「鳶の羽も」の巻、解説

元禄三年冬、京都にて

初表

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ      去来

   一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉

 股引の朝からぬるる川こえて    凡兆

   たぬきををどす篠張の弓    史邦

 まいら戸に蔦這かかる宵の月    芭蕉

   人にもくれず名物の梨     去来

 

初裏

 かきなぐる墨絵おかしく秋暮て   史邦

   はきごころよきめりやすの足袋 凡兆

 何事も無言の内はしづかなり    去来

   里見え初て午の貝ふく     芭蕉

 ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆

   芙蓉のはなのはらはらとちる  史邦

 吸物は先出来されしすいぜんじ   芭蕉

   三里あまりの道かかえける   去来

 この春も盧同が男居なりにて    史邦

   さし木つきたる月の朧夜    凡兆

 苔ながら花に並ぶる手水鉢     芭蕉

   ひとり直し今朝の腹だち    去来

 

二表

 いちどきに二日の物も喰て置    凡兆

   雪けにさむき島の北風     史邦

 火ともしに暮れば登る峰の寺    去来

   ほととぎす皆鳴仕舞たり    芭蕉

 痩骨のまだ起直る力なき      史邦

   隣をかりて車引こむ      凡兆

 うき人を枳穀垣よりくぐらせん   芭蕉

   いまや別の刀さしだす     去来

 せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆

   おもひ切たる死ぐるひ見よ   史邦

 青天に有明月の朝ぼらけ      去来

   湖水の秋の比良のはつ霜    芭蕉

 

二裏

 柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ  史邦

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ    凡兆

 押合て寝ては又立つかりまくら   芭蕉

   たたらの雲のまだ赤き空    去来

 一構鞦つくる窓のはな       凡兆

   枇杷の古葉に木芽もえたつ   史邦

       参考;『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)

          『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

          『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、一九八七、汲古書院)

初表

発句

 

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ    去来

 

 「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。

 時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。

 時雨というと、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

 

の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。 興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。

 

季語は「はつしぐれ」で冬、降物。「鳶」は鳥類。

 

 

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ

 一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉

 (鳶の羽も刷ぬはつしぐれ一ふき風の木の葉しづまる)

 

 発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。

 土芳の『三冊子』には、

 

 「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」

 

とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。

 発句と脇との会話という点では、

 

 「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」

 「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」

 

というところか。

 「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。湯山三吟の発句に、

 

 うす雪に木葉色こき山路哉   肖柏

 

の用例がある。薄雪の白とのコントラストで地面に散った落ち葉がの色が濃く見える。強いて寓意を持たすなら、それが集まった三人の歳を経て、なおも頑張って色を見せている姿に重なり合うということか。

 

季語は「木の葉」で冬。

 

第三

 

   一ふき風の木の葉しづまる

 股引の朝からぬるる川こえて  凡兆

 (股引の朝からぬるる川こえて一ふき風の木の葉しづまる)

 

 夕暮れの情景から朝に転じる。股引(ももひき)を濡らすというのは、膝くらいまでの浅い川を渡るということだろう。

 『奥の細道』の冒頭の部分に「もゝ引ひきの破れをつゞり笠の緒付かえて」とあるように、風の止んだ静かな朝早く、浅川を越える旅人と見るのがいいだろう。

 川は浅いとは言え、冷たいだろうな。股引が乾くまでは足は凍てつくような冷たさだろう。

 

 夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村

 

というわけにはいかない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「人倫に転ず。旅体なり。」とある。

 

無季。「股引」は衣裳。「川」は水辺。

 

四句目

 

   股引の朝からぬるる川こえて

 たぬきををどす篠張の弓    史邦

 (股引の朝からぬるる川こえてたぬきををどす篠張の弓)

 

 「篠張の弓」というのは篠竹で作った簡単な弓で、多分そんな殺傷力はなくて、脅かす程度のものだったのだろう。

 狸はそんな恐い生き物ではないので、本来は熊除けで、弓を鳴らしながら歩いたのではないかと思う。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は狼を除けるものとしている。それがあまりに粗末な弓なので、狸程度しか脅せないなというところに俳諧があるといっていいのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「山畠かせぐ男と見なして、肩に懸たる品をいへり。」とある。前句の股引を旅人ではなく農夫と見ている。

 

無季。「たぬき」は獣類。

 

五句目

 

   たぬきををどす篠張の弓

 まいら戸に蔦這かかる宵の月  芭蕉

 (まいら戸に蔦這かかる宵の月たぬきををどす篠張の弓)

 

 「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」

 

とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。

 月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「まいら戸」は居所。「蔦」は植物、(草類)。

 

六句目

 

   まいら戸に蔦這かかる宵の月

 人にもくれず名物の梨     去来

 (まいら戸に蔦這かかる宵の月人にもくれず名物の梨)

 

 古註の多くが『徒然草』の第十一段を引いている。

 

 「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。

 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」

 

 山奥に住む粗末な庵にさぞや心ある人だろうとおもって庭を見ると、大きな蜜柑の木にいっぱい実がなっているのに、周りを厳重に囲って盗まれないようにしているのを見て、どこにでもいる俗人かとがっかりする話だ。

 本説で付ける場合は、元ネタと少し変えて付ける。

 ここでは、前句の「まいら戸」を凋落したお寺とし、そこに月も出ていれば、そこに住む人もどんな風流人かと思うところだが、実際には名物の梨も出してくれないケチな人でがっかりした、というところだろう。

 

季語は「梨」で秋。「人」は人倫。

初裏

七句目

 

   人にもくれず名物の梨

 かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 史邦

 (かきなぐる墨絵おかしく秋暮て人にもくれず名物の梨)

 

 前句の「人にもくれず」をケチなのではなく、人がよりつかないという意味に取り成したのだろう。

 一人閉じこもって墨絵を書き殴りながら暮らす隠士は、今だったら引きニートなどといわれそうだが(引きニートはネットで絵など書いて公開してたりする)、昔は世俗のかかわりを絶つのを聖なる行動と解釈していた。

 秋は暮れてゆくけど梨はくれない、というのがいちおう洒落になっている。

 

季語は「秋暮て」で秋。

 

八句目

 

   かきなぐる墨絵おかしく秋暮て

 はきごころよきめりやすの足袋 凡兆

 (かきなぐる墨絵おかしく秋暮てはきごころよきめりやすの足袋)

 

 メリヤスはウィキペディアに、

 

 「日本では編み物の伝統が弱く、17世紀後半の延宝 - 元禄年間(1673年 - 1704年)に、スペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされた。そこで、ポルトガル語やスペイン語で「靴下」を意味するポルトガル語の「メイアシュ」(meias)やスペイン語の「メディアス」(medias)から転訛した「メリヤス」が、編み物全般を指すようになった。「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある。主に、武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として一部武士から庶民にも広まった。」

 

とある。スペイン語のdは英語のtと同様、日本人にはラ行に聞こえる。

 まあ、当時の流行のネタと言えよう。墨絵をたしなむ風流人はここでは引きニートではなく立派な武士で、流行にも敏感なできる男だったのだろう。

 

無季。「足袋」は衣裳。

 

九句目

 

   はきごころよきめりやすの足袋

 何事も無言の内はしづかなり  去来

 (何事も無言の内はしづかなりはきごころよきめりやすの足袋)

 

 無言だと静かなのは当たり前のことで、要するに喋りだすとうるさくてしょうがないことを逆説的に言ったのだろう。

 うっかり足袋のことに触れたりすると、際限なく薀蓄を語られそうだ。

 

無季。

 

十句目

 

   何事も無言の内はしづかなり

 里見え初て午の貝ふく     芭蕉

 (何事も無言の内はしづかなり里見え初て午の貝ふく)

 

 前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 

 「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」

 

とある。

 無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。

 

無季。「里」は居所。

 

十一句目

 

   里見え初て午の貝ふく

 ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆

 (ほつれたる去年のねござしたたるく里見え初て午の貝ふく)

 

 古註は寝茣蓙の持ち主が貝を吹く修験者なのか里の農民なのかで割れているようだ。

 ここは貧しい修験者として、寝茣蓙がほつれた上にじめじめしていて寝てられないので、里に出てきたのではないかと思う。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の、「前を山家と見て、貧家体を付たり。寝ござのしたたるくは、やぶれて取所なきさま也。」でいいのではないかと思う。

 

無季。

 

十二句目

 

   ほつれたる去年のねござしたたるく

 芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦

 (ほつれたる去年のねござしたたるく芙蓉のはなのはらはらとちる)

 

 寝茣蓙も古くなればほつれて湿気を吹くんでゆくように、芙蓉も時が経てばはらはらと散ってゆく。どちらも無常を感じさせるという所で響きで付いている。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)にも、「去年のねござの敗たると言るに、うるはしき芙蓉も落花するといへる観想のたぐらへ付也。此芙蓉は、蓮也と諸註に言り。いかにも、木芙蓉は、しぼみてはらはらと散姿なし。」とある。

 ここでいう芙蓉はアオイ科フヨウ属の芙蓉ではなく蓮の別名のようだ。ウィキペディアにも、

 

 「『芙蓉』はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には『木芙蓉』(もくふよう)とも呼ばれる。」

 

とある。

 

季語は「芙蓉」で夏、植物(草類)。

 

十三句目

 

   芙蓉のはなのはらはらとちる

 吸物は先出来されしすいぜんじ   芭蕉

 (吸物は先出来されしすいぜんじ芙蓉のはなのはらはらとちる)

 

 江戸後期の古注には水前寺海苔のことだとする説が多いが、ウィキペディアには、

 

 「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」

 

この記述どおりだとすると、芭蕉の時代にはまだ水前寺海苔はなかったことになる。

 ただ、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の注に、

 

 苔の名の月先涼し水前寺      支考

 

の句が元禄十五年刊の『東西夜話』にあることを指摘している。この「苔」が海苔のことならば、このころ既に水前寺海苔があったことになる。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。

 多分保存が利くようにして全国に普及させたのが遠藤喜三衛門であって、地元ではかなり古くから食べていたのではないかと思う。

 支考は元禄十一年に九州行脚しているから、実際に現地でたべたのだろう。西鶴の場合は『日本永代蔵』で豊後、筑前、長崎の商人の物語を書いているし、その方面の商人からいろいろな話を聞いていたと思われる。芭蕉も九州に行ってないが、水前寺海苔のことは噂には聞いていたのだろう。

 前句の芙蓉(蓮)の散るところから、お寺を連想して水前寺に結びつけたのだろう。ただ、水前寺というお寺はない。ウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。

 水前寺という寺はないが、茶屋はあるから御吸物を出し、そこには水前寺海苔がもちいられ、いやあ出来(でか)した、となる。

 

無季。

 

十四句目

 

   吸物は先出来されしすいぜんじ

 三里あまりの道かかえける     去来

 (吸物は先出来されしすいぜんじ三里あまりの道かかえける)

 

 「出来(でか)す」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「①出て来させる。作り上げる。こしらえる。また,よくない事態を招く。 「おめえが-・したことだから斯議論をつめられちやあ/西洋道中膝栗毛 魯文」 「今日中に-・す約束で誂へてござるほどに/狂言・麻生」

  ②見事に成し遂げる。うまくやる。 「是は大事の物だと思つて尻輪へひつ付けたが,-・したではないか/雑兵物語」

 

とある。ここでは①の意味に取り成す。

 吸い物に誘われてはみたものの、水前寺まで行かされる。それも三里の道を歩いていかなくてはならない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「隙をとりてめいわくなるの意に転ず。先の字をとがめていへり。」

 

とある。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

 

 「饗応却テ迷惑ノ形チヲ先ト言字ヨリ見出シテ、道カカヱケルトハ言リ。」

 

とある。

 

無季。

 

十五句目

 

   三里あまりの道かかえける

 この春も盧同が男居なりにて    史邦

 (この春も盧同が男居なりにて三里あまりの道かかえける)

 

 盧同は盧仝のことで、ウィキペディアには、

 

 「盧仝(ろどう、795? - 835年)は、中国・唐代末期の詩人。字は不明。号は、玉のような綺麗な川から水を汲み上げ茶を沸かすことから、玉川子(ぎょくせんし)とした。

 『七椀茶歌』「走筆、謝孟諌講寄新茶」(筆を走らせて孟諌講が新茶を寄せたるを謝す)では、政治的批判と、盧 仝の茶への好事家の一面が読み取れる。」

 

とある。

 「居なり」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

「① そのまま動かずに居ること。

 ②

  ㋐ 江戸時代、奉公人や遊女が年季を過ぎてもそのまま続けて奉公すること。重年ちようねん。

  ㋑ 江戸時代、役者が契約切れになっても引き続いて同じ劇場に出演すること。 〔当時は一年契約であった〕

 ③ 「居抜き」に同じ。 「この家を-に買うてくれぬか/浄瑠璃・近頃河原達引」

 

とある。

 ここでは特に何らかの盧仝のエピソードによる本説というわけではなく、あくまで盧仝のような茶人という意味で、それに仕える男が今年もそのまま仕えさせられて、「三里あまりの道かかえける」となる。

 

季語は「春」で春。「男」は人倫。

 

十六句目

 

   この春も盧同が男居なりにて

 さし木つきたる月の朧夜      凡兆

 (この春も盧同が男居なりにてさし木つきたる月の朧夜)

 

 古注には、この男が庭木を好んで挿し木をするというものが多いが、ここは比喩としておきたい。

 この男は盧仝の茶の道を受け継ぐ挿し木のようなもので、一年たってしっかりと根付いたな、と朧月の夜に喜ぶ。

 

季語は「月の朧夜」で春、夜分、天象。

 

十七句目

 

   さし木つきたる月の朧夜

 苔ながら花に並ぶる手水鉢     芭蕉

 (苔ながら花に並ぶる手水鉢さし木つきたる月の朧夜)

 

 苔むした手水鉢に挿しておいた木がしっかり根付く様は、桜の木にも劣らないだけの価値がある。二つ並べればさながら花に月だ。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「苔」は植物(草類)。

 

十八句目

 

   苔ながら花に並ぶる手水鉢

 ひとり直し今朝の腹だち      去来

 (苔ながら花に並ぶる手水鉢ひとり直し今朝の腹だち)

 

 花の脇にある苔むした手水鉢はなかなか風情があり、自分も花のある人を羨むのをやめて、この手水鉢のようにあるがままに生きればいいんだと納得する。

 

無季。

二表

十九句目

 

   ひとり直し今朝の腹だち

 いちどきに二日の物も喰て置    凡兆

 (いちどきに二日の物も喰て置ひとり直し今朝の腹だち)

 

 いわゆる「やけ食い」ていうやつで、食べてストレスを解消するのはよくあることだ。

 それにしても二日分はちょっと盛った感じで、まあ、そのほうが話としては面白い。

 一度に二日分の飯を喰うそいつはどんなやつだという想像力をかきたてる部分もあるが、別に正解があるわけではない。

 『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)は「任侠」だといい、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「車力日雇」といい、『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)は「此人短慮我儘、平なる時は喰ひ、不平なれば不喰、只一家一軒の主人にほこり、常に妻奴を駆使する卑俗の人品なる」という。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「疳積聚持、或は気ふれものなど」というし、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は「日雇飛脚」といい、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「我儘女」という。

 まあ、妄想は人の自由だが、今の俳句解説でもえてしてこうした議論に陥る傾向がある。いかにも俺は深読みが出来るんだぞとばかりに妄想を競い、これがわからないなら文学を論ずべからずみたいな話になるのは愚かなことだ。

 

無季。

 

二十句目

 

   いちどきに二日の物も喰て置

 雪けにさむき島の北風       史邦

 (いちどきに二日の物も喰て置雪けにさむき島の北風)

 

 「雪け」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「雪模様。 「冬の夜の-の空にいでしかど影よりほかに送りやはせし/金葉 恋下」

 

とある。「今にも雪の降りそうな空模様」をいう。

 前句の大食いをやけ食いではなく寒さに備えてのこととする。

 

季語は「雪け」で冬。「島」は水辺。

 

二十一句目

 

   雪けにさむき島の北風

 火ともしに暮れば登る峰の寺    去来

 (火ともしに暮れば登る峰の寺雪けにさむき島の北風)

 

 島の山の上にあるお寺は灯台のような役割も果たしていたのだろう。寒い時でもサボるわけにはいかない。

 『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)には、

 

 「哦々たる岩根常に雲霧を帯び、嶺上嵐はげしければ住居すべきにもあらず。暮れば麓の坊より勤る。此灯は渡海船の日当ならん。」

 

とある。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

 

 「其寒キ場ヲ付テ言外ニ渡海ノ灯籠トキカセタリ。」

 

とある。

 

無季。釈教。「峰」は山類。

 

二十二句目

 

   火ともしに暮れば登る峰の寺

 ほととぎす皆鳴仕舞たり      芭蕉

 (火ともしに暮れば登る峰の寺ほととぎす皆鳴仕舞たり)

 

 ホトトギスも水無月になれば滅多に声を聞くこともなくなる。この前までけたたましく鳴いていたホトトギスも、静かになれば夜も寂しいものだ。山寺の常夜灯に火を灯す人にとっても寂しい季節になる。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「深林幽寺趣。」とある。これに付け加えることはない。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

二十三句目

 

   ほととぎす皆鳴仕舞たり

 痩骨のまだ起直る力なき      史邦

 (痩骨のまだ起直る力なきほととぎす皆鳴仕舞たり)

 

 長く病に臥せっている間に、春も過ぎ、時鳥の季節も過ぎてしまった。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)に、

 

 「啼仕廻ウト言詞ニ月日ノ早立行ヲ歎ク意トシテ、長病ノ歎ク体ヲ言。」

 

とある。

 

無季。

 

二十四句目

 

   痩骨のまだ起直る力なき

 隣をかりて車引こむ        凡兆

 (痩骨のまだ起直る力なき隣をかりて車引こむ)

 

 古注に『源氏物語』夕顔巻の俤を指摘するものが多い。

 夕顔巻の冒頭には、

 

 「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。

 御車いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。」

 (源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐(だいに)の乳母(めのと)がひどく体調を崩し尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。

 車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光(これみつ:乳母の息子)を呼んで来させて、来るのを待ちながらごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。)

 

とある。

 ここでは結局惟光が門を開けて車を引き入れ、別に隣を借りたわけではなかった。

 それに凡兆の句では元ネタで重要な夕顔との出会いという要素を欠いているため、何となく「車」を出すことで王朝っぽい雰囲気を出すに留まる。それゆえに。これは本説ではなく「俤」に留まる。

 

無季。

 

二十五句目

 

   隣をかりて車引こむ

 うき人を枳穀垣よりくぐらせん   芭蕉

 (うき人を枳穀垣よりくぐらせん隣をかりて車引こむ)

 

 枳穀垣(きこくがき)はカラタチに生垣のこと。棘のある木は防犯効果もあるので、生垣によく用いられた。

 来て欲しくない人が通ってきたので、隣に車を止めさせて枳穀垣をくぐらせてやろうか、というものだが、それくらいしてやりたいということで実際にはしないだろうな。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、

 

 「からたちの垣よりくぐらせて、からきめ見せんと女のするさま也。御車をば隣の人にたのみて引入おく意に前句をみる也。」

 

とある。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

二十六句目

 

   うき人を枳穀垣よりくぐらせん

 いまや別の刀さしだす       去来

 (うき人を枳穀垣よりくぐらせんいまや別の刀さしだす)

 

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは落人をかくまい、枳穀垣より逃がすことだとしている。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は『源平盛衰記』の、

 

 いそぐとて大事のかたな忘れては

     おこしものとや人の見るらん

              遊女

 かたみにもおひてこしものそのままに

     かへすのみこそさすがなりけり

              景季

 

の歌を引用している。

 大体そういう場面と見ていいのだろう。

 

無季。恋。

 

二十七句目

 

   いまや別の刀さしだす

 せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆

 (せはしげに櫛でかしらをかきちらしいまや別の刀さしだす)

 

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは木曾義仲の俤としている。巴御前との別れのことか。

 

無季。恋。

 

二十八句目

 

   せはしげに櫛でかしらをかきちらし

 おもひ切たる死ぐるひ見よ     史邦

 (せはしげに櫛でかしらをかきちらしおもひ切たる死ぐるひ見よ)

 

 前句をあきらめたくてもあきらめきれずに狂乱状態にある女とする。

 ただ、現実には未練たらしいのは男のほうで、女の方が思い切るのが早いことが多いが。いずれにせよ苦しいものだ。

 

 うらやましおもひ切時猫の恋   越人

 

の句もある。

 

無季。恋。

 

二十九句目

 

   おもひ切たる死ぐるひ見よ

 青天に有明月の朝ぼらけ     去来

 (青天に有明月の朝ぼらけおもひ切たる死ぐるひ見よ)

 

 青天は夜明け前の濃い青の空のこと。青雲はその頃の雲で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「青みを帯びた灰色の雲」とある。

 苦しい別れといえば後朝(きぬぎぬ)ということで、有明月の景を添えて場面転換を図る。

 

季語は「有明月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   青天に有明月の朝ぼらけ

 湖水の秋の比良のはつ霜     芭蕉

 (青天に有明月の朝ぼらけ湖水の秋の比良のはつ霜)

 

 比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。

 月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けている。そろそろ終わりも近いので、このあたりは景色の句で軽く流しておきたい所だろう。

 琵琶湖に月といえば元禄七年の「あれあれて」の巻の十二句目、

 

   頃日は扇子の要仕習ひし

 湖水の面月を見渡す       木白

 

も思い起こされる。

 

季語は「秋」で秋。「湖水」は水辺。「比良」は山類。「はつ霜」は降物。

二裏

三十一句目

 

   湖水の秋の比良のはつ霜

 柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 史邦

 (柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ湖水の秋の比良のはつ霜)

 

 いくつかの古注が、『古今著聞集』の、

 

 盗人は長袴をや着たるらむ

     そばを取りてぞ走り去りぬる

 

の歌を引用している。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、

 

 「新蕎麦と付たる句にして、時節の懸合せ初霜の降り置たるに新蕎麦と思ひ寄たる句にして、蕎麦は霜をおそるる物なれば也。その霜に倒れたる蕎麦を刈取たるなどは曲もなければ、拠(よりどころ)を踏へて一句を作りたる也と知べし。

 そは古今著聞集に、澄恵僧都の坊の隣なりける家の畠にそばをうへて侍けるを、夜る盗人みな引て取たりけるを聞てよめる

 

 ぬす人はながばかまをやきたるらん

     そばをとりてぞはしりさりぬる

 

 此俤を一句のうへに作りたる手づま也。」

 

とある。

 霜で駄目になった蕎麦を盗まれたということにしたのかもしれない。

 

 梅白し昨日ふや鶴を盗まれし   芭蕉

 

のようなものかもしれない。

 

季語は「蕎麦」で秋。「柴の戸」は居所。

 

三十二句目

 

   柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ

 ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ     凡兆

 (柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむぬのこ着習ふ風の夕ぐれ)

 

 「ぬのこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「木綿の綿入れ。 [季] 冬。 → 小袖(こそで)」

 

とある。

 時節を付けて流すわけだが、打越と被らないようにしなくてはならない。「初霜」が朝なのに対し「風の夕暮れ」とし、「ぬのこ」で冬に転じる。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)に、

 

 「そば盗れしと言より時分を付て、ゆふ暮とはいへる也。」

 

とある。

 

季語は「ぬのこ」で冬、衣裳。

 

三十三句目

 

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ

 押合て寝ては又立つかりまくら  芭蕉

 (押合て寝ては又立つかりまくらぬのこ着習ふ風の夕ぐれ)

 

 「かりまくら」は仮寝と同じで旅体になる。

 安い宿だと一つの部屋にこれでもかと詰め込んで、押し合いながら寝ることになる。

 

無季。旅体。

 

三十四句目

 

   押合て寝ては又立つかりまくら

 たたらの雲のまだ赤き空     去来

 (押合て寝ては又立つかりまくらたたらの雲のまだ赤き空)

 

 前句の「立つ」から早朝の旅立ちとし、製鉄所の炎のような朝焼けを付ける。

 

無季。

 

三十五句目

 

   たたらの雲のまだ赤き空

 一構鞦つくる窓のはな      凡兆

 (一構鞦つくる窓のはなたたらの雲のまだ赤き空)

 

 「鞦(しりがい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 馬具の一。

 ㋐馬の尾の下から後輪(しずわ)の四緒手(しおで)につなげる緒。

 ㋑面繋(おもがい)・胸繋(むながい)および㋐の総称。三繋(さんがい)。押掛(おしかけ)。

  2 牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅(ながえ)を固定させる緒。」

 

とある。

 前句をたたらの炎の夜空を染める様とし、「まだ」に夜遅くまで働いていることを含める。

 同じ頃鞍細工の職人はしりがいを一構え作り上げる。窓の外にはたたらの炎に照らされたのか、夜でも桜の花が咲いているのが見える。

 対句のように並列する向え付けだが、ともに身分の低い者の過酷な労働を匂わせ響きあっている。そんな働く人にお疲れ様とばかりに窓の花を添える。

 

季語は「はな」で春、植物(木類)。

 

挙句

 

   一構鞦つくる窓のはな

 枇杷の古葉に木芽もえたつ    史邦

 (一構鞦つくる窓のはな枇杷の古葉に木芽もえたつ)

 

 窓の外には桜だけではなく枇杷の木も若葉が芽生えている。

 枇杷の葉っぱはお灸に用いられ、労働で疲れた体に癒しを与えてくれる。「もえたつ」というのは若葉が萌えるのと、お灸の葉が燃えるのとを掛けているのか。

 そういうわけでみんなお疲れ様というところでこの一巻は満尾する。

 

季語は「木芽」で春、植物(木類)。「枇杷」も植物(木類)。