「猿蓑に」の巻

 元禄七年九月の初め頃の伊賀での興行。前年に詠まれた沾圃(せんぽ)の発句をもとに芭蕉、支考(しこう)()(ぜん)の三人が巻いた歌仙で、沾圃編の『続猿(ぞくさる)(みの)』に収録されています。『続猿蓑』の編纂のきっかけを作った発句を元にした、この句を収録するための興行だったといえましょう。

 

初表

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

   日は寒けれど静なる岡    芭蕉

 水かるる池の中より道ありて   支考

   篠竹まじる柴をいただく   惟然

 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

   通りのなさに見世たつる秋  支考

 

初裏

 盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚   惟然

   昼寝の癖をなをしかねけり  芭蕉

 聟が来てにつともせずに物語   支考

   中國よりの状の吉左右    惟然

 朔日の日はどこへやら振舞れ   芭蕉

   一重羽織が失てたづぬる   支考

 きさんじな青葉の比の椴楓    惟然

   山に門ある有明の月     芭蕉

 初あらし畑の人のかけまわり   支考

   水際光る濱の小鰯      惟然

 見て通る紀三井は花の咲かかり  芭蕉

   荷持ひとりにいとど永き日  支考

 

 

二表

 こち風の又西に成北になり    惟然

   わが手に脈を大事がらるる  芭蕉

 後呼の内儀は今度屋敷から    支考

   喧嘩のさたもむざとせられぬ 惟然

 大せつな日が二日有暮の鐘    芭蕉

   雪かき分し中のどろ道    支考

 来る程の乗掛はみな出家衆    惟然

   奥の世並は近年の作     芭蕉

 酒よりも肴のやすき月見して   支考

   赤鶏頭を庭の正面      惟然

 定まらぬ娘のこころ取しづめ   芭蕉

   寝汗のとまる今朝がたの夢  支考

 

二裏

 鳥籠をづらりとおこす松の風   惟然

   大工づかひの奥に聞ゆる   芭蕉

 米搗もけふはよしとて帰る也   支考

   から身で市の中を押あふ   芭蕉

 此あたり弥生は花のけもなくて  惟然

   鴨の油のまだぬけぬ春    支考

 

参考

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、一九六六、岩波文庫

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)

 『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 (さる)(みの)にもれたる霜の松露(しょうろ)(かな)    沾圃(せんぽ)

 

 沾圃(せんぽ)は芭蕉の「(かろ)み」の風の確立される『炭俵』の頃の入門ということもあって、一躍「軽み」の推進者として『炭俵』の次の集、『続猿蓑』の撰者に抜擢されました。

 

 その、『続猿蓑』のタイトルの由来となる句が、この「猿蓑に」の句でした。

  松露(しょうろ)はトリュフに似た食用のキノコで、美味で香りも良いのですが、その松露に霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、というのがこの発句です。

  蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れですが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせます。

  沾圃としては、ぜひこの霜の松露を救うべく『続猿蓑』が編纂されたと、そういう物語を描きたかったのでしょう。

  ただ、さすがにこの句を巻頭に据えるのはためらわれたのでしょう。この句は沾圃のいない伊賀の地で、芭蕉自身とこれからの蕉門を担う期待の星、支考と惟然との三人で句を付け、『続猿蓑』の飾りとすることで入集することとなりました。

 

季語は「霜」で冬。降物。

 

 

   猿蓑にもれたる霜の松露哉

 日は寒けれど(しづか)なる岡      芭蕉

 (猿蓑にもれたる霜の松露哉日は寒けれど静なる岡)

 

 冬の句の脇ということで「寒けれど」と冬の季語を入れて、霜の松露の背景を添えます。あまり自己主張せずに謙虚に発句を引き立てています。

 

季語は「寒し」で冬。「日」は天象。「岡」は山類。

 

第三

 

   日は寒けれど静なる岡

 水かるる池の中より道ありて   支考

 (水かるる池の中より道ありて日は寒けれど静なる岡)

 

 これも穏やかな、連歌のような趣向ですね。『水無瀬三吟』の八句目、

 

   鳴く虫の心ともなく草枯れて

 垣根をとへばあらはなる道    (しょう)(はく)

 

の句を髣髴させます。肖柏の句は草が枯れて道があらわになるという趣向でしたが、支考の句は水が枯れて池の中に道が現れるとします。かつては道だったところにいつしか水が溜まり池になっていたのでしょう。

  「道」はもちろん単なる道路ではなく、この世の中の「道」の含みも感じさせます。

 

無季。「池」は水辺。

 

四句目

 

   水かるる池の中より道ありて

 (しの)(だけ)まじる(しば)をいただく     惟然

 (水かるる池の中より道ありて篠竹まじる柴をいただく)

 

 山に柴刈りに行くと、そこに笹も混じってきます。芭蕉の『奥の細道』の途中山中温泉で詠んだ、「馬かりて」の巻六句目、

 

   (せい)(えん)(うそ)(とび)こむ水の音

 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

 

をより穏やかに流した感じがします。

 

無季。「(しの)(だけ)」は植物で草類でも木類でもありません。「柴」は草類になります。

 

五句目

 

   篠竹まじる柴をいただく

 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

 (鶏があがるとやがて暮の月篠竹まじる柴をいただく)

 

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝ました。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってきます。

  鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓

 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

 

を思わせます。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりするのでしょう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「鶏」は鳥類。

 

六句目

 

   鶏があがるとやがて暮の月

 通りのなさに()()たつる秋    支考

(鶏があがるとやがて暮の月通りのなさに見世たつる秋)

 

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変えます。末尾に「秋」と添えることで、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせます。

 

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

 

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになります。

 

 

季語は「秋」で秋。

初裏

七句目

 

   通りのなさに見世たつる秋

 盆じまひ(いっ)()()ぎる(すし)の魚 惟然

 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚通りのなさに見世たつる秋)

 

 盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものです。

  この頃の寿司は握り寿司ではなく馴れ寿司でした。馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉します。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなります。

  鮨は夏の季語ですが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来ます。

 

季語は「盆」で秋。

 

八句目

 

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚

 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉

 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚昼寝の癖をなをしかねけり)

 

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

 

 「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

 

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのでしょう。

  でも、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれません。

  ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間でしたら、無駄に働くようなこともしません。昼寝の楽しみはやめられない。

  前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「(くらい)付け」の句といっていいでしょう。

 

無季。当時はまだ「昼寝」は夏の季語ではありませんでした。

 

九句目

 

   昼寝の癖をなをしかねけり

 (むこ)が来てにつともせずに物語   支考

 (聟が来てにつともせずに物語昼寝の癖をなをしかねけり)

 

 場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことになります。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴えます。

  前句を物語の内容とした付けで、

 

 聟が来てにつともせずに物語

 「昼寝の癖をなをしかねけり」

 

といったところでしょう。

 

無季。「聟」は人倫。

 

十句目

 

   聟が来てにつともせずに物語

 中國よりの状の(きっ)左右(さう)      惟然

 (聟が来てにつともせずに物語中國よりの状の吉左右)

 

 ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われます。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、文献上の早い例は南北朝時代で、足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の八カ国を成敗する「中国探題」を作っています。この時代にはこの地域を「中国」と呼ぶようになっていたようです。

  ここでの「中国」も南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につとも(にっとも)せずに物語」を、この婿がみだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのだと思います。

  『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)では大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているといいます。

 

無季。

 

十一句目

 

   中國よりの状の吉左右

 (つい)(たち)の日はどこへやら振舞れ   芭蕉

 (朔日の日はどこへやら振舞れ中國よりの状の吉左右)

 

 (つい)(たち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔(はっさく)」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりしました。

  ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になります。いろいろご馳走になったりしたのでしょう。

  中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになります。

  『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているといいます。

 

無季。

 

十二句目

 

   朔日の日はどこへやら振舞れ

 一重(ひとえ)羽織(ばおり)(うせ)てたづぬる     支考

 (朔日の日はどこへやら振舞れ一重羽織が失てたづぬる)

 

 「柳小折」の巻の七句目に、

 

   小鰯(こいわし)かれて砂に照り(つく)

 上を着てそこらを誘ふ墓参    洒堂(しゃどう)

 

とあるように、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようです。

  朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き、形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話です。

  さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかもしれませんね。元禄六年冬の「いさみたつ」の巻に、

 

   伏見の橋も京の名残ぞ

 ふところへ畳んで入る夏羽織   馬莧

 

という句があります。

 

季語は「一重羽織」で夏、衣装。

 

十三句目

 

   一重羽織が失てたづぬる

 きさんじな青葉の(ころ)|(もみ)(かへで)    惟然

 (きさんじな青葉の比の椴楓一重羽織が失てたづぬる)

 

 これはなかなかわかりにくいですが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだと思います。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なってところでしょう。

  「きさんじな一重羽織が失せて、青葉の頃の樅楓をたづぬる」の倒置になります。

 

季語は「青葉」で夏。植物。「椴」「楓」も植物、木類。

 

十四句目

 

   きさんじな青葉の比の椴楓

 山に門ある有明の月       芭蕉

 (きさんじな青葉の比の椴楓山に門ある有明の月)

 

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるといいます。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したのでしょう。

  山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいでしょう。

 

季語は「月」で秋。夜分、天象。「山」は山類。

 

十五句目

 

   山に門ある有明の月

 初あらし畑の人のかけまわり   支考

 (初あらし畑の人のかけまわり山に門ある有明の月)

 

 「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強く吹く時で、ちょうど台風の季節でもあり、その前触れのような風なのでしょう。

 

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども

     風の音にぞおどろかれぬる

              藤原敏行(古今集)

 

の風の音も、おそらくこういった風でしたのでしょう。

  前句の「山に門ある」から山村の風景として、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けています。特にひねりのない素直な展開です。「畑の人の」は「畑を人の」という意味です。

 

季語は「初あらし」で秋。「人」は人倫。

 

十六句目

 

   初あらし畑の人のかけまわり

 水際光る浜の小鰯(こいわし)        惟然

 (初あらし畑の人のかけまわり水際光る濱の小鰯)

 

 畑を海辺の畑として、人がせわしく駆け回っていると思ったら、浜にはイワシの大群が来て海が光って見えます。大騒ぎになるはずです。

 

季語は「小鰯(こいわし)|」で秋。「浜」は水辺。

 

十七句目

 

   水際光る濱の小鰯

 見て通る()三井(みゐ)は花の(さき)かかり  芭蕉

 (見て通る紀三井は花の咲かかり水際光る濱の小鰯)

 

 ()三井寺(みいでら)(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がっています。

  和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れています。

 

 行く春にわかの浦にて追付(おひつき)たり  芭蕉

 

の句があります。また、『笈の小文』には収められていませんが、

 

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺  芭蕉

 

の句もあります。

  実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後でしたが、俳諧では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とします。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添えます。

  俳諧は基本的にフィクションです。この興行にも参加している支考は後に、「虚を以て実を行ふ」という虚実論を唱えることになります。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「紀三井」は名所。

 

十八句目

 

   見て通る紀三井は花の咲かかり

 荷持(にもち)ひとりにいとど永き日    支考

 (見て通る紀三井は花の咲かかり荷持ひとりにいとど永き日)

 

 紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じていたのでしょう。荷持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられます。「いとど」は「ますます」という意味です。

 

 

季語は「永き日」で春。「荷持」は人倫。

二裏

十九句目

 

   荷持ひとりにいとど永き日

 こち風の又西に(なり)北になり    惟然

 (こち風の又西に成北になり荷持ひとりにいとど永き日)

 

 東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすいものです。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのでしょう。

 

季語は「こち」で春。

 

二十句目

 

   こち風の又西に成北になり

 わが手に脈を大事がらるる    芭蕉

 (こち風の又西に成北になりわが手に脈を大事がらるる)

 

 昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがありましたが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれません。

 

無季。「わが手」は人倫。

 

二十一句目

 

   わが手に脈を大事がらるる

 後呼(のちよび)内儀(ないぎ)は今度屋敷から    支考

 (後呼の内儀は今度屋敷からわが手に脈を大事がらるる)

 

 前句の「脈」を人脈のことと取り成します。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のことです。

  コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならないということで、大事がられるはずです。

 

無季。「内儀」は人倫。

 

二十二句目

 

   後呼の内儀は今度屋敷から

 喧嘩のさたもむざとせられぬ   惟然

 (後呼の内儀は今度屋敷から喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 

 立派な屋敷から来た妻ですし、ばついちという負い目もあって、おちおち喧嘩もできません。

 

無季。

 

二十三句目

 

   喧嘩のさたもむざとせられぬ

 大せつな日が二日(ある)暮の鐘    芭蕉

 (大せつな日が二日有暮の鐘喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思います。

 

 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日あるものです。

  父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親が嘆き悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響きます。

 

無季。

 

二十四句目

 

   大せつな日が二日有暮の鐘

 雪かき分し中のどろ道      支考

 (大せつな日が二日有暮の鐘雪かき分し中のどろ道)

 

 さて、しんみりした後の展開は難しいですが、ここは気分を変えたいところです。

  とりあえず前句の「大せつな日」を盆と正月のことにして、「暮れの鐘」は年末の大晦日の一年の最後の入相の鐘のことにします。

  正月を迎えるために雪かきをしたところ、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開します。

  ちなみに、この時代は初詣ではなく、大晦日にお参りをしました。

  また、今のような真夜中に撞く除夜の鐘はありませんでした。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

二十五句目

 

   雪かき分し中のどろ道

 来る程の(のり)(かけ)はみな出家衆    惟然

 (来る程の乗掛はみな出家衆雪かき分し中のどろ道)

 

 「乗掛」は乗懸(のりかけ)(うま)のことで、街道で旅をするときなどに利用する、馬に荷物を載せてその上に座り、馬子に引っ張ってもらうサービスでした。

  北国の大きなお寺の法要でしょうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってきます。そのせいで雪掻きした道は泥道になってしまいます。

 

無季。釈教。

 

二十六句目

 

   来る程の乗掛はみな出家衆

 奥の()(なみ)近年(きんねん)(さく)       芭蕉

 (来る程の乗掛はみな出家衆奥の世並は近年の作)

 

 陸奥の作柄は近年にない豊作だといいます。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことでしょう。

 

季語は「作」で秋。

 

二十七句目

 

   奥の世並は近年の作

 酒よりも肴のやすき月見して   支考

 (酒よりも肴のやすき月見して奥の世並は近年の作)

 

 前句が秋に転じたところで、ここで月の定座を二句繰り上げて月を出します。

  前句を商人などの宴会での世間話とし、月見の情景を付けます。

  何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しみます。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けていると見ていいと思います。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。

 

二十八句目

 

   酒よりも肴のやすき月見して

 (あか)鶏頭(けいとう)を庭の正面        惟然

 (酒よりも肴のやすき月見して赤鶏頭を庭の正面)

 

 芭蕉が福井の(とう)(さい)の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、

 

 「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌(ゆふがほ)・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はは木々に戸ぼそをかくす。」

 

とあります。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのでしょう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのでしょう。

  薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところでしょうか。

  鶏頭も昔は食用にもされていたようです。

 

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪

 

の句もあります。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れかけていたのでしょう。

  元禄六年秋の「いざよひは」の巻の第三に、

 

   鵜船の垢をかゆる渋鮎

 近道に鶏頭畠をふみ付て     岱水

 

の句があります。食用なら畑で作るのもわかります。

 

季語は「鶏頭」で秋、植物、草類。「庭」は居所。

 

二十九句目

 

   赤鶏頭を庭の正面

 定まらぬ娘のこころ(とり)しづめ   芭蕉

 (定まらぬ娘のこころ取しづめ赤鶏頭を庭の正面)

 

 この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆきます。

  ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか、庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味ですが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したのかもしれません。

 

無季。恋。「娘」は人倫。

 

三十句目

 

   定まらぬ娘のこころ取しづめ

 寝汗(ねあせ)のとまる今朝がたの夢    支考

 (定まらぬ娘のこころ取しづめ寝汗のとまる今朝がたの夢)

 

 前句の興奮を悪夢のせいとします。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいたのでしょうか。

  特に『源氏物語』葵巻の、六条御息所の生き霊の話を知らなくても、普通に悪夢にうなされた娘で意味が通ります。この場合は本説ではなく{|おもかげ}になります。

 

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   寝汗のとまる今朝がたの夢

 鳥籠をづらりとおこす松の風   惟然

 (鳥籠をづらりとおこす松の風寝汗のとまる今朝がたの夢)

 

 松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもあります。

 

  深くいりて神路のおくをたづぬれば

     また上もなき峯の松風

              西行法師(千載集)

 

の歌もあります。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚めます。

  それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っています。

  「づらり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ずらり」の解説」を見ますと、

 

 「③ さしさわりなく事が運ぶさまを表わす語。

  ※大学垂加先生講義(1679)「只かうずらりと読で、何の不審もなう、道に近しと云て、読者の心にすみてあるぞ」

 

という意味があります。

  惟然は俳号としては「いぜん」と読みますが、僧侶としては「いねん」と読みます。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句ですね。

 

無季。「鳥」は鳥類。「松」は植物、木類。

 

三十二句目

 

   鳥籠をづらりとおこす松の風

 大工づかひの奥に聞ゆる     芭蕉

 (鳥籠をづらりとおこす松の風大工づかひの奥に聞ゆる)

 

 かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事です。

  この場合の「づらり」は今日用いられるのと同じで、大工さんの仕事の音に、鳥籠の鳥が一斉に鳴きだしたという意味になります。

 

無季。「大工」は人倫。

 

三十三句目

 

   大工づかひの奥に聞ゆる

 米搗(こめつき)もけふはよしとて帰る(なり)   支考

 (米搗もけふはよしとて帰る也大工づかひの奥に聞ゆる)

 

 「米搗(こめつき)」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩きます。ある程度の量を精米する必要のある時は(から)(うす)というシーソー状の梃子の原理を応用した大型の道具を用います。

  昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていました。今日はこれくらいでいい、と米搗きを終えて帰ってゆきます。

  大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗きます。

 

無季。

 

三十四句目

 

   米搗もけふはよしとて帰る也

 から身で市の中を(おし)あふ     芭蕉

 (米搗もけふはよしとて帰る也から身で市の中を押あふ)

 

 ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためでしょう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいますが、惟然はどちらも詠んでいません。

  句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけの{|}り句で、花呼び出しと言えましょう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのでしょうか。

 

無季。「身」は人倫。

 

三十五句目

 

   から身で市の中を押あふ

 (この)あたり弥生は花のけもなくて  惟然

 (此あたり弥生は花のけもなくてから身で市の中を押あふ)

 

 えっ、そりゃないだろうって、花を出さないの?

  まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれません。

  陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのでしょう。花は咲かなくても市場は人で賑わっています。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれません。利休の水盤の一枚の花びらのような句とも言えます。

 

季語は「弥生」で春。「花」も春、植物、木類。

 

挙句

 

   此あたり弥生は花のけもなくて

 鴨の油のまだぬけぬ春      支考

 (此あたり弥生は花のけもなくて鴨の油のまだぬけぬ春)

 

 春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結びます。

  鴨は冬にたっぷり脂肪をつけて、春になると減らしてゆきます。

  この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいですが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないですか。

  最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのでしょう。

  ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂でした。「大せつな日が二日有暮の鐘」の{|とが}めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったのでしょうか。

  このあと芭蕉は大阪へ洒堂(しゃどう)()(どう)の喧嘩の仲裁に行くのですが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わります。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいかもしれません。

 

 

季語は「春」で春。「鴨」は鳥類。