「あなむざんやな」の巻、解説

元禄二年八月上旬

初表

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

   ちからも枯し霜の秋草     亨子

 渡し守綱よる丘の月かげに     皷蟾

   しばし住べき屋しき見立る   芭蕉

 酒肴片手に雪の傘さして      亨子

   ひそかにひらく大年の梅    皷蟾

 

初裏

 遣水や二日ながるる煤のいろ    芭蕉

   音問る油隣はづかし      亨子

 初恋に文書すべもたどたどし    皷蟾

   世につかはれて僧のなまめく  芭蕉

 提灯を湯女にあづけるむつましさ  亨子

   玉子貰ふて戻る山もと     皷蟾

 柴の戸は納豆たたく頃静也     芭蕉

   朝露ながら竹輪きる藪     亨子

 鵙落す人は二十にみたぬ㒵     皷蟾

   よせて舟かす月の川端     芭蕉

 鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり    亨子

   去年の軍の骨は白暴      皷蟾

 

二表

 やぶ入の嫁や送らむけふの雨    芭蕉

   霞にほひの髪洗ふころ     亨子

 うつくしき佛を御所に賜て     皷蟾

   つづけてかちし囲碁の仕合   芭蕉

 暮かけて年の餅搗いそがしき    亨子

   蕪ひくなる志賀の古里     皷蟾

 しらじらと明る夜明の犬の聲    芭蕉

   舎利を唱ふる陵の坊      亨子

 竹ひねて割し筧の岩根水      皷蟾

   本家の早苗もらふ百姓     芭蕉

 朝の月囲車に赤子をゆすり捨    亨子

   討ぬ敵の絵図はうき秋     皷蟾

 

二裏

 良寒く行ば筑紫の船に酔      芭蕉

   守の館にて簫かりて籟     亨子

 十重二十重花のかげ有午時の庭   皷蟾

   杉菜一荷をわける里人     芭蕉

 鳩の来て天窓にとまる世の長閑   亨子

   馳走の雑煮はこぶ神垣     皷蟾

 

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

 

 『奥の細道』の旅で山中温泉で曾良と別れた芭蕉は、ふたたび小松に戻り、かつて実盛の甲のところで詠んだ発句を立句として、皷蟾、亨子との三吟興行を行う。

 後に『奥の細道』に収録されるときには「あな」の二字を抜いて普通の五七五の形にしている。これについては『去来抄』に、

 

 「魯町曰、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前にはまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨てられたり。」

 

とある。

 「あなむざんやな」は謡曲『実盛』の「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」からとったもので、謡曲の言葉をそのまま用いている。延宝五年の、

 

 あら何共なやきのふは過ぎて河豚汁 芭蕉

 

のような用法で、この「あら何共(なんとも)なや」も謡曲『芦刈』の一節を拝借している。

 俳諧は雅語で作る連歌に俗語を取り入れてできたものだが、談林時代には雅語の文芸である和歌や連歌に即した体だけでなく、謡曲調や漢文書き下し文調や様々な文体を試している。

 寛文五年伊賀での貞徳十三回忌追善俳諧の三十三句目も、

 

   未だ夜深きにひとり旅人

 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

 

の句がある所から、こうした試みは談林の流行前から少しづつ行われていたのであろう。

 芭蕉の蕉風確立期でも、こうした異体は試みられていたが、猿蓑調以降は影を潜めてゆく。

 句の方は小松で斉藤別当実盛の冑を見ての想像であろう。加賀篠原の合戦で木曾義仲の軍と戦い戦死した時の情景を思い起こし、倒れ伏した実盛の顔の所にコオロギが這っては鳴く様を思い描いたのだろう。

 虫の名前は今と違っていてわかりにくいが、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。カマドウマ→コオロギになる。

 

季語は「きりぎりす」で秋、虫類。

 

 

   あなむざんやな冑の下のきりぎりす

 ちからも枯し霜の秋草       亨子

 (あなむざんやな冑の下のきりぎりすちからも枯し霜の秋草)

 

 きりぎりすに霜枯れの秋草を添え、「ちからも」とすることで、枯れるのは秋草だけでなく実盛もまた力の枯れてゆくとする。

 

季語は「秋草」で秋、植物、草類。「霜」は降物。

 

第三

 

   ちからも枯し霜の秋草

 渡し守綱よる丘の月かげに     皷蟾

 (渡し守綱よる丘の月かげにちからも枯し霜の秋草)

 

 渡し船の船頭は丘の梺の家で月明かりを頼りに綱を縒る。この船頭も老いて頭に霜を戴いているのだろう。その手つきもどこか力ない。霜枯れの秋草のようだ。寂び色がよく表れている。

 やはり「ぬれて行や」の後半部分とは違う、これが蕉門だという句だ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「渡し守」は水辺、人倫。

 

四句目

 

   渡し守綱よる丘の月かげに

 しばし住べき屋しき見立る     芭蕉

 (渡し守綱よる丘の月かげにしばし住べき屋しき見立る)

 

 「見立てる」には見定めるという意味となぞらえるという意味があり、俳諧でよく使うのは後者だが、ここでは前者になる。『源氏物語』の須磨巻で、源氏の君が須磨に到着した時のことをイメージしているのだろう。

 

無季。「屋しき」は居所。

 

五句目

 

   しばし住べき屋しき見立る

 酒肴片手に雪の傘さして      亨子

 (酒肴片手に雪の傘さしてしばし住べき屋しき見立る)

 

 これは雪の傘を屋敷に見立てた風流になる。

 

 市人よ此笠うらふ雪の傘      芭蕉

 

の句を思わせる。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

六句目

 

   酒肴片手に雪の傘さして

 ひそかにひらく大年の梅      皷蟾

 (酒肴片手に雪の傘さしてひそかにひらく大年の梅)

 

 これは普通に雪の日に傘さして、ひっそりと一輪開いた寒梅を肴に酒を飲む。

 

 梅一輪いちりんほどの暖かさ    嵐雪

 

の句は嵐雪一周忌追善集『遠のく』に収められていたもので、もう少し後のものだろう。

 

季語は「大年」で冬。「梅」は植物、木類。

初裏

七句目

 

   ひそかにひらく大年の梅

 遣水や二日ながるる煤のいろ    芭蕉

 (遣水や二日ながるる煤のいろひそかにひらく大年の梅)

 

 「遣水に二日ながるる煤のいろはひそかにひらく大年の梅や」の倒置。

 遣水は庭園に流れる外から引き入れた水で、正月二日には去年の暮れに咲いた梅の花が散って塵となって流れてくる。

 

無季。

 

八句目

 

   遣水や二日ながるる煤のいろ

 音問る油隣はづかし        亨子

 (遣水や二日ながるる煤のいろ音問る油隣はづかし)

 

 「音問る」は「おとづる」。「油」は油売りのこと。

 遣水に煤が流れているところから、煤の出る安物の油を使っていることがばれてしまって恥ずかしい。

 

無季。

 

九句目

 

   音問る油隣はづかし

 初恋に文書すべもたどたどし    皷蟾

 (初恋に文書すべもたどたどし音問る油隣はづかし)

 

 この時代にすでに「初恋」という言葉はあったようだ。手紙など書いていることを隣に来ている油売りにでも知られたら、そこら中に言いふらされそうだ。

 

無季。恋。

 

十句目

 

   初恋に文書すべもたどたどし

 世につかはれて僧のなまめく    芭蕉

 (初恋に文書すべもたどたどし世につかはれて僧のなまめく)

 

 初恋にたどたどしい手紙を書いたら、手紙を届ける役の僧の方がときめいてしまったか。

 

無季。恋。「僧」は人倫。

 

十一句目

 

   世につかはれて僧のなまめく

 提灯を湯女にあづけるむつましさ  亨子

 (提灯を湯女にあづけるむつましさ世につかはれて僧のなまめく)

 

 関西の方の風呂屋は湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。僧もひそかに通っていたのだろう。戦後のある国の名前の付いた風呂屋が思い浮かぶが。

 

無季。恋。「湯女」は人倫。

 

十二句目

 

   提灯を湯女にあづけるむつましさ

 玉子貰ふて戻る山もと       皷蟾

 (提灯を湯女にあづけるむつましさ玉子貰ふて戻る山もと)

 

 温泉玉子だろうか。

 

無季。「山もと」は山類。

 

十三句目

 

   玉子貰ふて戻る山もと

 柴の戸は納豆たたく頃静也     芭蕉

 (柴の戸は納豆たたく頃静也玉子貰ふて戻る山もと)

 

 納豆は秋から冬にかけて仕込むもので、「早苗舟」の巻三十句目にも、

 

   切蜣の喰倒したる植たばこ

 くばり納豆を仕込広庭       孤屋

 

の句がある。肉を食べないお坊さんには貴重な蛋白源だった。

 納豆をたたくというのは、ひきわり納豆のことだろう。それに卵があれば完璧だ。

 

季語は「納豆」で冬。「柴の戸」は居所。

 

十四句目

 

   柴の戸は納豆たたく頃静也

 朝露ながら竹輪きる藪       亨子

 (柴の戸は納豆たたく頃静也朝露ながら竹輪きる藪)

 

 竹輪はここでは「ちくわ」ではなく「たけわ」のようだ。藪で切るのだから本物の竹のわっかなのだろう。竹輪は紋に描かれるときには細い竹を輪にしたものが描かれているから、竹の輪切りではなく、切った細い竹を輪にしたものなのだろう。何に用いるかはよくわからない。茅の輪のように神事に用いるのだろうか。

 

季語は「朝露」で秋、降物。

 

十五句目

 

   朝露ながら竹輪きる藪

 鵙落す人は二十にみたぬ㒵     皷蟾

 (鵙落す人は二十にみたぬ㒵朝露ながら竹輪きる藪)

 

 後の『炭俵』の「早苗舟」に巻六十五句目に、

 

   なめすすきとる裏の塀あはひ

 めを縫て無理に鳴する鵙の声    孤屋

 

の句があるが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 

 「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」

 

とある。囮を使った鵙猟を「鵙を落す」という。

 どんな人がやっているのかと見たら、まだ元服したての若者だった。

 

季語は「鵙」で秋、鳥類。「人」は人倫。

 

十六句目

 

   鵙落す人は二十にみたぬ㒵

 よせて舟かす月の川端       芭蕉

 (鵙落す人は二十にみたぬ㒵よせて舟かす月の川端)

 

 猟師は殺生を生業とするため、身分的には何らかの差別を受けていたのだろう。ウィキペディアには

 

 「各村の「村明細帳」などに「殺生人」と記される「漁師」・「猟師」などの曖昧な存在もあり、士農工商以外を単純に賤民とすることはできない。」

 

とあり、いわゆる穢多・非人ではないが、何らかの区別はあったようだ。

 漠然と被差別民とみなすなら、河原に縁があったのかもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「舟」「川端」は水辺。

 

十七句目

 

   よせて舟かす月の川端

 鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり    亨子

 (鍋持ぬ芦屋は花もなかりけりよせて舟かす月の川端)

 

 「月夜に釜を抜かれる」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「明るい月夜に釜を盗まれる。はなはだしい油断のたとえ。月夜に釜。

  ※浮世草子・好色床談義(1689)三「男はらたつれども、かねわたしてのち壱物もかへされず、月夜にかまぬかれたる如く也」

 

とある。釜や鍋といった鋳物製品は当時大変高価で、泥棒が真っ先に狙うものだった。

 川べりの貧しい芦の家には、花もなければ鍋もない。

 本歌はもちろん、

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

     浦の苫屋の秋の夕暮

             藤原定家(新古今集)

 

になる。紅葉のところを鍋にするのが俳諧だ。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「芦屋」は居所。

 

十八句目

 

   鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり

 去年の軍の骨は白暴        皷蟾

 (鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり去年の軍の骨は白暴)

 

 「こぞのいくさ」の骨は「のざらし」と読む。

 芦屋の貧しさを続く戦乱が原因とした。

 

季語は「去年」で春。

二表

十九句目

 

   去年の軍の骨は白暴

 やぶ入の嫁や送らむけふの雨    芭蕉

 (やぶ入の嫁や送らむけふの雨去年の軍の骨は白暴)

 

 藪入りは奉公人だけでなく、嫁も実家に帰ることができた。夫が同伴する地域もあったという。

 江戸時代には奉公人の帰省の日になったが、本来は嫁が実家に帰る日だったという説もあり、前句を戦国時代として、藪入りの古い形を付けたのかもしれない。

 

季語は「やぶ入」で春。「雨」は降物。

 

二十句目

 

   やぶ入の嫁や送らむけふの雨

 霞にほひの髪洗ふころ       亨子

 (やぶ入の嫁や送らむけふの雨霞にほひの髪洗ふころ)

 

 親元に帰るというので、当時はめったに洗わなかった髪を洗う。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

二十一句目

 

   霞にほひの髪洗ふころ

 うつくしき佛を御所に賜て     皷蟾

 (うつくしき佛を御所に賜て霞にほひの髪洗ふころ)

 

 思いがけぬところで仏像が発見されると、吉祥ということで御所に献上されることもあったのだろう。前句の「髪洗ふころ」を正月として、目出度いものに目出度いものを重ねたか。

 

無季。釈教。

 

二十二句目

 

   うつくしき佛を御所に賜て

 つづけてかちし囲碁の仕合     芭蕉

 (うつくしき佛を御所に賜てつづけてかちし囲碁の仕合)

 

 御所を碁所に取り成したか。「碁所」は一般的には「ごどころ」だが、「ごしょ」と読むこともあったのだろう。仕合は「しあはせ」と読む。

 

無季。

 

二十三句目

 

   つづけてかちし囲碁の仕合

 暮かけて年の餅搗いそがしき    亨子

 (暮かけて年の餅搗いそがしきつづけてかちし囲碁の仕合)

 

 前句の「仕合(しあはせ)」を試合のことではなく「幸せ」に取り成す。

 囲碁の試合に勝ち続けて大金を手にしたのだろう。大勢の人に餅をふるまおうと人を集めて、忙しい年の暮となった。

 

季語は「年の暮かけて」「餅搗」で冬。

 

二十四句目

 

   暮かけて年の餅搗いそがしき

 蕪ひくなる志賀の古里       皷蟾

 (暮かけて年の餅搗いそがしき蕪ひくなる志賀の古里)

 

 滋賀県も蕪の産地だが、この場合は石川県志賀町の方だろうか。金沢では正月にかぶら寿司を食べる。

 

季語は「蕪ひく」で冬。「古里」は居所。

 

二十五句目

 

   蕪ひくなる志賀の古里

 しらじらと明る夜明の犬の聲    芭蕉

 (しらじらと明る夜明の犬の聲蕪ひくなる志賀の古里)

 

 ひなびた里に犬の声を添える。陶淵明の『歸園田居五首(其一)』の「狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓」によるものか。

 

無季。「犬」は獣類。

 

二十六句目

 

   しらじらと明る夜明の犬の聲

 舎利を唱ふる陵の坊        亨子

 (しらじらと明る夜明の犬の聲舎利を唱ふる陵の坊)

 

 謡曲『舎利』によるものか。

 舎利は仏様の遺骨のことで、旅の僧が都の泉涌寺の仏舎利を拝んでいると、足疾鬼という外道が舎利を奪ってゆく。僧が祈ると韋駄天が現れてそれを取り返す。

 東山の麓にある泉涌寺のホームページには、

 

 「仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。」

 

とある。ここでは旧暦九月八日に舎利会が行われていた。謡曲も舎利会をモチーフにしたものであろう。

 「陵(みささぎ)」といえば、「ぬれて行や」の巻の二十句目にも

 

   夜もすがら虫には声のかれめなき

 むかしを恋る月のみささぎ     斧卜

 

の句がある。

 

無季。

 

二十七句目

 

   舎利を唱ふる陵の坊

 竹ひねて割し筧の岩根水      皷蟾

 (竹ひねて割し筧の岩根水舎利を唱ふる陵の坊)

 

 泉涌寺は東山の麓だから、竹で作った筧で山から水を引いていたとしてもおかしくない。名前からして泉が涌く寺だし。

 

無季。「岩根水」は山類。

 

二十八句目

 

   竹ひねて割し筧の岩根水

 本家の早苗もらふ百姓       芭蕉

 (竹ひねて割し筧の岩根水本家の早苗もらふ百姓)

 

 前句を苗代水としたか。苗は本家の敷地でまとめて作られていて、分家がそれをもらいに来るというのはよくあることだったか。芭蕉も農人の出だから、幼少期の経験なのかもしれない。

 

季語は「早苗」で夏。「百姓」は人倫。

 

二十九句目

 

   本家の早苗もらふ百姓

 朝の月囲車に赤子をゆすり捨    亨子

 (朝の月囲車に赤子をゆすり捨本家の早苗もらふ百姓)

 

 「囲車」は宮本注に「不詳」とあり、読み方も書いてない。

 一つの推測だが、これは「ねこ」ではないか。

 手押しの一輪車に箱を乗せた、運搬用のいわゆる猫車なら、意味は通じる。

 

季語は「朝の月」で秋、天象。「赤子」は人倫。

 

三十句目

 

   朝の月囲車に赤子をゆすり捨

 討ぬ敵の絵図はうき秋       皷蟾

 (朝の月囲車に赤子をゆすり捨討ぬ敵の絵図はうき秋)

 

 ひょっとして「子連れ狼」は実在した?

 猫車に赤子を乗せて、人相書きを見ながら仇討の旅を続ける武士という発想自体は、当時もあり得たということか。

 

 仇討というのは自助から来る発想なのだろう。凶悪犯罪の検挙率が低く、人殺しが大手を振って歩いているような世の中だと、人々は自分で自分の身を守らなくてはならない。

 アメリカだとみんな銃で武装するが、刀狩の行われた日本では、庶民はせいぜい脇差くらいしか身に着けることができない。

 帯刀を許された武士の場合は仇討が許されていた。ウィキペディアにはこうある。

 

 「江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた。

 武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた。」

 

 元禄十四年に起きた赤穂四十七士による大規模な仇討は、合法的な敵討と認められず、本来なら死罪になる所を、武士の体面を重んじるということで切腹という結末になった。

 忠臣蔵の物語が今日に至るまで庶民の共感を得ている背景には、公権力による処罰がいつの時代でも不完全なことがあって、自助を認めてほしいという声が常にあるからだと思う。

 

季語は「秋」で秋。

二裏

三十一句目

 

   討ぬ敵の絵図はうき秋

 良寒く行ば筑紫の船に酔      芭蕉

 (良寒く行ば筑紫の船に酔討ぬ敵の絵図はうき秋)

 

 「良」は「やや」と読む。仇を討つために筑紫の船で旅をするのだが、船酔いして情けない。

 筑紫船「めづらしや」の巻二十三句目にも、

 

   寝まきながらのけはひ美し

 遥けさは目を泣腫す筑紫船     露丸

 

というふうに登場している。

 

季語は「良寒」で秋。「筑紫の船」は水辺。

 

三十二句目

 

   良寒く行ば筑紫の船に酔

 守の館にて簫かりて籟       亨子

 (良寒く行ば筑紫の船に酔守の館にて簫かりて籟)

 

 「守」は「かみ」、「籟」は「ふく」と読む。王朝時代の話にして国守の館(たち)で「あそぶ」。

 

無季。

 

三十三句目

 

   守の館にて簫かりて籟

 十重二十重花のかげ有午時の庭   皷蟾

 (十重二十重花のかげ有午時の庭守の館にて簫かりて籟)

 

 「十重二十重」は幾重にもという程度の慣用句で、本当に二十重の花があるということではない。

 

 七重八重花は咲けども山吹の

     実のひとつだになきぞあやしき

              兼明親王(後拾遺和歌集)

 

の七重八重と同様、あくまで例えだ。なお、この七重八重の歌を太田道灌に結びつけて有名になったのは『常山紀談』や『雨中問答』といった江戸中期の書によるものらしい。(レファレンス事例詳細による)

 まあ、とにかくたくさんの花が咲いている正午の庭で、簫を演奏したくなったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

三十四句目

 

   十重二十重花のかげ有午時の庭

 杉菜一荷をわける里人       芭蕉

 (十重二十重花のかげ有午時の庭杉菜一荷をわける里人)

 

 「一荷」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 天秤棒(てんびんぼう)の両端にかけて、一人で肩に担えるだけの荷物。」

 

とある。

 「杉菜」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 シダ植物トクサ科の多年草。各地の平地や山地の日当たりのよい草地や裸地に生える。地上茎には胞子茎と栄養茎の別があり、一般に前者を「つくし」、後者を「すぎな」と呼ぶ。胞子茎は早春地表に出て、先端に肉色または淡褐色で太い長楕円形の胞子嚢穂を単生するが、胞子散布後すぐ枯れる。栄養茎は胞子茎より遅れて地表に現われ、鮮緑色で茎の上部の節に線形の枝を輪生する。節には葉が互いに密着して鞘状となった長さ五ミリメートルくらいの葉鞘があり、節間には多数の隆条と溝がある。若い胞子茎はゆでて食用とし、また、全草を利尿薬に用いる。漢名、問荊。《季・春》 〔文明本節用集(室町中)〕

  ※寒山落木〈正岡子規〉明治二六年(1893)「すさましや杉菜ばかりの岡一つ」

 

とある。

 土筆が食用なのに対して、杉菜は問荊(もんけい)と呼ばれ、薬用に用いられていた。また、杉菜の若いものは食用にもされていた。

 

季語は「杉菜」で春、植物、草類。「里人」は人倫。

 

三十五句目

 

   杉菜一荷をわける里人

 鳩の来て天窓にとまる世の長閑   亨子

 (鳩の来て天窓にとまる世の長閑杉菜一荷をわける里人)

 

 鳩が平和のシンボルだというのは旧約聖書に基づくもので、日本に特にそういう考え方はなかった。ただ、別に鳩でなくても、鳥は一斉に飛び立ったりしなければ長閑なものだ。

 天窓の辺りはおそらく鳩が巣を作ることが多く、里人は健康で鳥もまた安心して暮らせるという長閑な春をもってこの一巻の締めくくりになっているのではないかと思う。

 

季語は「長閑」で春。「鳩」は鳥類。

 

挙句

 

   鳩の来て天窓にとまる世の長閑

 馳走の雑煮はこぶ神垣       皷蟾

 (鳩の来て天窓にとまる世の長閑馳走の雑煮はこぶ神垣)

 

 最後は正月の目出度さに神祇を加え、天下泰平を喜び、この一巻は終わる。

 

季語は「雑煮」で春。神祇。