『去来抄』を読む

 『去来抄(きょらいしょう)』は去来没後七十年を()安永四(一七七五)年に公刊された書で、その伝来に若干疑問はあるものの、蕉門の信頼できる俳論の書とされている。疑うべきものかどうかは、中身を()んでからじっくり考えてほしい。 

 この文章は最初2000年代前半ぐらいに書いたものだが、今改めて読み返すと、その時では新しかった話題を「最近」とか書いても今となっては古く、また考え方が変わったことも多少あった。

 

 特に最後の「修行教」の所は大幅に書き換えざるを得なかった。


先師評

外人之評有といへども先師の一言まじる物は此に記す

1、 蓬莱(ほうらい)に聞かばやいせの初だより   芭蕉


 「深川よりの文に、(この)句さまざまの評(あり)(なんぢ)いかが聞き侍ると(なり)

 去来(いはく)(みやこ)古郷(ふるさと)便(たより)ともあらず、いせと侍るは元日の式の今様(いまやう)ならぬに、神代をおもひ出でて、便(たより)(きか)ばやと道祖神(だうそじん)の、はや胸中をさはがし奉るとこそ承り侍ると申。

 先師返事に曰、汝聞処(きくところ)にたがはず。今日(こんにち)神のかうがう(しき)あたりをおもひ出で()(ちん)和尚(くわしょう)(ことば)にたより、(はつ)の一字を吟じ侍る(ばかり)なり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,10

 

 始まりにふさわしく、この『去来抄(きょらいしょう)』の最初の句は芭蕉の歳旦吟(さいたんぎん)だ。それも結果的に芭蕉の最後の歳旦吟となった元禄七(一六九四)年のものだ。この句は一月二十九日付けの曲水宛書簡に記されているが、それ以前に去来にこの句を伝える書簡が存在してたのだろうか。

 その曲水宛書簡には、

 

 「伊勢に知人音づれてたよりうれしきとよみ侍る慈鎮和尚の歌より、便りの一字うかゞひ候。其心を加へたるにては無二御座一、唯、神風やいせのあたり、清浄の心を初春に打さそひたるまでにて御座候。」

 

とあり、去来の言う「今日(こんにち)神のかうがう(しき)あたりをおもひ出で()(ちん)和尚(くわしょう)(ことば)にたより、(はつ)の一字を吟じ侍る(ばかり)なり」と概ね一致している。同じ内容の去来宛書簡があったか、曲水を通じてのものかは定かでない。

 蓬莱(ほうらい)といえば中国の伝説で東の海の向こうにあるとされる蓬莱・瀛州(えいしゅう)方丈(ほうじょう)の三神山のひとつで、仙人の住む黄金の街があり、宝石の実る木が(玉の枝)があり、そこに棲む動物はみんな真っ白だという。黄金の島の伝説は日本(中国語でジーパン;中国語のR音はJ音に聞こえる)と混同され、黄金の島ジパングとなってマルコ・ポーロによて西洋に伝えられることともなった。

 一方、この島は空中に浮いていて、近づこうとすると消えてしまうということから、蜃気楼(しんきろう)のことだとも言われている。

 だが、江戸の庶民の感覚では、むしろ蓬莢は正月に七福神の乗った宝船が蓬莢山からやってくるというイメージのほうがしっくりくるだろう。正月の飾り棚のことも蓬莱棚と呼んでいた。芭蕉のこの句も、伊勢からの正月の便りをあたかも蓬莢から七福神が運んできたかのようだ、という意味だろう。

 伊勢といえば、お伊勢参りで、江戸時代という自由に旅行のできなかった時代でも、お伊勢参りという名目であれば庶民でも自由に旅ができた。伊勢からの便りは旅への思いをさそうもので、去来の言うように道祖神の胸中をさわがす、旅の虫の騒ぐようなものだった。

 道祖神はかつていわゆる「御霊(ごりょう)信仰」、即ち非業(ひごう)の死をとげた人が神となる信仰と結び付いていた。道祖神の起源はは中国の黄帝(こうてい)の妹、(るい)()の旅に死んだ所にあったのだが、死んだ旅人が自らの果たせなかった旅の夢を後世の人に託すべく、旅人の守り神になったという発想は、非業の死を遂げた人が神となる御霊信仰と相通じる。

 御霊信仰と道祖神との結び付きは、中世の「八所(はっしょ)御霊(ごりょう)」にも見られるものであり、黒田(くろだ)俊男(としお)の『日本中世の社会と宗教』(一九九〇、岩波書店)によれば、「道祖神や男女性神の信仰と習合した辻祭や(ほこ)神輿(みこし)の風流で」、八所御霊は賑わっていたという。

 『奥の細道』にも、

 

 「古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしゃう)()(おく)(くも)の古巣をはらひて、やや年も(くれ)(はる)(たて)る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ(かみ)の物につきて心くるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて(とる)もの手につかず」

 

とある。
 榎本(えのもと)()(かく)の『(かれ)尾花(おばな)芭蕉(ばしょう)(おう)終焉記(しゅうえんき)にも、

 

 「十余年がうち、杖と笠とをはなさず。十日とも(とどま)る所にては、『又こそ我が胸の中を道祖神のさはがし給ふなり』と語られしなり。」

 

とあるように、道祖神は芭蕉の口癖のようでもあり、もう少しここにいて下さいよ、という門人たちの言葉に、いつも道祖神を引き合いに出しては去って行く芭蕉の姿が目に浮かぶ。

 伊勢からの便りは旅の誘いであり、道祖神の招きに他ならない。伊勢神宮の神々しさとも相成って、それが「蓬莢」の便りのように聞こえたのだろう。
 去来の返事に満足したのか、芭蕉はこの句の最後の「初便り」の出典が()(ちん)和尚(かしょう)()(えん))の、

 このごろは伊勢に知る人おとづれて
    便り色ある(はな)柑子(かうじ)かな

歌から来ていて、この「便り」に「初」の字をかぶせたことを明かす。

 

 

2、 辛崎(からさき)の松は花より(おぼろ)にて   芭蕉

 

 「伏見の作者、にて(どめ)の難(あり)其角曰(きかくいはく)、にては(かな)にかよふ。この(ゆゑ)に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫(くぎれせはしく)なれバ、にてとハ(はべる)也。呂丸(ろぐゎん)曰、にて留の事は已に其角が解有。又(これ)ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶(そっきょうかんぐう)にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が(べん)皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白(おもしろ)かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1011

 

 ここでいう「伏見(ふしみ)の人」は不明。

 其角(きかく)の説は発句が「(かな)」や「けり」や「し」などの断定を含んだ句に第三の「にて」留めを嫌うということを根拠にしたものだが、これは打越(うちこし)に似たような句が来るのを嫌うところから生じた一部の慣習で、本来このような規則はない。たとえば、『寛正七年心敬等何人(なにひと)百韻』では

 

 (ころ)やとき花にあづまの種も哉    心敬(しんけい)

   春にまかする風の長閑(のどか)さ    行助(ぎょうじょ)

 雲遅く行く月の夜は(おぼろ)にて     専順(せんじゅん)

 

というように、「(かな)」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。

 また、「辛崎(からさき)の松は花より朧にて」の句は確かに「辛崎の松は花より朧哉」としても意味は通るが、同じ意味とは言い難い。「辛崎の松は花より朧にて」と終ったときには「にて」以下何かが省略されている感じが残るが、「哉」ではそこで終ってしまう。

 また、其角の説では「哉」が「にて」と同様のものだとしても、通常「哉」は発句には使われるが第三には使われないし、「にて」は第三には使われるが発句には使われない。だから答えになっていない。呂丸(ろがん)はその弱点に鋭く突っ込んでいる。これに対し、去来は語句の問題ではなく、発句として作られたから発句だと切り返す。

 この去来の説の「即興感偶(そっきょうかんぐう)」を今日の意味での「即興」ととり、写生説に結び付けようとする人もいるが、ここは文字どおり「興に即してたまたま感じる」と取ったほうがいいだろう。この句は

 

 辛崎の松は小町の身が朧

 

という初案があり、今日でいう意味での「即興」ではない。去来の説は、むしろ発句は俳諧興行(はいかいこうぎょう)の際の当座の興に即して読むべきものであるということが念頭にあっての発言である。

 つまり、発句とは俳諧興行(連歌会(れんがえ)でも同じ)の際その時の季節や土地柄を踏まえて詠むべきであり、この辛崎の句はまさにそれだから発句だというのだ。これに対し、第三の句は発句と同じ趣向になるのを嫌い、当座の風景でないものを詠む。たとえば先の『寛正七年心敬等何人百韻』でいえば、

 

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

 

という発句は花の季節に東国に下るという状況から詠まれているが、第三の

 

 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

 

はそれとは関係なく、この連歌が詠まれた時に月が出ていたかどうかに関係なく詠まれている。「第三は句案に渡る。」というのはそういう意味だ。

 これに対し芭蕉の弁は単純だ。其角や去来が言っているのは理屈にすぎない。そうではなく理屈抜きにここは「にて」で留めたほうが面白いからだ、というのが芭蕉の弁だ。

 実は、「にて」留めではないものの、「て」留めの発句なら芭蕉のこの句が最初ではない。これよりほんの少し前、名古屋に荷兮(かけい)野水(やすい)の所に訪れ、後に『冬の日』に収められた

 狂句木枯(きょうくこがらし)の身は竹斎(ちくさい)に似たる哉   芭蕉

 

の発句に始まる一連の俳諧興行の中で、荷兮に

 

 霜月や(こう)彳々(つくつく)ならびゐて

 

の句がある。この句は「や」という切れ字が入っているため、「て」で終ってもそれほど違和感がない。しかし、これがもし

 

 霜月に鸛の彳々ならびゐて

 

だったら、芭蕉の「辛崎の松は花より朧にて」と同様の効果を上げることができただろう。

 この句の面白さは「にて」で留めたこと自体より、むしろ「切れ字」をはずすことによって先に何か続くような感じを持たせ、しかもそれが何か言おうとして言葉につまったような印象を与える点にあるのではないか。つまり切れてないんだけども切れているという微妙な効果が面白かったのではないか。

 「切れ字」が本来何のために生じたのか、近代の俳人や俳句研究者はかなり誤解している。特に、切れ字を文章を途中で切る言葉だと思っていることが多い。これは正岡子規以来の誤解だ。子規は旧派に切れ字などを学ぶことを必要ないと考えていた。

 中世の梵灯(ぼうんとう)による連歌論書『長短抄(ちょうたんしょう)』に切れる句、切れない句の例が載っている。それによると、

 

 山は(ただ)岩木のしづく春の雨

 松風は常葉(ときは)のしぐれ秋の雨

 五月雨は嶺の松かぜ谷の水

 あなたうと春日のみがく玉津島

 

は切れ字が入ってないにも関わらず切れている句で、これに対し

 

 庭にみて(たづね)ぬ花のさかり哉

 山近しされどもをそき時鳥(ほととぎす)

 花は今朝(けさ)雲や霞の山桜

 

は切れ字があっても切れていない句とされている。当時は切れ字の有無に関わらず、切れているか切れていないかをかなり感覚的に捉えていたようだ。それは一句が文章として完結しているか、それとも何かあとに続かないと収まりが悪いか、というあたりから判断されていたようだ。

 「山は只岩木のしづく春の雨」の句でいえば、これは倒置であり、正しく「春の雨に山は只岩木のしづく」と直せば完結した詩句となる。「松風は常葉のしぐれ秋の雨」にしても「秋の雨に松風は常葉のしぐれ」となる。「五月雨は嶺の松かぜ谷の水」は並べかえる必要がない。「あなたうと春日のみがく玉津島」は「春日のみがく玉津島はあなたうと」となる。これらに共通しているのは主語と述語がはっきりしているということだ。

 これに対して「庭にみて尋ぬ花のさかり哉」は前半の「庭にみて尋ぬ」に主語がなく、「花のさかり哉」が宙に浮いた感じがする。「山近しされどもをそき時鳥」にしても、郭公(ほととぎす)が遅いから何なのか、あとに下の句が続かなければ収まりが悪い。「花は今朝雲や霞の山桜」は「花は今朝、雲の霞の山桜」という意味で、一応主語述語はそろっているが、「花は山桜」という同語反復になっているため、山桜が何なのか、と続く形になる。

 同じ『長短抄』に「発句と切れ字」という部もあり、そこには哉、けり、ぞ、か、し、や、ぬ、む、す、よ、は、けれ、とともに「せいばいの字」というのがある。これは、切れ字として特に決まってないが切れ字と同様の作用をするという意味で、例として

 

 吹けあらし萩にほのめく夕月夜(ゆふづくよ)

 中々(なかなか)に雪こそ春よ松の花

 今日よりは待日(まつひ)に成ぬ郭公(ほととぎす)

 かるかやの苅間(かるま)も見えず秋の草

 

が揚げられている。「吹けあらし萩にほのめく夕月夜」の句でいえば、吹けの「け」、つまり命令形の活用語尾が切れ字の役割を果たしている。「中々に雪こそ春よ松の花」の場合は「よ」で、「今日よりは待日に成ぬ郭公」は完了の助動詞が切れ字の役割を果たしている。「かるかやの苅間も見えず秋の草」では否定の「ず」が切れ字の役割を果たしている。

 時代はかなり下り紹巴(じょうは)の時代、つまり安土・桃山時代になると、切れ字の数はかなり増える。紹巴の『連歌教訓(れんがきょうくん)』には哉、もや、や、ぞ、つ、か、き、なめり、けり、ぬ、もなし、はなし、し、じ、いく、いさ、めや、ねれや、やは、かは、らし、なれ、らん、け、よ、へ、せめ、に加え、下知したる文字(命令形)と「面にみえぬ切れ字」というのが付け加えられている。そこには

 

 五月雨は嶺の松かぜ谷の水

 あなたうと春日のみがく玉津島

 

という『長短抄(ちょうたんしょう)』にある句と

 

 花はひも柳は髪をときつかぜ

 

の句が例として示されている。

 切れ字は決して形式的に入っていればいいというものではない。また、入っていなくても句が切れている、つまり一句としての完結性を具えていれば別に構わない。中世の連歌の時代からそのように考えられてきた。だから、芭蕉が「切れ字」を使わずに発句を作ったとしても、それは決して新しいことではない。むしろそれは連歌以来の伝統に乗っ取ったやり方なのである。このことは、あとで去来が芭蕉に切れ字について質問する場面があるので、そこでもう一度詳しく触れることとしよう。

 

 

3、 行春(ゆくはる)近江(あふみ)の人とおしみけり   芭蕉

 

 「先師(いはく)尚白(しゃうはく)が難に近江は丹波にも、行春ハ行歳(ゆくとし)にも有べしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧(もうろう)として春をおしむに便(たより)有べし。(こと)今日(こんにち)の上に侍るト(まうす)。先師曰、しかり、古人も此国(このくに)に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言(このひとこと)心に徹す。行歳近江(ゆくとしあふみ)にゐ(たま)はば、いかでか此感(このかん)ましまさん。行春丹波(ゆくはるたんば)にゐまさば(もと)より此情(このじゃう)うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉(まことなるかな)(まうす)。先師曰、汝ハ去来(とも)に風雅をかたるべきもの也と、殊更(ことさら)(よろこび)給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,11

 

 この段は芭蕉に「行春を」の句のことを聞かれ、うまく答えられたことを去来が少々自慢気に語る場面だ。

 芭蕉が「尚白がこの句のことを近江を丹波にかえて『行春を丹波の人とおしみけり』にしたり、行春を行歳にかえて『行歳を近江の人とおしみけり』『行歳を丹波の人とおしみけり』にしても同じではないかとい言うのだが去来はどう思うか?」と尋ねる。これに対し去来は近江の国の春は琵琶湖の湖水が春の霞に朦朧として特別味わいがある、だから近江を丹波にかえたり行春を行歳にかえたりはできない、と答える。芭蕉は「その通りだ。昔の風流人たちも近江の春は都の春に劣らぬものとして愛した」と答える。

 去来は多分感覚的に近江の春だとその景色が浮かんでくるが、丹波の春だとか、丹波の歳の暮だとかいわれても、景色が浮かんでこないということが言いたかったのだろう。これに対し芭蕉は「古人」が愛した風景だからだという。

 これは実際は同じことを言っている。古人が愛し、古くから歌に名高いからこそ去来も近江の春と言われたとき、その風景が思い浮かぶのではないか。丹波の春だとか近江の歳末だとかいわれても、一般の人にはどういう風景なのか、他の地方の春と何が違うのかピンと来ない。景色が思い浮かぶかどうかは、古くから歌や物語に名高いかと密接に関係がある。いわゆる「本意本情(ほいほんじょう)」というのはそういうことだと去来は悟ったのだろう。

 「近江の春」という言葉を聞いた時、春の滋賀県に行ったことのない人と県に住んでいる人とでは思い浮かべる景色も違うだろう。今ならネットでいろんな画像も出回っているし、テレビでも書籍でもいろいろな情報は得られる。だが、情報の限られた時代に、近江にも丹波にも行ったことのない人は「近江の春」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。そうした人には結局古典作品のイメージしかなかったのだろう。丹波にいたっては古典作品も思い浮かばない。

 「近江の春」という言葉を聞いたからといって、芭蕉の思い描いた近江の春が時空を超えてテレパシーのように我々の頭に届くわけではない。ただ、我々はそれぞれ自分の記憶にある近江の春のイメージを探るだけなのである。それは昔の人も同じだった。そして昔の人にとって、情報は今日と比べ物にならないほど限られていた。だから本意本情ははずせなかった。

 近江といえば滋賀辛崎が古くから歌枕として名高い。辛崎はかつて天智天皇が造営した大津京があり、その跡形もなく消え去った都を詠んだ、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の「近江荒都歌」は有名だ。

 

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど

    大宮人の船待ちかねつ

                   柿本人麿(かきのもとのひとまろ)

 さざなみの国つ御神(みかみ)のうらさびて

    荒れたる(みやこ)見れば悲しも

                   高市古人(たけちのふるひと)

 

 それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。

 『千載集』の

 

 さざなみや志賀の都は荒れにしを

    昔ながらの山桜かな

 

の歌は、『平家物語』で(たいらの)忠度(ただのり)が都落ちする際に俊成卿(しゅんぜいのきょう)に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。

 さらに、滋賀辛崎の三井寺(みいでら)は一本松が有名で、謡曲『三井寺』では、愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやって来て、感動の再開を果たす。そんなながい歴史への思いから、芭蕉も先の「辛崎の松は花より朧にて」の句を詠んでいる。花も朧だが、この悠久の歴史の流れからすれば常緑の松も春の霞の中で朧なはかない存在に見える。

 そんな特別な思い入れを尚白は理解しなかったが去来は理解したということで、去来は芭蕉に「共に風雅をかたるべきもの也」とまで言われ信頼されたわけだが、ここにはいろいろな人間ドラマがかいま見られる。

 この句は元禄三(一六九〇)年の三月の終り頃、まさに「行春」の季節柄、路通(ろつう)との別れのさいに詠まれたものだ。

 路通は乞食僧となって行脚していたころ、ちょうど『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉とこの近江の国で出会い、

 

 いざともに穂麦喰(ほむぎくら)らはん草枕   芭蕉

 

の句を送られ、行く末が期待されていた。『奥の細道』の旅でも敦賀まで出迎えに行き、病気の曾良に代わって共に旅をした。

 しかし、その路通も近江の人達からあらぬ嫌疑を掛けられ、芭蕉もそれを信じてしまい、一時破門扱いになってしまった。実際はすぐに誤解が解けて破門も解かれることになる。

 

 草枕まことの華見(はなみ)しても来よ   芭蕉

 

 もう一度苦労して旅をし、今の虚飾に満ちた華を捨て、本当の華を見つけなさい。

 そして、

 

 行春を近江の人とおしみけり   芭蕉

 

の句もその時のものだった。この直後、芭蕉は滋賀国分山の幻住庵に入り隠棲生活を始める。

 近江には許六、李由、尚白といった新たな門人がいた。路通の過ぎ去った春を惜しんだ「近江の人」の中には、芭蕉のその時の頭の中には「尚白」の名もあったのだろう。その尚白が「近江は丹波にかえてもいいし、行春は行く歳にもかわる」なんて言ったのは、何とも皮肉なことだ。

 翌元禄四年秋には自撰句集『忘梅』の千那の序文をめぐって芭蕉と対立し、結局芭蕉の門を去っていった。大勢の人が芭蕉を慕って入門してくるが、その多くはやがて俳諧の方向性の違いから芭蕉のもとを離れて行く。

 特に、芭蕉は日々新しい俳諧を模索し、古い俳諧を否定してゆく中で、それについてゆけなくなった門人が脱落してゆく。そんなことを何度も繰り返して来た。最も、弟子の側からすれば、青春を芭蕉とともに過ごし、一世を風靡した作風には思い入れがあり、歳をとってもかつて芭蕉とともに時代をリードしたあの輝かしい日々の記憶を失いたくない、という気持ちだったのだろう。

 しかし、芭蕉は時代が変わると手のひらを返したようにもうあれは古い、これからはこれだ、というふうに新しいものを求めてゆく。「『(さる)(みの)』なんてもう過去のものだ。これからはもっと軽い句が流行る。」そう言われたとき、古い門人たちがついてこれなかった理由もわかる。

 其角、嵐雪、荷兮、路通、尚白、他にもたくさんいた去っていった門人たち。そんな中で数少ない芭蕉のもとに残った弟子の一人、去来に芭蕉が本当に言いたかったのは、近江の湖水朦朧の風景の中に去っていった弟子たちの姿を見て欲しいという思いが実はあったのではなかったか。

 

 

4、 この木戸(きど)(ぢゃう)のさされて冬の月   其角(きかく)

 

 「猿みの撰の時此句(このく)を書きおくり、(しも)を冬の月・霜の月置煩(おきわづら)(はべ)るよしきゆ。しかるに(はじめ)は文字つまりて、(しば)ノ戸と読みたり。先師曰、角が冬・霜に煩ふべき句にもあらずとて、冬月(ふゆのつき)ト入集せり。其後(そののち)大津より先師の文に、柴戸(しばのと)にあらず、此木戸(このきど)也。かかる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出版に(およぶ)とも、いそぎ改むべしと也。凡兆(ぼんてう)曰、柴戸・此木戸させる勝劣なし。去来曰、此月を柴の戸に寄て見侍れば、尋常の気色(けしき)也。(これ)城門(じゃうもん)にうつして見侍れバ、その風情(ふぜい)あはれに物すごくいふばかりなし。角が冬・霜に煩ひけるもことはり也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1112

 

 「此木戸」は縦書きで続けて書くと「柴戸」とも読める。芭蕉も最初はそう読んでしまったようだ。

 

 柴の戸や錠のさされて冬の月

 

であれば、これは粗末な草庵の隠士の風情だ。その粗末な草庵の主は鍵を掛けて外出している。そこに冬の月があるとすれば、おそらく冷え錆びた冬の月の興に引かれ、月を見に出かけたのだろう。これを

 

 柴の戸や錠のさされて霜の月

 

としたのなら、意味は通らない。霜の月、つまり霜月十一月に草庵を留守にする必然性がわからないからだ。其角はいったい何を迷っているのだろうか、という事で、芭蕉も何の躊躇(ちゅうちょ)もなく「冬の月」として『猿蓑(さるみの)』に入集させたのだろう。

 ところが、そのうち間違いに気付いた芭蕉は、大急ぎで、出版を遅らせてでも「柴戸」を「此木戸」に書き改めるように指示してきた。去来とともに『猿蓑』の編集に当っていた凡兆(ぼんちょう)は、既に完成仕掛けていたところをまた直すのかと、少々うんざりしていたのだろう。編集作業の疲れから「柴戸」「此木戸」どっちでもいいじゃないか、という気分で「勝劣なし」と言ったのかもしれない。これに対し、去来はまたも自慢気に「柴戸」と「此木戸」の違いを説明し始める。

 去来によれば、柴の戸に冬の月だと「尋常」つまりありきたりな、よくある趣向だという。これに対し「此木戸」だと連想されるのはでっかくて厳しいお城の門だという。まさに権力の象徴とも言えるような城門が冷たく錠を閉ざし、月だけがぽっかり空にある。元武士だった去来としては今では出入りすることもできない城門に、身分を捨てて俳諧師になった我が身と合わせて感じ入るものがあったのだろう。しかし、それだとしても何で「冬」か「霜」かに迷ったのだろうか。

 

 この木戸や錠のさされて冬の月

 この木戸や錠のさされて霜の月

 

 「霜の月」を霜月十一月と読んだのではさして意味のないように思える。となると、これは「月の霜」の倒置だろうか。つまり、月の光りがまるで霜のように城門を白く浮き立たせている、ということだろうか。

 其角の句は大体において説明不足で難解な句が多い。この句も「この木戸」がどの木戸なのかはっきりせず、解釈も諸説ある。この句を『平家物語』巻五「月見」の条になぞらえる説。そこには「惣門は錠のさされてさぶらうぞ。東の小門よりいらせ給へ」という文句があり、其角もそこから「錠のさされて」の語句を持ってきた可能性は大きいが、果たして軍記物の勇壮な感じを出そうとしたものかどうかは怪しい。

 連歌俳諧の風雅はむしろ「たけきもののふの心をなぐさめ、力をいれずしてあめつちを動かす」という伝統があり、勇壮な感じよりは戦争の生み出す悲惨や哀れを訴え、非暴力による社会変革を訴えるものだった。だから、平家の衰亡の哀れを訴えるというならそれもわかるが、この句からそこまで穿った見方をしてもいいものだろうか。

 むしろ「この木戸」を江戸市中の特に吉原の入口の町木戸とする説もあり、この方が其角らしい感じがする。『平家物語』を匂わせながらもそれを遊郭ネタに換骨奪胎したと見たほうがいい。

 

 

 5、うらやましおもひ(きる)時猫の恋   越人(えつじん)

 

 「先師伊賀より(この)句を(かき)贈りて曰く、心に風雅(ある)もの一度(ひとたび)口にいでずと云事(いふこと)なし。かれが風流(ここ)にいたりて本性(ほんしゃう)をあらはせりト也。(これ)より前、越人名四方に高く、人のもてはやすほ句おほし。しかれども(ここ)に至りて、(はじめ)て本性を(あらは)すとはの給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,12

 

 この伊賀よりの芭蕉の書簡と思われるものは今日にも残っている。元禄四(一六九一)年三月九日付けの去来(推定)宛書簡で、そこにはこのように書かれている。

 

 「越人猫之句、驚入(おどろきいり)候。初而(はじめて)彼が秀作(うけたまはり)候。心ざし(ある)ものは(つひ)に風雅の口に不出(いでず)という事なしとぞ被存(ぞんぜられ)候。姿は(いささか)ひがみたる所も候へども、心は高遠にして無窮之境遊(さかひにあそば)しめ、賢愚之人共にをしへたるものなるべし。孔孟老荘之いましめ、(かつ)仏祖すら難忍(しのびがたき)所、常人は是をしらずして俳諧をいやしき事におもふべしと、口惜(くちをしく)候。」(『芭蕉書簡集』岩波文庫、P,158159

 去来抄の記述がこの書簡を元にしているのは間違いないだろう。

 とはいえ、「心に風雅(ある)もの一度(ひとたび)口にいでずと云事(いふこと)なし。」の部分が「心ざし(ある)ものは(つい)に風雅の口に不出(いでず)という事なしとぞ被存(ぞんぜられ)候。」という芭蕉の言葉に依っているとしても、「かれが風流(ここ)にいたりて本性をあらはせりと也。(これ)より前、越人名四方に高く、人のもてはやすほ句おほし。しかれども(ここ)に至りて、(はじめ)て本性を(あらは)すとはの給ひけり。」という『去来抄』のしつこい記述はむしろ、越人のそれ以前に詠んだ世間に知られた句が、全然大したものではないということを言いたがっているように聞こえる。

 「初而(はじめて)彼が秀作(うけたまはり)候。」という芭蕉の短い言葉だけを根拠に、それ見たことかと越人をおとしめているようで、何だか大人げない。

 それ以前の越人の句といえば、

 

 花にうづもれて夢より(すぐ)に死なんかな

 下下の下の客といはれん花の宿

 おもしろや理屈はなしに花の雲

 何事もなしと過ぎ行く柳哉

 はつ雪を見てから顔を洗けり

 声あらば鮎も鳴くらん鵜飼(うかひ)(ぶね)

 

などの句がある。風雅の心にあふれているものの、表現の仕方が理に走り、わかりやすい分通俗的とも言えるのが越人の持ち味だった。それだけに一般受けする。

 去来はそれに比べれば一般受けするようなわかりやすい表現は苦手で、むしろ抑制のきいた地味だが品の良い表現を好む人だった。

 ところで、この

 

 うらやましおもひ切時猫の恋

 

の句、これは芭蕉も絶賛したのだから、去来も認めざるを得なかったはずだ。(あるいは去来がこのような句を好まないのを知っていて、あえて芭蕉は去来を諭すために越人の句の評を書いたのかもしれない。)

 しかし、『去来抄』にはこの句のどこが優れているのか、まったくその部分が欠落している。それどころか、おそらく去来の弟子の仕業だろうが、「心に風雅有もの一度口にいでずと云事なし。」の部分を出版する際に「心に俗情有もの一度口にいでずと云事なし。」と書き換えてしまっている。これでは芭蕉の意図と正反対だ。

 句の意味は、猫は恋の季節になると毎日のように切なそうな声を上げるが、一度季節が終ってしまうと何事もなかったかのようにのんびりごろごろいいながら昼寝をしている。人間の場合こうはいかない。嫉妬や独占欲にかられ、満たされぬ思いや裏切られた憎しみはどろどろとした情欲となり、恋は盲目というように冷静な判断力を失わせ、時には刃傷沙汰にまでなる。

 恋は本来素晴しいものなのに、人間はいつも愚かにも惚れたはれたで醜い争いを繰り返す。それに比べれば、猫はうらやましい、そういう句だ。恋の素晴しさ、それでいていつも傷付けあってしまう人間の愚かさ、その両面を知るもののみがこの句を理解できる。

 

 ハンバーガーショップの席を立ち上がる

    ように男を捨ててしまおう

                       俵万智

 

の歌もこの心か。

 しかし、世の道徳家はえてして恋の素晴しさを見ずに恋の愚かさだけを見、いたずらに恋を罪悪視し、恋を詠んだ俳諧も同様に卑賎視する。

 「孔孟老荘之いましめ、(かつ)仏祖すら難忍(しのびがたき)所、常人は是をしらずして俳諧をいやしき事におもふべしと、口惜(くちをしく)候。」芭蕉はこの書簡で、むしろこっちのほうを強調したかったのだろう。

 なお、芭蕉の書簡に「姿は(いささか)ひがみたる所も候へども」とあるのは越人の句が最初

 

 おもいきる時うらやまし猫の恋

 

だったことによる。

 近代俳句だと、作品ははじめから活字のテキストとして共時的に表示されるため、語順はあまり問題にならない。しかし、本来()(うた)の一部で、朗々と(うた)い上げられるものだったということを考えると、どういう順序で耳に届くかは重要になる。

 この()は「うらやまし」と来たところで「えっ、(なに)がうらやましんや」と()を持たせ、次に「おもいきる時」が来たところで、「何でやねん、おもいきる時はつらいはずなのにどうしてうらやましいんや?」と思わせて「猫の(こい)」で「あ、なるほど」と落ちにするところが肝心なのである。

 越人はさすがに落ちを先に言うようなことはしなかったが、「つかみ」が今一だったと言うべきか。

 真面目な近代の俳人だと、えてしてこれを、

 

 猫の(こい)思い切るときうらやまし

 

なんてやって、落ちを最初に言ってしまいそうだ。

 

 

6、 (こがらし)二日(ふつか)の月のふきちるか   荷兮(かけい)

   (こがらし)の地にもおとさぬしぐれ哉  去来

 

 「去来曰、二日の月といひ、吹ちるかと働たるあたり、予が句に遥か(まさ)れりと(おぼ)ゆ。先師曰、(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。汝が句ハ何を(もっ)(さく)したるとも見えず。全体の好句也。ただ地迄(ちまで)とかぎりたる(まで)の字いやしとて、(なほ)したまひけり。初は地迄(ちまで)おとさぬ也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1213

 

 夕暮れのようやく陽の沈んだ空にうっすらと針のようにとがった月を見たとき、これが二日の月かと思ったが、あとでカレンダーを見ると旧暦の3日だったということがある。果たして二日の月というのは本当に見えるのだろうか。見えないからこそ「吹き散るか」なのだろう。

 「か」も「かな」も今日の関東の言葉ではどちらも疑問の意味しかない。だから「吹き散るか」と言われると「吹き散るか?」の意味に聞こえてしまう。しかし、かつては「か」も「かな」も詠嘆の意味で用いられていた。もっとも純粋な詠嘆というよりは多少想像を含んだ「!?」のニュアンスが込められている。

 

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

 

の「か」も「かな」と同様に詠嘆の意味だ。この用法は今日でも関西のほうでは「が」や「がな」という濁った形で残っている。「二日の月が吹き散るがな」「山吹が散るがな」「そうでんがな」「そうやが」の「が」「がな」だ。

 荷兮の句はその意味では、あるはずのない月を木枯らしで吹き散ったことにしたもので、月が吹っ飛んだという奇抜な発送、突拍子もない想像の面白さが生命の句だ。

 実際、貞享元年の改暦で朔の判定基準が変わったため、実質的に二日が朔になり、実際に二日の月が見えなくなったというのもあったと思われる。今日でも、細い月が西の空にかすかに見えたと思って旧暦を調べると三日だったりする。二日の月はまず見られない。

 去来の句も、木枯らしに時雨の雨が吹っ飛んで地面に落ちない、という実際にはありえない想像を交えた句だが、月が吹っ飛ぶほどの想像力の飛躍はない。その差から、荷兮の句は世間にもてはやされて、「木枯らしの荷兮」の名までもらったが、去来の句はさしたる話題にもならなかったのだろう。去来自身、荷兮の句の勝れていることは認めていた。それに対し、芭蕉は去来をなぐさめて言ったのだろう。

 芭蕉の評「(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。」というのは、要するに改暦で二日の月が見られなくなったというネタに走った句で、「木枯らし」のもつ伝統的な情(本意本情)を必ずしも的確に捉えていないということなのだろう。

 それに比べれば、去来の句のほうは地味だが、風に砕け散ってゆく冷たい雨粒に、冬の厳しい寒さが感じられ、蓑笠でも時雨を防ぎ切れない旅人の哀れさも感じられる。

 人目を引くような言葉の鋭さはないが、これが良いにつけ悪いにつけ去来の句の持ち味なのだろう。「汝が句は何を以て作したるとも見えず。全体の好句也。」という芭蕉の評価は特に出典も無くという意味では「軽み」の句として評価したのかもしれない。

 

 

7、 春風にこかすな(ひな)のかごの衆

 

 「先師(この)句を評して曰、伊賀の作者あだなる(ところ)(さく)して、(もっとも)なつかしと也。丈草(ぢゃうさう)曰、いがのあだなるを、先師はしらずがほなれど、(その)あだなるは先師のあだならざるがゆへ也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,13

 

 ひな人形というと、芭蕉の時代はまだ紙製のもので、本格的な木彫り人形が登場したり、それに三人官女や五人囃子がつくのはもう少し後の時代になる。その紙製の雛を簡単なむき出しの籠に背負い担ぎ、それを雛の使(つかい)と言ったという。紙だから風が吹いたらすぐに倒れてしまう。だから、籠の衆にお雛様を倒さないようにしっかり守れよ、という句だ。

 「なつかし」とは今日でいう懐かしいとはやや違っていて、「なつく」という語源により近い。慣れ親しんでいて親しみが感じられる、引き付けられる、という意味だ。「あだ」というのは無駄とか、どうでもいいようなことという意味だが、有りがちなことなんだけど親近感を感じるというのが芭蕉の評なのだろう。

 それに対して丈草はこう言う。有りがちだなんてとんでもない。雛を見てこんな句を思いつくのはただものではない。それを有りがちなどというのは芭蕉が天才だからだ。

 

 

8、 清瀧(きよたき)(なみ)にちりなき夏の月

 

 「先師難波(なには)の病床に予を召て曰、頃日園女(このごろそのじょ)が方にて、しら菊の目にたてて見る(ちり)もなしと作す。過し(ころ)ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。(はじめ)の草稿野明(やめい)がかたに有べし。(とり)てやぶるべしと(なり)(しか)れどもはや集々(しふしふ)にもれ(いで)侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,13

 

 元禄七(一六九四)年五月十一日、芭蕉は故郷伊賀へと旅立ち、これが最後の旅となる。伊賀を中心にして伊勢、京都、彦根などの旧来の門人の所を回った芭蕉は、六月十五日頃、嵯峨野の落柿舎に滞在し、この「清瀧や」の句を詠んだ。その後九月八日に芭蕉は伊賀から大阪へと向かう。この旅は西国・九州への旅立ちとされてきたが、直接的には大阪での酒堂・之道との不仲を仲裁に行くという動機もあり、事情は定かではない。いずれにせよ、十月十二日大阪で芭蕉は帰らぬ人となった。

 奈良を過ぎたあたりから既に芭蕉の病状は悪化し、大阪にたどり着くのもやっとのことだった。大阪で、芭蕉は病気を押して俳諧興行を重ね、九月二十七日の園女(そのめ)亭での興行の発句として、

 

 白菊の目に立てて見る(ちり)もなし  芭蕉

 

の句を詠む。白菊は晩秋の季題であるとともに美人にも例えられる。

 園女が果たして美人だったかどうかはともかくとして、そんな気にすることはないじゃないか、白菊ということにしておいてあげて、という句だ。座を盛り上げるための有りがちな冗談とも取れるが、芭蕉も男だから、何か惹かれるものがあったのかもしれない。この興行は不仲だった酒堂・之道も同席し、大勢でにぎやかに楽しんだ芭蕉の最後の興行だった。

 何となく病床で死期を悟った芭蕉は、このときの発句が「清瀧や」の句に似ていることが気にかかったのは当然のことだった。自分の最期を飾る大切な思い出の句が等類というのはいただけない。各務支考(かがみしこう)の『芭蕉翁追善之日記』によれば、芭蕉は「その句、園女が白菊の塵にまぎらはし。是も亡き跡の妄執と思へば、なし替え侍る。」と支考に語ったという。十月九日のことだった。

 そのときの改作が

 

 清滝や波に散り込む青松葉  芭蕉

 

で、前日に詠んだあの有名な

 

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

 

の句とともに芭蕉の絶筆となった。

 

 

9、 すゞしさの野山にみつる念佛哉(ねぶつかな)  去来

 

 「(これ)ハ善光寺如来(にょらい)洛陽真如堂(らくやうしんにょだう)遷座有(せんざあり)し時の吟にて、(はじめ)(かむり)ハひいやりと也。先師曰く、かゝる句は全体おとなしく仕立(したつ)るもの也。又五文字しかるべからずとて、風(かを)ルと改め給ふ。後猿蓑(のちさるみの)撰の時、ふたたび今の(かむり)に直して入句(にふく)ましましけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14

 

 この句は最初

 

 ひいやりと野山にみつる念佛哉(ねぶつかな)

 

だったという。

 「ひいやりと」はいわゆる俳言で、「梅が香にのっと日の出る」だとか「かっくりと抜けそむる歯」のような、やや意表をついたくだけた感じがする言葉だ。それは俳諧としては面白く、本来は嫌うべきではないのだが、内容が仏像の遷座で、儀礼的な句なので、こういう時は「全体おとなしく仕立てる」方がいいというのが芭蕉の意見だった。

 芭蕉は最初

 

 風(かを)る野山にみつる念佛哉(ねぶつかな)

 

としたが、去来は気に入らなかったのだろう。仏の尊さを表わすという点では、「風薫る」の方が優れているであろう。意味的には「ひいやりと」とはかなり違ってしまう。去来は仏の尊さというより、儀式の恙なく進行したほうに重点を置いていたのだろうか。「涼しい」とは「涼しい顔」という言葉もあるように、何事もなく、厄介な暑苦しくなるようなことは何もなく、快適にというニュアンスがある。去来としては、

 

 すゞしさの野山にみつる念佛哉(ねぶつかな)

 

の改案にかなりの自信を持って、自慢げにこのエピソードを記したのだろう。なお、「後猿蓑(のちさるみの)」とは『続猿蓑(ぞくさるみの)』のこと。芭蕉の存命中に支考とともに選考が進められ、元禄七年九月に大阪へ行く際故郷の奈良に置いていったもので、その後の経緯は芭蕉は知る由もなかったし、支考も知らず、元禄十一年の『梟日記』の旅の途中、九州でその完本を知った。

 去来がこの改作を『続猿蓑』に加えたのは芭蕉が奈良へ行く前の落柿舎滞在の時か。

 

 

10、 面梶(おもかじ)明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水(やすゐ)

 

 「猿ミの撰の時、去来曰、(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。先師曰、明石(あかし)時鳥(ほととぎす)といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)手柄(てがら)なし。先師曰、句の(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。(つい)(これ)をのぞき侍る。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14

 

 芭蕉の

 

 野を横に馬(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

 

の句は、『奥の細道』の文脈だと那須野で妖狐玉藻(ようこたまも)の伝説で名高い殺生石(せっしょうせき)を見に行く際の句だ。

 

 「(これ)より殺生石(せっしゃうせき)(ゆく)館代(くゎんだい)より馬にて送らる。此口付(このくちつき)のおのこ、『短冊(たんざく)得させよ』と乞。やさしき事を望侍(のぞみはべ)るものかなと、

 

 野を横に馬(ひき)むけよほとゝぎす」

 

 「やさしき」という言葉は本来両義的な言葉で、「やさしき」は「(やさ)し」から来た言葉で、良いにつけても悪いにつけても「恥ずかしくなるような」という感覚を表わす。

 一般的にこの句は良いほうの意味にとって、こんな田舎のやまがつの類のような馬子でも俳諧をたしなむのかと感激して、一句したためたという意味に解されている。そのため、句自体は状況と切り離されて、独立したものとして読まれている。しかし、それでは「馬牽むけよ」という命令口調が生きてこない。

 この句は明かに馬子に向かって語りかけられている。もちろん芭蕉には、こんな田舎の馬子までが自分のことを知っててくれて、発句の揮毫(きごう)を求めていることに感激するとともに、こんな所でいきなり気恥ずかしい、でも満更でもない、そういう両面を含めて「こんなところで短冊とはまた困ったことを言う人だ。それならせめて郭公の声がする所まで横道に入って連れて行ってくれ」と詠んだのではなかったか。

 これに類する句がもう一つ『奥の細道』の中にある。それは加賀の全昌寺(ぜんしょうじ)の場面だ。

 

 「けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙硯(かみすずり)をかゝえ、(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。折節庭中(をりふしていちゅう)の柳散れば、

 

 庭(はき)(いで)ばや寺に(ちる)柳」

 

 この句も芭蕉が自ら庭を掃いて出たというふうに解されているが、それでは前後との文脈がわからなくなる。この句も那須野の句と同様に考えるべきだろう。

 確かに、お寺に一夜泊めてもらった以上、その庭を掃除して出て行くのは礼儀だろう。しかし、寺の子坊主に揮毫をせがまれたというのであれば、この句はこういう句となる。

 「ああ、庭を掃いて出て行かなくてはならないな、庭に柳が散っているぞ。庭掃きは本当は私の仕事だが、揮毫をしてくれというなら君たち、私の代わりに庭を掃いておいてくれないか。」

 しかし、問題なのは、『去来抄』のエピソードは『猿蓑』の撰の時のものであり、当時はまだ『奥の細道』そのものが書かれていなかった。だから、去来はこの句を前書きも何もなしでただ単に

 

 野を横に馬(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

 

という句として理解していた。ひょっとしたら旅のエピソードとして何か聞いていたかも知れないが、ここでは句の作られた状況は問題になっていない。野水も果たして芭蕉のこの句を知っていて

 

 面梶(おもかじ)明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水

 

の句を読んだのかどうかも定かではない。偶然の一致ではないかと思われる。

 去来の立場からすれば、同じ趣向の句であるとすれば師である芭蕉の句を優先させるのは人情として当然のことだろう。それゆえ「去来曰、(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。」となる。

 それに対して芭蕉の方は冷静だ。「先師曰、明石(あかし)時鳥(ほととぎす)といへるもよし。」明石の時鳥というのもまた一興ではないか。これに対し去来は「来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)手柄(てがら)なし。」明石の時鳥なんて聞いたこともない。ただ馬と舟を入れ替えただけのパクリだ。こんな句を入集させるわけにはいかない、と強情に突っぱねる。

 仕方なく芭蕉はこう言う。「先師曰、句の(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」句をとってみただけではどちらが優れているとも言い難い。あとは野水が明石の時鳥をどんな特別な意味をもって聞いていたかだ。「撰者の心なるべし」と言った以上、最後は去来自身の判断となる。「(つい)(これ)をのぞき侍る。」
 これが果たして芭蕉の意図に沿うものだったのかどうかは定かでない。芭蕉からすれば、確かに「野を横に」の句は旅の一つの思い出であり、愛着がある。だからこそ、野水の句にも何か事情があるのではないかと思うのは当然だろう。外見の類似だけ見て、単なる子弟愛という次元で事が処理されることは望まなかったに違いない。

 なお、明石の時鳥は和歌では「夜を明かし」と掛けて、

 

 ふた声と聞かずはいでじ時鳥

幾夜あかしの泊りなりとも

               藤原(ふじわらの)範光(のりみつ)(新古今集)

 

などの歌にも詠まれているし、水の上の時鳥という趣向は後の元禄六年に芭蕉も、

 

 郭公声横たふや水の上      芭蕉

 

の句を詠んでいる。これは蘇軾(そしょく)の『赤壁賦(せきへきのふ)』の興による。

 芭蕉自身は明石の時鳥に一興あると思ってたのかもしれない。

 

 

11、 君が春蚊屋(かや)はもよぎに(きはま)りぬ   越人(ゑつじん)

 

 「先師語予曰(よにかたりていはく)、句はおちつかざれば真のほ句にあらず。越人が句(すで)落付(おちつき)たりと見ゆれバ、又おもみ出来(いでき)たり。此句(このく)蚊屋(かや)ハもよぎに(きはま)たるにてたれり。月影朝朗(あさぼらけ)などと(をき)て、蚊屋のほ句となすべし。其上(そのうへ)にかはらぬ色を君が代に引かけて歳旦(さいたん)となし侍るゆへ、心おもく句きれいならず。(なんぢ)が句も(すで)落付処(おちつくところ)におゐてきづかはず。そこに尻をゆするべからずと也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1415

 

 

 蚊屋は蚊帳(かや)のことで、「もよぎ」は萌黄(もえぎ)色のこと。「君が春」は同じ越人の

 

 君が世や筑摩祭も鍋一ッ      越人

 

の句の「君」と同様、愛しい人を指す言葉で、主君や天皇のことではない。

 この句は筑摩祭で今まで関係した男の数だけの鍋をかぶって参列する奇習があることを題材にしたもので、見栄を張ってわざとたくさんかぶる人もいる中、あえて鍋一つというところに、愛しい人への気遣いが感じられるという句だ。

 蚊帳がいつでも萌黄色なように、君への思いは変わらないということを、一年の初めの歳旦の誓いとして言い表したのだろう。

 しかし、何で正月にわざわざ夏のものである蚊帳の色の事を持ち出すのか、落ち着きが悪いというのはそういうことだろう。先師芭蕉が言うには、この句は「蚊屋はもよぎに極りぬ」だけで十分変わらない心は表現できているから、これに月の光の朝でも変わらずくっきりしていることなどを風情として添えて、蚊帳本来の季節である夏の句にでもしたほうがよく、変わらない色を恋人への忠誠心に掛けて強引に歳旦の句にするから落ち着くものが落ち着かなくなり、腰を落としたのに尻をもぞもぞと動かしているような句になるというのだ。

 「心おもく」というのは「軽み」を理想とした芭蕉にあってはマイナスの要素で、裏に余計な意味を込めすぎると句は重くなる。たとえば、榎本其角(えのもときかく)

 

   手握闌口含鶏舌

 ゆづり葉や口にふくみて筆始(ふではじめ)    其角

 

についても芭蕉は元禄二年十二月末の去来宛書簡の中で、一方では「天地俳諧にして万代不易(ばんだいふえき)」と持ち上げたにもかかわらず、その一方では「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳(まんざい)の言葉、犬(うつ)童子も知りたる事なれば。只此ままにて指出(さしいだ)したる、簡素にして面白覚(おもしろくおぼえ)候。其上(そのうへ)文字の前書、今は凡士之(ぼんしの)手に落、前書に()人を驚かすべきように而、正道にあらざるやうに候。」と言っている。

 「ゆづり葉を口にふくむ」というのは、万歳の角付け芸人の口上で、当時の人は誰しも知っていたのであろう。だから、この句は前書きなしで、「ゆづり葉や口にふくみて筆始(ふではじめ)」で十分落ち着いているのに、漢文の素養を持ち出して余計な前書きをつけたのが重く感じられたのだろう。

 

 

12、 振舞(ふるまひ)下座(しもざ)になおる去年(こぞ)(ひな)   去来

 

 「(この)句ハ予おもふ処有(ところあり)て作す。五文字古ゑぼし、紙ぎぬ等ハ(いひ)過たり。景物(けいぶつ)下心(したごころ)徹せず。あさましや・口をしやの類ハかなしと、今の(かむり)を置て(うかが)ひけれバ、先師曰、五文字に心をこめておかバ、(しん)(とく)が人の世や(なる)べし。十分ならずとも、振舞にて堪忍有可(かんにんあるべし)と也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,15

 

 発句を詠む時、下七五ができても上五がなかなか決まらないというのはよくあるようだ。9の「すずしさの」の句もそうだったし、11の「君が春」の句もそうだったし、この「振舞いや」の句もそうだ。芭蕉のあの

 

 古池や蛙飛び込む水の音      芭蕉

 

の句も各務支考(かがみしこう)の『葛の松原』によれば最初は「蛙飛び込む水の音」の下七五ができ、榎本其角(えのもときかく)がそれに「山吹や」の上五を付けたが納得せず、最終的に「古池や」の上五を見つけ出したという。上五を何にするかで芭蕉や門人があれこれ思案する場面は、この後にも『去来抄』には何度か登場する。

 当時の雛人形は紙製のものが普通で、紙といってもきらびやかな千代紙で作られたものは、当時のものの少ない質素な家では一気に華やぎ、芭蕉が『奥の細道』の旅立ちのとき、

 

 草の戸も住みかはる代ぞ雛の家   芭蕉

 

と詠んだのはよく知られている。

 最初雛人形は流し雛にしてその年限りのものだったが、元禄の頃ともなると高級な紙製人形が出回り、捨てるのももったいなく何年も同じ人形を飾るようになったのだが、世の中が豊かで贅沢になり、次々と新しいもっときれいで大きな人形が出回ると、新しい人形が上座に飾られ、先代も捨てるにしのびず一緒に飾られたりする。それを「下座になをる」と表現したところに面白さがあったのだろう。

 「下座になおる去年の雛」の下七五ができると、後は上五をどうするかだが、去来はずいぶん悩んだようだ。

 

 古ゑぼし下座になおる去年の雛

 紙ぎぬや下座になおる去年の雛

 

 「古ゑぼし」や「紙衣(かみぎぬ)」は「去年の雛」を詳しく説明しただけで、くどくなる。かといって、

 

 あさましや下座になおる去年の雛

 口をしや下座になおる去年の雛

 

では何か恨みがましく、目出度いひな祭りの句には似つかわしくない。そこで

 

 振舞や下座になおる去年の雛

 

に落ち着くこととなった。

 「振舞」は「身の振り」という意味と「もてなし」という意味があり、客人をもてなすために雛が下座に降りてきたと解する説もある。ただ、『不玉宛去来論書(ふぎょくあてきょらいろんしょ)に「此句ハ家ニ久シキ人ノ衰テ、時メク人ノ出来ルハ、古今ノ習ナリ。今日雛ニ依テ感吟ス。」とあるため、身の振りの意味に取り、新しいきらびやかな雛が来たせいで古い雛は降格し、下座に置かれているのに人生を感じた句と取ったほうがいいだろう。この『不玉宛去来論書』は『去来抄』の元となったものか、このように続く。

 

 「(しか)レドモ五文字ニ(わずらひ)テ,(ある)(はづか)シヤ、口惜(くちをし)ヤ、又ハハゲ烏帽子、桃柳、品々ノ物ヲ取出シ決定(けつじょう)セズ。(つひに)翁ノ高覧ニ入ル。翁(いはく)『五文字(なほ)十分ナラズ。(しか)(この)五文字深ク心ヲ(もとめ)(をけ)バ、信徳ガ<人の代や>ト(いへ)ルタメシニ(おつ)ベシ。(この)分ニテ堪忍可然(しかるべし)』ト定メ給ヒ、『猿ミノ集』ニ入句ス。」(岩波文庫『蕉門名家句選(下)』P,38)

 

 「振舞や」の上五も「十分ならず」ではあるが、「口惜や」ほどの恨みがましくもなく、客観的な言い方なので、苦しまぎれのなは否めないが芭蕉もこれでよしとしたようだ。これだと、年老いて若い者に地位を奪われるのは悔しいけれど、時代が変わってゆくときには古い頭で高い地位に居座るより、新しい感覚を持った有能な若者に地位を譲るのも立派な身の処し方だと、教訓的に解釈することもできる。

 ところで、「信徳が人の代や」とはどういう意味だろうか。最初の五文字が重要だというのはわかる。信徳は京都の人で芭蕉より十歳年上の寛永十(一六三四)年の生まれで、談林時代には芭蕉とも交流があり、信徳らが京都で詠んだ『七百五十韻』に天和元年秋、芭蕉が其角らとともに二百五十韻を次韻した『俳諧次韻』は芭蕉が談林の作風を脱し、独自の天和調を確立した記念すべき作品となった。その信徳の「人の代や」の句というのは、

 人の代や(ふところ)在若恵比須(あるわかゑびす)    信徳(しんとく)

 

を指す。

 「懐に在若恵比須」とは、永遠の若さと幸福の象徴である恵比須様は実は懐の中にあるという、青い鳥シンドロームの句か。人の若さを奪っては自分だけ年をとらない若恵比須は、縁起物として絵に刷られて、売られていた。それを皆それぞれ自分の懐の中にしまって、お互いに若さを奪い合っていれば、結局皆同じ様に歳を取っていくことになる。これだとどこか「蜘蛛の糸」のようだ。

 「人の代や」は今で言えば「人生や」といったところか。

 

 人の代や下座になおる去年の雛

 人の代や蚊屋はもよぎに極りぬ

 人の代や蛙飛び込む水の音

 

 下七五が何であれ、上五を「人の代や」としてしまうと、何かしら人生についての例えや教訓や謎掛けの句となり、便利だが安直な解決策だ。「振舞いや」もこの類と言えなくもない。微妙なところで芭蕉も悩んだのだろう。

 

 

13 、田のへりの豆つたひ行蛍(ゆくほたる)かな

 

 「(もと)トハ先師の斧正有(ふせいあり)凡兆(ぼんてう)が句(なり)。猿ミの撰の時、兆曰、此句(このく)見る処なし、のぞくべし。去来曰、へり豆を伝ひ(ゆく)蛍光(ほたるのひかり)、闇夜の景色風姿ありと、()ふ。兆ゆるさず。先師曰、兆もし(すて)(われ)ひろハん。(さいはひ)いがの句に似たる(あり)(それ)を直し(この)句となさんとて、(つひ)萬乎(まんこ)が句と(なし)けり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,15

 

 凡兆の元の句は定かではない。だから芭蕉がどのように直してこの形になったのかはわからないが、凡兆は気に入らなかったのだろう。凡兆は入門してまもなく去来とともに『猿蓑』の撰を任され、四十一句もの入集を果たした。その『猿蓑』の句には、

 

 豆(うう)(はた)も木べ屋も名処(めいしょ)哉     凡兆

 (やみ)の夜や子供泣出(なきだす)す蛍ぶね     凡兆

 

といった「豆」や「蛍」を詠んだ句もある。

 「豆植る」の句は陶淵明の『田園の居に帰る』に「豆を種う南山の下」とあり、去来の落柿舎を訪れた時、そこに豆が植えてあるのを見て、ここが有名な五柳先生の田園の居かと洒落た句だ。

 「闇の夜や」の句は、当時船で蛍見物をするということが盛んに行われていたが、やはりあたりが真っ暗なので子供が怖くて泣き出したりしていたのだろう。蛍はきれいだけど、闇の中のかすかな光はむしろ人間の心の闇の深さを感じさせ、地獄をも連想させる。凡兆の句は一見何でもなさそうで深い情を隠している。

 それからすると、「田のへりの」の句は、表面的な描写の面白さだけで終わっているように見える。

 去来が「闇夜の景色風姿あり」というのは、闇で何も見えなくても田のへりの豆に導かれて飛ぶ蛍の姿に、無明の闇に苦しむ人間が仏に導かれる様を連想したのかもしれない。芭蕉にも

 

 三十日(みそか)月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐  芭蕉

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥   芭蕉

 

の句もあるが、その闇をスケールの大きな景色で描き出しているのと比べれば、やはり見劣りする。凡兆の「闇の夜や」の句も子供の声に何か奥深いものが感じられるし、それに比べれば「田のへり」はちまちましている。凡兆としては、この句が「闇の夜や」の句とかぶるのが気に入らなかったのかもしれない。

 結局凡兆はこの句の入集を拒否したが、芭蕉がこの句を捨てるには忍びないということで、伊賀の萬乎という人の句にたまたますこしばかり似た句があったのか、強引にその句を直したということにして『猿蓑』に入集させた。元のアイデアは凡兆にあったとはいえ、実質的には芭蕉の句といっていいだろう。ただ、やはり芭蕉の句にしては駄作だし、凡兆の句にしても凡兆のプライドが許さないし、伊賀のうだつの上がらない作者の句としてはよく出来た句にしかならない、中途半端な感じは否めない。

 

 

14、 大歳(おほとし)をおもへバとしの敵哉(かたきかな)   凡兆

 

 「(もと)の五文字恋すてふと置て、予が句(なり)。去来曰、このほ句に季なし。信徳(しんとく)曰、恋桜と置べし。花ハ騒人(さうじん)のおもふ事切也(せつなり)。去来曰、物にハ相応あり。古人花を愛して明るを(まち)、くるるをおしみ、人をうらみ山野に(ゆき)迷ひ侍れど、いまだ身命(しんみゃう)のさたに及バず。桜とおかば、(かへつ)て年の敵哉といへる処、あさまに成なん。信徳(なほ)心得ず、重て先師に語る。先師曰、そこらハ信徳がしる処にあらずト也。(その)後凡兆、大歳を(かむり)す、先師曰、誠に(この)の一日千年の(かたき)なり。いしくも置たる物かなと、大笑し給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1516

 

 これもまた上五に苦しんだ句の一つだ。最初去来が

 

 恋すてふおもへばとしの敵哉

 

 としたが、季題が入っていない。ちなみに「年の(かたき)」とは千年の(かたき)という意味だ。

 信徳は例の「人の代や」の句の人で、この頃既に蕉門を離れていたが、同じ京都ということで去来とは交流があったのだろう。 その信徳の改案だと、

 

 恋桜おもへばとしの敵哉

 

となる。

 「花は騒人のおもふ事切也」の「騒人」は屈原(くつげん)の「離騒(りそう)」から来た言葉で、屈原のような高い志を持った風流人を指す。しかし、古人が花を愛し野山に分け入ったにしても、千年の仇は大げさではないかと去来は言うが、信徳は「そうかなあ」と首をひねるだけだった。まあ、確かに花を愛するというのは基本的に生命を慈しむことだから、それに命を張るということは本末転倒かもしれない。

 この話を芭蕉にしたところ、「そりゃ信徳にはわからないだろう」と言ったというが、このあたり去来は結構信徳をライバル視しているみたいだ。

 この句は結局上五が決まらないままお蔵入りになろうとしていたのだろう。そこに凡兆が現れて、

 

 大歳をおもへバとしの敵哉

 

とする。これは機知というのか、付け句をするときにしばしば前句を誰も思いもよらぬような意味に取り成してびっくりさせるのと同じで、「おもへバとしの敵哉」を求めれば求めるほど憎さも増すという意味ではなく、大晦日の決算の大変さは千年の仇だとして、大晦日の句にしてしまったのだ。これには芭蕉も大受けで、凡兆の機知の非凡さを語るエピソードといえよう。

 

 

15散銭(さんせん)も用意がほ也はなの森     去来

 

 「先師曰、花の森とハ(きき)なれず。名処(めいしょ)なるにや。古人も森の花と(こそ)(まうし)侍れ。(ことば)を細工してかかる(つたな)き事いふべからずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,16

 

 「はなの森」とは桜の花咲く(もり)という意味か。花を見に来る人も神社に来て花だけ見て帰るというのも何なので一応賽銭を用意しているぞ、という顔をしている。散銭は賽銭と同じ。

 ここで問題なのは「花の森」という言い回しで、これは去来の造語か、それとも「春の暮れ」を「暮れの春」というようなよくある当地なのかという点だろう。芭蕉は「森の花」ならわかるし、古人も用いているが「花の森」だとそういう森があるみたいに聞こえるという。微妙なところだ。当時の語感と今の語感は違うだろうし、当事であっても芭蕉の世代と去来の世代との間にギャップがあったのかもしれない。

 言葉は生き物で、時代によって変わってゆく。室町時代には「あたらし」というのは「あらたし」の誤用で、「近頃の若いもんは」みたいなこともあったかもしれないが、今となっては「新しい」を「あらたしい」と読む人はいない。芥川龍之介は「とても」という言葉が肯定文で使われるのに抵抗があったようだ。確かに「とても」は語源的には「とて」プラス「も」で、「さすがの何某とてもかなわざりし」というふうに使われていたのが、「とても」だけで強調を意味する言葉になったのだろう。これとは逆に「全然」は「全く然り」という強調の意味で、戦前はむしろ肯定文の強調に使われていた。今は正しい言葉も百年後二百年後には変な言い回しになっているかもしれない。

 「花の森」は今日であれば「桜の咲く神社」といわないと意味がわからないだろう。ただ「神社の桜」だと意味が違う。その点では「森の花」よりは「花の森」の方がわかりやすい。だが、芭蕉にはこれが「桜神社」のように響いたのだろう。

 

 

16 月雪や(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)

 

 「去来曰、猿ミの撰ノ(ころ)伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど(あはれ)鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)。越が句入集(につしふ)いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句(はたらき)見へて、しかも風姿(あり)。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣(はちたたき)の俗体を(もつ)て趣向を(たて)俗名(ぞくみゃう)を以て句をかざり侍れば、(もっとも)遠慮(あり)なんと(なり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,16

 

 鉢叩き(鉢扣)とは京都市中を陰暦の十一月十三日から大晦日まで、空也念仏を唱えながら托鉢して歩く修行僧だが、六波羅蜜寺や空也堂付近に形成された散所に住み、身分としては士農工商の下の非人の身分にあった。芭蕉も元禄二(一六八九)年の十二月二十四日(旧暦)に、この鉢叩きを見ようと去来亭を訪れたが、風雨が強く、いくら待っても来ないので、去来が

 

 (ほうき)こせ真似ても見せむ鉢扣(はちたたき)    去来

 

と詠んだことが、去来の『鉢扣ノ辞』に描かれている。

 その鉢叩きも普段は杖の先の茶筅を挿し、茶筅やササラ竹などの竹細工を製造販売して生活していた。僧の格好をしている者もいたが、萌黄に鷹の羽に紋のついた衣を着ていることが多かったことから、越人はそのきりっとした茶筅売りの姿と空也念仏を唱える哀れな修行僧の姿との落差を面白く思い、

 

 月雪や(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)    越人

 

と詠んだのだろう。しかし、同じことを考える人は他にもいて、『猿蓑』の撰のとき既に伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派の句に

 

 弥兵衛(やへゑ)とハしれど(あはれ)鉢扣(はちたたき)

 

というのがあり、いわばネタがかぶってしまったわけだ。

 『月雪や』という上五は雪の夜の鉢叩きの姿が目の前にいるかのようで、その点では『哀れや』という言葉と違い、まさに『風姿有』というところだろう。

 正岡子規は蕪村を絵画的で芭蕉は地図的だと言ったが、芭蕉は決してその姿が眼前にあるかのような姿ある句を好まなかったわけではない。ただ、芭蕉の場合、それを最低限の言葉で表現しようとするところが『地図的』だといことなのだろう。その点では、「月雪や」の越人の上五は芭蕉の好むところなのだろう。

 結局、芭蕉は越人の句の「月雪や」の上五に風情があって、単に「憐れや」ですませてしまっている伊丹の句よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した。

 さて、先の『鉢扣ノ辞』だが、結局その日はあきらめて寝たのだけど、夜明けになって風雨も収まり鉢叩きの声を聞くこともできた。このときのことを後に芭蕉は

 

 長嘯(ちゃうしょう)の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

と詠んだという。

 長嘯は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたる木下(きのした)(かつ)(とし)のことで、古今伝授を受けている細川幽斎に和歌を学び、関が原の合戦以降は京都東山に隠棲していた。その長嘯の歌に

 

 鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声は

    冬の夜さへも鳴く郭公(ほととぎす)

 

というのがあり、芭蕉もその歌を思い起こしたのだろう。

 

 

17 切れたるゆめハまことかのみのあと 其角(きかく)

 

 「去来曰、其角ハ(まこと)に作者にて侍る。わづかにのみの(くひ)つきたる事、たれかかくハ(いひ)つくさん。先師曰、しかり、かれハ定家(ていか)卿也(きゃうなり)。さしてもなきことをことごとしくいひつらね侍るときこへし。評詳に似たり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1617

 

 「切れたる」という言葉は土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』に「人を殺す、切る、しばるなどの類は容赦すべし」とあるように、本来俳諧の題材としては避けるべきものとされていた。今でいえば暴力シーン規制のようなものとして理解すべきであろう。その意味では初句にいきなり「切れたる」というのはいわゆるあぶない表現だ。

 それを「夢」で受けることで、「何だ夢だったのか」と安心させる。しかし、そのあと「まことか」とくることで、またまたヒヤリとさせる。最後に蚤に刺されただけだったか、ということで落ちになる。まったく其角らしい洒落の強い句だ。今日で言えば「夢落ち」というのか。

 ねこぢるの漫画に遠足に行ったら毒蛾の大群に襲われ、もはやもう駄目かと思った時目が覚めて、一匹の蛾が窓の外に飛んで行ったというものがあったが、それに近い。

 夢というのはしばしば外界の刺激に影響される。敵の弾丸の降ってくる中で必死に逃げ惑っていたところ目が覚めたら、雨がばらばらとトタン屋根を打ちつけていた、というような類だ。

 この句はそれで面白いし、私は其角の傑作の一つだと思う。去来や芭蕉にしても、決して馬鹿にして言っているのではないのだろう。むしろ、こんな発句もあるのかという驚嘆を含めながら、言っているのだろう。芭蕉の「定家の卿也」の発言も決して定家や其角をおとしめる意図ではなかったに違いない。

 定家といえば三夕(さんせき)の一つとして有名な

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

    浦の苫家(とまや)の秋の夕暮れ

                  藤原定家

 

の歌がある。何もない浦の苫家を「花も紅葉もなかりけり」ということで、逆説的にないはずの桜や紅葉の艶やかな美しさを見せてしまう。何もないうら寂しい景色も、この一言で金屏風に飾られたようなきらびやかな風情へと変貌する。其角が「定家の卿也」というのも、そういう部分で似通っているということではないか。

 

 春の夜の夢の浮き橋とだえして

    峰にわかるるよこぐもの空

                  藤原定家

 

の歌にしても、単に山に雲がかかっているという情景から想像力をたくましくして、天女との契りまで想像させる。

 しかし、芭蕉の好みはそれとは逆に、何もない、その何もない中のかすかな色を求めるところにあった。そのことは『奥の細道』の(いろ)の浜の句にも現われている。

 

 寂しさや須磨(すま)にかちたる浜の秋   芭蕉

 

「かちたる」という表現は明かに歌合わせを意識したもので、

 

   左勝

 汐そむるますほの小貝拾ふとて

     色の浜とはいふにやあるらむ

               西行法師

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

     浦の苫家の秋の夕暮れ

               藤原定家

判、種の浜の寂しさは須磨明石に勝ちたり

 

という意識があったのではなかったかと思う。

 

 

18 おととひはあの山こえつ花盛(はなざかり)     去来

 

 (これ)ハさるミの二三年前の吟也(ぎんなり)。先師曰,この句いま聞く人あるまじ。一両年を(まつ)べしと也。その後杜国(とこく)(ともがら)と吉野行脚(あんぎゃ)したまひける道よりの文に、(あるい)ハ吉野を花の山といひ、或ハこれハこれハとばかりと聞えしに魂を奪はれ、又ハ其角(きかく)が櫻さだめよといひしに気色(けしき)をとられて、吉野にほ句もなかりき。只一昨日(ただをととひ)ハあの山こえつと、日々吟じ(ゆき)侍るのミ也。その後(この)ほ句をかたり、人もうけとりけり。今一両年はやかるべしとハ、いかでかしり給ひけん。予ハ(かへつ)てゆめにもしらざる事なりけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,17

 

 芭蕉は作家としてだけでなく、プロデューサーとしてもきわめて有能だったようだ。古池の句も支考(しこう)の『俳諧十論』に、

 

 「天和の初ならん、武江の深川に隠遁して、古池や蛙飛び込む水の音、といへる幽玄の一句に自己の眼をひらきて、これより俳諧の一道はひろまりけるとぞ。」

 

とあり、これに従うなら、天和(てんな)の終わり、つまり天和元(一六八一)年か天和二(一六八二)年ごろに出来ていたという。

 

 これに対し、復本一郎は『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)の中で、やや疑問は残るものの、鈴木勝忠が貞享元年(一六八四)二月中旬と推定した書簡を掲げている。

 

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又(よろしく)御世話(たのみ)入候。

 知足様                  芭蕉」

 

 この手紙を信用するなら、古池の句の完成は貞享元年春で、そして、この手紙では同時に、

 

 山吹や蛙飛び込む水の音

 

という原案があったことも裏づけられることになる。

 だが、芭蕉はそれをすぐに発表はせず、貞享(じょうきょう)元(一六八四)年の秋には『野ざらし紀行』の旅に出、談林(だんりん)調、天和調(虚栗(みなしぐり)調)に続く新風を名古屋、上方(かみがた)に広め、貞享二(一六八五)年夏に江戸に帰ってから『蛙合(かはづあはせ)』興行を企画する。それは門人たちに蛙の発句を作らせ、二十番の句合を行うというものだった。ここでは去来も京都から参加しているし、芭蕉とともに『奥の細道』を旅する曾良(そら)もデビューさせている。

 そして、この『蛙合』を貞享三(一六八六)年三月に刊行し、古池の句はその巻頭を飾る句として華々しく世間の目にするところとなった。しかも同じ三月、名古屋では荷兮(かけい)編の『春の日』が刊行され、そこでもこの句が載り、さらに京都では西吟編の『庵桜』にも「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で発表され、江戸、名古屋、京都同時発表された。

 芭蕉のこのキャンペーンは的中し、古池の句は「木を樵るをのこ、(すなどり)すをふなも、五七五の文字を並べ、犬うつ童、羽根つく婦女も、翁と聞けば、此叟としれり」(『ももちどり』)というくらいの空前の大ヒットとなった。

 この「おととひは」の句のエピソードでも芭蕉の一流の仕掛人振りがうかがわれる。

 『猿蓑(さるみの)』の二、三年前というのは、おそらく貞享四(一六八七)年の春で、去来が江戸に下って深川にいた芭蕉と会った時のことだろう。

 

 久かたやこなれこなれと初雲雀    去来

 

の句を発句とした興行も行われている。

 この年の冬に芭蕉は『笈の小文』の旅に出て、翌貞享五(一六八八)年の春、杜国(とこく)とともに花盛りの吉野を尋ねる。そこで芭蕉はこう書き記す。

 

 「吉野の花に三日とどまりて、(あけぼの)黄昏(たそがれ)のけしきに向ひ、有明(ありあけ)の月の(あはれ)なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政(せっしょう)公のながめにうばはれ、西行の枝折(しをり)に迷ひ、かの貞室(ていしつ)が是は是はと(うち)なぐりたるに、我いはん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたるいと口をし。」(『笈の小文』)

 

 「摂政(せっしょう)公のながめ」とは

 

 昔たれかかかる桜のたねをうゑて

   吉野を春の山となしけむ

             藤原良経(ふぢはらのよしつね)(『新勅撰集』)

 

の歌で、去来の言う「或ハ吉野を花の山といひ」は、この「春の山」の記憶違いだろう。「これハこれハとばかり」は安原貞室(やすはらていしつ)

 これはこれはとばかり花の吉野山   貞室

の句を指す。

 芭蕉が吉野で花の句を詠まないというのは事前に予定していたことだったのだろうか。貞享五年の秋に芭蕉は『笈の小文』の旅から江戸に戻り、その年の秋、元号が元禄に改まり、翌元禄二年の春になると、「おとといは」に芭蕉の吉野の旅のイメージが重なり、去来のこの句が一躍脚光を浴びることとなる。芭蕉にはその後のこうした展開が読めていたのだろう。恐るべき流行仕掛人だ。

 

 

19 病鴈(びょうがん)のよさむに落て旅ね(かな)     はせを

  あまのやハ小海老(こえび)にまじるいとど哉  同

 

 「さるミの撰の時、此内(このうち)一句入集(につしふ)すべしト也。凡兆曰(ぼんてういはく)病鴈(びょうがん)ハさる事なれど、小海老に(まじ)るいとどハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と(こふ)。去来ハ小海老の句ハ珍しいといへど、(その)物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く(おもむき)かすかにして、いかでか(ここ)を案じつけんと論じ、(つい)に両句ともに(こう)入集(につしふ)す。其後(そのご)先師曰、病鴈を小海老などと同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1718

 

 芭蕉はよく弟子たちに対してこういう謎掛けをするようだ。それは弟子たちの力量を試す意味もあるのだろうが、それだけではなく自分の句がどういう反応で受け止められるのかを絶えず気にしながら句を作っている証拠でもあるだろう。
 この二句は元禄三(一六九〇)年の九月に近江の堅田で詠んだもので、『幻住庵の記』の執筆の頃の句だ。ちょうどこの年の三月には

 

 ()(もと)(しる)(なます)桜哉(さくらかな)  芭蕉

 

の句を詠み、「軽み」の作風へと向かおうとしていた。その意味でも凡兆や去来はその「軽み」というのがどのようなものなのか気になっていた時期だろう。この二句は弟子が軽みの意味をどのように理解しているか試す目的もあったのかもしれない。

 「病鴈の」の句はかなり大げさな感じがする。病気の鴈が寒さで落ちてという表現は、あたかも旅人が大病でも煩って旅寝の枕に息も果てんとするような印象を与える。それに比べると「あまのやハ」の句は海老の中に、まったく関係ないカマドウマが混じっているといったもので、特に意味のなさそうな句に見える。強いて言えば、(あま)の苫屋によそ者の旅人がおじゃましているくらいの寓意が読み取れなくもないが、海人が獲ってきた海老の置いてある所にはどこからやってきたかカマドウマが混じってたりするという、海人の屋あるあるだと見ていい。

 凡兆はこの引っかけ問題に見事にかかってしまったようだ。躊躇なく「あまのやハ」の句の新味を取る。

 去来も凡兆ほどストレートにではないが同じことに惑わされている。「あまのやハ」の句は確かに新しいが、誰でも作れそうな凡句のようにも見える。それに対し「病鴈の」の句は格調高く、新味には欠けるが容易に作れるものではないとして、両方とも一長一短でどちらとも決め難いと判断する。

 実は芭蕉の「軽み」というのは内容が軽いか重いかの問題ではない。それは付け合の軽さであり、いわば出典のある伝統的な言い回しをより新しい言い回しに変えてゆく技法上の問題だった。

 病鴈の旅寝の句もいかにも古典に出典がありそうに見えるが、実はそれ程出典関係に密着しているわけではない。その意味ではこれも立派な「軽み」の句だった。「あまのやハ」の句もその意味では軽みなのだが、問題は句として内容的にどちらが優れているという点だ。

 

 

20 岩鼻(いははな)やここにもひとり月の客  去来

 

 「先師上洛(じゃうらく)の時、去来曰、酒堂(しゃだう)(この)句ヲ月の猿と(まうし)侍れど、予ハ客(まさり)なんと(まうす)。いかが侍るや。先師曰、猿とハ何事ぞ。汝此(なんぢこの)句をいかにおもひて作せるや。去来曰、明月に山野吟歩(さんやぎんぽ)し侍るに、岩頭(がんとう)一人の騒客(さうかく)見付(みつけ)たると申。先師曰、ここにもひとり月の客ト、(おのれ)名乗出(なのりいで)たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。此句ハ我も珍重して、(おひ)小文(こぶみ)書入(かきいれ)けるとなん。予が趣向ハ(なほ)二三等もくだり侍りなん。先師の意を(もつ)て見れバ、(すこし)狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となし■■(て見)れバ、狂者の(さま)もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。

 去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿(なかば)にて遷化(せんげ)ましましけり。此時(このとき)(まうし)けるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと(うかが)ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。(なんぢ)過分の事をいへりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,1819

 

 月の猿というと、水に映る月を取ろうと猿が水を引っ掻き回すという故事があり、当時の画題にも盛んに用いられていた。

 この場合の猿はテナガザルであり、ニホンザルではない。テナガザルは今でこそ東南アジアや海南島などに生息するにすぎないが、かつては中国の長江以南に広く分布していたという。テナガザルは明け方などにテリトリーを示すロングコールをし、その声が哀愁を帯びていてむせび泣くような声であることから、古来風雅の題材として珍重されてきた。

 その猿が月に手を伸ばす様は、単に知恵の足らぬ猿の滑稽ということではなく、高逸な隠士の果たせぬ夢を象徴するものでもあった。榎本其角(えのもときかく)の句にも、

 

 声かれて猿の歯白し峯の月     其角

 

というのがある。もっとも当時としては猿の月は使い古された月並みの感もあり、芭蕉は同じ情緒をより卑近なもので、古典の出典の重みを排した軽みの句でこう返したという。

 

 塩鯛(しほだひ)の歯ぐきも寒し魚の(たな) 芭蕉

 

 そういうわけで、去来の、

 

 岩鼻(いははな)やここにもひとり月の客  去来

 

の句を、

 

 岩鼻やここにもひとり月の猿

 

としたらどうかという酒堂(しゃどう)の案は、決してその趣向自体が無風流というわけではない。岩鼻の猿という題材は、後の長澤芦雪(ながさわろせつ)の『巌上白猿・水辺群猿図屏風』にも描かれている。

 もっとも、江戸中期になるとテナガザルとニホンザルが混同され、ここでは白いマカクが描かれている。しかし、無風流ではないとはいえ、句の展開からいって「岩鼻やここにもひとり」という言葉からどんな風狂者だろうと想像しているところへ「猿」と落とされてしまうと拍子抜けする。「岩鼻の猿やここにも月の客」ならまだマシだろう。芭蕉が「猿とハ何事ぞ」といったのもそういうことだろう。「岩鼻やここにもひとり」の上七五が想像力を刺激するだけに、その期待に応えなくてはなるまい。

 そこで芭蕉はあらためて去来にこう尋ねる。「 汝此(なんぢこの)句をいかにおもひて作せるや。」去来は岩頭に一人の騒客を見つけたと説明する。騒客(そうかく)とは騒人(そうじん)と同様、屈原(くつげん)の『離騒(りそう)』の「騒」の字を取ったもので、世に受け入れられず隠遁生活を送る中に風流を見出す風流人のことだ。しかし、他人を見て「あっ、あんな岩鼻の先にも一人の客がいる」では、結局他人の風流であって自分の風流ではない。「ここにもひとり月の客ト、(おのれ)名乗出(なのりいで)たらんこそ、幾ばくの風流ならん。」と、まさに芭蕉の言うとおりだ。

 ところで、正岡子規は『飯待つ間』の「句合の月」というエッセイの中で、

 

 「判者が外の人であったら、(はじめ)から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐(へきごどう)というのだから、先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。」

 

と書いている。かぐや姫の句は知らないが、後者はこの去来の句のイメージだろう。(かぐや姫の句は、あるいは、

 

 月に親く天帝の壻に成たしな   才丸

 

の句を指すのか。)

 なお、ここで登場する芭蕉の自撰句集とされる『笈の小文』集はいまだに実在が確認されていない。今日『笈の小文』と呼ばれているものは、芭蕉の貞享四(一六八七)年から五(一六八八)年の吉野の旅をつづった紀行文を指すが、この題名は宝永四(一七〇七)年に乙州(おとくに)が付けたものが今日までそう呼び習わされているにすぎず、本来この紀行文にタイトルはなかった。

 『去来抄』では「おととひはあの山こえつ花盛(はなざかり)」の所にには「吉野行脚(あんぎゃ)したまひける道よりの(ふみ)」とあるだけで、タイトルは示されていない。

 いわゆる芭蕉七部集はすべて門人の編纂によるもので、芭蕉が編纂した集は今日残っていない。果たしてこの幻の『笈の小文集』は存在したのか、いまだに謎である。ひょっとしたら昭和に入ってから曾良の随行日記が発見されたり、最近になって自筆本の『奥の細道』が発見されたみたいに、将来発見されることがあるのかもしれないが、今の所は何とも言えない。

 

 

21 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草(ぢゃうさう)

 

 「先師難波(なには)病床に人々に夜伽(よとぎ)の句をすすめて、今日より我が死期(しご)の句(なり)。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども(おほく)侍りけれど、ただ(この)一句のミ丈草出来(でき)たりとの(たま)ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19

 

 芭蕉が没したのは元禄七(一六九四)年十月十二日(さる)の刻(午後四時ごろ)だった。あの有名な

 

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

 

の句が詠まれたのは四日前の十月八日のことで、翌九日には支考(しこう)を呼んで、以前に詠んだ

 

 大井川(なみ)に塵なし夏の月    芭蕉

 

の句が

 

 白菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉

 

の句に似ているということで、

 

 清滝や浪に散りこむ青松葉   芭蕉

 

に変えるといった。この時「是も亡き跡の妄執と思えば、なし替え侍る」といい、既に死を覚悟していたようだ。

 厳密にはこの句が芭蕉の最後の句ということになるが、改作であるため、一応世間で通っているように、「旅に病んで」の句が芭蕉の絶筆といっていいだろう。ただ、辞世の句かどうかということになると、特に死を意識せずに単に病中の感想を述べたものか、死してなお魂は枯野の道祖神になるという辞世の意味を持ったものなのか、微妙なところではある。私にはもうこのときには芭蕉は死の覚悟を決めていて、病気が治るという希望はもはやなかったように思えるので、「旅に病んで」の句を芭蕉の辞世の句といってもいいと思う。

 この時支考に示したもう一つの案、

 

旅に病んでなお駆け巡る夢心

 

の句の方は季語もなく、辞世を意図してあえて無季にしたのかもしれない。

 翌十月十日、芭蕉の容態が急に悪化し、三通の遺書を書くことになる。そして、この『去来抄』の記述のように、居合わせた門人に夜伽(よとぎ)の句を詠ませたのはその次の日の十月十一日、死の前日だった。

 

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

 おもひ(よる)夜伽もしたし冬ごもり   正秀(まさひで)

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

 

他にも乙州(おとくに)惟然(いぜん)、木節、の句が残されている。

 このときの去来と正秀の句は「冬ごもり」を季語に選んで無難に作ったといっていいだろう。正秀はストレートに夜通し世話したいと詠み、去来は「あまりすする」つまり食べ残しを食べるというところにそばに仕えながらも謙虚さを示した。支考の句はよくわからないが、何か事情があって叱られて追い出された寒さを詠んだようだ。しかし、芭蕉が気に入ったのは丈草の句のみだった。

 丈草の句は一見そのまんまを詠んだようだが、やくわん(薬缶)の一語に病床の情景が目に浮かぶし、うずくまって寒さに震える姿には、師匠のことを心配する心情が読み取れる。あるいは悪寒に震える病人に一体化しているかのような印象すら与える。

 去来が「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじ」と反省しているように、「冬ごもり」の興に頼り「あまりすする」という景を探ることで、その場のありのままの情を離れ、うわべを取り繕った社交儀礼になってしまったところに敗因があったといえよう。差し迫った状況であればあるほど小細工をせずありのままに詠むべきだったのだろう。

 

 

22 下京(しもぎゃう)や雪つむ上のよるの雨    凡兆(ぼんてう)

 

 「 (この)() 初冠(はじめかむり)なし。先師をはじめいろいろと (をき)侍りて、 此冠(このかむり) (きは)め給ふ。凡兆あトこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆 (なんぢ)手柄に此冠を置べし。 (もし)まさる物あらバ 我二度(われふたたび)俳諧をいふべからずト也。去来曰、 (この)五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、 是外(このほか)にあるまじとハいかでかしり侍らん。 此事(このこと)他門の人 (きき)侍らバ、腹いたくいくつも冠 (をか)るべし。 (その)よしとおかるる物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る (なり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19

 

 これも例によって上五ネタだが、上五というのは下七五の隠された意味や情を引き出すだけでなく、そこに姿を与えるということも重要になる。たとえば、

 

 さびしさの岩にしみこむ蝉の声   芭蕉

 いづくにかたふれ臥すとも萩の原  曾良

 

では姿が不足する。

 

 閑さや岩にしみ入る蝉の声     芭蕉

 行き行きてたふれ臥すとも萩の原  曾良

 

の方がすぐれていることは言うまでもない。「さびしさや」は単なる情だが、「閑さや」は客観的な状態でありながら寂しさを感じさせる。「いづくにか」は思考上の仮定にすぎないが、「行き行きて」は何処にいくとも知れぬ旅人の姿を連想させる。客観的な姿を持ちながら下七五の情を引き出すような、そういう上五が芭蕉の理想としたところだろう。

 さて、この「雪つむ上のよるの雨」という下七五の場合だが、芭蕉自ら「兆 (なんぢ)手柄に」と言っているように、この七五だけで十分な俳味があり、新味もありすぐれた句であることを認めている。だからこそ、門人たちはそれにふさわしい上五を探し、四苦八苦していたということをしっかりと押さえておこう。

 「雪つむ上のよるの雨」は一見単なる天候上の描写だが、いろいろその情を探ることができる。昼間降り積もった雪も、夜には雨に変わり、翌朝には跡形もなく融かしてしまう。そこには二通りの意味が考えられる。一つは『スノーマン』の童話のように、雪の積もった美しくも幻想的な世界が、翌朝になると溶けてなくなっているという、雪を惜しむ情。もう一つは冷たくも苦しい雪が次の日には消えていて、助かったというやや現実的な心情。おそらく、その両方をこめて、時の移ろいゆく早さと過去にこだわらず前向きに進む気持ちが表現されたとき、句はもっとも深い意味を持つだろう。

 門人たちにどのような案があったのか、残念ながらここには書かれていない。それがわかれば、この七五の持つ当時の意味はよりはっきりしただろう。それがわからないから今は推測になるが、「下京や」の上五は京都の下町の活気のある様を思い浮かべながらも、そこに着実に時間が動いてゆき、昨日の喜びや苦しみも夜の雨が押し流してゆく、そういう情を引き出したかったのだろう。それなら江戸や大阪でもよかったかも知れない。ただ、雪景色の風情が似合うと言えば、京都には及ばないだろう。

 もちろん京都盆地では上京と下京では温度差があって、上京は雪が積もってるのに下京は途中で雨になって雪が積もってないという「京都あるある」もあったのだろう。

 しかし、芭蕉のこの「 (もし)まさる物あらバ 我二度(われふたたび)俳諧をいふべからず」という自信はどこから来たのか。去来の解釈によれば、これは「ふる、ふらぬ」の論(31、「つかみ逢ふ子どものたけや」の条を参照)と同様、この一語に極まるというのは理屈で説明のつくようなものではなく、他の上五を取り上げて、これでもいいじゃないかみたいになると、結局揚げ足取りの議論に陥ってしまうといったところだろう。これがいいと思ったら、この一語に俳諧師生命を賭けてもいいという思い切りの良さというのも大事なのだろう。

 

 

23、 (ゐのしし)のねに(ゆく)かたや(あけ)の月   去来

 

 「此句(このく)(うかが)ふ時、先師(しばら)(ぎんじ)兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ(あやま)るハ、先師といへども帰り(まつ)よご(ひき)ころの気色(けしき)しり給はずやと、しかじかのよしを(まうす)。先師曰、そのおもしろき(ところ)ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿(いるしか)跡吹(あとふき)おくる荻の上風(うはかぜ)とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく(まで)かけり(さく)したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也。其後(そののち)おもふに、此句ハ、(ほとと)(ぎす)鳴つるかたといへる後京極の和歌の同案にて、弥ゝ(いよいよ)手柄なき句也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20

 

 ここで芭蕉の言葉の中で引用されている、

 

帰るとて野べより山へ入鹿(いるしか)

跡吹(あとふき)おくる荻の上風(うはかぜ)

 

の歌は『新古今集』の秋上にある、

 

 明けぬとて野べより山へ(いる)鹿の

    跡吹(あとふき)おくる萩の下風

           源左衛門督通光(みなもとのさえもんのかみみちみつ)

 

の歌と思われる。鹿を去って行く恋人の面影とも取れるが、秋に分類されているので、「夜興引(よごひき)」つまり犬を使った夜の猟の歌とも解釈されていたのだろう。おそらく芭蕉はそう解釈していて、ここでこの歌を證歌として示したのだろう。

 去来の句はそれを鹿ではなく猪に変え、有明の月の景を添えたものだ。これは中世の連歌の、

 

    罪のむくいもさもあらばあれ

 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ  救済(きゅうせい)法師

 

を彷彿させる。

狩りで獲物を必死に追っていた人が、雪の夜明けのこの世のものとも思えぬような美しい気色に、ふと狩られる動物の気持ちがわかったような気がして殺生(せっしょう)の罪のことを気にかけるといったものだ。

 去来はたぶんにこの句に相当の自信を持っていたのだろう。だから、芭蕉がこの句をしばらく吟じてみて良い返事がなかったので、最初は明け方の「夜興引」の情がわからないのかと思って説明したところ、むしろ「俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也」という、つまり俳諧にふさわしい新しさ、面白さに欠ける、という返事だった。要するに、今の言葉でいえばベタだということだ。

 それでも去来はすぐには納得しなかったのだろう。後になってこれは

 

 時鳥なきつる方を眺むれば

    ただ有明の月ぞ残れる

             藤原実定

 

の等類だということで納得した。

 しかし、芭蕉がこの句に物足りなさを感じたのは、自身に

 

 明けぼのや白魚(しらうお)白きこと一寸

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)

 

といった、同様の殺生の罪に目覚める句があったからではなかったか。

狩が終わって猪がねぐらに帰ってゆく、その生命の脈動に共鳴したまではいい。そこに「明けの月」という古来より言い古された言葉を使ったことが面白くなかったのではなかったか。それが結局ベタということになってしまったのだろう。

 ところで、この最近よく使われるベタという業界言葉だが、これはおそらく俳諧で付きすぎることを嫌うところから来た言葉だろう。つまりベタッとついているベタ付けというところから派生した言葉だろう。

 しかし、狩場に明けの月は当時としては付きすぎだったにせよ、今日見れば狩場そのものが我々の日常から遠のいてしまったため、むしろ「猪の」の句はかえって新鮮な感じもする。少なくとも私はそんなに悪い句には見えないし、平凡には見えない。むしろ去来の傑作のひとつに数えてもいいように見える。

 

 

24 つたの葉───     尾張の句

 

 「(この)ほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯(まで)(ふき)かへさるゝと(いふ)句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂(までいひ)つくす物にあらずト也。支考傍(しこうかたはら)(きき)て大ひに感驚し、初てほ句トいふ物をしり侍ると、この(ごろ)物語り有り。予ハ(その)時なをざりに聞なしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意(ほい)なし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20

 

 蔦の葉の句は荷兮(かけい)

 

 (つた)の葉は残らず風のそよぎ哉

 

の句を指すと言われている。芭蕉の軽みを受け入れず『阿羅野(あらの)』の風体にこだわり、『阿羅野後集』を編纂し、去来とも仲の悪かった荷兮の句だけに、あえて忘れたことにしたのだろう。この句は『続猿蓑』には

 

 蔦の葉や残らず動く秋の風

 

となってい、荷兮編の『阿羅野後集』では先の形に改作されている。

 秋風が吹けば峯に生うる蔦の葉は一つ残らず吹きかえされる、という情景を描写した句で、もし芭蕉の評がなかったなら写生句の見本とも見えるような句だ。

 しかし、当時の句の作り方からすれば、蔦の葉と言うだけで、秋風が峯を吹き渡り、葉が裏返されてゆく情景が思い浮かんだのだろう。「くまぐま迄謂つくす物にあらず」とはそういう意味だろう。

 芭蕉の時代は一般的に精密な描写というものにそれほど興味がなかったようだ。大事なのは感情を呼び起こすことで、言葉は感情を呼び起こすのに最低限な描写をすれば足りる。同時代の伊藤仁斎の漢詩の評にも、

 

 「後人(こうじん)事無(ことの)うして()いて作るが(ごと)きに(あら)ず。其の感托(かんたく)する所()うして、(いたず)らに光景(こうけい)流連(りゅうれん)し、物象(ぶっしょう)模冩(もしゃ)する者は、(かた)どり(がた)きの(けい)(うつ)して、目前(もくぜん)()るが如しと(いえ)ども、畢竟徒作(ひっきょうとさく)のみ。風雲月露(ふううんげつろ)山川草木(さんせんそうもく)()と天地(おのずか)()るの(もの)、詩人の之を模冩(もしゃ)することを(もち)いず。唯杜甫平生(ただとほへいぜい)国を(うれ)え民を(あい)し、忠憤感激(ちゅうふんかんげき)(いつ)皆之(みなこれ)を詩に(ぐう)す。世詩史(よしし)と称す。」(岩波文庫『童子問』P,235

 

とある。

 くだくだと描写せずとも、それを眼前に見るがごとく想起させるというのは、結局読者の間にある共通の記憶に訴えることによって可能になるもので、それがあまりに使い古された題材だと月並み(ベタ)ということにもなる。

 蔦の葉の句は「蔦に風」と省略できるにしても、その点では月並みを免れない。後の五七、あるいは七五でよほど新味がないと厳しいだろう。

 芭蕉の場合は、使い古された題材だけでなく、誰もが目にとめたことのあるような卑近なものを、(たとえば古池の蛙や餅に糞する鶯や、魚屋の塩鯛や花見の汁や膾のようなものを)ふっとまったく違う風雅の文脈の中に取り込んでしまう。それを正岡子規以降の近代の人は写生と考えているようだが、新味なくただ描写すればいいという発想になってしまうと、先の荷兮の句のようになってしまうだろう。

 さて、去来としては、この句のことを先師に語ったのは自分だということを言いたいらしい。ところがこのことを去来はすっかり忘れていて、最近になって横で聞いていた支考が多分何かの本にこのことを芭蕉の句の本質にかかわる重要な問題として「初てほ句トいふ物をしり侍る」と語ったのだろう。ライバルの支考に先を越されたことで、去来としては面白くない。どうも俳論よりそっちのほうに比重がかかっている。

 

 

25、 下臥(したぶし)につかみ(わけ)ばやいとざくら

 

 「先師路上にて語り曰、此頃其角(このごろきかく)が集に此句有(このくあり)。いかに思ひてか入集(につしふ)しけん。去来曰、いと櫻の十分に咲たる形容、能謂(よくいひ)おほせたるに侍らずや。先師曰、謂應(いひおほ)せて何か(ある)(ここ)におゐて(きも)(めい)ずる事有(ことあり)。初てほ句に成べき事ト、成まじき事をしれり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,21)

 

 この句は元禄三年刊其角撰の『いつを昔』(其角撰、元禄十年)に、

 

   両吟おもひたちける人の、いとま

   なくてやみにければ、心ざしゆる

   しがたくて、独酌の興になしぬ

下臥(したぶし)につかみ分けばや糸ざくら  巴風

   犬もこてふも一日の友    其角

 

で始まる両吟として収録されている。表六句のみ作者名がある所から、そこで時間がなくて終わったものを、そのあと其角の独吟という形で三十句まで巻いたのだろう。

 「下臥(したぶし)」というのは木などの下に横になることで、寝っころがっていてもその上に糸桜(枝垂桜)の枝が上に掛かってくるので掻き分けなくてはならない、というのがこの句の意味だが、芭蕉は、其角がなぜこんな句を集に載せたのか、どうってことのない句だと思わないか、と去来に問いかける。

 それに対し去来は、枝垂桜がたくさん咲いている様子をうまく形容したからではないかと答える。それに対する芭蕉の答えはそれこそ「だから何なんだ」というものだった。

 このへんも近代俳句と発句との違いというものを感じさせる。発句の場合、和歌の伝統の上にあって、基本的には「人の心を(たね)として、(よろづ)の言の葉とぞなれりける」(『古今集』仮名序)という考え方が基礎にあり、言葉は心を述ぶるなかだちであり、心がなければいけないという考え方だった。つまり、何らかの深い心情が表現されてなければ発句にはならないというのが当時の根本的な考え方だった。

 これに類することは、同じ『去来抄』の「修行教」43の

 

 つき出すや(とひ)のつまりの(ひきがへる)   好春(かうしゅん)

 

の句にも言えるだろう。樋の中に蟇蛙が詰まっていて流れないからそれを突ついて出すというのだが、確かに面白いといえば面白いけど、だから何なんだと言われればどうしようもない。今日の俳句誌を飾る句の多くはこういうレベルなのではないか。

 まあ、短時間で多くの句の中から選句をしなければならないから、意味を深く読み取る余裕もなく、言葉や趣向の珍しさだけで選んでしまう傾向があるのだろう。

 

 

26、手をはなつ(うち)におちけり朧月(おぼろづき)   去来


 「魯町(ろちゃう)に別るる句也。先師曰、此句悪(このくあし)きといふにはあらず。巧者(こうしゃ)にてただ(いひ)まぎらされたる也。去来曰、いか(さま)にさしてなき事を、句上にてあやつりたる處有(ところあり)。しかれどいまだ十分に解せず。予が心中にハ一物(いちもつ)侍れど、句上にあらハれずと見ゆ。いハゆる意到句不到也(こころいたりてくいたらざるなり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,21)

 

 弟の魯町が故郷の長崎に帰ってゆくとき、おそらく朝まだ暗いうちに旅立つ予定だったのだろう。折から春で西の空には朧月が見える。そのまま名残惜しくて、手を握り合ったままいつのまに月が沈んで朝になってしまい、そこでやっと手を離した、この句はそういう意味なのだろう。

 だが、さっと読んだだけでは「手をはなつ中におちけり」って一体どういう意味だと迷ってしまうあたりが、この句の弱点だったのだろう。芭蕉の評価は、「悪い句というわけではないが、うまく作ったというだけで、わかりにくくなっている。」というものだった。

 手を離すことができずに月が落ちたと言えばわかりやすいが、手を離す中に月が落ちたでは、一瞬何のことだろうと読者が考えてしまい、しばし悩んだところで「ああ、月が落ちるまで手が離せなかったのか」ということになってしまう。これでは惜別の情がストレートに伝わらない。

 これを去来は最初、何でもないことを大袈裟に作った句と取られてしまったのかと思い、納得できなかったようだ。去来にすれば、弟との悲しい別れは事実だったのだから、大袈裟に作ったと言われても解せない。そうではなく、言葉がひねりすぎているために意味が即座に伝わらず、情に訴える以前に頭で理解されてしまうところが問題だった。

 なお、この句は『炭俵』の

 

    洛よりの文のはしに

 朧月一足づつもわかれかな   去来

 

の初案ではないかとする川島つゆの説がある。 「手をはなつ中におちけり」に比べればわかりやすいが、それでも「一足づつも」という言い方がいかにも技巧的で、なかなか情がストレートに伝わってこない。別に技巧そのものがいけないというわけではない。ただ芭蕉の

 

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉

 物書て扇引さく余波哉(なごりかな)


と比べると、何が違うのか。「手をはなつ中に」も「一足づつも」も悲しみを表す言葉になっていず、あくまで頭で考えさせてしまうということではないのか。

 

 

27(どろ)がめや苗代水(なはしろみづ)(あぜ)うつり   史邦(ふみくに)

 

 「さるミの撰に、予誤て畦つたひと書。先師曰、畦うつりと伝ひと、形容風流各別也。(こと)に畦うつりして(かはづ)なく(なり)ともよめり。肝要の気色(けしき)をあやまる事、筆の罪のみにあらず。句を聞事(きくこと)のおろそかに侍るゆへ也と、機嫌あしかりける。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,21

 

 泥がめとはすっぽんのことだが、この句は泥が好きなすっぽんが苗代にきれいな水が流れ込んできたので、畦を越えて、まだ水の入ってない苗代に逃げ出したという意味だったのだろう。水清きに魚棲まずといった所か。人はそれぞれ自分にふさわしい居場所があるということか。だとすれば、畦つたいゆくでは意味を成さない。

 『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』の寂蓮法師の歌に

 

 苗代の水にうき寝やまかすらん

    蛙の声の畦づたひ行く

 

とある。それを踏まえたと思って書き誤ったのだろう。

 水に浮く蛙は苗代水に流されて畦つたひする。それは流れに身を任し、逆らわないで生きる老荘的な生き方を暗示させる。それを泥がめに変えただけなら何も新しいことはない。しかも、蛙ならわかるが泥がめが流されたというのはちょっとおかしい。

 

 

28、じだらくに寝れば涼しき夕哉(ゆふべかな)

 

 「さるミの撰の時、一句の入集(につしふ)を願ひて、数句吟じ来れど取べきなし。一夕(いっせき)先師のいざくつろぎ給へ。我も()なんとの(たま)ふに、御ゆるし候へ。じだらくに居れば涼しく侍ると申。先師曰、(これ)ほ句(なり)。ト、今の句につくりて、入集せよとの給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,22

 

 句に限らず、何事もあまりひねりすぎていけないということがある。コピーでも作詞でも日常の何気ない言葉からヒットが生まれたりするもので、ローリングストーンズの「サティスファクション」という曲も、キースが新しいギターを手に入れてこんなのはどうだといろいろ弾いてみたのだが、あまりうるさいのでついついミックが"I can't get be no satisfaction!"と怒鳴りつけたところから生まれたともいう。

 芭蕉の俳諧にもこういうことはあったのだろう。『猿蓑』に入集させるための多分夕涼みの句がもう一句欲しかったのだろう。何気なく言った、「じだらくに居れば涼しく」は偶然にも上五七になっていて、芭蕉も思わず、「これは使える!」と思ったのだろう。

  この句は『猿蓑』では宗次という名で発表されている。

 

 

29玉棚(たまだな)のおくなつかしやおやのかほ   去来

 

 「(はじめ)面影(おもかげ)のおぼろにゆかし玉祭と云句也(いふくなり)是時添書(このときそえがき)に、(まつる)時ハ神いますが如しとやらん。玉棚の奥なつかしく(おぼえ)侍る(よし)(まうす)。先師いがの文曰(ふみにいはく)、玉まつり(もっとも)の意味ながら、此分(このぶん)にてハ古びに落可申候(おちずまうすべくさふらふ)。註に玉だなの奥なつかしやと侍るハ、何とて句になり侍らん。下文字(やはら)かなれば下をけやけく、親のかほと(おか)句成(くになる)べしと(なり)。そのおもふ処直(ところすぐ)()となる(こと)をしらず。ふかくおもひしづみ、(かへつ)(こころ)おもく(ことば)しぶり、(あるい)(こころ)たしかならず。是等(これら)初心(しょしん)(ともがら)覚悟(かくご)あるべき(こと)(なり)」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,22

 

 これもまたひねりすぎの去来さんだ。

 

 面影(おもかげ)のおぼろにゆかし玉祭

 

という句に、「(まつる)時ハ神いますが如しとやらん。玉棚の奥なつかしく(おぼえ)侍る‥‥」と付け加えて芭蕉の元に手紙を送ったところ、「句の意味はわかるが古臭い感じで、これなら『玉棚の奥なつかしく』を句にしたほうがいい。それに下五を付けなくてはいけないが、『玉祭』では穏やかすぎて、もっと目立つようにするというのであれば、『親のかほ』とでもすれば、句になる」と。

 確かに、お盆で死者の面影がおぼろに浮かんで心が引かれるというだけの句では平凡だ。心情はわかるが鮮烈なイメージを与えるような「姿」が足りない。これに比べると、

 

 玉棚(たまだな)のおくなつかしやおやのかほ

 

なら、玉棚(死者を祭る棚)は具体的だし、そこに「親の顔」と置けば、「おぼろにゆかしき面影」よりもはるかに具体的だ。

 その後の芭蕉の言葉も厳しい。「思うところをそのまま詠めば句となることをわかってない。深く考えすぎて、かえって心情が表れず、言葉足らずになり、時としては意味不明になる。これは初心者の注意すべきことだ。」

 詩の言葉が人を感動させるには、考える暇を与えてはいけない。考えて、頭で理解されてしまうと、「なるほど」とは思っても、心には響かなくなる。大脳新皮質の表層を撫でるのではなく、ダイレクトに大脳辺縁系を刺激しなければ、言葉は感動を生まない。

 芭蕉ほどの天才であれば、十分な計算の末、こうしたダイレクトに人を感動させる言葉を生み出せるかもしれない。だが、初心者はそれを真似するよりは、ただ素直に自分の思ったことを述べたほうがかえってうまくいく。中途半端なテクニックというのが去来にとってはネックだったのだろう。

 そして、たぶん問題は去来のプライドだろう。つまり、芭蕉の関西での一番弟子の身でありながら、初心者のような素直な句を詠むというのは気が引ける。何としても芭蕉に近づきたい。その近づきたいという気持ちが、結局句をひねりすぎてしまうのだろう。

 鋭い直感的な言葉と確かな技巧との共存芭蕉はそれをなしえた。しかし、去来がやろうとすると、あちらが立てばこちらが立たずになってしまう。一体何が違うのだろうか。

 近代俳句の多くは、正岡子規以来技巧を否定する立場から、その場の即興的な直感に頼る句作りが多い。これはこれで問題だが、一方で現代詩(特に結社でやってる連中)の方では理論ばかりが先行して感動のないものが多いように思える。

 これは結局結社というのが偉い人に良い批評をもらえるかどうかで結社の中での地位が決まってしまうため、詩人は偉い人が評価しやすいような詩を書き、偉い批評家もまた自分の批評しやすい詩を評価してしまうためではないか。なかなか感情をアタマで考えてしまう癖が抜けないものだ。

 

 

30 夕涼み疝気(せんき)おこしてかへりけり   去来(きょらい)

 

 「()初学(しょがく)(とき)、ほ()()やうを(うかがひ)けるに、先師曰(せんしいはく)、ほ()()つよく、俳意(はいい)たしかに(さく)すべしと(なり)。こころ()此句(このく)()して(うかがひ)ぬれバ、又是(またこれ)にてもなしと大笑(おほわらひ)いし(たま)ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2223

 

 これもまた失敗談だが、これはひねりすぎの病ではない。多分最初に芭蕉に会ったときか何かの思い出だろう。

 発句とはどういうふうに作るか、という基本的で漠然とした質問に、芭蕉は句を強く、俳意を確かにと答える。とにかく言いたい事をはっきりと言い切るように、ということだろう。何が言いたいのかわからない句は困るが、結構凡人の作る句というのは意味不鮮明で、何が言いたいの?と思うようなものが多い。去来はその意味を勘違いしたのか、「俳意」というのを、人を笑わせようとか、受けを取ろうという意図と思ったのだろう。

 夕涼みに行ったが、涼しすぎたのか腹が冷えて下っ腹が痛くなって帰ってきた。意味は確かによくわかる。しかし、これは何か深い情を伝えようというものではない。

 二つの言葉を取り合わせたとき、その言葉が引き起こす情が似通っていれば、相乗効果的に作用する。「秋」と言うだけでも寂しい。「秋の夕暮れ」と言えばもっと寂しい。「秋の夕暮れにお寺の鐘、枯れ枝のカラス、浦の苫屋」などとくればもっと寂しい。それを月並でなく新しい組み合わせで寂しさを増幅して行く所に深い余情が生じる。

 それに対して、相反する感情を持った言葉を組み合わせれば、言葉の情同士が打ち消し合い、興ざめになったり、ナンセンスを生じたりする。それは文字どおり、「風景を殺す」という意味での殺風景になる。笑いを取るにはそれでもがいいのだが、発句はやはり情を伝えるほうに重点が置かれ、その中になおかつユーモアが要求される。

 「夕涼み」と言えば昼間のうだるような暑さをしばし忘れ、夕暮れの涼しい風に心なごませるのがその本来の情。それに対し、心和むものを組み合わせたいところだ。疝気というマイナスなものとの組み合わせはネタとしては面白いものの、発句には向かない組み合わせだ。

 例えて言えば、春に梅や鴬は月並ではあるが目出度いものに目出度いものを重ね、目出度さを増幅する効果がある。それに対して、花粉症と組み合わせ「くしゃみしてこれが本当のはなの春」なんてやったら、やはりトホホというような句にしかならない。

 去来のこの句も、そういう一つの教訓として受け止めるべきものだろう。

 

 

31 つかみ()()どものたけや麦畠(むぎばたけ)

 

 「凡兆(ぼんてう)(いはく)(この)麦畠(むぎばたけ)(あさ)ばたけともふらん。去来曰(きょらいいはく)(むぎ)(あさ)(なり)ても、よもぎになりてもくるしからずト(ろん)ず。先師曰(せんしいはく)(また)ふるふらぬの(ろん)かしがましと(せい)したまふ(なり)()(ひと)(さっ)せよ。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,23

 

 上島鬼貫(うえしまおにつら)の『独ごと』にはこうある。「発句に動くといふ事侍り。たとへばつばなの句をすみれの句にしていへば、又それにもなり、杜若(かきつばた)の句をあやめの句にして見れば、なるをこそ、嫌ふ事にて侍れ。」たとえば「山路きて何やらゆかしすみれ草」という句を「山路きて何やらゆかしつばな草」に変えてその風情が変らぬというなら、これは動くことになり、まったく風情が損なわれるというなら動かない句となる。上島鬼貫は貞享二(一六八五)年に「にょっぽりと秋の空なる富士の峰」の句を詠み、この句が一言一句動かせない句だと確信し、自らの新風の確立とする。

 芭蕉はこういう議論を「ふるふらぬの論」というが、こうした論法は他人の句を誹謗するのにけっこう容易に使えるところがある。

 古池の句だって「古井戸や蛙飛び込む水の音」だっていいじゃないかと言われれば、反論は難しい。作者の感覚では確かにそれでなければいけなかった言葉でも、他人から見れば他の言葉でもいいように見える。句の一語一語に至るまで、何でその言葉でなくてはいけなかったのか、それをいちいち合理的に説明することを作者に義務づけてしまうのが「ふるふらぬの論」の罠だ。もちろん作者はそんなことにまで責任を負う必要はない。

 去来もここで凡兆の指摘にまともに答えてはいない。麦畑を麻畑に変えてもいいじゃないかと言われれば、それを言うなら何なら蓬にでもしたろうか、とおまけまでつけて軽くあしらっている。そして、「ふるふらぬの論かしがまし」と芭蕉の言葉を引いてくることで、「ふるふらぬ」「動く動かず」の論が他流の議論であって蕉門の議論でないということを印象づけようとしているようだ。

 

 

32、 いそがしや沖のしぐれの真帆片帆(まほかたほ)  去来

 

 「去来曰、猿ミのハ新風の(はじめ)時雨(しぐれ)(この)集の美目(びもく)なるに、此句仕(このくし)そこなひ侍る。ただ、有明(ありあけ)や片帆にうけて一時雨(ひとしぐれ)といはば、いそがしやも、真帆もその内にこもりて、句のはしりよく心のねばりすくなからん。先師曰、沖の時雨といふも、又(ひと)ふしにてよし。されど句ハはるかにおとり侍るト也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,23

 

 撰集『(さる)(みの)』は芭蕉が『奥の細道』の旅を終え、伊勢から故郷伊賀へ帰る途中の山中で、

 

 初しぐれ猿の小蓑をほしげ也   芭蕉

 

の句を詠んだことを記念して作られた撰集で、芭蕉自身もこの句に古池の句ができたとき以来の手ごたえを感じたのだろう。古池の句の発表に入念に下準備をし、『蛙合(かはづあはせ)』興行を行ったように、芭蕉は京都の最も信頼できる門弟である去来と凡兆に「猿に小蓑を」の句を巻頭とした撰集を作らせたのだろう。

 『蛙合』興行が貞門、談林、天和(てんな)調に続く新たな蕉風の確立を宣言するものだったのに対し、『猿蓑』はこうした蕉風の一つの到達点を示す集大成の役割を担っていた。それだけに、『蛙合』が顔見せ興行的な性格を持っていたのに対し、『猿蓑』は蕉風の実力を世間に見せつけるようなものでなくてはならなかった。それが、この『猿蓑』が俳諧の古今集と言われるゆえんでもある。

 撰集『猿蓑』は通常の撰集が春夏秋冬の順番で部立てされるのに対し、「猿に小蓑を」の句を巻頭に置く都合から冬夏秋春の順序で部立てされているのも一つの特徴となっている。そして、「猿に小蓑を」の句を筆頭に、そのあと十三句にわたって時雨の句が並ぶことになる。この部分は蕉門の名だたる門人たちのメンバー紹介でもあり、句合せでもある。

 去来の

 

 いそがしや沖のしぐれの真帆片帆(まほかたほ)  去来

 

の句はその最後を飾るものであり、撰集が作られた当時としては自信作だったのだろう。にわかに降り出した雨に、沖の船もあわてて帆をたたむものがいたり、逆に帆を満帆はって急いで戻ろうとするものがいたり、そんなあわただしい様を詠んだものだ。

 巻頭三句目の

 

 時雨きや並びかねたる(いさざ)ぶね   千那

 

とややかぶる感もあるが、千那の句が琵琶湖のイサザを捕る漁船なのに対し、去来の句は沖の大きな船の様子でスケールが大きい。芭蕉が「沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。」というのも、そのスケールの大きさを評価してのことだろう。だから、言葉がやや荒々しい感じがしても、それは内容に合っていて、「一ふし」なのである。

 しかし、去来自身は後になって思い直したのだろう。その去来の改案は、

 

 有明(ありあけ)や片帆にうけて一時雨(ひとしぐれ)   去来

 

だった。

 これだと、沖の船のせわしい様子は句の表面からすっかり姿を消している。むしろ、明け方の時雨の瀟々とした風景の中に帆を半分たたんだ船が悠然と佇んでいるようにすら見える。水墨画の画題である瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の「瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」に有明の月を書き加えたような感じだ。去来は、この一見穏やかな景色の中に、沖の船のせわしく帆をたたむ姿が含蓄されているという。

 確かにそれは風雅の一つの境地かもしれない。しかし「瀟湘夜雨」では古典に付きすぎた月並みな題材だし、有明もまた同じくらいベタな感じがしないでもない。芭蕉がなぜ「沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど句ハはるかにおとり侍るト也。」と言ったのかよくわからない。しいて言えば、「真帆片帆」という描写が芭蕉にはくどく映ったのと、「いそがしや」という上五がややぞんざいに映ったのだろう。この辺の評価は微妙で、私は「いそがしや」の方を取る。

 

*なお、千那の句のイサザは千那が近江の人であったことから琵琶湖の固有種でハゼ科ウキゴリ属のイサザ(準絶滅危惧種)で、海で取れるイサザ(ハゼ科ハゼ亜科シロウオ属シロウオ)とは別のものと思われる。

 

 

33、兄弟のかほ見るやミや時鳥(ほととぎす)   去来

 

 「去来曰、是句ハ五月廿八日夜、曾我兄弟の互に貌見合(かほみあはせ)ける(ころ)時鳥(ほととぎす)などもうちなきかんかしと、源氏の村雨(むらさめ)軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて、一句を作れり。先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ(いひ)おほせず。其角(きかく)が評も同前(どうぜん)なりと、深川より評(あり)許六(きょりく)曰、(この)句ハ心余りて(ことば)たらず。去来曰、心余りて詞不足(ことばたらず)といハんハはばかり有。ただ謂不応也(いひおほせざるなり)丈草(ぢゃうさう)曰、今の作者ハさかしくかけ(まは)りぬれバ、是等(これら)合点(がつてん)内成(うちなる)べしと、共に笑ひけり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2324

 

 曾我兄弟の仇討ちは赤穂浪士、荒木又右衛門(あらきまたえもん)と並んで三大仇討(あだうち)と呼ばれている。曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)曾我五郎時宗(そがのごろうときむね)の兄弟が、父の仇、工藤祐経(くどうすけつね)を建久四(一一九三)年五月二十八日、富士野の巻狩りの夜に殺害した事件は、『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記された史実で、その物語は後に遊行巫女(ゆぎょうみこ)によって口承され、様々な女性芸能者によって『曾我物語』へと完成されていった。女性によって語り継がれた物語だけに、母や二人の女房など、残された女たちの悲しみに焦点が当てられていて、必ずしも忠義を賞賛する物語ではない。

 仇討は中国では唐の時代に既に禁止されていたもので、韓国でも早い時期から禁止されていた。たとえ殺人犯といえども法の裁きを受けるべきで、個人的に勝手に犯人を殺害することが犯罪であるのは言うまでもない。『曾我物語』でも、十郎は仇討後、新田忠経(にったのただつね)に斬られて討ち死にし、五郎は捕らえられて源頼朝(みなもとのよりとも)の前に引き出され、打ち首になった。

 去来の句は芭蕉の存命中の句だし、まだ赤穂浪士の討ち入りは先のことだったが、寛永十一(一六三四)年に伊賀の鍵屋の辻で起きた荒木又右衛門の仇討は知っていただろう。芭蕉の生まれる十年前の事件だった。去来は一体どういう情を込めて曾我兄弟を詠んだのだろうか。

 「源氏の村雨(むらさめ)軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて」というのは『源氏物語』「幻」巻の紫の上の一回忌に次第に出家を決意してゆく場面のことだろう。昔のことを思い起こし、自分のつたなさに嘆き、折から時鳥の声が微かに聞こえたのを受けて、

 

 ()き人を(しの)ぶる(よひ)村雨(むらさめ)

    濡れてや()つる山ほととぎす

 

と詠んだその情を踏まえるなら、いよいよ討ち入りという時に曽我の兄弟が顔を見合わせているときに、折から聞こえてきた時鳥の声に、死んだ父のことがいろいろ思い出され、人生のはかなさとこの世の無常を感じたということなのだろうか。

 多分、芭蕉や其角が「言い応せず」、つまり描ききれていないと感じたのは、その情が仇討に対してどう作用したのかということではなかったか。本来の風雅の精神からすれば、戦や仇討などの殺人や殺生は肯定すべきものではない。その意味では、この句は時鳥の霊妙な声に死後の世界を思い、仇討が煩悩と知りつつも憎しみに勝てず、あの世での永遠の地獄を受け入れることを覚悟するといったものだったのだろう。

 これは「猪のねに行くかたや明の月」にも言えることだが、言おうとしていることはわかるのだが、下五を「時鳥」というありきたりな題材で無難に収めてしまったため、今ひとつ感情が平凡に流れてしまっていて、悲痛な感じが伝わらなかったのだろう。

 許六は「心余りて(ことば)たらず」というが、この言葉は在原業平(ありはらのなりひら)の歌などを評するときに用いられる言葉で、中世にあっては、むしろ言葉足らないことが深い余韻を与え、幽玄の心を生み出すとして肯定的に捉えられていた。そのことを考えるなら不適切で、去来自ら言うように「はばかり有。ただ謂い応せず也(ただ言い応せていないだけだ)」という所だろう。

 丈草の評は好意的で、近頃の他門の作者はいかにも利口そうに説教臭い句を作っているから、言い足りないくらいが良いという。「合点」というのは職人言葉で「がってん承知の介」なんてイメージがあるが、本来は俳諧用語で良い句の上に点を打つことを言う。

 

 

34、   につと朝日に迎ふよこ雲

 青みたる松より花の咲こぼれ   去来

 

 「(はじめ)にすっぺりと花見の客をしまいけりと付侍(つけはべ)る。(つけ)ながら先師のかほつきおかしからず。又前を乞ふて此句(このく)を付直す。先師曰、いかにおもひて付直し侍るや。去来曰、朝雲の長閑(のどか)機嫌(きげん)よかりしを見て、(はじめ)に付侍れど、(よく)見るに(この)朝雲のきれいなる景色いふばかりなし。(これ)をのがしてハ(せん)なかるべしとおもひかへし、つけ直し侍る。先師曰、やはり初の句ならバ三十棒(さんじふぼう)なるべし。なを陰高(かげたか)きを直すべしと、いまの五文字に成けり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,24

 

 ここからは発句ではなく付け句の話になる。元禄七年二月に、

 

鶯に朝日さす也竹閣子       浪化

 

の発句とした去来・浪化両吟が途中までになっていたのを、閏五月に芭蕉が京に来た時にその続きを巻いて歌仙を満尾させた、その三十三句目になる。

前句が「につと朝日に迎ふよこ雲」で、「にっと」というところが、いかにも朝日とたなびく雲が人の微笑む顔を描いているかのようで、漫画的な句だ。これを受けて、去来は最初こう付ける。

 

    につと朝日に迎ふよこ雲

 すっぺりと花見の客をしまいけり

 

 「にっと」に対抗して「すっぺりと」と擬音で応酬するが、「すっぺりと」というのは「すっかり」という意味。きれいさっぱりというときには「すっぺらぽん」なんて言葉もあった。

 昼間は大勢の人がドンチャン騒ぎをしてにぎわっていた桜の名所も夕暮れには帰り、明け方ともなれば人っ子一人いず、完全に花見の客を仕舞ってしまったかのように、朝日の前にたなびく横雲が笑っているようで、そこに有名な藤原定家の、

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして

    峰にわかるるよこぐものそら

 

の句を思い起こさせる。

 しかし、これは去来らしいというか、「にっと」に「すっぺりと」と応じたり、定家の歌を下敷きにしたり、一生懸命ひねった割にはどこか月並みという感じがないでもない。芭蕉も今一つだなと思って渋い顔をしたのだろう。その顔色を見て、去来は付け直していいかと申し出る。ここでは朝雲のきれいな景色を詠むしかない、これを逃してはならないと、

 

    につと朝日に迎ふよこ雲

 陰高(かげたか)き松より花の咲こぼれ

 

と付け直す。これには芭蕉もわが意を得たりといったところで、付け直しに納得する。ただし、「陰高き」という言葉はまだひねりすぎて朝の景色のすがすがしさがストレートに伝わらない。

 

    につと朝日に迎ふよこ雲

 青みたる松より花の咲こぼれ

 

これで一件落着した。

三十棒(さんじゅうぼう)」というのは座禅のときに「喝!」ってやる、あの棒のこと。危うく去来は芭蕉に喝を入れられるところだった。

 

 

35、 梅にすずめの枝の(ひゃく)なり   去来

 

 「(これ)歳旦(さいたん)のわき(なり)。先師深川に(きき)て曰、(この)梅ハ二月の気色也(けしきなり)。去来いかにおもひ誤りて、歳旦の脇にハ用ひけるトなん。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2425

 

 旧暦の正月というと今の二月で梅の咲く頃なのだが、梅は桜よりも開花の期間が長く、木によって遅速があり、桜のように一斉に咲いて一斉に散るわけではない。一般に当時の季節感からすれば、正月の頃はまだ梅も咲きはじめで、玉のようなつぼみをつけた枝から一輪二輪開くようなイメージだったのだろう。梅が満開に咲き誇り、そこにたくさんの雀たちが集まってくるという光景は、正月にはまだ早く、二月の初めくらいににふさわしかった。

 歳旦の句というのは、本当に正月に詠む分には、たいていそのときの季節感がうまく反映されるものなのだが、歳旦帳などを作るとき、正月の出版に間に合わせるために正月前に事前に歳旦三つ物(発句、脇、第三の三句からなる)を用意しておくことも多く、そうなると、真冬に正月のことを想像して句を作るため、季節感がおかしくなることもあったのだろう。

 事前に句を用意しておくという問題は、次の「手帳」の問題にも通じる。

 歳旦三つ物を印刷して正月に配る歳旦帖は、まいとしそれぞれの俳諧師が作ったためにかなりの数があったと思われるが、今日現存しているものは数少ない。原因は、

 

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

 

のようにどんど焼きの時に燃やされてしまったり、

   鶯は(この)(つぎ)()にいとひ(なく)

 歳旦帳を鼻紙の(あひ)        其角

 

のように鼻紙として用いられたりして、あまり大切にされてなかったのだろう。

 

 

36、 舟に(わづら)西国(さいごく)のむま   彦根の句

 

 「許六(きょりく)こころ見の点を(こひ)ける時、(この)句を(ちゃう)をかけたり。先師に(うかが)ふに、先師曰、いまハ手帳らしき句も嫌ひ侍る。是等(これら)の句手帳(なり)。長あるべからずト也。(かつ)て上京の時問曰(とひていはく)(この)句いかなる(ところ)手帳に侍るや。先師曰、船の中にて馬の(わづら)ふ事ハ謂ふべし。西国の馬とまでハ(よく)こしらへたる物(なり)となる。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25

 

 連歌・俳諧は本来即興で句を付けるその機知を競うものだった。ただ中世の連歌でも、有名な連歌師を招待して連歌会(れんがえ)を行うときには、招待された連歌師が発句を詠み、招待主がそれに脇を付けるところから連歌会が始まるのだが、そのときホスト役の主人がうまく付けられずに恥をかいてはいけないというので、事前に手紙で発句を知らせておくということがあったらしい。

 さらには、事前に想定問答集のようにこういう句が来たときにはこういう句を付けるというのをシミュレーションしておいて、あらかじめ使えそうな句を用意しておくというズルをする人もいたようだ。これが「手帳」と呼ばれていた。

 その場での機知を競う連歌・俳諧において、当然「手帳」は反則なのだが、その人の演技力によってはサッカーのシミュレーションのようなもので、なかなかその場でも見破るのは難しい。まして、既に紙に書き表されたものを見せられ、どれが手帳かを見分けるのは、一流の師匠でも困難だっただろう。

 芭蕉の近江の門人森川許六が多分弟子たちと巻いた俳諧の点を、去来に依頼したのだろう。これは百韻なら百句、歌仙なら三十六句連ねられた俳諧作品を見て、良い句の上に点を打つことを言い、「加点する」という言い方もする。

 点取俳諧というのも、本来こうした付け句の上に付けられた点の数を競うものだった。そして、その中で特に優れた句は普通の点より長い点、長点を打つので「長」とよばれた。去来が許六から見せられた俳諧の中で「長」をつけたのは

 

 舟に(わづら)西国(さいごく)のむま

 

という句だった。そして、何かの折でこの句のことを芭蕉に尋ねたのだろう。そしたら芭蕉の答えは「是等(これら)の句手帳(なり)。長あるべからず」だった。

 あとで実際に芭蕉に会った時にどこが手帳なのかを聞くと、舟で馬が船酔いするという発想はありそうだが、「西国の馬」なんて「(よく)こしらへたる物(なり)」、という返事だった。いかにも作ったようなというのがポイントだったのだろう。馬はかつては蝦夷(えぞ)のものが良いとされ、東の馬は名馬だというイメージがあったのだろう。馬の船酔いというだけで俳諧としては十分なのに、それに西国生まれの駄馬だったから船に酔ったなんて御託をくっつけるのは、いかにも話を作りすぎている、そんなことは当座の即興ではできるはずがないという判断だったのだろう。

 今の芸人でも、何か使えそうなネタを思いついたらネタ帳に記しておくというのは、誰もがやっていることだろう。当時の俳諧師も当然みんなネタ帳はあっただろう。あるいは発句のネタとして没にしていたものを、俳諧の最中に、これは使えると思って出したのかもしれない。

 

 

37、 弓張(ゆみはり)(つの)さし(いだ)す月の雲   去来

 

 「去来問曰(とひていはく)(この)句も手帳なるべきや。先師曰、手帳ならず。雲も(つの)弓張月(ゆみはりづき)もいはねバ一句きこえず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25

 

 これは36の続きだろうか。

 「舟に煩ふ西国のむま」の句を手帳だといった芭蕉が、本当に手帳とそうでない句の区別ができるのかどうか、あえて自分の句で名前を隠して試してみたのだろう。たぶん自分としてはできすぎたくらいの句だったのだろう。もちろん手帳なんかではないことは自分がよく知っていし、手帳でなくてもこれくらいは作れるという自慢の含まれてそうだ。

 芭蕉は引っかからなかった。三日月のとがった部分が雲からはみ出しているというこの句は、あくまでも一つの連続したイメージであって、三日月、角、雲、どれが欠けても句の意味が通らなくなる。事前にひねっておかなくてはならないような二重三重の意味はそこに込められてはいない。

 

 

38、 でつちが(にな)ふ水こぼしけり   凡兆(ぼんてう)

 

 「(はじめ)(こえ)なり。凡兆曰、尿糞(ねうふん)の事(まうす)べきか。先師曰、(きらふ)べからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に(あらた)ム。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25

 

 この句は『猿蓑』所収の、

 

 市中(いちなか)物のにほひや夏の月     凡兆

 

を発句とする歌仙の二十二句目で、

 

   (おひ)たてて早き御馬

 でつちが(にな)こぼしたり     凡兆

 

の形で収められている。

 芭蕉にも

 

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと

 鶯の餅に糞する縁の先

 

という句があるように、糞尿を詠んではいけないなんて決まりはない。『荘子』にも「道はし尿にあり」という言葉があるように、この宇宙の真理というのはあらゆるところに宿るのだから、糞尿といえども軽んずることはできない。

 しかし、単に笑いを取るための、いわゆる「下ネタ」として糞尿を持ち出すとなると、やはりそればっかり何句もあると俳諧の品も落ちるだろう。

 百韻のなかでは元来ネタの重複を避けるため、別にネタのきれい汚いに関係なく、一座一句物という百韻に一回しか使えない言葉があった。若菜、山吹、つつじ、カキツバタなどが『応安新式(おうあんしんしき)』に記されている。俳諧の場合、俗語で作るため、雅語の連歌に比べて語彙も豊富で、はるかにネタは重複しにくい。

 だから、芭蕉が「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」が果たして下ネタだから嫌っていったのかどうかはわからない。ただ、凡兆の句の場合、別にひっくり返したのが肥桶でなくても、水をこぼしただけでも面白いから、あえて(こえ)にこだわることはなかっただろう。糞でなくては意味が通らないような句なら、変える必要はあるまい。

 

 

39、 妻呼雉子(つまよぶきじ)の身をほそうする   去来

 

 「(はじめ)雉子(きじ)のうろたへてなく(なり)。先師曰、去来かくばかりの事をしらずや。(およそ)句にハ姿といふ物有(ものあり)。同じ事をかくいへバすがた出来(いできた)る物をと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2526

 

 ここでまた、芭蕉は「姿」を問題にしている。つまり、イメージが絵に浮かぶかどうかという問題で、「雉子のうろたへてなく」と言われてもイメージがわかない。「身をほそうする」と言う方が絵が浮かぶ。鳥でも獣でも、くつろぐ時は毛や羽を膨らませ、緊張すると寝かせるから(怒ると逆立てるけど)、身を細くしているように見える。本来は「痩せる思い」ということなのだけれど、何となく雉が身を細くしているというのは絵が浮かぶ。

 「うろたえる」というのは、心の中の出来事であって、それだけでは外から見えない。雉のうろたえてでは、単なる観念的な推測に終わるが、「身をほそうする」という所で目に見える形となる。それだけで何でもないような句でもぐっと引き立ち、技ありというところだろう。発句では、ただ表現の巧みさだけでは「謂應(いひおほ)せて何か(ある)」ということにもなる。

 

 

40、   ぽんとぬけたる池の(はす)の実

 (さく)花にかき出す(えん)のかたぶきて   はせを

 

 「此前句出(このまえくいで)ける時、去来曰、かかる前句をのがさずつけんにハいかがと、先師の付句(つけく)所望(しょもう)しけれバかく付給(つけたま)ふなり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,26

 

 これは34の「にっと朝日の」の続きのようなもので、やはり「ぽんと」という擬態語が入り、状況は似ている。

 蓮の実は「はちす」というくらいで、蜂の巣のように穴があいていて、そこに蓮の実が詰まっている。その蓮の実がぽんとこぼれ落ちたというのが前句だ。

 花が終わり、実となった蓮の実が水音を立てるという趣向は、どこか古池の蛙のようでわびしげな秋の句だ。言葉の縁や古歌故実に頼らずに芭蕉ならどう付けるか、名人のお手並みをぜひ、というところだろう。

 付け句というのは前句の情につられずに、むしろ大胆な発想の転換が求められる。特にこの場合は秋から春への季移りが必要で、こういう時には違え付けや向え付け(相対付け)がよく用いられる。

 

    ぽんとぬけたる池の(はす)の実

 (さく)花にかき出す(えん)のかたぶきて   芭蕉

 

「椽」は「たるき」という字で屋根を支える横柱だが、それだと意味が通らないので、縁、つまり縁台の間違いだとされている。花見のときに組み立てた縁台も今は傾いて、という句だ。この句は過去の回想と取れば秋の情となり、今はすっかり傾いた縁台に、池の蓮の実もぽんと抜け落ちてゆく、と付く。

 しかし、この一句だけを切り離せば、放置されたままいつのまに傾いたのではなく、何か別の原因で、今作ったばかりの縁台が傾いたとも取れ、次に春の句を付けることが可能になる。

 つけ句の場合、意味が一つに限定されてしまうような句は好まれない。むしろ、まったく違う意味に取れる可能性を残した句ほど良いとされる。そこが発句と違うところだ。発句では情がはっきりしない「いいおほせぬ」句や、姿ばかりで情を欠いた「いいおほせて何かある」句は嫌われるが、むしろ付け句では歓迎される。そこが発句と付け句の違いだ。

 

 

41、   くろみて高き樫木(かしのき)の森

 (さく)花に小き門を()(いり)つ   はせを

 

 「此前句出(このまえくいで)ける時、かかる前句全体樫の森の事をいへり。その気色(けしき)を失なハず、花を付らん事むつかしかるべしと、先師の付句(つけく)(こひ)けれバ、かく(つけ)て見せたまひけり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,26

 

 これは元禄七年閏五月の落柿舎での、

 

 柳小折片荷は涼し初真瓜      芭蕉

 

を発句とする歌仙の十七句目で、

 

   黒みてたかき樫の木の森

 月花に小き門ンを出ッ入ッ    芭蕉

 

の句になる。

 これもまた芭蕉の模範演技で、おそらくは一座の展開上、そろそろ花が欲しい場面だったのだろう。樫の森に花を付けたいという注文だが、去来は当然『野ざらし紀行』の時の

 

 樫の木の花にかまわぬ姿かな    芭蕉

 

の句は知っていただろう。樫と花、相容れないものをどうやって付けるのか、興味があったのだろうか。

 芭蕉の答えは意外にシンプルだった。

 

    くろみて高き樫木(かしのき)の森

 (さく)花に小き門を()(いり)つ   芭蕉

 

 桜の花に誘われて、小さな門を出てはまた戻ってくる。戻ってくれば、鬱蒼と茂る樫の森がある。森というのは本来は神社の境内の、いわば鎮守の森のことで、「もり」というように守る、自然のままに残す、という所から来ている。これに対し、「林」は生やす所から来たもので、生活に必要なものを採るために、意図的に作られた木立を意味する。

 「小き門」というのはその境内に入る正面の鳥居ではなく、裏門のことだろう。神社の裏側なら、いかにも樫の木が鬱蒼と茂っていそうだ。相反する題材を付ける時には、時間の経過で、さっきはあれだったがこっちはこれと、コントラストをつけるというのが、一応の定石だったのだろう。

 なお、連歌を生半可にかじった人ほど、「月花(つきはな)定座(じょうざ)」というのを連歌の最も重要な規則であるかのように誤解する。しかし、中世に作られた連歌の公式ルールである、応安五(一三七二)年に作られた『応安新式(おうあんしんしき)と『新式追加(しんしきついか)それに享徳元(一四五二)年の『新式今案』には、定座のことは一言も書いていないし、中世連歌の最盛期ともいえる宗祇の時代にも定座はない。

 おそらく月花の定座というのは、連歌がその本来の精神を失い形骸化してゆく過程で、江戸時代に入ってから広まったローカルルールだろう。それは月花の句は我先に付けるのではなく、できるだけ遠慮するという、一種のマナーとして広まったといった方がいいだろう。

 蕉門でも月花の定座はあくまで慣習的に行われただけで、厳密に守られたわけではない。この『去来抄』の「故実」5でも、去来自身花に「定座なし」といっている。ただ、土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』には、月の定座をこぼす事「五十句より内にはあるべからず」と芭蕉が言ったとあり、百韻の前半くらいは守った方がいいとしている。

 ただ、蕉門の俳諧はほとんどが三十六句からなる歌仙であり、歌仙に関しては「くるしからず」と、特に問題にはしていない。定座を杓子定規にこだわるのは、むしろ連歌を知らない人といっていいだろう。

 

 

42、   あやのねまきにうつる日の影

 なくなくも小きわらぢもとめかね   去来

 

 「(この)前句(いで)て座中(しばら)(つけ)あぐみたり。先師曰、(よき)上臈(じゃうらふ)の旅なるべし。やがて(この)句を(つく)好春(かうしゅん)曰、上人(うへびと)の旅とききて言下(ごんか)に句(いで)たり。蕉門の徒、練各別也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2627

 

 この句は元禄三年の暮に京の上御霊神社で、

 

 半日(はんじつ)神をにや年忘ㇾ      芭蕉

 

を発句とする歌仙の三十三句目になる。

 綾織物と言うのは細かい模様を織り込んだ絹織物で、高価なものだ。そんな寝巻きに日の光が当たる。なんとも優雅で、高貴な人の寝覚めの様のようだ。とはいえ、庶民の俳諧だから、これを落とさなくてはならない。あまりゴージャスにつけてしまうと連歌になってしまうから難しいところだ。

 みんなが付けかねていると、芭蕉が助け舟を出す。「よき上臈(じゃうらふ)の旅」と。展開上、旅の句に転じたいという所か。上臈というのは大奥の中でも位の高い者のことで、そんな身分の高い女の旅ということで、去来は使いの者が何とかその女の足に合う草鞋を探して四苦八苦している様を付けた。これなら俳諧らしい。付き人の苦労も知らぬげに、上臈は綾織の寝巻きで優雅な朝を迎えているのだろう。

 好春は季吟の門の、いわば貞門系の俳諧師で、上臈の旅と聞いてすぐにこう思いつくのは、日ごろの修練の賜物だろう、と言ったという、去来としては自慢げな話だ。

 

 

43、   二ツにわれし雲の秋風トやらんなり   正秀(まさひで)

 (ちゅう)れんじ中切(なかぎり)あくる月かげに   去来

 

 「正秀亭の第三(なり)(はじめ)竹格子陰(たけがうしかげ)■■■(まばら)に月(すみ)てト(つけ)ケるを、かく先師の斧正(ふせい)し給へる也。(その)(とも)曲翠亭(きょくすゐてい)宿(しゅく)す。先師曰、今夜初正秀亭に会す。珍客なれバほ句ハ我なるべしと、兼而(かねて)覚悟すべき事也。其上ほ句と乞ハバ、秀拙を撰ばず早ク(いだ)すべき事也。一夜のほど(いく)ばくかある。(なんぢ)がほ句に時をうつさバ、今宵の会むなしからん。無風雅の(いたり)也。(あま)無興(ぶきゃう)に侍る(ゆゑ)(われ)ほ句をいたせり。正秀(たちまち)ワキを()ス。二ツにわるると、はげしき空の気色成(けしきなる)を、かくのびやか成第三付ル事、前句の()をしらず、未練(みれん)の事なりと、夜すがらいどミたまひける。去来曰、其時月影に手のひら(たつ)る山見えてト(まうす)一句侍りけるを、ただ月の殊更(ことさら)にさやけき(ところ)をいハんとのみなづみて、(くらゐ)をわすれ侍ると申。先師曰、其句ヲ出さバいくばくのましならん。此度(このたび)膳所(ぜぜ)のはぢ一度(ひとたび)すすがん事をおもふべし也。 」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,27

 

 正秀は元禄三(一六九〇)年、芭蕉が近江で幻住庵記を書き終えた頃に入門し、膳所の正秀亭での初会はその年の八月中旬で、

 

    正秀亭初会興行の時

 月代(つきしろ)や膝に手を置く宵の宿   芭蕉

   萩しらけたる聖行燈(ひじりあんどん)   正秀

 

の発句と脇が残されている。

 去来が正秀亭を訪れたのも、その直後のことだろう。九月下旬ごろのおとめ(羽紅)宛書簡に「此ほどは加生老・去来御みまひ」とあるから、九月中旬に堅田で病に臥せり、

 

   病雁の夜寒に落ちて旅寝哉   芭蕉

 

の句を詠んだ頃だろう。

 おそらく、病もなおった頃、突如病気と聞いて駆けつけてきた去来の訪問を受け、せっかくだから入門したばかりの正秀を紹介しようと膳所の正秀亭へ行ったのだろう。三人だけのささやかな会で、去来もまさかそこで興行するとは思ってなかったのか、いきなり発句を詠めといわれても頭が真っ白で何も浮かばなかったのか、あるいはなかなか思うようないい句ができなくてためらっていたのだろう。

 しょうがなく、芭蕉が発句を詠んだようだが、そのときの句がどんな句だったかは定かでない。芭蕉も急にこしらえたから、さほど良い句ではなかったのだろう。その句に正秀が、

 

 二ツにわれし雲の秋風   正秀

 

という脇を付ける。次は去来の番ということで、

 

    二ツにわれし雲の秋風

 竹格子陰も(まばらに)月澄て   去来

 

と付けるが、これには芭蕉も三十棒だったようだ。この日は多分これだけで終わってしまったのだろう。

 今夜初めて正秀亭に来て珍客なのだから、発句は自分だと覚悟してくるべきだ。しかも、夜は短いのだから、巧拙問わず素早く出すべきで、発句ができなければむなしく一夜が過ぎていくだけで、「無風雅の至」だ。しょうがないから俺が発句を作ってやったのだが、正秀の「二ツにわれる」という荒れ模様の空に竹格子ではつり合わない。そういって芭蕉は、

 

    二ツにわれし雲の秋風

 中れんじ中切あくる月かげに

 

と直した。草庵の竹格子ではあまりにか細いので、武家屋敷などにある中門の連子格子(れんじごうし)窓にして力強さを出そうとしたのだが、苦肉の策だろう。

 去来は最初

 

    二ツにわれし雲の秋風

 月影に手のひら(たつ)る山見えて

 

と付けようとしたのだが、月のさやけさを言おうとして前句の心を忘れてしまったという。芭蕉がこの句の方がどれほどましだったかという。確かに、山の上に月の出ている大きな景色に秋風に吹かれて裂けてゆく雲は、月並みといえば月並みだが、絵がすぐに浮かんでくる。

 元来連歌も俳諧も当座での機知を競うもので、ただ芭蕉の時代になると、そうした興行の句とは別にじっくりと時間をかけてこれぞという一句を作るように代わってきたため、去来もそうした究極の句を作りたいという気持ちが強く、興行こそが本来の俳諧であることを忘れかけていたのだろう。

 「膳所のはじ」は今風に言えば「膳所の悲劇」とでも言うべきか。去来としては生涯忘れられない体験だったに違いない。

 

 

44、   分別(ふんべつ)なしに恋にしかかる   去来

 浅茅生(あさぢふ)におもしろけつく伏見わき   先師

 

 「先師都より野坡(やば)がかたへの(ふみ)に、此句(このく)をかき出し、(この)辺の作者いまだ是の甘味をはなれず。そこもとずいぶん軽みをとり失ふべからずと也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2728

 

 この句は元禄七年閏五月の、

 

 牛流す村のさはぎや五月雨      之道

 

を発句とする歌仙の二十九句目になる。

 去来の句は二十八句目、

 

    朝の月起々(おきおき)たばこ五六ぷく

 分別(ふんべつ)なしに恋にしかかる   去来

 

で、まだ月の残る明け方に何か切なくて眠っては目が覚めてを繰り返して、タバコをぷかぷかやっているという句に、分別なしに恋をするからそんなことになる、とやや道徳めいた付け方をしたものだ。こういう世俗的な理窟が入るのは、本来の風雅ではない。確かにこういう説教調は世間で受けがいい。しかし、そこに留まっていては人間の本当の情を表現できない。

 これに対し、芭蕉はこう付ける。

 

    分別(ふんべつ)なしに恋にしかかる

 浅茅生(あさぢふ)におもしろけつく伏見わき   芭蕉

 

この句は、

 

 浅茅生の小野のしのはら忍ぶれど

    あまりてなどか人の恋しき

                源等(みなもとのひとし)

 

の歌を踏まえたもので、伏見のはずれの薄や竹の生い茂る荒れた土地でのわび住まいもその面白さがわかり、古歌のように何か分別なしに恋でもしてしまった、と付ける。

 この句をわざわざ野坡に見せたのは、「軽み」というのが技法上の問題だけでなく、世俗の論理を超越したような感覚をも指すことを言っておきたかったからだろう。「軽み」は「重み」に対してだけではなく「甘み」に対する言葉でもあった。芭蕉のこの句は「浅茅生の歌の心を付ければ面白く付くこの伏見の俳諧の脇、分別なしに恋でもしてみろ」という二重の意味が込められているように思える。

 芭蕉はお堅い感じもするが、元禄四年三月の去来(推定)宛書簡では、

 

 うらやましおもひ切時(きるとき)猫の恋   越人

 

の句を絶賛するし、元禄六年の『閉関之説』には、

 

 「色は君子の(にく)む所にして、仏も五戒(ごかい)のはじめに(おけ)りといへども、さすがに(すて)がたき情のあやにくに、哀なるかたがたもおほかるべし。人しれぬくらぶ山の梅の(した)ぶしに、おもひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の関ももる人なくば、いかなるあやまちをか仕出(しい)でむ、あまの子の浪の枕に袖しほれて、家をうり身をうしなふためしも多かれど、(おい)の身の行末(ゆくすゑ)をむさぼり、米銭(べいせん)の中に(たましひ)をくるしめて、物の(なさけ)をわきまえざるには、はるかにまして罪ゆるしぬべく」

 

とある。恋の心はいかに盲目でも、人間の自然の情で止めることはできない。それにくらべると、老後の心配か何かは知らないが、ただ人生の安定だけを願い、金を貯めることばかりに心奪われて、人としての心を失ってしまう人の何て多いことか。それにくらべれば恋の罪は許されるべきだ。芭蕉ならずとも、風雅の考え方としてはこれは基本だろう。今日のJ-popといえども、この種の本意本情を踏み外すことはない。

 しかし俳諧ではしばしばオヤジの雑談のような感覚で、これを踏み外すことがある。いわゆる「文学」でもそういうことがあるから気をつけたほうがいいだろう。

 

 

45赤人(あかひと)の名ハつかれたりはつ(がすみ)   史邦(ふみくに)


 「先師文曰(ふみにいはく)、中の七字(よく)おかれたり。ほ句長高(たけたか)く意味すくなからずと(なり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,28

 

 春の朝はたなびく霞がほのかに赤らみ、おごそかな、(いにしえ)の天の香具山にたなびく霞は一つの春の典型でもあった。 正月ともなれば、更にそれに目出度さも加わる。句の方は、山の赤らむ霞に山部赤人(やまべのあかひと)とはよく名づけたものだ、というところに落とすもので、何で赤人が朝霞なのかと考えさせる、謎掛けの句とも言えよう。山部赤人には一応、

 

   かすみをよみ侍りける

 昨日こそ年はくれしか春霞

    かすがの山にはやたちにけり

 

の歌が『拾遺集』に見られる。この歌のように山辺は霞に赤くなるほど、山部赤人とはよく付けた名前だ、ということになる。

 ネタ的にはたいしたことはなく、この句のとりえは「たけたかく」という所にあったようだ。「たけたかく」というのはそのままの意味だと背の高いという意味で、そこから転じて位の高い、志の高いという意味にもなる。上から見下ろすような、という意味では、今日でも「威丈高(いたけだか)」という言葉が残っている。中世の梵灯(ぼんとう)の連歌論書『長短抄』には、長高(たけたか)き句の例として

 

 山本の嵐の上に鹿鳴て

 入時は月にも山のかくされて

長高き歌の例として

 

 このたびはぬさもとりあえず手向(たむけ)

    紅葉の錦神のまにまに

             菅原道真(すがわらのみちざね)

 

を挙げている。戦国時代の連歌師、紹巴(じょうは)は、『至宝抄』のなかで、発句は「長高く幽玄に(うち)ひらめに無きやうに」と書いていて、平目(平板)に対してこの言葉を用いている。この場合は、盛り上がる、正岡子規も言っていたような「山のある」という意味だろう。テンションの高い句といってもいいかもしれない。

 史邦の句の中七「名はつかれたり」は、その意味では力強く、春のおごそかな霞もなだらかに終わらず、「長高き句」といえよう。

 

 

46(こま)ひきの木曾やいづらん三日(みか)の月   去来

 

 「今や越ゆらん望月(もちづき)の駒といへるをふりかえて、木曾やいづらん三日の月といへり。先師曰、この句ハさん用をよく合せたる句なりと、あざけり給へり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,28

 

 「和歌(やまとうた)は、人の心を(たね)として」と『古今集』仮名序にもあるように、俳諧もまた、情が根底にある。情が最初にあって、それを言うために景物を引き合いに出し、景物に情を託すこともあるし、逆に景物に心動かされ、情が沸き起こり、それが句になることもある。どちらがいいかは人によって考え方があるが、どちらにしても基本的には情が大切だということに変わりはない。

 ところで古来我が国の詩歌の歴史の中で、必ずしも「(ことわり)」を否定してきたわけではない。理があってもそれが情を伴っていればいいのであり、『古今集』の冒頭の

 

 年の内に春はきにけりひととせを

    こぞとやいはんことしとやいはん

                在原元方(ありわらのもとかた)

 

の歌は、冒頭を飾るだけあって、近代のように低くおとしめられるようなことはなかった。今年でもあり去年でもある、いわば現在と過去が出会う場所、「古」と「今」が出会う場所、まさに伝統と新味が出会う場所こそ風雅の場なのであり、それを春の目出度さの中に言いこめるこの歌は決していやしむべき歌ではない。

 ただ、理だけが立って情が感じられなくなると別で、理はあっていいがあくまで情を呼び起こす手段でなくてはならない。

 

 (こま)ひきの木曾やいづらん三日(みか)の月   去来

 

 去来のこの句は、

 

 逢坂(あふさか)の関の清水に影見えて

    今やひくらん望月の駒

             紀貫之(きのつらゆき)

 

を踏まえたもので、宮中の駒牽(こまひき)が八月十六日に行われるために、そのときに朝廷に献上される馬が八月の三日頃出発したという句だ。ただ、その日数の計算があまりにリアルなため、かえって「なるほど」という驚きの方が勝り、情が消えてしまうということにもなる。似たようなものでも

 

 都をば霞とともにたちしかど

    秋風ぞふく白河の関

            能因(のういん)法師

 

は、日数合わせにはなっていない。いくら白河の関が遠いとはいっても、途中どこかで長逗留したりしていない限り、半年は掛かりすぎだ。でも、日数が合わないため、そこには「なるほど」という感慨は起こらず、長旅の情の方が表に来る。何でもリアルならいいというものではなく、理屈で合点させてしまうとリアルも単なるくそリアリズムになる。

同門評

凡篇中ノ異評自ラ是トスルニ似タルハ、いまだ判者なきゆへ也。猶後賢を待侍る。

1、 腫物(はれもの)に柳のさハるしなへ(かな)   芭蕉

 

 「浪化集(らうくゎしふ)にさハる柳と出。(これ)ハ予が誤り伝ふる(なり)。重て史邦(ふみくに)小文庫(こぶんこ)に柳のさハると改め(いだ)す。支考曰(しこういはく)、さハる柳也。いかで改め侍るや。去来曰、さハる柳とハいかに。考曰、柳のしなへハ腫物にさハる如しと比喩也。来曰、しからず、柳の(ぢき)にさハりたる也。さハる柳といへバ両様に(きこ)え侍る(ゆゑ)(かさね)て予が(あやまり)をただす。考曰、吾子(ごし)の説ハ行過(ゆきすぎ)たり。たださハる柳と(きく)べし。丈草(ぢゃうさう)曰、(ことば)のつづきハしらず、趣向ハ考がいへる如くならん。来曰、流石(さすが)の両士(ここ)(きき)給ハざる口をし。比喩にしてハ誰々(だれだれ)も謂ハん。(ぢき)にさハるとハいかでか及バん。格位も又各別也(かくべつなり)ト論ず。許六(きょりく)曰、先師の短尺(たんじゃく)にさハる柳と(あり)其上(そのうえ)柳のさハるとハ首切(くびきれ)也。来曰、首切の事ハ予が聞処(きくところ)異也(ことなり)。今論に不及。先師之文(のふみ)に、柳のさハると(たしか)也。六曰、先師あとより直し給ふ句おほし。真跡證となしがたしと也。三子皆さハる柳の説也。後賢相判じ給へ。来曰、いかなるゆへや有けん。(この)句ハ汝にわたし(をく)(かならず)人にさたすべからずと江府(かうふ)より(かき)贈り給ふ。其後大切の柳一本(ひともと)去来に渡し置きけりとハ、支考にも語り給ふ。其比(そのころ)浪化集(らうくゎしふ)続猿集(ぞくさるしふ)の両集にものぞかれけるに、浪化集撰の(なかば)、先師遷化有(せんげあり)しかバ、(この)句のむなしく残らん事を(うらみ)て、その集にハまいらせける。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,2930

 

 これは簡単に言えば

 

 腫物(はれもの)に柳のさハるしなへ哉   芭蕉

 腫物にさハる柳のしなへ哉   芭蕉

 

のどっちが本当の芭蕉の句かという議論だが、去来(きょらい)支考(しこう)許六(きょりく)丈草(じょうそう)と関西の蕉門を代表とするそうそうたるメンバーが揃って、まさに雁首並べての議論で面白い。

 ことの発端は元禄八(一六九五)年刊の浪化(ろうか)篇『有磯海(ありそうみ)』に載ったのが後者だったのに対し、後から史邦(ふみくに)が『芭蕉庵小文庫(こぶんこ)』(元禄九年刊)に前者の句を載せたことによるものだが、まず支考が何で改めたんだと問うところから始まる。

 問題は「腫物にさハる柳の」だと「腫れ物にさわるような」という慣用句となり、比喩になるが、「腫物に柳のさハる」だと実際に腫れ物の部分に柳の枝がさわっているという意味になる、芭蕉が言おうとしたのはそのどっちかということだ。

 支考は単純に「腫れ物にさわるような柳の」と受け取ったようだ。しかし、去来によれば、この言い回しだと「腫物にさハる」は慣用句とも実際に腫れ物にさわっているとも両方とも取れるから、慣用句と受け取られないために「腫物に柳のさハる」でなければならないと言う。

 そこに丈草が口を挿む。言葉の続き方はともかくとしても、柳の枝が腫れ物にさわるようだ、というのがこの句の趣向ではないのか。去来は応える。それなら誰でも思いつく。本当に腫れ物に枝がさわっているから面白いのではないか。

 ここで許六が、先師の短冊に「さハる柳」とあったことを持ち出す。それに対し去来は先師の文には「柳のさハる」とあったと応酬する。去来の文は本当で、元禄七年正月二十九日付の「去来宛書簡」の真跡が残されている。そこには

 

    頃日初(けいじつはじめて)発句(いたし)候。

 腫物に柳のさはるしなへ哉

 

とある。しかし許六も負けてはいず、先師は後から句を直すことが多いから、真跡だからといって当てにはならない、支考も丈草も俺も三人とも「さハる柳」のほうが良いといっているぞ、と。そして、結論は出さず、「後賢相判じ給へ」と、後の評価にゆだねようという意見だった。

 おそらくこの四人は、二百年後に正岡子規が写生説を唱えることなど想像だにしなかっただろう。写生説の立場なら答は簡単だ。「さハる柳」は比喩だから写生ではない。去来一人写生を理解していた、と。しかし、そこで終わってしまっても面白くないだろう。

 私の感覚では、「柳のさハる」とした場合、腫れ物に柳がさわってむずがゆい様を描写しながらも、暗に「腫れ物にさわる」という慣用句を含ませたように思える。

 柳は卯の木と書き、十二支の卯は東や春や夜明けを表す。それは夜が昼に転じ、死が生に転じる境界線の意味も持ち、それゆえに、柳は門前や川縁や街道などに植えられることが多く、公界(くがい)の木でもある。それは道祖神(どうそじん)に招かれた旅人にふさわしい木でもあり、俳諧もまたこの境界領域に咲く花でもある。

 境界線を行く旅人は定住者の目からすればアウトローであり、腫れ物にさわるような存在かもしれない。しかし、そうした人たちの芸に人は笑い、しばし楽しいときを過ごす。腫れ物にさわる存在だから、くすぐったくもあり、ちくりともするが、それが世間に笑いとゆとりをもたらし、春を彩る。「柳のさハるしなへ」とは、まさに俳諧のことではなかったか。

 「さハる柳」でも基本的に意味は同じだ。ただ、「腫れ物にさわる」という慣用句の意味を表に出すか、裏に隠すかの違いだ。そう考えれば、四人ともあと一歩だったということになるだろう。

 支考、丈草、許六は句の両方の意味に気づいてはいたが、それをあからさまに言わずに裏に隠すという面白さに気づかなかった。去来は「柳のさハる」のほうが面白いことをなんとなく感じてはいたが、それが、表向き消されていても暗に「腫れ物にさわる」という慣用句が響いていることに気づかなかった。それで両者とも一件落着ではないのか。

 芭蕉は去来と支考に「大切の柳一本去来に渡し置きけり」と語ったようだ。元禄七年閏五月下旬から六月に落柿舎に滞在した時なら十分に議論の時間もあっただろう。十月のいまわの際のことだったか。

 芭蕉は自分の説を押し付けるのではなく、よく門人たちにこうした謎掛けをして、考えさせたようだ。そして、門人たちの間にも自由に議論ができる雰囲気があった。それが蕉門十哲とも呼ばれる優秀な門人を多数輩出した蕉門の強さだったのだろう。

 

 

2、 雪の日に(うさぎ)の皮の(ひげ)つくれ   芭蕉

 

 「魯町曰(ろちゃういはく)(この)句意いかが、去来曰、(まず)前書に子どもと遊びてと有れバ、子供のわざと思はるべし。(しひ)て理會すべからず。機関(からくり)踏破(ふみやぶり)てしるべし。昔先師(この)句を語りたまふに、予(はなはだ)感動す。先師曰、(これ)(よろこ)バん者、越人と汝のミと思ひしに、(はたし)てしかりとて殊更(ことさら)の機嫌なりし。或曰(あるいはいはく)、雪ハ越後兎の縁に(いで)たり。来曰、(この)説の古キ事神代巻に似たり。或曰(あるいはいはく)、兎の皮の髭つくるハ、雪中寒キゆへ(なり)。来曰、如此(かくのごとく)に解せバ、暑日(あつきひ)猿若髭(さるわかひげ)をはずしけりの(たぐひ)なるべし。いとあさまし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,30

 

 「雪の日に」の句は詠まれた当初から難解な句とされてきたようで、今日でも明快な解釈はなされていないように思える。ここでもはっきりと意味は述べられていない。ただ「子供のわざ」というヒントが与えられている。兎を越後の雪兎とする説や、寒いから兎の皮で暖めるという説は否定されている。

 子供のわざというヒントにしたがって、まず子供のやりそうなことを想像して見よう。雪といえば、雪だるま、雪兎、雪合戦といったことが思い浮かぶだろう。雪だるまは当時は雪まろげと言われて、これは雪を転がして丸めたものという意味で、果たして今のような雪の玉を二段に載せて人形をつくっていたのかどうかは定かではない。雪兎も当時あったかどうかは定かでない。しかし、雪で何かの形をつくって遊ぶというのはありそうなことだ。雪合戦というのも不明だが、雪をぶつけあう遊びを思いつくのはそう難しいことではないし、端午の節句の石合戦があったのだからいかにもありそうだ。

 おそらく鍵になるのは「兎の皮」が本ものの兎の皮ではなく、比喩だという点だろう。退けられている説は両方とも、本当の兎の皮の意味にとっている。兎の皮は確かに防寒用に利用されていたが、頭がそこからはなれないのが大人の発想だったのだろう。兎の皮とは他ならぬ雪そのものではなかったか。

 たとえば子供が遊んでいて、雪で兎の形をつくる。しかし、そうおとなしく遊んでばかりもいられず、別の子供が雪の塊をぶっつけてくると、今しがた作った雪兎をつかんで投げつける。顔に雪がついて真っ白になる、それが「兎の皮の髭」ではなかったか。

 芭蕉もしばしその子供の雪遊びに加わって、顔に雪の髭ができる。雪の髭のついた顔はあたかも白髭の老人のようで、翁の風情がある。そう、時ならぬ翁の登場こそ芭蕉の心を動かしたのではなかったか。

 去来は子供のやることだから強いて頭でわかろうとしてはいけない。機関(からくり)、つまり計算や技巧的発想を捨てろという。しかし、去来がいったい何に感動したのか、もはやリアルタイムでそれを追体験できない以上、やはり何らかの解明が必要だろう。多分、反射的に雪をかぶった白髭姿が浮かんだのだろう。

 

 

3山路(やまぢ)きて何やらゆかし菫草(すみれぐさ)   芭蕉

 

 「湖春(こしゅん)曰、(すみれ)ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に(たくみ)なりと云へども、歌学なきの過也(あやまちなり)。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下(ぢげ)の歌道者也。いかでかくハ難じられけん、おぼつかなし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3031

 

 句の方は、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中に()んだ句だ。

 證歌(しょうか)というのは元来雅語の言い回しとしての正しさや語句の本意本情の正しさを証明する歌であって、いわゆる「本歌」とは違う。本歌というのは古人の歌の情や場面設定などを引用することで、いわばもとの歌を新たな解釈でカバーするものだ。これに対し、證歌というのは、内容的に異なっていても、言葉の使い方が古歌の例にかなっていればよしとする。

 そのため、基本的には湖春が問題にしているのは、山路の菫が雅語の本意本情として正しいかどうかだ。湖春は菫は野に詠むもので山には詠まないという。これに対し、去来は「山路に菫をよミたる證歌多し」と反論する。

 古代において菫は

 

 春の野にすみれ摘みにとこし我ぞ

    野をなつかしみひとよ寝にける

                  山部赤人(やまべのあかひと)

 山吹の咲きたる野辺のつぼすみれ

    このはるの雨にさかりなりけり

            『万葉集』詠み人知らず

 我が宿にすみれの花のおほかれは

    きやとる人やあるとまつかな

            『後撰集』詠み人知らず

 いその神ふりにし人をたづぬれば

    あれたる宿にすみれ摘みけり

                  能因法師


のように、野の菫と宿の菫が詠まれている。

 中世においても菫はそれに加えて岡の菫、小野の菫、田のくろの菫、庭の菫、、故郷の菫、篠原、武蔵野などがよく詠まれているが、山の菫を詠んだ歌は確かに少ない。とはいえ、

 

 箱根山うす紫のつぼすみれ

     ふたしほみしほ誰か染めけむ

              大江匡房(堀河百首)

 老いぬれば花の都にありわびて

     山にすみれを摘まむとぞおもふ

              永縁(堀河百首)

 色をのみ思ふべきかは山の辺の

     すみれ摘みける跡をこひつつ

              寂蓮法師(寂蓮無題百首)

 とふ人は主とてだに来ぬ山の

     懸け路の庭に咲くすみれかな

              藤原為家(夫木抄)

 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ

     標指すばかりなりにけるかな

              藤原顕季(六条修理大夫集)

 

などの歌がある。

 證歌というのは、一句の中に俗語は一語だけに限っていた基本的に雅語で作り雅語の学習を第一にする貞門や初期の談林の俳諧では、重要な意味を持っていた。しかし芭蕉が、季題などの使い方に関して、證歌を参照すべしといったような発言は見られない。

 芭蕉は決して古典の本意本情を無視していいと言っているわけではなく、本意本情をあくまで重視する立場ではあるが、むしろ対象から直接感じ取ることによって新しい季題を発見したり、古い季題に大胆な新しい解釈を施したりすることを重視するもので、古典の不易の情と新味とを一致させる不易流行の俳諧こそ、芭蕉が目指すところのものだった。だから、山路の菫の句で菫を古人が山に詠んだことがあるかどうかはさして重要ではなかった。

 證歌といえば、伊丹派の上島鬼貫(うえしまおにつら)がまだ若かった頃、西山宗因の同席する俳諧興行の席で、

 

    ちょっと見には近きも遠し吉野山

 腰にふくべをさげてふらふら     鬼貫

 

という句を付けたところ、宗因に吉野にふくべ(ひょうたん)は何か古歌や古事に出典があるのかととがめられ、あわてて即興で

 

 みよし野の花の盛りをさねとひて

    ひさごたづさへ道たどりゆく

 

という歌をこしらえ、確か万葉か夫木にあったなどと言って宗因を騙したエピソードがある。

 しかし、このエピソードも「いにしへは名所などに物もて付くる句は、古歌にても古事にても、(たしか)ならん証拠なき句は付けさせ侍らず。」ともはや昔話のように語っている。

 湖春はそうした古いタイプの俳諧師で、去来としては無視してもよかったのかもしれない。しかし、師匠が和歌を知らないと言われれば、やはり面白くなかったか、ついつい具体例を引用するでもなく「山路に菫をよミたる證歌多し」などと言ってしまったのだろう。

 そして、去来はさらに「湖春ハ地下(じげ)の歌道者也」というが、確かに湖春は宮廷歌人でないという意味では地下(じげ)の歌人に違いない。この「地下」という言葉には「もぐり」という意味も込められているのだろう。

 

 

4、 笠(さげ)て墓をめぐるや初しぐれ    北枝(ほくし)

 

 「先師の墓に(まうで)ての句(なり)許六(きょりく)曰、(これ)(わき)よりいふ句なり。(みづか)ラ何の疑有(うたがひあり)てやとハいはん。去来曰、やハ治定(ちぢゃう)嘆息のや也。常に人を(とふ)にハ、笠を(さげ)て門戸に(こそ)()レ。是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉(ことかな)やといへる也。(おほそ)ほ句ハ一句を(もつ)(きく)べし。笠提て門に這入(はひ)るやといはば疑なき外人(よそびと)の句也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,31

 

 「や」という切れ字は今日では何の問題もなく詠嘆の言葉として読まれているから、森川許六(もりかわきょりく)が何で「(みづか)ラ何の疑有(うたがひあり)てやとハいはん」と言ったのか、理由がわからないかもしれない。

 「や」に限らず、近代では切れ字の用法についてはほとんど問題にはならない。 正岡子規が明治三十一(一八九七)年の『或問』で切れ字について「大体より言へば切字は文法上の終止言を指すといひて可なるべし」と断定し、それに基づいて「古俳書の切字などを論ずる誤謬多きこと此類なり」と一方的に決めつけ、しまいには「切字など論ずるは愚の至りなれど問はるゝ儘に何くれと書いつけ置きつ」と締めくくったことで、それ以来切れ字を論じること自体が方法的に間違っているとされてきたからだ。近代俳句の句作法としてはそれでいいかもしれないが、それを安易に古典に適用するのは、法律を制定以前に遡って適用するようなものだ。

 切れ字は終止言とは関係なく、発句を一句として完結させる働きのある言葉で、切れ字が来たからといって、そこで文章が終わるわけではない。たとえば、

 

 花や雪あらしの上の朝ぐもり    二条良基(にじょうよしもと)

 花や雲見し面影(おもかげ)のたつた山     周阿(しゅうあ)

 

の句で。「花や!」で一度文章が終止しているなんて言う人はいないだろう。「花や雪」は「花は雪(のごとし)」の強調の形であり、雪まで来て文章は終止する。むしろ本来「や」を詠嘆の言葉としてそこで終止させる用法は口語的なもの(今日でも関西地方で用いられているように)であり、雅語ではこうした用法はほとんど見られなかった。雅語ではむしろ係助詞の「や」から派生した言葉で、「や‥‥らん」と言う係助詞の言い回しの「らん」の省略に近い。古くは『古今集』の

 

 谷風のとくる氷のひまごとに

    打ち出づるなみや春のはつ花

                  源当純(みなもとのまさずみ)

 

にその例がある。

 そもそも、係助詞の起源そのものが倒置によるものであり、「去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ」は「去年(こぞ)といはむや今年といはむや」の「や」を前に持ってきたもので、そのため連体形で終ることになる。同様に、「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置、「人こそ見えね」は「人の見えね(ば)こそ」の倒置となる。倒置されても動詞の活用はそのまま残るため、連体形や已然形で結ぶことになる。だから、「花や雪」は「花は雪や?」の意味で、花は雪だろうかという疑いをあらわす。それゆえ、「疑いのや」となる。「打ち出づるなみや春のはつ花」は、「打ち出づるなみは春のはつ花や?」となる。このように倒置させた場合、「や」以下の部分は推量を含んだ主観的な断定となる。芭蕉の有名な句

 

 行春(ゆくはる)や鳥啼き魚の目は泪

 夏草や兵共(つはものども)が夢の跡

 (しずか)さや岩にしみいる蝉の声

 

の「や」も、本来は

 

 行春(ゆくはる)に鳥啼き魚の目は泪や

 夏草は兵共(つはものども)が夢の跡や

 (しずか)さに蝉の声の岩にしみいるや

 

の倒置と言っていいだろう。これを、

 

 行春(ゆくはる)に鳥啼き魚の目は泪

 夏草に兵共(つはものども)が夢の跡

 (しずか)さの岩にしみいる蝉の声

 

とした場合と比較してみればわかるが、明らかに一句としての完結性が高い。その意味では、明らかに「や」は切る字なのである。

 

 行春に鳥啼き魚の目は泪

    悲しかりけり悲しかりけり

 

などとつなぐと川柳(付け句が独立したもの)と区別がつかなくなる。「や」という言葉が切れ字として働くのは、「や」以下の句を疑うことによって、「や」より前の句をより強調し、「や」以下を「や」以前に従属させる働きがあるからだ。だから、「や」を他の助詞に代えると、後ろのほうに重心がかかり、最後が体言止などの終止のはっきりしない言葉が来れば、必然的に後に何かまだ文章が続かなくては収まりが悪くなるのだ。

 「や」という切れ字は、本来は文章の最後に「や」と添えられた疑問・反語の助詞であり、これを置くことで文章全体の独立性が高まる。それを係助詞的に倒置させることで、途中に持ってくることの方が遥かに多くなったと考えた方が良い。

 発句の末尾に「や」を持ってくることは、今日でも初心の人はしがちなことで、芭蕉の談林時代にも、

 

 夏の月御油より出でて赤坂や   桃青

 

の句がある。

 この句は、

 

夏の月や御油より出でて赤坂に

御油よりや出でて赤坂夏の月

 

とすることもできる。ただ、句は元の形の方が優れている。

この場合の「や」の用法も、実際に月が御油を出て赤坂に沈んだのではなく、東海道の御油宿と赤坂宿の間は二キロしかないことから、あくまで夏の夜の短さの比喩として用いてるもので、現代語だと「御油で出たと思ったら赤坂で沈んでしまったか(のようだ)」であろう。

 そして、最初は疑問・反語、つまり「うたがひのや」だったのが、実際には疑を入れつつも最終的に肯定する「治定のや」として多く用いられるようになり、江戸後期には本来の「や」の使い方が忘れ去られて、関西方言で今も用いる「や」に引きずられる形で詠嘆の「や」が主流になっていったのではないかと思う。

 さて、「笠提て」の句だが、森川許六の『俳諧問答』にはこうある。

 

 「加賀北枝集に(いは)ク、序ニ翁三年忌に木曾塚へ上りて、追善の句書入たり。

 

 笠提て塚を廻るや村しぐれ

 

云句也(いふくなり)(この)一句にて、大方奥まで決定せり。句にかくれたる事なし。湖南の衆もとりたるか、集の序文ニハ書入(かきいれ)たり。中の七字のやの切字(きれじ)、うたがひ(なり)遥々(はるばる)加州より師の追善ニ上りて、何のうたがひあるや。惣別(そうべつ)自句・他句といふ事をしらぬ程の作者也。此句ハ北枝が句ニハあらず。『塚をめぐるや』といへば他句也。自句ニハ非ズ。加賀の友などの句にて、北枝の事をおもひやりたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.130131

 

 『去来抄』にいう「許六曰、(これ)(わき)よりいふ句なり。(みづか)ラ何の疑有(うたがひあり)てやとハいはん。」というのは、この論難に他ならない。つまり、「笠提て塚を廻るや村(初)しぐれ」の句は「村(初)時雨に笠提げて塚を廻るや」の倒置、つまり時雨に打たれながら笠を被らずに手に提げて塚を廻ったのだろうか」という意味で、自分で回ったのなら「廻ったのだろうか」と疑うはずはなく、これは北枝の友が北枝のことを思いながら作った句だという。

 これに対し、去来はこの「や」は「治定(ちじょう)嘆息」の「や」だと言い切る。これだと、句の内容は、普通なら門戸のうちに入るときに笠を手に提げるものを、なき芭蕉翁の追善だからこそあえて屋外の塚を廻るにも笠を手に提げたという意味で、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の不朽の名作を詠み、時雨の季節に死んだ師匠を慕って、あえて時雨に濡れたという意味に解する。その心がわかるのは紛れもなく北枝であり、よそ者が詠んだのなら、当たり前に、

 

 笠提て門に這入るや初時雨

 

とでもするだろう、と言う。

 この「や」は単に治定と言わず、「治定(ちじょう)嘆息」と言っている所が微妙だ。疑いつつ肯定するなら、主観的な内容でなければならないが、「笠提て塚を廻る」は疑いながらも肯定するような内容ではない。実質的に詠嘆の「や」と言っていい。

 問題は、許六が雅語の「や」の用法にこだわっているのに対し、去来を始め、他の門人も普通にこうした口語的な「や」の用法を用いてたということだろう。たとえば許六は、

 

 秋風や誰にかミつく栗のいが   幽泉

 

の句に対し、『俳諧問答』では「秋風や」と「誰」と、疑いの言葉が重複していて、「や」の後を疑うなら重複だし、「や」の前の秋風を疑う理由はないので、むしろこれは、

 

 秋の風誰にかミつく栗のいが

 

とでもしたほうが良いという。これだと「秋の風に栗のイガは誰にかみつく」の倒置となる。秋風に栗の枝が揺れて、栗のいがが誰かにかみつこうとしているみたいだ、というのがこの句の意味と言っていい。

 この場合、「誰にかみつくや」とすると、誰にという疑問詞と「や」という疑問詞が重複するからおかしいというのである。「誰にかみつくや」という二重疑問が可であれば、「秋の風や栗のイガは誰にかみつく」という倒置も可能であり、さらに「秋風や誰にかみつく栗のイガ」と倒置にすることも可能になる。

 ここでさらに許六は、榎本其角の、

 

 初雪や内に居さうな人ハ誰

 

の句を例に出し、これは「初雪や」と疑った後、後に雪の話題が続くから良いのだと言う。この場合、「初雪に内に居さうな人ハ誰や」の倒置だから、スムーズにつながるが、「秋風や」の句は「誰にかみつくや」と疑問詞が分離してしまっているので、確かに不自然な感じになる。

 

 おそろしや誰にかミつく栗のいが

 

であれば、「おそろしや」が分離して独立した文になり、「おそろしや!栗のいがは誰にかみつく」となる。

 こうした許六の議論は確かに筋が通っている。ただ、われわれから見て奇異に思えるとすれば、それは我々があまりに詠嘆の「や」を自明なこととして、他の「や」の用法を視野に入れていないからだ。

 これに対し『俳諧問答』の

 

 春風や焼野の炭の跡もなし   笑計

 七夕やいはむ事なし夜半過   猿雖

 

の場合は

 

 春風に焼野の炭の跡もなし

 七夕にいはむ事なし夜半過

 

と書き換え可能で、また問題は違ってくる。この場合、「や」より前を疑う理由もないし、「や」以下は「なし」というもう一つの切れ字で断定されてしまっていて、疑いの余地はない。異なる切れ字の重複でこれも許六にはNGとなる。許六によれば芭蕉の

 

 明月や座にうつくしき顔もなし

 

の句は「名月の」の上五が正しいという。確かに「名月や」という上五は『泊船』『初蝉』のような芭蕉の死後に出版された本に見られるもので、元禄3年8月16日付の加生宛書簡には「月見する」とある。

 「名月の」の形もあったのか、許六の記憶違いかは定かではないが、その主張の正当性は認められる。

 さて、結局

 

 笠(さげ)て墓をめぐるや初しぐれ    北枝

 

の句に戻るが、この句は確かに「初しぐれに笠(さげ)て墓をめぐるや」の倒置であろう。ただ、この「や」は詠嘆の「や」であり、疑いの「や」ではない。

 おそらく、詠嘆の「や」というのは本来の雅語の「や」ではなく、今日関西方言で用いるような、「アホや」とか「まんまやないけー」とかいうときの口語の「や」であり、許六と去来との間に溝があったとすれば、この「や」を許六は理解していなかったし、認めてもいなかったという点だろう。同様な議論は、同じ「同門評」の32でも展開されている。

 

 

5、 春の野をただ(ひと)のミや雉子(きじ)の声   野明(やめい)

 

 「(はじめ)ハ春風や広野にうてぬ雉子(きじ)の声(なり)。去来曰、うてるうてぬとあたり(あひ)てやかまし。広キ野をただ(ひと)のみやといハん。丈草(ぢゃうさう)曰、広の字いやし。春の野ト有らんか。去来心腹ス。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,31

 

 この句は初案では、

 

   春風や広野にうてぬ雉子(きじ)の声

 

だった。

 「うてぬ」というのは「うてる」で心打たれるということか。辞書には「気をのまれる、圧倒される」とある。何かドキッとするような感覚だろう。雉の声は今では聞こえなくなってしまったが、昔は野原や田畑など、半分人工的な開けた土地に数多く生息していたのだろう。狩猟の対象にもなっていた。春の季題でもある。

 この句を去来は「うてるうてぬ」と「やかまし」と言う。「やかまし」は今日の「やかましい」という意味の他にかつては「ややこしい」という意味もあり、このばあい、「うてぬ」が「撃てぬ」に聞こえてややこしいということだろう。そこで、

 

 広き野をただ(ひと)のみや雉子(きじ)の声

 

としたらどうかと言う。雉だけで春の季語になるから、春風は省き、「うてぬ」を「ただ一のみや」という長い言葉にしている。雉の一声に心打たれるのを、一声に余韻を持たせ、「ただ」に感動を込めた言い回しで、さすがにうまい。ただ、「広き野」が何となく即物的で、殺風景な感じが残る。丈草が

 

 春の野をただ一のミや雉子(きじ)の声

 

としたので、これには去来も脱帽だった。

 

 

6、 馬の耳すぼめて寒し梨子(なし)の花   支考(しこう)

 

 「去来曰、馬の耳すぼめて寒しとハ(われ)もいへり。梨の花とよせらるる事妙也(ことめうなり)。支考曰、何のかたき事か有らん。吾子(ごし)の如く、かしらより一すじに(いひ)くださん社難(こそかた)けれと論ず。曲翠(きょくすゐ)曰、二子(たがひ)得処(うるところ)(やす)しとし、不得処(えざるところ)(かた)しとす。其論共に尤也(もっともなり)。しかれども惣体(そうたい)(いは)バ、一すじに謂下(いひくだ)さんハ(かた)かるべし。来曰、翠亦得(すゐまたえ)られざる故也(ゆえなり)(およそ)修行ハ()が得処を養ひ、不得処を学バば、次第にすすミなん。得処になづんで(ほか)をわすれバ、(つい)に巧を成すべからず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3132

 

 この「馬の耳」の句は支考の『笈日記』に、

 

 「卯月十八日許六亭に寄宿す。物語の序にみづから絵がきたる色紙数多取出し給へるに、人々の筆にてその人のほつ句かかせきたるが、巻頭は先師はせを庵の四季の句にこそおはしけるくりかへしたる中に、梨の花の白妙に咲てその陰に唐めきぬる人の驢馬の頭引たてて背むきに乗たる絵の侍り。是は支考が東路にて『馬の耳すぼめて寒し梨の花』と申侍しほつ句かかせむと思へるなるべし。されば此句のからめきて詩に似たりと見給へる眼は繪を得て俳諧をさとり俳諧をえて繪にうつし給へるならん。みづからなしをきたる事の此さかひにいたらざるは絵につたなきゆへならんといとうらやましかりし。」

 

とある。この句は中国を連想させる句だった。「東路にて」とあるのは、支考の元禄五年春の奥州行脚の時の句か。

 漢語では「梨雪」という言葉もあり、梨の白い花は雪にたとえられる。山桜に似ているが、花はやや大きめで、桜よりはややしっとりとした梨の花は、樹の形状からして華やかさに欠け、春も終わりの暖かい季節に咲くにもかかわらず、寒々とした印象を与える。『枕草子』の第三十七段には「梨の花、世にすさまじきものにして、ちかうもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。」とある。

 去来が言うには、「馬の耳すぼめて寒し」までは自分でも思いつく。しかし、そこに「梨の花」を持ってくるというのは自分にはできない、と

 写実というのは絵画であればそのまま視覚体験を再現するということも可能だ。しかし、言葉の場合、長い散文の描写ならまだしも、俳諧のような短い言葉での写実ということになると、いわゆる描写の精密さはほとんど問題にならない。むしろ、読者の多くが持つ共通のイメージや体験に訴えることによって、まざまざと絵を浮かび上がらせる、いわば読者に「ある、ある。」と思わせることが重要になる。たとえば、芭蕉の『冬の日』の

 

    わがいほは鷺にやどかすあたりにて

 髪はやすまをしのぶ身のほど       芭蕉

 

といった付け合いでも、当時の人は「いるんだよなー、こうゆうの」という反応が期待できただろう。ただ、ほとぼりが冷めるまで、一時的に頭を丸めている人、直接あったことはなくても噂には聞くような人物像、それを巧みに思い起こさせるところにリアリティーが生じる。

 去来の

 

 なにごとぞ花見る人の長がたな

 

の句にしても、実際に武士がおしのびで庶民に混じって花見に来ることはあるだろうけど、これ見よがしに刀を差していたかどうかはわからない。

 写実はもちろん、芭蕉の「塩鯛(しほだひ)歯茎(はぐき)も寒し」や「鶯の餅に(くそ)する」や「汁も(なます)も桜かな」のように、いかにもありそうなというよりも当時なら誰もが目にしたことがあるようなものもあるだろう。ただ、「ありそうな」と「あった」との境界はそれほどはっきりしたものではない。あっても見過ごしている場合も多いからだ。「先師評」39の

 

 妻呼雉子(つまよぶきじ)の身をほそうする   去来

 

の句にしても実際に雉をつぶさに観察した人なんてそうはいないだろう。ただ、こう言われると何となく絵が浮かぶ。

 支考の

 

 馬の耳すぼめて寒し梨子(なし)の花

 

の句にしても、私自身馬のことはよくわからないから、本当に寒いときに馬がそうするのかどうかは知らない。しかし、ありそうだという感じはする。

 こういう絵が浮かぶことを、芭蕉は「姿」と呼んでいたようだが、支考の独自の俳論では、むしろ「虚」と呼ばれるものであろう。虚は実に対する概念で、そこには目に映るものは見せかけの世界で、現象の背後に隠された真実の世界があるという、当時の世界観が反映されている。虚とは仏教的に言えば「色相」であろう。「実」は「み」とも読めるように、「実」に対して「虚」を「花」と呼ぶこともできるだろう。朱子学的には「実」は「まこと」であり、「理」や「性」でもある。これに対し、「虚」は「気」といえよう。

 「実」とは風雅の誠であり、人間としての普遍的な感情、真情を言う。これがなければいかに句に姿があっても「謂いおうせて何か有る」ということになる。

 

 下臥につかみ分ばやいとざくら

 つき出すや樋のつまりの(ひきがえる)

 

はこの類になる。ただし、これは発句の場合で、付け句は二句合わせて情が生じればそれでいい。

 去来は「馬の耳すぼめて寒し」のような虚の部分は真似できても、実の部分をこういうふうに一見何の関係もないかのようなものと取り合わせて作るようなやり方が自分にはできないというのだろう。

 確かに凡庸な作者なら、「馬の耳すぼめて寒き月夜かな」だとか「馬の耳すぼめて寒き時雨かな」みたいに、「寒月」や「時雨」の出来合いの情にまとめ上げてしまうところだろう。それに比べると、「梨の花」には飛躍がある。こうした飛躍は理屈で思いつくようなものではなく、感覚的なひらめきであり、おそらく支考は芭蕉の「古池」の句もそのようなものと考えていたのだろう。

 これに対し支考は「難しくも何ともない。去来のように頭から一気に言い下すような句の方が難しい」という。支考の句は馬の耳と梨の花との取り合わせでできている句で、その関連性はあくまで感覚的なもので、「一すじに謂くだす」ようなものではない。むしろ、「馬の耳すぼめて寒き時雨かな」とでもすれば一筋に言い下せるし、「馬の耳すぼめて寒し初時雨」でも、一筋に言い下している。なぜなら、これは倒置で、「初時雨に馬の耳すぼめて寒し」とできるからだ。当時はこうした句が多かった。

 

 笠(さげ)て塚を(めぐ)るや村しぐれ

 

は「村しぐれに笠提て塚を廻るや」の倒置だし、

 

 春の野をただ一のミや雉子(きじ)の声

 

は「雉子の声は春の野をただ一のミや」という意味になる。これに対し、

 

 馬の耳すぼめて寒し梨の花    支考

 

は、「梨の花に馬の耳すぼめて寒し」としても意味がよく通らない。つまり、支考の句は近代でいう二物衝突に近い。そこが去来としては「妙」だったのだろう。支考はこういう句の作り方が得意だった。他にも、

 

 春雨や枕崩るるうたひ本

 食堂(じきどう)に雀啼なり夕時雨

 元服や丹波の小雪ふれこんこ

 鳥のねも絶ず家陰(やかげ)の赤椿

 

のように、余り必然性がなく感覚的に物を取り合わせてゆく句が支考には多い。その意味では支考の句の方が近代的なのかもしれない。蕪村もこういう句を得意としている。

 支考の『梟日記』では長崎の去来のもとを訪れた時、去来の弟子の卯七に自讃の句を問われて、

 

(はらわた)に秋のしみたる熟柿かな    支考

梢まで来てゐる秋のあつさかな   同

 

と答えている。意外にも支考の得意としていた取り合わせの句ではなく、難しいと言っていた「一すじに謂くだす」句を選んでいる。必ずしもその人の得意パターンがその人の理想とは限らない。

 曲翠は、一般的には一筋に言い下す方が難しい、というが、去来は戒めて言う。それは曲翠が取り合わせる方が得意だからで、人にはそれぞれ得意なもの不得意なものがあり、得意なものに満足して不得意なものを学ばないなら進歩がなく、得意なものを大事にしながら不得意なものを学んでいかなければならない、と締めくくる。この無難な締めくくりこそ、いかにも去来らしい。

 

 

7、 白水の流も寒き落葉かな   木導(もくだう)

 

 「其角曰(きかくいはく)、もハ今一ツ有の詞也(ことばなり)。去来曰、角ハ(これ)を又もト思はるるにや。是等(これら)ハ力もなるべし。寒きハ冬の惣体也(そうたいなり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,32

 

 言葉は生き物で、時代によって変わってゆく。そもそも文法というのは言語を記憶する際の形式で、生得的に持っているいくつかのパターンの中から一定の法則を選び、秩序付けてゆくにすぎない。わかりやすく言えば、人は生まれながらにいくつかの言葉をしまっておく容器を持っていて、どの容器に入れるか、その組み合わせで様々な言語の文法体系ができる。この容器の選択が、赤ちゃんが言語を自然習得してゆく段階で、各自の頭に独自に起こる以上、百人が百人同じ文法を学習するわけではない。

 ただ、一人だけあまりに人とかけ離れていると通じなくなるため、その場合は実際に会話を繰り返してゆく中で次第に修正される。しかし、数的に伯仲してくれば、そこでお互いに綱引きが生じ、最終的に勝ったほうが正しい文法となる。

 たとえばここ二三十年絶えず話題になる「ら抜き言葉」にしても、これは上一段活用やカ行変格活用する動詞の可能体を表現するのに、助動詞の「られる」を使うか、五段活用の動詞のような可能動詞を生成するかの間で揺れ動いているのにすぎない。

 「ら抜き言葉」は正確に言えば「ら」が抜けているのではない。「動く」を「動かれる」と言わずに「動ける」としたり、「学ぶ」を「学ばれる」と言わずに「学べる」と言う、その文法を上一段活用やカ行変格活用の動詞に拡大使用しているにすぎない。

 古典を学習するときに気をつけなくてはならないのは、古語と言うのは万葉の時代から明治初頭(言文一致運動以前)にかけて千年以上の幅があるため、その間でも言葉は絶えず変化しているということだ。だから辞書や参考書の意味を丸暗記しても、かえって先入観になる場合もある。

 言語の習得は外国語を学ぶ場合もそうだが、単語の丸暗記や文法の丸暗記ではまず物にはならない。それは中学・高校・大学で十年英語を勉強しても多くの人が簡単な日常会話すらできないのを見ればわかる。

 理由は簡単だ。丸暗記した単語は日本語の文法の容器に入ってしまうし、丸暗記した文法は単に知識として記憶され、新たな文法の容器を選択するわけではないからだ。だから、interectだとかconscienceとかいう単語を覚えても、それを英語の文脈の中で使いこなすことは難しいが、カタカナ言葉として「君にはインテレクトがない上、コンシエンスのかけらもないのか!」という使い方ならいつでもできる。これは日本語の語彙として記憶されているからだ。

 残念ながら、受験で覚えた何千という単語は、日本語の語彙を増やしただけだったのだ。それと同様、古文単語の丸暗記も、基本的には現代日本語の語彙を増やしているだけだ。

 ただ、古文の場合は実際に会話して学ぶということができないため、ただ用例からイメージをふくらまし、この時代はこういう言い方をしたというのを体に刻み込んでゆくしかない。

 「笠(さげ)て」の句のときも治定(ちじょう)の「や」か疑いの「や」かが問題になったが、(詠嘆の「や」は現代語だ。)ここでも「又も」と「力も」が問題になる。

 これを今日の感覚で単純に「こう読むのが自然だ」だとか「こうしか読めない」と言われても困る。その人がいかに正確な標準語を話そうが、それは現代の言葉であって芭蕉の時代の言葉ではない。芭蕉が今のNHKラジオを聴いたとしても、外国語を聞いているようなものでチンプンカンプンだろう。

 この文章からわかるのは、其角はこの、

 

   白水の流も寒き落葉かな   木導

 

の句を、何か寒いものがあって、それとは別に白水の落ち葉も寒い、という意味に取ったということだ。こうした「も」の用法を「又も」といい、それに対して去来は、この「白水の」の句の場合は「力も」だという。これだけではどういう用法かわからないが、そのあと「寒きハ冬の惣体也。」という言葉から推測するなら、冬の何もかもが寒い中でとりわけ白水の落ち葉が寒い、というそういう用法だと思われる。

 白水は清らかな流れのことで、白と水を合わせると泉になる。米のとぎ汁という意味での「しろみず」という言葉もあるが、それだと意味がよくわからない。むしろ「はくすい」と読んだほうがいいのかもしれない。

 あとは、この用法で句をよりよく解読できる別の用例を探せばいい。たとえば、

 

 二日にもぬかりはせじな花の春   芭蕉

 

の句の「も」はどうだろうか。これを「力も」だとすると、いつだって本当はぬかってはいけないのだけど、とりわけ正月の二日はしっかりしなくてはいけない、という意味になる。

 この句は通常「又も」に解釈されて、正月元旦はしっかりしなければならないが、二日も気を抜いてはいけない、という意味に解されている。

 しかし、この句は大晦日に酒を飲みすぎて元旦を寝過ごしたという自戒の句だということは、「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」と『笈の小文』の前書きにあることから明らかだ。元旦はしっかりしていたが二日も抜かりなく、という句ではない。その意味では、この句の「も」も「力も」だとした方がわかる。

 

 今日ばかり人もとしよれ初しぐれ   芭蕉

 

の句の「も」はどうだろうか。この句も通常は「又も」と解され、今日ばかりは年寄りだけでなく若い人も年寄りの気分になってくれ、といった意味に解説されていることが多い。

 これに対し「力も」だとすると、時はいつでも過ぎ去り、あらゆるものは年を経て年老いてゆくが、初時雨の今日ばかりは人もより年を経てゆくのを感じる、といった意味になる。

 「人も年経れ」とすれば句の意味はわかりやすくなるが、あえてそれを嫌い、「降る」「経る」の古典的な掛詞を言外に留めたところが芭蕉ならではのテクニックだろう。

 このほかにも、

 

 塩鯛(しほだひ)の歯ぐきも寒し魚の(たな)   芭蕉

 

は、用法が「白水の」の句によく似ている。こうした並べるものがないときに用いられる「も」は「力も」と考えていいのだろう。

 こうした「力も」の用法は、今日では失われてしまったのだろうか。そんなことはない。ネットで調べるとwordrabbitの「助詞とは」の所に「副助詞の『も』には、同類・強調・並立の意味があります。」と書いてある。

 たとえば「何をする気力もない」というのは体力もないが気力もないという並列で言っているのだろうか。気力もないがそれとともに他のものもないという同類でいってるのだろうか。

 

 

 

8、 卯の花に月毛(つきげ)の駒のよ(あけ)かな

 

 「去来曰、予(この)趣向()リキ。句ハ有明の花に乗込(のりこむ)といひて、月毛駒・芦毛馬ハ詞つまれり。の字を入れバ口にたまれり。さめ馬ハ()ならず。紅梅・さび月毛・川原毛(かはらげ)、おもひめぐらして首尾セず。其後六(そのごりく)が句を見て不才を(たん)ず。()に畠山左衛門佐(さゑもんのすけ)(いへ)バ大名、山畠佐左衛門(やまばたけすけざゑもん)と云ヘバ一字をかえず庄屋也(しゃうやなり)。先師の句調(ととの)ハずんバ舌頭(ぜつとう)千囀(せんてん)せよと(あり)しハ、ここの事也(ことなり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,32

 

 「卯の花」の句は最初去来が、

 

 有明の花に乗込月毛駒(のりこむつきげこま)

 有明の花に乗込芦毛馬(のりこむあしげむま)

 

などいろいろ下五が決まらず行き詰まっていたが、それを見た許六が語順を思い切って入れ替え、

 

 卯の花に月毛の駒のよ明かな

 

にしたという。

 越人の句に、

 

 思い切る時うらやまし猫の恋

 

を、

 

 うらやまし思い切る時猫の恋

 

に直した句があったが、これも句のつかみとしては「うらやまし」で始まったほうがインパクトはある。

 去来の迷いも、「有明の花」で始まり、夜明けの桜の幻想的な風景を振っておいて、そこで何が起こるのか読者に期待させてしまうため、下句でそれを超える趣向がないと尻つぼみになってしまう。下五がどうやってもしっくり来ないのは、上句が重すぎたからだ。

 許六は何となくそれに気付いていたのだろう。桜の夜明けでは月毛の駒もかすんでしまうので、桜よりは地味な卯の花と取り合わせ、夜明けを最後に持ってくるところで、月毛の駒を夜明けの美しさの添え物としている。

 ただ、語順の重要性は盛り上げ方の問題であって、畠山左衛門佐の例が適切かどうかはよくわからない。畠山左衛門佐というといかにも大名のような堂々とした名前だが、山畠佐左衛門だと立派そうだがどこか風格に欠ける庄屋クラスの名前になるというが、これはあまり関係がないのではないか。ネタとして面白いから使ってみたかっただけだろう。

 最後の「句調(ととの)ハずんバ舌頭(ぜつとう)千囀(せんてん)せよ」の言葉はともすると「読書百遍意おのづから通ず」的な精神論にもなりがちだが、全く未知の言語ならいざしらず、辞書や文法知識や様々な情報があれば百回読まなくても、労力を節約することができる。句を調えるにせよ、語順の重要性を学ばずに闇雲に百回唱えれば良いというものではない。

 「千囀(せんてん)しばしばと表記され千回口の中で転がすことだと説明されることもある確かに早稲田大学所蔵の文政期の写本には口篇はなくて、転になっているが、千回転がすでは意味が通らないので千回(さえず)るの間違いだろう。杜牧の詩に「夏鶯千囀弄薔薇」の用例がある。

 囀るという言葉は源氏物語玉鬘巻でも、大夫の監の言葉が訛りがひどくて意味がわからない様子を表すのにも用いられていて、鳥の囀りは無駄に長々と訴えることを揶揄するときにも用いられるが、囀りは本来繁殖期の求婚の声だからその意味でも玉鬘巻の用法は適切だ。囀りは相手に聞かせるもので、呟きではない。

 つまり句を調えようと思ったら、ゆっくりと、目の前に聞いている人がいるのを想像しながら発声した方が良い。

 上五を読み上げて、間を作って次に何が来るか期待させて、果たして聞いてる人は次に何を期待するか。次の中七で期待通りに盛り上がるか。最後の下五できちんと落ちが決まるか。それくらい計算しないといけないということで、無駄に百回唱えたところで何の意味もない。

 「調う」というのは、こうして最も面白く盛り上がる形で完成することを言い、この「調う」の用法は、ねずっちの謎かけの「ととのいました」という時と同じ用法と考えても良い。

 

 

9、 鶯の(ない)て見たればなかれたり

   (おき)ざまに()そつとながし鹿の足   杜若(とじゃく)

   干鮭(からざけ)となるなる(ゆく)や油づつ     雪之(せつし)

 

 「去来曰、伊賀の連衆(れんじゅ)にあだなる風あり。(これ)先師の一体(なり)迁化(せんげ)の後益々(ますます)おほし。如此(かくのごとき)類也(たぐひなり)(その)無智なるにハ及がたし。支考曰(しこういはく)、いがの句(あるい)ハさしてもなき句ハ有れ(ども)、いや()ルハ一句もなし。いがの連衆ハ上手(じゃうず)なり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3233

 

 「あだなる」というのは通常ははかない、中身のない、というあまり良い意味ではない。あだなる風というのは、ただ思いついたことをそのまま言い放ったような作風で、良い意味では嫌味がなく素朴だが、悪い意味では洗練さを欠いた田舎臭い句といえよう。

 芭蕉の晩年行き着いた「軽み」は、古典から受け継がれたものの本意本情を重視しつつも、出典の重さを感じさせないような、表向き日常卑近なリアルな題材で本意本情を表現しようとするもので、それが蕉風の最終的な形となった。

 おそらく、伊賀のあだなる風というのは、その「軽み」を十分理解せずに、ただ軽ければ良いという方向にいってしまったのだろう。

 

 鶯の(ない)て見たればなかれたり

 

の句は、鶯の初音がテーマだが、啼いてみたら啼くことができたという、ただそれだけの句で、春の目出度さは感じられない。

 

 (おき)ざまに()そつとながし鹿の足   杜若(とじゃく)

 

 これも起き上がってみたら鹿の足が結構長かった、とそれだけの句で、特に秋の啼く鹿の悲しげな情はない。

 

 干鮭(からざけ)となるなる(ゆく)や油づつ     雪之(せつし)

 

 これも、背負った干鮭(今日の新巻鮭(あらまきじゃけ)とはちがい干してカチンカチンになったもの)と油筒が歩きたびにぶつかって音を立てるというもので、歳末の風物ではあるが、だから何なんだと言いたくなるような句だ。こうした句は、しいて言えば芭蕉の

 

 あまのやは小海老(こゑび)にまじるいとどかな

 

の風体に近いだろう。

 去来はこれを「無智なるにハ及がたし」といい、支考は「上手」という。去来と支考の作風の違いだろう。

 去来は句をひねりすぎるあまりにかえって月並みな発想を脱しきれず、支考はひらめきで面白い取り合わせをするが、一発芸で技巧的ではない。

 去来から見ると、伊賀の連衆は古典も知らないし技術もないと思うし、支考から見ると素朴で嫌味がないのは技術があるからだとする。支考がやがて起こす美濃派や伊勢派の作風も、この「あだなる風」とそれほど遠くなかったのではなかったか。

 

 

10、 鶯の舌に(のせ)てや花の露   半残(はんざん)

 

 「去来曰、乗スるやといハバ風情(ふぜい)あらじ。(のせ)けりと()ハバ句なるまじ。てやの一字千金。半残(はんざん)()に手だれ(なり)丈草曰(ぢゃうさういはく)、てやといへるあたり、上手のこま(まは)しを見るがごとし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33

 

 半残も伊賀の作者。芭蕉の最後の伊賀から大阪への旅の時に、奈良まで送っていった人だ。

 これは切れ字の微妙な使い方で、問題は現実に鶯の舌に花の露が乗っかっているはずなく、あくまで花の露が乗っかっているかのように澄んだ美しい声だというところにある。

 

 鶯の舌に乗するや花の露

 

では、この場合の「や」は疑いの「や」で、鶯の舌に花の露を乗するや、という倒置になる。句としては意味は通るが、これだと「これから乗せるのだろうか」というニュアンスになり、既に鳴いた鶯の声の美しさが引き立たない。

 

 鶯の舌に乗せけり花の露

 

はまったく論外で、これでは現実に鶯の舌に花の露が乗ってしまったという、何ともシュールな光景になってしまう。

 鶯は既に鳴いているのだから、時制としては過去でなければならないが、あくまで過去を振り返っての推量であり、「てや」が正解となる。

 

 

11、 鶯の身を(さかさま)にはつね(かな)     其角(きかく)

   鶯の岩にすがりて初音哉(はつねかな)     素行(そかう)

 

 「去来曰、角が句ハ春煖(しゅんだん)乱鶯(らんあう)也。幼鶯(ようあう)に身を(さかさま)にする(きょく)なし。初の字心得がたし。(かう)が句ハ鳴鶯(めいあう)の姿にあらず。岩にすがるハ、(あるい)ハ物におそはれて(とび)かかりたる姿、或餌(あるいはゑ)ひろふ時、又ハここよりかしこへ(とび)うつらんと、(つた)ひ道にしたるさま也。(およそ)物を作するに、本性(ほんじゃう)をしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るるは其物に着する(ゆゑ)也。(これ)本意(ほい)を失ふと(いふ)。角が巧者すら時に(とつ)過有(あやまちあり)。初学の人(つつし)むべし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3334

 

 句の姿は重要だし、誰もが「ある、ある。」というようなものや、「いかにもありそうな」というのは、句にリアリティーを与える。しかし、誇張しすぎると、いかにも作りっぽくなってしまう。

 ベタな漫画に「遅刻ー!」と言いながらパンをくわえて走る人がいたりするが、実際にこんな人を見た人がいるだろうか。TVアニメの「サザエさん」の主題歌に「お魚くわえたどら猫」という歌があるが、本当に裸足で猫を追っかけている主婦を見たなら感動ものだろう。

 鶯の初音だから、何か不慣れで、通常とは違う突飛なことをやりそうだ、という雰囲気はわかる。しかし、

 

 鶯の身を(さかさま)にはつね哉     其角

 

はいかにも大げさで、やはり去来に、これは春も爛漫で乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と突っ込まれてしまった。

 

 鶯の岩にすがりて初音(はつね)哉    素行

 

も同様、実際にそんな岩場の危なっかしいところで恋鳴きはしない。

 これらは鶯の初音という、初春の目出度い心を表現したものではなく、むしろ何か目新しい趣向を求めるあまりに、現実離れし、本来の目出度い情を逸してしまっている。俳諧は新味を命とするが、目新しさばかりを求めると、かえって荒唐無稽になってしまう。

 

 

12、 桐の木の風にかまハぬ落葉かな   凡兆(ぼんてう)

 

 「其角曰(きかくいはく)(これ)先師の樫木(かしのき)等類也(とうるゐなり)。凡兆曰、しからず。(ことば)つづきの似たるのミにて、(こころ)かハれり。去来曰、等類とハ(いひ)がたし。同巣(どうさう)の句なり。同巣を(もつ)(さく)せバ、()今日の吟たる、(こがらし)の地にもおとさぬ時雨哉(しぐれかな)云巣(いふす)を借りて、瀧川の底へふりぬく霰哉(あられかな)言下(ごんか)にいふて、いささか作者の手柄(てがら)なし。されども兄より生れ(まさり)たらんハ又各別也(またかくべつなり)。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,34

 

 まだ著作権なんて物のなかった時代だが、やはり過去の有名な作品にそっくりだと非難されるのは、人間の普遍的な価値意識といっていい。ただ、どこまでが許されるのかということになると、人によって意見が分かれる。

 今日のJ-popでも「パクリ」と言われる曲は多く、その程度も様々だ。ただ、裁判になっても盗作が認められる例は極めて稀だ。まして、コード進行が同じだとか、ギターやベースのフレーズが似ているだとか、全体に雰囲気が似ている程度ではほとんど問題にならない。

 また、ヒップホップでいうサンプリングは盗作ではなく、あくまで借用であり、いわば他人の曲を自分の曲だと言い張れば盗んだことになるが、人の曲を使っているだけだから、使用許可を取ったかどうかは問題になるが、盗作にはならない。

 

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

 

 確かにこうして並べてみると似ている。「の木の」「にかまはぬ」「かな」と、十七字中十字は完全に一致している。しかし、一致の多さという点では、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな  宗祇

 世にふるもさらに宗祇の宿りかな  芭蕉

 

の方が上だろう。

 この場合、宗祇の句を使っているのが明瞭で、その宗祇の名を使っているから、こっそりと盗んだわけではなく、堂々と借用したというもので、ヒップホップのサンプリングに近い。

 

 はぜ釣るや水村山郭酒旗(すいそんさんかくしゅき)の風   嵐雪(らんせつ)

 

 これも杜牧(とぼく)の詩からの引用が一目瞭然で、借用といえよう。

 これに対して凡兆の句は借用ではない。そこが微妙なところだ。似ているけど句の内容はまったく違うから別のものだという凡兆の主張も一理ある。

 去来は同巣(どうそう)同竈(どうそう)ともいう)という微妙な概念を使う。

 鶯の巣から郭公(ほととぎす)が育つようなイメージか。

 自分の句を例として、

 

 (こがらし)の地にもおとさぬ時雨哉(しぐれかな)

 

を元に、

 瀧川の底へふりぬく霰哉(あられかな)

 

という同巣の句を作ってみせるが、語句の一致は凡兆の句よりはるかに少なく、内容的には凡兆の句より近い。木枯しが激しく、時雨も地に落とさないようだ、という趣向を瀧川の底に届くくらい霰が激しいに変えたものだ。時雨は弱いから地に落ちず、霰は強いから川底にまで届く、というふうに違えてはいるものの、発想は同じといっていい。これでは「いささか作者の手柄なし」だろう。

 ところが、凡兆の句は発想がまったく違う。芭蕉の句は鎮守の森に黒々と茂っているようなお堅い樫の木のようなあなたは、今の流行の花にはかまわずに、我が道を行きなさい、という三井秋風への励ましの句なのに対し、凡兆の句は桐の大きな落ち葉が風もないのにひらひらと散ってゆく姿に目を留め、天下の秋を知るといった句だ。だから、凡兆の句が果たして同巣と言えるかどうかは疑わしい。異巣でも姿形が似ることはある。

 似ているといえば、

 

 木枯に二日の月の吹き散るか   荷兮(かけい)

 木枯に浅間の煙吹き散るか  高浜虚子

 

もこの凡兆のケースに似ている。十七文字中十一字の一致で凡兆の句より一字多く一致している。たぶん虚子なら、二日の月の散るのは空想だが浅間の煙の散るのは写生だからまったく違うとでも言いそうだ。

 いわゆる知的所有権というのも、絶対的なものではない。それがなければ新しいものを発明しようという意欲が薄れ、文明の遅滞を招く恐れがあるが、あまり極端に認められてしまうと新しい技術の使用が限られた人しかできなかったり、改良がしにくくなったりして、やはり文明の遅滞を招く。たとえば、エイズの特効薬を発明しても何の報酬もないなら、開発しようという意欲も薄れる。だからといって、特許使用料があまり高ければ、薬は高価になりすぎて金持ちだけのものになるし、一つの会社だけで独占されれば、必要な改良をせず、既得権にどっかりと胡坐(あぐら)をかいてしまう可能性もある。

 結局、等類の問題も、作品の進歩を考えて決めるべきだろう。ちょっと似ているだけでだめなら新たな創作が困難になり、結局作者になろうとするものがいなくなり、そのジャンル全体を衰退させる。

 中世の和歌には過去の有名な作品について、その上五文字を使ってはいけないみたいなものもあったらしいが、そこまで厳しいと、創作の幅が限定されてしまう。パクリとわかっていても、よほどそっくりでない限り大目に見た方が、かえってそのジャンルの発展につながる。

 トレパクというのも一時期ネットで話題になったが、人物のポーズなど、デッサンの基礎のある人なら大体同じような形になるもんだし、二つの画像を重ねてみて完全に一致しない限りトレパクとは言い難い。

 本来人々の生活を豊かにするすばらしい発明や創作は、人類の共有財産なのだが、発明者や創作者に報酬がなければ意欲もそがれてしまう。そこで、一定期間の独占を認め、そこから上がる収益を発明者の報酬に当てるというのが、今日の知的財産権の基本的な考え方だ。

 このやり方だと、その発明・創作のもたらした社会的な価値が、売り上げという形で反映されるため、透明性が高く、官僚が恣意的に価値を算定するような社会主義的システムよりは公正といえよう。

 しかし、俳諧の場合、句を独立した商品として販売して利益を生むということはきわめて困難で、今日の俳人でも、句集の印税だけで生活できる人は皆無といっていいだろう。芭蕉の時代では基本的に句は商品ではなく、あくまで俳諧師としての名を高めるためのもので、それゆえ大量生産する必要はなく、むしろ長期間かけて推敲して質の高い作品をタイミングよく発表することで名を上げる方が重要だった。

 そして、そのことでたくさんの弟子を集めたり、点料や興行料を吊り上げることのほうが重要だった。今日の俳句でも、基本的には俳句教室や投句欄の担当や講演は俳人の重要な収入源だ。

 句自体がほとんど売り物にならない以上、盗作自体はさほど知的財産権を侵害するわけではない。むしろ、剽窃(ひょうせつ)したという噂が立つことで、俳諧師としての名が廃ることのほうが重要だっただろう。

 「等類」という言い方が何よりもそれを示している。つまり、剽窃の意図がなくても、偶然の一致でも剽窃の疑いを持たれかねない句は発表すべきではなかった。

 句自体は商品にならないのだから、自分の納得できない句を自分の名で発表すれば、自分の名を落とすだけで何のメリットもない。

 『去来抄』でも、他人がいじった句の作者の名前を誰にするかは、そうした作者同士のプライドの問題として考えればよくわかる。等類をめぐるこの議論も、知的財産権というよりは、凡兆の名、蕉門の名の問題と考えた方がいい。

 

 

13、 駒買(こまかひ)に出迎ふ野べの(すすき)かな     野明(やめい)

 

 「去来曰、駒買(こまかひ)に人の出迎ふたる野べの(すすき)にや。(また)(すぐ)(すすき)風情(ふぜい)にや。野明(やめい)曰、(すすき)の上(なり)。来曰、(はじめ)よりさハ聞侍(ききはべ)れど、吾子(ごし)の俳諧のかく上達セんトハおもハざりし。ただ驚入侍(おどろきいりはべ)るのみ。支考曰、句の秀拙ハともかくも、野明(この)場をしらるる事いとふしん也と感吟す。予(この)人を(をしふ)る事とし(あり)(かつ)不通(つうぜず)(ひと)とせ先師曰、廿日許(はつかばかり)の旅ねに抜群(ばつぐん)上達せり。常に俳友なく修行むなし。(しか)ども先師をはじめ、丈草・支考なと折ふし会吟して、(ほか)のわる(こう)をしられず、おのづからかかる句も()(きた)れり。まことに手筋を尊むべし。ただ平生(へいぜい)俳意弱きを難とす。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3435

 

 駒買いというのは馬の売買をする人で、昔は野に市が立ち、そこに馬買いたちが集まり、馬を求めて大勢の人が集まった。

 

 駒買(こまかひ)に出迎ふ野べの(すすき)かな     野明(やめい)

 

 この句は「駒買いに出迎える、野辺の薄」とも「駒買いに(人の)出迎える野辺の、薄」とも取れるため、去来が問いただしたところ、前者、つまり野辺の薄が駒買いを出迎えているという意味だという。これを聞いて去来は野明が上達したと喜ぶ。支考も、句のうまい下手はともかくとして(つまり下手ということか)、どうしてこういう境地の句が詠めるのか不思議だという。

 駒買いが集まる市場に出迎える人がいて、そこに薄があるというのでは、単に見たままを詠んだだけで、近代では写生かもしれないが、特に深い意味はない。駒買いを薄が出迎えているという発想が、ここでは重要だ。

 薄はその形態からして手招きしているような風情があり、華やかさのない、枯れたような薄の穂に手招きされるところに、市場の賑わいとは裏腹に売られていく馬の悲哀を表現している。馬への共感と寂しげな薄の風情が重なり、確かに一つの境地に達している。

 野明には俳諧の友がいず、なかなか上達しなかったが、芭蕉や丈草・支考と二十日ばかり交際したことで、急に上達したという。上達には良い友にめぐり合うことが重要だという。確かに環境は重要だろう。孟母三遷(もうぼさんせん)の教えにも通じる話だ。

 

 

14、 嵐山(あらしやま)猿のつらうつ栗のいが   小五郎(こごらう)

   花ちりて二日おられぬ野原(かな)

 

 「正秀曰(まさひでいはく)、嵐山ハ少年の句にして、しかも風情あり。落花ハわる功の入たる処見えて、少年の句と謂がたし。去来曰、二日おられぬといへるあたり、他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35

 

 「嵐山」の句は上五の「嵐山」と下七五の「栗のいが」が羅列された感じで稚拙な感じがするし、栗のいがが猿の面を打つという趣向も絵が浮かんで面白いし無邪気な感じがするが、想像力は豊かでも、それほどリアリティーはない。そういう点では子供の考えそうな、ということになるのだろう。

 「花ちりて」の句は、花が散ってしまった殺風景な野原には二日といられないという意味なのだろうが、花というのは散る様も風情があり、散った後の名残を惜しみ、花は散っても心の花は散らないというところに風流の心がある。風流人は葉の桜にも風流を見出し、一句詠んだりするもんだ。花が散ったからもう用はないというのはいかにも非情で無風流な感じだ。

 この二句は浪化(ろうか)編の『有磯海(ありそうみ)』の句で、どちらも子供の句だという。前者は野明息十一歳とあり、後者は嵯峨農十二歳市とあり、句風の違いは親の教え方の違いか。

 去来は「他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也」とはいうものの、浪化も一応北陸蕉門の中心人物で、なぜこのような句を採ったのかはわからない。子供ならこの程度でいいかというところか。

 

 

15、ちる時の心やすさよけしのはな   越人(ゑつじん)

 

 「其角(きかく)許六共曰(きょりくともにいはく)(この)句ハ謂不応故(いひおほせざるゆえ)別僧(そうにわかる)前書(まえがき)あり。去来曰、けし一体の句として謂応(いひおほ)セたり。餞別(せんべつ)となして猶見(なほけん)あり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35

 

 咲く花を悦び散る花を悲しむのは風雅の基本であり、生命に共感するというのはそういうことだ。

 生まれてくるのは目出度く、死ぬのは悲しい。それと同じだ。

 ただ、人はいつかは必ず死なねばならぬ運命ゆえに、散りぎわは安らかであるにこしたことはない。古くから桜の散りぎわの潔さは日本人にとって心に刻み込まれてきたものだった。「ちる時の」の句はその意味では散りぎわの潔さを感じさせる句ではある。

 しかし、この句が路通(ろつう)との別れの句だったという事情がわかると、話はややこしくなる。

 路通については「先師評」の3の「行く春を」の句のところで述べたが、破門された門人で、そのため『猿蓑』では名を出さずに「別僧(僧に別る)」という前書きをつけて掲載されていた。おそらくそのとき、選者の一人であった去来は、そんな前書きは要らない。芥子の花の句で十分だと主張したのだろ。去来はこの句が路通との別れの句だという暗示すら嫌ったのだろうか。路通と去来の間に何かよほどのことがあったのだろう。

 ただ、純粋に芥子の花の句としてしまうと、本来花が散るのは悲しいはずなのになんで「心安さよ」なのか、いくら潔いといっても落花は悲しいはずではないかと、疑問が残ってしまう。そこが「謂い応せぬ」所なのだろう。この情は、花そのものを詠んだ句ではなく、芥子の花が散るように潔く去っていった、と餞別句にした方が分りやすいのは確かだ。

 ところで、この路通だが、近江の門人たちに茶入れの窃盗の嫌疑を掛けられていたが、その疑いはやがて晴れて、元禄四年の秋には路通も蕉門に復帰している。

 芭蕉も疑って悪かったと思ったのか、

 

    座右之銘

   人の短をいふ事なかれ

   己が長をとく事なかれ

 物いへば唇寒し秋の風   芭蕉

 

 

はその反省を込めてのものだろう。

 

 

16(いなづま)のかきまぜて(ゆく)闇よかな   去来

 

 「丈草(ぢゃうさう)支考共曰(しこうともにいはく)、下の五文字(すぎ)たり。田づらとか何とぞ(あり)たし。去来曰、物を(をく)べからず。ただ闇夜也。両子曰、(もっともの)句にして(つた)なしと論ズ。其後(さう)に語りて曰、退(しりぞい)ておもふに両士は(いなづま)の句と見らるる也。ただ電後闇夜(でんごあんや)の句也。(ゆゑ)(ゆく)とハ(まうし)侍る。草曰、さバかりハ心つかず。いかが侍らん。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35 36

 

 この句は今日であればこれで良いように見えるかもしれない。しかし、当時としては稲妻が闇夜にまたたくのは当たり前のことであり、荷兮の「蔦の葉は残らず風のそよぎ哉」の句と同様、くだくだと長く引き伸ばしただけで、つまり下五文字はなくてもよく、むしろ他の景物と取り合わせたほうがいい、という反応となった。

 稲妻というと「電光石火」という言葉があるが、これは本来雷に打たれたように一瞬にして悟りを開くことであり、芭蕉にはこれを逆手に取った、

 

 稲妻にさとらぬ人の(たふと)さよ   芭蕉

 

の句もある。その意味で、闇夜の稲妻は、無明(むみょう)の闇に一瞬にして悟るという寓意も読み取れるが、それも当時とすればいかにも月並みだろう。そういう点からも「(もっともの)句にして(つた)なし」というのは妥当だろう。

 しかし、去来はこの句について、これは闇夜の稲妻の句ではなく、稲妻が去った後の闇夜の句だと説明する。つまり、「かきまぜてゆく」ではなく「かきまぜて、(稲妻の)ゆく闇夜かな」と読めというのだ。いささか無理がある読み方ではあるが、丈草はそれで納得したようだ。

 稲妻が盛んに空を引っ掻き回しながら、最後に闇が残ったというのであれば、なるほど動の後の静、古池の蛙のような余韻が残る。ただ、丈草も支考もすぐにはそういうふうに聞こえなかったところに、やや「謂い応せず」なところがあったのではないか。いかがだろうか。

 稲妻に景物という発想だと、

 

 (いなずま)のかきまぜてゆく田づらかな

 

はわりと無難な解決策だろう。しかし、その何十年か後に蕪村はこう詠んでいる。

 

 いなづまや波もてゆえる秋津島   蕪村

 

田づらどころか、なんと日本列島全体を付けてしまった。さすがにこれは丈草や支考でも思いつかなかっただろう。

 

 

17時鳥(ほととぎす)帆裏(ほうら)になるや夕まぐれ   先放(せんばう)

 

 「(はじめ)ハ下を明石潟(あかしがた)(いへ)り。渡鳥集(わたりどりしふ)にあらたむ。可南曰(かないはく)、いかなるゆへにや。去来曰、時鳥(ほととぎす)帆裏(ほうら)に成るやと云にて景情足れり。是上(このうへ)に明石潟をもとむるハ心のねばり(なり)。可南曰、同集卯七(うしち)の時鳥も明石也。いかが変り侍るや。来曰、卯七句ハ明石といはねバ、すずしけれと云本意(いふほい)たたず。ほ句ハ趣向を二つ三つ(とり)かさぬる物にあらず。又下意(したごころ)(もた)セて作する事ハ各別(かくべつ)也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,36

 

 明石に時鳥というと、「先師評」10の「面梶(おもかじ)よ」の句の時に、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったのに対し、去来は「明石の時鳥は知らず」と突っぱねている。

 実は、明石の時鳥の歌は先にも挙げたが、

 

 ふた声と聞かずはいでじ時鳥

幾夜あかしの泊りなりとも

               藤原(ふじわらの)範光(のりみつ)(新古今集)

 

の歌がある。明石という地名と時鳥に「夜を明かす」とを掛けている。

 去来は明石の時鳥に興味がないのか、「時鳥帆裏に」の句の初案

 

 時鳥帆裏になるや明石潟

 

も、やはり「明石潟」は余計だという。句の意味は、明石潟に船が着いて時鳥の声に帆の裏から聞こえるということだろう。明石に「夜を明かす」の意味を汲み取るなら、これは明け方に帆を上げて港を出ようとすると、帆の裏から時鳥の声が聞こえてくる、という趣向だったのかもしれない。それを、

 

 時鳥(ほととぎす)帆裏(ほうら)になるや夕まぐれ

 

とすれば、夕暮れで港に帰る船に、帆の裏から時鳥の声が聞こえる、という趣向になる。画題としては定番の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の「遠浦帰帆」を思わせる、風雅ではあるが月並みの感のある趣向だ。

 去来によれば、水辺の夕暮れの時鳥と明石の時鳥の両方は要らない、ということで、もとより明石の時鳥にさしたる意味を認めない去来が、明石の時鳥の方をカットするのは当然だろう。確かに元の句は二兎を追った感じで、イメージが散逸するのに対し、去来の改案は夕暮れの風情だけに絞り込まれて焦点ははっきりする。ただし、新味に乏しいのは否めない。

 

 これに対し、可南は卯七の、

 

 時鳥当てた明石もずらしけり   卯七

 

という句で、この時鳥と明石はどうなのかと問う。

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が「明石のとより大和島見ゆ」と詠み、古来和歌で名高い明石の地に、ここなら時鳥が聞けるかと当てにしたのに聞けなかったという意味で、最初から明石の時鳥だけがテーマだから、当然これは変えようがない。

 ただ、去来はここでも強情に「明石の時鳥」の本意を認めず、「ずらしけり」の本意が立たないという。

 この議論は表向き可南との議論になっているが、可南は去来の妻であり、何か女房の名を借りた去来の作りという感じがしないでもない。野水(やすい)の、

 

 面梶よ明石のとまり時鳥   野水

 

の句を『猿蓑』の撰のときに落選させたことが後々まで尾を引いて、苦しい言い訳をせざるを得なかったのだろうか。

 

 

18、 (とら)れずバ名もなかるらん紅葉鮒(もみぢぶな)   玄梅(げんばい)

 

 「許六曰(きょりくいはく)(これ)説教(せっきゃう)はねと(いふ)。かんぜん者ハなかりけりト(なり)(また)曰、或人(あるひと)路上にて人に(あひ)て、(かみ)へや(ゆく)べし、(しも)へや行べしと路ヲ(とへ)るが如し。てにをはあハず。去来曰、上へや行べしと(いふ)ハ、上ハ疑ひ下は決し語路不通。疑ひて決するといふてにはにもあらず。此句(このく)ハ上に疑ひ有りて下をはねたり。又らんはらしにかよふ。はねたる事くるしからじ。(りく)曰、穴勝(あながち)にはねたるをいハず。惣体(そうたい)てにをはあしきトなり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,36

 

 ここでまた「てにをは」にうるさい許六の登場。句の方は、紅葉鮒も取られなかったならそんな名もなかっただろうという意味で、言い回しとしては「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う諺に近い。この場合「‥ずば‥まい」というように、断定の言葉を取ることが多いのだろう。多分、

 

 取れずば名もなかるべし紅葉鮒

 

ならOKなのだろう。

 今日なら「取られなかったならそんな名もなかっただろう」と、仮定には推量で結んでいいのだが、当時としては仮定は断定で結ぶものだったのか。

 

  植ゑずば聞かじ荻の上風(うはかぜ)   長綱朝臣(ながつなのあそん)

 

という句もある。

 おそらく、本来日本語は仮定には断定で結ぶ言語だったのだろう。「なせばなる」「見なきゃ損」「打てば響く」など、こうした言い回しはいくらもある。これを「なせばなるだろう」と言ったのでは何だか間延びしてしまう。人を脅迫する時にも、「金を持ってこなきゃ人質を殺す。」ならまぎれもなく日本人だが、「金を持ってこなかったならば、人質を殺すでしょう」と言ったら犯人は外国人だ。

 事実に反する仮定をすれば、その帰結は当然想像上のものなのだから、推量で結ぶのが論理的に正しいのかもしれない。だから、「(とら)れずバ名もなかるらん」という言い回しを説教はねというのはうなずける。

 学者や高僧のような、日頃論理的にものを考える訓練をしている人ほど、こういう論理的には正しいが日本語として不自然な言い回しをしやすい。「感ぜん者はなかりけり」は「感じないものはない」という意味で、説教節の常套句だが、これは単純な「ぬ」が音便化されて「ん」になったもので、「知らぬ」を「知らん」というようなものだが、今でも「知らぬものはない」を「知らんものはない」というと変なので、やはり当時としてもちょっと変な言い回しだったのだろう。

 このような「ぬ」や「む」が「ん」に変化することを当時は「はねる」と言ったようだ。撥音便という文法用語にその名残がある。

 もう一つの「(かみ)へや(ゆく)べし、(しも)へや行べし」は単純に係り結びの間違い。「べき」と連体形で受けなくてはならない。許六の「てにをは」がおかしいという指摘はいいのだが、どれも「てにをは」がおかしいという以外には相互に関連のない例で、混乱を招きやすい。

 去来は係り結びをよく知らないのか、「(かみ)へや(ゆく)べし、(しも)へや行べし」のおかしさを、上で疑って、下で断定するからだという。そして、「取れずば」の句に関しては上も「疑い」で下も疑いの「らむ」をはねたもので、「らむ」は「らし」にも通じるからおかしくないのではないか、という。これは理屈だ。

 だが、論理的に正しいからといって文法的に正しいとは限らないというのが、学のある人ほど陥りやすい誤りでもある。許六はこう答える。「別にはねたからどうのこうのではなく、全体的に『てにをは』がおかしい句だ。」

 「てにをは」が整わない句というと、近代の、

 

 むさしのの空真青なる落葉かな   水原秋桜子(しゅうおうし)

 

の句が何か気になる。「真青なる」は連体形で、そのまま読むと落ち葉に係ってしまい、落葉が真っ青という意味になってしまう。武蔵野の空に真っ青な落葉が降ってくる、という意味ならそれはそれでシュールでいいが、それでは『ホトトギス』の写生句ではなくなってしまう。かといって、

 

 むさしのの空真青なり落葉かな

 

だと、切れ字が重なって語呂が悪い。

 

 落葉してむさしのの空真青なり

 

なら句の姿としては落ち着くが、これだと葉が落ちたから空が真っ青だという理屈の句になってしまう。結局、もともと理屈でできている句を、理屈がなさそうに見せかけようとして言葉を並べなおしたため、「てにをは」に無理が生じてしまったのだろう。

 

 

19、 鞍坪(くらつぼ)小坊主(こばうず)のるや大根引(だいこひき)    はせを

 

 「蘭国曰(らんこくいはく)此句(このく)いかなる(ところ)面白(おもしろ)き。去来曰、吾子今(ごしい)マ解しがたからん。(ただ)図してしらるべし。たとへバ花を図するに、奇山幽谷霊社古寺禁闕(きんけつ)によらバ、その図よからん。よきがゆへに古来おほし。如此類(かくのごときのたぐひ)ハ図の悪敷(あしき)にハあらず。不珍なれバ(とり)はやさず。(また)図となしてかたちこのましからぬものあらん。此等元(これらもと)より図あしとて用ひられず。今珍らしく()ナル図アラバ、(これ)を画となしてもよからん。句となしてもよからん。されバ大根引(だいこひき)(かたはら)に草はむ馬の首うちさげたらん。鞍坪(くらつぼ)小坊主(こばうず)のちょつこりと乗たる図あらバ、古からんや、(つた)なからんや。察しらるべし。国が兄何某(なにがし)(かへっ)て国より感驚ス。かれハ俳諧をしらずといへども、画を(よく)するゆへ(なり)図師尚景(ずししゃうけい)が子(なり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37

 

 「鞍坪に」の句は芭蕉の元禄六(一六九三)年冬の句で、「軽み」の風も円熟してきた頃の句だ。

 蘭国はおそらく大根引きと鞍坪の小坊主は何か出典があるのか、と思って尋ねたのだろう。だが、古典の本意本情を残しながら出典の重さを排す方向に進めたのが、芭蕉の「軽み」だった。

 鞍坪は馬の鞍の座る場所で、そこにおそらく芥子坊主(けしぼうず)と呼ばれる頭のてっぺんだけ毛を残して束ね、他を刈り上げた小さな男の子が乗っていて、その横でお百姓さんが大根を一本一本丁寧に引き抜いている。田舎のいかにもありがちな光景だ。

 基本的には古典でいう、「しず」「やまがつ」のテーマを下敷きにしているのだろう。百姓の生活そのものの美というのはもう少し後の話で、山奥に隠棲する都人から見たその土地の住人というのが、あくまで風雅の基礎となる。

 都での苦しい権力闘争や様々な宮仕えの苦労、それを逃れようとすればするほど思い出してしまい、かえって憂鬱になる。都の華やかの暮らしはもはやなく、隣にいるのは都の言葉のほとんど通じないような人たちで、苦しい身の内を話す相手があるわけでもなく、ただ彼等は無言でこの世に棲むということがどういうことかを語りかけてくれる。

 結局人間の生活というのは単純に言えば、自分で食物を作るか、交換によってそれを手に入れるかどちらかしかない。たったそれだけのことなのに何を難しく考えているのか。そういう意味では、鞍坪の小坊主と大根引きも何を語るわけではなく、ただ無言にして、生きるというのはこういうことだと語る。藻塩焼く海人や小山田の畑打つ男と同様、それがこの句の本意本情といっていいだろう。

 去来はその本意本情についてはすぐにはわからないだろうということで、古典の情を表現する際に、むしろいかに出典をはずし、新しい題材で表現するかについて、絵に例えて説明している。

 桜の花を描くのに深山幽谷の景色や名山古寺や宮廷の風景を添えるのは、いかにもありがちで、これといって新しくはない。だからといって厠の桜でも描けばいいのかというとそうでもない。

 それと同じで、「しず」「やまがつ」という古典的なテーマも、牛を引く牧童や柴を刈る木こりではありきたりで、だからといってそこいらの百姓をそのまま描けばいいというものでもない。牛を引く牧童や柴を刈る木こりに匹敵するような何か新しくて風雅を感じさせる題材があれば、それは絵に描いてもいいし、句にしてもいいと説明する。軽みの説明としてはこれで十分だろう。

 この話には、絵師をしている蘭国の兄のほうが感動したというおまけがついている。当時の絵画もまた中国山水画の趣向を離れ、大和絵と融合しながら新しい表現を探していた時代でもあった。

 英一蝶も蕉門や其角との交流を通じて、独自の風俗画を切り開いていった。芭蕉もまた狩野派の絵を学んでいたし、去来のライバルの許六もまた狩野派の門弟だった。当時の俳諧と絵画との間には並々ならぬ関係があった。

 

 

20、 夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国(ふうこく)

 

 「(この)句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日(このごろ)山寺に晩鐘をきくに、(かつ)てさびしからず。(よつ)て作ス。去来曰、(これ)殺風景(なり)。山寺といひ、秋夕ト(いひ)、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端(いったん)游興騒動の内に(きき)て、さびしからずと云ハ一己(いっこ)(わたくし)也。国曰、(この)(この)情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、(もし)情有らバ如何(かくのごとく)にも作セんト。今の句に直せり。勿論(もちろん)(まさら)ずといへども、本意(ほい)を失ふ事ハあらじ。」((岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3738

 

 これは「夕涼み疝気(せんき)おこしてかへりけり/去来」の時と重複するが、秋の夕暮れ、山寺、いりあいの鐘とくれば、月並ではあるものの寂しさが増幅される効果的な組み合わせであるはずなのである。しかし、これをあえて「晩鐘の寂しからぬや寺の秋」とした場合、なぜ秋の寺の夕暮れの鐘が寂しくないのか、意図がよくわからなくなる。まさに風景を殺すという意味での「殺風景」だ。

 しかし風国は言う。「でも実際に寂しくなかったのだからしょうがない。それならそういう時はどう作ればいいのか。」そこで去来は「鐘を力に」直したという。つまり、寂しい中だけども鐘の音にその寂しさを克服しようと勇気を奮い起こし、という意味に作り変えたわけだが、いかにも無理がある。「句(まさら)ず」というのは本当だ。

 最後に「本意(ほい)を失ふ事ハあらじ」とあるように、この議論は中世連歌以来問題となる「本意本情(ほいほんじょう)」を説いている。

 つまり、言葉から感じ取れる情は個人が勝手に変えられるものではなく、常に一つの伝統を背負っている。「秋の夕暮れ」という言葉は『新古今集』の三夕(さんせき)の歌をはじめ、たくさんの秋の夕暮れを詠んだ古歌を想起させることによって、既に深い情を含んでいる言葉であり、和歌でも俳諧でもその情を生かして詠み込むことによって短いこの詩型でも深い意味を表現できる。

 それに対し、夕暮れが寂しくないと詠むとせっかく古典の情を想起させるこの言葉も、ただの物理現象としての夕暮れとなり、感情を持たない言葉になってしまう。

 そして、ひとたびその伝統が跡絶えてしまうと、古歌の情すら再現困難になるかもしれない。過去の優れたし人たちによって作られた深い意味を持つ言葉を後世の人間が勝手に違う意味で使うと、結局祖先から受け継いだ文化遺産を失うことになる。それゆえ「一端(いったん)游興騒動の内に(きき)て、さびしからずと(いふ)一己(いっこ)私也(わたくしなり)」と去来はかなり厳しい言い方をしている。

 蕉門の俳諧は決して古典の本意本情を否定して写生に徹することによって新風を作り出したのではない。それは明治時代の正岡子規の主張であって、日本の伝統文化を軽視し、俳句の西洋化を推進する中で主張されたものであって、芭蕉は決してそのようなことを説いてはいない。

 本意本情というのは基本的には共感に基づくもので、花が咲くのを悦び、花が散るのを悲しむのは、その命を自分のことのように考えるからだ。

 ただ、共感自体は、もし自分がそうだったらという一つの想像上の仮定に過ぎないため、必ずしも確実なものではないのは、たとえ親子・夫婦といえども誤解が絶えないのを見ればわかるだろう。まして、この宇宙の生命を感じることができるなんていう奴は疑った方がいい。

 そもそも共感という能力が進化したというのは、本来は利己的な遺伝子の働きで、過酷な生存競争の中でライバルや獲物の行動を予測したりするのに役立ったからだろう。ただ、人間の場合、協力し合って戦うことを覚えたために、多数派工作が重要になり、そこから味方を増やすための様々な利他的行動が発達した。そこで、共感能力は利己的にも利他的にも不可欠なものとなった。

 共感はまず想像的に対象の気持ちを推測することと、それを各自が何らかの好悪の感情を挿んだり、利用しようとして様々な判断を加えたりする過程に分けられる。前者は自然(本性)であり、後者は「私」である。

 たとえば、目の前でこれ見よがしにいちゃつくカップルを見ると不快なのは、一方ではそのカップルの幸せに共感し、もう一方では今の自分にそういう相手がいなくて不幸だ、悔しいという感情が沸き起こるからだ。

 また、いじめというのも、こういうことをしたら相手がいかに傷つくか知っているからいじめ甲斐があるのであり、相手が傷つかないと知ったらやってもしょうがないと思うだろう。いじめは共感能力の欠如から起こるのではない。共感能力があるからこそ人は意地悪にもなれる。医者のメスといえども使用法を誤れば人を殺す凶器になる。それと同じだ。

 本意本情と私情との違いはそういうもので、感じたそのままの感情と、それを個人的に好悪の感情を挿んだり、何かに利用しようとしたときの感情とは一線を画す。

 よく八重桜の木の下で、こういうごてごてとした花はだめだなんていう人がいるが、自分の趣味の良さを自慢したいのだろうけれど、素直に咲く花を喜べないのは可愛そうだ。戦争で罪なき人が死んでゆく詩は悲しいが、そこに露骨に政治的な意図が見えたりすると興ざめになる。本意本情を踏み外すというのはそういうこともある。

 「松のことは松に習え」と土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』にもあるように、対象から直接共感を覚えればそれにこしたことはないが、何日も松をじっと見つめてノイローゼになっても困るので、そういう場合は対象から何かを感じ取った古人の心に共感して、間接的に学べばいい。

 見るもの聞くもの感じたままをしにして、それで人を感動させることができるなら、その人は天性の詩人だ。特に、子供の頃はそれができたりする。しかし、どんな天才でも、いつでもそれができるというものではない。急にそれが出来なくなったなら、ランボーのように潔く詩を捨てるか、そうでなければきちんと古典を学び、技術でカバーすることを考えた方がいい。

 世阿弥も、役者の花には三種類あり、子供だけが持つ天然の花、若者の持つ季節の花は散ったらそれでおしまいだが、老いた役者が長年の修行の末に獲得した人工の花は散ることがない、と言っている。老成というのは、結局学習の積み重ねなのである。

 

 

21、 応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど   去来

 

 「丈草曰(ぢゃうさういはく)此句(このく)不易にして流行のただ中を得たり。支考(しこう)曰、いかにしてかく安き筋よりハ入らるるや。正秀(まさひで)曰、ただ先師の聞たまハざるを(うら)るのミ。曲翠(きょくすゐ)曰、句の善悪をいハず、当時作せん人を(おぼ)へず。其角(きかく)曰、(まこと)雪門也(ゆきのかどなり)許六(きょりく)曰、(もっとも)好句(なり)。いまだ十分ならず。露川(ろせん)曰、五文字妙也。去来曰、人々の評又おのおの(その)位よりいづ。此句ハ先師迁化(せんげ)の冬の句也。その(ころ)同門の人々も(かた)しと、おもへり。今ハ自他ともに(この)場にとどまらず。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,38

 

 芭蕉の「軽み」は、古典から受け継がれた深い情を、何か卑近な事物の中に発見しようというものだったが、芭蕉の死後、多かれ少なかれ卑近な事象自体の表面的な面白さを追い求め、中身が薄くなってゆく傾向にはあった。

 伊賀のあだなる風もそうだし、美濃派から伊勢派に至る平明化もそうだし、維然坊の句はその一つの極に走ったともいえる。そして、この傾向は結局明治の俳句革新から今日の等身大俳句に至るまで、延々と続いているのかもしれない。

 何気ない日常の小さな発見は、確かにおしゃべりのネタとしては面白い。しかし、ただ面白いで終わってしまえば、句は次から次へと新しい刺激を求め、新鮮さを失った句は作るそばから忘れ去られてゆく。

 

 応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど   去来

 

の句もその不安の一つの始まりだったのかもしれない。芭蕉の死んだその年の冬に作られたこの句は、残された門人の間で絶賛された。

 丈草はこれこそ不易にして流行の句と、それこそ芭蕉の言う不易流行の見本のような句とみなした。支考は「やすき筋」とその平明なわかりやすさがこれからの時代の句だとみなした。正秀は先師芭蕉に聞かせたかった、という。曲翠は良いにしても悪いにしても今これを作れる人はいないと価値判断を避けた。其角はなるほど雪の門だ、というにとどまり、許六も確かに好句だが不十分と、何か足りないように思った。露川は上五の「応々と」が良いという。

 私個人の感想としては其角の言葉が一番もっともだと思う。雪が降っていて外は寒いから、戸を叩くほうとしては早く開けて欲しいが、中にいるほうは外に出るのがおっくうだから「応々」と生返事をしてなかなか出て行かない。いかにもありそうな光景で、確かに雪の門だ。今でいう「あるある」だ。

 しかし、これがありふれた雪の日の風景という以外に何か人生に重大な意味を持つようなことがあるのかというと、そんなことはないだろう。雪が降っているから早く入りたい。なかなか外に出たくない。こういう情は果たして本意本情というほどのものなのか。

 この句には当初

 

 たたかれてあくる間知れや雪の門

 あくる間を叩きつづけや雪の門

 

という案もあったと言う。これだと、雪の中だと戸を叩いて戸が開くまでの長さを分って欲しい、ということで、待つ身のつらさが直に伝わってくる。

 ただ、これだけでもどういう事情で雪の中を待たされているのか、何かわけでもあるのか、それともただ雪で寒いから動きたくないというだけのその部分が「言い応せていない」。しかも、これを「応々と」の句形にすると、待つ身のつらさを訴えるという部分が消失し、単なる日常の一場面に終わってしまう。

 この句は、

 

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は

    いかにひさしきものとかは知る

                 右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)

 

の歌を踏まえているというが、本歌は単なる待つ身のつらさではなく恋の情であり、恋の情を平凡な日常の一風景に作り直しても情は深まらない。やはりこれは「軽み」の勘違いだろう。

 しかし、若い門人ほど、これこそが先師を越えてゆく新風というふうに見えたのか。結局芭蕉亡き後の蕉門はこの方向に流れていった。去来は「その比同門の人々も難しと、おもへり。今ハ自他ともに此場にとどまらず。」と自慢げに言うが、これは本当に良かったのか。

 もちろん、日常のおしゃべりのレベルで手軽に作れるということが、今日もなお多くの人が俳句を作る動機だとすれば、それはそれで良かったのだろう。少なくともそれは俳句そのものの大衆的な広がりを維持するには役に立っている。しかし、その一方で、何十万、何百万という凡作者を輩出しただけで、芭蕉が極めた一つの頂点を再現できる作者は終に現れなかったのも事実だ。

 

 

22、 幾年(いくとせ)白髪(しらが)も神のひかり(かな)   去来

 

 「大宰府(だざいふ)奉納の句(なり)許六(きょりく)は、ほ句に切字(きれじ)を二ツ用ゆるは法(あり)(この)句切字(ふたつ)(やまひ)あり。去来曰、予(かつ)て切字二ツ(ある)に心なし。二ツ有とも(これ)を切字に用ひずバくるしからじ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3839

 

 許六によると、この句にはは切れ字が二つあるという。最後の「かな」が切れ字なのは分るが、最初の「幾」も切れ字だということに気付く人は少ないかもしれない。
 だが、紹巴(じょうは)の『至宝抄』には、「いつ」「いかで」「いづれ」「いく」は確かに切れ字として扱われている。「いく」については、

 

 見ずもあらず遠山いく重朝霞(あさがすみ)   宗祇

 

の句が例示されている。

 もっとも、何が切れ字かは中世連歌の頃から人により異なり、切れ字を使わなくても体言止めが切れ字の代わりになったり、要は句が一つの文として独立できればそれでよかった。ただ、便宜的にこの言葉を使うとうまく句が切れるというのを列挙したのが切れ字であり、切れ字を使ったから必ず句が切れるというものでもなかった。

 宗祇の句だと、朝霞に遠山は幾重とも見ずにあらず、の倒置で、必ずしも「いく」を切れ字としなくても、「あらず」で切れているといえば切れているのではないか。その点では切れ字としての働きは弱い。

 去来の句にしても、「幾年経た白髪も神の光かな」という意味で一句として完結している。これが

 

 幾年ぞ白髪も神のひかり哉

 

だったとすると、「幾年ぞ」で一度切れて、「ひかり哉」でもう一度切れるから句が分解してしまう。

 去来は切れ字が二つあっても一つは切れ字として用いていないからよしとするのは一応の理屈で、結局は切れ字が三つあろうがゼロだろうが句が一句として完結していればそれでいいのである。切れ字はただ、これを使うとうまく切れるという便宜上のものにすぎない。

 

 

23、 白雨(ゆふだち)や戸板おさゆる山の中   助童(じょどう)

 

 「去来曰、墨崎(黒崎)に(きき)(これ)に及ぶなし。句体風姿(あり)語路(ごろ)とどこほらず。(じゃう)ねばりなく事あたらし。当時流行のただ中也。世上の句おほくハとするゆへにかくこそ有レト、句中にあたり(あひ)(あるいは)ハ目前をいふとて、ずん(ぎり)の竹にとまりし(つばくらめ)、のうれんの下くぐる事いへるのミ(なり)此児此下地有(このちごこのしたぢあり)て、(よき)師に学ババいかばかりの作者にかいたらん。第一いまだ心中に理窟なき故也(ゆえなり)。もしわる(ごう)出来(いできた)るに及んで、又いかばかりの無理いひにかなられん、おそるべし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,39

 

 これも「応々と」の句に通じるものがある。夕立で一天にわかにかき曇り、山中のあばら家なので戸のしつらえが悪く、雨が吹き込まないように戸板を押さえなくてはならない。山中ということで隠士の風情もあり、杜甫の『茅屋(ぼうおく)秋風(しゅうふう)の破る所と()る歌』の連想も働き、古典の意にもかなうが、果たしてこの少年がそこまで考えていたかは知らない。

 芭蕉の、

 

 芭蕉野分(はせをのわき)して(たらひ)に雨を聞く夜かな   芭蕉

 

と比べれば、全体として盛り上がりを欠き、平板な印象は否めない。ただ単に「戸板」だと、どこにでもある百姓の家を連想させ、結局は日常の何気ない情景を鋭く突いた、という所からなかなか先へ進めない。つまり、隠士ならではの句だと感じさせる何か、たとえば「芭蕉野分」の句でいえば「芭蕉」が足りないのだ。多分、作者の少年は隠士というところまで考えずに、日常の風景として詠んだのだろう。

 しかし、確かにこの句は芭蕉亡き後の蕉門の一つの到達点であり、その意味ではよくできた句だ。去来の言うように、世間でいう凡句というのは、やれ軽みだ、目の前の何でもない景を詠めといわれると、

 

 ずん(ぎり)の竹にとまりし(つばくらめ)

 のうれんの下くぐり来る燕哉(つばめかな)

 

といった句を詠みたがる。これは単に平凡な景色を写しただけで、裏に情が隠されていないか、隠されていたとしても完全に消えてしまっている。もっとも、近代の写生派では、「わる功」を恐れるあまりにこの段階の句でも良しとするかもしれない。

 「わる功」というのは、結局のところ、本意本情を欠いたか履き違えた句を、技巧的にうまく隠した句ということだろう。先の、

 

 花ちりて二日をられぬ野原哉

 

の句は、花の心をわきまえていないがゆえに悪句なのであり、これを素直に技巧を排し、

 

 花ちりてもう用はなき野原哉

 

としても、句は良くならない。技巧は頭で「なるほど」と理解させてしまうため情が伝わりにくくなるという欠点があるが、とても風雅とはいえない情の句の場合、むしろ情が伝わらない方が好句に見えてしまう。そこに「わる功」の罪がある。

 近代写生説は、あつものに懲りてなます吹くみたいに、「わる功」を恐れるあまりに古典技法全体を否定してしまったのではなかったか。

 明治十年代の月並み俳句の典型とされている夜雪庵金羅にしても、そうした選者の好む句が、

 

 (つま)のるす月さへ入れず戸ざしけり

 

のようなものだとしたら、確かに世俗の道徳を言うだけで、月の本意本情とは無縁の句といえよう。いくら世間が貞淑な妻を理想としようとも、恋に揺らめく女心は不易だし、その切ない思いこそ月に託すべきもので、「月さへ入れず」とは無風流もこの上ない。

 しかし、この手の句に当時のオヤジ連中は、そのとおり、よくぞ言ってくれた、いまどきの若妻は見習うべきだと拍手したりしたのだろう。

 もちろん、世間の大半は自他共に認める凡人で、いわゆる世の常識を句にすれば、常識を突き抜けた天才的なひらめきの句よりもはるかに世間での受けはいい。近代俳句の月並調批判は、確かにそうしたものから「文学」を切り離したいという欲求から来たものだろう。

 しかし、いつの時代でも芸術というのは玉石混交なもので、一時は玉も石も一緒くたに流行するが、長い年月を経れば結局良いものは残り、たいしたことのないものは忘れ去られてゆく。その自然の摂理を信じずに、高いところから一方的に得体の知れぬ形而上学を振り回し、最初から文学を大衆文芸から分けてしまうやり方が果たしていいものなのだろうか。

 もっとも、心配はいらないだろう。百年二百年たてば、結局今日文学と呼ばれようが呼ばれまいが関係なく、最後は良いものだけが残るのだから。

 去来が絶賛した「白雨や」の句も、去来の「応々と」の句も、結局今日ではほとんど知る人もいない。「芭蕉野分」の句なら、確かに残っている。

 

 

24、 さびしさや(しり)から見たる鹿のなり   木導(もくだう)

 

 「許六曰(きょりくいはく)是句(このく)入鹿(いるしか)のあと(ふき)おくる荻の上風と云る等類(なり)。去来曰、吹送(ふきおく)るの(うた)は朝鹿の山に帰る気色(けしき)をいへり。(これ)ハ鹿一体のさびしさをいへり。趣意各別也(かくべつなり)。等類なるまじ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,39

 

 許六はこの句を、

 

 明けぬとて野べより山へ(いる)鹿の

      跡吹(あとふき)おくる萩の下風

                源通光(みなもとのみちみつ)

 

の歌と等類だと指摘する。これに対し、去来は「明けぬとて」の歌は明け方に山に帰る鹿の寂しさだが、「さびしさや」の句はただ単に後ろから見た鹿が寂しげだというもので、趣向が違うという。

 確かに、動物の背中というのは無防備で、間抜けな感じもする。本来敵に向かって向き合うように進化した体は後ろを見せたら負けで、しかも正面には大きな角があるが、尻というのはそれとは対称的に哀愁が漂う。

 ところで、この「明けぬとて」の歌は、前にも見なかっただろうか。そう、『先師評』23で芭蕉に

 

 (ゐのしし)のねに行くかたや(あけ)の月    去来

 

との類似が指摘された歌だ。

 ここでは鹿を猪に変えているが、明け方に山に帰る動物の寂しげな姿という趣向はよく似ている。鹿というと妻問う鹿のイメージがあり、通い婚時代の朝毎の男と女の別れも連想させる。これに対して猪だと、夜興引(よごひき)の狩りのイメージになるが、鹿も狩猟の対象という点では、同じイメージに取れないこともない。

 

 

25、 唐黍(たうきび)にかがらふ(のき)や玉まつり    洒堂(しゃだう)

 

 「洒堂(しゃだう)(いはく)路通曰(ろつういはく)唐黍(たうきび)(あは)にも(ひえ)にもふるべし。ほ句となしがたしト也。去来曰、通いまだ句ノ花実(くゎじつ)をしらざる故也(ゆえなり)此句(このく)ハ軒の草葉に火影(ほかげ)のもれたる(しづ)玉祭(たままつり)(ふし)たるにて、一句の(じつ)ここにあり。(その)草葉ハ唐黍(たうきび)にても粟稗(あはひえ)にても、其場(そのば)(かな)たらん物を用ゆべし。(これ)ハ一句の花也。実ハ魂祭(たままつり)にて(うごく)べからず。動けバ(ほか)の事也。花ハいくつも(ある)べし。その内雅(うちが)なる物を撰び用ゆるのミ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,3940

 

 「ふる、ふらぬ」の論に芭蕉は取り合わなかったが、路通がここで酒堂の句を難じてきたので、去来としても面白くはないが、放ってもおけなかったのだろう。

 唐黍(とうきび)今日ではトウモロコシのこととするのが普通のようだが芭蕉の時代はコウリャンの意味で用いられていたコウリャンは今日ではタカキビとも呼ばれていて、ソルガムとも言う。

去来・卯七編の寛永元年刊『渡鳥集』には、

 

   元禄十一の秋七月九日、長崎にい

   たり十里亭に宿す。此主は洛の去

   來にゆかりせられて、文通の風雅

   に眼をさらし、長崎に卯七持たり

   と、翁にいはせたる男也。予此地

   に來たり、酒にあさばず、肴にも

   ほこらず、門下の風流たれが爲に

   語らん。

 錦襴も純子もいはず月よ哉    支考

   磯まで浪の音ばかり秋    卯七

 唐黍の穂づらも高く吹あげて   素行

 

の三つ物が集緑されているが、ここでも唐黍の穂の高さが詠まれている。

芭蕉七部集の一つ、荷兮編貞享三年刊の『春の日』にも、

 

   待恋

 こぬ殿を唐黍高し見おろさん   荷兮

 

の句がある。

 背が高く2メートルを越えて穂をつける姿を(かがり)()見立てたのであろう貧しい家の魂祭り(盂蘭盆会(うらぼんえ))で、外にゆらゆら揺れるコウリャンがあたかもお盆の迎え火のように御先祖様の霊を招いているかのようだ、という句だ。

 粟稗では背が低くて迎え火で死者が来る時の目印にするには目立たないし、それにありふれている。ここはコウリャン(唐黍)でなければいけない。

 

 

26、 玉祭(たままつり)うまれぬ(さき)の父こひし   甘泉(かんせん)

 

 「去来曰、吾子(ごし)ハ出生以前に父を(さう)し給ふや。甘泉曰(かんせんいはく)、去々年送葬し侍る。来曰、しからバ(これ)他人の句也(くなり)。吾子に対しておかしからず。(およそ)ほ句を吟ずるに、(こころ)は無常狂狷(きゃうけん)境にも遊ぶべし。(ところ)禁裏仙洞(きんりせんとう)のうわさをも(まうす)べし。事ハ乞食桑門(こつじきさうもん)の上にも(およぶ)べし。於句(くにおいて)身上(しんしゃう)を出べからず。もし身外を吟ぜバ、あしくハ害を求め侍らん。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,40

 

 ずいぶん昔の話だが、七十年代に小椋圭が三歳になる自分の子が死んだことを想像して曲を作ったら、家族親戚から縁起でもないと非難を浴びたという。

 ポップスの場合、歌の内容をそのまま作詞者や歌手の現実と混同する人はまずいない。失恋の歌を歌ったからといって本人が失恋したわけではないし、友達がバイクで死んだなんて歌を歌っても、誰もそれが本当にその人の身に起きたかどうかなんで問題にしない。

 俳諧でも、付け句の場合はそれでいいのだろう。ただ、発句というと、一応当座の挨拶だから、そこで詠まれたことはその時の作者の気持ちと取るのが普通だ。

 魂祭りでの興行の席で「うまれぬ先の父こひし」と詠めば、聞く人は作者が本当に父の顔を知らないんだと思って涙するかもしれない。ましてそれが嘘だとわかるとどうなることかは推して知るべし。

 去来も言う。気持ち的には風狂の徒になるもいいし、聖賢の境地になるもいい。芭蕉も宮廷であっていいし、乞食をしたり仏門に入ったりする句でもいい。ただ、自分の一身上のことを偽って詠めば、世間で誤解を招き、挙げ句の果ては嘘つき呼ばわりされ、信用を失うことになり、ろくなことはない。

 これは発句の特殊な性格によるもので、文学に一切虚構があってはならないみたいな私小説的発想とは何の関係もない。

 

 

27、 御命講(おめいこ)やあたまの青き新比丘尼(しんびくに)   許六(きょりく)

 

 「去来曰、七字かくいひ(くだ)さんハいかが、()レを直さバ一句しほり出来(いできた)らん。許六曰(きょりくいはく)、しほりハ自然の事(なり)。求めて作すべからず。此ハ七字を(もつ)てほ句(なり)其角(きかく)もさこそ評し侍りける也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,40

 

 御命講は日蓮宗で日蓮上人の命日の十月十三日に行われる大御影供(おみえいく)のことで、そこには剃髪したばかりのまだ剃り跡の青々とした尼僧の姿があり、その初々しい姿は厳粛な中にそこはかとない色気を感じさせる。若くして出家して、身の上に何があったのかと好奇心もそそられ、哀れな中に花がある。ただ、去来はそれとは別のものを求めていたようだ。

 多分、去来としては、日蓮上人の命日で法会とあれば、何か物悲しげなものを期待したのではなかったか。「しおり」は「しおれる」から来た言葉で、咲いた花がしぼむように、新比丘尼の華やかさではなくうらぶれた悲しげな姿が欲しかったのか。多分何か涙を誘うような一言を期待したのだろう。

 「しおり」は「さびしおり」というように、「さび」と一緒に使われることもある。いずれにせよ、凋落した姿に悲しみや無常観を感じさせることで、かえって永遠のものへの祈りを表現しようとするものだ。

 許六は「しおり」は自然の情で、あえて作るものではないという。花の咲くのもしおれるのも自然のままに、ということか。

 

 

28、 門口(かどぐち)牛玉(ごわう)めくれてはつしぐれ    作者不覚

 

 「去来曰、此句(このく)彦根より見せられたるに、其角(きかく)がよろほうしの門札(かどふだ)の句と等類ト評しぬ。予はなハだ(あやまり)なり。その(ころ)(すこし)似たる事もかはしく嫌ひのぞきて、一句の惣体(さうたい)を知らず。門と云ひ札といふにて、はや等類の評をなせり。いとあさまし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41

 

 等類の問題というのは、今のように著作権だとか印税だとかの概念のなかった時代でも、盗作の疑いをかけられれば名に響くし、たとえ濡れ衣でもひとたび評判を落とすと、俳諧師としての営業活動に支障が生じる。そのため、作者としても等類の疑いはかけられたくないし、選者としても等類の疑いのある句は選びたくない。

 この「門口や」の句は許六の句で、元禄八(一六九五)年正月二十九日付許六宛去来書簡(きょりくあてきょらいしょかん)では、芭蕉の

 

 五月雨や色紙(しきし)まくれし壁の跡    芭蕉

 

の句の等類だと指摘している。この句は『嵯峨日記』では「色紙へぎたる」と推敲されている。

 

 門口(かどぐち)牛王(ごわう)めくれてはつしぐれ   許六(きょりく)

 弱法師(よろぼふし)わが(かど)ゆるせ餅の札     其角(きかく)

 五月雨や色紙(しきし)へぎたる壁の跡    芭蕉

 

 許六の句は門に貼ってあった厄除けのための熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん)の護符が、長年経るうちにめくれ、そこに老いを感じさせる初時雨が降るというもの。

 其角の句は托鉢に来る乞食僧に、お願いだから来ないでくれと、既に他の僧に餅を施したという札を貼っておくというもので、今でいえば前にもらった赤い羽根を取っておいて、毎年歳末募金の季節になると引っ張り出して着けているようなものか。許六の句とは門に札の貼った情景が似ているだけで、内容はまったく違う。

 芭蕉の句は、長年にわたって何度も五月雨の季節を経て、壁がすっかり変色してしまったが、色紙の貼ってあった場所だけ新築したときの頃の色が残っているというもので、年月の経過を示すという点では許六の句に似てないともいえないが、許六の句ははがれた札にただ年月の経過だけを見るが、芭蕉の句ははがれた跡の壁の色に年月が経過しても変わらない昔を見る。

 どっちが似ているかといえば、明らかに情の上では芭蕉の句に近い。だから、去来が芭蕉の句と等類だと言ったのは、なるほどという感じがする。変わってゆく中に変わらないものを見る、不易流行を感じさせる芭蕉の句の不易の部分を見落として、ただ雨に古びてゆくのを「門口(かどぐち)牛王(ごおう)」という句の花で飾ったと言えばそれまでだろう。ただ、「門口の牛王」に新味を認めるなら、独自に一興あり、等類を免れる。

 これだと「明石のほととぎす」の句と同様、等類かどうかは微妙になる。

 

 野を横に馬引きむけよほととぎす   芭蕉

 面梶(おもかじ)よ明石のとまり時鳥(ほととぎす)     野水(やすい)

 

 この二句について、芭蕉は「明石の時鳥」に一興あるとしながらも去来は等類として『猿蓑』に入集させなかったことが「先師評」10に記されている。

 しかし、其角の句との類似は明らかに表面的な語句の一致で、これをどう考えればいいのだろうか。なぜ去来は会えて芭蕉の句ではなく、其角の句との類似を持ち出して、あえてこれは等類ではない、あの頃は一句の惣体も知らず見かけだけで等類などと非難したりしたと書いたのだろうか。

 素人が等類と間違えやすい見かけの一致を、俺も昔はそうだったと弟子たちに親近感を持たせながら、方便として言ったのだろうか。あるいは他の等類の議論がこの手のものではないということを言いたかったのだろうか。

 見かけの上で似ている句というのはよくある。

 

 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音    言水(ごんすい)

 海に出て木枯し帰るところなし   誓子

 

 言水の句は木枯しはどこまでも果てしなく吹き過ぎてゆくようでありながら、茫々たる冬の海(実際は琵琶湖)に出てしまえばそれ以上吹くものがなくなるというもので、草木を枯らしてゆくすべての生き物に共通した死の運命も、生きているうちのものだということを暗に示しているように思える。

 これに対し、近代の山口誓子の句は、海に一度出てしまった木枯しは再び岸に帰ってくることがないという句で、時間が逆戻りしないことを暗示させる。死という運命に対し、言水は生の空間の有限を説き、誓子は生の時間の非可逆性を説く。もちろん等類ではない。

 

 

29、 (ゐのしし)の鼻ぐずつかす西瓜(すゐか)かな   卯七(うしち)

 

 「去来曰、させる事なし。三四()の句(なり)正秀曰(まさひでいはく)(ゐのしし)なれバこそ鼻ぐずつかしけんト(はなはだ)(よろこば)れり。(その)後先師も一興(あり)(なり)。去来曰、退(しりぞい)ておもふに、この(ごろ)いまだ上方(かみがた)西瓜ハ珍し。正秀もめづらしとおもふ心より、猪のあやしミたるトハ風情聞出(ふぜいききいだ)セリ。予ハ西国(うまれ)にて、西瓜も瓜茄子(うりなすび)の如し。(かつ)て心ゆかず。(そうじ)て人の句をきくに、我がしる場しらざる場にたがひ(あり)て、虎の咄しをききて(おは)レたるものの、汗をながしたるとゆへる類也(たぐひなり)。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41

 

 確かにどんな芸術作品でも、すべての人に同じように感動を与えるなんてのは無理な話だ。悲しい失恋の歌も失恋経験のないものには何の事かよくわからなかったりするし、逆に今失恋のさなかの人はしょうもない歌でも涙したりする。感情は人それぞれで、無実の罪で殺されてゆく人の悲しみも、ある種の人にはサディスティックな興奮を誘うかもしれない。

 まして新味ということになると相対的なもので、

 

 汽車道の一本長し冬木立    子規

 

も、明治二十年代にはハイテクマシーンへの驚きがあったが、今ではノスタルジーを感じさせる。

 また、地域においても相対的で、幕末の浮世絵も今日の漫画も日本人にとっては日常のもので、特に目新しいものでもないが、フランス人はそこに新味を見出す。逆に明治の日本人にとっては、西洋画のスフマートや線遠近法は新鮮だったが、西洋人にとってはルネッサンス以来の伝統にすぎなかった。

 西瓜は南アフリカのカラハリ砂漠の原産で、西洋の船が日本に来るようになって、ようやく日本にも入ってきた。同じ日本でも長崎では海外のものが早く入るので、去来の故郷の長崎では西瓜はそれほど珍しいものではなかったが、伊賀出身の芭蕉や近江膳所(ぜぜ)出身の正秀には、それが新味に移ったのだろう。

 芭蕉は江戸に出てまだ浅い頃の延宝七年秋に、

 

腫気のさす姿忽花もなし

 春半より西瓜は西瓜は     桃青

 

の句を付けていて、天和二年春にも、

 

_蕉誤ツテ詩の上を次グ

朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ     芭蕉

 

の句がある。江戸ではこの時点で目新しい題材だったのだろう。

 卯七は長崎の人なので、長崎ではありふれた題材も、江戸・上方では新味として評価されるのを見て、同じ長崎出身者の去来としては釈然としない感があったのか。

 

 

30、 まんぢうで人を尋ねよ山ざくら     其角(きかく)

 

 「許六曰(きょりくいはく)(これ)ハなぞといふ句也(くなり)。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不応(いひおほせず)(いふ)句也。たとへバ灯燈(ちゃうちん)で人を尋よといへるハ(ぢき)に灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭(まんぢゅう)をとらせんほどに、人をたづねてこよと(いへ)る事を、我一人合点(われひとりがてん)したる句也。むかし聞句(ききく)といふ物あり。それハ句の切様(きりやう)(あるい)ハてにはのあやを(もつ)(きこ)ゆる句也。(この)句ハ其類(そのたぐひ)にもあらず。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4142

 

 謎めいたものというのは不思議と人を惹きつける力がある。わかりやすい文章というのは、「ああなるほど」で終わってしまうが、意味がよくわからない文章というのはかえって「何だろう」とついつい考えてしまい、結果的に長く心に留まることがある。夥しい数のクイズ番組、パズルゲーム、推理小説、人は結局いつでも何か適度に頭を働かすことを楽しみ、そしてそれが解けたときには、ちょうど苦労して山頂に立ったような快感を覚える。それゆえに、言ったとおりの意味しかない句より、多少謎めいた句のほうが好まれるのだろう。

 ある意味で、最も成功した謎句は、あの古池の句かもしれない。

 

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 

 句自体の意味は明瞭だが、果たして古池に飛び込んだ蛙に何の意味があるのだろうかと考え始めると、簡単に答が出るものではない。明治三十一(一八九八)年に正岡子規は『古池の句の弁』の中で、「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし」と言い切ったが、それでも何か別の解釈を探そうという情熱に水射すことにはならない。

 むしろ謎句というのは「意味がない」と言い切ったから謎がなくなるというものではなく、意味がないといっても本当に何の意味のないということを証明することが困難なため、やはり謎が謎を呼ぶことになる。

 謎句には大きく分けて二種類考えられる。一つは作者の頭の中に一つの明確な答が想定されているもの。もう一つは作者自身も答を知らないもの。前者はいわばクイズのようなもので、読者がある一定の答を導いたなら、そこで謎は解消する。去来が「むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。」というのも、これに含まれる。

 しかし、後者の場合は永遠の謎となる。少なくとも、その謎を解こうという情熱を持ったものが一人もいなくなるまでは謎である。

 これとは別に歴史的に本来の読み方が失われ、謎になってしまった作品というのもあり、たとえば額田王の「莫囂圓隣之‥‥」の歌や『日本書紀』の童歌などはいまだに謎だが、これは謎になることを意図して作られたかどうかがわからないので除外する。

 去来は、其角の「まんぢうで」の句は、作者の頭の中に一つの答があったことを確信している。ただ、それがわからないのは、設問が不十分で読者が一つの回答に至ることができないためで、言い応せぬ句だという。

 去来によれば「饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよ」というのが真意だというが、この説で誰もが「なるほど!謎が解けた!」と思うなら問題はないのだが、これもまた一つの解釈にすぎないということになれば、かえって謎は深まってしまう。去来は暗号解読のように一つの謎を解いたわけではない。一つの説を提示したにすぎない。

 この句に一つのトリックがあるとすれば、それは「提灯で‥」の場合、どういう場面ならそういう言葉が発せられるか、容易に想像ができるが、これを「まんじゅうで‥」としてしまうと、その状況が誰も即座に浮かんでこない。そのため、読者はどういう場面であればこういう言葉が発せられるのか、あれこれ思案する。

 花の下で誰もが酒を飲んでドンチャン騒ぎしている中で、まんじゅうを目印に下戸の誰かさんを探してこいということなのか、あるいは酒を断った僧でありながら花を好む隠逸の士、つまり西行法師を探せということなのか。いろいろ想像をふくらましてゆく中で、残念ながら去来の解はそれほど面白い想像ではない。

 実はこの句は元禄十年の桃隣編『陸奥衛』の巻に「むつちどり」には、

 

 「遙に旅立と聞て、武陵の宗匠残りなく餞別の句を贈り侍られければ、

  道祖神も感通ありけむ。道路難なく家に帰り、再会の席に及び、此道

  の本意を悦の餘り、をのをの堅固なる像を一列に書て、一集を彩ものなり。

    子の彌生 日」

 

と前書きし、調和、立志以下二十人、一人一ページ座像入りで一句ずつ掲載している。ただ、ここには故人である芭蕉も含まれているため、全部がこの時の餞別の句ではない。

 確かにそこには、

 

   餞別

 饅頭て

 人を尋よ

  やまさ

   くら  其角

 

と記されている。

 そして巻五の「舞都遲(むつち)()()」の桃隣の紀行文の序文の最後に、

 

   首途

 何國まで華に呼出す昼狐     桃隣

 

の句がある。これはおそらく、「饅頭へ」の句への返しのようにも見える。饅頭を持って行って人を尋ねてこい。それにたいして「どこまで行かせる気だよ」と返すやり取りは面白い。昼狐は其角のことだろう。

 饅頭の句の最初に作られた時の意図とちがっていたにしても、集を盛り上げるために転用した可能性はある。

 許六はこれをあざ笑うかのように、

 

 「此人にハいろいろおかしき咄多し。ミちのくの旅せんといひしハ春の比也。其春晋子が句に、

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら

と云句せしに、此坊ミちのくの餞別と意得て、松島の方へ趣たるもおかし。戻りて後の今日ハ、餞別にてなきとしりたるや、かれにききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.203205

 

と記しているが、『去来抄』を読む限りでは許六は「是ハなぞといふ句也」というだけで、正解を知っているわけではない。

 饅頭の句は、酒の苦手な芭蕉さんの足跡を訪ねて陸奥へ行くなら饅頭を持って行くと良い、という句とみなして良いと思う。

 言葉というのは人の記憶を刺激し、忘れていた何かを思い出させる力がある。それとは逆に、記憶を想起できない言葉というのは、何か未知の想像を引き起こす。其角ほどの人なら、言葉のこうした性質にはある程度気付いていただろう。

 句自体は曖昧でどうとでも取れるように作られていても、ある状況が浮かぶなら、それがカチッとはまるような、そういう作り方を其角は得意としていた。普通に読めば言い応せぬ句でも、これが芭蕉の足跡を慕って陸奥に旅立つ桃隣への餞別だと言われれば、これは饅頭で芭蕉を訪ねて行けという句だと明瞭なイメージが生じる。

 去来はこれを言い応せぬ句だというが、其角の句の場合、作者の意図が伝わらないというよりは、作者の意図を離れて様々な想像が膨らむ。去来自身も認める言い応せぬ句、

 

 兄弟の顔見る(やみ)時鳥(ほととぎす)    去来

 

の句では、この「兄弟」が仇討直前の曾我兄弟だということがわかりにくく、それが伝わらなければ単にどこかの兄弟が、「今ホトトギスが鳴かなかったか?」「うん、鳴いた。」というだけの句になる。これに対し、其角の句は作者の意図が何だったにせよ、それ以上の解釈を生み出す可能性がある。

 其角がこうしたトリックを使うのは、この句だけではない。

 

 あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声    其角

 

 この「あれ」が何なのかについては諸説あり、近江三井寺の鐘とも、浅草寺の鐘とも言うし、時雨を聞けとの鐘の声とする説もあるが、基本的にはこの「あれ」はどうにでも取れる。特にこの句が撰集『猿蓑』で

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也     芭蕉

 あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声    其角

 

と並んだ場合、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けという意味ということで、カチッとはまるようにできている。

 芭蕉の古池の句は、当時の人ならばむしろ何か心の底にある原体験みたいなものを想起させたであろう。「古池」は荒れ果てた廃村か没落した旧家の連想を誘い、いわば廃墟をイメージさせる。蛙の水音は、豊作を暗示させる蛙の鳴き声にくらべると侘しげで、春なのにそれを喜べない、何が深い事情を感じさせる。まして「水音」はかつては入水の連想を誘う言葉でもあった。こうしたイメージが重なり合うことで、当時としては「何だかわからないけど涙があふれてきた」という反応を引き起こしたことが想像できる。

 本来なら目出度いはずの春の訪れでも、荒れ果てた古池で不意に蛙の飛び込む音を聞けば、むしろこれは在原業平の、

 

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして

 

の歌の情に近いものを引き出すことになる。

 これに対し其角の場合、あえて記憶を喚起させないことで、読者にイメージをふくらまさせることを知っていた。

 去来の「言い応せぬ句」の説はこうした其角の独特な発想に気付かないか、故意に矮小化しようとしての発想だろう。

 

 

31、 (あさがほ)にほうき打敷(うちしく)をとこ哉   風毛(ふうもう)

 

 「魯町曰(ろちゃういはく)此句或人(このくあるひと)長点也(ながてんなり)。いかが侍るや。去来曰、ほ句といはば(いは)れんのミ。牡年(ぼねん)曰、先師の(あさがほ)に我ハ食喰(めしく)ふおとこ(かな)ト、いか成処(なるところ)秀拙(しうせつ)侍るや。来曰、先師の句ハ和角蓼蛍句(かくがたでほたるのくにわす)といへるにて、(あく)まで(たくみ)たる句に答へ也。句上に事なし。こたゆる処に趣ありて、風毛(ふうもう)が句ハ前後表裏(ひとつ)の見るべき物なし。如此句(かくのごときく)ハ口を開けバ(いづ)る物也。こころ見に(つくり)てミセん。題を出されよ。町(すなはち)露と(いふ)。露落てしりこそばゆき木陰哉(こかげかな)。きくと云。きく咲てやねのかざりや山ばたけと、十題十句言下(ごんか)()シ、もしはらミ句の(うたがひ)もあらん。一題を乞て十句セん。町(きぬた)と云。娘よりよめの()よハき砧哉。乗懸(のりかけ)のねむりをさます砧哉 トいふをはじめ、十句筆をおかせず。予ハ蕉門遅吟(ちぎん)第一の名有ルすらかくのごとし。いはんや集にも(いで)たる先師の句なれば、各別の処ありとおもひしらるべし。

 

 去来曰、此言ハ自照らふに似たり。然ども当時世間の作者、この(あさがほ)の句、或ハ道なかのむくげハ馬にくハれけりなどいふ句体のまま侍るにまよひて、あさましき句を吐き出し、芭蕉流とおぼへたるやから有。其輩にしらせんために此を記し侍るなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4243

 

 先師評にはふっと口をついて出てきた言葉がそのまま句になる例が二つほどあった。

 

 じだらくに寝れば涼しき夕哉(ゆふべかな)   宗次

 玉棚(たまだな)のおくなつかしやおやのかほ  去来

 

しかし、そのあと、

 

 夕涼み疝気(せんき)おこしてかへりけり   去来

 

の句を載せているように、ふっと口をついて出てきた言葉が必ずしも良い句になるわけではない。そこが難しいところだ。

 結局そうしたふと口をついて出てきた言葉にも、使えるかどうか瞬間的に判断する鑑賞眼が働くかどうかの問題なのだろう。できる人は、日常の次から次へと飛び交う言葉の中からでも「これだ!」というものを見つける才能がある。

 「(あさがほ)に」の句も、朝に庭を掃いているどこにでもいる普通の男が、ふと朝顔が咲いたのに目を止め、箒を地面の上に置く。何気ない日常の仕草の中に、ふっと花に心を奪われる一瞬を見事に描いたといえばそう悪い句ではないが、だから何なんだと言われれば、それで終わってしまう句でもある。そこには特に朝顔ならではの、朝に咲いて昼にはしぼむ哀れさもないし、

 

 朝顔につるべとられてもらい水   千代女

 

のような、井戸に一生懸命鶴を巻きつかせ花を咲かせようとする朝顔の生命への共感もない。その点では、本意本情を満たさない句で、去来がこれを「発句といはば、いはれんのみ」、つまり発句といえば言えなくもないが、発句ではないと言えば発句ではない、という評価なのもわかる。

 

 つき出すや(とひ)のつまりの(ひきがへる)   好春

 

の類だろう。

 (あさがほ)にほうきの句は、形だけ見ると、

 

 朝顔に我は飯喰ふをとこ哉   芭蕉

 

の句と、十七文字中十字が一致するが、この句はある日其角が芭蕉の元を尋ねたとき、

 

 草の戸に我は(たで)くふ蛍かな   其角

 

と挨拶したのに答えたものだ。粗末な草庵で「蓼食う虫も好き好き」という言葉もあるように、わざわざ俳諧数寄の道に入る夜の蛍だという。蛍というのは

 

   五月雨(さみだれ)を集めて涼し最上川

 岸にほたるをつなぐ船杭     一栄

   隠家(かくれが)やめにたたぬ花を軒の栗

 稀に蛍のとまる露草       栗斎

 

のように、俳諧ではしばしば客人を褒めて言う言葉として用いられるが、それを自分で使っちゃうあたりが当時の其角の若さかもしれない。

 また、蓼は当時は酒の肴でもあり、蓼くふ蛍は、酒好きで遊郭を渡り歩く夜の帝王みたいなニュアンスもあったようだ。芭蕉の句はそれに対し、私は夜遊びはせず、普通に朝起きて普通に飯を食う男だ、と答えたもの。自意識過剰ともいえる其角の句をさらっと流したところは面白いが、句そのものとして面白さがあるわけではない。

 ここで去来は調子に乗って、この程度の句はいつでも作れるとばかりに魯町にお題を出させる。

 

   露

 露落ちて尻こそばゆき木陰哉

   菊

 菊咲いて屋根のかざりや山ばたけ

 

 また、これが「孕み句」つまり席上で出す句の候補として事前に書き溜めていた句だと疑うなら、一題で十句作ってみせると言い、

 

   (きぬた)

 娘より嫁の音よわき砧哉

 乗懸(のりかけ)のねむりをさます砧哉

 

というふうにたちまち十句作ったという。

 確かに何でもいいから五七五で季題が入っていればいいというのであれば、子供でも作れるし、実際国語の授業で作らされたりする。まして、俳人を志す者なら、日常目についたものを何でも五七五にしてみるというのは、練習として誰もがやっていそうなことでもある。「口を開けば出づる」というのはそのレベルということなのだろう。

 当時と今とで違うのは、今日では俳句は出版文化であり、紙面を埋めるという単純な理由から、十句連作のような量産がノルマとして課せられているが、当時はむしろ作者自身の宣伝コピーであり、練りに練られた究極の言葉へと高めることで作者の名声を高め、多くの門人を獲得することが重要だった。だから、誰でも作れるような句を量産することに興味はなかっただけで、もし去来が現代を生きていたなら、十句連作の連載を月何本もこなしていたかもしれない。

 付句の場合は別で、当座で時間も限られている興行の中で、即興で素早く句を付けるのを競うのが俳諧の付け句だった。中世の連歌でも一日千句興行などが盛んにおこなわれ、速吟を競っていた。

 中世の初期の連歌が寺社などで誰もが飛び入りで参加できるような形態で連歌興行が行われ、そこから地下の連歌師が生まれていったが、西山宗因の談林俳諧も一度その頃の自由な雰囲気を取り戻そうという意図があったのだろう。ただ、さすがに飛び入り歓迎まではいかなかったが、俳諧を密室から寺社での公開の場に移す方向に向かっていた。

 その中で井原西鶴は一夜で何句作れるかで興行を行い、その句数の記録を更新してゆくことで名声を高める戦略を取った。こうした速吟に影響されて、大淀三千風など呼応する者がいたし、談林流行期の許六も速吟を試みていたようだ。あるいは芭蕉の延宝四年春の湯島天神奉納二百句はこうした公開での速吟の流行に乗ってのことだったのかもしれない。

 こうした速吟の流行も、西鶴が貞享元年に二万三千五百句という大記録を樹立したのを最後に終息していった。

 なお、去来は最後に自らを「蕉門遅吟第一」と言っている。正秀亭での膳所(ぜぜ)の悲劇を思えば、去来は蕉門の中ではアドリブの利かないタイプだったのかもしれない。それは作れないというよりはプライドが高くて下手な句を出すのを恥ずかしがっていただけなのだろう。

 

 

32、 年たつや家中(かちゅう)の礼は星づきよ   其角(きかく)

   元日や土つかうだる顔もせず   去来

 

 「許六(きょりく)の説、当時元日と云冠(いふかむり)用ゆまじき難アリ。去来曰、元日ハ(きらふ)べき事にあらず。やの字平懐(へいぐゎい)にきこゆ。(この)難なるべし。此句(このく)元日といハんほかなし。やハ嘆美したる詞也(ことばなり)。許六曰、其角此句を吟じ、春立(はるたつ)といへバ歳旦(さいたん)にあらず。元日ハいひ(ふり)たりと(うかが)ふ。先師曰、さバかりの作者の今日(こんにち)元日といハんハ(つたな)かるべしとて、年たつやトハ(おき)給へり。又やの字ニ嘆賞のやといふハなし。五ッめのやハうたがひのやとハ(ならひ)侍る。去来曰、角が句に於てハ先師かくの給ふべし。予が句に於てさハの給ハじ。作者の甲乙を(もつ)ていふにはあらず。己々(おのおの)志ざす処に違有(たがひあり)。予ハ珍物新詞を以て常に第二等に置侍る。そこは先師も(よく)見ゆるし給へり。又嘆美のやハ名目(みゃうもく)にハなし。名目を以て謂ハバ治定(ちぢゃう)のや也。治定にモ嘆息嘆美あり。古今集の和歌にもあり。世話にもさいたりや虎御前(とらごぜん)(きつ)たりやむさし坊といふ、皆治定嗟嘆也(みなちぢゃうさたんなり)ト論ズ。(なほ)後賢判じ給へ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4344

 

 ここでもまた切れ字「や」の用法について蒸し返されている。許六によると、元日は疑いようもないことなのだから、「元日や」という冠(上五)は変だと言うのだが、去来はこの場合の「や」は嘆美だから疑いではないと主張する。「や」を単純な嘆美・嘆賞、いわば今日でいう詠嘆の用法があるのかどうかをめぐって、許六と去来は延々と平行線にあったようだ。

 ここでは許六は其角と芭蕉を証人として出廷させている。其角は「春立つや」では立春の句で歳旦にはならないし、「元旦や」では言い古されている、どうすればいいかと芭蕉に尋ねる。それに対し、芭蕉は其角ほどの作者が「元旦や」というのはいかにも下手だと言って、「年立つや」とおき、そのとき、「や」の字に嘆賞の「や」というものはなく、この「年立つや」の「や」は疑いの「や」だと習ったという。

 芭蕉がそう言ったとなると、さすがの去来もやや引くが、芭蕉は相手によって教え方を変えるところがあり、其角にはそう言ったかもしれないが私は何も言われなかった、とやり返す。また、「嘆美」という言い方が正確でないことを認め、正確には「治定(ちじょう)」だという。そして、治定の中に嘆美・嘆賞も含まれているという。『古今集』の例は定かではないが、「さいたりや虎御前」「切ったりや武蔵坊」は明らかに口語的な言い回しで、この問題はやはり雅語の「や」と俗語の「や」(今日の関西弁でいう「アホや」の「や」)との混同の問題だろう。

 芭蕉は伊賀、許六は彦根で、其角は江戸なのに対し、去来は長崎出身京都在住で、口語の「や」を日常的に用いていた可能性がある。其角も「元旦や」にそれほど違和感を覚えず、むしろありきたりという感覚を持っていたのは、江戸はいろいろな国の人が集まり、いろいろな地方の方言が入ってきていたからだろう。芭蕉の時代の伊賀で、当時どのような方言が用いられていたかは定かでないが、あるいは伊賀や彦根にはそのような言い回しがなかったのかもしれない。

 古いところで荒木田守武に

 

 元日や神代のことも思るる   守武

 

の句があるが、この場合は「元日に神代のことも思はるるや」の倒置で、元日を疑っているのではない。

 私は本来「雅語」の「や」には詠嘆の用法はなかったと思う。去来がここでいう『古今集』の和歌を

 

 谷風にとくる氷のひまごとに

    うちいづる波や春の初花

                 源当純(みなもとのまさずみ)

 

の歌だという説もあるが、これは波を花に見立てる用法で、「打ちいづる波は春の初花だろうか」と読める。

 去来のいう「治定」という言葉は当時の文法用語で広く用いられていたのだろう。ただ、これも今日でいう詠嘆とイコールではない。治定には事実を指すというよりも、人間の方から主観的に治め定めるというニュアンスで、この言葉は「かな」にも用いられる。つまり、客観的には疑われるが、主観的に断定する用法だ。「かな」にも明らかに主観的な要素がある。

 

 ()(もと)に汁も(なます)も桜かな     芭蕉

 

を「桜なり」としたら、やはりおかしい。汁や膾の材料に桜が用いられているみたいになってしまう。「桜かな」には、「桜ではないけれど、桜のようだ」というニュアンスが含まれる。その意味で、これを「桜だろうか」と言い換えることもできる。治定という言い方は完全な疑いではないにしても、疑いつつ治定するという側面を含む。だから、むしろこの句は「桜なり」とすることはできなくても、

 

 木の下や汁も膾も桜花

 

と言い換えることは可能だ。(句の調子は悪くなるが、意味は変わらない。)その点では治定と疑いとの間にそれほど距離はない。

 おそらく、「や」という助詞は本来疑問か反語の意味で、語末に置かれる言葉だったのだろう。それがしばしば倒置され、文中に用いて、疑う対象を限定するところから、係助詞の「や」の用法が生じたのだろう。

 「春立てば白雲を花と見らむや」は花を強調するように倒置すれば「春立てば白雲を花とや見らむ」になり、白雲を強調するように倒置すれば「春立てば白雲をや花と見らむ」になる。和歌だと前者はさらに、「春立てば花とや見らむ白雲の」となり、後者は「白雲や花と見つらむ春立てば」というように、さらに複雑な倒置になる。

 そもそも係助詞というのは倒置から生じたもので、「何をか言はむ」は「何を言はむか」の倒置、「花ぞ散りける」は「花散りけるぞ」の倒置、「人こそ見えね」は「人見えね(ば)こそ」の倒置が元になっていて、倒置されても動詞の活用はそのまま残るため、連体形や已然形で結ぶことになる。

 切れ字の「や」は基本的にこの末尾の動詞の省略にすぎない。

 

 古池に蛙飛び込む水の音すや

 

は、古池を強調すれば「古池や蛙飛び込む水の音す」となり、この「す」を省略すればあの、

 

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 

の句になる。だからこの句は強調する所を変えれば、

 

 古池に蛙や飛び込む水の音

 古池に蛙飛び込むや水の音

 古池に蛙飛び込む水や音

 古池に蛙飛び込む水の音や

 

とも言い換え可能である。

 おそらく芭蕉の故郷の伊賀には、当時は詠嘆の「や」の用法はなく、俳諧を始める頃学んだ雅語にもその用法はなかったなら、芭蕉は基本的に「やに嘆賞のやというはなし」という考えだったのだろう。ただし、俳諧は俗語の開放でもあり、その意味では特に去来に関して、京都で日常的に用いられていた嘆賞の「や」を容認していた。そう考えるのが一番妥当なように思える。

 

 

33、(季重なり)


 「風国曰(ふうこくいはく)、彦根のほ句、一句に季節を二ツ入ル、手曲有(てくせあり)(もっとも)難ずべし。去来曰、一句に季節二三有(ふたつみつある)とも難なかるべし。もとより好む事にもあらず。

  許六きょりく曰、一句に季節を二ツ用ゆる事、初心のなりがたき事也。季と季のかよふ処あり。去来曰、一句に同季節をふたつ用る事ハ、功者初心によるべからず。されど、許六の季ト季のかよふ処に習ありといへるハ、予がいまだしらざる事也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,44

 

 今でも俳句をちょっとかじった人はもとより有名俳人までもが、人の句でたまたま季重なりがあったりすると鬼の首を取ったような顔をするが、連歌の式目には季重なりについての規定はない。俳諧の方式も原則としてそれに従うのだから、季重なりは何ら問題ではない。もし、季重なりがいけないというなら、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹(はつがつを)   素堂(そだう)

 田一枚植えて立去(たちさる)柳かな     芭蕉

 

の句はどうなるのか。近代俳句ではそれぞれ流派によって違うだろうが、原則的には無季題や自由律が許されているのだから、季重なりばかりに目くじら立てる理由はない。

 とはいえ、季重なりを見つけると鬼の首を取ったような顔をする人は江戸時代にも結構いたのだろう。去来ははっきり言う。一句に季語が二つ三つあってもかまわない。ただ、わざわざ好きこのんでいくつも季語を入れる必要はない、と。

 ただ、もちろん、ただ出鱈目に二つ三つの季語を入れれば、テーマが散逸してしまい、いい句はできない。組み合わせが重要であり、許六が言うように、むしろ初心者にとっては難しい。たとえば、紅葉に時雨を組み合わせるのは古歌にも出典があるし、時雨に濡れた紅葉に夕日の射す美しさを知ればこそ、この組み合わせは成り立つ。

 芭蕉の「田一枚」の句にしても、中世連歌では春の柳の芽吹く時の「青柳」は春だが、そうでないものは無季題として扱われることもあった。それに西行の歌などに夏の柳の下の下涼みを詠んだものもあり、「田一枚」の柳は旅人の涼む夏の柳であることは明白だ。このように、理由があって季重なりになっている場合は、テーマが散逸することはない。

 芭蕉の『野ざらし紀行』の

 

 冬牡丹(ふゆぼたん)千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉

 

という句は、「冬牡丹」「千鳥」「雪」と冬の季語が三つ、「ほととぎす」という夏の季語が一つと、計四つの季語が入っているが、冬牡丹に千鳥の啼く声が聞こえてくれば、雪の季節にほととぎすが啼いているようで哀れだ、というふうに、四つの季語は互いに緊密に結びついていて、どれ一つでも欠けたなら句は成り立たない。まったくの素人が季語を知らずに「山茶花に吹く春風やほととぎす」とかやるのとはわけが違う。

 許六の言う「初心の(なり)がたき」のようなことは今の俳人でもいう人がいるが、それがどのレベルなのかは別に決まっているわけではない。「山茶花に吹く春風やほととぎす」のような句は見るからにどの季節なのか特定できず、意味そのものが不明だが、このレベルでないなら、それほど問題はない。要は季節が特定できるかどうかで、異なる季節の言葉が重なってても、どの季節の句かがわかるなら基本的に問題はない。

 実際、今日俳句の季語は様々な問題を抱えていることは事実だ。明治の初めに新暦が採用されたことで、季節感が微妙にずれた上、西洋的な季節感の影響を受けて、大体今日の季節感は江戸時代に比べて一ヶ月ほど後ろにずれている。そのため、若葉が夏で、朝顔が秋で、落葉が冬だというと、何か違和感がある。

 江戸時代の季節感では、一二三月が春だが、新暦の二月はまだ寒く、三四五月くらいが春という感じがする。同じく八月は学校も夏休みで、六七八月くらいが夏という感じがする。そのため、今の感覚では朝顔もお盆も七夕も夏だ。

 その上、明治以降の近代俳句では、古典の本意本情にこだわらずに、ただ何となく季節を感じる詞を次々と季語に加え、季語を乱発していったために何でこの季語がというものもないではない。また、生活の変化で季節感が消失してしまったものもある。さらには、昨今の地球温暖化も加わり、季語については杓子定規にならず、柔軟に考える必要があるだろう。

 近代俳句でも正岡子規の時代は季重なりをそれほど嫌ってはなかった。それは、

 

 草化して胡蝶となるや豆の花   子規

 鶏頭のまだいとけなき野分かな  同

 

などの句があるし、高濱虚子の『五百句』の中にも、

 

 しぐれつつ留守守る神の銀杏かな 虚子

 

の句が収められている。

季重なりに厳しくなったのが『ホトトギス』の隆盛の時代とすれば、投句されてくる何万という句を選考する際の単なる足切りの手段で用いられた可能性はある。

 

 

34、 (めくら)より(おし)のかハゆき月見哉(つきみかな)   去来

 

 「この(ごろ)或ル連歌師曰、花の(もと)にて此句(このく)の評あり。俳諧もかかる感情(かんせい)の句あれバ、あなどりがたしと(なり)。去来曰、此句ハ十七八年まへの句なり。そのころハ先師にも賞セられ、世上にもさたありし句也。尤事新敷(もっともことあたらしく)感ふかしといへど、句位を論ずるに(いたり)てハ(はなはだ)下品也(げほんなり)。今日蕉門の俳友中々此場(なかなかこのば)()らず。(これ)を賞セらるると(きき)て、(かへつ)て今日の連歌師のたのもしからずおもひ侍る也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4445

 

 去来の句は今なら、「目の不自由な人より言葉の不自由な人のほうが可哀想な月見哉」とでもすべきか。月を見ることができないのは可哀想だが、月を見て何も言い表すことができないのも可哀想だということか。もちろん、月が見えなくても心の月を見ることはできるし、言葉だけが月の感動を表現する手段ではない。どっちが可哀想なんて一概に言えるものではない。要するに、たいした句ではない。障害者より心をなくした健常者の方が可哀想だ、というならわかる。まあ、風流の心をどうやってもまったく持てないというのは一種の発達障害なのかもしれない。

 去来にとっても、この句は若気の至りで、貞享の頃の入門したての去来に対してなら、芭蕉も去来の上達を評価したのだろう。この句は一時流行したのだろうけど、其角編の『続虚栗(ぞくみなしぐり)』の句で七部集の句ではない。「事新敷(ことあたらしく)感ふかし」というが、新味はあったにしても、そんなに深いかどうかはわからない。もっとも、「下品」という言葉は今日でいうお下劣という意味での下品(げひん)ではなく、『文選(もんぜん)』の上品(じょうほん)中品(ちゅうほん)下品(げほん)という分類によるものだろう。

 連歌師も西山宗因(そういん)を最後に、本来の骨のある連歌師はいなくなったのだろう。「花の本」とは連歌師の最高の師匠に与えられる称号で、それがこんな句を取り上げて評価しているのだから、たかが知れているのはもっともなところだ。

 もっとも、権威者というのは世俗のことを知らないということをステータスと考える傾向にあり、それは洋の東西を問わぬもので、フランスのソルボンヌの文化人も流行に無知な態度を取ることをむしろ権威を高める手段として用いていることは、ピエール・ブルデューも指摘している。少々前の日本でも、宮沢和史や椎名林檎の歌詞を文学的だと評価する詩人がいたが、花の本の連歌師にどこか似てないか。

 要するにこう言いたいのだろう。「俺は詩学の権威だから巷で流行る流行歌なんてものには関心はないし、いやしくも文学者たるものそんなものに興味を持つべきではないと考えているが、たまたま聴いたあの曲の歌詞は低俗な流行歌の中にあっては文学的で、なかなか良いではないか。もっとも我々のレベルからすれば問題にならない程度のものではあるが。」昭和の頃にはこの手の人が結構いた。去来の句を褒めた連歌師も、そんな(やから)だったのだろう。

 

 

35、 (あさがほ)の裏を見せけり秋の風

 

 「一説曰、此句(このく)先師の葛葉(くずのは)(おもて)みせけりと等類(なり)許六(きょりく)曰く、等類にあらず。みせけりとは(ことば)のむすび(まで)なり。趣向かはれり。去来曰、等類とは(いひ)がたし。同竈(どうそう)の句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤(ときは)の山の鶯は(おのれ)なきてや春をしるらんと(いふ)に、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,45

 

 ここでまた等類ネタだ。この句も許六の句らしく、芭蕉の、

 

 くずの葉の(おもて)見せけり今朝の露    芭蕉

 

と確かに全体としては似ている。

 ただ、許六の言うように、「(あさがほ)の」の句は、秋風に吹かれて朝顔の葉が裏返っているというもので、裏は心(うら)にも通じ、「春に万物を生じ秋に止む」という死に向かってゆく定めの哀れさを、朝に咲いて昼には萎む花だけではなく、秋風に吹かれてやがて枯れてゆく葉にも遅速はあれ感じられる、というものだ。

 これに対し、芭蕉の句の方は上を向いていたクズの葉が、霜にやられてだらっと垂れ下がる姿を詠んだもので秋に草木の萎れる哀れを詠んだという点ではそれほど変わらない。

 だが一方で、この句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時の句と言われている。「(おもて)見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。

 言葉の続き方が似ていても、意味は多少違うので、等類かどうかは微妙だ。ここで去来はまた、「同竈(どうそう)」という微妙な概念を持ち出す。これは凡兆の「桐の木の」の句の所でいう、「同巣」と音が同じだし、同じものなのか違うものなのかは定かではない。

 今の俳句では類想という言葉が用いられるが、これは似たような発想という意味で、これを嫌う人がいるが、どこまでが類想でどこまでが類想出ないのか不明確で、中には根拠も示さずに「これは類想だ、私がそう決めた」で押し切るような人もいる。これがまかり通ると、どんな句でも否定することができてしまうので、敵を罵るのには良いが、客観的な批評の場ではその人の人格が疑われる。

 たとえば、

 

 古池や蛙飛び込む水の音

 

の上五を「古井戸や」に変えたなら、さすがにこれはオリジナルとは認められないのではないかと思う。こういうものは当時でも「等類」であって、同巣(同竈)ではない。なら、

 

 青淵や(うそ)の飛び込む水の音

 

はどうだろうか。発句ではないが、

 

    鞘ばしりしをやがてとめけり

 青淵に(うそ)の飛び込む水の音   曾良(そら)

 

という句はあるが、これは北枝(ほくし)が記録した『山中三吟評語』によれば芭蕉も認めている。ただし、発句と付け句の違いはある。

 等類に関しては藤原定家の有名な判が江戸時代でもよく知られていた。

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

             能因法師(後拾遺集)

 都をば青葉とともに出しかど

     紅葉ちりしく白河の関

源頼政

 

 許六の『俳諧問答』には、

 

 「此二首、心・詞少もかハらね共、定家の卿の判に云、頼政が歌ハ、能因が歌を本歌として、心・詞少モかハらね共、是等類にあらず也。頼政が歌ハ、色をよみたる哥也。これ産所の各別なる事を、先達よくきき分ケ給ふ故也。ありがたき判也。かやうの先達ありて社(コソ)、俳諧も面白し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.176177

 

 能因の歌が長い旅の感慨に留まるのに対し、源頼政の歌は「青葉」に「紅葉」と色を添えている点で新しい。それゆえ等類ではない。これが昔から等類の大方の基準になっていたのだろう。

 本歌取りをする時でも、そのまんまではなく、たとえば、

 

 苦しくも降り来る雨か神の崎

佐野の渡りに家もあらなくに

             長忌寸奥麿

駒とめて袖打ち払ふ影もなし

佐野の渡りの雪の夕暮れ

             藤原定家

 

の有名な例にしても、雨を雪に変えた上でその雪の夕暮れの景色の美しさを、いわば「色」を添えている。これがないなら等類ということにもなろう。

 なお、この章は、版本には収められているものの、原本には「此句は抜くべし」と注記して前文が抹消されているため、本によってはこの部分がカットされていたり、欄外に掲載されていたりする。

 

 

 36、 時雨しぐるるや紅粉もみの小袖をふきかへし    去来

 

 「正秀曰(まさひでいはく)、いとに(よる)のたぐひ、去来一生の句くずなり。去来曰、正秀が評いまだ解し得ず。予ハただ時雨(しぐれ)もてくるあらしの路上に、紅粉(もみ)の小袖(ふき)かへしたるけしき、紅葉(おとし)おろす山おろしの風ト、ながめたる上の俳諧なるべしと作し侍るのミ(なり)。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4546

 

 「紅粉(もみ)」というのは紅花の染料を揉んで着色するところから来た名で、赤い薄絹は主に女性の着物の裏地に用いる。小袖は当時は綿を入れたりして冬の重ね着にしていたが、その小袖が風に吹かれ、赤い裏地をチラチラさせる姿に、紅粉(もみ)紅葉(もみじ)の連想が働いたのだろう。それは裏地にすぎないとはいえ、どこかその下に履いてると思われる下着の赤い腰巻の連想を誘う。いわば今でいうパンチラ感覚だ。

 古来、

 

 龍田川錦織(たつたがはにしきお)りかく神無月(かむなづき)

    しぐれの雨をたてぬきにして

                  詠み人知らず

 

のように時雨に紅葉が色づく歌は多く、それは時雨の露が夕日に映えて美しく輝くからで、去来の句はこうした情とはやや離れて、風に小袖がめくれて赤いものがチラチラするのと、時雨に紅葉が染まる類似だけの句になっている。

 正秀が「いとに寄のたぐひ、去来一生の句くず」と言ったのも、そのあたりの弱点を見てのことだろう。「糸による」とは『古今集』の紀貫之(きのつらゆき)の、

 

   東へまかりける時、道にてよめる

 糸による物ならなくに別れ路の

    心細くもおもほゆるかな

                   紀貫之

 

の歌のことで、主な街道は大体都へと集まってゆくものだが、東国へ下る路はその反対に途中で方々に分岐し、細くなってゆく。それを糸の撚りがほどけてゆくのに例えた歌で、そんな悪い歌ではないが、糸の比喩だけに頼り、景物などに乏しいことからか、中世では嫌われたのだろう。

 『徒然草』第十四段に「この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、言葉の(ほか)に哀れにけしき(おぼ)ゆるはなし。貫之が、「(いと)による物ならなくに。」といへるは、古今集の(うち)歌屑(うたくず)とかやいひ(つた)へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。」とあり、「歌屑」などとけなされてはいるが、兼好法師の時代にはない言外の余情を認めている。

 正秀に対する去来の反論もわからないではない。

 

 ほのぼのと有明の月の月影に

    紅葉吹きおろす山おろしの風

                  源信(みなもとのさね)(あきら)

 

の風にめくれる紅葉の情を俳諧らしく卑近な題材で表現した、いわば不易の情を流行の現象で表現した不易流行の句だと言えなくもない。

 ただ、芭蕉が峰の猿の叫びを魚屋の塩鯛の歯茎で表現しようとしたのと決定的に違うのは、情の連続性が読み取れない点だ。風に翻る小袖の裏地は、形態の類似であって情の一致ではない。そのため、古典の情は句の表面に現れない。

 これは「応々と」の句にも言えることだ。

 

 応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど   去来

 

の句と、

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は

    いかにひさしきものとかは知る

                 右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)

 

の歌との類似は「待つ身のつらさ」という形態の類似に過ぎず、恋に悩む女性の身も引きちぎれんばかりの切なさはどこにも受け継がれていない。やはり、これは不易流行の誤解だろう。そして、この誤解に気付かなかったことが、去来の句の限界だったのではなかったか。

 芭蕉の塩鯛の句はただ形が似ているというものではない。塩鯛の口をあけた表情に、人間に捕らえられた断末魔の表情が読み取れ、月に叫ぶ猿の哀れに古人が託した、月を捕らえようとしてつかめなかった無念の情との間には、十分な一致がある。この情の一致があってこそ「軽み」は成功する。

 去来のこの紅粉(もみ)の小袖の句が「句屑」と呼ばれたのは、談林時代の宗因編『大坂独吟集』素玄独吟百韻「松にばかり」の巻二十一句目に

 

   ぞつとするほどきれな小扈従

 もみうらのだての薄着を吹あらし  素玄

 

の句があるように、使い古された題材で新味がなかったというのも原因だったのかもしれない。

 

 

37、 はつのいのこに(ちゃう)どしぐるる

   生鯛(いけだひ)のひちひちするをだいにのせ

   どこへ行やらうらの三介(さんすけ)

 

 「去来曰、此付句(このつけく)台にのせてといへる(ところ)、いのこの祝儀と(きは)めて此分(このぶん)過たり。やはりひちひちとしてはねかへりなどあらまほし。しからバ次の付句までもよからん。かかる処より手おもくなれり。(そうじ)て一句に謂尽(いひつく)したるハあとあと(つけ)がたき物なり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,46

 

 和歌ではあくまで一つの意味、一つの情をきっぱりと言い切ることが求められるのに対し、連歌は次の句の展開があるので、言葉にあえて曖昧さを残しておかなくてはならない。たとえば、

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

    浦のとまやの秋の夕暮れ

                 藤原定家

 

の歌も連歌なら、

 

    浦のとまやの秋の夕暮れ

 見渡せば花も紅葉もなかるらん

 

とすべきところだろう。「なかりけり」と言い切ってしまうと、「ない」という意味に極まってしまうが、「なかるらん」と曖昧にぼかせば、これを反語と取り成して、花も紅葉もないのだろうか、そんなことはない、という意味で次の句を付けることができる。

 また、付け句に景物を読み込みすぎると次の句が付けにくくなるという弊害も、古くからあるテーマで、心敬の『所々返答』でも、

 

    秋も(なほ)あさきは雪のゆふべ哉

 水こほる江にさむき雁がね     宗祇

 

の脇を「此御句、いささか(さかゐ)に入ずき結構のものにて候、発句のしな意、心よらず哉、脇の句、下句など少し云ひ残したく哉、水辺物、冬の物尽し給では、第三の作者不便覚候歟」と評している。

 「生鯛の」の句もそうした欠点と見ていいだろう。「初亥の子」は旧暦十月の最初の亥の日で、ちょうどその日に初時雨だという句だろう。ただ、「初」の字を省くのは、他の意味にも取れるようにの心遣いだろう。その亥の日のご馳走に獲れたてのぴちぴちはねる鯛という付け合いだが、「台にのせ」だと料理の情景に限定されてしまう。去来の言うように、

 

    はつのいのこに(ちゃう)どしぐるる

 生鯛(いけだひ)のひちひちとしてはねかへり

 

とでもすれば、単に鯛がぴちぴちはねているだけの情景だから、魚屋の風景と取っても漁の風景と取ってもいい。「台にのせ」と限定してしまうと、跡の句が詰まってしまい、

 

    生鯛(いけだひ)のひちひちするをだいにのせ

 どこへ行やらうらの三介(さんすけ)

 

とあまり意味のない逃げ句を一句挟まなくてはならなくなる。

 付け句というのは一句で完結するものではなく、前後二句が付くことによって二通りの意味を持つように作らなくてはならない。そこが和歌や発句と違うところだ。

 

 

38、 梅の花あかいハあかいハあかいハな   惟然(ゐぜん)

 

 「去来曰、惟然坊(ゐぜんぼう)が今の風(おほ)かた()類也(たぐひなり)是等(これら)ハ句とハ見えず。先師遷化(せんげ)の年の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、(その)(ひいで)たる口質(くちぐせ)(ところ)よりすすめて、磯際(いそぎは)にざぶりざぶりと浪うちて、(あるい)は杉の木にすうすうと風の吹わたりなどといふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先(きさき)(もつ)て無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風体(ふうてい)かろからんなど、の給ひける事を(きき)まどひ、我が得手(えて)にひきかけ、(みづから)の集の歌仙に侍る、妻呼雉子(つまよぶきじ)、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4647

 

 惟然が芭蕉に入門したのは貞享五(一六八八)年、『笈の小文』の旅から戻り越人らと『更科(さらしな)紀行』の旅に名古屋を発つ前で、その時に、

 

 見せばやな茄子(なすび)をちぎる軒の畑    惟然

 

と詠んだ。「ちぎる」は芭蕉をもてなすために何もないけど軒になった茄子くらいなら、という謙虚な気持ちを表すとともに、これから弟子としてついて行きますという「契り」の意味をも掛けたものだ。それに対し芭蕉はこう答える。

 

   見せばやな茄子をちぎる軒の畑

 その葉を重ね折らん夕顔      芭蕉

 

と答えている。その後しばらくは蕉門の中でもそれほど目立った作者ではなかった。

 去来が「遷化の年」というのは、元禄七(一六九四)年八月の末に、芭蕉が西へ向かう最後の旅の途中に故郷伊賀に立ち寄ったときのことだろう。この頃の芭蕉はそれまでの軽みに飽き足らず、これからは風体がもっと軽くなることを説き、浪のざぶりざぶり、風のすうすうなども句となることを説いていたようだ。これが惟然や伊賀のあだなる風に影響を与えたのだろう。その後、惟然は芭蕉の最後の旅に同行し、大阪で師の最後を看取ることになる。

 すでにぼろぼろになった体で最後まで旅を続けようとする芭蕉の壮絶な最期に感化されたのか、その後、惟然は風羅器という木魚に似た楽器を作り、

 

 古池にかはづとびこむ水の音

    南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

などと唄う風羅念仏を唱えながら、諸国を旅したという。このことは去来や其角のような正統派の蕉門の俳諧師からは顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、惟然は惟然なりの仕方で蕉門の伝道師となり、俳諧のすばらしさを庶民に広めようとしたのだろう。

 俳諧は庶民のものだとはいえ、立派な師匠を呼んで、それにふさわしい興行の席を設けるなんて事は、やはり相当にお金のかかることで、まして其角や去来を呼ぶなんてことは、到底普通の人にはできない。それに比べれば、惟然の行動ははるかに俳諧を身近なものにしただろう。

 惟然はしばらくは普通の句を作っていたが、元禄十五(一七〇二)年ごろから

 

 梅の花あかいはあかいはあかいはさ   惟然

 

のような大胆な破調を試み出した。これも古い門人から見れば顰蹙もんだったが、惟然編の『二葉集(じようしゅう)』を見ると、芭蕉とも関わりの深かった智月・乙州親子や膳所の正秀なども参加している。特に

 

 そんならば花に蛙の笑ひ顔    智月

 

のような、明らかに惟然の風に感化された句もあり、面白い。

 去来は酷評しているが、よく見ると、

 

 梅の花あかいはあかいはあかいはさ   惟然

 

にしても、梅咲いて春の来る目出度さを見事に表現していて、決して本意本情にたがうものではない。

 

 きりぎりすさあとらまへたはあとんだ   惟然

 水さっと鳥よふはふはふうはふは     同

 なむでやの柿が大分なったはさ      同

 のらくらとただのらくらとやれよ春    同

 水鳥やむかふの岸へつういつうい     同

 

こうした句も、きちんと蕉門俳諧の基礎があってこそ、本意本情を踏み外すことなくできるもので、むしろ仙厓(せんがい)の禅画の境地に近い。これは実際誰にでもできるというものではなく、事実惟然の後に惟然はいなかった。

 惟然の句は明らかに芭蕉の軽みの一つの極限の姿であり、少なくとも伊賀のあだなる風の、

 

 鶯の(ない)て見たればなかれたり

 

の中途半端さに比べれば気持ちがいい。

 これこそマニュアル的な堅苦しい句作りをして、ついついひねり過ぎてしまう去来には、思いもつかぬものだ。「是等ハ句とハ見えず」と言い放つあたりに、むしろ嫉妬すら含まれているのではないか。「句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セる」とは言うものの、去来こそこうしたものを一度忘れた方が良かったのではなかったか。

 

 

39、 (ゆか)ずして()五湖いりがきの音をきく   素堂(そだう)

   なき人の小袖も今や土用ぼし      はせを

 

 「素堂師の句ハ深川ばせを庵におくり給ふ句(なり)。先師の句は予妹千子(ちね)が身まかりける(ころ)、ミのの国よりおくり給ふ句也。共にその事をいとなむただ中に(きた)れり。この(ごろ)古蔵集(ふるぐらしふ)を見るに、先師の事どもかきちらしたるかたはしに、素師の句をあげ、いりがきのただ中にきたる事を以て、名人達人と名誉がられたり、(これ)をもて名人といはば、そのそしらるる先師の句もかくのごとし。皆人のしりたる事なり。それのミならず、世話にも人ごといはばむしろしけといへり。一気の感通(かんつう)自然の妙応(めうおう)、かかる事も有ものとしらるべし。誠に痴人面前(ちじんめんぜん)夢を説べからずトなり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,47

 

 今で言えば、シンクロニシティーということか。一見偶然の一致のように見えることでも、実は前世からの因縁であったり、何か超自然的な力が働いている兆候と見る考え方は、どこの国にもありそうなことだ。

 素堂の句は「行かずして見て、五湖の()牡蠣(がき)の音を聞く」という句で、字余りは天和(てんな)の頃はやった天和調だとか虚栗(みなしぐり)調だとか言われるスタイルで、深川を中国の五湖に見立てるあたりも時代を感じさせる。

「煎り牡蠣」は牡蠣を煎ったもので、芭蕉の好物だったという。芭蕉はかつて伊賀藤堂藩の料理人だったから、自分で作って食べていたのだろう。牡蠣を殻ごと煎るので、独特な音がする。

 「行かなくても芭蕉さんが煎り牡蠣を作っている音が聞こえ、その姿が目に見えるようです。」という句が芭蕉のものに届いたちょうどそのとき、まさに芭蕉は煎り牡蠣を作っている最中だったという。

 『古蔵集(ふるぐらしゅう)』は何かちょっといかがわしい感じの俳書で、俳諧が大衆化したせいで、ちょうど東スポのように冗談記事を載せたりして、庶民を喜ばせていたのか。芭蕉のような権威のある人を、あることないこと書いてこき下ろすのも、この手のものの常だ。素堂のこのエピソードを載せて、素堂がそれこそ千里眼のような超人的な力を持っていたと持ち上げていたようだ。これでもし五七五で書いたことを具現化させる能力があったとしたら、富樫義博の漫画『ハンター×ハンター』のバショウだ。

 去来もこの手のものに同じ次元で反論しているところが面白い。「それくらいのことだったら芭蕉だってやってるぞ」てな感じで、自分の妹が亡くなり、その形見の小袖を土用干ししていたちょうどそのとき、

 

 なき人の小袖も今や土用ぼし      はせを

 

の句が届いたという。

 芭蕉の句は貞享五年の六月、『笈の小文』の旅を終えたあと岐阜に滞在していた時に、去来の妹が亡くなったのを知り、贈った句で、一か月のタイムラグがあったため、今頃は遺品の土用干しをしてる頃だろう、という句だった。

 土用は立春・立夏・立秋・立冬の前の十八日間で、貞享五年の立秋は旧暦七月十二日になる。その十八日前は旧暦六月二十三日で、なるほど二十日頃に手紙を出せば、ちょうど土用の入りの頃に去来の所に届く。これは偶然ではなく、芭蕉もこの手紙が届く頃にちょうど土用の入りだなと思ってこの句を作ったのであろう。

 「人ごといはば筵しけ」というのは、今でいえば「噂をすれば影がさす」ということだが、何のことはない。「一気の感通、自然の妙応」と、去来も千里眼のような超能力は信じないにせよ、一種のシンクロニシティーの存在を信じていたようだ。単に、親しい間柄で、「アイツは今頃こんなことやっているだろうな」と思って句を贈ったら、うまい具合にタイミングよく届いた、と言ってしまえば元も子もないが。

 なお、「痴人面前(ちじんめんぜん)夢を説べからず」というのは、幻覚を見ている人間にそれを幻覚だと教えることはできない」ということだが、しばしば幻覚というのは我々の現前知覚と同じくらい鮮明な事実として映るため、それを否定されると、かえって騙されているか馬鹿にされているように取られてしまう。

 誰だって人の言葉より、自分の目で見たものの方が信じられるものだ。そのため、どれが幻覚でどれが幻覚でないかを説明しても、結局患者の頭を混乱させることにしかならない。幻覚を見ている人間には、むしろそれを否定したりせず、相手に話を合わすことが必要だ。去来がそれを知っていて、精神分析医が患者の言葉を使うように、わざと相手の論法で反論しているのかもしれないが、去来がそこまで科学的な合理性を持っていたかどうかはわからない。

 

 

40、 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  はせを

 

 「去来曰、ふる藏集(ぐらしふ)此句(このく)をあげて、先師のうへをなじりたりし(なり)。これらハ物のこころをわきまへざる評なり。此句ついしゃうに似たりと也。凡秋風(およそしうふう)洛陽(らくやう)の富家に生れ、市中を去り、山家(やまが)に閑居して詩歌(しいか)を楽しみ、騒人(さうじん)を愛するとききて、かれにむかへられ、(まこと)(あるじ)を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作(あり)。先師の心に侫諂(ねいてん)なし。評者の心に侫諂あり。(その)後ハしばしばまねけども(ゆき)たまはず。誠にあざむくべし、しゆべからず。又句体(またくたい)の物くるしきハ、その(ころ)の風なり。子亥一巡(しがいいちじゅん)の後評とハ各別(かくべつ)なるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,4748

 

 三井といえば「現金掛け値なし」という新商法で繁盛した越後屋呉服店のあの三井の一族で、初代三井の三井高利の甥に当たる。

 三井高利と同様、三井秋風も当然金持ちで、鳴瀧(なるたき)の花林園もさぞかし立派で、広い庭園には今を盛りと梅が咲き誇っていたのだろう。芭蕉自筆の『甲子吟行画巻(かっしぎんこうがかん)』では、遠くに京都の五重の塔を描き、その手前の山に囲まれたところに二つの大きな屋根と立派な門を描き、その合間に簡単に梅の木を描いている。この絵からもその広さが想像できる。これが、蕪村の絵になると、やけに質素に描かれている。「山家をとふ」という文章からのイメージだとやはりこうなのだろう。

 三井秋風があまりに有名な金持ちだったため、芭蕉のこの句を世辞追従(せじついしょう)の句だと揶揄(やゆ)する人がいたようで、去来はここで弁護している。曰、秋風は確かに京都の名だたる金持ちではあるが、「市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ」、屈原(くつげん)のような隠逸の詩人を好むからだと弁護している。「騒人(そうじん)」というのは別に騒がしい人ではない。騒といのは屈原の『離騒(りそう)』という詩から来たもので、憂いとか悲哀という意味がある。そこから屈原のような隠逸の詩人を騒人と呼んでいた。三井秋風は金持ちでも心は隠士だから尋ねたのであって、金に媚びたのではない。『奥の細道』の尾花沢のところに「尾花沢(おばなざわ)にて清風(せいふう)云者(いふもの)(たづ)ぬ。かれは(とめ)るものなれども(こころざし)いやしからず。」とあるが、それと同様ということだろう。

 そのあと去来は、それ以降秋風に何度も招かれたが芭蕉は行かなかったと言っているが、これは芭蕉を弁護するあまりに「鍋の論理」に陥っている。金持ちでも隠士の心を持つものだというのであれば、何度も秋風のところに行っても問題はなさそうだ。一度しか行かず、あとは断わったというのであれば、かえってただの俗物だということを証明してしまう。

 秋風ははじめ北村季吟(きぎん)に師事し、貞門の俳諧師だったが、後に西山宗因や田中常矩(つねのり)とともに談林俳諧の一翼を担うこととなった。しかし、天和二(一六八二)年に宗因、常矩と相次いで死去し、談林の俳諧も急速に衰退していった。宗因の死は芭蕉にとっても大きなショックで、この句の詠まれた『野ざらし紀行』の旅もまた、宗因の面影を追い求めて旅に出たようなものだった。まして宗因、常矩と親しかった秋風にとっては、ぽっかり穴のあいたようなもので、どうも三年たった今でも、まだショックから立ち直ってなかったようだ。この句はそんな芭蕉からの秋風へのなぐさめの言葉だった。

 

 梅白し昨日や鶴を盗れし

 

 梅には赤いのも白いのもあるが、「白」を強調したのは弔意を込めてのことだろう。鶴は渡り鳥だから春には北へ帰っていくもので、それは自然の摂理、運命だから仕方がない。それを「盗まれた」と表現することで、何とか秋風から笑顔を引き出したかったのであろう。

 

 

41、 (うぐひす)の海むいてなくすまの浦    卯七(うしち)

 

 「(はじめ)ハ鶯も海むいてなく(なり)野坡曰(やはいはく)、鶯もちあたらんハおもかるべし。やはり鶯のといハん。去来(もっとも)なりと(どう)じてあらたむ。丈草(ぢゃうさう)曰、のといひて風情(ふぜい)は侍れど、やはりたしかに鶯もといはんかた(まさ)るべしと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,48

 

 この句は切れ字が入っていないため、何となく収まりが悪い。そこから結局は「鶯の」でも「鶯も」でも何かしっくりこない感じがしてしまう。

 

 鶯の海むいてなくすまの浦

 鶯も海むいてなくすまの浦

 

 「鶯も」とした場合でも、この場合の「も」は「力も」と呼ばれる強調の「も」で、「他の鳥も海向いて鳴くが鶯も」という意味ではない。両方とも意味は同じで、「鶯」を強調するかどうかの違いだ。ここで野坡と去来は強調しない方がいいとし、丈草は強調した方がいいと言う。結論は出ず、『同門評』の最後は後の人の判定を待つ形で終わる。

 この句は倒置や何かを元に戻し、散文にすれば、

 

 須磨(すま)の浦の鶯は海を向いて鳴くや

 

だろう。それを率直に鶯を強調して前に持ってくる形で倒置ずれば、

 

 鶯の海むいて鳴くや須磨の浦

 

になる。これだと字余りで語路が悪い。そこで切れ字を落とすと、

 

 鶯の海むいてなくすまの浦

 

の案になる。切れ字の位置を変えて、

 

 鶯や海むいてなくすまの浦

 

という解決もあるかもしれない。しかし、これだと鶯を疑っているように響いてしまう。この句の中で疑うとすれば「海むいて鳴く」しかないが、海むいて鳴いているのは鶯だろうかという疑いに、両義的に取れてしまうと、句の意味が変わってしまう。そこで「も」のような疑いの意味のない単なる強調の「も」を入れると、

 

 鶯も海むいてなくすまの浦

 

の案になる。確かにこれは難問だ。これに関しては私も結論は出せない。後賢判(ごけんはん)(たま)へ。

故実

予初学の時より俳諧の法を知事を穴勝とせず。此故に、去嫌季節等も不覚悟。まして其外の事は、いふに不及。しかれども、此編は先師の物語有し事共、わずかに覚へ侍るを記しるす。

1卯七曰(うしちいはく)、先師は俳諧の法式を用ひ(たま)はずや。

 「去来曰、(なる)ほど(もちひ)てなづみ給はず。思ふ所有時(ところあるとき)は古式を(やぶり)(たま)ふ事も(あり)()(ども)私には破らるるは稀也(まれなり)。第一先師の俳かいは只長頭丸(ただちゃうづまる)以後のはいかいを(もつ)て元来とし給はず、只代々(ただよよ)の俳諧体に(もと)づき給へり。附句(つけく)(すで)に久しと言へども、連俳となるは長頭丸(ちゃうづまる)以来にして(いまだ)法式なし。仍而(よつて)連歌の式をかり用ひらる。重而(かさねて)俳諧の法式を改作にも不及(およばず)又上(またかみ)より(さだめ)たる式にもあらず。若其人(もしそのひと)あらば(これ)を損益あるとも罪あるまじ。其時(そのとき)の宗匠達は、(みな)元来連歌師たるゆへ、連歌の式をかり用ひらるる(なり)退(しりぞい)て思ふに、今日の先師、もしその時にいまさば連歌によらず、俳諧の式は立べし。世の人は俳諧を連の奴僕(ぬぼく)の様に思へり。先師の沙汰(さた)格別(かくべつ)事也(ことなり)。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,50

 

 卯七が、芭蕉は俳諧の法式を何で用いなかったのか、と尋ねる。

 蕉門確立以前の俳諧は、松永貞徳(まつながていとく)長頭丸(ちょうずまる))が当時の連歌の法式に準じて定めた規則を用いていた。

 連歌の正式の式目は三つある。『応安(おうあん)新式(しんしき)新式(しんしき)(いま)(あん)新式追加條々

 『応安新式』は応安五年(一三七二)成立で、二条(にじょう)良基(よしもと)救済(きゅうせい)周阿(しゅうあ)この時代を代表する地下(じげ)連歌師の協力のもとに作り上げたものであとの二つの式目はこの追加と修正という形を取っている

 二条良基は従一位で関白を務めたこともあり、『応安新式』を作った後で太政大臣にもなっている。このことによって『応安新式』は皇室の権威によって裏付けられたものとされている。

 『新式今案』は享徳元年(一四五二年)に一条兼(いちじょうかね)(よし)宗砌協力のもとに編纂した応安新式修正改良で、一条兼良従一位関白や太政大臣を務め皇室の権威によって裏付けられた形になっている

 『新式追加條々』は文亀元年(一五〇一年)に肖柏によって付け加えられたもので、肖柏は牡丹花肖柏と呼ばれ、准大臣中院通淳の子とされている。一応貴族の出ということで、『新式今案』と同様に権威あるものとして扱われている。

 その他に新式以前に本式と呼ばれるルールがあったとされていて、明応元年(一四九二年)に猪苗代兼載(いなわしろけんさい)が十三項の簡単な連歌本式を制定して蘇らせたものが存在する。これに基づいた現存の連歌は少ないが、宗祇らによる『明応二年三月九日於清水寺本式何人』などがある。

 芭蕉も貞享二年六月二日江戸の小石川で本式に準じた俳諧を試みている。

 松永貞徳(戦国時代の武将、松永弾正(まつながだんじょう)の親族といわれ、藤原惺窩(ふじわらせいか)に学んだ儒者でもあった)の開いた貞門(ていもん)の俳諧、あくまで連歌を学ぶために手段で、一種の入門者向けのお試し版みたいなものとして考え出されたものだで、俳諧の式目を明確に定めたわけではなかった。

 その方式は『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)にまとめられていて、一つ一つの語句いろはに項目を立ててその分類や去り嫌いを説明しているただ、大まかな所は

 「応安の新式を立て、一座一句の物をば二句にさだめ、七句の物をば五句になすやうの事のみにて、わたくしの新法を一つもいださず、誰もしりたる和漢のごとくあひはからふものなり。」

とあるように、基本的には朝廷の権威に支えられた連歌の公式に対して私法を立てないという態度を貫いている。現代連句のように、捌きが勝手にルールを決めたり曲げたりするようなことはしなかった。

 貞門の俳諧は基本的に連歌の入門版ということで、連歌は基本的に雅語を用いるものであるのに対し、語を一句のうちに一語使えるようにし、七句去りのものは五句去りに、五句去りのものは三句さりに、三句去りのものは二句去りにとルールを緩和した。

 ただ、句の趣向や雅語の使用法について、古典に證歌のないものは用いない、というもので、その後の西山宗因(にしやまそういん)が開いた談林の俳諧も、こうした貞門の俳諧の法式を打ち破るものではなく、むしろその規則を巧妙にかいくぐることで、庶民の自由な発想を解放しようとしたものだった。

 しかし、宗因によって急速に大衆化した俳諧は、その担い手が連歌の法式に疎い下層の人々に移っていったため、方式は急速に混乱してゆくことになった。

 芭蕉もまた、そんな中で、ある意味で旧来の法式から開放されたところから自らの新しい風体を確立していった。延宝(えんぽう)後期の『俳諧次韻(はいかいじいん)』は、そうした芭蕉の新風の出発点であり、そこで芭蕉は、従来の雅語を中心として俗語を一語に限るスタイルを捨て、漢詩書き下し文風、芝居の脚本風、和歌のパロディー、伏字の使用、などありとあらゆる文体を取り入れ、新風をアピールした。これによって、俳諧を雅語の入門編ではなく、俗語による連歌へと改変することになった。

 延宝後期から天和にかけてのこうした奇抜な実験は長続きせず、やがて芭蕉は古典へと回帰してゆくことになる。そこに、古典の精神を受け継ぎながら、それを新しい言葉や題材で大胆な解釈をほどこし表現してゆくという、不易と流行を調和させるスタイルを確立してゆくことになる。

 なお、こうした動きは芭蕉門だけのものではなく、ほぼ同時進行で伊丹の上島鬼貫らの俳諧でも生じていたため、芭蕉の独創というよりは、俳諧全体にそういう雰囲気があったとみるべきなのかもしれない。

 蕉門俳諧の一番の特徴は、俳諧を連歌の入門版として捉えるのではなく、俳諧を連歌から独立したものとして新しく作り上げようとしたところにあった。
 去来が、貞門以降の俳諧の法式について、「(なる)ほど(もちひ)てなづみ給はず。思ふ所有時(ところあるとき)は古式を(やぶり)(たま)ふ事も(あり)()(ども)私には破らるるは稀也(まれなり)。第一先師の俳かいは只長頭丸(ただちゃうづまる)以後のはいかいを(もつ)て元来とし給はず、只代々(ただよよ)の俳諧体に(もと)づき給へり。附句(つけく)(すで)に久しと言へども、連俳となるは長頭丸(ちゃうづまる)以来にして(いまだ)法式なし。仍而(よつて)連歌の式をかり用ひらる。重而(かさねて)俳諧の法式を改作にも不及(およばず)。」というのは、そういうことだった。

 貞門の俳諧も、西山宗因の俳諧も、基本的には連歌の方式によるもので、必ずしも俳諧の方式を独立して作ったわけではなかった。もちろん、連歌の式目である『応安新式(おうあんしんしき)』や『新式今案(しんしきいまあん)』のような、朝廷の権威によって定められた公式ルールというわけではなかった。去来の言うように、「未だ方式なし」「上より定まりたる法式にもあらず」だった。

 去来は、もし芭蕉がもう少し早く生まれていて、貞門の全盛期に活躍していれば、おそらく連歌と別に法式を作っただろう、だがすでに貞門の法式が廃れていた時代だから、法式にとらわれない自由な俳諧を実現した、という。

 

 もっとも、一人で勝手に新しい方式を作っても、多くの人の支持を得るのは難しかったに違いない。それは今日の現代連句にしても、それぞれ勝手なルールを立てて、事実上その場の捌きの独裁状態になっている。その意味では、芭蕉はちょうど古い法式が崩壊していく時代の中で、自らの風を確立できたという幸運にも恵まれていただろう。

 

 

2卯七曰(うしちいはく)、蕉門に()葉留(はどめ)(わき)字留(じどめ)の第三、用ゆる事はいかに。

 「去来曰、ほ句、脇は歌の上下也(かみしもなり)(これ)をつらぬるを連歌(れんが)(いふ)。一句一句に切るは長く連ねんが為也(ためなり)。歌の下の句に字どめと云事(いふこと)なし。文字留(もじどめ)(さだ)るは連歌の法也。是等(これら)は連歌の法によらず、歌の下の句の心も、昔の俳諧の格なるべし。昔の句に、

   守山(もりやま)のいちごさかしく(なり)にけり

      (うば)らも(さぞ)(うれ)しかるらん

   まりこ川()ればぞ波は上りけり

      かかりあしくや人の見るらん

是等(これら)()()とめの脇の證句(しょうく)也。第三も同じ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,51

 

 脇を体言止めにするというのは、宗祇(そうぎ)の時代には別にそのような規則があったわけではない。たとえば、宗祇の連歌の最高峰として水無瀬三吟(みなせさんぎん)にならぶ湯山三吟(ゆのやまさんぎん)の脇は、

 

    うす雪に木葉(このは)色こき山路哉(やまぢかな)

 岩もとすすき冬や(なほ)みん     宗長(そうちょう)

 

だった。

 また、それよりもう少し古い宗砌(そうぜい)智薀(ちうん)、能阿、行助(ぎょうじょ)等が参加した『文安雪千句』では、十の百韻のうち、

 

    雪さそへ過行四(すぎゆくよつ)の時つかぜ

 ふりをく露を木々にこほれる    聖阿

 

    雪の日は遠山なみの千里かな

 四方(よも)のかれ木に風はわたりて    宗砌

 

    しら雲の朝ゐる嶺か四方の雪

 月いる山は霜やみつらん      能阿

 

    ふりしける(まがき)や庭の雪の山

 風を冬木と松ぞ木たふる      頼重

 

    月雪の在明の夜はくまもなし

 ささの葉しろく霜ぞこりしく    親忠

 

    雪ふれはみな山しろの国見哉

 ははその下葉(したば)霜ぞかさなる     久色

 

と、体言止めでない句が六割を占める。こうしてみると、脇が体言止めでなければならないというルールはかなり新しいものといわねばならない。

 ただ、字留、つまり体言止の第三というのは、ほとんど例がない。第三が「て」止めか「らん」止めに限られるというのは、かなり古くからあるルールだったようだ。

 (そう)(ぜい)の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ても、

 

 文安月千句 第一 発句「哉」脇「秋風」第三「て」

       第二 発句「哉」脇「雲井路」第三「て」

       第三 発句「月」脇「露」第三「て」

       第四 発句「かな」脇「明仄」第三「にて」

       第五 発句「清し」脇「漣」第三「て」

       第六 発句「都鳥」脇「友」第三「て」

       第七 発句「哉」脇「頃」第三「て」

       第八 発句「顔」脇「枕香」第三「て」

       第九 発句「秋」脇「大空」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「て」第三「らん」

 文安雪千句 第一 発句「深雪」脇「ころ」第三「て」

       第二 発句「かせ」脇「こほれる」第三「て」

       第三 発句「雪」脇「ころ」第三「らん」

       第四 発句「かな」脇「て」第三「らん」

       第五 発句「雪」脇「空」第三「にて」

       第六 発句「雪」脇「らん」第三「て」

       第七 発句「山」脇「たふる」第三「て」

       第八 発句「はな」脇「竹」第三「て」

       第九 発句「なし」脇「しく」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「かさなる」第三「にて」

 顕証院会千句第一 発句「柏」脇「声」第三「て」

       第二 発句「松」脇「葉かくれ」第三「て」

       第三 発句「枝」脇「霧」第三「て」

       第四 発句「哉」脇「露」第三「て」

       第五 発句「薄」脇「来る」第三「て」

       第六 発句「かな」脇「ころ」第三「らん」

       第七 発句「草」脇「秋風」第三「て」

       第八 発句「朝ねかみ」脇「秋」第三「に」

       第九 発句「秋」脇「覧」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「本」第三「て」

 

と、三十句中二十五句が「て」四句が「らん」一句が「に」で留まっている。

 ちなみに宗因判『大阪独吟集』十百韻は「らん、て、らん、て、て、て、らん、て、て、て」松意編『談林十百韻』は「て、て、し、らん、らん、に、らん、て、て、て」で「らん」が三割を占めている。

 もっとも、これは慣習的なもので、『応安新式』などの公式ルールには特に規定はない。

 こうした歴史を去来はもとより、芭蕉自身も知っていたかどうかはわからない。去来の説明では、連歌の発句と脇は和歌の上句下句であり、和歌の下句に体言止めでなければいけないというルールはないことを根拠として、「連歌の法によらず」としている。

 例に挙げているのも、『菟玖波集(つくばしゅう)』の鎌倉時代の付け句を例に挙げて「てには留め」の脇の証句としている。

 実際、蕉門の俳諧で、脇を体言止めにしなかったり、第三に「て」「らん」以外の止め方を用いる例は極めて少ない。

 

 旅人と我名(わがな)よばれん初時雨(はつしぐれ)   芭蕉

    (また)さざん花を宿々(やどやど)にして 由之

 鷦鴒(かやぐき)の心ほど世のたのしきに  其角

 

『冬の日』の第五歌仙の、

 

   田家眺望

 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮

   冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉

 樫檜山家の体を木の葉降     重五

 

『ひさご』でも五歌仙の最後の巻、

 

   田野

 疇道や苗代時の角大師      正秀

   明れば霞む野鼠の顔     珍碩

 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

 

 『猿蓑』巻五の四歌仙、

 

   餞乙州東武行

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁   芭蕉

   かさあたらしき春の曙    乙州

 雲雀なく小田に土持比なれや   珍碩

 

といったものは実はかなり稀な例であることを付け加えておく。

 

 

3卯七曰(うしちいはく)、蕉門に無季(むき)の句興行(こうぎょう)侍るや。

 「去来曰(きょらいいはく)、無季の句は折々(あり)。興行はいまだ(きか)ず。先師曰(せんしいはく)、ほ句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別・等無季の句有りたきもの(なり)。されどいかなる故ありて、四季のみとは定め(おか)れけん、その事をしらざれば、(しばら)黙止(もだし)侍る也。その無季といふに二ツ(あり)。一ツは前後、表裏、季と見るべきものなし。落馬即興に、

   歩行(かち)ならば杖突坂(つえつきざか)落馬哉(らくばかな)   はせを

   何となく柴(ふく)風も哀也(あはれなり)     杉風(さんぷう)

亦詞(またことば)に季なしといへども、一句に季と見る(みる)所有(ところあり)て、(あるい)歳旦(さいたん)とも、名月とも定る有り。

   年々(としどし)や猿に着せたる猿の(めん)   はせを

如斯也(かくのごときなり)と。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5152

 

 日本では季候の挨拶ということが昔から行われていて、手紙でも「菊薫る候となりまして、いかがお過ごしですか」のような決まり文句が良く用いられる。

 天候を話題にするというのはほとんど万国共通で、「今日はいい天気ですね」、「今日はあいにくの雨で」 みたいな挨拶はどこの国でもある。日本は四季の移り変わりがはっきりしているだけに、天候だけでなく季節をも挨拶に普通に用いてきたのだろう。

 落語にも、いつも愛想のないやつに、「今日はお寒うございます、この分だとお山は雪だんべえ」と言う決まり文句を教える話があって、毎日寒ければそれでよかったのだが、いつしか春が来て暖かくなったとき、「この分だとお山は火事だんべい」と言って落ちになる。

 連歌の発句と言うのは、本来連歌会(れんがえ)の開始の季候の挨拶を兼ねるもので、そのため当座の季節や天候を詠むべきものだった。何も、季節感について特別芸術的な表現をするわけではなく、ただ、そのときの季節や天候を五七五に読み込み、そこにちょっと気の利いた冗談でもあればよかったのである。

 たとえば、伊勢の神官だった荒木田守武(あらきだもりたけ)が、十月の連歌興行のとき、座を見回してみんな坊主ばっかりなのを見て、

 

 御座敷(おざしき)を見れば(いづ)れもかみな月    守武

 

ととっさに詠み、それに宗祇(そうぎ)法師が答えるように、

 

    御座敷(おざしき)を見れば(いづ)れもかみな月

 ひとり時雨(しぐれ)のふり烏帽子(えぼし)着て    宗祇

 

と答えるように、発句と脇は基本的に季候の挨拶の応答だった。

 発句に季節を読み込むというのは、そのようないわば習慣からきたもので、無季題の発句というのが問題になるのは、発句がそうした挨拶の機能を越え出て、独立した文芸として意識されるようになって以降のことに他ならない。だから、芭蕉にも無季題の発句はあるとはいえ、興行の際に無季題の発句で始めた例はない、と去来は言う。

 芭蕉には、既に発句を独立した文芸と考える意識があり、それゆえ、「ほ句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別・等無季の句有りたきもの(なり)。」という。発句が和歌と同等のものであるなら、和歌にあるテーマは発句でもあっていいことになる。しかし、これはあくまで理想としてであり、実際に芭蕉は無季題の発句をわずか三句詠んだのみだった。

 去来によれば、無季の句に本当に季節に関係ない句と、季節の言葉は特になくても、何らかの季節を感じさせる句との二種類があるという。前者の例としては芭蕉には落馬即興の、

 

 歩行(かち)ならば杖突坂(つえつきざか)落馬哉(らくばかな)   はせを

 

の一句があるのみで、これは「杖突坂」という名所の句ということになる。

 芭蕉ではないが、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出るときに送別の句として作られた、

 

 何となう柴吹く風も哀れなり    杉風

 

の句があり、これも数少ない無季の句となっている。ただ、この句も

 

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

 

の句への返答とみれば、「柴吹く風」は秋風のことであり、もう一つの、季語はないが季節を感じさせる句に含めた方が良い。

 このもう一つの季語はないが季節を感じさせる句の例として去来が掲げているのは、

 

 年々(としどし)や猿に着せたる猿の(めん)   はせを

 

の句だ。

 これは自戒の句で、毎年毎年俳諧に新味を求め、新しい風体を切り開こうと思いつつ、結局は猿の顔に猿のお面をかぶせているようなもので、古いものの上に古いもののお面をかぶせて新しそうに見せているにすぎない、というものだ。過去を振り返り、今年こそは本当に新しい風体をという決意を込めている意味では、この句は歳旦の句となる。

 この他に、

 

 世にふるもさらに宗祇の宿り哉     芭蕉

 

も表向き無季ながら、宗祇の

 

 世にふるもさらに時雨(しぐれ)の宿り哉     宗祇

 

を踏まえたもので、「時雨」の句となる。

 

 近代俳句が確立された頃には、連俳そのものが否定され、したがっていわゆる「俳句」はもはや興行の開始の挨拶という機能を持ってはいないのだが、やはり季語が入ってなければ発句ではない、という長い伝統があるのか、近代俳句でも無季題の句を主張するのは少数派だった。高屋窓秋(たかやそうしゅう)の句は無季の句が多いという理由で、企画ものの俳句撰書からはずされることが多かったという。

 

 

4卯七曰(うしちいはく)、発句に切字(きれじ)を入るる事は如何(いかに)


 「去来曰(きょらいいはく)(ゆえ)あり。先師曰、汝切字(なんぢきれじ)を知ル哉。去来曰、(いまだ)伝授なし、(ただ)自分に覚悟し侍る。先師曰、いかに覚悟侍るや。去来曰、たとへばほ句は一本木の如しといへども梢根(こずゑね)あり。付句(つけく)は枝の如し。大いなりといへども(まつた)からず。梢根有る句は切字の有る無きによらず、ほ句の体也(ていなり)。先師曰、(しか)り。しかれども(それ)(おもかげ)を知りたる迄也(までなり)(これ)を伝授すべし。切字のことは連俳ともに深く秘す、みだりに人に語るべからず。(そう)じて先師に承事(うけたまはること)多しといへども、秘すべしと有りしは是のみなれば、其事(そのこと)(しばら)く遠慮し侍る。第一に切字を入る句は句を切ため也。きれたる句は字を(もつ)て切るに不及(およばず)。いまだ句の切レる不切(きれざる)不知(しらざる)作者の(ため)に、先達而(さきだちて)切字の数を(さだめ)らる。此定(このさだめ)の字を入ては十に七八はおのづから句切る也。残り二三は入レて不切(きれざる)句又入れずして切る句有り。此故(このゆえ)(あるい)(この)やは口合(くちあひ)のや、(この)しは過去のしにて不切(きれず)。或は三段切(さんだんぎれ)、是は何切(なにぎ)レなどと名目(みょうもく)して伝授事(でんじゅごと)にせり。又丈草に(むかひ)て先師曰、歌は三十一字にて切レ、発句は十七字にて切レる。丈草撰入(悟入)有り。又ある人曰、先師曰、きれ字に(もちふる)字は四十八字皆切レ字也。不用時(もちひざるとき)は一字もきれじなしと也。是等(これら)(ここ)を知れと障子ひとへを教え被申し也。去来曰、此事(このこと)(しる)す、同門にもみだりなりとおもふ人あらん。愚意は各別也(かくべつなり)。此事あながち先師の秘し給ふべき事にもあらず。只先師の伝授の時かく有し故なるべし。予も秘せよと有けるは書せず、ただあたるを記して人も(すゐ)せよと思ひ侍るなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5253

 

 正岡子規が明治三十一(一八九八)年の『或問』で切れ字について「大体より言へば切字は文法上の終止言を指すといひて可なるべし」と断定し、それに基づいて「古俳書の切字などを論ずる誤謬多きこと此類なり」と一方的に決めつけ、しまいには「切字など論ずるは愚の至りなれど問はるゝ儘に何くれと書いつけ置きつ」と締めくくったことで、それ以来切れ字についての議論は下火になり、句のほうもあまり切れということは問題にされなくなった。

 

 世の人よ昼寝の我を起こすなよ   虚子

 後姿の時雨れてゆくか       山頭火

 

のような句は、昔なら付け句と見られそうだが、今ではこれは「発句」かどうかはともかくとして「俳句」として認められている。

 近代俳句はかつての連歌・俳諧のような付け合いの文学を否定し、あくまで作者の自己表現としての一行詩の確立を目指したものだったから、発句と付け句の区別はもはや意味をなさなかったし、切れ字の有無で発句と付け句を区別する必要もなかった。

 極端に言えば、五七五であるか七七であるかも重要ではなくなり、山頭火のように七七の俳句も可能となったし、自由律の俳句も一時期盛んに試みられた。

 もしこれが「発句」だというなら、脇は五七五で付けるのだろうか。歌仙は短句で始まり、長句を挙句とするのだろうか。七七の俳句が可能なのは、それがもはや「発句」である必要がなかったからである。

 つまり、切れ字が問題になるのは、それが「発句」だからであり、付け句と区別されなくてはならなかったからで、その意味では、付け句を否定するなら切れ字は不要だし、切れ字を議論することそのものも不要だという主張も理由が無いわけではない。しかし、それは近代俳句に限ったことで、それ以前の古句を読むときは、やはり切れ字のことは問題にせざるを得ない。

 切れ字の研究で一番大きな障壁となるのは、それが長いこと「口伝」とされてきたことで、この口伝は明治時代の旧派の師匠にまでは受け継がれてきたが、これと近代俳句とが事実上断絶しているため、近代俳句の推進派に伝わることはなかったし、伝わっていたとしてももはや過去の遺物として無視されるだけだった。そのため、この口伝の部分は今日ではただ推測するしかない。

 『去来抄』のこの章でも「予も秘せよと有けるは書せず」とあり、口伝の部分は書かれていない。ただ、口伝の部分は「第一に切字を入る句は句を切ため也。きれたる句は字を(もつ)て切るに不及(およばず)。いまだ句の切レる不切(きれざる)不知(しらざる)作者の(ため)に、先達而(さきだちて)切字の数を(さだめ)らる。此定(このさだめ)の字を入ては十に七八はおのづから句切る也。残り二三は入レて不切(きれざる)句又入れずして切る句有り。此故(このゆえ)(あるい)(この)やは口合(くちあひ)のや、(この)しは過去のしにて不切(きれず)。或は三段切(さんだんぎれ)、是は何切(なにぎ)レなどと名目(みょうもく)して伝授事(でんじゅごと)にせり。」とあるように、主に切れ字の具体的な使い方に限られていたようで、大まかな部分は秘密にはされてなかった。

 考えてみれば当然であり、切れ字の何たるかを誰も知らなかったら、誰も発句は作れないし、そうなれば、俳諧そのものの大衆化も不可能だっただろう。切れ字の何たるかはそんな難しいことではなく、ただ、その細かい具体的な用法のみが、師匠だけに密かに伝えられていたと見た方がいいのだろう。

 句が切れているかどうかは、昔の人は明確に説明できなくても感覚的に理解できたことで、今日でも発句だけでなく付け句も研究している人なら、その違いは感覚的に理解していることであろう。

 その大まかな部分を言うなら、去来の言う「たとへばほ句は一本木の如しといへども梢根(こずゑね)あり。付句(つけく)は枝の如し。大いなりといへども(まつた)からず。梢根有る句は切字の有る無きによらず、ほ句の体也(ていなり)。」で間違いないのだろう。

 つまり、発句は切れ字の有る無しによらず、一句が完結しているというところにある。それは別に主語述語が整っているというような文法的な問題ではなく、意味として完結していることを言う。「丈草に(むかひ)て先師曰、歌は三十一字にて切レ、発句は十七字にて切レる。」というのも同じ意味で、発句は十七文字にて完結し、そこに何か次の言葉が続くような感じがしない、ということだろう。

 発句で問題になる一句の完結性というのは、むしろメッセージとしての完結性といったほうが良いだろう。たとえば、朝、人とあったときに「今日はいい天気。」とぶっきら棒に言えば、「ああ、そう」で終わるが、「今日はいい天気ですね」と言ってくれれば「そうですね」と答えることになる。この「ですね」に当たる部分が切れ字の役割ではないか。「今日はいい天気。」でも「今日はいい天気ですね」でも情報の内容は変わるわけではない。ただ、前者はその情報をただ提示しただけなのに対し、後者はその良い天気のすがすがしい気分を共有しましょう、というメッセージが含まれる。前者がモノローグなのに対し、後者は他者との共有を求める挨拶になる。そこにメッセージ性が生じる。

 これをたとえば、

 

 古池に蛙飛び込む水の音

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

 

と比べてみてもいい。前者は古池に蛙が飛び込んだという一つの事実以外に何一つ付け加えることはない。しかし、これを「古池や」と切れ字を使うことで、意味としては「古池に蛙飛び込む水の音すや」となり、この古池に飛び込む蛙の水音の寂しさに何か感じ入るものはないか、と問いかける形になる。前者がモノローグなのに対し、後者は他人に同意を求めるメッセージとなる。

 これはたとえば、

 

 降る雪を地にも落とさぬ日本橋    作者不詳

 

という川柳点の句がなぜ発句ではないのかという理由にもなる。この句は「にぎやかなことにぎやかなこと」という下句を補って初めてメッセージとして成立するのであり、ただ上五七五だけではモノローグになってしまう。これをたとえば、

 

 にぎわいや降る雪落ちぬ日本橋

 

とでもすれば発句になる。

 「歌は三十一字にて切レ、発句は十七字にて切レる」というのに、和歌のほうで切れ字が問題にならないのは、和歌の長さでは完結したメッセージを詠み込むことはそれほど難しくないからで、わずか十七文字で言葉足らずにならないようにメッセージを伝えようとすれば、そこに新たなテクニックが要求される。それが「切れ字」ではなかったか。

 そして、それが特殊なテクニックであるがゆえに口伝として師匠だけの秘密にもされ、いわゆる秘伝になったのではなかったか。

 また、近代俳句で切れ字が問題にならなくなったのは、俳句がもはや興行開始の挨拶という機能を失い、途中の付け句との区別も不要になったため、モノローグでも良しとされるようになったからだ。むしろ他者への語りかけをしない孤独なモノローグの方が、いかにも個の文学にふさわしく、近代的だった。

 切れ字はこうした主観的なメッセージの付加という性格から、大きく言って疑問系、治定(ちじょう)系、命令系の三種類に分けられる。これは挨拶で言えば、「元気か」「元気そうだな」「元気出せよ」に相当する。疑問系は相手に向かって問いかけ、同意を求めるタイプのもので、疑いの「や」「か」、「いつ」「いかで」「いく」などがある。治定は単に事実を述べるのではなく、主観的な意志で言い切ることをいう。たとえば、

 

 五月雨を集めて早し最上川    芭蕉

 

の句の「早し」には、単に事実としての速さだけではなく、そこに主観的な驚きが込められている。これが、

 

 五月雨を集めて早き最上川

 

だったなら、発句にはならない。「早し」と言い切るところに主観が働くから発句になる。

 治定系の切れ字には、治定の「や」「か」、「かな」「し」「ぞ」「もなし」「もがな」「けり」「ぬ」「し」「む」「を」「さぞ」「いさ」「こそ」などがある。命令系の切れ字には、「よ」がある。「今日ばかり人も年よれ初時雨 芭蕉」のような動詞の命令形も、切れ字ではないが、命令系の切れに属する。

 切れ字が一つのテクニックにすぎない以上、必ず使わなければいけないというものではない。ただ、句がうまく切れないときにこれを使うといい、というようなものにすぎなかった。「 四十八字皆切レ字也」というのは、別に芭蕉が旧来の因習を打ち破ったということではない。中世の連歌書にも、梵灯(ぼんとう)の『長短抄』にも、切れ字のない発句として「大廻し」と「三体発句」を挙げている。

 大廻しというのは

 

 山はただ岩木のしづく春の雨

 松風は常葉のしぐれ秋の雨

 五月雨は嶺の松風谷の水

 

のようなもので、これは「山はただ岩木のしずくに春の雨が感じられる」「秋の雨に松風も常葉の時雨のようだ」「五月雨は嶺の松風に乗り、谷の雫となるかのようだ」という全体の意味として主観的な治定を伴い、そこに単なる描写ではないメッセージが込められている。三体発句というのは、

 

 あなたうと春日の磨く玉津島

 

のようなもので、これは倒置で「春日の磨く玉津島はあなたうと」と明確なメッセージとなる。これらは基本的に治定系の切れといえよう。

 これに対し、

 

 庭にみて尋ぬ花のさかり哉

 山近しされどもをそき時鳥

 花は今朝雲や霞の山桜

 

などは、切れ字があっても切れてない句の例とされている。「庭にみて」の句は、尋ねぬという事実に重心が片寄ってしまい、「花の盛り」に感情がこもっていない。「山近し」の句も、時鳥の「されども遅き」に重心が寄っているため、「山近し」に情が乗らず、単なる事実の提示に終わっている。「山近くされどもをそし時鳥」なら良かったのだろう。「花は今朝」の句も同様、「花や今朝雲は霞の山桜」なら良かったのだろう。

 『長短抄』の大廻しのところにも「口伝在り」と書かれているし、紹巴(じょうは)の『連歌教訓』にも、いくつか切れ字を掲げながら、「表に見えぬ切字は口伝あり」と書かれているところからも、切れ字のことで秘されていたのは、切れ字の細かい使い方についてだったと見ていいだろう。

 

 

5卯七曰(うしちいはく)、花に定座有哉(じょうざありや)

 

 「去来曰(きょらいいはく)定座(じょうざ)なし。大節(たいせつ)なる句故譲(くゆゑゆづ)合侍(あひはべ)(ゆゑ)、裏十一句十三句にて出す。十句八句は短句なり。十三句めおのづから花の句となり侍る也。当流には(この)説を用ゆ。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5354

 

 一度決まった規則を破るというのは勇気のいることで、特に点者がいて作品の評価が点者の一声にゆだねられている場合、どんなに良いと思った作品であっても「規則ですから」の一言で無価値にされてしまうことを思うと、たいていの人は尻込みして、リスクを避けようという意味で一応規則には従っておこうということになる。こうして、有力な作者のない時代には、大体において規則は厳しく杓子定規になる傾向が生じる。俳諧に限らず、世間のしきたりというのは大体そういうものだ。

 月花の定座(じょうざ)というのも、連歌が一つの頂点を極めた宗祇の時代には、まだ存在しなかった。応安五(一三七二年)の「応安新式(おうあんしんしき)」には花について一座三句物、つまり百韻一巻に三回までと定められ、そのほかに「にせものの花」という比喩としての花が一句認められていた。これを含めて花は四句まで出せるわけだが、もちろん出さなくてもよかった。また、花に関しては特別に、一つの懐紙(かいし)に一回という規定があり、これが後の定座の発想につながっていったのだろう。

 さらに、享徳元(一四五二年)の「新式今案(しんしきいまあん)」では、「近年或為四本之物(きんねんあるいはよんほんのものとなす)」とあり、花は四句まで詠んでいいことになったが、これも、四句までであって、四句詠まなくてはいけないというものではなかった。

 花の定座がいつごろから始まったかは定かではない。連歌ではなく荒木田守武(あらきだもりたけ)の俳諧「享禄三年守武独吟俳諧百韻」では花の句が四つの懐紙のうち三つが開始の裏の後ろから二番目にあり、もう一つも後ろから四番目にあるところから、この頃には既にあったのか。あるいは宗祇の流れとは別の流派では早くから定座があったのか。ただ、その後に作った「守竹千句」には定座が見られないので、単なる偶然かもしれない。

 元来、連歌は公界(くがい)で発達したものであり、その根底には殿上の和歌とは違い、身分の上下なく参加できるという平等主義が根底にあり、主に地下の連歌師を中心に大衆的な盛り上がりを見せていたものが、やがて宮廷にまで広まっていったものだった。

 しかし、建前上、道の上では身分の上下なしとは言っても、現実には誰が金を出すかという問題も出てくる。そこで、連歌師は連歌会のスポンサーを立て、連歌会を主催する主人もまた高い金を出して呼んできた高名な連歌師を立てようとする。そこで、一座の中で四句しか詠めない花の句は、スポンサーとスペシャルゲストの座として、それ以外の人は遠慮するという空気が生じてくる。

 紹巴(じょうは)の『至宝抄(しほうしょう)』に「一座に花四、貴人巧者ならでは平人は斟酌(しんしゃく)ある事なり」とあるのが、「定座」という発想の根底にあったのだろう。

 付け句は普通、連衆の面々ができた順に次々に付け句を読み上げ、それを聞いた師匠が判定し、治定し、執筆に書き留めさせることによって進行するもので(今でいえば「笑点」に似てなくもない。いわゆる「大喜利」の原点は連歌にあったのではないかと思われる。)、本来花の句や月の句は誰もが競って付けたがるような句だった。

 まだ初期の連歌の名残をとどめる二条良基(にじょうよしもと)の『連理秘抄(れんりひしょう)』にはこうある。

 

 「(そもそも)花月の句をさのみ取洩(とりもら)さじと、(あなが)ちに求むる人あり。愚意には返々(かへすがへす)(せん)なし、只詞巧(ただことばたく)みに心豊かなれば、景物ならねども秀逸をばする也。詞の足らぬ故に景物にて飾り立てんと奔波(ほんぱ)する程に、あながちに好み付くる事見苦しく侍り」

 

 上手い人は景物に頼らなくても好句を詠むが、下手な人ほど花や月といった景物の美しさに頼りたがる、というのはいかにもありそうなことだが、そういう状況だからこそ、下手な人は花の句を遠慮しなさい、と師匠は言う立場にあったのかもしれない。それが多分、江戸時代に入ると、ちょうど宴会の席で上座を譲り合うような感覚で、逆に月花の句は誰もが遠慮して譲り合うようになってしまい、自分から付けようという人がいなくなってしまったのだろう。

 こうして誰も月や花の句を詠まなくなってしまうとまた寂しいもので、一枚の懐紙に一句は必ず詠むようにしよう、と取り決めると、今度はおつまみの最後の残りの一個に誰も手をなさなくなるのと同じで、懐紙の最後まで誰も花の句を詠もうとはしない。そこで、各懐紙の最後の長句で、さんざんお互い譲り合った上で、一番偉い人が「それでは」とおもむろに詠むようになったのだろう。

 月の定座についても事情は同じだろう。月は元来七句可隔物(ななくへだつべきもの)で、数の制限はなかった。そのため理論的には十二句まで出すことができる。実際、宗祇の「遺誡独吟百韻」では、花が三句なのに対し、月は十句ある。月の定座もおおむね花の定座に準じて、ゲストを立てるために考え出されると共に、花にありつけないものへの救済措置の役割も果たしたのだろう。

 去来の議論も基本的にこうした習慣を擁護するものだった。「定座なし」とは式目上の制限はないという意味で、「大節なる句故譲り合侍る故」に、習慣上各懐紙の一番最後の長句(百韻では各懐紙の裏十三句目、ただし名残の懐紙のみ裏七句目、三十六句からなる歌仙では十七句目と三十五句目)が定座であることを容認するものだった。ある意味で、こういう慣習を打ち破れる人がいたとしたら、芭蕉くらいだろう。むしろ芭蕉にそれができなかったためにこのルールが残ってしまったと言った方がいいのかもしれない。

 ひとたび、こうした下世話な事情で定座が習慣化してしまうと、後から形式美などともっともらしい理由付けも生じる。特に近代に入り、文学はあくまで個人の表現とみなされ、連歌は文学ではないという主張が主流を占めるようになると、連歌の擁護者はむしろ個人の主観を抑えたところに形式美があると反論する。こうして、月花の定座こそ連歌のもっとも連歌らしいルールであるかのように、誇大に宣伝されてゆくことになった。

 

 

6卯七曰(うしちいはく)、花を引上(ひきあげ)て作るはいかに。

 

 「去来曰、花を引上ぐるに二品(ふたしな)あり。(ひとつ)は一座に賞玩(しゃうぐゎん)すべき人有りて、其人(そのひと)に花をと思ふ時、其句前(そのくまへ)に至り春季を(いだし)、望む(なり)。是を呼出(よびだ)し花といふ。又一ツは一座の貴人巧者などは佳に花を作す。又両吟(またりゃうぎん)は互いに一本ヅツの句主(くぬし)なれば、謙退(けんたい)不及(およばず)何方(いづかた)にても引上て作する也。さて故もなく花を呼出すは、呼出す者の(あやまち)にして、花主(はなぬし)の罪にあらず。(また)故もなくみづから引上るは、くわんたゐ(緩怠)の作者也。是等の事は隔心(きゃくしん)の会式也。常の稽古にはともかくも有べし。人にふりかゆる花あり。これは花一句とおもふ人の句所(くどころ)あしき時は、我句(わがく)を前にふりかへて花を渡すなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,54

 

 中世の連歌では月花の定座ではなく、どこで出してもいいため、むしろ下手なものほど何でもかんでも月や花に結び付けて、見かけだけ句をきれいに見せようとする傾向があったのは、二条良基も記すところだった。

 しかし、ひとたび紹巴の言うように、花の句は貴人や上手の詠むもので、その他の人は遠慮すべきということになると、逆に懐紙の終わりに近づいた頃、花の句の譲り合いになる。想像するに、

 「どうぞ、師匠。この辺で花を出してください。」

 「何を言う。今日の主役はあなたではないか。さっ、どうぞ花の句を。」

 「そんな、とてもまだ私なんぞそんな器じゃございません。どうしても師匠が詠まぬというなら、最近上達の著しい○○さんに詠ませてみては。」

 「とんでもございません。まだ私なんぞ足元にも及びません。」

こんなやり取りが延々と続いたのではなかったか。

 連衆が多い場合には、たいてい競って句を付けるが、少人数の場合、順番で詠むことが多いため、初めから花の定座のところに誰が来るかがわかっている。だが、それでも問題が起きないということはなかった。

 二人(両吟)の場合は、途中で順序を入れ替えないと、発句を読んだ人が延々と長句(五七五)を作り、脇を付けた人は短句(七七)を付け続けることになる。だから、懐紙が変わるたびに順序を入れ替えるので、花の定座は基本的に長句の方だから、自然に交互に詠むことになる。したがって、「又両吟(またりゃうぎん)は互いに一本ヅツの句主(くぬし)なれば、謙虚に不及(およばず)。」ということになる。

 三人(三吟)の場合は奇数だから、順番を入れ替えなくても全員交互に長句と短句が回ってくる。ただ、歌仙の場合、二回とも花は脇を詠んだ人に回ってくる。月の定座も懐紙の表の最後の長句とすると、やはり脇を詠んだ人に回ってくる。発句はゲストで脇は主人が詠むのが普通だから、主人が詠んでいけないということもないが、ゲストも立てるべきだし、実はゲストでも主人でもないもう一人がゲストの師匠ということもある。

 去来の膳所の悲劇(先師評43)もこのパターンだった。正秀亭で去来をゲストに招く芭蕉同席の会ということで、発句は去来、脇は正秀、芭蕉が第三の予定だった。だが、去来は芭蕉がいるのだから当然芭蕉が発句で、まさか私なんぞがと思っていたのだろう。主人と師匠を前に急に発句ということで、プレッシャーに負けて、頭が真っ白になったのか、結局発句は詠めずに芭蕉に代わってもらい、第三の出来もさんざんだった。それはともかくとしても、こうした複雑な人間関係のしがらみからも、定座が一人に集中するのはうまくない。そこで、座を引き上げるということが問題になる。

 難しいのは、引き上げようとしても本人が遠慮してしまう場合だ。そのためには、誰かに花の句を詠んでもらおうというときには、花の句を詠まざるを得ないような雰囲気を作ってしまえ、ということだ。「(ひとつ)は一座に賞玩(しゃうぐゎん)すべき人有りて、其人(そのひと)に花をと思ふ時、其句前(そのくまへ)に至り春季を(いだし)、望む(なり)。」

 しかし、これの一番の問題は、花の句の前になると、付ける人が気を使って、「いかにも」という句を出してしまうと、花の句はほとんど予定調和的で意外性のない退屈な句になりやすくなるということだ。定座がなく、我先に花の句を出そうとしていた時代には、逆にこの句からよく花に持っていったというような意外な展開が生じる可能性があった。その意味でも定座というのは付け句を退屈にしてしまったといえよう。

 月花の定座があれば、その前後は秋春の句と自ずと決まってしまい、二花三月あれば、歌仙の三十六句のうち十五句は自ずと季節が決まってしまう。これでは次はどうなるのかという、わくわくするようなスリリングな展開は期待できない。結局それが「月並化」につながっていったのではなかったか。

 もう一つの花の定座を引き下げる例は、偉い人や上手い人であればここで花を出せるといういいチャンスがあった時には花を出していいというものだが、本当のところ、それをみんな遠慮してしまうから問題なのだろう。

 また、これも三吟の場合だろうが、花の句をある人に詠ませるために順番を変えることがあるという。「人にふりかゆる花あり。これは花一句とおもふ人の句所(くどころ)あしき時は、我句(わがく)を前にふりかへて花を渡すなり。」これも、かなり例外的なものだろう。

 実際には、芭蕉の参加した歌仙を見ても、花の句を繰り下げている例は数少ないが、ただ、必ずしも去来の言うような典型的な例は見られない。たとえば、元禄五年の「青くても有るべきものを唐辛子 芭蕉」を発句とする歌仙では、四吟で十四句目の芭蕉の句の後、十五句目に花が出ている。

 

    きゆる(ばかり)(あぶみ)をさゆる

 (ふみ)まよふ落花の雪の朝月夜     岱水(たいすゐ)

 

 事情はよくわからない。同じ年の「水鳥よ汝は誰を恐るるぞ 兀峰(こっぽう)」を発句とする歌仙も芭蕉同座のものだが、三十三句目に

 

    人めにたつとひきなぐる数珠

 一息に地主権現の花盛       其角

 

の句を詠んでいる。同じく「(うち)よりて花入探(はないれさぐ)れうめつばき 芭蕉」を発句とする歌仙も三十四句目の短句の方に花を出している。

 

    老たるは御簾(みす)よる外にかしこまり

 花の名にくしどこが楊貴妃      彫棠(てうたう)

 

 これらは皆雑の句が続いた後の春への転換の句で、むしろ、芭蕉同席の会では春のいかにもという句に花を付けるような月並みな展開を嫌い、そろそろここで春が欲しいというときには定座にこだわらずに一気に花に持ってゆくのをよしとしていたのかもしれない。

 これは、花の定座の前の句に雑の句が多いことからもわかる。『去来抄』「先師評」41で去来が出した、

 

 くろみて高き樫木(かしのき)の森

 

の句も、十六句目の雑の句だった。

 巧者に対して、いかにも花を付けて下さいという句を出すのはむしろ相手を馬鹿にしているようなもので、あえて難句をふるくらいがかえって巧者への礼儀といえよう。去来の言う「呼出(よびだ)し花」というのは、むしろレベルの低い旦那芸の俳諧ではなかったか。

 「常の稽古にはともかくも有べし」というのは、いわゆる興行の席での一巻ではなく、個人的に練習で作る独吟では、定座にこだわる必要はないということだろう。

 俳諧師はどんな状況でも即興で句を作らねばならない。だから、日頃練習で独吟をしたりして研究するのは、誰しもやることだろう。おそらくこうした独吟は書き留められることも稀で、書き留めたとしてもすぐに反故にされるようなもので、こうした草稿が後世に残ることもあるまい。

 

 

7卯七曰(うしちいはく)(さる)みのに、花を桜にかへらるるはいかに。

 

 「去来曰、此時予(このときよ)花を桜にかへんといふ。先師曰、(ゆゑ)はいかに。去来曰、(およそ)花は桜にあらずといへる、一通りはする事にて、花婿(はなむこ)茶の出はな(など)も、はなやかなるによる。はなやかなりと云ふも(よるところ)有り。必竟(ひっきゃう)花はさく節をのがるまじと思ひ(はべ)(なり)。先師曰、さればよ、(いにしへ)は四本の内一本は桜也。(なんぢ)がいふ所もゆひなきにあらず。()もかくも作すべし。されど尋常の桜に(かへ)たるは(せん)なし。糸桜(ひとつ)はひと句主(くぬし)我まま也と笑ひ給ひけり。 」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5455

 

 これは『猿蓑』の、

 

    しょろしょろ水に()のそよぐらん

 糸桜腹いつぱひに咲にけり  去来

 

の句のことで、水がちょろちょろと流れているところにイグサがそよいでいるという前句だった。

 畳などの原料にされるイグサは冬の間水田で栽培され、田植えの前に収穫される。田に水が入り、イグサも大きく成長した頃は、ちょうど桜の季節でもある。しかし、いかにも花を出してくださいというような句でもあるので、去来としては何か意外な展開が欲しかったのだろう。

 去来はこの時芭蕉に、花ではなく桜の句ではどうか、という。芭蕉が理由を聞く。これに対し去来は、花は桜のことではなく、「花婿」や「茶の出花」も花やか故に正花として扱われている。ただ、花やかとはいっても、それは花に例えられるからであり、花は結局桜だ、と答える。これを聞いて、芭蕉も、もっともで、昔は百韻の四句の花のうち、一句は桜だった、と答える。

 果たして、いつの時代に「四本の内一本は桜也」という時代があったのかは、定かではない。中世においては、二条良基の時代に作られた「応安新式」には花は一座三句物で、似せ物の花を含めて四句までと定められていた。ただ、似せ物の花はたとえば「法の花」のような比喩的な花で、桜ではない。それ以外は基本的に桜の花を「花」として付けていた。「花」という文字はあっても、「花野」(秋の花咲く野辺)や梅の花、牡丹花のような「花」は一座三句とは無関係に用いることができた。「桜」は花とは別に一座三句物として扱われ、そのうち二句は花の桜だが、もう一句は桜の紅葉とされていた。

 宗祇の時代の「新式今案」では、花は一座四句となったが、当然一句は桜などという規則はなかった。もちろんこの頃には定座はなかったし、一座四句物というのは四句までという意味でそれより少なくてもよかった。

 「花婿」や「茶の出花」やあるいは「花火」のようなものが正花と扱われるようになったのは、江戸時代の俳諧からだが、もちろんそれ以前から「似せものの花」というのはあった。それが貞徳の時代に俗語で花のつくものに拡大されたのであろう。

 その頃は花は四句で定座も決まっていたから、芭蕉のいう一句は桜だった時代というのはよくわからない。芭蕉は宗祇法師を敬愛していたわりには、中世連歌のことに詳しかったとは思えない。

 多分、定座が定まって以来、花の句は急速に月並み化してしまったのだろう。ひとたび花を出す場所が決まってしまうと、その前にはいかにも花を付けてくださいというような春もうららかな句が来る。そこに当たり前のように花の句を出しても面白くない。

 中世では花の句に桜の句をつけたり、桜の句に花の句をつけたりしていたが、江戸時代だと、こうした付けかたをほとんどしなくなり、発句で盛んに桜が詠まれている割には、付け句での桜の句自体が稀になった。そういう時だからこそ、桜を花の代わりに定座においては、という発想が生じたのだろう。

 桜という場合、発句では(うば)(ざくら)葉の後から出る糸桜犬桜などが詠まれる芭蕉もただの桜を出してもつまらないというので、去来も糸桜を詠んだ。満開の糸桜の姿を腹のふくれた様に例えたところは一ひねりしたのだろうけど、その比喩を別にすれば、ただ糸桜が満開だというだけの句で、これが普通の桜の満開だという句だったら、やはり月並みを免れなかったのだろう。それを糸桜とすることで、何とか新味を持たせ、押し切ったものの、糸桜を正花とする句はこの一句去来だけのものであり、それを芭蕉は「我がまま」といった。これは今日の意味での「我がまま」ではなく、むしろ「我が物にする」に近いようだ。つまり、一句の主になった、ということだ。

 ただし、本来連歌式目に定座なるものはなく、花の一座四句というのも四句まで詠んでいいというだけでそれ以下でも違反にはならない。だから、去来のこの糸桜の句は、仮にここに花も桜もない句があったとしても違反ではないのだから、最初から何ら式目に反するものではない。ただ、「定座」という慣習(隔心(きゃくしん)の会式)に反するかどうかの問題であり、式目の問題ではない。

 

 

8卯七(うしち)野明曰(やめいいはく)、蕉門に恋を一句にても(すつ)るはいかに。

 

 「去来曰、予此事(よこのこと)(うかが)ふ。先師曰、(いにしへ)は恋の句数不定(さだまらず)勅已後(ちょくいこう)、二句以上五句と成る。此禮式(これはれいしき)法也(ほうなり)。一句にては(すて)ざるは、大切の恋句に挨拶なからんは如何(いかが)と也。一説に陰陽和合の句なれば、一句にて不可捨共(すつべからずとも)いへり。皆大切に思ふ故也(ゆゑなり)。予が一句にても捨よといふも、いよいよ大切に思ふゆへ也。(なんぢ)はしるまじ、(いにしへ)は恋(いづ)ればしかけられたりと挨拶せり。(また)五十員百員といへども恋の句なければ一巻とは云はずしてはしたものとす。かく(ばかり)大切なるゆへ、皆恋句になづみ、わづか二句一所(ひとところ)(いづ)れば(さいはひ)とし、かへつて巻中恋句稀也(まれなり)。又多くは恋句より句しぶり吟重(ぎんおも)く、一巻不出来(ふでき)になれり。此ゆへに恋句()(つけ)よからん時は、二句か五句もすべし。付難(つけがた)からん時は暫不附(しばらくつけず)とも一句にても(すて)よと云へり。かくいふも何とぞ(まき)づらのよく、恋句の度々出(たびたびいで)よかしと思ふゆへ也。勅の(うへ)(いふ)はいかがなれ(ども)(それ)は連歌の事にて、俳諧の上に有らねば奉背(そむきたてまつる)にもあらず、しかれども(われ)古人の罪人たらん事をまぬかれず。(ただ)後学の作しよからん事を思ひ侍るのみ也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5556

 

 芭蕉は「(いにしへ)は恋の句数不定(さだまらず)勅已後(ちょくいこう)、二句以上五句と成る」と言うが、この芭蕉の知識も正確ではない。連歌の式目で勅と言えるのは、応安五(一三七二)年の後普光園摂政の判のある「応安新式」「新式追加条々」、享徳元年に関白の判のある「新式今案」の三つで、これらは皇室の権威に基づいた公式ルールと呼んでいいだろう。その中では恋は春秋と同様五句まで続けることができるが、春秋は最低でも三句続けなくてはならないのに対し、恋については特に規定はないから、ルール上は確かに恋は一句で捨ててもかまわない。

 実際に宗祇の「小松原独吟百韻」に、

 

    遠ざかりきぬいもも待つらん

 かはらじといひしを今もたのむ世に

 

と旅から恋に転じた後、

 

 椎柴(しひしば)そよぐ木がらしのかぜ

 

と冬に転じて、恋を一句で捨てている例はある。

 しかし、恋といえば誰しも興味あることだし、むしろ競って付けたがるから、言われなくても放っておけば五句めいっぱい続きそうなものだ。かえってせっかく恋句が出たのにそれを続けない人がいたら、他の連衆からブーイングものだったのではなかったか。「俺まで回せ!」って感じで。

 それが江戸時代に入り、儒教道徳が浸透してくると、大部様子が変わってきたのだろう。特に武家の間では恋愛感情は抑制され、結婚は家同士のものとなり、恋というと遊郭のお金がらみの純粋とはいえぬものとなっていった。そのため、一応和歌を色好みの道とし、連歌も「恋の句なければ一巻とは云はずしてはしたものとす」とするほど恋を重視するにもかかわらず、恋句を競って付けるような雰囲気はなくなり、むしろ敬遠するようになった。

 恋句の内容自体も大きく変わっていて、中世連歌の恋句は我々の感覚でのラブソングに近く、基本的には恋の心情を述べるものだった。これに対して俳諧の恋は情の籠ったものではなく、恋にまつわるあるあるネタといってよかった。

 

    (ほたる)とぶ(そら)()ふかくはしゐして
 物思(ものおも)(たま)やねんかたもなき     宗長

 

のような自分を恋の主体として詠むのが連歌の恋句で、俳諧の恋句は、

 

   ものおもひけふは忘れて休む日に

 迎せはしき殿よりのふみ      去来

 

のように客観的描写になりがちになる。

 花の場合は本当は詠みたいけど貴人・巧者の詠むべきものとされたために、譲り合いになってしまったが、むしろ恋の場合は本当に恋句が苦手になってしまい、付けたがらなくなってしまったのだろう。それでもやはり恋がないのは寂しいから、何とか二句はということで、陰陽和合だとか、恋歌は二人で詠み交わすもので片歌では寂しいとか理由をつけて、恋は二句続ける、というルールになったが、それでも一句目の恋が出ると「仕掛けられたり」と言って、仕方なく二句目を付けるような状態だった。

 それだったら一句でもいいだろうと、結局「大切」「大切」といいながら、「大切」と連呼しなくては誰も付けたがらないほど恋句は嫌われものになってしまった。芭蕉が「予が一句にても捨よといふも、いよいよ大切に思ふゆへ也」というのは、結局のところ恋句の伝統を守る最後の砦だったのだろう。

 「勅の(うへ)(いふ)はいかがなれ(ども)(それ)は連歌の事にて、俳諧の上に有らねば奉背(そむきたてまつる)にもあらず、しかれども(われ)古人の罪人たらん事をまぬかれず」というも、実際にそのような勅はなく、ただ「勅」とでも言わなければ誰も恋句を作らないような状態にまでなっていたのではないか。

 土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』には「宗砌(そうぜい)、宗祇の比迄(ころまで)、一句にて(やむ)事例なきにもあらず」という芭蕉の言葉があるように、勅というのは「応安新式」や「新式今案」よりももっと後という認識で、一体いつの勅なのか、かなりあやふやに伝えられていたのだろう。それでも、勅が本当だとすれば、それに逆らうのは天に背くことになるから、連歌ではなく俳諧であると一応予防線を引きながら、「罪人たらん事をまぬかれず」と罪を認める。

 とはいえ、中世連歌の最高峰の一つである「湯山三吟」でも一ヶ所植物を三句続けてしまった箇所があり、式目に違反しているが、だからといって誰かが切腹するとかいうことでもないし、「湯山三吟」が不朽の名作であるという評価はゆるぎない。要するに、勅とはいえ、たかがゲームのルールであり、罪とは言ってもそんな大げさなものではない。

 なお、談林から天和の頃に掛けては逆に恋だけで一巻を作ろうという試みもあった。宗因の寛文の頃に作られた、恋をテーマにした恋百韻『花で(そろ)の巻其角撰(みなし)(ぐり)其角嵐雪両吟歌仙来ぬの巻などがある。

 

 

9卯七曰(うしちいはく)、蕉門に宵闇(よひやみ)を月に用ひ侍るや、いかん。

 

 「去来曰、此事(このこと)あり。洒堂(しゃだう)曰、深川の会に宵闇の句(いで)たり。先師曰、宵闇は(すなはち)月句中に(あり)(ほか)に月の句作せんは(つた)なかるべしと(ただち)に月に用ひ、(さて)表に月を見せざらんもいかがと、月並の月の字を入らるるといへり。可有事(あるべきこと)と思へり。その後風国(ふうこく)会に宵闇の句(いづ)る。予いふ、先師(すで)此式(このしき)(たて)らるる上は、いざ(その)法にならはんと、是を月に用ひ侍りぬこの(ごろ)許六(きょりく)の書を見るに、先師の宵闇を月にし給ふは故有りとの事也と。しかるに何の故もなく、月に用ゆるは浅間(あさまし)しと(なり)此詞(このことば)を聞て(はづ)るにたへず。許六は深川の会の徒ながらいかに思る(かな)。宵闇月に用るいかがと(いへ)り。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,56

 

 月を宵闇に代えるというのも、定座そのものが式目にないのだから、基本的に式目上の問題はない。だが、ひとたび慣例として世に通ってしまうと、これに違反すれば必ず鬼の首を取ったようにルール違反をあげつらい、とくに他門となれば格好の蕉門攻撃材料になる。やれ字余りだの、季重なりだの、月花そろわなくては一巻に非ずだの、作品の良し悪しと離れて議論しても何の発展性もないのだが、なかなか流派の利害が絡むと、ついつい足を引っ張り合ってしまう。

 従来のルールを打ち破るというのは、芭蕉ほどの天才で、世間の多くの人の支持を得ている作家なら、作品が良ければいいじゃないかと納得してくれるかもしれない。だが、それでもよく言われる言い方だが、「〇〇は天才だから別だ、〇〇はそんなことはもう超越している、だが、われわれ凡人はそれを真似するべきではない」ということになりかねない。

 そういって、信念のない凡作者の群れというのは、「芭蕉は恋一句で捨ててもいいと言ったけど、我々は恋二句を守っておいた方が無難だろう。確かに花を桜にしたり月を宵闇にした例はあるが、それは例外中の例外で、我々はきちんと定座を守っておこう」というところに落ち着いてしまうものだ。

 凡作者のどこが凡作者かというと、自分で凡作者だと認めている所が凡庸な所以ではないか。二句目の体言止めや三句目の「て」止めなども同様で、ルール違反を指摘されるのが怖くて、自らがんじがらめの規則の中に閉じこもってゆく。さらに無能な師匠なら、作品の質で勝負できない分、規則を知っているというだけで威張っていたのかもしれない。

 果たして芭蕉同座の席でなかったなら、去来は「糸桜」の句を詠んでいただろうか。まず詠みはしなかっただろう。また、芭蕉が宵闇を月に用いたという前例を知らなかったなら、去来は風国の会の席で宵闇を月に用いたりしただろうか。まずそのようにはしなかっただろう。そのあたりの信念のなさが、結局一番問題ではなかったのではないか。

 連歌の面白さというのは、本来形式美だとか様式美のようなものではなく、あくまで句を付けるということの面白さであり、前句が意外な方向に転換し、前句の思いもよらなかったような意味が引き出され、深められてゆくところにあった。それは隠された真実を発見するような、現象の背後に物の本性を発見するような驚きだった。たとえば、土は焼かなければただの土だが、焼きようによっては国宝級の陶磁器にもなるように、いかにして前句の持つ可能性を引き出すかが生命だった。

 本来式目は付け句が退屈な機械的な反復作業にならないように、あえてありがちなパターンになりそうな言葉を制限していったのだが、定座などの本来の式目と違うものが幅を利かせると、逆に展開そのものが制限され、句を月並化させる元となる。

 たとえば、「宵闇」という言葉を出すと、月ではないのに宵闇に月を待つ風情が表現されてしまうために、この句の前後に月の句を出せなくなる。ところが、歌仙の三ヶ所に月の定座が有ると、秋の句を詠む場所は限られ、その限られた中で月の句を出さなくてはならない。そうすると、「宵闇」は大変風情のあるいい言葉なのに、歌仙の中ではどうにも使いにくい言葉となってしまう。

 芭蕉は実際のところは、定座そのものを否定するのではなく、慣習はそれとして尊重しながらも、より良い句の転換のためには時として慣習は破られるべき、と考えていたのだろう。元禄五年の冬の「けふばかり人も年よれ初時雨」に始まる歌仙も、最初から定座を破ろうと意図していたのではなく、句の展開の都合上そうなってしまったと言っていいだろう。

 七句目から十二句目まで、一句夏の句を挟んで雑の句が続いていた所で、そろそろ季節の句に戻りたい所だった。定座にはまだ四句早いが、五句目の月からは七句隔たっている(式目では月と月は七句可隔物(ななくへだつべきもの))。そういう季移りの際に月や花を遅らすことを芭蕉は嫌っていたようで、このような場合に定座を引き下げる例はいくつかあった。そこで芭蕉が付けた句が次の句だった。

 

    船(おひ)のけて(たこ)喰飽(くひあ)

 宵闇はあらぶる神の宮遷(みやうつ)し     芭蕉

 

 船を下りて飽きるほど蛸を食ったという句を、殺生戒に結びつけ、宵闇に心の闇を見ようとしたのだろう。

 この句は、

 

 宵闇はあらぶる神の宮遷(みやうつ)

    船(おひ)のけて(たこ)喰飽(くひあ)

 

と和歌の形にしてみればわかりやすい。宵闇にあらぶる神の宮を移したので船から上がり、蛸を飽きるほど食った、という意味になる。あらぶる神というのは御霊のような非業の死を遂げた魂だろう。前句の蛸が須磨・明石の名物であることを考えれば、平氏の怨霊か。祟りを恐れて神社を他所へ移したから、もう祟りはないだろうと蛸を好きなだけ食う。そんな人間の勝手な心を宵闇が包んでいる。蛸というと、

 

 蛸壺やはかなき夢を夏の月     芭蕉

 

の句もある。罠にはめられて食われてしまう蛸のはかなき夢のような命を、夏の短い夜の月に例えたものだが、その情は、蛸に喰い飽きる姿に人間の煩悩を思い、それを月のまだ出ていない闇に例えるこの句にも生かされている。

 宵闇は十九日以降の月の出の遅いために生じる闇のことで、中秋旧暦八月は新月から三十日に至るまで月のことを気にかけるものとされているところから、三日月でも上弦でも十五夜でも中秋の句となる十六夜は長月のいざよいのことになるが、こうした特別な月を除けば、基本的に月は中秋のものとなる。宵闇も遅い月を待つ闇という意味では、中秋の名月に関連した言葉ではある。「無月」もまた中秋の季語でもあるように、また、

 

 三十日(みそか)月なし千歳(ちとせ)の杉を(だく)あらし   芭蕉

 

の句も、月の句となるように、月が出てなくても月の句にはなる。ただ、「無月」や「月なし」は字の上では「月」の字があるが、「宵闇」の場合は月の字はない。また、月の字はなくても「有明」などは月そのものをあらわすために月の定座でも用いられる。「宵闇」の場合、このどちらでもないのが問題だったのだろう。

 付け句は単につじつまが合えばいいというものではなく、むしろ付けることによって前句に隠されていた深い意味を引き出すものでなくてはならない。その意味でもこの句は形だけ付いているようなおろそかな句ではなく、「月」の字がなく月そのものをあらわすものでもない「宵闇」という言葉を定座に据える前例がないというだけの理由で、他の凡句と差し替えることはできない。だからといって、ここで月を出してしまった以上、すぐ後に別の月の句を付けるわけにもいかない。

 結局芭蕉はこの句とは別に日次の月を出すことで、形だけ定座を守るということで妥協した。その意を汲んで次の句を付けたのが許六だった。

 

    宵闇はあらぶる神の宮遷(みやうつ)

 北より荻の風そよぎたつ        許六

 

 遷宮は北の方角に行われたと取って、北の新しい宮から古い宮のあった南へと、泣き叫ぶような悲しげな荻の風の音がする、と付ける。そしてその次に、

 

    北より荻の風そよぎたつ
 八月は旅面白(おもしろ)小服綿(こぶくめん)        洒堂(しゃだう)

 

と旅の句に転じ、「八月」と「月」の字を出した。しかし、これは本来「月」を表す言葉ではなく、形の上での月の定座にすぎず、実質上の月の定座は宵闇の句となる。

 ここで一応「宵闇」を月の定座に用いる前例が一つできたことになる。ただ、そこには当然二つの解釈が可能だった。一つは前例がある以上、次から宵闇を積極的に月の定座に用いてゆくことで、規則の変更につなげていくという考え方。もう一つは、あくまでこれは特例だということで、規則の変更はないとする考え方。どちらが芭蕉の真意だったかは定かではない。ただ、最終的に去来もまたこれを特例と認めたために、結局は何も変わらなかった。

 おそらく、去来の座での宵闇の句は芭蕉の句ほどの出来ではなかったのだろう。宵闇の句を開放することで、次々とすぐれた創作が生まれたなら、規則を打ち破ることができたかもしれない。規則を破るというのはそれだけ労力の要ることで、芭蕉の門人は残念ながらそれをやりぬくだけの力がなかった。そして、結局は連歌俳諧の月並化を止めることができぬまま、近代文学の誕生時に至り、「愚なるもの」の一言で片付けられる結果になってしまったのだろう。

 月の字がなくても月の定座とするという意味では、古くから「有明」という言葉は認められていた。宵闇もそれに準じて月の言葉とする可能性もなくもなかったが、芭蕉自身が形式的な月を出すことで、この拡大を指示しなかったとも言える。

 なお、談林時代には「抜け風」と言って、月の定座にあえて月を連想する別のものを出すということはあった。延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』の最後の五十韻七句目の月の定座には、

 

青物使あけぼのの鴈

 久堅の中間男影出で        常之

 

の句がある。「久方の‥影出で」はいかにも月が出てきそうな文脈だが、出てきたのは下級武士で(やっこ)さんとも呼ばれる中間(ちゅうげん)の男だった。ただ、音が同じで中元(七月十五日)という言葉があり、ここは七月十五日で中元の月の句で、それを意図的に伏せた「抜け」だということになる。俳諧はこれくらい自由であってもよい。

 

 

10野坡曰(やはいはく)、東武の会にて盆を釈教(しゃっきょう)とせず。

 

 「嵐雪(らんせつ)これを難ず。先師曰、盆を釈教と云はば、正月は神祇(じんぎ)なるかと(なり)予兎角(よとかく)不言(いはず)退(しりぞひ)ておもふに此事(このこと)如何様故(いかさまゆゑ)あらん。一句に釈無しとも、(すで)に盆と(いふ)は釈ならんか。中元の類にあらず。不審也(ふしんなり)。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,56

 

 ここで問題になる東武の会というのは、元禄七(一六九四)年五月の「紫陽花(あぢさゐ)や藪を小庭の別座敷(べつざしき) 芭蕉」を発句とする歌仙で、二十七句目に、

 

    見世(みせ)より奥に家はひっこむ
 取分(とりわけ)て今年は(はる)ル盆の月       子珊(しさん)

 

という問題の句が出てくる。確かにここでは「盆」は七月十五日という日付を表す以外に特に意味があるようには思えない。ただ「盆」という言葉が入っているだけで釈教の句とするのは明らかに無理がある。この句を見る限りは、芭蕉が「盆を釈教と云はば、正月は神祇になるか」と言っているのも納得できる。

 釈教というと、本来連歌では仏教の教えを句にした、いわば布教のためのものだが、俳諧では必ずしも仏教の教えを詠まなくても、寺など仏教関係の言葉が入っているものを形式に「釈教」として扱っていた。それでいけば、お盆、つまり盂蘭盆会(うらぼんゑ)はそれだけで仏教の言葉で、釈教にしてもいいのではないか、ということになる。

 去来によれば、お盆は旧暦七月十五日の中元の日に行われる行事で、日にちを表す「中元」は釈教ではないが、お盆は釈教であり、正月が神祇でないのは中元が釈教でないのと同じ理窟だと言う。

 この議論の背景にあるのは、芭蕉の時代になると、かつての連歌のようなはっきりと仏教の教えを説いたり、仏陀や仏法を賛美する句がほとんど詠まれなくなり、単に仏教関係の言葉が入った句だけの釈教句すら稀になり、お盆も釈教にしないと釈教の句のない一巻ばかりになってしまうという事情があったのではなかったか。

 しかし、ひとたびお盆も釈教だということになると、そこに当然去り嫌いの問題が絡んでくる。釈教と釈教は五句去りだが、短い歌仙の中で、ひとたび「お盆」という文字のある句が出てしまうと、その後五句は本当の意味での釈教の句も詠めなくなってしまう。形だけの釈教句がはびこれば、結局本当の釈教句が排斥されてしまう。しかし、それも問題にならないほど、釈教そのものが既に江戸時代にあっては時代遅れだったということだろう。

 

 まあ、盂蘭盆会は本来インドの仏教にはなかったもので、先祖を祀る日本の習慣を方便として仏教に取り込んだにすぎない、ということもあるかもしれないが。

 

 

11去来曰(きょらいいはく)許六(きょりく)と明月の明の字を論ず。

 

「予は第一、八月十五夜婁宿也(ろうしゅくなり)。清明を(もちゆる)。第二、和歌にも今宵(こよひ)清明を()メり。第三、詩にも清明の字(あり)。第四本朝の(ならひ)字儀(かな)ふをかり(もちふ)事有(ことあり)。富士を不二、吉野を芳野と(かく)るがごとし。先達(せんだつ)も明の字(かか)れたる多し。明の字(かき)て苦しからじといふ。

 許六曰(きょりくいはく)、明月と八月十五夜とは和歌題格別也(かくべつなり)。名月は良夜の事也(ことなり)。名月に明の字は未練といふ。此論至極(このろんしごく)せり。()し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題(ほうだい)なるべし。名月に明の字を書間敷事必(かくまじきことひつ)せり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,57

 

 中国の星座である二十八宿は、西洋占星術が太陽の入る星座を元に春からおひつじ座を起点として始まるのに対し、深夜に南中する、いわば太陽と反対側の星座を起点とする。そのため、おとめ座の中央部に当たる(かく)(すぼし)を起点とする。つまり、西洋占星術の星座とは180度正反対になる。これで行くと、秋分は(けい)(とかき;西洋ではアンドロメダ座)となり、ここから西方七宿・白虎に入る。去来は八月十五日は婁宿だというが、(ろう)(たたら;西洋ではおひつじ座)は西方七宿の奎の次だから、時期的に間違ってはいない。

 ただ、中秋の名月が秋分より少し後に来れば、確かに婁宿になるが、月の位置はその年によってもずれるので、必ずしもいつもというわけではない。婁という字には明るいという意味があり、吉星だから、清明なのだろう。だが、普通清明というと春の三月のことで、この説明はやや無理があるか。

 

   清明夜       白居易

好風朧月清明夜 碧砌紅軒刺史家

獨繞回廊行複歇 遙聽弦管暗看花

 

清明      杜牧

淸明時節雨紛紛 路上行人欲斷魂

借問酒家何處有 牧童遙指杏花村

 

なども春の詩だ。

 和歌や漢詩に秋の夜の清明を詠むとしても、天文とは関係なく、ただ秋の空が澄み切っている様をそう言うだけだろう。

 また、日本語では富士を不二ともいい、吉野を芳野という例を引いているが、これは日本語に仮に漢字を当てはめている場合、発音が同じであれば他の字を当ててもいいというだけで、名月と明月は元が漢語だからこの場合も当てはまらない。

 ただ、江戸時代は総じて音が合っていれば字面にはあまり頓着しなかったから、本来名月が正しいとしても、普通に明月の字を当てることは珍しくなかったのだろう。俳号でも近江膳所の臥高は画好という字も当てるし、曲水・曲翠の例もある。『奥の細道』でも地名の草加を早加と書いたり、こうした例は幾らもある。

 中秋の月は「明月」か「名月」という問題は、そういうわけで許六の説でもあり、今の日本でも一般的に言われているように、「名月」が正しく、「明月」は単なる明るい月のこととし、中秋に限らないとしておくのがいいだろう。

 ただ、「()し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題(ほうだい)なるべし。名月に明の字を書間敷事必(かくまじきことひつ)せり。」というのはあまりにも杓子定規だ。

 

 

12許六曰(きょりくいはく)村雨(むらさめ)は季()し。

 

 「季を結ぶに習ひあり。熊野(ゆや)のうたひに、のふのふ村雨のして花をちらし(さふらふ)といふは、歌道を知らぬ者の作也(さくなり)

 去来曰、村雨多くは夏のはじめ秋の半に詠み侍る。歌人に問ふに、花にも月にもむすぶなり。春のすへ夏のはじめ、遅さくらなどに結び侍る事にや。證歌は覚悟せず。退(しりぞい)て思ふに急雨と書く、必竟(ひっきゃう)一降雨なれば、()風情(ふぜい)をうつし得ば、いつを限るまじ。無季なるもかかる(ゆゑ)にや。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,57

 

 村雨というと『小倉百人一首』でも有名な寂蓮(じゃくれん)法師の『新古今集』秋、四九一の

 

 むらさめの露もまだひぬまきの葉に

    霧たちのぼる秋の夕暮れ

 

が思い出されて、秋のイメージが強いが、夏の花橘(はなたちばな)とともに詠まれることも多い。『千載(せんざい)集』巻三、夏、一七三に、

 

 浮雲のいさよふ宵のむら雨に

    をひ風しるくにほふたち花

                  藤原家基

 

の歌もある。去来が「村雨多くは夏のはじめ秋の半に詠み侍る」というのは、こうしたイメージで、八代集の歌をむる限りでは正しいといって良い。

 許六が指摘した能の謡曲『熊野(ゆや)』の一節だが、これは遊女熊野が母の病気の知らせを受けて東国へ帰らなくてはならないにもかかわらず、主人の平宗盛(たいらのむねもり)が京で花見をするというので、それに参加しなくてはならないというストーリーで、親孝行より主君への忠誠心が重視される日本社会の古くからの葛藤をテーマとしたものだ。中国や韓国の儒教では、忠よりは孝のほうが優先されるというのは自明なことなのだが、日本では、今日でも親の死に目にもあわずマウンドに立ったピッチャーが美化されて語られたりするように、忠のほうが優先される傾向にある。そういうわけで、いやいやながらに花見に行くと、清水の観音様が哀れに思い、雨を降らし、花見を中止にしてくれる。

 

 熊野詞「なうなう(にはか)に村雨のして花の散り候ふは如何(いか)に。」

 宗盛詞「げにげに村雨の降り来つて花を散らし候ふよ。」

 熊野 「あら心なの村雨やな春雨の。」

 地  「降るは涙か。降るは涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。」

 

 許六は、桜の花に村雨はおかしいというが、室町時代には花に村雨を詠んだ歌はないわけではない。正徹(しょうてつ)の『草根(そうこん)集』の春には、

 

 村雨に覚めてぞにほふ夢人に

    きせてかへさぬ梅の花かさ

 むら雨の梢の露も置きとめぬ

    花のやどりに山風ぞふく

 

の例があり、正徹以外でも、

 

 桜花尋ねも入らじあけぼのの

山路霞める春の村雨

                  肖柏(春夢草)

 

鎌倉時代ではあるが、

 

 行く春の名残りやすらふ村雨に

折る手露けき山吹の花

後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

のように、梅や桜に村雨を詠んだ例がある。ただ、例としては少なく、歌人によって意見の分かれるところだったかもしれない。

 この『去来抄』「同門評3」には菫を山に詠むかどうかという議論があったが、それと同様、微妙なところだ。少なくとも室町時代には桜を散らすにわか雨も村雨と呼んでいたのだろう。

 なお、村雨を月に結ぶ例は『新古今集』巻五、春下に、

 

 忘らるる身をしる袖の村雨に

    つれなく山の月は出でけり

                  後鳥羽院

 

がある。

村雨は八代集の時代でも夏の初めから時雨の頃まで幅広く用いられ、後鳥羽院は春の終わりまで拡大し、室町時代には桜の季節でも村雨と呼んでいた。

 去来が言うように、村雨は「急雨」と書くように一雨さーっと来るその風情さえ映せばどの季節でもよく、それゆえ連歌でも無季とされていたといっていいだろう。

 

 

 

13去来曰(きょらいいはく)手爾於葉(てにをは)は天下一まいのてにはにて、誰々も知るもの(なり)

 

 「一字も(たが)ひぬれば必不通(かならずつうぜず)(また)伝授あるてにはといふに(いたり)ては、天下に知る人少なし。堂上にも伝授の人多くはましまさずと(なり)(これ)より(はじ)めて人の歌も直し給ふとかや。又地下(またぢげ)に伝授の一筋あり。紹巴(ぜうは)貞徳也(ていとくなり)。先師も(この)伝と(うけたま)はる。我輩(わがともがら)のみだりにいふ事に非ず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5758

 

 文法というのは、人間の中に生得的に備わっているもので、幼児期に十分な言語のある環境に育てば、身体的な生得的な障害がない限り母国語を習得できる。

 しかし、稀に幼児期に虐待などによって言語的な環境から遮断されて幽閉されたりすると、言語の習得はきわめて困難になる。しかし、そうしたわずかな例外を除けば、文法は万国共通のもので、どんな国の言語であっても誰でもその環境にさえあれば習得できる。まして、日本で生まれ育ったなら、日本語の助詞(てにをは)の使い方は、誰でも無意識のうちに使いこなせるようになる。

 もっとも、いつの時代でも言葉の変化というものはあっただろう。去来と許六の間での疑いの「や」についての論争もそうだし、「天下一まい」といっても、細かいところでは若干人によって、あるいは地域によって受け止め方が違っている。

 今日では店員の「千円からお預かりします」という言い回しがしばしば話題になるが、私などは逆に店でお金を出すときにもついつい「それじゃ千円から」とか言ってしまう。これは理由があって、例えば八百円の品物を買うとき、店の人は本来八百円しか預かってはいけないところを一時的に千円預かるため、「千円から八百円をお預かりします」という意味で用いているのだが、年配の人には違和感があるらしい。元来「お預かりします」というのは公私の区別から来たもので、決してこのお金を自分のポケットに入れたりしませんという意味なのだが、お客の立場にしか立ったことのない人間にはこの区別はどうでもよく、そこから八百円の買い物なのに「千円お預かりします」と言っても違和感なく聞こえるのだろう。

 しかし、幼児期に自然習得される文法というのは、あくまでもその土地の口語であり、普段会話に用いられない文章言葉は学習されねばならない。

 例えば、私などは高校三年ぐらいの時まで作文がどうにも苦手で、感想文など書かされると、原稿用紙一枚でも何を書いていいかわからず苦労したし、未提出なんてこともざらにあった。しかし、ある時ふっと、頭の中で文章言葉で物を考えられるようになると、もう思いつくままにいくらでも書けるようになった。

 つまり、作文は一種の外国語習得だ。話し言葉を一生懸命文章言葉に翻訳しようとしているうちは、一行書くのにでも苦労する。文章言葉で考えることが出来るようになったとき、初めて文章がすらすら書けるようになる。忘れ去られがちではあるが、ここに書かれているのは文章言葉であり、この通りに実際会話の中で喋ることはない。「である」とか「なのだ」とかフツーにしゃべってんヤツなんていねーだろっ。

 そういうわけで、雅語などの特殊な言葉は学習する必要があり、そこに伝授があるのはおかしなことではない。もっとも、江戸時代ともなれば、二条家、冷泉(れいぜい)家などの歌道も引き継ぐ人は稀で、「堂上にも伝授の人多くはましまさずと也。」という状態だったのだろう。

 「地下に伝授の一筋」というのは東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けた宗祇に端を発するもので、宗祇は肖柏と三条西実隆に伝授し、三条西実隆に伝授されたものは後に御所伝授と呼ばれ、肖柏に伝授されたものは堺伝授と奈良伝授に別れる。堺伝授も堺の町人への伝授で、奈良伝授は奈良の饅頭屋の(りん)宗二(そうじ)伝授されたため饅頭屋伝授とも呼ばれている

 紹巴、貞徳に古今伝授はなかったと思われる。ただ、三条西実隆から三条西(きん)(えだ)三条西(さね)()を経て細川までは辿れるから、紹巴・貞徳の交友範囲に古今伝授者がいたのは確かだ。

芭蕉の場合、古今伝授はなかったにしても、紹巴、貞徳、季吟(きぎん)を経由した切れ字などの伝授はあったものとは思われる。切字の使い方については去来にも伝授があったようだが、「てにをは」についても多分何らかの伝授はあったとは思われるが、「や」の用法でもめるくらいだから、かなり断片的にしか伝授はなかったものと思われる。ただ、「我輩(わがともがら)のみだりにいふ事に非ず」とある以上、何らかの秘伝はあったのだろう。

 おそらく芭蕉が延宝二年に季吟に会い、『俳諧埋木』を賜った時に、口伝を受けたものと思われる。

 連歌の場合、句を付ける際、上句と下句が文法的におかしくないようにつながらなくてはいけないから、「てにをは」については様々な論書で議論されてきた。しかし、こうした論書も当時の技術のすべてが書かれているというよりは、むしろさわり程度のもので、細かい実際的な部分は口伝によって伝えられ、外部の人には秘密にするようにしてきたのだろう。そうなると、実際的には、庶民が俳諧に親しむぶんには、「てにをは」についてもあくまで日常的な口語の感覚で、句の付け方なども見よう見まねの場合が多く、それゆえに付かない句も多かったのだろう。

 

 

14許六曰(きょりくいはく)、古事古歌を(とる)には、(さく)を並べて心を(つく)すべし。

 

「たとへば

   名将の橋の(そり)見る扇(かな)

といへるは、名将の作にして句主(くぬし)の作にあらず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,58

 

 和歌でも本歌取りというものがあり、古歌の趣向を借りて新しい和歌を詠む場合がある。しかし、この場合でも古歌とまったく同じだったら盗作であり、何らかの作者独自の新しいものが織り込まれなくてはならない。本歌取りの代表的な例としては、

 

 苦しくも降りくる雨か三輪の崎

    佐野の渡りに家もあらなくに

            長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)(『万葉集』巻三、二六五)

 

 駒とめて袖うち払ふかげもなし

    佐野の渡りの雪の夕暮

            藤原定家朝臣(『新古今集』巻六、六七一)

 

が有名だが、ここでは雨で雨宿りすり家もなくて苦しいという歌を、雪の夕暮に馬を止めるところもない、と詠み替えている。「佐野の渡り」は今の和歌山県新宮市の辺りにあった渡し場で、熊野速玉神社と熊野那智大社を結ぶ熊野参道が通っていて、そんな大きな川ではないが渡し場があったのだろう。小さな渡し場だけに冷たい激しい雨が降れば雨宿りする所もない。その苦しさを前面に出した長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の古歌に対し、定家は雪に代えることで苦しそうだけど風情のある美しい景色に作り直している。

 本歌取りというと、今日ではパロディーというイメージが強いかもしれないが、それは換骨奪胎(かんこつだったい)というもので、いわば、古典作品の形を借りて、内容はまったく別のものにすることで、本歌取りとはまた別のものだ。本歌取りは本来古典の趣向を借りながら、それをより高めていく方法だった。

 連歌では、古歌や古事を(うず)み句にして付けるという付け方がしばしばなされた。たとえば、

 

    漕ぎ行く舟にさむきうら風

 松遠きしほひの雪の朝ぼらけ   良阿(りょうあ)

 

の付け合いは、一見「漕ぎ行く舟」に「雪の朝ぼらけ」という背景を付けただけのように見えるが、その裏には

 

 世の中をなににたとゑむあさぼらけ

    漕ぎ行く舟のあとのしら浪

 

の歌の心を隠している。つまり、これは単なる背景ではなく、「漕ぎ行く舟」に世の中はかくもはかないものという情を乗せている。本歌・本説(ほんぜい)をこのように用いることで、一見単なる景色の句に古事に基づいた深い意味を隠しこむことができる。

 『水無瀬三吟(みなせさんぎん)』の、

 

    心あるかぎりぞしるき世捨人(よすてびと)

 をさまる浪に舟いづるみゆ    宗祇(そうぎ)

 

などは、厳子陵(げんしりょう)というのは後漢の賢人厳光(げんこう)(字子陵)のことで、厳光が、ともに天下平定を成し遂げたとき、桃源を即位させ光武帝とし、自らは船に乗り島を離れ、釣りをして暮らしたという古事を知らなければ、なぜ「世捨て人」に「舟」が付くのかわかりにくい。連歌でも俳諧でも、疎句付けの句はこのように本歌や本説を埋み句にして隠している場合が多い。それがわからないと単なる付かない句のように見えてしまい、よくわからない付かない句のことを疎句付けだと思い込んでしまうことにもなる。

 いずれの場合でも、古歌や古事を本歌・本説に取るときは、まったく同じというのではなく、どこか違えて、それでも元のイメージが伝わるものでなくてはならない。

 

 名将の橋の(そり)見る扇(かな)   作者不詳

 

の句は、松平信綱が橋の反り加減を扇を開いて将軍家光に示したというエピソードによるものだが、これだと漫才なら「まんまやんけー!」と突っ込まれることになる。

 

 

15去来曰(きょらいいはく)、古事古歌をとるには、本歌を一段すり上げて(さく)すべし。

 

 「たとへば(はまぐり)よりは石花(カキ)を売レかしと(いふ)西行の歌をとりて、

   かきよりは海苔(のり)をば(おひ)(うり)もせで

と先師の作有(さくあり)。本歌は同じ生物(いきもの)(うる)ともかきをうれ、石花(かき)はかんきんの二字に(かな)ふといふを、先師は生物(いきもの)(うら)んよりは海苔(のり)を売れと、一段すり上げて作り給ふ。のりは法にかよふ(なり)。老の字力あり。大概如斯(かくのごとし)」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,58

 

 本歌取りは本来古歌をもとにしてそれをさらに高める技法だったのだが、俳諧では雅語の風雅を俗語で表現する関係上、古歌の情を庶民の日常的な卑俗な題材に翻訳してゆくため、どうしても本歌より一段落ちるパロディーになりやすい。

 

 はぜ釣るや水村山郭酒旗(すいそんさんかくしゅき)の風   嵐雪(らんせつ)

 

天和(てんな)調の漢文趣味の句だが、これも杜牧『江南春』の中国江南地方の風光明媚な地の景色を、江戸の身近なはぜ釣の風景に詠み替えているが、江南と東京湾ではやはり東京湾の方が落ちるだろう。

 その意味では、通俗的な題材に翻訳しながら、しかも位を本歌より引き上げるというのは簡単ではない。『山家集』の、

 

     串にさしたる物をあきなひけるを、何ぞと問ひければ、

     はまぐりを干して侍るなりと申しけるを聞きて

 同じくはかきをぞさして干しもすべき

    はまぐりよりは名もたよりあり

                      西行法師

 

の歌は、「かき」を「看経(かんきん)」とかけての歌だが、実際は殻の付いた牡蠣を串に刺すのは難しそうだ。

 

   老慵(らうよう)

 (かき)よりは海苔(のり)をば(おい)(うり)もせで   芭蕉

 

の句は、貞享四(一六八七)年の発句で、切字がなく、付け句のようなてには留めの発句で、貞享二(一六八五)年の

 

 辛崎(からさき)の松は花より(おぼろ)にて   芭蕉

 

にも通じる、まだ天和調の名残を留める句だ。

 「老慵(ろうよう)」というのは「老いて怠る」という意味で、西行が蛤よりも看経(かんきん)を売るといったのに対し、それより海苔(法)を売ったらどうかと思うのだが、老いてそれも怠っている、という句だ。

 ただ、すり上げるとはいっても、自分が西行よりも上を行こうとして怠っているという句だから、謙虚なのか自慢げなのかよくわからない句で、芭蕉の発句としてそれほど出来のいい句でもないだろう。

 ただ、一般的に本歌を取る場合には、元ネタよりも良いものを作るためのもので、パロディや換骨奪胎が本意ではない。定家が佐野の雨を雪にするのも「すり上げる」という意図だろうし、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

               能因法師

 都にはまだ青葉にて見しかども

     紅葉散り敷く白河の関

               源頼政

 

の歌にしても、青葉に紅葉の同じ樹木の一貫性と赤く染まる紅葉の美しい眺めに、能因法師の歌にはなかった何かを付け加えたということで、藤原定家はこれを等類ではなくオリジナルとして認めたという経緯がある。

 

 

16、「先師曰(せんしいはく)、世上の俳諧の文章を見るに、(あるい)は漢文を假名(かな)(やは)らげ、(あるい)は和歌の文章に漢字を入レ、辞あらく(いや)しく(いひ)なし、(あるい)は人情を(いふ)とても今日のさかしきくまぐまを(さぐ)り求め、西鶴が浅間(あさま)しく下れる姿有(すがたあり)吾徒(わがと)の文章は(たし)かに作意を立、文字はたとひ漢字をかるとも、なだらかに()ひつづけ、事は鄙俗(ひぞく)の上に及ぶとも、(なつか)しくいいとるべしとなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,5859

 

 大体今日残っているような有名な文章というのは、それなりのレベルのもので、駄作駄文は淘汰されてしまっているから、ここで指摘されている「辞あらく賤しく云なし」だとか「西鶴が浅間しく下れる姿」がどのような文章なのかは具体的にはよくわからない。

 「或は漢文を假名に和らげ」というのは芭蕉も試みたことがあり、『野ざらし紀行』の小夜の中山の件は、杜牧の『早行』という詩を和文に直している。

 

 「二十日(あまり)のつきかすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)早行(さうかう)残夢(ざんむ)、小夜の中山に至りて(たちまち)驚く。

   馬に寝て残夢(ざんむ)月遠し茶のけぶり」

 

 これは文章は実は

 

   早行     杜牧

 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴

 林下帯残夢  葉飛時忽驚

 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横

 僮僕休辞険  時平路復平

 

 鞭を下にたらし、ただ馬が行こういするがままにまかせ、

 数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。

 林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、

 落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。

 降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、

 暁の月は遠い山の端に横たわる。

 召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。

 それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 

から来ている。 「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章のほとんどが杜牧の詩からの引用でできている。

 もちろん、これはきちんとした和文に消化されている。そこまでいかず、漢文の中にほんの少し和文を入れたような池西言水(いけにしごんすい)編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』の春澄の序などが、指摘されたその種のものなのかもしれない。

 

 「滑稽(こっけい)滑稽、季()リ、月ニ練リ、雲-二(ゆう)ニシテ于四方ニ一、()-二出ス於雅風ヲ一、方朔之(ぼうさくが)(べん)江帥之(ごうのそちが)頓作(とんさく)(ヘサヘテ)二衆人()(とう)(シリウタケ)セリ二於言句三昧(げんくざんまい)ニ一也とは、なにものぞ。たれとかする、洛下ノ池水活溌溌(くはつぱつぱつ)子。(こふ)君、試看(こころみにみよ)。」

 

 「和歌の文章に漢字を入レ」というのは、貞門系の俳文に見られるもので、季吟の文はあくまで伝統的な和文を基調としている。

 

   「五月雨

 さみだれは、おのへの寺も水に近き楼台となり、みやこの宮室も海中の竜宮殿かとあやしまれ、庭の松も見る見る沖の藻にまがひ、井のうちの蛙も大海をしり、しょろしょろ川も大井川をあざむき、銀浪も地にうつすやうに、雲の波も軒をひたすかと思ふ心ばへ、はれまもあらずふりつづくていなどいひなす。

   五月雨は大海しるや井の蛙」

 

 これももちろん洗練された一つのスタイルで、「辞あらく賤しく云なし」ではない。

 芭蕉も『笈の小文』の旅の時期には、『奥の細道』や『幻住庵記』のような美文とは少し違う、卑俗な事柄をリアルに描こうとしていた時期があった。

 

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。

 漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やゝ起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

   かちならば杖つき坂を落馬哉

終に季の言葉いらず。」(真跡詞書)

 

 「東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。「藻塩(もしほ)たれつゝ」など歌にもきこへ侍るも、今はかゝるわざするなども見えず。きすごといふをを網して、真砂(まさご)の上にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去ル。(これ)をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。(もし)古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやと、いとゞ罪ふかく、猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。(みちび)きする子の苦しがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、「麓の茶店にて物くらはすべき」など(いひ)て、わりなき(てい)に見えたり。かれは十六と(いひ)けん里の童子よりは、四つばかりもをとをとなるべきを、数百丈の先達(せんだつ)として、羊腸険岨(やうちゃうけんそ)岩根(いはね)をはひのぼれば、すべり(おち)ぬべき事あまたたびなりけるを、躑躅(つつじ)・根ざさにとりつき、息をきらし、汗をひたして、(やうやう)雲門に入こそ、心もとなき導師の力なりけらし。

   須磨のあまの矢先(やさき)(なく)郭公(ほととぎす)

   ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や嶋一ツ

   須磨寺(すまでら)やふかぬ笛きく木下(こした)やみ」(『笈の小文』)

 

 その後の芭蕉からすれば、このような書き方も「辞あらく賤しく云なし」だったのかもしれない。

 

 

17先師曰(せんしいはく)凡讃(およそさん)名所の発句は、其讃(そのさん)其所(そのところ)の発句と見るやうに作るべしと(なり)

 

「西行の讃を定家の絵にも(かき)、明石の発句を松嶋にも用ひ(はべ)らん事は(つたな)(わざ)なるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,59

 

 讃の発句というのは主に絵などに書き込むための発句で、絵は山水であったり、花鳥であったり、いろいろだが、基本的には絵に書いてある内容への讃であることがわかるように詠まなくてはならない。芭蕉の画賛というと、嵐雪の書いた朝顔の絵への讃に、

 

 あさがほは下手のかくさへ哀也(あはれなり)   芭蕉

 

の句がある。芭蕉は延宝から天和の頃に後の英一蝶(はなぶさいっちょう)になる(ぎょう)(うん)から絵を学んでいる暁雲狩野安信の弟子だった嵐雪もこの頃頻繁に交流があったはずだからそんな下手だったとも思えない。多分逆で上手いけど図鑑みたいな絵で何となく味わいに乏しいとかそういうことだったのではないかと思う

 普通の画讃には、

 

   茅舎の画賛に

 むぐらさへ若葉はやさし破レ家  芭蕉

   はせをに鶴絵がけるに

 鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし  芭蕉

   賛 雲竹自画像

 こちらむけ我もさびしき秋の暮 芭蕉

   画賛

 山吹や宇治の焙炉の匂ふ時    芭蕉

 

などがある。

 発句は基本的に興行開始の挨拶だから、季節はそのときの季節を詠むもので、夏の暑い盛りに「今日はお寒うございます」と挨拶する人はいない。それと同じように、興行場所が名所の近くだったりすれば、その地名を織り込んで挨拶することも忘れてはならない。

 

 五月雨(さみだれ)をあつめて涼し最上川    芭蕉

 あつみ山や吹く浦かけて夕涼み   芭蕉

 

のようにその場の地名を直接詠み込む場合もあるし、

 

 有難(ありがた)や雪をかほらす風の音    芭蕉

 

のように、直接地名は出さなくても、その土地の風情を讃美するように詠む場合もある。この場合、あくまで誰の目にもその土地への讃だということがわかるように詠むべきことはいうまでもない。

 しかし、名所の絵の画賛などの場合だと、実際にその土地を見たことなくても書かなくてはならない場合もあるかもしれない。そのときも、誰の目にもその土地への讃だということがわかるように特に注意しなければならない。明石で詠んだ発句を松島の興行や松島の絵の讃に用いたりするとやはり不釣り合いだ。

 名所の絵の画賛には、紀重就の御祓川(みそぎがわ)上賀茂神社の御手洗川)の絵の画賛とされている、

 

 ふくかぜの中をうを(とぶ)御祓(みそぎ)かな  芭蕉

 

の句がある。

 

 

 

18先師曰(せんしいはく)、俳名は穴勝(あながち)熟字によらず、(ただ)となへ(きよ)くととなひ、字形の風流なるを用ゆべし。

 

 「短冊(たんざく)など書て(なほ)見る所あり。片名書侍(かたなかきはべ)るにことごと(しく)字形は苦しかるべし。はせをはかなに書ての自慢(なり)となり。又野明(またやめい)が名を始は鳳仭(ほうじん)といひけるを、劍刄の字有(じあり)、名に用ゆべからずとて、先師の野明とは改め給ひける。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,59

 

 俳号はたいてい漢字で二字のものが多く、二次で熟語になっているものとしては芭蕉、去来、越人、破笠(はりつ)などがいる。ただし、あくまで人名なのだから、もちろん熟語として意味をなす必要はない。貞徳、貞室のように師匠の一字を受け継ぐ場合もある。宗因にいたっては宗祇、宗長、宗碩、宗鑑などのいにしえの連歌師の名を引き継ぐ「宗」の字を冠している。

 貞門・談林などの古い時代では訓読みする「名乗り」も多く、常矩(つねより)、高政のようなものも多い。芭蕉も貞門時代は宗房(むねふさ)を名乗っていた。(「宗」とはつくが訓読みなので、宗祇、宗因とは何の関係もない。)変わったところでは鬼貫(おにつら)は「鬼の貫之」の意味で、曾良は故郷伊勢長島の木曽川、長良川の一文字を取ったものだという。許六(きょりく)は諸芸に通じていて、六道を許されているという意味だという。

 なお、芭蕉の俳号は本来は桃青(とうせい)であり、李白をもじったものと思われる。親族に桃隣、桃印という桃のつく名を与えている。芭蕉は芭蕉庵という庵号から来ていて芭蕉庵桃青というのが正しい。ただし、貞享後期から自らサインする際にひらがなで「はせを」(実際は今の仮名ではなく、者という字を崩した「は」と、越という字を崩した「を」の字が用いられている。)と表記するようになる。

 字形の風流というのは、風雅の心に通じるものという意味だろう。花鳥風月を愛し、四時を友とし、世俗の金や戦争のことを離れ、生命を慈しむものならば問題はない。ただ、平仮名はいいが、カタカナは硬い感じがして、懐紙や短冊に書いたときに優美さに欠ける。また、芭蕉が鳳仭の「刄」の字を嫌ったのは、基本的に風雅の道が「力を入れずして天地(あめつち)を動かす」道であり、非暴力主義を原則とするものだからであろう。仭は計るという意味で、高さ・深さの単位でもあり、決して暴力的な意味合いがあるわけではなく、あくまで字面を気にしてのことだ。

 一般に風流の道に入ろうというものは、その世界に憧れて入るのだから、始めから無風流な名前は付けないもので、殺戮だとか儲けだとか、根性・忍耐に類する名前は頼んでも付けたがらないものだ。ちなみに「こやん」は猫のこと。サインするときには「こ」の字は「古」の字を崩したほうの仮名を用いる。ワープロでも変体仮名が使えればいいのだが。

 女性の場合、千代女・捨女などに倣って、近代でも女を付ける人がいるが、これは元々句集などで女性であることを示すために付け加えたものだろう。女性の場合、俳号を持つのはたいてい尼さんで、俳号は俗名と区別するという意味で僧号に近いものと認識されてたのだろう。

 今日の作家のペンネームはネット上のハンドルネームの影響を受けて、かなり何でもありになっている。今どきの俳号はあまり漢字にこだわる必要もないのではないかと思う。

 

 

19去来曰(きょらいいはく)、俳諧の集の模様、やはり俳諧の集の内にて作すべし。

 

 「(のち)あら野集献立(こんだて)を見て、先師も()折給(をりたま)ひき。かの徒然草(つれづれぐさ)はあつめ集の部になりて、歌書の内にいらずとかや。思ふべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,59

 

 荷兮(かけい)編の『曠野後集(あらのこうしゅう)』(元禄六年刊)のことを言っているのだが、この集はほとんど勅撰集などの歌集に準じた部立(ぶたて)になっていて、後に俳諧をやめて連歌師になった荷兮の古典回帰志向が伺われる集だった。

 若い頃は新しいものを追いかけても、年取ると次第に保守的になる人は今でもよくいる。荷兮の場合も若い頃は蕉風確立期の芭蕉とともに、最先端の流行を作り出したのだが、『猿蓑(さるみの)』の風あたりから付いていけなくなり、「軽み」に至っては完全に落ちこぼれてしまったのだろう。ひとたび流行から取り残されてしまうと、今度は一転して流行に背を向け、流行を馬鹿にし、古典の風以外は何も認めなくなる。よくあることではある。

 「()折給(をりたま)ひ」というのは匙を投げるということで、新味を命とする俳諧からは、もはや置いていくしかなかった。俳諧の集は部立にも常に新しい工夫を必要とする。たとえば『猿蓑』は季節の発句の部でも春夏秋冬の順ではなく、冬夏秋春という独特な配列をしている。

 『徒然草』は当時は歌書とされていたが、編集の仕方が文を集めた随筆の体裁なので、随筆として扱われるようになったという例を挙げているが、『曠野後集』はその意味ではもはや俳諧の集とは言い難いという意味か。かといって連歌集でもないとなると、何になるのだろうか。中途半端というのは何事も良くない。

 

 

20去来曰(きょらいいはく)外題(げだい)の寸法(あり)

 

 「たては表紙の三が一をとり、横は五分が一をとるとやらん。猿みのの時先師のたまひけり。たしかに覚へずとなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,59

 

 江戸時代の日本の出版文化の発達は当時世界のどこにも類を見ないほどのもので、俳書だけでも数万種類に及ぶという。つまり、蕉門七部集のようなメジャーのものに限らず、俳諧を趣味とするものが何人か集まっての今日で言う同人誌のようなものまで、無数に俳書は作られた。

 秀吉の朝鮮出兵の時に日本に活字印刷機が入って来て、寛永の頃は活字印刷本が作られていたが、日本語は活字の数が多くて手間がかかり、ある程度の部数が見込めないと採算が取れないといった事情があったのだろう。活字本は廃れて木版本が主流になった。これは版木を彫る職人さえいれば手軽に作れ、少数の部数のものにも対応できた。そのため日本では当時の世界でも稀有な書籍のロングテール市場が誕生し、今日の薄い本(同人誌)文化に受け継がれている。

 木版本が数多く作られれば、大きさも装丁もいろいろあることになるが、やはり標準的なスタイルというのはあった。蕉門七部集は半紙本と呼ばれる半紙を半分に折った大きさのもので、縦横およそ23×16センチほどのものだった。A5版とB5版の中間ぐらいの大きさで、菊版に近い。しかし、この大きさが定着したのは、貞享・元禄の蕉風確立期であり、むしろ蕉門の俳書がその後の俳書のスタンダードになったといったほうがいいかもしれない。例えば、談林時代は発句よりも百韻が主流だったため、句を横にたくさん書き出せる横長の本(横本)流行した。
 「外題の寸法」というのは、表紙にまた四角い紙を張り合わせ、そこに本のタイトルを書く、その紙の寸法をいう。縦が表紙の三分の一だから、半紙本の場合は八センチ弱、横が表紙の五分の一だから、半紙本の場合は三センチ強ということになる。この比率は誰が決めたかは定かではない。あるいは芭蕉自身のデザインか。貞門、談林の時代の俳書のタイトルは左上に来ることが多いが、蕉門では中央の上にタイトルを持ってくる。
 今日では俳句誌をはじめ、短歌や詩の雑誌、同人誌の多くが菊版を採用しているのも、おそらく半紙本の大きさを伝統的に引き継いでいるのだろう。

 

 今日の俳句詩の原型を作ったのは、村山故郷によれば明治十三年に三森幹雄の主宰する明倫講社の発行した「明倫雑誌」だという。菊版洋綴じで、冒頭に社長の緒言、祝辞、社説、つづいて俳話、句解、雑報、俳句欄と続くスタイルは、その後の虚子の「ホトトギス」にも継承され、今に至っている。その「ホトトギス」の創刊号を見ると、タイトルが中央に縦書きで「ほととぎす」と書かれていて、ここでも蕉門の選集のスタイルが踏襲されているのがわかる。

 

 

21魯町曰(ろちゃういはく)竹植(たけうう)る日は古来より季にや。

 

 「去来曰、不覚悟(かくごせず)。先師の句にて(はじめ)見侍(みはべ)る。古来の季ならずとも、季に可然物(しかるべきもの)あらばゑらび可用(もちゆべし)。先師曰、季節の一ツもさがし(いだ)したらんは後世によき賜也(たまものなり)。と。(しほ)かきの夜も古来の季節かしらずといへども、五月晦日(さつきつごもり)なれば夏季に(さだむ)ると、可南(かな)が句に沙汰(さた)し侍る。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,60

 

 季語というのは和歌の春夏秋冬の部立を基にして慣習的に定まったもので、式目に規定があるわけではない。「時雨(しぐれ)」が冬なのは時雨を詠んだ歌が冬に分類されることが多かったからで、時雨は秋の終わりにも降る。和歌では紅葉を染める時雨は秋に分類される。連歌の時代の季語はおおむねこうした和歌の部立に準じて作られたもので、和歌の言葉で作られる以上、連歌独自の季語を作る必要はなかった。

 季語が次々と新設されるようになったのは、俳諧になって大量の俗語が入り込み、それに中世にはなかった新しい外来の植物や新しい行事習慣などを季語に付け加えていったからだ。芭蕉が「季節の一ツもさがし(いだ)したらんは後世によき賜也(たまものなり)」と言ったのは、芭蕉の時代がまさに、そうした新しい俳諧にふさわしい季語を探していた時代だったからで、これを金科玉条にして、季節感さえあれば何でもかんでも季語にしていいということではない。

 季語の問題は、今日でははるかに複雑だ。特に明治五年の新暦の採用は単に新暦を採用するというものではなく、同時に旧暦の使用を禁止するもので、これによって旧暦の一月二月三月を春とするというような、単純な原則すら失われてしまった。

 江戸時代の人にとって、いつからいつまでが春かという問題はきわめて自明なことだった。しかし、今日では誰一人としていつから春が始まったのかわからない。正月が来て「新春」という言葉を使っておきながら、正月が終わると冬真っ盛りだとか、これからが冬も本番だと言い、二月三月で暖かい日があると春みたいだと言い、春みたい春みたいと言っているうちにいつのまに初夏の日差しになっている。

 今日の俳句では大体立春立夏立秋立冬で区切って、歳旦は別扱いするのが一般的になっている。春夏秋冬をそれぞれ三つに分けて十三季などともいう。

ただ、立春の日で本当に春が始まったと実感している人もそうはいない。私の子供の頃にやった卒業式の呼掛けの文句にに「立春も過ぎ、春がもうそこまでやってきた」というのがあったが、それなら立春は一体何の日なのだろうか。明治五年の新暦採用は、日本人から季節感そのものを奪ったと言ってもいいだろう。

 今日多くの地方で、お盆は八月十五日に行われる。また、仙台の七夕祭りは八月七日に行われる。これは本来旧暦の七月十五日、七月七日の行事だが、明治政府によって旧暦の使用が禁止されたため、旧暦の七月十五日や七月七日にはできない。かといって新暦の七月十五日、七月七日にすると一ヶ月以上早い時期となり、季節感が合わない。そこで妥協案として新暦の八月十五日、八月七日になったわけだ。時期的には旧暦の七月十五日、七月七日に近く、ただ日程としてはあくまで新暦に基づいて行い、旧暦は使用していないと言い逃れできる。いわゆる月遅れの行事というのは、あちこちで広く行われている。

こうして一ヶ月ずらした行事はまだいいが、新暦にそのまま移行した行事は、季節感が一ヶ月違ってしまい、結局冬のさなかに正月をやり、春のさなかに潅仏会をやり、梅雨のさなかに七夕をやることになる。

 忌日なども江戸時代までの人は旧暦の何日ということになるが、それを新暦でやったり旧暦でやったり、月遅れでやったりすると、忌日がいくつも出来てしまう。芭蕉の命日は元禄七年十月十二日でこの日は西暦一六九四年十一月二十八日で、正確に言えば新暦十一月二十八日なのだが、旧暦のまま旧暦十月十二日にやる所があり、新暦の十月十二日にやる所もあり、月遅れで十一月十二日にやる所もあるため、時雨忌は四回あることになる。芭蕉の場合四回あっても全部一応冬だが、人によっては二つの季節に跨ることになる。

 基本的にいつからいつまでが春だとか夏だとか、誰もはっきりしたことが言えないのだから、何がいつの季節のものかは感覚的なものでしかない。そんな中で季語を決めてゆくといつのまにか「西日」や「夕焼け」が夏の季語になっていたりする。

 芭蕉は確かに「季節の一ツもさがし出したらんは後世によき賜也」とは言ったが、今のような季節感の混乱した時代に何でもかんでも季語にしてしまえということになると、かえってわけのわからないものになる。私はおおむね古典に基づきながら、実際の季節感に合わせて柔軟に用いるというのがいいように思える。芭蕉さんもここまで季語が増えることなんて予想もしてなかっただろう。

 要は季重なりを広く認めればそれでいいことで、冬の西日、秋の夕焼けとするか、あるいは西日に別の冬の季語を組み合わせたりすればその季節の西日になる。それで済むことではある。

 

 

22卯七曰(うしちいはく)、先師に二見形(ふたみがた)といふ文台侍(ぶんだいはべ)(よし)、いかがにや。

 

 「去来曰、(しか)り、史邦是(ふみくにこれ)をよく(うつ)さる。先師の指図(さしづ)、寸法を(ぢき)聞侍(ききはべ)れど(わすれ)たり。元来(もとより)文台も所持せず。その後門人写し侍る人多し。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,60

 

 文台というのは、連歌会(れんがえ)や俳諧興行などの際に、句を書き留めるために用いる机のことで、俳諧興行には欠かせぬアイテムだ。おそらくは執筆(しゅひつ)(中世の連歌では主筆(しゅひつ)江戸時代は執筆と表記されることが多い)と呼ばれる句を書き留める係りの人が使ったのだろう。

 俳諧興行は別にうんうん唸って句をひねるだけの場所ではなく、基本的には社交の場であり、談笑の場だった。そのため、興行の際、俳諧師は司会進行役で、出来た句を判定したり、指導や添削をしたりするだけでなく、適当に世間の話題に触れたりして場を和ませたり、古典の薀蓄(うんちく)を傾けたりと、絶えず興行を楽しいものにするために盛り上げ役に徹しなくてはならない。そのため、句の筆記はそれ専門の人を置く、連歌会では若者がやることが多かったようだ。

 もっとも、文台は旅に持ち歩くには大きすぎるもので、二見潟文台はおそらくは芭蕉庵に置かれた自分専用の机だったのだろう。それだけに見た人も少なく、幻の文台だったに違いない。西行が二見が浦で扇子を文台にしたという古事に基づくデザインで、二見が浦の夫婦岩の景色に扇を配し、裏には芭蕉の、

 

 うたがふな(うしを)のはなも浦の春   芭蕉

 

の句が記されているもので、今日には元禄四(一六九一)年の芭蕉の銘のある一基が出光美術館に所蔵されている。

 去来はこの文台には興味がなかったのか、持ってなかったようで、寸法も芭蕉から直々に聞いたのだが忘れたと言っている。ただ、史邦(ふみくに)を始め、門人の中にはこれを真似してそっくりなものを作る人が多かったようだ。

 

 

23去来曰(きょらいいはく)、先師曰、俳諧の書の名は、和歌詩文史録等と(たが)ひ、作者の名有(なある)べしと(なり)

 

 「されば先師名づけ(たま)ふを見るに、猿蓑(さるみの)・みなし栗・三日月日記・冬の日・(くず)の松原・(おい)小文(こぶみ)等みなその趣也(おもむきなり)。去来曰、浪化集(らふくゎしふ)の時上下を有磯海(ありそうみ)砥波山(となみやま)と号す。先師曰、みな和歌の名所なれば(まぎ)らわし、浪化集と(よぶ)べし。魯町曰(ろちゃういはく)、浪化集と、俳書の名は詩和歌史文を分つべからず。去来曰、されば、浪化、詩人ならんには詩集なるべし。俳諧者たれば見るより俳諧書といふ事明(ことあき)らけし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,60

 

 書物が木版印刷され、大量に商品として市場に流通するようになれば、商品名はきわめて重要になる。それまでの歌集・漢詩分集・史書・物語は、あくまで内容に基づくも命名のものが多く、古今和歌集は文字通り古今の和歌を集めたものであり、山家集(さんかしゅう)は山家の二字に西行法師の出家者・求道者としての性格を表現している。

 また、物語本などは当時商品として出回っていたが、タイトルは『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』『世間胸算用(せけんむなざんよう)』など、やはり内容から付いている。時には作者を越えて、たとえば江島其磧(えじまきせき)の『世間子息気質(せけんむすこかたぎ)』は明治の坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』に至るまで、一つのパターンとして受け継がれてゆく。

 俳諧の集のタイトルも芭蕉以前はこのようなものだった。談林俳諧の書のタイトルはきわめてストレートで、『談林十百韻』『宗因蚊柱(かばしら)百句』『大阪独吟集』といった調子だし、貞門の『山の井』は雅語をそのまま使ったタイトルで、俳諧らしさはない。

 これに対し、芭蕉は書のタイトルも自分の作品の一つとばかりに、俳諧らしいタイトルを次々と考案していった。たとえば『猿蓑(さるみの)』のような自分の句の「猿に小蓑を」というフレーズを略したりした。其角の『虚栗(みなしぐり)』なども和歌にはない感覚のものだった。これによって、俳書のタイトルは単にこれが俳諧の集だという説明ではなく、ネーミングにおいても作者のセンスが試されるようになったといっていいだろう。これは今日の句集・歌集・詩集のタイトルにも受け継がれている。

 そこで門人同士で選集のタイトルを批評しあうことにもなる。ここで槍玉に挙げられたのは浪化の『浪化集』だった。この集は、

 

 花ちりて二日をられぬ野原哉

 

の句を載せたことでも不評を買っていたようだ。

 この集は最初上巻を『有磯海(ありそうみ)』、下巻を『となみ山』としていたが、芭蕉がそれを聞いて、両方とも和歌の名所だから、歌集と紛らわしいので、両方合わせて『浪化集』とした方がいいということで『浪化集』になったという。

 これに対し、魯町は『浪化集』でも詩集なのか歌集なのか史書なのか文集なのか区別がつかないと言う。芭蕉のネーミングにしては浪化の集だから『浪化集』というだけで俳諧らしさがないと言いたいのか。確かにそう言われれば、わかりやすいけどそれほどオリジナリティーのあるタイトルではない。ただ、歌集なのか詩集なのか区別がつかないという点に関しては、去来の言うように、浪化が俳諧師なのだから俳諧師の浪化の集という『浪化集』は誰が見ても俳書だとわかる。

 タイトルは商品名という性格があるため、確かにあまり中身を誤解させるようなタイトルをつけると、書籍を扱う方も混乱する。ポルノに文学的なタイトルを付けられて、女子供が間違えて買っても困るというものだ。

修行教

1去来曰(きょらいいはく)、蕉門に千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句と云有(いふあり)

 

 「これを二ッに分つて教へ給へども、其基(そのもと)は一ッ(なり)、不易を知らざれば基立(もとゐた)ちがたく、流行を(わきま)へざれば(ふう)あらたならず。不易は(いにしへ)によろしく、(のち)(かな)ふ句なれば、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日(きのふ)の風今日(けふ)よろしからず、今日の風明日(あす)に用ひがたきゆへ、一時流行とは(いふ)はやる事をいふなり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,61

 

 ここからしばらくが、有名な芭蕉の不易流行説になる。不易流行説というと、俳人文学者などの説では、ついつい不易の方に重点が置かれる傾向にあるが、不易も流行も両方大事だというところが、この不易流行説の大きな特徴でもある。

 確かに、さして売れない作者や流行に疎い学者からすれば、流行なんてとんでもないと背を向けたくなる気持ちも分らないでもない。しかし、芸術の本当の感動は、思いがけない見たことも聞いたこともないようなものへの出会いによって、好奇心を刺激されたり、あるいはリアルタイムで作者と同じ時代を生きていることを感じたり、まさに自分が今その心境で共感したり、そうした要素と無関係ではない。

 むしろ、そうした今最新の芸術に触れるときこそ、最も生き生きとした感動が得られるもので、古典はむしろかつて多くの人にそういう感動を与えたというモニュメントにすぎない。

 今まさに最新の芸術で感動するその芸術のエネルギーも、古典が与える感動も、決して別のものではなく、その元は一つだ。ただ、流行のものというのは、常に実際の力以上に過大評価される傾向にある。

 つまり、流行のものというのは、必ずしも心底みんな心から感動して流行しているというわけではない。それを知らないと話題に遅れるからだとか、流行をいち早く先取りする感性を持っていると、人から尊敬されたり、異性にもてたりするとか、そういう理由で流行するかもしれないものに人はしばしば片っ端から先行投資したがるからだ。つまり、流行というのはいつでもバブル経済だ。みんなが買うと思うと、その思惑で多くの人が買いに走ってしまう。

 そして、蓋を開けてみるとそんなたいしたものでなかったといって、急速に熱が冷めてゆく。流行というのはその繰り返しといってもいい。流行は絶えずバブルとその崩壊を繰り返しながら、最終的には長く人の心を捉えて離さないだけの実力のあるものが残る。こうして長い年月生き残ったものが古典といえよう。

 J-popの場合でも、発売当初はさほど売れてなくても長く多くの人に親しまれている楽曲もあれば、その一方であれだけ一世を風靡しながらも、そういえばそんな歌もあったなとなってしまうものも多い。

 流行を馬鹿にする人間は結局流行に疎いがために、一番流行ったものしか知らない。しかも彼等が知る頃には既に流行遅れになっている。つまり結局彼等はバブルの崩壊過程しか知らない。

 そこだけ見て、流行のものはすべてくだらないと思い込むのは簡単で誰でもできることで、そんなものは何ら知性を証にはならない。本当に流行に対し鋭い感性のあるものは、一番流行ったものだけでなく、それほど売れなかったものにも自分の価値観で独自の美的判断をする。そうした独自の価値観を持った層に末長く評価され続けたとき、その作品は生き残ってゆくし、何年も経て再評価されることもある。

 芭蕉の時代の俳諧も、基本的には庶民が相手の市場の芸術であり、人気稼業という点では今のJ-popと変わりはない。そして、その芸術のレベルの高さは「通」と呼ばれる今日で言うオタク層を形成することによって維持されてきた。

 当時はまだ国家が教育事業の一環として芸術教育をすることはなく、まして教育目的に政府や政治団体の息のかかった権威者が作品を評価するようなこともなかった。いわゆる近代芸術だとか近代文学というのは、西洋流の近代国家の形成によって、国民の美的感覚を政治的にコントロールしようという発想から来たもので、むしろ動機からすれば不純なものといえよう。

 近代芸術は直接政治権力によって指導されることもあれば、逆に反体制と呼ばれる人たちに指導されることもあるが、基本的には権威を持つ批評家による統制で、権威のある者に選ばれた者だけが芸術としての資格を持つという発想に貫かれている。コンクールやコンテストを行い、賞を与えられたものがその資格を得ることになる。

 こうしたやり方はメディアの未発達な時代に、むしろメディアに権力が介入し大きな規制をかけることができ、学校教育が国民の美的感覚の形成に多くの影響力を持つことが出来たうちはうまく機能するが、今日ではメディアが政治から独立し、むしろ国境を越えたグローバル市場を形成しているため、学校教育はもはやほとんど国民の美意識をコントロールすることは出来なくなっている。

 一九六〇年代はその転換期であり、ビートルズはその象徴でもあった。それは近代芸術や近代文学の終わりであり、芸術は国家から市場の手に移ったのだ。その意味では、芭蕉の時代に戻ったといえるかもしれない。

 今や芸術はふたたび市場に戻ってきた。芸術は権威筋の政治的な思惑ではコントロールできず、そうした権威者の主宰する結社の芸術は、もはや死に体といってもいい。芸術はお上から与えられるものでも、反体制の組織の方針として押し付けられるものではなく、自由に市場で売り買いされる。それを「商業主義」と呼ぶ人もいるかもしれないが、確かにこうした芸術市場を一部の大資本だけが独占するような状況が生じれば、様々な弊害も出てくる。

 しかし、そうした負の部分も、インディーズ系のアーチストの活躍など、アーチストが独自に市場を作ろうとする努力によって緩和され、更にはインターネットの普及により市場へのマスメディアの力も低下している。大資本の独占どころか、芸術はむしろ地球規模に広まると同時に限りなく細分化している。

 今日では音楽の中心がCDなどの音源販売からがダウンロードやストリーミングの時代にうつりつつある。ネット販売だと何十万、何百万という金を投資して音源を製作し、それを全国に流通させ店舗で販売する諸経費が必要なくなり、しかも一度アップしてしまえばどれだけ売れてもいわゆる「限界費用ゼロ」だから、誰でも手軽に音楽市場に参入できるようになる。

 しかも、店舗だと陳列したり在庫したりするアイテム数は有限だが、ネットならほとんど無限の商品を揃えることができる。そのためリスナーの細分化された様々な好みに対応することができ、どんなニッチな市場にも対応できる。

 こうした時代だからこそ、不易流行説は有効になる。流行は今や猫も杓子も一つのものに群がる状態から、それぞれの細分化された嗜好に応じて、様々なジャンルの平行した流行が存在し、それが時折交叉しながら、互いに刺激しあいながら発展し始めている。流行は世界を画一化させるのではなく、世界をますます多様なものにしてゆく。しかし、いかに芸術が多様化しようと、その貫通するものは一つ、それが不易流行だ。

 近代芸術は、ただ結社の威信にかけて、芸術の不易だけを主張して、わけの分らない哲学を振り回していればそれでよかった。残念ながら芸術を哲学が支配する時代なんてとっくに終わっている。近代哲学自体が終わってしまったからだ。

 

 

2魯町曰(ろちゃういはく)、俳諧の(もとゐ)とはいかに。

 

 「去来曰、詞に言ひ難し。(およそ)吟詠する物(しな)あり、歌は基也(もとゐなり)其内(そのうち)品有(しなあ)り、はいかいも其一也(そのひとつなり)其品々(そのしなじな)をわかち知らるる時は、俳諧連歌は如斯物也(かくのごときものなり)(おのづか)ら知らるべし。それを不知(しらざる)宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭(せどう)混本(こんぽん)やら知れぬ事を云へり。是等(これら)は俳諧に逢ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。はいかいを(もつ)て文を(かか)ば俳諧文也、歌を(よま)ば俳諧歌也、身に行はば俳諧の人也、只徒(ただいたづ)ラに(ケン)を高うし(いにし)へを破り、人に(たが)うを手柄貌(てがらがほ)仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。かく(ばか)り器量自慢あらば、俳諧連歌の名目(みゃうもく)をからず、俳諧鉄砲(てっぱう)となりとも乱声(らんじゃう)と成りとも、一家の風を(たて)らるべき事也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,6162

 

 「俳諧の(もとゐ)とは何か」というのは難しい質問で、たとえば、ロックとは何かというようなものだ。

 ロックとは何かといっても、エレキギターなどを用いたバンドでエイトビートのリズムを持つ音楽、などというのは何の説明にもなっていない。アイドルグループの演奏するその手の歌謡曲はいくらでもあるし、演歌だってエイトビートで演奏されることはある。また、ロックだってシックスティーンビートの曲もあれば八六拍子の曲もあるし、もっと複雑な変拍子の曲もある。

 エレキを使わずにアンプラグドで演奏されることもあれば、バンド形態を取らないDJのサンプリングによるヒップホップも広義のロックに入る。結局はロックスピリッツを持ったものがロックだということになる。

 俳諧もそれと同じで、俳諧スピリッツを持つものが俳諧だといっていいだろう。俳諧スピリッツがあれば、歌を詠んでも俳諧歌であり、文章を書けば俳文、絵を描けば俳画となる。いわば、平和を愛し、命を尊重し、花鳥風月を楽しみ、風雅の世界に遊ぶことで、日常の生存競争のぎすぎすした雰囲気を和らげようとする心があれば、句を詠まずとも俳諧だといっていいだろう。

 人間は生き物である以上、過酷な生存競争からは逃れられないため、生きようという意志が強ければ強いほど、生きるということに真剣になればなるほど、結局は生存競争を激化させ、人生を過酷で殺伐としたものにする。これを防ぐのが「遊び」の役割で、原始的な社会にも歌や踊りがあり、祭りがあるように、「遊ぶ」ということは人類が日々を万人の万人に対する殺伐とした闘争状態から開放する唯一の手段でもあった。

 ただし、一人だけが遊んでいれば、その人は結局生存競争の敗者になってしまうし、一社会集団だけが遊んでいれば、遊ばない他の集団に負けてしまう。そこで「遊び」は実は軍縮と同じで、みんなで一斉にやらなければ意味がない。つまり遊びが社会的に価値のある行為であることを、みんなが等しく認めなければ、遊びの文化というのは廃れてゆくことになる。

 その共通の価値観は、かつては宗教的なものに支えられていたが、それが江戸時代の大衆文化の中で、宗教的権威から独立したのが俳諧スピリッツだと言っていいだろう。

 連歌(れんが)神祇(じんぎ)釈教(しゃっきょう)やあるいは述懐(しゅっかい)が重要だったのは、連歌の遊びの精神が中世の顕密(けんみつ)仏教とそれと習合した神祇信仰の権威と結びついていたからであり、神祇・釈教などのテーマが廃れたのは江戸時代の俳諧がそうした宗教的権威の衰退と、都市の文化の独立を反映しているからだといっていいだろう。俳諧でも神祇釈教の句はあるが、必ずしもそれらの徳を説くものではなく、神道や仏教に関連する言葉が入ってればそれでいいという形式的なものになった。いわば神道ネタ、仏教ネタにすぎなくなった。

 俳諧の精神は、当時の朱子学の言葉では「風雅の誠」という言葉で表されるが、特定の宗教に囚われない独立の概念という点では、言葉は違ってもその精神は不易であり、俳諧が廃れても、今日ではロックやその後のポップカルチャーにその精神は引き継がれている。

 余談だが、今日ではロックはほとんど時代遅れのものとされている。「ロックは死んだ」という言葉は既にパンクロックの流行期に生れ、ジョン・ライドン(セックス・ピストルズの時はジョニー・ロットンの名で商標登録されていた)の「ロックは死んだ、ポップミュージックは残る」の予言通りになった形だ。ロックは旧来の権威主義の芸術に対するアンチとしてシンボル化されたようなもので、権威主義の芸術そのもの(いわゆる近代芸術・現代芸術)が衰退した今となっては、それに対するアンチも意味を失くしたと言って良いのだろう。

 俳諧は近代の「俳句」と違って、本来発句だけでなく、付け句を含む俳諧連歌を指す。その意味で、漢詩や和歌や旋頭歌などとは区別される。ただし、それは狭義の俳諧であって、俳諧の心を持って漢詩を作れば、それは俳諧詩であり、俳諧の心で和歌を作れば、俳諧歌となる。逆に言えば、漢詩や和歌は俳諧の心がないから漢詩・和歌であり、何が違うかというと、それらももちろん最初は庶民のものだったのだが、結局は政治的に支配者階級の文化として簒奪されていった歴史があり、純粋な大衆の偽らざる心情の表現ではない。

 それゆえ、和歌や漢詩を引き合いに出して、もっともらしい理窟をつけている宗匠たちは、本当の意味での俳諧をわかっていないといってよい。その意味では、何やら西洋流の哲学を持ち込んで、わけのわからない理屈をこねて俳句とはかくあるべし、詩とはかくあるべしなどと言っている近代の文学者も同罪といえよう。

 「只徒(ただいたづ)ラに(ケン)を高うし(いにし)へを破り、人に(たが)うを手柄貌(てがらがほ)仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。」

 

 この言葉は今日の結社とかで文学をやっている人間に、そのまま当てはまるから面白い。ただ、今の俳句の世界ではこういった結社も高齢化して衰退の一途をたどっているが、だからといってそれに代わる大衆からの俳句の動きが出て来てるわけでもない。残念ながら、このままだと俳句は消滅することになるだろう。俳句は死んで川柳だけが残るのかもしれない。

 

 

3、魯町曰ろちゃういはく、不易の句はいかに。去来曰、不易の句は俳諧のたいにして、いまだひとつ物数寄ものずきなき句也くなり。一時の物数寄なきゆへに古今にかなへり。たとへば
   月にをさしたらばよき団哉うちはかな   宗鑑そうかん
   これは是はとばかり花のよしの山  貞室ていしつ
   秋の風伊勢の墓原猶凄なほすごし     芭蕉
是等これら類也たぐひなり。魯町曰、月を団扇うちは見立みたてたるも物ずきならずや。去来曰、賦比興ふひきょうは俳諧のみに限らず、吟詠の自然也。およそ吟にあらはるるもの、この三ッをはなるる事なし。もの数寄といふべからず。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

 

 不易流行説は二つの異なる説が合わさっている。一つは、万葉・古今・新古今の昔から現代に至るまで、様々なものが流行しながらも、その根底には普遍的なものがあるということ。もう一つは、俳諧の句の体として不易体と流行体があるという説だ。
 時代による作風の変化は「風」と呼ばれ、芭蕉の俳諧は蕉風と呼ばれる。これは一つの流行にすぎない。芭蕉の死後には風も変わり、一方には美濃派・伊勢派を経て明和・天明期の蕪村による蕉風復古期があり、一方には川柳へと続いてゆくもう一つの流れがあった。さらに近代に入ればホトトギス調もあれば、自由率俳句の流行もあり、象徴詩の影響を受けた前衛俳句もあった。
 これらは皆「風」であって、体ではない。「体」というのは、あくまで蕉門俳諧の中に二つの体があるということで、それぞれの時代のそれぞれの風にも、その時代独自のいくつかの体はある。
 不易体と流行体の区別というのは、芭蕉が昔から今に至るまで風が変わってゆく中で、変わらない根本があることを発見し、その根本を特に新たな流行の体を用いずに表現したものを不易体と呼び、普通にその時代の流行に乗って作るものを流行体と呼んだにすぎない。
 つまり、新しいものを求める「数寄」の心のないものを不易体というにすぎず、流行体だからといって、不易の根本をないがしろにしても良いというものではない。
 不易体の例として、後の二つはわかりやすい。貞室の句は花の吉野山の声も出ないほどの美しさを特に目新しい題材もなしに表現している。これに対し、

 花に酔えり袴着て刀さす女   芭蕉

という天和てんな期の句は、その時代の風俗を添えて、花見の賑わいを表現している。これは「数寄すき」といえよう。「秋の風」の句も、秋風に伊勢の墓原の寂しげな様子を描いただけで、これといって芭蕉の時代ならではの新しい題材はない。
 宗鑑の

 月にをさしたらばよき団哉うちはかな

の句だが、月に柄をさして団扇にしてしまうという発想はいかにも突飛で、これは数寄ではないかと魯町は言う。これに対して、この種の比喩は詩歌には常にあるもので数寄とはいえない、と答えている。
 きょうというのは『詩経』大序にある詩の六義のうち、詩の手法に関わる三つで、賦は直接対象に捧げるように歌い上げる体、「〇〇賦」というタイトルがついたりする。
 比というのは物にたとえて言う体。興というのは別のものを比喩として借りながら言い興してゆく体を言う。この場合は夏の夕方の月の涼しさを団扇に例える、比といえよう。
 ちなみに興というのは、たとえば、

 桃之夭夭 灼灼其華
 之子于帰 宜其室家

 桃の夭夭ようようたる
 灼灼たる其の華
 之の子とつ
 其の室家に宜しからん
         詩経『桃夭』より

のように、桃の花に女の美しさを暗示させながら、娘が嫁ぐ話に言い興してゆく手法で、J-popの歌詞などにもしばしば見られる。
 大事なのは、宗鑑の時代にこの風が新しかったかどうかではない。あくまで蕉門の体として、このようなものを不易の体と呼んでいるだけで、貞室の句でも「これはこれは」が当時新しかったかどうかの問題ではない。ここではそのような歴史意識で引き合いに出されているのではなく、あくまで、当時の蕉門において不易の体の句を作るとすれば、このようなものが手本となるといっているにすぎない。
 近代でもたとえば俵万智の和歌で

 行く川の流れを何にたとえても
    たとえきれない水底の石

のような歌は蕉門の不易体的な発想で作られた歌といっていいだろう。

 

4、魯町曰ろちゃういはく、流行の句はいかに。去来曰、流行の句はおのれに一ツの物数寄有ものすきあり時行也はやるなり。形容衣裳器物に至るまで、時々のはやりあるがごとし。 たとへば
   むすやうに夏のこしきの暑哉あつさかな
この句体ひさしく流行す。
   あれは松にてこそさふらへ枝の雪   松下しゃうか
   海老肥えびこえ野老痩ところやせたるも友ならん  常矩つねのり
あるいは手をこめ、あるいは歌書のことばづかひ、またうたひことばとりなどを物ずきしたる有り。是等これら一時に流行しはべれど今は取りあぐる人なし。魯町曰、むすやうに夏のこしきといふはえんにあらずや。去来曰、縁は歌の一事にして物数寄には非ず。手をこむると縁とは変り有り。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

 

 流行の句は不易体の句と逆で、目新しさを求める「数寄すき」の心を持った句で、このことは決して否定すべきものではない。「修行教」の冒頭にも「流行をわきまへざればふうあらたならず」とあり、去来の『不玉宛論書ふぎょくあてろんしょ』にも、

 「俳諧ニ千歳不易ノ姿あり、一時流行ノ姿あり。我師これヲ両端ニ分テ教ヘ、シカモその血脈貫通ス。貫通スルハ共ニ実地ニたてなり。不易ノ姿ヲシラサルノ時ハ其本行そのもとおこなひカタシ。流行ノ姿ヲシラサル時ハ佚シテ不動うごかず。物ウコカサルトキハ変セス。変セサル時ハ新ナラス。この道ハ心辞トモニ新ミヲ以テ命トス。これ流行ノ句ノおこなはるル、所以ゆえんナリ。ク流行スルトキハ活々然トシテ萬歳ヲ経テ新ナリ。久シク留ル時ハコリ濁テヲモシ。今ノ軽ヲ用ルハ当時ノ流行ニシテ、往時ノ 変風ナリ。此ヲ察シタマヘ。」

とあるように、俳諧は新味を以って命とするものであり、それゆえ俳諧は数寄の道と言ってもいい。不易の本さえ見失わないなら、どんどん新しい題材や新しい趣向、新しい表現方法、新しい文体にチャレンジしてゆくべきである。
 ただし、「新しさ」はあくまで相対的なものであり、より新しいものが現れれば、さっきまで新しかったものもすぐに古くなる。モデルチェンジした新型車が発売されれば、それまであった車が旧型になるのと同じ理窟だ。古いものも、新しいものが出たから相対的に古いというだけで、古いものが劣っているというわけでもない。逆にあまり古すぎてみんなが忘れているものは、かえって新鮮だったりもする。
 最初から意図して不易体の句として作られた句を別にすれば、ほとんどの作品は、その出た当初は新しく、モーツアルトやベートーベンの交響曲も出来た当初は新曲だし、雅楽の『越天楽えてんらく』も作曲された当初は立派な新曲だった。ただ、当時は他にもたくさんの新曲が作曲されていたが、その中で長年の時を経て生き残ったから不易と言われるだけで、生き残れなかったものは結局一時の流行だったということになる。それゆえ、流行体の句が流行体と呼ばれるのは、残れなかったからにすぎない。

 むすやうに夏のこしきの暑哉あつさかな

 この句はある時点では新しかったのだろうし、それが『去来抄』の時代には古臭い句の代表みたいになってしまったのだろう。ただ、今古いかどうかというと、『去来抄』の頃の、いわば芭蕉の死後の蕉門の句自体が、ほとんど大衆的には忘れられているので、どちらが古いかなんてことはほとんど言えなくなっている。「手を込めた」句というのは元禄四(一六九一)年刊行の『当流 増補番匠童ばんじょうわらわ』を見る限りでは、決して否定的なものではなかった。そこには「手をこめたる発句」の例として、

 駕籠かごかりて淡路にのらん塩干哉   如泉
 雪の里男かぜよむ夕べ哉   和及
 稲妻や二本迄よむ小松原   和及
 蝶咲て昼顔ねむる垣根哉

の四句が掲載されている。これとは別に「有体ありていにいひて、をのづから風情ふぜいおもしろき発句」の例として、芭蕉の古池の句が引用されているが、「此類このたぐひは、上手名人の上にも、すくなし。此格初心のうちに好むべからず。よき句はまれなり」と言い、「手をこめたる発句」や「景気を見立てたる発句」を手本にするように説いている。
 これはもちろん蕉門ではなく、他門の書だが、ただ一時期「手をこめたる発句」が好まれ、盛んに作られていたことは確かだろう。確かに、芭蕉の古池の句は貞門談林の技法を十分に極めた上で、自然に自ずから出来たような句だから、初心者がいきなり真似しても古池の句のような名句が出来るわけではない。古池の句はむしろ『荘子』の包丁解牛ほうていかいぎゅうのようなもので、技術を極めたゆえの自然だといえよう。その意味では初心者はまず基本的な技法をきちんと学ぶべきというのは、今日でも理にかなっているかもしれない。それは近代写生説の下に作られた何十万という句が今どうなっているかを見てもわかるだろう。

 むすやうに夏のこしきの暑哉あつさかな

 この句は「蒸すような暑さ」という慣用句と夏のこしきは本当に米を蒸すのに使っていることを掛けたもので、物が蒸し器だけに本当に蒸すように暑い、というわけで、この種の技法は誰の目にもわかりやすい。ただ、わかってしまえばそれ以上の深みもないということで、一時流行っても、すぐに古くなってしまったのだろう。

 あれは松にてこそさふらへ枝の雪   松下しゃうか

これは歌書などにありがちな言い回しを句に取り入れたもので、

 海老肥えびこえ野老痩ところやせたるも友ならん  常矩つねのり

は謡曲の調子を取り入れたものだというが、この種の言葉遊びは延宝えんぽう後期に流行し、それはまさに芭蕉もまたこの種の句をたくさん作っていた時代だった。これまでは雅語という八代集などの古歌の言葉を共通語とすることで、広く大勢の人の伝達可能な言葉を作ってきたが、俳諧が庶民の手に移ったとき、広く大衆に通じる言葉だったら謡曲の言葉や漢文書き下し文の言葉や台本なんかの言葉でもいいじゃないかということになり、様々な可能性を試そうとした。
 「蒸すように」の慣用句も「あれは松にてこそさふらへ」といった歌書の解説にありがちな文句も、謡曲の調子も、こうした一つの実験だった。
 そして、こうした古い貞門の俳風を一掃するようなムーブメントが起ったことで、貞門ていもん俳諧が一気に時代遅れになり、やがて来る蕉門の時代への道を開いたとも言える。この種の流行がなかったなら、蕉門俳諧も生まれていなかったかもしれない。
 「むすように」の句は伝統的な縁語で、特に新しいものではないのではないかと魯町ろちょうは指摘している。縁語というのはたとえば「鈴鹿山」を枕にして「いかになりゆく」を導き出す手法で、これも新古今の時代の流行といえば流行だろう。それまでの序詞じょことばは「泉川」に「いつ見きとてか」と同音で導き出すことが多かったが、同音ではなく、連想の働く言葉で導き出すことが当時としては新しかった。それに比べて、「むすように」の上五は単に「甑」を導き出すために用いられているのではなく、それよりははるかに複雑な働きをしている。その点では、確かに縁語よりは新しい。
 不易体のところで俵万智の和歌を例に出したが、俵万智も

 「この味がいいね」と君が言ったから
    七月六日はサラダ記念日

の歌のヒットがなければ、いかに不易体の歌を詠んだところで誰も見向きもしなかっただろう。この歌は本当は煮物を作ったというエピソードも伝わっているが、「サラダ」の響きがイルカの『サラダの国から来た娘』(一九七八)の俤を引いてなければ、さして人の心を捉えることもなかっただろう。
 更に言えば、サラダの若くて瑞々しい感性に通じる含みを持たせたのは、長田 弘の『サラダの日々』(一九七六)に遡れるかもしれない。
 昔の言葉で言えば、半分口語体であったことと「サラダ」が物数寄だったということか。

 

5、魯町曰ろちゃういはく、不易流行其基一そのもとひとツとはいかに。去来曰、此事弁このことべんがたし。あらまし人体じんていにたとへていはば、まづ不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰ざぐゎぎゃうぢゅうくっしんふくぎゃうの形同じからざるが如し。一時一時の変風是也これなりその姿は時にかはるといへども、無為も有為もトは同じ人なり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,63)

 

 これは不易体と流行体のもといという意味ではなく、古代よりの様々な変風に対して、普遍的な基とは何かという問題であり、不易体・流行体の基はこの次に出てくるが、基本的には和歌の体にある。この二つを混同しないように注意しよう。
 ここでいう人体への例えは、実は朱子学しゅしがく未発みはつの性と既発きはつの気との違いを説明する例だということには注意しておく必要がある。
 朱子学というと理と気の二元論と言われているが、「理」は「性」とも言われ、同じものとされている。道家では「道」という。「理」も訓読みは「みち」だ。
 「気」は今日の気孔術で言うような気の概念とは異なり、むしろ宋の時代の学問では実在する物質界全体を指し、すべての存在は気の精粗により成り立ち、気が精であれば気体となり、気が粗くて沈殿し、固まったものが固体とされていた。
 これに対し、気の背後で働いている隠された物の本性を「性」あるいは「理」と呼んでいた。朱子学はそれゆえ、形而下の物質的な気の学に対し、性理の学と呼ばれていた。この性と気の関係は、未発・既発によるもので、性が何もせず動かないときは性のままで、動いたときに様々な気となって姿を現すとされていた。
 これを俳諧に当てはめるなら、様々な風体の変化は本然の性がさまざまな形を取って現れるためであり、形に表れなければわれわれはそれを見ることも知ることも出来ない。(陽明学では内省的な方法で直観的に見ることができるとするが、朱子学ではあくまで形になったものを頼りに格物窮理かくぶつきゅうりすることによって知ることができるとする。)
 不易は未発であり、それ自身としては姿を現さない。流行のみが見ることができる。それゆえ、不易流行の基とは姿を現さない性理そのものであり、容易に言葉には表せない。それが人の心として潜むときは、朱子学では「まこと」とも言う。
 「風雅の誠」とは土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に見られる言葉だが、不易流行の基は「風雅の誠」だといっても間違いではない。

 

6、魯町曰ろちゃういはく、風を変ずるにはその人有りとはいかに。去来曰、もとゐを知らずして末を変ずる時は、あるいは変風、その変風俳諧をはなれ、あるいははなれずといへどもつたなし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,63)

 

 不易の心、つまり風雅の誠を知らなければ、新風を起こそうとしても、たいていは一時の流行に終わる。本当に新しいことをしようというのであれば、普遍的な部分をしっかり押さえた上で、風体を変えなくてはならない。だから、えてして大きな革新というのは復古の形を取る。

 

7、魯町曰ろちゃういはくもとゐよりいづると不出いでざる風はいかに。去来曰、基をしらずしてはときがたからん。まづあらはに知るもの、一二をあげて物語すべし。たとへば先師の風といへども、
   貞固ていこが松けさ門にありどもきほひ
   瀧有たきあり蓮の葉にしばらく雨をいだきしか   素堂
是等これらは詩か語か。文字数不合もじかずあはざるのみにあらず。又合またあひたるにも
   散る花にたたらうらめし暮の声    幽山
これ謎句也なぞくなり。魯町曰、俳諧歌に謎の体も有事あることにや。去来曰、是等は皆はいかい歌の体よりは不出いでず、察し見らるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,63~64)

 

 「歌は基也もとゐなり其内そのうち品有しなあり、はいかいも其一也そのひとつなり」と先にもあったように、俳諧の体は和歌を基とし、和歌から派生したものの一つである。和歌を上句下句に分けて詠んだものが連歌で、それを俗語で行うものが俳諧となる。それゆえ、俳諧の体は俗語を用いるとはいえ、基本的に和歌の上句に準じる。
 延宝後期に、新奇な物を求める京の信徳、江戸の信章(後の素堂)・其角・杉風、それに桃青(後の芭蕉)らは、和歌の体にこだわらず、実に様々な新しい体を試みた。ここに例示されている二句もその頃のものだし、そのほかにも、特に延宝九(一六八一)年の信徳らの『俳諧七百五十韻』二句をついで作り千句を完成させた『俳諧次韻』は圧巻だ。

    又かさねての春もあるべく
 鷺の足雉脛きじはぎ長く継添つぎそへて   桃青

に始まり、それに其角が

    鷺の足雉脛きじはぎ長く継添つぎそへ
 この_句以テ荘_子ヲ見矣   其角

続ける。こうした漢文風だけではなく、

    とりあへず狂歌つかまつる月
         秋の末つかた嵯峨野をとをり侍りて   拐水

のような狂歌の詞書の体、

    摩訶まか右衛門苦奈国くのないこくに生ル
 愛ヲすて子ヲすて毗盧遮阿毗羅咮びるしゃあびらうん   桃青

のような呪文のようなもの、

    ねたしやうへ御若衆みわかしゅの様
 頭巾づきんかづきさげて。夜の雪踏せったの忍ぶ音   探丸

これは芝居のト書きか。

    ふかくふか龍頭りゅうとうの国
 俗のいふ鹿嶋の海の底なるや   其角

これは注釈の書体か。これらは基を出た体といえよう。

 また、去来は

 散る花にたたらうらめし暮の声    幽山

のような謎句も、和歌から出た本来の俳諧の文体ではあるものの、謎句は本来の俳諧の体ではないとしている。
 この句は花の散る夕暮ににたたらの鉄を打つ音が聞こえてくるのが恨めしいという句で、文法的にも特におかしなところはない。意味がよくわからないという点を除けば普通の発句に見える。もちろん、何らかの解釈は可能だ。この句の主人公はたまたま何かたたらに嫌な思い出でもあるのか。理解不能の句でもない。言いおうせぬ句といえば言いおうせぬ句にも見える。しかし、それは結局ただ「ありうる」というだけで、特に何か意味があるかというと意味はなさそうでもある。
 魯町は古今集の俳諧歌にも謎の句はあるから、これは基を出でざる句ではないかと言う。しかし、俳諧歌はすぐに答のわかるような謎ばかりで、明らかに謎の質はちがう。たとえば、

 唐土もろこしの吉野の山にこもるとも
    おくれんと思ふわれならなくに
                     左のおほいまうちぎみ
にしても、「唐土の吉野」は吉野が常世(神仙郷)であることを思えば、中国のどこか山深くの仙人の住むような所の例えであることはわかる。古歌のスタイルを離れ、新しく創作されたスタイルはいずれも去来からすれば基を出る句だったのだろう。
 実験的なスタイルというと、近代俳句にもいろいろあった。その先駆けは子規の弟子の河東碧梧桐だろう。
 実験的なスタイルというと、近代俳句にもいろいろあった。その先駆けは子規の弟子の河東碧梧桐かわひがしへきごどうだろう。明治四十二(一九〇九)年ごろから、碧梧桐は天和の破調に匹敵するような破調句を多く詠むようになる。

 蔭に女性あり延び延びのこと枯柳   碧梧桐
 雲を叱る神あらん冬日夕磨ぎに    同

 そして、大正四(一九一五)年ごろから荻原井泉水や大須賀乙字らとともに自由率俳句の実験を始める。井泉水の『層雲』からはあの有名な種田山頭火や尾崎放哉も出ている。

 林檎をつまみ云ひ尽してもくりかへさねばならぬ   碧梧桐
 力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝   井泉水
 うしろすがたのしぐれてゆくか   山頭火
 咳をしても一人   放哉

 このあと、さらに昭和四(一九二九)年ごろから碧梧桐はルビ俳句を試みる。

 明日マタ雪になるや西空ソラヒトツを見かけて出る   碧梧桐
 老妻若やぐと見るゆふべの金婚式コト話頭カタりつぐ   同

 表記の実験というと、戦後の高柳重信も忘れてはならない。重信の場合は行分けが特徴になる。

 吹き沈む
 野分の
     谷の
 耳さとき蛇
        重信

 降る雪の
 かなた
   蝋燭の
     輪の
     舞踏
      靴
        同

 こうした表記法は伝統的な和歌の散らし書きにも似ている。おそらくジャポニズムの影響を強く受けたマラルメが、和歌の散らし書きをヒントに書いた『骰子一擲』の逆輸入だろう。
 この種の言葉遊びは普遍的なものであり、いわば言葉遊びは人間の思考が言語に拘束されないという自由の表現といってもいいだろう。
 サピア=ウォーフの仮説のような言語決定論(言語が思考を決定するという考え方)は、ニーチェの「言語という牢獄の中で思考することを拒否するとすれば、思考をやめなくてはならない」やヴィトゲンシュタインの「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という言葉は、近代国家がそれぞれの国の標準語を定め、教育行政を通じて国民に同一の規範言語を喋ることを強制してきた結果であり、本来人間は新しい思考を表現するために、常に新しい言葉を創造してきた。新しい用語や新しい概念を作ってはいけないなら、科学そのものが成立し得なかったであろう。
 明治の言文一致運動は決して話し言葉をそのまま文字にするということではなく、あくまでより口語に近い標準文体の創出であり、それは常に標準語制定の動きとリンクしてきた。それゆえ、文学者は標準語の管理者であり、標準語の警察官の役割を担わされてきた。今日の文学者の多くも、巷で生じた日本語の変化に対し、常に保守的な態度を取る傾向にある。
 そうした文学者達が古典文学に見られるような様々な言葉遊びをことごとく排除しようとしてきた歴史は消すことができないし、それが今でも連歌・俳諧の研究の足かせになっている。
 つまり、それらの言葉遊びについてはことごとく黙殺し、ただ写生説に合致する部分だけを断片的にしか語ることができなかった。しかし、そんな中に言葉遊びをする抜け道が一つだけあった。つまり、西洋崇拝の日本の教育行政の中で、西洋文学に前例のある言葉遊びは例外とみなされてきた。つまり、近代文学における前衛的な実験の多くは、西洋に前例のある範囲内で行われているに過ぎなかった。そこに最初から限界があった。その意味では前衛文学と称する人たちよりも、筒井康隆のほうがはるかに多くの実験を行った真の前衛小説家だった。
 蕉門では、手法における様々な実験や時代によるスタイルの変遷は、基本的に流行とみなし、あくまで表現されているところのもの、いわば風雅の誠を不易とする。ただ、不易体・流行体という場合は、古典的な、特に新味のないスタイルを不易体とし、さまざまな新たな工夫を凝らしたものは流行体となる。
 不易体の効果は、ひとつには大衆的にわかりやすくするということでもある。奇抜な実験的なものは、最先端の感性を持つものにとっては刺激的だが、大多数の人にとっては、しばしばどこが良いのかわからず、「これって本当に俳句なの?」になってしまう。
 五七五の形式性と季語の使用、なだらかな言葉の使用は、俳句を誰にとってもわかりやすいものにする。大衆的にそうしたわかりやすい俳句のイメージが普及しているからこそ、実験的な俳句も「俳句」だと認識される。
 その意味では、不易の基(もとゐ)というのは、内容的には人間の普遍的な感情や美意識に根ざしたものであり、形式的には世間のイメージとして定着しているわかりやすさだといえよう。

 

8、魯町曰ろちゃういはく、先師ももとゐより不出いでざるはべるにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。この行脚の内に工夫くふうたまふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやなかぶとの下のきりぎりすとふ句あり。後にあなの二字をすてられたり。これのみにあらず、異体の句どもはぶき捨給すてたまふ多し。この年の冬はじめて、不易流行の教を説給ときたまへり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64)

 

 天和の頃は、

 ひげ風ヲふき暮秋歎ぼしゅうたんズルハガ子ゾ   芭蕉
 櫓の声波ヲうつてはらわた氷ル夜やなみだ   同

といった漢詩文長の破調句を詠んでいた芭蕉は、貞享元(一六八四)年から二(一六八五)年にかけての『野ざらし紀行』の旅でも、しばしば破調の句を詠んでいる。

 猿を聞人捨子きくひとすてごに秋の風いかに   芭蕉
 みそか月なし千とせの杉をだくあらし   同

 こうした破調句は、貞享二(一六八五)年の暮れの、

 めでたき人のかずにもいらむ老のくれ   芭蕉

あたりから急速に影を潜め、翌貞享三(一六八六)年春にはあの古池の句を発表し、天和調(虚栗調)に変わる新しい蕉風の確立をアピールした。とはいえ、破調というほどではないが異体の句は時折あった。

 湖水はれ比叡ひえふりのこす五月哉   芭蕉
 初真桑四はつまくはよつにやわらン輪にきらン   同
 残暑しばし手毎てごとれう瓜茄子うりなすび   同

そして、

 あなむざんやなかぶとの下のきりぎりす   芭蕉

の句も、その延長線で詠まれたのだろう。
 おそらく、不易流行の発想は、もっと前からあったのだろう。貞門の不易と談林の流行をともに学んできた芭蕉は、貞門のような格調高さと談林のように新味にあふれるリアルで刺激的な世界とを融合できないか、常に模索してきたに違いない。古池の句の着想も各務支考によれば天和の終わり頃に既にあったというし、『野ざらし紀行』旅立ち直前の

 松風の落葉か水の音涼し   芭蕉
 わが宿は四角な影を窓の月   同

のような、後の蕉風確立期に先行するような句を詠んでいた。不易流行説はある日突然閃いたというよりは、天和の終わり頃から徐々に作られ、『奥の細道』の旅の終わったあと、固まったと見たほうがいいだろう。
 「不易流行」だとか、「風雅の誠」だとかいう言葉は、当時国教とされていた朱子学の匂いの強い言葉で、このあたりには『奥の細道』をともに旅した曾良の影響が十分考えられる。曾良は岩波庄右衛門ともいい、吉川惟足きつかわこれたるの門で、神道を学んでいる。
 江戸時代はそれまでの本地垂迹説に基く神仏混淆の両部神道に代わり、朱子学を取り入れ仏教を排斥する新しい神道が生じた時代でもあった。林羅山の「理当知心りとうちしん神道」、そして、中世の伊勢で細々と行われていた唯一神道(吉田神道)と朱子学を融合した吉川惟足の「吉川神道」、そして、その吉川惟足の門下生で朱子学者の山崎闇斎あんさいが開いた「垂加すいか神道」、などがそれだ。
 曾良もまたこうした最新の神道と、それに付随して朱子学の知識も身につけていたのだろう。半年に及ぶ旅の途中で、芭蕉も朱子学の基本を学び、それがそれまでおぼろげだった不易流行説を、よりはっきりとした形あるものにした可能性は十分にある。

 

9、魯町曰ろちゃういはく、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたるなり。しかれども俳諧の先達是せんだつこれをいふ人なし。長頭丸已来ちゃうづまるいらい手をこむる一体久しく流行し、角樽つのだるやかたぶけのまうしの年、花に水あけてさかせよ天龍寺、と云迄いふまで吟じたり。世の人俳諧は如此かくのごときものとのみ心得つめれば、其風そのふうを変ずる事をしらず。宗因そういん一度ひとたびそのこりかたまりたるを打破うちやぶたまひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教このをしへなし。しかりしよりこのかた、都鄙とひの宗匠たち古風を不用もちひず一旦流々いったんりうりうを起せりといへども、又其風またそのふうを長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付みつけ、不易の句をたてまた風は時々へんある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳のよだれをねぶるべし。宗因はこの道の中興開山也かいざんなりといへり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

 

 不易流行の発想自体は古くから東アジアの風土に根ざしたもので、たとえば『易経』にはこういう一節がある。

 「天地の道は、恒久にしてまざるなり。…略…日月は天を得てひさしく照らし、四時は変化して能く久しくし、聖人はその道に久しく天下化成す。そのつねとするところをて天地万物の情見るべし。(天地之道、恒久而不已也。…略…日月得天能久照、四時変化能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。)」『易経』「雷風恒」

 古代中国の文明は天地を生きたものとして捉え、絶えず変化する自然現象の中に変らない普遍的な道を求めた。それは西洋的な科学法則のようなものではなく、むしろ天地が情を持つものとして捉え、それを共感的に認識しようとした。季節(四時)の変化を生きとし生けるものの生命の循環に重ね合わし、春に生命の生じるのを喜び、秋に死ぬのを悲しむ。それは、芭蕉のみならず東アジアの詩の根底に常にある考え方だった。
 この考え方は、やがて朱子学によって理と気の二元論へと集大成された。変化してやまない日々の現象は「気」であり、その根底にある天地の道は「理」と呼ばれた。『中庸』に「誠は天の道なり」とあるように、「理」は同時に「誠」でもある。特に幕府が国教とした林羅山の朱子学は「誠」を重視するものだった。土芳編の『三冊子』の、

 「師の風雅に萬代不易有。一時の変化あり。この二ッに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。」

もそうした朱子学思想による。
 芭蕉自身は「誠」という朱子学的な言葉より、老荘的な「造化ぞうくゎ」という言葉の方を好んだのかもしれない。
 『笈の小文』の次の一文は、数少ない芭蕉自身が語る不易流行説といえよう。

 「西行の和歌における、宗祇そうぎの連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道そのくゎんだうする物はいつなり。しかも風雅におけるもの、造化ぞうくゎにしたがひて四時しいじを友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。かたち花にあらざる時は夷狄いてきにひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄いてきいで、鳥獣を離れて、造化ぞうくゎにしたがひ造化ぞうくゎにかへれとなり。」『笈の小文』

 芭蕉の不易流行説は『易経』や朱子学の説のような、変化してやまぬ自然の流行に対して、その根底にある命の普遍性を説くだけでなく、様々な芸術の時代による風体や様式の変化にも拡大するところに大きな特徴がある。この考え方は『詩経』の変風変雅の思想との接合によるものだろう。西行、宗祇、雪舟、利休に貫通するものは、四時の変化に貫通するものとも一つである。

 「詩は志すところのものである。心にあるのを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。…略…為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。
 (詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。…略…上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。)」『詩経』「大序」

 変化するのは天地だけでなく、人の心も変化する。そのため、時代によって詩の作風は変ってくる。芭蕉は、こうした詩風の変化のなかにも不易のものを読み取ろうとした。
 その根底には儒教・仏教・老荘・神道もその根底は一つという当時の一般的な考え方があり、また実際に旅をし、いろいろな地方独自の文化に接しながらも人間は皆同じだという確信があったのだろう。直接的には、貞徳門の古めかしい俳諧に対し、宗因が現代的な風俗をリアルに描きだす新しい俳諧(談林俳諧)を開いたことに、まだ江戸に出てきたばかりの芭蕉がすっかり感化された、その時の経験によるもので、旅に生き旅に死んだ一所不住の生き方も宗因の影響である可能性が大きい。
 去来が、「不易流行は万事にわたる也」と言うのは、それが朱子学に基づく天地の本質であるからであり、ただそれを俳諧に応用したのは芭蕉が初めてだと言う。
 松永貞徳(長頭丸)が起こした俳諧も、複雑な言葉遊びを駆使した「手をこめた」スタイルで一世を風靡したが、世の人はただ俳諧というのはこういうものだと思うだけで、俳諧が時代とともに変わるということを知らなかった。
 宗因は庶民の生活をリアルに描き出して、またひとしきり流行を生み出したが、宗因にも不易流行の教えはなく、宗因の後継者達はやはり俳諧はこういうものだとばかりに、自分の一度習得した風体を後生大事に守るだけだった。
 芭蕉が始めて風体は時代とともに変わることを見抜き、一つのスタイルを確立してもそれに安住することなく、常により新しい風体を追い求める必要があることを悟ったという。
 これは今日でも多くのアーチストに当てはまることだろう。ひとたび功なり名を成し遂げると、人間はついつい守りに入る。
 もっとも、結局人間は年とともに頭が固くなるため、本当のところ単に生理的に変化について行けなくなってしまうだけなのかもしれない。頭が固くなるのは凡人に限ったことではなく、アインシュタインのような天才でさえも結局最後まで量子力学を認めることができなかった。ピカソもキュービズムの時代までは新しかったが、それ以降は急速に保守的になり、ついに抽象画に手を染めることはなかった。
 年取っても時代の変化に対応できるというのは、個々の努力を超えた資質によるのかもしれない。去来もまた、惟然の風にはついて行けなかったし、結局生涯芭蕉の風を守るだけで、自ら新風を起こすこともなかった。
 去来に限らず、その後の江戸の俳諧師たちは、蕪村・一茶を含めても、本当の意味での新風を起こすことはできず、次の新風は正岡子規の写生俳句の登場を待たなくてはならなかったと言ってもいいのかもしれない。
 皮肉なことに不易流行を説いた芭蕉の風はあまりにも完成度が高く、誰も越えられなかったがために、結果的に世人はみな俳諧とはこのようなものだと思い、芭蕉の後に新風を起こせなくなってしまったのだ。
 そして、正岡子規が近代俳句を起こすと、今度は「俳句」と言うのは写生に始まり写生に終わるものだと思い、いまだにそれを越えられなくなっている。

 

10、丈草曰ぢゃうさういはく、不易の句も、当時その体を好みてはやらば、これもまた流行の句といふべし。先師遷化せんげの時、正秀まさひで曰、これよりさだめて変風あらん。その風好みなし。ただ不易の句をたのしまん。去来曰、蕉門に不易流行の説々有り。あるいは今日の一句一句の上をいふ説あり。これも流行にあらずとがたし。しかれども不易流行のをしへいふは、俳諧の本体一時一時の変風の事也ことなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,65)

 

 不易の句もそれが登場したときには流行だったなら流行の句だという丈草の説には、確かに一理ある。芭蕉の古池の句も、各務支考かがみしこうは不易の句の典型としたが、貞享三(一六八六)年に発表されて以来一大ブームを巻き起こしたという点では流行の句でもあった。ベートーベンやモーツアルトだって、登場したときには最新流行の音楽だったし、ビートルズやストーンズも今となっては不易と言えよう。
 正秀は芭蕉が死んだとき、この先風体が変化しても新風には興味ないから、これからは不易の句だけを楽しむことにしようと言ったが、ある意味でこれは多くの蕉門俳諧師の本音だったかもしれない。誰もがそうそう新風を起こせるわけではない。芭蕉はその意味では特別だったのかもしれない。
 もちろん時代も確かにあったと思う。延宝から元禄に至る時期というのは、江戸と上方にかつてなかったような巨大都市が出現し、しかもたくさんの商人の行き来や庶民のお伊勢参りなどの旅の普及、それに参勤交代による人の移動などで、都市の言語が日本中に広まり、今までかつてない言語空間を形成したことが、俳諧のような言語表現の文化に画期的な変化を引き起こした。芭蕉はその時代を最もよく体現したといっていい。
 そしてそれに匹敵する言語の変化は、明治の近代化による標準語の制定までなかった。そして正岡子規の俳句革新はその明治の標準語運動の中で起きた事件だった。
 去来も基本的には変風を拒否した。不易流行の説自体が単なる流行といえなくもない、として、結局は蕉風が不易の体であり、それとは別にその時その時の流行の体が生じるかのようにごまかしている。
 芭蕉が去来を西の俳諧奉行と呼んだのは、そのあたりの去来の性質がわかっていたからかもしれない。東の俳諧奉行の杉風と西の俳諧奉行の去来は、芭蕉の生きている間は芭蕉の変風についていった。その点では其角や荷兮とは違っていたが、芭蕉亡き後は結局自分で新風を切り開くだけの力はなく、ただ師の風体を守るだけだった。
 それが去来の限界でもあり、明治初期にまで至る、いわゆる近代俳人が「旧派」と呼ぶ俳諧師たちの限界でもあった。

 

11、去来曰きょらいいはく、俳諧を修行せんとおもはば、むかしより時代時代の風、宗匠宗匠の体をよく考へ知りつくすべし。これを知る時は。新古おのづからわかれ来るものなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,65~66)

 

 俳諧の修行に、その歴史を学ぶことの重要性を説いている。時代による作風が変化していることを知れば、今の風もいつまでも続くものではないことがわかるし、今は新しいものもいつかは時代遅れになることもわかる。そのような中で、何が変わらなかったかを見つけ出せれば、不易の心も学べる。
 『論語』 に「古きをたずねて新しきを知る」という言葉もあり、様々に解釈されているが、芸術作品の作風において、常のものはないのだが、たいていの場合古いものを常のものと思い、それを守ろうとすることばかりを考えてしまうものだ。
 大事なのは古典の中で、何が不易で何が当時の流行かを見極めることで、古いものを何でもかんでも真似すればいいというものではない。もちろん、古いものを何でもかんでも時代遅れと思うべきでもない。何が古くて、何が今でも通用するか、見極めることが重要なのである。
 古物の鑑定士になろうとする人も、まずとにかく機会あれば本物を見ろという。本物の良さがわかっていれば、おのずと似せ物のどこが悪いかはわかるが、似せ物をいくら見ても、本物の良さはわからない。
 古典を学ぶこともそれと同じで、古典の不易を知れば、流行のものを見ても、どれが不易の心に叶うもので、どれが単なる流行のものかが見えてくる。流行のものだけを見ていると、何が不易かわからないから、目先の新しさだけに心を奪われ、流行に振り回されることになる。

 

12、去来曰、俳諧の修行者は、おのすきたる風の、先達せんだつの句を一筋にたふとまなびて、一句一句に不審を起し難をかまふべからず。もし解しがたき句あらば、いかさまゆえあらんと工夫くふうして見、あるいは巧者に尋明たづねあかすべし。わが俳諧の上達するに従ひて、人の句もきこゆる物なりはじめより一句一句をとがメがちなる作者は、吟味の内に月日かさなりて、つひに功の成りたるを見ず。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,66)

 

 たとえば、今日でもギターを学ぶ者は、自分の好きなギタリストのコピーから入る。
 「好きこそ物の上手なれ」という諺もあるように、まずは自分の心をひきつけて離さないものに一生懸近づこうとするのが、何事も上達の早道だ。
 また、普通好きなものを学ぶときには、いちいち疑わないもので、好きならば明らかなミスでも真似たがるものだ。学校などで無理やり興味のない、どこが良いのかわからない作風を学ばされるから、疑ったりあれこれ難をつけたくなるもので、「始より一句一句を咎メがちなる作者」というのは、本当のところ俳諧が好きでなくて、つきあいで厭々やっているのではないか。江戸時代も稽古事が盛んだったから、親にせっつかれて無理やり俳諧師匠の所に通わされている者もいたのかもしれない。
 基本的には好きになることが上達の第一歩であり、好きならば疑いを持たず、とことんついていくというのが上達の近道だ。
 わからない所は、同じ趣味の先輩に聞くのもいい。いちいち批判的な人の言葉に耳を傾ける必要はない。芸術は義務ではないのだから。もちろん、何事も基礎練習というのは必要なもので、ギターで言えばスケール練習も必要なように、俳諧も基本的な技法は押さえておく必要がある。
 また、俳諧の場合、前句の意味がわからなければどうしようもないので、とにかく古典から最新流行のものまで、様々な話題に通じている必要がある。宗長の「乞食袋」のたとえもあるように、日頃から何にでも興味を持ち、役に立たちそうもない無駄知識でもたくさん仕入れておく。それも俳諧の日頃の修行の一つといえよう。

 

13、先師曰せんしいはく、今の俳諧は、日比ひごろに工夫をつきて、席にのぞみては気先きさきもつはくべし。心頭に不可落おとすべからずなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,66)

 

 俳諧は基本的には即興を競うもので、興行の席で長考する暇はない。だから、むしろスポーツに近いといってもいいかもしれない。ただ日頃一生懸命練習し、本番はただ無心にその成果を出すだけなのである。
 本番になってあれこれ迷うようではいい結果は出ない。練習とは違い、緊張もするし、プレッシャーも掛かるが、その中で反射的に良い句を閃くには、やはり日頃の鍛錬しかない。
 「手帳」などのカンニングはもっての他とされている。ただ、残念ながら今ではそういう席もなく、人と競い合う機会も乏しい。今日で俳諧の即興芸に匹敵するものがあるとすれば、ヒップホップのMCバトルくらいだろう。
 即興での勝負は技術の差が出やすく、また、じかに人の反応を見ることもできるため、勝負としては誰の目にもわかりやすく、面白いものになる。
 公募法式の点取り俳諧となると、作品も皆それなりに完成されたもので、そうしたものに無理に優劣をつけようとすると、作品に対する考え方の違いや趣味・好みの違いが入り込みやすくなるし、審査の過程もたいてい非公開で、回りの人の反応もわからない。そのため、作者も審査員の傾向と対策に心を奪われ、審査員に媚びた態度を取る傾向が出てくるため、ゲームとしてはどうしても公正さに欠ける面が出てくる。
 芭蕉が点取り俳諧を好まなかったのも、人と人とが直接顔を合わせることのないような場で、杓子定規な句の審査をやるようなことは好まず、あくまで顔の見える場所で、周りの雰囲気を見、楽しく談笑をしながら句を捌くところに、本当の俳諧らしさを求めたからであろう。
 残念ながら、その伝統は今では廃れ、点取り俳諧の末裔とも言える一般公募法式の投句欄だけが今でも繁盛している。

 

14、支考曰、昔の俳諧は如来禅にょらいぜんの如し。今の俳諧は祖師禅そしぜんの如し。捺着なっちゃくすればすなはち転ず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,66)

 

 「如来禅にょらいぜん」「祖師禅そしぜん」というのは、禅の悟りにおける「漸悟ぜんご説」と「頓悟とんご説」によるもので、漸悟説の立場に立つなら、悟りというのは修行の積み重ねによって次第に獲得されていくものだとし、これに対し頓悟説というのは、悟りは修行の多い少ないに関係なく突然閃くものだとする。確かに悟りというのは、ある種の発想の閃きを必要とするものであり、既存の観念から自由になるところに得られるのだから、修行を続けたからといって必ずそこに行き着くとは限らない。だからといって、頓悟説のように何もせずに突然閃くというのも稀なことで、むしろ修行を怠る口実にされてしまう危険もある。この二つの説はどちらも一長一短ある。
 悟りというのは、西洋哲学的に言えば、現象学的なエポケー(判断中止)によるもので、これによって、既存の発想から自由になり、じかに現象を直観することによって真理に至ろうという方法ではあるが、ただ、その真理は実は自由であることそのもののうちにしかない。マルチン・ハイデッガーははっきりとこう言う。「真理の本質は自由である。」
 神秘主義というのは、この空白に付け込んで、実証性のないドグマを信じ込ませるところに生じるもので、せっかく日常の様々な先入見から開放されたものの、すぐに他のもっと有害な先入見で覆ってしまうのである。悟りというのは、ただ沈黙である限りにおいて悟りであり、いつでもそのつど自由であるということ以上の意味はない。
 自由を見出すには、日常の先入見を排除すべく、必要な修行をしなくてはならない。禅はあくまでその一つにすぎない。
 俳諧もまた基本的には俳諧の自由が重要であり、前句の意味や情に捉われずに、絶えず発想の転換が要求される。
 古い俳諧は言葉の縁や決まり切った付け合いを用いることによって、前句の情を離れ、新たな趣向へと展開しようとするが、蕉門の俳諧ではそうした定石に捉われない飛躍のある発想が求められる。それを支考は「頓悟」に例えたのであり、別に俳諧に禅の精神を持ち込んで、禅的に解釈しようとしているのではない。「捺着なっちゃくすればすなはち転ず」はむしろ書のイメージで、止めるべきところは止めてからしっかりとはねるという呼吸が、俳諧でも重要だと説く。

 

15、去来曰きょらいいはく、先師は門人におしたまふに、その詞極ことばきはまりりなし。に示し給ふには、句毎くごとにさのみ念を入るものにあらず。また一句は手強てごはく、俳意慥はいいたしかかにさくすべしとなり。又凡兆ぼんてうには、一句わづかに十七文字也。一字もおろそかに思ふべからず。俳諧も流石さすがに和歌の一体也。一句にしほりの有様あるやうに作すべしと也。これは作者の気性きしゃう口質くちぐせとによりて也。あしく心得たるやからは迷ふべき筋なり。同門のうちこれに迷ひをとる人も多し。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,66 ~67)

 

 芭蕉は門人に教えるとき、相手の気質や作風に合わせた指導をしたため、人によって言うことが違う。決して一つの理論を押付けるような指導をしないのが、蕉門の一つの特徴でもあった。凡兆は勢いで句を作る傾向があったため、もっと一字一字に心を配るようにと指導し、去来は頭の中で句をひねるすぎる傾向があったため、あまり念を入れすぎず、何が言いたいかをはっきりさせろ、と指導した。言葉だけ聞くと逆のことを言っているが、それは、正反対の作風の人間に指導しているからだ。
 人によって教え方を変えるというと、私の世代では巨人V9を達成した川上監督の梅と桜の比喩なども思い浮かぶ。園芸の方では「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言って、木によって育て方が違うことを戒めている。桜は選定すると切り口が腐りやすく、梅のような人工的な改良の進んだ植物では、剪定しないと枝が絡まってしまう。ある自然農法家によると、みかんの木は剪定しないと枝が絡まるが、種から一度も剪定せずに育てると、見事に自然の設計の通りに枝を張って、決して絡まることがないという。
 人間にも性格的に野生の強い人間と弱い人間がいるようで、自分の天性の閃きのままに行動する人間もいれば、人の意見を聞きながら、それを論理的に秩序立てて行動する人もいる。前者はサッカーなどでよくいうファンタジスタで、巨人の長島もまさにそのタイプだった。これに対し、後者はロジスタと呼ばれるもので、巨人の王はこのタイプだった。あの一本足打法も、打つときの重心移動が苦手だった王に対する、荒川コーチの指導の中から生まれたもので、むしろ荒川コーチの方がファンタジスタだった。
 ファンタジスタは凡人が思いもしないようなことを考え付くので、行動が予測できず、何をやってくるかが読めない。それがスポーツでは大きな武器になる。だからこうした選手に常識的な戦略を叩き込もうとすると、かえってその持ち味を殺してしまい、並の選手になってしまう。これに対し、ロジスタは様々な理論を吸収し、総合してゆくことで伸びる。教えなくては伸びないタイプだ。
 蕉門でいえば、支考はファンタジスタで、去来はロジスタだろう。だから、芭蕉は去来に対してはかな手取り足取り教え、時には三十棒もあった。これに対して、支考に関しては放任だったのではなかったか。そのことも、支考に対する他の門人の不評につながったのだろう。

 

16、先師曰せんしいはく発句ほっくかしらよりすらすらと、いひくだきたるを上品じゃうほんとす。先師酒堂しゃだうおしへて曰、発句はなんぢが如く二ツ三ツ取集とりあつメする物にあらず。こがね打延うちのべたる如く成るべしとなり。先師曰、発句は物をあはすれば出来るなり。其能取合そのよくとりあはするを上手と云、悪敷あしきを下手と云也いふなり許六曰きょりくいはく、発句はとり合物也あはせものなり。先師曰、是程これほどしよき事のあるを人は不知也しらずなり。去来曰、とり合せて作する時は句多吟速也くおほくぎんすみやかなり。初学の人これを思ふべし。巧者こうしゃに成るに及んでは取リ合不取合あはすとりあはせざるの論にあらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,67)

 

 発句は一句で完結したメッセージを持たなくてはならないから、付け句と違い、前句との関係でどうにでも取れるように作るのではなく、一句の中に十分な内容を持たなくてはならない。その際テーマが散漫だと伝わるものも伝わらなくなる。その意味では「こがね打延うちのべたる如く成るべし」というのは発句の基本的なことであり、その「こがね打延うちのべたる如く」作る手法として、「取合せ」は有効な手段ではある。「取集とりあつメ」と「取合せ」はその点では微妙に違う。ただ景物を寄せ集めるのではなく、そこに緊密な意味の連関ができたとき、一本芯の通った句になる。
 取り合わせではない句の例としては許六の『俳諧雅楽集』に

 やがて死ぬ気色けしきは見えず蝉の声   芭蕉

の句が示されている。この句は蝉の声からの即興感偶のみだが、このような句は確かにそう多くはない。

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

の句は、知足宛書簡の、

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
 知足様

が本物だったとしたら、

 山吹や蛙飛び込む水の音

の初案があったことになる。
 この初庵については其角の助言によるものという説もあるが定かでない。  山吹と蛙は『古今集』以来、井手の山吹にカジカ蛙の声を取り合わせるのが一つの伝統となっていた。
 これは推測だが、最初芭蕉は、『古今和歌集』の、

 かはづなくゐでの山吹散りにけり
     花のさかりにあはましものを
               よみ人知らず

を本歌とした発句を作ろうとして、本歌取りの場合オリジナルと少し変えなくてはいけないということで、蛙が鳴くのではなく飛び込む水の音がするというふうにして、これはなかなか新しいのではないかと思ったのではないかと思う。
 しかし、鳴く蛙が飛び込む蛙になったところで、この句を聞いた人が思い浮かべるのは、ただ古典に歌われた井出の玉川の山吹と蛙のイメージで、実際の所井出の玉川に行った人なんて限られているから、結局多くの人にとって、この句は絵空事にすぎない。
 それが「古池や」の上五を見出した時、この句はまったく違った意味を持つことになった。古池は延宝、天和の頃なら廃村の使われなくなった溜池や廃墟となったお屋敷の庭の荒れ果てた池など、一種の原風景として思い出すことができただろう。
 古典に頼った言葉の使い方ではなく、俗語でも多くの人が普通に用いている言葉ならたとえ出身地が異なり、違う方言を話している人でもその言葉から豊かなイメージを起こすことができる。むしろ古典の絵空事の「山吹」ではなく、自分の実体験としての「古池」を思い浮かべさせることで、多くの感動を与えることができることに芭蕉は気づいたのだろう。
 そして、多くの人の実体験と結びついた時、鳴く蛙が飛び込む蛙になることの新味も生きてくる。
 こうした人々の記憶を呼び起こすしっかりと情の通った景物を取り合わせたとき、取り合わせによる句も、「こがね打延うちのべたる如」き句となる。
 一つの言葉は多種多様な意味を持ち、その情を特定することが難しい。その情をしっかりと伝えようとするなら、同じ情を持つ別のものと取り合わせるのが一番わかりやすい。しかも、その取り合わせが意外なものであるならあるほど、新しい発見があり、新味が生じる。

 初しぐれ猿も小蓑こみのをほしげなり   芭蕉

は初時雨の冬の初めの冷えさびた情に、猿もまた古来テナガザルのロングコールの霊妙さが人を断腸の思いをさせるものとされていた。
 初時雨には宗祇そうぎ法師の「世にふるもさらに時雨のやどり哉」の句もあり、冷たい人生の中にも、かすかに人の優しさに触れ、救われる一瞬を現す、そんな情も含まれている。
 それを引き出すのに、芭蕉は「小蓑」を取り合わせている。蓑は一方では公界くがいの自由の象徴でもあり、蓑笠来た猿の幻想は、ちまたの神で道祖神どうそじんとも習合した猿田彦大神さるたひこおおみかみの連想までも誘う。
 まさに、其角が『猿蓑さるみの』の序に「猿に小蓑を着せて、俳諧の神をいれたまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたにおそるべき幻術なり。」とあるとおり、見事なまでの取り合わせの妙である。
 取り合わせの句が、一つのもののイメージの重なり合いから一定の情を生むのに対し、「やがて死ぬ」のような取り合わせのない句は、一つの景物とその説明という形になりやすく、理の強い句となる。もちろん、それが悪いということではない。ただ、凡庸な作者は凡庸な観念の句になりやすいから、あまりやらないほうがいいというだけだろう。しっかりとした技量を持つものなら、取り合わせにこだわらず、自在に作るべきである。

 

17、許六曰きょりくいはく、発句は題のくるわ飛出とびいでて作すべし。曲輪くるわ中にはなきものなり。自然曲輪の内にあるは天然にして稀也まれなり。去来曰、発句は廓の内にキ物にあらず、こと即興感偶そっきょうかんぐうするもの、多くは内也うちなりしかども常にあんずるに内は少ナし。多くは古人の糟粕さうはく也。千里にかけいでて吟ずる時は、句多きのみにあらず、第一等類とうるいのがるべし。風国ふうこくが俳かい毎句廓内也くるわのうちなり予此事よこのことを示せば いなづま徳利とつくりさげて通りけりといふを、提てゆきかかりと直す。 名月に皆月代さかやきそりにけりといふを、皆剃立そりたて駒迎こまむかへと直しぬ。初学のもっとも思ふべき所也ところなり。巧者になるに及んでは、また内外の論にあらズ。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,67 ~68)

 

 発句のテーマとなる題材は、ほとんどの場合は季題だが、それ以外の題材もある。何かしらテーマが定まらなければ、句は散漫になってしまうから、いわゆる「題詠」のように、決まったお題が与えられた場合に限らず、まだ、句の前に題詞が付く付かないに拘らず、何らかの題はある。
 発句は何らかのテーマに沿って作られるが、そのテーマから普通に連想される範囲内で作ると、大体は月並になる。たとえば、梅という題で、鶯のホーホケキョではいけないし、今では『伊勢物語』はほとんど読まれてないが、当時であれば、荒れ果てた家に昔ながらの梅の花という趣向も、誰もが思い浮かべるようなものだった。山路にのっと日の出るというのであれば、通常の連想の範囲をほんの少し外に出る。題から連想される凡庸な想像を裏切らなくては、新味のある面白い句は生れない。「くるわ」の論というのは、基本的にそういうものだろう。
 許六は題の廓を飛び出せ、題の内には発句はない、という。確かに、

 十団子とおだごも小粒になりぬ秋の風   許六

という句の「十団子」は、「秋風」からの通常の連想の範囲の中にはない。しかし、これは「秋風」からの即興感偶(興に即して偶を感じるという意味で、今日でいう即興ではない。)の句ではなく、十団子の小さくなったのを見ての興に即して秋風を付けたものだ。
 これに対して、去来はたとえば、秋風から興を起こし、寓意を感じて句を作っていく場合には、秋風からの連想の範囲内での、廓の内の句となる、という。ただ、その多くは月並調に陥る(古人の糟粕)と付け加える。
 思いっきり題からはみ出した題材を付ければ、いくらでもいろいろな趣向を凝らすことが出来るし、等類も免れる。付け句の場合は基本的にそれでいいわけだが、発句の場合は季題の「本意本情ほいほんじょう」との兼ね合いがあるために、ただ突飛なものを付ければいいというわけでないから難しい。
 去来は風国の句を例に挙げている。(実際は蘭国らんこくの句。)

 いなづま徳利とつくりさげて通りけり
 名月に皆月代さかやきそりにけり

 困ったことに、雷と徳利の縁は、今日ではほとんど想像つかないため、これが何で「くるわの内」なのかわかりにくい。
 かつてはあの信楽の狸の置物のように(あのデザインは新しく、昭和に入ってからだと言う)、酒を買いにいくというと、酒を入れる徳利を提げて、現金ではなく帳面を持っていって、それにいつどれくらい買ったかを記入してもらい、大晦日に一括払いした。
 大体一日の仕事が終わってから、その日の夜飲む酒を買いに行くから、夏などは夕立にあう確率も高かっただろう。今のところ私にはそれしか思いつかないが、他の縁もあるのかもしれない。
 月代は「さかやき」と読み、時代劇などでおなじみの、あの額を青白く剃り上げたスタイルは、ちょうど芭蕉の時代に、女の島田髷とともに大衆に広がり、江戸時代の風俗を代表するものとなった。
 「月代」という字を当てるため、名月に月代さかやきがてかてか反射している面白さは、最初のうちは新味があったのかも知れないが、すぐに月並になってしまい、世俗では親父ギャグのように繰り返されている洒落だとしても、先鋭的な蕉門の笑いではダサダサだったのだろう。
 この二句を去来は、

 いなづま徳利とつくりさげて行かかり
 名月に皆剃立そりたて駒迎こまむか

と直したという。
 酒を買いに行ったら夕立が降出してえらい目にあったでは普通だから、たとえ雷が鳴ろうとも酒を買いに行くぞという、やや風狂な人間のことにしようというのだろう。
 月代の句も「月代」の文字をあえて出さずに「剃立て」から連想させるようにし、「駒迎へ」、つまり旧暦八月に東国から朝廷へと献上される馬を役人が逢坂の関に迎えに行く儀式を、別に付けている。これだと、「剃立て」が月=月代の連想で、廓の内だとしても、「駒迎へ」は廓の外に出る。
 なお、近代俳句では、写生説に従えば、確かに目の前にたまたまあったという理由でくるわの外のものを詠むこともできるが、それほど大きな飛躍は期待できず、最初のうちはいいが、長い年月立つと、やはり月並化してしまう。
 象徴詩やシュールレアリズムの手法を使うと、確かに眼前に物に拘束されずに自由にくるわの外を付けることができるが、たいていは突飛過ぎて意味不明になる。なかなかその中間がないところが、毎月何万句と量産されながら、人口に膾炙かいしゃする句が皆無で、ほとんど全部が作るそばから忘れられてしまう原因だろう。
 付かず離れずの微妙な壺を押さえられないのは、近代俳句だけではなく、近代連句でも言えることだ。

 

18、去来曰きょらいいはく他流たりゅう蕉門せうもんと第一あんどころたがひ有りと見ゆ。蕉門は気情きじゃうともに其有所そのあるところを吟ず。他流は心中にたくまるるとみへたり。たとへば 御蓬莱夜みほうらいよるはうすものをきせつべし 元日の空は青きに出舟哉でふねかな 鴨川や二度目のあみはえ一ツといへるごとし。禁闕きんけつの蓬莱をし、青陽せいやうの出舟をし、二度にはえ一つとは小キ事にや。是皆細工これみなさいくせらるるなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,68)

 

 蕉門に限らず、他門もいかにくるわの外へ出るか、苦心はしているものだ。ただ、その方法が、蕉門の場合あくまでリアルな、実際にいかにもありそうな想像に求めるのに対し、他門は(貞門系や談林系)は言葉遊びに終止し、しばしば絵空事になる傾向がある。もちろん、蕉門の句がリアルだからといっても、それがすなわち写生ということではない。蘭国らんこくの「名月に皆剃立そりたて駒迎こまむかへ」の句にしても、名月の駒迎えを実際に見て、そこからの即興感偶そっきょうかんぐうで詠んでいるわけではない。ただ、いかにもありそうな、というところを決して外してはいない。芭蕉の、

 影清かげきよも花見の座には七兵衛しちびゃうゑ   芭蕉

のような句にしても、実際に庶民が花見をしているところに影清が現れるわけはないのだが、もし来たら、前からの友達みたいに馴れ馴れしく、「よおっ、七兵衛。」とか呼ばれそうだというところには、十分なリアリティーがある。
 他門の句として例示されたものについて言えば、ひとつは、

 御蓬莱夜みほうらいよる薄絹うすぎぬも着せつべし   言水ごんすい

の句で、この場合の「蓬莱ほうらい」は、東方の三神山の一つで、正月に宝船のやってくるあの蓬莱山のことではなく、蓬莱山を模した正月の飾りつけ、「蓬莱飾り」のこと。なかなかきらびやかで、宮中行事みたいだから、夜は大宮人のように薄絹をかけて寝かせてあげよう、というものだ。もちろん、実際に蓬莱飾りに薄絹を掛けるという習慣はない。蓬莱飾りに薄絹をかけて寝かしてあげたら風流かなぁ、というだけのもので、リアリティーはない。

 元日の空は青きに出舟哉でふねかな

の句も、春のことを青陽せいようとも言うから、その通りに青空の下で、船乗り初めの句としている。実際にいつもこううまく晴れてくれるわけではない。

 鴨川や二度目の網にはえ一ツ

はえとはオイカワのことで、関西の河川の中下流域にはありふれた魚だが、それが網を二回投げても一匹しかかからないくらいだから、なるほど「水清きに魚棲まず」だ、という意味なのだろう。鴨川は確かに綺麗かもしれないが、いかにもありそうな題材で表現するのではなく、かなりオーバーな例を挙げて表現している。
 蕉門の俳諧は、こうしたいかにも話を作ったというようなあざとい句を嫌う。しかし、だからといって虚構そのものを否定するわけではない。

 

19、去来曰、蕉門の発句は、一字不通いちじふつう田夫でんぷまたは十歳以下の小児も、時によりては好句あり、却而他門かへってたもんの巧者といへる人は覚束おぼつかなし。他流はその流の巧者ならざれば、その流の好句はなしがたしと見へたり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,68)

 

 これは一つに評価基準の違いだろう。蕉門の場合、心に感動を与えるものであれば、巧拙を問わず良しとする。しかし、他門の場合は、句とはこうあらねばならぬという理窟が先行しているため、その理窟をマスターしたものでないと評価されない。
 昔の師匠はある意味では素朴だったのだろう。今の師匠なら、それぞれの結社で子供の作品を募集し、結社の意に沿った作品に賞を与えたりして、子供でも作れることをアピールする。応募する方も、たいてい親がその結社の思想を共有しているから、半分は無理に作らされた作品といっていい。ただ、こうして賞を取った作品が、皆が喜んで口ずさむかというと、そのようなことはなく、あっという間に忘れ去られていくだけだ。
 権威主義の文学というのは、必ずしも大衆に支持される必要はないし、むしろ大衆の支持など馬鹿にしててもいい。ただ、同じ思想を持つ人間に評価されればそれでいい。だが、そういう組織の文学でのすぐれた作品というのは、組織を一歩外に出れば、たちまち無価値になる。それが怖くて、結局組織を抜けられない。だから、長きに渡って維持できるともいえよう。
 これに対し、きちんと市場原理が働いている文学は、年功を重ねたからといって評価されるわけではない。若くて才能のあるのが新しく出てくれば、たちまち隅に追いやられる。蕉門はそういうところだった。其角きかくが、嵐雪らんせつが、荷兮かけいが、あるいは一度破門された路通ろつうにしても、芭蕉は決して興行の場から排除したりはしなかったが、ただ新しい流行について行けなくなれば、結局自分から去ってゆくしかない。そういう厳しい世界でもあった。去来も、芭蕉がもっと長生きしていたら、どうだったか。

 

20、去来曰きょらいいはく、俳諧は新意をもっぱらとするといへども、物の本情ほんじょうたがふふべからず。其事そのこと打返うちかへしていふには品あり。たとへ感時ときにかんじては花濺涙はなにもなみだをそそぎ惜別わかれををしんでは鳥驚心とりにもこころをおどろかすあるいは さくら花ちらばちらなんちらずとも大宮人おほみやびとの来ても見なくにと云へる類也たぐひなり感時ときにかんじては惜別わかれををしんでは大宮人おほみやびとの見ざる所、一首の眼也がんなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,68)

 

 一つの言葉から連想されるものというのは人それぞれ違うもので、「さくら」という言葉から何をイメージするかも、その人の過去の体験に大きく左右される。中には桜の木の下でとんでもない恐怖の体験か、思い出すのも恥ずかしいような体験をしたりすると、「さくら」という言葉に嫌悪を覚えるかもしれないし、戦争体験と結びついていたりすると、涙が止めどもなく溢れてくるかもしれない。句の解釈というのは、えてしてこうした個人の体験に左右されるもので、普通の人なら普通の花の名前でも、ある人にとっては亡き母の形見だったり、ある人にとっては死んだ恋人を思い出すものかもしれない。
 その意味では、文学が与える感動というのは、決して作者の意図に還元されるようなものではないし、テキストそのものに還元されるようなものでもない。むしろ文学の与える感動は、読者自身の人生経験が生み出すものだといってもいいだろう。今しがた失恋したばかりで胸の締め付けられるような思いをどうしようもできなくしている人にとっては、他の人が聞けば安っぽい失恋ソングでも涙するかもしれないし、人生の苦渋に満ちた名作も、書斎で何の苦労もなく公務員生活を続けてきた文学科の教授には、何のことだかさっぱりわからないということもあるだろう。
 古典というのは、何も作者が天才だったからだとか、テキストに見事な構造が見られるだとかいうことで生き残ったわけではない。それは無名のたくさんの読者を感動させてきたから生き残ったのであり、古典を否定することは、それに感動し、それを大切に保存し、後世にまで伝えようとしてきたたくさんの人の人生を否定することなのである。作者個人やテキストの構造に難癖つけるのはたやすい。しかし、それに感動した大勢の人の人生を否定することはできない。正岡子規がいくら下らない歌だのつまらない句だの言っても、古今集や新古今集の名歌や加賀千代女かがのちよじょの句などは今日に立派に生き残っている。
 「物の本情」とは、決してステレオタイプ的な使い古されたパターンなどではない。そこには昔からのたくさんの人の感動が込められているがゆえに、それを簡単に変えることは出来ないのである。そして、それを変えるというのであれば、それに負けないくらいの新しい感動を与えなくてはならないのである。「さくら」といえば、森山直太郎、河口恭吾、ケツメイシなどのヒット曲があるが、これらの歌を聴いても、決して古典の桜の情に逆らうものではない。宇多田ひかるの「SAKURAドロップス」も雅語に翻訳すれば「花の露」だろう。「おきわぶる露こそ花にあわれなれ 宗祇」である。
 杜甫とほの「感時花濺涙、恨別鳥驚心(時を感じては花にも涙をそそぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)」」の句は、人の心を楽しませ、喜ばせるはずの花も、安録山の乱に荒れ果てた都の城郭に時の変化を感じて、都城は変わり果てたのに変わらずに春が来るのがかえって悲しい、というもの。普段は人が愛でる「花」も、このように使えば悲しみの象徴として用いることも出来る。しかし、これは本意本情を無視しているのではない。むしろ、それを利用しながら巧妙に転用しているのであって、このての手法はそんなに珍しいものではないし、杜甫が初めて用いたものでもない。謝霊運しゃれいうんの「池塘生春草(池塘ちとう春草しゅんそうしょうず)」の例もある。芭蕉の古池の句も、その意味では、本来蛙の歌に春の訪れの目出度さを感じ取るべきものを、うら寂びた廃墟となった古池にあれば、ただ水音だけが悲しく聞こえる、というものだった。
 「さくらばなちらばちらなん」の歌は、

 桜花散らばちらなん散らずとも
    ふるさと人の来ても見なくに
                   惟喬親王これたかのしんのう

の歌のことで、これも本来なら散るのを惜しむはずの桜も「散ってしまえ」というのは、ともに眺めるはずのふるさと人がいないからだというもので、かえって悲しみの深さを述べるものだ。「白い雲何て大嫌いだ!」のパターンといってもいいかもしれない。『去来抄』同門評に、

 夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国

の句が最初、「晩鐘のさびしからぬや寺の秋」だったことに触れて、本意本情について語っていたが、去来のこの添削は寂しさを頼もしさや力強さに転用する一つの試みといってもいいだろう。ただ、去来も認めているように、そんなにうまくいってはいない。

 

21、去来曰きょらいいはく、俳諧は火をも水に言ひなすと、清輔きよすけへるに迷ひて、雪の降日ふるひに汗をかきかけりというても苦しからずといへる人有り。火を水と計心得ばかりこころえいひなすといふ所に不心得ゆへなり。雪の日汗かくやうに、一句をく云ひなさばさもあらん。さきかへてさかリ久しきあさがほあだなる花と誰かいひけんの類也たぐひなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,68~69)

 

 「俳諧は火をも水に言ひなす」というのは藤原清輔ふじはらのきよすけの『奥義抄おうぎしょう』に出てくる言葉で、去来は別にこれを否定しているわけではない。ただ、それにはやり方があり、ただ無意味に雪の降る日に汗をかいたということを言っても俳諧ではなく、意味不明の句にしかならない。何か「さもあらん(なるほど)」と言えるような理由があって、雪の日に汗をかいたというのであれば、また一つの発見がある。
 今日ではシュールレアリズムの影響から、「雪の日の汗」どころか、「雪の炎天下」だとか「緑の雪の星が降る」みたいなことをやってもかまわないが、当時は、こうした発想はなかった。

  さきかへてさかリ久しきあさがほ
     あだなる花と誰かいひけん

の歌は誰の歌か不明だが、朝顔の一つの花は咲いて萎んでも、次から次へと新しい花が咲くのだから、朝顔をはかない花などと誰が言ったのであろうか、という意味で、韓国の国花であるムクゲの心に通じる。ムクゲも下から上へと花をつけてゆくことで、一つ一つの花ははかなく散ってもしぶとく花を咲かし続ける韓国魂の象徴でもある。
 前のところで述べた、愛でるべき花も荒れ果てた都ではかえって悲しいものになるような意味の転用法は、俳諧の基本といってもいいかもしれない。

 

22、去来曰きょらいいはく、句案に二品有ふたしなあリ。趣向より入ると、ことば道具より入るとなり。詞道具より入ル人は、頓句多句也とんくたくなり。趣向より入る人は、遅吟寡句也ちぎんくゎくいふ。されど案方あんじかたくらゐを論ずる時は、趣向より入るを上品じゃうぼんとす。詞道具より入る事は、和歌流にはきらふと見へたり。俳諧はあながちにきらはず。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69)

 

 今日では、俳句でも短歌でも詩でも五行歌でも、最初に頭の中に何かイメージを思い描き、それを言葉にしてゆく。今日では趣向から作るのが普通であり、言葉道具から作るというのがどういうことかわからない人も多いだろう。昔の連歌や俳諧の場合、急に即興で発句を求められることも多かったし、それで即座に作れないことを恥とした。『去来抄』先師評に膳所ぜぜの恥のことが記されている。そこで、便宜的に当座の季節にあう題材を選び、それに当座の興に合うような言葉を探り出し、それをつなげて何とか句にすることも多かった。
 たとえば、今が五月で、興行場所が「金福寺」だったりしたら、初夏の季題の「風薫る」を持ってきて、福と「吹く」を掛けて、「めでたさは金ふく風の香りかな」みたいにこしらえたりした。付け句などでも、貞門ていもん談林だんりんの俳諧では、付け合いという言葉の縁で付けることが多かった。それは、蕉門が歌仙かせんという三十六句の短い形式を多用するのに対し、貞門・談林は百句連ねる百韻ひゃくいんが主流で、それを一日に十巻詠む千句興行などをやると、否応なしにノータイムで句を付けてゆく即吟が求められる。それが、ことば付けが多用される原因でもあった。
 蕉門しょうもん俳諧といえど、決してこういう作り方がいけないといっているわけではない。ただ、趣向で詠んだ句の方が格は上である。

 

23、去来曰きょらいいはく、蕉門に同意同竈どうさうといふ事あり、これは前吟の鋳型に入て作りたる句の意に又入またいりさくする句也くなりたとへば竿さをが長くて物につかゆるといふを、刀の小尻こじりが障子にさはる、あるいは杖が短かくて地にとどかぬといふを・・・と吟じかゆるなり、同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れましたらんは、また手柄也てがら。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69)

 

 パクリというのはいつの時代にもあるもので、それも、そのまんまではすぐにばれるから、たいていは一部分を微妙に変えて作る。音楽の世界では、コード進行を同じにしてメロディーを変えるだとかいうのはよくあるし、それを更にテンポを変えたり、リズムを変えたりすると、まったく別の曲のように聞こえる。ブルーハーツの「人に優しく」の、ドシラソミレドという下がってゆくメロディーを「木更津キャッツアイのテーマ」ではドシラソラシドという途中から上がってゆくメロディーにしているが、これはもちろん、ドラマの中でパクリの曲を作る場面で用いられている。だが、ヒット曲の中にも結構この手のものは多い。
 和歌では、

 都をば霞とともにたちしかど
    秋風そ吹くしらかはのせき
                   能因法師
 都にはまだ青葉にてみしかども
    紅葉ちりしくしらかはのせき
                   前右京権大夫頼政

の類似がよく知られている。これなどは、蕉門でいう同竈どうそう同巣どうそう)と言っていいだろう。旅路の長さを季節の経過で表す発想は、いろいろなバリエーションで使うことが出来る。ただ、現代だと地球の裏側でも一日で行けるので、それほど長く旅することというのがあまりなく、かえって難しい。
 『去来抄』同門評12では、

 きりの木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆ぼんちょう
 かしの木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

の類似が指摘されているが、この場合、言葉の続き具合が似ているだけで、前者は風もないのにちってゆく霧の葉を呼んだもので、発想としては、

 ひさかたの光のどけき春の日に
    しづこころなく花のちるらん
                    紀友則きのとものり

に近い。これに対して、芭蕉の句は三井秋風みついしゅうふうの別荘を尋ね、秋風の時代に流されない姿を比喩として呼んだものだから、発想は全く違う。
 同竈の句と言うのは、去来の説明によれば、「竿さをが長くて物につっかえる」というのを、「刀の小尻こじりが障子にぶつかる」としたり、また逆に「杖が短かくて地にとどかない」に代えるような、発想の類似なので、これを今でいうと、こういうことだろう。

 万緑の中や吾子あこの歯えそむる   草田男くさたお

これをパクるとすれば、万緑のような、いかにも命の生き生きと輝くようなものに、子供などの成長と重ね合わせる発想をパクるのがいいだろう。たとえば、

 吾子立てり今盛りなる八重桜

何てのはどうだろうか。何も人間の赤ちゃんでなくてもいい。

 猫の仔の五匹生れて山笑う

何てのはどうだろうか。これを逆に命の衰退と老化というふうに組み合わせてはどうだろうか。だがこれだと、

 がっくりとぬけむる歯や秋の風   杉風さんぷう

になってしまう。してみると、草田男の句は杉風の句をひっくり返しただけの同竈どうそうの句なのだろうか。これを、

 秋風の中やわれの歯抜けそむる

とでもすれば完璧だろう。
 結局人間の発想なんてものは限られているし、本当のところ同竈なんてものはそう気にする必要はない。最後の去来の言葉が本音だろう。「されど兄より生れましたらんは、また手柄也てがらなり。」要するに句が良ければそれでいい。

 

24、去来曰きょらいいはく、句に句勢くせいといふあり。文は文勢ぶんせい、語は語勢也ごせいなり。たとへば、ふるふがごとく小ぬか雨ふる。先師曰せんしいはく是又これまたいきほひなり。など打明うちあくるごととはさくせずや。去来曰、ことばつまりたるやうなり。先師曰、古人もわがごと物や思ふらんとはいはずやとなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69~70)

 

 例として示されているのは、惟然いぜん編『藤の実』(元禄七年刊)の、

    黒土くろつちの壁ぬりまはかたびさし
 ふるふがごとくこぬか雪ふる   野明やめい

の句で、雨と雪の違いは、記憶違いによるものか、それとも出版する際に後から直したものかはわからない。前句をひさしから落ちた雨が地面にはねて、壁に黒土の後をつけて行く様としたものなのだが、それならば、勢いよく降る雨でなくてはならない。小ぬか雨(小雨)や小ぬか雪(小雪)では、土を跳ね上げて壁を汚すほどの勢いはない。その意味で、言葉の勢いだけでなく、句の意味の上でも勢いが足りない。ただ、ものが「小糠こぬか」だから、ふるいに掛けるという小細工だけが目に付いてしまっている。
 芭蕉はこれを、

    黒土くろつちの壁ぬりまはかたびさし
 打明うちあくるごと雨の降りける

とでもすると良いという。(最後の七文字は指定されてないが、「打明うちあくるごと」たらいをぶちまけるように降る雨は「小ぬか雨」とは言えないから、言い換える必要があるだろう。)去来はそれだと「如く」が「ごと」になるのが、言葉が詰まったようで、変だというのだが、芭蕉は『古今集』の、

 秋ののあくるも知らず鳴く虫は
    わがごとものやかなしかるらむ
                     藤原敏行ふじわらのとしゆき

の歌の例を挙げて、「如く」を「ごと」に略しても雅語として間違いではないとしている。大事なのは文法的にどうのこうの理窟を言うのではなく、言葉全体に勢いがあるかどうかで、芭蕉には、他動詞「よこたはる」を自動詞「よこたふ」に変形させて用いた、

 荒海や佐渡によこたふ天の川   芭蕉

の名吟もある。これが「佐渡によこたはる」だったら名句にはならなかった。これも勢いというものだ。

 

25、去来曰きょらいいはく、句に姿といふものあり。 たとへば
   妻よぶ雉子きじの身を細うする   去来
はじめ此句このく、妻よぶ雉子きじのうろたへてなく、と作りたるを、先師曰、去来汝未なんぢいまだ句の姿をしらずや。同じ事もかくいへば姿ありとて、今の句に直したまひけり。支考しこう風姿風情ふうしふぜいと二つにわけて教へらるる、もっともさとし安し。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,70 )

 

 この句については、『去来抄』先師評39とも重複している。
 句の姿というのは必ずしも写生のことではない。むしろ絵が浮かぶような、という方がいい。
 雉が身を細くするというのは、必ずしも雉にそういう習性があるかどうか知らなくても、「身の細るような思い」という慣用的な言い回しがあるように、不安で自身がなく、恥ずかしく、精神的に萎縮して、自分自身を小さく感じる。それが極小になれば、アニメ映画『千と千尋の神隠し』のテーマソングにあるような「ゼロになるからだ」となる。
 それは動物が威嚇するとき毛や羽を膨らまして自分を大きく見せるのに対し、恐怖に駆られると毛や羽を寝かし小さくなるところから来たもので、その意味では雉が本当に羽を寝かせて身を細くしているということもありうる。ただ、それは観察によるというよりは、共感によるイメージといったほうがいい。その意味では写生である必要はない。むしろ、漫画的に誇張された表現と考えてもいい。それもまた「姿」といえる。
 各務支考かがみしこうの「風姿風情」の論は『俳諧十論』の第五に見られる。

 「そも俳諧はいかい風姿ふうし風情ふぜいとは、其体そのてい古今ここん差別しゃべつあればなり。古風は耳に其情そのじゃうききて、言語げんごの上の姿をととなへず。今様いまやうは目に其姿そのすがたを見て、言語のほかの情をふくむ。しかればいにしへじゃうのみにして今は姿の論としるべし。物に情あらば姿なからんや。無情むじゃう草木くさきも姿あればと、生物なまものしりはあらそはめど、たれ目前もくぜんの姿をしらざらん。言語の姿の見がたきに、まして其上そのうへふうとをしらずば、世にいふ木男木女きをとこきをむなにて、姿情しじゃうの論には及ばざらん。今いふ風言雅語ふうげんがごのふたつは、俳諧体はいかいたい一大事いちだいじなるをや。」

 古風というのは支考自身が挙げる例によれば、たとえば「双六すごろくな世の歳旦さいたん」に「目出たし」と結び、「五畿内ごきないの雪」に「つめた飯」と続けるようなものだという。世の中は双六のようなもので、サイコロの目が出るに掛けて「目出たい」という時には、必ずしも実際にサイコロを振る姿をイメージする必要はない。
 「五畿内」というのは近畿地方の五つの国のことだが、食器のことを御器ごきというところから、五畿内の雪は冷や飯のことになる。
 実際には関西地方に降る雪の景色と、器に盛られた冷や飯との間に、物と物としては何のつながりもない。ただ、同音異義語によって、音声を通じて結び付けられている。こうした句で大事なのは、何か具体的な物事を思い浮かべることではなく、意味と意味との結びつきなのである。つまり、言語の上の意味しかない。
 もちろん、蕉門の俳諧も、決して叙情性を否定して、純粋に物質としての物だけを示そうというわけではない。ただ、情を伝える際に、いかにも目の前に物の姿が浮かんでくるような具体性を重視すると言った方がいい。むしろ「妻よぶ雉子きじのうろたへてなく」という、直接的な真情の描写を嫌い、「妻よぶ雉子きじの身をほそうする」のような具体性のある言い回しを好んだといったほうがいい。このことによって、ただ単に言葉が生み出す情だけでなく、描写されたその物が、独自に別の連想を引き起こし、情をより複雑にする。ここに言外の情が生じる。
 たとえば、「寂しさやかはづ飛び込む水の音」であれば、単に文字通りの「寂しい」という意味しか生じない。これを「古池や」とすれば、古池は単に寂しげだというだけでなく、そこに荒れ果てた村、廃墟となった家、そこに住んでた人たちにどのようなドラマがあったのかなどと、いろいろな連想が生じる。そこに言外の余情が生じる。
 ただ、これはあくまで、そのほうがいいというだけで、そうでなければいけないというものではない。「先師評」19にある、

 病鴈びょうがんのよさむに落て旅ねかな      はせを
 あまのやハ病鴈小海老こえびにまじるいとど哉  同

の二句の例にしても、「病鴈の夜寒に落ちる」よりは「海人の家の小エビとイトド(カマドウマ)」のほうがはるかに具体的で、絵が浮かぶが、あくまでこうした描写も情を訴えるための手段に過ぎず、具体性が弱くても情の訴える力が強ければ、そのほうがいい。カマドウマ  「姿」は基本的には情を伝えるための手段であり、ただ、情を伝えるのに最も効果的な姿が見つけることが重要なだけで、姿があれば情はなくてもいいというものではない。そこが近代俳句の写生説との違いと言っていいだろう。ただ、言葉だけではわかりにくいものを、絵にすることでわかりやすくするという、基本的には漫画的な発想といっていい。

 

26、去来曰きょらいいはく、句に語路ごろといふ物有ものあり、句走くばしリの事也ことなり語路は玉の盤上ばんじゃうを走るがごとし。とどこほりなきをよしとす。又柳糸またりうしの風にふかるるが如く、いうをとりたるもよし。ただ溝水こうすい泥土でいどに流るるが如く、ゆきあたりあたりなづみたるを嫌ふなり。其外そのほか巻中に一二句きょくをなせるの句もあるべし。それとても語路のとどこほりたるは悪し。是等これら一手いって外也ほかなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,70 )

 

 俳諧は基本的には吟じるもので、いわば音楽の歌詞だった。芭蕉も談林流行期から天和調にかけては、文字遊戯を中心とした書物俳諧を試みたが、蕉風確立とともに正風の本に帰り、和歌・連歌同様、言葉続きの良さは重要となった。
 ただし、俳諧はあくまで俳諧であって、和歌ではない。ただなだらかで言葉の続きが優美であればいいというものではない。むしろ、都会で生活する庶民の生活のテンポにあった、スピード感のある小気味いいリズムが求められていた。これが「語路」と呼ばれるもので、今でも「語呂がいい」とか「語呂合わせ」という言葉が残っている。J-popの歌詞でも、語呂の良さは命であり、たとえばウルフルズの『ガッツだぜ』の

   万が一金田一迷宮入りする前に

のようなフレーズは、「万が一」と「金田一」の語呂のよさから推理小説のヒーロー金田一耕介(あるいはその孫の方か)の名に掛けて「迷宮入り」を引き出す手法は、どこまでも俳諧の伝統を引き継ぐものなのである。
 俳諧は上句下句をつなげたときに、言葉がきれいにつながり、すらすらと読み下せるのを良しとする。ただ、一巻全部が同じ調子だと読者も飽きてしまうので、一巻の中で時折調子を変えて変化をつけることも重要だ。たとえば、「先師評」38のような「糞」を呼んだ句も、それがいけないというのではなく、一巻の変化の中で、一句くらいはこういう句があってもいいという意味で、何が何でもいけないということではない。
 『山中三吟評語』の「馬かりて」の巻で、

    しぎふたつ台にのせてもさびしさよ
 あはれに作る三日月のわき   北枝

の句に対し、「かくなる句もあるべしとぞ」と芭蕉が言っているのも、こういう句がいけないというのではなく、一巻の中で変化という点では一句くらいあってもいいと取るべきだろう。いくら匂い付けが理想だからといっても、36句全部匂い付けでは単調になる。各務支考は付け句を「有心付うしんづけ」「会釈あしらい」「遁句にげく」のバランスを取ることを説いている。むしろ場の状況に応じて多彩なパターンを使い分けることこそ、プロの技なのである。
 いわゆる現代文学の作者が駄目なのは、まさにこの点であり、思考に柔軟性がなく、一つの思想でこの手法がいいと思ったら、一冊全部同じ手法で書いてしまう。どんな奇抜な手法でも、最初は「おおっ」と思っても、延々と同じことを繰り返されてしまっては、すぐに慣れてしまい、やがて欠伸が出てくる。野球でも直球ばかり投げていては、どんな速い球でもやがてタイミングが合ってきて打たれてしまうし、どんな切れのいいカーブでもそればかりでは打者の目も慣れてくる。緩急自在ということを忘れてはならない。

 

27、先師曰せんしいはく、発句はむかしより様々かはりはべれど、附句つけくは三変なり。昔は附物つけものもっぱらとす、中比なかごろは心のつけを専とす、今はうつり・ひびき・匂ひ・くらゐを以てつくるをよしとす。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,70)

 

 貞門の物付け、談林の心付け、蕉門の匂い付け、とも言われているが、むしろ貞門・談林の物付けに対し、元禄二年頃までの蕉風確立期の蕉門が、連歌の古風に習った心付けを重視し、『ひさご』以降に匂い付けが確立されたと言ったほうがいい。 ただ、実際はそれほど単純に色分けされるものではない。「物付け」「心付け」はともに連歌の時代からあったもので、貞門や談林の俳諧特有のものではない。また、蕉門の俳諧といえども、ただ「匂い」を重視するだけで、こうした古典的な付け方を否定するものでもない。
 おそらく連句について何の知識もない人が、上句を与えられて、これに下句を付けろと言われれば、そのまま上句の続きになるような内容の句を付けるだろう。たとえば、

 縁側で猫が一匹日向ぼこ

というような句だったら、自然に、

    縁側で猫が一匹日向ぼこ
 ごろごろ言って気持ちがいいね

みたいな発想が出てくるだろう。上句を読んで、そこから思いつく意味内容を付けるというのは、基本的には心付けであり、むしろ連句の基本といっていい。ただ、これだと発想にあまり飛躍がなく、展開性に欠ける部分もある。
 これに対し、物付けというのは一種の連想ゲームで、前句のある言葉から連想される言葉を手がかりに、強引に意味をつなげてゆく方法で、たとえば先の句であれば、前句の「縁側」から「干し柿」を連想したら、猫が干し柿をぼんやりと見上げている景色にしてしまえばよい。

    縁側で猫が一匹日向ぼこ
 干し柿赤く抜ける青空

こういうふうに、連想される言葉を手がかりにして、意味を後から付けて行く方法を物付け、あるいは詞付けという。これは句を素早く付けられるうえ、意外な展開があるため、連歌の時代から盛んに行なわれてきた。(「刺身につまは付き物」だとか言う時の「付き物」という言葉も俳諧用語から来ている。)
 そして、今日の現代連句の主流も、実はこうした物付けで。前句に「猿」という単語が入っていると、それだけで判で押したように山の景色を詠んだ句が送られてきたりする。そこが、連句が連想ゲームだといわれる所以でもある。ただ、今日では作者の力量も低く、たいていはただ連想する言葉が入っているというだけで、意味が通らない、付かない句になっている場合が多い。
 物付けに近いものとしては、ラップなどで韻を踏んで詩を作るときに、最初に韻を踏める言葉を決めて、後から強引に意味をつなげて辻褄合わせるように作ることも多い。たとえば、「祈り」という言葉に、ちょっと意外性のある「煮干」が韻を踏めるとなると、

 飢えた野良猫のかすかな祈り
 腹を満たす一匹の煮干

というふうに強引に持ってゆく。
 匂い付けというのは、基本的には風姿を重視するところからきている。たとえば、「蛙鳴くなり」というような句に、「山吹の今散り掛かるせせらぎに」とでもすれば、古歌の縁で「蛙」と「山吹」をつけた物付けになり、「春といえども寂しげに」のように付ければ心付けになる。それを、「寂しい」という直接的な言葉を使わずに、「人棲まぬ古池に」という姿のある言葉を付ければ、匂い付けになる。匂い付けというのは、前句の中のある姿がかもし出す情と同じ情を持つ別の姿を付けることだと言ってもいい。いわば、蛙は寂しい、古池も寂しいという述語の一致で付いているのである。ここに寂しげな匂いによって、二つのものが結びつく。

    参宮さんぐうといへばぬすみもゆるしけり
 につと朝日にむかふよこ雲    芭蕉

という句は、伊勢信仰が目的であれば、人も多少の事は大目に見るという寛大な心に、いかにも寛大そうなニッと笑った朝日の顔を姿で付けている。やや古い心付けの句だと、ここに「情けは人の何ちゃら」とか付くことになる。情をあくまで姿を通じてで表現することで、次の句はその情を無視して、姿の部分から別の情を引き出して、句を展開させればいいことになる。これに対し、

    につと朝日に迎ふよこ雲
 すっぺりと花見の客をしまいけり    去来

この句は匂い付けではない。

 春の夜の夢の浮橋とだえして
    峰にわかるるよこぐものそら
               藤原定家

の歌を江戸時代的な言葉で言い換えた埋句うづみく(本歌や本説ほんぜいによる付け)であり、心付けの一種なのである。「先師評」34に、芭蕉の顔が険しいのに気付いて、あわてて作り直し、最終的に、

    につと朝日に迎ふよこ雲
 青みたる松より花の咲こぼれ    去来

になったという。これは雲からのぞく朝日に松からのぞく花の対比で、匂い付けになる。
 元禄三(一六九〇)年三月ニ日の興行で、芭蕉の発句に、

    もとに汁もなますも桜かな
 明日来る人はくやしがる春   風麦ふうばく

という脇が付けられたが、三月の下旬には同じ発句で連衆を変えて、

    のもとに汁もなますも桜かな
 西日のどかによき天気なり   珍碩ちんせき

と巻き直し、これを『ひさご』の巻頭に掲げている。花の散る中の花見の宴に「明日来る人はくやしがる」は心付けだが、珍碩ちんせきの句は、宴会もそろそろお開きという匂いに、「西日」を付けている。このあたりから芭蕉も匂い付けというのを意識したのだろう。
 ここでは一応、後期蕉門的な付け句の手法を一括して広義の「匂い付け」と呼んでおく。それは、細かく言うと「うつり・響・匂ひ・位」などに分けられる。

 

28、牡年曰ぼねんいはく、いかなるを、ひびき・匂ひ・うつりとはいへるにや。去来曰、支考等シをかき出せり。これを手に取たるごとくにはいひがたし。今日先師の評をあげて語る。他は押して知らるべし。
   赤人あかひとの名はつかれたり初霞   史邦ふみくに
   鳥もさへづ合点がてんなるべし     去来
 先師曰、移りといひ、匂ひといひ、誠は去年中、三十棒受けられたる印也しるしなりと。去来釈曰しゃくしていはく、つかれたりと有るゆへ、合点なるべしといへるあたり、其云分そのいひぶんの匂ひあひうつり行跡ゆくあと見らるべし。し発句に名は面白おもしろやと有ラば、脇は囀る気色也けしきなりけりといふべし。ひびきうてば響くがごとし。たとへば、
   くれえん銀土器しろかはらけ打砕うちくだ
   身ほそき太刀たちる方を見よ
先師此句このくを引て教るとて、右の手に土器かはらけをうちつけ、左の手にて太刀にそりかけ直す仕形しかたして語り給へり。一句一句におもむき変りはべれば、ことごと言尽いひつくがたき所有り、看破せらるべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,70~71)

 

 響き、匂い、移り、というのは、便宜上の分類であり、マニュアルではない。こうすれば誰でも句が付けられるという方法をいうのではない。ましては、こういう方法で付けなければいけないという規則でもない。むしろ、連句に重要なのは頭の柔軟さであり、こう付けねばならぬという固まった発想を嫌う。

    赤人あかひとの名はつかれたり初霞
 鳥もさへづ合点がてんなるべし     去来

この去来のわきは、例えば山部赤人やまべのあかひとの有名な歌に、霞に鳥の囀る歌があるというような、出典があって付けているわけではない。また、霞に鳥の囀りという連想も、物付けというほど「付き物」というわけでもない。ただ、春の朝に鳥のさえずりは、それ自体匂いで付いている。これがもし、

    赤人の名は付れたり春霞
 蘆の若葉に鶴も鳴くべし

だったら、山部赤人から「葦辺あしべをさしてたづ鳴き渡る」を連想した、物付けの句となる。
 ただ、霞に鳥の囀りの匂いだけでは脇句としては付き方が弱い。脇は基本的に発句に同意し、寄り添うように作るべきもので、前句の根を切るような付け方はしない。むしろ脇に関しては疎句付けを嫌うといっていいだろう。そこで、この去来の脇は「付れたり」という言い回しに俳諧用語の匂いを嗅ぎ取り、「合点なるべし」という俳諧用語を付けて補強している。「合点がてん」というと、今では就職情報誌の名前にもなっているように、職人言葉というイメージが強いが、もとは俳諧の懐紙の良い句の上に点を打つことをいう。去来も言っているように、発句が「名は面白や」だったら、

    赤人の名は面白や初霞
 鳥も囀る気色なりけり

となる。 「付れたり」とあるから、その匂いで「合点」という言葉が導き出される、
 「移り」というのは、必ずしも匂いの移りというわけではない。山中温泉で北枝ほくしが、『奥の細道』の旅の途中の芭蕉・曾良を迎えて三人で興行したときの芭蕉の言葉を記した『山中三吟評語』に、こうある。

    「銀の小鍋こなべにいだす芹焼せりやき
 手まくらにしとねのほこり打払うちはらひ   芭蕉

   手枕におもふ事なき身なりけり   翁
   手まくらに軒の玉水詠たまみづながわび   同
   てまくら移りよし。なんぢも案ずべしとありけるゆへ
   手枕もよだれつたふてめざめぬる   枝
   てまくらに竹ふきわたる夕間暮ゆふまぐれ   同
手まくらにしとねのほこり打払うちはらひ   翁
ときはまりはべる。」

 鍋物に手枕という連想は、『論語』述而篇の「疎食そしくらヒ水ヲ飲ミ、肱ヲ曲ゲテ之ヲ枕トス」によるもので、明確な出典があるから、この場合は「匂いの移り」ではなく、物付けの移りとでもいうべきだろう。いくつもの案を見てもわかるように最初に「手枕」という言葉を使うことを決めておいて、どうつなげれば前句を面白く展開できるかを後から案じている。典型的な物付けの付け方であり、『奥の細道』の頃は、まだ匂い付けは確立されてなかった。
 「響き」というのも説明しにくいものの一つだ。例に挙げられているのは、

    くれ椽に銀土器ぎんかはらけを打砕き
 身ほそき太刀の反る方を見よ

で、これは実は、

    身ほそき太刀のそる方を見よ
 長縁に銀土器を打砕き     柳沅

という句で、順序が逆になっている。 銀土器ぎんかはらけは銀泥のうわぐすりを用いた高価な盃で、前句の細くてどう見ても実用的でない太刀の持ち主を、太平の世の武士の位と見定め、誤って高価な盃を割ってしまった情景としている。銀土器を割ったのも惜しいが、大事な刀が反ってしまったのも惜しい。トホホつながりとでも言うべきか。こういうのを「響き」と呼んだようだ。

 

29、牡年曰ぼねんいはく附句つけくくらゐとはいか成事なることにや。去来曰、前句まへくの位をしりつく事也ことなりたとへば好句ありとても、くらゐ応せざればのらず。先師恋の句をあげて語らる。
   上置うはをき干菜刻ほしなきざむもうはの空
   馬に出ぬ日はうちで恋する
この前句は人の妻にもあらず、武家町屋まちやの下女にもあらず、宿やとひや等の下女なり
   細きめに花見る人の頬はれて
   菜種なたね色なる袖の輪ちが
前句、古代こだいめかしき人の有様也ありさまなり
   白粉おしろいをぬれども下地したぢ黒い顔
   役者もやうの袖の薫物たきもの
前句は今様いまやうばせをの女とも見ゆ
   尼になるべき宵の衣々きぬぎぬ
   月影によろひとやらん見透みすかして
前句いか様可然さましかるべき武士の妻と見ゆるなり。
   ふすまつかんで洗う油手あぶらて
   懸乞かけごひに恋の心をもたせばや
前句、町屋まちやの腰元などいふべきか。これを以て他をおさるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,71~73)

 

 位というのは、匂い付けの中では一番わかりやすいつけ方といえるもので、前句に登場する人物が、いつの時代のどんな職業、階級の人物か、年齢はどれくらいか、男か女かどういう性格か、どういうファッションかなど、いわばキャラをつかんで、それにあった内容をつけるやり方だ。(今日的な言葉でいえば、「キャラ付け」と呼んだ方がわかりやすいかもしれない。)もちろん、その際、打越うちこしに付いた前句の意味には拘束されず、あくまで前句だけを切り離して、そこから浮かぶ人物像を自由に想像した方がいい。そうでないと、前句の登場人物の位が、打越の句とかぶってしまう可能性がある。だから例えば、

    むかへせはしき殿よりのふみ
 金鍔きんつばと人によばるる身のやすさ   芭蕉
という句には、文字通り若殿に仕える老いた家老を意味する金鍔きんつばとして次の句を付けるのではなく、

    金鍔きんつばと人によばるる身のやすさ
 あつ風呂ずきの宵々よひよひの月   凡兆

というように、町にいる、あくまで比喩として金鍔きんつばと呼ばれている、悠々自適のご隠居さんの位で付ける。
 去来の挙げた例でいえば、

    上置うはをき干菜刻ほしなきざむもうはの空
 馬に出ぬ日はうちで恋する    芭蕉

の場合、干し菜を刻むあたりが貧しい感じがしたのだろう。宿屋や問屋で住み込みで働いている下女の位になる。

    細きめに花見る人の頬はれて
 菜種なたね色なる袖の輪ちが

 この場合も、目が細く、頬がはれているというところを、源氏物語絵巻などに描かれている、平安貴族の下膨れ顔に取り成す。

    白粉おしろいをぬれども下地したぢ黒い顔
 役者もやうの袖の薫物たきもの   去来

 白粉がうまく乗らずに黒い地肌がのぞいているあたりに、無理に今はやりの役者のまねをしている頭の悪そうな女ということにしたのだろう。

    尼になるべき宵の衣々きぬぎぬ
 月影によろひとやらん見透みすかして    芭蕉

 「尼になる」というのを、夫がいつ戦死するかわからない戦国武将の妻と見ての付け。月影に現れた鎧武者は、あるいは亡霊か。

    ふすまつかんで洗う油手あぶらて
 懸乞かけごひに恋の心をもたせばや    芭蕉

 油手に、手が油だらけになるほど上に油を塗りつける、町屋の腰元をイメージしたもの。「ふすま」は小麦の皮を粉にしたもので、今では健康食品にもなっているが、かつては手の洗浄にも用いた。
 位付けはこうした前句に人物が描かれている場合に限らず、前句の景色に、いかにもそこにいそうな人物をイメージして付ける場合もある。

     抱込だきこんで松山ひろ有明ありあけ
 あふ人ごとのうをくさきなり   芭蕉

 松は海岸の岩山などには付き物であり、明け方といえば漁師達が帰ってくる。それを漁師と言わず、魚臭いという漁師の特徴を描くことで、付けている。

 

30、牡年曰ぼねんいはくおもかげにてつくるとはいかが。去来曰、移り・匂ひ・響は附様つけやう塩梅也あんばいなりおもかげつけやうの事也ことなり。昔は多く其事そのことぢきつけたり。それをおもかげにてつくる。たとへば、
   艸庵さうあんしばらくく居ては打破うちやぶり   はせを
   命うれしき撰集せんじふ沙汰さた    去来
はじめは、和歌の奥義おうぎをしらずとけらり。先師曰、前を西行さいぎょう能因のういん境界きゃうがいと見たるはよし。されどぢきに西行とつけんは手づつならん。只俤ただおもかげにてつくべしと直したまひぬ。いかさま西行・能因のおもかげならんとなり。又人を定めていふのみにもあらず。たとへば、
   発心ほつしんの初めにこゆる鈴鹿山すずかやま   はせを
   内蔵頭くらのかみかと呼声よぶこゑはたれ     乙州おとくに
先師曰、いかさま、ぞがおもかげならんとなり面影おもかげの事、支考しこう書置かきおかれたり。参考せらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,73)

 

 古典の有名な物語や古事などを出典として付ける付け方は、連歌れんがではうづみ句と呼ばれ、古くから行なわれてきた。蕉門でも、まだ匂い付けの確立されない蕉風確立期までは盛んに行なわれていた。『冬の日』の「狂句木枯きょうくこがらし」の巻の、

    いまぞうらみの矢をはなつ声
 ぬす人の記念かたみの松のふきおれて      芭蕉

の句は謡曲『熊坂くまさか』の一場面で、牛若丸に仲間を殺られた盗賊の首領、熊坂長範くまさかちょうはんが、仇とばかりに薙刀なぎなたで牛若丸に立ち向かい、そこで牛若丸は例の八艘飛びを見せ、敗れてしまうその物語をつけている。能では熊坂の武器は薙刀だが、原典と全く同じに付けたのでは単なるパクリであり、作者の手柄にはならない。『去来抄』「故実」14にも「名将の橋のそり見る扇かな」といへるは、名将の作にして句主くぬしの作にあらず、とある。
 『奥の細道』の旅の途中での吟、「山中三吟」でも、

    髪はそらねどうをくはぬなり
 はすのいととるもなかなか罪ふかき   曾良

    あかねをしぼる水のしら波
 仲綱なかつなが宇治の網代あじろとうちながめ   北枝

といった、本説ほんぜいで付けた句がある。
 前者は当麻寺たいまでら中将姫ちゅうじょうひめ伝説によるもので、当麻寺に籠っていた中将姫が、ある日長谷観音の化身から「百駄ひゃくだの茎から繊維をとって曼荼羅を織ると、生身の仏を拝むことができる」とお告げがあり、その通りに曼荼羅を織り上げると本当に阿弥陀如来と二十五の菩薩が現れ、生きながら西方浄土へと渡ったという伝説だ。この伝説だと、中将姫は既に出家していたから、「髪は剃らねど」ということはない。
 後者は宇治川の合戦で平家六百余騎が流された古事によるもので、仲綱なかつなはそのときの源氏の武将。原典と特に変えているわけではないが、宇治の網代あじろとうちながめのところにオリジナリティーがある。北枝の記した『山中三吟評語』によると、芭蕉は前者を「さもあるべし、曾良はかくのところを得たり」、後者を「この句も、一巻のかざりなり」と褒めている。  ただ、芭蕉も元禄三(一六九〇)年の春、「もとに汁もなますも桜かな」の句を詠んだ頃から、古典の出典を引きずった重い句を嫌うようになり、出典を知らなくてもわかるような軽い句を重視するようになった。発句においては季題の本意本情を日常卑近なもので表現する「軽み」の風となり、付け句においてはほんのちょっと古典の雰囲気だけを漂わせる「面影付け」となった。

    艸庵さうあんしばらくく居ては打破うちやぶ
 命うれしき撰集せんじふ沙汰さた    去来

の句は、『猿蓑さるみの』に収められている歌仙かせんの句だが、最初去来は、

    艸庵さうあんしばらくく居ては打破うちやぶ
 和歌の奥義おうぎを知らずさうらふ

と付けたという。これは、西行が鎌倉に来たとき源頼朝みなもとのよりともに和歌の奥義を問われて、「全く奥旨を知らず」と答えたという『吾妻鏡あづまかがみ』の古事をそのまま付けている。この会見の時、兵法を問われても全部忘れたと答え、最後に頼朝から賜った銀の兎も、遊んでいる子供にくれてやったという。武士になることを拒否して和歌の道に入り、その後も権威に屈せず、あくまで平和の道を貫く西行の反骨精神が感じられる。
 本説としても、ちょっと「まんま」という感じがしないでもないが、以前の芭蕉ならこれでも良しとしたかもしれない。これに対して、「命うれしき」の句は、西行が年取った頃、ちょうど『千載和歌集せんざいわかしゅう』が編纂され、西行の歌が入集したことをいうのだが、さぞかし西行さんも喜んだことだろうという推測の句であって、特に古事として伝えられた物語があるわけではない。 出典はないが、何となく西行法師の姿が思い浮かぶようなこういう付けを、面影付けと呼ぶ。西行法師の匂いがするという点で、これもに広義の匂い付けの一種といっていい。
 同じ『猿蓑』の、「灰汁桶あくおけ」の巻に、

    何を見るにも露ばかりなり
 花とちる身は西念さいねんが衣着て   芭蕉

の句があるが、これも名前を西念としているが、西行の面影で付けた句といえよう。特に西念という有名なお坊さんがいて、何か古事があるわけではない。

    発心ほつしんの初めにこゆる鈴鹿山すずかやま   はせを
 内蔵頭くらのかみかと呼声よぶこゑはたれ     乙州おとくに

の句の場合、明らかに、

 鈴鹿山き世をよそに振り捨てて
    いかになりゆくわが身なるらむ
                        西行法師

の歌を踏まえているのだが、出家する前の官職の名前で、「よお、内蔵頭くらのかみじゃないか。どうしたんだこんな所で、その格好は。」みたいに呼び止められたという古事はない。あくまで西行の面影に基づいた、いかにもありそうな作り話だ。これが「内蔵頭くらのかみかと呼声よぶこゑもあり」だと、史実めいてしまい、本説に近づいてしまう。「誰」の一字が面影だと芭蕉が言うのは、そういう意味だ。

 

31、支考曰しこういはく附句つけくは一句に一句なり前句附まえくづけなどはいくつもあるべし。連俳れんぱいに至りては、其場其人其節そのばそのひとそのせつ等の前後の見合みあはせありて、一句に多くは無キもの也。去来曰、附句つけくは一句に千万なり。故に俳諧変化きはまりなし。支考が一句に一句と云へるは、つくる場の事なるべし。つくる場は多くなき物也ものなり。句は一ッ場の内にも、幾ッもあるべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,73~74)

 

 碁や将棋に例えればいいかもしれない。碁や将棋の次の一手は無数にある。しかし、実際はその中の一手しか打つことが許されない。一手が違えば、その後の展開の可能性はほとんど無限とでも言うべき数に膨れ上がる。
 俳諧(連句)も同じで、次の一句をみんなで案じて、いくつか候補があって、その中の一句を治定するのだが、別の一句が治定されていたなら、その後の展開は全く違うものとなる。
 三句春が続いた後、次に無季の句が来れば、その次は春以外のどの季節にも展開可能だが、秋を転じてしまえば次の句も秋となる。夜の句を詠めば、その後の三句に夜は詠めず、月の定座があれば、繰り上げるか繰り下げるか、朝の月・昼の月を詠むことになる。花の定座の二句、三句前に植物が出れば、花の定座は花火、花嫁など、植物以外の花になる。去り嫌いのルールによって、何句か先までの使える言葉が制限されることによって、展開は全く違うものになる。
 もちろん、一度使ったネタは二度は使えない。その予想のつかない、思いがけない展開が起るところに連句の醍醐味があると言っていい。
 今日では、去り嫌いのルールがわかる人が少ない上、古いルールが忘れ去られたところにいろいろローカルルールが作られているため、あらかじめ師匠が、ここで春を出して、ここで秋を出してというふうに決めてしまう場合もあるようだが、それでは本当の連句の醍醐味は味わえない。
 支考が「附句は一句に一句也」というのは、一句しか付けられないところに、前句付けとは違った連句ならではの面白さが有るという意味で、別に去来の主張と矛盾するものではない。
 前句付けというのはあらかじめ七七のお題を出して、それにみんなで五七五をつけるという、川柳の原型となった遊びだ。同じ前句にみんながいろいろ趣向を凝らしてそれぞれ違った句を作り、誰の句が一番面白いかを競うもので、一つの前句で大勢の句を一同に並べて楽しむものだ。これに対し、連句の場合、一句に一句しか付けられない所に、その一句に無限の可能性が秘められている。

 

32、先師曰せんしいはく附句つけく気色けしきはいかほどつづけんもよし。天象てんしゃう地形ちぎゃう・人事・草木・虫魚・鳥獣の遊べる、その形容みなしきなるとなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,74)

 

 気色と景色は似ているが、ここでいうのはいわゆる風景を意味する「景色」ではなく、具体的な題材というくらいに考えたほうがいいだろう。「姿」といってもいいかもしれない。「気」は朱子学では「理(誠)」に対して現象界全般を表す言葉だし、「色」もまた仏教用語で「空(実)」に対する言葉だ。つまり「気色」の句というのは我々の現実の生き生きとした世界を表す句のことで、それは何句あってもあり過ぎることはない。気色のない句というのは、抽象的な句、観念的な句のことだろう。連歌ではしばしばそういう句も見られる。
 天象てんしょうというのは月や星や太陽のような光物ひかりもの、雨や雪のような降物ふりもの、霧や霞のような聳物そびきものが含まれる。地形は山類さんるい水辺すいへんなど。人事は人倫・居所きょしょだけでなく、恋・述懐しゅっかい羇旅きりょ神祇じんぎ釈教しゃっきょうそのほか様々な人情の綾なども含まれよう。草木は草類・木類。虫魚は虫類・魚類。鳥獣は鳥類・獣類。これらの題材は連歌でも俳諧でも中心をなすものであり、気色というのはいわば「花」と言ってもいいだろう。
 各務支考かがみしこうは俳諧を「虚を以て実を行なう」と言ったように、目に見えない心の世界も大事だが、それを目に見える様々な具体的なものを用いて、わかりやすく表現することだと言ってもいい。花あっての俳諧であり、難しい理窟を言うのではなく、日常の生き生きとしたリアルな現象を描き出すことで表現してこそ、俳諧なのである。だからどのような気色も嫌う必要はない。去り嫌いの規則は気色の句を制限しているのではない。むしろ気色の句によりバラエティーを持たせるための工夫であり、気色あっての俳諧なのである。

 

33、支考曰しこういはく附句つけくつくるものなり今の俳諧不付句つかざるく多し。先師曰、句に一句もつかざるはなし。
去来曰、附句つけくつかざれば附句つけくに非ず。附過つきすぐるは病也やまひなり。今の作者つくる事を初心の業の様におぼへて、かへつ不附句つかざるく多し。聞人きくひと又聞得またききえずずと、人のいはん事を恥て、不附句つかざるくをとがめず、却而能かへつてよくつきたる句を笑ふやから多し。我聞わがきけけるとは格別也かくべつなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,74)

 

 この文章を読んでいると、そのまま今の連句にも当てはまりそうで面白い。人間というのは結局いつの世でも変わらないものなのだろうか。
 付け句というのは意外なもの同士が結びつくから面白いのであって、付きすぎた句というのは意外性がないから退屈であり、付かない句は意味が通らない。

     抱込だきこんで松山ひろ有明ありあけ
 あふ人ごとのうをくさきなり   芭蕉

 たとえばこの句の場合も、水墨画に描かれているようなのどかな漁村の明け方の風景に、そこの住人はみんな魚の匂いをぷんぷんさせていると、古典の風雅とはかけはなれたリアルな「あるある」ネタで落とすところに面白さがある。これが、

     抱込だきこんで松山ひろ有明ありあけ
 あふ人はみな漁師なりけり

では当たり前すぎて面白くない。いわゆるベタな月並句になる。これに対し、

     抱込だきこんで松山ひろ有明ありあけ
 あふ人ごとに匂うにんにく

では、漁村風景とニンニクとの関連がつかめず、意味不明になる。その漁村は実はニンニクを好む民族の村だったとか、後から理由を古事付けることは出来るが、それで理屈が通ったからといって、句そのものは面白くならない。
 どちらも、やってはいけないというわけではない。ただ、やってもつまらないだけだ。「付かず離れず」というのは規則ではない。ただ、付きすぎず離れすぎない句が、大体において面白いというだけのことなのである。
 ただ、凡庸な作者というのは、その微妙な壺をなかなか押さえられないため、たいていは付きすぎるか離れすぎるかのどちらかになる。このとき、付きすぎる句というのは、たいていわかりやすい句で、ごまかしが利かない。離れすぎた句は意味が通らないため、みんなわからない。だから、「えっ、何?この句の良さがわからないの?」と逆に居直ることができる。そのため、凡庸な作者ほど「付きすぎ」と言われるのを恐れ、付かない句を乱発する傾向にある。
 さらに言うなら、きれいに付いた句というのはそれだけで完成していて、次の句が附けづらくなる。そこをうまく付ける所を変えたり、趣向を違えたり、思い切って句を別の意味に取り成したりして展開させる腕があれば別に問題はないのだが、下手な連衆だと、そこで詰まってしまい先へ進めなくなる。
 そこでこう結論してしまうのだ。「句があまりきれいに付いてしまうと後の展開がしにくい。だから悪い句だ。句の展開に困ったときには付かない句でもいいことにしよう。いや、付かない句こそ、次の展開のしやすい良い句だ。」結局は句をうまく展開させる技術のなさをごまかしているのだ。
 筒井康隆の小説に、電車の中の宙吊り広告で、恐ろしくダサいものがあったのだが、ある偉い評論家が「あれはIQ120以上の人にしかわからない高度なギャグだ」と言って以来、電車の中でその公告を見た人が本当はどこが面白いかもわからず引きつったような笑い声を上げるようになったという話があった。
 付かない句もそれと同じで、本当は付いてなくても、これはひょっとして凡人にはわからないような高度な付けで、自分が才能がなくてそれを理解できないだけかもしれないと思うと、「何だこれ、付いてないじゃないか」とは言えなくなる。こうして、「付かない句」もいつの間にか最も高度な句になってしまい、裸の王様が大手を振って歩くことになる。
 近代連句の場合、若干事情が異なる。というのも、連歌・俳諧の伝統が明治の近代化の中で一度途切れ、長いブランクの末に、ようやく一九六〇年代に入って復活の機運を見たものだから、基本的に連句の作者は句の付け方を知らない。しかし、文学者としてのプライドだけは高いから、「知らない」なんてことは認めたくない。そのため、付かない句を正当化するために、様々な理論武装を試みてきた。
 まず、究極の言い訳は、「連句は連歌・俳諧とは別物だ」という類のものだ。連詩はその点ではいさぎよい。五七五・七七などの定型を捨てて、見た目も連歌や俳諧に似てないからだ。ところが連句は、いくら別物といっても、五七五・七七の定型だけでなく、歌仙とかいう一巻の形式や、去り嫌いなどの規則、月花の定座のような慣習を、むしろ極端に頑なまでに守ろうとする。これが「別物」だなんていわれても、誰も納得はしないだろう。別物だというなら、全く新しい形式と式目を創造すべきであり、中途半端に伝統の模倣をすべきではない。
 次の言い訳は「付かないように見えるが、これこそが芭蕉の『匂い付け』という、最も高度な付け方なのだ。」というもので、これは正岡子規が写生説を芭蕉に仮託した以上にたちが悪い。というのも、正岡子規はまがいなりにも西洋風の新たな風体の流行を生み出し、様々な近代俳句の可能性を開いたからだ。しかし、連句の作者は、ただ下手くそな付かない句を、芭蕉の権威を利用して煙に巻いているだけで、未だ連句は流行していない。むしろ、俳句研究者がそれに騙されて(あるいはグルになっているのか)、匂い付けそのものを誤解し、研究そのものをゆがめてしまっている罪のほうが大きい。こうしたやり方は、結局連歌を「愚なるもの」としてきた近代の偏見にとどめを刺し、近代連句は試みられたが「やっぱり愚なるものだった」で終ってしまうことになりかねない。
 とにかく騙されてはいけない。上句下句を続けて五七五七七の和歌の形にして読み下してみて、意味が通らないものは基本的に付いてない句であり、付け句になっていないのである。

 

34、去来曰きょらいいはく附物つけものにてヶ、心附こころづけにてつくるは、其附そのつけたる道すじ知れり。附物つけものをはなれ、じゃうをひかずしてつけんには、前句まへくのうつり匂ひ響き無くしては、何の所にてつけんや。心得こころうるべき事也ことなり又云附物またいはくつけものにてつくる事、当時は嫌ひはべれど、そのあたりを見合みあひ、一巻に一二句あらんはまた風流なるべし。又曰またいはく、蕉門の附句つけくは、前句の情を引来ひききたるを嫌ふ。ただ前句は、これはいかなる場、いかなる人と、其業其位そのわざそのくらひよく見定め、前句をつき放してつくべし。先師曰、附物つけものにてつくる事、当時不好このまずといへども、つけものにて附難つけがたからんを、さっぱりと附物つけものにてつけたらんは又手柄成またてがらなるべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,74~75)

 

 現代文学だと、えてして方法論としてこれが正しいと組織の方で決定してしまうと、何が何でも全部そのとおりとなりかねないが、俳諧はそのような官僚主義文学とは無縁だった。俳諧はあくまで市場の文学であり、大衆に支持されなければならない。そのため、基本的には、面白くなくては俳諧ではない。
 蕉門は匂い付けを良しとするとはいえ、匂い付け以外はやってはいけないということではない。ただ当時の大衆に、前句の情に流された「重い」付けよりも、前句の情を突き放した軽い付けのほうが好まれたというだけにすぎない。つまり、句が説教くさくなったり、人情話で落としたりするパターンが、流行の先端を行くものにとってはダサかったにすぎない。
 それは今でも変わらない。漫才などで銀行強盗ネタをやるのに、わざわざ銀行強盗は悪いことでやってはいけないんだよ、みんなが迷惑するよなどと言う必要はなく、ただ、調子っぱずれなバカやって失敗するところを見せるだけでいい。それが粋というものだ。
 江戸時代には、江戸・上方を中心に大都市が形成され、そこにはいろいろな国からいろいろな人が集まり、身分や職種の違う人が集まれば、それぞれ立場も考え方も感じ方も異なる。一つの価値観を押付けあうのは野暮の骨頂であり、お互いに立場があるのを理解し、価値観を相対化しながら生きてゆく。それが都会に住む者にとって必要不可欠なことだった。
 そうしたなかから、人情も立場によって変わることを理解し、無理に自分の考えを押付けず、ただ、変だと思うものを笑い、おかしなものを笑い、人生の不条理を笑い飛ばし、笑いという生理的な感覚を通じて、何が本当に不易なのかを探ってゆく。
 頭でこしらえた理窟で持って、これが正しいはずだというのではなく、あくまで身体感覚を通じて不易を体得してゆく。それが俳諧であり、今日の大衆芸術の精神でもある。
 大衆芸術というと、あんなものは金のためにものだと言う人もいるかもしれないが、大衆の支持を広く得られなければ金にはならない。そのため自ずと、作品は一部の金持ちを喜ばすものではなく、むしろ世間の大多数を占める貧乏人のためのものとなる。
 つまり、金持ちに媚びていたのでは大衆的な支持は得られない。金に媚びた作品は、一時は流行はやっても、すぐに忘れ去られ、決して大衆の心に残ることはない。そこに自浄作用が働く。
 これに対し、結社の文学は結社組織の官僚主義に支配され、世間から孤立した別の世界を作ってしまう。そのため自浄作用が働かず、作者はただ結社のお偉方を喜ばすための作品を書き続けることになる。結社の文学は結局は権威に媚びているのである。
 物付け、心付けは付け句の基本であり、それは決して否定すべきものではない。それらはあくまで一つの「道すじ」なのである。
 ただ、物付けは機械的な操作なので、速さと句数を競った、ややスポーツ化した延宝えんぽうの頃の俳諧ではもてはやされたが、天和てんな貞享じょうきょうの頃から一句の内容を重視する方向に変わり、心付けが主流となっていった。
 この変化はおそらくは興行の中心が寺社などから新興商人の屋敷に移り、一日がかりの長い興行が敬遠されるようになったからだろう。興行の中心は千句や百韻(百句)から歌仙(三十六句)になり、夕方から始まることが多くなった。短時間で談笑しながら句を付けてゆく上で、速さを競うのではなく、一句一句を味わう方向に向かっていったのだろう。
 ただ連衆れんじゅが閉鎖的になり、同じ価値観を持つものしか受け入れなくなってくると、自ずと興行も先細りになる。
 特に江戸上方では様々な新しい娯楽が生れ、その中で俳諧と競合するようになったのは、点取り俳諧から派生した前句付けだった。前句付けのいいところは、一句だけで、しかも匿名による投稿という手段で参加できるため、時間に縛られない上、連衆とのわずらわしい人づき合いも必要ないことだ。
 このことはやがて、俳諧興行にも影響を及ぼすこととなった。興行の席でも、あまり同じ世界観価値観ということにこだわらず、誰もが気軽に参加できる雰囲気が必要になった。そうなると、情のこもった重い心付けの句より、より身体的な感覚で軽く付ける匂い付けが好まれるようになった。匂い付けは芭蕉の発明によるというだけでなく、むしろ芭蕉と席をともにしたたくさんの連衆たちの望むところでもあったのだろう。
 重い心付けも確かに捨て難いものはある。各務支考かがみしこう有心付うしんづけと呼び、会釈あしらい、逃げ句とのバランスを取ることを主張したように、一巻の中にあったほうがよい。ただ、そればかりになると、やはり価値観の異なる連衆が集まる場では、反感を持つものも出てくるから、注意を要するというだけにすぎない。
 物付けは『去来抄』の書かれた時期にはすっかり廃れていたのだろう。非蕉門系の大阪談林でも、主流は心付けだった。芭蕉の最後の歌仙、「白菊」の巻で

    そでふさぐより親の名代みゃうだい
 堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて    荷中かちゅう

という句があるが、荷中は何中かちゅうのことで、談林系の才麿さいまろの門人だった。前句は十五で元服して以来ずっと親の代わりに働いているという句で、それにお隣さんとのちょっとした盥の貸し借りでもきちんと礼を言う、礼儀正しさを付けている。いかにも若い名代のやりそうな仕草ということで位付けにようにも見えるが、そこには「親しき仲にも礼儀あり」という一つの道徳が含まれ、心付けになっている。これに対し芭蕉は、

    堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて
 普請ふしんの内は小屋で火をたく   芭蕉

と付ける。ここでは前句の礼儀は大切だという心とは無関係に、盥の貸し借りをするというところから、工事現場で隣に盥を借りに来る大工さんの、いかにもありそうな情景としている。これが「これはいかなる場、いかなる人と、其業其位そのわざそのくらひよく見定め、前句をつき放してつく」という一つの見本といえよう。ただ、その芭蕉も同じ一巻の中で、

    つゑ一本を道のわきざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

という、カラスの声にも涙する老いた旅人の情を付けている。どこか、この約十日後に詠む、

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる    芭蕉

に通じるものがある。こういう句は匂い付けか心付けかなどという理屈を越えた名吟とすべきであろう。「病雁の」の句が海人の屋のいとどの句に勝るのと同じである。
 心付けも、基本的には説教臭くなく、人間として不易の情を詠んだ句であれば問題はない。物付けも、いけないというのではなく、その場の機知として誰が見ても付けにくい難しい場面で、さらっと物付けで逃げてみせれば、やはり好句というべきだろう。

 

35、宇鹿曰うろくいはく、先師十七條の附方つけかた路通ろつうに伝授し侍るとうけたまはる。いかが。去来曰、遠境の門人のねがひよりて、附方つけかた書出かきだしたまふ。されど後々のちのちはせをの附方つけかたこれに限りたりと、人の迷はん事を恐れて、これすてられしとなり其書出そのかきだし給ふ分、十七條とやらんききたり。是を伝授し給ふ事をしらず。大津にての事とやらんなれば、路通もしその反古ほうぐを取て、人に教ゆるにや。
 許六曰きょりくいはく此事このことを願ひたるは千那せんな法師なり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,75)

 

 宇鹿うろくは、長崎の門人で、『付句十四体』『発句十六篇』などの著作が有り、こういう何カ条が好きなようだから、芭蕉が十七条の付け方を路通に伝授したという噂を聞いて、ぱくっと食いついて来たのだろう。十七条というと聖徳太子の憲法と一緒なので、何か十七という数字にも神秘めいた意味ありげな感じがしてしまう。
 去来が言うには、そのようなものはないが、遠境の門人に宛てて、付け句を書き出したものはあるという。この「遠境の門人」は加賀の北枝ほくしのことらしい。山中温泉での興行で芭蕉が言ったことをきちんとメモして、それが今でも『山中三吟評語』と呼ばれているように、なかなか勉強熱心だったようだ。ただ、こういう勉強家というのは、付け句を自分の感覚で付けずに、マニュアルに従おうとする傾向があったりする。
 中世連歌では、よく師匠が弟子に向けて付け方、心得などを書にして伝授したりしたしたし、それとは別に口伝で重要な秘訣を授けたりもした。これは一つにはまだ出版文化が未熟で、江戸時代のような版本が大量に出回ることのなかった時代で、遠方にいる弟子に技術を伝えるには、書をしたためるか実際に会ったときに集中的に伝授するしかなかったからということもある。必ずしも隠そうとして隠していたわけでもなかったのだろう。
 ただ、そういう一流の師匠に合うことができるというだけでも、自ずと人数は限られていたし、師匠と話すチャンスを得るというだけでも大変なことであれば、伝授を受ける人は自ずと限られていた。また、書といっても紙はまだ貴重で、複製するにも手で書き写すしかなかったから、自ずと見る人も限られていた。もちろん書は公開されて、誰でも読めるというわけではなく、持っている人に頼み込んで見せてもらうしかなかった。そうした、メディアの未熟が、結果的に情報を秘匿することになってしまったのだろう。
 芭蕉の時代は既に木版による出版文化が花盛りで、実際に夥しい数の俳書が刊行されていた。ただ、芭蕉はその手のものを書かなかったため、芭蕉はいまだ昔ながら、弟子に秘伝で伝えているのではないかと勘ぐる人も多かったのだろう。
 ただ、実際のところ芭蕉は理屈が苦手で、自分の付け筋を体系的に理論化するのが苦手だっただけだろう。だから、仮に十七条があったとしても、ただ思いつくまま書き付けただけで、体系的な俳論書の形を取っていたとは思えない。芭蕉に実際会って、芭蕉のことをよく知っている人なら、芭蕉が体系的な議論などするはずがないと、すぐにわかることだったのだろう。
 芭蕉が生涯にわたって作風を変え続けることが出来たのも、理論として付け方を固定しなかったためだ。もし、路通に十七条の付け方を書いて与えていたとしても、それはおそらく元禄三年以前のまだ軽みや匂い付けの風を確立する前の古い付け方で、すぐに役に立たなくなる種のものだっただろう。別に去来が言うように「はせをの附方は是に限りたりと、人の迷はん事を恐れて、是を捨られし」などと、『無門関』のようなことを言わなくても、単に時代遅れということで破棄された可能性はある。
 去来と路通は仲が悪かったのか、最後のところでは路通を疑って、芭蕉が北枝に贈った書を何らかの形で入手して、それを人に教えて、蕉門のいっぱしの師匠づらしているのかと言うが、許六はあっさりと否定する。それをやろうとしたのは千那せんなだという。千那は尚白しょうはくとともに『野ざらし紀行』の頃からの近江の古い門人で、軽み、匂い付けなどの新風について行けずに、蕉門とは疎遠になっていった。千那なら、蕉風確立期の古い蕉門の付け方を良しとして、それを守って行きたいと思っても不思議はない。

 

36、去来曰きょらいいはくつけかたは何事なにごともなく、すらすらきこゆるをよしとす。巻をよむに思案工夫して附句つけくを聞くは苦しき事也ことなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,75)

 

 落語には考え落ちというのがあり、発句にも謎句というのがある。謎をかけておいて、かなり後になって、なるほどそういうことだったのか、思わせるような句も、一つの手法ではある。ただ、落語の考え落ちも、話が終る最後の部分で使うものだし、謎句の発句もそれで興行を始めるわけではない。だから考える時間を十分に与えられている。
 付け句の場合、みんな忙しいところを集まっていただき、終れば酒や料理も待っているところで、あくまでスムーズに進行することが求められている。途中で、何だろうと考えている隙はない。連句は鎖のようなもので、本来上句に下句が付き、その下句にまた別の上句が付くことで、滞りなく流れるように句を連ねて行くもので、たとえ実際途中で詰まってしまったとしても、あくまで何事もなかったかのように句を連ねなくてはならない。
 付かず離れずということも大事だが、付きすぎると非難されることを恐れて、句が付かなくなってしまう事態も避けなくてはならない。出来上がった一巻を読んでみて、それこそ一読してわかり、しかも面白いという句が理想であり、ひねりすぎたり、省略しすぎたり、奇をてらったりして、何だろうと考えさせてしまうような句は、一巻全体のリズムやテンポを崩すし、第一、気の短い読者はそこで読むのをやめてしまい、後にどんな好句があっても読まれなくなってしまう。小説でも、途中で急に難解な文章が入れば、そこで夢から醒めたみたいに現実の世界に引き戻され、興醒めし、続きを読む気がなくなってしまう。
 連句に謎句はないでもない。稀な例だが、芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、須賀川で詠んだ、

    かなしき骨をつなぐ糸遊
 山鳥の尾にをくとしやむかふらん  芭蕉

は謎句と言っていい。
 ただ、謎句もそれで当座が盛り上がるならそれでいい。ただ簡単にわかるものをわざわざ以て回った言い回しや難解な言葉で難しくする必要はない。あくまでわかりやすい句を心がけるべきであろう。言葉も中世の連歌は中世の雅語で作られ、江戸の俳諧は江戸時代の俗語で作られている。今日の連句も基本的に今の言葉で作るべきであり、結構俳句をやっている人にありがちなのだが、とっくに死語となったような万葉時代の古語や、俳句をやっている人にしか通じないような特殊な言葉を乱発するのは避けるべきだ。
 古い言葉であっても正しく使うならまだいい。普通のお寺にあるお墓を「奥都城おくつき」と言ったり、本当は西洋音楽を聴いていたのに「律の調べ」と言ったり、ベビーリーフを指して「間引き菜」と言ったり、ただ古い言葉を知っていることを誇示したくて、でたらめな用法で現代の事象をそれで表現しようとするのは愚かとしか言いようがない。

 

37、支考曰しこういはく附句つけくに新古なし。つくる場に新古有り。
 去来曰、ふうは千変万化すといふとも、句体は新シキ清キ軽キたしかニ正シキ厚キしずかナルやはらかナルつよスルなつかシキすみヤカつらナル如此かくのごときし。にぶにごれル弱キ重キ薄キしぶりタルシタタルキかたさはがシキ古キ、如此かくのごときは悪し。此内このうち堅き句と鈍き句善悪あり。又曰、古風の句を用ゆるも、場によりてよし。されど古風のままにはいかが。古体の内今様いまやう有べし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,75~76)

 

 芭蕉の自身も、貞門ていもんから談林だんりん天和てんな調、蕉風確立期、猿蓑さるみの調、軽み、という風に風体を変えてきたし、しれは単に芭蕉の考え方の変化よるというのではなく、世間がそのような俳諧を求めたからでもあった。天和てんな期には芭蕉門に限らず字余り句が流行し、伊丹流長発句いたみりゅうながほっくのような極端な字余り句も現れた。蕉風確立期も天和二年に宗因が死去し、即吟中心でスポーツ化した談林俳諧も、貞享じょうきょう元年に井原西鶴の二万三千五百句の大矢数興行で止めを刺されてしまったことから、談林風の流行その物が一気に終息してゆく時期だった。その中で、古典への回帰が時代全体の流れとして生じていた。伊丹派の上島鬼貫うえしまおにつらが、貞享二(一六八五)年に、

 によっぽりと秋の空なる富士の山    鬼貫

の発句で、それまでの長発句を卒業し、新たな一体を起こし、その後の大阪談林の一つの流れを作っていった。軽みの流行は点取り俳諧や後の川柳に通じる「前句付け」の流行によって、世間全体がより軽いものを求めた時代の流れによるもので、こうした変化というのは、決して芭蕉自身の思想的な変化に還元されるようなものではない。
 明治以降の文学・芸術は、大衆文化を古い封建的なものとみなし、あくまで西洋的なものを良しとしたため、大衆レベルでの流行と無関係にむしろ大衆の評価を馬鹿にしたような形で形成されていって、今に至っているが、それでも流行がないわけではなかった。
 日本固有のものを否定し、日本の伝統的大衆文化をいくら否定したといっても、彼等に絶対普遍的な価値観があったわけではなく、あくまで西洋に基準があったため、近代文学や近代芸術は、基本的に西洋の流行を後追いする形になった。近代俳句の世界でも、写実主義の流行が写生を生み、その後も象徴詩、ダダイズム、シュールレアリズムなど、西洋の流行を後追いし、風体を変えてきた。結局彼等は日本国内での流行を馬鹿にしながらも、西洋の流行にはどうしようもなくミーハーだったと言わざるを得ない。
 こうした二重性から、流行に乗るということは何やら文学者として恥ずべきことであるかのような雰囲気があるが、それは結局自分の国の伝統文化に対して自虐的なだけで、その一方では西洋の流行の後追いに余念がなく、むしろ、西洋の流行に乗らないことを恥ずべきこととしていると言ったほうがいいだろう。
 だから、西洋で浮世絵がはやれば浮世絵が再評価され、西洋で漫画がはやれば漫画が第二の浮世絵として再評価されることになる。だが、浮世絵を評価し、漫画を評価したのは、そうして西洋かぶれの芸術家より、日本の大衆の方がはるかに早かった。その点では、日本という国は、芸術の権威よりも大衆の方がはるかに進んだ国なのである。
 蕉門の俳諧は、最終的に「不易流行」の発見に至ることで、単に流行に流されるのではなく、流行の中に普遍的な要素を発見するに至った。つまり、世間の好みが流行に応じて絶えず変化してゆくにもかかわらず、その変化は外見的なものであり、本質的な部分では常に一定であることを見つけたのだった。
 各務支考かがみしこうが「附句つけくに新古なし。つくる場に新古有り。」というのも、付け句自体は連歌の時代から変わらず、上句に下句を、下句に上句を付ける面白さにあり、その楽しさ自体は時代に関係ない。ただ、世間の話題だとか価値観だとかは、時代によって変わり、当座で何が受けるかも、その時期に大きく関係してくる。去来もまた、時代に関係なく受ける要素を列挙している。

 「新シキ清キ軽キたしかニ正シキ厚キしずかナルやはらかナルつよスルなつかシキすみヤカつらナル」

 まず、「新しい」ということ。芸術は既成観念に囚われない思考の自由を求め、頭を柔軟にし、困難な危機的状況に直面しても、とっさの機転で乗り切る力を育むものであり、常に明日をも知れぬ現実の世界を生きねばならない大衆は、そうした既成観念を適度に崩してくれるものを常に求めている。既成観念に縛られた、鈍い、官僚組織のような腰の重いものは、ただ体制を維持し、現状を維持しようとするものに好まれるのみである。
 「清き」というのは、今日ではピュアな、純粋なと言ってもいいかもしれない。困難で不条理な人生の中でも、正しいものを正しいとし、良いものを良いとする純粋さは、いつの世でも人を感動させる。それは自分を守り通す強さでもある。世間の厳しさに打ち負けた、すれた濁った心では人を感動させることはできない。それは、結局自分を守り通せない弱さだからだ。
 「軽き」というのは、軽薄ということではなく、物事に囚われない発想の自由さだといっていい。世間の通念だとか道徳だとか、既成の価値観に縛られたものは重々しく、いかにも立派そうだが、そうした建前の世界というのは、人を狭い共同体の中に封じ込めるためのものであり、いつの時代でも大衆が求める本音はそこにはない。
 近代以前の社会では、基本的に技術革新や社会システムの変化に乏しく、生産力の進歩が極めて緩慢なため、その土地の生産量はほぼ常に一定であり、一定の生産量の中で一人が豊かになろうとすれば、その分誰かを貧しくさせることになる。そのため、世間というのは洋の東西を問わず、出る杭は打たれる的な禁欲道徳で人を縛るのが常だ。
 近代になっても、結局人は経済が成長した分しか豊かにはなれない。だから、共同体の禁欲道徳から、決して解放されたわけではない。ただ、人より豊かになろうとする衝動を禁ずることが、新たな技術を開発し、新たな社会システムや生産様式を創造し、生産性を高め、社会全体をより豊かにする可能性を奪うことも知っている。そこで、近代人は自由を讃美し、欲望や権力意思を部分的に解放してきた。
 それゆえ、大衆は常に夢を追いかける。既存の価値観を打ち破り、何か新しい発見や発明をし、いまより豊かな社会を作り出せないかと。日本では、中世に花開いた公界の文化がこうした古い共同体道徳からの自由を手にした。俳諧の文化も基本的にそれを受け継ぐものであり、それゆえ、世間の道徳を代弁するのではなく、その不条理を笑い、自由を求め続けるためのものだったのである。それゆえ、重々しいものを嫌い、軽いものを好む。そして、こうした精神風土があったからこし、日本は明治以降の近代化を速やかに行なうことが可能だった。
 「たしかに」というのは、渋らずに速やかに実行するということで、良いと思ったことはすぐに実行することを良しとする。腰の重い、鈍重なお役所仕事のような文学は嫌われる。そこには社会の進歩を妨害するような古い価値観への固執があるだけで、決して人を自由にすることもなければ豊かにすることもない。
 「正しき」というのは杓子定規な法律の問題ではない。式目にかなっていれば正しいというものでもない。私利私欲のためではなく、常に社会全体を発展させ、他人を犠牲にして自分だけ豊かになろうとするのではなく、社会全体を豊かにしようという発想は常に正しい。そのために、古い規則は時として打ち破らなくてはならない。大体、鈍重な人間というのは既得権に固執する人間であり、自分の今の豊かさを守るために、社会全体が豊かになろうとするのを妨害しようとする人間なのである。
 「厚き」というのは深みがあるということで、薄っぺらでないことを言う。道徳、教訓を詠んだ句というのは、詠んだとおりの意味だけで、含蓄に乏しい。そうした建前ではなく、あくまで本音で詠んだ自分の偽らざる真情が現れてこそ、深みがある。
 「しずかなる」というのは、音の大きさの問題ではない。人々を一定の思想に急き立てるようなものは「うるさい」。「閑なる」というのは自由に考える余裕を与え、心にゆとりを与えるもので、そのようなものであれば、蝉の大合唱であっても「閑さや‥」なのである。蝉をうるさいと思うのは、心が閑ならずだからであって、心が閑なれば、どのような音も静かになる。
 「やわらかなる」というのは平和を愛する心を持つことで、人と人との小さないさかいや憎しみから、いじめ、差別、迫害、そして大きなところでは戦争に至るまで、基本的に争いを好まないということが大事である。
 人間は遺伝子の乗り物であり、遺伝子が自らの安全を確保するに最善なのは「争わない」ことであり、平和はその意味では利己的な遺伝子の究極の声である。それは人類のみならず、すべての生き物の共通の声である。
 ただ、現実には有限な大地に無限の生物の繁殖が不可能である以上、生存競争が生じる。生存競争が避けられない以上、勝たねばならない。それゆえ、人は(人に限らず)生存競争に身を削りながらも、心の底では何よりも平和を求めるという矛盾を抱え込むことになる。
 「和なる」というのは、ただ建前で争ってはいけません、いじめはいけません、戦争はいけませんということではなく、争わずには生きられない自らの業の深さを自覚しつつ、悟りにも似た気持ちで生存競争のきびしい現実を越えて平和を願う、そうした情を言う。
 「つよき」とは、そうした自分の真情を守り通す強さである。いわば、自分の身体の声に忠実であり続ける強さである。人間の意識というのは氷山の一角のようなもので、だからといってフロイト的な無意識に支配されているというわけではない。人間のニューロンの構造は無数のコンピューターを並列につないで一斉に演算させるようなもので、意識に上らないような無数の思考が一斉に生じ、その中で無数の試行錯誤がなされ、ほとんどのものは自然淘汰されるという脳内ダーウィニズムが生じ、最終的に生き残った思考だけが意識に上ってくる。人間の理性というのも、そうした氷山の一角ともいえる意識に上ってきた思考を基にしたものであり、それゆえ、理性といえども何らかの形で身体に拘束されている。
 つまり、意識に上る前に淘汰されてしまった思考は、いかに理性といえども思考することが出来ない。その意味で、理性というのは決して自由ではない。本当に自由なのは、脳内ダーウィニズムの過程の中で生き残る思考の強度なのである。ニーチェのいう超人とは、こうした身体の強度に従って生きる人間のことなのでる。
 「する」というのは今日でも「げせない」というその反対で、納得できる、共感できるということを言う。それは理論として理解することではなく、日常の生活感覚の中で、納得の行く内容であることをいう。為政者が、特定の人にだけ利益が行くように巧妙にごまかした論理を持ち出しても、大衆の感覚は鋭いものだ。
 「懐しき」は今でいえばノスタルジックということだ。人は苦しい生活の中で、つらいことは忘れ、いいことだけを覚えておこうとする。そのため、年を取るにつれ、過去のつらかったことを忘れ、甘美な思い出ばかりが残ってゆく。そして、それはいつしか理想の世界を生み出して行く。ただ、ノスタルジーは思い出の中にだけある、脳が生み出す虚構であり、それが現実と混同されるとかえって有害なものとなる。ノスタルジーはその意味で酒に似ている。しばし現実の喧騒を忘れ、夢の世界に遊んでいるうちは害はないし、むしろ明日のきびしい世界を生きる糧ともなる。ただ、前後不覚になるまで飲んではいけない。
 「速やか連なる如く」というのは、主に連句のことで、連句において、西鶴の矢数俳諧みたいな極端なものではないにせよ、やはり連衆がテンポよく句を付けてゆくことが求められる。そして、このテンポの良く句を連ねて行くには、既成観念に囚われない発想の自由さが求められる。即興芸に難しい思想を込めるひまはない。その点で、たとえ発句が主流になっていったとしても、連句の即興芸がその基礎になければ、必ず濁って重いものとなる。近代俳句では即興での十句連作という形式が、俳句の本来の軽さを守ってきたといえるかもしれない。
 「堅き句と鈍き句善悪あり」というのは、風雅の精神というのも古くからあるもので、古人の道を頑なに守るという意味で腰の重い鈍い句は、必ずしも否定すべきではない。そうしたものは、世俗の道徳に縛られた堅苦しくデリカシーのない句とはわけが違う。だから、古めかしい風体が必ずしも悪いということではない。古い中にも今の風流に通じるものがあれば、決して悪い句ではない。ただ、古風の模倣ではあまりにも芸がないから、古い中にも何か新しさが欲しいところだ。
 こうした去来の説は、今日の大衆文化にも悉く当てはまるし、その意味では今でも生きている。むしろ、明治以降の純文学の圧制にもかかわらず、俳諧の伝統は今日まで生き延びたと言ったほうがいいかもしれない。俳諧の精神は、今日の日本のJ-pop、漫画、アニメ、お笑いなどの中にしっかりと息づいている。そして、今それに世界が注目しているのである。西洋の猿真似芸術より、本当に世界に通用するのは、こうした日本の大衆芸術なのである。

 

38、先師曰せんしいはく一巻表いっかんおもてより名残迄なごりまで一体いったならんはぐるしかるべし。
 去来曰きょらいいはく一巻いっかんおもて無事ぶじさくすべし。初折しょをりうらより名残なごり表半おもてなかばまでに、物数奇ものずききょくあるべし。なかばよりして名残なごりうらへかけては、さらさらと骨折ほねをららぬやうさくすべし。すゑいたりてはたがひ退屈出来たいくついでき、なを好句かうくあらんとすれば、かへって句渋くしぶ不出来ふできになるものなり。されど、末々すゑずゑまで吟席ぎんせきいさみありて、好句かうく出来できるのを無理むりやむるにあらず。好句かうくをおもふべからずと云事也いふことなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,76)

 

 ここで一巻の最初から最後まで一体というのは、風体ふうたいだとか手法のことではなく、運座うんざの上での流れや勢いを重視するということをいう。
 つまり、竜頭蛇尾りゅうとうだびになったり、中だるみになったりして、興行こうぎょうそのものが盛り下がることを心配するもので、出来上がった作品としての一体をいうのではない。
 「一巻いっかんおもて無事ぶじさくすべし」というのは、連歌師紹巴れんがしじょうはの『至宝抄しほうしょう』に、

 「面八句の内十句目までも不仕事、神祇・釈教・恋・無常又は名所、其外さし出たつ言葉など不仕候、事により発句には神祇・釈教・恋・名所仕来候。」

とあるのを受け継ぐもので、ただ、紹巴じょうはは初表の八句プラス初裏の二句目まで、つまり十句目までと言っているのに対し、去来は単に「表」としか言っていない。これは、連歌が通常百韻のような長い形式を用いることが多かったのに対し、芭蕉の時代の俳諧は三十六句からなる歌仙が主流となり、懐紙も二枚しか使わないため、早いうちから本題に入る必要があったからだろう。芭蕉の句でも、初の裏の二句目で恋をんだ例はいくつもある。『狂句こがらし』の巻の、

    わがいほは鷺にやどかすあたりにて
 髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉

『むめがかに』の巻の、

    御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ     芭蕉

もそうだし、『馬かりて』の巻では、曾良が「役者四五人‥‥」とんだのをわざわざ直して、

    霰降るひだりの山は菅の寺
 遊女四五人田舎わたらひ    曾良

としたことが『山中三吟評語』に記されているが、これも初裏の二句目だった。百韻の最初の十句は全体の10パーセントにすぎないが、歌仙は表六句だけでも16.7パーセントになる。
 この『去来抄』に「初折しょをりうらより名残なごり表半おもてなかばまでに、物数奇ものずききょくあるべし」とあるように、蕉門では初の裏に入ったら展開部であり、それも名残の表半ばまで、つまり二十四句目くらいまでとしているから、若干前半に山が来るようにしているのがわかる。
 それ以降は夜も深まり、連衆も疲れてくるから、早々と切り上げることに重点を置くことになる。ただ、連衆の興が乗って良い句が次々と出てくるような状態ならば、わざわざその勢いを止める必要はない。あくまでこれは運座の目安であって、形式ではない。座が煮詰まって、そろそろ退屈してきているところに、無理に「この辺でもう少し好句が欲しい」みたいな功を求めるような欲張った運座をを戒めているにすぎない。

 

39、其角曰きかくいはく一巻いっかん我句わがく九句十句きうくじふくりとも、一二句いちにく好句かうくあらばよし。不残のこらず好句かうくせんとおもふは、却而かへって不出来成ふできなるものなり。いまだ好句かうくなからんうちは、随分ずゐぶん好句かうくおもふべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,76)

 

 基本的に連句れんくはパス回しであり、蹴鞠けまりに近い。蹴鞠けまりに近いゲームというと、昔はよく学校でも職場でも、昼休みなんかに円になってバレーボールをするのがはやったが、これもチームに分かれて勝負をするのではなく、ただパス回しだけを楽しむもので、大勢でできるキャッチボールだった。
 連句れんくも基本は言葉のキャッチボールといっていい。まずは相手に取りやすい玉をパスするのが基本になる。そして、余裕があればそこに高度な技を織り込んでゆくというだけなのである。蹴鞠けまりでも、サッカーでいうオーバーヘッドヒールキックみたいな技があるが、いつもそればかり狙ってたのでは、失敗して他の人に取れないような玉になりやすいし、高度な技というのは、ここぞというときにだけ決めればいいのだある。
 連句れんくもそれと同じで、常に次の人に付けやすい句かどうかを考えてつけなくてはならない。一人よがりな難解な句というのは次の人の迷惑になるし、両義性のない、一句で完結した一つの世界を作ってしまうような句というのも嫌われる。むしろ意図的に句に両義性を持たせ、次の人に取り成しの余地を作っておくのがコツだとも言えよう。
 其角きかくは一巻に一、二句好句こうくあればいいというが、芭蕉ばしょうなら全部遣句やりくでもいいと言ったかもしれない。好句こうくはただチャンスが回ってきたときだけ決めればいいのであり、難しい句に無理に好句こうくけようとする必要はない。
 どのスポーツでもそうであろう。チャンスがあれば逃さず決める。チャンスがなければ無理はしない。連句れんくもチームプレーである以上、スタンドプレーに走らぬよう、注意したい。

 

40、浪化曰らうかいはくいま俳諧はいかい物語等ものがたりなどもちゆることはいかが。去来曰きょらいいはくおなじくば一巻いっかん一二句いちにくあらまほし。さるみのの待人入まちびといれ小御門こみかどかぎも、門守かどもり翁也おきななり此撰集このせんしふとき物語等ものがたりなどすくなしとて、粽結ちまきゆふさくし入給いれたまへり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,76~79)

 

 芭蕉は出典に密着しすぎた重さを嫌うところから、発句においては「軽み」を、付け句においては「匂い付け」を提起してきた。

 あなむざんやなかぶとの下のきりぎりす 芭蕉ばしょう

の句は謡曲『実盛』の一場面を連想させることで、句のイメージが能の一場面を超えることが出来ないばかりでなく、能を見た事のない人にはどこが面白いかわかりにくくなる。それを、

 むざんやなかぶとの下のきりぎりす 芭蕉ばしょう

とすることで、「むざんやな」の上五は謡曲のイメージに囚われず、読者の自由な解釈を許すものとなった。
 付け句もまた、物語の一場面を特定するのではなく、

    輾磑てがいをのぼるならの入口いりぐち
 半分はんぶんよろはぬひともうちまじり   嵐蘭らんらん

の句のように、特にどの合戦の場面というのがわからなくても、ただお寺が武士の攻撃に対抗すべく兵をかき集めてきたが、鎧が不足するというのは、いかにもありそうで面白い。
 しかし、これは決して物語の趣向そのものを排除するということではない。

    うをほねしはぶるまでおい
 待人まちびといれ小御門こみかどかぎ    去来きょらい

この句は『猿蓑さるみの』の「市中いちなかは」の巻の句だ。前句の魚の骨を噛み砕けなくなって、いたずらにしゃぶるだけの老人を『源氏物語げんじものがたり』「末摘花すえつむはな」の門の鍵の番人の老人と取り成しての、本説付ほんぜつづけの句だ。
 人前に姿を表わさない末摘花の姫君に興味を持った光源氏は、ついに雪の日の明け方にその風貌を目にすることで納得し、門を出る。

 「御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。」

 出典では光源氏の出て行く時の鍵を持っていた老人だが、門番であればこの鍵で待っていった人を入れることもあっただろう。ここでも、物語に直接付いているわけではない。小さな御用門の鍵を預かる老人という、いわば『源氏物語』のそれほど目立たない脇キャラを登場させた付け合いで、わかる人にはわかるというものだ。
 こういう句も一巻に一句か二句ぐらいまでなら、句のバラエティーの一つとして許容される。しかし、こうした句ばかりになるとマニアックで一般の人にはわかりにくい一巻となってしまうから、やはり多用はすべきではないのだろう。

 粽結ちまきゆふかた手にはさむ額髪ひたひがみ    芭蕉ばしょう

 この句も『猿蓑』の夏の発句だ。玉鬘たまかづらの俤か。
 玉鬘は五月雨の降り続く中で、髪の乱れも気にせずに熱心に物語を書き写していて源氏に笑われたが、ここでは粽を結うという同じ五月の日常の景色に換骨奪胎している。髪の乱れに女らしい可愛らしさを表現するのは、後の歌麿の美人画にも見られるし、今日の漫画・アニメ文化の「あほ毛」にも受け継がれている。
 連歌などでも、「物語」というと『源氏物語』を指す場合が多い。宗祇そうぎの『長六文ちょうろくぶみ』にも、

 「源氏の物語を寄合よりあひにつかまつる事、つね事候ことさふらふただ彼物語かのものがたりを知らざる人は多くつかまつりちがふ事今のはべり」

とあり、

 「五條の三位さんみは源氏をしらざらん歌よみは無下むげ事也ことなりと申されたれば連歌れんがつかまつり候同事さふらふおなじことなるべし」

と言っている。『猿蓑』の中にも、『源氏物語』の句は花として何句か欲しかったのだろう。

 

41、去来曰きょらいいはく凡吟およそぎんあるときふうあり、ふうかならへんず、是自然これしぜん事也ことなり先師是せんしこれをよくとりて、一風いっぷうながくとどまるまじきをことしめたまへり。假令先師たとひせんしふうたりとも、一風いっぷうしづんで変化へんか不知しらざるは、却而先師かへってせんしこころにたがへり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)

 

 卜田隆嗣しめだたかしの『声の力─ボルネオ島プナンの歌と出すことの美学─』(一九九六、弘文堂)に、こういう話が記されている。
 ボルネオ島の中央部に近い、ブラガ川源流地帯に住む、最近まで狩猟採集生活を続けてきた人々の集落の音楽を研究した時の話だが、半年ばかり現地を離れ、日本に戻って、そして再び再調査に言った時、歌っている歌のほとんどが別のものになっていたというのだった。

 「彼らはやはり頻繁に歌っていた。ところがそのうたは、半年ほど前に録音して持って帰ったものとは全く違ったものばかりであった。大ざっぱな印象としては、あまり音高の種類は多くなく、音域もせまいという共通した特徴があるのだが、旋律も歌詞も、一つとして完全に同じものがないのだ。歌詞の場合には「うた」に特有の表現がルーチン化して用いられることも少なくないが、しかしそれも比率としては10パーセントに満たない。これにはかなり衝撃を受けた。
 この時まで、わたしはまったく無意識のうちに、プナンのうたは有限個のレパートリーから成り立っていて、そこに新しいものが追加されたり古いものが削除されたりしながら、伝承されていくものだ、と信じ込んでいたのである。前回の調査では、伝承の部分にまで立ち入る余裕はなかったので、今回はそのあたりもちょっと突っ込んで調べてみようと思っていたところヘ、いきなりわたし自身が意識していない偏向(バイアス)を指摘されたようなかっこうである。
 これは一体どういうことか。プナンにはうたの伝承などまったくないのか。それならうたはどのようにして創り出されるのか。そもそも「うた」とは何なのか。」(『声の力─ボルネオ島プナンの歌と出すことの美学─』卜田隆嗣、一九九六、弘文堂、p.6)

 どうやら流行のサイクルが早いのは、我々の社会だけではないようだ。
 考えてみれば、これは自然なことだろう。録音機もなければ楽譜もないプナンの人々が、一体どうやって膨大な過去の音楽を記憶することができるだろうか。
 彼らに我々と違う特別な能力があるわけでなく、あくまで自身の記憶に頼る限り、そんなに多くのレパートリーを覚えているわけではない。
 一方で、人間に正常な創作意欲がある限り、次から次へと新しい曲が生れてくる。そうなれば、古い曲はごく一部を除いて速やかに忘却されてゆくしかない。少なくとも、権力によって覚えることを強要され続けない限り、次から次へと新しいものが生み出され、一時流行し、やがて忘れ去られるというのは普通のことだ。
 そんなことはない。昔の人は一つの曲を何百年も演奏し、愛し続けたのであり、作品を使い捨てにするようになったのは今日の商業主義のせいで、すべては資本主義が悪い、という人もいるかもしれない。多分、こういう人達が権力の座に着いたなら、芸術の創作をきびしく弾圧し、最高指導者を讃える歌だけを何十年も強要し続けるような社会を作るのだろう。それが資本主義よりマシな社会かどうかは、意見の分かれるところだ。
 流行のサイクルは、いかに早く飽きるかによって決まるものだから、録音技術のなかった時代は、一つの曲が長く愛されていてもおかしくはない。たとえば、雅楽の『越天楽えてんらく』を平安時代の人はどの程度の頻度で耳にしただろうか。宮廷にいれば、お目出度い儀式のたびに耳にしたかもしれない。しかし、祝賀の曲がみな『越天楽』というわけではないだろう。そのつど新しい曲も試しただろう。
 一方、宮廷とは無縁の庶民にとって、この曲を聞く機会はどの程度あっただろうか。一年に一度も耳にすることがあっただろうか。おそらく、一生に何度、あるいは一生に一度聞ければよかったかもしれない。だとしたら、まずこの曲を聞き飽きるということはありえない。そのため廃れることがなかったといってもいいだろう。
 今日であれば、気に入った曲はエンドレスで流しておくことができる。これだと、どんな名曲でも早かれ遅かれ飽きる。聞き飽きるまで聞いてしまうから、流行のサイクルは早くなるのである。
 先のプナンの民謡は、逆の意味で、単純でいつでも演奏できるため、座が盛り上がれば飽きるまで歌うことができる。そのため、結果的に我々の世界の流行の速度とそれほど変わらなくなってしまう。
 つまり、原始的な歌は単純で、いつでも歌えるため、速い速度で流行を繰り返す。それがやがて高度になり、メンバーを集めて、長いリハーサルを経て、しっかりとした会場を設営して、やっと発表できるようになると、演奏の機会が激減する。そのため、流行のサイクルは長くなる。しかし、今日ではCDやストリーミングで、どんな高度な演奏でも好きなだけ飽きるまで聞くことができる。そのため、流行のサイクルは原始の音楽と変わらなくなる。
 同じことは文学にもいえるだろう。原始的な民謡の歌詞のようなものは、早いサイクルで流行したであろう。これに対し、長編になればなるほど、それを暗記するのに多大な労力を要するようになり、語る機会も減る。そのため、叙事詩のような長大な口承文学の流行のサイクルは、きわめてゆっくりとしたものになる。しかし、それが活字になり、誰でもいつでも読めるようになると、どんな長編小説であっても、流行のサイクルは短くなる。
 俳諧の場合はどうだろうか。俳諧の場合、五七五の短い文型で、文字を知らない人でもすぐに覚えることができ、いつでも吟じることができる。ならば当然流行のサイクルは短くなる。句が毎日のようにどこかで次から次へと生み出され、その大半はあっという間に忘れ去られてゆく。
 一つの風体の流行のサイクルですら、談林だんりんの流行は延宝えんぽう三年ごろから延宝の末年まで、天和てんなの破調の流行は延宝末から、貞享じょうきょうの始めごろまで、ともにせいぜい五年程度だった。これも五七五の手軽さからすれば何ら不思議ではない。
 どんな芸術でも、人間に表現の欲求がある限り、いつの時代でも次から次へと新作が誕生する。政治的に抑圧しない限り、それが自然な状態なのである。そして、誰しも強制的に覚えこまされないかぎり、こうした作品の大半はすぐに忘れ去られて行く。それゆえ、流行が生れる。「風は必ず変ず、是自然の事也」というこの去来の言葉は、決して根拠のないものではない。流行とは、人間のあくなき創作欲と記憶力の限界とによって生じる自然現象である。
 また、流行は一個の作品のレベルだけでなく、作風のレベルとしても起るし、生活様式を含めたファッションにもなれば、文化や世界観などを包括したゼネレーションにもなる。これらもすべて自然現象である。
 流行というのは基本的に自然現象であるために、いかに文学者たちが巷の流行に背を向け、馬鹿にし、特権意識を持とうとも、そうした文学者の創作の中にまた、世間の流行とは別の文壇内部での流行が生じることを止めることができない。
 しかし、いかに流行が必然的であっても、その中でいくつかの作品は長く人の記憶に残る。別に好きだとか、価値があるとかと関係がなく、子供のころ聞いたCMソングのように、取り付かれたように忘れられない曲というのもある。
 ただ、こうして記憶に残ったものが、そのまま「不易」として後世に残るわけではない。たとえ、ある世代の人に熱烈な支持を受け、強烈な記憶として残っていたとしても、次の世代にとってアピールするものがなければ、結局その世代が棺桶に収まった時点で自然消滅する。「不易」というのは、いわば世代を越えてその価値が認められ、保存されたもののみをいう。いわば、それが「古典」の条件だといっていい。古典とは何度も繰り返しカバーされ、再流行する作品だと言った方がいい。芭蕉もまた、常にもてはやされてきたのではなく、何度か繰り返し芭蕉ブームが起ることで命脈を保ってきた。
 よくある誤解は、芸術には最初から流行のものと不易のものに区別されるというものだ。これは何かしら普遍的な形而上的な美の観念というのがあって、それを具えているものはいつでも誰が見ても美だと考えるところから来る。ところが実際には、すべての人を等しく感動させるような作品なんてものは存在しない。これは、たとえ美が何らかの隠された形式によるものだとしても、実際にそれを個々それぞれの人間が発見した時しか美にならないからだ。美は普遍であっても、発見は個人の偶発的な出来事だ。そして、発見はその瞬間にもっとも輝く。
 美がいかに普遍的なものであっても、それを自分自身で発見した時の感動は何物にも変えがたい。流行とはそういう出会いの場だと考えればいい。いかに優れた作品でも、ゴッホの絵のように誰からも見向きもされない時というのがある。果たして、ゴッホの絵はゴッホの生前には美がどこにもなくて、死後何らかの形で美が備わったのだろうか。そうではあるまい。ただ、誰もそういう絵を求めてなかっただけだ。求める気持ちがなければ出会うこともない。美が発見されるにはタイミングよく出会うということが不可欠なのである。
 時代遅れの作品は、いかにそれがすばらしい作品か説明されても、今求めているものと違っていれば、何の感動もない。あるのはあくまで他人の感動であって、自分の感動ではない。芭蕉の古池の句がいかに名句か説明されても、自分自身の発見でないならば、所詮は他人事にすぎない。「へー」というだけのものである。自分でそれを発見するには、その時がこなければならない。そして、それを自分で発見したとすれば、それは過去のどんな解釈とも別のものであろう。
 芭蕉は美は普遍的でありながら、出会いの時の重要性を何よりもよく理解していた。美はあくまで個人が発見したとき美になるのである。それを知らない凡庸な作者は、一度流行を作ると、そしてその感動が大きく鮮烈であればあるほど、そこから抜けられなくなる。自分は既に千歳不易の美に至りついたのだと錯覚する。そして、結局最初に出会ったときの感動を忘れて、過去の模倣を繰り返すだけになる。どんな偉大な古典作品も最初は流行だった。そして、その流行した時のみずみずしさを再現できないなら、所詮は過去の遺物なのである。
 我々が芭蕉を後世に殘したいと思うなら、過去の解釈に囚われず、今の時代にあった芭蕉との出会い方を見つけなくてはならない。明治の写生説の解釈は明治の時代には意味があった。しかし、いつまでもそれを引きずり変化を知らざるは、結局芭蕉の心に反すると言わねばならない。

 

42、牡年曰ぼねんいはく発句ほっく善悪ぜんあくはいかに。去来曰きょらいいはく発句ほっくひともっとも感<rp(< rp="">かんずるがよし。さもあるべしといふは其次也そのつぎなり。さもあるべきやといふはまた其次也そのつぎなり。さはあらじといふは下也げなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)

 

 良い発句ほっくというのは、多くの人が無条件にその通りだと共感できるものであり、「ああ、そういうこともあるんだ」「そういう見方もできる」というのは、その次に来る。「そういうこともあるのかなあ」という句はそれより一段落ち、「まさかそんなことはないだろう」というのは下手な句だということになる。

 しづかさや岩にしみ入蝉いるせみの声    芭蕉ばしょう

のような句は、確かに誰しも夏の蝉が鳴いているさまを思い描いて、それがニイニイゼミであろうがアブラゼミであろうがヒグラシであろうが、その通りだとおもう。
 しかし、これが曾良そらの『俳諧書留はいかいかきとめ』にある初案しょあんだったらどうだろうか。

   立石寺りふしゃくじ
 山寺やまでらや石にしみつく蝉の声   芭蕉ばしょう

これだと、山寺の石に何で蝉の声がみ付いているのか、考え込んでしまう。説明を聞いて、山寺というところは切り立った岩が山水画のように美しいところで、その石には何百年に渡ってはかない蝉の声が染み付いているようだ、と説明されれば、「さもあるべし」となる。芭蕉ばしょう推敲すいこう推敲すいこうを重ねて、「さもあるべし」の句を「もっともかんずる」句に仕上げたのである。
 去来きょらい伊賀いがの作者の句として『先師評せんしひょう』7の、

 春風にこかすなひなのかごの衆

や、『同門評どうもんひょう』9の、

 うぐひすないて見たればなかれたり
 おきざまにそつとながし鹿の足   杜若とじゃく
 干鮭からざけとなるなるゆくや油づつ     雪之せつし

の句も、「もっとも」というほどではないにしても、「さもあるべし」という句ではある。その意味ではそんなに下手な句ではない。
 これが、『同門評どうもんひょう』11の

 鶯の身をさかさまにはつねかな     其角きかく
 鶯の岩にすがりて初音哉はつねかな    素行そかう

のような句だと、やや大袈裟おおげさで、 「さもあるべきや」か「さはあらじ」になる。
 ただ、これも一つの見方であって、「もっとも」な句であっても、言い古された平凡な句であればつまらないし、「さはあらじ」の句でもその発想の突飛さに思わず笑ってしまうような句なら、それでいいとも言える。また、発句ほっくには謎句なぞくというのもあるし、

 雪の日にうさぎの皮のひげつくれ   芭蕉ばしょう

のような句が悪いということでもない。発句ほっくの良し悪しは単純に一元的には計れない。ただ、結局後世に残る名句というのは、誰もが無条件に「もっとも」と思うような句ではなかったか。
 貞門の時代は江戸上方の大都市圏が十分形成されてなくて、日本中に様々な方言があるのに対して何か共通語になるものはと言ったとき、それはまだ都市の言葉ではなく古典の言葉、いわゆる雅語だった。だから、最初の頃の俳諧は先ずその共通語となる雅語を学習するというのが先決だった。
 談林の時代になると、大都市圏の言葉がある程度の共通語としての役割を果たすようになり、これによって雅語ではない「俗語」の通用する範囲が急速に拡大し、俗語が一つの世界を作るようになっていった。
 貞門・談林の時代は句の良し悪しは多くの人がわかる共通の言葉で詠まれた句かどうかで判断され、そのため雅語の用法が正しいかどうか、常に証歌と取って検証されなくてはならなかった。
 延宝の終わり頃、芭蕉がポスト談林として提起した『俳諧次韻』の風は、共通語となるのは雅語だけではなく、漢文の書き下し文の言葉や謡曲の言葉、それに謡曲の台本だったり、他にもいろいろ多くの人のわかる言葉があるのではないかという所から始まった。
 そして遂に芭蕉は古池の句に至った時、共通語というのは何も言葉だけの問題ではなく、多くの人の共通体験を引き出せなければいくら古典の言葉を用いてもあくまで知識として知っているだけの死んだ言葉にすぎないことに気づいた。
 それから蕉風確立期以降の蕉門の俳諧は、古典の言葉に頼るのではなく、むしろ多くの人が体験し共感できる内容を概ね大都市圏で共通して用いられている言葉で表現する方向に変わっていった。
 しかも多くの人の共通体験を喚起する言葉は今日で言う「あるあるネタ」にもなり、新たな笑いの世界を作れることにも気づいた。
 こうして発句の良し悪しは雅語を正しく使っているかどうかではなく、多くの人の共鳴を得られるかどうかの問題へと変わっていったのである。

 

43、牡年ぼねんいはく発句ほっく附句つけくのさかひはいかに。
 去来きょらいいはく七情万景しちじゃうばんけい心にとどまる処に発句ほっくあり。附句つけく常也つねなり。たとへば、うぐひすの梅にとまりてなくといふは発句ほっくにならず。うぐひすの身をさかさまになくといふは発句ほっくなり
 牡年ぼねんいはく、心にとどまる所はみな発句ほっくになるべきか。
 去来きょらいいはく此内このうち発句ほっくなるとならぬは、たとへば
  つきすやとひのつまりのひきがへる    好春かうしゅん
此句このく先師せんし古池ふるいけやのかはづと同じやうおもへるとなん。こと珍らしく等類とうるいなしと、嘸心さぞこころにもとどまり、興もらん。されど発句ほっくにはなしがたし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)

 

 発句ほっくと付け句の違いはという牡年ぼねんの問いに対し、去来きょらいが答える。発句というのは景色でも感情でも自分の心にあるもの、心にとどめているものをんだものである。これはわかりやすいだろう。これに対し、付け句は「常なり」というのは、心に日頃思ってなくても、その場の思いつきで詠むことが多いからであり、それで十分だからである。「常なり」というのは、自分のことでなくても世の常のことであれば何でもいいというニュアンスだろう。
 たとえば「同門評」26にある、

 玉祭たままつりうまれぬさきの父こひし   甘泉かんせん

のような句の場合、発句であれば、これが作者の心にあることだと判断されることになり、この甘泉かんせんという作者の父は、作者が生れる前にお亡くなりになられたのか、と人は判断する。しかし、付け句であれば、作者の父が本当に生れる前に死んだのかどうかは問題にならない。
 このあたりが、結局近代の文学者に連句が嫌われる部分なのかもしれない。私事だが、

    腹開き清流の鮎塩焼きに
 勘弁してよ仕事の話        こやん

と付けたら、「何でこんな所でこやんさんの愚痴を聞かされなくてはならないんだ」と怒られたことがあったが、どうやらこの人は付け句であってもすべて自分の体験を詠まなくてはいけないものと信じていたようだ。連句はそうではない。前句の河原のバーベキューの場面から会社のイベントか何かとして、そこにいそうなサラリーマンの独り言を付けた位付くらいづけであり、「心にとどまる」ことではない。いかにもありそうな世の「常」をんだまでである。
 本来、発句も必ずしも自分の体験をむ必要はなかったし、そんな私小説的な発想は正岡子規にすらなかった。それは先の「同門評」26に、

 「およそほ句を吟ずるに、こころは無常狂狷きゃうけん境にも遊ぶべし。ところ禁裏仙洞きんりせんとうのうわさをもまうすべし。事ハ乞食桑門こつじきさうもんの上にもおよぶべし。」

とあることからも明らかである。子規の句も空想でんだ句が数多くある。
 去来が鶯の句を例に挙げているが、「鶯の梅にとまりて鳴く」は今日だと写生と思われがちだが、鶯が梅の枝にとまって鳴くことはよくあることで、それはまさに「常」と言っていい。別に自分がそれを見たことがある必要はない。「鶯の身をさかさまに鳴く」というのは、常ならぬことであり、これが作者の体験であろうがなかろうが、一つのイメージとして作者の心に止まったことであり、発句となる。
 この句は、榎本其角えのもときかくの、

 鶯の身をさかさまにはつねかな     其角

の句であり、「同門評」11で去来は、春も爛漫らんまんで乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と指摘しているが、こんなものは発句ではないとは言っていない。
 これに対し、牡年ぼねんの「こころにとどまるところは、みな発句になるべきか」という問いに対し、去来は必ずしもそうではないとして、次の句を例に挙げる。

 つき出すやとひのつまりのひきがへる    好春かうしゅん

 この句は等類もないし、心にも止まり、興もある。だけど何で発句とは言えないのだろうか。
 おそらく、発句が本来連歌でも俳諧でも興行の開始の挨拶であるというところに関係があるのだろう。いわば、蟇蛙を突き出すという趣向が、たくさんのお客を迎える歓迎の寓意にふさわしくなく、単に面白いネタとして披露しているにすぎないため、前句付けの付け句としてはいいが、発句としては、だから何なんだ、「言いおおせて何かある」の句となるのだろう。

 

44、野明曰やめいいはくのさびはいかなるものにや。去来曰きょらいいはく、さびはいろなり閑寂かんしゃくなるをいふにあらず。たとへば老人らうじん甲冑かっちうたいし、戦場せんじゃうにはたらき、錦繍きんしうをかざり御宴ぎょえんはべりてもおい姿有すがたあるがごとし。にぎかなるにも、しづかなるにもあるものなり今一句いまいっくをあぐ。
  花守はなもりや白きかしらをつきあはせ    去来きょらい
先師曰せんしいはく寂色さびいろよくあらはれ、よろこべるとなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77~78)

 

 「さび」は句の心ではなく、句の「色」つまり表面的な姿をいう。華やかな中にもどこか哀れを感じさせるような要素を持たせるなら、それもまた「さび」となる。ここで去来が例としてあげているのは、たとえば華やかな鎧兜で勇んで戦場に赴く武将の顔が、寄る年波を隠せないようなもので、そのアンバランスが独特な味となる。華やかの鎧兜に身をつつんだ武者が、若くてきりっとした顔なら、当たり前すぎて面白くない。しかし、それが老人であることで、どんなに勇んでみても人が老いて死んでゆくのは避けられないものであり、そこに世の無常や戦いの無意味さなど、深い情を思い起こされる。
 現代的に言えば、真新しい黒光りする戦車の姿は、いかに妖しく美しくてもそこに「さび」はない。しかし、そこに生々しい銃弾のあとでもあれば、それが「さび」となる。美しく咲き乱れる花畑に朽ち果てた戦車も、一種の「さび」だ。スタジオ・ジブリの『天空の城ラピュタ』のロボット兵に苔が生えているのも「さび」といって言いか。
 満開の桜の花も、散る時を思えば寂しいかもしれないが、それだけでは単なる心の問題であり、表にそれが現れた時に「さび」となる。

 花守や白きかしらをつき合はせ    去来

 この句を芭蕉が「さび色よくあらはれ」というのも、その表に現れた姿が問題になる。「花守」というのは桜の花を管理する人のことだが、それが雪のように白いの花の下で、同じ白でも白髪頭の白を見せることで、それが「さび」の色となる。「白きかしら」が「さび色」なのである。宴たけなわの花見も、

 木の下に汁も膾も桜かな    芭蕉

とすれば、「汁も膾も」がさびとなる。
 北杜夫の小説に子供の頃学校で短歌を詠まされて、やっとのことで、

 兵隊の行進しゆく後ろには
    埃立つなり夏の暑い日

という歌を作ったが、それを見たアララギ派の教師が、「埃立つなり」が写生だと言ったという話があった。芭蕉ならそれが「さび」だと言うだろう。
 なお、ウィキペディアによれば、「寂(さび)とは、謡曲・語りものなどで声帯を強く震わせて発する調子の低いもの、低く渋みのある声の質、太くてすごみのあることを指す。」とある。いわゆる美声ではなく、一度潰した声の持つ独特な味は芭蕉の「さび」とも通じ合うものがある。
 なお、今日の音楽業界で言う、楽曲の一番盛り上がるところを「さび」とよぶのが、この伝統的な「さび」と関係があるのかどうかはよくわからない。

 

45、野明曰やめいいはくくらゐとはいかなるものにや。去来曰きょらいいはく一句いっくをあぐ。
  はなのたえたたかんやみド    去来きょらい
先師曰せんしいはく句位くゐよのつねならずとなり去来曰きょらいいはく此句只このくただ位尋常くらゐじんじゃうならざるのみなり高意かういとはいひがたし。必竟ひっきゃうかくたか所有ところあり。さて句中くちゅう理屈りくつあるいはあたりあひたる発句ほっくは、おほかたくらゐくだれる物也ものなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78)

 

 付け句で「くらい」という場合は、そこに登場する人間の身分の上下や性別、年齢、職種などを意味する。付け句は「常」であり、一般的にどういう人の句に見えるかが問題だからだ。
 これに対し、発句の位は自分自身をどういう人間になぞらえるかを意味する。作者の「心にとどまる」ところが問題だからだ。
 去来の句は、釈迦の生誕と結び付けられる白く清楚で神聖な卯の花を思いつつ、そこに同じ心の友を尋ねて夜分にあえて門を叩くという句で、高逸の士の風格を漂わせている。去来の「此句只このくただ位尋常くらゐじんじゃうならざるのみなり高意かういとはいひがたし」という言葉は単なる謙遜であり、位の高さを芭蕉に褒められたことは、さぞかし嬉しかったにちがいない。
 これに対し、去来は「句中くちゅう理屈りくつあるいはあたりあひたる」発句を位の落ちるものとする。このあたりに「うらやまし」の句の時に見せた越人えつじんへの対抗意識があるように見えてならない。

 

46、野明曰やめいいはくのしほり、ほそみとは、とはいかなるものにや。去来曰きょらいいはくのしほりはあはれなるにあらず。ほそみは便たよりなきあらず。そのしほりは姿すがたり。ほそみは句意くいり。是又證句これまたしょうくをあげてべんず。
  とりどもも寐入ねいっるか余吾よごうみ   路通ろつう
先師曰せんしいはく此句このくほそありひょうたまひしなり
  十団子とうだご小粒こつぶになりぬあきかぜ   許六きょりく
先師曰せんしいはく此句このくしほりありひょうたまひしとなりそうじてビ・くらゐほそみ・しほりのことは、言語筆頭げんごひっとうしるしがたし。ただ先師せんし評有ひょうあげてかたはべるのみ。ほかはおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

 

 「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させる。ただ、ここでも「さび」と同様、哀れな心を詠むのではなく、あくまで「句の姿」だという。つまり、哀れを感じさせる具体的な情景が描かれて初めて、「しおり」と言うことができる。

 十団子とうだご小粒こつぶになりぬあきかぜ   許六きょりく

許六きょりくのこの句は、収穫直前の立秋の頃になると、米価が高騰し、街道の名物の十団子とうだごも小粒になる所に、秋風の物悲しさと世間の世知辛さを重ね合わせた句だが、句の「しおり」は「秋風」の情にではなく、「小粒な十団子」の姿にある。
 これに対し「細み」は句意にある。姿にではない。

 とりどもも寐入ねいっるか余吾よごうみ   路通ろつう

の句は、「鳥が寝ている」という姿が詠まれているわけではない。静かでただ波の音だけが聞こえてくる海の寂しげな景色に、鳥も寝てしまったのかと鳥のことを気遣う、その繊細な心遣いが「細み」だと言っていいだろう。
 そして、最後に去来は、「さび・位・細み・しおり」というのは、あくまで感覚的なもので、理屈で単純に説明できるものではないということを心に留めることで終っている。

 

47、先師遷化せんしせんげのとし、深川ふかがは出給いでたまとき野坡やは問曰とひていはく俳諧はいかいやはりいまごとさくはべらんや。
先師曰せんしいはく、しばらくいまふうなるべし。五七年ごしちねん過侍すぎはべらば、又一変またいっぺんあらんとなり
今年ことし素堂子そだうしらくひとつたへていはく蕉翁しょうをう遺風ゐふう天下てんかにみちて、漸又変ようやくまたへんずべきときいたれり。吾子ごしこころざしあらばわれもともに吟会ぎんかいして、ひとつ新風しんぷう興行こうぎゃうせんとなり
去来曰きょらいいはく先生せんせい詞悦ことばよろこはべる。かね此思このおもひなきにしもあらず。さいはひ先生せんせい後楯うしろだてとして、二三にさん新風しんぷうおこさば、一度天下ひとたびてんか俳人はいじんおどろかさん。しかれども、世波老よのなみおいなみ日々ひび打重うちかさなり、いま風雅ふうがあそぶべきいとまもなければ、只御残ただおのこおほおもひたるのみとまうす
素堂子そだうし先師せんし古友こゆうにて、博覧賢才はくらんけんさい人也ひとなり。もとより俳名高はいめいたかし。近年きんねん此道このみち打捨給うちすてたまふといふとも、またいかなる風流ふうりう吐出はきだされんものをいと本意ほいなき事也ことなり(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,79)

 

 いよいよ『去来抄』もこれで結びとなる。
 芭蕉が元禄七(一六九四)年五月十一日、最後の旅に出る直前のことだったのだろう。『炭俵』以降の晩年の作風をともに作ってきた弟子の一人、野坡に向って、五年から七年すればまた風は変わると言った。芭蕉が生きていたなら、『炭俵』や『続猿蓑』を越える新たな作風を生み出し、新たな俳諧の流行を巻き起こしていたかもしれなかった。
 しかし、新風は生れなかった。芭蕉は最後の旅のとき、頻繁に興行に参加した支考や惟然にかなりの期待を寄せていたかもしれない。しかし、惟然が芭蕉の没後八年にして、

 梅の花あかいハあかいハあかいハな    惟然

のような新風を起こしたとき、去来は決して同調することはなかった。去来が実際に新風を起こすことに対して消極的だったことは「修行教」10あたりからもうかがわれる。芭蕉がもし生きていたら、惟然のお株を奪うような句を詠んでいたかもしれない。
 去来が世を去ったのは、そのすぐ二年後、宝永元(一七〇四)年のことだった。それに比べると、素堂の方が長生きした。芭蕉より二つ年上でありながら、享保元(一七一六)年まで生きた。その素堂が去来に新風の話を持ちかけたのがいつ頃かはさだかではない。
 ただ、素堂は芭蕉が江戸に出てきて間もないころからの弟子で、『次韻』で最初の蕉風を確立した時の立役者であったが、芭蕉晩年の「軽み」の風に着いて行けず、俳諧から一時遠のいていた。その素堂にどんな新風のアイデアがあったのかはさだかではない。
 結果的に、惟然流のような新風はあったにはあったが、他の蕉門の門人を取りまとめるようなムーブメントにはつながらず、多くの芭蕉の弟子たちは、それぞれ自分の一番輝かしかった時代の蕉門の風に固執し続けただけだった。こうして、蕉風は一つの完成された風として、保存の時代に入った。そして、その状況は基本的に明治初期の、近代俳人のいう「旧派」と呼ばれた俳諧師まで、変わることはなかった。
 ある若手の現代詩人が、「新しさを追及する時代は終った」と言ってたのを覚えているが、この言葉が額面どおりのものであるなら、現代詩もおそらく既に保存の時代に入っているのだろう。もちろん、保存が悪いことだとは思わない。保存されなければ、能だって歌舞伎だって、とうに途絶えて、今日我々はそれを見ることはできなかったであろう。
 ひとたび保存に入ったものが、再び新しいものとして甦ることはまずない。能や歌舞伎だって新作はあるが、それが世間で流行し、昔のように人々を熱狂させるようなことが起ったためしはない。室町時代には、能を見ようと押し寄せた群集が将棋倒しになり、桟敷を壊してけが人が出ることもあったが、今の時代ではとてもありそうにない。俳諧が近代俳句として甦ったといっても、句の作り方や興行の仕方、鑑賞の仕方も全く異なるものであり、その近代俳句も既に保存の時代に入っていないだろうか。
 連句にしても、今日連句と言われているものは、句が全く付いていないし、一句完結で鑑賞されているし、やはり本来の連歌や俳諧の付け句とは似て非なるものといっていい。むしろ、五七五の俳句と七七の俳句を羅列したものと言った方がいい。しかし、それはそれでいいだろう。
 今日も俳諧は生きている。それはJ-popの歌詞の中であったり、漫画の中であったり、テレビをにぎわす「お笑い」の中であったり。俳諧師たちが命を削って作り出した技法や精神は、今日にもしっかりと受け継がれているし、既に昭和の軍国主義をかいくぐってきたこの伝統は、今後日本にいかなる独裁政権が誕生しようと、必ず雑草のように生き延び、日本ばかりか、やがて世界をも席巻して行くであろう。それが不易であるかぎり、そしてそれが流行するかぎり。