宗長『宗祇終焉記』を読む

1,宗祇に逢いに越後へ

 「宗祇老人、年比の草庵も物憂きにや、都の外のあらましせし年の春の初めの発句、

 身や今年都をよその春霞」(宗祇終焉記)

 

 宗祇は応永二十八年(一四二一年)の生まれで、

 

 身や今年都をよその春霞    宗祇

 

の句は明応八年(一四九九年)の歳旦になる。

 我身は今年、都以外の所で春の霞を見ることになる、という旅立ちの句になっている。「都の外のあらまし」の「あらまし」は、元は「こうあったら良い」という意味で、願望や計画を意味する。

 金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』(かなしんブックス、一九九三)によれば、明応八年正月四日種玉庵での百韻興行の発句になっていて、『実方公記』の明応八年正月六日の条にも見られるという。宗祇の数えで七十九歳の時になる。昔の人は誕生日が分からないので、正確な満年齢はわからない。

 「年比(としごろ)の草庵」はこの発句による百韻興行が行われた種玉庵のことで、金子治金次郎著『宗祇の生活と作品』(一九八三、桜楓社)によれば、文明五年(一四七三年から一四七四年)秋・冬に京に居を定めてから、文明七年(一四七五年から一四七六年)十二月に『種玉篇次抄』を著しているので、その間に作られたという。(当時は旧暦なので、冬の場合は新暦正月を過ぎて翌年になっていることもあるので、一四七三年から一四七四年という書き方になる。)

 応仁の乱(一四六七年)の起こる前年に宗祇は東国に下り、『吾妻問答』『白河紀行』などを書き表し、文明三年に東常縁(とうのつねより)から三島で古今伝授を受け、文明五年に美濃で古今伝授を終了し、その後京へ戻り種玉庵を開き、それから二十三年余り京を中心に活動する。

 ただ、ずっと京にいたわけではなく、その間に何度も旅をしていて、文明十二年(一四八〇年)には九州へ行ったとこのことを『筑紫道記(つくしみちのき)』に記している。

 

 「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて、文亀初めの年六月の末、駿河の国より一歩をすすめ、足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、鎌倉を一見せしに、右大将のそのかみ、又九代の栄へもただ目の前の心地して、鶴が岡の渚の松、雪の下の甍はげに岩清水にもたちまさるらんとぞ覚侍る。山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」(宗祇終焉記)

 

 明応八年正月四日の種玉庵での興行には宗長も参加していた。

 ただ、鶴崎裕雄著『戦国を征く連歌師宗長』二〇〇〇、角川叢書によるなら、その後三月二十四日に三条実隆を訪ねて以降、消息がはっきりせず、駿河に帰ったものと思われる。この頃はまだ丸子の柴屋軒はなかった。柴屋軒は永正元年(一五〇四年)以降になる。

 宗長は駿河国の出身で最初は今川義忠に仕え、寛正八年(一四六五年)に出家するがその後も義忠に仕えていたようだ(『戦国を征く連歌師宗長』による)。ここで関東下向した時の宗祇と出会い、師事することになる。

 そういうわけで、宗長は応永八年の春以降の二年余りに渡って宗祇との接触はなく、宗祇の正確な足取りを知っていたわけではない。それが、「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて」という文章になっている。

 実際に宗祇が越後へ旅立ったのは明応八年の秋ではなく、翌明応九年(一五〇〇年)の七月十七日だったという。明応九年の秋になる。

 「帰る山の名」は、敦賀と越前の間の歌枕で、

 

 我をのみ思ひつるかの浦ならは

     かへるの山はまとはさらまし

             よみ人しらず(後撰集)

 

 こえかねていまぞこし路をかへる山

     雪ふる時の名にこそ有りけれ

             源頼政(千載集)

 

などの歌がある。宗祇の越後下向は二年ほどの滞在が予定されていて、すぐには帰らない、と宗長は認識していた。なお宗祇はそれまでも頻繁に越後に足を運んでいて、これが七度目だという。

 宗長はその翌年の「文亀初めの年六月の末」に、越後へ向かう。

 「文亀初め」は文亀元年で、明応十年(一五〇一年)は二月二十九日に改元して文亀元年となる。宗祇の発句から二年たっている。

 駿河を出た宗長は、「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、」という行程で、まず鎌倉へ向かう。 「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て」は順序が逆になる。駿河国を富士の嶺を北に見ながら旅をして、足柄山を越える。この頃は足柄峠越えよりも箱根越えが主流になっていて、ここでいう足柄山も箱根のことと思われる。

 「伊豆の海、沖の小島」は初島のことで、

 

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や

     沖の小島に波の寄る見ゆ

             源実朝(金槐和歌集)

 

の歌で知られている。

 ただ、初島が見えるのは箱根山の南の十国峠を経て伊豆山へ抜ける道で、箱根峠から湯本へ抜ける道ではない。

 小余綾(こゆるぎ)の磯は今の大磯で、

 

 こよろぎの磯たちならし磯菜摘む

     めざし濡らすな沖にをれ波

             よみ人しらず(古今集、相模歌)

 

の歌で知られている。

 そのあと宗長は鎌倉へ向かう。

 「右大将のそのかみ、又九代の栄へ」は右大将源頼朝と、それを含む鎌倉幕府の九代の将軍を言う。といっても頼朝、頼家、実朝の三代の後は藤原九条家に移り、六代以降は親王が将軍となっている。

 その昔の鎌倉の繁栄を目の前に見るような心地で、「鶴が岡の渚の松、雪の下の甍」などを見物する。

 渚の松はそういう名前の特定の木があったのかどうかは定かでない。由比ガ浜は材木座海岸があるので、その辺りにはかつては松原があっただろうし、若宮大路もかつては松並木だったという。

 雪の下は鶴岡八幡宮の辺りの地名で、鶴岡八幡宮の甍であろう。京の石清水八幡宮にも勝るというのも、鶴岡八幡宮を同じ八幡宮ということで比較しているから、渚の松も若宮大路の松だったかもしれない。

 尭恵の『北国記行』には、「明くれば鶴が岡へ参りぬ。霊木長松連なりて、森に似たるに」とある。尭恵は文明十九年(一四八七年)の春に鎌倉を訪れている。

 「山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」と讃えているのも、鶴岡八幡宮の周辺の景色であろう。

 

 「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯(むじゅん)のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて、道行人もたやすからずとは聞えしかど、此方彼方知るつてありて、武蔵野をも分過ぎ、上野(かうづけ)を経て、長月朔日比に越後の国府に至りぬ。」(宗祇終焉記)

 

 昔の鎌倉幕府九代を偲びつつ、現実に目を向ける。

 八九年とあるのは長享の乱のことで、ウィキペディアに、

 

 「長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。」

 

とある。

 ここ八九年、山内上杉と扇谷上杉との対立から、関八州が二分されている。「牟楯(むじゅん)」は矛盾のことで、ここでは楯と矛で争う状態をいう。

 関東が敵味方に分断されている状態だから、これから越後に向かうにも通る道を選ばなくては、余計な争いに巻き込まれることになる。

 これまでの連歌興行などで親しくしていた武将などの伝手を頼りながら、武蔵から上州を経て九月一日にようやく越後へ無事に辿り着くことになる。二か月以上かかったことになる。

 ルートは特に回り道しなかったならば、鎌倉街道上道で高崎へ出る道であろう。『曽我物語』に、

 

 「化粧坂をうち越え、柄沢・飯田をも過ぎ給ひ、武蔵国関戸の宿に着かせ給ふ。」

 

とある道で、そこから先は入間川を渡り児玉を経て高崎に至る。

 そこから越後国府のある今の上越市直江津へ向かう。ルートはおそらく碓氷峠を越えて上田、長野を経由したのではないかと思う。直江津には上杉氏の居城である至徳寺館があった。

 越後上杉氏は上杉房能(うえすぎふさよし)の時代だった。

2,越後の大雪と地震

 「宗祇見参に入て、年月隔たりぬる事などうち語らひ、都へのあらましし侍る折しも、鄙の長路の積りにや、身に患ふ事ありて、日数になりぬ。やうやう神無月廿日あまりにをこたりて、さらばなど思ひ立ちぬるほどに、雪風烈しくなれば、長浜の浪もおぼつかなく、「有乳(あらち)の山もいとどしからん」と言ふ人ありて、かたのやまの旅宿を定め、春をのみ待事にして明かし暮らすに、大雪降りて、日ごろ積りぬ。」(宗祇終焉記)

 

 直江津で宗祇と会うことができて、明応八年の春以来、お互いにいろいろあったことを話したのだろう。宗長は都へ帰る予定などを立てようとしたが、長旅の疲れで体調を崩していて、無駄に何日も過ぎて行った。

 宗長の病気の方は十月二十日過ぎた頃に良くなり、それでは都へと思い立った頃には、雪が激しく吹雪く状態だった。

 長浜は今の谷浜海岸だという。直江津の西にあり、長浜という地名が残っている。

 有乳(あらち)山は福井県敦賀市の南部の山で、

 

 有乳山雪ふりつもる高嶺より

     さえてもいづる夜半の月かげ

             源雅光(金葉集)

 有乳山裾野の浅茅枯れしより

     嶺には雪のふらぬ日もなし

             宗尊親王(新後撰集)

 

など、歌にも詠まれている。

 直江津でこの雪だと、有乳山はとても越えられないと言う人がいたので、春になるのを待つことになる。

 古代の駅路は敦賀市粟野から高島氏マキノの方へ抜けていたので、その間の黒河峠(くろことうげ)の辺りだと思う。

 文亀元年の十月二十日は新暦一五〇一年の十二月十日になる。この年は雪の降り始めるのが早かったのだろう。そのまま直江津は雪に埋もれて行くことになる。

 

 「此国の人だに、「かかる雪には会はず」と侘びあへるに、まして耐へがたくて、ある人のもとに、

 

 思ひやれ年月馴るる人もまだ

     会はずと憂ふ雪の宿りを」(宗祇終焉記)

 

 地元の人もこんな雪は見たこともないというくらい、記録的な大雪の年だったようだ。そこで宗長が歌を詠んで「ある人」に送る。

 「思ひやれ」は「想像してごらん」というような意味か。当事者ではなく、都にいる人か、あるいは読者全般に呼び掛けた感じがする。

 

 「かくて、師走の十日、巳刻ばかりに、地震(なゐ)大(おほき)にして、まことに地にふり返すにやと覚ゆる事、日に幾度といふ数を知らず。五日六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々転び倒れにしかば、旅宿だにさだかならぬに、又思はぬ宿りを求めて、年も暮れぬ。」(宗祇終焉記)

 

 文亀元年十二月十日、新暦の一五〇二年一月二十八日、文亀越後地震が起き。ただ、当時の記録はほとんどなく、この『宗祇終焉記』が貴重な資料となっている。

 ネット上の「防災情報新聞」の記述も、

 

 「巳の刻(午前10時頃)、越後国(新潟県)南西部にマグニチュード6.5~7の強い揺れが襲った。

 当時、連歌の第一人者とうたわれた宗祇は、越後守護・上杉房能を訪ね国府(現・上越市)に滞在していたがこの地震に遭い「地震おほき(多き)にして、まことに地をふりかへす(ひっくり返す)にやとおぼゆる(覚ゆる)事、日にいくたび(幾たび)といふ(いう)かず(数)をしらず、五日六日うちつゞきぬ。人民おほくうせ(多く失せ)、家家ころびたふれ(倒れ)にしかば、旅宿だにさだか(定か)ならぬに、またおもはぬ(思わぬ)宿りをもとめ(求め)つゝ年も暮れぬ。」であったという。(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧」、池田正一郎著「日本災変通志」、金子金治郎著「宗祇旅の記私注・宗祇終焉記・一 越後に宗祗を問ふ」)」

 

とあるのみで、これ以上の情報はない。

 この他にはネット上に石橋克彦さんの「文亀元年十二月十日(1502.1.18)の越後南西地震で姫川流域・真那板山の大崩壊が起きたか?」というPDFファイルがある。

 ここには、

 

 「標記の地震に関して信頼できる同時代史料は『宗祇終焉記(そうぎしゅうえんき)』と『塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)』だけである。

 それ以外に『会津旧事座雑考』、『新宮雑葉記(しんぐうぞうようき)』、『続本朝通鑑(ぞくほんちょうつうがん)』、『異本塔寺長帳』が掲げられているが、江戸時代の編纂史料であるし、有意な地震記事を含んでいない。」

 

とある。

 この論文によると、京都でこの地震が記録されてないことから、マグネチュード七近い地殻内地震ではなく、直江津周辺の直下型地震ではないかと推定している。それゆえ姫川流域・真那板山の大崩壊はこの地震によるものではない、としている。

 折からの大雪と重なったので、地震だけでなく、雪の重みも合わさって多くの家屋が倒壊したと考えられる。

 

 「元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。

 

 年や今朝あけの忌垣(いがき)の一夜松

 

 この一座の次(ついで)に、

 

 この春を八十(やそぢ)に添へて十とせてふ

     道のためしや又も始めん

 

と賀し侍し。返し、

 

 いにしへのためしに遠き八十だに

     過ぐるはつらき老のうらみを

 

 おなじき九日、旅宿にして、一折つかうまつりしに、発句、

 

 青柳も年にまさ木のかづら哉」(宗祇終焉記)

 

 年が明けて文亀二年の元日(一五〇二年二月十八日)、宗祇の歳旦の発句がある。

 

 年や今朝あけの忌垣の一夜松  宗祇

 

 忌垣(いがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「斎垣・忌垣」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「いかき」とも。「い」は「斎み清めた神聖な」の意の接頭語) 神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣。みだりに越えてならないとされた。みずがき。

  ※万葉(8C後)一一・二六六三「ちはやぶる神の伊垣(イかき)も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし」

  ※古今(905‐914)秋下・二六二「ちはやぶる神のいがきにはふ葛も秋にはあへずうつろひにけり〈紀貫之〉」

 

 この言葉は越えてはいけないという所で恋の比喩にも用いられる。『伊勢物語』第七十一段に、

 

 「むかし男伊勢の斎宮に、内の御使にてまゐりければ、かの宮にすきごといひける女、私事にて、

 

 ちはやぶる神のいがきも越えぬべし

     大宮人の見まくほしさに

 

 男、

 

 恋しくは来ても見よかしちはやぶる

     神のいさなむ道ならなくに」

 

とある。

 宗祇の発句は恋の俤はないが、初詣の習慣のない時代の忌垣は、越えてはいけない正月が来た、という意味合いが込められていたのではないかと思う。

 それは表向きには直江津に足止めされている自分が忌垣の中にいるみたいだという意味だが、前年の暮に震災があって、それに大雪も未だ終わらず、まだ正月を祝える状態でないのに正月が来てしまった、という思いがあったのであろう。

 一夜松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一夜松」の解説」に、

 

 「① 伝説上の松。また、その伝承。菅原道真の没後、京都の北野神社に一夜で数千本の松が生えたとか、高僧の手植えの松が一夜で古木になったとかいうさまざまの伝承がある。

  ※俳諧・毛吹草(1638)五「洛中の門や北野の一夜松〈重頼〉」

  ② おおみそかに門松を立てること。これを忌む俗信が広く分布している。

  ※風俗画報‐一二号(1890)人事門「一夜松(ヤマツ)といふは縁喜あししとて大晦日には立てず」

 

とある。貞享五年(一六八八年)刊の貝原好古の『日本歳時記』では、晦日の所に「門松をたて」とあるから、一夜飾りを嫌うのは近代のことであろう。ここでは一夜にして北野天満宮に千本の松が生えた伝承を思い起こし、例文の重頼の句と同様の趣向で、こんな辛い中でもみんな松飾りをして、さながら千本松のようだ、という意味ではないかと思う。

 忌むべき出来事の後に新しい年が来て、さながら千本松のような奇跡を見る思いだったのだろう。東日本大震災の奇跡の一本松を思わせる。

 この発句で興行をしたついでに宗長が和歌を詠む。

 

 この春を八十に添へて十とせてふ

     道のためしや又も始めん

             宗長法師

 

 この正月をもって宗祇が数え八十二になったということで、この調子で九十まで生きる旅路の始まりになる、とその長寿を祝う。

 これに対し宗祇は、

 

 いにしへのためしに遠き八十だに

     過ぐるはつらき老のうらみを

             宗祇法師

 

 「いにしへのためし」は『旅の詩人 宗祇と箱根』(金子金治郎著)によれば、藤原俊成が九十の長寿を迎えた先例だという。永久二年(一一一四年)に生まれ、 元久元年(一二〇四年)に没した。

 八十まで生きてきたけど年を取るのは辛いことなので、そんな長くは生きたくない、というような返事だった。

 九日に一折(二十二句)の興行があり、その時の発句、

 

 青柳も年にまさ木のかづら哉  宗祇

 

の句があった。「まさ木のかづら」は、

 

 み山には霰降るらし外山なる

     まさきの葛色づきにけり

             よみ人しらず(古今集)

 

の歌がある。

 「まさ木」を「年にまさる」と掛けて、青柳も新しい年を迎えれば、去年の真拆(まさき)の葛(かづら)の色にも勝る、と新年を喜ぶ句とする。

 裏には、青柳とは言っても老木の我身は真拆の葛のようなものだという、含みがあったのかもしれない。真拆の葛は定家葛(テイカカズラ)のことだという。どちらも枝垂れる。

3,草津と伊香保、温泉の旅

 「此暮より又患ふ事さえかへりて、風さへ加はり、日数経ぬ。如月の末つかた、おこたりぬれど、都のあらましは打置て、「上野の国草津といふ湯に入て、駿河国にまかり帰らんの由思ひ立ぬ」と言へば、宗祇老人「我も此国にして限(かぎり)を待はべれば、命だにあやにくにつれなければ、ただの人々の哀れびも、さのみはいと恥かしく、又都に帰り上らんも物憂し。」(宗祇終焉記)

 

 年末から宗長の体調が再び悪化し、それに風邪も加わり、正月過ぎても直江津に閉じ込められたまま日々を過ごす。

 二月の末になってようやく体調が回復すると、京へ上るのをやめて草津温泉行き、そこから元来た道を戻って駿河に帰ろうと思い立ち、宗祇を温泉に誘う。

 宗祇もそれに賛同する。越後で死ぬことになると思っていたら、思いのほか「つれなく(その気配もない)」ということで、上杉家の人たちにいつまでも世話になるのも気が引けるが、だからと言って都に帰るのものも、あっちもいろいろごたごたしていて面倒くさい。

 宗祇が越後に旅発った直後、七月二十八日に京都大火があって種玉庵が焼失したことも知っていたのだろう。

 

 「美濃国に知る人ありて、残る齢の陰隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし」と、「富士をもいま一度(たび)見侍らん」などありしかば、打捨て国に帰らんも罪得がましく、否びがたくて、信濃路にかかり、千曲川の石踏みわたり、菅の荒野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所に着きぬ。」(宗祇終焉記)

 

 美濃はかつて宗祇が東常縁から古今伝授を受けた土地で、そこに知り合いがいたのであろう。度々手紙を交わしていて、自分もそこへ行き、その途中でもう一度富士山を見たい。ということで、宗長の駿河に帰る道に同行して、そこから美濃へ向かうことにする。

 宗祇がこれまで最後に富士山を見たのはかつての東国下向からの帰りで、三島で最初の古今伝授を受け、そこから美濃で古今伝授を終了するまでの間に見て以来のものだったのだろう。文明四年(一四七二年)以来三十年ぶりになる。

 そう言われれば、一人で駿河に帰るわけにもいかないので、ここで宗長は駿河へ、宗祇は美濃へ、ともに旅をすることになる。

 信濃路は北国街道とも呼ばれているもので、直江津から野尻湖の脇を通って行く、今の国道十八号線に踏襲された道であろう。そのあといまの長野市の善光寺を通って、千曲川を渡り、千曲川の東岸を遡って、上田の辺りで東山道に合流する。越後に来る時も、おそらくこの道を通ったと思われる。

 二十六日に草津に着いたとあるが、二月の末に病が治ったとあったから、三月のことか。どのルートで入ったかはよくわからない。

 

 「同じき国に伊香保といふ名所の湯あり。中風のために良しなど聞きて、宗祇はそなたに赴きて、二方に成ぬ。此湯にて煩(わづらひ)そめ、湯に下(を)るる事もなくて、五月の短夜をしも明かし侘びぬるにや、

 

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の

     声うらむ夜の老の旅寝を」(宗祇終焉記)

 

 伊香保も今でも有名な温泉地で、草津から渋川の方へ行った、榛名産の中腹にある。二つの温泉で一月以上ゆっくりと休養する所だったが、山奥の旅が御老体にはきつかったのか、今度は宗祇の方の体調が悪くなり、五月になる頃には温泉に入ることもなくなった。

 そこで宗長が一首。

 

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の

     声うらむ夜の老の旅寝を

             宗長法師

 

 「ゆふづけ鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木綿付鳥」の解説」に、

 

 「〘名〙 (後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく) 木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。

  ※古今(905‐914)恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」

  [補注]「俊頼髄脳」では「ゆふつけどりとは鶏の名なり。鶏に木綿をつけて山に放つまつりのあるなり」と説明されていたが、「奥義抄」が、それを疫病流行の際に朝廷が四方の関で行う四境祭の儀式であると説き、「袖中抄」「顕昭古今集注」もこれを継承した。」

 

とある。その四境祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四角四堺祭」の解説」に、

 

 「〘連語〙 陰陽道で、疫神の災厄を払うため、家の四隅と国の四堺とで行なった祭祀。また、朝廷で六月と一二月の晦日(みそか)に行なった鎮火祭と道饗(みちあえ)の祭をいう。四角四境の祭。四角四境鬼気の祭。四角祭。

  ※朝野群載‐一五・長治二年(1105)二月二八日・陰陽寮四角四堺祭使歴名「四角四堺祭使等歴名 陰陽寮 進下供二奉宮城四角巽方鬼気御祭一 勅使已下歴名上事」

 

とある。

 「ゆふづけ鳥のしだり尾」は病魔を払うためのまじないとして、鶏に付けられたものなのだろう。

 「しだり尾」というと、

 

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の

     ながながし夜をひとりかも寝む

             柿本人麻呂(拾遺集)

 

の歌がある。

 「しだり尾」が「ながながし夜」を導き出すように、下句の「声うらむ夜の老の旅寝を」はそれによって導き出され、ここでは病気のことが心配で寝るに眠れなかった、という意味になる。

 なお、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の注には、「宗長は草津に、宗祇は伊香保に別れて滞在した。宗祇には宗碩・宗坡が同行。四月二十五日、伊香保において宗祇・宗碩・宗坡の三吟がある(宮内庁書陵部本也)。」とある。

 宗碩・宗坡はいつから同行しているか定かでない。ただ、この二人が宗祇について行ったとなると、宗長の方は誰が同行していたのだろうか、ということになる。

 本文に記されてはいないが、宗祇の高齢と当時の治安の悪さを考えると、実際はそれなりの人数で移動していたのだろう。

 宗祇の『白河紀行』や宗長の『東路の津登』を見ると、館に泊まった時は、そこの武士が護衛となった送って行ったりというのもあったようだ。

4,興行の日々

 「文月の初めには武蔵国入間川のわたり、上戸と云処は今山の内の陣所なり。ここに廿日余りがほど休らふ事ありて、数寄の人多く、千句の連歌なども侍し。」(宗祇終焉記)

 

 「文月」は他本に「六月」とあり、その後の日程をみると「六月」が正しいと思われる。

 上戸は今の東武東上線霞ケ関駅の北側で、今の常楽寺の辺りには、かつて山内上杉家の上杉顕定の上戸陣があった。ウィキペディアに、

 

 「戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。」

 

とある。時はまさに、「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて」と冒頭にあったように、長享の乱のさなかだった。

 鎌倉街道上道からは多少それることになるので、宗祇宗長ら一行はこの上杉顕定に招待されたのであろう。連歌千句興行が行われている。

 

 「三芳野の里、川越に移りて十日余りありて、同じき国江戸といふ館にして、すでに今はのやうにありしも、又とり延べて、連歌にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き所にして、廿四日より千句の連歌あり。廿六日に果てぬ。」(宗祇終焉記)

 

 三芳野(みよしの)は武蔵の国の地名で、川越と所沢の間に三芳町があるくらいだから、かなり広い地域を表していたのだろう。古代東山道武蔵路の東側に当るが、鎌倉街道上道のルートはそれより西で、かなり外れることになる。

 『伊勢物語』第十段にも、

 

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに

     君が方にぞ寄ると鳴くなる

 

 わが方に寄ると鳴くなるみよし野の

     たのむの雁をいつか忘れむ

 

という歌を交わす場面がある。

 川越には三芳野神社があり、ウィキペディアには、

 

 「三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。」

 

とある。川越城に関してはウィキペディアに、

 

 「鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。

 武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。」

 

とある。

 先の上戸陣はこれに対抗して作られたものだった。宗祇宗長ら一行は川向こうの敵陣に向かったことになる。こういうあたりから、連歌師が敵対する大名の間を取り持つ外交的な役割も果たしていたのではないか、とも言われている。

 ただ、それは睨み合っている間だけで、本当に軍が始まると、ほうほうのていで逃げ出すことになる。宗長の『東路の津登』にはそのことが書かれている。

 まあ、武将は両方とも良いお得意さんだというだけで、軍を止める力など求める由もなかったのだろう。

 宗祇宗長ら一行はここで十日滞在した後、同じ太田道灌築城の江戸城に行くことになる。おそらくこの二つの城を繋いだのが川越街道の始まりだったのだろう。川越が小江戸と言われるのも、この時代にまで遡れるのかもしれない。

 この道中で宗祇の病状はかなり悪化し、「今(いま)はのやうに」というくらいだから命も危ない状態になったのだろう。「いまは」は本来別れの挨拶で、「今はしばし別れむ」という意味で、今の言葉だと「じゃあ」と言って別れるような感覚だったのだろう。「さよなら」も「左様なら」から来た言葉だから似ている。

 ただ、別れの言葉は永遠の別れを表すのにも転用されるため、最初は軽い意味で用いられていた言葉も、使われているうちに重い意味になってきてしまい、別の軽い言葉に取って代われるようになる。英語もFarewellからgood byになりsee youへと変わってきている。

 江戸城に着いてから、病状も持ち直し、連歌興行も行われる。大阪に着いた時の芭蕉を思わせる。病気を押して、かなり無理をしていたのだろう。

 この後鎌倉近き所へと向かう。

 「鎌倉近き所」は金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』によると、横浜市神奈川区の権現山城だという。京浜急行神奈川駅の近くにある。江戸と鎌倉の中間付近で、あまり鎌倉に近いという感じはしない。

 権現山城は鎌倉街道下道からは外れた所にある。下道を通って、途中から分岐したか。ひょっとしたらこの権現山城への道として、近世の東海道の道筋が付けられたのかもしれない。近世東海道の神奈川宿もこの辺りになる。

 同書によると、三条西実隆の歌日記『再昌草』の文亀二年九月十六日条に、「此国の守護代うへ田とかやが館にて、廿四日より千句の連歌ありて、廿六日にはて侍しかば、廿七日に彼所をたちて、湯もとの湯に入て」と記されているという。

 相模国守護代の上田正忠の後継者の上田政盛だという。ウィキペディアに、

 

 「上田政盛(うえだまさもり)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。相模国守護代・上田正忠(政忠)の後継者と推定されている。ただし、黒田基樹は、「政盛」の実名は軍記物に現れるのみでかつ近世初期までに成立したものに見られないことからこれを採用できないとしている。」

 

とある。確かに『再昌草』にも上田とあるだけで名前がない。となると、誰なんだということになる。

 そのウィキペディアには、

 

 「長享元年(1487年)からの長享の乱で活躍し、対立する山内上杉家領であった神奈川湊を支配下に置くが、永正2年(1505年)に主家が山内上杉家に降伏したためにこれを奪われる。これを恨んだ政盛は永正7年(1510年)6月、当時相模西部を制圧していた伊勢宗瑞の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城(現在の神奈川県横浜市神奈川区)で挙兵した。」

 

とある。扇谷上杉方に着いていたのなら、ここも川越、江戸と太田道灌の元で興行を行ったその延長になるのか。

 

 「一座に十句、十二句など句数も此ごろよりはあり。面白き句もあまたぞ侍し。此千句の中に、

 

 今日のみと住む世こそ遠けれ

 

と云句に、

 

 八十(やそぢ)までいつか頼みし暮ならん

   年の渡りは行く人もなし

 老の波幾返りせば果てならん

 

 思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもやと、今ぞ思ひ合せ侍る。」(宗祇終焉記)

 

 千句興行は連衆の人数もそれなりのものだったのだろう。百韻一巻に十句、十二句はそんなに多い感じはしないが、体調を考えるとかなり頑張ったのだろう。

 その中の句に、

 

   今日のみと住む世こそ遠けれ

 八十までいつか頼みし暮ならん 宗祇

 

 述懐の句で、今日を限りに世を捨てて出家しようと思ったあの時から、もうかなり長いこと経ってしまったという前句に、いつかはと期待しながらついに八十二までなってしまった、と付ける。

 八十は宗祇の年齢の八十二なのもあるが、釈迦入滅の年齢という特別な年齢でもある。明応八年(一四九九年)三月の宗祇独吟何人百韻の四十三句目に、

 

   きけども法に遠き我が身よ

 齢のみ仏にちかくはや成りて  宗祇

 

の句がある。

 

   年の渡りは行く人もなし

 老の波幾返りせば果てならん  宗祇

 

 「年の渡り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年の渡り」の解説」に、

 

 「① 一年が経過すること。一年の間。

  ※万葉(8C後)一〇・二〇七八「玉葛絶えぬものからさ寝らくは年之度(としのわたり)にただ一夜のみ」

  ② (牽牛・織女が)一年に一度、天の川を渡ること。《季・秋》

  ※源氏(1001‐14頃)松風「としのわたりにはたちまさりぬべかめるを」

[補注]①の「万葉」例は、②の意にも掛けて用いる。」

 

とある。前句は七夕の句だったか。それを①の意味に取り成して、今年もまた一年が経過して、自分一人の他に行く人も無い孤独な生活を送っているとし、よる年波をこれから何度繰り替えすれば終わるのだろうか、と付ける。

 年取るのは孤独なもので、いつまで生きなくてはいけないのか、という老いの嘆きの句になる。

 宗長が「思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもや」と思う、この「とぢめ」は臨終の意味。

 この頃は辞世というと和歌を詠むもので、

 

 老の波幾返りせば果てならん

     年の渡りは行く人もなし

 

とすると、なるほど辞世の歌のようにも聞こえる。「行く人もなし」が自分ももう次の年へと渡ることはない、これまでだ、と言っているとも取れる。

5,駿河への道にて

 「廿七日、八日、この両日ここに休息して、廿九日に駿河国へと出立侍るに、其日の午刻ばかりの道の空にて、寸白(すんぱく)と云虫おこりあひて、いかにともやる方なく、薬を用うれど露験(しるし)もなければ、いかがはせむ。」(宗祇終焉記)

 

 『再昌草』には「廿七日に彼所をたちて」とあったが、おそらくこちらの方が正しい。権現山城から一日で箱根湯本になんてことは有り得ないからだ。

 六月の初めに上戸陣に到着し、そこで「廿日余り」過したあと川越でも「十日余り」とあったので、二十七日は七月の二十七日になる。

 道筋を推定するなら、近世東海道の道筋が既に出来ていたとすれば、そのまま保土ヶ谷、藤沢を経て小田原に向かったと考えられる。

 藤沢の今の遊行寺(当時の藤沢道場)から先の道は、これより少し後になるが、宗長の『東路の津登』の旅で通ったと思われる。

 宗長はこの『宗祇終焉記』の旅で越後へ向かう時には、時間がかかっている上、最短コースを通っていない。それは十国峠を越えて初島を見たことと、鎌倉に寄っていることで明らかだ。最短なら箱根峠から湯本へ出て、鎌倉に寄らずに藤沢道場から鎌倉街道上道に入った方が早い。

 三島─小田原─藤沢の道筋があった以上、藤沢─神奈川─品川への道が当時存在していたと考えた方がいいだろう。宗祇の病状を判断するなら、この最短ルートを通ったと考えていいと思う。

 仮にこの道がなかったとしたら、保土ヶ谷宿で鎌倉街道下道に合流し、そこから一度朝比奈切通しを通って鎌倉に入り、化粧坂切通しを出て鎌倉街道上道で今の遊行寺に出て、そこから小田原方面へ向かうことになる。これはかなりの遠回りだ。

 旧東海道(近世東海道)で保土ヶ谷を出ると、権太坂の登りになり、そこに武相国境モニュメントというのがある。権太坂を登り、品濃坂の下りに入るその峠が昔の武蔵国と相模国の国境だった。

 この小さな山越えのアップダウンも病人には辛いものだったのだろう。宗祇は寸白(すんぱく)を起こす。条虫(じょうちゅう)などの寄生虫によって生じる下腹部の激しい痛みだが、この場合は別の原因で生じた同様の痛みだったかもしれない。

 宗祇が何の病気だったかは、今の診察を受けたわけでないのではっきりとはわからない。ただ既に癌などを引き起こしていたなら、その痛みだった可能性もある。だとしたら、当時の薬が効果を示さないのも無理もない。

 

 「国府津と云所に旅宿を求めて、一夜を明し侍しに、駿河の迎への馬、人、輿なども見え、素純馬を馳て来向はれしかば、力を得て、明くれば箱根山の麓、湯本といふ所に着きしに、道の程より少し快げにて、湯漬など食ひ、物語うちし、まどろまれぬ。」(宗祇終焉記)

 

 国府津は今の東海道線の国府津の辺りで間違いはないだろう。小田原の少し手前になる。

 名前に「国府」とあるが、相模国の国府がどこにあったかについては諸説あってわからない。

 他の国の国府が中世になっても守護のいる所ということで機能し続けたのに対し、相模は鎌倉があったため、国府が早い時期に顧みられなくなったのかもしれない。

 相模国国府の位置についてはウィキペディアには高座郡国府説(海老名付近)、大住郡国府説(平塚四之宮)、餘綾郡国府説(大磯)の三つの説が載っている。いずれにせよ国府津からは離れている。

 ここまでくる間に、何らかの形で駿河の国に連絡を入れていたのであろう。国府津に到着すると、翌日に迎えの人たちが馬や輿を用意してやってきた。馬に跨るだけの体力もなければ、輿に乗せて運ぶしかない。いつでも迎えに行けるように小田原辺りで待機していたか。

 七月二十七日に権現山城を出てその日に国府津に着いたとするならば、五十キロ近い道のりを強行軍で通過したことになるが、まずそれはないだろう。途中で寸白を起こしているし、その辺りで一泊して、二十八日に国府津に着いたと考えた方がいい。

 七月二十八日に国府津に着き、翌二十九日に出迎えの人たちが到着する。そして三十日に箱根湯本に行く。

 素純は東胤氏(とうのたねうじ)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「東胤氏」の解説」に、

 

 「?-1530 室町-戦国時代の武将,歌人。

 東常縁(つねより)の子。はじめ足利政知(まさとも)に,のち今川氏につかえる。父の弟子宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけ,文亀2年には病中の宗祇から「古今和歌集」の奥秘を返伝される。今川氏親(うじちか)に協力し,「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集した。享禄(きょうろく)3年6月5日死去。法名は素純。著作に「かりねのすさみ」など。」

 

とある。

 こうして大勢の人の援護を受けて、輿に乗って、三十日朝、箱根湯本に向かう。距離的には十キロくらいか、それ程長い道のりではない。

 湯漬(ゆづけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「湯漬」の解説」に、

 

 「〘名〙 飯を湯につけて食べること。また、その食事。蒸した強飯(こわめし)を熱い湯の中につけ、また、飯に湯を注いだ。食べるときに湯を捨てることもある。夏は「水漬」といって、水につけることがあった。

  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「侍従のまかづるにぞあなる。ゆづけのまうけさせよ」

  ※夢酔独言(1843)「酔もだんだん廻るから、もはや湯づけを食うがよひとて」

 

とある。戦国時代まではまだ甑で蒸す強飯(こわいい)が主流だったという。お湯をかけることで食べやすくしていた。味のついた汁を用いると、北条氏政のエピソードで有名な汁かけ飯になる。

 お湯の量を多めにすればそのまま病人食にもできたのだろう。宗祇はそれを食べ、物語(世間話)をして、やがてうとうとと眠る。

 

 「おのおの心をのどめて、明日は此山を越すべき用意せさせて打休みしに、夜中過るほどいたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、「ただ今の夢に定家卿に会ひたてまつりし」と言ひて、「玉の緒よ絶えなば絶えね」といふ歌を吟ぜられしを、聞く人、「是は式子内親王の御歌にこそ」と思へるに、又此たびの千句の中にありし前句にや、「ながむる月にたちぞうかるる」といふ句を沈吟して、「我は付がたし、皆々付侍れ」などたはぶれに言ひつつ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ于時八十二歳、文亀二夷則晦日。」(宗祇終焉記)

 

 明日は箱根峠を越えて三島へ向かう段取りだったのだろう。しかしその夜遅く、様態が急変する。「まどろまれぬ」とあるから、就寝ではなくうたた寝で、まだ日付は変わっていなかったのだろう。

 激しい痛みに襲われていたようだ。揺り動かして起こすと、夢で定家の卿に合ったといい、「玉の緒よ絶えなば絶えね」を吟じたという。

 これは、

 

 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば

     忍ぶることの弱りもぞする

             式子内親王(新古今集)

 

の歌で、今日でも百人一首でおなじみの歌だ。

 式子内親王は藤原定家が密かに恋心を抱いていたと言われていて、謡曲『定家』にも、

 

 「式子内親王、初めは加茂の斎の宮にそなはり給ひ、程なく下り居させ給ひしに、定家の卿忍び忍びの御契り浅からず。その後式子内親王、程なく空しくなり給ひしに、定家の執心葛となつて、この御墓に這ひ纏ひて、互ひの苦しみ離れやらず。ともに邪婬の妄執を、御経を読み弔ひ給はば、猶猶語り参らせさふらはん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.27374-27389). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。これが定家葛(テイカカズラ)の名の由来となっている。

 宗祇が見た夢がどういう夢なのかはわからないが、定家の夢でこの歌を想起するのはそんなに不自然なことではない。ただ、私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ、というこのフレーズは何とも不吉だ。

 あるいは表向きは八十過ぎまで生きたから、これ以上生きても苦しいだけだと言ってはいるものの、心の奥には激しい生への執着があって、それが式子内親王の苦しい恋心と重なったのかもしれない。

 それに続いて、この前の千句興行に「ながむる月にたちぞうかるる」という句を誰かが詠んでいて、この前句に自分は付けられないから、みんなそれぞれ付けてくれ、という。

 これも何かのメッセージだったのか。

 人は皆かなわぬ思いを抱き、苦しい人生を生きている。こんな苦しいなら、いっそ死んでしまえばなどと、何度も思いながらも、それでも生にしがみついて、今も生きている。

 「ながむる月にたちぞうかるる」という前句は打越の句にどう付いていたのかはわからないが、何か見果てぬ思いを月に重ねながら浮かれているような、そういうイメージなのだろう。

 枕元にいる人たちに、前句付けを振ったのだろうか。「ながむる月にたちぞうかるる」─それは人生とはそういうものではないか、と言っているかのようだ。それにみんなはどんな句を付けるのかい?そう問いかけているようでもある。

 宗祇は答えを聞く間もなく、そのまま息を引き取ったのだろう。「灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ」と、安らかな大往生だったことだけが救いだ。

 夷則は旧暦七月の異名で、「于時八十二歳、文亀二夷則晦日」は享年八十二歳、文亀二年七月三十日没、ということになる。新暦だと一五〇二年九月十一日没、ということになる。

 (ウィキペディアに九月一日とあるのはユリウス暦で、今のグレゴリオ暦が採用されたのは一五八二年だったということから、ユリウス暦に換算して九月一日になっている。)

 

 「誰人心地するもなく、心惑ひども思ひやるべし。かく草の枕の露を名残も、ただ旅を好める故ならし。唐の遊子とやらんも旅にして一生を暮し果てつとかや。これを道祖神となん。

 

 旅の世に又旅寝して草枕

     夢のうちにも夢をみる哉

 

 慈鎮和尚(くわしやう)の御詠、心あらば今夜(こよひ)ぞ思ひ得つべかりける。」(宗祇終焉記)

 

 「心地するもなく」は放心状態で、何をしていいかわからず、ということであろう。

 旅の途中で亡くなったということで、これも旅を好んでいた結果だという。そこで、これを道祖神と呼ぶ。

 道祖神はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「道祖神」の解説」に、

 

 「サエノカミ、ドーロクジンなどといったり、塞大神(さえのおおかみ)、衢神(ちまたのかみ)、岐神(くなどのかみ)、道神(みちのかみ)などと記されたりもする。猿田彦命(さるたひこのみこと)や伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)などにも付会していることがある。境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において道祖神、塞神(さえのかみ)、道陸神(どうろくじん)などを別々の神として祀(まつ)っている所もあり、地域性が濃い。峠、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある。神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人は峠や村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている。[倉石忠彦]」

 

とある。中国の影響があったかどうかについては定かでない。「道祖」という漢語を当てていることから、中国と結びつける人もいたのだろう。

 「唐の遊子とやらんも旅にして」という一節は、特に道祖神の起源とは関係なく、単に中国でも旅を好み旅に死んだ人がいた、というだけのことで引き合いに出されただけかもしれない。

 宗長は宗祇のこうした旅に死ぬ生き方に、

 

   旅の歌とてよみ侍ける

 旅の世に又旅寢して草枕

     夢のうちにも夢を見るかな

             法印慈円(千載集)

 

の歌を捧げる。

 人生は夢だというのに、その夢の中で人は夢を見ている。それと同じで人生そのものが旅にすぎないというのに、その旅の中で旅をしている。

 これは宗祇の最後の問いに対する宗長の答えなのかもしれない。

 

   ながむる月にたちぞうかるる

 旅の世に又旅寢して草枕

 

 なお、慈鎮和尚(じちんかしょう)は死語に与えられる諡号で、和歌では慈円と呼ばれる。

 なお、和尚はウィキペディアに、

 

 和上(わじょう) 律宗・浄土真宗など(儀式指導者に対してのみ)

 和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など

 和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など

 和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など

 

とある。慈円は天台の僧なので「かしょう」になる。

6,悲しみの旅路

 「足柄山はさらでだに越え憂き山なり。輿にかき入て、ただある人のやうにこしらへ、跡先につきて、駿河の境、桃園といふ所の山林に会下(ゑげ)あり。定輪寺といふ。この寺の入相のほどに落着きぬ。」(宗祇終焉記)

 

 足柄山は足柄峠の周辺だけでなく、箱根はもとより十国峠までの広い地域を指していた。

 国府津から宗祇を乗せてきた輿は、そのまま遺体を運ぶものとなり、急峻な箱根の山を越えていった。箱根越えのルートはよくわからない。鎌倉時代には湯坂を通る尾根道の鎌倉古道が用いられていたというが、この時代は既に畑宿を通る近世のルートがあったともいう。

 箱根峠から先も、かつては江戸時代のルートよりも北寄りの鎌倉古道を通っていたが、この時代はよくわからない。この頃はまだ山中城はなかったが、山中城が箱根越えのルートを監視するように立てられたとするなら、既に近世東海道と同じルートが主流だったのかもしれない。

 箱根峠を越えると、その反対側は伊豆国になり、国府のある三島に出る。それより先の黄瀬川が伊豆国と駿河国の境になる。

 桃園はその黄瀬川を北へ上って行った所にある。今のJR裾野駅のある辺りの黄瀬川の対岸が桃園で、そこには今でも定輪寺があり、宗祇の墓がある。

 湯本から一日がかりで箱根を越えて、日の沈む頃にこの寺までたどり着く。八月一日のことになる。

 

 「ここにて一日ばかりは何かと調えへて、八月三日のまだ曙に、門前の少し引き入りたる所、水流れて清し、杉あり、梅桜あり、ここにとり納めて、松を印になど、常にありしを思出て、一本を植へ、卵塔を立、荒垣をして、七日がほど籠居て、同じ国の国府(こう)に出侍し。」(宗祇終焉記)

 

 八月二日はいろいろ準備するものもあり、翌八月三日に埋葬し、初七日をここに籠って過ごす。そのあと駿河の国府(こう)、江戸時代は府中宿があった今の静岡駅の方へと向かう。

 宗祇の埋葬は定輪寺の裏の山林で行われた。「水流れて清し、杉あり、梅桜あり」という清浄の地で、、ここに松の木を一本植えて、卵塔を建て、荒垣で囲った。

 卵塔は無縫塔とも呼ばれ、ウィキペディアには、

 

 「無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。」

 

とある。

 残念ながら、宗祇の埋葬地は東名高速道路の建設によって失われ、宗祇の墓は境内に移動させられたという。

 

 「道の程、誰も彼も物悲しく、ありし山路の憂かりしも、泣きみ笑ひみ語らひて、清見が関に十一日に着きぬ。夜もすがら礒の月を見て、

 

 もろともに今夜清見が礒ならば

     と思ふに月も袖濡らすらん」(宗祇終焉記)

 

 この頃はまだ薩埵峠がなく、富士川を渡って由比から興津へ抜けるルートは海岸沿いで、高波が来ると通行できなくなることから、清見が関には「波の関守」がいると言われていた。

 その清見が関で十一日の月を見ての宗長の一首になる。一緒に越えるはずだった清見が関も、今はいない。この磯から見える奇麗な月も、悲しくて涙が出て来る。

 

 「かくて国府に至りぬ。我草庵にして、宗碩・水本「あはれ、これまでせめて」などうち嘆くほかの事なし。十五夜には当国の守護にして一座あり。」(宗祇終焉記)

 

 国府(こう)は今の静岡。後に徳川家康が駿府城を建てるが、それ以前はここに今川館があった。宗長もかつては今川義忠に仕えていたが、この時は息子の今川氏親の時代だった。東胤氏を迎えに出したのも、この氏親だったのだろう。

 前にも述べたが、宗長が丸子(まりこ)に柴屋軒を構えるのは永正元年(一五〇四年)で、これより二年後のことになる。この時の「我草庵」は今川館からそう遠くない所にあったのだろう。

 伊香保で宗祇・宗碩・宗坡の三吟があったので、宗碩もこの旅にずっと同行してたようだ。

 水本は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注に、

 

 「水本与五郎は、宗祇の従者で、この後、「終焉記」を携えて上洛し、諸方の連絡にあたっている。」

 

とある。

 十五夜の名月には守護の今川氏親の主宰する連歌会が行われた。

 

 「かねて宗祇あらましごとの次に、「名月の比、駿河の国にや至り侍らん。発句などあらばいかにつかうまつらん」と苦しがられしかば、去年の秋の今夜(こよひ)、越後にしてありし会に発句二あり。一残(ひとつのこ)り侍る由、あひ伴ふ人言へば、「さらばこれをしもこそつかうまつらめ」など侍りけるを、語り出づれば、それを発句にて、

 

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇

   空飛ぶ雁の数しるき声   氏親

 小萩原朝露寒み風過て     宗長」(宗祇終焉記)

 

 宗祇が越後で、これから駿河の方に向かうということで、氏親との間に連歌会の約束があったのだろう。旅の途中で、駿河の国に着くのが名月の頃なら、その時の発句はどうしようかと心配していた。

 その時従者の一人が、去年の越後の連歌会で発句を二つ作っておいたその一つが残っていると進言していたので、それを採用する。

 発句を事前に作っておいて、それを連歌会の前に当座の亭主に伝え、脇をあらかじめ用意させるというのは、連歌会では一般に行われていた。当日の天候の変化などを踏まえて、予備の句を用意しておくこともあった。これはおそらく当日曇った時に備えて作った句だろう。

 

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇

 

 曇らないでくれ、秋の月だからといってもバレて困るような恋なんて、この年では無理なんだから、といったところか。

 折からの追悼の連歌会になってしまい、この句は、悲しみの涙で曇らないでくれ、という意味に変わり、「誰が名は立たじ」も恋の情から死者の名を立ててくれという意味に取り成される。

 氏親の脇は、

 

   曇るなよ誰が名は立たじ秋の月

 空飛ぶ雁の数しるき声     氏親

 

で、空を沢山の雁が悲しい声を上げて飛んでいます、と付ける。月夜に雁は付け合いで、空飛ぶ沢山の雁を残された自分たちに見立てて、みんな悲しんで泣いています、と弔意で応じる。

 第三。

 

   空飛ぶ雁の数しるき声

 小萩原朝露寒み風過て     宗長

 

 ここは弔意を離れて、前句の雁に小萩原の朝露を添えて、夜明けの景色へと展開する。

 

 「同じ夜侍し一続の中に、寄月恋旧人を云題にて、

 

 ともに見ん月の今夜を残しおきて

     故(ふる)人となる秋をしぞ思ふ

             氏親

 

 宗祇を心待ち給しも、その甲斐なきといふ心にや。」(宗祇終焉記)

 

 連歌会の前に和歌をみんなで詠んだのであろう。

 一続は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注によれば続歌(つぎうた)のことだという。ジャパンナレッジの「日本国語大辞典」には、

 

 「(1)短冊を三つ折りにして、題を隠したまま各自短冊を分け取って、その場で歌を詠むこと。中世以降に流行し、三十首、五十首、百首から千首に及ぶことがある。また、それを披講する歌会をもいう。多く探題(さぐりだい)形式で詠まれた。

  *右記〔1192〕「次当座続歌探題等哥。数多不〓可〓詠〓之」

  *吾妻鏡‐建長三年〔1251〕二月二四日「於〓前右馬権頭第〓、当座三百六十首有〓継歌〓」

  *尺素往来〔1439〜64〕「天神講七座并詩歌続(ツキ)歌一千首。和漢連句十百韵」

  *御湯殿上日記‐文明九年〔1477〕一一月二二日「みなせの御ゑいへ、みやうかうの御つきうた五十しゆ」

 

とある。その続歌の題の一つに「寄月恋旧人」という題で、恋の情を添えて故人を偲ぶというのがあった。その時の今川氏親の詠んだ和歌は、

 

 ともに見ん月の今夜を残しおきて

     故人となる秋をしぞ思ふ

             氏親

 

で、宗祇とともに見るはずだった月を、今一人で見る。そのままの心だ。

 

 「又、ありし山路の朝露を思ひ出でて、

 

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

 

と云上句をつかうまつりしに、下句、

 

 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 

 これを宵居のたびたびに百句につかねて、せめて慰む灯火のもとにて、かれこれ去年今年の物語し侍るを、記し付侍るものならし。」(宗祇終焉記)

 

 この時の興行とは別に、宗祇の棺とともに箱根湯本を発った時のことを思い起こして、

 

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

 

という発句を何となく詠んでみたのだろう。これに宗碩が脇を付ける。

 

   消えし夜の朝露分くる山路哉

 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 

 これを毎晩少しずつ句を付けて行って、最終的に百韻にする。亡き宗祇を偲んでのことだった。

7,月命日と兼載の長歌

 「此月の晦日は月忌の初めなれば、草庵にして素純など来り会はれて、あひとぶらはれし次(ついで)、連歌あり。発句、

 

 虫の音に夕露落つる草葉かな

 

 この発句を案じ侍し暁、夢中に宗祇に対談せしに、「朝露分くと申発句を使うまつりて、又夕露はいかが」と尋侍しかば、吟じて、幾度(いくたび)も苦しからざる由ありしも哀れにぞ覚侍る。」(宗祇終焉記)

 

 七月晦日没なので、毎月晦日が月命日になる。この年の八月は小の月なので、八月二十九日(新暦十月十日)が月命日になる。

 宗長の庵に素純などが集まり、連歌会を行う。

 その発句、

 

 虫の音に夕露落つる草葉かな  宗長

 

の句は、桃園定輪寺で「消えし夜の朝露分くる山路哉」と詠んでいて、「朝露分くる」「夕露落つる」が似ているのが気になったのだろう。

 すると夢に宗祇が現れて、「何度でも問題はない」という答えだったので、この句で良しとした。

 「浅露分くる」は旅体で、「夕露落つる」は涙の暗示だから、意味はまったく異なる。「草葉」は「草葉の陰」というように、これも死の暗示になる。草葉の陰に御隠れになった宗祇さんに虫の音が悲しく、夕べには涙を落とします、という追悼の句になる。

 

 「同じ日の一続の中に、寄道述懐(しゅつくわい)と云題にて、

 

 たらちねの跡いかさまに分けもみん

     遅れて遠き道の芝草

             素純」(宗祇終焉記)

 

 「一続」は前にも出てきたが、今回は「寄道述懐」という題で詠む。

 述懐(しゅっかい)は連歌では恋と並ぶくらい多くの頻度で詠まれる主要なテーマで、過去を振り返って、満たされぬ思いや苦しみを吐露することを本意とする。

 例えば『水無瀬三吟』ではこういう感じだ。

 二十一句目、

 

   夢に恨むる荻の上風

 見しはみな故郷人の跡もなし  宗長

 

の句は前句の恋からの展開で、「恨む」を恋の恨みから、故郷が戦乱に荒れ果てて、家族や仲間を失った恨みにする。荒れた故郷はただ荻の上風だけが悲しく吹いている。

 次の二十二句目は、

 

   見しはみな故郷人の跡もなし

 老いの行方よ何にかからむ   宗祇

 

と、故郷の人達と死に別れて、これから先の老後をどうすればいいのか、という不安へと展開する。これも述懐の体になる。

 続く二十三句目は、

 

   老いの行方よ何にかからむ

 色もなき言の葉にだにあはれ知れ 肖柏

 

と、咎めてにはになるが、和歌など下手で拙い言い回ししかできないが、それでもこの悲しみをわかってほしい、と訴える。これも述懐になる。

 

 たらちねの跡いかさまに分けもみん

     遅れて遠き道の芝草

             素純

 

 この和歌もまた、亡き母の跡をどうやって追いかけることができるだろうか、生き残っている私にとっては遥か彼方の旅路だ、というもので、喪失の辛さを「道」の遠さに喩えて訴える「寄道述懐」になっている。

 

 「東(とうの)野州に古今集伝授聞書并切紙等残所なく、此度今はの折に、素純口伝附属ありし事なるべし。同じ比、素純の方より、初雁を聞きて宗祇の事を思ひ出でてなど言ひ送られし、

 

 ながらへてありし越路の空ならば

     つてとや君も初雁の声

 

 返し、

 

 三年経て越路の空の初狩は

     なき世にしもぞつてと覚ゆる

 

 宗祇北国の住まひ三ケ年のほど、便りにつけて文などありしを思ひ出で、かく申侍し。」(宗祇終焉記)

 

 東野州は東常縁のことで、ウィキペディアに「官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。」とある。

 宗祇に古今伝授を行ったことは前にも述べた。素純(東胤氏)の父親になる。

 古今集伝授聞書并切紙は宗祇が東常縁から古今伝授を受けた時の内容を記したものや切紙伝授で、切紙伝授はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切紙伝授」の解説」に、

 

 「〘名〙 室町時代以後、歌道、神道その他の諸道で、口伝(くでん)による誤りをなくすために、切紙に書いて弟子に伝授したこと。」

 

とある。

 こうした遺品は東常縁の息子である素純に受け渡された。

 その素純が、初雁の音を聞いて、一首詠む。

 

 ながらへてありし越路の空ならば

     つてとや君も初雁の声

             素純

 

 この初狩の声はきっと、まだ存命中に越後の空からよこした便りなのでしょう。遅れて今届きました。

 これに対し、宗長は答える。

 

 三年経て越路の空の初狩は

     なき世にしもぞつてと覚ゆる

             宗長

 

 宗祇のいた三年の間越後の空にいた雁ならば、亡くなってからでも便りを届けなければと思うことでしょう。

 

 「此比、兼載は白河の関近きあたり、岩城とやらんいふ所に草庵を結びて、程も遥かなれば、風にのつてに聞きて、せめて終焉の地をだに尋ね見侍らんとや、相模の国、湯本まで来(きた)りて、文にそへて書き送られ長歌、此奥に書加ふるなるべし。」(宗祇終焉記)

 

 上野白浜子著の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋社)の年表によると、兼載は文亀元年(一五〇一年)秋に、

 

 「兼載都を落ちて遠く会津へと旅立つ。妻子共々彼を見送った。この年は奥州白河に越年した。」

 

とある。

 その翌年文亀二年(一五〇二年)には、

 

 「正月白河にて、対松軒張行を催し、二月会津に入る。

 領主芦名盛高に父子の争いを進言したが却ってその忌諱にふれ、黒川自在院に籠り俳諧百韻を詠みこれを諷した。

 四月上旬、会津を去り岩城に向う。」

 

とある。ただ、金子金次郎著『連歌師兼載伝考』(一九七七、桜風社)には、「ともあれ岩城に草庵を構えていたことは、宗祇終焉記に明らかであり」とある。あとは「兼載天神縁起」にある、「嘗結草庵干磐城西寺之側而居焉」の記述で、城西寺の側だという。今の常磐線と磐越東線の分かれるあたりにある。大舘城跡の東側にあるが、実質城内といっていいような場所だったか。

 江戸時代には磐城平藩の内藤家の人達が芭蕉のパトロンになっていたが、磐城の風流の下地は兼載によるものだったか。

 兼載はこの後永正二年(一五〇五)から芦野に住み、永正五年(一五〇八年)に古河に移る。宗長の『東路の津登』の旅はその翌年で、佐野に立ち寄った時に古河にいる兼載の病気を見舞う手紙を出している。

 その兼載が箱根湯本まで来て手紙を送っている。『東路の津登』の時の宗長もそうだが、何でそこまで来ながら逢いに来なかったんだろうか。

 なお、磐城から箱根湯本というと、元禄六年の「朝顔や」の巻二十六句目の、

 

   うき事の佐渡十番を書立て

 名古曽越行兼載の弟子     芭蕉

 

の句のことも思い起こされる。もっとも勿来の関の場所は諸説あって、今のいわき市と北茨城の間にある「勿来の関」は、磐城平藩の内藤のお殿様が、陸奥の歌枕をことごとく藩内に見立てて誘致したということもあり、かなり怪しい。

 さて、その長歌だが、

 

 「末の露 もとの雫の ことはりは おほかたの世の ためしにて 近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる 馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも 惜しまれぬべき 命かは 同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば 便りの風も ありありと 黄楊の枕の 夜の夢 驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ 事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける

 

   反歌

 遅るると嘆くもはかな幾世しも

     嵐の跡の露の憂き身を」(宗祇終焉記)

 

 冒頭の「末の露 もとの雫」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末の露本の雫」の解説」に、

 

 「(草木の葉末の露と根元の雫。遅速はあっても結局は消えてしまうものであるところから) 人の寿命に長短はあっても死ぬことに変わりはないということ。人命のはかないことのたとえ。

  ※古今六帖(976‐987頃)一「すゑの露もとのしづくやよの中のをくれさきだつためしなるらん」

 

とある。例文の歌は、新古今集にも収録されている。

 

 末の露もとの雫や世の中の

     後れ先立つためしなるらむ

             僧正遍昭(新古今集)

 

で、新古今集の仮名序にも、「しかのみならず、高き屋に遠きを望みて民の時を知り、末の露本の雫によそへて人の世を悟り」とある。

 遅速はあってもいつかは消える、その「ことはりは おほかたの世の ためしにて」と、このあたりはこの長歌の枕となる。この導入部で「近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる」と宗祇の死という本題に入る。

 「馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん」は亡き宗祇とは三十年の付き合いだった、ということで、兼載と宗祇との出会いは、はっきりとした記録はないが、宗祇が関東に下向した頃、兼載が心敬に師事していて、その頃だとされている。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)は応仁二年(一四六八年)頃としている。三十四年前になる。

 なお、『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注は、その二年後の文明二年(一四七〇年)正月の「河越千句」に登場する興俊が後の兼載だとしている。

 

 「そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも」の大原山は京の大原の里で昔から炭焼きが有名で、大原女が京にエネルギーを供給していた。

 

 こりつめて真木の炭やくけをぬるみ

     大原山の雪のむらぎえ

             和泉式部(後拾遺集)

 嘆きのみ大原山の炭竃に

     思ひたえせぬ身をいかにせむ

             よみ人しらず(新後拾遺集)

 

などの歌に詠まれている。

 『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注は、「心ざし大原山」のつながりから、

 

 心ざし大原山の炭ならば

     思ひをそへておこすばかりぞ

             よみ人しらず(後拾遺集)

 

の歌を引いている。ともに連歌への思いを起こし、煙の寄り添うように、ともに同じ道に励んできたという含みを取ってもいいだろう。

 その一方で空へ消えて行く煙は哀傷歌ではしばしば死者の火葬の煙にも重ね合される。ともに大原の煙をともにしながらも、同時に火葬の煙を導き出す枕として大原山の炭焼きの煙を用いて、「昇るとも 惜しまれぬべき 命かは」と繋がる。このあたりの移りの面白さは、連歌師ならではのものかもしれない。

 「同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば」は宗祇も自分の同じように東国を旅をしているが、宗祇の東国下向の時以降、なかなか会うこともなかったということで、「便りの風も ありありと」と風の噂に聞くのみだった。

 明応九年(一五〇〇年)の七月十七日に宗祇は京を離れて越後に向かったが、その年の十月、兼載は後土御門天皇崩御を知り、京に上ったという。ここでも行き違いになっている。大原山を引き合いに出したのは、この時の大葬のイメージがあったからか。

 その風の噂で宗祇の死を知り、「黄楊の枕の 夜の夢」の黄楊の枕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「黄楊の枕」の解説」に、

 

 「ツゲの材で作った枕。つげまくら。

  ※古今六帖(976‐987頃)五「ひとりぬるこころはいまもわすれずとつけの枕は君にしらせよ」

 

とあり、和歌では「告げ」と掛けて用いられる。夜の夢に続くと、夢でもお告げがあったという意味になる。

 「驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ」と宗祇の死に驚いて弔いに駆けつけようと思い立ち、野山を旅し、露のように儚く消えていったその跡だけでも尋ねようと、磐城から箱根湯本までやって来る。

 そして、宗祇終焉の地に立ち、「事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける」と箱根の山を尋ねても既にその跡はなく、松風のシュウシュウという悲しげな音ばかりが答えるばかりだった。

 そして反歌。

 

 遅るると嘆くもはかな幾世しも

     嵐の跡の露の憂き身を

             兼載

 

 「遅るる」は死に遅れるで、宗祇が先に死んでしまい自分が残されたという意味で、それを嘆いてもむなしく、「幾世しも」はどれほどの年月をの意味で、長いこと会えなくて、このまま永遠に会えないことの嘆きと、「行く由も」「生く由も」に掛けて用いられる。逢えなかった過去の嘆きだけでなく、これからもどうして良いのかという嘆きとが重なり合う。

 この死別は心の中の嵐のようなものであり、実際に台風などの嵐の多い季節でもあった。その嵐の後、我が身は嵐の後の露のように、いつ散ってもおかしくない儚い身の上だと結ぶ。

 長歌反歌とも見事なもので、宗長も感銘してこの歌を『宗祇終焉記』の巻末に据えることを厭う理由もなかった。

付,その後の書簡など

 「此一巻は、水本与五郎上洛之時、自然斎知音の今京都にていかにと問はるる返しのために書写者也。一咲々。」(宗祇終焉記)

 

 水本与五郎は宗碩とともに国府(こう)に登場した宗祇の従者だが、おそらく越後の旅からずっと付き添っていたのだろう。このあと宗長は駿河に留まるが、水本与五郎が京へ上り、都にいる宗祇の知人に宗祇の最期を伝えるために、この『宗祇終焉記』を書き写して送ったのであろう。

 自然斎は宗祇の号で、「知音(ちいん)」は知人と同じ。

 最後の「一咲々」は一笑々で、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注に、

 

 「書簡の結びの言葉。「一笑に付してください」といった類。中世によく使われた」

 

とある。

 この自然斎知音は三条西実隆のことであろう。この部分はその三条西実隆へ書簡として付け足されたもので、『宗祇終焉記』は兼載の長歌と反歌をもってして完結している。

 『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストは、このあと、三条西実隆からの返信を掲載している。

 

 「三条西殿于時大納言、宗祇老人、古今・伊勢物語御伝授ありしかば、異他(ことのほか)思し召す上、いづれも残所侍らざりけるなるべし。都への望も今一度、彼御床敷のみなりしかば、沈入られし箱など遺物として上せまいらせ侍し。其御返事、臘月末に下着す。仍此奥に写とどむる者也。」(宗祇終焉記)

 

 ここまでは三条西実隆から返信があったことの前置きになる。

 三条西実隆は宗祇から古今集伝授と伊勢物語伝授を受けている。大納言の地位にある公家だが、地下の宗祇には少なからず恩を受けていた人だった。

 宗祇がいつかはまた京へという望みを持っていたことで、沈香の入った箱などの宗祇の異物を三条西実隆に送ったことで、そのお礼も兼ねた返事が十二月末に駿河の僧形の所に届いた。

 以下はその時の書簡になる。

 

 「去月五日、与五郎来候。大底物語候共候、殊更委細芳札、且散朦々畢。当年は必彼上洛被入候処、如此帰泉之条、老体雖存内事候、さり共今一度向顔も候べきやうに月日の過行候をも上の空にのみ数へ来候つるに、粗風聞候しかども、隔境之事候間、虚説にても候へかしなど念願候つるに、巨細(こさい)の芳書共に弥(いよいよ)催愁涙候。近日、宗碩上洛。其きはの事共演説候にも寂滅已楽の理、心易候。只数年隋逐折節の高恩共、就内外難忘候て、時々刻々砕丹心計候。併任賢察候。先々手箱送給候。封を開候にも、昔にかはらぬ判形など、くさぐさの名香共候。誠永き世の形見と覚え候ながら、

 

 玉しゐを返す道なき箱根山

     残る形見の煙だに憂し

 

と、覚候ままにて候。又金三両送給候。是又過分至極に候。

 

 我身こそ千々の金を報ひても

     思ふに余る人の恵みを

 

 ありがたく候。自他於今者在世の名残にも相構而無等閑弥可申通心中候。

 久病気散々式候。仍凍筆殊無正体不及巨細候。万端期後伝也。

           恐々敬白

   十二月七日         聴雪

     柴屋参る」(宗祇終焉記)

 

 水本与五郎から大体の話は聞いた。「巨細(こさい)の芳書」は『宗祇終焉記』を指し、涙ながらに読みました(催愁涙候)と感想を述べる。

 水本与五郎に続いて、最近宗碩も京に登って来て、臨終の時の様子を更に詳しく聞いた。

 宗祇にはいろいろ恩を受けていて、その上遺品の沈香も頂いて、これを「永き世の形見」としたいということで和歌を詠む。

 

  玉しゐを返す道なき箱根山

     残る形見の煙だに憂し

              三条西実隆

 

 箱根山から旅立った魂をもう戻すことはできない。この形見の香が煙になってしまうのは悲しいことだ。

 

 また香典として金三両を送る。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「両」の解説」には、

 

 「1) 量目の単位。令の規定では,1両を 16分の1斤=24銖 (約 16g) としている。 (2) 薬種の量目の単位。1両は4匁。 (3) 室町時代の金銀の量目の単位。金1両=4匁5分,銀1両=4匁3分。 (4) 江戸時代の金貨の単位。1両=4分=16朱。 (5) 中国の旧式銀貨の単位。」

 

とある。この(3)によると一両は四匁三分で、ウィキペディアには、

 

 「中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり大内家壁書の文明16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている。五匁銀。文字銀と同品位で量目は5匁(約18.7 g)あった。

 上記は文明16年(1484年)に室町幕府により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した。鎌倉時代後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ、銀1両=4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。」

 

とある。

 江戸時代の貨幣価値についてはネット上でもいろいろ詳しいことが書かれていて、戦国末期も大体同じだっただろうという推定はなされているが、この時代のことはよくわからない。御教授願いたい。

 

 我身こそ千々の金を報ひても

     思ふに余る人の恵みを

              三条西実隆

 

 こんな三両ばかりの金(こがね)では足りないくらい故人からは恩を受けています。

 十二月七日付の書簡で、聴雪は三条西実隆の法名だという。

 これで『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストも終わる。