)ひ出(い)でたる人」

  [訳] 東国へ行く道筋の最果て(=常陸(ひたち)の国)よりも、さらに奥まった所(=上総(かずさ)の国)で成長した人(である私)。」

 

とある。この場合は②の意味。梓は梓巫女のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「梓巫・梓巫女」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「みこ」は、神につかえる未婚の女性の意) 梓の木で作った弓のつるをたたきながら、死者の霊を呼び寄せる口寄せ巫女。吉凶や失せ物判断をすることもある。みこ。いちこ。あずさ。あがたみこ。くちよせ。

  ※俳諧・双子山前集(1697)「のり移る霊にふるへる梓神子」

 

とある。『春の日』の「春めくや」の巻二十句目に、

 

   うつかりと麦なぐる家に連待て

 かほ懐に梓ききゐる       李風

 

の句がある。梓巫女は貧しい家とかによく来ていたのだろう。

 

無季。「梓」は人倫。

 

二十二句目

 

   はての日は梓にかたるあはれさよ

 今ぞうき夜を鏡うりける     芭蕉

 (はての日は梓にかたるあはれさよ今ぞうき夜を鏡うりける)

 

 出家して浮世を絶つその決意として女は鏡を売る。

 

無季。

 

二十三句目

 

   今ぞうき夜を鏡うりける

 二の宮はやへの几帳にときめきて 曾良

 (二の宮はやへの几帳にときめきて今ぞうき夜を鏡うりける)

 

 几帳(きちゃう)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「几帳」の解説」に、

 

 「公家(くげ)調度で屏障具(へいしょうぐ)の一種。T形の几に帷(かたびら)とよぶ帳をかけて垂らし、目隠しや風よけ、あるいは間仕切りとして用いた。几は黒漆塗りで、土居(つちい)とよぶ台に2本の棒を立て、手とよぶ横棒を支える。手と支えの棒の先端に飾り金具をはめ、土居の上場、支えの棒を差し込む孔(あな)に飾りの座金(ざがね)を打つ。この几に蒔絵(まきえ)を施した華麗なものもある。4尺(約120センチメートル)の几帳と3尺の几帳の2種がある。前者は手から土居の上場まで4尺の几に、五幅(いつの)で、それぞれ幅の中央に野筋(のすじ)とよぶ絎(く)け紐(ひも)をつけて垂らし、上部に白左右撚(よ)りの紐を差し通し、芯棒(しんぼう)を差し入れ、各幅上部に釣り紐をつける。後者は四幅(よの)で同様に仕立てられる。

 地質は、冬が練(ねり)、夏が生(き)で、表地に白平絹(ひらぎぬ)か白綾(しらあや)、裏地に白平絹、野筋地に濃紅か黒の平絹を用いる。『雅亮(まさすけ)装束抄』によると、野筋の中央を境にして赤と濃き紅の2色をはぎ合わせたものを用いる。美麗几帳といわれるものは、表地に華やかな二陪(ふたえ)織物や、裾濃(すそご)といって下部を濃く、しだいに上へ薄くして上部を白に絣(かすり)の技法と同様に締め切って緂(だん)とした織物や、刺しゅうを施した帷を用いた。夏の美麗几帳には生織(きお)りの綾、または平絹に秋草模様を描いた帷をかけた。[高田倭男]」

 

とある。

 二の宮様はあまりにも見事な八重の几帳に心ときめいて、鏡を売ってでも手に入れようとする。

 

無季。「二の宮」は人倫。

 

二十四句目

 

   二の宮はやへの几帳にときめきて

 鳥はなしやる月の十五夜     素英

 (二の宮はやへの几帳にときめきて鳥はなしやる月の十五夜)

 

 放生会(ほうじょうえ)はウィキペディアによれば、

 

 「放生会は、養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として同年あるいは神亀元年(724年)に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した八幡神の託宣により宇佐神宮で放生会を行ったのが嚆矢で、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。」

 

とあり、勅使の使わされる大祭なので、二の宮様が参加したとしてもおかしくはない。

 

季語は「月の十五夜」で秋、夜分、天象。神祇。「鳥」は鳥類。

 

二十五句目

 

   鳥はなしやる月の十五夜

 舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた  芭蕉

 (舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた鳥はなしやる月の十五夜)

 

 舎利は『校本芭蕉全集 第四巻』の補注に、

 

 「青森県東津軽郡の今別・平館付近の浜辺から産する一種の白石。その形状、小なるものは仏舎利に似る。」

 

とある。正確には青森県東津軽郡今別町袰月で、翡翠だとか石英だとか言われている。今は護岸工事によって消滅したという。まあ、産業になるほどの高価なものでもなかったのだろう。

 まあ、芭蕉も正確な芭蕉は知らなかっただろうし、辺りに放生会をするような八幡神社があるかどうかも知らなかったのだと思う。象潟で津軽から蝦夷に行きたいというのを曾良に止められなければ、実際にこの目で見ていたかもしれない。

 

季語は「秋」で秋。「汐ひがた」は水辺。

 

二十六句目

 

   舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた

 桝かける三ツの樟の木      清風

 (舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた桝かける三ツの樟の木)

 

 桝は「ます」の字で「椒」の間違いだろう。「さんせう」と読む。

 前句の「舎利」をご飯の「しゃり」として、山椒をかけて食うとする。桃隣の「舞都遲登理」の尿前の関で詠んだ発句に、

 

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

 

の句がある。

 前句が景色の句なので、山椒にかけて三本の樟を添える。三本の樟で「三樟(さんしょう)」なんちゃって。

 舎利に山椒、津軽の秋の汐ひがたに樟の木、というこういう両方の意味に掛けて四手に付ける付け方は延宝の頃に多用された。

 

無季。「樟」は植物、木類。

 

二十七句目

 

   桝かける三ツの樟の木

 つくづくとはたちばかりに夫なくて 素英

 (つくづくとはたちばかりに夫なくて桝かける三ツの樟の木)

 

 十九句目で恋へ引っ張ろうとして失敗した素英さんが、ここもやや強引に恋にもっていく。そういえば十一句目でも「美女」を出して恋に持ってこうとしてた。

 ネタとしてはありがちな行き遅れネタだが。

 

無季。恋。「夫(つま)」は人倫。

 

二十八句目

 

   つくづくとはたちばかりに夫なくて

 父が旅寝を泣あかすねや     曾良

 (つくづくとはたちばかりに夫なくて父が旅寝を泣あかすねや)

 

 娘の行き遅れを旅に出た父親のせいだとする。残念ながら恋の情はない。案外こういう曾良の堅苦しさも、後の中山温泉での別れの原因となっていったのかもしれない。『奥の細道』では曾良のロリを暴露しているし。

 

無季。旅体。「父」は人倫。

 

二十九句目

 

   父が旅寝を泣あかすねや

 うごかずも雲の遮る北のほし   清風

 (うごかずも雲の遮る北のほし父が旅寝を泣あかすねや)

 

 北極星のことであろう。天の北極は何世紀もの間に地球の地軸の傾きの関係でゆっくり移動しているので、古代の「北辰」は今の北極星(ポラリス)とは別の星だったという。ウィキペディアによると、

 

 「ポラリスは肉眼で確認しやすい星の中で最も天の北極に近いため、16世紀頃から北極星として機能しており「極の星」や「北の星」という意味合いの名前で呼ばれていた。」

 

とあり、十七世紀後半の日本で動かない北の星という場合はポラリスのことだったっと思われる。

 ただ、今よりも天の北極から大きくずれていたため、ウィキペディアに以下の伝承が記されている。

 

 「江戸時代大坂に、日本海の北回り航路で交易をしていた桑名屋徳蔵という北前船の親方がいた。ある夜留守を預かる徳蔵の妻は、機織りをしながら時々夫を思っては北の窓から北極星を見ていた。すると北極星が窓の格子に隠れる時があり、彼女は北極星は動くのではないかと疑いを持った。そこで次に彼女は眠らないように水をはったたらいの中にすわって一晩中北極星を観察して、間違いなく動くことを確かめた。帰ってきた徳蔵に彼女はこのことを告げ、この事実は船乗りたちの間に広まっていった。」

 

 出典は不明。桑名屋徳蔵は十八世紀の明和の頃には伝説化された人で別の物語で歌舞伎狂言にもなっている。

 この伝承が元禄二年に既に広まっていたとすれば、前句を徳蔵の妻に取り成したことになる。

 

無季。「雲」は聳物。「北のほし」は天象。

 

三十句目

 

   うごかずも雲の遮る北のほし

 けふも坐禅に登る石上      芭蕉

 (うごかずも雲の遮る北のほしけふも坐禅に登る石上)

 

 屋外の岩の上で毎晩座禅を組む修行僧とする。

 

無季。釈教。

二裏

三十一句目

 

   けふも坐禅に登る石上

 盗人の葎にすてる山がたな    曾良

 (盗人の葎にすてる山がたなけふも坐禅に登る石上)

 

 改心した盗人とする。

 

季語は「葎」で夏、植物、草類。「盗人」は人倫。

 

三十二句目

 

   盗人の葎にすてる山がたな

 簗にかかりし子の行へきく    素英

 (盗人の葎にすてる山がたな簗にかかりし子の行へきく)

 

 簗(やな)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「簗」の解説」に、

 

 「雑漁具に属する強制陥穽(かんせい)漁具の一種。河川の流れを利用して魚を強制的に陥らせるようにつくられている漁具。河川の急流や落差の大きい瀬を竹簀(たけす)や築堤(つきてい)によって、真横に、あるいは斜め下流に向け八の字形に狭め、そこに張った簀棚の上に魚を受けるか、陥穽部(筌(うけ)、網袋あるいは壺(つぼ))に強制的に陥らせるなどして漁獲するもので、秋の落ちアユをとるアユ簗は有名である。簗の種類は多く、ほかに水流に向けて敷設される下り筌、水流下に向ける上り筌、網簗、壺簗、樋(とい)簗、ウナギ待ち簗、筌簗、かつとり簗などがあり、アユ、サケ、マス、ウナギ、ウグイ、コイ、フナ、カジカ、ハゼなどをとる。[笹川康雄・三浦汀介]」

 

とある。

 盗人とて人の子で簗に掛かった子供がいると聞けば、山刀を捨てて大急ぎで駆けつける。惻隠の情といえよう。

 

無季。「簗」は水辺。「子」は人倫。

 

三十三句目

 

   簗にかかりし子の行へきく

 繋ばし導く猿にまかすらん    芭蕉

 (繋ばし導く猿にまかすらん簗にかかりし子の行へきく)

 

 甲州街道の猿橋のことか。ウィキペディアに、

 

 「猿橋が架橋された年代は不明だが、地元の伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済の渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。」

 

とある。「繋(つなぎ)ばし」は刎橋(はねばし)のことであろう。他には日光の神橋が有名。

 前句の簗にかかった子のところに駆けつけるために猿に導かれて架けたと言われる橋を渡って行く。

 

無季。「繋ばし」は水辺。「猿」は獣類。

 

三十四句目

 

   繋ばし導く猿にまかすらん

 けぶりとぼしき夜の詩のいへ   清風

 (繋ばし導く猿にまかすらんけぶりとぼしき夜の詩のいへ)

 

 猿が出たところで猿の三声に涙した昔の中国の詩人を登場させる。

 

無季。「けぶり」は聳物。「夜」は夜分。「いへ」は居所。

 

三十五句目

 

   けぶりとぼしき夜の詩のいへ

 花とちる身は遺愛寺の鐘撞て   曾良

 (花とちる身は遺愛寺の鐘撞てけぶりとぼしき夜の詩のいへ)

 

 遺愛寺はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「遺愛寺」の解説」に、

 

 「中国江西(こうせい/チヤンシー)省の廬山(ろざん/ルーシャン)にあった寺。廬山は慧遠(えおん)(334―416)が東林寺を拠点として念仏結社白蓮社(びゃくれんしゃ)を営んだ仏教の聖地であるが、遺愛寺も慧遠の草創にかかると伝える。唐代末に廃され、明(みん)の成化(せいか)年間(1465~1487)には僧慈釗(じりゅう)が紫雲庵(しうんあん)を寺趾(じし)に建立して復興したと伝えるが、これも現存しない。遺愛寺と廬山北峰の香炉峰(こうろほう)との間の景観は名勝とされ、韋応物(いおうぶつ)や白楽天(はくらくてん)(白居易(はくきょい))などの文人が遊んだ。とくに白楽天はこの地に草堂を結んで、流謫(るたく)の心をいやし、「遺愛寺の鐘は枕(まくら)を敧(かたむ)けて聴き、香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(はら)いて看(み)る」と詠んだ。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』第299段の話はこの詩を下敷きにしている。[里道徳雄]」

 

とある。

 前句を杜甫から白楽天に変え、「遺愛寺の鐘は枕(まくら)を敧(かたむ)けて聴」の詩句から遺愛寺の鐘を付ける。

 

季語は「花」で春、植物、木類。釈教。「身」は人倫。

 

挙句

 

   花とちる身は遺愛寺の鐘撞て

 鳥の餌わたす春の山守      芭蕉

 (花とちる身は遺愛寺の鐘撞て鳥の餌わたす春の山守)

 

 遺愛寺の鐘を撞く人は花鳥を愛する人で、山守に鳥の餌を渡す。こうして一巻は目出度く終わる。

 

季語は「春」で春。「山守」は人倫。