街道を行く

東山道武蔵路

 きっかけとなったのは『古代道路の謎』(近江俊秀、二〇一三、祥伝社新書)で、古代の道というと、何となく獣道のような、人が踏み固めただけの原始的な道を想像していたが、実際はむしろ幅十二メートルの堂々たる物で、しかもアウトバーンのようにひたすら直線で進んでいったというのを知り、古代のロマンをかき立てられた。
 なぜ直線だったかについて、朝廷の威厳を示すためという説もあるが、それだけで納得できるものではない。ましてそこから、大勢の庶民が強制労働に駆り出されたみたいにいう歴史観が正しいとは思わない。
 古代ではまだ人口密度が低く、原野の中を切り開いて道を作る時に、わざわざ曲がりくねった道を作る必要はなかっただろう。それと、まだ証明することはできないが、祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなステアリング装置のない四輪車がかつて物資の輸送に用いられていたとすれば、極度に直線にこだわり、曲がるときにも緩やかなカーブではなく一点で角度をつけて曲がるようにしたかが合理的に説明できる。こうした車は大勢の人足が梃子を使って、車を持ち上げて向きを変える必要があったから、方向転換は大変な労力の要る作業だった。ならば道をできる限り直線にするのも当然だったであろう。
 ただ、古代史の常として、文献資料も考古学的資料も絶対的に不足してる。古代道路への関心が高まったのもつい最近のことなので、見過ごされてきたこともたくさんあったであろう。いずれにせよ古代道路についてはまだわからないことが多く、今後の考古学的発見を待つしかない。
 古代の東海道は相模国国府のあった平塚から武蔵国国府のある府中へ出て、そこから今で言う荻窪天沼から神田・鳥越を経て隅田川を渡り、下総国府へと続く。一方、東山道は長野から群馬・栃木を経由して白河の関へと向かう。この二つの道をつなぐのが東山道武蔵路だった。
 かつての東海道は清水・富士間の山が迫ったところを通過するなど難所が多く、武蔵国へ行くのにも東山道を経由することが多かったという。むしろ古代の文化の中心が府中ではなく、さきたま古墳群のある行田市の方だったとしたら、なおさらであっただろう。一説には国府のある府中の「多摩」に対し、多摩の手前にあるという意味で「さきたま」だったともいう。
 東山道武蔵路の南半分はいくつもの道路遺構が発見されていて、大体の経路をたどることができるが、北半分は遺跡に乏しく諸説ある。
 古代東海道のところでは「北へ向うと群馬県太田市から室の八島の近くを通って白河の関へと抜けられる」と書いたが、今回は西吉見条理Ⅱ遺跡の道路遺構に従い、さきたま古墳群を経て足利に至るルートを選択した。これはあくまで推定にすぎない。どのルートが正しいかについても、後の道路遺構の発見にゆだねることにする。

2014年1月13日

 奥の細道も東海道もだいぶ遠くなってしまい、そうそう気軽にも行かれなくなって、またどこか新しい旅を始めようかと、候補になっていたのは平塚から秦野・渋沢を経て足柄峠を目指す古代東海道の続き、浜田駅から自分ちの近くを通って丸子橋から大井町を通って千葉を目指す延喜式東海道、分倍河原から群馬県の大田市を目指す東山道武蔵路だったが、今回は東山道武蔵路に決定した。
 東山道武蔵路の良い所は、発見されている道路遺構が豊富で、川越くらいまでほぼルートが確定していることだ。推定ではなく確定ルートを歩けば、古代道路がどういうところを通っているかわかるのではないかと思った。

 9時ちょっと前に分倍河原に到着した。

 今回は南口ではなく北口からのスタートだ。南口には新田義貞の像があったが、北口はすぐに商店街だ。
 甲州街道の旧道に出て、そこからまず東へ、武蔵国府の跡を目指した。
 高安寺の所に弁慶坂というのがあった。古代道路がこの辺を通ってたなら、弁慶さんが通っていてもおかしくない。弁慶が実在したかどうかは別としても、弁慶伝説の聖地としてはふさわしい場所だ。
 国府の跡は甲州街道旧道より南側にあるので、府中市役所前を右に曲がり、その先を左に曲がった。大国魂神社の鳥居があった。昭和43年銘の見慣れた岡崎型の狛犬があった。
 神社の中に入るとまだまだ初詣モードで的屋の屋台が並ぶなか、成人式の着物姿の人もたくさん着ていた。なぜか少年野球の一団もいた。
 真新しい随神門の前には小ぶりな天保10年銘の狛犬があった。玉取りの方も背中に子獅子を乗せていた。
 随神門をくぐるともう一つ中雀門があり、その前に大きな狛犬があった。やはり天保10年銘で、阿形はおっぱいを吸っている子取りだった。
 落合さよりさんの漫画の『ぎんぎつね』に出てくる狛犬は両方とも男だったが、本来狛犬は雌雄一対だったのではないかと思う。少なくとも子獅子におっぱいを吸わせている以上、雌であることは間違いない。玉取りや子獅子と遊ぶ姿の吽形のほうが雄だったのではないかと思う。狛犬によっては股間に一物を彫っているものもあるが、古い木彫り狛犬でも一方はあまり目立たないふくらみを持つように彫られている。

  古い時代には「獅子狛犬」と呼ばれ、角のないのが獅子で角のあるほうが狛犬と呼ばれていたらしいが、ちょうど豹が虎の雌と考えられていたように、獅子が雌で狛犬が雄と解釈されていたのではなかったか。

 中雀門をくぐると、右に鶴石、左に亀石があり、正面に拝殿がある。どこかでみたようなと思ったら、そう、アニメ『coppelion』に出てきた神社だ。あの大きな方の狛犬も登場していた。府中はcoppelionの聖地でもある。
 参道に戻り、今度は北側の正面の入口の方へ行ってみた。一の鳥居の前に昭和46年銘の狛犬があった。正面向きの招魂社系だが、なぜか尻尾がない。後で調べたところによると、この神社の宝物殿の伝運慶作の神殿狛犬を模したものらしい。そういえば宝物殿があったような。そんな貴重な狛犬があるなら行っておけばよかった。多分、長く伝わってくるうちに尾の部分が取れて消失したのだろう。
 ふたたび随神門の前に戻り、東側から出るところにも狛犬があった。昭和46年銘の岡崎型だった。
 狛犬5対で十分な収穫だと思っていたら、あとで大国魂神社のHPを見たら、拝殿裏にも境内社があって、巽神社や東照宮の前にも狛犬が映っていた。初詣の賑わいの中でついつい見落としてしまった。



 国府の跡は大国魂神社の東側の鳥居を出て左に行ったところにあった。ガラス張りの建物があって、そこに国府跡の説明と付近の古代道路を解説した地図があった。
 それには東山道武蔵路だけでなく、国府から北へ行き、途中で北西に曲がって国分寺へ向う道も記されていた。
 ふたたび大国魂神社を横切り、ふるさと府中歴史館に行った。そこでもらった「ふちゅう地下マップ、発掘!ここまでわかった武蔵国府」というパンフレットには、古代道路のことがもっと詳しい地図があった。これによると、甲州街道旧道のこの辺りの直線区間も古代道路で、至大井と書かれている。これに並行した府中駅を通る短い道も記されている。また、国分寺への道にはもう一つ並行した道があり、東山道武蔵路へは二つの斜行道路も記されていた。
 とりあえず、この地図に従い、甲州街道旧道を通って分倍河原の方に戻った。そして、京王線の踏切を過ぎたところで来たに向うのだが、直進できる道はない。美好町公園に突き当たり、それを除けて今の甲州街道国道20号線を越え、そこからまたジグ


ザグに進んで団地とすずかけ公園との間の道に出た。ここも東山道武蔵路の近似値にすぎない。ルートは確定しているものの、その上の今の道路が走っていない。
 この道も東芝の工場に突き当たり、結局東に曲がり武蔵野線の線路を越え府中街道に出て大きく迂回することになる。
 右には府中刑務所の高い塀が見える。ここもcoppelionに出てきたっけ。
 やがて東八道路の上を通り、その先の所を左に行って武蔵野線のガードをくぐり、線路に沿って行くと国分尼寺の跡に出る。ここの線路側のところに斜めに国分尼寺の塀の外にあった溝の位置が示されている。おそらくこのさらに外側が東山道武蔵路だったのだろう。この溝はふたたびそのまま斜めに武蔵野線と交差する。

 ふたたびガードをくぐって府中街道に戻る。この先で東山道武蔵路は府中街道と交差し、右側の国分寺跡の脇を通る。ここも真直ぐ進める道はない。
 地形的にはこの辺りから右側がやや低くなり、谷間になって行く。東山道はこの谷間に落ちずになだらかな稜線を登って行ったのだろう。
 府中街道から右側に行くと国分寺公園があった。これが今の国分寺の裏側で、まず薬師堂にお参りしてそこから下って行くと、西側に八幡神社があった。本地垂迹の関係だろう。昭和8年銘の小さな狛犬があった。ここから坂を下りて行くと、工事をやっている広い場所に出た。ここが古代の国分寺の跡だ。
 講堂跡は工事中で、南側の金堂跡では子供達がサッカーをして遊んでいた。なんかデジャブ感がある。海老名の国分寺跡でも子供がサッカーをしていたような。

 来た道を戻り、八幡神社の横を登り、国分寺公園の入口の先を左に行くと、史跡東山道武蔵路跡と書いた札の立っている空き地のような場所があった。両側は老人ホームのようだ。ここでも東山道の遺構が見つかっていて芝生の上にそれが再現してある。


幅12メートルでかなり広い。そこの説明板には古代東海道の時に通った打越山遺跡の写真もあった。奥の所には、ここから国分寺の脇に降りていく景色をイラストで再現した看板があった。かなり急坂に描かれている。実際はこれほど高低差はないだろう。

 この道の北側は民家で途切れているが、その向こう側は国分寺四小入口交差点で、そこから来たに伸びるマンションと都立武蔵国分寺公園との間の道路の西側の歩道はやたらだだっ広く、そこに黄色い線が二本引かれている。これも東山道武蔵路を復元したものだ。広い歩道は古代道路の広さとそれほど変わらず、ここを歩くといかに古代道路が広かったかがよくわかる。これなら視界も開けて、遠くの山まで見えただろう。今は家やビルが立っていて見えないが。
 やがて道は突き当たり、その向こう側は中央線の線路になっているが、かなり下にある。その向こうに池が見える。姿見の池だ。東山道はここから急な坂道を下り、この池を突っ切っていたことになる。
 この急坂を考えると、この前見た延喜式東海道の雪谷のあたりの八幡坂くらいの坂はあってもおかしくない。1月5日に大田区立郷土博物館に川瀬巴水展を見に行った帰りに、荏原町から沼部まで歩いたが、その途中に雪谷八幡のあたりを通った。
 スリーエフのある荏原町駅入口の交差点を左に行くと中原街道までほぼ直線の道があり、この道は明治20年の地図にも書かれていて、延喜式の古代東海道の候補の一つでもある。この直線路は環七を越えると長原商店街になり、中原街道に出る。中原街道は洗足池の手前から大きく右へ膨らんでいるが、かつては直線的にさくら坂のにつながっていたとすれば、雪谷の八幡坂のあたりを通ることになる。

 徒歩や馬なら多少の急坂は問題ない。急坂が問題なのは重い荷車を通す時だが、古代の車が祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなステアリング装置のない四輪車だとしたら、梃子を使って持ち上げながら方向転換をしなくてはならないため、回り道をするよりは一直線に進んだ方が良かったのだろう。曲線的な迂回路は、二輪の大八車が主流になったことによるものではないか。
 とにかく直進するためなら急な坂をも下り、池をも埋めて通る。それが古代道路だ。
 中央線の線路がある上に急な斜面とあって、今では姿見の池に降りるのに一度府中街道に戻らなくてはならない。かつては鎌倉街道も古代道路と今の府中街道との間を走っていて、恋ヶ窪はその鎌倉街道の宿場町だったという。宿場には付き物の遊女が朝な夕なに自ずらの姿を映して見ていたという言い伝えがあることが、この池の説明板に書かれていた。
 この池は昭和40年に一度埋め立てられ、平成10年に昔の池をイメージして新たに作られたのだという。つまり、今の池の姿は鎌倉時代の姿でもなければまして古代の姿でもないということだ。


 姿見の池を後にして旅を続けるが、ここから先も古代道路のあたりを真直ぐ抜ける道はない。左側に行くと北へ向う道があったのでそこを行く。
 少しいくと右側に熊野神社があった。
 入るとすぐ右に、

 朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪
     今はた訪うも知記りならずや
           聖護院道興准后

の歌碑があった。文明18年(1468)の歌。この時代は東山道ではなく鎌倉街道だったのだろう。

 聖護院道興准后は永享2年(1430年)生まれ、大永7年(1527年)没の室町時代の僧で、連歌師宗祇よりちょっと後輩になる。応仁の乱の後の1486年から東国を旅し、『廻国雑記』を書き表している。歌は恋ヶ窪という地名の縁にかけて、何か前世の契りがあってここに来ることになったのか、という意味か。  拝殿前の狛犬は昭和49年銘の岡崎型だった。
 境内の奥に、

 ひょろひょろとなほ露けしやをみなへし  芭蕉

の句碑があった。貞享五(一六八八)年秋の『更科紀行』の句で、背の高いおみなえしを「ひょろひょろ」という擬音で俳諧らしい笑いに持って行き、それに「露けし」と添えることで、名月に照らされてきらきら光る様を詠んでいる。
 この石碑の文字は明治7年に恋ヶ窪の俳人可尊の揮毫によるもので、横には可尊の辞世の句を記した句碑もあった。

 月花の遊びにゆかむいざさらば    可尊


亡くなったのは明治19年、まだ正岡子規が頭角を現す前のことだった。

 ちょうど電車の中で今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)を読んでたところで、明治19年という年は何かの縁を感じる。
 幕末から明治初期の俳諧のレベルは実際かなり高かった。だから今泉さんも最初は、月並句の山の中からわずかな佳句を拾うことができれば、みたいな感じでこの時代の俳諧の研究を始めたようだが、意に反して佳句がざくざくと出てきてかなりとまどったようだ。
 幕末から明治の初めの句は、少なくとも技術的なレベルはかなり高かったと思われる。ただ、何を表現するかという点で、明治維新の急激な時代の変化に対応できなかった所があったと思う。だから佳句は確かに多いのだが、今ひとつ印象に残る、いわゆる記憶に残る句が少ない。明治育ちの正岡子規にはそのあたりに歯がゆさがあったのだろう。
 この「月花の」の句も悪くない。死を前にしてこんな句が詠めるのは確かに凄いことだと思う。だけど果たして記憶に残るかというとどうだろうか。

 熊野神社の裏側に抜けるとすぐに踏切があった。この辺りからまた北へ行かなくてはいけない。だが、実際はかなり西にそれて府中街道に出てしまった。この辺りの府中街道は東側に膨らんでて、東山道武蔵路とかなり近い所を通っているのは確かだ。
 ラーメンの看板が目に入る。時間も12時半ということでここで昼食にした。一代元国分寺店でラーメンの種類も多い。韓国ラーメンというのも気にはなったが、普通に熟成とろ玉ラーメンの醤油とんこつにした。

  東山道の方に戻るべく、東恋ヶ窪5丁目の交差点を右に曲がった。少し行ってから北へ向う道に入った。

 やがて北西に道の向きが変り、左側に茶畑が見えた。こんな住宅地の真ん中でも狭山茶を作っているんだと思った。
 ここから先も右へ行ったり左ヘ行ったりしながら、それほど大きくコースアウトすることもなく鎌倉橋にたどり着いた。ここは鎌倉街道が通ってたのだろう。この手前に上水本町遺跡の東山道の遺構があったようだが、どこかはわからなかった。
 ここから先何本もの道が並行している所を北に向う。道と道の間は細長い団地になってたり、ずっと畑や果樹園が続いているところもある。このあたりに原島農園遺構があったらしいが、場所はよくわからなかった。
 やがて武蔵野線の新小平駅の近くに出る。恋ヶ窪からここまでずっとまっ平で、小平と言うよりは大平ではないか。
 やがて北へ向う道はブリヂストンの工場で遮られる。これを迂回すると、また府中街道に出た。
 ダイエーのある八坂の交差点を右に曲がると、小川住宅という小さな団地があった。ここにも小川団地遺跡があり東山道の遺構が発見されている。
 東山道はこのあと緑風荘病院の中を通り、西武多

摩湖線の八坂駅の横をかすめ、野口橋へと向う。ここも道がないため、西武線の線路を越えた所で左に曲がり、ふたたび府中街道に戻った。

 府中街道もこの辺りは道幅が広い。左に八坂神社があった。
 入るとまず万延元年銘の狛犬があった。なかなか独特な顔をしている。
 狛犬はもう一対、昭和51年銘の岡崎型のものがあった。

 八坂神社の先に野口橋がある。この辺りにも東山道の遺構が見つかっている。
 野口橋の交差点を過ぎたあたりで、東山道武蔵路は府中街道と交差し、西側に行く。そして、東村山駅の辺りを通過する。
 午後3時。東村山駅でセーブして今日の旅は終る。


7月21日

 2月12日に父が亡くなり、3月30日には母が亡くなった。

 降る雪は星の海への旅路かな
 花曇り薄日は天の戸を開く

 看病だ葬儀だ相続だといろいろばたばたしていて、ソチ・オリンピックの記憶もほとんどなく、いつ元の日常に戻れるのかという感じだった。

 ようやく今日は旅の続きで、1月13日の東山道武蔵路の続きということで、東村山駅をスタートした。7時50分、空はどんより曇っていて涼しい。
 駅から北へ少し行くと、古い庚申塔があった。一つは明和3年と書いてあった。その先に土方医院遺構があった。幅12メートルの道路の跡が発見され、東山道武蔵路がここを通っていたと思われる。今は埋められてラインビルド土方というビルが建っていて、一階にはあいデンタルオフィスがある。
 その先の踏切を越えて少し行くと、諏訪神社があった。別に死穢を気にしていたわけではないが、久しぶりの神社参拝だ。木製の両部鳥居があり、昭和58年銘の岡崎型狛犬があった。狛犬というと、今は妖怪ウォッチの「コマさん」がもんげー人気のようだが、唐草模様の風呂敷を背負って田舎から出てきたという設定は東京ぼんたを髣髴させる。今の子供にはわからないだろう。

 その先にふるさと歴史館があったが、朝早いのでまだ開いてなかった。
 もう一つ踏み切りを渡り、ここから八国山緑地給料南斜面の遺構を目指すのだが、直進できる道はない。住宅地の中、行き止まりも多く、八国山緑地の


入り口もわかりにくい。ようやく山道のようなところを見つけて登ってゆく。八国山(はちこくやま)がトトロの七国山に通じるせいか、ここもトトロの里ということになっている。トトロの里はあちこちにある。七国山とか八国山とかいう地名も鎌倉街道の通っていたところにはあちこちにある。八国見渡せるといっても本当に関八州が見渡せるのではなく、あくまで眺めが良いという比喩で名づけられているのだろう。
 山頂付近には新田義貞ゆかりの将軍塚がある。南斜面の遺構の位置はよくわからなかったが、東山道武蔵路はこの将軍塚のすぐ横の鞍部を通っていたらしい。最初はてっきり八国山のふもとを通るものと思っていたが、わざわざ八国山の鞍部に切り通しを作って、そこまで直線にこだわっていたようだ。

 八国山を降りて今度はやや北北西に向きを変えて東の上遺跡に向かう。今は南稜中学校になっている。この道も住宅地の中で行き止まりが多い。ようやく橋を渡りJAの前に出る。ここからはゆるい上り坂になる。南稜中学校の横に説明版があって、12メートルの道路遺構が八国山の方へ向かっている写


真が掲載されている。今は家が建て込んで、八国山は見えない。
 西武池袋線の踏切を越えると、北北西に向かう直線的な細い道がある。旧鎌倉街道だ。東山道武蔵路はこれよりやや西よりに平行に走っていたのだろう。直線的な古代道路に対し、中世の道はそれをフリーハンドでなぞるというよりは、慣れないマウス操作で引いた線のようにやや外れたところをうねうねと行く。西側がやや小高くなっていて、古代道路はほぼ稜線上を通っていたようだ。鎌倉街道はやや中腹をぬうように行く。
 新光寺前で左に大きく曲がり、県道6号線に出ると、正面に鳥居がある。白い神明鳥居で、所沢神明社だ。

 境内は広く、右側へ行くと本来の正面の木造鳥居があり、その横には人形殿があり人形供養を行っている。その上には蔵殿神社がある。
 拝殿前には昭和35年銘の狛犬があり、神明造りの拝殿がある。今年2月にNISAに釣られて投資家デビューしてしまったこともあって、金色の金運招き猫を買った。


 しばらく6号線を歩き、安楽亭のところを右に入ると、ここにも直線的な道がある。これは堀兼道という古道で鶴ヶ島の方へほぼ直線的につながっている。これも東山道武蔵路の跡と言われている。八国山遺構、東の上遺跡ともほぼ直線でつながる。
 今の道はすぐに西武新宿線の前で途切れる。新所沢駅東口入口交差点の先のしんとこ耳鼻咽喉科の先で再び斜めに入る道があり、堀兼道に戻る。西友の横を通り、しばらく直線の道が続く。途中、所々に茶畑が見える。狭山茶どころ茶の香り。
 この直線道路もやがて特別養護老人ホームに突き当たり途切れる。左へ行き右へ行き、ネオポリス西交差点で、再び堀兼道に戻る。
 ここから先の道は広く、やや右に左に曲がっている。古代の道をフリーハンドでなぞったような感じだ。
 だんだん家もまばらになり、左に変電所を見ながら通り過ぎたところに堀兼神社があった。立派な朱塗りの楼門があった。その先に二対の狛犬がいて、手前のは銘がなく、昭和30年代くらいの最後の江戸狛犬という感じだ。この狛犬の眉毛が小さくて妖怪ウォッチのコマさんっぽい。これで眉毛が上に立っていればコマさんだ。奥のは平成5年銘の岡崎型。
 境内の横には堀兼の井がある。

 武蔵野の堀兼の井もあるものを
     うれしく水の近づきにけり
               藤原俊成

の歌にもある古い井戸だが、これが本当にその井戸なのかどうかはわからない。ただ、どこに本物があるのかといわれてもわからないから、一応ここということになる。歌の方は、堀兼を「堀かねて」に掛けて、堀かねた井戸だからてっきり水がないと思っていたのに水があるから嬉しいという意味か。ここから能ある鷹は爪隠すではないが、実力があってもあえて謙虚な態度をとるたとえとなったようだ。

 ふたたび緩やかなほぼ直線の道路を行く。どんどん人家が減り、サトイモ畑が多くなる。それにしてもまっ平らだ。昔は原野の中の一本道だったのだろう。



 やがて、堀兼みつばさ保育園の前で道は左にそれる。正面には低い山があり、切り通し状になっているが道はない。道は左に大きく迂回し、やがて右に堀兼中学校が見えてくる。この裏門のあたりからふたたび堀兼道に戻る。このあたりは狭くゆるやかに曲がりくねっている。

 やがて正面にHONDAの工場が見えてくる。その直前で道は大きく右に曲がる。東山道武蔵路はこのHONDAの工場の真ん中を突っ切ってたと思われる。
 さすがに工場の中は通れないので、左に行き西武新宿線の踏み切りまで来た。この手前には三ツ木原古戦場の碑がある。
 ここまで来ると新狭山駅は近い。12時50分、ちょっと早いが、今日はここまで。駅前のぎょうざの満州で塩ラーメンと餃子を食べて帰った。

8月17日

 お盆休みも最終日。天気予報は曇りで、街道ウォーキングにはちょうどいい。
 そういうわけで今日は7時に家を出て、8時37分新狭山駅から時速4キロの旅(このフレーズは先日テレビで誰かが使っていた)の始まり。
 まず線路沿いにHONDAの工場の脇を行き、ボーリング場のあたりから左に曲がり国道16号に出た。東山道はもう少し先、おそらく新狭山公園のあたりを通っていたのだろう。
 びっくりドンキーの先を左に入ると、突き当たりに氷川神社があった。狛犬はないが今日最初の神社参拝。
 ネットの情報だと、かつてこの左側の郵便局の先当たりに、鎌倉街道堀兼道の跡と思われる堀割状遺構があったらしい。今ではすっかり住宅地になってしまっている。
 氷川神社に戻り先に進むと道はカーブして小さな川を渡る。その先の道の直線が、ほぼ堀兼道の延長線と平行になる。
 今の道はすぐに右にカーブする。次の十字路を左に行くと老人ホームがあるが、このあたりもその延長線になるのだろう。
 この先に白山神社があった。ここも狛犬はなかった。その北側には泉福寺があり、本地垂迹の関係にあったのだろう。

 泉福寺の北に行くと、アーチ上の橋のようなものが見えてくる。右側には市場がある。その先で広い道に突き当たり、右に行くと八瀬大橋南の信号があり、そこを左に曲がると八瀬大橋に出る。左側にさっきのアーチが見える。水道橋か。東山道武蔵路もこのあたりで川を渡ったのだろう。
 橋を渡ると道が左右に分かれていて、右側の的場上交差点を直進し、少し行くと若宮八幡神社入り口の看板が見える。ここを矢印のとおり右に行くと若宮八幡神社がある。この付近に八幡前・若宮遺跡があって、「驛長」と書かれた墨書土器が出土している。このあたりに東山道武蔵路の駅があったと思われる。今は埋め戻されてどこにあったかよくわからない。
 若宮八幡神社には紀元2600年銘の狛犬があった。実はこれが今日見た唯一の狛犬だった。このあたりは長いこと狛犬の習慣が入ってこなかったのだろう。

 若宮八幡神社を出て左の細い道を行き、突き当りを左へ行くと、狭く緩やかに曲がりくねりながら北へ行く道がある。関越道をくぐり、県道15号線を渡ったところに馬頭観音塔がある。さらに先に行く


とJR川越線の踏切があり、やがてきれいに区画整理された住宅地に出て突き当たる。
 そこを右に行くすぐに左に行って少し行くとおなぼり山公園がある。ここが女堀遺跡のあったところで、この東側に12メートル離れて並行する小溝が見つかり、古代道路ではなかったかといわれている。

 地図で線を引いてみると、若宮八幡と女堀を結ぶ線は所沢・入間の堀兼道よりも若干北寄りに進路を変えている。
 住宅地を抜け小さな川を渡り、すぐに左に行き、道なりに行くとやがて近くにサンクスのある東武東上線の踏み切りに出る。この先は広大な東洋大学のキャンパスが行く手を阻んでいる。
 とりあえず踏み切りを渡り、東洋大学のグランドを左に見ながら次の信号、東洋大学南側を左に曲がる。右へ行くと川越市外のほうへ行くみたいだ。
 右側に雑木林があり、市民の森になっている。そこの入り口のところに鎌倉道という説明書きがあった。どうもここがあの堀兼道の先らしい。ずいぶん東に寄っている。ここから今の道路と平行に掘割状の細い道がある。いかにも中世の鎌倉街道って感じの道だ。馬がやっとすれ違える程度の幅というか。


 市民の森はすぐに終わり再び現代の道に戻る。この道はかつての鎌倉街道をほぼ踏襲しているのだろうけど、古代道路はもっと西側だったと思われるので、小堤北の信号で左に曲がる。川鶴クリニックのあたりで右に曲がり、白山神社を目指すと大体古代の道の近いコースになる。
 川鶴クリニックのあたりは鶴ヶ島駅に近く、いろいろな店の看板が目に付く。ただ、まだ11時半なので昼飯には早いかなと思って先に行ったのは失敗だった。
 川鶴クリニックのあたりを入ってゆくと、左側に大きな工場がある。工場だと思っていたけど、あとで調べてみたところこれはどうも東光の本社のようだ。とはいってもこの会社の名前は初めて聞いた。一応東証一部上場らしい。
 白山神社は今日で二つ目だが、白山神社が多いのは奈良時代に高麗人1799人がこのあたりに移住させられて高麗郡になったことと関係があるらしい。
 この神社の説明板には、「奈良時代霊亀二年(一二六三年前)に駿河など七ヶ国に住む高麗人一七百九十九人を武蔵に移して入間郡を分割して高麗郡となるに及んで、広谷村も武蔵国高麗郡となる。したがって霊亀以前すでに集落を形成して居た事が明らかで、当時より産土神として村人たちに崇められていた。」とある。
 今の韓国は新羅人中心で、韓国国内で全羅道出身者が差別されているのは、おそらくそこがかつての百済の地だったことにも関係するのだろう。これに対して高麗人は今でいう北朝鮮の方にいた。
 新羅が7世紀に朝鮮半島を統一して日本との国交を絶った後、その北にある渤海国からの使者が日本にたびたび訪れたが、この渤海国は高麗人とツングース族の建てた国だといわれている。渤海国の使者は『源氏物語』の桐壺巻にも登場する。まだ幼かった光源氏が渤海国の使者と対等に漢詩を作り交わし、光源氏の名の由来も渤海人使節が「光君」と呼んだことから来たという。
 高麗人は百済人と同様、おそらく民族的にも言語的にも日本人に近かったのではないかと思う。
 古代道路の技術も、おそらくそれを持ち込んだのは反日的な新羅人ではなく、親日的な高麗人なのではなかったかと思う。狛犬の「コマ」も高麗人の技術によって彫られたものが伝えられたからだったのかもしれない。とはいえこの白山神社にも狛犬はなかった。
 なお、ネット上で白山神社を被差別部落と結びつけ、「モンブラン」とか言っている人たちがいるが、被差別部落の成立は民族に関係なく、今まさに西アフリカで起きているような伝染病の蔓延から、ある種の人たちを隔離したのが最初だろう。そのさい、動物からの感染ということが経験的に知られていたため、動物を扱う職業集団が真っ先にその対象となったのだと思う。そうした人たちはたまたま高麗人が多かったとか、せいぜいその程度の関係ではなかったかと思う。今日のような病原体に関する知識のなかった古代日本人は、その病気の原因となる未知のものを「穢れ」と呼んだのだろう。「死穢」は死体との接触による感染の危険、「産穢」は出産の際の母子感染の危険を、何らかの形で経験的に知っていたということだったのではなかったか。
 白山信仰が高麗人と関係があるなら、ひょっとしたら白頭山に関係があるのかもしれないし、呉の太白の子孫ということから来ているのかもしれない。まあ、この辺を詮索していくときりがないので、この辺で。
  東條英利さんの『神社ツーリズム - 世界に誇る日本人のルーツを探る』(2013、扶桑社新書)には、本来日本の神道は山に登りたいという欲求を抑えることに価値を見出していたみたいなことが書いてあったが、白山信仰のような山に登る修験道も神道の中に取り込んで進化してきた面も否定できない。山に入らないというのは今で言えば自然を無秩序な農地開発から守るという側面を持っていたと思う。中国の照葉樹林は焼畑耕作のために多くが失われていったというが、日本で照葉樹林が守られてきたのは神道のおかげなのかもしれない。「森」は語源的にも「守り」から来ているという。だったら、その保護区域をただ放置するのではなく、積極的に入っていって守るという発想があってもおかしくはない。修験道は西洋の登山のような征服するための入山ではない。

 白山神社を出た後、小さな川に沿って広谷小学校のほうへ出る。その裏側から北東へ圏央道をくぐって256号線へ出る細い道がある。この延長線上に町東遺跡があり、幅10メートルの道路遺構が発見されている。はっきりした場所はよくわからなかったが、若葉病院の西側を通っていたらしい。
 これは八幡前・若宮遺跡と女堀遺跡を結ぶ線の延長としてはやや西に寄っている。
 ところで、若葉病院の向こうの何やら怪しげな建物がどうも気になる。中国風のきらびやかな屋根の建物で、周囲の景色から浮いている。
 行ってみると「聖天宮」という道教のお宮だという。読み方は「しょうてんぐう」ではなく「せいてんきゅう」と漢音で読む。平成7年の開廟と、新しい。中華街の真ん中ならいざ知らず、誰が何のためにここにこんなものを立てたのか、入場料が要るので中に入って確かめることはしなかった。一応渡来系の狛犬はいたが‥‥。

 このあと、若葉病院の裏を通り(なぜかダチョウがいる)256号線に出る少し手前の未舗装の農道から北へ向かい、カクイチの看板のあるところで2


69号線に出る。ここを右に行ってすぐ、北へ向かって溝のようなものがあり、これがほぼ町東遺跡の延長になるらしい。
 もう少し先に行くと「坂戸キリスト教会」の矢印がある。道教にキリスト教とこの地には何かやはりパワーがあるのだろうか。
 その教会の前をとおり、小さな川を渡ると、すぐ左に勝呂神社がある。これも白山神社だ。入り口の説明板には「発掘調査の成果では、神社の東を東山道武蔵路が通っていたことが確認され、七世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つ勝呂廃寺との関連も注目されている。」とある。
 この神社の東だと、八幡前・若宮遺跡、女堀遺跡のラインには一致するが、それだとやはり町東遺跡は西に寄りすぎている。並行する二本の道があったのか、謎は深まる。
 勝呂神社は小高い山の上にあるが、これは天然の山ではなく古墳らしい。

 狛犬はなかったが、弁財天の石塔の横に先代狛犬の片割れで首のないような何かがあったが、この尻尾がどう見ても猫に見える。少なくとも狛犬や狐ではないし、狼でもない。


 勝呂廃寺の跡は勝呂神社の西側、勝呂小学校交差点の角にある。かつて勝呂公民館があったところらしく、公民館は廃墟になっていて、勝呂廃寺のところだけ緑の芝生があり、柱の跡が再現されている。
 ここから北方面には、東山道武蔵路の場所を特定できるような遺跡がほとんどない。あとは推定路ということになる。
 八幡前・若宮遺跡、女堀遺跡のラインの延長だと吉見百穴の前を通り熊谷へ行く。多分これが本命のルートだろう。
 ただ、吉見百穴の東側に西吉見条理Ⅱ遺跡があって、ここで北北東に向かう幅12メートル古代道路の遺構が発見されている。この延長線上にはさきたま古墳群がある。まだまだ謎が多い。

 今日のところはこの勝呂廃寺で終了して、北坂戸駅に向かう。時間は2時を過ぎている。だが、駅前の通りに出ると、出たー、シャッターストリート。開いている店もないでもないが、結局池袋に出て、遅い昼食を食べて帰った。


9月15日

 今日は東山道武蔵路の続き。9時30分に北坂戸駅をスタートした。
 まず勝呂廃寺まで歩く。
 前回は書き漏らしたが、ここには聖護院門跡道興准后の、

 旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や
     すぐろの薄霜に朽ちにき

の歌碑がある。道興さんの歌碑は恋ヶ窪にもあったが、ここにも来ていたようだ。
 「旅ならぬ袖もやつれて武蔵野をすぐろの薄霜に朽ちにきや」の倒置で、勝呂という地名を「過ぐ」に掛けている。小さな橋があってこの前は気付かなかったが、近くにラーメンショップがあった。勝呂神社裏の庚申塔のところから真っ直ぐ勝呂廃寺に向かってたなたここを通ったのだが、前回はちょっと北に回り道をしたので通らなかった。
 その勝呂神社裏の庚申塔の先に小さな橋があって、その先を左に入ってゆく。あたりは一面の田んぼだ。

 まだ刈り取られていない稲にはイナゴが飛び跳ね、白鷺がたたずみ、草むらからはコオロギの声がして長閑だ。
 取り合えずルートとしては勝呂廃寺東側を通り、吉見百穴の東側に西吉見条理Ⅱ遺跡を北東に進み、さきたま古墳の方を目指すルートを選択した。一応物証のあるほうを選ぶの筋だろう。
 ただ、このルートだと、荒川を渡る際に近くに橋がないのがネックになる。吉見ゴルフ場に突き当たって進めないばかりでなく、一番近い橋が大芦橋になるので、かなり大回りになる。直線的に進めれば、ちょっと頑張れば北鴻巣駅まで行けそうだが、大芦橋まで迂回するとなるとかなり距離が伸びるので、結局今日は東松山までのショートコースにした。
 越辺川(おっぺがわ)の近くに白山神社があった。瓦屋根の赤塗りの両部鳥居があり、境内には彼岸花が咲いていた。
 この裏には昨日買ったばかりの2014年版の地図に落合橋が記されているのだが、土手に登ってみると道は通行止めになっている。結局南へ1キロ行った天神橋まで行って越辺川を渡ることになった。  往復2キロ以上の回り道となった。とはいえ、土手は至る所彼岸花が咲いていて、散歩道としては悪くない。途中に水道橋があった。ここを渡れれば少しは近いのだが。
 白山神社の対岸に戻ってくると、川に橋桁だけが残っていた。あとでネットで調べたら、長楽落合橋は2011年に倒壊して撤去されたということだった。

 都幾川(ときがわ)と越辺川の合流するこの地点は、かつて低湿地だったのだろう。川の流れも何度も変わったのかもしれない。ただおそらく、この辺で北北東に向きを変え、西吉見条理Ⅱ遺跡の方へ向かったのだろう。
 早俣橋の先に氷川神社があった。ここもさっき見た白山神社と同じような両部鳥居があった。昭和16年銘の結構大きな立派な狛犬があった。目は黒く、口は赤く彩色されているが、かなり薄くなっていた。

 この神社の裏から市野川を渡れば西吉見条理Ⅱ遺跡のあるあたりに出るのだが、ここも慈雲寺橋まで迂回しなくてはいけない。橋を渡って堤防の上を行


くと、鷲神社の対岸あたりに北に降りてゆける道がある。おそらくこのあたりに西吉見条理Ⅱ遺跡があったのだろう。埋め戻されてどこにあったのかよくわからなかった。このあたりから北北東に向かう道がある。なぜかここに南吉見の飛び地がある。
 やがて広い通りがあり、これを右に曲がると東松山の駅の方へ行く。時間も2時を回り、今日は、この辺で終わり。

 久米田の交差点の近くにヤマザキデイリーストアがあったので、そこでパンを買い、昼食にした。
 東松山に行く途中、長い石段のある羽黒神社があった。登っていったら拝殿が工事中で、といってもほぼ完成しているようだったが参拝はできなかった。
 その少し先に吉見百穴があった。吉見百穴というと、子供の頃読んだ藤子不二雄Aの「フータくん 」で、日本一週旅行の途中でこの吉見百穴に立ち寄る場面があったのを思い出す。瘋癲暮らしのフータくんには当時憧れたもので、今こうして徒歩旅行をしているのも、その時の延長なのかもしれない。そんなわけで拝観料を払って見学していった。
 あの漫画では「戦争中の防空壕の跡」というボケ


があったが、実際戦争中は軍需工場として利用されていたので、あながち間違いではない。

 ここには正岡子規の句碑もあった。

 神の代はかくやありけん冬篭   子規

 神代の冬篭りはこんな穴に篭っていたのだろうか、という意味か。明治24年の冬の句で「松山百穴」という前書きがある。子規もまだこの頃は元気で、この年は房総半島や木曽や広島など、いろいろなところを旅して回っている。11月に武蔵野を旅していて、その時に松山に立ち寄ったのだろう。
 吉見百穴を出たのが15時。あとは真っ直ぐ東松山駅に向かい、帰った。


10月19日

 2週続けて台風だったので、ようやく今日東山道武蔵路の続き。目指すはさきたま古墳群というわけで、朝からFM横浜で流れているダイシンハウスのCMソングがぐるぐる回っている。歌詞がちょっと違うが。

 ♪ささささささ、北埼玉×2
  さきちゃん、たまちゃん、さきたま古墳、さきたま古墳
 (元歌は、北久里浜、だいちゃん、しんちゃん、ダイシンハウス)

 というわけで朝6時に家を出て8時15分に東松山駅を出発。9時には久米田付近の前回の終了地点に着いた。ここから一直線にといいたいところだが、途中荒川に橋がないので、大芦橋まで迂回しなくてはならない。

 長閑な農村風景の広がる中を歩き始めると、三ノ耕地遺跡の解説板があった。古代道路が通るだけあって、古代から開けていた地域なのだろう。  少し行くと久米田神社があった。境内にある長乳歯大神の石塔が珍しい。道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)のことか。
 吉見中の横を通り、ふれあい広場入り口の方へ向ける道筋は、あちこちに柿の実がなっている。

 古代への道の標は柿の朱(あか)

 途中、横見神社があった。鳥居に「延喜式内」と書いてあり、古代道路のあるところにふさわしい古い神社のようだ。ここの拝殿の賽銭投入口が、格子状の窓のガラスを小さく斜めに切ったものだった。

 ふれあい広場入り口交差点の先で道は緩やかに左に曲げって行くが、ここを直進するあたりが、多分古代道路に近いのだろう。狭い道を行くと、右の方に熊野神社があった。このあたりから荒川の堤防が見えてくる。
 堤防の手前に「ふる里に帰った道標」という説明板のある石碑が建っていた。何でも行方不明になっ


た供養塔を兼ねた道標が大田区山王の旧徳富蘇峰邸で見つかり、昭和60年に帰ってきたとのこと。きっとこういう田舎にある石塔を勝手に持ち去って、庭のアクセサリーにと売ってる人がいたんだろうな。
 その先にゴルフ場のレストハウスがあり、その裏からカートが堤防に登っていくのが見えた。堤防に登ってみると、その向こうにゴルフ場があった。堤防はサイクリングコースになっていた。
 東山道武蔵路はここでゴルフ場に遮られて、進めなくなる。ゴルフ場の向こうは荒川で、ここから堤防伝いに大芦橋まで行かなくてはならない。  大芦橋は遠かった。荒川の河川敷はとにかく広い。もっとも、荒川が今の位置になったのは江戸時代初期の1629年(寛永6年)のことだという。それ以前は、荒川は今の元荒川で、越谷を経て中川に合流していた。大芦橋を渡り始めると、荒川の手前に小さな川があるが、本来ここにはこの和田吉野川しかなかった。東山道武蔵路も、あのゴルフ場の向こうでこの小さな川を渡っただけだったのだろう。
 長い橋を渡って川沿いに下ってゆくとコスモスアリーナふきあげがあり、河川敷にはコスモス畑があった。この辺でちょうど12時になった。


 ゴルフ場の対岸はこのもう少し川下で、堤防は工事中で堤防の下を通って、大体このあたりというところで再び堤防に登った。北東の方にアピタの看板が見えた。大体あの看板を目印に進めばさきたま古墳群のほうに行ける。
 田んぼの中の道をしばらく行くとバス通りに出る。そこを右に行ってすぐのところを左に入ると高崎線の踏切があり、そのすぐ先に元荒川がある。ここが昔の荒川だったのだろう。今は小さな川だが、かつては大きく蛇行する大河で、広大な河川敷があったのだろう。
 元荒川を渡る橋のすぐ横に三ツ木堰があり、その脇に小さな公園があった。蕪村と同時代の俳人、白雄の句碑が二つあった。

 馬ほこり蠅も忘れてひと間哉   白雄
 この中にわかきはたれそ屠蘇の酒 同

 「馬ほこり蠅」は旅の情景だろう。夏の旅は馬が埃を巻き上げ、馬糞には蠅がたかり、あまり衛生的とは言えなかった。それをしばし忘れて一息つく、それは俳諧興行の挨拶だったか。


 「わかきはだれそ」の句も興行の発句だろう。正月のお屠蘇も「また一つ歳をとったか」と目出度くもあり、目出度くもなし。
 このあとアピタ吹上店のラーメン十勝でたんめんを食べた。サラダとコーヒーが無料だったが、先を急ぐのでサラダだけ食べた。

 アピタの前の歩道橋を渡り、少し行くと袋神社があった。昔は女体社だったという。うちの近くの馬絹神社が女体神社だったのを思い出した。ここでも元荒川を鎮めるために人柱になった女がいたのだろうか。
 袋神社の前を左に曲がると、向こうに上越新幹線の線路が見えてくる。線路に沿って左に行くと、バス通りに出るところに神社があった。  右へ行くと忍川を渡る橋があり、その先を左に曲がると伊奈利神社がある。大正15年銘のお狐さんがあった。

 その先を右に曲がると熊谷バイパスの下に出る。用水路に沿って左に行き、用水路の橋を渡って左に行くとさきたま古墳群の入り口に出た。目の前に奥の山古墳がある。向こう側に中の山古墳が見える。大体14時45分頃か、ついにさきたま古墳群に着いた。

 着いたとはいえ、別に古代史にそれほど詳しいわけではなく、たまたま古代道路には関心を持ったものの、こうやって古墳を見ても、でかいなーとは思うものの、正直よくわからない。とにかく広い敷地に人はあまり多くない。途中、移築民家があった。古代だけでなく、民家園のようなものもある。駐車場もがらがらだし、幸い捨て猫野良猫などの姿はない。



 とりあえず何とかと煙は高いところに昇るというわけで丸墓山古墳へ行ってみた。石田堤というのは、「のぼうの城」で有名になった行田の忍城の水攻めの際に石田三成が作らせた堤防だという。普通に歩道になっているが、高さはほとんどない。崩れて平たくなったにせよ、この幅ではもともとそんな高いものではなかったのだろう。せいぜい1メートルか高くて2メートルもあればいいくらい、というところだろう。
 ここへ来るまでの袋神社のあたりからも、石田堤が残っているらしいが、見た感じそれらしきものはなかった。まあ、1週間で28キロの堤防を築いたというくらいだから、ほとんどやっつけ仕事で、別にスーパー堤防のようなものを作ったわけではなく、ちょっと雨で増水したらすぐに流されてしまう程度のものだったのだろう。のぼう様の人柄とかそういうのがなくても、最初から作戦自体に無理があったのではなかったか。
 秀吉は備中高松城の水攻めが成功したことで天下を取ったが、過去の成功体験に縛られて失敗するというのはよくあることだ。
 丸墓山は高さ約19メートルで、登ると眺めがいい。その忍城とやらも見える。再現されたものらしい。石田三成もここに陣を張ったという。このあたりは見渡す限りまっ平らで、ほかに高いところがないから、昔は結構目立ったのだろう。東山道武蔵路もこの丸墓山をランドマークにして作った道だったのかもしれない。
 コンパスのない時代にどうやってあんな長い直線道路を作ったかは謎だが、俺が思うに、山か何かを目印にして、それに向けて山と重なる位置に櫓を並べていって作ったのではないかと思う。たとえ樹海でも、木の上に顔を出せるくらいの櫓が組めれば、遠くまで見渡すことができる。そこに一直線になるように櫓を並べ、櫓と櫓の間をつなぐように道路を作ってゆけば、何十キロという直線道路も作れたのではないかと思う。

 所沢の八国山の鞍部で向きを変えるところも、あえて麓を目指さずにわざわざ山を越えているのは、遠くから見えるところを目標に道を作っていたからだったかもしれないし、的場から越辺川までの直線も、その延長線上には後に松山城の築かれた山がある。
 一応せっかく来たからさきたま史跡の博物館にも入ってみた。国宝金錯銘鉄剣は雄略天皇の実在が証明されたとかで昔結構話題になったのは、ぼんやりと記憶にある。もともとはこんなに綺麗に字が読み取れる状態ではなかったはずなのだが、どういう処理をしたのだろうか。
 最後に前玉神社に行った。「延喜式」の載っている神社だが、その建っている場所が浅間塚古墳だから浅間神社になってた時期もあったのか、今も境内に浅間神社の社がある。
 入り口には延宝4年という芭蕉が江戸に出てきた年に立てられた鳥居がある。
 その先には狛犬がある。そういえばお狐さんは見たが、狛犬はこれが今日初めてだ。銘はないがなかなか古そうな風格のある狛犬だ。


 社務所には毛づやの綺麗な黒猫がいた。首輪をつけている。ここの神社の猫だろう。おみくじの箱の上に座って店番をしていた。部屋の中にも雉トラの猫がいた。
 境内社の明治神社は鳥居が崩れていた。ネットで調べてみると、2013年9月27日のブログでは健在で11月13日のブログでは壊れていたとあるから、その間に何かあったのだろう。
 今日の旅はここまでで、あとはそのまま秩父鉄道の行田市駅まで歩いた。

11月3日

 今日は東山道武蔵路の続き。朝7時前に出て、行田市駅に着いたのが9時過ぎだった。だいぶ遠くまで来た。
 前回、さきたま古墳群から行田市まで急ぎ足で通り過ぎただけだったので、まずは市内観光をしてからさきたま古墳群に行き、続きを始めることにした。頑張れば一気に足利まで行けそうだが、その少し手前に東武小泉線の本中野駅があるので、とりあえずそこまでを目標にした。まずは忍城に向かった。
 忍城手前に東照宮・諏訪神社があった。
 入ってすぐ右が諏訪神社の拝殿で、昭和8年銘の狛犬があった。江戸狛犬で、阿形は子獅子と玉、吽形は子獅子二匹だった。
 隣には多度社・一目蓮社があり、奥に東照宮があった。東照宮には紀元2600年銘の狛犬があった。招魂社系で両方とも股間にはあれがあってオスだった。

 道路を渡ると忍城旧本丸で、行田市郷土博物館があった。ここから御三階櫓に登れる。古代の展示を見ると、行田市内の古墳の分布や旧盛徳寺から、古代の文化の中心は行田市の東側の方に集中していて、東山道武蔵路が通っていたとしたら、やはりさきたま古墳を経て北北西に向きを変えるルートが一番良いように思えた。
 最短コースを取るなら、元荒川を渡ったアピタ吹上店のあたりから真っ直ぐ北上するルートになるが、これだと忍城のあったと水城公園から行田市駅のあたりを突っ切ることになる。ただ、かつてこのあたりが沼地で、それを利用して忍城が建てられたことを考えると、このあたりは迂回したのではなかったかと思う。
 博物館の前では菊がたくさん飾られていた。城址公園の中にはあちこちに「蚊にご注意を!!」の立て札があった。代々木公園とはずいぶん離れているが、念のために蚊に刺されないようにとのことだった。
 このあと水城公園に行った。日本庭園があり、その南側には大きなしのぶ池があって、釣りをしている人がたくさんいた。

 次に佐間天神社に行った。季節柄、七五三の子供が来ていた。昭和10年銘の狛犬があった。こちらは普通に子取り玉取りだった。


 佐間の交差点からさきたま古墳群に向かう途中に川端酒造の酒蔵があったが、日曜祝日は休みらしい。自販機で桝川純米生酒を買った。
 さきたま古墳群に辿り着いたのが11時だった。大衆食堂ことぶきやでフライを食べた。フライといっても揚げ物ではなくお好み焼きで、子供の頃鷺沼プールの帰りに的屋の屋台で食べたお好み焼きを思い出した。関東式のお好み焼きは生地を薄く敷いて、その上に具材を乗っけて作る。そして、食べやすいように半分に折って紙に包んであった。ここも同じような感じで、お皿の上に二つ折りにしたお好み焼きが乗っていた。350円で結構大きく、十分昼食になった。
 このあとふたたび丸墓山古墳に登った。今日は冬空で遠くの山もくっきり見えていた。赤城山や日光の山々が見えた。
 丸墓山古墳を越えて裏側からさきたま古墳群を後にしたが、北北西に進路をとろうにも武蔵水路が工事をやっているせいか、なかなかうまく進めなかった。
 ようやく武蔵水路の脇の道に出るが、歩道がなくて歩きにくい。長野の交差点から左右と進んで、ようやく北北東に向かう直線道路に出た。この長屋や富士見町のあたりの道路の傾斜とその先の斎条の道路の傾斜はほぼ一致する。古代の条里制の跡だという。
 道はやがて突き当たり、並行する一つ東側の道を行く。ベルクの前を通り、この道もやがて秩父鉄道に遮られる。

 秩父鉄道の踏切を越え、大きな通りに出て右へ行くと谷郷生コンの看板が見える。平城京で出土した木簡に、「武蔵国策覃郡宅子駅菱子一斗五升」とあり、「策覃郡」がさきたま郡のことで「宅子駅」が谷郷のことではないかと言われている。現在の地名ではここは長野で谷郷はもう少し西側になる。
 小見南交差点を曲がり、田んぼの方へ入ってゆき、しばらくするとまた北北西へ向かう直線道路に出るが、その途中に神社があった。鳥居の額の文字が上が五でその下に大神とあるのはわかるが、その間の字がよくわからない。後で調べたら、どうやら「所」という文字で五所神社だった。ここにも昭和9年銘の狛犬がある。全体に直線的でかくかくしている。



 直線道路に出て少し行くと、広い田んぼに出る。見渡す限りまっ平らな田んぼの向こうに、遠くの山がくっきり見える。西の方にあるぎざぎざした山は妙義山だろうか。その横は榛名山か。赤木山と日光山は行く方向に見える。東には筑波山も見える。南東にある山は秩父山系なのだろう。この道の傾斜が条里制の名残だとすれば、古代にもここは田んぼが広がる場所で、同じように周辺の山々が見渡せたのだろう。

 道はやがてわずかに右に曲がり、やがて県道に出る。興徳寺があり、その裏には利根川の土手が見えてくる。左斜め前に向かう小さな道を行くと、治子(はるこ)神社がある。拝殿の左裏には石塔のたくさん並んだ塚がある。中央の大きな石塔には、三笠山大神、御嶽山大神、海山大神と刻まれている。大正12年銘のやや面長の狛犬もあった。

 治子神社の裏の堤防を登ると、利根川が見えた。さすがに大きい。近くに武蔵大橋が見えていた。この橋は利根大堰の上に作られている。
 武蔵大橋は一応歩道があるものの、すぐ横を大型トラックがびゅんびゅん走る上、川を見下ろすと青い水は波立って、風も強く、何となく恐怖を感じる。長さはこの前荒川を渡ったときのほうが長いのかもしれないが、武蔵大橋もずいぶん長く感じられた。
 そして13時20分、ようやく橋を渡り終えるとそこはグンマーだ。といっても埼玉とそんなに変わらないように見えるが。ただ、「川と緑のまち、ようこそ千代田町へ」と書かれている。

 このあたりは上五箇という地名で、『続日本紀』宝亀2年10月27日(771年12月7日)条に「而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。」とある、この「五ケ驛」の候補地でもある。この「五ケ驛」を地名ではなく五つの駅とするせつの方が有力だったが、それは1989年に所沢の東の上遺跡の道路遺構が発見され、それが熊谷の方へ向かっていたため、「其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。」を、上野国の新田駅を出て下野国足利駅へ行くのが「便道」だけど、新田駅で曲がって上野国邑楽郡から五つの駅を経て武蔵国へ至る、と読むようになっただけのことだ。


 考古学の分野は一般的に物証が極めて少ないため、たった一つの発見でも定説が覆ることがある。それは人類の起源なんかでも、インドネシアでピテカントロプスが発見されればアジア起源説が有力になり、アウストラロピテクスが発見されればアフリカ起源説に傾き、ルーシーが発見されれば東アフリカ起源が定説となり、最近では西アフリカからも初期人類の化石が発見され、まだどこが起源かよくわからなくなってきているのといっしょで、2002年に西吉見条里遺跡の道路遺構が発見され、それがさきたま古墳の方を向いてるとなると、またわからなくなってくる。

 『続日本紀』の「而枉從上野國邑樂郡」の「而」の字は順接にも逆接にも用いられる。つまりこの文章は、足利駅までは便道で、そこから曲がって上野国邑楽郡を通り、五箇駅を経て武蔵国に至る、と読むこともできる。
 東山道武蔵路も府中から八幡前・若宮遺跡くらいまではある程度確定できるが、そこから先の道はあくまで推定路にすぎない。これから先、何らかの考古学的発見があれば、徐々に確定できる道は増えてゆくかもしれないが、今はとにかくあくまで推定路ということで、まだあくまで推理を楽しむ次元のものにすぎない。
 そういうわけで、群馬県邑楽郡千代田町上五箇を東山道武蔵路の一つの候補地として、ここから足利駅を目指すことになる。足利駅の位置もあくまで推定にすぎないのだが、一応足利市の国府野遺跡をその候補地とする説があるので、それに従う。この国府野遺跡は現在のJR足利駅の下で、くしくも今日の足利駅と古代の足利駅はほぼ一致している。
 そういうわけで、利根川の土手を降り、ここからまた北北西に向かうことになる。上五箇の交差点を通り、千代田町東部運動公園を横切り、北へ行くと白山神社があった。村社白山神社と書いてある石塔があるが、鳥居には雷電社と書いてある。境内には芭蕉の「梅が香にのっと日の出る山路かな」の句碑がある。もちろんこの句はここで詠まれたわけでも何でもない。地元俳人たちが芭蕉の功績を表してこういう句碑を立てるのはそんなに珍しいことではない。
 千代田消防署の方から北へ向かい県道20号線に出た後は、しばらく20号線を歩いた。右側に工場がたくさんある。
 狸塚を左に曲がり大黒の交差点を右に入ると、邑楽町役場の立派なタワーが見える。

 やがて20号線に戻るところに神明社があった。境内には田山花袋の歌碑があった。

 松原につづく萱原すすき原
     そぞろにこひしいにし昔の
               田山花袋

 平成5年銘の新しい狛犬もあった。岡崎型のようだが、顔が長く全体に荒削りな感じがする。


 ここから本中野駅まではすぐだった。15時40分本中野駅到着。あと2時間ちょっと歩けば足利まで行けるのだろうけど、その頃にはすっかり暗くなってしまうので、やはり今日はここまで。次回は10キロに満たないショートコースになる。まあ、足利もいろいろ見るところがあるから、東山道武蔵路の旅の終わりにはちょうどいいって所か。

11月24日

 今日は東山道武蔵路の続きで、朝6時に出て本中野駅を9時にスタート。さすがに遠い。空は曇っている。
 東山道武蔵路も今日が最終回で、ここから足利までのショートコース。あとは観光して帰ることにしよう。
 県道20号線に出て少し行ったところの中野小学校の前に小さな塚があって小さな社があった。中には愛宕神社と書いたバケツがあった。その少し先にも小さなお稲荷さんがあった。
 左に曲がって国道122号線を少し行き、五料橋から小さな用水路沿いに進む。突き当たったところを右に行くと高島小学校の近くに四祀開(ししかい)神社があった。大正13年銘の狛犬は四角張った顔をしていた。このあたりには小さな塚の浅間神社が境内にある神社が多い。浅間山の噴火の記憶からか。

 この前噴火した御嶽山もそうだが、火山は神社として祭られていることが多い。これはもちろん火山の噴火を恐れてそれを鎮めるために祭るというものなのだろうけど、それだけでなく、危険な火山を神社の聖域として、修験者以外の一般人の立ち入りを


制限するという意味もあったのではないかと思う。コノハナサクヤヒメを祭るだけあって、塚の前は冬でも花が咲いていた。
 小さな川を渡ると秋妻という所で、玉取神社がある。天長2年(825)創立という古さは、ここに古代道路が通っていた証拠にならないだろうか。平成12年銘の新しい狛犬があり、ここにも富士塚の浅間神社があった。
 ところで気になるのが、神社の前にあるリベットでつなぎ合わせたような大きな玉があることだ。玉取りだから玉はわかるが、これはひょっとして昔の機雷では。ネットで調べると、結構神社で機雷を祭っている例がある。竜宮の玉も近代では弾丸除けにご利益があるという信仰に変わって行ったのか。


 県道に出てしばらく行き、右の用水路に沿った道を行くと、やがて東武線の踏切がある。この踏切を渡ったところに赤城神社がある。銘は読み取れなかったが新しそうな岡崎型の狛犬があった。

 しばらく線路沿いを行くとまた赤城神社があった。平成26年4月の銘の真新しい狛犬がある。赤城山が近いだけあって、赤城神社がこのあたりにはたくさんあるようだ。


 そのすぐ裏側には東武和泉駅がある。踏切を渡り再び線路沿いに行くとやがて広い道に出る。緑の屋根のお城のようなマンションがかなり目立つ。
 このあたりは健康ランドがあり島忠やヤマダ電機など、郊外型店舗が集中している。

 国道293号線に出て、渡良瀬川を渡るといよいよ旅も終わり。JR足利駅南口に出る。11時40分、1年に渡る東山道武蔵路の旅はここで終了する。1月13日に分倍河原を出て、しばらく両親を相次いで失い中断していたが、無事旅を終えることができた。


 さて、足利といえば、やはり足利学校だろう。といっても正直足利学校が何なのかはさっぱりわからない。足利秋祭りの期間内で入場無料だった。
 中に入ると孔子の像があり、その前に渡来系の狛犬があった。隣には稲荷神社がある。
 正面には孔子を祭る廟があり、湯島聖堂を思い出す。
 有名なだけあって人は結構来ている。紅葉も今が見ごろという感じだ。
 茅葺屋根の建物があり、ここは中に入れる。歴代徳川将軍の位牌が並んでいる。日本庭園もきれいに管理されている。悪くはないところだが、結局足利学校って何だったのかよくわからなかった。世界遺産に推薦するなら、何かわかりやすい説明が欲しいな。


 そのあと中央通りにあるワインショップ和泉屋でココファームワインのヌーボー、「のぼっこ」を買った。
 あしかがフラワーパークの駐車場で足利グルメグランプリというB級グルメのイベントをやっているというので、そこで昼食にしようと、JR足利駅に戻り電車で隣の富田駅へ行った。もう徒歩旅行は終わったのだから、歩く必要はない。一駅とはいえ、結構距離がある。
 足利グルメグランプリは結構にぎわっていた。がらがらの店もあれば行列のできている店もあり、すでに完売した店もあった。1000円の投票券付きの金券を買い、まずは腹の膨れそうなものをと思い、チーズ入りもんじゃ焼きそばの列に並んだ。
 次にとり皮まきまき、それからしょうが焼きメンチカツ、これは誰も並んでなかった。100円分余ったのでコーヒーを飲んだ。
 どれもなかなかだったが、オリジナリティーという点ではやはりとり皮まきまきに一票。
 あしかがフラワーパークも足利秋祭りの期間内で入場無料だったので、入ってみた。さすがにこの季


節だと花は少ない。アメジストセージはきれいに咲いていたが、あとはバラが少々残っているくらいだった。一番の売りの大きな藤棚は黄葉し、そこにイルミネーションの電球が取り付けられていた。あちこちにイルミネーションが用意されていて、夜になればさぞかし見事なものなのだろう。これが冬の一番の売りなのだろう。これもLEDのおかげとなると、さすがノーベル賞。
 富田駅に戻ると、駅前に神社があったので行ってみた。筑波神社だった。

 電車で再び足利駅に戻り、渡良瀬川を渡って東武線足利市駅に行き、ここからまた電車に乗って隣の野洲山辺駅に行き、そこから歩いて下野國一社八幡宮へ行った。足利氏発祥の地の真新しい碑があった。
 狛犬は紀元2600年銘のものがあり、吽形の方は角がある。その裏にまた小さな狛犬があった。天保3年銘で、阿形の方は特に顔が丸っこくて可愛らしい。
 隣に門田稲荷神社があった。縁切り稲荷の幟が立っている。縁結びは誰でも来れるが、縁切りとなると特殊すぎて何となく入りにくい。さだまさしの「縁切寺」という歌にも、彼女がここに来ていきなり泣き出して、その後本当に縁が切れちゃったという展開があったっけ。そのせいか、病気や薬、賭け事、タバコやお酒、事故や災難の縁切りにと、かなり拡大解釈して人を呼び込もうとしている。


 足利はワインもあればB級グルメもあり、「あしかがひめたま」という萌えキャラの幟が立ってたり、今まで行った地方都市の中でも結構頑張っている方だと思う。川を隔てて旧市街と新市街が歩いて行き来できる距離にあるのもいいのかもしれない。
 足利織姫神社は行きそびれたが、東武線の窓からそのきらびやかな建物を拝むことはできた。晴れているか雨が降っているかどちらかなら、山の紅葉ももっと美しく見えたのではないかと思うが、あいにくの曇り空だった。
 帰りは特急りょうもうで北千住まで乗っていった。4時に出て6時半には帰れた。 

 いろいろなことのあった一年だが、こうやって旅ができる日々の貴重さを知る一年でもあった。これからどこへ行こう。(完)