──笈の小文の旅から奥の細道前まで──
芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。
出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。
芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。
たび人と我名よばれむはつしぐれ
貞享4年、来年の吉野の花見へ向けて江戸を旅立つことになった。
10月11日に晋ちゃんの家で餞別興行があって11人が集まり、これはその時の発句。
宗祇法師の「世にふるもさらに時雨の宿り哉」の句を踏まえて、我もまた時雨の旅人になろうという決意の句だった。
註、『笈の小文』には、
「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我名よばれん初しぐれ
又山茶花を宿々にして
岩城の住、長太郎と云ふもの、此の脇を付けて其角亭におゐて関送リせんともてなす。」
とある。
一尾根はしぐるゝ雲かふじのゆき
貞享4年10月25日に江戸を出て東海道を上り、27日には箱根を越えた。
目の前で見る大きな富士の姿には圧倒される。あの上の方の雪を見ていると、尾根の上に時雨の雲が乗っかってるかのようだ。
山城へ井出の駕籠かるしぐれ哉
貞享4年の東海道を名古屋へと向かう途中時雨にあって、やむを得ず駕籠に乗った。
別に山城国の井手の玉水とは関係ない場所だけど、伊勢物語の、
山城の井手の玉水手に結び
頼みしかひもなき世なりけり
の歌が浮かび、井手を出でと掛詞にして、頼み甲斐のない世だから駕籠に乗ったと作ってみた
痩ながらわりなき菊のつぼみ哉
霜に枯れた菊の中に、まだつぼみのまま枯れているのを見て、不憫に思った。
京まではまだ半空や雪の雲
貞享4年10月25日に江戸を出て、11月4日に尾張鳴海の知足の家に辿り着いた。
早速翌日、菐言の家で興行があった。
京へ行くのに道半ばという意味と、雪の雲が空の中程にあるというのと、両方の意味で半空という言葉を使った。
鳴海は飛鳥井雅章の君が、
うちひさす都も遠くなるみがた
はるけき海を中にへだてて
の歌を詠んだ所でもある。定家の卿の、
都思ふ涙のつまとなるみがた
月にわれとふ秋のしほかぜ
の歌にも詠まれている。
註、『笈の小文』には、
「飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、『都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて』と詠じ給ひけるを、自らかかせたまへて、たまはりけるよしをかたるに」
とある。
星崎の闇を見よとや啼千鳥
貞享4年の11月7日、鳴海の寺島安信の家で興行した時の発句。
明日は熱田へ行くのでここもお別れになるなる。
ここから天白川を越えると星崎の浜が広がってるので、別に夜中に旅立つわけではないけど、 星崎の方で千鳥が呼んでますので、これから星崎の闇を見に行ってきます、としてみた。
註、『笈の小文』には、「鳴海にとまりて」とある。
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
三河国の保美で隠棲している杜国に会いに行こうと、越人を連れて吉田宿に泊まった時の句。
二人寝るの相手は越人で、杜国ではないのを念のため。
註、『笈の小文』には、
「三河の国保美といふ処に、杜国がしのびて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ねかへりて、其夜吉田に泊る」
とある。
ごを焼て手拭あぶる寒さ哉
貞享4年11月10日、保美に隠棲する杜国に逢いに、越人と一緒に名古屋を出て吉田宿まで来た。
この辺りは松の葉を燃料として用いていて『ご』と呼んでいる。
この夜はかなり冷えて、濡らした手拭が凍ってしまった。
冬の日や馬上に氷る影法師
貞享4年11月11日、昨日の酒の残っててふらふらの越人と一緒に、吉田宿から保美の万菊の所に向かった。
田原街道は海岸沿いの道で、海からもろに風が吹き付ける上に、この日は雪まで降っていた。
猛吹雪の中、馬の上で凍りついたようにじっとしてるしかなかった。
註、『笈の小文』には「あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也」とある。
ゆきや砂馬より落よ酒の酔
貞享4年の11月11日、越人と一緒に保美の杜国の所に行った。
昨日の夜は吉田宿に泊まったが、あのあとずっと一人で飲んでたのか、朝から完全に出来上がっていた。
田原街道は海岸沿いの道で、海からもろに吹きつける北風に加えて、この日は雪まで降っていた。
ベロンベロンに酔って馬に乗った越人に、下はどうせ雪か砂だからたいしたことなさそうだから、内心「落ちろ!」と思ってた。
でもこういう時って落ちないもんだ。
天津縄手を過ぎると幾らか良くなる。
鷹一つ見付てうれし伊良湖崎
貞享4年の11月11日、越人と一緒に保美の杜国の所に行った。
馬鹿な役人のせいでこんな所に隠棲させられてと思ってたけど、取り敢えず元気なので安心した。
ひきすゑよ伊良湖の鷹の山帰り
まだ日はたかし心そらなり
藤原家隆
の歌があったね。まだ若いんだから、連れ戻したい。
註、『笈の小文』に、
「保美村より伊良古崎へ壱里斗に有べし。三河の国の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入られたり。此州崎にて碁石を拾う。世にいらご白といふとかや。骨山と云ふは鷹を打つ処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりきりとおもへば、猶あはれなる折ふし」
とある。
夢よりも現の鷹ぞ頼母しき
貞享4年の冬に保美の杜国の家を訪ねた時の句。
伊良湖の鷹は、
引きすゑよ伊良湖の鷹の山帰り
まだ日は高し心そらなり
藤原家隆
の歌に詠まれている。
鷹が山に帰ってしまったのは残念だ。まだ人生これからなのに。
現実の鷹の鳴き声も聞こえてくる。俳諧に戻ってきてほしい。
麦はえてよき隠家や畠村
伊良湖崎の保美に隠棲している杜国を訪ねた時の句。
麦も獲れるし隠れ家としては良いけどね。何で隠れなくてはいけないんだ?
さればこそあれたきまゝの霜の宿
貞享4年の10月13日、保美の杜国の家を訪ねた時の句。
興行の時は予備として二句作って用意する場合があるが、採用したのは、
麦はえてよき隠家や畠村
の方だった。挨拶は褒めるのが基本。
ただ、本音としてはこっちだったかな。
杜国こと壺屋庄兵衛は名古屋の大きな米屋だったが、経済音痴の役人に先物取引が博奕か何かだと勘違いされ、いきなり死罪を言い渡された。
先物取引は米相場を安定させるための重要なもので、とんでもないことになったと最後は尾張中納言光友までが出てきて、結局尾張追放で決着し、三河隠棲となった。
家が荒れ果ててたわけではない。こんな所に閉じ込められて、馬鹿な役人に荒らされるがままになっていた、というニュアンスを読み取ってね。
梅つばき早咲ほめむ保美の里
貞享4年の10月、伊良湖の保美に万菊を訪ねて行った時、その土地の人に保美という地名の由来を聞いた。
昔院の帝がこの地を褒めたということで褒美と言うんだという。
どの文献にもないというので、前書きに書き記すことにした。
自分の名が後世に残るなら、保美の名の由来も後世に残るに違いない。
註、真蹟詠草に、
「此里をほびといふ事は、むかし院のみかどのほめさせ玉ふ地なるによりて、ほう美といふよし、里人のかたり侍るを、いづれのふみに書きとゞめたるともしらず侍れども、いともかしこく覚え侍るまゝに」
と前書きがある。
先祝へ梅を心の冬籠り
保美で隠棲している杜国の元には権七という家僕がただ一人残って世話をしている。最後まで主人を見捨てない心は立派だし、今は辛い思いをしていても必ずまた春は来る。
あいつもこれで人生終わりってわけじゃない。そう、春になったら海を渡り伊勢へ連れてきてくれ。そこから次の人生への旅が始まる。
面白し雪にやならん冬の雨
貞享4年11月20日、鳴海の出羽守氏雲の家に呼ばれた。
冷たい雨が降っていて、いっそのこと雪になればと思った。
出羽守の俳号は自笑で、脇は、
氷を叩く田井の大鷺
雪の中だとあの鷺も映えることだろう。
薬のむさらでも霜の枕かな
貞享4年の11月の終わり頃、熱田でまた持病が悪化して起倒子に薬を頼んだ。
起倒子は前の旅の時にもお世話になった人で、盤斎老人の後向きの絵を見せられたっけ。
発句したら、
昔忘れぬ草枯れの宿
の脇を返してくれた。
磨なをす鏡も清し雪の花
貞享4年11月24日、木示と熱田神宮に参拝した。その日は雪が降っていた。
この発句でこのあと両吟歌仙を巻いた。
木示の脇は、
石敷庭のさゆるあかつき
だった。新しい玉砂利の上に雪が積もって、まばゆいくらいの朝だった。
前に来た時はすっかり荒れ果てて廃墟のようになっていて、昔を偲ぶにも忍びなかったが、その声が届いたのか、翌年には寺社奉行が動いて大規模な改修工事が行われ、見違えるように綺麗になっていた。
註、『野ざらし紀行』には、
「社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。」
とあり、『笈の小文』には「熱田御修覆」とある。
ためつけて雪見にまかるかみこ哉
貞享4年11月28日、名古屋昌碧亭での興行の発句。
今日は雪見ということで衣の皺をビシッと伸ばして、きちんとした格好で来ましたよと言いながら、最後で防寒用に下に着てる紙子のことですが、という落ちにしてみた。
註、『笈の小文』には「有人の会」とある。
露凍て筆に汲干ス清水哉
貞享4年の師走の名古屋での興行の発句で、その時は上五が「露冴て」だった。
墨を磨るのに用いる清水の露が凍るように冷たいけど、みんな頑張って沢山句を付けてね、というつもりだったが、二十四句までで満尾できずに終わった。
いざ行む雪見にころぶ所まで
貞享4年12月3日、名古屋に風月庄左衛門という本屋に呼ばれて興行した時、霰が降ってきて雪に変わった。帰っても良いけど転ぶよという、まあ遠回しに泊めてくれってことだけどね、
あとで「いざさらば」に作り直したけど、これはたとえ行き倒れになるとも旅を続けるという決意の、全く別の句になった。
註、真蹟詠草に、
「書林風月ときゝし其名もやさしく覚えて、しばし立寄てやすらふ程に、雪の降出ければ」
とある。
箱根こす人もあるらし今朝の雪
貞享4年12月4日、蓬左の美濃屋聴雪の家で興行した時の発句。熱田神宮を蓬莱宮に見立てて、この西側を蓬左というらしい。
今年は雪が多いのか、この日も朝から雪が降っていた。
江戸から旅してきたことを思うと、今から江戸を出て上方に上る人は大変だろうな。
旅寝よし宿は師走の夕月夜
貞享4年の12月9日、名古屋の一井の家で興行した時の発句。
今日はここに泊めてもらうということで、旅寝よし。
一井の脇は、
庭さへせばくつもりうす雪
で、狭い庭で雪まで積もってと謙虚なもんだ。
香を探る梅に蔵見る軒端哉
貞享四年の12月の初め頃は名古屋で一日おきくらいに興行が続いた。
これは防川という商人の家に呼ばれた時で、冬だというのに梅の匂いがして、外を見たら、寒梅も咲いていたが、それ以上にやたらでかい蔵が目に入ってきたので、これを発句にした。
旅寐してみしやうき世の煤はらひ
貞享4年の12月13日、名古屋滞在中に煤払いの日を迎えた。
こういう時って場違いな感じでどうにも居心地が悪い。手伝おうとしてもまあまあとか言われ、かと言って部屋にいても落ち着かないし。
なんか自分が本当に浮世の外にいるような気がした。
註、『笈の小文』には、「師走十日余、名ごやを出でて、旧里に入らんとす
歩行ならば杖つき坂を落馬哉
東海道の四日市宿と石薬師宿の間にある杖突坂は、河原から台地へと上がる所で結構急だ。
大きな街道では馬に乗ることも多いんだが、馬に揺られているとついつい眠くなり、これまでも落馬しそうになったことはあったが、ここでは落ちてしまった。
落馬は天罰ともいうが、たいした怪我でなくてよかった。
註、『笈の小文』には、
「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ」
とある。
旧里や臍の緒に泣としの暮
貞享4年の暮れに伊賀に帰省した時に、母がとっておいたという自分の生まれた時の臍の緒が出てきた。
父を早く失い女手一つで育ててくれた母ちゃん‥。
二日にもぬかりはせじな花の春
貞享5年の正月は伊賀で迎えた。12月は名古屋で興行続きで、年末ぎりぎりに伊賀に帰ったら、旧友たちが集まって飲み会になり、元日は昼まで寝て初日を見逃した。
正月は身なりを整え神仏先祖に祈りを捧げなくてはならないが、取り敢えず歳旦の発句は作っておこう。
註、『笈の小文』には、
「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寐わすれたれば」
とある。
春立てまだ九日の野山哉
貞享5年の立春は1月3日だった。その9日後の12日は特に何の日ということはないけど、小川風麦の家で興行をした。
特別な日ではなく、何でもない日というのが俳諧だ。
あこくその心もしらず梅の花
貞享5年春、伊賀の小川風麦の家にいた頃、興行の発句をあらかじめ詠んで教えてくれと言ってきた。
当日の状況がわからないので、紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは」の歌を元に、俳諧だから紀貫之を幼名の阿古久曽に変えて、その心も知らず、としてみた。
香にゝほへうにほる岡の梅のはな
伊賀では雲丹という亜炭が採れる。燃料になるが硫黄の匂いがする。
名古屋の方では岩木と呼ばれ、「春の日」に、
額にあたるはる雨のもり
蕨煮る岩木の臭き宿かりて 越人
の句もある。
みちのくの名取川の埋れ木のような香りの良いものもある。
伊賀の雲丹は臭いので、梅の香で消してくれ。
枯芝ややゝかげろふの一二寸
貞享5年の正月は故郷の伊賀で迎えた。
春もまだ早い頃、枯芝の上に微かに陽炎が見えた。
手鼻かむ音さへ梅のさかり哉
まあ、せっかくの梅に鼻詰まりじゃねえ。それで手鼻www。
何の木の花とはしらず匂哉
貞享5年2月、伊勢での興行の発句。
前に来た時もそうだったが、僧形で旅をしているため内宮には入れなかった。
西行法師も僧だから内宮に入れなかったのだろう。
何ごともおはしますをば知らねども
かたじけなさの涙こぼれて
の歌は、要するに見てないということだ。
自分もそれに倣うことにしよう。
神官の益光の脇は、
声に朝日を含む鶯
朝日見ずとも声でわかる。
この興行に途中から野人なる者が参加したが、見るとなんと杜国だった。来てくれたんだ。
裸にはまだ衣更着の嵐哉
貞享5年のお伊勢参りの時の句。
その昔増賀上人が伊勢神宮で祈りを捧げていると、何を悟ったかいきなり服を脱いで、裸で物乞いしながら帰ったという。
慈恵大師に咎められてもかまわず、すっかり裸でいることの楽しさに目覚めてしまったとさ。
とても真似できない。
今そんなお告げがでたらどうしようか。裸はともかくとして、今の季節は寒い。
此山のかなしさ告よ野老堀
伊勢神宮から朝熊山金剛證寺へ行く途中に菩提山神宮寺があった。
本来は伊勢神宮の本地だが、朝熊山金剛證寺の方が有名になってしまったからか、ここは忘れ去られて荒れ果てている。
伊勢というと海老だが、この荒れた山でも野老が取れる。これも長寿の象徴でお目出たい縁起物ではあるが。
物の名を先とふ芦のわか葉哉
貞享5年春、伊勢の龍尚舎という神官の所を訪ねた時の句。
たいそう博識な学者なので、芦の若葉を伊勢で何というか聞いてみた。難波の芦は伊勢の浜荻ってゆうからね。
もう何十回も聞かれたって感じでめんどくさそうだった。
梅の木に猶やどり木や梅の花
貞享5年に伊勢の網代民部雪堂亭に招かれた時の発句。
親子二代の風流を梅の花に喩えて、
いも植て門は葎のわか葉哉
貞享5年の伊勢にいた頃、二乗軒という草庵で会があった時の句。
まあ、見たまんまで、庭に芋畑があって、その脇にムグラの若葉が生えていた。このまま草庵は八重葎茂れる宿になるのだろう。
御子良子の一もとゆかし梅の花
伊勢神宮の句を詠むのに何か花のあるものが欲しいと思ってたけど、神宮の中に梅の木はなく、聞くと子良の館の裏に一本だけあるという。
神饌を作る女性のいる所だから、その誰かが植えたのだろう。
御子良子に梅と花のあるものが揃って、いつか書く紀行文に花を添えることができる。
註、『笈の小文』には、
「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良の館の後に、一もと侍るよしをかたりつたふ。」
とある。
神垣やおもひもかけず涅槃像
貞享5年の春、伊勢神宮へ行った時、釈迦涅槃会の2月15日に外宮で思いかけず涅槃会図を見た。
唯一神道の神社だから僧形だと内宮にはは入れないが、外宮は参拝できる。だからそこで涅槃像の講釈が行われてても不思議はないんだが、でもやっぱ意外だった。
暖簾のおくものぶかし北の梅
貞享5年の春に伊勢の俳諧師園女の家を訪ねた。
伊勢といえば宗鑑と並ぶ俳諧の祖、荒木田守武のいた土地で、盲人の俳諧師望一も有名だ。
そして今は女性俳諧師。はっきり言って旦那の一有より上だ。
暖簾の奥に咲いた梅の花に喩えてみた。
園女の脇は、
松散りなして二月の頃
松の新芽に古い葉は散る
女性は発句をよくする者はいても俳諧興行の席に座ることはまずない。
諸国からあらゆる階級職種の人の集まる伊勢は多様性を受け入れる懐がある。
盃に泥な落しそむら燕
伊勢のやや外れの楠部に住むこの人は、どこか太宰府の菅原道真を彷彿させる。
荒れた家でも燕が巣を作るのは吉兆でもあり、お目出度いことだ。
せめてこれからも旨い酒が飲めるように、あえて古風な言い回しで、
紙ぎぬのぬるともをらん雨の花
貞享5年の春、伊勢の久保倉右近の家で興行した時の発句。
今日は生憎の雨ですが、この私の旅の防寒着の紙子が濡れてもいいから花を折りに行きましょう、という挨拶で、俳諧はまさに言の葉の花。
この興行には野人杜国も参加してた。
丈六にかげろふ高し石の上
伊勢から伊賀へゆく長尾峠の道に護峰山新大仏寺があった。すっかり荒れ果てて一丈六尺の大仏も雨晒しになって苔むしていた。
別に廃墟が好きなわけではない。どっちかというと、こういう文化財をちゃんと守ってくれと訴えたいんだ。
註、『笈の小文』には、
「伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋れて、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全おはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるるばかりなり。石の蓮台、獅子の座などは、蓬・葎の上に堆く、双林の枯れたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。」
とある。
初桜折しもけふは能日なり
伊勢で杜国と再会して、一緒に吉野の花を見に行こうとということで、ひとまず一度故郷の伊賀に帰った時の、伊賀上野の薬師寺に呼ばれた時の発句。気候の挨拶は発句の基本。
咲乱す桃の中より初桜
貞享5年の伊賀にいた頃だったかもしれない。吉野は山だから平地よりも花が遅く、こちらで散る頃に出かけようと思い、桜の咲くのを伊賀で心待ちにしていた。
伊賀は伏見のような。桃の名産地ではないけど、桃はあちこちで作っているし、本当は好きな花のひとつだ。桃青という俳号を名乗るくらいだし、気に入った人には桃の字の入った俳号を付けてやっている。
貞享2年に奈良のお水取りを見てから京都伏見へ向かう途中、長池宿から先の宇治丘陵は桃の一大産地だった。そのイメージもあったと思う。
いつ詠んだのかは忘れた。
さま/″\の事おもひ出す桜哉
貧しい農人の出で生活のために伊賀藤堂藩に奉公し、そこで料理人として何とか生活していた自分を俳諧の席に誘ってくれたのは、二つ年上の藤堂主計さんだった。
そこには身分の分け隔てなく談笑楽しむ世界があって、すっかりハマってしまった。
だが、彼も25で夭折。
今その息子の花見の宴に誘われて、
花をやどにはじめをはりやはつかほど
貞享5年の春は2月18日に故郷の伊賀に帰った、
翌日、杜国と水雲の僧宗波がやってきた。
宗波は去年の秋に一緒に鹿島の月を見に行ったが、大体いつも急にいなくなって、こうしてひょっこり現れたりしては、すぐにどっか行ってしまった。
2月の終わり頃から3月19日までの20日ほど岡本治右衛門の瓢竹庵にお世話になった。
来た時はまだ梅が咲いていたが、今は桜も散り始めている。
このほどを花に礼いふわかれ哉
貞享5年の春は故郷の伊賀で様々なことを思い出しながらのんびり過ごした。
後から杜国もやってきて、2月の終わりからは岡本治右衛門の瓢竹庵に20日ほど厄介になった。これまでありがとう。
3月19日、杜国を連れて吉野へ旅立つ。
名前も野人ではなく万菊丸にした。
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
万菊丸は米問屋の若旦那でいい男で相場を読むのも上手だったが、それを羨んだ経済音痴の役人に酷い目にあってようだ。
尾張国は出禁になって伊良湖崎の方に隠棲してたが、船で伊勢まで来てくれた。 野人なんて名乗ってたけどね。まあ、古いことは忘れて吉野へ行こう!故郷の伊賀もそろそろ退屈した頃だ。
檜笠は網代笠とも言って、大峰の修験者が被るもので、今回は熊野へは行かないけど、吉野から大峰に入る逆の峰入りに紛れるのも悪くない。
註、『笈の小文』には、
「弥生半過る程、そぞろにうき立つ心の花の、我を道引枝折となりて、よしのの花におもひ立たんとするに、かのいらご崎にてちぎり置きし人の、いせにて出でむかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便リにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス。
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸」
春の夜や籠り人ゆかし堂の隅
貞享5年3月19日、万菊丸と一緒に吉野へ旅立ち、その日は初瀬に泊まった。
初瀬というと籠り江の初瀬と昔から歌に詠まれて、ここに籠って修行してる人はどんな人なのか興味を惹かれる。奈良のお坊さんは美男が多い。
註、『笈の小文』には、
「初瀬
春の夜や籠リ人ゆかし堂の隅
足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊」
とある。
雲雀より空にやすらふ峠哉
吉野へ万菊と花見に行く途中、多武峰から細峠を越える道に眺めのいいところがあって、雲雀になったような、いや、雲雀以上か、
いやあ、良い眺めだ。
ところで万菊ちゃん。
あの冬の日のことだけど、「朝鮮の細りススキ」って、あの天和2年に朝鮮通信使が来た時に、先頭の露払いの馬の乗ってる人の持ってた清道旗の上についていた飾りのこと?
そう言えば去年の春に京から去来がやってきた時の発句が、
久かたやこなれこなれと初雲雀 去来
だったな。こっちまで来てみろとばかりに雲雀が鳴いている。それに、
旅なる友をさそひ越す春 芭蕉
と付けたっけ。
今思うとこの時雲雀に誘われて、万菊も誘って、今や雲雀を越えてしまったか。
註、『笈の小文』には、
「三輪 多武峯
臍峠 多武峯ヨリ龍門ヘ越道也」
とある。
龍門の花や上戸の土産にせん
吉野への道筋で多武峰から細峠を越えると龍門の滝がある。
滝と言えば李白観瀑図、李白と言えば酒。
酒のみに語らんかゝる滝の花
吉野へ行く道は細峠を越えると龍門で修験の地だ。こういう所に滝は付き物。折から桜も花盛り。
まあ、ここで修行していくわけでもないし、滝だけ見物してゆくが、そうなると浮かんでくるのが李白観瀑図。
李白一斗詩百篇というから、この滝を知ったら詩をたくさん書いてくれるかな。
花の陰謡に似たる旅ねかな
8月20日、吉野に到着したあと、その夜はいろいろ事情があって、やや道を戻るが平尾村の農家に泊まった。
方角はやや違うが謡曲二人静の舞台になる菜摘川の里を思わせる。
さあ、万菊よ、ここで二人静を舞おうではないか。
註、真蹟懐紙に、
「やまとのくにを行脚しけるに、ある農夫の家にやどりて一夜をあかすほどに、あるじ情ふかくやさしくもてなし侍れば」
とある。
ほろ/\と山吹ちるか滝の音
吉野の桜も素晴らしく、更に奥へ西行庵の方に行くと、そこから西河へ降りる道がある。
ここは山吹の花が見事で、散った花が清流に浮かぶとさながら黄金水。水銀を産出する錬金術の山だっただけのことはある。
そういえば滝もあった。
桜がりきどくや日々に五里六里
貞享5年の3月19日、万菊を連れて吉野へ旅だった。
伊賀から初瀬を経て細峠を越え、翌20日の午後に吉野に着いた。最初は、
六里七里日ごとに替る花見かな
だった。語呂の問題で、別に盛ってたわけではない。
さびしさや華のあたりのあすならふ
貞享5年の春、吉野の花見に来て思った。
伊賀からでも2日あればここまで来れるし、伊賀にいた頃のにも何度も吉野の花を見るチャンスはあったはずだと思うと、今まで何で先延ばしにしてたんだろうか。
人生はみじかい。無常迅速。花を見るなら今だ。
注、支考編元禄八年(一六九五年)刊『笈日記』に、
「明日は檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり。きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。ただ生前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ。」
とある。
扇にて酒くむかげやちる桜
貞享5年3月20日、ついに花の吉野山に着いた。
本当にこれはこれはとばかりに桜が咲いている。
早速酒盛りだ。万菊と二人、吉野で乾杯。
句は「酒汲む影に散る桜は扇にてや」の倒置。酒を酌む木陰に散ってくる桜は、扇にて振り払うのがよろしい。扇で舞い上がる花びらもまた良い。
春雨の木下につたふ清水哉
吉野西行庵のとくとくの清水は貞享元年の秋にも来て、
露とく/\心みに浮世すゝがばや
の句を詠んだが、貞享5年の春に再びやってくると、前来た時とだいぶ水量が違って、春雨が降っているみたいだった。
花ざかり山は日ごろのあさぼらけ
万菊と一緒に吉野へ行った時の句。
吉野に来る前も山を越えてきたので日はいつものように上るけど、でも朝日に照らし出された吉野の山は格別だ。
吉野の千本桜は南北に連なる尾根の上の参道を中心に帯状に植えられたものだから、それ以外の山は普通だったりする。
景清も花見の座には七兵衛
万菊と一緒に吉野へ行った時の句。
悪七兵衛景清は平家方の勇猛な武将で源氏方に恐れられていたが、そんな彼も吉野で花見をしたなら、普通に「よおっ、七兵衛じゃないか」って話しかけられたりして、普段笑わぬ 男がフッと笑みを浮かべたりするんだろうな。
声よくばうたはふものをさくら散
多分吉野の花見の時だったと思う。西行桜は謡ってみたいけど、音痴だからな。
万菊の舞が上手いだけに残念。
しばらくは花の上なる月夜かな
元禄4年、幻住庵で過去の旅の際に書き留めた草稿を整理してた時に、紀行文にする際の吉野で花見をした時の句が欲しくて作った。
ちょうど之道が訪ねてきて、大阪での万句興行の句が欲しいというので、この句を与えた。
実際吉野に着いたのは3月20日で月は遅かった
猶みたし花に明行神の顔
吉野からは葛木山が見えるが、結構遠い。
ここに法の岩橋を架けようだなんて、役行者も無茶を言ったものだ。
可哀想に一言主の女神が強制労働させられて、顔が醜いのを理由に夜しか作業しなかったのもわかる。
本当は美人だったんだろうな。謡曲でも泣増の面で舞う。
その猿楽の葛木では雪の葛木を訪ねてゆくが、今は桜の季節。
葛木の神の岩戸の舞いも雪ではなく花の雪だったら「月白く花白くいづれも白妙の景色」だったのに。
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
貞享5年の春、吉野の花見の後、高野山へ行った。
行基菩薩の、
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ
の歌を思い起こし、ここでは山鳥ではなく雉の声とした。
行春にわかの浦にて追付たり
貞享5年の3月の終わり、吉野の花見のあと高野山を経て、ぎりぎり春が終わる前に和歌の浦に辿り着いた。
住吉明神北野天神と並ぶ和歌の聖地で、ここに祀られてるソトオリヒメの軽皇子を追いかけて伊予へ行った故事から、追いかけることを和歌の浦の本意とする。
一つぬひで後に負ぬ衣がへ
貞享5年4月1日の衣更えは和歌の浦を出る時だった。
3月は小の月で29日に和歌の浦に遊び、翌日には奈良へ向かって。
旅の途中なので特別な夏服を用意してるわけではない。ただ上に羽織ってた褊綴を背中に背負った笈の中に仕舞って、小袖姿になるだけだ。
灌仏の日に生れあふ鹿の子哉
貞享5年のお釈迦の誕生日、奈良で鹿の出産を見た。
奈良の鹿は鹿島神宮の使いで、本地垂迹からすれば仏様の使いでもある。
註、『笈の小文』には、
「灌仏の日は、奈良にて爰かしこまうで侍るに、鹿の子を産むを見て、此日におゐておかしければ」
とある。
若葉して御めの雫ぬぐはゞや
貞享5年の4月11日だったか、奈良の唐招提寺を訪ねて、鑑真和尚がやっと日本にたどり着いたというのに目を病んで見ることができなかったことを思い、
この句は「青葉して」とどっちが良いか迷った、「わかば」「はばや」の語呂の良さを採った。
漢詩は韻を踏むが、和歌は同じ音で終わるのを嫌うところがある。俳諧は軽い調子を好むので、これでいいと思う。
註、『笈の小文』には、
「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」
とある。
鹿の角先一節のわかれかな
貞享5年の4月、和歌の浦から奈良に戻ると、伊賀の友人達がわざわざ来てくれて、久々に大勢で賑やかな夜になった。
そのあとまた別れて竹内へ行き、大阪を見てから須磨明石に向かう予定だ。
鹿の角が枝分かれするように、みんなそれぞれの道を行く。
では、解散。
草臥て宿かる比や藤の花
貞享5年の4月11日、耳成山の東側の丹波市八木という所に泊まった。
この日は奈良のいろんな寺を回って疲れた。
すでに夏なので、最初は、
ほととぎす宿借る頃の藤の花
としたが、当座の句でもないし、別に春でもいいかと今の形にした。
註、『笈の小文』には、
「旅の具多きハ道さはりなりと、物皆払捨たれども、夜の料にと、かみこ壱つ・合羽やうの物・硯・筆・カミ・薬等、昼笥なんど、物に包みて後に背負ひたれば、いとどすねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶すすまず。ただ物うき事のミ多し」
とある。
たのしさや青田に涼む水の音
貞享5年4月12日に万菊と一緒に竹内の伊麻の茅舎を訪ねた時だったか。
その日はよく晴れた初夏の気持ちいい日で、田植え前の水を張った田んぼを見ながら、十二夜の月の夕べに酒を酌み交わした。
里人は稲に歌よむ都かな
貞享5年の4月12日だったと思う。奈良の竹内から二上山當麻寺へ行って、そのまま大阪に入り誉田八幡に泊まった時だったか。
田植えの後の田んぼが青々としてて美しく、これを何で大宮人たちは歌に詠まなかったのかと思った。
蓮は泥の中で清き花を咲かすが、稲も泥の中で清い。
牡丹は富貴の象徴だが、稲が実れば実際に富貴になる。
杜若語るも旅のひとつ哉
貞享5年奈良から須磨へ行く途中、大阪で伊賀にいた頃一緒に俳諧をやっていた一笑に会った。
久しぶりに俳諧もやったし、語ることもいろいろあった。
月はあれど留守のやう也須磨の夏
貞享5年の4月19日に大阪を出て尼崎から船に乗って、その夜は兵庫に泊まった。
須磨に着いたのはその翌日4月20日だった。
須磨というと源氏物語の月見もあれば、謡曲松風も月の須磨だった。
今は4月で名月でもなく、藻塩焼く煙もない殺風景な場所に夜遅く月が昇った。
月見ても物たらはずや須磨の夏
在原行平や源氏物語で名高い須磨の浦に来ては見たけど、やはりここは秋に来るべきだった。
それこそ見渡しても花も紅葉もないし、塩田が広まったせいか浦の苫屋の藻塩焼く煙も昔の話で、今はその面影もない。
海士の顔先見らるゝやけしの花
貞享5年に須磨に行ったが、赤穂の塩田に取って代わられてしまったか、藻塩焼く浦の苫屋はなかった。
海から少し離れると麦畑が広がっていて、収穫も近く赤々としていた。家の軒下にはケシの花が咲いていて季節が感じられる。
夜明け前に漁師たちが一斉に海に出てゆくと、ちょうどその頃ケシの花も開き始める。
註、『笈の小文』には、
「卯月中比の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとど艶なるに、山はわか葉にくろみかかりて、ほととぎす鳴出づべきしののめも、海のかたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂波あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花の、たえだえに見渡さる」
とある。
須磨のあまの矢先に鳴か郭公
須磨の浦の藻塩焼く煙は昔の話で、来てみたら網で獲ったキスゴを浜辺で干していて、カラスがやってくると弓矢で脅して追っ払ってた。
392
ほとゝぎす消行方や島一つ
元禄5年の夏に須磨・明石へ行った時、ホトトギスが鳴いたと思ったらすぐに聞こえなくなった。
人丸の、
ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島がくれゆく舟をしぞ思ふ
の舟のようにホトトギスも去って行ったのか。
註、『笈の小文』には、
「東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。『藻塩たれつつ』など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざするなども見えず。きすごといふをを網して、真砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。若古戦場の名残をとどめて、かかる事をなすにやと、いとど罪ふかく、猶むかしの恋しきままに、てつかひが峯にのぼらんとする。導きする子の苦しがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、「麓の茶店にて物くらはすべき」など云ひて、わりなき体に見えたり。かれは十六と云ひけん里の童子よりは、四つばかりもをとをとなるべきを、数百丈の先達として、羊腸険岨の岩根をはひのぼれば、すべり落ちぬべき事あまたたびなりけるを、躑躅・根ざさにとりつき、息をきらし、汗をひたして、漸雲門に入こそ、心もとなき導師の力なりけらし。」
とある。
須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ
須磨といえば敦盛で、若くして笛の名手で、一ノ谷の戦いで捉えられて斬首されたのは春のことだった。
今は夏で花も散り、鬱蒼と繁る闇の中から聞こえて来るのは、まだ彷徨っている敦盛の笛の音なのだろう。ただのホトトギスではあるまい。
かたつぶり角ふりわけよ須磨明石
貞享5年の夏、須磨の鉄拐山に登った。
ガイドの少年を雇ったが、途中で腹が減った、茶屋があるから何か食わせろと言い出し、ここまで来たからと結局散々食ったあと、九郎判官が辿ったという険しい山道を案内してもらった。
尾根に出るとカタツムリの背に乗ったみたいに、左に須磨、右に明石がみえた。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
貞享5年4月20日、須磨の浦に泊まった。
この辺りは蛸壺漁が盛んで、名産のタコは美味いが、せっかく安住の地と思って入ったところを捕えられるタコの気持ちになると、見につまされるものがある。
平家を打倒した九郎判官のことも偲ばれる。
有がたきすがた拝まん杜若
宗鑑は俳諧の祖と呼ばれ、山崎に住んでいたので山崎宗鑑と呼ばれている。
「犬筑波集」の編纂によって俳諧の社会的地位が確立されたので、俳諧師は皆足を向けては寝られない。
明石からの帰りに山崎を通り、近衛殿がふざけて、
宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた
と詠んだのを思い出して‥‥。
俳諧の祖と言われる宗鑑をリスペクトして、阿羅野には、
手をついて歌申あぐる蛙かな 宗鑑
月に柄をさしたらばよき団扇哉 同
を入集させた。
下々の下の客といはれん花の宿 越人
も宗鑑の
上は来ず中は日帰り下は泊まり
二日泊まりは下々の下の客
のオマージュだった。
花あやめ一夜にかれし求馬哉
貞享5年の5月に京で万菊に誘われて、上方で流行ってるという吉岡求馬の芝居を見に行った。
翌日求馬が急死したと聞いて、万菊などは、
抱きついて共に死ぬべし蝉のから
とまで推しの死を悲しんでた。
求馬は東百官から来た名で「もとめ」と読むところから、求めた恋も一夜に枯れてということで‥‥。
でもその万菊が二年も経たずに本当に逝ってしまうなんて、この時は想像もしなかった。
此ほたる田ごとの月にくらべみん
貞享5年の6月は大津にしばらく滞在した。
有名な勢田の蛍も見に行った。飛び交う蛍の夜の幻想的な景色に、ふと姨捨山の田ごとの月を見てみたいなと思った。
あれは田植え前の水を張った田んぼに映るというから、今から行っても遅いが、姨捨山で中秋の名月を見るのも悪くないかも。
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
貞享5年の夏、大津にいた頃の句。
五月雨で水位が上昇しても瀬田の橋には届かない。
周りの山々には雲がかかって、瀬田の橋だけが雲の中に浮かび上がるかのようだ。
めに残るよしのをせたの蛍哉
貞享5年夏、大津に滞在してた頃、勢田の蛍を見に行った。
思えばこの春、万菊と一緒に吉野の桜を見に行ったな。
あの時の歓喜を今もはっきり覚えているが、人生は短い。
いつかそれも蛍の微かな光のように、やがて消えて行ってしまうのかな。
世の夏や湖水にうかぶ波の上
貞享5年6月は大津にしばらく滞在した。瀬田川の蛍を見たりして楽しんだ。
これは井狩昨卜という人の家にいった時の句。
「世の夏なれどここは湖水に浮かぶ波の上や」という意味。
「や」を倒置で上五の末に持ってきて、湖水以下を疑いつつ治定する。
草の葉を落るより飛蛍哉
貞享五年の夏、大津に滞在していた頃、瀬田の蛍を見に行った。
草の葉から落ちる露の雫のように蛍が飛び立ってゆく。
弱々しい光がどこか悲しげだ。
この日は有名な瀬田川を下る蛍船には乗らなかった。
水に映る蛍の光を見ていると、ふと姨捨山の田毎の月を見てみたいなと思ったが、あれは田植えの前の千枚田だから今からでは遅い。
海ははれて比叡ふりのこす五月哉
貞享5年の5月も末、大津の琵琶湖畔に立つ水楼に招かれた時の句で、まあ、見たまんまの句だ。
鼓子花の短夜ねぶる昼間哉
貞享5年6月5日、大津の奇香亭での興行の発句。
昼の興行だったので、夏の短い夜はしっかり寝て、昼顔のようにこの昼間の会を楽しみましょう、という挨拶。
奇香の脇は、
せめて涼しき蔦の青壁
暑いからせめて緑のカーテンは欲しいね。
夕がほや秋はいろ/\の瓢かな
夕顔は夏の夕暮れには涼しげな花をつけるが、源氏物語などでは卑賤な花のイメージがある。
その夕顔も実は干瓢にもなれば、殻は柄杓や様々な容器になる。
「や」と「哉」と二つ切れ字が入っているが、この場合の「や」は係助詞ではなく、「今は夕顔やが、秋はいろいろの瓢哉」の「や」。
ひるがほに昼寐せうもの床の山
貞享5年の6月の初め頃、大津から中山道で岐阜へ向かう途中、彦根の近くを通ったので、最近入門してきた近江明照寺の住職さんに手紙で句を送った。
高宮宿と鳥居本宿の間に古歌で名高い床の山があったので、「床」に掛けて、ここで昼寝したい、とした。
床の山は街道脇の小さな山だが、
犬上の床の山なる名取川
いさと答えへよ我が名漏らすな
の古歌に詠まれている。
無き人の小袖も今や土用干
貞享5年の岐阜に滞在している時に去来の妹さんが5月15日に亡くなったことを知った。
その時点で6月半ばになっていて、遅くなったのを詫びる気持ちと、時期的にも夏の土曜の頃 に届くと思って作った句。
あとで本当に土用干ししてた時に届いたと去来が言っていた。
註、『猿蓑』に、
「千子が身まかりけるをきゝて、みのゝ国より去来がもとへ申つかはし侍ける」
とある。
また、『去来抄』には、
「行ずして見五湖いりがきの音をきく 素堂
なき人の小袖も今や土用ぼし はせを
素堂師の句ハ深川ばせを庵におくり給ふ句也なり。先師の句は予妹千子が身まかりける比、ミのの国よりおくり給ふ句也。共にその事をいとなむただ中に来れり。この比古蔵集を見るに、先師の事どもかきちらしたるかたはしに、素師の句をあげ、いりがきのただ中にきたる事を以て、名人達人と名誉がられたり、是をもて名人といはば、そのそしらるる先師の句もかくのごとし。皆人のしりたる事なり。それのミならず、世話にも人ごといはばむしろしけといへり。一気の感通自然の妙応、かかる事も有ものとしらるべし。誠に痴人面前夢を説べからずトなり。」
とある。
やどりせむあかざの杖になる日まで
貞享5年に京から岐阜妙照寺のお坊さんに連れられて、岐阜の草庵に泊まった時の句。
アカザは食用に用いられるが、秋になると長く伸びた茎が硬くなり、杖になる。その頃までは滞在したいものだって、本当に居座るわけにはいかないけど。
杜甫はアカザの杖がお気に入りだったのかな。
白帝城最高楼には、
杖藜嘆世者誰子
とあるし、南楚にも、
杖藜妨躍馬 不是故離群
とあるし、晦日尋崔戢李封にも、
杖藜複恣意 免値江與侯
とある。
アカザは食用にもなり、貞享2年に木示と別れる時に、
憂きは藜の葉を摘みし跡の独りかな
の句を貰った。
夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉
ヒトツバは岩の上に一枚だけ葉っぱがひょろっと生える奇妙な植物で、貞享5年に和歌の浦から奈良へ戻る時に衣更して一重の着物になった時、一枚しか葉のないヒトツバも仲間だなと思った。
城あとや古井の清水先問む
岐阜といえば斎藤道三。
その稲葉山に築いた城も今は廃城になり、古井戸だけが残っている。
山かげや身をやしなはむ瓜畠
貞享5年の夏、岐阜の稲葉山の麓の落梧の家を訪ねた時の句。荷兮も一緒だったか。
瓜畑があって採れたての瓜をご馳走になった。夏の暑い時には有り難い。
落梧の脇は、
石井の水にあらふかたびら
帷子だけでなく命の洗濯だな。
もろき人にたとへむ花も夏野哉
貞享5年、美濃の落梧が子供を亡くしたので、その追悼で花の命の短さに喩えたが、今は夏だった。
春の花も散ったあとは草木の生い茂る荒れ果てた鬱々とした景色に変わって行く。
この狭い大地に多すぎる命は、食ったり食われたりして生きるために争い、夏野の夢の跡になってゆく。夏野は落花より悲しい
撞鐘もひゞくやうなり蝉の声
貞享5年の夏、岐阜に滞在していた時に稲葉山の麓の喜三郎に招かれた。
そこは蝉の声がショワショワショワショワとうるさくて、すぐそばの安乗院の鐘が鳴り響くのと同じくらいうるさい。
此あたり目に見ゆるものは皆涼し
貞享5年の夏、美濃の加嶋善右衛門の長良川のほとりに立つ水楼に招かれた。
稲葉山を背に、長良川を前にして、お寺もあれば漁村もあって、日が暮れれば鵜飼の篝火が見える。
あれもこれもどれを取っても絶景で、テーマを絞れなかった。
瀟湘八景と西湖十景を合わせたみたいなので、十八楼と名付けた。
又やたぐひ長良の川の鮎なます
貞享5年の夏、岐阜の落梧に誘われて長良川の鵜飼を見に行った。
稲葉山の麓に席を設けて、酒を飲みながら獲りたての鮎を刺身にしてもらって酢をかけて、これが美味いのなんのって。
でも獲られる鮎や、口にしたものを絞り取られる鵜の気持ちになると、だんだん悲しくなってくる。
そういえば、
おもしろうさうしさばくる鵜縄哉 貞室
というちょっと古い句があったが、鵜飼は三四(さうし)十二羽で、この十二本の綱がよく絡まないなと思って鵜匠に聞いたら、一つが絡まった時点ですぐに解くことが大事だと言っていた。
面白てやがてかなしき鵜ぶね哉
釣りでも狩りでも殺生というのは楽しいんだ。それは人が物を食って生きていかなくてはならない以上自然なことなんだ。菜摘だってキノコ狩りだって楽しい。
長良川の鵜飼は見てても楽しいし、取り立ての鮎の刺身は美味い。
でもふと殺生のことを気に掛けて、悲しく感じることもある。
たびにあきてけふ幾日やら秋の風
貞享5年の立秋の頃、岐阜から名古屋へ向かった。そろそろ江戸へ帰ろうかなか。できれば誰かお持ち帰りして。
越人を誘ってみようかな。
長く旅を続けていると次第に日付がわからなくなってくるという、秋ならいつでも使えそうな句だが、立秋日という前書きをつけると趣が変わってくる。
あの雲は稲妻を待たより哉
貞享5年の7月、名古屋にいた頃だった。
まだ残暑も厳しく、夕立を呼ぶ入道雲ももくもくと現れる。
ただ、季語としては夕立も雲の峰も使えないからね。稲妻なら秋の季語なので、こういうやり方もある。
稲妻は稲の妻で、豊作祈願にもなる。
何事の見たてにも似ず三かの月
三日月って色々な物に例えられそうだけど、和歌とかにそういう例を知らない。
何か面白い物に見立ててみたいが、思いつかない。
それが阿羅野の時だったが、猿蓑の撰の時に之道が、
三日月に鱶のあたまをかくしけり
の句を持ってきた。
サメの尾鰭に見立てるというのは思いつかなかった。
よき家や雀よろこぶ背戸の粟
貞享5年の秋、鳴海の千代蔵が家を建てて引っ越すというので、その引越し祝いの句。
家の裏には粟畠があって、スズメが集まってきてた。
長閑な所で隠居にはもってこいの家だ。
はつ秋や海も青田の一みどり
貞享5年7月10日の鳴海の児玉重辰の家での興行の発句は、
初秋や海やら田やらみどりかな
だった。
ほとんど興行に行く途中の景色を見たまんまに詠んだ句だった。
秋の澄んだ空気に西日が射して、海も田もキラキラ眩しいくらいに輝いていた。
蓮池や折らでそのまゝ玉まつり
貞享5年の盆の入りの頃か。
鳴海の造り酒屋の知足の家の庭には小さな蓮池があった。
お盆だからといってこの蓮を供えたりしたら無くなっちゃうからな。
14日には鳴海を離れて名古屋へ行った。
刈あとや早稲かた/\の鴫の声
名古屋の田中山法蔵寺へ行った時の句。
貞享5年の姨捨の月を見にゆく前で、名古屋の城下町と田んぼとの境のような所にあった。
西側は田んぼで早稲の刈り取った跡にシギがあちこちで鳴いていた。
早稲は臭いが、良い香りだという人もいる。
粟稗にまづしくもなし草の庵
貞享5年7月20日、名古屋の杉の竹葉軒という草庵での興行の発句。長虹という僧の家だった。
さんざんボロい家だと聞かされていたが、行ってみるとなかなか立派な家だった。まあ粟稗食ってる人の家には見えない。
かくさぬぞ宿は菜汁に唐がらし
貞享5年の姨捨の月を見に行く少し前で名古屋にいた時だったか、三河の烏巣という者が訪ねてきた。
客が来たからって見栄を張ることはない。いつも通りに野菜だけの鍋に唐辛子味噌で味付けしたものを振る舞った。
おくられつおくりつはては木曽の秋
姨捨山の月を見に行こうと名古屋から中山道の通っている岐阜に行く時、ちょうど野水が京へ行くというので餞別句を送った。
野水からも木曽路の旅の餞別ということで、
秋風に申かねたるわかれ哉 野水
の句をもらった。
京へ行く野水に句を送り、木曽へ行く自分も句を送られる。
人生は旅。それぞれ思うところの行き先があって、いつもすれ違ってゆく。
草いろ/\おの/\花の手柄かな
花野には秋の七草を始めとして様々な花が咲き乱れる。
どの花もそれぞれ取り柄があって、それぞれの美しさがある。
世の中というのもそうあってほしい。
朝貌は酒盛しらぬさかりかな
貞享5年、姨捨山の月を見に岐阜を出る時、旅の無事を祈って三盃を傾けた。
芭蕉庵ではいつも朝顔を見ながら朝飯を食ってたが、朝顔を見ながら飲むのは初めてだ。
ひよろ/\と猶露けしや女郎花
姨捨山の月見に旅立つ時に、
ひよろ/\とこけて露けし女郎花
の句を詠んだ。僧正遍照の「我落ちにき」を転んだことにして、露まみれになったとしたが、ここはあえて作為を隠しておいた。
作為を隠して何か深淵な意図があるかと匂わせるのは、時々やっている。
あの中に蒔絵書たし宿の月
姨捨山の名月を見にゆく途中、8月13日、木曽福島だったか。桟の句で悩んでいると、宿の主人が酒を持ってきてくれた。
その盃が思いもかけず蒔絵を施した漆器で、奈良井宿の先で作っているという。
都にはない素朴な味わいに、折から月も十三夜。
桟やいのちをからむつたかづら
貞享5年の8月13日、姨捨山の名月を見に中山道を行く途中、日も暮れかかる頃、歌で名高い木曽の桟を見た。
岩の間に丸太と板を藤蔓で固定した橋で、ここを行く人の命はこの僅かな藤蔓にかかっている。
桟や先おもひいづ馬むかへ
越人と一緒に姨捨山の月見に行った時、中山道の福島宿と上松宿の間の有名な木曽の桟を渡った。
昔朝廷に献上された駒迎えの馬もこんな所を通ったんだろうか。
名に高き木曽の桟引き渡し
雲居に見ゆる望月の駒
藤原為家
の歌にも詠まれている。
俤や姨ひとり泣月の友
貞享5年八月十五日、更科の里、姨捨山の麓に着いた。空は晴れていて姨捨山の月を見ることができた。
姨捨山は特に険しいわけでもなく、何の変哲もない山で、どうして姨捨のような事件が起きたのかはなかなか理解できない。捨て子ならわかるが年寄りを何で捨てたのだろうか。
人は皆孤独だということを言うための比喩なのかもしれない。誰でも一人月を見て涙する夜はある。
姨捨山といえば詠み人知らずの、
わが心慰めかねつ更科や
姨捨山に照る月を見て
の歌でも謡曲姨捨でもよく知られている。
謡曲では白衣の老女が登場する。
いざよひもまださらしなの郡哉
貞享5年の十五夜は更科に泊まって姨捨山の月を見て、十六夜もまたここで十六夜の月を見た。
更級を「去らじな」と掛けて用いるのは、歌枕を読む時の常套。
その次の十七夜もここに留まって、越人が、
更科や三よさの月見雲もなし
と詠んだ。
そのあと善光寺に参拝し、北国脇往還から中山道へ出て江戸に帰った。
身にしみて大根からし秋の風
貞享5年の秋、姨捨山の名月を見に行った時の句。それにしても信州の大根はやたら辛い。
大根は冬の季語だが、五行説で辛味は金気で秋だし、大根の白い色も五行説では秋の色だ。
木曾のとちうきよの人のみやげ哉
貞享五年の秋、木曽から姨捨山、そして善光寺を旅して、お世話になった荷兮や名古屋の人達にお土産に持って帰った。
土産と言っても長い旅でそんなに大きなものを持ち帰るわけにもいかないし、ただ何か記念になる物でせいぜい手のひらに乗るような物ということで、木曽で拾った栃の実を幾つか持ち帰った。
これから越人を連れて江戸に行くから、越人が名古屋に帰る時に持たせることにしよう。
十月の終わりにに越人が名古屋に持って帰ったら、
としのくれ杼の実一つころころと 荷兮
の句が返って来た。
役に立たない木の実でもネタにはなった。
月影や四門四宗も只一つ
十五夜十六夜十七夜の月を見終わると、善光寺に行った。まあ、表向きは善光寺参りのついでに姨捨山の月を見たということになるのか。今までの旅も伊勢参りだったり鹿島詣でだったり、一応大義名分はあった。
善光寺はどこの宗派でもない。天に真如の月が一つしかないように、仏教は本来一つ。もちろん本地垂迹で神仏も元は一つ。風雅の道も貫通する物は一つ。
吹とばす石はあさまの野分哉
姨捨山の月を見てから善光寺に参拝し、そのあと北国脇往還から中山道に出て江戸へ向かった。
途中浅間山が見えた。
寛文の頃に大きな噴火があって、石が飛んで来たという。
石が飛ぶなんて想像がつかないが、台風に例えられるものなのかな。もっと凄そうだが。
いざよひのいづれか今朝に残る菊
貞享5年の重陽の翌日、不忍池に近い素堂の家で昨日の重陽の宴の続きをやった。
十六夜は更科姨捨で見た。
その時もそうだったし今も越人と一緒。
木曽の痩もまだなをらぬに後の月
貞享5年9月の十三夜。姨捨山の月見を見に行った旅の疲れもまだ抜けないうちに芭蕉庵での月見会となった。
十三夜は宇多天皇の御代に始まり菅公もまた配所でこの月を見たという。
配所ではないが粗末な庵で、満足なおもてなしもできないが、楽しんでいってくれ。
西行の草鞋もかゝれ松の露
いつだったか忘れた。大垣で画賛を頼まれた時の一句で、松の絵だったと思う。
そこいらの木に濡れた草鞋を下げて干すのは旅人あるある。西行法師もやってたに違いない。
本来和歌では露は草に降りるもので、松の露は待つに掛けて恋の涙とする。
そこいらの木に露に濡れた草鞋を引っ掛けて干すのは旅人あるあるだが、そこにちょっと西行さんの恋を忍ばせてみた。
明月の出るや五十一ヶ条
貞享5年の秋、越人を連れて江戸に戻った時、仁徳天皇と北条武蔵守泰時という二人の偉人の句を作った。
武蔵守は五十一ヶ条の式目を作り、天下の混乱を鎮めた。
式目は大事だ。式目のない世界は暴力が支配する。俳諧も式目がなければ力のある奴の勝手放題になる。
註、越人編享保十三年(一七二八年)刊『庭竈集』に、
「武蔵守泰時
仁愛を先とし、政以去欲為先
とある。
叡慮にて賑ふ民の庭竈
貞享5年の9月、まだ越人が江戸にいた頃、昔の偉人を句にしようということで作った句。新 古今集の、
高き屋に登りて見れば煙立つ
民の竃は賑はひにけり
仁徳天皇
の歌の心で、やはり治世の基本は民を飢えさせないこと。衣食足りて礼節を知る。
註、越人編享保十三年(一七二八年)刊『庭竈集』に、
「仁徳天皇
高き屋にのぼりてみればとの御製の有がたきを今も猶」
とある。「高き屋」は『新古今集』の
貢物を許されて、国が富んだを御覧なって
高き屋にのぼりてみれば煙たつ
民の竈は賑はひにけり
仁徳天皇
香をのこす蘭帳蘭のやどり哉
貞享5年の秋、祥雲寺だったか、よく覚えていない。
羽黒山から来てこの寺を開いたという悦堂和尚のいた部屋を見せてもらった。香ばしい香りのする部屋だった。
孔子家語に「與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣」とあって、蘭の香りのする部屋にずっといるとそれが当たり前になるように、良い人と交わると自然と良い人になれるという。
行秋や身に引まとふ三布蒲団
幅三尺の小さな敷布団はちょっと冷える夜など、本を読んだり物を書いたりする時に肩に羽織るのにちょうど良い。
明日からは十月で冬になるから夜着を出すが、今日のはこれで凌ぐことにしよう。
貞享五年、九月尽。
道祖神がまた招いてる。
留主のまに荒れたる神の落葉哉
貞享5年の8月末に越人を連れて深川の芭蕉庵に帰って来た。その越人も10月には名古屋へ帰って行った。
暇になり、どこかの神社へ行った時だったか、この神社もまた荒れ果てていて、神無月に出雲へ行ったっきり帰ってこないのだろうか。
その形見ばや枯木の杖の長
貞享5年が改元されて元禄元年になった10月、大通庵の道円というお坊さんの一周忌追善興行があって、その時の発句。
遺品の枯れ木のような杖を見せてもらった。
長年の修行に培われた故人の徳が偲ばれる。
註、史邦編元禄九年(一六九八年)刊『芭蕉庵小文庫』に、
「大通庵の主道圓居士、芳名をきくことしたしきまゝに、ま見えむとをちぎりて、つゐにその日をたず、初冬一夜の露と降ぬ。けふはなを、ひとめぐりにあたれりといふをきゝて」
とある。
御命講や油のやうな酒五升
だから酒は苦手だって。それなのにこんなドロッとした原酒を五升も持ってきて、江戸の酒は精米が足りないから色は濃いし、次から薄めて白くしてくれ。日蓮上人じゃないんだから。
日蓮上人の報書に、
「新麦壱斗。たかむな三本。油のやうな酒五升。南無妙法蓮華経と回向いたし候。」
と書いてあると何年か後許六という者が弟子入りした時に言ってた。知らんけど。
菊鶏頭きり尽しけり御命講
10月13日は日蓮忌の御命講で、深川の浄心寺も賑わっている。
菊は霜が降りる前に重陽の節句の菊酒にし、鶏頭も食用に収穫すると、冬が来て10月13日の日蓮忌の御命講の季節になる。
菊も鶏頭も刈り尽くしたあとなので花はないが、日蓮上人が酒呑みだったせいで酒はある。
でも江戸では鶏頭は食べないようだ。大津の尚白ならわかると思うから手紙に書いておこう。
註、鶏頭は、
鵜船の垢をかゆる渋鮎
近道に鶏頭畠をふみ付て 岱水
の句のように畑で栽培されていて食用とされていたか、
味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪
の句もある。
冬籠りまたよりそはん此はしら
去年の冬は上方方面に旅に出て、今年になって花の吉野山、須磨明石を廻り、姨捨山の月を見て帰ってきた。
今年の冬は大人しく自分の家で過ごそう。
本当は蒲団にくるまっていたいけど、またひっきりなしに誰か来るから、芭蕉庵のこの大黒柱に寄っかかって火鉢を前に置いて、無駄話をしながら過ごすんだろうな。
五つむつ茶の子にならぶ囲炉裏哉
姨捨山の月見から帰って、その疲れからやせ細ってしまった頃は、門人が見舞いに茶菓子を持って来て囲炉裏ばたに並べてくれた。ありがたい。
埋火もきゆやなみだの烹る音
貞享5年が元禄元年になった頃の、ある人の追善の句。
埋火の前で泣いていると、その落ちた涙が煮える音が聞こえてくるかのようだ。
被き伏鋪団や寒き夜やすごき
貞享5年が元禄元年になってからの冬、李下の奥方が亡くなった時の追善の句。
一人布団被って顔を見せようとしない李下。泣いてたんだろうな。
奥方には、
会者定離笹に霰や松の雪 ゆき
の句があったっけ。今思い出すと悲しい。
やがて去来からも、
寝られずやかたへ冷えゆく北おろし
の句が届いた。
二人見し雪は今年も降けるか
貞享5年は元禄元年に改まり、今年も冬が来た。
去年一緒に保美の万菊の所に行った時のことを思い出した。前日の夜はやたら冷えて、君は飲みすぎて、酒の抜けないままふらふらして馬に乗って、雪の吹雪く中馬上で凍ってしまいそうだったね。今そっちの雪はどうだい?
米買に雪の袋や投頭巾
貞享5年が元禄元年になった冬の12月17日、その夜は雪になり、芭蕉庵に集まったみんなで雪の中を買い物に行く句を詠もうということになった。
まあ、先頭を切ってまず米を買いにということで、後にヒラヒラとする投頭巾も雪まみれで雪の入った袋のようになり、どっちが米袋やら雪袋やら。
それに続けと薪酒炭茶。
雪の夜やとりわき佐野の真木買はん 岱水
酒やよき雪ふみ立てし門の前 苔翠
炭一升雪にかざすや山折敷 泥芹
雪に買ふ囃し事せよ煎じ物 夕菊
さしこもる葎の友かふゆなうり
貞享5年が元禄元年に改まった冬。深川芭蕉庵も冬籠り。
と言っても枯れたムグラに埋もれた宿にも毎日のように冬菜売りがやってくる。ありがたいことだ。
今日も菜飯、明日も菜飯。
皆拝め二見の七五三を年の暮
貞享元年暮の忘年会を兼ねた興行の発句。
来年は松島の月を見て、それからぐるっと回って最後は伊勢遷宮を見に行くことになる。同行する予定の路通も同座した。
目指せ伊勢二見ヶ浦。その注連縄から初日が昇る。
盗人に逢ふたよも有年のくれ
貞享5年改め元禄元年ももう終わり。
今年は吉野の桜を見たし、須磨明石にも行ったし、姨捨の月も見たな。
そういえば夜のうちに物がなくなったこともあったっけ。まあ大した物でなかったが。
あさよさを誰まつしまぞ片ごゝろ
慈鎮和尚の、
いとどしく我恨みぞ重ねつる
誰まつしまの海人の藻塩火
の歌から思いついた句だったけど、古歌の趣向の域を出ていないし季語も入らず反故にしたけど、何で知ってるの?
歌枕の句は無季でも良いという人もいるけど、歌枕でなくても無季の句はある。
ただ、わざわざ好んで作るようなものではないし、千句に一句あればいい。
たびねして我句をしれや秋の風
貞享元年から貞享2年にかけての旅を絵巻物にしようと企画の絵コンテまでは作ったが、その時の作った句。
素堂に後書を書いてもらったんだけど、作者本人からも一言と言われて蛇足ながら書き添えた。
紀行文という程の文字数もなく、どっちかというと絵を見て旅寝した気分になってくれたらな。
最初旅立った時の、いつ死ぬやも知れぬ秋風の心を思い起こす意味もある。
瓶破るゝ夜の氷の寐覚哉
いつだったか忘れたけど、明け方に甕の割れる音がしてびっくりして目が覚めた。中身が凍って水が膨張したようだった。
手向けり芋ははちすに似たるとて
杉風の父の仙風は一代で鯉屋を築き、幕府御用にまでした大変な人だった。
俳諧の方でも、
つらし人鳥には比翼猫の妻
此月に慰めかねつ下戸捨て山
といった発句があった。
霊前に里芋を供えた。里芋の葉は蓮にも似ている。
深川近辺の土地は鯉屋の先代の仙風が確保して、鮮魚をストックするために生簀として用いてた場所で、深川へ隠棲する時の泊船堂もこの土地に建ててもらった。
近くに杉風の採荼庵もある。日本橋に店を構えても、あそこは火事が多いから、そのための備えでもあるんだろう。
田んぼも多く、芋畑もある。
何ごともまねき果たるすゝき哉
毒海長老という人が亡くなったので追悼句を頼まれた。
天寿を全うし、多くの人に慕われてたようだが、最後に招くのは死で、これも定め。
ススキの揺れる穂は古歌でも手招きを心とする。
けし炭に薪わる音かをのゝおく
小野には山科の小野と大原の小野があって、大原の方は古くから大原女が京の街に薪木や炭を供給している。
けし炭というのは炭焼きの途中の段階のもので、薪木と炭の中間のようなもの。
元日は田ごとの日こそ恋しけれ
元禄2年の歳旦。去年の秋に姨捨山の月見をしたが、田には水がなく田ごとの月は見られなかった。あれは初夏に来る必要がある。
ただ、山の斜面の千枚田に実る稲穂に日が当たって綺麗だった。また旅に出ていろんな景色を見てみたいな。
かげろふの我肩に立かみこかな
元禄2年の春に大垣から塔山が江戸にやってきた時の興行の発句。
この季節は寒い日と暖かい日が交互に来て、寒いからといって紙子を着ていると、すぐに暖かくなり暖まりすぎて、肩の上から陽炎が立ちそうだ。
まあ、もうすぐ旅に出るから、その時にも紙子は必要になるが。
曾良の脇は、
水やはらかに走り行音
この二人で旅に出るので、次は大垣で会おう。
紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ
今年に入ってみちのくの旅のことが頭から離れない。
旅といえば今度はどんな出会いがあるのか、見かけだけでなく素晴らしい才能と出会えるのか、そう思うとワクワクする。
今咲き誇る紅梅のこの簾の向こうに、きっと誰かが待っている。
うたがふな潮の花も浦の春
元禄2年2月、二見ヶ浦を描いた文台を発注し、その下絵を見せて貰った。
文台は興行に欠かせないもので、句を書き留めるのに硯と紙を乗せる机は宗匠のシンボルでもある。
そこに道祖神に通じる夫婦岩を描いてもらい、賛を添えてもらおう。
おもしろやことしのはるも旅の空
旅をしていても正月は基本故郷の伊賀で過ごす。貞享2年もそうだったし貞享5年もそうだった。
10年江戸に住んでいると帰省が旅の空になる。却って江戸を指す故郷。
鸛の巣に嵐の外のさくら哉
貞享4年に、
鸛の巣もみらるゝ花の葉越哉
の句を作ったが、花に囲まれたコウノトリの巣を吉野隠棲の西行法師に見立てて、山家という題で作り直してみた。外の嵐も知らぬげに、コウノトリは花に囲まれて暮らしている。
むぐらさへ若葉はやさし破レ家
元禄2年3月7日、大垣の嗒山が江戸に来ていて興行をしたが、その時に此筋も来ていて、茅舎の絵の画賛を頼まれた。
ムグラは夏には八重葎となって宿を埋め尽くすが、若葉の頃はまだどこか恥ずかしげで控えめだ。
春雨や蓬をのばす草の道
元禄2年の春、みちのくの旅のことを思いながら、春雨が降るごとに日に日に伸びてゆく草を見ると、蓬の生い茂る道を旅することになるのかな、と思った。
春雨が降れば日に日に草木も伸びてゆくが、過ぎたれば何とやらで荒れ果てた蓬生になり、道も埋もれてゆく。
ちなみに源氏の君が蓬生の荒れ果てた家を再訪するのは4月の小雨降る中だった。
月花もなくて酒のむひとり哉
多分、酔李白図だと思う。酒を飲む姿を描いただけど、何をみているかは想像しろということなのだろう。
月下独酌と解釈するのが普通なんだろうけど、あえて定家の卿のような「花も紅葉もなかりけり」の寂れた感じにしてみた。
この場合は「月も桜もなかりけり」かな。