鈴呂屋日乗2009

12月31日

 去年同様、秋葉原に「うみねこのなく頃にEpisode 6」を買いに行った。古戸ヱリカのカードが付いてきた。

 同じく秋葉原でパソコン用のスピーカーを買った。これでmyspaceをCD代わりに部屋に流しておける。

 正月の料理を作り終えてから、夜にEpisode 6を始めた。何だかよくわからない始まり方で、どうなることやら。

 昨日の話だが、DISHの『闇と葬列と切リ裂雨』をダウンロードした。アートワークが何か気になる。九澄マナの10年後?

 まあ、ともかく今年も一年が終った。何となく今年は寂しい年の暮れ。

12月30日

 何となくこの1年を振り返ると、今のままではいけない、変わらなくてはという気持ちはあっても、結局変えようとすると、昔取った杵柄で、何十年も前の革新をやってしまうという、結局高齢化社会の限界かなという感じだ。

 政権交替と自民党の歴史的敗北は変化かもしれないが、子供手当て、高校や高速道路の無料化、財源は税金の無駄をなくせば何とかなる、この発想はバブル崩壊前にやっていれば多分画期的だっただろう。

 だが、経済そのものが行き詰って、税収が減少している中で、結局土光さんの言った増税なき財政再建はとっくに過去のものだった。

 大きな経済成長は、生産性が飛躍的に向上するような画期的な新技術が普及する時に限られている。60年代のモータリゼーション、エレクトリゼーション、90年代のIT革命、それに匹敵するものが今すぐに起こる気配がない以上、どんな成長戦略を立てようがたいした効果は上がらないし、むしろ頑張れば頑張るほど過剰投資、過剰生産となり、デフレスパイラルに陥るだけなのだが、それでも頑張らずにいられないのは日本人だね。

 

 音楽の方も、何か90年頃に始まったバンドブームが終息しつつあるような感じがする。時代は歌謡曲に逆戻りし、ヒップホップなどは完全に魂を失って、応援歌やお母さんありがとうなんてことばかりで、いったいどこにリアルがあるのか。

 本音の時代は昔のこと。今は建前きれいごとを並び立て、ひたすらそれに向って頑張れ頑張れと連呼する時代だ。

 そんな状態だから、今年はヨーロッパのメタルばかり聞いていた。その方がはるかに健全だと思ったからだ。日本の今の欲しがりません勝つまでは症候群はやはり異常だ。すでに「第二の敗戦」といわれて久しいのに、まだジャングルにこもって戦い続けているみたいだ。

 

 冬の時代には葉を落としてじっと春が来るのを待つことも必要だ。次の経済成長をもたらすのは、今の段階ではまだ未知か、実用とは程遠い技術だ。今すぐ役に立たないものでも、地道に基礎研究を続けてゆけば、必ず次の時代には芽を吹き花を咲かす。

 負けたときは潔く退却して、次の戦いにそなえる。もう少ししたらそういう時代が来るだろう。まだ来年ではないと思うが。

 そのときには大量の失業者が出るかもしれない。そうなったら大幅に増税してでもセーフティーネットを充実させ、貧困が社会や文化を崩壊させるのを食い止めなくてはならない。そして、基礎的な教育水準の高さ、豊かな伝統文化を維持できれば、次の画期的な技術革新で飛躍的な生産性の向上が可能になった時、それに乗っかることができる。

 オイルショック後のヨーロッパもそうやって長い冬の時代を乗り切ってきた。今度は日本の番だ。

12月27日

 スーパーへ行ったら八朔がたくさん並んでいた。5個198円のがあったので、ついつい買ってしまった。和歌山産で嫦娥の八朔かどうかは不明。来年は「おおかみかくし」のアニメも始まるので、もしブレイクしたら八朔が品薄になるかも。

 食べてみたら、なるほどすっぱい。切ない胸の鼓動を抑えながら、欲望を何とかしずめようとこの八朔を食べていた嫦娥旧市街の人の気持ちが、少しわかった気がした。

 話は変わるが、結局「需要」というのはそういうことだと思う。おいしい食べ物はたくさんあるし、便利な道具もたくさんある。その中で買う気になるというのは、何かその人にとっての「意味」があってのことではないか。

 つまり、ハルヒが世界的に流行れば、その中で出てきた恵方巻も世界中の人が食べたがるかもしれないし、世界中でクリスマスに鍋をやるのが広まるかもしれない。昔の日本人がダグウッドの飛び出すトースターにあこがれて朝食にパンを食べる習慣が広まってったように、その国の発信する文化が魅力的であれば、それに伴う輸出も増えてゆくことになる。

 つまり、需要を作り出すのは文化力ではないか。今の日本が需要不足だというが、それは作ったり売ったりする側の文化への無関心によるものではないのか。今年の1月にはしまむら系シャンブルのぬいぐるみがネットで1万円の値をつけたが、これを何か商機に生かす手はなかったのだろうか。

12月21日

 M1から一日たった今、笑い飯の「鳥人(とりじん)」や「チンポジ」は鮮明に覚えているものの、パンクブーブーのネタが思い出せない。

 あの勝負、結局笑い飯が優勝できなかったのは「チンポジ」がシモネタだというだけの理由ではなかったか。そうでなければ、あんな満票でパンクブーブーが選ばれることはなかっただろう。審査員の「良識」が、「チンポジ」を勝たせてはいけないと全員一致で判断したのだろう。

 まあ、でも笑い飯はここまで何度も最終決戦に残り、優勝を逃してきたのだから、最後まで無冠の帝王の方がかっこいいかもしれない。

 無冠の帝王といえば、中国では古くから「素王」という言葉があって、素という寺には卑しいだとか、形式が整っていないだとか、飾りがないだとか、いろいろな意味があるが、この言葉は孔子を表すものとされてきた。

 こやんは一応詩人会議の新人賞をもらっているから、厳密に言えば無冠ではないが、それ以降、世間からは何の評価もない。だから、まだまだ無冠の帝王を目指す資格はあるのではないか。

12月17日

 最近よく「需要不足」という言葉を聞くが、今の日本は需要が不足しているのではない。供給が過剰なのだ。

 物を作りすぎるから物が売れ残る。それを売りつくすために汗水たらして夜中まで働き、それでも売れないから値下げする。値下げすると利幅が減るから、夜中まで働いたわりには給料が下がる。

 物をたくさん作るだけでも、それだけ労働時間が長くなるのに、それを売り歩くのにまた苦労して長く働く。そんなに働くのが好きなのかって、好きなやつなんていやしない。

 少子化対策をして人口を増やせば需要が増えるって、そんなバカなこというやつがいる。人口が増えても一人当たりの需要が増えるわけではなく、ただでさえ給料が安いのに人口が増えれば、むしろ一人当たりの需要を今より切り詰めなくてはならなくなる。つまり、貧乏人の子沢山。

 根本的に間違っているのは、成長戦略をGDPという一つの国の総生産量で計るという考え方だ。本当に大事なのは一人あたりのGDPであり、さらには一人の労働時間あたりのGDPだ。中国がGDPで日本を抜いたとしても、そんなものはへでもない。なぜなら日本の10倍もの人口があるのだから、一人あたりに直せばまだまだ日本の10分の1だからだ。

 それと同じで、国内総生産なんてのは豊かさの指標でもなんでもない。大事なのは一人あたり、一時間の労働あたりのGDPだ。つまり、日本はGDPで世界何位なんてことではなく、一番時給の高い国を目指すべきだ。

 そのためには、まず供給を調節する。無駄なもの、いらないものは一切作らない。これによって労働時間が短縮できる。必要なものがちゃんと生産されているなら、需要は減らない。だから物は売れる。設備投資を強化しても本当に必要なものを作らないなら需要は増えない。また、国民に消費を義務付けるような方法で無理やり買い物をさせても、かえって本当に欲しいものが買えなくなるだけだ。

 おそらく今世紀の半ばにも世界の人口は減少に転じるだろう。これはヨーロッパや東アジアの後を追うように、中南米や西アジアや中央アジア、アフリカなどが経済成長と引きかえに少子化するのは間違いないからだ。だから、新興国市場をあてにしてまだまだ経済成長が見込めるというのは、その時まで。それからあとは、地球規模での人口減少社会が生れる。

 それは悲観すべきことではない。地球は有限だし資源も有限なのだから、もとから無限の経済成長なんて不可能だ。豊かになるというのは一人あたり、時間あたりの生産性が高まること以外のなんでもない。人類が人間と自然との調和の取れた世界で、争いもなく何不自由もない薔薇色の未来を求めるのであれば、生産の総量にこだわるべきではない。

12月16日

 聞いた話によると、日本のクリスマスは戦後間もないころのキャバレーから始まったらしい。それが高度成長期になると、子供がサンタクロースにプレゼントをもらう日となり、家にはプラスチックのクリスマスツリーが飾られ、豆電球をともし、クリスマスケーキを食べるようになったという。

 やがて、こうしてプレゼントをもらって育った子供達が大人になる80年代になると、「恋人がサンタクロース」になり、男は女にティファニーでジュエリーを買ったり、ホテルの部屋を予約したりするようになったという。

 もっとも現実ははるかに厳しく、何しろ年末の一番忙しい時期に重なるうえ、若者の浮かれ気分をやっかむ親父達の陰謀もあって、大体この日は深夜まで残業するのが恒例となり、「きっと君はこなーいー」ってことになったようだ。

 やがてバブルがはじけると、囚人のジレンマに陥ったデパートやショッピングモールが、より早くより派手にと飾り付けを競っては、年末の限られた客を自分のところに集めようとしのぎを削るようになった。

 今年になって、この流れはどうやら変わろうとしているようだ。CO2の削減が叫ばれる中、派手な飾りは発光ダイオードでエコをうたうようになり、その飾りも正月すぎても人を集められるように、クリスマス色のないイルミネーションへと変わり始めたようだ。そうでなくても、若者からすれば、ホテルを予約したりジュエリーをプレゼントしたりするようなクリスマスは、時代遅れのダサいものになってしまったようだ。

 さて、これから日本のクリスマスはどこへ行くのだろうか。もともとクリスチャンの少ない日本では、アメリカの消費文化の象徴として祝われてきたようなもの。それが求心力を失えば、クリスマスそのものが一気に廃れていく可能性もある。

 そういえば、今まで意識したことはなかったが、店に飾られているクリスマスツリーの多くは、あらためて良く見てみると、てっぺんに星を飾らないものが多い。これはムーミン谷のクリスマスと同じ、アンチクリストの、いわゆるペイガン・クリスマスだ。まあ、日本の神道はクリスチャンからすればペイガニズムに違いないから、これでいいのだろう。

11月26日

 かつて円高デフレと呼ばれた時期があったが、今もその再現となるのか。

 今や国を挙げてのケチケチ大作戦で、何でもかんでも支出を抑えることで不景気を乗り切ろうとしているけど、消費の収縮は生産の収縮に跳ね返ってきて、結局はデフレを生む。

 デフレということは物の価値が下がってお金の価値が上がるのだから、円の価値も高くなる。せっかく人件費をケチって安く物を作っても、その分円高になるから、それほど国際競争力には貢献しない。

 今のエコブームも、エコはエコでもエコノミーブーム。地球に優しい=節約だから、特に環境対策に新たな予算を組んでというわけではなく、グリーン・ニューディールには程遠い。生活優先だとか、福祉や教育の充実だとかいっても、基本は節約節約で、最終的には何も望まないのが本当の豊かさだということになるのだろう。ただひたすら働け、そして何も買うな。そうすれば豊かになれる、と。

 そこから抜け出すには、発想を逆にしなくてはいけない。つまり、何がほしいのか、どういう生活を望むのかをもう一度見つめなおし、そこへ向って生産を再編することだ。

11月23日

 久しぶりに渋谷へ出た。タワレコにVampilliaのCDがあった。

11月16日

 新聞にはGDP4.8%増の文字が躍り、日本は世界に先駆けていち早く景気回復ということで、お目出度いことだ。もっとも、だから何なんだ、という感じで、平成のイザナギ越えの未曾有の好景気を経験したものにとっては、はっきりいって好景気なんてどうでもいい。

 いい加減に気付いたらどうなんだ。どんなに一生懸命物をたくさん作っても、どんなに一生懸命その作ったものを売り歩いても、その生産物の全体の価値は労働者の購買能力を越えることができないんだ。

 生産性を飛躍的に高めるような技術革新やシステム改革がなく、ただ根性だけでがむしゃらに働いて不景気を乗り切ろうとすれば、結局そういうことになる。総生産を増やすということは、ただ労働量を増やすだけなのだ。

11月14日

 この頃なかなかライブを見にいけなかったが、エレトイがMySpaceを更新していて、10曲もupしてくれた。

 最初にエレトイを見た頃は80年代のテクノポップの印象で、初期のP-MODEL(キーボードがことぶきではなく田中で、ベースが秋山だった頃の)なんかが思い浮かんだが、その後残響系を意識したのか変拍子を使いだす時期があったが、今回の曲を聴いているとちょっと60年代のブルースのグルーブが感じられる。

 一曲目のKimaguReggaeも、レゲエというよりはR&Bだ。初期のナンバーatomicもだいぶ雰囲気が変わっている。Q&Aも60年代っぽい。

 Magikal RuRu Mystery Tour、OjamaStarはXTCっぽい。YouTubeの動画の方でUpされているPenguin Girlはかなりポップな感じを意識している。

 まあ、80年代のテクノも60年代のリバイバルでシンプルなロックへの回帰にピコピコサウンドを加えたところで新しさを出したようなもので、その意味では原点に戻ったのだろう。横田のり子の詩の世界が面白いだけに、もうひとつ2010年代の何かがほしい。

11月10日

 まあ、これは一つのトンデモ仮説だが、被差別民というのはウィルスが犯人となることもあるのではないか。

 今日でも新型インフルエンザの流行で、修学旅行や学校の行事が取りやめになったり、集会やイベントが中止されたり、かなり過敏な反応が生じている。

 これが医療水準が低く、病気の原因が何もわかっていない時代だったらどういうことになるか。いかに致死性の少ないインフルエンザといっても、ワクチンはもとより抗生物質もない時代には、やはり、こじらせれば死に至る危険な病気であろう。近代以前の社会をしばしば襲った疫病や流行り病のなかには、今でいうインフルエンザも多く含まれていたと思われる。

 だから、ひとたびこうした病気が流行りだすと、病人には近づきたくないし、病人の出ている村にも行きたくはない、そういう理由で世間から隔離される村が生じる可能性がある。そして、原因がわからないから、それをその村人の「穢れた血」のせいにしてしまう。(こうしたことは近代にも起きていて、たとえば広島・長崎の原爆症の人たちもいわれのない差別を受け続けてきた。それは病気に対する無知と過度な警戒心によるものだ。)

 特にインフルエンザは、今日でも鳥インフルエンザが問題になっているように、他の動物の持っているウィルスが突然変異して人間に感染することが知られている。そうなると、動物関係の仕事をしている集団は、他の村人よりも新しい突然変異ウィルスに感染する確率が高い。そうやって考えると、動物関係の仕事している集団が、世間から隔離され、その理由を「穢れた血」のせいにされてしまう可能性が高いことは予測できる。あとは殺生をするからだとか、いろいろな理由付けがされてゆく。

 差別感情の根底にあるのは、無知から来る過度の潔癖症ではないか。たとえば、子供が猫を撫でようとすると「汚いからさわっちゃいけません」と叱る親のように、ある種の人と付き合うと、汚いから関わっちゃいけませんと叱る親がいる。子供は何で汚いのかわからなくても、親の言うことだからというので、それを受入れてゆく。そうやって受け継がれていくのではないか。

11月9日

 芭蕉の句で「穢多村」が出てきたので、googleで調べていると、吉田向学という人のブログが出てきた。主流の説ではないにしても、なかなか面白い。

 被差別民だからといって、必ずしも貧しかったわけではないし、その役割も多様でひと言でくくれるようなものではあるまい。むしろ普通の人たちと上手く住み分けながら、独立した存在として生きてきたのであろう。

 もう一つは網野義彦の聖なる非人説で、これは以前にも読んだことがあった。ところで「供御人」という言葉と並んで、「神人」という言葉が目にとまった。これは「じにん」と読むが、ついつい『おおかみかくし』の「かみびと」を連想してしまった。

 ひょっとして『おおかみかくし』は女性や身体障害者の差別のメタファーだけでなく、もう一つ重要な差別問題のメタファーを含んでいたのでは。

 『ひぐらし』の雛見沢村も『おおかみかくし』の嫦娥旧市街の人たちも、それぞれ自分たちは人とは違う存在として山奥の村で隠れて生きてきたが、ここに中世までの本来の穢多村の姿に近いものがあったのかもしれない。

 ただ、間違ってはいけないのは、同和問題で大事なのは今現在行なわれている差別をどうするかであって、過去の歴史は直接関係ない。

 もともとの差別の理由が何であったかなんてのは、その時代の問題であって、現代を生きるわれわれの問題ではない。大体そんな昔のことは証明困難で、悪魔の証明に陥るだけだ。だから、昔のことは歴史学者の自由な仮説に任せよう。そして今のことは今のことで解決しなくてはならない。

 もし、そのメタファーが込められていたとすれば、その解決ははっきりしている。問題をタブー視するな。堂々と議論せよ。圭一のように、そして博士やマナのように。

11月8日

 日本は明治以降の近代化の中で、西洋崇拝と軍国主義から伝統的な遊びの文化が弾圧され、戦後になってその上にアメリカ式の消費文化が入ってきた。そのため内需拡大だとか、内需主導型経済への転換とか言っても、どうすれば日本人としての豊かな生活に結びつくのか、そのイメージがはっきりしない。

 景気回復とはいっても、やはり予想通り、賃金の下落、物価の下落というデフレスパイラルが蘇っただけで、一時のショック状態は脱却しても、あいかわらずこれからも失われた十年の延長のような状態が続いていくのだろう。

 いざなぎ景気の時には所得が倍増したが、平成のいざなぎ越え景気では賃金が下がった。ただ、それ以上に物価が下落したから好景気だというにすぎない。

 日本では失業者へのセーフティーネットが欠如しているから、失業者が出そうになると、失業の恐怖をちらつかせながら、賃下げと労働時間の延長をいやおうなしに選択させる。これによって経営的には危機を乗り切っても、生活は苦しくゆとりのないものとなり、人の心もすさまないはずがないだろう。

 民主党政権に、果たしてこの流れを変える政策はあるのだろうか。

11月6日

 急にパソコンのデータが全部初期化されて、消えてしまった。ようやくホームページが更新できるようになった。

11月4日

 レヴィストロースというと思い出すのは、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件の頃に確か来日して、テレビでコメントを求められ、中世で海賊の果たしていた役割を、今のハイジャックが果たしているというようなコメントをしていて、へぇーと思ったことだ。記憶はあまり確かではない。そのあと大学でフランス語を学んだ時、ハイジャックのことをフランス語で空の海賊(pirate de l'air)という言い回しをするということを知って、何だ、まんまじゃないか、と思った。

 フランス人はこういう結び付けを好むのだろう。デリダも確かメディアが古くは霊媒を意味していただとかいう議論をしていたと思った。

 今の言語学はレビストロースの頃のソシュール言語学とはだいぶ変わってしまった。と同時に、言語が思考を決定するというサピア・ウォーフの仮説もすっかり過去のものとなり、言語分析から社会現象を理解しようという試みも過去のものになりつつある。

 もちろん、日常用いられる単語は様々なメタファーとして転用されていて、しばしばそれが無自覚に反復されるところから、言語がある程度無意識のうちに思考に影響を与えることは確かであろう。ただ、それは決定するというほどのものではなく、自覚できれば容易にその呪縛を逃れることが出来る。

 日本人が「ものづくり」という言葉に何か神聖な意味を与えたがるのも、おそらく「もの」が中世には霊魂を意味していて、それが今日の「もの」という単語の用法の一部に残っていることと関係があるのだろう。だから、「ものづくり」は単なる製造業を意味する言葉ではなく、ものに魂を吹き込む作業だというイメージが付いてまわる。でも、そんなものは、「ものづくり」と魂は関係ないと言い切ってしまえば、それで終わりになる。

 人間の言語記憶能力は素晴らしいもので、一生のうち何回も聴くことのない単語であってもその文法知識を持っているという。言語の記憶の中には、あまり用いられないメタファーの用法なども含まれているのだろう。

 ポルノグラフィティの『サウダージ』の中の「海の底で物言わぬ貝になりたい」という一節は、宗祇法師の『筑紫道記』の「うらやましとはただ此の貝のからをやいふべからん」に遡れるし、竜騎士07のゲーム「おおかみかくし」に出てきた「上京」は、柿本人麻呂にまで遡れる。戦争をする蛙も唐突に現われるカマドウマも、決して新しいものではない。古いメタファーは死んだのではなく、我々の記憶のどこかに残っている。無自覚に用いれば「集合無意識」、自覚して用いれば単なる「引用」。

 古典の研究というのは、そのためのものなのかもしれない。人が無意識だと思っているものの出典を明らかにすることで、その呪縛を解き放つことができる。魯迅の言葉をもじって言えば、「もともと言葉に意味なんてものはない。人が喋ればそれが意味になる。」

 意味と言うのはこれまでに人がその言葉をどのように用いてきたかという履歴に他ならないのである。

 レヴィストロースからだいぶ脱線してしまったが、この人が最近死んだということを今まで知らなかった。本人には悪いが生きていたということも忘れていたくらいだ。それが長生きするということの宿命なのかもしれない。

11月3日

 今日は天気もよく、京成バラ園へ行った。

 バラはやや終りかかってはいたが、それでもたくさん咲いていた。

 そして、ここは「うみねこ」の聖地。Ep.4のお茶会でベアトリーチェと戦人とのバトルが繰り広げられた黄金郷のガゼボ。桂由美のプロデュースだという。

 そして、譲治が紗音に指輪を渡した東屋は、最初はバラの丘にある東屋だと思ったが、これだと窓がない。本物はプチガーデンにあった。外から見ると白い建物で、内側はまぎれもなく、あの画像で使われたと同じものだった。

 あと、字は少し違うが花音(かのん)という名前のバラがあった。

10月31日

 「おおかみかくし」のブログパーツの62個の謎を解読し、クリアした。名誉会長になった。

10月25日

 国立博物館へ「皇室の名宝」展を見に行った。

 若冲の「動植綵絵」を見るのは二度目だが、今回は満員の人だかりの中で見ることとなった。伝統絵画が高く評価されるようになり、たくさんの人が見に来ることは喜ぶべきことで、それが海外で評価された結果だとは思いたくない。

 浮世絵も日本人が無価値なものとして二束三文で海外に流出し、海外で評価されたら日本でも芸術として扱われるようになった。漫画も第二の浮世絵と言われ、PTAが目を吊り上げて撲滅しようとしてきたものが、フランスで評価されていると知って急に態度が変わった。日本人も本当はその価値がわかっていたのだと思う。ただ、国が西洋崇拝政策を取ってきたために、価値がないと信じ込まされていただけだと思いたい。

 常設展には「鳥獣人物戯画断簡」があった。そのほかにも伝周文の「寒山拾得図」、一休さんの肖像、丸山応挙の「秋冬山水図屏風」も静かで落ち着いた中にきらびやかさのある、なかなかいい絵だった。長沢芦雪の「夜雨水上の竹図」も、シンプルだが、何か引き込まれる不思議な絵だった。

 特別陳列で中国の絵が展示されていて、本でしか見たことのない梁楷の「李白吟行図」、蘿窓の「竹鶏図」もあり、伝牧谿の「岩猿猴図」もあった。平成館が混雑しているのに本館が閑散としているのは、何とももったいない。

 昼すぎて博物館を出る頃には雨も上がっていた。

10月18日

 あまのやハ小海老にまじるいとど哉   芭蕉 

 

 この句の意味はよくわからない。「いとど」はカマドウマのことだという。昔はどこにでもいたのだろう。漁師の家で、多分釣の餌にする小海老(「海老で鯛を釣る」という諺どおり)のなかにカマドウマが混ざっている情景は、いかにもありそうな、つまり「あるあるネタ」だったのだろう。  ところで、このカマドウマの、特に意味もなく現われる闖入者というメタファーは、突如現代に蘇る。谷川流の「涼宮ハルヒの退屈」の「ミステリックサイン」だ。

 人間の言語記憶というのは、一生のうちに何度聴くかわからないようなレアな単語でも、その正確な文法的用法を記憶しているという。そう考えるとと、カマドウマのメタファーとしての用法も、それをいつ知ったかは覚えてなくても、どこかで記憶にあったのかもしれない。

 蛙はかつて

 

 歌いくさ文武二道の蛙かな    貞徳

 

のように、戦争をするものとされていたが、このメタファーは長いこと忘れ去られていたにもかかわらず、今日「ケロロ軍曹」に蘇っている。

 ユングの言う集合無意識というのは何ら神秘的なものではなく、一生に何度も用いないようなメタファーの用法の記憶がその正体なのだろう。

10月17日

 日本語が亡びるという幻想は、要するに「言語が思考を決定する」という古臭いサピア・ウォーフ仮説の亡霊と西洋崇拝とが結びついたところから来たものだ。

 この二つが結びつくとどうなるか。

 

1、日本は野蛮国だから西洋の進んだ文化を学ばなくてはならない。

2、西洋の進んだ文化は西洋の言語が生み出したものである。

3、それゆえ、日本人が西洋の進んだ文化を学ぶには、西洋の言語を学ばなくてはならない。

 

ここまではまだわかる。問題はそれからだ。

 

4、西洋の言語を学び、西洋の文化を学んだとしても、日本人は普段日本語という劣った野蛮な言語で物を考える習慣を持っているから、本当に西洋の進んだ文化を日本に根付かせるには、日本語を改造しなくてはならない。

 

実際に、昔からフランス語を日本の国語にしようなんていう文化人がたくさんいた。そうでなくても、西洋の文学や哲学の翻訳は意訳を嫌い、まして超訳なんてとんでもなく、直訳をよしとしてきた。そして、直訳のへんてこな日本語を読みこなすことが、教養ある人間に求められた。

 今亡びつつある日本語というのは、まさにこの翻訳口調の日本語であろう。この種の日本語が理解できなくなるということは、彼らにしてみれば西洋の進んだ文化が学べなくなり、世界の文明の進歩から取り残され、日本が世界の孤児になることに他ならない。

 

 「言語が思考を決定する」がどういうことなのかというと、たとえば時間を尋ねる時に、日本語では

 

 今何時?

 

といい、英語では、

 

 What time is it now?

 

と言う。今日の言語学の考え方だと、時間を尋ねるという言語以前の思考が存在していて、それがそれぞれの言葉で表現されると考える。

 しかし、言語決定説だと、この二つはまったく別の思考だということになる。つまり、What time is it now?は「今何時としてそれは存在しているのか」と考えているのだというのだ。それを「今何時?」と翻訳すると、まったく別の思考になってしまう、だから西洋の文化を学ぶには直訳でなくてはいけないということになる。

 

 言語決定説を信じる西洋崇拝者は、直訳調の日本語を理解できる人がいなくなれば、日本は野蛮国に転落すると信じる。だから、「日本語が亡ぶ」と煽って、翻訳調の日本語を守ろうと必死になる。

 しかし、私はそうは考えない。なぜなら、思考は言語には決定されない。だから、普通の平坦な日本語でも十分西洋の文化を学ぶことは可能である。むしろ簡単な日本語に翻訳したほうが、それだけ多くの人が西洋の文化を学べるようになるのだから、日本が西洋の文化の進歩から取り残される心配はない。

 それどころか、翻訳調ではない普通の日本語で物を考える習慣をつけることは、日本の伝統文化を理解するのにむしろ有利になる。日本の古語がいかに今の日本語と違うと言っても、英語よりは今の日本語の方が近いからだ。

 

 なお、芭蕉の「軽み」の付け方に興味のある人は、私のHP「ゆきゆき亭」の風雅堂/蕉門俳諧集の『むめがかに』の巻、『空豆の花』の巻を参照するといいと思う。談林時代の重いつけ方に興味のある人は『鷺の足』の巻を参照するといい。

10月15日

 夕刊に水村美苗さんのことがかなり大きく載っていた。もちろん、こういった記事のどこまでが水村さんの意図するものなのかは知らない。

 そこには、「話し言葉」としての日本語も「書き言葉」としての日本語も亡びないということが明記されていた。これはまあ、別に言語学を知らなくても、常識的に考えればそうだろう。1億2千万もの人が話したり読み書きしたりしている言語が、そう簡単に亡びることはない。

 なら何が「亡びる」というのか。それは「思考する言語」だという。もちろん、通常の日本語の話し言葉や書き言葉で「思考ができない」なんてことはありえない。ある種の特殊な思考を表現する言語が問題になっていることは明白だ。

 おそらく水村さんが言いたいのは、「近代文学の言語」が亡ぶということではないかと思う。つまり明治から戦前までの間に形成されてきた一つの時代を表現する言葉が、今危機に瀕しているということだと思う。それは私もその通りだと思う。そのような言語は団塊世代が最後で、私のHPはこの言語では書かれていない。つまり「思考する言語」では書かれていない。

 それはたとえば、中世の雅語が亡んだとか、近世の俳諧の言語が亡んだことに匹敵する現象だとは思う。ただ、一つの大きな時代の変わり目には、それも避けられないのではないかと思う。残念だが、近代文学の時代はすでに終わっているし、その言語はすでに亡んでいる。だが、だからといって困る人はほとんどいないと思う。

 生活に不可欠な科学の言葉や経済の言葉は、言語の変化にほとんど影響を受けない。科学や経済の言葉は世界中のどんな言語にも翻訳可能だし、ペルシャ語でも北朝鮮語でも同じように核物理学を学ぶことができる。それは、結局、どの言語で表現されようとも、その意味するところのものが本質的に言語以前のものだからだ。

 これに対し、詩の言葉は翻訳が難しい。複雑なメタファーの込められた言葉は一種の暗号(コード)であり、そのため時代が変わってしまうと解読が困難になる。芭蕉の「古池」の句も、その当時の人はダイレクトに理解し涙を流したかもしれないが、江戸中期にはすでに意味不明のものとなっていたという。

 しかし、心配は要らない。本当にすぐれた作品なら、必ずどの時代でも解読を試みる人がいる。近代文学の多くは、次の時代には理解困難なものになるかもしれない。それは我々が江戸時代の俳諧を読み解くのと同じくらい難しくなるだろう。しかし、それでも古典は生き残る。

 それは近代文学に限らず、今日の漫画・アニメ・ラノベの言語も、一つの時代が終れば、江戸時代の黄表紙本を読むと同じくらい難しくなるだろう。それでも、すぐれた作品にはたくさんの研究者によって研究され、復元が試みられ続けるであろう。

 100年たったら「涼宮ハルヒ」の研究書がたくさん書かれているに違いない。そしてその頃の子供たちは「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが」という書き出しを暗記させらることになるだろう。

10月11日

 出光美術館へ「芭蕉 <奥の細道>からの贈りもの」を見に行った。

 「枯枝に」「世にふるは」句文画賛は緻密に描かれていて、改めて芭蕉は絵が上手かったんだということがわかった。

 今回は仙厓展が併設されていて、そこには展示されていなかったが、以前に見た仙厓の初期の絵はなかなか上手い。上手い人がわざと雑にさらさらっと書くことで独特な味を出すところから、いわゆる俳画が生れたといってもいいのだろう。

 これは「軽み」にも通じるのか。芭蕉は貞門談林の高度な技法を一通り学び、最高の技術を極めたところでそれを忘れてさらっと詠むから「軽み」になる。技術がないのにそれを真似しようとすると、惨憺たる結果になる。

 ところで、その隣にあった同じ「枯枝に‥」の句を記した短冊はちょっと気になった。そこにもカラスの絵が書かれていたが、芭蕉の絵ではないらしい。それはともかくとして、天和の早い時期に「からすのとまりたるや」ではなく「からすのとまりけり」の句形の真筆があるのは知らなかった。

 そのほかにも貴重な真筆がたくさん。みんなよくぞとっておいてくれた。ご先祖様に感謝。  おもしろかったのは、参考出品で図録にはないが、木因の辞世狂歌。メモしておけば良かった。死ぬ直前にこんな冗談が言えるって、やはり俳諧師って凄い。

 地味な展覧会ながら、結構人が多く、芭蕉はやはり国民的俳人だ。俳句といえばやはり芭蕉で、その上をゆく人は未だに現われていない。芭蕉人気さえ健在なら、この伝統が廃れることはないだろう。

 

 話は変わるが、広島と長崎がオリンピック開催地に立候補したと言うが、オリンピックはあくまでスポーツの祭典であって、あまり政治を持ち込んでほしくはない。これは東京の招致活動でやたらエコを強調してたことでもいえるのだが、かえって世界にマイナスの印象を与えたのではなかったか。オリンピックくらいもっと脳天気にサンバカーニバルでバカ騒ぎしてもいいのではないか。

 これは結局、日本ではスポーツが文化としてなじんでいない。遊ぶことが悪いことだと思っているから、何か大義名分がないと遊べない。そこでついつい政治的スローガンを掲げてしまう。悪い癖ではないか。

 

 連歌や俳諧に「神祇」「釈教」を入れるというのも、多分昔から日本人が遊ぶのには、何か大義名分が必要だったのだろう。

10月10日

 週末になると道路は大渋滞。何かエコカーを勘違いしているのではないか。

 エコカーだってガソリンは消費するし排気ガスもCO2も排出する。ただそれがほかの車より若干少ないというだけのこと。エコカーだからといって用もないのに無駄に走れば、エコでもなんでもない。

 エコカー減税もそれだけで単独で行なわれれば、自動車のみの優遇措置となり、かえって自動車の使用を奨励しているようなものだ。自動車をやめて公共交通機関を利用する方がはるかにエコなのにもかかわらず、何か自動車に乗った方がエコであるかのように錯覚させる。

 ETC割引をやるなら、パスモやスイカにも何か優遇措置は取れないのだろうか。

 カーフェリーだって大量の車を効率よく運ぶことができるのだから、その車のエンジンを一斉に回すよりもはるかにエコなはず。何か援助が必要なのではないか。

10月9日

 ノーベル平和賞の受賞のニュースでノルウェー・ノーベル賞委員会が決めたと言うところに「あれっ?」と思った人がいるだろうか。ノーベル賞って確かスウェーデンではなかったか。

 ノーベル賞は確かに1901年のスウェーデンに始まった。この時ノルウェーという国はなかった。ノルウェーがスウェーデンから独立したのは1905年。そういう事情で、ノーベル賞も平和賞だけはノルウェーに譲られたのだろう。

 オリンピックの金メダルは不正がばれたら剥奪されるが、ノーベル平和賞にはそういう規定はないようだ。金大中がいい例。

 オバマがもし核軍縮や温暖化対策に失敗した時、ノーベル平和賞は剥奪できるのだろうか。単なる期待感だけで表彰するのではなく、やはりきちんと実績を上げてからのほうがよかったのではないか。

 ここでもしもオバマが、核廃絶が実現するまで辞退するとでも発言すれば、最高にかっこいいのだが。

10月2日

 今朝の新聞に440万年前のラミダス猿人(アルディオピテクス・ラミダス)の全身骨格のことが載っていた。これは1974年のルーシーの発見にも匹敵するものだ。名前はアルディオピテクスからとって「アルディ」になったようだ。

 これによって、人類の二足歩行が樹上で進化したことが確定的になり、サバンナ起源説や狩猟仮説(ハンティング・エイプ説)は大きな打撃を受けることになろう。人類の二足歩行は樹上でのブラキエーション(枝へのぶら下がり)の姿勢から生れたものと考えてほぼ間違いない。サバンナに降り立ったり、狩を始めたりするはるかに前から、人類は直立していた。

 ところで、巷では未だに「人類進化図」と称して、半世紀前のまだネアンデルタール人が猫背で膝を曲げてよろよろと歩いていたと思われていた頃の図が使われてたりする。グッズになってたり、この前は新聞の一面広告でどこかの企業が使っているのを見たが、知性を疑われるのでやめたほうがいい。

 間違ってはいけない。人類の進化は直立二足歩行の完成に始まり、そのあと脳容積の増加や道具の使用などが起こったのであって、大きな脳で道具を持っていながら前かがみでよろよろと歩く原始人類なんてものは存在しなかった。

9月27日

 「おおかみかくし」をクリアした。46時間、既読率94%。

 「ひぐらし」や「うみねこ」に比べると、かなり難易度は低いが、ストーリーは楽しめた。

9月23日

 駒沢給水塔を見に行った。場所は弦巻で駒沢大学と桜新町の間にあった。

 駒沢緑泉公園の方から、住宅地の狭い路地を通り、パークシティ弦巻まで来ると、突如それは姿を現した。なかなか全貌は見えないが、古風で堂々とした建物は、結構感動する。

 パークシティの周りだけ広い通りがあるが、後はふたたび狭い路地に入ってしまい、家の陰に隠れてその姿はなかなか拝むことはできない。給水塔の西側によその家の庭越しに見えるポイントがあるが、ここに長居をするわけにもいかないだろう。

 やがて給水所の門のところに来ると、ふたたびそれは姿を現す。そのあと、給水所の塀に沿って歩くが、中はよく見えない。そして、正門のところでふたたび中が覗けるが、どうやら給水所の見えるポイントはこれくらいか。

 ネットで見ると、見学会も行なわれているようだが、残念ながら平日で行けそうにもない。今日はとりあえず、それを垣間見るだけで帰った。

9月16日

 日本もCO2削減目標25%を掲げてしまったし、これから先、CO2を大量に出すような形での消費の拡大はないものと思ったほうがいい。

 大量生産・大量消費のアメリカ型の消費スタイルはもはや過去のものだし、実際に今の若者の心をとらえてはいない。

 これは日本だけでなく、世界的にそうなっていくだろう。

 そうなってゆくと、内需拡大といっても、これからは個人消費よりも公共投資の方に重点が置かれるに違いない。環境対策はもとより、医療、福祉、教育などお金の必要な分野はたくさんある。そして、これらの分野に我々が出費を厭わないなら、こうした分野で大量の雇用も生れる。

 限られた資源のなかで、環境に優しい消費を選ぶなら、日本製の漫画・アニメ・ラノベ・ゲームなどのオタク文化はうってつけのもので、世界を席巻できる。J-popやお笑いも含めて、日本は俳諧の伝統を引く「遊び」文化の国だ。四輪で走る車を考案しながら、これを戦車に用いずに祭りの山車や子供のおもちゃにしか使わなかった国は、日本を置いて他にはあるまい。

 あえて思い切った増税を選び、アメリカ型の物質的な消費からこうした日本のお家芸ともいえる「遊び」文化の享受へと消費構造を変えることで、地球に優しい福祉国家の道を選ぶのも一つの可能性だ。

 民主党はやりそうにもない。こども手当てを虐待オヤジにばらまいて、その飲み代で内需を拡大するのが関の山だ。その上、ガソリン暫定税率廃止と高速道路の無料化で国民を石油漬けにしたいらしい。これではイスラム原理派は大喜びで、世界はテロの恐怖におびえることになる。

 自民党の方でも考えてくれないか。

9月13日

 「おおかみかくし」の方は黄泉比良坂編、鬼宿りの章、双奏輪廻の章、月痕艶女の章まで終った。(ブログパーツの方は31個解読した。)

 今回は性的非対称性がテーマなのかな。男と女は権利上は平等であるべきであっても、身体は確かに違うし、このことはメンタルな部分でお互いを理解しにくくしている。この違いをもう一つの欲望を仮定し、主人公がその対象となることで、女性の置かれている立場を体験させようというものなのだろう。

 下敷きになっているのは「狼男」という古典的なメタファーだが、それをまさかこういう風に使うとは、やはり竜騎士さんは天才だ。

 久しぶりに折鶴を折ってみた。

9月9日

 今度の連立政権の合意文とやらが発表されていた。まあ、この部分を読むだけで十分だろう。

 

 「小泉内閣が主導した競争至上主義の経済政策をはじめとした相次ぐ自公政権の失政によって、国民生活、地域経済は疲弊し、雇用不安が増大し、社会保障・教育のセーフティーネットはほころびを露呈している。」

 

 これは正しくない。高度成長期が終わり、低成長期となり、さらにほぼゼロ成長の時代へと経済成長が鈍化していった原因は、2001になってから始まった小泉政権だけに帰すことはできない。

 地域経済の疲弊が単に公共事業が減ったことを意味するのであれば、その原因はそれ以前からの経済成長の鈍化と財政赤字の増大によるものであり、雇用不安も長期的な経済の低迷によるものだ。

 まして、社会保障・教育のセーフティーネットはほころびたのではなく、最初からないに等しかったといった方がいい。

 この部分を読むだけで、今度の連立政権が、相変わらず反自民・公明という野党的な発想から脱却できてないことがバレバレだ。どこかの党が少子化そのものが戦後の自民党政権の歪みだといっていたが、それではなぜ少子化が世界的な傾向なのかを説明できてない、それと同じだ。つまり、何でもかんでも自民党が悪いというだけで、世界の大きな流れがまったくつかめていない証拠だ。

 

 ちょうどトーマス・フリードマンの「グリーン革命」という本を読み始めたところだった。やはり腐ってもアメリカで、民主か共和かというところを越えて、世界がちゃんと見えている人たちがたくさんいる。

 残念ながら21世紀もアメリカの時代が続くのだろう。そして、おそらく日本はグリーン革命でも第三の敗戦を経験することになる(IT革命ですでに第二の敗戦を経験している)に違いない。

 一人一人のエコの意識は高くて、それを支える技術力も間違いなく日本は世界のトップにあるとは思う。だが、それを生かしきるような戦略を立てる政治家がどこにもいない。技術なんてのはパクられてしまえばそれまでだ。だからまた負ける。

9月2日

 「おおかみかくし」でも言われていたことだが、八朔は旧暦8月1日に食べられるから八朔だというふうにその語源が説明されているにもかかわらず、実際の収穫期は正月(新暦)の前後だという。誰かこの謎を解いてください、と言いたいところだ。

 俺の一つの推理では、八朔という名称は本来8月1日には関係なく、むしろ八朔梅の咲く季節に採れるというところからついた名前ではなかったか。

 八朔の日には贈り物の習慣があり、八朔の日に梅の実を送ったことから八朔梅の名があるという。しかし、梅の時期にしては遅すぎるから、実際は梅干や梅酒を送っていたのかもしれない。

 早咲きの梅に「八朔梅」の名があるのはすでに江戸時代からで、果物の「八朔」が栽培されるようになったのが幕末からということを考えると、八朔梅の方が先にあったのは確かだ。

 八朔梅の咲く頃に採れる、梅にも劣らぬものということで、「八朔」と名づけられたのではなかっただろうか。

 梅も八朔も和歌山の名産で、和歌山では梅酒に八朔果汁を入れた八朔梅酒も作られている。「嫦娥町」もそっちの方にあるのだろうか。

9月1日

 「おおかみかくし」の方は黄泉比良坂編が終わり、五色塚編に入っている。

 ゲームの方もさることながら、ブログパーツ集めの方も、結構はまっている。目下解読した謎は12個で一般部員。

 色々なブログを覗き見できて結構楽しい。

 

 昨日くらいから青松虫がうるさいくらいに鳴いている。

 別に彼らに次の春が来るわけではない。

 だけど子孫を春に誕生させるために、今必死で鳴いていると思うと、何か心撃たれるものがある。

 

 また来る春を夢に鳴く虫

8月31日

 今度の選挙での自民党の惨敗は、一つの時代の終わりなのかもしれない。
 つまり、特に田舎の方で自民党で圧倒的な支持を得てきたのは、その理念や思想が評価されたというよりも、結局は地元に公共事業を持ってきてくれるという、あくまで利益誘導によるものにすぎなかった。
 だから、経済成長が頭打ちになり、国の税収も伸びなくなり、そのうえ莫大な借金を抱えているということになれば、思うように公共事業を地方にまわすことができなくなる。ここですでに自民党の命運は尽きていたのではなかったか。
 要するに、金の切れ目が縁の切れ目となったというだけのことではなかったか。
 すでに細川政権が誕生して自民党が野に下ったとき、その兆候は見えていた。これに対して、小泉改革は、市場中心主義という別の理念の下に自民党を再生させようとしたもので、このおかげで自民党は冷戦終結以降に育った若い層を取り込むことに成功した。
 しかし、今回の麻生首相は、あくまで昔の栄光にすがって、唯一の責任政党を連呼し、あとはネガティブキャンペーンに終始した。
 自民党にまだ生きがあるとすれば、小泉改革を継承し市場中心主義を貫くしかないだろう。民主党が経済を停滞させ、失業者が増え続ければ、まだ自民党の逆襲はありうる。

8月30日

 投票に行ったら、投票所の前に長い列ができていた。
 そんなのを見たのは初めてだったので、そんなに今回の選挙は盛り上がっているのかと思ったら、ニュースでは前回より低いと言っていた。
 ということは、あの行列は、名簿のチェックを帳面からコンピュータに変えたために作業が遅くなっていたためだったのか、よくわからない。

 まあ、だいたい事前の世論調査どおりの結果になりそうだ。

8月28日

 日本の失業率が過去最悪の5.7パーセントとなった。これはパンクロックが大流行した1976年のイギリスのレベルであり、ノルウェーでブラックメタルが生れたころのレベルでもある。
 さて、日本では何が生れるのか。
 まあ、政治家は相変わらず、失業者は働く気のない人だという認識なんだろうな。失業中の若者よりも、悠々自適の高齢者の人気を取ったほうが票になるからな。 
 企業は先行き不安だから、一時的に需要があっても、雇用を増やさずに残業で対応する。こうして一方で過労死寸前の人がいて、一方で失業者の群がいるというアンバランスは続くのだろう。 

 それはそうと、ゲームの方は「おおかみかくし」をスタート。またインストールができなくて充電から。何とかならないのか。

8月26日

 国内消費の低迷は、戦後の日本の消費文化が伝統に根ざしたものではなく、アメリカの模倣だったことも一因ではないかと思う。
 どうせよその国の真似がしたかっただけだから、金がなくなればいつでもあきらめられる。
 ビールの消費だって、本当に飲みたいからではなく「とりあえずビール」という程度のものだったら、別に発泡酒でも雑酒でも何でもいいやということになる。ウィスキーだってただ気取って飲んでただけだったら、金がなければ韓国焼酎で十分ということになる。
 車だって、狭い日本でアメリカの真似する必要があったのか。バカンスの習慣がないのに別荘など買っても、部屋の掃除と庭の草むしりですぐに週末は終る。日本人には日本人の休日の過ごし方があったのではなかったのか。
 先祖代々受け継がれ、洗練されてきた文化ではないので、こだわるほどのものでもない。いつでも捨てられる。そんなものは不景気になれば真っ先に削られてしまう。本当に日本人の日本人らしい消費スタイルが形成されなかったことが、バブル崩壊以降の個人消費の伸び悩みにつながっているのではないか。
 個人消費を底堅いものにするには、日本のスタンダードな消費スタイルというのをつくり上げてゆく必要があると思う。

 家を建てるにしても、和風、洋風、イタリア風、スペイン風、アメリカ風、山小屋風などいろいろ個性を主張していても、結局こうした不統一な家が建ち並べば、町の景色はどうしようもなくごちゃごちゃしたアナーキーなものになってしまう。
 本当に家主がそれが好きで建てているのなら、それはそれでいいのだが、家族の好みがばらばらで、親戚の意見も無視できなかったりで、それに予算の都合もあれば、だいたいが妥協の産物で、三谷幸喜の『みんなのいえ』みたくなってないか。

 俳句や短歌でもそうだが、個性の尊重といいながら、結局は結社や子弟のしがらみで妥協的なことしかできてないのだから、そんなものは一度忘れて、スタンダードとは何かをもう一度考えた方がいい。
 芭蕉は不易流行を説いたが、不易というのは今日ではむしろスタンダードのことだと考えた方がいい。西洋哲学的な意味での不変ではない。スタンダードは個人の内省的な直観でつくり上げることはできない。あくまで多くの大衆に支持され、伝統として受け継がれてゆくところにしか生れない。
 そこを間違えて、俺はこうして不変の美に行き着いたというのに、大衆がちっとも相手にしてくれないといって、大衆を公然とバカにし、人口に膾炙する作品を無価値だと決め付けるようなやからには、まちがっても不易の句など無理だ。

8月25日

 HPの「ゆきゆき亭」を読んでくれればわかると思うが、「風雅堂」は明治以降の俳句革新による西洋化に反対し、本来の日本の伝統としての俳諧を見つめなおそうというもので、その意味では風雅の道に関しては、俺は超保守派と言っていいだろう。
 保守というのは決して悪いものではない。悪いものを守れば保守も悪いものになり、良い物を守れば保守も良いものになる。
 歴史的に見ても、復古が革新の原動力になることはそんなに珍しいものではない。古に復するというのは、元に復するということで、原点に戻る、根底にあるものを見つめなおす、初期衝動を大事にする、ということに他ならない。
 元を見失ったままでの目先だけでの新しさを求める革新(それも日本人にとって新しいというだけで、西洋ではすでに陳腐になってたりして)は、結局は根無し草だから、近代俳句なんてのはみんな作るそばから忘れ去られ、結局今でもみんなが知っている句は芭蕉なのである。
 間違ってはいけない。「写生」は印象派より前の時代で一世を風靡した西洋絵画の考え方にすぎない。季語は本来生活のなかで定着した日常的な季節感に基づくもので、それが明治に太陽暦が採用され、古い習慣をことごとく潰していったもんだから、次第に日常の生活感覚からずれたものとなった。それを正すには、今の日常から季語を再編するが、昔の生活に戻るかのどちらかで、後者は難しいから俺は前者だと思っている。
 今の生活は今の生活でキープしておいて、俳句の世界だけ昭和初期の歳時記を金科玉条とするのは「悪しき保守」であり、真の保守は季語の本来の精神に立ち返ることに他ならない。
 保守はしばしば排他的な民族主義を生み出す。しかし、自分の民族の伝統文化を尊重できない人間に、どうして他の民族文化の尊重ができるのだろうか。浮ついた西洋の模倣ばかりをしている人間は、結局西洋も日本も両方ともバカにしているのではないか。
 西洋崇拝の時代が終わり、これからの日本は民族主義の方向に大きく振れてゆくだろう。そして、おそらくヨーロッパもまたユダヤ的なものから脱却しようとする様々な異教主義(ペイガニズム)の方に振れてゆくだろう。しかし、これは決して悪い兆候ではない。むしろ浮ついたインターナショナリズムではなく、各民族がそれぞれの民族の独自性を自覚しつつ、最終的にそれを相互に認め合う本当のグローバル化に向かう、その一つのステップにすぎない。
 なぜなら、どの民族も、その文化の根底に至ったとき、結局同じものを発見するからだ。つまり、どんな文化も人間が作ったもので、同じ人間の遺伝子が背後に働いているものだということを知ることになるからだ。

8月24日

 「責任」という言葉には大きく言って二つの意味がある。
 一つは偉い人だけが持っている指導責任だとか監督責任だとか実行責任だとかいうもの。
 もう一つは、偉くない人が負わなくてはならないその尻拭い責任。

8月22日

 アニメは日本が世界に誇る文化であるにもかかわらず、実際にアニメの製作にかかわっている人たちは貧しい。だから、そこに国家予算をつぎ込むという考え方は間違ってはいない。母子加算予算も大事だが、すべての問題に関して国家が予算をつぎ込むということになれば、増税を避けて通ることはできないだろう。
 アニメの殿堂(国立メディア芸術総合センター)が問題なのは、結局箱物行政という発想を出てないところにあり、まず箱物ありきという考え方が問題なのにすぎない。
 もっとも、箱物行政という感覚は、イデオロギーには関係ない。
 俺が詩人会議に所属していた頃、大阪文学館の建設に賛同を求める手紙が来た。文学館を作ったからといって、すでに時代遅れとなった現代文学の流れが変わるはずはない。はっきりと箱物建設という考え方に反対する趣旨の返事を書いたことを思い出した。
 箱物行政という考え方も問題だが、漫画アニメという日本が世界に誇る文化を軽視する考え方にも同調できない。

 ‥‥こう書いておけば、特定の政党を非難することにはならないので、公職選挙法には抵触しない、‥‥と思うのだけど。

 ところで、Internet Explorerを更新したら、HPの更新が面倒になった。

8月21日

 「うみねこのなく頃に散」の幻想大法廷の舞台はどこなのかと、いろいろgoogleで検索してみたところ、どうやらベルサイユ宮殿らしい。
 竜騎士07さんも、ついに海外ロケ敢行?
 ちょっと聖地巡礼するには遠すぎる。

8月19日

 麻生首相の演説は力強くわかりやすく、印象に残るフレーズが多いのだが、なぜ人の心を打たないのかと考えた時、結局そのフレーズがすべて「俺に任せろ」的なもので、国民があたかも何もできない子供であるかのように扱っているからではないか。
 確かに、「親方日の丸」だとかいう時代があって、「餅は餅屋に」とばかりに、政治のことは政治屋に任せておけばいいんだという時代もあった。
 自民党が唯一の責任政党だというなら、自民党以外は責任能力がないのか。それは別に民主党だけではなく、国民自体に責任能力がないというのだろうか。
 日本を守ることができるのは自民党だけだというなら、一般庶民に日本を守ることはできないということなのだろうか。
 国民はすべて政治家任せにして、自分では何もしていないというわけではない。むしろ景気を良くするために様々な努力をしているのは国民一人一人であり、自民党ははそれをあたかも自分の手柄であるかのようしてないか。
 実際に国を動かしているのは国民であり、政府は国民のための下僕にすぎない。だから、国民を奮い立たせ、国民を応援し、国民のやろうとしていることに必要な援助を与えてゆくのが政治家の役割であり、その意味でオバマ大統領の「Yes we can」は理想的なスローガンだ。
 自民党に限らず、~ができるのは○○党だけです、なんて言っている党は、~はどうせお前らにできないと言っているわけで、基本的に国民を子ども扱いし、見下した態度をとっている。そんな党にこの国の政治をまかせられますか!

8月18日

 「うみねこのなく頃に」のタイトルを「解」ではなく「散」にしたのは、もはや普通の形で解決編を書かず、あくまでプレイヤーに解いてもらおうということなのか。
 おそらく、ネットでいろいろな人の推理を見ていて、どれもこれも正解に程遠いのに業を煮やし、もう少し考えてみてくれ、ということになったのではないか。ノックスの十戒に固執しすぎるのも問題だが、あまりにもノックスを無視した何でもありの推理でも正解からどんどん遠ざかってゆくことを指摘したかったのだろう。

8月17日

 「うみねこのなく頃に散 Ep.5」を見終わった。
 後半は不条理小説のようで、気持ちのいいものではなかった。頭の中にはゴルギアスの

 何も存在しない
 存在したとしても知ることができない
 知ったとしても伝えることができない

という言葉が回り始めた。
 ゴルギアスも弁論家として何度も法廷に立ち、何度も無実の人間が有罪になっていくのを見てきたのだろう。冤罪というのは人間が裁判を行なう限り、いつの時代でもなくなることはないのだろう。
 推理小説は、最初から作者が答を知っていて、それを当てさせるクイズにすぎない。だが、現実の世界には答がない。
 冗談でホームページのエンペドクレスの最後に関して「推理は可能か」なんて書いたが、現実の問題はすべて推理は可能であるとともに不可能なのだ。
 必ず真実は存在する。その意味では推理は可能だ。だが、どんな問題でも決定的に情報不足であり、その意味では推理小説を解くような意味での推理は不可能だということになる。
 推理小説なら、推理に必要な情報はすべて示されてなくてはならない。だが、現実の問題は決定的にそれを欠いている。人間はすべてを知ることができないのだから、たった一つの真実を見抜くなんてことは推理小説以外ではできるわけない。一つの仮説を立て、検証するのが精一杯なのだ。
 この前の冤罪事件でも、決定的な証拠とされていた遺伝子鑑定が、後になってから不完全なものであることがわかった。こうなると和歌山毒物カレー事件の決め手となった「薬物の指紋」も、将来の科学でひっくり返らないという保証はない。
 とはいえ、「うみねこのなく頃に」は現実ではない。答は作者竜騎士07の頭の中にある。ただ、手がかりの示し方が普通の推理小説よりも手が込んでいるとみればいいのだろう。ある意味で、無駄に手がかりが多すぎることによって混乱させているというか、余計な推理をさせようとしているように思える。ただ決められた答を出すのでなく、そこから別の発想がいろいろ膨らむところが、このゲームの良いところなのだと思う。
 手がかりが多すぎて、いくつもの推理が成立つことを利用して、あえて推理小説のパロディーを演じたのは、ノックスの十戒が原理主義的に解釈され、本来の精神を失っていることの告発として、それはそれで面白い趣向だが、今回はベルンカステルがちょっと嫌いになった。
 解決編にしては、そんなに謎は解かれていない。謎の解き方の講釈を受けただけだった。

8月16日

 さあ、今日は待ちに待った「うみねこのなく頃に散」の発売日。
 スターオーシャン1も一応片付けたことだし、アニメイト秋葉原店の開店10時にあわせて、買いに行った。
 開店10分前に着いた。店の前には30人くらい待っている人がいたが、別に並んでる様子はなかった。ほかの店の前には行列ができていたが、「うみねこ」とは関係なさそうだった。
 開店とともに中に入ったが、ゲーム売り場の場所が変わっているのを知らず、オーバーラン。だが、商品はたくさんあり、そんなにあわてることもなかった。レジには同じものを手にして人が5人くらい。これも半年前と同じような状況だった。
 12時ごろには家に帰り、午後からプレイ開始。このままプチ引きこもりで一気に最後まで見たいものだが、残念ながら明日から仕事だ

8月15日

8月14日

 スターオーシャン1(PSP)をクリアした。
 36時間、主人公(ラティ)レベル80。ゆっくりしすぎてレベルが上がりすぎてしまったために、あえてウェルチ、イリア、マーヴェル、ミリーの女パーティーでラスボス戦に挑んだが、楽勝だった。

8月7日

 もしもしホットラインというところからいきなり電話がかかってきた。
 社会保険庁から委託を受けているというが、社会保険庁が国民年金保険料の取立てを民間に委託しているなんて話も、これまで聞いたことがなかったし、名前からして「もしもしホットライン」なんて、いかにも胡散臭い。電話を受けた瞬間から、振り込め詐欺ではないかと身構えてしまった。
 名前を聞かれたけど、うかつに名乗らない方がいいと思っていたら、名前を知っていたし、住所を聞かれて、「社会保険庁の委託なのに住所がわからないんですか」と聞いたら、ならば住所の確認をしますといって住所を読み上げてきた。これも何だか気持ち悪い。
 最後に、社会保険庁のホームページを見てくださいといったから、見てみたら、確かに社会保険庁は保険料の取立てを民間に委託してたし、「もしもしホットライン」という会社が実在しているのもわかった。三井物産系列。
 問題なのは、保険料の免除の申請が出されている場合でも、申請が正式に受理されるまでの期間は、そのことが委託会社に連絡されず、その事情をよく知らないまま、うっかり生返事をしてしまうと、いきなり督促状を送りつけてくることだ。
 これで、面倒だからとか、申請が通らなかったのだと勘違いして払ってしまったら、お役所ぐるみの立派な振り込め詐欺だ。
 そうじゃなくても、委託業務のことが一般にほとんど知られてないのにつけ込んで、委託会社を名乗りATMに振り込ませる詐欺事件も起こっていると、もしもしホットラインのHPに書いてあった。

8月6日

 テレビを見ていたら、裁判員の記者会見の様子が放映されていて、裁判員の顔がはっきりと映し出されていた。
 あとでネットも見たけど、ニュースのサイトで裁判員の写真が公開されていた。
 事件の性質によっては、裁判員に報復しようとしたり逆恨みしたりする人もいないとも限らない。ずいぶん無防備な感じがした。

8月5日

 アメリカではクリントン元首相が北朝鮮へ行って直接交渉をし、とらわれていた二人の記者を連れ帰ったという。
 元首相も、数でなら日本も負けてないはずだ。いっそのこと5、6人束になって北朝鮮へ行き、拉致被害者を連れ帰ってきてもらいたいものだ。
 と、そう思って新聞をよく読んだら、日本は北朝鮮と直接交渉する立場にないと書いてあって、一気に醒めた。

8月4日

 西洋では悪魔だったり、日本では鬼だったり、人はしばしば闇に魅せられる。
 俳諧でも鬼貫(おにつら)という俳号は紀貫之を鬼貫之ともじったもので、天和という時代の独特な雰囲気のなかで生れたのであろう。芭蕉もこの頃は天和の破調と呼ばれる奇怪な句を好んでいた。
 人が闇に魅せられるのは、おそらく単純な理由で、世間で善と呼ばれているものが、実際はそれほど綺麗なものではないことを知っているからだ。世の中は偽善で満ちている。ならばその逆も然り。悪とされているものが、本当は善だということもある。
 そして、悪はしばしば偽善に満ちた間違った世を正そうとする、変革のシンボルとなる。
 しかし、それでも結局、世の中が良くなったためしはなかった。もし悪魔や鬼を信仰することで世の中が良くなるなら、今の世の中は本当に素晴らしいものになっていただろう。だが、結局いつの世も同じ。
 悪は生存競争という単純な事実から来る。つまり、勝利という善があるなら、必ずそこに敗北という悪がある。本当の善は平和だけであり、勝利は必ず敗者を生む。(生存競争は資本主義の産物だという間違った考えの人たちがいるが、生存競争は生物が生きる限りどこにでもついて回る。)
 どんな善行でも、有限な地球に無限な人間が生きられない以上、それは一定の人間を生存競争の敗者として排除することにつながる。それは「悪人だから」という。悪人は最初から悪人だったわけではない。
 みんなが善を目指して行っても、その達成できる善に量的差がどうしても生じてしまう。相対的に善の少ない者は悪とみなされて、社会から次第に疎外され、追い詰められてゆく。
 絶対的善は平和である。しかし、世の中の善の多くは勝利という相対的な善のなかで成立っている。相対的な善は、いつでも悪と入れ替わる可能性を持っている。
 だから、闇は常に生存競争の一発逆転の可能性として、弱者ほどそれに魅せられてゆくものだ。
 ただ、そこには限界がある。
 悪は相対的であるがゆえに、絶対的な善に変わることはない。ただ勝者と敗者が入れ替わるだけなのである。
 ノルウェーのブラックメタルの何が間違ったかといえば、多分その相対性に気が付かずに、単純に革命と勝利の幻想を信じてしまったからなのではないか。

8月3日

 1992年、ノルウェーのファントフトゥ・スターヴ教会が何ものかの放火によって消失した。12世紀に建立され、1883年に移築されたものの、往年の姿をとどめる歴史的にも価値のある建築物だった。
 犯人はマイナーなそれでいて伝説的なブラックメタルバンドのリーダー(というよりも一人バンド?)のヴァーグ・ヴァイカーネス(カウント・グリシュナック)だとされているが、本当に彼がやったのかどうかはよくわからない。「ひぐらしのなく頃に」の園崎家流のはったりだった可能性もある。
 これ以降、ノルウェーでは教会への放火が多発したが、もちろんこのような方法でキリスト教が廃れることはあろうはずもないことで、むしろ逆にそれまで宗教にほとんど興味のなかったような人たちからもたくさんの寄付が集り、ファントフトゥ・スターヴ教会もほどなく再建されたという。
 西洋人にとって教会は、日本の神社やお寺以上に生活に密着している。生れれば当たり前のように地元の教会で洗礼を受け、結婚式も葬式も当たり前のように教会で行なわれる。日頃キリスト教徒であることをほとんど意識してなくても、時に冒涜的な言葉を放ってはいても、自分が洗礼を受けたり結婚式を挙げた教会や親の葬式をやった教会がなくなったとなれば、やはり悲しいものだ。
 今朝ラジオで高瀬毅の「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(平凡社)のことが紹介されていた。もし日本の被爆のシンボルが広島の原爆ドームではなく、焼け落ちた浦上天主堂だったら、アメリカはもとより、世界中のクリスチャンに与える影響も大きかっただろう。
 原爆は日本人という黄色人種の異教徒の上に落とされたのではなく、まぎれもなくクリスチャンの上にも落とされていた、そう思うなら彼らの感情もまた違ったものになっていただろう。
 核兵器は宗教の違いや人種の違い、イデオロギーの違いなんかに関係なく、ただ機械的に無差別に、そこにいる人の命を奪うだけだ。だから良い核兵器なんかは存在しない。

7月31日

 自民党のマニフェストは、後発の利を生かして、大まかなところでは見事に民主党のマニフェストをぱくってくれた。
 ただ、政策が似たり寄ったりになってしまうと、余計に政策選択選挙から遠ざかってしまう。どっちがなっても大して変わらないという印象ばかりを強めてしまう。そうなるとやはり、自民党にお灸をすえるかどうかだけが争点になってしまいそうだ。
 40~60兆円の需要を創出も、本当にできたら凄いが、今ひとつ戦略がわからない。今までの麻生政権のやってきたことを見ると、結局家電と自動車の販売促進で、高度成長の夢よもう一度、という感じがしないでもない。
 こうしたものはいくら頑張っても買換え需要しか出てこないし、これでどうやって200万の雇用創出と可処分所得100万円増ができるのだろうか。
 日本は確かにその昔、家電と自動車で一代を為したが、第三の波と言われたITで革命で敗北し、失われた10年の辛酸をなめてきた。
 ITと聞いても、結局家電や自動車にマイコンを組み込むという発想から抜け出せず、パソコン、OS、ネットサービスなど、おいしいところはみんなアメリカに持っていかれてしまった。
 それでも相変わらず日本には家電と自動車しかないとばかりに、古い産業に依存しようとても、ますます世界の時代遅れになっていくだけだと思う。
 かといって、民主党にもそれ以上の戦略がないところが苦しい。

7月30日

 マルチン・ハイデッガーがなぜナチスに入党したかについて、いろいろなことが言われてきたが、これは天才の一つの弱点ではないかと思う。
 自分が天才だと思う人間は、頭は悪そうだが力のある人間を見つけると、ついついこいつを利用できないかと思ってしまうものだ。何しろ天才なのだから、理論で丸め込めば何とかなるなんて思ってしまうのだろう。
 ところが、力がある人間というのは、知識はなくても、論理が苦手でも、結構したたかだったりする。だからこそ力を手にすることができたのだ。だから、逆に天才の方が丸め込まれてしまうのだ。
 独裁者や宗教家がよく使う手口は、もっともらしい大きな理想を口走ることと、肝心なところは必ず曖昧などうとでも取れるような言い方をすることだ。
 実は何も考えてないのだ。誰か頭のいい人間が現われて答を出してくれるのを待っているのだ。もともとそんなに頭が良いわけではないから、自分で答は出せない。でも、凄いのはそれを自覚している、つまり「無知の知」を知っているということだ。
 自分で答を出せるなんて思ってはいない。だから、答を出してくれそうな人間を見つけ、それをとことん利用すればいい。それくらいの頭は回る。
 逆に、自分で天才だと思っている人間は、自分で思うほど世間から評価されてないというギャップに常に悩んでいる。だから、意外におだてられると弱かったりする。
 自分の能力を認めてくれるというだけで、ついつい尻尾振ってついてってしまい、自分なら独裁者や教祖様の言う理想をきちんと理論にし、実現できると思ってしまう。
 こうして、何でこんなに頭のいい人がと思うような人たちが、胡散臭いいかがわしい人間に協力してしまうのだ。
 プラトンはソクラテスを崇拝し、自分の哲学をソクラテスに捧げてしまったし、アリストテレスはアレクサンダー大王にいいように利用されてしまった。ハイデッガーもナチスに利用された。
 オウム真理教にもまた、たくさんのエリートたちの取り巻きがいた。ドクター中松も、おまえもか。

7月28日

 民主党のマニフェストは、やはりというか、ワンテンポずれている感じで、ここから新しい日本が始まるという感じはしない。
 財源については、まず無駄を削るところからというだけで、これもずいぶん前からいろいろな人が言ってきたことで新しさはない。
 もちろん、官僚が自分から「ここに無駄がありますよ」なんて言うわけないから、無駄がどこにあるか発見するだけでも、まず官僚との壮絶なバトルに勝利しなくてはならない。勝利が前提の財源という意味では、「曖昧」という印象はぬぐえない。
 まあ、何もやらないよりはましという点では、やってみる価値はある。問題は使い道だ。
 「こども手当」も三年前だったら画期的だったかもしれないが、実際には少子化は底を打っていて、これから子供の数が増えるかもしれないというときにこれをやっても、支出ばかりが増えてしまうのではないか。
 高校は無料化してもやめていく人があとを絶たないだろう。学校の魅力がないことのほうが問題なのでは。それよりは、高校に行きたくても行けない貧しい家庭を援助する方が大事だと思う。
 高速道路の無料化は、実際には渋滞を招いてしまい、「高速」ではなくなるのではないか。
 派遣労働を禁止すれば、正社員を首になった人のセーフティーネットがなくなるのではないか。
 今流行のグリーンニューディールはどこにも盛り込まれていず、その一方で原発の推進が掲げられている。
 何よりも、時代が大きく変わろうとしている時期なのに、日本の産業構造をどう変えていくのかが何も示されていない。

 まあ、今度の不景気は間違いなく長期化する。なぜなら、次の時代が見えないから、経済発展の方向が見つけられないからだ。
 逆に言えば、考える時間はたくさんある。これから10年、次の時代をじっくり考えようではないか。

7月27日

 最近気になるのが、80年代の後半から90年代の初頭にかけて、日本がバブルに沸き立つ頃、金融危機で失業率が6パーセント(この数字自体は、欧米の水準ではそれほど特別なものではないだろう)に達したノルウェーで誕生したブラックメタル。
 世界第三位の産油国で、福祉国家の優等生。それでいて民族意識が強く、EUに加盟していない。徴兵制もある。日本と正反対ともいえるこの国で、一体何が起きたのか。

7月26日

 今度の選挙は「政権選択選挙」と言われている。
 「政策選択選挙」と言い切れないところが何とも苦しい。
 安部、福田、麻生と政権がころころ変わる、その延長線上で民主党を巻き込んで鳩山政権になったとしても、何が変わるのかわからない。
 自民党は、すでに政権を手放す覚悟はできているとしても、民主党政権になって特に変わりばえがしなければ、すぐに政権が自民党に戻ってくることを期待できる。細川、羽田、村山時代がそうだったように。
 何が問題なのかというと、「現実」を考えれば、「現実路線」をとれば、結局自民党と同じになってしまうということだ。この「現実」という言葉が、戦後長いこと日本人を呪縛している。
 まあ、いくら皇国の八紘一宇の理想を掲げても、竹やりでは戦争に勝てないという現実を思い知らされたから、萎縮するのも無理はない。
 結局世界はアメリカ一極支配なのだから、外交がアメリカ追従になるのは「仕方ない」。
 賃金カットで労働時間延長も、不景気なのだから「仕方ない」。
 輸出依存経済も、日本には資源がないのだから「仕方ない」。
 この仕方ない、仕方ない、がいつまでも続く限り、この国はどうにも変わりようがない。
 今本当に考えなくてはいけないのは、どういう日本を作りたいのか、本当は何がしたかったのか、どういう生活を望んでいるのか、それを思い出すことだ。そこから「仕方」を見つけなければ、いつまでも仕方ない仕方ないといいながら、どんどんこの国は貧しく棲みづらくなってしまうことになる。
 民主党がもしヨーロッパ型の高福祉国家に少しでも近づけたいと思っていたなら、消費税で妥協してしまったあたりですでに敗北だ。消費税据え置きなら、これまで自民党がやってきた小さな政府を維持するしかない。
 仕方ない、No way for us.

7月23日

 何となくだが、アメリカだと一方の優勢が伝えられると地すべり的勝利になることが多く、日本だと逆にバランスをとろうとして反対に票が流れることが多いように思える。
 今回の自民惨敗報道も、別に民主党の政策が人気を集めているわけではなく、ふがいない自民党にお灸をすえようというだけのことなら、ちょっとやりすぎかと手心が加わる可能性が大きい。
 一番ありそうなのが、民主党政権があまりに現実のものになってくると、やはり飛ぶのが恐いということになって、自民は大幅に減っても、民主党も過半数には足りないというところで、バランスを取ってしまうというパターンだ。そうなると公明との連立政権か、場合によっては大連立か。どっちにしても日本の政治が大きく変わりそうな感じはしない。
 アンチ巨人は実は巨人ファンだといわれるように、アンチ自民も本当は自民党の支持者で、ただ、自民が増えすぎるといけないとうのでバランスを取る役に回っているだけにすぎない。そんな票をいくら集めて非自民政権が誕生しても、細川・羽田・村山の時代に戻るだけで、結局自民党の代わりをするだけだ。
 日本が本当の意味で政党を選択する時代が来るのか。何か、まだ程遠い気がする。結局は自民党の再生を促す起爆剤としての政権交代に終りそうだ。民主党にこの予想を裏切るだけの力があるのかどうか、それがこれから試される。

7月22日

 日食というと思い出すのは、小学校低学年の頃、珠算塾で下敷をかざして見た部分日蝕で、残念ながら、それ以降も部分日蝕は何度もあったのだろうけど、記憶がない。
 子供の頃は星に興味を持ち、毎月のように今はなき五島プラネタリウムに通った、そんな時期もあった。
 だが、いつしか空を見上げることもなくなっていた。
 こうして、今日も日本で皆既日食といわれても、それほど気分も盛り上がらぬまま、いつものように仕事をし、思えばつまらない大人になってしまったものだ。
 部分食とはいえ、雲の切れ間から三日月状の太陽を見た人は、ただ運が良いというだけでなく、子供の心を失わなかった人たちなのだろう。見ようという気持ちがなければ、偶然見上げた空にそれが見える確率はほとんどない。
 3年後の2012年5月21日月曜日朝7時34分、横浜でも金環食が見られるらしい。
 この時、空が晴れていたら、今度こそ見上げてみよう。

7月16日

 ガザの時もそうだったが、今度のウイグル自治区にしても、やはり欧米では基本的に反イスラムが根強いのか。チベットなら大騒ぎでウイグルなら知らん顔。中国の味方して、イスラムをやっつけろとでも言うのか。
 中国も本当はそれをわかっていたのだろう。いかにも漢民族が被害者であるかのような映像を公開して、民族意識をあおり、アルカイダが報復声明を出したという情報まで公開する。これではあたかも今度の暴動がアルカイダの陰謀だとでも言わんばかりだ。
 別に右翼の味方して中国脅威論を説くつもりはないが、クリスチャンでもムスリムでもない日本人だからこそ、今回の暴動は中立的に見なくてはいけないと思う。
 アメリカが北朝鮮に甘いのも、結局はチベットと同じで、イスラムではないからなのかもしれない。

7月13日

 『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』は2日間で234万本売れたということで、残っていたのは出荷量が多かったからだろう。心配する必要はなかった。
 ただ前作の『ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君』が最初の一週間で223万本だと言うが、PS2の場合一本で複数の人が遊べるのに対し、DSだと基本的に一人だから、プレイ人数は前回より少ないと見てもいいのかもしれない。
 それと、細かく言えば、VIIIは8800円、IXは5695円だとすると、売り上げもその分落ちるか。
 それに、ここまで内容に関して酷評されたのも、ただ期待が大きかったからというだけではないだろう。
 多分、堀井さんは偉くなってしまったのではないか。
 サンディーというギャルキャラもだいぶ叩かれているが、これは堀井さんがもっとも力を入れて作った思い入れのあるキャラで、確かに開発の始まった5年前なら、まだガングロのギャルもそんなに古くはなかったのかもしれないが、それから時代もずいぶん変わったし、修正がきかなかったというのは、堀井さんにものを言える人がいなかったのでは。
 ハードをDSにした時点で、大人になった古くからのファンのためではなく、新しい子供のファンとつかもうという方向で開発したかったからだという、そのコンセプトはわからないでもない。
 ただ、子供をターゲットにと考えた時、すでに高齢化したスタッフに、本当に子供が見えていたのだろうか。
 むしろ大人の立場から、教育目的ということを意識しすぎてしまったのではないか。
 セーブが一つしか取れない。なるほど、人生というのはリセットがきかないんだという教育的指導なのかもしれない。でもゲームは現実ではないんだ。
 主人公は天使だが、組織の一員として色々とつまらない仕事もしなくてはならない。なるほど、それも人生だろう。でもゲームは現実ではないんだ。
 ゲームと現実は違う。でもそれが本当にわかってないのは、むしろ大人の方なのではないか。

7月11日

 借りたCDを返しに行くために渋谷へ行った。
 午後だったけど、ドラクエⅨがどこでも普通に売っていたし、店によっては呼び込みまでやっていた。よくわからないが、これって早朝に行列ができた以上に大きなニュースではないか。
 この不景気のなかで、消費の牽引役として期待されていたドラクエⅨが、予想外に売れてなかったしたら‥
 この頃のマスコミ報道は大本営発表のようなもので、売れているものばかりを強調して、何とか不景気のなかで明るく盛り上げたいと思っているのだろうけど、もっと現実をちゃんと伝えるべきではないか。
 海ホタルの人出を報道するのはいいけど、閑古鳥の鳴いているフェリー乗り場のことは言わないし、プリウスの快走は報道しても、その他の車が売れてないことにはあまり触れていないように思える。
 ドラクエⅨはやって見たいけど、俺自身も今回は見送った。
 DSを一人一個そろえないといけないし、ソフトも一人一個買わなくてはいけない。一人者ならともかく、家族で遊ぶには、これはかなりの負担になる。
 下手すればPS3とそのソフトを勝った方が安くつく。
 俺も8月発売の「おおかみかくし」のことを考えて、PSPを確保し、スターオーシャン1を1500円で買ったところなので、今DSを買う余裕はない。
 ドラクエⅨはゲームとしてはどうかわからないが、ハードの選択など戦略的には失敗だったのではないか。
 映画館の前では「ごくせん」の呼び込みもやっていたし、不景気はそんなに隠せるものではない。
 実際に収入が減っているのだから、いくらムードだけ煽っても先立つものがなくては消費は回復しないと思う。
 そういう自分も、タワレコに行って試聴盤でsaul拳(サルパンチ)がちょっとRADっぽくて面白いかなと思ったけど、結局家に帰ってitunesを調べている。

7月5日

 生存競争は、多くの動物では縄張りや食料や雌をめぐる一対一の勝負だが、人間の場合は集団からの排除のゲームとなってしまった。
 そのため、社会的な排除を宣告するような言葉は、ほとんど死の宣告のような大きな意味を持ち、言われた者に恐怖を刻印する。いわば心の傷となる。
 身体的特徴やその人の特殊な好みの傾向、能力などを口汚く罵る言葉は、それゆえ社会的にタブーとなる。
 それは、排除の意志を強く込めて用いられてきたという言葉の履歴が問題なのであって、言葉そのものに罪はない。
 たとえば、「友だち」という言葉は通常は良い言葉だ。だが、差別され、いじめを受けている人間を指さしながら、「お前もあの友だちか!!」というふうに使えば、暗にお前も同じ目にあわせるぞという脅しの言葉になる。「友だち」も人を傷つける汚らしい言葉になる。
 TVアニメ版の「うみねこのなく頃に」では、「下女」「借り腹」「端女」 の三つの言葉が関東地区ではピーという音で消されていた。世間では確かにこうした言葉がタブーとされる汚い言葉にあたるのだろう。
 ただ、この物語の世界でキーワードになるのは、むしろ「家具」という言葉だ。「使用人は家具であれ」という右代宮家の家訓から、しばしば「家具の分際で」という風に、「家具」が人間以下のものを表す言葉として用いられる。
 一般世間では、もちろん「家具」という言葉がそのような意味で用いられることがないので、放送コードには掛からない。もし「家具」が差別語としてピーという音で消されなくてはならないなら、この物語そのものが成立しなくなる。
 芸術作品のなかで、差別語の与える心の痛みを表現しようとする時、一般に用いられている差別語をそのまま用いれば、放送できなかったり出版できなかったりという事態が生じてしまう。
 その意味で、特定の物語世界だけで差別語として機能する言葉を作るというのは、なかなか賢いやり方だ。

7月4日

 久しぶりにmyspeceでたどる世界メタル紀行を。
 今回は中国。メタルのことはそのまま金属というようだ。

  まずは、The Barque Of Dante、中国語では「但丁之舟」 。ゴシックやらバイキングやらシンフォニックやら何だか北欧メタルの色々な要素がごちゃ混ぜになっている。結構ポップで、CDも一部で日本に輸入されているようだ。四川のソナタ?
 次はUnregenerate Blood、中国語では「不复之血」。北京の硬核系。
 次にDie From Sorrow「郁乐队」。かなりチルボドの影響を受けているようだが、死亡金属というわりには音が軽くてやたら明るい。明るいチルボド。
 窒息(suffocated)はなかなかの硬核で、日本にもありそうな今時の激流金属(スラッシュメタルをこう言うようだ)。
 さて、不复之血にもどって、今度はdEADdREAMへ。これはDie From Sorrowよりは死亡金属っぽい。朋克と書いてあったので何かと思ったら、どうやらこれでパンクと読むようだ。
 地藏冥王は北京のバンドで、北欧のフォークメタルの要素も取り入れ、曲の構成も複雑で、ちょっとスウェーデンのMÅNEGARM(モーネガルム)を髣髴させる。ただ、デスボイスの方はいいが、ハイトーン担当がちょっと声が軟弱。
  SAN SHA「散杀乐队」は西安の死亡金属。中国でも各地にこうした死亡金属の乐队があるようだ。

 乐队:バンド、主唱:ボーカル、吉他:ギター、贝斯:ベース、鼓手:ドラムス。
 摇滚:ロック、流行:ポップ、另类:オルタナ、工业:インダストリアル、前卫:プログレ、迷幻:サイケ、能量金属:パワメタ、说唱:ラップ、独立:インディーズ。

7月3日

 テレビでエヴァンをやっていて、何となく見てたが、やはりこれは虐待と無視による心の傷がテーマなのかな。
 親に愛されなかった子供が、親の期待にこたえれば愛されるかもしれないという淡い期待から、自分の望みもしない人生の成功に向かってひた走る。よくあることだ。
 そして、運良く本当に成功してしまうと、虐待された心の痛みを忘れ、親が厳しく育ててくれたから今の俺があるのだと勘違いして、子供に同じことを繰り返す。傷の連鎖。
 痛みの記憶を取り戻すことで、満たされることのない愛のために走り続ける馬鹿らしさに気付き、そこから別の人生を始める。それが最終的な答になる。それが人類補完計画?
 だとしたら、もろにアリス・ミラーだ。

6月30日

 スターオーシャン1(PSP)をスタートした。
 まずはPSPの充電。そしたら、バージョンアップの画面が出たが、充電の不足で先へ進めない。
 始めるまでに2時間くらいかかった。
 小さいけどきれいな画面だ。

6月28日

 漫画版「ひぐらしのなく頃に」祭囃し編の2巻を読んだ。
 相変わらず泣かせる話だが、ちょっと引っかかったのは、入江の父親のエピソードだ。

 入江の父は土建職人で、角材で頭を強打して、そのあと次第に暴力性が出てきたという。
 これを「脳器質性精神障害」だと言っているが、実際にそんなふうに凶暴になる例があるのだろうか。
 フィアネス・ゲージの例でも、汚い言葉を使うものの、実際に暴力的になったのかどうかは定かではない。前頭葉の損傷なら、むしろ感情がなくなる。そのため計画性・創造性などが損なわれる。動機を失うからだ。
 むしろ、意図的にそれを行なったのが、入江が後に行なうことになる「精神外科」だった。
 脳器質性精神障害で果たして人は暴力的になるかどうかという問題は、同時にウィルス性疾患で同様のことが起こるのかどうかの問題にもなる。つまり、あの病気が実際にありうるのかどうかという問題にも。

 暴力性は誰しも持っている。感情が高ぶれば誰でも暴力的になる。
 それは何かをなしとげるための一つの選択肢として、いつでも使用可能だからこそ、人は戦争を行なうことができる。
 そこには脳器質性精神障害もウィルス性疾患も必要ない。正常な人間が歴史に残る数々の虐殺事件を引き起こしたのである。

フィアネス・P・ゲージ

(『生存する脳』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社)

 

 1848年夏、その事件は起きた。
 場所はアメリカ北東部ニューイングランド。
 当時、フィアネス・P・ゲージは25歳。

 「ゲージはラットランド・アンド・バーリントン鉄道で働いていて、大勢の男たちの一団──ヴァーモント州の鉄道拡張のために新しいレールを敷くのを仕事としている労働者集団──をとりまとめるのが彼の任務である。この二週間、男たちは骨を折りながらゆっくりとキャヴェンディッシュの町に向かって進んできた。彼らはいま、ブラック・リバーの土手にさしかかっている
 容易ならざる仕事である。どちらを向いても平坦なところはなく、表面は硬い積層岩で覆われている。作戦は急傾斜地のたびにくねくねと迂回するのではなく、折々岩石を爆破しながら、より直線的でより平坦な道をつくること。これらいっさいの仕事を監督するのがゲージの役目であり、またあらゆる点でゲージはそれにふさわしい人間である。」(『生存する脳』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.40)

 この日も岩を爆破する作業が行なわれていた。
 岩に穴を開け、そこに火薬を充填し、導火線を挿し込み、砂をかけてから鉄棒で叩いて、砂を穴に埋め込む。そして導火線に火をつけて岩を爆破させる作業だった。
 ところが、この日ゲージは、手伝いの男に火薬を砂で覆うように命じたあと、背後から声をかけられて注意をそがれてしまった。
 そして、砂が充填されたのを確認せずに、鉄棒で直に火薬を叩いてしまった。
 結果、爆発が起こった。

 「鉄棒がゲージの左の頬にめり込み、頭蓋の底部に突き刺さり、大脳の前部を貫通し、上部を高速で突き抜ける。30メートル以上も離れたところに、血と脳みそにまみれた鉄棒が落ちている。フィアネス・ゲージは地面に叩きつけられている。午後の白日の中、ゲージは呆然として声もない。が、意識はある。」(『生存する脳』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.41~42)

 町の外科医ジョン・ハーロウが駆けつけたのは爆発から1時間後だった。
 この間もゲージの意識ははっきりしていて、どんな風に怪我をしたかを見物人に話していた。
 ハーロウはきずぐちが感染症になるのを適切に防ぎ、ゲージがもともと強靭な体力の持ち主だったこともあって、傷は2ヶ月足らずのうちに治癒した。
 しかし、そこからゲージの転落は始まった。
 この事件の正確なところは事故後20年目にハーロウが書き残した報告からしかわからない。ただ、それは信用するに足る文献で、豊富な事実と最小限の解釈が記されていた。
 ゲージは左目の視力を失ったことを除けば、順調に回復した。言葉にもこれといった問題はなかった。  だが、ハーロウによれば、「知的能力と動物的傾向とのつりあい、ないしはバランス」が破壊されていた。
 「気まぐれで、無礼で、以前にそんな習慣はなかったのに、ときおりひどく罰当たりな行為に耽り、同僚たちにはほとんど敬意を払わず、自分の願望に反する束縛や忠告にいらだち、ときおりどうしようもないほど頑固になったかと思うと、移り気で、優柔不断で、将来の行動をあれこれ考えはするが、段取りをとるとすぐやめてしまう‥‥‥ゲージの知的な能力と表現の中には子供がいて、同時に彼には強い男の動物的感情がある。」(『生存する脳』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.46) とハーロウは記している。
 これを読むと、私なんぞは、何か自分のことを言われているみたいに思ってしまうが、それはそれとして置いといて、ここで注意しなくてはいけないのは、前頭葉の損傷では感情がなくなることが多いのに対し、ゲージは激しい感情と男の衝動をもち続けていたという点で、むしろ特異な例だということだろう。

 「こうした新しい人格的特徴は、事故前にフィアネス・ゲージがもっていた『穏健な傾向』や『エネルギッシュな性格』とは、際立った対照をなしていた。かつてゲージは『バランスのとれた心をもち、彼を知る者からは、計画した行動をひじょうに精力的にしかも粘り強くこなす、敏腕で頭の切れる仕事人として尊敬されていた』。仕事でも、時代状況で見ても、ゲージが成功者だったことはまちがいない。
 しかし、あまりに根本的に変化していたので、友人も知人もほとんど彼をゲージと認識できないほどだった。彼らは『ゲージはもはやゲージではない』と悲しげに言った。あまりにも人間がちがっていたので、ゲージが仕事に戻ってほどなく、会社は彼を解雇せざるを得なかった。会社は『彼の心の変わりようがあまりにも著しいので、元の仕事に就かせるわけにはいかないと考えた』のである。問題は身体的能力や技量の低下ではなかった。あくまでゲージの新しい人格だった。」(『生存する脳─心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.47)

 その後、ゲージは現場監督を首になり、養馬場の仕事をしたが長く続かず、転々としながらついにはサーカスの見世物となった。
 ゲージは自分の傷と鉄棒を自慢げに見せることで、ニューヨークのバーナムズ・ミュージアムの呼び物となった。
 だが、その後も色々な職業を点々とし、晩年にはサンフランシスコに行き、1861年5月21日ひどい痙攣の発作によって死んだ。癲癇重積状態だったと思われる。
 5年後、ハーロウはゲージの妹にゲージの墓を掘り起こして、事件の記録としてゲージの頭蓋を保存することを申し出た。こうしてゲージの頭蓋と鉄棒は、ハーバード大学医学部ウォーレン・メディカル。ミュージアムに展示されることになった。
 それからおよそ120年後、この本の著者の妻でもあるハナ・ダマシオは、鉄棒の経路を脳の三次元画像を使ってシミュレーションし、その損傷部位を突きとめた。

 「今日われわれは、脳の一部は失われたものの、鉄棒は運動機能や言語機能に必要な脳の領域には触れなかった、とするデイヴィット・フェリアーの主張が正しかったことを裏づけることができる。われわれが自身をもって言えることは、損傷は右半球よりも左半球がひどく、また前頭領域全体としては後方よりも前方がひどいということ。事故のダメージで両半球の腹側と内側の前頭前皮質は痛んでいるが、前頭前皮質の外側部には及んでいない。」(『生存する脳─心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.76~78)

 ゲージがダメージを受けたのは「前頭前・腹内側領域」だった。
 外側部がダメージを受けていれば、「注意力を調節したり、計算を行なったり、刺激から刺激へ適切に移行する能力が阻害されるが、そこは無傷だった。」(『生存する脳─心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳、2000、講談社p.78)

 エリオット(仮名)は脳腫瘍の除去手術によって、前頭葉組織を失った。
 エリオットもゲージと似た人格の変化が生じた。
 ただ、違うのは、ゲージのような激しい感情はなく、冒涜的な言葉を使うこともなかった。むしろ感情を失ったといってもよかった。
 これが脳の損傷箇所のわずかな違いによるのか、別の要因によるものかはわかっていない。
 その他の前頭葉損傷の症例でも、感情を失い、性的関心も失われ、想像力と創造性を欠いた紋切り型の行動が多くなる傾向がある。
 もう一つの例は1936年にポルトガルの神経学者エガス・モニスの始めた前頭前白質切断という外科的手法による治療によるもので、この手法は「ロボトミー」として知られている。
 この手術もまた、感情を弱め、衝動脅迫や妄想を抑えたが、創造性も決断力も失われた。
 こうしてみると、ゲージの例は、前頭葉を損傷しながらも、感情や性衝動が完全に失われなかった、きわめて特殊な例といえるのかもしれない。
 そうでなければ、記述したハーロウの側に偏見があったのか。
 たとえば、口汚い言葉を口にするということだけで、実際には暴力的な行動はなかったのではなかったか
 言葉遣いだけで粗暴になったかのように判断されてしまったのではなかったか。
 感情が失われたなら、その言葉が人の感情を害するということに気づけないのではないのか。

 感情や衝動が失われれば、物事を達成しようとする力強い意欲も失われる。そこから計画性や創造性の欠如、移り気、といったことが現われるのは想像できる。
 いわゆる、どうすれば感情や衝動をきちんと満たすことができるかという計算をしなくなる。
 つまり、人間の理性というのは、感情を支配するために外から与えられたものではなく、あくまで感情によって生じた目標を実現するために進化したと考えれば、感情を失えば理性も失うということは納得できる。
 ところが、古典的な霊肉二元論では、理性は感情と対立するかのように扱われる。だから理性を失えば粗暴になると思いがちになる。
 実際はそうではなかった。  理性の喪失はあくまでそれを突き動かす感情や情動の喪失なのである。
 前頭前野を損傷した人間は、むしろ一般的にはおとなしくなる。いわゆるロボトミーの手術がそれだからだ。

6月27日

 初台WALLへモノノフを見に行った。 
 本当に鎧を着けて登場。暑そうだった。 
 ちょっと思い出したのは、真夏の炎天下の横浜球場で鎧を着てたスペクトラムがいたということだが、今日の場合一応冷房は聞いてたから、あそこまでではなかっただろう。 
 バイキングメタルに対抗してるのか、サムライメタルという発想が面白い。英雄崇拝ではなく、あえて敗者の立場に立った落ち武者スラッシュメタルという発想もいい。 
 ライブも結構盛り上がった。ヘッドバンギングはさながら連獅子だ。 
 CDを買おうと思ったが、なかなか物販のところに現われない。 
 次のバンドは音楽的には何が何だかわからなかったが、フロアの方はダイビングやったりしてやけに盛り上がっていたが、こういうのは後ろから見てた方がいいと思った。 
 そのバンドの終りかけた頃、ようやく物販に現われた。サムライとは思えない腰の低さで、CDも2000円でも買おうと思っていたが、特別価格で500円で、無料のデモCDもついてきては、まことにかたじけない。 
 あのキャラを生かして、聖飢魔Ⅱとまではいかなくても、カブキロックスは超えてほしい。

6月24日

 テレビを何となく見ていたら、おからの話をしていたが、そのときすぐ思ったのだが、無理して食わなくてもバイオエタノールにすればいいじゃないか!
 念のためGoogleで調べた見たら、すでに静岡でやっているとのこと。
 バイオエタノールはセルロースから作れるので、藁や籾やパルプからも作れるというので、こういう研究は今後どんどん進むことだろう。ゴミの山がエネルギー資源に生まれ変わるならこんないい話はない。
 物づくりが行き詰っている今だからこそ、日本を再び資源大国にするあらゆる方法を試してみる価値がある。
 去年、あまってカビの生えた輸入米が酒の醸造に使われたということで問題になってたけど、カビを生やすくらいならバイオエタノールに、と思ったのは俺だけだろうか。

6月20日

 新聞では海外での俳句の人気ということが書かれていたが、肝心なお膝元である日本は、すっかり高齢者ばかりの慰み物になっている。やはりネックになっているのは、写生説と歳時記だろう。
 実際、俳句は写生のしゃの字も知らなくても作れる。十七季なんてものは俺だって見たこともないし、江戸時代の歳時記は研究用に持っているが、近代の歳時記は一切買わないことにしている。
 本当に俳句に必要なのはメタファー力だし、花や月が一般に何を意味するのか、どういう連想を誘うのかさえわかっていれば十分なのである。そんなのは、歳時記読むよりもJ-popを聞いてた方が身につく。
 言葉遊びも、やっちゃいけないと思っている人がいるが、そんな規則は下らない。何か俳句を不自由に不自由にすることで、結局うるさいこと言うことで権威を維持しようとする人がいるから、俳句はダメなのだ。もっと何でもありの俳句にすれば、俳句の人気は必ず日本でも回復する。

 見なくても雨が降ってる五月雨
 心まで五月雨模様さっきまで

6月16日

 人間の思考というのは、結局のところ身体化された基礎概念と、そのメタファーとしての転用から成立っている。
 だから、どんな高度な科学でも哲学でも、それを理解するというのは、一見抽象的な論理や数式の背後に隠されたメタファーを理解することに他ならない。
 ハイデッガーの哲学は、森の木を切り倒せば光が差し込んでくるというイメージが理解できれば、ほぼわかったようなものだ。
 物理学も、原子核の周りを回る電子は太陽系の比喩だし、ビッグバンは文字通り爆弾や風船の比喩だし、ひも理論はよくわからないが、やはり紐の比喩なのだろう。
 もちろん、文学も、基本的にはメタファーを解読できた時、理解したということになる。古典を理解することは、その時代の通俗的にコード化されたメタファーを読み解くことなのである。たとえば、芭蕉の旅を理解するということは、今日の観光旅行でもなければ、何か一つの目的に向かってゆくような旅でもなく、中世以来「旅」の本意とされた、都を追放されさまよい歩く流刑人のイメージでなければならない。
 連句はあるメタファーを別のメタファーに転用してゆく面白さが命であって、したがって未だにメタファーを否定した正岡子規の涎をなめているような人たちには、永久に連句など不可能なのだ。
 人間は複数のメタファーを次々と重ね合わせてゆくことで、高度なイマジネーションの世界を作り上げる。これが、不可解なこの世界を無数の仮説で満たし、その中で繰り返し検証され生き残ったものが科学や哲学や文学となる。
 新しい時代を切り開くには、既存のイメージにとらわれずに、次から次へと新しいメタファーを生み出してゆく「メタファー力」が不可欠だ。
 メタファー力を鍛えるには、とにかく新奇で突飛なイメージを受入れる感性をつくり上げることだ。漫画、アニメ、ラノベ、TVゲーム、などのその役に立つし、お笑い芸もスポーツも芸術一般も想像力にあふれている。こういうものを楽しみ、熱狂する普通の感性こそが大事だ。
 頭が固くなったら、もはや古いメタファーを守る意外に何もできなくなる。そういう人間は、意図しなくても不景気を長引かせ、日本を貧しくし、最後はこの国を再び悲惨な戦争に導いてしまうのだ。

6月14日

 三ツ沢へ横浜FC=ファジアーノ岡山戦を見に行った。
 どんより曇った天気で、雨が降ったら行かないつもりだったが、何とか持ってくれた。
 ただ、相手がびりから二番目の岡山ということで、そろそろホーム連敗がストップするのではないかと、期待はあった。
 前半はいつものFCのサッカーで、ボールがなかなか前へ出ず、無駄なサイドチェンジを繰り返し、ゴール前にクロスを入れるも、誰にも合わない。それに、相手の早いカウンターで何度もヒヤッとする場面が。GKの大久保の好セーブもあったが、相手がはずしてくれて結構助かっていた。
 後半もしばらくいらいらする展開で、ゴール前でなかなかシュートが撃てない。難波は絶好の位置でパスを受けたのに空振りするし、打ち直したら今度は力が入らずキーパーに取られた。
 後半25分頃、カズと交替で須藤が入って、やや動きがよくなったか。後半30分ごろ、八角のシュートはディフェンダーに当たりコースが変わってのラッキーなゴールとなった。やはりシュートを打たなくてはいけない。打てばこういうことも起こる。
 その後も何度も危ない場面はあったが、何とか守りきった。最後の15分くらいはサポーターの大合唱で、久々に盛り上がった。
 5分間の長いロスタイムが終わり、終にホーム連敗脱出。しかも最下位脱出。
 個人的にも2008年3月16日以来の勝利だった。その前が2006年の8月6日。

6月11日

 昨日からレイコフとジョンソンの『肉中の哲学』を読み始めている。その最初の三行。

 「心は本来、身体化されている。
 思考はたいてい無意識のものである。
 抽象的概念は大幅にメタファー的なものである。」(p.12)

 これは別に、理性や超越や自由は存在しないという主張ではない。もしそうなら、古典的な人間機械論という種のものだが、今のこうした考え方は、むしろ理性や超越や自由も進化の産物として、その存在を否定しているわけではない。
 つまり、われわれが自由を感じたり、あるいはある種の人が神秘体験していることを否定する理由はない。ただその説明の仕方で、一方では脳が引き起こすと考え、一方では霊が引き起こすと考える、二つの説が並行しているにすぎない。

 ここで思い出すのが、竜騎士07さんの『うみねこのなく頃に Episode 3』に出てきた、戦人とワルギリアのテレビの原理をめぐる議論だ。
 戦人は「確か、電子が蛍光物質にぶつかる時、発光してどうたらこうたら‥」と本で読んだと言い、ワルギリアはそれは偽書で、「ブラウン管の中に、グレムリンという小人が閉じ込められていて、魔法で仕事をしてくれているから」だという。
 実際にテレビを分解して、ブラウン管の中身を知らべれば、どっちが正しいか決着がつく。
 しかし、今ここに分解するテレビがなければ、まだどちらの説も証明されていない。
 つまり二つの説は等価なものとして並存する。
 人間の理性についても、それが脳によるという説と、それが霊によるという説と、二つの説が並存してきた。
 しかし、脳科学が発展し、脳の中身が明らかになれば、どうちらかの説は消えることとなる。

 つまり、この論争は、魔女かトリックかの問題とよく似ている。きっと、霊による説(哲学)は愛がなければ見えないのだろう。

5月31日

 いつのまにか、しまむら系列シャンブルのさくたろ風ぬいぐるみがモデルチェンジをして復活していた。
 「抱き枕」ということで、大きな特徴だったバナナ状に曲がった胴体が真直ぐになったうえ、一回り大きくなって、だいぶ印象が違っていた。
 ただ、色は黄色くなり、顔のパーツは上に寄っていて、鼻の下に筋が入り、首のところのたてがみがなくなったという点では、「さくたろ」に近付いていた。(ただし、ほっぺたにピンクの丸が入っていた)。
 そのほかに、同じシリーズで顔だけのクッション上のものと、筒型の枕上のもの(これは首のところにもたてがみがある)が加えられていて、三種類になっていた。
 おそらく、前のモデルは去年のうちにすでに終売となっていて、今年の始めに福袋に入っていたのが最後の在庫だったのだろう。そのおかげでヤフオクで1万円の値をつけるほど希少なものとなった。そのことで問い合わせが殺到し、かといって前のモデルの製造再開もできず、モデルチェンジとなったのだろう。
 だからといって、「さくたろ」と同じにするわけにもいかず、顔を「さくたろ」に似せて胴体を違えるところで妥協したか。

5月30日

 ふと思ったのだが、石油や金属の鉱床が地底の微生物によるものだというトーマス・ゴールドの説の真偽はともかくとしても、こうした微生物を遺伝子組み換えで作れないものだろうか。
 それができれば実現できれば、廃棄物からふたたび鉱床を作り上げる、廃棄物をある場所に放り込んでおくだけで人工鉱山ができるという、究極の資源循環型社会が実現できる。
 ところで、石油を作るといわれたHD‐1というバクテリアは、その後どうなったのだろうか。メタンハイドレートに含まれる炭素と水素から石油を合成するというなら、そのメタンハイドレートを人工的に作れないのだろうか。ゴミの山→メタンガス→メタンハイドレート→石油という具合に。
 だが、それだとメタンガスを直接使うほうが早いか?

5月19日

 日本は新型インフルエンザウィルスにとって天国といっていい。
 何しろ日本の職場は風邪引いたくらいでは休めない。38度の熱があっても、みんな満員電車に乗って通勤し、通常通りの仕事を行なう。
 しかも、毎日実質12時間以上働いていて、医者に行く暇なんてない。だから、ウィルスの存在が発覚することもない。
 それに比べると、高校生は風邪を引いたら学校を休む。風邪がなかなか治らなければ、親も心配して医者に行かせる。だから、高校生の感染者ばかりが表面に現われる。
 今回は毒性の弱いタイプだったから良かったものの、毒性の強いインフルエンザが入ってきたら大変なことになる。ただでさえ医者が不足しているし、日本そのものが隔離病棟になって、国境なき医師団の世話にならなくてはならないだろう。
 毒性が弱いから、スポーツの試合やコンサートや祭りやイベントが中止になっても、過剰反応だと笑っていられるが、これは強毒性インフルエンザが入ってきた時のシミュレーションと受け止めた方がいいかもしれない。
 ところで、人が大勢集るようなイベントがいけないというなら、選挙もできなくなるから、超法規的措置で麻生政権続投になったりして。

5月18日

 景気対策の切り札として注目されているグリーンニューディールも、夏休みの宿題のようなもので、今後のわれわれの消費生活を一変させるというものではない。
 むしろ、これまでの経済成長がもたらしたマイナスの面を、遅ればせながら一つ一つ片付けようというもので、さんざん遊んだあと、そろそろ溜まり溜まった宿題を片付けなくてはいけなくなっただけだ。
 景気が停滞している時は、確かにチャンスだ。しかし、環境問題にしても、根本的な解決には新技術を必要としている。そこから次の時代が始まる可能性も十分にある。そこを間違えて、単に生産を減らし、昔に戻せば地球はきれいになるという方向に行ってしまうと、貧しかった時代に逆戻りすることになる。貧困は人の心を荒廃させ、戦争を引き起こす。
 日本の「物づくり」は最先端技術分野か高度な職人芸に絞り込み、それ以外は中国に譲った方がいい。価格競争で中国やインドやそのほかの新興国に対抗しようとすれば、さらなる長時間労働と賃金カットが必要になる。それではまちがいなく日本版「不満の冬」が来る。日本人の高度な創造性は、次の時代に生かさなくてはならない。
 オイルショックのときは、日本はいち早く低燃費車を作って欧米に攻勢をかけた。だが、近いうちにもし中国やインドが100万円程度のハイブリットカーを作って輸出攻勢をかけてきたら、トヨタやホンダもビッグスリーの仲間入りだ。
 量子コンピューターについては、まだ実現にはほど遠く、一部には超球理論の立場からその効果を疑問視する向きもある。ただ、懐疑は理論的な基礎研究には不可欠なものだが、あくまでそれはひとつの仮説であって、可能性が否定されたわけではない。可能性のあるものには賭けてみる価値がある。
 スーパーコンピューターから撤退するのであれば、なおさら量子コンピューターで一発逆転を狙ってもいいのではないか。

5月16日

 いったい今のこの超ど級のパねー不景気はなぜ起きたのだろうか。
 今回はそれを考えてみよう。

 ケインズは人間の欲望の無限を前提に経済学理論を打ち立てた。しかし、個人の欲望は無限であっても、実際には人間の欲望は社会的に抑制される。
 それには理由がある。つまり実際の生産力の向上分を越えて豊かさを求めれば、必ず他人を犠牲にすることになり、社会に不平等と過酷な生存競争を生み出す。だから、時代を問わず、洋の東西を問わず、道徳の基本は禁欲にある。
 たとえば、男の女に対する欲望が無限だからといて、一人で10人の妻を持つことを認めれば、9人の男があぶれることになる。勝者は一人、敗者は9人、敗者の方が圧倒的な多数派になるため、よっぽど独裁的な権力を持たない限り、多数派の意見に屈することになる。
 欲望の無制限な追求は不可能であり、実際にはある程度の社会的常識の範囲内でしか満たすことができない。だから、経済成長は社会常識の変化を伴わなければ実現できない。つまり、社会全体が共通の豊かさへの欲求を持つときのみ、経済成長は可能になる。
 実際、画期的な新技術も魅力的な新商品も、必ずといっていいほど最初は「そんなもの必要ないじゃないか」と言われる。新技術や新製品が定着するには、ある程度の社会的コンセンサスを必要とする。
 つまり、急激な経済成長は、社会全体が一定の未来を共有し、社会全体がそれに向かって邁進するときに限られる。欧米では50年代、日本では60年代に起きたモータリゼーションとエレクトリゼーションによる消費革命は、社会全体が科学の輝ける未来を信じていたからこそできた。
 それは90年代に起きた、IT革命にしても同じだった。誰もがコンピューターによって時代が変わっていくことを確信していた。
 しかし、それは必ず行き詰る。なぜなら、夢は実現されてしまうからだ。実現されれば、発展の方向が見失われる。そして、それと同時に不安が生じる。発展が行き詰まり、幻想が消えれば、マイナスの側面がいやおうなしに目立ってしまう。それが引き起こした不平等、環境破壊、道徳の軽視、それは未来の豊かさと引きかえだからこそ、ある程度眼をつぶることができた。
 オイルショックは、欧米でモータリゼーションとエレクトリゼーションが一通り実現したころに起きた。そして、今回のリーマンショックはIT革命が一通り終わったところで起きた。
 オイルショックのとき日本がいち早く不景気から立ち直ることができたのは、モータリゼーションとエレクトリゼーションが未完成で、まだ発展の余地を残していたからだ。だが、今度はそうは行かない。あの時の日本のポジションは、今では中国だ。
 不景気から本当の意味で立ち直るには、社会全体の新しい未来を作り出す必要がある。まだ普及してない新技術による、次なる消費革命が起こらないなら、経済はいつまでも停滞し続ける。こういう時代だからこそ、われわれは未来を夢見なくてはいけない。
 今の消費構造、今の生産体制そのままで、ただお金をばらまいて贅沢を煽るような政策は、経済格差を助長し、生存競争を過酷にするだけだ。それは一握りの勝者のみの活力にしかならず、大多数の負け組みの労働意欲を奪うだけで、いいことは何もない。今の日本はロンドン・パンクのあの時代に近付いている。

5月2日

 500円引きのチラシも入っていたことだし、ということでホーム開幕戦以来の三ツ沢だったが‥
 とにかく、横浜FC=徳島ヴォルティス戦を見に行った。
 何やらゆるキャラがたくさん来ていて、前にも(2006年4月29日)こういう企画があったことを思い出した。たね丸もまた来ていた。しかし、プリキャラ?何それ?
 それはともかく、試合開始後、サイドからの攻撃を中心にボールを支配し、優勢に攻めてはいるものの、クロスボールに合わせる人が誰もいない。こうして前半終了間際まで、シュートらしいシュートは二本だけという状態で、結局カウンターであっさり失点。
 後半も最初は優勢で、三浦アツのフリーキックで同点に追いついたが、その後前半はスムーズだった左サイドへのパスでミス連続。逆光のせいもあるのかと思ったが、ホームグラウンドなのだからそれくらいはわかっているはずだ。それに、前半からFCの選手だけが肝心なところでスリップする。何か三ツ沢のピッチにまで嫌われてる感じだ。
 終了間際、コーナーキックの連続で、今日こそ勝って帰れるかと応援にも力が入ったが、ニアにもファーにも選手がいない。みんな真ん中に固まっていて、蹴ったボールは無駄にゴール前を横切ってゆくだけ。そして、またしても終了間際にカウンターで失点。駄目だ、全然駄目だ。ブーイングで選手を迎えようなどという気力も失せて、三ツ沢を後にした。
 ところで話は変わるが、今まで謎だった九羽鳥庵のモデルが、この前ネットを見ていてようやく判明した。那須ステンドグラス美術館だった。いつか行ってみたい。また、メタ世界に出てくる椅子が円形に並んだ部屋は、小笠原伯爵邸のシガールームだということがわかった。

4月18日

 昨日見つけた本に『ヴァイキング時代』(角谷英則、2006、京都大学出版会)という本があって、面白いと思ったのは、第二章「移動の時代─銀がたどった道というのが、どこかで見たことのあるもので、フィンランドのバイキングメタル・バンドTURISASの"The varangian way"のジャケットの後ろに書いてある地図そのものだったことだ。
 8世紀後半の遺跡からスカンジナビアでイスラム銀貨が出土されるようになり、10世紀になるとかなりの量になる。そして、そのイスラム銀貨の出土する遺跡をたどってゆくと、バルト海から西ドヴィナ川、ドニエプル川を経て、キエフを通り黒海へと抜け、コンスタンチノープルに至る銀の道があらわれるという。
 バイキングというと、海賊で荒くれの男たちのイメージがあるが、遺跡から出土するのは、スカンジナビア女性の装飾品も多く、実際は家族で移動し、その中には商人や新天地を求めて移動する農家も含まれていたようだ。  グロビニャ遺跡群はラトビアにあって、スカンジナビア半島からバルト海を渡ってきたバイキングにとって、ここが大陸の入り口だったのだろう。TURISASの"The varangian way"だと最初の曲"To Holmgard And Beyond"になる。ホルムガー!アンビヤー!
 TURISASの地図は西ドヴィナ川を遡るのではなく、陸路をイリメニ湖畔のリュリコヴォ・ゴロジシチェ遺跡(今のノブゴロドのあたり)の方へと向かっている。ここがHólmgarŏrと呼ばれてたというから、これがホルムガルドでその向こうへということになる。
 ここから南へ向かい、ドニエプル川に突き当たるところにグニョズドヴォ遺跡がある。かなり大きな定住地だったという。ここで二曲目"A Portage To The Unknown"となる。
 ここから、少しドニエプル川を下ったところで三曲目"Cursed Be Iron"。このあたりにもイスラム貨の出土地がある。
 さらにドニエプル川を下り、キエフの手前でデナス川を遡ると、チェルニコフとシェストヴィツァの遺跡がある。ここが"Fields Of Gold"か。"In The Court Of Jarisleif"はキエフ。そして、そこから旅立って、"Five Hundred And One"となるのだろう。
 そして、今のドニエプロペトロフスクのあたりで、"The Dnieper Rapids"となり、そこから黒海へ出て、海を渡ればコンスタンチノープル。最期の曲の"Miklagard Overture"となる。
 ところで、この本だと、バイキングはスカンジナビア人で、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク人ということになっている。フィン・ウゴル人とあるのがフィンランド人なのだろうか。まあ、当時は民族国家の概念はなかったから、バイキングの中にはスカンジナビア人だけでなく、フィン・ウゴル人も混ざってたのだろう。

4月16日

 70年代のイギリスは英国病と言われたが、今の日本はその状態に近付きつつある。外見的にはほとんど共通点がないように見えても、本質的な部分では同じだ。
 日本人は西洋人と違って、労働条件に不満があっても、ストやデモや暴動のような第三者に迷惑のかかるような行動を避ける傾向がある。そのため、職場への不満は外へ向かって爆発せずに、最も消極的な自主退職という形で起こる。つまり日本ではゼネストをするのではなく、ニートになるという形で抗議が行なわれてきたのだ。
 ホームヘルパーの免許を持っていても、介護の現場があまりに過酷なため、優秀な者からやめてゆく。そして、えてしてこの仕事にしがみつかなければ他に行くところのないようなどうしようもない者が残ってしまう。そのなかに、老人の金をこっそり盗み出すようなやつがいないという保証はなかった。
 医者だって、パイロットだって、能力がありながら、自分の健康を考えるとやめざるを得ない人間はいくらもいた。一流大学を出て、本来なら一流企業でバリバリ働けそうな人間でも、今ではニートを選んでしまう。それは一種のストライキなのではないか。
 かつてのイギリスの労働者は、労働組合の強力な共同体意識があったために、ゼネストを決行した。日本人はせいぜい親に頼る程度の共同体意識しか育ってない。だから、ニートになる。でも、その根本にある問題は同じだ。
 今は内定取り消しなどの就職難ばかりが過剰に報道されているが、本当に問題なのは就職難と求人難が同時にやってきているというところだ。おそらく、内定を取り消されなかった、本来なら勝者であるはずの新入社員も、5月になればぼろぼろとやめてゆくことだろう。企業が求める労働条件と、一般人が正常な意識で求める労働条件とのあいだに、あまりにギャップがあるからだ。
 そして、これから本当の「不満の冬」がやってくる。能力のある人間が正当に評価される日まで、静かな戦いが続く。

4月12日

 鎌倉の旧華頂宮邸の室内が公開されているというので、旧華頂宮邸と鎌倉文学館を回る、鎌倉洋館めぐりをした。
 横須賀線は30分遅れだった。それでも、10時ちょっと前に鎌倉に着いた。
 旧華頂宮邸は報国寺の少し先にあった。
 室内を回り終えると、コーヒーを飲むところがあり、客室がいっぱいなのでテラスを勧められた。邸宅のテラスで飲むコーヒーは、なかなかリッチな気分だった。
 寄付金とボランティアでは、洋館の維持も大変だろう。ここの画像を竜騎士07さんでもつかってくれたら、もう少し人が来るだろうか。
 その後、釈迦堂口切通しを見て、八幡宮を横切り、鎌倉文学館へと向かった。途中御成小学校の横を通ったが、ここの校舎も年代もので、なかなか貴重なものだ。
 鎌倉文学館は、もとは駒場の前田侯爵の別邸で、旧前田侯爵家別邸という。
 一階と二階は公開されているが、一階の方は完全に博物館の内装で、洋館という感じはしない。二階はベランダに出ることができて、ここからは海が見える。三階は非公開。
 展示も地味で、桜には遅く薔薇には早すぎる季節のせいか、人も少なくて静かだった。
 帰りは長谷の方へ歩いた。長谷子ども会館(旧諸戸邸)の前を通った。

3月29日

 今日は渋谷QUATTROへマスドレ(MASS OF THE FERMENTING DREGS)を見に行った。
 マスドレは2006年11月23日に下北BASEMENT BARで見て以来の実に久しぶり。あれからすっかり有名になり、今日はワンマンでQUATTROは満員だった。男が多い。
 オープニングはShe is inside,He is outsideで、客席の乗りは、前の方は押し合いのようだが、ダイブする人もなく、あふりらんぽの時よりはおとなし目か。
 「今日は全曲やります」と言っていたが、2枚のミニアルバム全部合わせて12曲だから、ちょっと不安。事前に「短い」という情報を聞いていた。
 途中MCで喉を痛めてきたときにみんなが支えてくれてありがとうと涙ぐむ場面。しんみりしたところで、次の曲は「なんなん」かと予想してしまう自分がいやだ。
 「ケンちゃん」とかいうベースの人が出てきた。中尾憲太郎と紹介されていたが、ナンバガのことはよく知らないのでどういう人かは知らない。コンピで出るという曲と、「このスピードの先へ」を宮本菜津子のキーボードバージョンでやって、ベースを弾いてたほか、そのあとでも隅っこに置いてあったタムとシンバルのセットを叩いていた。
 最期の曲はベアーズで、インスト曲は2006年に最初に見たマスドレを思い出させる。こういう曲も嫌いではないが、こういうプログレな展開の曲を本当に聞かせるには、かなりのスキルがいるのではないかと思う。それができればCANのようなバンドになるのかもしれない。
 アンコールはなし。15曲で、1時間半弱のステージはちょっと物足りない。

3月24日

 今日の午後は、街を歩いている人も黙々と携帯の画面を見つめている人が多く、おそらくその多くはWBCを見ていたのだろうとおもうと、やはり日本は野球の国だなと思った。
 本当は飛び上がって喜びたいのだろうけど、周りを気にしては顔色も変えず、黙々と歩いている姿は、一瞬本当に勝ったのかと疑いたくもなる。
 結局最後の最後まで日本と韓国との戦いで、野球はすっかりアジアのスポーツになってしまったか。これは南米型サッカーの誕生と同じくらい画期的なことなのかもしれない。つまり、日本は野球のブラジルなのだ。体格差で劣る分を技術とマリーシアでカバーした泥臭い野球スタイルを確立したという点では、よく似ていると思う。
 夕刊には、中南米の人たちが、野球を楽しんでプレイしているのに、日本人はしかめっ面していたなんてことを書いている人がいたが、国の威信をかけた試合で笑っている余裕なんてないのは、サッカーでは常識的なこと。野球はただ楽しければそれで良いという程度のスポーツだとでも言うのだろうか。多分こういうことを言うのは、いまだにアメリカを崇拝している人なのだろう。
 サッカーのワールドカップがそうであるように、野球だって戦争だ。それくらいの気持ちで真剣にぶつかり合うから、好試合が生れ、感動が生れる。次の大会でのアメリカの奮起を期待したい。

3月17日

 ブックオフで、漫画版の「うみねこのなく頃に2」を見つけた。
 第一の晩の翌朝のシーンは、ゲームだとあくまでシンボリックな画像しかないが、漫画とはいえ絵として描かれるとやはり恐い。
 それに、漫画にすると真里亞が怪しすぎる。ここまで怪しいと逆に絶対に犯人ではないと思ってしまう。

3月16日

 桜のつぼみが膨らんでた。今週中にも咲くかな。でも咲いたら散っちゃうね。
 咲けば散るものと知っててまた今年桜の花の開くのを待つ

3月15日

 ドラクエ5(PS2版)をクリアした。40時間くらいで、レベルはこやん(主人公)41、かのん(息子)39、しゃのん(娘)39、やぎさん(メッサーラ)35。
 ラスボス戦では途中交替もあり、これまでほとんど使ったことのなかったピエール(スライムナイト)が最後においしいところを持っていった。
 エンディングは、容量の少ないスーファミ時代に精一杯作ったなという感じのものだった。

3月14日

 今日は横浜FCのホーム開幕戦。相手はロアッソ熊本。
 朝は風雨が激しかったが、昼ごろには雨も止んだ。試合開始前に少し雨がぱらついたが、それからは降らなかった。
 競技場には、ふり丸とたね丸が来ていた。ふり丸は頭の被り物だけで、胴体は普通のユニフォーム姿だから、安上がりなのか。動きやすいから、ゆるキャラ対決では有利かも。ひこにゃん打倒キャラになれるか。たねまるは頭の上に葉っぱがある分、そのバランスからか、背が低い人(女性?)が中に入っているようだった。
 練習の時、カズだけがジャケットなしで、若さをアピールしていたのか?そのせいですぐどこにいるかわかった。
 試合開始後12分。PKをカズが決めて、Jリーグ最年長ゴール。これが最後ということはないだろうから、歴史的な瞬間というほどのものでもないだろう。
 ところが、その後、前半はまだよかったが、パスミスが多く、戻したボールをカットされたり、浅い位置でボールを奪われたり、ヒヤッとする場面が多い。
 そして、ついに33分、まだ味方ゴールに近い位置でボールを奪われてあっというまの失点。
 後半も開始早々失点し、逆転負け。
 個人技で目立つ場面はあったものの、パスは通らないし、いい位置でボールは奪われるし、組織として何がやりたいのかよくわからないような状態だった。
 今年も前途多難な一年が始まった。

3月10日

 RADWIMPSの「アルトコロニーの定理」を買いに行った。
 店頭にはCD本体ではなく、ダミーの箱がたくさん並んでいた。
 それを持ってレジへ行くと、前の人も同じ箱を持っていて、もう一人同じ箱を持っている人がいた。今この瞬間だけでも3枚売れていた。
 袋を使わないとポイントがつくというので、CDにシールだけ張ってもらって、仕事用の鞄に入れて、外へ出た。
 中身はというと、やはり感動ものだ。いきなりケルト風の「タユタ」で始まり、「七の歌」はコーラスで始まる。「ソクラティックラブ」「メルヘンとグレーテル」「魔法鏡」、相変わらずどこまでもピュアなラブソングだ。
 「37458」では「このなんとでも言える世界がいやだ」というが、それはこの世界そのものへの「愛」なのだろう。
 「アルトコロニーの定理」というのは、この世界を愛のおとぎ話に変える方法を言うのだろうか。

3月7日

 仕事の終わったあと、久しぶりに渋谷へ出た。
 タワレコの試聴盤にBREAK YOUR FISTの「LEADING ROLL」があった。
 国際レベルという点では確かに納得がいく。特にボーカルがいい。てっきり日本人はデスボイスには向いてないと思っていたが、そんなことはない。音のバランスもよく、スウェーデンのバンドだといわれれば、信じそうだ。

3月4日

 ブライアン・フェイガンの「千年前の人類を襲った大温暖化」(東郷えりか訳、2008、河出書房新社)を、ようやく読み終わった。300ページを越える分量で、中世ヨーロッパやバイキングやイースター島の話は面白かったが、あまりなじみのない地域は少々苦痛だった。だが、最終章「静かな象」で、一気に恐い話へ。
 つまり、かつての中世温暖期が同時に多くの地域では旱魃の時代だったというところから、今日のそれを上回る地球温暖化で、同じことが起こる可能性が十分あるということだ。
 実際に今も砂漠が拡大したり、アフリカのサヘルでは60年代と80年代に二度の大旱魃を起こしてきた。60年代のほうはずいぶん前にコリン・ターンブルの「ブリンジヌガグ」という本で読んだし、80年代の方はWe are the worldで有名だ。
 問題は、これが人口の密集するアメリカの中西部や中国北部の穀倉地帯を襲ったらということだ。アメリカなら数百万、中国なら数千万単位で飢餓に陥るかもしれない。そうなれば世界の余剰食糧はそこにみな投入されることになり、日本への輸出がストップする可能性がある。そうなると食料自給率39パーセントの日本はどうなるのか。
 地球温暖化は、何も海面の上昇だけではないようだ。

3月3日

 今日ふと思いついたこと。
 「存在とは仮説である。」
 仮説を立てる者は主観となり、検証を繰り返すことによって仮説は客観となる。
 ここに、アレーテイアとしての真理と、ドクサとしての知識の体系とが分かれる。
 もっとも、仮説というものがなぜ可能なのかとか、いろいろ難しい問題が残ってしまうから、これで存在の問いに答が出たということではない。カール・ポパーを少しかじったなら、誰でも一度は思いついてそうなことだし、発見というほどのものでもない。これはただのmy哲学。
 外は雪が降っていて、うっすらと積もりだした。

3月1日

 ドラクエ5の青年期・前編が終った。ちなみに、双子の名前は「かのん」と「しゃのん」にした。そういえば、グランバニアではチェスがはやっていると言ってたな。
 ところで、今ブライアン・フェイガンの「千年前の人類を襲った大温暖化」(東郷えりか訳、2008、河出書房新社)を読んでいるが、今日たまたま行った古本屋に同じ著者の「古代文明と季候大変動」(東郷えりか訳、2005、河出書房新社)を見つけた。
 中世大温暖期というと、今よりも暖かいというイメージがあったが、そうではなく、やはり地球温暖化の今が一番温かいのだという。中世大温暖期というと、バイキングの時代。気候も温暖でアイスランドからグリーンランドを経て、アメリカにまで行っていた時代で、バイキングメタルもそんな黄金時代のノスタルジーもあるんだろうな。今だと、北極海の氷が解けて、北欧からシベリアの北を通ってベーリング海へ抜ける航路が出来たとも言うが、さすがに昔はそこまではなかったのだろう。
 中世というと暗黒時代のイメージもあったが、それも昔のことで、今は気候が温暖で比較的安定した時代だったとされている。ただ、14世紀になると寒冷化に転じ、飢饉が相次ぎ、ペストが大流行する暗黒期に入る。そういえばドイツに、XIV Dark Centuriesというフォークメタルのバンドがある。

2月22日

 休日の楽しみは、「うみねこ」の推理と、ドラクエ5と、myspaceのメタル旅ということで、お金をかけずに「巣籠り景気」を乗り切っている。
 ドラクエ5のほうは、ほぼ20時間で結婚相手を決めるところまで来た。
 メタルの旅は昨日からロシア、ルーマニアを経て、イタリアに着いた。リンクではつながってなかったが、ロシアのchurのボーカルは画像で見ると民族衣装を着て、マトリョーシカ人形みたいだった。Blackthornというロシアのガールズロック?はなかなか面白い。ARKONAといい、ロシアは女性が頑張っている?
 ルーマニアのNegură BungetやKratosを聞くと、さすがにドラキュラの国という感じがする。
 イタリアに来ると、さすがに明るい。太陽の国のメタルだ。STORMLORD、Leprechaun、Elvenkingと、オペラの国だけあって、プログレっぽい。
 ところで、デンマークのバイキングメタル、Svartsot(デンマーク語の読み方がわからないのだが、スヴァルトソットでいいのだろうか?)のピューピューいう笛の音が何か気になっていた。  最初リコーダーかなと思って、「ぴゅーと吹くメタル」なんて言っていたが、myspaceにはwhistleと書いてあって、どうやらアイリッシュ・ホイッスルのことらしい。アイリッシュ・ホイッスルは金属製でティン・ホイッスル、ペニー・ホイッスルともいうらしい。日本でも1400円くらいで売っている、安い楽器だが、結構奥の深いもののようだ。
 なお、Svartsotのホイッスル奏者のStewart Lewisが妻の病気のため今では脱退しているという。残念だ。

2月18日

 GDPのマイナス12.7パーセントという数字自体は、そんなに驚くようなものでもなければ、悲観するようなものでもない。問題は一人当たり労働時間当たりの生産性が低下したかどうかだ。
 もし、生産性が低下してないなら、労働時間が短縮されるだけのことで、かえって生活にゆとりを生むことになる。ただあくまで、一方に過労死寸前で働いている人がいて、一方で失業者の群がいるという不均衡を平らにならすことができればの話だが。
 生産性も低下しているというなら、日本は確実に貧しくなる方向に向かっているということだ。
 オイルショックのときは、今回を上回るGDPのマイナスを記録しながらも、生産性はまだ上り調子にあった。だから、欧米諸国がもたつく中を低燃費車で攻勢をかけて、いち早く不況を脱出することができた。
 ただ、今回ちがうのは、新たな消費革命が見えていないということだ。つまり、戦後のモータリゼーション、エレクトリゼーション、そして、90年代のIT革命のような生活を一変させるような変化が期待できないことだ。
 それに加えて、環境限界の圧力から、大量生産大量消費という発想そのものが行き詰ってきている。
 だから、生産性が落ちなくても、長期的に生産量が停滞することは考えられる。
 しかし、それも労働時間の短縮につながり、環境に優しいゆとりある社会につながるなら、歓迎すべきことであろう。
 注意しなければならないのは、安易な市場経済の否定から、社会主義へと逆行させようという発想だ。このようなやり方は生産性を下げてしまうため、生存競争が過酷になり、人の心は荒廃し、治安も悪化する。そして、それを止めるために鉄の規律と血の粛清ということにもなりかねない。
 1950年代の日本は、人情にあふれ、今よりも笑いに満ちていたという人もいるかもしれない。しかし、その一方で、凶悪犯罪の数は今と比べ物にならないくらい多く、冬になればホームレスの人たちは凍死していた。
 生活が過酷だからこそ、人情に頼らなくてはならない。ちょっとしたいさかいでも凶悪事件に発展しかねないからこそ、何とか笑顔を取り繕わなくてはならない。生産性の低い社会というのはそういうものだ。

2月15日

 ようやくエンペドクレスのところを書き終わった。竜騎士さんの影響をだいぶ受けてしまったので、最後のほうは遊んでみた。
 DQ5の方は少年期が終わり、青年期に入った。
 十年間奴隷として働かされたという設定にしては、逃げ出すときに子供の頃の持ち物がそっくりそのまま戻ってきたり、子供の頃着ていた鎧が着れたり、勉強してたとは思えないのに字が読めるようになっていたり、いろいろ突っ込みたいところはあった。

2月14日

 DQ9の発売が延期になったので、それまでのつなぎということで、DQ5(PS2版)を始めた。ドワーフ洞窟まで、一気に進んだ。
 レヌール城が終わり、サンタローズに戻ったとき、次のイベントが始まらずにずいぶんとうろうろしてしまった。