現代語訳『源氏物語』

23 胡蝶

 三月も二十日を過ぎる頃には、春の庭の様子も花の色、鳥の声がいつになく絶頂を迎え、他の所はまだここまでの春が来てないのかと、妙な感じにもなります。

 

 築山の木立や池の中島の辺りは苔のいろも鮮やかになり、若い人達はそれだけでは物足りなく思い、中国風の舟を造らせました。

 

 急いで装束を調え、進水式の日には雅楽寮(宇多津傘)の人を呼んで、船の上で演奏させました。

 

 皇族や上達部など、たくさん見に来ました。

 

 中宮もこの頃六条院に戻って来てました。

 

 あの「春が好きで待ち望んでるこの庭に」という挑発的な歌のリベンジもこの時かと思い、大臣の君も何とかしてこの花の満開の庭を見せてあげたいと思うものの、大義名分も無くて気軽にやってきて花を観賞するような身分でもありません。

 

 そこで、南側の池が南東から南西の区画に跨っていて、小さな築山を関山に見立ててましたが、その山の鼻の所から西南区画の若くて好奇心旺盛な女房たちを舟に乗せて漕いでいって、東南区画の釣殿に集めました。

 

 龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)という舳先に龍やゲキという伝説の水鳥の飾りがある舟を中国風にギラギラと飾り付けて、舵取りや棹を差す童(わらわ)たちの髪を角髪(みづら)に結って中国っぽくして、庭の池の広い所に漕ぎ出せば、気分はすっかり異国にいるかのようで、こうした舟を初めて見た女房は心から楽しそうでした。

 

 中島の入江の岩陰に舟を漕ぎ寄せてみると、何ということのない岩の風情もまるで絵に描いたようです。

 

 あちこちの霞みがかかった木々は錦を織りなすようで、紫の上のいる御殿も遠くに見えて、ますます色鮮やかになる柳は枝を垂らし、花も何とも言えぬ芳香を放ってました。

 

 余所では盛りを過ぎた桜も、今を盛りにほほ笑み、回廊に沿って植えられた藤の色も、深紫の花が咲き始めてます。

 

 まして池の水に影を映す山吹は、岸よりこぼれ出て、これも真っ盛りです。

 

 水鳥の雄と雌は一緒に遊んでいるかのように泳ぎ、細い枝などをついばんでは飛び交います。 オシドリの波立つ水面の綾のような輝きに波紋を加え、それがなかなか絵になっているので描き写したいくらいで、いつの間にか斧の柄も朽ち果てみたいに、あっという間に日は暮れてゆきます。

 

 「風吹けば波の花まで色づいて

     これぞ名付けて山吹の崎」

 

 「春の池はあたかも井出の川瀬みたい

     岸の山吹は底まで匂う」

 

 「亀が背負う黄金郷の蓬莱の

     舟に不老の名を残しましょう」

 

 「春の日のうららに漕いでゆく舟は

     棹の雫も花と散ってく」

 

 こうした他愛のない歌でも、皆思うがままに詠み交わして、行く先も帰る里も忘れたかのようで、若い女房たちの心を魅了するのももっともな水鏡なのでしょう。

 

 *

 

 日が暮れかかる頃、「皇麞(おうじょう)」という曲でなかなか盛り上がってきた所で、残念ながら舟は釣殿に戻って来て女房たちも下船しました。

 

 ここの装飾はほんの簡単なもの済ませてるところが品が良く、あちら側の若い女房達の競うように飾り尽くした装束、容貌ともに、遠くからでも柳桜をこき混ぜた都の錦にも劣らぬように見えます。

 

 宮中でもあまり演奏されない珍しい曲なども演奏します。

 

 舞う人達も特別な人を選んで‥。

 

 夜になるとまだまだ飽き足らぬとばかりに、前庭に篝火を焚いて、正面の広い階段を降りた所の苔の上に楽師を呼んで、上達部、親王たちも皆それぞれの弦楽器、管楽器を思い思いにヘテロフォニックを奏でます。

 

 楽師たちの中でも一番の名人が基音を奏でると、階段の上にいる人たちはそれに合わせて弦楽器をチューニングし、盛大に弦を掻き鳴らして呂の調べの「安名尊(あなとうと」を演奏すると、「生きてて良かった」と何の音楽かも知らない庶民が門の辺りの馬や牛車を止める所に入り込んで、顔をほころばせて笑ってました。

 

 湿った空気に籠る楽器の音は春の呂の調べに相応しく、その響きは全く違うものであることもこうした人々は識別できるのでしょうか。

 

 夜通し演奏は続きました。

 

 転調して律の調べの「喜春楽(きしゅんらく)」が付け加わり、兵部の卿の宮は同じく律の「青柳」を繰り返し繰り返し楽しそうに歌いますと、ここの主の源氏の大臣の声も加わりました。

 

 夜が明けました。

 

 朝ぼらけの鳥の囀りを中宮は隣の区画で妬ましく思って聞いてました。

 

 源氏の大臣とその奥方はいつも春の光を独り占めしてるかのようですが、結婚したくなるような女性がいないのを不満に思ってる人もいたところ、西の対にやって来た姫君は娘だから手を付けないで、源氏の君も距離を置いて大切にしてるようにみんなに思わせていて、そのかいあってか飛びついてきた男たちも多いようです。

 

 我こそはと自負するだけの身分の人はいろいろ伝手をたどってその思いをほのめかし、口にも出して言うこともありましたが、その陰には言い出すこともできず心中密かに恋焦がれてる若者たちもいたことでしょう。

 

 内大臣の息子の中将なども、そんな中で異母兄弟とは知らず源氏の娘だと思って思いを寄せてるようです。

 

 兵部の卿の宮はずいぶん前に奥さんを失くし、この三年ばかり一人身で気落ちしてましたが、今はこの姫君への思いを隠すことができません。

 

 ただ同族と思うと悩むところです。

 

 今朝もひどく酔ったようなふりをして藤の花の髪飾りをして、なよなよと陽気にふるまうさまは笑えます。

 

 源氏の大臣は作戦通りと密かに思ってはいますが、そんなことはおくびにも出しません。

 

 昨日の舟遊びの宴席で酒を注いでやろうとしたところ、もじもじ困ったような顔をしながら、

 「こんな気持ちになってしまって、逃げだしたいところです。

 もう我慢できません。」

と言って酒を断ります。

 

 「紫の同族に心ときめいて

    ふち(藤・淵)に沈んでも名は惜しくない」

 

 そう言って源氏の大臣に同じ藤の髪飾りを渡しました。

 すっかり上機嫌に微笑みながら、

 

 「ふちに身を投げるべきかどうかこの春は

    逃げたりせずに花をよく見ろ」

 

 そう無理言われて引き留められて、立ち上がるわけにも行かなくなって、今朝まで続く音楽には別の面白さもありました。

 

 *

 

 今日は中宮の春の御読経(みどきょう)の初日でした。

 

 兵部の卿もすぐに帰らず、お付きの者ともども休息所を作ってもらうと、昼の装束に着替える人もたくさんいました。

 

 用事のある人は帰ったりもしました。

 

 正午になると、残った人は皆中宮のいる南西の区画に行きました。

 

 源氏の大臣を始めとして、みな隣に到着しました。

 

 殿上人なども皆やって来ました。

 

 そのほとんどは源氏の大臣の権勢の恩恵を受けてこの上なく誇らしげな姿でした。

 

 春の女王ともいうべき紫の君からの贈り物で、仏様に献花が行われます。

 

 鳥の装束と蝶の装束とに分かれた童部八人、容貌など特に美しいものが選ばれ、鳥の装束には銀の花瓶に白い桜、蝶の方には金の花瓶に黄色い山吹を挿して、どちらもたくさんの花のついた花束で、なかなか他にないような芳香を添えてました。

 

 この童部は南東の区画の庭の築山の所から舟に乗ってやって来て、南西の庭に降り立った時には風が吹いて、花瓶の桜を少し散らしました。

 

 麗かによく晴れた霞の間から現れた童部は、何とも優雅で美しいその姿を見せます。

 

 あえて待機のためのテントを持ってくることもなく、御殿の方へ渡る廊下を控室のようにして、折り畳み椅子を並べました。

 

 童部達は正面の階段の所にやって来て、花を捧げました。

 

 香を配る役目の殿上人がそれを受け取って、閼伽棚に並べました。

 

 紫の奥方の手紙を源氏の息子の中将が持ってきました。

 

 「花園の胡蝶をでさえも下草で

    秋まつ虫は興味ないのか」

 

 中宮は「あの紅葉の仕返しね」とにっこり笑いながら読みました。

 

 昨日の女房達も、

 「確かに春の風情を侮ってはなりませんね。」

と花に心まで折られてしまったのでしょう。

 

 鶯の麗らかに囀る声に、鳥の楽である迦陵頻(かりょうびん)の演奏が続けられ、池の水鳥もそこはかとなく囀るうちに楽曲も最後の「急」の楽章になり、その面白さは飽きることを知りません。

 

 それに続く胡蝶楽の演奏ともなると、童部もひらひらと飛び立って、山吹の垣根に咲きこぼれる花の陰で舞い始めました。

 

 中宮職(ちゅうぐうしき)の亮(すけ)を始めとする殿上人達が次から次へと禄を受け取り、童部に渡されました。

 

 鳥の童部には桜の細長、蝶の童部には山吹の襲(かさね)が与えられました。

 

かねてから用意されてたようです。

 

 楽師達は白い上下の衣や巻絹など次々に与えられました。

 

 中将の君には藤の細長付きの女の装束を左肩に掛けてもらいました。

 

 中宮の先ほどの歌のお返しは、

 「昨日は声を上げて泣きたい気持ちでした。

 

 胡蝶にも誘われてみたい気になって

    八重山吹の壁がなければ」

 

 二人の立派な上臈でさえ、こうしたバトルはなかなか心労も大きいようで、歌の方もそれほど快心の出来ではなかったようです。

 

 そういえば、昨日舟遊びに誘われた中宮の女房達には、皆趣向を凝らした贈り物をしました。

 

 どういうものかはくだくだ言うのもうざいので割愛。

 

 *

 

 明けても暮れてもこうした何てことのない音楽など楽しみ、気晴らしをしながら生活してると、仕えてる人たちも自ずと難しく考えずに手紙の取次ぎなどもして、妻達の間の手紙のやり取りも盛んになりました。

 

 西の対にいる玉鬘も、あの男踏歌の時に紫の奥方と対面した後は、手紙を交わすようになりました。

 

 深くものごとを考えられる人は、意図的に浅く振舞うだけの精神的な余裕があるものです。

 

 人懐っこくも振舞えば、人と距離を置くことも普通にできる性格なので、どの方面でも皆好感を持って迎えられてます。

 

 言い寄って来る男もたくさんいます。

 

 そうは言っても源氏の大臣はその場の流れて決めてしまうようなこともなく、心の中ではまだ、頑なに親の勤めに徹することもできず、多少色気が残ってるのか、内大臣にも知らせた方が良いのかと思うことも度々です。

 

 息子の中将はやや馴れ馴れしく、御簾の傍にまで寄って来て、女房を介さずに直接声を聞こうとしたりするので、女房の方も困惑しますが、実の兄弟だと女房達には言いくるめているので、中将も素っ気なく、特に恋心も起こさないようでした。

 

 内大臣の息子たちは中将の君に仲立ちしてもらいつつ、それぞれ言い寄って来ては気落ちして帰って行くのですが、別にその方々が悪いのではなく、兄弟だからと心の中では申し訳なく思ってることでしょう。

 

 実の親にこのことを知ってほしいと人知れず気に病んでいますが、そのことは表には出さないようにしています。

 

 源氏の大臣をひたすら信頼してるところなど若くて可愛らしいですね。

 

 母君に似てるわけではないけど、やはり母君のしてたことなどよく覚えていて、それにやや才気があって尖った所が付け加わってます。

 

 四月の衣更えで季節も清々しく改まる頃、空模様すら何となく妙に心地良く思え、何事もなく長閑な日々にいろんな音楽を楽しんで過ごしていると、西の対の人に届く文も多くなり、思惑通りと嬉しく思って、ともすると様子を見に尋ねて行ったりして気に入った手紙には返事を書くよう促したりするのも、玉鬘からすれば油断のならない苦悩を背負い込むことになります。

 

 兵部の卿の宮からも、たいして時も経ってないのにじらされて困ってるようなことを延々と書いた手紙を見るにつけても、源氏の君はにんまりします。

 

 「兵部の卿は帥宮(そちのみや)だったまだ若い頃から分け隔てなく付き合ってきたし、沢山いる親王の中でもこいつとはお互い親友だと思ってきたのに、ただ女の話となると急に距離を置いたりして黙ってしまうような奴だったけど、この年になってこんな乗り気になっているのを見るのが可笑しいし、哀れにも思えてくるな。

 やっぱ返事は出さにゃいかんな。

 それなりに由緒のある女ならあの親王よりほかに歌を交わすようなひとはこの世にいない。

 ほんとに風流の心ある人だ。」

と若い女なら食いつきそうなことを言っても、遠慮するばかりでした。

 

 右大将という、糞真面目で見るからにくどい顔の男が、恋の山には孔子も倒れるを地で行くように、真顔で懇願するのもこの女には面白いかもと、他の手紙と見比べる中に、中国の水色の紙になかなか惹き寄せられる深い香りが染みてる小さな結んだものがありました。

 

 「これはどうしてこんな結んだままにしてるんだ?」

と思って開いて見ます。

 

 なかなか面白い書体で、

 

 「思ってると君は知らずたぎるよな

    岩から溢れる水に色がないから」

 

 今風の散らし書きで気取って書いてあって、

 「これは何なんだ?」

と聞いてはみても、これといった答えも返って来ません。

 

 右近を呼んで、

 「このように手紙をくれた人をよく吟味したうえで返事を書かせなさい。

 助平たらしい今どきの遊び人が困ったことをしでかすのも、必ずしも男の責任とはいえない。

 自分のことを考えても、何だよ薄情な、そこまで冷淡にしなくてもと、そういう時に我を失うものだ。

 思い通りにならない人ほど特別な人に見えてしまうもんでね。

 特に深い意味もない季節の花や蝶にかこつけて書いた手紙などは、無視して怒らせたりすると、かえってならば何としても落してやろうとなるもんだ。

 そういう一時の気持ちだとすぐに忘れてしまうもんで、それは男の罪ではない。

 物のついでのようなどうでもいい手紙に素早く反応するのも、何でもないようでも後々こじれる元だ。

 大体女は遠慮なしに思うままに人の心がわかったような顔をして、何か面白いことないかと思って返事したりすると、願いごとをむやみに聞いた神社が果てない嘆きの森になるみたいに収拾のつかないことになる。

 だが、兵部の卿や右大将なら考えもなしにいい加減なことを言ってるわけでもないし、逆に人の心がわからないような顔をしてるのも、この状況にはそぐわない。

 この二人より下の身分の者だったら、熱意に応じて愛情を判断すればいい。

 苦労に応じてということだ。」

 

 そう言うと姫君は背中を向けようとするその横顔がなかなかそそりますね。

 

 撫子襲の細長にこの季節の卯の花の小袿(こうちぎ)を着て、その色合いはくだけた感じで今風です。

 

 そうは言っても田舎に長く居た名残なのか、ただそれだけであまり主張のない感じに見えます。

 

 六条院の他の人のファッションもいろいろ見てきて、体裁を取り繕って優雅にふるまい、化粧なども念入りにするようになって、ますます欠点もなくなり華やかで美しくなりました。

 

 余所へやると思うと何だか勿体ない気がしてくるようです。

 

 右近も、それを聞いてふっと笑い出し、「親にしてはやけに若いわね。こうやって一緒に並んでたら仲の良い夫婦みたい」と思いました。

 

 「私は人の手紙を取り次いだことはしてませんわ。

 これまでもあなたの知っていてご覧になった三四通は、返事を出しても気まずく思われてもいかがかと思って、あなたからの手紙だけ受け取ってますが、返事は言われた時だけにしてます。

 それすらも辛いことではあります。」

 「ところでこの結んであった初々しい手紙は誰からだ?」

 何かうまいこと書いてあるじゃないか。」

と、にやにやしながら見せてやると、

 「あれは断ってもしつこくやって来るもので。

 内大臣の息子の中将がここに仕えている見子(みるこ)という女房を元から知っていて、その子が預かったものです。

 特に見る人もなくて。」

と言うと、

 「何だ可愛いじゃないか。

 身分が低いとはいえ仕えてる人たちに気まずい思いをさせまいとはな。

 公卿といってもこの中将には及ばない人も多い。

 内大臣の息子の中でも、特にどっしりした落ち着きのある人だ。

 自ずとわかる日も来るだろうけど、今は真相を明らかにできなので、何とか誤魔化しておこう。

 なかなか歌も書も見事なもんだ。」

 そう言っていつまでも手にしてました。

 

 「このように何やかんや言えば、思う所もあるかと思うと心苦しいが、あの大臣に知ってもらわなくてはならない事情というのも、まだあなたは若いし身分も何もないし、長年経て既に他の婦人方とともに出世した家族の中に入って行くのも大丈夫かとあれこれ考えているんだ。

 やはりここで伴侶を見付けて身分を定め、晴れて殿上人となった時、ついでに話してみようと思う。

 兵部の卿の宮は独り者のようだけど、あれでいて結構遊んでいて、通ってる女もたくさん噂に聞く。

 召人(めしうど)とかいう、夫人同様の相手をする女房だとの悪評のある女もたくさんいるという。

 そんなことがあっても憎んだりせずに修復しようという人なら、穏便に上手くやってくれることだろう。

 多少なりとも嫉妬の癖があるなら、あの人はそのうち自然と嫌気がさしてくるだろうから、覚悟がいるな。

 右大将の方は、長く連れ添った人がすっかり年取ってしまって、そこから逃れようとしてるのだろうけど、それも周囲との厄介ごとになりそうだ。

 そういうこともあっていろいろあるから、俺の中でも決めかねてるんだ。

 こういったことで、親なんかにはっきりと自分の考え言うのは難しいことかもしれないが、もうそんな年でもないだろう。

 今は自分で決められないこともないと思う。

 俺を昔あなたが慕ってたような母親だと思ってくれ。

 期待に添えなかったら済まないが。」

 などと、真剣に語って聞かせると、考え込んでしまい、返事も出来ませんでした。

 

 このまま返事しないのも何か子供っぽくて良くないと思い、

 「物心つかぬ頃から親というものを見たことがないのが当たり前になっていたので、どうにも想像がつきません。」

といかにも穏やかにそう言うと、なるほどと思って、

 「ならば世間でよく言う所の『新しい父さん』とでも思って、半端な気持ちで言ってるのではないことを証明しましょう。」

 そういったことを語り合いました。

 

 下心の方はみっともないので表には出しません。

 

 仄めかすような言葉を時々交えてはみたけど反応がないので、何とはなしに溜息をつきながら帰ろうとします。

 

 前庭に近い所の淡竹がみずみずしい若葉を拡げ、風に揺れ動く様子に目が吸い寄せられ、立ち止まると、

 

 「同じ庭の根から育った竹の子が

    それぞれの恋に離れ離れか

 

 子を思うのも悲しいばかりだ。」

 

 それを御簾を引き上げて聞いていたのか、膝で歩いて出てきて、

 

 「それぞれの恋って今さら若竹が

    生まれた根っこを欲しがるはずも

 

 そんなことになっても困ったことでしょ。」

 

 そう言われると、とにかく悲しく思いました。

 

 本心は違っていて、本当の父を求めているのでしょう。

 

 いつかきっと本当の父に伝えてくれることがあると待ち望むのも悲しいけど、この大臣の心遣いも有り難くないわけではなくて、実の親とはいってももとよりいきなり現れた見知らぬ娘に、これだけ大切に扱ってくれるかどうかと、昔の物語などを読んでも、だんだん人間がどういうものか、世間がどういうものか理解してたので、自分から名乗り出ることは難しく、ここは大人しくしてた方が良いと思います。

 

 源氏の大臣はますます玉鬘の姫君のことを可愛らしいと思うようになりました。

 

 奥方にもその話をしました。

 

 「不思議な魅力を持った人なんだな。

 昔の女の方はどこかはっきりしない所があった。

 この姫君は物事がよくわかってるみたいで、人を恐れないしあまり心配することがない。」

などと褒めてました。

 

 ただでは済みそうもない性格を知ってるので、思い当たることもあって、

 「そんな賢い方だというのに、すっかり信用して仲良しになって頼り切ってるなんて気の毒ね。」

 「だって、本当に頼もしいだろ。」

 「それはどうだか。

 私だって父親のように思ってたのに、いきなりひどいことされて悩んていた頃があったし、思い当たるふしがあるんじゃない?」

と笑みを浮かべてそう言われてみると、あっ(察し)と思い、

 「いやなこと蒸し返すなあ。

 あの姫君はそういうことを知らない年でもないし。」

 

 そう言うと面倒くさくなって、途中で言葉を飲み込んで、心の中で、

 「こいつがそう思うくらいだからな、どうしたものか」とあれこれ考え、その一方では、自分で言うにも常識がなくて怪しからんことを考えてるなと自覚するのでした。

 

 *

 

 そんなことが心に引っ掛かったまま、何度も西の対に通い、玉鬘に会いました。

 

 雨がひとしきり降った後のむわっとする夕方、庭先の若葉の楓や柏の木などが青々と茂っていて、何となく気持ちのいい空を眺めやれば、

 「四月の天気和してまた淸し」

と白氏文集の詩句を口ずさんで、まずはここの姫君の姿の花の匂うような美しさを思い出して、いつものようにこそこそと入って行きました。

 

 字の練習などして隙だらけの所の訪問に、体を起こして恥じらう表情がなかなかそそられます。

 

 物腰の柔らかさに、ふと昔の女を思い出して我慢できず、

 「初めて会った時はこんなにも似てるとは思わなかったけど、時々なぜかそのものではないかと思うこともあってな。

 奇跡としか思えない。

 息子の中将に昔の母の面影が少しも感じられないから、親子というのは似ないものだと思ってたけど、こんな人もいただなんて。」

と言って涙ぐみました。

 

 果物を乗せた箱の蓋のなかに橘の実があるのを手に取って、

 

 「橘の袖の香りの歌のように

    昔と違うとは思えないんだ

 

 いつになっても心に引っかかって忘れることができなくて、それをなだめることもできず長年過ごしてきて、今こうしてお会いすると夢かと思えて、ますます気持ちを抑えることができないんだ。

 冷たくしないでくれ。」

 

 そう言って手を握ると、姫君もこんなことされたこともなかったので、背筋がぞっとするのですが、そこは穏やかな感じで歌を返しました。

 

 袖の香に喩えられてた橘は

    そのみもはかなくなったというわ

 

 うざいと思って下を向いてしまう様子さえ、とにかく抱きしめたくなり、握った手のふっくらと柔らかな感触、体つき、肌のきめ細かな美しさなど、このままでは満足できないという気持ちになり、今日初めて少しながら思いを告げてみました。

 

 姫君は情けないやら辛いやら、どうにかしなくてはと思って、ガタガタ震えてるのもはっきり伝わってきます。

 

 「何をそんな嫌がってるんだ。

 こっそり入って来たので、人に見つかって咎められる心配はない。

 何事もないかのように愛し合おう。

 この浅からぬ思いを受け入れるなら、この世に他にないような気持ちになれるというのに、ここに手紙を書いてきた人たちよりも落ちるとでもいうのか。

 ここまで深く愛してる人はこの世に他にいるわけないんだから、他の人には任せられない。」

 

 ほんと余計な親心です。

 

 雨は止んで、竹に風が生じると、月の光が華やかに射してきて、美しい夜の景色も静まり返る中、女房達は親密な語らいということで気を利かして、近くにいるようなことはしません。

 

 いつも会ってる二人のことですから、こんな良い機会もなかなかないので、口にしたことによって止めることの出来なくなった感情のままに、体から滑り落ちる着物の気配をうまくごまかすように隣に横になれば、女君はとにかく情けなく辛く、女房達に気付かれることもなさそうなのも最悪です。

 

 「本当の親だったなら遺棄や虐待はあってもここまで嫌悪すべきことはしません。」

と悲しくて、いくら堪えても涙が溢れ出て、本当に痛々しくて、

 「そんなふうに思われてしまう俺の方が辛いじゃないか。

 見ず知らずの他人でさえ、世間の理屈では皆許されてるというのに、何で長く仲良くしてきたのにそんなふうに思うんだよ。

 一体何が嫌なんだよ。

 こんな一途に思う気持ちは誰も見せたことはないだろう。

 気まぐれに通って来る男以上の気持ちなんだから、それを満たして何が悪い。」

と狂おしくひたすら求めて何度もこうした言葉を繰り返しました。

 

 ただそんな衝動に加えて、こうしていくら愛を叫んでも返ってこないことが、夕顔の亡くなった時と同じような気がして、どうしようもない悲しみが込み上げてきます。

 

 われながら、「これはいきなり考えもなしにやってしまった」という自覚が出てくると深く反省し、女房達に変だと思われてもいけないので、まだ夜も更けぬうちに出て行こうとします。

 

 「嫌いだというなら、こんな残念なことはない。

 他の男だったら、こんな途中でやめるような馬鹿なことはしないもんだ。

 底のない淵が静かで浅瀬が騒がしいようなもので、俺の底なしの愛情は誰も咎めることはない。

 ただ、昔の恋の慰めにでも、これからも他愛のない話をしようと思う。

 同じように他愛のない話で返してくれ。」

と十分気を使って話しかけたものの、心ここにあらずの状態なのでますます辛い気持ちになって、

 「おれのことをその程度にしか見てなかったなんて、ほんとそこまで蔑んで嫌っていたのか。」

と溜息をつくと、

 「このことは絶対に知られないようにしろよ。」

と言って出て行きました。

 

 姫君は年齢的にはそれなりなのですが、男女が何をするかを直接知らないだけでなく、しょっちゅう男が通って来る女房なども見たこともなかったので、普通ならどういうことになるのかもわからず、思っても見なかったような出来事に困惑して険しい顔をしていると、女房達はどこか具合が悪いのかと処置に困ってました。

 

 「源氏の大臣殿の御配慮こと細かく行き届いて有難いもんですね。

 実の親だって、ここまで気を使って大切にすることはないでしょう。」

などと、兵部(あてき)などもひそひそ話でそう言うので、ますますあの気色悪いぎらぎらした欲望への嫌悪感がフラッシュバックされ、塞ぎ込むばかりでした。

 

 *

 

 またの朝、御文とくあり。

 

 気分がすぐれないと言って寝てましたが、女房達が硯など持って来て、早くお返事をと言われたので、しぶしぶ読みました。

 

 白い紙は表向きは普通で特に何てこともなく立派な筆跡です。

 

 「普段とは違うご様子のようだが、俺だって辛かったことはまだ忘れられないんだ。

 果たして人はどう思うかな。

 

 抱き合って寝たわけじゃない若草が

    何を悩んでそんな顔する

 

 子供のように拗ねてるのかな。」

 

こんなあくまで父親づらした言葉で、嫌悪以外の何もないけど、返事を書かないのも人目もあることですし、分厚い陸奥紙に、ただ、

 

 「御手紙拝見。

 病気なので返事は御勘弁を。」

 

とだけでした。

 

 「こういうところは本当、真面目なんだな」

とにんまりして、かえって落し甲斐があると思ったのでしょう。不気味です。

 

 

 こうやってはっきり行動に出たあとは、恋に悩む大田の松の「いつか行動に出して逢おうと言おう」なんて悠長なことはせずに、その後もしつこく迫ることが多かったので、ますます居場所がなくなり、どうして良いかわからずに思い詰めてゆき、本当に病気になってしまいました。

 

 真実を知る人はすくなく、親しい人もそうでない人も源氏を実の父と疑ってないので、

 「こんなあわや父子相姦なんてことがあったというのが知れ渡ったら、人から忌むべきものとして嘲笑の的となり、一大スキャンダルになるにちがいない。

 本当の父の大臣の耳に入ったとしても、真面目に相手してくれるとは思えないし、ましてこんな浮ついた噂を聞いてからだと、やはりそうだったのかと思われるだけだし。」

と八方ふさがりで出口がありません。

 

 兵部の卿の宮や右大将などは、源氏の大臣に退けるつもりがないような様子を伝え聞いて、また馴れ馴れしく手紙を書いてきます。

 

 かつて「岩から溢れる水に色がないから」の歌を届けてきた中将も、二人が源氏の大臣のお許しを得たあと、別に筋から自分もと噂に聞いて、本当は兄弟だということも知らずにぬか喜びして、必死に出遅れた恨みを言い散らしては、迷走することになりました。