X奥の細道、五月

五月一日

今日も良い天気で、日の出とともに仙台道を北に向かった。

一里半先の日和田(ひわだ)宿(じゅく)の少し先の右側に安積山(あさかやま)があった。奈良の若草山のように草で覆われている。

昔はこの辺りに沢山の沼があったというが、今は田んぼになっている。

 

かつみ草も、その沼に生えていたんだろうか。

 

みちのくの安積(あさか)の沼の花かつみ

   かつみる人にこひやわたらむ

 

と、古今集の読人(よみひと)不知(しらず)の歌で名高いかつみ草のことは、誰に聞いてもわからない。

端午(たんご)の節句に菖蒲(しょうぶ)の代わりに()いたというが。

 

仙台道から左へ行った方に山の井があった。

 

安積(あさか)(やま)影さへ見ゆる山の井の

   浅き心を吾が思はなくに

 

の歌は夫木抄(ふぼくしょう)歌枕(うたまくら)名寄(なよせ)で有名だが、草に埋もれて荒れ果てていて、水があるかどうかもよくわからない。

曾良は本物かどうか疑ってた。

 

二本松宿は亀谷(かめがい)で仙台道は左に曲がって坂を登って行くが、真っ直ぐ行くと阿武隈川沿いの田んぼの方に降りて行く道になり、そこを一里ほど行くと渡し船があった。

その対岸の麦畑の中に黒塚の岩屋があった。隣の杉の木の下に鬼婆を埋めたという。

 

謡曲黒塚でよく知られた話で、祐慶(ゆうけい)という那智東光坊の阿闍(あじゃ)()が安達ヶ原で宿を借りると、そこに婆さんが夜中に火を焚いていて、(ねや)覗くと白骨が沢山出て人食い鬼だったという話だったか。五大明王を召喚して退治する話だった。

 

黒塚を見た後渡し船で戻って、来たのとは別の道で二本柳(にほんやなぎ)宿(しゅく)に出て、そこから馬で八丁目宿へ向かった。二本柳だったと思う。二本松とごっちゃになりそうだが。

福島宿の少し手前の郷野目(ごうのめ)村に曾良が何か用があって、神尾何某(なにがし)という人を訪ねて行った。

 

そのあとかろうじて日の残るうちに福島宿に着いた。その神尾さんの紹介なのか、清潔な宿だ。

明日は佐藤(さとう)庄司(しょうじ)跡へ向かう。

 

 

五月二日

4日続きの青天で梅雨も中休み。

宿を出て仙台道を行くと五十(いがら)()という所に川があって、ここを渡らずに右に行くと阿武隈川の岡部の渡しがある(みなもとの)(とおる)の、

 

陸奥(みちのく)(しの)()文字(もじ)(ずり)り誰ゆゑに

   乱れ染めにし我ならなくに

 

の歌で有名な文字摺(もじずり)(いし)はこの先。

 

小さな谷のような所で、檜の丸太で柵がしてあって、石は逆さになって半分土に埋まり、ススキが生い茂っていた。

杉の木が植えられていて道祖神(どうそじん)もあり、近くに観音堂もあったから、全く放置されてたわけではないけど、保存状態はひどいもんだ。

 

信夫文字摺(しのぶもじずり)の技術はとうに絶えて、その石も往来の邪魔ということで谷底に落とされたという。

虎が清水と呼ばれる小さな湧水の溜まる所があって、源融の歌にまつわる言い伝えがあるらしく、曾良が興味深そうにしていた。

 

文字摺石から北の方へ行くと阿武隈川を越える月の輪の渡しがあって、そこを渡ると仙台道の瀬上(せのうえ)宿(しゅく)に出た。この頃から空が曇ってきた。

途中の田んぼでも田植えを見た。あの早乙女(さおとめ)の田植えする手つき、昔はあんな風に文字摺染めをやってたのかな。

 

瀬上宿から今度は街道の左の方に行くと(さば)()という所に瑠璃光山醫(るりこうざんい)王寺(おうじ)があった。佐藤(さとう)庄司(しょうじ)の旧跡で、義経や弁慶の遺品を見せてもらった。佐藤庄司の二人の息子やその妻の石塔もあった。北の方の川の向こうに山があって、そこに丸山城があったという。

 

謡曲接待の悲しい物語を思い出し、今の太平の世の有り難みをあらためて思い知った。義経弁慶も今は端午の節句の(かみ)(のぼり)の図柄で、子供たちもその悲劇を知ってか知らずか。

接待のラストのあの怨恨の連鎖を断つ場面、大事なことだと。

 

()王寺(おうじ)をあとにして仙台道に戻ると、川を渡った。夕暮れで雨が降り出したと思ったら夕立のように土砂降りになった。

うらぶれた宿に駆け込むと温泉があった。

飯坂(いいざか)という所らしいが、何度聞いても「ええづか」に聞こえる。

 

 

五月三日

今日は白石(しろいし)に泊まる。城はよく目立つが山は雲がかかって全然見えない。

夫木抄(ふぼくしょう)名所(めいしょ)名寄(なよせ)に、

 

みちのくの阿武隈川のあなたにぞ

   人忘れずの山はさかしき

       読人知らず

 

の歌があるが、忘れずの山って確かこの辺だったと思った。

 

大木戸(おおきど)というところの先の貝田(かいだ)宿(じゅく)の先に(こす)(ごう)番所(ばんしょ)があった。ここが今の福島領と仙台領の境になる。

斎川(さいかわ)を越えると細い山間の道に入り、()(ぎゅう)(ぬま)()牛山(ぎゅうやま)がある。その先でまた斎川を渡るが、その少し手前に鎧摺(あぶみすり)の岩や(つぐ)(のぶ)忠信(ただのぶ)両妻の御影堂(みえいどう)があった。

 

瑠璃光山醫(るりこうざんい)王寺(おうじ)にも石塔があったが、この二人の妻は母を元気づけるために男装して甲冑(かっちゅう)を着て、息子が帰ってきたかのように振る舞ったのだとか。

今の世では花見で酔っ払って羽織着て刀さす女はいるが、平和な時代だ。

 

昨日の雨は今朝まで降っていた。午前中に一度止んだんで、馬で出発して桑折(こおり)宿(しゅく)へ向かった。そのあとまた小雨が降り出した。

桑折宿を過ぎて貝田宿へゆく途中の国見峠という所が伊達の大木戸だという。特に何かがあるというわけでもないようだ。

 

 

五月四日

夜のうちに降ってた雨は朝のうちに止んだので出発した。

この辺りは道が悪く、雨が降るとぬかり道になる。

今日も白石城は見えるが山は見えない。

 

時折雲の切れ間から日が射したと思ったらまた降り出したり、安定しない天気だ。道の状態も良くない。

仙台道の槻木(つきのき)宿(しゅく)の辺りで阿武隈川の脇に出る。その次の岩沼宿の左側に竹駒(たけこま)明神(みょうじん)があり、武隈(たけくま)の松があった。

 

旅立つ前に(きょ)(はく)から貰った句に、

 

武隈の松見せ申せ遅桜 挙白

 

の句があった。さすがに今は咲いてない。

あの磐城平藩の先代の殿様の句にも、

 

武隈の松も二木(ふたき)や二度の春 風虎

 

というのがあったな。

最初の予定の3月20日に旅立って、途中の五月雨の長逗留がなければ、桜が二度見れたんだろうな。

 

3月の終わりに旅立って、4月も終わり今は5月だもんな。

 

桜より松は二木(ふたき)三月(みつき)越シ 芭蕉

 

岩沼宿を出て、また小雨の降る中を増田宿に向かった。途中に左へ一里行った所の蓑輪(みのわ)笠島(かさしま)に道祖神の社と実方(さねかた)中将(ちゅうじょう)の塚があるという。

実方中将が陸奥(みちのく)に赴任した時に、道祖神の社を無視して通り過ぎたために、落馬して亡くなったと伝えられている。

 

後にここを西行法師が通り、

 

朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて

   枯野の(すすき)形見にぞ見る

 

と詠んだという。

行ってみたかったけど、どうやら曾良がその分岐点を見落として気づいたら増田宿だったという。

道祖神に招かれての旅なのに道祖神を通り過ぎたりして、ばちが当たらなければいいが。

 

曾良「増田宿は古代東山道の名取駅(なとりえき)のあった所で、ここから西へ出羽(でわ)()が分岐していて、実方中将も西行法師もそこを通ったと思われる。

ただ、今は古代の出羽路は跡形もなく、街道から外れた辺鄙な場所になってしまった。

 

岩沼宿と増田宿の間は田んぼになっていて、五月雨でかなり増水していて、どこに道があるのかもよくわからなかった。道がわかったとしても通れる状態だったかどうかも怪しかった。残念だった。」

 

増田宿を出て中田宿も過ぎた所に名取川があった。

古今集読人知らずの、

 

名取川瀬々の埋もれ木あらはれば

   いかにせむとか逢ひ見そめけむ

 

の歌で有名だが、埋れ木が現れるどころか濁流だった。まあ、橋があるので、渡るには問題はなかった。

 

今日も何とか日が沈む前に仙台に着いた。

若林川を渡って左にお城を見ながら国分町に宿を取った。

街は端午の節句で、軒という軒に菖蒲が葺いてあって窓には明かりが灯り、それが五月雨の暗がりに浮かび上がって綺麗だった。

 

 

五月五日

今日もはっきりしない天気だが、それはともかくとして、三千風(みちかぜ)と連絡が取れないという事態が発生して、今日はすることもなく、休養日になりそうだ。

曾良はずっと出かけている。

 

結局曾良がいろいろ駆け回ってくれて、泉屋甚(いずみやじん)兵衛(べえ)の紹介で、絵師の北野屋(きたのや)加衛門(かえもん)が仙台の名所を案内してくれることになった。

三千風の消息は結局わからなかった。噂では放浪の旅に出ているという。

 

かつては西鶴と張り合って一日百韻三十巻の三千句興行をして三千風と呼ばれるようになった。自分も天神様の境内で速吟興行を試みたが、素堂と二人で二百句がやっとだった。

その後西鶴は二万三千五百句興行を行ったという。人間技とは思えない。

 

天和の頃には三千風が松島眺望集を編纂した時に、愚句、

 

武蔵野の月の若ばへや松島(だね) 芭蕉

 

の句を載せてもらった。

武蔵野図は(すすき)の中に地面から月が生えたみたいに描き、松島図も水辺線に島が生えたみたく描く、その類似をネタにした、松島の(たね)が武蔵野にこぼれて月が生えてきたって句だった。

 

 

五月六日

今日は天気も良く、亀岡(かめおか)八幡宮(はちまんぐう)に行った。

川を渡り、大手門の前を右に行き、武家屋敷の並ぶ奥に亀岡八幡宮の長い石段があった。最近ここに(うつ)したという立派な神社だった。

帰りににわか雨に降られて、茶室を借りて雨宿りした。

仙台城のある青葉山は本当に青葉の山で、天守閣はなく、麓に屋敷が立ち並んでた。歌枕の青葉山は季吟先生は近江(おうみ)音羽山(おとわやま)のことだと言ってたが、陸奥説や若狭説もあるという。

 

 

五月七日

今日も天気が良く、嘉衛門に仙台の名所を案内してもらう予定だ。

 

今日はまず東照宮に行った。言わずと知れた徳川東照宮大権現様を(まつ)った神社で、日光ほどではないがきらびやかだった。

その南東の方が、源俊頼(みなもとのとしより)の、

 

とりつなげ玉田(たまだ)横野(よこの)のはなれ駒

   つつじのけたにあせみ花咲く

 

の歌で知られた玉田横野だという。

 

その先につつじが岡天満宮があった。

さらに南東の方へ行くと、木の下薬師堂があり、昔の国分尼寺の跡だという。

帰る頃にはまた空が曇ってきた。

 

加衛門も一緒に宿に戻ると、甚兵衛もやって来た。明日仙台を発つことになったので、2人にそれぞれ発句を揮毫(きごう)してやった。

甚兵衛には実方中将の塚や道祖神の社を逃したことを詠んだ、

 

笠島やいづこ五月(さつき)のぬかり道 芭蕉

 

加衛門には文字摺石の昔を偲ぶ、

 

早乙女にしかた(のぞま)んしのぶ(ずり) 芭蕉

 

の句を短い文章に添えて書いてやった。

お礼とはなむけに干し(いい)草鞋(わらじ)を貰った。

干し飯は夏場の食欲のない時に冷たい水で戻して食うと美味いし、草鞋は蛇除けの青い鼻緒が付いていた。

 

 

五月八日

昨日の夜から雨が降ってきて、今朝もまだ雨が残ってたが、だんだんと晴れてきて、何とか午前中に出発することが出来た。この辺りは本当に道が悪い。

大手門に通じる道を逆に行くと奥州街道に出る、この交差点を芭蕉が辻というらしい。

 

仙台を出て北東へ行くほぼ真っ直ぐな道を行くと、岩切という所に(かむり)(がわ)という川があって冠川土橋を渡った。東光寺があって、その先の岩切新田の裏に()()菅菰(すがごも)が垣根のように植えられていた。

 

夫木抄(ふぼくしょう)の詠み人知らずの歌に、

 

みちのくの()()菅菰(すがごも)(なな)()には

   君を寝させて()()に我が寝む

 

の歌があった。今も栽培されてるのが嬉しい。

 

十符の菅を見た後土橋に戻り、それから東へしばらく行って、多賀城跡の壺の(いしぶみ)を見た。

西行法師が、

 

みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる

   壺の碑そとの浜風

 

と詠んだ壺の碑が最近になって土の中から出てきたということだ。

 

これを見ることが出来たのは奇跡としか思えない。はるばる長い旅をしてきた甲斐もあった。

所々判別できないところもあるが、天平(てんぴょう)(ほう)()六年の銘、とにかく有り難い。

 

壺の碑を見た後、また土橋に戻り、元の街道で塩竈(しおがま)に出た。

まだ日も高く、湯漬け飯を食ってから周辺の名所を見て回った。

まずは南の方へ行き、末の松山に行った。お寺になっていて墓石がたくさんあった。

古今集読人(よみひと)不知(しらず)の、

 

君をおきてあだし心をわがもたば

  末の松山波もこえなむ

 

また、清原元(きよはらのもと)(すけ)の、

 

契りきなかたみに袖をしぼりつつ

  末の松山波越さじとは

 

絶対ないことの喩えだった末の松山も、恋に絶対はない。悲しいことだ。後には恨みだけが残り、やがて命は尽きて、何百年もの歳月を経て行く。

 

(おき)(のい)は末の松山の南の麓にあった。

岩があってそれを囲むように池があり、今は井戸になっているが、かつては沖の石だったという。

 

わが袖は(しお)()に見えぬ沖の石の

   人こそしらね乾くまもなし

 

二条院(にじょういんの)讃岐(さぬき)の頃の面影もない。

 

野田の玉川は塩竈に戻る途中の小川で、西行法師が、

 

踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて

   人も通わぬおもわくの橋

 

と詠んでいる。

東に見える小高い岡が浮島だという。

塩竈に戻り、地名の由来の塩竈を見た。幅五尺はあるかという大きな釜が四つあって、今では使われていない。

 

日も暮れてきたので塩竈明神は明日にして、その裏にある本地の法蓮寺門前の宿坊に泊まることにした。お寺だけあって、銭湯があった。

明日はいよいよ松島だ。

 

 

五月九日

今日は雲一つない良い天気で、絶好の松島日和だ。

明るくなってから塩竈明神に参拝した。曾良はここの明神様のことをいろいろ詮索してた。神様にもいろいろあってややこしそうだ

 

塩竈明神の参拝を終えてから船で千賀ノ浦(ちがのうら)へ出ると、すぐ左に(まがき)(しま)という小さな島があった。古今集読人(よみひと)不知(しらず)の、

 

わが背子(せこ)みやこにやりて塩竈の

   まがきの島の松ぞ恋しき

 

の歌に詠まれた所だ。

 

そのまま行くとやはり左側に幾つか島が連なって、その先端が都島(みやこじま)というらしい。

伊勢物語の、

 

おきのゐて身を焼くよりも悲しきは

   都島への別れなりけり

 

はここなのか。(おきの)()は昨日行ったが。

 

右側の方にも遠く島が連なり、全体が広い入江になっている。

船は小さな島を伝うように真っ直ぐ進むと、やがて左に曲がり、正面に(ずい)巌寺(がんじ)が見えてきた。左に()(じま)、右に(ふく)浦島(うらじま)を見ながら、昼には松島の港に着いた。

 

午後からは瑞巌寺へ行き、そのあと雄島へ行った。橋があって地続きになっていて雲居(うんご)禅師(ぜんじ)の座禅堂や石碑があった。

松島に戻ると八幡神社と海に突き出た瑞巌寺の五大堂へ行った。久之助の宿に泊まる。

 

宿で素堂のくれた詩を読んだ。

 

夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未同

夏の初めの松島は自ずと清く奥深く、

雲の上のホトトギスの声はまだ揃わない。

 

曾良も横にいて、今日はホトトギスが鳴いてたなと、何か考えてるようだ。

 

曾良「松島で何か発句をと思って、ちょうどホトトギスが鳴いてたから、松島とホトトギスの取り合わせはどうかなと思った。

松島にホトトギスを詠んだ有名な歌は特になかったと思う。

あとはどう取り(はや)すかだ、ふと無名抄(むみょうしょう)(ゆう)(せい)法師(ほうし)の、

 

身にぞ知る真野(まの)の入江に冬の来て

   千鳥もかるや鶴の()(ごろも)

 

を思い出して、ホトトギスに鶴のコスプレさせようかと思った。

まあ、サイズが合わないんじゃないかというツッコミも想定してのことで。

 

松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

 

 

五月十日

今日も良い天気で松島の島々が見渡せる。ここを去るのは惜しいが、長期滞留できるような門人の家もないし、雨が降ればまた道が通れなくなる。

川の向こうの高城(たかぎ)という所からは(うま)(つぎ)があった。石巻までは馬に乗れればいいが

 

馬が高くて、結局高城を出てしばらく山間の細い道を歩いて小野という所に出ると、そこからは平坦な道だった。

晴れたのは良いが真夏のような日が照りつけて、矢本(やもと)新田(しんでん)の辺りで脱水状態になった。

 

生水は良くないと曾良が近くの農家にお湯をもらいに行ったが貰えず、たまたま通りかかったお侍さんがわざわざ離れた知人の家までお湯を取りに行ってくれた。

根子(ねこ)村の今野源太左衛門という者で、石巻の四兵の宿も紹介してくれた。

 

石巻に着くと、その紹介された四兵の宿に行った。そのあと小雨が降ったがすぐに止んだので日和山(ひよりやま)に登った。北上川河口にある小高い丘で、万石(まんごく)(うら)、牡鹿半島の山々、牧山を見渡し、真野(まのの)萱原(かやはら)も少し見えた。

 

北上川に沿って上って行くと住吉社があり、鳥居の前の辺りが夫木抄の相模の歌、

 

みちのくの袖の渡りは涙川

   心のうちに流れてぞゆく

 

にある袖の渡りだという。

金華山にも行ってみたかったが、船だと十三里、陸路は険しい山道でやめた方で良いということだった。

 

 

五月十一日

今朝もいい天気だが、ここのところ夕立みたいなにわか雨が多いのは梅雨明けの前兆だろうか。今日も暑い。

四兵の宿の人が一人、気仙沼(けせんぬま)へ行くついでに矢内津(やないつ)まで同行するという。また、登米(といま)の儀左衛門の宿の紹介所を貰った。

 

鹿又(かのまた)は北上川に北から来る飯野川が合流する地点で、ここから船に乗って飯野川を遡って行った。

川はやがて山間の細長い大きな沼になって、そこを行くと矢内津という船着場に着いた。

ここで四兵の宿の人は東の気仙沼に向かうので、お別れとなる。

 

矢内津で舟を降りて川沿いの道を行くと、やはり今日も雲行きが怪しくなってきた。

登米(といま)という所に渡し船があって川を渡った。

予定してた儀左衛門の宿には泊まれず、仕方なく町の検断(けんだん)に頼んで、検断の庄左衛門の家に泊めてもらった。

 

 

五月十二日

今日は朝から曇ってて、とりあえず登米(といま)を出て平泉の方に向かった。

北上川に沿って上って行くこと三里、上沼(うわぬま)新田(しんでん)という所があり、そこからさらに一里行った涌津(わくつ)という所で急に雨が降ったかと思うとあっという間に土砂降りになった。

 

足元はどろどろで、宿を取るにも辺鄙な所なので、仕方なく高いけど馬に乗った。

前も見えないくらいひどい雨で、まるで(ひよどり)(ごえ)の坂落としだ。

 

土砂降りの雨の中、馬に乗って湧津から金沢(かざわ)へ行き、そこから先は山越の道になって、薄暗くなる頃ようやく一関(いちのせき)に着いた。

宿も取れて良かった。明日は平泉へ行けるかな。

 

 

五月十三日

昨日の雨は上がって今朝は晴れたが、道はまだ濡れてて出発を遅らせた。

山ノ目の峠までが一里。ここが大門になるのか。

平泉はそこからまた一里ちょっとで、何とか午前中に着いた。

 

平泉の高館(たかだち)は小高い丘の上にお堂が一つあるだけだった。

林鵞(はやしが)(ほう)の編纂した「本朝一人一首」の無名詩に、

 

高館聳天星似冑 衣川通海月如弓

高館は天に(そび)え星は兜に似て

衣川は海に通じて月は弓の如し

 

ってあったが、随分誇張したもんだ。

 

北上川に沿って行くと左側から合流する川があって、これが衣川だという。川に沿って上って行くと、対岸に泉城の跡があり、その奥に衣川の関があったという。

霧山も西にあるらしいが、雲がかかっててよくわからない。

 

この道の先に(たっ)(こく)(いわや)があるというが、遠くて行ったら戻ってこられないと曾良がいうので、仕方なく元来た道を戻った。

 

さて、中尊寺だが、今は東叡山末寺とはいえなかなかの大伽藍で、沢山のお堂が並び、境内には白山や月山の社もあった。

曾良が別当を呼んできてくれて、その案内の元に光堂をみた。

鞘堂(さやどう)を作って五百年の雨風を防ぎ、このお堂を守ってきたという。

 

中の黄金のきらびやかな仏像たちは薄暗い中でほんのりと光っていた。そのキラキラとした断片的な光はまるで飛び交う蛍のようだった。

経堂の方はまた別の別当が管理してるのか、中を見ることができなかった。

 

中尊寺を出ると一関までの帰り道で、(もう)越寺(つうじ)新御堂(にいみどう)と無量光院の跡を見て帰った。

金色堂(こんじきどう)はまさに奇跡で、他のものはみんな跡になって、どこも夏草が茂っていた。

帰ると宿の人が水風呂を沸かして待っててくれた。

 

 

五月十四日

今日も天気は良く、一関から清風(せいふう)のいる尾花沢(おばなざわ)へ向かう。そこなら久しぶりに俳諧興行もできそうだ。

途中、山を越えなくてはならない。行けるところまでかな。

 

夢となりし骸骨踊る荻の声 其角

 

晋ちゃんのこの句は延宝の頃の「田舎句合(いなかのくあわせ)は野人対農夫の対決の形を取った句合せでの野人の方の句で、農夫の羽二重(はぶたえ)の句に負けてたが、この「夢」の用法は気になる。

夢となるというのは人生は夢まぼろしから来た発想で、死んでしまえば現世のことはみんな夢となって終わる、という意味なんだろうな。

 

昨日見た夏草の茂る旧蹟も、そんな人生が夢となってしまった人たちの跡なんだろうか。

夏草、生命の過剰は互いに生きるための争いを引き起こして、春のめずらしい花や鳥も埋めて行ってしまう。それは夢となった人の跡なのだろうか。

 

一関を出ると曾良がまた変な道を通ろうとする。古代の道はこっちだって行って。

街道を右の方へそれて岩ヶ崎というところに来た。

そこからさらに西へゆき、茂庭(もにわ)という所で最初の(はざま)(がわ)を越えた。

 

茂庭から南西のルートを取って、二つ目の迫川を越えて、三つ目の迫川がある真坂というところに出た。この頃また雷雨になった。

雨が小降りになるのを待って、そこからさらに行くと確かに岩手山(いわでやま)の宿に出た。

今日はここに一泊。

 

 

五月十五日

朝から小雨が降ってる。

岩手山宿を出ると少し戻って川を渡ることになるが、そこから川沿いに登って行けば尿前の関だという。

 

曾良「このまま昔の道を行って、色麻(しかま)駅のあった中新田(なかにいだ)から小野田(おのだ)を経て門沢(かどさわ)の関を越えようかと思ってたけど、遠回りだし難所も多いと聞いて、尿前の関を越える一般的なルートを行くことにした。古代の道への興味は尽きないけどね。

尿前の関へ行くとなると、手形が‥。」

 

下宮(しもみや)を過ぎて鍛冶屋沢へ向かう途中、小黒崎(おぐろさき)()()の小島があったが、今は河原の小山になってる。昔はこの辺りの水量が多く、入江のようだったという。

古今集読人(よみひと)不知(しらず)の、

 

おぐろ崎みつの小島の人ならば

   宮このつとにいざと言はまし

 

の歌に詠まれている。

雨でなければゆっくり見て行きたいところだ。

さらに行くと、鳴き子の湯があった。

 

あかずして別れし人の棲む里は

   沢子の見ゆる山のあなたか

 

という拾遺集読人(よみひと)不知(しらず)の歌に詠まれた沢子の湯だという。

 

鳴き子温泉の先の川を渡ると尿前の関だった。

曾良が手形がを用意してなくて、他の関所の手形じゃ駄目かとか、出羽三山巡礼だからだとか色々言ってたけど、かなりあれこれ詮索された。まあ結局は通してくれたけどね。

 

今日はこんな雨で他に関を越える人もいないし、関守のいい暇つぶしにされちゃったかな。

おかげですっかり遅くなって、仕方なくすぐ先の(さかい)()で宿を取ることになった。

馬屋のすぐ隣の部屋で、汚いし、臭うし‥。

 

 

五月十六日

(さかい)()は朝から大雨で、道もぐちゃぐちゃで、どうやら今日はここで休養になりそうだ。

まあ、ここのところずっと歩いてたからちょうど良い。

馬の尿(バリ)する音が聞こえてくる。

 

 

五月十七日

今日はよく晴れた。道が乾いたら出発だ。

尾花沢まではこのまま街道を行くと笹森(ささもり)の関を越えて新庄領に入り、(かめ)割坂(わりざか)から舟形(ふながた)を経由することになるが、遠回りな上宿場はおろか茶店すらないという。

幸い宿の人が山刀伐(なたぎり)(とうげ)の案内してくれるという。

 

昼前に道が渇いてきたので出発した。案内の一人はがたいが良く、長刀かと思うような脇差を腰に差して、手には樫の杖と物々しく、この辺りは何か出るのかとかえって恐くなる。

笹森の関の先は新庄領だが、ここを左にゆくと山刀伐峠だという。

 

笹森の関の前を左に曲り、一刎(ひとはね)を過ぎると山刀伐峠だった。

生い茂った草は昨日の雨にまだ濡れてて、先頭の例の長脇差の男が杖でそれを打ち払いながら進むと、その後を着いて行く。源氏物語の蓬生(よもぎう)の家に行く時に惟光(これみつ)が露払いをしたのを思い出す。

 

山を下って市野(いちの)()とい開けた所に出ると、その少し先の関谷(せきや)という所に最上御代官所があった。

代官所といってもいるのは土地の百姓で、何事もなく通れた。

護衛を兼ねた案内の男たちはここで帰って行った。

 

昼過ぎに正厳(しょうごん)という所まで来ると平地になった。そこから尾花沢はすぐだったが、ここで今日も夕立に合い、びしょ濡れのまま清風の家に辿り着いた。

 

夜になって、新庄から渋谷甚兵も来た。俳号が風流というそのまんまの名前で、そういうことで風流(俳諧興行)を始めた。

これからしばらく自分の家のように厄介になるよ、ということで、

 

すずしさを(わが)やどにしてねまる(かな) 芭蕉

 

清風「では、いつものように蚊遣(かや)り火を()いておきましょう。」

 

  すずしさを我やどにしてねまる哉

つねのかやりに草の葉を(たく) 清風

 

曾良「では、その蚊遣り火を部屋ではなく、農作業で焚く蚊遣り火に転じましょうか。田んぼの横には小鹿もいて、鹿には効かないのか。」

 

  つねのかやりに草の葉を焼

鹿子(かのこ)(たつ)をのへのし(みず)田にかけて 曾良

 

()(えい)「前句の景色は古い城跡にゃ。延沢(のべさわ)(じょう)も寛文の頃に廃城となって、今じゃ鹿がいるにゃ。」

 

  鹿子立をのへのし水田にかけて

ゆふづきまるし二の丸の跡 素英

 

清風「あの辺りは楢の木が多かったな。秋だから紅葉して、楢を奈良の平城京に掛けて、笙の音が聞こえてくる。」

 

  ゆふづきまるし二の丸の跡

(なら)紅葉(もみじ)人かげみえぬ(しょう)(おと) 清風

 

風流「笙の音と思ったら、百舌鳥(もず)の鳴き真似だったにゃー。百舌鳥はいろんな鳥の鳴き真似するから、笙の音も真似たりして。」

 

  楢紅葉人かげみえぬ笙の音

(もず)のつれくるいろいろの鳥 風流

 

素英「鳥がたくさんいるといえば神社の森にゃ。石が御神体で。」

 

  鵙のつれくるいろいろの鳥

ふりにける石にむすびしみしめ縄 素英

 

芭蕉「石に注連縄(しめなわ)といえば、那須で見た殺生(せっしょう)(いし)を思い出すな。草が赤く染まってて。」

 

  ふりにける石にむすびしみしめ縄

山はこがれて草に血をぬる 芭蕉

 

風流「草に血はなかなか穏やかではない。継母(ままはは)(うと)まれて口減らしされた子供だろうか。」

 

  山はこがれて草に血をぬる

わづかなる世をや継母(けいぼ)に偽られ 風流

 

曾良「殺されるまではいかなくても、女の子なら女衒(ぜげん)に売り飛ばすってのもありますな。貧しい家だと口減らしされる前に自分から遊女になるってパターンもあるけど、ここは義母に騙されてということで。」

 

  わづかなる世をや継母に偽られ

秋田酒田の波まくらうき 曾良

 

 

五月十八日

昨日の興行は結局途中で終わった。

ちょうど紅花(べにばな)の収穫期を迎えていて、清風の家は朝から慌ただしい。

結局、近所の(よう)泉寺(せんじ)の方がゆっくりできるだろうということで、昼からそっちに移ることになった。

 

収穫した紅花を見せてもらった。花は黄金色で、これが紅になると思うと不思議だ。これが誰かの肌を飾ることになるんだろうな。

 

行すゑは(たが)(はだ)ふれむ紅の花 芭蕉

 

清風は結構喜んでくれたが、ちょっと作意が露骨すぎるなと思った。曾良には書き留めなくていいと言った。

 

 

五月十九日

今日は晴れた。素英が来たので昼飯に奈良(なら)(ちゃ)(がゆ)を作ってやった。本当は自分が食べたかったんだけどね。深川でいつも食べてたし。

 

(わび)テすめ月侘(つきわび)(さい)が奈良茶 芭蕉

 

なんて句も作ったくらいだからな。

今日もまた雲行き悪そうで、また雨が降るかな。

 

 

五月二十日

今日は朝から小雨で、今日も休養日。お寺だから水風呂に入れるのはありがたい。

ところで平泉で儚い夢と消えた人たちの魂ってまだあそこに留まってるんだろうか。

曾良に聞いたら、魂魄(こんぱく)は気だからいずれ散ずるものだという。

 

芭蕉「旅で死んだ人が道祖神になるというけど、道祖神の気もいずれは散じるのかい?」

曾良「理論的には散ずることになるが、聖人が先祖を祀れと言ったのは散ずるものを留め置きたいという願いが大切だからだと思う。

易に曰く『陰陽不測是を(しん)という』。魂魄は気だから散ずるというのは一つ仮説だ。

 

本当に散ずるのかどうか証明はできないから、あるものとして扱うのは間違いではない。論語にも『未能事人、焉能事鬼』という。わからないのを認めるのが慎みの心だ。

大事なのは魂が本当に留まるかどうかではなく、留めたいという人の心の誠だと思う。」

 

曾良の話を聞いて、何となくわかったのは、今見てきた夏草の茂る野原は「気」であって、気は流行して止まぬものだから魂魄も時の流れとともに消えて行く。

そこに昔の人の魂を見るのは心の誠で、それは「理」だから千歳不易ということなのか。

 

 

五月二十一日

今日も時折雨は降った。

午前中は鈴木小三郎の家に、夕方には沼沢所左衛門の家に招かれた。

どちらも地元で俳諧をやってる人で、基本的なことを少し教えたが、大体は世間話で終わった。

もっとも世間話は俳諧のネタになるので軽んじてはいけない。

 

あのあと清風の屋敷に泊まった。素英も来ていて、この前の興行の続きをやった。

風流は新庄に帰ったので四吟になった。

 

芭蕉「曾良の前句が海の旅も憂きという句だったから、ここは向かえ付けで陸の旅も哀れとしておこう。尿前の関は馬の隣に寝て、あんな体験はなかなかできないよな。

 

  秋田酒田の波まくらうき

うまとむる関の小家(こいえ)もあはれ(なり) 芭蕉

 

清風「こっちじゃ馬の隣で寝るなんて普通だぞ。それより(かいこ)が繭を作る頃の雷は困るにゃ。桑原桑原。

 

  うまとむる関の小家もあはれ也

桑くふむしの雷に()づ 清風

 

曾良「養蚕というと女性の仕事が多くて、蚕の(わずら)う季節ともなるとやつれて夏痩せになる。」

 

  桑くふむしの雷に恐づ

なつ痩に美人の形おとろひて 曾良

 

素英「盆踊りは出会いの場でもあるけど、夏痩せじゃ恥ずかしいにゃ。」

 

  なつ痩に美人の形おとろひて

(たま)まつる日は(ちかい)はづかし 素英

 

清風「お盆は満月で、明け方になれば(さる)(とり)の方角に沈んでゆく。やがて自分もそちらの西方浄土に行くと思うと、あの日誓ったことが果たされなくて恥ずかしい。」

 

  霊まつる日は誓はづかし

(いる)(つき)(さる)(とり)のかたおくもなく 清風

 

芭蕉「中秋の名月なら放生会(ほうじょうえ)の日でもある。雁を放ちに草庵を出る。」

 

  入月や申酉のかたおくもなく

雁をはなちてやぶる草の戸 芭蕉

 

素英「雁を放つを放生会に結びつけずに、単に雁に逃げられたということにもできるにゃ。干し鮎も尽きては雁にも逃げられて心は寒く、花も散ったことで草庵を出る。」

 

  雁をはなちてやぶる草の戸

ほし鮎の(つき)ては寒く花散りて 素英

 

曾良「干し鮎は食べ尽くしたが、ごぼうはようやく芽が出たところ。花の季節に何を食えばいいのやら。」

 

  ほし鮎の尽ては寒く花散りて

去年(こぞ)のはたけに牛蒡(ごぼう)芽を出す 曾良

 

芭蕉「枯れて死んだ畑に新しい命が芽生えるのは、死んでまた別の物になる胡蝶の夢のようなものか。荘周だけでなく蛙も蝶になるのかもしれない。」

 

  去年のはたけに牛蒡芽を出す

(かわず)寝てこてふに夢をかりぬらん 芭蕉

 

清風「蛙が夢に胡蝶となってどこか遠い所を飛び回る。でも、松明(たいまつ)()(ぐし)を見れば、ここがどこかわかるんじゃないかな。さてここでクイズ、ここはどこの国でしょう。」

 

  蛙寝てこてふに夢をかりぬらん

ほぐししるべに国の名をきく 清風

 

曾良「どこの国か聞くといえば日本武尊(やまとたけるのみこと)。旅をしてる時に、

 

新治(にいはり)筑波(つくば)を過ぎて幾代か寝つる

 

御火(みひ)(たき)の翁の答は、

 

かがなべて夜には九日日には十日を

 

日数ではなく場所を聞いてるのに。」

 

  ほぐししるべに国の名をきく

あふぎにはやさしき連歌一両句 曾良

 

素英「確かそれ(さか)(おり)だっけ。どこの国かは忘れた。連歌といえば戦国武将もよくする者が多いにゃ。辞世の連歌を残したりして。」

 

  あふぎにはやさしき連歌一両句

ぬしうたれては()を残す松 素英

 

清風「松の木に残る香といえば天女の羽衣にゃ。羽衣を隠されて酒を作らされるという伝説が丹後の方にあったか。晴れた日は井戸で水を汲まされて、こき使われている。あと、酒折は甲斐の国。」

 

  ぬしうたれては香を残す松

はるる日は石の井なでる(あま)をとめ 清風

 

芭蕉「天をとめは乙女の尼さんにしよう。(あま)乙女(おとめ)。法華経を読む声が妙に艶かしくて却って煩悩を誘う。あと、さっきのクイズ、()(ぐし)は鹿狩りに使う物だから志賀(しか)の国?

 

  はるる日は石の井なでる天をとめ

えんなる窓に法華(ほっけ)よむ声 芭蕉

 

素英「この尼さんは小督(こごう)の局にゃ。嵯峨へ探しに行った(みなもとの)(なか)(くに)の官位はよくわからないが、特に役職のない近習(きんじゅ)なら(じゅ)五位(ごい)()だろうか。長いから六位にしておこう。」

 

  えんなる窓に法華よむ声

勅に来て六位なみだに(たたずみ)し 素英

 

曾良「なら、従五位下の楠木(くすのき)正成(まさしげ)に転じようか。桜井での息子との別れということで。」

 

  勅に来て六位なみだに彳し

わかれをせむる(たいまつ)のかず 曾良

 

芭蕉「前句の別れを一騎打ちで勝負しようとする人にして、(たいまつ)はそれを見送る人達にしておこうかな。弓を射かける体勢に入る。」

 

  わかれをせむる炬のかず

一さしは()(むけ)の袖をひるがへす 芭蕉

 

清風「一騎だけ急に袖をひるがえして行ってどうしたのかと思ったら、水を飲みに行っただけだった。」

 

  一さしは射向の袖をひるがへす

かはきつかれてみたらしの水 清風

 

曾良「では、法螺貝を吹き疲れた山伏が水を飲みに行ったってしましょうか。月の定座で月も出して。」

 

 かはきつかれてみたらしの水

夕月夜宿とり貝も(ふき)よはり 曾良

 

素英「木曽の木賊(とくさ)刈る男にゃ。(じゃく)(れん)(ほう)()の、

 

木賊(とくさ)()る木曽の麻衣(あさぎぬ)袖濡れて

   (みが)かぬ露も玉と置きぬる

 

の袖が濡れたのは(みの)を忘れたからだった。」

 

  夕月夜宿とり貝も吹よはり

とくさかる男や蓑わすれけん 素英

 

清風「信州といえば麦飯に蕎麦と、雑穀をよく食うにゃ。」

 

  とくさかる男や蓑わすれけん

たまさかに五穀のまじる秋の露 清風

 

芭蕉「石巻に来た時も麦飯だったな。夜明けの金華山(きんかざん)の方に漁り火が見えたっけ。」

 

  たまさかに五穀のまじる秋の露

(かがり)にあける金山(かなやま)の神 芭蕉

 

素英「金華山に来たんなら、福島石ケ森の子をなす石にも行ったかな。」

 

  篝にあける金山の神

行人(ぎょうにん)の子をなす石に(くつ)ぬれて 素英

 

曾良「石ケ森は通らなかった。文字摺り石を見た後、阿武隈川の東側を通って月の輪の渡しから瀬上(せのうえ)に出ましてね。子をなす石が川のそばなら、そこから願いを書いた紙を流したりしそうですね。」

 

  行人の子をなす石に沓ぬれて

ものかきながす川上の家 曾良

 

清風「うっかり書いた物を流してしまったけど、拾いに行くのも面倒くさい。花には虫が群がっているし。あたら桜の(とが)にはありける。」

 

  ものかきながす川上の家

追ふもうし花すふ虫の春ばかり 清風

 

素英「花には虫が寄って来て、風が吹いて花が散れば鳥も巣を飛ばされないようにする。そうやって慌ただしく春は過ぎて行くもんですね。」

 

  追ふもうし花すふ虫の春ばかり

夜の嵐に巣をふせぐ鳥 素英

 

 

五月二十二日

今夜は素英の家に招かれ、昨日に続き、曾良、清風、素英のメンバーで素英の家で俳諧興行をした。

素英の家は麻畑の中で、既に人の背丈くらいに成長し、視界を塞いでいた。最終的には8尺くらいになる。

一応、

 

這出(はいいで)よかひやが下のひきの声 芭蕉

 

の発句も用意してたが、忙しい中這い出てきた清風の方の発句を使った。

 

清風「それでは今日は甥の家での興行ということで、まあ身内だから粗末なところでという意味で。まあ、本当にそのまんまだけど。」

 

おきふしの麻にあらはす小家かな 清風

 

芭蕉「昼間は晴れたと思ったらまた夕立で、こういう土砂降りの雨は合羽より蓑の方が役に立つ。こちらもそのまんまだけど。」

 

  おきふしの麻にあらはす小家かな

(いぬ)ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉

 

素英「蓑着た人は猟師という展開にゃ。犬が吠えるのは鳥が罠にかかったからにゃ。」

 

  狗ほえかかるゆふだちの蓑

ゆく(つばさ)いくたび罠のにくからん 素英

 

曾良「ゆく(つばさ)は雁ということで、月を出しましょうか。月に飛ぶ雁を見ながら罠が憎いというのは、足元の石がぐらぐらして罠みたいだということで。」

 

  ゆく翅いくたび罠のにくからん

石ふみかへす(とび)こえの月 曾良

 

芭蕉「まだ月の残る朝ということにして、河原の石を渡って行くのは河原者で、染め物に用いる(あお)(ばな)を摘みに行く。路通の好きそうなテーマだな。」

 

  石ふみかへす飛こえの月

露きよき青花摘(あおばなつみ)の朝もよひ 芭蕉

 

清風「生活は苦しく、朝飯が食えないと騒いでる。」

 

  露きよき青花摘の朝もよひ

火の気たえては秋をとよみぬ 清風

 

曾良「秋をと詠みぬ、と取り成して島流しになった後鳥羽院ネタにしてみました。」

 

  火の気たえては秋をとよみぬ

この島に乞食せよとや(すて)らむ 曾良

 

素英「乞食だったら小さな松の実も拾って命を繋ぐにゃ。」

 

  この島に乞食せよとや捨つらむ

(かみ)きかぬ日は松のたねとる 素英

 

清風「松に巣をかけるのは正確にはコウノトリだったか。でも通常鶴と詠み習わされている。」

 

  雷きかぬ日は松のたねとる

(たち)どまる鶴のから巣の霜さむく 清風

 

芭蕉「鶴は高士の比喩として用いられるからな。その高士の去った後の空き家なら、風流な暮らしができそうだな。どこかそういう所ないかな。」

 

  立どまる鶴のから巣の霜さむく

わがのがるべき地を見置也(みおくなり) 芭蕉

 

素英「多くの隠遁者の好んだ地といえば廬山潯(ろざんじん)(よう)にゃ。廬山潯陽といえば白楽天長恨歌(ちょうごんか)。」

 

  わがのがるべき地を見置也

いさめても美女を愛する国(あり)て 素英

 

曾良「玄宗皇帝に限らず、みんな美女は好きですからな。特に敷島(しきしま)大和国(やまとのくに)は色好みの国で、そのおかげで紅や白粉(おしろい)の生産も盛んで、今は戦争じゃなくあくまで市場競争と平和なもんですな。」

 

  いさめても美女を愛する国有て

べにおしろいの市の争ひ 曾良

 

芭蕉「化粧すれば山の木の葉も花野のように引き立つ。それもまた傑作というもの。古今集読人(よみひと)不知(しらず)に、

 

秋の露の色々ことに置けばこそ

   山の木の葉の千草なるらめ

 

の歌があった。」

 

  べにおしろいの市の争ひ

秀句には秋の千草(ちぐさ)のさまざまに 芭蕉

 

清風「秀句といえば芭蕉さんですな。壺の(いしぶみ)を見てきて、これから象潟の月を見に行くんですか?」

 

  秀句には秋の千草のさまざまに

(いしぶみ)に寝てきさかたの月 清風

 

曾良「旅体ですな。月の象潟(きさかた)で船に泊まれば、船の中までコオロギがいたりしますね。」

 

  碑に寝てきさかたの月

(とま)むしろ舟の中なるきりぎりす 曾良

 

素英「舟に載せっぱなしで雨に濡れた(たきぎ)は干さなきゃならない。」

 

  篷むしろ舟の中なるきりぎりす

つかねすてたる(まき)雨に干す 素英

 

芭蕉「捨てて雨晒しになってた薪を干して使うには貧乏臭い。貧しい僧の庵かな。花の季節には人がたくさん尋ねてくるけど、それが終わると一人質素に暮らすことになる。」

 

  つかねすてたる薪雨に干す

貧僧が花よりのちは人も来ず 芭蕉

 

清風「暇を持て余してお灸などしていると、そのまま寝落ちすることってあるよね。」

 

  貧僧が花よりのちは人も来ず

(きゅう)すえながら(ねむ)きはるの夜 清風

 

素英「灸据えながら眠い目をこすりこすり起きてる男を待つ女として、ここらで恋にするにゃ。待ってても男は来ずに蛙の水音だけがする。」

 

  灸すえながら眠きはるの夜

まつほどに足おとなくてとぶ蛙 素英

 

曾良「ちょっと灸据える女、微妙だな。菅を刈って暮らす身分の低い家の情景にしておきましょう。」

 

  まつほどに足おとなくてとぶ蛙

(すげ)かりいれてせばき(しづ)が屋 曾良

 

清風「貧しい家には(あずさ)巫女(みこ)が回ってきたりするもんで、喪が明けた日に死者の霊を呼んでもらったりする。」

 

  菅かりいれてせばき賤が屋

はての日は(あずさ)にかたるあはれさよ 清風

 

芭蕉「梓巫女に死者の声を聞きながら、女が大事な鏡を売って出家する決意をする。」

 

  はての日は梓にかたるあはれさよ

今ぞうき世を鏡うりける 芭蕉

 

曾良「鏡を売って何か別の物を買うというふうにしましょうか。王朝時代の雰囲気で、八重の几帳(きちょう)が欲しくて。」

 

  今ぞうき世を鏡うりける

二の宮はやへの几帳(きちょう)にときめきて 曾良

 

素英「八幡神社の几帳にときめいてわざわざ放生会(ほうじょうえ)へ行くにゃ。」

 

  二の宮はやへの几帳にときめきて

鳥はなしやる月の十五夜 素英

 

芭蕉「そういえば聞いたんだが、津軽のほろ月に舎利(しゃり)という小さな綺麗な石のある浜辺があるとか。放生会の頃には行ってみたいな。」

 

  鳥はなしやる月の十五夜

舎利(しゃり)ひろふ津軽の秋の汐ひがた 芭蕉

 

清風「シャリだったら焼飯(やきめし)にして山椒(さんしょう)を掛けて食うのが美味い。津軽は行ったことないけど、大きな(くすのき)があるのかな。」

 

  舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた

(さんしょう)かける三ツの(くす)の木 清風

 

素英「山椒で飯食ってる売れ残りの女がいて、ということで恋に持って行こうか。」

 

  椒かける三ツの樟の木

つくづくとはたちばかりに(つま)なくて 素英

 

曾良「婚期を逃したのは父親がふらっと旅に出て行ったから、でどうです?」

 

  つくづくとはたちばかりに夫なくて

父が旅寝を(なき)あかすねや 曾良

 

清風「父が北前(きたまえ)(ぶね)で航海してる時に、留守預かる娘が北の窓から北極星を見て無事を祈る。雲に隠れることはあっても動かない星。」

 

  父が旅寝を泣あかすねや

うごかずも雲の(さえぎ)る北のほし 清風

 

芭蕉「動かないといえば面壁(めんぺき)九年(くねん)。ひたすら座禅を続ける。」

 

  うごかずも雲の遮る北のほし

けふも坐禅に登る石上 芭蕉

 

曾良「座禅してたのは改心した泥棒。」

 

  けふも坐禅に登る石上

盗人の(むぐら)にすてる山がたな 曾良

 

素英「改心した泥棒なら、子供が(やな)にかかって溺れてると聞けば、山刀をその場に投げ捨てて駆けつける。」

 

  盗人の葎にすてる山がたな

(やな)にかかりし子の行へきく 素英

 

芭蕉「簗にかかったこの所に駆けつけるのに(はね)(ばし)を渡る。その橋へと猿が導く。甲州街道に猿橋(さるはし)ってあったな。天和(てんな)の頃に行ったっけ。」

 

  梁にかかりし子の行へきく

(つなぎ)ばし導く猿にまかすらん 芭蕉

 

清風「猿といえば()(ぼく)が猿の叫ぶ三声は腸を断つ。杜甫にも猿鳴三声の詩があったな。猿の導く猿橋には詩人が住んでたりして。」

 

  繋ばし導く猿にまかすらん

けぶりとぼしき夜の詩のいへ 清風

 

曾良「詩人といえば白楽天の、遺愛寺(いあいじ)の鐘は枕をかたむけて聴く。花の定座でしたね。」

 

  けぶりとぼしき夜の詩のいへ

花とちる身は遺愛寺の鐘(つき)て 曾良

 

芭蕉「遺愛寺の鐘を撞く人は花鳥を愛し、山守に鳥の餌を渡す。」

 

  花とちる身は遺愛寺の鐘撞て

鳥の餌わたす春の山守(やまもり) 芭蕉

 

 

五月二十三日

今日も晴れたかと思ったら夕立になる天気で、夜になって仁左衛門の家に招かれた。日待ちだったが途中で失礼して清風の家に泊まることにした。

 

 

五月二十四日

今日も夕方から雨が降った。

夜になって田中藤十郎が来て、色々食べ物を持ってきてくれた。

明日の俳諧興行も決まり、今度は賑やかな会になりそうだ。

 

 

五月二十五日

今日も時折小雨が降る天気だが、大石田の方で河川の氾濫があったらしく、高桑加助が知らせに来てくれて、今日の俳諧興行は中止になった。とにかくみんなの無事を祈る。

夜には仁左衛門の家に招かれた。今度は庚申待ちだという。

 

 

五月二十六日

今日も小雨が降っていた。昼には沼沢所左衛門の家で歌川平蔵さんにご馳走してもらった。

 

 

五月二十七日

今日は晴れたので、朝出発して立石寺(りっしゃくじ)に向かった。()(かく)大師(だいし)の開いた寺で、聳え立つ岩の絶景と大伽藍が見ものだという。

山形へも行けたら行ってみたい。

清風が馬を用意してくれて、途中まで案内するという。

 

尾花沢が出て本飯田(もといいだ)まで二里。そこから一里行った(たて)(おか)まで清風が同行した。

その間、清風との雑談の中で、この前の、

 

行すゑは(たが)(はだ)ふれむ紅の花 芭蕉

 

の句の改作の話になり、結局、

 

まゆはきを(おもかげ)にして紅の花 芭蕉

 

治定(じじょう)した。

 

「誰肌ふれむ」は紅が単にどこかの女の肌に触れるというだけでなく、その女が誰のものになるのかなというエッチな妄想を誘うもので、そう思わせて紅の花が肌に触れるんだという落ちにするもので、この作意を裏に隠しておきたかった。

眉掃きも肌に触れるもので形状が紅花に似てるので、この形にした。

 

楯岡を出て六田(ろくた)から天童へ行き、そこから左の山の方へ行った所に立石寺があった。

梅雨明けを思わせる暑い日差しもようやく西に傾いた頃で、ここに宿を取って一休みしてから、夕暮れも近くなった頃立石寺を参拝した。

 

ヒグラシが鳴いていて、今年も蝉の季節が来たようだ。

かなかなという悲しげな声が夕暮れの山寺に響いていた。

この寺の切り立った岩を夕日が赤く染め、そこには板碑(いたび)型の供養塔や岩塔婆(とうば)が数多く刻まれ、この寺の岩がそのまま墓石のようだ。

 

何百年、蝉のような儚い夢の命がこの岩には染み付いているのだろうかと思うと、どうしようもなく悲しみが込み上げてくる。

 

山寺や石に染み付く蝉の声 芭蕉

 

 

五月二十八日

今日も晴れてて暑い。山形行きはやめて大石田(おおいしだ)の高野平右衞門の所へ向かうことになった。この辺り馬が使える。

天童を過ぎて六田宿の馬次の時、くる時にもいた内蔵にまた会って、昼飯をご馳走になった。

 

六田を過ぎて楯岡を過ぎ、上飯田で大石田の高桑加助に会って、一緒に大石田に向かった。まだ日に高いうちに大石田に着いた。

ちょっと空の方がまた雲行きが怪しい。

 

五月二十九日

結局昨日も雨は降らなかった。今日も晴れてて暑い。

とりあえず高野平右衞門(俳号は一栄)と高桑加助(俳号は川水(せんすい))と曾良の四人で俳諧興行を始めた。

暑いけど、近くを流れる最上川が涼しさを運んできてくれることを期待して、

 

さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

 

一栄「暑いけど気を遣って涼しいと言ってくれて恐縮です。この大石田に長く留まることはできないと思いますが、今はくつろいで行ってください。

 

  さみだれをあつめてすずしもがみ川

岸にほたるを(つな)(ふな)(ぐい) 一栄

 

曾良「この場合は寓意を取り除いて、普通の景色にして展開すればいいですね。川の景色から陸の景色に転じて、月を出しましょうか。」

芭蕉「発句に五月雨と月の字があるから、影にしよう。」

 

  岸にほたるを繋ぐ舟杭

瓜ばたけいさよふ空に影まちて 曾良

 

川水「なるほどいわゆる抜けですね。月と言わずして月を出す。では瓜畑に桑畑で、農作業の帰り道に桑畑を通るとしましょう。」

 

  瓜ばたけいさよふ空に影まちて

里をむかひに桑のほそみち 川水

 

午後から一栄川水と一緒に黒滝山(こくりゅうさん)(こう)川寺(せんじ)にお参りに行った。その名の通り最上川の向こう側にあった。3日続きの良い天気で大分水位も下がっていて、流れも緩やかになっていた。

曾良は疲れてるからと言って来なかった。まあ神道家だしね。

 

向川寺から帰った後、俳諧の続きをした。

 

一栄「それでは()牛帰家(ぎゅうきか)の心で、牛と一緒に帰りましょう。死というのも夕暮れに家に帰るようなものでありたいね。」

 

  里のむかひに桑のほそみち

うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ 一栄

 

芭蕉「牛というと老子だね。老子騎(ろうしき)牛図(ぎゅうず)の心で、子牛に心慰みながら旅をする。騎牛帰家だと笛だが、老子騎牛だと詩でも吟じようか。」

 

  うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ

(すい)(うん)重しふところの(ぎん) 芭蕉

 

川水「旅体ですね。水雲の僧は破れた笠を枕の脇に立てて風除けにして(やま)(おろし)(しの)ぐ。」

 

  水雲重しふところの吟

(わび)(がさ)をまくらに立てやまおろし 川水

 

曾良「万葉集だと、()に盛る(いい)を椎の葉に盛るというのも刑死の暗示として用いられます。松が枝を引き結ぶもそうですね。有間(ありまの)皇子(みこ)でしたか。」

 

  侘笠をまくらに立てやまおろし

松むすびをく国のさかひめ 曾良

 

芭蕉「刑死の句なら確かに旅体が三句続くのを免れるか。ただこれは難しいな。松結びを何か中国の古い習慣ってことにしておこうか。」

 

  松むすびをく国のさかひめ

永楽(えいらく)の古き寺領を(いただ)きて 芭蕉

 

一栄「所領といえば大高紙にその権利を書き記すものです。夢が叶ったということで、初夢のおめでたい鷹と掛けて大鷹壇紙(おおたかだんし)としましょうか。」

 

  永楽の古き寺領を頂きて

夢とあはする大鷹(おおたか)の紙 一栄

 

曾良「ではここらで恋に行きましょうか。夢にまで見た大鷹のような貴人への恋文に、夢が本当になったという意味で(あかつき)という名の薫物(たきもの)をするとかどうですか。」

 

  夢とあはする大鷹の紙

たきものの名を暁とかこちたる 曾良

 

川水「薫物を()いて暁を迎えると取り成して、逢瀬の夜にしましょうか。つま(べに)が肌に移ると想像させておいて、双六(すごろく)で落ちにする。行末(ゆくすえ)()が肌触れむですな。」

 

  たきものの名を暁とかこちたる

つま紅粉(べに)うつる双六の石 川水

 

一栄「つま紅の正体は稚児で男だった。それも僧のいる(すだれ)の中へ入って行って、どういう関係やら。」

 

  つま紅粉うつる双六の石

(まき)あぐる(すだれ)にちごのはひ(いり)て 一栄

 

芭蕉「稚児は看病に来たんだな。簾を巻き上げると秋風が入ってくる。それが人生の秋を感じさせる。」

 

  巻あぐる簾にちごのはひ入て

(わずら)ふひとに(つぐ)るあきかぜ 芭蕉

 

川水「秋風を文字通り秋の風にして、春に蛙が鳴き山吹の花の咲いてた井手の玉川の水も秋になるとひんやりとして秋風が吹く。」

 

  煩ふひとに告るあきかぜ

(かわ)る井手の月こそ(あわれ)なれ 川水

 

曾良「次は花の定座でここは秋の句か。月に(きぬた)を打つだと李白の長安一片月で秋にしかならないけど、砧を打つ人を選ぶだと春にも転用できるかな。」

 

  水替る井手の月こそ哀なれ

きぬたうちとてえらび出さる 曾良

 

一栄「砧だと織物か。砧を打つ女性はこの時期花茣蓙(ござ)を織る。花の後、花を織ると花尽くしで行きましょうか。」

 

  きぬたうちとてえらび出さる

花の(のち)花を織らする花筵(はなむしろ) 一栄

 

川水「花筵を何に使うかというと、釈迦入滅の日の涅槃会(ねはんえ)に使う。」

 

  花の後花を織らする花筵

ねはむいとなむ山かげの塔 川水

 

 

五月三十日

曇ってたがすぐに晴れた。昨日の俳諧の続きをした。

芭蕉「山陰の塔というと山陰に隠れ住んでる人達かな。都会の()()と違って田畑を持って裕福な人も多い。」

 

  ねはむいとなむ山かげの塔

()多村(たむら)はうきよの(ほか)の春(とみ)て 芭蕉

 

曾良「この人たちは武家に代わって特殊な役割を担うことが多い。町の岡っ引きもそうだし、昔は刀狩(かたながり)なんかも武家に代わって執行した。用は汚れ役ということ。」

 

  穢多村はうきよの外の春富て

かたながりする甲斐(かい)の一乱 曾良

 

川水「乱があれば関所も荒れ果てたりするもの。関だけでなく街道も荒れ果てて物流が止まるから、飢饉への対応ができなくなって、それがまた乱になるという悪循環。」

 

  かたながりする甲斐の一乱

(むぐら)(がき)人も通らぬ関所(せきどころ) 川水

 

一栄「荒れた関所といえば藤原(ふじわらの)(よし)(つね)の歌にある、ただ秋の風ですな。歌に詠もうにも紙がなくて松風の吹く松さえ削る。」

 

  葎垣人も通らぬ関所

もの書くたびに削るまつかぜ 一栄

 

曾良「(けず)るは髪を()かすという意味にも取り成せますな。猿楽の関寺小町で七夕の星祭りに誘われた白髪頭の小野小町にしましょうか。」

 

  もの書くたびに削るまつかぜ

星祭る髪はしらがのかかるまで 曾良

 

芭蕉「()撰集(せんしゅう)檜垣(ひがき)(おうな)の歌に、

 

年ふれば我が黒髪も白川の

   みづはくむまで老いにけるかな

 

ってあったな。遊女の歌も勅撰集(ちょくせんしゅう)にその名を残す。」

 

  星祭る髪はしらがのかかるまで

(しゅう)に遊女の名をとむる月 芭蕉

 

一栄「徒然草に女の足駄で作った笛は牡鹿が寄ってくるなんてのがあったね。集に名を残すような遊女から貰ったのかな。」

 

  集に遊女の名をとむる月

鹿(しか)(ぶえ)にもらふもおかし(ぬり)あしだ 一栄

 

川水「鹿笛を吹くんだったら山賤(やまがつ)だろう。柴を売りに街へ出たらその売上を女に使っちゃったのか、鹿笛でなく女の足駄持っている。」

 

  鹿笛にもらふもおかし塗あしだ

柴売に出て家路わするる 川水

 

芭蕉「何か夢でも見たんだろうな。合歓(ねむ)の花と(ねぶ)を掛けて。」

 

  柴売に出て家路わするる

ねぶた(さく)木陰を昼のかげろひに 芭蕉

 

曾良「眠くなると言ったら千日講(せんにちこう)。千日も法華経を読むなんて信じられないな。半日も経たずに眠くなりそうだ。他に面白い学問の本が沢山あるのに勿体ない。」

 

  ねぶた咲木陰を昼のかげろひに

たえだえならす千日のかね 曾良

 

川水「神社の千日参りにしようか。一日で千日分というお得感は仏教にはないな。人も沢山来るから昔の友に会ったりもする。」

 

  たえだえならす千日のかね

古里の友かと跡をふりかへし 川水

 

一栄「他所(よそ)へ行った時に大声で何か言い争ってる声を聞いて、にゃーにゃー言ってたら故郷の知り合いかと思うにゃ。口論と言えば渡し舟のところじゃいつもやってるし。」

 

  古里の友かと跡をふりかへし

ことば(ろん)ずる舟の乗合 一栄

 

曾良「師走ともなると市場も活気づいて、みんな生きるのに必死だからついつい口論する声も荒くなる。そんな市場を後にして廻船は物を運び続ける。」

 

  ことば論ずる舟の乗合

雪みぞれ師走(しわす)の市の名残(なごり)とて 曾良

 

芭蕉「師走の十三日にどこの家でも一斉に行う煤掃(すすは)き。でも狭い草庵じゃ大してやることもないし、そんな時に誰か来てくれれば嬉しいもんだ。」

 

  雪みぞれ師走の市の名残とて

煤掃(すすはき)の日を草庵の客 芭蕉

 

一栄「掃除を始めると故人の手紙が出てきたりすることってあるよね。」

 

  煤掃の日を草庵の客

無人(なきひと)を古き懐紙(かいし)にかぞへられ 一栄

 

川水「掃除して出てきた手紙に亡き主人を思い出した寡婦が心を乱すうちに日が暮れて行く。日暮れだから(やも)()(がらす)が鳴く。」

 

  無人を古き懐紙にかぞへられ

やもめがらすのまよふ入逢(いりあい) 川水

 

芭蕉「やもめがらすなんて言うと、男やもめが墨染めの衣を着てるのを想像しちゃうな。風呂敷包み一つ抱えて吉野の花を見ながら熊野へと峰入(みねいり)する。」

 

  やもめがらすのまよふ入逢

(ひら)(づつみ)あすもこゆべき峰の花 芭蕉

 

曾良「花咲く頃は苗代(なわしろ)作りの季節。花咲く峰でも稲の(もみ)を蒔けば村雨(むらさめ)が大地を潤す。」

 

  平包あすもこゆべき峰の花

山田の種をいはふむらさめ 曾良

 

俳諧は無事満尾(まんび)し、ちょっとその辺を散歩してみた。特にどこへというわけでもないが、歩いてるといろいろ考えて、アイデアが出てくる。

松島の句と俳文、ちょっと書いてみた。

 

島々(しまじま)千々(ちぢ)くだきて夏の海 芭蕉

 

 

うーん、今ひとつかな。